万 葉 集の海 洋 性
井上
はしがき
日本は四面海に囲まれていながら、海洋文学にはほとんど見るべきものがない。これについてはさま(、な事情が
考えられるが'古代においては比較的に海洋性がゆたかであった。海洋文学として独立したものはほとんどないが、
後世にくらべると海洋性に富んでいる。古事記や祝詞にもそ‑した傾向がみられ、万葉集なども海洋文学といった点
から大きな特色をもつ。
万葉集は全体としてみると山を中心とした文学といえるが、水の文学としても大きな特色をもち、とくに海洋性と
いった点から独自なものがみられる。高木市之助氏は「日本文学の環境」において、万葉集の環境として「清」なる
自然をとき'海についても「きよし」「さやけし」といった意識が顕著な点に注意された。また久松博士の「日本文
学‑風土と構成」にも日本文学の風土性を論じ、水辺文学を河畔文学、湖畔文学、海辺文学にわけて、「河畔文学が
流動的な点があり、海辺文学が荘洋たる点があるに対して湖畔文学は深沈の趣がある」、とあるが、(「国文学」等
にも再説されている、)万葉集についてもこ‑した三方面からの考察が必要と思われるっ
海の文学は同じく水を中心とした文学として河畔文学や湖畔文学と共通性ももっているが、海洋は海洋として独白
性をもつので、こゝには海洋性といった点から万葉集の特質を者えてみる。
まず海は恐怖の対象であった。航海術も次第に発達しっゝはあったであろ‑が、なお幼稚を免れず、船旅には不安
がつきまと‑たので、恐怖感が先だったのも自然のことであった。恐怖感を伴‑点において海は河や湖と区別される
。河や湖の歌が優美に傾き易いのにたいして、海の歌は壮美性を帯びる傾きがある。
きさふねの巻二には人暦が讃岐の狭早島で石中の死人をみて詠んだ長歌がみえ(二二〇)、巻十三にも海岸で屍を見て詠んだ同つきのおぴと趣の長歌三首がのせてあるが、‑ち一首は「或本歌」として、調使首が備後国神島の浜で作った由詞書に見える(三三
三五、三三三六'≡二三九)。巻十六には筑前国の志賀の白水郎を‑たった歌十首がのせてあるが(三八六〇‑九)これは
左誌によれは、神亀年中筑前の国淳屋郡志賀村の荒雄とい‑男が、侠気で対馬に糧を送る船頭を引受けたところ、暴註一風雨に遭って死んだのを悼んで妻子等が詠んだ歌とい‑。憶良の代作とも伝えられ、両者の混合ともみられて、作者に
ついては問題がある。主として憶良の作と見るべきであろ‑が、とにかくこ‑した海上での悲劇はほかにも多々あっ
たことであろ‑0
したがって遣唐使などのよ‑な長途の航路には多大な不安と恐怖をともない、海神等の力にすがったりしている。
巻七に、
大海の波はかしこしかれども神をいほひて船出せばいかに(二一三二)
といったような歌も見えるが、憶良の「好去好来歌」(八九四)は天平五年達磨大使に献じたもので、「海原のへにかむもおきにも神づまり‑Lはきいますもろもろのおはみかみたちふなのへにみちびきまをしあめつちの
3
おはみかみたちやまとのおはくにたまひさかたのあまのみそらゆあまがけり見わたしたまひ、云々」と
い‑よ‑に天地の神力をたのんで、祈願とい‑よりはむしろ祝福の意を表している。同じく天平五年(七三三)入唐俊す且のえに送ったとい‑巻十九の長歌(四二四五)では住吉の神に呼びかけ、より多く祈厳の気持が勝っている。巻十九のは作
者不明で、高安倉人種麻呂が伝請したとあるが、「吾がせの君を」と‑たっているから'近親の女性の作であろ‑0たじひ天平五年の遣唐使は丹治比真人広成で、巻八にも笠金村のよみ送った長歌(1四五三)がのせてある。金村の歌にも、あるふ「なにはがた三津の噂より大船にま椙しじぬき自演の高き荒海を島づたひい別れゆかはとどまれる4Jr・J
吾は幣ひき斎ひつつ君をはやらむ」とい‑よ‑に、神力にすがる気もちがみえる。巻九に「天平五年葵酉遣唐使
の舶難波をたちて海に入る時母の子に贈れる歌」(一七九〇)とある長歌も同じ時のものらしく'やはり神力をたのみ
つゝ子を思‑親の不安な気もちが強く出ている。有名な、
旅びとのやどりせむ野に霜ふらばあが子はぐくめあめのたづむら(l七九一)
とい‑歌が反歌になっている。巻十九には光明皇后や孝謙天皇が達磨大使の藤原清河に賜った御製其他(四二四〇以
下O四二六四)ものっているが、歌そのものは儀礼的な形式化した作が多いにしても、やはり不安な気持が根低になって
いる。巻十五には天平八年新羅に遣わされた使人等の歌が集めてあって、こ‑した旅路の苦難の実況が想像される。遣
唐使とい‑よ‑な国家的な使命をおびてでかけたものでも、途中で漂流したり異境に留ったまゝ穀したりする例が少
くなかったよ‑で、藤原清河なども唐土で世を去っている。
巻十七には大伴旅人が大納言に任ぜられ太宰府から上京した時三野石守らが海上でよんだ歌がのせてあるが(三八
九〇1九)、船旅の悲しみに膚京の喜びが結びついて味い深いものになっている。防人は難波から海路で筑紫へ行った
らしいが、巻二十に大伴家持が防人の海上の旅を思いやってよんだ長歌があり(四三三一)、また防人の身になり代っ
て「悲別の情」をのべた長歌がある(四三三一・四四〇八)。遣新羅使人や防人歌については後に改めてのべるが'とに
かく海上の旅の不安と労苦は今日からしては想像外といってよいが、反面にはこ‑した事情が真実味に富んだ秀歌を
ぅむ原因にもなったらしい。これは海に限らず轟旅歌一般についても考えられる。
結殊のものとして配流関係の歌がある。
‑ちそををみの壬あまなれやいらごの島の玉藻かりをす(二三)
‑つせみのいのちををしみ渡にぬれいらごの島の玉藻かりをす(二四)
これは天武天皇の御代に麻績王が伊勢の伊良虞の島に流されたとき(配流地については問題がある)、時人と唱和
した歌という。配流の悲しみと結びついて哀感の切なるものがある。また巻六には石上乙麿が罪によって土佐に流さ
れた時の贈答の歌が見えているが、海路をよみこんでやはり独自な哀感をもよおさしめる。これらは醗流の悲哀に海
辺生活や海上の旅の苦しみが重なって独特の趣を感じさせるものである。
ニ
かよ‑に海は死や配流生活と結びついて忌わしい感じをともないがちであり、不安や恐怖の対象とされたが、そう
とはかりもいえない。反面には憧憶の対象とされ、享楽遊覧の場所ともなっている。
古代人は海波のかなたに常世の国を想い、海底にわたつみの宮を考えた。山間生活に閉じこもりがちな万葉人が自
己否定の場所として海に憧れたのは自然のことであった。高木市之助氏は万葉人の「清」が吉野を中心とすると説い
ているが、万葉人の「清」は海辺にも及んでおり'山間の清とはちがった開放的な大らかな「清」を喜んでいるよう
である。山間は美景をのぞいては「いぶせく」「お、ほはしき」世界である。万葉人の自己否定はかくて水滴き吉野に
及 び 琵 琶
湖に
及び、
海に及んだ水乏盆地れのであろのいにてみずい美に憧たい。てあさらこししし‑っ‑ししう。
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学ほ多浪漫的海洋性浪漫性結海葉人浪漫性であにはびついていは万にてのなよくとるこよきりりくととっ'。 は
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性は自
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達に役立ているっ。
具体的に例に
ついて見よ‑0
巻九(に一七〇)四 浦 島 伝
説をんだ長よ
歌が出ていが、「水江浦島児がかっをつるのり 鯛つほ七までこ日りり 家に来ずてかをすにわたつ女たひひぶひなさてゆみの神のにかにいああもぎこぎまさこぎとら‑く こ と
なしり
かはかむき
すびにたわたつみ神宮へたいのののちののとこより‑
へなる
殿に
た
づさ
はり
ふ
たり
入ゐて老いせず死にせず世かかびのわて永にけのをのなのおろもももきあるよとざこりしもり にのてかたは家に惰父母事すわれは来なむ言ひけらまてにのひあのりくしもごとしくりらと
れば
」'
とう
たっ
たあた海にたす憧歌いマチなれが明かにみれ'反でるロンクらも、りらッ、 し
と こ よ べ に す むべつたが君ものをち己心かおそやのきるぎらこ
と
いよ‑‑
に 浦島が里心起たれ伝奇趣味現れが'巻三には'「伊勢をのを罵ていは海にたいすのであるこるるしっ。 の 海 の
おき
つ白な
み 花
にがも
っ
つみて
妹が家
づにせむと
」〇い安(三六)と‑
貴重の
作がある。
伊
勢の
国に
行 幸
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た 時人暦が京に残だ歌巻lてんいに見えよもるとっ‑。
あ
みの
滴 に
船のり
すら
むをめがたの裾に潮みらまもと
つむか(〇)ら四
く し ろ
つく
た
ふのし
崎に今かもも日
大宮びのた藻かむ一まる(四)とら 潮ゐにい島べ船に妹むか荒島みをさのの二らごこぐるらき(四)
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【 叫 、T ‑ ‑㍗ ‑一一 一・, 〜
これらの歌にもより現実的な意味における海への憧れが見られるが'遊覧趣味と結びついたものである。入唐には
海の旅を‑たった秀歌が多く'とくに巻三には、
たまもかるみぬめをすぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ(二五〇)
淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす(二五一)
等八首の歌が「柿本朝臣人暦昌泰旅の歌」として出ているが'海の旅を喜ぶ気もちが言外にあふれている。石見の国
から妻に別れて上京した時の長歌(二二一)にも'「か青なるたま藻おきつ藻朝羽ふる風こそよせめ夕羽ふる
浪こそ来よせ浪のむたかよりかくよりたま藻なすより寝し妹を」'と‑たったりして'海洋趣味を深く身に
しめていたことがしられる。おそらく本質的にロマンチックな人暦の性格とつながりがあるのであろ‑。黒人にも海
の旅を‑たった秀歌がある。
赤人は富士山をよんだ歌で有名になっているが、巻六には海の旅をよんだ長歌が数首みえる。あまり秀れたのはな
いが'「いなみ野の大海の原の荒たへの藤井の滴に鮪釣るとあま船みだれ塩焼くとひとぞさはなる
浦をよみ‑べも釣はす浜をよみ‑べも塩やくあり通ひみますもしるし清き白浜」(九三八)'とうたった
あたり海にたいして興味をよせていたことがしられ'反歌のなかには、
わかの滴に潮みちくれは潟をなみ葦べをさしてたづなきわたる(九一九)
といった秀歌もみられる。「わかの滴に」の方には大らかな海べの景観にたいする喜びの気もちがあふれている。赤
人と同時代の笠金村も海の旅をよんだ長歌を残しているが、亜流の作でさしてすぐれたのはない。巻三に「轟旅の歌一
首並に短歌」として'若宮年魚麿が話したとい‑逸名氏の長歌がのっているが(三八八)'「わたつみはくすしきもとのか淡路島なかにたておきて白浪を伊予にめぐらしゐまち月あかしの門ゆほ夕されは潮をみたしめ