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佛教大学総合研究所紀要 1998(別冊)号(19980314) 023牧伸行「良弁と『続日本紀』 (宗教と政治)」

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Academic year: 2021

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良弁と

良弁については、草創期の東大寺にあって寺家を代表する僧 であり、かつ借綱にもその名を列ねていることなどから、奈良 時代を代表する僧の一人であったといえる。そして、良弁の名 は、﹃続日本紀﹄には次に挙げる四筒所に散見する。 ①天平勝宝三年(七五一)四月間ヤ成(二二日)条 市 成 。 詔 以 一 一 菩 提 法 師 一 矯 一 一 僧 正 一 。 良 弁 法 部 局 一 一 少 傍 都 一 。 道 瑠 法 的 騒 尊 法 部 講 一 ⋮ 律 師 一 。 ②天平勝宝八歳(七五六)五月丁丑(二四日)条 丁丑。勅。奉一一馬先帝艶下一屈請看病緯部一吉廿六人者。宜レ 免一一首戸課役一。但良弁。慈制。安寛三法師者。放及一一父母

雨戸一。然其眼者終一一僧身一。又和上聾異。小僧都良弁。翠 巌講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎮慶能。或事業優富。或 戒持清揮。堪一一聖代之鎮護一。爵一一玄徒之領袖一。加以。良 弁 。 慈 訓 二 大 徳 者 。 首 一 一 子 先 帝 不 諜 之 日 一 。 自 章 一 一 心 力 一 。 努ニ勤霊喪一。欲レ報一一之諒一。朕懐陪レ揮。宜下和上小僧都 拝二大借都一。華巌講師拝一一小借都一。法進。慶俊並任中律 沼 市 。 ③天平宝学四年(七六

O

)

七 月 庚 成 ( 二 一 一 一 日 ) 条 庚成。大僧都良弁。少僧都慈訓。律師法進等奏日。良弁等 問。法界混一。凡聖之差未レ著。断謹以降。行住之科始異。 一 一 一 賢 十 地 。 所 以 開 一 一 化 衆 生 一 。 前 例 後 悌 。 出 レ 之 勧 一 一 勉 一 一 一 乗 一 。 良 知 。 非 レ 間 一 一 勲 庸 一 。 無 レ 用 一 一 語 巽 之 識 一 。 不 レ 差 一 一 行 住 一 。 寵勧一⋮流浪之徒一。今者。像教将レ季。縞侶梢怠。若克一一褒

(2)

係数大学総合研究所紀前文別問﹁宗教と政治﹂ 庭 一 。 何 顕 一 一 善 悪 一 。 望 請 。 制 一 一 四 位 十 三 階 一 。 以 抜 一 一 三 謬 六 宗 一 。 就 一 一 其 十 三 暗 中 一 。 一 ニ 色 師 位 弁 大 法 部 位 。 准 一 一 勅 授 位 記式一。自外之階。准一一奏授位記式一。然問問戒定恵行非二濁 昔時一。経論律冨方盛一弘閑今一。庶亦永息一一濫位之議一。以 興 一 一 敦 善 之 隆 一 。 良 弁 等 。 関 学 非 一 一 渉 顕 一 。 業 堆 浅 近 。 轍 以 一 一 管 見 一 。 略 事 一 一 採 鐸 一 。 叙 位 節 邑 。 具 列 一 一 別 紙 一 。 勅 報 日 。 省 一 一 来 表 一 知 一 一 具 一 京 一 。 動 一 一 誠 繍 徒 一 。 賞 臆 一 一 利 益 一 。 分 二 置 四 級 一 。 恐 致 一 一 努 慎 一 。 故 其 修 行 位 。 語 持 位 。 唯 用 一 一 一 色 一 。 不 レ 矯 一 一 数 名 一 。 若 有 一 一 語 経 忘 却 。 戒 行 過 失 者 一 。 待 一 一 衆 人 知 一 。 然 後 改 正 。 但 師 位 等 級 。 宜 レ 如 一 一 奏 状 一 。 ④宝亀四年(七七三)間一一丹甲子(一二日)条 甲子。借正良弁卒。遣レ使弔レ之。 これらのうち、本稿において問題としたいことは④の記事、 すなわち卒去記事になぜ伝記が掲載されていないのかという点 で あ る 。 先ず右の四笛条をそれぞれ簡単に見てみると、大きく分けて ①と②は憎綱の補任記事である。﹃続出本紀﹄には僧綱の補任 記事は全部で二五例が掲載されており、すでに中井真孝氏によ りその全てに詳織な検討が行われているが、当然このニ笛条に ついてもその中で触れておられる。①が単に各僧網員の補任記 事のみが記されているのに対して、②は聖武太上天皇崩制御に際 間 しての褒賞に関する記事であり、僧縞の補任以外の記事も含ん でいる。すなわち、先ず聖武太上天皇崩御に接して尽力した一 二六人の看病弾師が褒賞され、次に特に良弁・慈刑制・安寛の三 人に対しては本人のみならず、父母の謀役も免除されるなどの 優退措震が行われている。そして、これに続いて僧綱の補任が 行われて、良弁は霊真とともに大信都に補託されたことが記さ れ て い る 。 ところで、﹃続日本記﹄や﹃僧網補任﹄による限り良弁は律 師を経ず少僧都に重任されたと考えて差し支えないが、﹃七大 寺年表いにのみ少僧都補任以前の天平一七年(七五回)条の律 部の項に良弁の名が見える。そして、良弁に付けられた注記に ふ ふ 、 或本ニ天平勝賀直任一一少僧都一。去一五。正丹廿日任。華最 宗。東大寺。相撲騒人。百済氏。義淵信正弟子。有山寺根 本 也 。 とあり、﹁或本﹂の少僧都への甚任説が記されているが本来の 記事としては律師への補任が-記されているのである。しかし、 この時の律師就任に関しては他の史料には見えず、しかもこの ﹁正月廿一日﹂という日付は﹃続日本記﹄天平一七年正丹己卯 (一二日)条に見えるように、行基が大僧都に高任された日に 当るが﹃続日本紀﹄では、

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己 邦 。 詔 以 一 一 行 基 法 師 一 掃 一 一 大 借 正 一 。 と行基の大僧正補任が記されるのみであり、他の摺網員の補任 記事は見えない。これに対し﹁七大寺年表﹄の記載は平安時代 以捧には僧都以上への直任が少なくなるという傾向によって、 良弁も当然律師を経ていたであろうという前提の下で造作され たものと考えられる。そして、行基の大僧正補任と同時に良弁 の律部補任が行われたと考えられたのは、良弁と行基が共に後 世東大寺の四聖と称されていることにも起因しているのであろ

﹀ つ 。

また、良弁の少僧都及び大僧都の補任に関しては、①と②に 記されているが、情正の祷任については、中弁氏も指摘してお られるように﹃続日本紀﹄の記事からは漏れている。そして、 良弁の僧正就任時期については諸説が存在するが、このことに ついては、すでに岸後男氏が﹃正倉院文書﹄を検討されて天平 宝字八年(七六回)九月一一日から一一一一日までの間に大償都か ら僧正に進んだという指橋をしておられる。さらに、この時期 については、﹁恵美押勝の乱が勃発した政治的に微妙な時点﹂ であり、実擦﹃続日本紀﹄においては恵美押勝の乱の経過に紙 面が割かれている。そのため、良弁の僧正就任記事が欠落した ものと考えられる。 次に、③は僧綱による摺位制定に関する奏上およびその報勅 良 弁 と ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ が記されている。そして、借綱が奏上した四位一一一一階の摺位に 関しては、石原正朗・山田英舵両氏により二説が提起されてお り重要な問題を含んでいるが、この場合﹁大僧都良弁。少憎都 慈訓。律師法進等﹂とあるようにあくまでも良弁は僧網の一員 として名を列ねているのであり、良弁個人による奏上ではない。 ただし、良弁が借綱として行った網務が正史に記された唯一の 併 と い え る 。 最後に、@が問題となる卒去記事である。しかし、先にも述 べたが、良弁に関しては単に卒去の事実と使の派遣については 記されてはいるものの、缶記いわゆる卒伝が記されてはいない。 そして、卒伝が存在しないことが、後世の良弁伝に説話的要素 が加味される要閣の一つとなったといえる。例えば、良弁の出 自に関しては諸本により相違があり、伝記の中で共通するもの としては﹁駕の育て子﹂伝説が取入れられていることが挙げら れる。ここで、諸良弁伝の中でも最も卒く成立したであろうと つである﹃東大寺要録﹄巻 考えられるものの 本願意に収め られた良弁伝をみてみると、 根 本 僧 正 論 官 民 弁 僧正者棺模留人漆部氏。持統天皇治一言己主室。義淵僧正 弟 子 。 金 融 路 子 是 塩 。 天 平 五 年 建 一 一 金 鐘 寺 一 。 天 平 勝 賢 三 年 任 一 一 少 僧 都 年 一 六 士 一 。 間 六 年 十 月 十 一 一 一 日 兼 一 一 五

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係教大学総合研究所紀婆別問﹁宗教と政治﹂ 法務一。同八年任一一大悟都一年六十八。 費 議 四 年 補 一 一 僧 正 一 年 八 十 五 。 同 年 潤 十 一 月 十 六 百 入 滅 。 同 十 九 日 拾 一 一 遺 骨 一 送 一 一 宇 多 賀 幡 山 一 。 一 五 々 。 養 老 栢 簿 一 首 。 根 本 僧 正 昔 嬰 克 之 時 。 於 一 一 坂 東 一 馬 一 一 驚 一 被 レ 取 未 レ 知 一 一 行 方 一 。 依 レ 之 父 母 大 歎 流 二 浪 諸 閤 一 。 龍 件 克被レ落一一山城国多賀建一。彼郷人取レ之養育。漸以成長。 郎根本僧正是也。御寺建立之時。爵ニ聖朝師一。威徳 説 々 、 住 一 一 東 大 寺 一 。 其 時 彼 父 母 尋 来 陳 一 一 此 由 一 。 先 問 ⋮ 一 身 駿一。脇下有レ験。子レ所レ陳有レ貫之上。被レ取レ鷲事市 符 合 。 佑 始 知 一 一 父 母 及 子 一 。 悲 喜 満 レ 腕 。 時 一 課 潜 然 一 王 々 。 又 相 傍 云 。 良 弁 僧 正 嫡 勤 十 サ 之 化 身 一 戸 。 見 一 一 八 柏 崎 記 一 。 ⋮ ♂ 。 と あ り 、 ﹁ 餐 老 相 傍 一 E ﹂として﹁鷲の育て子﹂伝説が記載され ており、遅くとも﹃東大寺要録﹄の成立した嘉承元年(一一

O

六)頃にはこの説話が成立していたことが明かとなる。﹁鷲の 育て子﹂倍説を含めて良弁の出告などについては、松本一信道氏 によって詳細な考察が行われていおり、それに従って以下に簡 単にみてみると、先ず出自であるが史料の系統により次の三説 が 挙 げ ら れ る 。 ィ、相模毘漆部氏説・:﹃東大寺要録﹄系統 ロ、相模開百済氏説 : λ 七大寺年表﹄天平一七年条の注 ハ 、 近 江 国 吉 済 氏 説 : ・ ﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ ~ ノ、 すなわち、良弁の出身地および出身氏族に関しては多くの研究 者によって考察されているが、出身氏族である百済氏説はぷ旧 網補任﹄や吋七大寺年表﹄にみえる﹁相模因。百済尚子生。﹂と いう記事からの錯簡のようである。また、出身地である近江田 説についても、良弁と石山寺との関係が必要以上に強調された 結果であり、相模宿漆部氏出身とするのが妥当であろう。 また、良弁の﹁駕の育て子﹂伝説については、﹃日本霊異 記﹄等に見える﹁鷲の育て子﹂伝説や金鷲優婆塞を良弁に仮託 結合させて形成されたものと指摘されている。つまり、

J

u

本 霊異記﹄では、﹁駕の育て子﹂に関する説話は上巻第九話に、 金鷲擾婆塞の説話は中巻第二一話に収録されており、元来別々 であるべき説話が﹃東大寺要録﹄等において結合されているの である。ただし、﹃日本霊異記﹄においては金鷲優婆塞とのみ 見え、良弁の名自体が記されていないことから、この段階では 金駕優婆塞と良弁が結び付けられていない可能性はあるが、こ の中巻第二一話の説話は吋日本霊異記﹄においては明らかに東 大寺の起源説話として述べられており、金鷲菩薩と良弁が問一 人物であったという了解があったのではないだろうか。このこ とに関して、松本氏は﹃日本霊異記﹄の作者である景戒の年齢 から考察を行われて、良弁入減時に景戒が一六歳という﹁もの ごころのついてゐる年﹂であるという久野鍵氏の見解を引用さ

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れて、金鷲優婆塞と良弁が同一人物であるならば﹁当然良弁の 名を記すはず﹂として別人説を提起しておられる。 しかし、﹃日本霊異記﹄の説話集という性格から考えるなら ば、開えば行基のように各個人の説話が意味を持つ場合はその 個人名が重要であることが考えられるが、この説話の場合は東 大寺が創建されるに至る契機が問題となっているのである。つ まり、説話自体が金驚震婆塞が出家したことのみが主題として 記されるのではないと考える。確かに、出家の機縁となった金 鷲優婆塞本人の信仰が描かれているが、むしろその信仰の対象 であった﹁執金制神の摂像﹂の霊験翠を示すものであるという ことが主題となっているのである。付け加えるならば、東大寺 の創建に関して、﹁執金剛神の摂像﹂の霊威とともに創建の顕 主としてはむしろ聖武天皇の存在が強調されている。つまり、 説話自体としては巻中第一一一話に付けられた﹁揖神主鱒放レ光 一部二奇表一得一一現報こという題名、あるいは本文に記された ﹁費﹂に﹁善哉金駕行者、信健讃一一東春二熟火信一一西秋二蒔 光ニ扶感火一、人皇慎一一験瑞一﹂とあることからも明らかなよう に、鐸婆塞である金鷲が執金剛神の霊験によって天皇の勅によ り得度が許可され、官借となったということを記すことにより、 あくまでも優婆塞が宮僧となるに歪った執金臨神の霊験に重点 が置かれているといえる。 良弁と吋続日本紀 h 以上から、良弁に関しては既に平安時代初期には説話化され る要素が多分に存在していたといえるが、﹃続呂本紀﹄に卒伝 が記されていないことがこれに拍車をかける要国の一つではな いかと考えられる。そして、その良弁の卒伝が収録されていな いことに関しては、﹁延暦期の律令国家の良弁に対する評価と 密接にかかわる重要な問題﹂とする指摘が存在する。確かに、 ﹃続日本紀﹄が桓武朝に編纂されていること、あるいはその編 纂過程を考慮するならば政治的な影響も確かに認められること ではあるが、むしろ﹃続日本紀﹄自体の編纂過程あるいは編纂 材料に起因するという想定も可能となる。 六国史を通して収録されている伝記については坂本太郎氏が、 ﹃続日本記﹄の缶記記事全般については、林陸朗氏によって考 察が行われており、両氏の指摘に従い、先ずその概絡について み て い き た い 。 ﹃続自本紀﹄において霧卒記事の掲載に関しては一定の原知 が存在しており、位階に関しては若干の例外があるものの四位 以上という規定が存在していた。そして、林氏は莞卒記事の分 類 を 行 わ れ て 、 七

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紳即教大学総合研究所紀要別冊﹁宗教と政治﹂

A

型 ・ ・ : 単 に 嘉 卒 の 事 実 だ け を 記 載

B

型 : ・

A

十係累的な記事が加えられている

C

型 : ・

8

+

伝記的な記事を有する と、薬卒記事を一一一種に区分した上で、この中で吋続日本紀﹄に 収録されている伝記記事、すなわち人物の死去に探して付けら れる伝記いわゆる藷卒伝は

C

型が相当すると指摘しておられる。 さらに、吋続日本紀﹄全体では莞卒が記されているものは総計 ニ九田名であり、そのうち

A

型 は 一 五 一 一 一 名 ・

8

型は八六名・

c

裂は五五名となるという統計を出しておられる。すなわち、薬 卒告が記されているもの

(

C

型)は全体の約一八・七パ

i

セ ン トであり、全体の二割にも満たない。この数字によって、円続 自本紀﹄編纂の段轄で藷卒伝の掲載についてなんらかの基準が 存在していたのではないかということが想定できる。 では、吋続日本紀﹄をはじめとして六回史において嘉卒伝の 編纂材料となる史料とはどのようなものであったのか。それに ついては、職員令の式部省条にみえる式部卿の職掌には、 掌下内外文官名張。考課。選鼓。櫨儀。版位。位記。校一一 定勲績一。論レ功封賞。輯集。学校。策一一試貴人一。禄賜。 俵 使 。 補 一 一 任 家 令 一 。 功 臣 家 傍 白 事 主 。 という規定が存在するが、その中の一つに﹁功臣家停国事﹂と いうことがある。ここに見える家伝は狭義の缶記のことである。 /¥ ただし、﹁田﹂の一字によって解釈が難しいものになっている ようではあるが、﹁功自の家の伝、田の事﹂という訓みに従い たい。さらに、この﹁功臣家停﹂について﹃令集解﹄が引用す る注釈の諸説には、 謂有功之家。進其家傍。省更撰修。樺云。家傍書名也。億 如。=一史列停之類。跡一玄。家停功臣之子孫嫡々相繕状注置 由。古記去。三位以上。或四位以下。五位以上有レ可レ嬬一一 功臣也一。如ニ漢書停一也。禄令去。五位以上。以レ功食レ 封 者 。 其 身 亡 者 。 大 功 減 レ 半 傍 一 一 コ 一 段 一 。 上 功 減 一 一 一 一 一 分 之 一 一 一 停 一 一 一 一 世 一 。 中 功 減 一 一 四 分 之 一 一 一 一 博 レ 子 。 下 功 不 レ 博 也 。 田 令 去 。 功 由 。 大 功 散 々 不 レ 絶 。 上 功 簿 二 一 一 一 世 一 。 中 功 惇 一 三 世 一 。 下 功 俸 レ 子 官 。 とあり、﹁閏﹂の解釈を記さないものが多く﹁家傍﹂の解釈に 終始しているが、﹁家俸﹂に関してはほぼ法記を指していると 考えてよいであろう。また、その中で唯一﹁田﹂の解釈が記さ れている古記によると﹁停﹂と﹁回﹂それぞれに注釈が為され それぞれが功毘家伝と功臣家田というように解釈すべ て お り 、 き で あ る 。 そして、﹃令義解﹄によれば、提出された家伝は省において さらに編纂作業が行われており、﹃続日本記 h に限らず六国史 に掲載される莞卒缶は諸家から提出されていた史料が編纂材料

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として採り入れられていたと考えられる。 ては家伝の提出が義務付けられていたようであり、また古記に よるとその基準は三位以上はすべて、もしくは四位五位にあっ ても場合によっては伝記の提出が行われていたようであり、藷 卒倍の有無についてはその人物の伝記の有無ということに起因 するのではなく、むしろ編纂段階における編纂者の選択による つまり、功臣につい ところが大きいということになる。 また、国史編纂に際して僧侶の場合もその伝記を家伝の一種 と称して国史所に奉ったということを坂本氏は、吋智証大師 法﹄に﹁延喜二年戊成十一月十九日﹂の自付で記された識語に、 以 一 一 前 家 伝 縮 所 棟 。 清 一 一 一 闇 史 所 一 巳 誌 。 の コ UO ω 一 = ロ 一 本 一 。 とあることから、さらに光定・円仁・真済などの併を挙げて指 摘しておられる。 ここで、吋続毘本紀﹄における僧侶の場合についてみてみる と、僧侶に関しては卒去の記事が記されているものは良弁を含 ( 幻 } ( お ) ( お ) { お ) ( お ) { 幻 ) ( お ) めて道照・義淵・道慈・玄坊・行基・謹真・道鏡の八名であり、 その中で卒伝が記されているものは良弁・義淵を除く六名であ る。しかし、奈良時代を通じての僧侶の数を考慮してみた場合、 八名の卒去記事まして六名の伝記しか記されていない。確かに、 八名中六名に卒伝が記されているということは、いずれも借締 良 弁 と ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ に補任されていた者であり、僧だけでみた場合の割合自体は四 分の三と卒去記事における卒伝記載の割合は大きいが、むしろ 僧侶の卒去記事に関しては多いとはいえない。すなわち、奈良 時代を通じて存在していた僧信の数の割合からいうとほとんど ( 岱 ) ゼロに近い数字であるといえる。若干の遺漏があるものの吋続 日本紀﹄に記されている僧網の捕任記事二五例に記されている ものは全四二名であり、卒伝の-記されているものは全体の約一 四パーセントであり、卒去の記されているものでも全体の約一 九パーセントにしか過ぎない。これは、僧綱に檎任された者と いう眠られた中での数字であっても、全体の五分の一にも満た ない数字である。 ところで、藷卒伝掲載に関しては一定の基準があったように、 僧侶の卒去記事の記載についても当然伺らかの基準があり、そ の結果八名が選ばれ、さらに六名に卒伝が付されることになっ たと考えられる。その基準について、林氏はただ単に僧網であ ったという理由ではなく、卒伝が記された六名に関しては宗教 の伝来者あるいはその経歴などが基準となっており、特に吋続 日本紀﹄が編纂された延暦年間の特殊な関心があったことを指 摘しておられる。 実際に﹃続日本紀﹄の編纂に際して、僧侶の缶記も例外なく ﹁功臣家停﹂として提出されたものが用いられた可能性はある 九

(8)

係 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 南 京 別 問 問 J 京 教 と 政 治 ﹂ O が、その掲載の状況を考えると僧侶に関しては卒缶は勿論のこ とであるが卒去記事自体の掲載についても、さらに何か加の基 準があったと考えられる。しかし、良弁の場合について卒去記 事自体が掲載されているということは、本来掲載されるべきで あった卒倍が何らかの理由で掲載されなかったと考えることも 可能であり、むしろそう考えた方が合理的ではある。ただし、 卒去記事が掲載されたのは良弁自身に対しての評価の現われで あり、その事のみで良弁の評価は決して低いものであったとは いえず、むしろなぜ卒缶が掲載されていないのかということが 三泡照:・﹃続日本紀﹄文武四年(七

O

O

)

三 月 日 未 (

O

謂 臼 。 晋 昔 往 一 一 西 域 一 。 在 レ 路 剣 山 乏 。 無 一 一 村 可 v 乞。忽有二 沙門一手持一一梨子一。与レ吾食之。吾自レ暁後気力日健。今 汝是持レ梨沙門也。又謂日。経論深妙不レ能一一究寛一。不レ 如撃と縛流一一停東土一。和尚奉レ教。始習ニ樟定一。所レ悟梢 多。於レ後陣レ使蹄朝。臨レ訣。コ一誠以二所レ持舎利経論一。 成 授 一 一 和 尚 一 一 向 日 。 人 能 弘 レ 道 。 今 以 一 一 斯 文 一 附 属 。 又 授 二 鎗 子 一 日 。 五 口 従 一 一 西 域 一 自 所 一 一 将 来 一 。 熊 レ 物 養 レ 摘 。 無 レ 不 一 一 神験一。於レ是和尚拝謝。時泣市辞。及杢一一登州一。使人多 病 。 和 尚 出 一 一 銭 子 一 。 暖 レ 水 煮 レ 粥 。 遍 与 一 一 病 徒 一 。 嘗 日 即 差 。 既 解 一 一 讃 顕 嵐 一 部 去 。 比 レ 至 一 一 海 中 一 。 船 漂 蕩 不 レ 進 者 七 百 七 夜。諸人怪臼。風勢快好。計レ自腹レ弼一一本国一。船不一一肯 行一。計必有レ意。ト人日。龍王欲レ得一一鎗子一。和上関レ之 日。鏡子此回疋三蔵之所レ施者也。龍王伺敢索レ之。諸人皆 日 。 今 惜 一 一 鎗 子 一 不 レ 与 。 恐 合 レ 船 矯 レ 魚 食 。 国 取 一 一 鎗 子 一 描 入ニ瀧中一。登時船進還一一鶴本朝一。於二元興寺東南隅一。別 建 一 一 躍 院 一 荷 住 意 。 子 レ 時 天 下 行 業 之 徒 。 従 一 一 和 尚 一 筆 レ 輝 君 。 於レ後周二遊天下一。路傍穿レ弁。諸津済露。儲レ船造レ橋。 乃山背園宇治橋。和尚之所一一創造一者也。和尚周遊凡十有 齢 載 。 有 一 一 勅 請 一 還 止 一 一 住 稗 腕 一 。 坐 禅 如 レ 故 。 ' 或 一 一 一 日 一 起 。 或七日一起。後忽香気従レ房出。諸弟子驚怪。就商謁一一和 尚 一 。 端 一 一 銭 縄 床 一 。 元 レ 有 一 一 気 恵 一 。 時 年 七 十 有 二 。 弟 子 等 重要であろう。 では、ここで煩雑ではあるが以下に﹃続日本紀﹄に掲載され ている六名の僧の卒伝を挙げる。 日)条 三月己未。道照和尚物化。天皇甚悼一一慌之一。遣レ使弔一一時 之一。和尚河内圏丹比郡人也。俗姓船連。父恵理少錦下。 和 尚 戒 行 不 レ 訣 。 尤 尚 ニ 忍 行 一 。 寄 弟 子 欲 レ 究 一 一 其 性 一 。 籍 穿 一 一 梗 器 一 。 漏 汚 一 一 被 祷 一 。 和 尚 乃 微 笑 目 。 放 蕩 小 子 汚 一 一 人 之 床 一 。 寛無ニ復一言一着。初孝徳天皇自雑四年。櫨レ使入唐。 適遇一一玄弊三瀦一。師受レ業君。三識特愛。令レ住ニ間一環。

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奉一一遺教一。火一一葬於栗原一。天下火葬従レ此而始也。世博 一 五 。 火 葬 畢 。 親 族 与 一 一 弟 子 一 相 手 。 欲 下 取 一 一 和 上 骨 一 数 ト ク 之 。 繍風忽起。吹ニ鰯灰骨一。終不レ知一一其露一。詩人異レ濡。後 遷一一都平城一也。和尚弟及弟子等奏開。徒一一建樟院於新京一。 今平城右京諦院是世。此院多有一一経論一。書壇構好。並不一一 錯 誤 一 。 皆 和 上 之 所 一 一 将 来 一 者 也 。 b 道慈・:﹃続日本紀﹄天平二ハ年(七四回) 日)条

O

月 辛 卵 ( 冬十丹辛邦。律師道慈法師卒。駅間一航海法師岱姓額田氏。添 下郡人也。性聴官爵レ衆所レ推。大賢元年龍レ使入農。渉一一覧 経典一。尤精一三五調一。養老二年蹄報。是持稗門之秀者唯法 部及神叡法師二人面己。著一一述愚志一巻一論一一僧尼之事一。 其 路 日 。 今 察 一 一 一 日 本 素 絡 行 一 一 締 法 一 軌 模 全 巽 一 ニ 大 唐 道 俗 簿 一 一 聖 教 法 則 一 。 若 瀬 一 一 経 典 一 。 能 護 一 一 閤 土 一 。 如 違 一 一 憲 章 一 。 不 レ 利一一人民一。一盛悌法。万家修善。伺用ニ虚設一。宣不レ領 乎。弟子停レ業者。子レ今不レ絶。属遷一一造大安寺於平城一。 勅 一 一 法 師 一 勾 二 番 其 事 一 。 法 師 尤 妙 一 一 工 巧 一 。 構 作 形 製 皆 票 一 一 其 規 模 一 。 所 レ 有 匠 手 莫 レ 不 一 一 歎 服 一 鷲 。 卒 時 年 七 十 有 齢 。 c 玄坊:・吋続日本紀﹄天平一八年(七四六)六月日亥ご八 日)条 己亥。借玄肪死。玄紡俗姓阿万氏。翠轟ニ年入唐四四千問。 良弁と♂祝日本紀弘 天 子 尊 レ 妨 。 准 一 一 一 二 口 四 一 令 レ 着 一 一 紫 袈 裟 一 。 天 平 七 年 随 一 一 大 使 多治比異人麗成一還開。藤一一経論五千鈴巷及諸併像一来。長 朝 亦 施 一 一 紫 袈 裟 一 着 レ 之 。 尊 属 一 一 僧 正 一 。 安 一 一 置 内 道 場 一 。 自 レ 是之後。築寵日盛。輪誘一一沙門之行一。時人悪レ之。至レ是 死 二 於 徒 所 一 。 世 相 傍 一 E 。 馬 一 一 藤 原 鹿 嗣 謹 一 所 レ 害 。 d 行基・:﹃続日本紀﹄天平勝宝元年(七四九)一一月了直(二 日)条 月丁富。大僧正行基和尚選化。和尚薬師寺僧。俗姓高志 氏。和泉盟人也。和尚員秤天挺。徳範夙彰。初出家。讃一一 時 晴 伽 唯 識 論 一 即 了 二 笠 釜 山 一 。 既 市 周 二 遊 都 郡 一 教 一 一 化 衆 生 一 。 道俗慕レ北追従者。動以レ千数。所レ行之鹿関一一和尚来一。 苓元二麗人一。字来礼拝。蹟レ器誘導。威趣一一子善一。又親 率二弟子等一。於一一諾要害躍一造レ橋築レ段。関見所レ及威来 加レ功。不日市成。百姓歪レ今蒙一一其利一藷。豊捜彦天皇甚 敬重鷲。詔授一一大館正之位一。芥施一一四百人出家一。和尚霊 異神験鰐レ類市多。時人号臼二行基菩薩一。習止之慮皆建一一 道場一。其畿内凡加九慮。諸道亦註々荷在。弟子相繕皆守一一 遺法一。至レ今住持意。義時年八十。 e 霊真:・﹃続日本紀﹄天平宝字七年(七六一二)五月戊申(ムハ 日)条 五月戊申。大和上霊長物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。

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偽教大学総合研究所紀要別冊よ京教と政治﹂ 博 渉 一 一 経 論 一 。 尤 精 一 一 戒 律 一 。 江 准 之 問 調 爵 一 一 化 、 王 一 。 天 賛 載 。 留 圏 平 僧 祭 叡 業 行 等 由 一 一 和 上 一 日 。 悌 法 東 流 歪 一 一 於 本 間 一 。 雄レ有一一其教一無二人博授一。幸願。和上東遊興レ化。辞出荷懇 至。諮請不レ息。乃於一一楊州一貿レ船入レ謀。市中途風漂。 船被ニ打破一。和上一心念係。人皆頼レ之免レ死。至一一於七 載一一史復渡海。亦遭一一風浪一漂一一着日南一。時築叡物故。和 上 悲 泣 失 レ 明 。 勝 費 四 年 。 本 題 使 適 轄 一 一 子 唐 一 。 業 行 乃 説 以 一 一 信 心 一 。 遂 与 一 一 弟 子 廿 四 人 一 。 寄 一 一 乗 副 使 大 伴 搭 祢 古 蘇 呂 船 一 騎朝。於一一東大寺一安置供養。子持有レ勅。校二正一切経論一。 往々誤字諸本皆問。莫一一之能正一。和上諾謡多下一一雄黄一。 又 以 一 一 諸 薬 物 一 令 レ 名 一 一 員 鶴 一 。 和 上 一 々 以 レ 鼻 別 レ 之 。 一 一 無 一 一 錯失一。聖武皇帝師レ之受戒意。及二皇太后不悉一。所レ進 欝薬有レ験。授一一位大僧正一。俄以一一網務煩雑一。改授二大和 上之号一。施以一一儲前鴎水田一吉町一。又施二新田部親王之 蓄 宅 一 以 爵 一 一 戒 龍 一 。 今 招 提 寺 田 疋 也 。 和 上 預 記 一 一 終 日 一 。 至 レ 期端銭。恰然違化。時年七十有七。

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道 鏡 : ・

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抗日本紀﹄宝亀三年(七七ニ)四月了巴(七日) 条 了 巳 。 下 野 鴎 一 一 一 一 ロ 。 造 薬 師 寺 別 嘗 道 鏡 死 。 道 鏡 。 俗 姓 弓 削 連 。 河 内 人 也 。 格 渉 一 一 党 文 一 。 以 一 一 締 行 一 開 。 出 レ 是 入 一 一 内 道 場 一 列 爵 一 一 躍 師 一 。 蜜 字 五 年 。 従 レ 幸 一 一 保 良 一 。 時 侍 一 一 審 病 一 精 被 一 寵 幸 一 。 慶 帝 常 以 爵 レ 一 官 一 向 。 興 一 一 不 ニ 相 中 得 一 。 天 皇 乃 還 一 一 平域別富一商岩意。賢字八年大師恵美仲麻呂謀反伏レ設。 以 一 一 道 鏡 一 講 一 一 太 政 大 臣 蹄 師 一 。 居 頃 之 。 山 一 間 以 一 一 法 王 一 。 載 以 一 一 繁興一。衣服歓会一擬ニ供御一。政之在細莫レ不レ取レ決。其 弟 揮 人 。 白 一 一 布 衣 一 。 八 年 中 査 一 一 従 一 一 位 大 納 一 一 一 一 口 一 。 一 門 五 位 者男女十人。時大宰主神習宜開曾麻呂詐橋一一八幡神教一。 証 二 耀 道 鏡 一 。 々 々 信 レ 之 。 有 下 規 一 一 観 神 器 一 之 意 上 。 語 在 一 一 高 野 天 皇 紀 一 。 治 一 一 子 宮 車 長 駕 一 。 猶 以 一 一 威 福 出 ⋮ レ 己 窮 龍 一 一 銭 倖 一 。 御 葬 躍 撃 。 奉 レ 守 一 一 山 駿 一 。 以 一 一 先 帝 所 一 レ 寵 。 不 レ 忍 レ 致 レ 法 。 国 馬 一 一 造 下 野 圏 薬 師 寺 別 意 一 。 遜 一 一 送 之 一 。 死 以 一 一 庶 人 一 葬 レ 之 。 これらのうち、玄妨と道鏡に関してはともに﹁死﹂と記され ており、地の西名とは別の理由で卒缶が掲載されているものと 考えられ、両者については加の機会に稿を改めて考察を行いた い 。 し か し 、 玄 坊 と 道 鏡 を 除 く 四 名 に つ い て は 、 そ れ ぞ れ よ ご ( 道 照 ・ 聾 真 ) ・ ﹁ 子 レ 今 ﹂ ( 道 慈 ) ・ ﹁ 至 レ 今 ﹂ ( 行 基 ) と 、 吋続出本紀﹄編纂時の延麿年間を指す語が記されており、一編纂 持における特殊な関心が基礎となっていることは認められ、さ らに玄坊の場合は延庶周期に高まった怨霊思想の反映であるとい うことが指摘されていお。 そして、玄関・道鏡を除く西名の卒伝であるが、中でも

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道照と

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の行基に関してはその編纂の材料となった原史料につ いては水野榔太郎氏により、いずれも寺院縁起に類する史料い わゆる縁起様文書が﹃続日本紀﹄の材料として使用されていた ことが指摘されている。その縁起様文書は各寺院が経済的特権 を要請するために提出されたものであり、﹃続日本紀﹄編纂に 際して治部省に保管されていたものが用いられたものと考えら れており、首肯すべきであろう。 水野氏の見解に従って道熊と行義についてみてみると、先ず 道賭の場合であるが、道照に関する基本的な史料であるよ祝日 本 紀 ﹄ ・ ﹃ 日 本 霊 異 記 ﹄ ・ ﹃ 告 本 一 一 一 代 実 録 ﹄ の 比 較 か ら 、 ﹃ 続 百 本 紀﹄のみにある火葬の記事・葬儀における奇異語・平城移建後 の禅能寺および経論についての、=一笛条の道照没後の記事の存 在を指摘しておられる。そして、特に禅撰寺関係の記事につい ては、平城移建後の記事は必ずしも不可欠ではなく、禅院寺と 道照の関係や、経論が道照を通じて玄弊に至る貴重な存在であ るとの主張が含まれていることから﹃続日本紀﹄道照伝が禅院 寺と密接な関係をもつことを指摘しておられる。すなわち、こ れは﹃禅龍寺縁起﹄に掲載された道照伝からの引用であり、可 能性として﹃延暮式﹄巻二六主税上の﹁諸国本稲条﹂の伊豆閣 に﹁躍院料一千束﹂とみえる出挙稲を獲得するために製作され、 提出されたものではないかと考えておられる。 良弁とぷ祝日本紀 h また、行基の場合に関しては、﹁行基大僧正墓誌﹂(﹃太僧正 舎利瓶記﹄)・﹃続日本紀三﹃日本霊異記﹄の各行基伝の比較か ら、﹁墓誌﹂を基本として﹃続日本紀﹄は記事を挿入し、﹃日本 霊異記﹄は記事を省略しながら作文していることを指摘してお られる。そして、それぞれの記述態度の相違は、その著述目的 の相違に起因するとし、よ祝日本紀﹄の行基伝については寺田 施入を上申するものであり、施入の対象になる寺院の重要性が 強調されており、建立者が稀代の高僧であり聖武天皇を初めと して一般民衆に至るまでの帰依を得たことが具体的に述べられ るという指播を行っておられる。また、その契機としては吋続 日本紀﹄宝亀四年(七七三)一一月辛卯条に、 十一丹辛知。勅。故大僧正行基法師。戒行真足。智穂兼備。 先 代 之 所 一 一 推 仰 一 。 後 生 以 爵 一 一 耳 目 一 。 其 修 行 之 院 。 惣 品 川 鈴 鹿 。 或 先 朝 之 日 。 有 一 一 施 入 田 一 。 或 本 有 一 一 田 国 一 。 供 養 得 レ 済 。 但 其 六 院 未 レ 預 一 一 施 例 一 。 由 レ 葱 法 議 淫 態 。 無 一 一 復 住 持 之 徒 一 。 精 舎 荒 涼 。 空 諒 一 一 坐 蹄 之 跡 一 。 弘 レ 道 由 レ 人 。 賓 ム ロ ニ 奨鴎一。宜一一大和国菩提。登美。生馬。河内鴎石凝。和泉 開高濃五院。各捨一一嘗郡田三町一。河内翻山埼院二町。所レ 翼虞茎秘典。永浩一一東流一。金輪賓位。慌費二北極一。風雨 隈 レ 時 。 年 穀 豊 稔 。 と寺田施入が行われているが、この寺田施入に際してそれを要

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係数大学総合研究所紀要別冊﹁宗教と政治﹂ 請した上申文書から採録されたものと推測しておられぷ﹁ 以上より、道照・行基ともに共通して寺院が提出した史料が 原材料となって﹃続日本紀﹄の編纂に探して採用されたもので あり、その提出の契機としては各寺院が経済的な特権を要請す るためのものであったということが想定できる。 では、道慈と襲真の場合はどのような史料が材料となったの であろうか。結論的なものを先に述べるならば、共に縁起様文 書が使用されていると考えられる。先ず道慈の場合であるが、 大安寺から提出された史料が当然使用されるに至ったものと考 えられる。大安寺に関しては﹃続日本紀﹄神護景雲元年(七六 七)三丹戊午(九日)条に、 戊午。幸一一大安寺一。授一一造寺大工正六位上軽関連烏麻呂外 従 五 位 下 一 。 とみえ、この時、大安寺に行幸があり造寺大工に授位が行われ ている。ただし、この日の前後には元興寺・西大寺・薬師寺等 への行幸が記されており、薬師寺においても長上工以下に賜爵 が行われている。薬師寺に関しては不明であるが、大安寺につ いてはこの時の造寺大工軽間鳥麻呂への授位は、前年の天一平神 一二月己留(二八日)条に、 護二年(七六六) 己 酉 。 震 一 一 大 安 寺 東 塔 一 。 と、落雷があった東塔の再建もしくは修理作業の完成によるも 四 の と 考 え ら れ る 。 そ し て 、 ﹃ 類 隊 派 一 一 一 代 格 ﹄ 巻 一 五 ﹁ 寺 田 事 ﹂ に 太政宮符 合田六町 大和圏 町一時。東十一橋本田。 右。修一一理金堂悌菩薩井歩廊中門文殊維摩羅 漢寺像一新 掻津闘二町一町九健五里品川五大針田。 右。修一一理大門中門四玉井金堂力士寺像一新 町 山背圏 右 。 修 一 一 理 寺 中 本 町 駅 一 人 臣 室 一 稿 。 奉 レ 勅 。 件 田 並 永 殿 一 一 入 於 大 安 寺 一 。 神護景雲元年十二月一日 とあり、諸修理料として田六町の施入が行われている。つまり、 この神護景雲元年(七六七)における東塔の造営後、以後の修 理のために寺田の施入が行われたと考えられるが、この時の施 入には大安寺からの働きかけもあったのであろう。そして、そ の申請に際して大安寺から朝廷へと提出された文書に、その縁 起的な部分に大安寺の平域京移建に尽力した道慈の業績が記さ れていたのではないだろうか。そのため、道慈の卒伝において は 、 特 に ﹁ 属 選 一 一 造 大 安 寺 於 平 城 一 。 勅 一 一 法 師 一 勾 一 一 首 其 事 一 。 法 師 尤 妙 一 一 工 巧 一 。 構 作 形 製 皆 裏 一 一 其 規 模 一 。 所 レ 有 匠 手 莫 レ 不 一 一 歎 以前。被

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服一意。﹂と記されていると考えられる。 次に、霊真の場合は鹿招提寺が提出した史料によって、すな わち淡海三船撰の吋唐大和上東征伝﹄(以下﹁東征缶﹄と略 す)もしくはそれと系統を同じくする史料を材料として-記され て い る 。 そ し て 、

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に ﹁ 施 以 一 一 備 前 鴎 水 田 一 百 町 一 。 又 施 一 一 新 田 部親王之奮宅一以爵一一戒院ことみえ、備前国の水田一

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町 と 新田部親王の出宅がともに竪真に施されたというように記載さ れている。当然、これと同様の記述は﹃東証伝﹄にもみえ、 の以賛字元年了酉十一月廿三日、勅施備前園水田一百町、 大和上以此田、欲立伽藍、時有勅旨、施大和上関地一匿、 是故一品新田部親王之奮守、 と、備前回の水田が襲真偶人に与えられ、襲真はそれによって 伽藍すなわち唐招提寺を建立したというように異体的な記載が あ る 。 しかしながら、この備前国水田一

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町に関しては、﹃続日 本紀﹄天平安字元年(七五七)一一月壬寅(二八日)条に、 壬寅。勅。以一一備前菌墾田一百町一。永施ニ東大寺唐糟院十 方衆僧供養料一。伏願。先帝陸下薫一一此芳因一。恒薩一一輝林 之 定 影 一 。 翼 一 一 葱 妙 福 一 。 速 乗 一 一 智 海 之 慧 舟 一 。 終 生 一 一 蓮 華 之 賢利一。自契一一等魔之員如一。皇帝皇太話。知二日月之照臨 並 治 一 一 廿 閉 問 題 一 。 一 天 地 之 覆 載 一 長 育 一 一 兆 民 一 。 遂 使 下 馬 一 一 出 良弁とぷ祝日本紀初 社 之 良 閤 一 成 中 菩 提 之 妙 果 上 。 とあり、唐招提寺系の史料にみえる一一月二三日とその施入の 日付が異なるのみならず、施入された水田については決して聾 真錨人に対して与えられたという記載ではなく、﹃続日本記﹄ の記事からは﹁東大寺窟樟院十方衆僧供養料﹂として施入した とのみ記されるだけであり、窟招提寺系の史料の間に矛臆が生 じている。例えば、大治五年(一一ニ

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一 二 月 十 三 日 付 の ﹁ 東 大寺諸荘文書弁絵図等目録﹂に、 一 備 前 閤 とある儲前国の墾田 頗不異文也、の不委住之、

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町は、唐禅院に施入された水田を指 しているものと考えられ、平安時代末においても東大寺の荘園 連 墾田百町 であったと思われる。 では、六国史にみえる唐招提寺の寺領についてみてみると、 先ず﹃続日本紀伺出宝亀七年(七七六)六月突亥(七日)条に、 突 亥 。 播 露 国 戸 五 十 燭 捨 一 一 招 提 寺 一 。 とあるのが初見であり、次いで﹃岳本後紀﹄延暦二三年正月戊 成 ( 二 二 日 ) 条 の 如 宝 奏 一 言 に は 、 戊 成 。 律 師 傍 燈 大 法 師 位 如 賢 一 一 一 一 口 。 招 提 寺 者 。 斯 唐 大 和 上 襲 虞 奉 一 一 掃 翌 朝 一 所 レ 建 也 。 天 平 賛 字 三 年 。 勅 以 一 一 波 宮 地 一 賜 レ 之。名爵一一招提寺一。又以一一越前爵水田六十町。備前圏田地 五

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崩仰教大学総合研究所紀要別問よ市教と政治﹂ 十 三 町 一 。 充 一 一 給 供 料 一 。 令 レ 翠 一 一 戒 法 一 。 以 来 殆 五 十 年 。 難 レ 有 ニ 緩 律 一 。 米 レ 経 一 一 披 講 一 。 一 剤 恭 一 一 和 上 之 素 意 一 。 一 郎 関 ニ 仏 道 之 至 士 山 一 。 伏 望 。 令 下 永 代 侍 講 。 便 用 ニ 賜 田 一 。 充 中 一 帯 供儲上。然別招提之宗久市無レ康。先師之官設而不レ朽。許レ 之 。 とみえ、また

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本 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 仁 寿 一 一 子 ( 一 九 日 ) 条 に 、 ( 八 五 三 ) 十 月 丙 丙子。招提寺田地百七十八町田段三百廿三歩。永馬傍法問。 初 賛 韓 中 。 大 唐 和 尚 鑑 異 質 一 一 得 此 地 一 。 施 一 一 入 寺 家 一 。 其 後 逐 二 年 墾 閤 一 。 頃 畝 増 藤 。 以 一 一 功 徳 故 一 。 聴 一 一 不 輪 租 一 。 とあり、これらの史料においては明らかに備前田水田一

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町 については触れられてはおらず、報廷より認可されていなかっ たために触れることができなかった可能性は存在する。しかし、 ﹃ 東 征 伝 h および唐招提寺系の史料において、寺領獲得のため の働きかけがあったことは明かとなろう。 このことに関しては、すでに福山敏男氏が指摘しておられる ように、宝亀年間以降の寺領獲得の動きのなかで、唐招提寺が 自らの所領のごとく主張するようになったものと考えられる。 すなわち、契機として考えられることとしては、唐招提寺の寺 領について宝亀七年(七七六)の封戸の施入は嘩かに五十戸の みであり、他の南都諸大寺と比べるとはるかに少ないものであ ノ 、 り、そのため唐招提寺が東大寺唐禅焼に施入された備前田水田 を自らのもとに取り込むために改変を行なったということを示 しているといえる。そして、運くとも宝亀一

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年(七七九)に 撲述された﹃東征伝﹄においてすでに、あたかも当初より備前 国水田が竪真個人しいては窟招提寺の寺領であったかのような 作偽が行なわれている。ただし、﹃続日本紀﹄の記事をみた場 合﹃東征缶﹄が直接使われているのではなく、唐招提寺から提 出された接結様文書が使われているのであろう。そして、この こ と は

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を掲載するにあたって、唐招提寺から提出されていた 史料が﹃続日本紀﹄天平宝字元年(七五七)一一月壬寅(一一八 日)条と明らかに矛麗するにもかかわらず、﹁内容が審査され ることもなく承認され﹂た例として挙げることができる。 以上から、玄坊・道鏡を除く道照・道慈・行基・肇真に共通 して、その卒伝の原史料となったものとして各寺院より提出さ れた縁起様文書の存在が想定でき、その契機としては経詩的な 特権を政府より受けようとしたためであった。そして、﹃続日 本紀﹄に卒伝が掲載されている僧侶の基準については、林氏が 指摘しておられるように特別な基準が存在していたことは十分 に考えられるが、加えてよ祝日本紀﹄編纂に探してその編纂材 料となったものとしては、各寺院から提出され治部省に保管さ れていた文書が利用されたのであり、一編纂材料すなわち卒伝の

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素材の有無も考蕗に入れるべきであろう。 良弁の場合であるが、以上の考察より僧拐の倍記がよ祝日本 紀﹄に収録されるに際して、編纂材料となるものとして各寺読 より提出された史料である縁起様文書が箆用されたことを考慮 するならば、良弁の場合も東大寺より提出された縁起様文書の 存在が重要となる。そして、東大寺より提出された縁起様文書 についても、既に水野榔太郎氏によりその存在が指摘されてお り、﹃続日本紀﹄編纂の材料として使用されていたことが明か となっている。しかし、当然のことながら東大寺内における良 弁の立場および当時の仏教界における地位を考えてみた場合、 先にみた道照・道慈・行基・襲真と同様にその伝記が縁起様文 書に記されていたと考えて何ら差し支えはないのにも関わらず、 卒伝が掲載されてはないということはいかなる理由があったの で あ ろ う か 。 良弁の卒伝が掲載されなかった理由として、宮城洋一部氏は 橘諸兄との政治的な結びつきを想定されて、反藤原氏の立場で あった橘諸兄の政治的な敗北により需様に良弁の活躍がよ杭日 本紀﹄から除去されたと考えておられる。また松本信道氏は、 良 品 汁 と ﹃ 続 臼 本 紀 ﹄ 宮城説に対して﹁皮藤原氏の立場﹂にあった道鏡が﹁除去﹂さ れずに収載されていることの矛居、吋東大寺要録﹄の良弁関係 記事の史料的儲債を高く評価されているというこつの疑問点を 提起されながらも、宮城説を継承されて、同時によ祝日本紀﹄ の成立事情を踏まえたよで良弁の卒伝が削除されたということ を示唆しておられる。つまり、長弁の卒去記事の当該巻である 巻三二の一編纂過程から卒訟の有無について、﹁修正﹂の際に何 らかの価値判断に基づく﹁除去﹂がなされた場合と、当初より 良弁の伝記が収載されていなかった場合の両方の可能性を提起 された上で、先にも述べたよ杭日本紀﹄の藷卒伝の材料として、 一般の記事とは別個に法記の形を取って存在していた、および ﹃続日本紀﹄の一編纂材料として東大寺提出の文書が採揺されて いたという林・水野両氏の研究をもとに削除の可能性を指摺し て お ら れ る 。 しかし、良弁の卒告がよ祝日本紀﹄から削除されたとするな らば、卒去記事自体が削除の対象となるのが当然であり、卒伝 のみ剖除されたとは考えにくい。また、その卒去記事に関して も再考の余地があるように思われる。 例えば、④の記事において﹁閤十月﹂は元来諸本では欠落し ており、﹁僧正良弁﹂とあるのも諾本に﹁信良弁﹂とあったも のがそれぞれ訂正されていることなどであるが、いずれも伝写 七

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偽教大学総合研究所紀婆別冊﹁宗教と政治﹂ の間に錯簡が生じたものと考えられる。ただし、﹁僧正﹂とい う肩書一は本来は﹁僧﹂とのみ記載されていたものが一訂正された ものであり、卒去時点で信網を致仕していたのではないかとい う推測も成立する。このことは、一つには良弁の年齢にもよる と考えることができる。良弁の生年は一応持統三年(六八九) ( 叩 ) ということであり、宝亀四年の時点では八五歳という高齢であ り、俗にあっては賑給を受ける年齢でもある。また、実擦かつ て聾真について﹃続日本紀﹄天平宝字二年八月庚子朔条には、 其大僧都霊長和上。戒行轄潔。白頭不嬰。遠渉⋮⋮治波一。 蹄 一 一 我 盟 朝 一 。 号 忠 一 ⋮ 大 和 上 一 。 恭 敬 供 養 。 政 事 繰 額 。 不 一 一 敢努 v 老 。 宜 レ 停 一 一 僧 網 之 任 一 。 集 二 諸 寺 僧 尼 一 。 欲 レ 向 学 一 一 戒 律 一 者 。 皆 膳 令 レ 習 。 とみえ、高齢によって僧綱の任を解かれている。良弁と聾真の 場合を同一に考えることはできないとしても、僧織の辞任に擦 して高齢ということが理由とも成りえる余地は認められる。し かし、弔使を派遣しているということと、卒去記事が記されて いるということから考えて、信正に在任のまま卒去したものと 考 え ら れ る 。 ただし、卒去の日付に関しては、堀池春峰氏によれば良弁の 卒去年月日については数説が存在同﹁

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宝亀四年(七七三) 丹 六 日 ・ ・ ・ ﹃ 七 大 寺 年 表 ﹄

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宝 亀 四 年 ( 七 七 一 一 一 ) 間 一 一 月 一 六 日 ・ : ﹃ 東 大 寺 要 録 ﹄ /¥ 亨 釈 書 ﹄

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宝亀四年(七七三)随一一月二呂田:・﹃続日本紀﹄

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天平宝字五年(七六一)一一月一六日:・﹃南都高僧伝﹄ 以上の四説が存在する。

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の天平宝学五年卒去説に関しては、 ﹃続日本紀﹄の記事と明らかに矛盾し、さらに天平宝字五年以 降も﹃大臼本古文書﹄等に良弁の名が見えることからも当然退 けられるべきである。そうすると、

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の三説が残り良弁の 卒去年は宝亀四年ということで異存はないであろうが、その月 日が問題となる。すなわち、間月かどうか、一六自か一一四日か というこ点が問題となる。先、ず前者であるが、

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の﹃七大寺年 表﹄以外は龍一月であり、﹁閏﹂の一文字が倍写の際に欠落 したものと考えられる。 そして、日付に関しては吋続日本紀﹄のみが二四日説を記し ているのであり、その他の一一一説は全て一六日という日付を採用 している。これは良弁の卒去の臼付に関して、﹃続日本紀﹄が 採用した日付と﹃東大寺要録﹄等の東大寺に伝えられている史 料等の日付が異なるということを示している。つまり、﹃続日 本紀﹄における東大寺関係の記事の場合、東大寺より提出され た縁起様文書が編纂材料として使われているということを考慮 するならば、良弁の卒去の日付に関しては東大寺側の史料が採

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用されていないということになる。 ところで、吋続日本紀﹄の同年間一一丹辛酉(一二日)条に 借網の鱒物に関する記事が以下のように記されており、 辛 蕗 。 詔 。 借 正 鱒 物 准 一 一 従 四 位 一 。 大 少 僧 都 准 一 一 正 五 位 一 。 律 的 滋 一 一 従 五 位 一 。 とみえる。﹃続日本紀﹄にあってはこの辛酉(一二日)の詔は 良弁の卒去の三日前に当り、良弁の卒去と無関係ではないが、 問時にその意趣には僧正・大僧都・律師に階差を付けることで あったと指摘されている。 抽出織に対する贈物は、よ

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集解﹄喪葬令職事官条の令釈に引 用されている大宝充年(七

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二七月四日勅裁に、 七月四日勅裁。借鱗賜物者。僧正准一一正五位一。大少僧都 律 部 並 准 一 ⋮ 従 五 位 一 給 之 。 とみえ、僧正とそれ以外の大小僧都律師との間において格差が 見られる。それに対して、この宝亀四年(七七三)間一一月辛 酉の詔ではさらに大少信都と律師との間にも格差が付けられて いる。確かに、これは良弁のみが優遇された措置ではなく、以 後の僧正あるいは僧綱についても同捺の待遇が与えられること となり、良弁の卒去との直接的な関係は薄いように感じられる。 しかし、﹃続日本紀﹄の記載に従うならば、良弁の卒去前に この鱒物に関する規定の変更が行われ、まさに良弁の卒去に際 良 弁 と ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ しての措龍であると考えることができる。﹃続日本紀﹄以外の 史料では良弁の卒去は当然のことながら規定変更の 4 別 で あ り 、 ﹃続日本紀﹄では良弁の卒去前に執られた措置ということとな る。ただし、僧網あるいは借留の卒去に探して贈物が特別に出 された併が全く無いわけではなく、例えば良弁の蹄であり同じ く僧正で卒した義、棋は卒去に際して紘一百疋・紙二百絢・綿一ニ 百屯・布二百離を賜わっている。これは先に挙げた規定では、 僧正の賜物が正五位に準じていたことからすると、喪葬令職事 官条では正五位の鱒物が﹁施十一疋。布四十四端。銭二連。﹂ であったのに比べ例外といえる措置であった。この義輔の場合 は特別であったとしても、良弁に対しても何等かの措置が採ら れたと考えてもよく、この場合鵠綱の鱒物の変更にその意味が 含まれていたとして差し支えないであろう。しかし、その措援 は普通死去する前になされたとするよりも、当然その死後に行 われたと考える方が自然である。従って、良弁が卒去したのは 間一一月 が で き る 。 六日であったということ 一 日 で は な く 、 五日前の このように、死去の日付が二説存在するというのは、決して 良弁のみというわけではない。例えば、光仁天皇の父である芯 費親王について、その莞去については﹃続日本紀﹄霊亀二年 ( 七 二 ハ ) 八月甲寅(一一自)条に、 九

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帥仰教大学総合研究所紀愛別問 J T m 教と政治 I } 甲寅。ニ品士山貴親王莞。遺一一従四位下六人部王。正五位下 蘇犬養指祢筑紫一。監一一護喪事一。親王天智天皇第七之皇子 世 。 賛 亀 元 年 。 追 尊 轄 下 御 一 一 春 日 宮 一 天 皇 上 。 とみえる。しかし、﹃類緊三代格﹄巻一七﹁七臨謹追号井改姓 名 事 ﹂ の 宝 亀 一 一 一 年 ( 七 七 二 ) 五 月 八 日 勅 に は 勅。先帝丙民年八月九百崩。 皇太后己酒年九月十西日崩。 右 件 櫛 墓 自 今 以 後 。 橋 一 一 山 援 一 。 とあり、士山貴親王の莞じた日付について﹃続日本紀﹄の八月 一日に対して八月九日であり、臼付に関して二日の相違がみら れる。志貴親王が光仁天皇の父であることを考えるならば、当 然その嘉去の日付に間違いがあるはずはなく、この場合は﹃続 日本紀﹄の自付は喪古学を監護する使が出された日付であろうと 考 え ら れ て い る 。 つまり、吋続日本紀﹄に記載されている藷卒の自付について 厳密に記されているわけではなく、編纂に際して採用した史料 によっては若干の栢違が生じる場合があるといえる。そして、 良弁の場合については﹃続日本紀﹄編纂に探して東大寺から縁 起様文書が提出されていたのにもかかわらず、良弁の卒去につ いて東大寺側の史料が使われていないということになり、政府 Qll O に残っていた弔使の派遣記録をもとに記されたことになる。こ れは故意に編纂時に東大寺側の史料を無視した可能性もあるが、 むしろ東大寺が提出した史料に良弁のことが記されていなかっ た可能性が大きい。そして、東大寺が録起様文書を提出した背 景を考えてみると、東大寺の場合も経済的な特権のためであっ たということが指摘できる。 すなわち、東大寺に与えられた食封であるが、﹃続日本記﹄ 天平勝宝二年(七五

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)

二 月 壬 午 ( 二 一 一 一 自 ) 条 に 壬 午 。 益 一 一 大 倭 金 光 明 寺 封 三 千 五 百 一 戸 一 。 通 レ 前 五 千 戸 。 とあり、この時点で東大寺に合計五

000

戸の食訴が与えられ ている。ただし、同書天平勝宝元年(七四九)一二月了亥(ニ 七 日 ) 条 に も 、 了亥。(中略)施一一東大寺封四千戸。奴百人。稗百人一。又 預 一 一 造 東 大 寺 一 人 。 随 レ 努 叙 レ 位 有 レ 差 。 とあり、時一書の中で矛盾があるが、これは両者の記事の材料 となった史料の相違によるものであるが、東大寺に五

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0

0

戸 の食封が与えられていたということに関してはなんら異論はな い。そして、この食封はその後天平宝学四年(七六

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)

七月庚 成 ( 一 一 一 一 一 日 ) 条 で は 、 又勅目。東大寺封五千一戸者。平城宮翻字後太上天皇皇帝皇 太 后 。 以 一 一 去 天 平 勝 賢 一 一 年 二 月 廿 三 日 一 。 専 自 参 一 一 向 於 東 大 寺 一 。

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永用二件封一入一一寺家一詑。荷造レ寺了後。種々用事未レ一一 分 明 一 。 因 レ 草 。 今 追 議 下 定 後 間 一 一 一 造 修 一 一 環 塔 精 舎 一 分 一 千 戸 。 井常住僧分二千戸。宮家修一一行諾併事一分 供 一 一 養 一 一 一 戸 上 。 とあり、会封五

000

一戸の用途についてそれぞれ﹁営造修理塔 寺 精 舎 分 一 千 戸 ﹂ ﹁ 供 養 一 一 一 賢 井 常 住 僧 分 一 一 千 戸 ﹂ ﹁ 官 家 修 行 語 備 事分二千戸﹂と定められている。 その後、﹃類緊三代格﹄巻第八﹁封戸事﹂に収められている 大間三年(八

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八 ) 一 一 一 月 二 六 日 官 符 に は 、 太政官符 臆 一 一 一 官 家 功 徳 分 封 物 依 レ 蓄 牧 一 一 東 大 寺 一 事 右検一一案内一。太政官去延暦十四年六月十一日下一一良部省一 符稿。太政官去費議十一年十二月十日下一一造東大寺司一符 稿。被一一内大臣室一稿。奉レ勅。東大寺封五千一戸。就レ中宮 家修行諾悌事分二千戸。宜下牧一一於別庫一以充ニ毎レ年安居 圏 忌 及 雑 驚 曾 料 用 度 一 。 臼 一 一 一 綱 寺 司 与 一 一 諾 苛 一 相 封 出 納 上 者 。 右大臣宣。奉レ勅。件物牧一一置別倉⋮出納。諸司往還有レ煩。 宜下自今以後牧一一納宮庫一。修行功穂之日随レ用出充上者。 今右大臣官寸泰レ勅。詔寄稿。朕有レ所レ思。宣下一其依レ蓄 還 一 一 牧 寺 家 一 充 中 用 備 事 上 。 の 大 和 関 司 興 一 一 僧 縮 及 一 一 一 網 一 。 計 一 一 禽 出 納 一 者 。 宣 下 一 依 一 一 詔 書 井 賢 亀 十 一 年 十 二 月 十 日 符 一 。 依 レ 千 良弁とよ祝日本紀い 奮 牧 一 一 一 納 嘗 寺 前 庫 一 。 充 一 一 用 官 家 修 功 徳 分 一 。 鶴 苛 諸 綱 相 封 。 出 一 一 納 其 牧 物 一 。 察 部 申 ニ 良 部 省 一 。 一 金 一 一 於 出 用 一 。 待 一 一 官 符 一 行への年終造一一納物井摺残等様一申送。 大 間 一 一 一 年 三 月 廿 六 日 とあり、宝亀一一一年(七八

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)

に寺家の管理下から分離されて いた﹁官家修行諸僻事分﹂の二

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戸が、この時点で寺家に 一戻されている。しかし、吋百本後紀﹄弘仁三年(八一一一)一

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月突丑(廿八日)条では、 忍 ︿ 丑 。 官 家 功 徳 封 物 。 停 レ 枚 一 一 東 大 寺 一 。 収 一 一 造 東 西 二 寺 諸 奇 一 。 出 納 充 用 之 色 。 一 依 一 一 前 例 一 。 とあり、再び﹁宮家功徳封物﹂が東大寺より切り離され、造東 寺一一時・造西寺司に与えられている。これは東大寺にとって封戸 を削られるという、経済的特権の喪失を意味するものであり、 この処分はこの後変買はみられないが、光仁朝以後の東大寺に 対する政府の対応に寺家が不安を抱き、その地位の面復を閣る ことは当然であったと考えられ、そのために聖武天皇をはじめ とする夫皇家との関係を強調する必要があったのであろう。 以上のことから、東大寺が提出した文書において良弁より、 むしろ﹁聖武天皇或は孝謙天皇施入目的を強調﹂することに霊 点が置かれていたといえる。間様のことは、現在正倉院に伝来 する﹁聖武天皇一勅書銅版﹂(以下﹁勅書銅版﹂と略す)につい I!'l

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係数大学総合研究所紀婆別冊﹁宗教と政治﹂ てもいえる。この﹁勅書銅版﹂に関しては、中井真孝氏が﹃延 層増録﹄の﹁聖武天皇菩薩缶﹂の文章との詳細な比較を行うこ と に よ り 、 吋 延 磨 僧 録 ﹄ が ﹁ 勅 骨 一 一 国 銅 版 ﹂ を 引 用 し た の で は な く 、 延腎七年(七八八)を上限として、逆に﹁勅骨一一国鍛版﹂の方が ( 部 ) ﹃延磨僧録﹄を引用した可能性を導き出しておられる。 さらに、鈴木景ニ氏は中井氏の説を踏まえた上で、﹁勅書銅 版﹂の裏面の考察も併せ行われた結果、﹁勅書銅版﹂の制作動 機について、東大寺の経済的特権を、古代的権威によって正当 化する意園をもって制作された可能性を指摘しておられる。 ただし、﹁勅書銅版﹂については東野治之氏がその稿本とし て﹁国分銘文刻版稿﹂に注目されて、その書風などの検討から 天平宝字七年(七六三)ごろ、東大寺の塔に納めるべく作成さ れたことを論じておられる。確かに、東野氏の考察には鰻聴す べ き 点 が 多 い が 、 ﹁ 勅 冊 一 一 回 錦 版 ﹂ 自 体 の 制 作 時 期 に つ い て も あ く までも書風よりの推定であり、書嵐という点では説得力がやや 弱いのではないだろうか、この点については別の機会に考えて iJP' 目玉。 ヲ t ゃ h B ν しかし、﹁勅書銅版﹂制作の動機を考えてみるならば、平安 時代以蔀に製作されたものとは考え難く、むしろ平安時代に東 大寺が自らの権利を、王張するために、聖武天皇・孝謙天皇とい った天皇との関係を強調するために作り出したものであるとい 四 える。また仮に、東野氏の指摘のように奈良時代の製作であっ たとしても、このように東大寺における寺家の権威付けに際し では、良弁の功績よりもむしろ聖武天皇の存在に重点が置かれ ていたといえる。その結果、東大寺が提出した縁起様文書一に良 弁の事蹟を記載することがなかったものと考えられる。 付け加えるならば、良弁と閉じく卒去記事しか掲載されてい ない義淵であるが、確かに﹃続日本記﹄神亀五年(七二八)

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月壬午(二

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日 ) 条 に は 、 冬 十 月 壬 午 。 借 正 義 滅 法 部 卒 。 遣 一 一 治 部 官 人 ⋮ 。 監 一 一 護 喪 事 一 。 又 詔 時 一 一 紘 一 百 疋 。 総 二 百 絢 。 綿 三 百 屯 。 布 二 百 端 一 。 と、卒去の事実および喪一惑に治部省の官人が監護のために派遣 され、詔によって鱒物が与えられたということが記されている が、卒伝は掲載されていない。しかし、占祝日本紀﹄神亀四年 ( 七 二 七 ) 一 一 一 月 了 丑 ( 一

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日 ) 条 で は 、 十 ニ 月 了 丑 。 勅 日 。 僧 正 義 淵 法 師 。 一 報 ⋮ 一 制 。 諦 枝 早 茂 。 法 梁 惟 陸 。 一 属 一 一 玄 風 於 四 方 一 。 照 一 一 憲 矩 於 三 界 一 。 加 以 。 由 一 一 先 帝 御 世 一 。 迄 一 一 子 朕 代 一 。 洪 一 一 奉 内 裏 一 。 無 一 二 位 口 密 一 。 念 斯 若 人 。 年 徳 共 盤 。 宣 下 改 一 一 市 往 氏 一 。 賜 一 一 関 連 姓 一 。 停 中 其 兄 弟 上 。 とみえ、義淵が褒賞されるに際してその兄弟にも鶏姓されてい る。ここにみえる記事は、簡単ではあるが卒倍に類する記載で

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あると考えられ、係累的な記事に加えて伝記的な記事も含まれ ており、一ニ月了丑条にこの記事を記載したために卒伝が記さ れることが無かったのではないだろうか。そして、この義淵の 伝記は龍蓋寺(関寺)から提出された縁起様文書に記されてい たと考えられ、﹃続日本紀﹄天平宝字六年(七六一一)四月壬申 ( 二 一 一 一 日 ) 条 に は 、 壬 申 。 勅 越 前 圏 江 沼 郡 山 背 郷 戸 五 十 姻 施 一 一 入 間 寺 一 。 と、封戸の施入が行われていのるが契機になると考えられる。 従って、吋続日本紀﹄に卒去記事が記載されている八名の僧 倍の中で、明らかに伝記記事が掲載されていないのは良弁のみ であるということができる。これは、決して良弁が東大寺にお いて軽んじられていたというわけではなく、寺家の権威付けが 聖武天皇をはじめとする天皇家の権威によって行われていたか らであると同時に、﹃続日本紀﹄が編纂された延麿年間におい ては良弁の伝記が未編纂であったからではないだろうか。例え ば、思託の撰になる﹃延腎借録﹄であるが、現在散逸して伝わ らないものの、﹃東大寺要録﹄をはじめ鎌倉時代の東大寺僧宗 性撰の

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本高借伝要文抄﹄などにその逸文が散見するが、東 大寺において﹁根本僧正﹂と称される良弁に関するものは全く 見当たら、ず、このことから吋延暦僧録﹄には良弁伝が記されて いなかった可能性は十分にあったと思われる。 良弁と﹃続臼本紀ゐ 以上、良弁の卒伝が﹃続日本紀﹄に掲載されなかった理由と して、東大寺から提出された縁起様文書一に良弁について触れら れることがなかったと推測できる。つまり、守家が作成・提出 した縁起様文書には、その創建に関してあるいは食封等の起源 について、聖武天皇をはじめとする天皇家との関係を強調する ことに重点を置いていたためであり、﹃続日本紀﹄編纂の時点 で、良弁の伝記は成立していなかったということが考えられる。 従って、延磨期における良弁に対する評価は決して低いもので はなく、むしろ卒去記事が﹃続日本紀﹄に掲載されたというこ とを考えるならば、その評価を窺い知ることが可能であり、む しろ重要視されていたであろうことが明かとなる。また、よ祝 日本紀﹄に卒去記事や卒伝が記されている僧は、玄坊・道鏡を 除く六名に関しては宗教の伝来者あるいはその経歴などが基準 となっていることは杏めないが、その材料として寺院より提出 された縁起様文書が用いられていることを考えると、十卒伝の-記 される条件の一つとして主要寺院の開基もしくは開基的な存在 であったということができる。そして、縁起様文書に伝記が記 される条件としては、各寺院の権威付けのためにも天皇もしく は天皇家との関係が重要な嬰閣の一つであったといえよう。 凶

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偽教大学総合研究所紀要別問 Jm 教 と 政 治 ﹂ 註 ( 1 ) 中弁真孝﹁奈良時代の僧締﹂(同﹃日本古代仏教制度史の研究い 所収、法蔵館、一九九一年、初出は一九八

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年 ) 、 九 四

1

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出 頁 。 ( 2 ) 本郷真紹﹁宝一亀年間に於ける僧綴の変容﹂(﹁史林﹄第六八巻第二 号 所 収 、 一 九 八 五 年 ) 。 ( 3 ) 中井前掲註 ( l ) 論 文 、 一

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一 一 一 頁 。 ( 4 ) 岸俊男﹁良弁伝の一鈎﹂(同﹃古代文物の研究﹄︿塙議房、一九八 八年﹀所収、初出は一九八

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年 ) 、 四 一 一 一

1

四 一 回 真 。 ( 5 ) 山 岸 前 掲 註 ( 4 ) 論 文 、 随 一 間 頁 。 ( 6 ) 石 原 正 明 ﹃ 冠 位 遇 考 ﹄ ( 吋 百 家 慾 説 ﹄ 一 一 一 ) 。 ( 7 ) 山田英雄一古代における僧位﹂(河﹁臼本古代史孜﹄所収、岩波 委応、一九八七年七月、初出は一九六四年)。 ( 8 ) 岸前掲詮 ( 4 ) 論文において、諮良弁伝に関する考察が行われてい る ( 凶

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i

m

間 一 二 頁 ) 。 ( 9 ) 筒井寛秀校訂司東大寺婆録﹄(思議刊行会、一九七一年一二月)、 二 九

1

一 一 一

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頁 。

( ω )

松本信道 m w ﹁ ﹃ 東 大 寺 要 録 h 良弁伝について﹂(吋駒沢史学 h 第 二 九号、一九八二年一一一月)、②﹁漆部夜伊波と染震時忠二兵弁伝研究 の 一 助 と し て ﹂ ( ﹃ 秦 野 市 史 研 究 ﹄ 二 、 一 九 八 二 年 一 一 一 月 ) 、 ③ ﹁ 漆 部 直 伊 波 と 相 撲 国 ﹂ ( ﹃ 秦 野 市 史 研 究 ﹂ 一 二 、 一 九 八 三 年 三 月 ) 。 ( 立 ) 松 本 前 掲 註 ( 叩 ) 窃 論 文 、 凶 二 一 良 。 ( ロ ) 久 野 健 ﹁ 一 一 一 月 堂 執 金 倒 神 品 開 ﹂ ( 吋 美 術 研 究 ﹄ 一 五 二 号 、 一 九 四 九 年 ) 。 ( 日 ) 松 本 前 掲 設 ( ぬ ) ① 論 文 、 問 。 頁 。 ( 日 比 ) 松 本 前 掲 詮 ( 叩 ) ① 論 文 、 一 二 六 賞 。 (お)坂本太郎-六日同史と伝記﹂(河内日本古代史の基礎的考察﹄上 間 関 文献綴、東京大学出版会、一九六周年、初出は伺年)。 ( は 山 ) 林 健 朗 ﹁ ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ 記 載 の 伝 記 に つ い て ﹂ ( 山 石 橋 小 菊 太 博 士 鎖 寿 記念会編﹃日本史籍論集﹄上巻、古川弘文館、一九六九年)。 (口)林前掲註 ( v m ) 論 文 、 一 二 一 一 ( } 一 一 二 一 一 災 。 ( お ) 佐 佑 有 滋 吋 知 同 一 拡 大 姉 伝 の 研 究 ﹄ ( 古 川 弘 文 館 、 一 九 八 九 年 ) 、 四 二 ム ハ

1

四 一 一 七 頁 。 ( 川 口 ) 井 上 光 資 他 校 注 吋 律 令 ﹄ ( 日 本 思 想 大 系 一 一 一 、 岩 波 索 引 底 、 一 九 七 六 年 ) 、 一 六 六 真 。 ( 初 ) 佐 伯 荷 揚 一 託 (Mm) 著 書 に 校 訂 さ れ て い る 門 知 回 一 社 大 幅 削 伝 ﹄ に よ る ( 問 問 ニ ム ハ 頁 ) 。 ( 幻 ) 坂 本 前 掲 註 ( お ) 論 文 、 一 一 一

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1

一 ニ

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間 賞 。 (幻)﹃続日本紀﹄文武田年(七

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一 一 一 月 己 米 ( 十 日 ) 条 。 ( お ) ﹃ 続 日 本 紀 h 神亀五年(七二八)十月壬午(二十日)条。 ( M ) ﹃続日本紀﹄天平十六年(七四回)十月辛卯(二日)条。 ( お ) ぷ 祝 日 本 紀 ﹄ 天 平 十 八 年 ( 七 問 問 中 ハ ) 六 月 己 亥 ( 十 八 日 ) 条 。 ( お ) よ 祝 日 本 紀 ﹄ 天 平 脂 肪 安 元 年 ( 七 四 九 ) 一 一 月 了 酉 ( 二 日 ) 条 。 ( 幻 ) 吋 続 民 本 紀 ﹄ 天 一 千 宝 学 七 年 ( 七 六 一 二 ) 五 月 戊 申 ( 六 日 ) 条 。 ( お ) 内 続 臼 本 紀 ﹄ 宝 亀 一 一 一 年 ( 七 七 二 ) 四 月

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巳 ( 七 日 ) 条 。 (鈎)中井前掲設 ( l ) 論 文 、 一

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一 一 一 一 員 。 ( ぬ ) 林 郁 掲 設 ( 日 ) 論 文 、 一 一 二 忍

1

一 一 二 九 変 。 ( 訂 ) 林 前 掲 設 ( 凶 ) 論 文 、 二 ニ 八

1

一 三 九 一 員 。 (犯)水野柳太郎 a ﹁ 道 筋 ⋮ 伝 考 ﹂ ( ﹃ 奈 良 出 入 学 同 第 一 号 、 一 九 八 三 年 ) 、 b ﹁ 行 基 の 大 仏 甘 口 人 記 事 を め ぐ っ て i ﹁続白本紀﹄巻十五天平十五 年十月乙麗条 i ﹂ ( よ 祝 日 本 紀 研 究 ﹄ 第 一 ニ

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号 、 一 九 九 六 年 ) 。 ( お ) 吋 臼 本 笠 間 持 記 い 上 巻 第 二 二 話 ﹁ 勤 求 学 仏 教 、 法 制 作 物 、 磁 命 終 持 、 示 田 県 表 縁 第 サ 二 ﹂ ( お ) ﹃ 日 本 一 一 一 代 笑 録 ﹄ 一 元 燈 元 年 ( 八 七 七 ) 二 月 一 六 日 壬 午 条 。

参照

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大谷 和子 株式会社日本総合研究所 執行役員 垣内 秀介 東京大学大学院法学政治学研究科 教授 北澤 一樹 英知法律事務所

アドバイザーとして 東京海洋大学 独立行政法人 海上技術安全研究所、 社団法人 日本船長協会、全国内航タンカー海運組合会