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Vol.68 , No.2(2020)089名和 隆乾「パーリ註釈文献における「子肉の喩」に関する一考察」

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全文

(1)

パーリ 釈文献における

「子肉の喩」に関する一考察

名 和 隆 乾

はじめに

SN 12.63(vol. 2, 97–100. Puttamaṁsa「子肉」)は,いわゆる四食説,すなわち(1) kabaliṃkāra- āhāra-「1つまみの摂取」(「段食」),(2) phassa- āhāra-「接触という摂取」 (「触食」),(3) manosañcetanā- āhāra-「思考に関する意思という摂取」(「意思食」),(4) viññāṇa- āhāra-「認識という摂取」(「識食」)に関する教えが説かれる経典である. 本経では四食の説明に際し,それぞれ1つずつ譬喩が用いられる.この四譬喩の うち,本稿では,段食に対する「子肉の喩」を取り上げる1).段食は修行僧の普 段の食事のことで,それに対する心構えを説く為に「子肉の喩」が用いられる. 同譬喩は,パーリ三蔵中,本経にのみ見られる.本経に対する 釈(Spk, vol. 2, 102–113)は当然ながら同譬喩を解説するが,それだけでなく「子肉の喩」自体も 含まれる.この 釈の同譬喩には,経の同譬喩に対して無視出来ない相違が存在 する.以下,本稿では,まずこの事実を指摘した後,その周辺状況を整理する. 最後に小結において, 釈が経とは異なる「子肉の喩」を用いた理由について一 考察を示す. 1. まずは以下,SN 12.63中の「子肉の喩」の概略を示す: 一組の夫婦が, かな 食糧を携え,可愛い一人息子と共に荒野を進んでいる.旅の途中で食糧が尽き る.そこで夫婦は考える.三人が共倒れにならぬ様に,息子を殺し(vadhitvā), 乾し肉,保存肉にして囓りながら残りの荒野を旅しよう.夫婦はその通りにして 遂に荒野を抜けるが,息子の肉を囓っては,一人息子よ何処だと胸を叩いた.仏 陀は比丘たちに問いかける.「君たちはどう思う.夫婦は戯れの為に食事を摂る だろうか」.「そうではありません」.「では,夫婦は荒野を抜ける為に食事を摂る だけだろうか」.「そのとおりです」(cf. 谷川2000, 4).この譬喩の趣旨を,谷川(同

(2)

前)は次の様にまとめる:「日々の食事の一口一口を,空腹を癒すために,一人息 子を自ら殺して作った乾し肉・保存肉を食べ続けるつもりで食べよというのであ る.味わってはいけないしまたできないのである.それでも食べるのは,曠野= 輪 から脱出=解脱すること,ただそのためだけである.そのためには,修行が 依って立つ身体を維持し命をながらえなければならない.そのためだけの食であ る.」 2. 2.1. 一方,SN 12.63に対する 釈(Spk, vol. 2, 104–105)は,経の「子肉の喩」に対す

る逐語的な解説の後(kahaṃ ekaputtakā ti ayaṃ tesaṃ paridevanākāro. 「『一人息子よ何処だ』

というこれは,彼ら(夫婦)の嘆く有り様である」),次の様に再び「子肉の喩」を述べ

始める:ayaṃ pan ettha bhūtam atthaṃ katvā ādito paṭṭhāya saṅkhepato atthavaṇṇanā: dve kira jāyampatikā puttaṃ gahetvā ... kantāramaggaṃ paṭipajjiṃsu「ところで,これ

(「子肉の喩」)について,〔実際に〕起こったこととしては2),最初から簡潔には,

これ(以下)が意味の説明である: 聞くところでは(kira),夫婦は息子を連れて

……荒野の道に踏み込んだ(aor.)」.経では「子肉の喩」はseyyathāpi + opt., つま りスタイルとしては仮定で語られるのに対し, 釈は過去に現実に起こった出来 事を,伝聞として述べるという立場を取る(cf. n. 2中のPs-ṭ (Be),I, 312).以降の原 文・和訳は割愛するが,この 釈のいわば「伝聞上の過去に現実に起こった子 肉」では,状況説明が経の譬喩より詳しくなっている.この他,夫婦が息子を死 なせる( m, caus.)のを躊躇している側で,so dvinnam antarā gacchanto yeva mato (Spk, vol. 2, 105. 「彼(息子)は,2人の間でまさしく歩いているうちに死んだ(mata- <

m)」)ことになっている点が注目される.これは経で息子が明らかに殺されてい

る( vadh)のと相違する.経の譬喩が 釈で詳述される例は他の箇所でも散見さ

れる.特にSpk, vol. 3, 60 (n. 2参照) ad SN 35.204(vol. 4, 193)は,先のayaṃ pan

ettha以下とほぼ同じ一文と,その後のkiraを有し,経でseyyathāpi + opt.で語ら

れる譬喩をやはりaor.で詳述する.ただしこの場合,経の譬喩が詳述される以

外に,経と 釈との間に注目すべき相違は見出されない.

2.2.

なお「子肉の喩」パラレルについて,現存する仏典中の「子肉の喩」のうち,

(3)

とになっている.この2例以外の同譬喩パラレルは,譬喩名のみを挙げるか,或 いは親が子肉を食べたことに言及するのみである3).他に,『大方便仏報恩経』 中に「子肉の喩」をモチーフとする須闍提(Sujāti)太子の説話がある(大正3, 128b1–130a20. Cf. 岡田2000).この説話では,太子と両親の3人での旅の途中で食糧 が尽きた際,太子は両親を生かすべく,道中進みつつ,肉が腐らぬ様に生きなが らにして自らの肉を少しずつ切っては差し出したという. 2.3. 次に,SN 12.63では段食以外の3つのāhāra-に対して,それぞれ次の譬喩が用 いられる: 触食: 皮のない雌牛が壁などに寄り掛かっていると,そこに住む生物 が雌牛を噛む( khad); 意思食: くすぶる炭が高く積まれた堀がある.そこに, 男が無理矢理に放り込まれそうになる.男は,そうなれば死ぬか,死ぬ程の苦痛 を受けることを思い,絶望する; 識食: 王が人々に命じ,捕らえた盗人を,朝昼 晩の3回,100本の槍で打たせる( han, caus.).以上の三譬喩も残酷ではある.し かし 釈はこの三譬喩の場合,「子肉の喩」の様に譬喩を述べ直すことはなく, 単に言い換え等の通常の解説を行うのみである.いわゆる時制の問題について は,そもそも譬喩が述べ直されない為に確認出来ない.例えばkhādeyyun ti

luñcitvā khādeyyuṃ (Spk, vol. 2, 111. 「khādeyyuṃとは,引きちぎってから噛むとしよう〔と

いう意味である〕」)の様に,経の譬喩のopt.を引き継いだ解説が見られるのみであ る. 3. 3.1. 異読の出方が若干相違するのを除けば先のSpkと全く同じ「伝聞上の過去に現 実に起こった子肉」が,四食説を述べるMN 9 (vol. 1, 47–48)に対するPs (vol. 1, 211–213)にも存在する.執筆者が今回確認し得た限りでは,パーリ 釈,復 に おいて同譬喩が詳述されるのは,先のSpkとこのPsの2箇所のみである.Ps

(vol. 1, 211)は, 四 食 の 解 説 冒 頭 で, ま ず 次 の 様 に 述 べ る:... imesu āhāresu sammāsambuddho kabaḷiṅkārāhāre nikantipariyādānatthaṃ seyyathāpi bhikkhave dve jāyampatikā ti ādinā nayena puttamaṁsūpamaṃ desesi ... 「これら諸摂取(四食)につ いて,正しく完全に覚った者は,一つまみの摂取に対する望みを取り尽くす為 に, ちょうど,托鉢修行者たちよ,夫婦が 云々という仕方で子肉の喩を示し

(4)

SN 12.63の「子肉の喩」を念頭に置いていることになる.ところがPsは,実際

に「子肉の喩」に言及する箇所では,先のSpkとほぼ同じくtatrāyaṃ bhūtam

atthaṃ (Be; Ee: bhūtamattaṃ) katvā saṅkhepato atthayojanā(「それについて,〔過去に現実

に〕起こったこと(Be; Ee: 〔実際に〕起こったことのみ )としては,簡潔にはこれ(以下) が意味の繋がりである」.復 についてはn. 2参照)と述べた後,先述の通り,先の Spkと同じ「伝聞上の過去に現実に起こった子肉」を述べる. 3.2. Psは残る3つのāhāra-に関しても,それぞれSN 12.63と同じ譬喩を用いる.し かしこの三譬喩に対する解説は,「子肉の喩」とは異なり,パラフレーズで(譬喩 によっては経より詳細に)紹介されるに留まる.例えば識食に対する譬喩について, SN 12.63では盗人が100の槍で打たれたとのみ,seyyathāpi + opt.で述べられるの

に対し,Psはtam ... aparabhāge eva patati(vol. 1, 213. 「それ(100本の槍は ... 〔盗人の身 体の〕他ならぬ別の部分に当たる)」.太字は執筆者)ことを補足しつつ譬喩を紹介する

のみである.つまり,先のSpk同様,Psでも三譬喩は経のものが踏襲され,「子

肉の喩」のみ扱いが異なる.また時制に関しては,太字で示した通りpres. ind.

が,三譬喩で統一して用いられる.「子肉」ではaor.が,他の3譬喩ではpres. ind.

が用いられる理由は,今のところ明らかでない4)

小結

SN 12.63の「子肉の喩」と, 釈(Spk, Ps)の「伝聞上の過去に現実に起こった 子肉」との間で子の死に方が相違する点に着目する.これが相違する理由とし て,次の2つの可能性が考えられる:(1)まず考えられるのは,経で語られてい る子の殺害はあくまで仮定の話であるのに対し, 釈は伝聞として知っていた実 際の出来事,つまり子は実は殺されたのではなく死んだという事実を報告してい るに過ぎない,という可能性である.しかしこれについて,以下の諸点に注意す る必要がある:『雑阿含経』『婆沙論』でも,同譬喩では子は殺されている; 上座 部大寺派のSN 12.63では,4つ並ぶいずれも残酷な譬喩のうち, 釈では「子 肉」の扱いのみが他の三譬喩と異なっている.この 釈の「子肉」と経との相違 は,譬喩が詳細になっている点と,子の死に方である; 釈が,経の譬喩に対し て「伝聞上の過去に現実に起きた出来事」を述べる例が他にも存在するが,そこ では経の譬喩が詳述される以外に,経との間に注目すべき相違は見出されない. 上述の状況を総合するに, 釈が,経とは子の死に方が異なる「子肉」を挙げる

(5)

所に,事実を報告する以外の何らかの意図があるとも考え得る.そこで,次の理 解の可能性も考えられる:(2) 釈が,経とは子の死に方の異なる「子肉」を述 べているのは,経における親の子殺しが上座部大寺派の禁忌に触れるものであっ た為に,子殺しの記述を回避する目的があった,という可能性である.執筆者は (2)を支持する.これが正しいとすれば,子殺しの忌避がバラモンの伝統やジャ イナ教でも見られることは既に谷川 (2000) の指摘する所で,同様の禁忌観が仏 教の一部派でも確認されたことになる5)

本稿で用いる略号は,A Critical Pāli DictionaryのEpilegomenaに従う.パーリ文献の底本

は,SN及びEeで未出版の復 のみBeとし,他はEeとする.パーリテクストは,Ee, Be, Seの3版を校合したものを用いている.なお,発表資料で提示していた各用例の原文・和 訳は,紙幅の都合で割愛している. 1)パーリ文献中の四食に関する経と,その 釈の英訳としてNyanaponika 1981がある. 「子肉の喩」について,仏教内外の用例を詳察したものに谷川2000がある.同論文では シュナッハシェーパ物語やNāyādhamma-kahāo第18章が言及されるが,それぞれ最新の 訳 として,後藤2019, 河 2016がある.

2)bhūtam atthaṃ katvā: 復 に当該表現への言及は見られない.パーリ 釈中,同一また

は類似する表現が用いられる箇所,及びそれに対する復 の説明は以下の通り:Ps, vol.

1, 211 ad MN 9 (vol. 1, 47–48):tatrāyaṃ bhūtam atthaṃ (Be; Ee: bhūtamattaṃ) katvā saṅkhepato atthayojanā. 「それについて,〔過去に現実に〕〔過去に現実に〕起こったこと (Be; Ee: 「〔実際に〕起こったことのみ」)としては,簡潔にはこれが意味の繋がりであ る」.Ps-ṭ (Be),vol. 1, 312: bhūtam atthaṃ katvā ti na parikappitam atthaṃ, atha kho bhūtaṃ bhūtapubbaṃ atthaṃ katvā.「bhūtam atthaṃ katvāとは,構想された意味〔ということ〕では なく,知っての通り,〔過去に現実に〕起こった,〔つまり〕かつて起こったこととして は〔,という意味である〕」;Spk, vol. 3, 60 ad SN 35.204 (vol. 4, 194):puratthimāya disāyā ti ādimhi bhūtam atthaṃ katvā evam attho veditabbo. 「〔経中の〕puratthimāyā disāya云々につい て,〔過去に現実に〕起こったこととしては,こ(次)の様に意味が知られるべきであ

る」.この後,経中のpuratthimāya disāyāで始まる譬喩の詳細版が,kiraの語と共に述べ

られる.復 にはbhūtam atthaṃ katvāへの言及は見られない;Vibh-a, 452: tatr idaṃ bhūtam atthaṃ katvā opammaṃ.「それについて,〔過去に現実に〕起こったこととして,こ れ(以 下) の 譬 喩 が あ る」.Vibh-mṭ (Be),211: bhūtam atthaṃ katvā abhūtopamaṃ kathayissatī ti adhippāyo.「(過去に現実に)起こったこととして,未だ起こっていない譬 喩をこれから彼( 釈者)が語ることになる,との意図である」. 3)『雑阿含経』第373経(大正2, 102b26):「即殺其子」.同経パラレルを挙げるChung (2008, 120)には梵文写本の対応は挙げられていない.『ウパーイカー』対応箇所は「子 肉の喩」を含まない(本庄2014, 418, [3071]);『婆沙論』(大正27, 677b9–14)には,苦し めぬ様に子の命を尽きさせたとある:「夫妻 失聲悲叫何期苦哉.涕咽多時乃盡子命」(譬 喩冒頭に経典引用の宣言はない).ちなみに今回の場合,上座部大寺派と有部系の経典, 『婆沙論』の記述が一致し,これらとパーリ 釈の記述が一致していない(Cf. 榎本2007, 162).この他の仏典中の「子肉の喩」パラレルについては,竹内1997; 谷川2000参照. 4)これについては,Psの「子肉」冒頭のtatrāyaṃ bhūtam云々の一文が,三譬喩にも掛か る否かも含め,検討する必要がある.

(6)

5)2.2.で触れた『報恩経』中の須闍提太子の説話は,子殺しが行われていない点でパー リ 釈の「子肉の喩」と共通する.ただしこの説話は,『報恩経』の主旨である報恩(こ の場合は父母に対する)に重点が置かれた故に,太子が自ら肉を差し出す構造となり, 結果的に子殺しが行われていないに過ぎない可能性もある為,子殺しの忌避が背景にあ るか否かは判断し難い. 〈参考文献〉

Chung Jin-Il. 2008. A Survey of the Sanskrit Fragments Corresponding to the Chinese Saṃyuktāgama (『雑阿含経相当梵文断片一覧』)山喜房仏書林. 榎本文雄2007「インド仏教における葬儀と墳墓に関する研究動向」江川温(研究代表者)『死 者の葬送と記念に関する比較文明史―親族・近隣社会・国家―』平成16–18年度科学研究 費補助金研究成果報告書1,160–169. 後藤敏文2019「シュナッハシェーパ物語試訳(AB VII 13–18∼ŚāṅŚrSū XV 17–27)」『国際仏教 大学院大学研究紀要』23: 41–113. 本庄良文2014『倶舎論 ウパーイカーの研究』訳 上,大蔵出版. 河 豊2016「飢えと屍肉:何のための食事か」『印度民族研究』15: 3–20.

Bhikkhu Ñāṇamoli. 1956. The Path of Purification:Visuddhimagga. Seattle: BPS Pariyatti Editions. Nyanaponika Thera. 1981. The Four Nutriments of Life: An Anthology of Buddhist Texts. Kandy:

Buddhist Publication Society.

岡田真美子2000「〈子の肉の喩〉とSujāta太子説話」『江島惠教博士追悼論集 空と実在』春 秋社,339–350. 竹内良英1997「 大乗涅槃経 と原始・部派仏典の食厭想の比較」『仏教硏究』26: 177–194. 谷川泰教2000「子肉の喩」『高野山大学論叢』35: 1–22. (JSPS科研費18K12198による研究成果の一部) 〈キーワード〉 パーリ文献,Puttamaṁsa,子肉の喩,四食 (大阪大学特任講師(常勤),文博)

参照

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