宮 本 輝 ・ ﹃錦 繍﹄ の 祈 り
とりわけ日本では、主要な登場人物が、そ
れぞれの不幸を乗り越えて、それぞれの場
所で勝利をつかんだら、(通俗小説)と呼ば
れる。不思議なことだなと思う。(﹃本をつんだ小舟﹄)
﹃錦繍﹄の主要人物は'勝沼亜紀と有馬靖明である。
列刺1ヤス列郵‑列刺、と循環する語り掛け、これが﹃錦
繍﹄の紋様を織り成しているのである。
前略
蔵王のダリア園から、ドッコ滑へ登るゴンドラ・
リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本
当に想像すら出来ないことでした。私は驚きのあま
り、ドッコ沼の降り口に辿り着‑までの二十分間、
酒
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言葉を忘れてしまったような状態になった‑らいで
ございます。
十年前に離婚して以来終ぞ会うことのなかった清明と
の再会、亜紀のその衝撃。亜紀の言葉を忘れてしまうほ
どの驚き、その再会が不意討ちであったがゆえにもたら
されたものであることは確かであろう。その再会は、確
かに、「心が冷た‑なるような偶然」であったのだ。しか
し、亜紀の驚きは、偶然性によってのみ引き起こされた
わけではないし、ましてや、偶然性による驚きが亜紀に
手紙を書かせたわけでもない。亜紀が、「すっかりお変わ
りになってしまったお顔立ちやら月の光やらを拝見し
て」、「あなたのお変わり様は尋常ではな‑、私はあなた
が決して平安な日々をお暮らしでないことを直感してし
まいました」と言うような靖明の変貌。この靖明の変貌
‑ 1‑
を見た驚きこそが、亜紀が靖明に手紙を書‑導火線で
あったのだ。亜紀に衝撃をあたえた靖明の変貌を、輝明
の側から言えば、「何をやっても裏目裏目と出る。何か魔
物に取りつかれているような案配でした。あなたと蔵王
で再会したのは、言わばそのどん底に落ち込んでいた時
期でした」、「泥のような男に成り下がり、生活疲れを引
きずった、艶のないやつれた人間になったのです」といっ
たものであった。「どん底に落ち込」み、「泥のような男に成り下が」っ
た清明のなかに'亜紀は、(淋しさ)を見たのである。(淋
しさ)、これこそが、亜紀が見た清明の変貌の核であったの吾o
蔵王のダリア園で星を見ていたときの淋しさが、
私にペンを取らせたのでございましょう。それは、
十年振りに思いがけず再会したあなたの横顔の持っ
ていた淋しさが私にもたらした余韻でもありまし
た。蔵王のゴンドラの中でお逢いしたあなたは、本
当に淋しそうでした。重傷を負って、病院のベッド
に横たわっていたときだって、あんなお顔はなさっ
ていませんでした。何か暗い、疲れた、捨鉢な雰囲気を、強い目の光の中に漂わせていらっしゃいまし たoそれがどうにも気になって、心の落ち着かぬ数
日を過ごし、あなたにお手紙を書こうなどとつまら
ぬ考えを起こしてしまいました。
靖明の持っていた(淋しさ)が、彼の十年間の転落の
日々のなかで初めて醸成されていったものでないことは
後述するとして、ここでは、亜紀の(淋しさ)に着冒し
てみたい。「ダリア園で星を見ていたとき」の亜紀の(淋
しさ)、それは、清明が深‑蔵していた(淋しさ)がもた
らした「余韻」であったことは確かであろう。しかし、
十年以前の亜紀であったならば、靖明の横顔から、この
ように明確に(淋しさ)を読み取ることは出来なかった
であろう。屋島建設の一人娘として、十七歳で母親を亡
くしたことのほかには、何ひとつ不足のない、恵まれた
日々を過ごしていたであろう亜紀。「育ちのいい、潜刺と
した」お嬢さんであったのだ。このような亜紀であれば、
他者の(淋しさ)に共振することはなかったであろう。
靖明の不貞、瀬尾由加子が企てた無理心中'その結果と
しての離婚、そしてそれ以後の日々が亜紀を変えたので
ある。(淋しさ)を深‑知る人間へ、他者の(淋しさ)に
共振し得る人間へと。清明の(淋しさ)とは、彼が内に
蔵していたものであるとともに、亜紀がおのれの(淋し
さ)を清明の横顔に投射したものでもあったのだo﹃錦繍﹄の核心に接近してきたようである。生きてい
ることの(淋しさ)、人間存在が本来的に背負っている(淋
しさ)を探‑知った者同士の交感の物語、これが﹃錦繍﹄
という物語なのである。
ああ、それら星々のなんと寂しかったことでござ
いましょう。そしてそれら星々の果てしない拡が‑
が、なんと途方もな‑恐し‑感じられたことでござ
いましょうか。(中略)私は顔をあげて星を眺めつつ、
悲しい'悲しいと心の中で咳いてみました。
無限の時空との対時。満天の星の下で、亜紀は人間存
在の裸形と化しているのだ。靖明との再会と直接的には
結びつかない感慨に陥っているのである。無論、清明の
不貞がもたらした重荷を背負い続ける日々を生きた亜紀
が抱いた感慨として不自然だと言うわけでは決してな
い。しかし'満天の星と対時した亜紀のなかに、作者・
宮本輝が深‑分け入っていることは否定出来ないこと
だ。﹃錦繍﹄の冒頭の一行を着想したという、宮本輝の蔵
王への旅。﹃錦繍﹄執筆の三年前のことであった。宮本は
亜紀と同じダリア園のベンチで満天の星に見入ったこと があったのである。
ふと日をあけると、満天の星でした。その星には、
数のすごさとか美しさとかを超越したすごみがあり
ました。
いま考えますと、この小説の底に秘めたつもりの
ものですが、宇宙と自分とが、間違いな‑どこかで
深‑つながっているのだという気持ちが'満天のす
さまじい星から感じられたのではないでしょうか。(水上勉との対談﹃華やぎを縫い取る﹄∵
亜紀は宮本のこの感慨を反復体験しているのだ。亜紀
が全身で体感した(悲しさ)の奥底には、宮本のこのよ
うな感慨が隠されているのである。また、「空恐ろしい程
の無限の時空である宇宙の中で、私たちはたとえ百歳ま
で生きたとしても、その時間はまざれもな‑瞬間でしか
ないのだ。しかもその人生の中において、生まれては消
え、生まれては消える瞬間の心や行動に動かされている
わけである。すると、瞬間はすなわち永遠だと思えて‑
る。」(﹃潮音風声﹄)という思いも。亜紀は宮本その人な
のである。
亜紀が、やや唐突な形で、モーツァルトのシンフォニ
‑ 3‑
イに出会わされて、「生きていることと、死んでいること
とは、もしかしたら同じことかもしれへん。そんな大き
な不思議なものをモーツァルトの優しい音楽が表現して
いるような気がしましたの。」という言葉を言わされるの
は、だから当然なのである。﹃錦繍﹄の核心部ともいうべ
き、「自分の命というもの」を見た靖明の体験の告白を引
き出す導火線となる重要な言葉なのである。亜紀は、宮
本と同様に、人間が生きている真の姿、「空恐ろしい程の
無限の時空である宇宙の中」に存在している人間存在の
裸形を知悉しているのである。
亜紀のモツァルト体験が唐突なものであったとして
も、宮本が、﹃錦繍﹄の基底に、モーツァルトのシンフォ
ニイを鳴り響かせることには必然性があったのだ。
この世には、不幸が渦巻いている.人間は弱いO
虚無へ、虚無へと傾いて行‑性を持っているものだ。
信仰も思想も、もとは人間の幸福のために生み出さ
れたものに違いなかろう。けれども、いま現代は、
人間に活力をもたらす哲学が姿を消してしまった。「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる
能力が備はってゐるものだOこの思想は宗教的であ
る」0これは小林秀雄の「モオツァル‑」の中の7節 である。どんな不幸をも内的必然と観じ、それと闘
わしめる哲学を、そろそろ人は求め始めるのではな
いだろうか。(﹃潮音風声﹄)
モーツァルトという名の喫茶店が、﹃錦繍﹄のなかで重
要な位置を与えられ、清明のあの告白を引き出す導火線
となる、亜紀の「生きていることと、死んでいることと
は、もしかしたら同じことかも知れへん。」という言葉が、
この喫茶店で吐かれる必然性は、このエッセイのなかに
隠されているのである。小林秀雄の「モオツァルト」に
触れながら述べたこの「哲学」、宮本が﹃錦繍﹄において
表現しょうとした中心的な「哲学」である。「悲しみと喜
びの二つの共存」を表現したモーツァルトの音楽。亜紀
の体の中にこそ、モーツァルトの調べが鳴り響いている
のだ。亜紀がダリア園の満天の星の下で、全身で(淋し
さ)、(悲しみ)を体感することと、亜紀が「どんな不幸
をも内的必然と観じ'それと闘わしめる哲学」を獲得し
て前向きに生きてい‑こととは、別々のことではないの
である。生きていることの真のへ悲しみ)を知った者こ
そ、寅の喜びを持って生きていけるのであるO「悲しみと
喜びの二つの共存」。
「どんな不幸をも内的必然と観じ、それと闘わしめる