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近世大和国幕領における皆石代納制の展開過程

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

近世大和国幕領における皆石代納制の展開過程

著者 本城 正徳

雑誌名 高円史学

巻 21

ページ 1‑28

発行年 2005‑10‑01

その他のタイトル Development processes of 皆石代納制 in the

Early‑Modern Yamato shogunal territories

URL http://hdl.handle.net/10105/8834

(2)

近世大和国幕領における皆石代納制の展開過程

は じ め に

本     城     正     徳

近世大和国の幕領にあっては︑一国幕領全体に共通する貢税制度として︑皆石代納制=皆銀納制が採用されていた︒すな

わち︑大和国の幕領村々においては︑村1領主 ︵幕領代官︶段階において︑米納形態がとられず︑基本的にはその年の年貢

米のすべての部分が石代納=銀納で納入されていたのである︒

筆者は前稿において︑関連する研究史の批判・検討をふまえつつ︑こうした大和国幕領皆石代納制が︑延宝四︵一六七六︶

A l し

年の奈良町渡米制の廃止を重要な画期として成立することを明らかにした︒すなわち︑そこでは①幕府直轄都市である奈良

くんなか

に対しては寛永十一︵一六三四︶年以降︑都市保護・優遇政策として︑国中幕領︵奈良盆地に位置する幕領︶からの疲米制

︵年貢米の一定部分を奈良奉行所の統轄のもと直接村方から各町へ引き渡し︑その渡米代銀は各町から代官所へ上納される︶

が採用されたが︑渡米代銀の上昇=負担の増大を背景に奈良町町人側から延宝四年に渡米制の廃止が出願されること︑②幕

府は町人側の要求を認め利用する形で︑従来の渡米代銀の水準のまま︑国中幕領の六分米を︑実際に奈良町渡米とされた以

(3)

外の部分をも含め︑まるごと銀納化すること︑③その意味において︑六分米銀納制の成立は︑再度の都市優遇政策であると

同時に︑こうした都市政策とセットになって実施された亘租増徴政策であること︑④吉野郡幕領にあっては︑すでに延宝期

以前から皆石代納制が採用されていたとみられ︑渡米制廃止の翌年延宝五年から実施された国中幕領における六分米銀納制

が︑大和国一国規模での幕領皆石代納制の制度的成立を意味していること︑等を指摘した︒

本稿では︑以上の考察をふまえつつ︑延宝五年の成立以降︑大和国幕領皆石代納制が︑どのような展開過程をとげるのか

を考察してみたい︒その際の主たる分析視角は︑第一に皆石代納の形式=名称であり︑第二に皆石代納の石代値段および石

代値段仕法のあり方︑という二点である︒この二つの分析視角に関しては︑それぞれに関連する先行研究や自治体史等の記

述が存在する︒しかし︑従来の諸研究にあっては指摘は部分的なものにとどまる場合が多く︑展開過程の全般的な把握は十

分には果たされていないといってよい︒とりわけ︑時期的にみた場合︑皆石代納制成立期の十七世紀後半から十八世紀初期

の研究は乏しく︑たとえば︑石代値段の推移といった事実関係のレベルの問題についてすら不明な部分が多く残されたまま

となっている︒また地域的にみた場合︑先行研究は国中幕領を主対象にしており︑吉野郡幕領が十分視野の内に含まれてい

るとはいいがたい︒一国幕領全体としての皆石代納制の展開過程を問うならば︑国中幕領のみならず吉野郡幕領のあり方や

両者の関連性も十分に考慮される必要があろう︒

本稿では︑まず第一節では石代納形式の視角から︑ついで第二節では石代値段・仕法の分析視角から考察を進めるが︑そ

の際︑以上のような問題点について十分に留意をし︑大和国幕領皆石代納制の展開過程の把握を試みたいと考える︒

(4)

一 皆 石 代 納 の 形 式

= 名 称

︵一︶延宝五年〜元文四年の形式

皆石代納の形式という視角からみたとき︑大和国幕領皆石代納制は九分米銀納制が採用される元文五︵一七四〇︶年を画

期として︑大きく二つの時期に区分することができる︒ここではまず︑皆石代納制が成立する延宝五 ︵一六七七︶から元文

四年に至るまでの納入形式から考察していきたい︒

さて︑この時期における一国規模での皆石代納制のあり方を示す史料として注目されるのが︑貞享五 ︵一六八八︶年に大

. ・

1

和国六郡︵添上・平群・山辺・城上・宇智・吉野郡︶ の幕領から奈良代官に提出された次のような願書である︒

一去卯︵貞享四年−筆者註︶之御物成銀︑不残︑当五月切皆済切可仕之旨︑被為仰付奉畏候︑併当国之儀︑国中之分︑三

分一銀・十分一大豆銀者︑其年之内上納仕候︑六分米之儀︑先年者︑奈良之町人江三分一御直段︒銀弐匁高︒御借付被

成︑翌年極月切皆済仕候処l三十二年以前︵延宝四年−筆者註︶鈴木三郎九郎様︵奈良代官1筆者註︶御支配之時分︑

町人中より御公儀様江ノ御訴訟申上︑其後百姓共江町人なミニ被為仰付候而︑前年之六分米代銀︑明ル年之十月霜月迄

皆済仕来申候︑然処︒︑従当年五月切こ被召上候而ハ︑相当申候而上納可仕手立存寄無御座︑百姓難儀仕候間︑前々之

通上納仕候様︑奉願候御事

一書野郡之儀者︑失規より草を伐替申候而︑三分二米上納仕来申候故︑前年之御物成代︑明ル六・七月迄こ皆済仕候︑依

之︑三分一御直段銀壱匁高︒上納仕候︑然上︑五月切こ被召上候而ハ︑何を以上納可仕存寄一円無御座候間︑如跡々之・

七月迄二皆済仕候様︑奉願候御事

右之通︑前々より国中ハ︑前年之六分米代銀︑明ル十月・霜月迄上納仕︑吉野郡之儀ハ︑前年之三分二米︑明六・七月

(5)

表1 免状の皆石代納形式

年   次 村   名 皆  石  代  納  内  訳 代 官 名

①延宝 8 ( 1680) 吉野郡田原村 十分一大豆金納 三分一米金納 三分二米金納 国領半兵衛

②元禄 7 (1694) 式上郡辻村 十分一大豆銀納

′ ′

三分一銀約

三分一米銀納

三分一錠納

定銀納米納 長谷川六兵 衛

③   8 ( 1695) 宇陀郡下竹村 米銀納 ?

④   8 ( ′ ′)

⑤   8 ( 〝 )

⑥   8 ( 〝 )

( 9   8 ( )

( 診   9 ( 1696)

⑨  11 ( 1698)

′ ′  春 日村   才 ヶ辻村

′ ′  神末村   小長尾村

〝  下桧牧村

葛下郡 古瀬村 六分米銀納

金丸又左肘 1・小野半之助

⑩  13 ( 1700)

⑪  15 ( 1702)

吉野郡 長漁村 平群郡底隆寺村

三分二米銀納 米銀納

辻弥五左衛門

⑫  16 ( 1703)

⑬  16 ( )

吉野郡三尾村 宇陀郡神末村

三分一米銀納

三分一銀納

三分二米銀納

米銀納 雨宮庄九郎

⑱宝永 2 ( 1705) 十市部 新貧村 桜井孫兵衛

⑮   2 ( 〝 )   葛本村

三分二米銀納

金丸又左衛門

⑬   4 (1707) 吉野郡 四村 三分一米銀納 辻弥五左衛門

⑰正徳 4 (1714) 葛下郡大谷村 三分一銀納

三分一米銀納

三分一銀納

三分一米銀納

六分米銀納 竹田書左衡門

⑩   5 (1715) 平群郡宮堂 村 米銀納 ?

⑩   5 ( 〝 ) 十市部新木 村 六分米銀納 竹 田喜左衛門

⑳享保元(1716) 平群郡五百 井村 米方銀納 石原新十郎

①   元( 〝 ) 吉野郡小村 三分二米銀納 辻弥五左衛門

⑳   5 (1720) . 轟上郡蔵之庄村 米銀納 室七郎左衛門

⑳   5 ( ′ ′ ) 式下郡 西代村 米方銀納 上林又兵衛

⑳   5 ( 〝 ) 十市郡 出台村 米銀納

米方銀納

六分方銀納

間宮三郎左衛門

⑳   5 ( 〝 ) 式上郡黒崎村 ?

⑳   6 (1721) 宇陀郡五座付 三分一銀納 増井弥五左衛門

⑳   6 ( ) 平群都南畑村 三分一米銀納 角倉与一

⑳   7 (1722) 宇陀郡黒岩村 三分一銀納 増井弥五左衛門

⑳   9 (1724)

⑳  10 (1725)

⑳  12 (1727)

葛下郡林堂村 十市郡八集村 吉野郡堂原村

三分一米銀納 米銀納

三分二米銀納

米方銀納

会田伊右衛門

石川伝兵衛

⑫  12 ( ) 十市郡新賀村 幸田善太夫

⑳  14 (1729) 吉野郡向加名生村 原新六郎

◎ 元文元(1736) 式下郡癌貴寺村 久下藤十郎

⑳   2 (1737) 平群都度隆寺村 角倉与一

⑳   4 (1739) 葛 下郡土庫村 三分二米銀納 預所 (高取藩)

⑰   4 ( ′ ′) 高市郡常門村 花井庄九郎

註)出典は以下の通り。①村田幸治「近世初期免状の一事例」(『花園史学』第5号、1984年)、②⑳『桜井市 史』史料編下巻898〜899・452〜454頁、③村田幸冶「和州宇陀郡下竹村の重視について」(『花園史学』第 3号、1982年)、④⑤⑳『改訂大宇陀町史』史料編第2巻79−83責、⑥⑬F御杖村史J158〜162真、⑦ r曽爾村史」115〜116頁、⑧F榛原町史』160頁、⑨『大和古瀬村近世文書』275〜276頁、⑩⑳『黒庵村 史』100〜104頁、⑪『斑鳩町史』424頁、⑫①r東吉野村史』史料編上巻203〜209頁、⑭⑳本文註(7)森村 家所蔵文書(植原市立図書館架蔵写真版)、⑮⑳⑳『橿原市史」史料編第3巻826・287・539〜540頁、⑯ F大和下市史』続編262〜263頁、⑰⑳『改訂大和高田市史』史料編691・447〜449頁、⑱⑳浅野安隆『近 世大和の身分制』166〜167貢(部落問題研究所、1999年)、⑩⑳⑳⑳『田原本町史』史料編第2巻302・

675〜676・374〜375・582−583貢、⑳『改訂天理市史』史料腐第3着122〜123貢、⑳『三郷町史』下巻 556貢、⑳『室生村史』199−201頁、⑳『改訂新庄町史』史料編700〜701亘、⑳『賀名生村史』158頁、

⑳『斑鳩町史』続史料編356〜358頁

−4一

(6)

迄︒上納仕来候処︑当年より五月切皆済被仰付候而ハ︑何とも上納可仕心当一円無御座︑迷惑千万奉存︑惣百姓御訴訟

申 上

候 ︵

略 ︶

すでに前稿で明らかにしたように︑本史料は︑延宝四︵一六七六︶年の国中幕領における奈良町渡米の廃止=六分米銀納

制の成立が︑大和国幕領における一国幕領皆石代納制成立の制度的な画期をなしていることを明示する史料として︑まずは

注目される︒それのみならず本史料は十七世紀後半という成立直後の大和国幕領皆石代納制に関する多くの情報を有してお

り︑当面︑皆石代納の形式という点に着目した場合︑同じく大和国幕領であっても︑国中幕領と吉野郡幕領とでは︑納入形

式の名称に明確な使い分けのなされている点が注目される︒すなわち︑国中幕領の皆石代納﹁三分一銀・十分一大豆銀﹂︑

﹁六分米﹂銀納の三種類の石代形式からなること︑それに対して︑吉野郡の場合は︑﹁六分米﹂銀納ではなく︑一貫して﹁三

分二米﹂銀納と表記されているのである︒この六分米部分の石代納形式=名称の使い分けは︑次節で考察するように︑この

時期の両地域幕領における石代値段仕法の相違と密接に関連する訳だが︑ここでは︑皆石代納成立期︑具体的には貞享五年

までの時期にあっては︑六分米の石代納名称は吉野郡と国中幕領では形式=名称の使い分けが存在していた点を確認してお

き た

い ︒

表1は︑管見の限りではあるが︑元文四年までを対象に︑免状に記載された大和国幕領の皆石代納の形式=名称を一覧表

化したものである︒同一村について複数年の事例が判明し︑同一の石代納名称が使用される場合は︑原則として最古の年次

を表示している︒さてそれによれば︑まず吉野郡では延宝八︵一八六〇︶年段階で︑六分米部分の石代納形式として﹁三分

二米金納﹂の存在が確認でき︑金納と銀納という差異はあるものの︑さきの貞享五年史料の記述を確かめることができる︒

その上でなお以下の四点を表1から指摘しうる︒まず第一点は︑﹁十分一大豆銀納﹂は国中・吉野郡幕領双方に登場する大

(7)

和国幕領に共通した石代納形式=名称であるという点である︒ついで第二点は︑三分一部分の石代納形式=名称は︑吉野郡

では七例すべてが﹁三分一米銀納︵金納︶﹂ で統一されているが︑国中にあっては﹁三分一銀納﹂一七例︑﹁三分一米銀納﹂

一三例と︑両様の表記が併用されている点である︒ただし︑単なる併用ではなく︑国中幕領の ﹁三分一米銀納﹂用例は享保

期以降に集中している点に留意しておきたい︒

さて第三に注目したいのが六分米部分の石代納形式である︒まず吉野郡については︑七例すべてが﹁三分二米銀納︵金納︶﹂

であり︑前述の貞享五年史料にみえる形式=名称が元文期に至るまで使用されていたことがわかる︒それに対して︑国中幕

領についてみると︑貞享五年史料にいう﹁六分米﹂銀納の名称は四例存在するが ︵うち一例は﹁六分方銀納﹂︶︑むしろ少数

派であり︑﹁米方銀納﹂が一六例と最も多く︑ついで﹁米銀納﹂五例︑﹁三分二米銀納﹂四例︑﹁定銀納米納﹂一例となって

いる︒表1に示した国中幕領の最古事例は元禄七︵一六四九︶年である︒これは︑浅野安隆氏がすでに指摘しているように

︵ 1

国中幕領の免状記載において皆銀納が表示されるのが同年以降︵元禄〜享保初年︶ であることによる訳だが︑ここでは︑元

禄七年〜元文四年間の国中幕領六分米部分の石代納形式=名称にあっては︑﹁六分米銀納﹂﹁米方銀納﹂﹁米銀納﹂等の複数

の名称が併用されるようになっていること︑しかし︑全体としていえば︑貞享五年史料ほどには明快ではないにしろ︑吉野

郡幕領の ﹁三分二米銀納﹂とは︑なお一応の使い分けのなされていたことを指摘しておきたい︒もっとも︑国中幕領にあっ

ても︑享保期以降においては﹁三分二米銀納﹂用例が集中している点は注目される︒前述のように国中幕領では﹁三分一米

銀納﹂用例も同時期に集中しているのであり︑事実上︑享保期以降の大和国幕領の免状記載においては︑﹁十分一大豆銀納﹂

﹁三分一米銀納﹂﹁三分二米銀納﹂が︑吉野郡のみならず︑一国に共通する皆石代納の形式=名称となりつつあったことが判

明 す

る の

で あ

る ︒

(8)

表1から指摘しておきたい第四点は︑支配代官による石代納名称の共通性という点である︒表1に判明する範囲で支配代

官名も表示しているが︑たとえば代官金丸又左衛門・小野半之助にあっては﹁三分一銀納・米銀納﹂︵④⑤⑥⑦⑧⑮︶︑代官

竹田喜左衛門にあっては﹁三分一銀納・六分米銀納﹂ ︵⑰⑲︶︑代官角倉与一にあっては︑﹁三分一米銀納﹂﹁米方銀納﹂︵⑳

⑳︶ といったように︑国中幕領においては︑支配代官ごとの石代納名称の共通性︵統一的な名称の使用︶ が認められるので

ある︒さきに国中幕領における石代納名称とりわけ六分米部分の石代納名称の多様性=複数名称の併存を指摘したわけだが︑

この多様性は決して無秩序なものではなく︑当面免状記載についていえば︑支配代官による共通性︵したがって︑代官が交

替すれば同一村でも︑当然名称の変更がおこりうる︶という一定のくくりが存在していたと考えられるのである︒なお︑こ

の支配代官を単位とする石代納名称という点に関連していえば︑代官辻弥五左衛門については︑石代納名称とりわけ六分米

部分のそれを︑ほぼ同時期︵元禄期︶ に吉野郡幕領︵﹁三分一米銀納﹂﹁三分二米銀納﹂⑲⑫︶と国中幕領︵﹁三分一米銀納﹂

﹁米銀納﹂⑪︶ とで使い分けている事実が確認できる点にも留意しておきたい︒この時期における両地域幕領における石代

納形式=名称の使い分けが個別代官レベルにおいても確認できるからである︒

なお︑誌面の頁数の関連から︑詳述することができないが︑以上︑免状記載から指摘しうる四点については︑管見の限り

では︑宝永期〜元文四年間の年貢算用史料︵皆済目録等︶ においても基本的に同様に確認しうることを述べておきたい︒そ

れ以前の時期については延宝八 ︵一六八〇︶年式上郡新屋敷村︑元禄十︵一六九七︶・十六年平群郡東安堵村の三点の算用

史料︵年貢勘定目録等︶が知られるが︑ともに十分一大豆銀納・三分一銀納の形式をとり︑六分米部分については︑三例と

Il

も﹁米納﹂と衷記し︑銀納高と換算相場を併記する形式をとっていることがわかる︒

(9)

表2 南畑村免状・皆済目録記載

年   次 代   官 免  状  記  載 皆 済 目録記 載

延宝 8 (168 0 ) 国領 半兵 衛 三分 一米 金 納 ・米 納

三 分一 銀納 ・米 銀 納 元禄 7 (16 94 ) 石原 新 左衛 門 三 分一 米銀 納 ・米納

8( 1695)

9( 1696)

11( 1698)

14( 1701)

l 宝 永2( + 1705)

6( 1709)

石 原新左 衛門

J l l

7( 1710)石 原新十 郎 l l

享 保5( + 1720) 」 l ㌣ 年 は 1 6( 1721)角倉 与一 三分 一米 銀納・ 米 方銀 納

7( 1722)l = 三 分 一 米 銀 納 ・ 三 分 二 米 銀 納

11( 1726)

+ 元文4( 1739)

l 置 ・ 16]

︵二︶免状=賦課形式と皆済目録=納入形式

以上︑元文四︵一七三九︶年以前における皆石代納の形式に

ついて検討を加えたが︑国中幕領に関しては︑六分米石代納形

式に複数の名称が使用されるなど︑皆石代納の制度的な形式=

あり方が今ひとつわかりづらい︒そこで本項では︑皆石代納の

形式を︑同一村を対象に︑さらに年貢賦課形式=段階と年貢納

入形式=段階に区分しっつ︑改めて考察してみることにしたい︒

まず第一の事例は︑平群郡南畑村である︒同村の場合︑年貢

免 状

は 延

宝 八

  ︵

一 六

八 〇

︶ 年

︑ 皆

済 目

録 は

宝 永

七  

︵ 一

七 一

〇 ︶

年を初見とし︑免状については元文期までほぼ連年にわたって︑

︑U︑

皆済目録については享保期までの十三年分が判明する︒両史料

に登場する名称のうち︑とりわけ問題となる三分一部分・六分

米部分について整理したものが︑表2である︒

それによれば︑①六分米部分についての石代納が確認できる

のは︑免状では享保六 ︵一七二一︶年以降︑皆済目録では宝永

七︵一七一〇︶年以降であり︑皆済目録の方が早いこと︒②免

状では︑延宝八 ︵ハ八〇︶年〜享保五年にあっては︑六分米

(10)

部分は﹁米納﹂と記載されていること︑③免状・皆済目録の記載形式は︑支配代官ごとにほぼ定まっていること︑等が判明

しよう︒③について確認しておけば︑免状のみ残る代官石原新左衛門の元禄七︵一六九四︶年〜宝永六︵一七〇九︶年の問

は﹁三分一米銀納・米納﹂ ではぼ統一されていること︑宝永七 ︵一七一〇︶ 年〜享保五 ︵一七二〇︶年の代官石原新十郎の

時期にあっては︑免状記載は﹁三分一銀納・米納﹂ で︑皆済目録記載は﹁三分一米銀納・米銀納﹂ でほぼ統一されているこ

と︑ついで享保六年〜元文四︵一七三九︶年の代官角倉与一の時期にあっては︑免状記載は﹁三分一米銀納・米方銀納﹂ で︑

皆済目録も﹁三分一米銀納・米方銀納﹂ で︑ほぼ統一されていることがわかる︒

ついで第二の事例は︑十市郡新賀村の事例である︒この新賀村は︑宝永二 ︵一七〇五︶年以降幕領となるが︑以降幕末期

へ 7

に至るまではぼ連年にわたって免状と皆済目録が残されている︒両史料に登場する三分一部分・六分米部分について整理し

たものが表3である︒

それによれば︑①新賀村では︑宝永二 ︵一七〇五︶年以降一貫して免状・皆済目録ともに六分米部分の石代納︑したがっ

て皆石代納が確認することができること︑②免状・皆済目録の記載形式とりわけ六分米部分のそれは︑南畑村の場合と同様

に同一年においても記載形式=名称の異なる場合があること︑③しかし︑この名称の相違︵ズレ︶ は︑同一の支配代官の時

期にあっては固定的であり︑南欄村の場合と同じく︑免状・皆済目録の記載形式は︑支配代官ごとにほぼ決まっていること︑

④享保十三︵一七二八︶年以降の八名の支配代官の時期には︑支配代官の頻繁な交替にもかかわらず︑免状・皆済目録とも

﹁三分一米銀納・三分二米銀納﹂の記載形式=名称が定着していること ︵享保十六年の皆済目録のみ﹁三分一銀納﹂を使用︶︑

がわかる︒②③について確認しておけば︑まず宝永二年〜正徳五 ︵一七一五︶年の代官桜井孫兵衛の時期の免状記載はすべ

て﹁三分一米銀納・米銀納﹂ であり︑皆済目録記載は︑六分米部分の ﹁米銀納﹂二例︑﹁六分米銀納﹂一例を含むが︑﹁三分

(11)

表3 新賀村免状・皆済日録記載

年   次   代   官 免  状  記  載 皆 済 目録 記載 宝永 2 (17 0 5) 桜 井孫 兵 衛 三 分一 米 銀納 ・米 銀納 三分一 米 銀納 ・六 分米 銀納

正 徳 i狛 l l 工 ! : 米 銀 納 享 保 元 3( 4( 2( ( 1716) 1717) 1718) 1719)

遠 山 i十 郎 l l 上 ! 芸 銀 納 6( 1721) 会 田 伊 右 衛 門

i葵= 米納) l 三 三分一米銀納  分 一 J 三 銀 納 」 米納) 二 米 銀 納

+ 三分一銀納   米銀納

12(1727) 石川伝兵衛 ( 三分二米納) 三分一米銀納 ( 三分 二米納)

13(1728) 幸田善太夫

15 ( 1730)=頁新六郎

三分二米銀納 七  三分二米銀納

16 ( 1731) + 三分一銀納

17(1732) 石原半右衛門

18(1733)   +

19(1734) 近山痛右衛門

元文元( 1736) 久下藤十郎

2 (1737) 疋田庄九郎 ・ 千種清右衛門 3 (1738) 花井庄九郎

4 ( 1739)   ★

三分一米銀納

一米銀納・三分二米銀納﹂が基本型と

なっている︒ついで享保元年〜四年の

代官遠山半十郎の時期では︑免状・皆

済目録記載とも﹁三分一米銀納・米銀

納﹂でほぼ統一されていることがわかる

︵ 皆

済 目

録 が

一 例

の み

﹁ 六

分 米

銀 納

﹂ ︶

享保六〜十一年の代官会田伊右衛門の

時期にあっては︑免状記載は﹁三分一

米銀納・米銀納﹂ でほぼ統一されてい 10

ること︑皆済目録は三分一部分は﹁三

分一銀納﹂が︑六分米部分﹁米銀納﹂

がそれぞれ基本型であることが知られ

る︒享保九年の六分米部分が免状・皆

済目録ともに﹁米納﹂と記載されてい

るが︑同様の状況は代官石川伝兵衛の

支配下にあった享保十二年でも確認す

る こ と が で き ︑ 同 年 分 に つ い て は 免 状 ・

(12)

皆済目録ともに﹁三分二米納﹂ の名称が用いられている︒

以上二つの事例から︑当面︑以下の三点を指摘しておくことができそうである︒その第一点とは︑同一村の同一年分につ

いての免状・皆済目録であっても︑三分一部分・六分米部分の石代納形式=名称は必ずしも同一ではない場合がある︑いい

かえれば︑同一年の同一村であっても免状=年貢賦課段階と皆済目録=年貢納入段階における石代納形式=名称は︑それぞ

れ異なっている場合があるということである︒ついで第二点は︑しかしながら︑こうした段階による名称の相違︵ズレ︶ と

いう点を含みつつも︑同一支配代官の時期にあっては︑免状・皆済目録ともに特定の石代納名称が使用される傾向が顕著で

あり︑したがって両者の名称にズレのある場合も︑そのズレは固定的な傾向にあるという点である︒国中幕領の石代納名称

とりわけ六分米部分のそれについては複数の名称が併存しているわけだが︑そこには︑以上のような特徴ないし一定の法則

性が見出せるように患われる︒また︑この点にかかわって確認しておけば︑前項で指摘した支配代官による石代納形式=名

称の共通性とは︑まず厄免状=年貢賦課段階︑皆済目録=年貢納入段階という二つの段階ごとの共通性と理解すべきもので

あり︑必ずしも免状・皆済目録双方の=二つの段階を通じての共通性ではない点に留意しておきたい︒

そして︑指摘しておきたい第三点とは︑南柏村の事例に明らかなように六分米部分の石代納化︑したがって皆石代納を確

認できる記載の登場は︑免状よりも皆済目録の方がより早いという事実である︒南植村では︑延宝八年〜享保五年に至るま

で免状の六分米部分は﹁米納﹂記載のままであり︑享保六年になってはじめて﹁米方銀納﹂と記載されるのである︒免状記

載において皆石代納が明らかとなるのが元禄〜享保初年であるという点は︑すでに述べたように浅野氏の研究で指摘されて

いる通りである︒しかし︑氏の研究では︑この免状記載上における皆石銀納の確認時期︵元禄〜享保初年︑初見は元禄七年︶

をもって大和国幕領皆石代納制の成立期としており︑この点は訂正されなければならない︒国中幕領にあっては︑延宝五年

11

(13)

に皆石代納制が成立するが︑免状記載にそれが明記されるようになるまで︑かなりの時間的なズレが存在していたのである︒

なお︑延宝五年〜元禄六年間における国中幕領の免状記載については︑管見の限りでは︑南畑村の場合と同様に六分米部

分を﹁米納﹂と表記する場合と︑年貢米の納訳︵わけ︶そのものを全く記さない場合と両様存在している︒たとえば︑延宝

七年の式下郡鍵村︵代官国領半兵衛︶・高市郡今井村︵代官同上︶︑延宝八年の平群郡五百井村︵代官同上︶︑・天和元

︵一六八一︶年の葛下郡大谷村︵代官同上︶・山辺郡東井戸堂村︵代官森本惣兵衛︶︑貞享三︵一六八六︶年の菖下郡神楽村

︵︒︒︶

︵代官森本惣兵衛︶等は﹁米納﹂記載例であり︑元禄四年の式上郡脇本村・式上郡馬場村・平群郡法隆寺村︑元禄八年の添

︑ウ︑

上郡奈良坂村︵代官は四例とも竹村八郎兵衛︶等は納訳無記載の事例である︒この場合も︑記載形式は支配代官によって

︵支配代官ごとに︶統一されていたとみられる点を指摘しておきたい︒

︵三︶元文五年以降の形式

以上二項にわたる考察をふまえて︑元文五︵一七四〇︶以降における納入形式をみるとき︑その特徴点として︑以下の二

点を指摘することができる︒

まずその第一点とは︑大和国一国の幕領に共通する石代納形式=名称としての﹁九分米銀納﹂制の成立という点である︒

すなわち︑吉野郡幕領にあっては︑従来の﹁三分一米銀納﹂﹁三分二米銀納﹂が元文五年以降廃止され︑﹁九分米銀納﹂に一

本化=統合されるのである︒この石代納形式の変化は︑国中幕領を対象とする先行研究や奈良県下の自治体史によってもす

︵ 1

0 ︶

でに指摘されているが︑たとえば吉野郡田原村の場合でも︑元文五年の免状から九分米銀納が登場することが確認されるよ

︑ =

うに︑国中幕領のみならず吉野郡幕領をも含みこむ一国幕領全般の変化である点を確認しておきたい︒したがって︑この元

(14)

文五年を画期とする九分米銀納制の登場は︑当然ながら︑個別代官支配をこえるものであり︑各代官支配地において︑同年

を画期にいっせいに実施されていることが知られるのである︒

さてその際︑第二に指摘しておきたい特徴点は︑この九分米銀納の形式=名称は︑元文五年の成立当初より免状=年貢賦

課段階および皆済目録=年貢納入段階の双方に共通する石代納形式=名称として登場しているという点である︒たとえば︑

前掲表3の新賀村の事例では︑元文四年と同五年はともに支配代官は花井庄九郎であるが︑元文四年分の免状と皆済目録は

ともに﹁十分一大豆銀納二二分一米銀納・三分二米銀納﹂ であったものが︑元文五年分については免状・皆済目録が同時に

﹁十分一大豆銀納・九分米銀納﹂ に切り替わっているのである︒

同じく一国幕領皆石代納制とはいっても︑納入形式の側面でみた場合︑元文五年以降の形式は︑それ以前の時期に比して

非常にシンプルになったということができよう︒元文五年以降︑大和国幕領の皆石代納形式=名称は︑国中幕領・吉野郡幕 13

領で相違がなくなるのであり︑また︑免状と皆済目録という年貢賦課・年貢納入という段階による記載形式=名称の差異も

なくなるのである︒こうした状況は︑以降幕末期に至るまで基本的には変化していない︒

二 石代値段と仕法の変化

︵一︶石代値段一覧表と素材について

大和国幕領皆石代納制下における石代値段と同仕法については︑﹁はじめに﹂ でも述べた通り解明が遅れており︑とりわ

け本稿が主対象とする十七世紀後半から十八世紀前半にかけての時期は︑その傾向が顕著である︒そこで︑本節においては︑

まずこの時期の石代値段を具体的に跡づける作業からはじめることとしたい︒

(15)

表4 国中幕領石代値段一覧表(単位:匁)

年   次 十 分 一 大 豆 三 分 一 銭 六 分 米 銀 年   次 十 分 一 大 豆 三 分 一 銀 六 分 米 銀

銀 納 値 段 納 値 段 納 値 段 銀 納 値 段 納 値 段 納 値 段

延 宝 8 (1 6 8 0) 7 7 7 7 7 9 享 保 元 (1 7 1 6 ) 1 7 1 7 1 4 7 3 1 4 8 3

天 和 元 (1 6 8 1) 8 1 8 5 8 0 2 (1 7 1 7 ) 1 7 2 1 4 3 7 1 4 4 7

2 (16 8 2) 7 3 5 5 5 7 3 (1 7 18 ) 3 9 ( ; 38 3 9

3 (1 68 3) 5 7 5 3 5 5 4 (1 7 19 ) 5 3 1 4 7 5 4 8 5

貞 享 元 (1 68 4 ) 5 7 4 7 4 9 5 (1 7 20 ) *2 5 2 9 ネ2 60 1 キ 2 6 1 1

2 (1 68 5) 4 3 4 3 4 5 6 (1 7 2 1 ) 72 6 6 3 6 7 3

3 (1 68 6) 6 5 6 5 6 7 7 (1 7 2 2) 6 3 6 7 6 8

4 (1 68 7) 6 0 6 0 6 2 8 (1 7 2 3) 6 2 5 7 5 8

元 禄 元 (1 68 8) 5 6 5 6 5 3 (5 8 ) 9 (1 7 24 1 56 5 4 8 9 ホ 3 4 9 9

2 (1 6 8 9) 5 9 5 8 5 9 1 1 (1 7 2 6 ) 54 5 5 0 5 1

3 (1 6 9 0) 5 5 5 4 5 5 1 2 (1 7 2 7 ) 55 5 0 . 3 不 明

4 (1 6 9 1) 5 5 5 5 5 6 1 3 (1 7 2 8 ) 58 5 0 5 1

5 (16 9 2) 5 6 5 5 5 6 1 4 (1 7 2 9 ) ネ4 5 3 *4 4 5 ホ 4 4 6

6 (1 69 3) 5 9 5 6 5 7 1 5 (1 7 30 ) 3 5 9 38 * 2 3 9

7 (1 69 4) 6 1 58 5 9 1 6 (1 7 3 1) 4 7 8 4 7 2 不 明

8 (1 69 5) 6 2 6 4 6 5 1 7 (1 7 3 2) 4 9 7 1 7 2

9 (1 69 6) 6 3 6 2 6 3 1 8 (1 7 33 ) 55 4 5 5 5 5 6 5

1 0 (1 69 7) ヰ 1 6 9 ° l T J ホ 1 7 3 1 9 (1 7 34 ) 5 4 0 7 4 5 8 3 4 6 .8 3

1 1 (1 6 9 8) 7 9 7 8 7 9 2 0 (1 7 3 5) ネ4 4 2 6 6 *4 5 0 19 2 ネ 4 5 1 1 9 2

1 2 (1 69 9) 8 1 8 8 8 9 元 文 元 (1 7 36 ) 4 9 2 8 3 5 9 5 8 3 6 0 5 8 3

1 4 (1 7 0 1) 9 0 9 0 9 1 2 (1 7 3 7) 4 5 5 4 2 5 2 . 5 3 5 3 5 3

1 5 (1 7 0 2) 9 5 9 6 9 7 3 (1 7 3 8 ) 10 0 . 4 7 8 9 7 1 28 9 8 1 2 8

i 6 (1 70 3 ) 8 6 88 8 9 4 (1 7 3 9 ) 6 4 3 15 8 0 7 3 8 1 7 3

宝 永 元 (1 70 4 ) 9 1 86 8 7 5 (1 74 0 ) 9 8 倍 志 芸 銀 ]器 6 2

66 . 5 6

2 (1 70 5) 8 5 85 8 6 寛 保 元 (1 74 1) 6 0

4 (1 70 7) 8 8 9 1 9 2 2 (1 7 4 2) 4 7 0 1

5 (1 70 8) 9 3 9 1 9 2 3 (1 74 3 ) 73 69 6 6

6 (1 70 9) 8 7 8 5 8 6 延 享 元 (1 7 44 ) 5 5 6 2 3 9

7 (1 7 1 0) 9 1 8 3 8 4 2 (1 7 45 ) 6 7 74 5 6 3

正 徳 元 (1 7 1 1) 9 3 9 2 9 3 3 (1 7 46 ) 6 9 6 2 9

2 (1 7 1 2) 1 1 4 1 1 3 1 1 4 4 (1 7 4 7) 8 6 68 6 9

3 (1 7 1 3) 1 2 3 1 4 1 1 4 2 竃 延 元 (1 7 48 ) 6 6 2 6 2 5 6

4 (1 7 1 4) 18 4 2 1 8 4 4 1 8 5 4 宝 暦 元 (1 7 5 1 ) 3 7 3 8 54 9 7 9

5 (1 7 15 ) 13 0 4 1 35 6 1 3 6 6 2 (17 5 2 ) 4 7 2 3 4 5 0 9 8 2

註)ヰ1は平群郡東安堵村「御年貢卸勘定日録」(『安堵町史』史料鼠上巻291−293貢)、*2は平群郡南畑村の 年貢算用史料(『三郷町史』下巻637〜641頁)、ホ3は葛ド郡古廟村の皆顔日録(『大和古瀬村近世文書」292 貢)、ホ4は宇陀郡下竹村の皆済日録(村田幸治「和州宇陀郡下竹村の貢租について」(『花園史学』第3号、

1982年))に拠る。そのほかはすへて本文註(7)の11市郡新賀村森村家所蔵文書(勘定日録・皆済目録)に 拠る。

14−

(16)

表4が︑十市郡新賀村の史料を中心として作成した延宝八︵一六八〇︶年から宝暦二 ︵一七五二︶年までのほぼ連年にわ

たる国中幕領における諸石代値段の一覧表である︒表の分析に入る前に︑分析素材について︑まず検討を加えておきたい︒

というのも︑十市郡新賀村は︑宝永二 ︵一七〇五︶以降は幕領となるが︑それ以前の延宝八年〜宝永元年の二五年間は甲府

藩徳川氏領であったことが知られるからである︒甲府藩徳川氏の大和国飛地領五万石は延宝八年に成立し︑甲府藩主徳川綱

⁚ は 1

豊が五代将軍徳川綱吉の養嗣子として江戸城西の丸に入る宝永元年まで存続する︒そして︑この同藩大和国飛地領の貢粗制

度︑当面︑石代納制度は︑基本的に大和国幕領︑この場合国中幕領のそれと同一であったことが判明するのである︒以下︑

三点にわたり︑その基本的な論拠を示しておきたい︒

まず第一の論拠は︑この延宝八年〜宝永元年間の各年次における新賀村への年貢賦課形式=免状記載形式および年貢算用

形式=勘定目録記載形式が︑基本的に当該期における国中幕領それらと同一であるという点である︒まず年貢算用形式から B

いえば︑本途物成部分については延宝八年以来貫して︑﹁十分﹁杢旦銀納﹂・﹁三分二米銀納﹂︵史料の存在する二三年分のー

うち九年分は﹁三分一米銀納﹂︶・﹁六分米銀納﹂︵延宝八年は﹁米納﹂︑天和元︵一六八一︶年〜貞享元︵一六八四︶年は

﹁六分米﹂として銀納値段を記載︶となっており︑国中幕領と同様の三種の石代納による皆石代納制が実施されていること

が確認できる︒それに対して免状記載の方は︑これまた国中幕領の免状の一般的状況と同じく︑延宝八年〜元禄六︵一六九三︶

年の問は本途物成部分の内訳記載がなく元禄八年に至ってはじめて﹁十分一大豆銀納﹂﹁三分一米銀納﹂﹁六分米銀納﹂とい

う区分が登場しているのである︵以下宝永元年まで基本的に同じ︒元禄十六年以降二カ年のみ﹁三分一銀納﹂表示となって

い る

︶ ︒

ついで第二に注目されるのは︑これら諸石代納の値段が︑当該期の大和国幕領あるいは畿内幕領における諸石代納値段と

(17)

一致するという点である︒まず十分一大豆銀納値段︵以下︑十分一値段とよぶ︶と三分一銀納値段︵以下︑三分一値段とよ

ぶ︶ については︑表4に示した貞享元・元禄元・同三・同四・同六年の五力年分の十分一値段・三分一値段が︑それぞれ各

︵ 1

3 ︶

年次の ﹁五畿内﹂幕領の十分一値段・三分一値段と同一であることが確認できる︒貞享元年から元禄元年にあっては︑﹁京︑

大坂︑伏見︑大津米・大豆相場書︑御勘定所江差遺し候以後︑直段之儀︑江戸占相極り来候︑但︑三分一と中も拾分一と申

候も同事候﹂と説明されており︑この時期の大和国を含む五畿内幕領三分一・十分一値段は︑同一に設定されていたこと︑

また両値段はともに︑京︑大坂︑伏見︑大津の相場を基準とし︑それらを勘案した上で︑江戸︵勘定所︶ で決定され︑通達

‖. されていたことがわかる︒幸い和泉国幕領については︑延宝八年〜宝永元年間の十分一値段・三分一値段が明らかにされて

おり︑表4の十分一値段・三分一値段は︑表示したすべての年次において︑この和泉国幕領したがって五畿内幕領の十分一

︵ 1

5 ︶

値段・三分一値段と一致することを確認することができる︒

つぎに︑表4に示した十分一値段・三分一値段・六分米銀納値段︵以下︑六分米値段とよぶ︶ については︑延宝八・元禄

十六年の二年分について︑大和国幕領におけるこれら諸値段と一致していることが︑式下郡新屋敷村および平群郡安堵村の

︵ 1

6 ︶

年貢算用史料から確認することができる︒さらに︑表4に示した六分米値段については︑元禄十二年分について︑大和国幕

︼ 肋 荊

領の ﹁六分米﹂石代納値段︵﹁御公儀様︑六分御直段﹂とも記されている︶と一致することが確かめられるのである︒

ついで第三に注目すべきは︑元禄十五年以降︑甲府藩徳川氏の大和国飛地領代官として十市郡新賀村に対して年貢免定を

発給していた桜井孫兵衛が︑新賀村が飛地領から幕領に移行した宝永二 ︵一七〇五︶年以降についても︑幕領代官として年

貢免定を同村に発給しており︑この状態は︑新賀村を支配する次期幕領代官 ︵遠山半十郎︶ が赴任する前年の正徳五

︵一七一五︶年まで継続しているという事実である ︵森村家文書に拠る︶︒そしてその際︑この元禄十五年〜正徳五年の問に

16

(18)

桜井孫兵衛から新賀村に発給された年貢免状は︑その構成や史料文言において基本的に同一であり︑幕領移行の前後に基本

的な変化は認められないという事実をあわせて確認しておきたい︒さきに第一点として新賀村における年貢免状︵および勘

定目録︶ の国中幕領との同一性を指摘した訳だが︑桜井孫兵衛支配下にあっては︑それは同一代官の継続という今ひとつの

重要な事実と重なる形で確認されるのである︒

以上︑甲府藩徳川氏大和国飛地領と国中幕領の問には︑①年貢賦課と算用形式︵とりわけ諸石代納形式︶ の共通性︑②諸

石代値段の一致︑③支配代官の継続という諸事実が認められることを確認した︒これらの諸事実は︑延宝八年から宝永元年

の間に存在した甲府藩徳川氏大和国飛地領貢租制度︑当面︑皆石代納制度が︑当該期の大和国幕領のそれと基本的に同一で

あったことを示しているといってよいであろう︒より正確にいえば︑延宝八年に成立する甲府藩徳川氏大和国飛地領では︑

大和国幕領においてすでに実施されていた皆石代納制を︑基本的にそのままの形で採用していたと考えられるのである︒

なお︑﹃今井町史﹄によれば︑延宝八年〜宝永元年間に大和国に存在した甲府藩徳川氏飛地領は﹁桜田御料﹂とよばれた

こと︵﹁桜田﹂の名称は︑藩主徳川綱豊が将軍連枝のため甲府城に入らず︑江戸城の桜田御殿に居住していたことに由来す

る︶︑延宝八年以降同藩飛地領となった高市郡今井村の年貢率は同年以前の幕領期の前例に準拠していたこと︑等が指摘さ

れている︒この﹃今井町史﹄では︑より明快に︑支配関係における﹁桜田御料﹂期を︑諸藩による預所の時期と同様に︑幕

領支配の一形態として説明しているのだが︑少なくとも貢税制度︵皆石代納制度︶ に関しては︑幕領と同一と考えてよいと

︵ 1

8 ︶

患 わ

れ る

17

(19)

︵二︶延宝五年〜元禄元年の石代値段・仕法

さて︑それでは︑表4を使用しっつ︑石代値段・同仕法の考察に移ろう︒大和国幕領皆石代納制は石代値段・同仕法とい

う視角からみるとき︑大きく三つの時期に区分することができる︒以下︑各時期に区分し︑各時期の特徴を明らかにしてい

き た

い ︒

まず第一の時期は︑皆石代納制の成立をみた延宝五 ︵一六七七︶年〜元禄元︵一六八八︶年の時期である︒この期の重要

な特徴は︑六分米部分の石代値段・同仕法が︑国中幕領と吉野郡幕領とでは︑異なっているという点である︒この期の大和

国幕領石代値段の全体的な構造をよく示しているのが︑前節︵こ で引用した貞享五 ︵一六八八︶年史料である︒すなわち

それによれば︑まず国中幕領については︑延宝五年以降は︑従来の奈良町渡米制の廃止に伴う形で幕領村々に﹁町人なミ﹂

の負担が転化・強要され︑六分米値段は﹁三分一御直段︒銀二匁高﹂となっていることがわかる︒表4によれば︑六分米値 18

段は判明する延宝八年から元禄元年に至るまで︑三分一値段︵当該期にあっては前述のように五畿内幕領に共通︶ に二匁高

に設定されていることが確認できる︒天和元︵ハ八一︶年のみ三分一値段に五匁安という設定になっているが︑詳細は不

明である︒また︑元禄元年の実際の六分米値段は一石当り五三匁であるが︑これは︑﹁六分米直段之儀︑石︒五八匁こ而御座

候へ共︑為御救辰年之儀者︑五匁御引五三匁︒上納仕候様︑被為仰付候︒付︑如此﹂という事情であったことが判明する

︵同年﹁御勘定目録﹂ に拠る︶︒救済措置としての特例的な安値段の設定ということであるが︑天和元年の五匁安もこうした

特例措置であった可能性が高い︒

一方︑吉野郡幕領については︑貞享五年史料では︑三分二米銀納値段︵以下︑三分二米値段とよぶ︶ は﹁三分一御直段壱

匁高︒上納仕候﹂と説明している︒吉野郡幕領では︑国中幕領と同じく三分一値段を基準とはするが︑国中幕領の六分米値

(20)

段よりも一匁安い増値段の設定となっているのである︒元禄元年に和泉国幕領に通達された石代値段﹁覚﹂ によれば︑同年

の五畿内幕領の三分一値段・十分一値段を記した項目とともに︑吉野郡については別の一項目が立てられており︑そこでは

﹁吉野郡︑米・大豆共右同直段 ︵三分一・十分一値段をさすー筆者註︶︑但︑三分一一米ハ︑三分一直段︒壱匁高﹂と明記され

︵ 1

9 ︶

ている事実が判明する︒さきの貞享五年史料では︑この時期の吉野郡幕領の六分米部分が︑国中幕領と区分される形で﹁三

分二米﹂と記されている点はすでに指摘した通りだが︑右の﹁覚﹂においてもこの ﹁三分二米﹂ の名称は継承されているこ

と︑そしてこの ﹁三分二米﹂値段の決定方法が三分一値段に一匁高という仕法であることが知られるのである︒

前節において十七世紀後半の皆石代納制成立期にあっては︑国中幕領と吉野郡幕領とでは︑六分米部分の石代納形式=名

称に明確な使い分けが存在していることを指摘した訳だが︑こうした使い分けは︑当該期における以上のような両地域幕領

における石代値段・同仕法の相違に由来し︑対応するものであったと考えられるのである︒

19

︵三︶元禄二年〜元文四年の石代値段・仕法

さて︑以上のような国中幕領・吉野郡幕領における石代値段・同仕法の相違状況は元禄二 ︵一六八九︶年以降変化する︒

すなわち表4によれば元禄二年には六分米値段は三分一値段の一匁高に変化しており︑この関係は以後元文四︵一七三九︶

年まで継続しているのである︒国中幕領の六分米値段仕法が︑元禄二年を画期に︑それまでの三分一値段に二匁高から︑三

分一値段に一匁高という新仕法に変更されたものと考えてよいであろう︒今のところ︑この仕法変更の詳細は不明である︒

しかし︑六分米部分の石代値段引下という明らかな減免政策の実施であり︑おそらくその背景には何らかの形での幕領農村・

農民側の減免運動が存在していたものと思われる︒

(21)

ところで︑元禄八年には宇陀郡にあった松山藩織田氏領二万八千石余が上知されるが︑同年にこの新幕領を預かる代官か

ら江戸の勘定所に出された﹁御窺書﹂によれば﹁和州宇陀領物成︑只今迄不残米納に仕来候︵略︶当亥御物成より三分一銀・

十分一大豆銀納披仰付︑三分二米は︑国中並三分一直段に一匁高の積り銀納に可被付候哉︑奉窺候﹂とあることが知られる︒

同一の幕領代官から翌元禄九年に﹁京都郡代衆﹂ へ差上げられた書付によれば︑﹁宇陀高弐万八千石余︑去ル亥年御蔵入諸

納︑不残銀納﹂とあり︑さきの窺書に通り︑幕領移行後の宇陀郡村々は︑その他の大和国中幕領と同様︑十分一・三分一・

︵ 訂 ︶

三分二米︵六分米︶銀納による皆石代納制度のとられていたことがわかる︒その際注目したいのは︑﹁三分二米は︑国中並

三分一値段に一匁高の積り﹂という文言である︒すなわち︑さきに表4の検討から元禄二年以降︑国中幕領の六分米値段仕

法は三分一値段に一匁高という新仕法に変更されると述べた訳だが︑右の文言は︑この新仕法が元禄八年の時点ですでに定

着していることを明示しているからである︒

一方︑吉野郡幕領については︑﹁京都覚書﹂︵元禄四年成立︶所収の元禄三年の﹁五畿内﹂三分一・十分一値段記録におい

て︑吉野郡として一項が立てられ︑そこでは﹁吉野郡 米・大豆共︒右同断︵三分一値段・十分一値段は五畿内値段と同じ

︵ 2

1 ︶

−筆者註︶︑但︑三分二米ハ︑三分一直段に一匁高﹂とあることが知られる︒同一の記述は︑正徳四︵一七一四︶年の﹁五

︵ 盟 ︶

畿内﹂・﹁吉野郡﹂石代値段についても確認することができ︑三分一値段に一匁高という三分二米値段の決定方法は︑元禄二

年以降も変更されておらず︑正徳期においても従来と同一であったことが判明する︒表5は︑年貢算用史料から吉野郡幕領

諸相の石代値段を整理したものだが︑それによれば︑享保六︵一七二一︶年から元文三︵一七三八︶年に至るまで︑三分二

米値段はすべて一二分一値段に一匁高となっている事実が知られる︒三分一値段に一匁高という吉野郡幕領三分二米値段仕法

は︑元文期に至るまで継続されていたことが判明しよう︒

20

(22)

表5 吉野郡纂領石代値段一覧表(単位:匁)

年   次 村  名 十 分 一 大 豆

銀 納 値 段

三 分 一一米 銀 納 値 段

三分 二 米

銀 納 値 段 出    典

享 保 6 (17 2 1) 西 河 村 7 2 6 6 3 6 7 3 『川 上村 史 』 史 料 編 上 巻 、 2 3 6 頁

6 ( 〝 ) 大 鹿 領 7 2 6 6 3 6 7 3 2 3 6 〜 2 3 7 頁

8 (17 2 3 ) 田 原 村 6 2 5 7 5 8 『新 訂 大 宇 陀 町 史 』 史 料 編 第 2 巻 、 8 1 〜 8 2 頁

1 2 (17 2 7 ) 高 殿 村 5 5 5 0 3 5 1 3 『川 上 村 史 』 史 料 編 上 巻 、 3 3 2 頁

1 4 (17 2 9 ) 西 谷 村 5 3 4 5 4 6 『大 和 下 市 史 』 続 編 、 2 6 3 〜 2 6 4 頁

1 8 (17 3 3 1 三 尾 村 5 5 4 5 5 5 5 6 5 F 東 吉 野 村 史 』 史 料 編 上 巻 、 2 1 2 〜 2 1 3 頁

元 文 元 (17 3 6 ) 木 虎川 村 4 9 2 8 3 5 9 5 8 3 6 0 5 8 3 2 1 5 〜 2 1 7 頁

2 (17 3 7 ) 碇   村 4 5 5 4 2 5 2 5 3 5 3 5 3 『川 上 村 史 』 史 料 編 上 巻 、 5 2 0 − 5 2 1 貢 3 (17 3 8 ) 木 倖 川村 10 0 4 7 8 9 7 1 2 8 9 8 1 2 8 『東 吉 野 村 史 』 史 料 編 上 巻 、 2 2 3 − 2 2 4 頁

以上︑元禄二年以降にあっては︑国中幕領六分米値段仕法は変更され三分一値段

に一匁高となること︑それに対して︑吾野郡幕領三分二米値段仕法は従来のままで

あり︑三分一値段に一匁高であることを明らかにした︒すなわち︑国中幕領六分米

値段仕法と吉野郡幕領三分二米値段仕法は︑元禄二年を画期として事実上同一とな

るのであり︑大和国一国における幕領皆石代納制下の石代値段仕法︵十分一・三分

一・六分米および三分二米値段仕法︶ は事実上共通化され︑統一されるのである︒

前節において︑国中幕領と吉野郡幕領とでは︑六分米部分の名称の使い分けが次第

にあいまいとなり︑享保期以降においては﹁十分一大豆銀納﹂﹁三分一米銀納﹂﹁三

分二米銀納﹂が一国に共通する幕領皆石代納の形式=名称となりつつあることを明

らかにしたが︑こうした形式=名称上の変化は︑右に述べた当該期の両地域幕領に

おける石代値段仕法の動向=事実上の統一化に由来し︑反映するものと思われる︒

ただし︑事実上の値段仕法の統一化がすでに元禄期に行われているのに対して︑形

式=名称上の統一化が遅れ︑享保期までもちこされている点には留意しておく必要

が あ

る ︒

21

︵ 四

︶ 元

文 五

年 以

降 の

石 代

値 段

・ 仕

さて︑元文五︵一七四〇︶年の九分米銀納制成立以降の石代値段と同仕法はいか

(23)

なるものであったのか︒前項までの考察をふまえたとき︑この期におけるもっとも重要な特徴は︑この九分米銀納値段︵以

下︑九分米値段とよぶ︶が︑これまでの ︵元文四年までの︶大和国幕領三分一値段仕法を︑基本的にそのまま継承する形で

決定されているという点に求められる︒大和国幕領における九分米値段=三分一値段という関係は︑すでに先行研究によっ

︵ 乃 ︶

て指摘されているところであるが︑ここでは︑九分米銀納制の採用にあたって︑それまで実施され存在していた三分一値段

に一匁高という六分米部分の石代値段仕法︵国中幕領における六分米値段仕法︑吉野郡幕領における三分二米値段仕法︶が

継承されず︑したがって︑従来との比較からいえば明らかな安値段による石代値段仕法が採用されているという事実に注目

しておきたい︒石代値段仕法の点からいえば︑元文五年を画期とする九分米銀納制の成立は明らかに減免政策の実施と理解

さ れ る の で あ る ︒

周知のように幕府は享保十九︵一七三四︶年に幕領石代納に関する全国的規模での新規定を発令し︑大和国の三分一値段

については︑十月十五日〜十月晦日の奈良・高取・郡山・今井町・五条の五カ所の ﹁上新米﹂ の ﹁所相場﹂ の平均相場に六

︵ 別 ︶

匁増と定められる︒したがって︑享保十九年から元文四年までの時期の大和国幕領にあっては︑三分一値段は右の五カ所平

均相場に六匁増方式で︑また六分米部分の石代納については︑さらに一匁高つまり五カ所平均相場に七匁増方式で︑決定さ

れていたことになる︒元文五年の九分米銀納制成立以降は︑これらの二つの仕法のうち︑増銀より少ない三分一値段仕法の

方が採用される訳だが︑こうした所相場平均に増銀つきという石代直段仕法は︑以降幕末期に至るまで継承されている︒た

とえば︑天保九 ︵一八三八︶年に大和国幕領村々から提出された願書には﹁元来当国石代直段之儀者︑国中︒而五ヶ所△相

場書上ケ︑上米・中米・下米平均︒而石代相定り候義と奉承知候処︑寛政年中御勘定勝与八郎様︑当国御直段書上ケ之場所

︵ 乃 ︶

へ御出役︑御石代直段之儀御調﹂とあり︑天保六年に作成されたと推定される原書においては︑幕領石代値段について﹁当

ココ

(24)

国 場

所 五

・ 六

ヶ 所

平 均

を 以

︑ 御

足 被

成 下

候 所

︵ 略

︶ 其

後 ︑

九 歩

米 ・

十 分

一 大

豆 銀

納 御

改 正

︒ 被

仰 付

︑ 此

段 承

知 奉

畏 居

候 ︵

略 ︶

Ⅴ 昭 弼

又々其後寛政五丑年勝与八郎様︑荒地為御見分︑当国村々御廻村被成下﹂と述べている︒それらによれば︑元文五年の九分

米銀納制成立以降︑寛政改革期の勝与八郎による石代値段改革までの間は︑五ヶ所︵天保六年願書によれば﹁五・六ヶ所﹂︶

平均相場を基準とする仕法が基本的に継続されていたことが知られよう︒天保九年原書では︑﹁元来相場書上ケ之儀︑十月

十五日△同晦日迄平均之御足l−御座候﹂とも明記されている︒ただし︑この天保九年願書では﹁上米・中米・下米平均︒而﹂

とあり︑﹁上新米﹂を指定している享保十九年令とは異なっている点が注目される︒寛政期に至るまでに︑上新米から上・

中・下米平均へと基準となる米の品質︵品位︶が仕法変更された可能性が高いと思われる︒

なお︑寛政改革期の勝与八郎による仕法改革とは石代値段の増銀を意図するものであった︒前掲の天保九年願書によれば︑

従来の相場書上期間を十月朔日〜同晦日までに拡大し︑古米値段を算入するという点では一定の増銀に成功したようである︒ 23

しかし︑その一方で︑﹁向後増直段奉申上候様︑厳敷被仰渡候得とも︑難渋之訳品々御歎奉申上候次第尤二被思召︑則隣国−

摂・河・泉杯者︑上米直段︒六匁増二俣得共︑当国之儀者︑向後上米直段所相場育三匁増奉書上候様被仰渡︑此段難有奉存

候﹂と記されている点は注目される︒寛政改革期以降は摂津・河内・和泉等の幕領では上米所相場より六匁増︵したがって

享保十九年令規定と同一とみてよい︶ であるのに対して︑大和国幕領のみが上米所相場に三匁増の増銀となっているからで

ある︒畿内幕領一般とは異なるこの措置が︑大和幕領農民からの﹁難渋之訳品々御歎﹂を︑幕府側が﹁尤︒披恩召﹂れた結

果であると説明している点をも含め留意しておきたいと考える︒

(25)

む   す   び

以上︑二節にわたり︑石代納形式と石代納値段仕法という二つの観点から︑近世大和国幕領皆石代納制の展開過程を跡づ

けてみた︒二つの観点からする以上の考察を改めて総括し︑総合的に捉え直した場合︑大和国幕領皆石代納制の展開過程は

大きく三つの時期=段階に区分しうるように思われる︒

すなわち︑その第一期は一国の全幕領で皆石代納制が成立した延宝五︵一六七七︶年から︑元禄元︵一六八八︶年までの

時期である︒この期にあっては︑国中幕領は十分一・三分一・六分米銀納形式により︑また吉野郡幕領では十分一・三分一

米二二分二米銀納形式により︑皆銀納が行なわれ︑六分米部分の石代納名称=形式には明確な使い分けが存在していた︒石一

代値段・仕法も︑こうした使い分けと対応し︑六分米部分の石代値段・仕法は国中幕領と吉野郡幕領では異なっており︑国 24

中幕領は三分一値段に二匁高︑吉野郡幕領では三分一値段に一匁高という仕法が採用されていた︒

展開過程の第二期は︑元禄二年から元文四︵一七三九︶年に至る時期である︒この期の大きな特徴は︑第一期には国中・

吉野郡幕領で異なっていた六分米部分の石代値段・仕法が事実上統一され︑三分一値段に一匁高となることである︒一方︑

石代納形式=名称については︑六分米部分の使い分けがなお継続しており︑吉野郡では﹁三分二米銀納﹂が︑国中では﹁米

方銀納﹂・﹁米銀納﹂・﹁六分米銀納﹂等の複数の名称が使用されている︒ただし︑享保期以降にあっては︑国中幕領において

も︑﹁三分二米銀納﹂を使用する傾向が顕著となり︑﹁十分一大豆銀納﹂﹁三分一米銀納﹂﹁三分二米銀納﹂が大和国幕領全体

の統一的な皆石代納形式=名称となりつつあった︒なお︑この期については︑国中幕領を対象に免状=年貢賦課段階と皆済

目録=年貢算用段階という段階差および支配代官の相違という点からも考察を加え︑免状の皆石代納記載は皆済目録よりは

(26)

遅く︑この第二期に入ってからようやく登場すること︑免状と皆済目録とでは同一年の同一村であっても石代納名称が異な

る場合のあること︑同一代官のもとにあっては︑免状・皆済目録ともに特定の石代納名称を使用する傾向が顕著であること

等 を

指 摘

し た

展開過程の第三段階=第三期の画期は元文五年であり︑同年以降幕末期に至るまで︑大和国幕領の皆石代納制は︑石代納

形式︑石代値段・仕法ともに︑その制度的な基本線において大きな変化はみられなくなる︒この第三期の大きな特徴は︑一

国幕領全体としての九分米銀納制の登場である︒すなわち元文五年以降︑国中幕領にあっても吉野郡幕領においても︑また

免状記載にあっても皆済目録記載においても︑皆石代納形式=名称は﹁十分一大豆銀納﹂﹁九分米銀納﹂ で統一されること

となる︒そして︑この九分米値段は︑第二期以来の三分一値段と同値段決定仕法を継承しており︑したがって︑この第三期

にあっては︑従来の六分米石代納部分に行なわれた三分l一値段に増銀=一匁高といった石代値段・仕法はみられなくなるの

で あ

る ︒

以上の三つの時期=段階を︑延宝五年の皆石代納制の成立期以降幕末期に至るより大きな流れとして捉えなおした場合︑

そこでは︑当初存在した吉野郡幕領・国中幕領における制度上の相違︵納入形式︑石代値段・仕法︶ の消滅=統一化︑六分

米石代納部分に関する増銀の低下=三分一値段への接近・統一化という二点を︑変化の大きな特徴として指摘しうるように

思われる︒そして︑その際︑こうした変化の最大の画期が享保改革末期の元文五年にあること︑したがって︑大和国幕領皆

石代納制の展開過程は享保改革︑当面︑享保改革期における貢租政策の展開という文脈において捉えなおされるべき事柄で

ある点を︑あわせて指摘しておきたいと考える︒

25

参照

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