1.問題の所在と本論の目的
1.1《ニュルンベルクのマイスタージンガー》研究の諸問題
本論は、リヒャルト・ヴァーグナー Richard Wagner(1813―83)の楽劇《ニュルンベルクのマイ スタージンガー Die Meistersinger von Nürnberg》(リブレット:1861―62、作曲:1862―67;以下《マ イスタージンガー》)を取り上げ、言葉と音楽が緊密に結び合った歌唱旋律である「詩のメロディー Versmelodie」の実態を解明することを目的としている。とはいえ、紙数に限りもあるため、第 3 幕 第 5 場の歌合戦の場で歌われるヴァルター・フォン・シュトルツィング(以下ヴァルター)の〈栄 冠の歌 Preislied〉を分析することにより、ヴァーグナーが《マイスタージンガー》で目論んだ「古 くて新しい」芸術とはどのようなものだったのかを考察したい。
そもそも《マイスタージンガー》の中心にあるプロットは、マイスターの因習的で閉鎖的なギル ドにアウトサイダーとして現れたヴァルターの成長物語である。それに加えてもうひとつの主要プ ロットが、ヴァルターの登場によって「若さ」と「新しさ」が突き付けられ、もうひとりの主人公 である靴職人のハンス・ザックスが自己変容していく物語である。ヴァルターの〈栄冠の歌〉は彼 の成長の証として披露され、《マイスタージンガー》のなかで理想的な歌唱芸術の象徴として提示 される。ヴァルターとザックスにヴァーグナー自身が投影されていることがつとに指摘されるよう に、ヴァルターが作りザックスが評価した〈栄冠の歌〉は、《マイスタージンガー》というオペラ の結論に当たる。その意味で、〈栄冠の歌〉を分析することはヴァーグナーが理想とした芸術のあ り方を明らかにすることにつながると考えられる。なお本論は、筆者がこれまで行ってきたヴァー グナーのオペラにおける「詩のメロディー」研究の続きをなすものである。
具体的な分析に入る前に、《マイスタージンガー》研究が抱える問題について整理しておく必要 があろう。ヴァーグナーのオペラの音楽学的研究のうち、おそらく《マイスタージンガー》研究が 最も遅れていると思われる。《マイスタージンガー》が喜劇であり現実社会を舞台にしているとい
ヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》
における詩のメロディー
―〈栄冠の歌〉における言葉と音楽の関係の分析―
稲 田 隆 之
がっていよう。オペラのプロットが悲劇的結末をもっていれば、その結末に向かう音楽とドラマの 融合を検討すればよい。しかし喜劇の場合、そのプロットは必ずしも結末に向かって直線的に進行 するわけではない。小さな笑いを誘うディテールがドラマの随所に仕込まれていることが喜劇の特 徴でもあり、そのドラマトゥルギーの研究はヴァーグナーに限らず、今なお立ち遅れていると思わ れる。
また、音楽面にアプローチしようとする研究においても、《マイスタージンガー》は取り上げ方 が難しい。前作《トリスタンとイゾルデ Tristan und Isolde》(1857―59、以下《トリスタン》)は、半 音階法を徹底的に駆使し、トリスタン和音や減七和音を中心にさまざまな七の和音を多用した前衛 的な作品であった。それに対して、《マイスタージンガー》ではハ長調の三和音を基調とした明る い響きや全音階が一見支配的であるために、音楽史研究においても《トリスタン》ほど扱いは多く ない。《トリスタン》があまりに先鋭的な作品であるために、《マイスタージンガー》は音楽研究者 にとって興味や関心をもちにくい作品ともいえる。そこで本論は《マイスタージンガー》の音楽学 的研究のひとつの切り口として、言葉と音楽が緊密に結び合った詩のメロディーの実態解明に焦点 を絞って分析を行いたい。
さて、音楽面に着目した《マイスタージンガー》研究の課題は、「古さ」と「新しさ」の関係性 に尽きる。実際このオペラの主題は、ザックスの〈にわとこのモノローグ Flieder-Monolog〉で言 及されるように、「古さ」と「新しさ」の関係性にある。このモノローグが《マイスタージンガー》
のプロットの第 1 の転換点に位置付けられ、ここでヴァルターの歌の「古さ」と「新しさ」が認め られることで、最終的に彼が〈栄冠の歌〉によって栄冠を勝ち得るきっかけとなってゆく。では、
作品で扱われる「古さ」と「新しさ」とは何か。
1.2《マイスタージンガー》における「古さ」と「新しさ」
続いて、《マイスタージンガー》の音楽における「古さ」と「新しさ」の全体的関係を整理して おきたい。Breig1986 を参照するならば、《マイスタージンガー》の音楽的特徴とは「全音階法」、「コ ラール」、「対位法」である(Breig1986: 449)。それらこそ「古さ」の象徴でもある。三宅幸夫は、
それらの特徴が明確であるからこそ、「新しさ」が見えにくいと指摘する(三宅 2007: 211)。三宅 はさらに考察を進め、《マイスタージンガー》を特徴づける音楽的要素として偏在するテトラコルド、
すなわち「パンテトラコルド」を指摘している。テトラコルドのもつ「古さ」を徹底的に駆使する 手法が「新しさ」につながる、というわけである。
それに加えて、コラールと対位法のもつ「古さ」がどのように「新しさ」につながっているのか が、《マイスタージンガー》の音楽研究にとって重要な視点となる。いうまでもなくコラールはプ ロテスタントとつながり、バッハ受容とつながるものである。対位法もまたバッハ受容とつながる。
一見古いコラールには半音階を用いた和声付けがなされており、そのあまりのさりげなさに「新し
さ」が見えにくい。対位法においても、半音階法とテトラコルドの多用によって、偶発的に多くの 不協和音が発生している。だがここでも、その不協和音のあまりのさりげなさに「新しさ」が見え にくいのである。本論ではとりたててコラールと対位法の問題には深入りしないが、結論をやや先 取りするならば、《マイスタージンガー》特有の言葉と音楽をめぐる「新しさ」には、テトラコル ドと半音階法が関与している。それについては後述する。
以下は、《マイスタージンガー》第 3 幕第 3 場におけるヴァルターの〈栄冠の歌〉の詩のメロディー に焦点を絞って分析を行い、ヴァーグナーが意図した「古さ」と「新しさ」とは何だったのかを明 らかにしたい。
2.《マイスタージンガー》のリブレットの諸問題
《マイスタージンガー》における言葉と音楽の関係を分析するためには、そもそもヴァーグナー のオペラ作品におけるリブレットのあり方とその意図について確認しておかなければならない。と いうのも、《マイスタージンガー》のリブレットは全編を通して伝統的な韻律法によるテクストで 書かれているだけでなく、極めて特殊な事情を抱えているためである。
まず、いわゆる 3 つのロマン的オペラ─《さまよえるオランダ人》、《タンホイザー》、《ローエ ングリン》─まで、ヴァーグナーのオペラのリブレットは伝統的な韻律法によるテクストに基づ く。したがって、ドラマは─スコア上にその表記がなくても─レチタティーヴォとアリアの反 復交代によって進行する。前者では登場人物たちの台詞が語りに近い歌唱様式で歌われ、テクスト は韻文によらない。後者のアリアでは、登場人物たちの感情表現がなされ、テクストは韻文による。
つまり、アリアのテクストは詩であることが重要である。そのほか重唱や合唱が適宜挿入されて、
オペラのドラマが構成される。
アリアのためのテクスト、すなわち詩は、そこで描かれる感情の内容によってさまざまな詩形が 用いられる。それに対してレチタティーヴォは、脚韻を踏まないなど、ある程度自由なかたちで書 かれる。ドイツ、イタリア、フランス各国のオペラにはそれぞれ特有の特徴があるが、ヴァーグナー のオペラでレチタティーヴォに当たるテクストは通常ブランクフェルス Blankvers(5 脚のヤンブ ス詩行により脚韻を踏まない詩形)をとる。
ロマン的オペラでは徐々に各曲が接合されていき、ドラマとしての一貫性が目論まれてゆく。そ れでもなおヴァーグナーの書いたテクストでは、ブランクフェルスか否かによって、レチタティー ヴォが想定されているか否かが判別できる。ただし、なぜヴァーグナーがレチタティーヴォに相当 する箇所にブランクフェルスを用いたのか、については今なお明らかではない点が多い。筆者の研 究1)により、状況証拠から 2 つの理由が考えられる。第 1 に、イタリア・オペラのレチタティーヴォ
の 11 音節詩行(エンデカシッラボ Endecasyllabo)をヴァーグナーが人工的にドイツ語化したため である。第 2 に、ゲーテやシラーの韻文劇から借用したもので、その原点にはシェイクスピアの存 在も否定できない。
やがて《指環》の創作に向かう過程で、理論的著作『オペラとドラマ Oper und Drama』(1850―
51)を執筆した。それによれば、ヴァーグナーは伝統的な韻律法によるテクストが 4 小節フレーズ による伝統的な音楽につながり、それが音楽とドラマの融合を妨げていると考えた。とりわけ 5 脚 のヤンブス詩行の不自然さが否定されている。そこで《指環》に導入したのが頭韻によるテクスト であった。そこでは脚韻は踏まれず、詩行の長さも不統一であり、規則的なリズムもない。いわば 言葉の散文が意図されているのだが、それはまた音楽の散文をも意図したものであった2)。
本論の議論で重要なのは、《指環》の創作で完全排除したはずの伝統的な韻律法によるテクストを、
《マイスタージンガー》ではなぜ全面採用することになったのか、ということである。その理由に ついてヴァーグナー自身は明言していない。考えられる理由は大きく 4 つあろう。第 1 に、頭韻に よるテクストによるドラマは《指環》でやり尽くされたためであり、《トリスタン》では、頭韻に よるテクストと伝統的な韻律法によるテクストの併用の可能性が汲み尽くされため、である。
第 2 に、そもそも《マイスタージンガー》の構想はドレスデン時代(1842―49)に遡り、当初は《タ ンホイザー》という悲劇に対するサテュロス劇という位置付けであったためである。したがってこ のときから伝統的な韻律法によるテクストで書かれることが前提であったと考えられよう。第 3 に、
そもそも《マイスタージンガー》のテーマや時代設定が史実に基づいており、伝統的な歌合戦を舞 台にしていることが挙げられる。そこで実際に伝統的な韻律法によるテクストに基づくマイスター ゲザングが歌われ、その歌もミンネゼンガーに範を求められる以上、このオペラのリブレットが伝 統的な韻律法によるテクストによるのはごく当然のことといえるであろう。
しかし、それだけでは《マイスタージンガー》のリブレットの特殊な事情は説明できない。《マ イスタージンガー》のリブレットでは 5 脚のヤンブス詩行がごくわずかしか使用されないどころか、
そのほかの詩形であっても統一された詩行によるまとまった詩節がかたち作られないのである。つ まり、《マイスタージンガー》のリブレットは伝統的な韻律法によるテクストで書かれていても、
レチタティーヴォとアリアの反復交代が想定されていない。したがって、《マイスタージンガー》
で伝統的な韻律法によるテクストが採用された第 4 の理由は、演劇的なものと考えられる。
ただしそれは 5 脚のヤンブス詩行で書かれるシラーの史劇とはまったく別物である。またさまざ まな詩形を用いるものの、詩行の長さや詩脚の数が統一されながら書かれている、ゲーテの『ファ ウスト』のようなものとも別物である。おそらくそれは、頭韻によるテクストでは詩行の長さが不 統一であったことと、伝統的な韻律法によるテクストでは詩行末で脚韻を踏むことを融合させた新 しいテクストということができよう。
2) 《指環》における言葉と音楽の関係については、拙論 2009、同 2011 を参照のこと。
したがって《マイスタージンガー》のリブレットは、脚韻を踏む「古さ」と詩行の長さが不統一 という「新しさ」を備えた、新しいドラマを目論んだテクストなのである。そして、これまでの伝 統的なオペラが備えていたレチタティーヴォとアリアの反復交代という時間構造は、実際に登場人 物たちが歌う劇中歌がアリア化し、その他のテクストがレチタティーヴォ化するというかたちで継 承されている。
さらに、レチタティーヴォとアリアの反復交代という時間構造が「古さ」の型だとすれば、両者 の接合に「新しさ」をみてとることができる。すなわち、アリア化されたはずの劇中歌が、レチタ ティーヴォ化されたはずの台詞と組み合わされるのである。第 1 幕第 3 場でヴァルターがマイス ターたちの前で自身の来歴を語る〈自己紹介の歌〉は、本来は劇中歌ではない。しかしヴァルター はそれをバール形式で「歌う=語る」のである。このとき、歌っているのか語っているのかの判別 は難しい。また、同じく第 1 幕第 3 場でヴァルターが歌わされる〈資格試験の歌〉は、記録係のベッ クメッサーによって、第 2 シュトレンの途中で中断されてしまう。そして続きの第 2 シュトレンと アプゲザングは、第 1 幕幕切れのアンサンブル・フィナーレのなかに組み込まれる。幕切れのアン サンブル・フィナーレという「古さ」と、しかしそのなかにヴァルターの歌とその他のマイスター たちの台詞が組み合わされるという二重の時間構造に「新しさ」をみてとれよう。
以上考察したように、《マイスタージンガー》はリブレットの面でも、既存既知の手法がもつ「古 さ」を組み合わせることで、「新しさ」が生まれることが意図されている。当然ながら、それによっ て新しいドラマのかたちを目指したことが分かる。では、本オペラの結論に位置付けられるヴァル ターの〈栄冠の歌〉では、どのような「古さ」がどのような「新しさ」につながり、どのような芸 術が称揚されているのであろうか。
3.〈栄冠の歌〉の分析
3.1 詩の分析
まずは詩を分析しよう。リブレットのテクストおよび対訳は、日本ワーグナー協会監修 / 三宅幸 夫・池上純一編訳、白水社刊のものを使用させていただいた。〈栄冠の歌〉全体の行数は、第 1 シュ トレンおよび第 2 シュトレンが 13 行、アプゲザングが 15 行となっている。ただしそれぞれの間で、
民衆たちおよびマイスターたちが言葉を挿入させるため、楽曲自体は連続しない。
まず第 1 シュトレンからみてみよう。
〔テクスト①:第 1 シュトレン〕
テクスト 音節 Rhy 韻 Kad 脚
Morgenlich leuchtend im rosigen Schein, 10(4) Dak a m −
von Blüt und Duft 4(2) Jan b m /
geschwellt die Luft, 4(2) Jan b m /
voll aller Wonnen, 5(2) Jan c f +
nie ersonnen, 4(2) Tro c f /
ein Garten lud mich ein, 6(3) Jan a m /
dort unter einem Wunderbaum, 8(4) Jan d m /
von Früchten reich behangen, 7(3) Jan e f +
zu schaun in sel’ gem Liebestraum, 8(4) Jan d m /
was höchstem Lustverlangen 7(3) Jan e f +
erfüllung kühn verhieß, 6(3) Jan f m /
das schönste Weib: 4(2) Jan * m /
Eva im Paradies! 6(3) Dak f m − 転
表にある「音節」は各行の音節数を示し、括弧内はアクセント数を示す。アクセント数はそのま ま詩脚の数でもある。「Rhy」は各行でとる律のことで、「Dak」はダクテュルス(強弱弱格)、「Jan」
はヤンブス(弱強格)、「Tro」はトロヘーウス(強弱格)をとる。なおアナペースト(弱弱強格)
はここでは用いられない。「韻」は脚韻の響きで、それぞれの違いをアルファベットで示した。両シュ トレンの 12 行目の「*」は詩節をまたいで踏まれた脚韻、すなわち穀韻を意味している。「Kad」
は詩行末のカデンツのことで、「m」は男性格、「f」は女性格を示す。「脚」は詩行末のカデンツによっ て生じる音節数の過不足を示しており、「+」は余り脚、「−」は脚足らず、「/」は過不足がないこ とを意味する。「転」は詩行冒頭にアクセント転置が起きていることを示す。本論で言及する特殊 な現象が生じている箇所には網かけをかけている。
まず第 1 シュトレンの特徴を抽出していく。突出しているのが 1 行目のかたちで、ダクテュルス をとることと詩行の長さが指摘できる。2 行目以降は基本的にヤンブスをとり、脚韻を踏む詩行の かたちが統一される。見方を変えると、ヤンブスをとらないか、詩行のかたちが不統一である場合、
何らかの詩的な意図が込められていることになる。しかしそれは、実際のマイスターゲザングの規 則に反するものとなる。池上がマイスタージンガーの規則をまとめたところによれば、押韻する詩 行同士は音数を揃えなければならなかった3)。
注目に値するのが 4、5 行目の不統一なかたちである。4 行目はヤンブスで 5 音節からなり、強
3) 日本ワーグナー協会監修の対訳本所収、池上純一「ニュルンベルクのマイスタージンガー 歴史的背景」より「10 マイ スタージンガーの詩学」を参照(p. 221f)。
音節を 2 つもつが、5 行目はトロヘーウスで 4 音節、強音節は 2 つ、というかたちをとる。確かに 4 行目はヤンブスの余り脚であるため、5 行目のトロヘーウスとの連結は自然になされ得る。しか しあらかじめ指摘するならば、この 2 行に対する歌唱旋律の処理には矛盾が生じている。これにつ いては後述する。
なお、6 行目行末「ein」は 1 行目の行末「Schein」と脚韻を踏んでいるようにみえるが、オペラ のなかではヴァルターが歌合戦の場で即興的に 7 行目以降を変更したため、「ein」の響きは宙に浮 いているともいえる。この現象については音楽分析のなかで後述する。
もうひとつ特徴的な事象は最後の 2 行で生じている。12 行目の脚韻は第 1 シュトレン内では踏 まれず、次節の第 2 シュトレンの同一の行で踏まれる。これについてはすでに指摘した。これによっ て「女性 Weib」という言葉の脚韻が詩節内で孤立する。それによって、その女性が際立った存在 であることが暗示されよう。
そして最終行で変化が意図されている。ここではダクテュルスをとることで、リズムが大きく変 化する。何より、前の行が男性格の強音節で終わっているため、この最後の 2 行の連結で強音節が 2 つ連続することになる。当然ながら「エーファ Eva」の名が強調されるわけである。なおこの詩 行は、本来ヤンブスであるものが詩行冒頭でアクセント転置なされたものとも解釈できる。という のも、第 2 シュトレンをみると最終行はヤンブスをとり、音節数と強音節数は第 1 シュトレンと共 通しているためである。ダクテュルスで始まる詩行が脚足らずで終わることにより余韻が生じる。
続いて第 2 シュトレンを検討しよう。
〔テクスト②:第 2 シュトレン〕
テクスト 音節 Rhy 韻 Kad 脚
Abendlich dämmernd umschloss mich die Nacht; 10(4) Dak g m −
auf steilem Pfad 4(2) Jan h m /
war ich genaht 4(2) Jan h m /
zu einer Quelle 5(2) Jan i f +
reiner Welle, 4(2) Tro i f /
die lockend mir gelacht: 6(3) Jan g m /
dort unter einem Lorbeerbaum, 8(4) Jan j m /
von Sternen hell durchschienen, 7(3) Jan k f +
ich schaut im wachen Dichtertraum, 8(4) Jan j m /
von heilig holden Mienen, 7(3) Jan k f +
mich netzend mit dem edlen Naß, 6(3) Jan l m /
das hehrste Weib, 4(2) Jan * m /
die Muse des Parnaß! 6(3) Jan l m /
詩節のかたちは、バール形式の原則に則り第 1 シュトレンとほぼ同じである。異なっているのは 最終行で、第 1 シュトレンがダクテュルス詩行だったのに対して、第 2 シュトレンではヤンブス詩 行となっている。そのほか、第 1 シュトレンでみられた特徴的な事象は第 2 シュトレンでも共通し ている。だからこそ問題となるのは、音楽の処理が第 1 シュトレンと第 2 シュトレンで異なること である。これについては後述する。
次にアプゲザングを分析する。テクストは以下の通りである。
〔テクスト③:アプゲザング〕
テクスト 音節 Rhy 韻 Kad 脚
Huldreichster Tag, 4(2) Dak m m −
dem ich aus Dichterstraum erwacht! 8(4) Jan g m /
Das ich erträumt, das Paradies, 8(4) Jan f m /
in himmlisch neu verklärter Pracht, 8(4) Jan g m /
hell vor mir lag, 4(2) Dak m m −
dahin lachend nun der Quell den Pfad mir wies; 11(6) Tro f m − 転
die, dort geboren, 5(2) Jan n f +
mein Herz erkoren, 5(2) Jan n f +
der Erdelieblichstes Bild, 7(3) Jan o m /
als Muse mir geweiht, 6(3) Jan p m /
so heilig ernst als mild, 6(3) Jan o m /
ward kühn von mir gefreit; 6(3) Jan p m /
am lichten Tag der Sonnen, 7(3) Jan c f +
durch Sanges Sieg gewonnen 7(3) Jan c f +
Parnaß und Paradies! 7(3) Jan f m /
詩行の長さやヤンブスの韻律はおおよそ統一されており、特に押韻する詩行同士はかたちが揃え られている。例外は 6 行目の詩行の長さ、1、5、6 行目の韻律、9 行目の音節数である。とりわけ 9 行目の「Erdelieblichstes」という言葉がリズムの変化につながっている。そして、この言葉は軽 強音という現象とも関わっている。
ドイツ詩では、強音節と弱音節の規則的な反復によって統一的なリズムの場を形成するが、その 強音節が常に同じ強さで発語されるわけではない。本来強い意味をもたない語─前置詞や指示代 名詞など─が韻律上のアクセントをもつことがあるが、その際その強音節はやや弱く発語される のが自然であろう。そのように、韻律上は強音節に当たりながらも、語の組み合わせによってやや 弱めのアクセントとなる語がある。そのようなアクセントを軽強音と呼ぶ。
この軽強音は、2 つ以上の強音節をもつ言葉にも発生する。こうした言葉は特殊な言葉であるこ
とが少なくなく、詩人による詩的表現意図が込められているとみなせる。この〈栄冠の歌〉では、
軽強音をもつ言葉が多用されるという特徴がある。具体的に挙げるならば、第 1 シュトレンでは
「Wunderbaum」の「-baum」、「Liebestraum」の「-traum」、「Lustverlangen」の「-lan(-gen)」、「Paradies」
の「-dies」、第 2 シュトレンでは「Lorbeerbaum」の「-baum」、「Dichtertraum」の「-traum」、アプゲ ザングでは「Dichterstraum」の「-raum」、「Paradies」の「-dies」、「Erdelieblichstes」の「-lieb(-lichestes)」
の音節がそれに当たる。これらの軽強音の多用がこの詩全体におけるやわらかな響きの統一につな がる。のちに触れるように、この〈栄冠の歌〉はそもそも〈夢解きの歌〉を原型としているのだが、
〈夢解きの歌〉ではこうした言葉が限定的にしか用いられていない。
以上、詩の特徴を抽出した。ではそれらがどのように音楽化されているのか。その際、言葉と音 楽の間にはどのような矛盾が生じている / 生じていないのであろうか。
3.2 音楽分析
続いて歌唱旋律の分析を行う。注目する現象は言葉と音楽の矛盾や亀裂だが、重要なのはその定 義である。これまで筆者が行ってきたヴァーグナーの「詩のメロディー」研究では、次のように定 義してきた。第 1 に、伝統的な韻律法によるテクストは音楽の 4 小節フレーズと結び付くことを基 本としているため、4 小節フレーズが乱れたときに言葉と音楽の矛盾とみなす。ただし《マイスター ジンガー》のリブレットは伝統的な韻律法によるテクストをとるとはいえ、詩行の長さは押韻する 詩行同士を除けば、不統一なものとなっている。そのため、4 小節フレーズの乱れが必ずしもネガ ティヴな意味を生じさせないという現象が起きている。
第 2 の定義としては、言葉における韻律上のアクセントが確実に音楽の拍節に置かれなかった場 合、言葉と音楽の矛盾とみなせる。伝統的な韻律法によるテクストにおける韻律上のアクセントは、
若干の軽重はあっても発語上のアクセントと一致しなければならないためである。ヴァーグナーは 頭韻によるテクストであっても、詩行末の言葉は音楽の拍節の 1 拍目(ないし 4 拍子の 3 拍目)に 置くことを徹底しており、伝統的な韻律法によるテクストではなおさら音楽との拍節との関係が重 要だと考えられる。
第 3 の定義としては、意味上のアクセントとの関連で指摘できる。すなわち、通常ポジティヴな 内容をもつ言葉はポジティヴな響きと、ネガティヴな内容をもつ言葉はネガティヴな響きと結びつ けられるわけだが、ドラマ上の表現において、ポジティヴな言葉がネガティヴな響きと、ネガティ ヴな言葉がポジティヴな響きと結びつけられることがある。このとき言葉と音楽の矛盾が指摘でき る。ただし、これについてもすでに拙論で指摘したが4)、《マイスタージンガー》という作品では、
言葉と音楽の関係の観点でポジティヴな意味とネガティヴな意味が背中合わせになっており、その
どちらとも判別できない現象が多い。
第 4 の定義はもっと微細な現象についてである。ヴァーグナーは《指環》に頭韻によるテクスト を用いたことにより、韻律面では言葉と音楽の間に矛盾が起こらないことになった。そこで、言葉 の強音節がとる音が背後の和音構成音の第何音であるかによって、言葉と音楽の間に緊張関係をも ち込んだ。つまり、言葉がとる音が和音構成音の根音であれば、言葉はその和音が暗示する意味に 対してポジティヴであり、言葉がとる音が和音構成音の第七音だと、言葉はその和音が暗示する意 味に対してネガティヴである、というものである。後者の場合、たとえば属七和音という七の和音 のなかではポジティヴな響きが背後で鳴っていたとしても、歌唱旋律がその和音の第七音をとるこ とにより、言葉と音楽の間にせめぎあいが生じるといえる5)。この関係にはさらにネガティヴな現 象が生じ得る。それは、歌唱旋律のとる音が背後の和音にとって非和声音である、という現象であ る。結論を先取りするならば、《マイスタージンガー》はこの現象に溢れている。それをもたらす のは、パンテトラコルドと対位法にほかならない。ただしこの場合も、歌唱旋律がとる非和声音は 偶発的に生じたに過ぎないことが多く、必ずしもネガティヴな意味につながらない、という現象が 起きている。
以上のように《マイスタージンガー》には、ヴァーグナーのこれまでのオペラ作品とはまったく 異なる音楽的現象が生じている。そして、単純にポジティヴ / ネガティヴでは割り切れないドラマ が展開しているのである。
ここからの問題は、以上の言葉と音楽の間の矛盾が具体的に《マイスタージンガー》にどのよう に生じているのか、またそれがどのように「古さ」と「新しさ」と結び付くのか、ということであ る。以下、具体的な分析に入ろう。なお譜例は筆者が楽譜作成ソフトで作成したものだが、今回の 分析では特に必要ではない情報(発想表記やアーティキュレーション指示など)は省略したことを お断りしておく。
3.2.1 第 1 シュトレンの分析
まず、なぜこの〈栄冠の歌〉は 4 分の 3 拍子をとるのか。理由は大きく 2 つに整理できよう。ひ とつはドラマ上の理由である。拍子の設定は、オペラのドラマトゥルギーと密接な関係がある。す なわち、登場人物のキャラクターとの関連であり、ドラマにおける象徴性との関連である。《マイ スタージンガー》の 3 拍子は、明らかな舞曲(第 3 幕第 3 場でベックメッサーがザックスの手によ る詩(実際はヴァルター作)の紙片を喜んで持ち去る場面や、第 3 幕第 5 場でダーフィトが村娘た ちと踊る場面など)の場合を除けば、浄化の機能を担わされている。第 2 幕で夜警が現れる場面は その好例だが、この〈栄冠の歌〉もベックメッサーの歌に対置される浄化の場面といえる。
しかし〈栄冠の歌〉が 3 拍子をとる理由はもうひとつある。それが詩の韻律との関係である。す
5) 拙論 2015 を参照のこと。
なわち、第 1 シュトレン、第 2 シュトレン、アプゲザングすべてにおいて、1 行目がダクテュルス をとることによる。ただし、ここにはもう少し説明が必要であろう。すでに筆者の研究で明らかに したことだが6)、ヴァーグナーは《指環》の詩のメロディーにおいて、詩のリズムの多様性を活か すことに徹底的にこだわり、強音節と弱音節が同じ音価で反復されることをできるだけ回避した。
たとえばトロヘーウスによる 2 つの詩脚─「強・弱・強・弱」音節─があった場合、付曲の際 には 4 つの 4 分音符や 4 つの 8 分音符を与えることを原則として避けている。むしろ避けていない ときに、極めてネガティヴな意味が生じている。そのようなリズムを同価リズムと呼ぶことにする。
ところが《トリスタン》になると、同価リズムにポジティヴなニュアンスが与えられている。第 3 幕幕切れ、イゾルデによる〈愛の死〉冒頭のリズムがそれに当たる。そこでは、詩が本来もつリ ズムからくるリズムの多様性よりも単一のリズムによる「浄化」の機能が重視された7)。《マイスター ジンガー》の〈栄冠の歌〉も同様の機能が与えられたとみなせる。そしてそれは、そもそも詩の韻 律が規定していたものでもあった。だが、すでに詩の分析で確認したように、〈栄冠の歌〉のテク ストでダクテュルスをとるのはむしろ局所的であって、大半はヤンブスをとる。そのため、言葉と 音楽との間にせめぎあいが生じている8)。
〔譜例 1〕からも分かるように、1 行目のテクストは音楽の 3 拍子に的確に置かれ、かつ、文法 上の根拠に基づき、多様なリズムが与えられている。続く 2 ∼ 5 行目は詩脚が 2 つという短い詩行 が設定されている。2、3、4 行目の処理はいずれもアウフタクトで始まり、脚韻を踏む言葉、すな わち「Duft」「Luft」「Won(-nen)」の音節を 1 拍目に置く。ここで第 1 シュトレンにおいて最大の問 題が生じる。「Won(-nen)」と次の行の「(er-)son(-nen)」とで脚韻を踏むため、本来ならば同じ処理 がなされなければならない。しかしヴァーグナーは、「Won(-nen)」に 1 小節分のゆったりとした旋 律の動きを与えた。そのおかげで、「(er-)son(-nen)」の強音節は 3 拍子の 2 拍目に置かれる、とい うイレギュラーなかたちをとることになった。
6) 日本音楽学会第 62 回全国大会(東京大学駒場キャンパス)における研究発表「ヴァーグナーの《指環》における詩のメ ロディー」(2011 年 11 月 6 日)。
7) 〈愛の死〉冒頭のテクスト「Mild und leise」の「強・弱・強・弱」音節は、「副詞+前置詞+副詞+その語尾」からなって いる。したがって、それを音楽化したときの自然なリズムは、4 つの四分音符による同価リズムではなく、「付点 4 分音符
+ 8 分音符+付点 4 分音符+ 8 分音符」の長短リズムになるであろう。
8) 具体的には、「強・弱・強・弱」の音節を 3 拍子に配置する際に、一方の強音節には 8 分音符、もう一方の強音節には 4
上述したように、ヴァーグナーは詩を歌唱旋律化する際に、脚韻を踏む強音節を音楽の拍節の 1 拍目(ないし 4 拍子の 3 拍目)に置くことを徹底してきた。《マイスタージンガー》全体において もそうした手法は引き継いでいる。だからこそこの箇所の脚韻の処理に、言葉と音楽の矛盾を指摘 することができよう。もし矛盾が起こらないようにするのであれば、〔譜例 2〕のように「Won(-nen)」
の処理を短めにし、押韻の箇所を 1 拍目に統一すればいいだけである。ではなぜヴァーグナーは現 行のような処理をしたのか。
まず前提となる事実を確認しておかなければならない。第 3 幕第 5 場の歌合戦の場で披露される この〈栄冠の歌〉は、そもそも第 3 幕第 2 場、ザックスがヴァルターに昨夜見た夢について語らせ ながら歌わせた〈夢解きの歌〉が原型である。ここではヴァルターがザックスのアドヴァイスに従
〔譜例 1:第 1 シュトレン冒頭〕
〔譜例 2〕
いながら、2 つのバール形式を完成させてゆく。3 つ目のバール形式は、ヴァルターが一度去った のち再び現れ、エーファの前で披露される。
ヴァルターが最終的に歌う〈栄冠の歌〉は、上記の〈夢解きの歌〉の 3 つのバール形式を 1 つの バール形式に凝縮したものであり、かつ、歌合戦の場でヴァルターが即興的に歌い変えていった ヴァージョンでもある。具体的には、〈栄冠の歌〉の第 1 シュトレン冒頭 6 行目までは〈夢解きの歌〉
と同一であるが、7 行目から変化する。したがって、まずここで確認すべきは、「Won(-nen)」と「(er-) son(-nen)」の押韻のかたちは、〈夢解きの歌〉のかたちがそのまま踏襲されていることである。つ まり、この押韻の処理は当初からザックスが許容したものであった。それに対して、〈栄冠の歌〉
第 1 シュトレンのあとに挿入されるマイスターたちのささやき声では、「規則通りの歌い方かどう かは別にしても。ob falsch oder richtig man sing’.」と聞こえてくる。それに当たるのがおそらくこの 押韻の箇所であろう。
ヴァルターがこのような処理をしたのには 2 つの理由がある。第 1 に「歓喜 Won(-nen)」の言葉 を強調したかったからであり、第 2 には、続く「nie ersonnen」がトロヘーウスをとるため、冒頭 の強音節を 1 拍目に置きたかったためである。しかしそれによって、不統一な押韻処理という問題 が生じたわけだが、それをヴァルター(ひいてはザックスとヴァーグナー)は問題視しなかったこ とになる。
さらに〈夢解きの歌〉について触れておこう。すでに触れたように〈夢解きの歌〉は 3 つのバー ルからなる。同様の現象は第 2 バール(aus ihren Augen / Wonne saugen,)でも生じている一方で、
第 3 バールでは同じ箇所(vor aller Frauen / hehr zu schauen)が〔譜例 2〕のように処理されるとい う不統一が起きている。前者は「Augen」「saugen」の押韻を統一するよりも「Wonne」の強調を優 先させたのであり、後者は押韻を優先させたことになる。確かに「Wonne」の名詞と「hehr zu」の 副詞+前置詞では強調され方に違いが生じても当然かもしれないが、それによって第 1・2 バール と第 3 バールに不統一が生じるという大きな問題が生じた9)。
分析を〈栄冠の歌〉に戻そう。すでに触れたように、7 行目以降がヴァルターによる即興となる。
それによってまず、6 行目行末の「ein」の脚韻が踏まれない。さらにここからの歌唱旋律のかたち が特徴的である。というのも、7 行目以降、多くの強音節が非和声音をとるからである。〔譜例 3〕
のうち○を付けた音符が非和声音に当たる。こうした現象は《トリスタン》においては半音階進行 の声部の存在によって起きたが、ここではテトラコルドの順次進行によって起きている。そしてそ れが《マイスタージンガー》特有の精妙な響きを作り上げている。
7 行目からもうひとつ特徴的な現象が生じている。そしてそれは、言葉との関連で起きたもので ある。それが脚韻を踏む軽強音の処理である。「Wunderbaum」と「Liebestraum」の言葉を選んだ時 点で、「-baum」と「-traum」の脚韻は 1 拍目ではなく 2 拍目に移動せざるを得ない。脚韻を音楽の 1 拍目で踏むことが徹底される、というのが《マイスタージンガー》全体での基本的手法でもある。
だからこそ、脚韻の響きを期待する聴き手の耳を裏切る。当然オペラ内では、ヴァルターによる裏 切りなのである。この意味については次節で考察する。
このほかに重要な現象は、10 行目の「愛欲への想い Lustverlangen」が半音階下行の旋律形 g-fis- f-e が与えられ、その上、2 つの強音節上で半減七和音(=トリスタン和音)が鳴ることである(譜 例では「-langen」は省略)。ここではその言葉の意味からして、《トリスタン》で暗示していた意味 を引き継いでいよう。すなわち、ヴァルターとエーファの運命的な出会いと性愛への憧れである。
〔譜例 3:第 1 シュトレン中間〕
この〈栄冠の歌〉で突如エロティックな観念が挿入されることについて、民衆もマイスターたちも 気付かない。なお当然ながらこの言葉は、〈夢解きの歌〉には現れない。また〈夢解きの歌〉のア プゲザングでも g-fis-f による半音階進行が多用されるものの、その背後にトリスタン和音は用いら れない。そのほか特徴的な現象として、歌唱旋律ではないが、12 行目「das schönste Weib」の背景 ではオーケストラが半音階下行の動きをみせることを付記しておきたい。
続く第 2 シュトレンは基本的に第 1 シュトレンと同様の手法によるため、細かい分析は省略する。
ただし第 1 シュトレンとの大きな違いは、まず 4、5 行目の押韻で、ここでは譜例 2 のかたちで処 理されている。また 7 行目でハ長調からロ長調という遠隔調に転調すること、および最終行でト長 調に終始することである。ここでの転調はもちろん「新しさ」として指摘できるものである。
3.2.2 アプゲザングの分析
アプゲザングもシュトレンと同様の手法による。したがって、一見長音階の明るい響きが支配的 であるようにみえて、実際には半音階が随所に用いられている。またテトラコルドの順次進行の多 用が、歌唱旋律に非和声音を持ち込ませている。そしてそれが、ネガティヴな意味につながってい ないことが「新しい」。そのほかの点では、押韻処理も統一されており、特に言葉と音楽の矛盾を 指摘できる箇所はない。
その一方で、奇妙な現象が生じている。それは 7、8 行目の詩のメロディーにみられる半音階下 行 g-fis-f-e である(〔譜例 4〕4 段目)。
問題なのは半音階下行そのものではなく、その声部進行が対旋律に当たることである。このとき 主声部はアプゲザング冒頭の旋律形を反復している。このテクスチュアは〈夢解きの歌〉でもすで に生じていた。〈夢解きの歌〉も〈栄冠の歌〉でもヴァルターの歌う半音階の音型 g-fis-f-e はオー ケストラに引き継がれるのだが、後者ではさらに反復を続け、合唱を巻き込んでクライマックスを 形成する。つまり、すでに三宅が指摘しているように、〈栄冠の歌〉のアプゲザングの結尾に向かっ て、音楽展開の主導権は歌唱旋律ではなくオーケストラが握る(三宅 2007: 200)。なお三宅は以上 の現象を〈栄冠の歌〉においてのみ指摘し、〈夢解きの歌〉においては指摘していない。おそらく それは、〈栄冠の歌〉でオーケストラがさらに動機を反復していく現象を重視したからであろう。
しかし本論の立場からいえば、〈夢解きの歌〉の時点ですでに音楽展開の主導権はオーケストラ に移っていることに注目したい。というのも、歌唱旋律の半音階下行 g-fis-f-e-d とオーケストラの 音型(すなわちアプゲザング冒頭のかたち)が 2 小節単位で 2 度反復される時点で、すでに音楽展 開はオーケストラ主導で動いているためである。したがって、本論の問題意識にとって重要なのは、
いずれの場合でも、なぜ歌唱旋律がオーケストラに対して対旋律をとらなければならないのか、と いうことである。なおここには、押韻処理および音楽のフレーズ構造において、言葉と音楽の間に は矛盾が生じていない。
歌曲の原理と示導動機技法の原理の矛盾である。ヴァーグナーは〈夢解きの歌〉の 3 つのバールを
〈栄冠の歌〉では 1 つのバールに凝縮し、さらに〈栄冠の歌〉のアプゲザングの結尾を拡大したこ とで、その矛盾がより浮き彫りになった。
何度も指摘しているように、このアプゲザング冒頭は 3 つの四分音符という同価リズムで始まる。
同価リズムが再び現れるのは、5 行目「hell vor mir」のダクテュルス詩行である。これによって統 一性が生まれている。続いて同価リズムが用いられるのは、6 行目から 7 行目にかけて、「wies; / die」のテクストにおいてである。この 2 音節が 3 つの四分音符で処理される必然性はない。注目 すべきは、この処理に続いて 7、8 行目の問題のテクスチュアが現れることである。したがって、
「wies; / die」に与えられた 3 つの四分音符は次のセクションへの接続部分であり、それによって次 に期待される旋律形は、アプゲザング冒頭のかたち g-c-e-g にほかならない。
つまり、このアプゲザング内で音楽は「A―B―A’」の 3 部形式(≒ダ・カーポ形式)をかたち
〔譜例 4:アプゲザング前半〕(2 段目以降はピアノ譜割愛)
作ろうとしている。それがいわば歌曲の原理である。ところが、「A’」で本来とらなければならな い同価リズムの旋律形はオーケストラに移り、歌唱旋律は対旋律をとる。というのも、7、8 行目 のテクストはダクテュルスではないからである。したがって、「A―B―A’」形式をとろうとする根 拠は言葉にはない。それこそが言葉と音楽の矛盾なのである。「A’」セクションが「A’」であって「A’」
でないのは、そこでの展開原理が示導動機の反復に移り、歌唱声部は「A’」ではないからである。
それでもなお疑問は拭えない。ヴァルターが対旋律を歌っているとき、民衆やマイスターたちは 何を聴いているのか。ヴァルターが対旋律を歌うという行為は《マイスタージンガー》にとってど のような意味をもつのか。これらの問題を含めて次節で考察したい。
4.考察
以上の分析によって、〈栄冠の歌〉における言葉と音楽の矛盾を抽出した。それらの矛盾が《マ イスタージンガー》にとってどのような意味をもつのかについて考察したい。
2 つのシュトレンで生じていた言葉と音楽の矛盾は、不統一な押韻処理、および押韻箇所の移動 であった。その処理の根拠は、言葉の強調と韻律との関連にあった。《マイスタージンガー》のド ラマは、大多数の詩行が脚韻を踏むというかたちで進行してきた。言い換えれば、脚韻を踏むとい う詩的行為が《マイスタージンガー》のドラマを支配してきた。それは、基本的に音楽の拍節の 1 拍目で脚韻の響きを味わうことが、このオペラの観客にも求められていることになる。
だからこそ、〈栄冠の歌〉における不統一な押韻処理や押韻箇所の移動は、押韻という詩的表現 手段への問題提起であり、《マイスタージンガー》自体への問題提起でもある。それどころか、《マ イスタージンガー》に至るすべてのオペラへの問題提起ともいえよう。それが「新しさ」につなが る。それによってヴァーグナーは、規則に対して柔軟であるべきとの姿勢を示しているわけである。
一方で、アプゲザングで生じていた言葉と音楽の矛盾は、歌曲の原理と示導動機技法の原理との 間で生じていた。確かに《マイスタージンガー》という作品は、リブレットの成立とスコアの成立 の関係が極めて複雑であり、その成立のプロセスでは言葉よりも音楽が優先される箇所も少なくな かったことが知られている10)。音楽のかたち先行で創作された《マイスタージンガー》そのものを 自己正当化するような台詞が、ザックスによっても語られることも知られている11)。
ただし成立事情はここでは関係ない。重要なのは、ヴァルターの歌が対旋律をとり、展開原理を 示導動機技法に渡したことによる意味である。それは、ヴァルターの歌そのものがヴァーグナーに よる嘘であることを指している。本来一本の旋律線であるべきマイスターゲザングの歌唱旋律が、
10) 日本ワーグナー協会監修の対訳本所収、池上純一「作品の成立 / テクストの確定 / 訳出の指針」を参照(pp. 224―230)。
11) 《マイスタージンガー》第 3 幕第第 2 場、ヴァルターが〈夢解きの歌〉を第 2 バールまで作り、第 3 バールの創作を拒絶
半音階の対旋律であることは虚構なのである。つまり、ヴァルターはアプゲザングの「A 」セクショ ンに入ると、歌っていながら歌っていない。〈栄冠の歌〉では、当然民衆もマイスターたちも賞賛 の声を上げるわけだが、これもまたヴァーグナーによる嘘である。この嘘にわれわれ観客も騙され ている。この嘘を真にするための布石が〈夢解きの歌〉から〈栄冠の歌〉にかけてなされているの である。
ヴァルターが歌う対旋律は内声にほかならず、彼の内なる声が現れ出たものとみなせよう。その 半音階下行からなる内なる声は、〈栄冠の歌〉において「Lustverlangen」という性的なものに変換 されたのだが、そのことに民衆もマイスターも気付いていない。〈栄冠の歌〉が《マイスタージンガー》
のドラマの結論のひとつだとすれば、それは、表向きの聴きやすさや分かりやすさとは裏腹に、芸 術の真の意味は蒙昧な民衆や因習的なマイスターたちには分からない、ということであろう。それ 以上に、その芸術が虚構であることに気付いていない、という痛烈な皮肉になっている。もちろん それは、われわれ観客に対する皮肉でもある。そして《マイスタージンガー》の「新しい」響きは、
さまざまに「古い」手法を組み合わせることで生まれている。
■参考文献■
・Breig, Werner. 1986. “Wagners Kompositorisches Werk”, Wagner Handbuch. ed. by Ulrich Müller and Peter Wapnewski. Stuttgard: Alfred Kröner Verlag, pp. 353―470.
・Csampai, A. and D. Holland, eds. 1981. Die Meistersinger von Nürnberg. Rororo Opernbücher, Hamburg:
Reinbek. (邦訳:「ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー」、名作オペラ ブックス 23、音楽之友社、1988 年)
・池上純一 2007 「ニュルンベルクのマイスタージンガー 歴史的背景」、日本ワーグナー協会監 修『ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー』(三宅幸夫・池上純一編訳)、白水社、
214―223 頁。
・稲田隆之 2009 「ジークリンデの叙事的物語における「詩のメロディー」―《ヴァルキューレ》
における「詩のメロディー」序論」、『香川大学教育学部研究報告』第Ⅰ部、第 132 号、1―17 頁。
・― 2011 「ワーグナーのオペラにおける音楽と言葉の関係―5 脚のヤンブス詩行の問題か ら詩のメロディーへ」、『年刊 ワーグナー・フォーラム 2011』、東海大学出版会、114―31 頁。
・― 2015 「《トリスタン》における言葉と音楽のねじれ関係―ドラマ的機能とその破綻―」、
稲田隆之編『ヴァーグナーの舞台作品におけるドラマ性』、日本独文学会叢書 105、43―56 頁。
・三宅幸夫 2007 「解題(音楽)パンテトラコルド Pantetrachord」、日本ワーグナー協会監修『ワー グナー ニュルンベルクのマイスタージンガー』(三宅幸夫・池上純一編訳)、白水社、211―213 頁。
・Warrack, J. ed. 1994. Richard Wagner: Die Meistersinger von Nürnberg. Cambridge Opera Handbook, Cambridge: Cambridge University Press.
■使用対訳■
・日本ワーグナー協会監修『ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー』(三宅幸夫・池 上純一編訳)、白水社、2007 年。
Versmelodie in Wagner’s Meistersinger: An Analysis of the Relation between Word and Music in Preislied
Takayuki INADA
Richard Wagner (1813―83) created Die Meistersinger von Nürnberg, making full use of ‘old and new’
methods. But its reality is not so clear, because we can catch too easily ‘old’ methods such as diatonic scale, counterpoint and choral, and therefore it is difficult to pick ‘new’ out. In order to clarify the substance of ‘old’
and ‘new’ methods, this paper analyzes Walther von Stolzing’s Preislied sung at the contest in act III. One of the plots in Die Meistersinger is the Bildungsroman of Walther, and this song is the proof of his growing-up and also one of Wagner’s results in this opera.
This article is a continuation of the series of my studies on Wagner’s Versmelodie, and analyzes the relation between word and music in Preislied and considers the combination between ‘old’ and ‘new’
elements in Die Meistersinger. The basic procedure of analysis is to pick contradictions between word and music out. But it is impossible in Die Meistersinger to use the difinition of contradiction in his former operas.
Because the libretto is written in a traditional cadence way but has various length in the verse line, the collapses of four-bar musical phrase are not always related to the negative meaning.
Semantically we can pick contradictions out, when positive word combines with nagative music, or negative word with positive music. But it is very difficult in Die Meistersinger to judge whether these phenomena are positive or negative. There are both meaning in a one and indivisible relation.
Wagner utilized several connections of the tone on a stressed syllable in vocal melody and the background chord thoroughly as a means of dramatic expression. In particular when a vocal melody takes a nonharmonic tone on the stressed syllable, it is considered to convey a very negative meaning. But Die Meistersinger shows these contradictions accidentally by using tetrachord and counterpoint, and therefore the distinction of the positive/negative meaning is irrelevant.
This paper picks out two cases of contradictions between word and music in Preislied. Firstly, inconsistent rhyming in two Stollens. Wagner puts some stressed syllables of rhyme on the second beat in musical measure in the first Stollen. In order to emphasize the rhyming word ‘Wonnen’ in the seventh line and to put the first stressed syllable ‘nie’ in the next trochaic line on the first beat of the next musical measure, Wagner applies ‘Wonnen’ to whole measure of 3/4 meter and transfers the second stressed syllable ‘(er-)son(-nen)’ of rhyme in the next line to the second beat of the next measure. Additionaly Wagner uses several special words, which have two stressed syllables ― Wunderbaum, Liebestraum, Paradies and so on ― and whose second syllable is a rhyme. These syllables will usually be utterd more weakly than the first, and must be put on the second beat when this word is composed. These are violations of the rule of putting a rhyming word on the first beat of musical measure. Wagner’s conclusion here is that it is important for artistic expression to be flexible in conventional regulation but not to obey blindly.
Another is the contradiction between the principle of lied and of leitmotif technique in Abgesang. Music
constructs a A―B―A’ form (=da capo form), but the words do not necessitate the A’ section, because the text,
‘die, dort geboren, mein Herz erkoren’, is iambic, but not dactyl, which is applicable to 3/4 meter. So Walther sings a chromatic countermelody, and the orchestra leads musical development using a motif based on the vocal melody in A section. However it is Wagner’s lie that Walther sings a contermelody, because Meistergesang is primarily a song by one voice. In other words, he is singing in A’ section of Abgesang and also is not. It is also Wagner’s fiction that people and meisters praise the Preislied. We are tricked by his lie, too.
One of the results of Preislied in Die Meistersinger is that ignorant people and conventional meisters can’t understand the real meaning of art. And it is a severe irony for them not to notice that its artistry is a fiction, and for us too. This article claryfies that several combinations of ‘old’ or ‘older’ methods bear the ‘new’
sonority of Die Meistersinger.
ヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》における詩のメロディー
―〈栄冠の歌〉における言葉と音楽の関係の分析―
稲田隆之
リヒャルト・ヴァーグナー Richard Wagner(1813―83)は、「古くて新しい」技法を駆使すること で楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー Die Meistersinger von Nürnberg》を創作した。しかし、
「古くて新しい」技法の実態はそれほど明らかではない。というのも、実際、全音階法、対位法、
コラールといった「古い」手法が前面に現れており、「新しさ」が抽出しにくいためである。
本論は、《マイスタージンガー》の「古くて新しい」手法を明らかにするため、第 3 幕の歌合戦 で歌われるヴァルター・フォン・シュトルツィングの〈栄冠の歌 Preislied〉を取り上げて分析を行っ た。というのも、《マイスタージンガー》の主要プロットのひとつがヴァルターの成長物語であり、
この〈栄冠の歌〉はその最終結論として披露されるものだからである。
また本論は、これまでの筆者による一連の「詩のメロディー」研究の続きをなすものである。そ こで〈栄冠の歌〉における言葉と音楽の関係を分析し、《マイスタージンガー》における「古さ」
と「新しさ」の関係について考察した。分析の基本的手法は、言葉と音楽の矛盾を抽出することで ある。《マイスタージンガー》における両者の矛盾は、これまでのヴァーグナーのオペラとは異な るかたちで現れている。たとえば、これまでの作品では、伝統的な韻律法によるテクストと結びつ く音楽の 4 小節フレーズが崩れた場合、両者の矛盾とみなしてネガティヴな意味を抽出することが 可能であったが、詩行の長さが不統一な伝統的な韻律法によるテクストによる《マイスタージン ガー》ではそれが必ずしもネガティヴな表現と結び付かない。
くはネガティヴな内容をもつ言葉とポジティヴな音楽の響きが結びついている場合、両者の矛盾と 捉えられるが、《マイスタージンガー》の場合、言葉も音楽もその意味内容がポジティヴかネガティ ヴか明確に見極めることが難しい。むしろ常にポジティヴな意味とネガティヴな背中合わせになっ ているのが、《マイスタージンガー》というオペラの特徴でもある。
ヴァーグナーは《指環》と《トリスタン》において、言葉の強音節がとる音と背景の和音構成音 との関係をも、ドラマ的表現手段として徹底的に活用した。特に歌唱旋律が非和声音をとる場合、
極めてネガティヴな意味が込められていると考えられるが、《マイスタージンガー》ではそうした 現象がテトラコルドの多用と対位法の駆使によって偶発的に生じているため、この現象もまたポジ ティヴ / ネガティヴの意味を超越している。
本研究により〈栄冠の歌〉には次の 2 つの場合において、言葉と音楽の矛盾を抽出できた。まず、
2 つのシュトレンにおいて生じていた両者の矛盾は、不統一な押韻処理、および押韻箇所の移動で あった。ヴァーグナーは第 1 シュトレンの 7・8 行目の押韻処理の際、脚韻を踏む強音節を 7 行目 では 4 分の 3 拍子の 1 拍目に、8 行目では 2 拍目に置いた。その理由は、7 行目詩行末の言葉
「Wonnen」を 1 小節使って強調したかったためであり、8 小節目がトロヘーウス詩行であることか らその冒頭の言葉を 1 拍目に置きたかったためである。押韻箇所の移動とは、脚韻に当たる強音節 を弱いアクセントをもった単語に意図的に当てることにより、押韻処理を 1 拍目から外す処理のこ とを指す。「Wunderbaum」と「Liebestraum」のように 2 つの強音節をもった言葉の場合、2 つめの 強音節が弱めに発語されることになる。そのため音楽化の際には、それらの強音節は 2 拍目に移動 することになる。以上は、押韻する言葉を音楽の 1 拍目に置くという規則から外れる。ここでヴァー グナーが意味しているのは、芸術表現にとって重要なのは、因習的な規則にがんじがらめになるの ではなく、柔軟であるべきだ、ということであろう。
一方で、アプゲザングで生じていた言葉と音楽の矛盾は、歌曲の原理と示導動機技法の原理との 間で生じていた。アプゲザングは「A − B − A’」の 3 部形式(≒ダ・カーポ形式)をとろうと音 楽自体が展開しているのだが、言葉には「A’」セクションを形成するための根拠がない。という のも、ヴァルターが歌うテクスト「die, dort geboren, / mein Herz erkoren」はヤンブスであって、3 拍子に適したダクテュルスではないからである。この「A’」セクションでヴァルターが歌うのは、
「A」における半音階下行の対旋律である。そしてオーケストラは「A」の歌唱旋律の基づく示導動 機を展開させ、音楽展開の主導権を握る。
ヴァルターが対旋律を歌うこと自体がすでにヴァーグナーによる嘘である。ヴァルターはアプゲ ザングの「A’」セクションに入ると、歌っていながら歌っていない。〈栄冠の歌〉では、当然民衆 もマイスターたちも賞賛の声を上げるわけだが、これもまたヴァーグナーによる虚構である。この 虚構にわれわれ観客も騙されている。
《マイスタージンガー》のプロットのひとつがヴァルターの成長物語であるとすれば、この〈栄 冠の歌〉は彼の成長の証であり、またこのオペラの結論のひとつでもある。〈栄冠の歌〉が《マイ スタージンガー》のドラマの結論のひとつだとすれば、それは、芸術の真の意味は蒙昧な民衆や因 習的なマイスターたちには分からない、ということであろう。それ以上に、その芸術が虚構である ことに気付いていない、というのが痛烈な皮肉になっている。もちろんそれは、われわれ観客に対 する皮肉でもある。《マイスタージンガー》の「新しい」響きは、さまざまに「古い」手法を組み
合わせることで生まれている。