論文内容の要旨
研究目的
我が国の高齢化は進行しており,2000年より施行した介護保険制度の受給者は増加し,介護給付 費も増大している(厚生労働省老健局,2016).2006年の改正介護保険制度では,運動機能向上な ど日常生活の維持向上を目的とした介護予防に重点が置かれた(厚生労働省,2014).要介護状態を 引き起こす原因の1つに転倒がある.したがって,運動機能の向上を図り,転倒予防を進めることは , 高齢者の生活の質(QOL)を高めるための一助となることが期待される.
我が国では,介護予防策として運動器機能向上教室などが行われ,転倒予防効果が報告されている.
また,運動教室が終了した後も運動継続を促すために,自主グループ運営や,専門家によるフォロー アップ教室などが進められ,運動継続の効果も報告されている.しかし,運動器機能向上教室を終了 して6ヶ月後や1年後には,約半数以上の者が運動を中断している(みずほ情報総研株式会社 , 2014).高齢者は加齢変化により,筋全般の萎縮と筋力低下,視覚や聴覚の低下,神経系や心血管系 , 認知機能の低下など,姿勢制御にかかわる様々な変化がみられ(Thornby,1995),運動を中断して しまうと不活発な生活による廃用症候群を引き起こし,転倒リスクをさらに高め,QOLにも影響を 及ぼしかねない.以上のことから,時間の制約や地理的特性,運動意欲の程度などの個人的特性の影 響が最小限となり,日常生活で付帯的に取り組める運動方法を提案し,転倒予防効果を介入研究によ って検証する必要がある.介入効果が認められた場合,家庭で継続的に実施可能な方法としての示唆 を得ることができる.そして,簡易に運動を続ける方法を提案することは,健康寿命の延伸や生きが いある社会生活を支えることにつながり,高齢者の健康と福祉の向上に役立つことが期待される.
したがって本研究では,効果が報告されている運動を,日常生活活動に付帯的に取り入れる方法を 提案した.また,高齢者の転倒原因の多くは,つまずき等の不意に外乱刺激を受けた際に,姿勢制御 が素早く適切にできないため(眞野,1999)である.本研究では,この高齢者特有の転倒課題に着 目し,末梢神経系から中枢神経系に渡る情報伝達,処理能力の低下といった複数の転倒要因から複合 的転倒予防策を提案し,転倒予防効果を介入研究によって検証することを目的とした.
1 氏 名 小橋 拓真
博士の専攻分野の名称 博士(社会福祉学)
学 位 授 与の 日 付 2020年 3月19日
学 位 授 与の 要件 学位規則第4条第1項該当
学 位 論 文 題目 地域在住高齢者が家庭で実践できる複合的転倒予防策の提案 -転倒予防にかかわる身体的要因からの考察-
論 文 審 査 員 主 教授 査 正野 知基
副 査 教授 髙橋 睦子 副査 教授 小川 芳徳 副査 教授 川 順子﨑
副査 教授 石原 一成(福井県立大学)
研究方法
【研究1】「足趾把持筋力トレーニングによる足趾・扁平足の接地状態の改善と転倒予防効果の関
連」
対象者142名を,浮き趾群80名と接地群62名に分けた.浮き趾群で,1年間自宅でタオルギャザ ー体操を行う介入群40名,行わない非介入群40名,同様に接地群で,介入群31名,非介入群31名 とした.転倒件数,足型の測定,足アーチ高率,扁平足の判定,Functional Reach Test (以下,
FRT),総軌跡長・外周面積・短形面積による重心位置(バランスコーダBW-6000,アニマ株式会
社を使用)について介入前後で比較した.
【研究2】「床マーキングトレーニングによる認知情報処理能力賦活と転倒予防効果の関連」
対象者118名を,自宅にて1年間の床マーキングトレーニングを行う介入群59名とトレーニング を行わない非介入群59名に分けた.転倒件数,注意機能のテスト(Trail Making Test A:以下,
TMT-A),認知機能検査(Mini-Mental State Examination:以下,MMSE),二重課題条件下歩 行(dual-task 歩行:以下,DT 歩行)と10m 自由歩行(single-task 歩行:以下,ST 歩行)の歩 行に要する時間差⊿歩行時間,二重課題条件下歩行について介入前後で比較した.
【研究3】「立位や歩行活動時に重錘負荷による固有受容器の賦活化と転倒予防効果の関連」
対象者108名を,立位あるいは歩行中の日常生活動作において10分から20分程度,約1kgのウ ェ イ ト ジ ャ ケットを着用 す る 介入 群 55名,着用し な い非介 入群 53 名に分け た .転 倒件数 , FRT,Timed Up and Go Test(以下TUG),総軌跡長・外周面積・短形面積による重心位置(バ ランスコーダBW-6000,アニマ株式会社を使用)について介入前後で比較した.
結果
研究1では,浮き趾群および接地群ともに,タオルギャザー体操を実施した介入群のみ,足アーチ 高率・FRT・足趾荷重量の有意な向上と,総軌跡長・外周面積・短形面積・転倒件数に有意な減少が 認められた.また,接地群の介入群のみ,扁平足の有意な減少と到達型の有意な増加が認められた.
研究2では,介入群のみ,TMT-Aの回答時間の有意な短縮や,MMSEの有意な向上と,課題歩行と 自由歩行の時間差である⊿歩行時間や,転倒件数の有意な減少が認められた.研究3では,介入群の み,FRTの有意な向上と,TUG・総軌跡長・外周面積・短形面積・転倒件数の有意な減少が認められ た.
考察
研究1では,椅子座位での生活活動時に付帯的にタオルギャザー体操を行うだけでも,足趾の接地 状態の改善や転倒件数減少などの転倒予防効果が認められた.足趾の接地状態が改善されることで,
前方動的姿勢制御や支持基底面の形成,体性感覚入力の働きが促され,姿勢制御能の向上が示唆され た.研究2では,日常的な生活活動の動線上に認知的な負荷を与える課題歩行に取り組むだけでも,
注意機能改善や転倒件数減少などの転倒予防効果が認められた.課題遂行のために前頭連合野を中心 とした認知情報処理が賦活化され,効果的な姿勢制御能や歩行運動時の適切な修正動作などが獲得さ れたと推察された.研究3では,立位や歩行中の日常的な生活活動時に10分から20分程度,約1kg のウェイトジャケットを着用するだけも,姿勢制御能の改善や転倒件数の減少などの転倒予防効果が
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認められた.重錘負荷による圧縮刺激が,腰部椎間関節やその周辺の筋や腱にある固有受容器に機械 的刺激を与えることで,固有受容器の感度が向上して脊髄や小脳などへの求心性の情報入力を活性化 し,姿勢制御能が向上したことが推察された.
我が国では,70歳を過ぎると,それまで運動習慣を継続していても,運動を続ける者は減少傾向 にある.また,高齢者は不活発な生活を送ると廃用症候群が進行し,寝たきりとなるリスクが高まる.
さらに,加齢変化による体力低下は,施設入所率や生存率に関わる.日常生活の中で付帯的に取り組 める運動方法が,これまで続けてきた運動の代替となり,高齢者の介護予防に貢献することが期待で きる.本研究における対象者は65以上の高齢者であるため,不活動状態が続けば,老化による衰退 現象により運動にかかわる機能が低下することが予想される.したがって,1年間の介入を経て,転 倒予防効果が認められたことは,継続して取り組んだ結果であることが示唆された.本研究で提案し た3つの運動方法は,時間の制約や実施場所の指定がなく,簡易に取り組める転倒予防策であったこ とが継続実施につながったと推察された.
結論と今後の課題
本研究では,家庭で実践できる転倒予防策として,トレーニングのための時間や実施スペースの確 保など,運動継続が困難となる理由を踏まえ,さらに,不意の外乱刺激に対して姿勢制御が素早く適 切にできないという高齢者特有の転倒課題に着目し,複数の転倒要因を課題とした複合的転倒予防策 を提案し,転倒予防効果を介入研究によって検証した.その結果,転倒予防効果が認められ,運動を 継続するための示唆が得られた.本研究で提案した運動は,家庭での日常生活の中で取り組むことが でき,介護予防や健康寿命延伸だけでなく趣味活動や生きがい,社会参画など個人の慣れ親しんだ生 活習慣が維持され,高齢者がその人らしく生活を送るために必要な QOLの維持・向上の一助となる ことが期待できる.
今後の課題として,より汎用性の高い転倒予防策を提案するために,運動負荷量や重錘負荷量など を適正に処方できるように,性差,身長や体重などの体格差を考慮した研究を行う必要がある.また , 末梢神経系と中枢神経系の連携を向上させる運動に加え,深層筋群や下肢筋群などの筋力トレーニン グを導入し,日常的な生活活動に取り入れられる形で提案する必要がある.さらに,介入群の介入期 間中の運動実施についてより正確に評価するために,日々の実施状況や感想などを記録して検証する ことも必要である.実際に家庭で継続できるかどうかについて検証するために,介入期間終了後に追 跡調査を行うことも必要であろう.
【発表論文】
小橋拓真・正野知基(2018)「高齢者の転倒予防のための家庭でできる二重課題歩行によるアプロ ーチ-床マーキングトレーニングによる認知情報処理能力賦活と転倒予防効果の関連からの考察」
『ウォーキング研究』22,35-40.
小橋拓真・正野知基(2019)「地域在住高齢者が自宅で取り組める足部の形態改善と転倒予防を目指 した運動介入-足趾把持筋力トレーニングによる足趾・扁平足の接地状態の改善と転倒予防効果の 関連からの考察-」『最新社会福祉学研究』14,57-69.
小橋拓真・正野知基(2019)「高齢者の転倒予防のための家庭でできる重錘負荷によるアプローチ 3
-立位や歩行活動時に重錘負荷による固有受容器の賦活化と転倒予防効果の関連からの考察-」
『ウォーキング研究』23,25-32.
論文審査結果の要旨
1.論文の内容
地域在住高齢者を対象とした運動教室等での転倒予防効果が報告されているが,運動教室終了1年後 までには約6割の者が運動を中断している現状がある.老化は,運動等の介入がなければ進行する衰退 現象であり,不活動による身体機能低下のために生活活動が狭小化することが予想される.したがって, 運動機能向上の支援は,高齢者がその人らしく生きがいのある生活を送るため(QOLの向上)の一助 となることが期待される.そこで,日常の生活活動の中で簡易に取り組める転倒予防策を考案するにあ たっての基礎的資料を得ることを目的として,運動効果が明らかにされているものの中から日常の生 活活動に付帯的に取り入れられる3つの方法を考案し,実際にその方法を用いた1年間の介入を行い転 倒予防効果が得られるか検証した.
その結果,以下のような知見(主なもの)が得られた.
①普段の生活活動に付帯的に足趾把持筋力トレーニングを実施するだけでも,姿勢制御能の改善が示 唆され,転倒予防効果が認められた.
②日常生活動線上に床マーキングエリアを設け,そこに立ち入った際に二重課題トレーニングを行う ことで,注意機能の向上や転倒予防効果が認められた.
③日常的な立位や歩行の活動中にウエイトジャケットを着用して重錘負荷を受けるだけでも,転倒予 防効果が認められた.
本研究では,日常の生活活動に付帯的に取り組める方法を考案し,介入によって転倒予防効果を認め た.この個人のライフスタイルに大きく干渉しない運動方法であれば,家庭で継続的に実施可能な転倒 予防策として,高齢者がその人らしく生きがいのある生活を送るため(QOLの向上)の一助となるこ とが期待できる.
2.評価
高齢者を対象とし,各自が家庭で実施する1年間の介入研究という性格上,方法の一部に厳密さを欠 く部分が認められた.また,論文中において段落の構成および文章中の誤字・脱字等の修正が必要な部 分が散見された.しかし,日常の生活活動に付帯的に取り入れられる3つの方法を考案し,実際にその方 法を用いた1年間の介入によって転倒予防効果を検証したことは評価できる.また,今後も研究のさら なる発展を期待することができ,本論文は一定の水準に達していることが認められた.
3.口頭発表(公聴会)ならびに口頭試問の評価
公聴会における発表は,論文内容を明瞭に表現し,指定された時間内での報告が行われた.質問に対し ては即座に応答し,概ね的確に回答されていた.その後の,審査委員5名による専門委員会の口頭試問に おいても概ね的確に回答されていた.不十分であると指摘された点については,最終的な論文の修正に おいて対応するとした.
4.審査結果
審査委員全員一致により,本論文は博士論文に値するものとされ,「合格」と評価された.
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