スターリンの権力掌器畠程
教科。領域教育専攻
社会系コース 遠 藤 雅 大
序章
ソ連の指導者で、あったレーニンが 1924年 1 月21日に死亡してから、 1929年4月に全連邦 共産党内で第1次五ヵ年計画が承認され、スタ ーリンの独裁体制が始動するまで、約5年の空 白期間がある。一般に、この時期には有力者た ちが権力闘争を繰り返していたと言われている。
レーニンの死後、なぜ、スターリンがこの権力闘 争を勝ち抜くことができたのだろうか。また、
いつをもってスターリンは権力を掌握したとみ なすことができるのだろうか。
そういった問芭意識を受けつつ、本研究はロ シア十月革命後から第 16田信車邦共産党大会 までの時期を対象として、レーニンが死亡する 時点、までのスターリンの動向を概観した上で、
アンチスターリン派との闘争を中心にスターリ ンによる権力掌握の過程を検討していくことを 目的とする。
第1章 ロシア革命とポリシェヴィキ政権 第1章では、ロシア十月革命からレーニン死 亡までの状況を大きく 3つの時期に分けて論じ た。最初の時期は十月革命後から内戦期までの 時期である。スターリンは十月革命の際には軍 事センターで後方支援を行い、革命直後の第2 回ソヴィエト大会において民族人民委員に選出
された。また、内戦期において彼はベテログラ ードの防衛を成功させるなど一定の功績を残し たが、革命後から短期間で軍を立て直したトロ ッキーに対して、その評価は決して高いもので
指 導 教 員 鹿 田 昌 博
はなかったo 第二の時期は内戦の終息期から新 経済政策始動期までの時期である。この時期に 開崖された第 10回党大会では党内分派を禁止 する党規定が採択され、それに従って実施され たチーストカは元メンシェヴィキ党員やエスエ ル党員等を中心に粛清を行い、ロシア共産党指 導部による寡頭支配体制を生み出す要因となっ た。また、この党大会を期に始動した NEPの 中で党の有力な指導者たちが経済政策論争を展 開したが、スターリンがここで持論を開陳した 形跡はない。最後はスターリンの党書記長就任 からレーニン死亡まで、の時期で、ある。党書記長 就任後に党内における人事権を掌握した結果、
次第に彼の意見に対して忠実な党員のみが党の 中耕且織や地方組織の要職を占めるようになっ た。 トロイカという条例寸きではあったが、ス ターリンは当時レーニンの最有力後継者{財需と して名を馳せていたトロッキーとの最初の権力 闘争に勝利した。
第2章アンテスターリン派の形成
第 2 章では、「トロッキ一派J、「新殿前~J
および「合同反対派jとの権力闘争を中心にスターリンが党内で権力を増大させていく過程に ついて論じた。「トロッキ一派
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との対立の主役 はスターリンよりもむしろジノヴィエフとカー メネフで、あったが、彼らが「トロッキ一派」と の闘争の中で権力失墜した結果、スターリンを 含む他のf 7
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メンバーの権威科目対的に 上昇した。スターリンはその後プハーリンと連﹃u
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合を組み、「新反対派jとの闘争に臨んだ。同時 期においてスターリンは人事権を利用し、自ら に従順な代議員を党大会に送り込んでおり、さ らに「合同反対派Jとの闘争では党内人事権や 分派活動禁止の党内規定を駆使して権力闘争に 勝利した。
第3章スターリン独裁体制への道
第 3章では、「右派反対派jとの闘争から第 16回党大会に至るまでの展開について論じた。
経済政策論の対立によってスターリンとの連合 を解消した後、ブhーリンは「右派反対派」を 結成した。結成当初、この「右派反文抑制は多 くの党員の支持を得た強力な党員集団で、あった。
スターリンは彼らに対抗するために「スターリ ン派Jを結成し、ブ〉レジ、ョア専門家に対する大 衆不信を煽ることで党内において支持を集めた。
また、ブハーリンはコミンテルン執行委員会議 長の地位にあり、コミンテノレンにおいても絶大 な権力を保有していたため、「スターリン派」は コミンテルンにおいても「右派反対派」と権力 闘争を展開した。その結果、第 16回党協議会 において「右派反対派Jの敗北が決定的となり、
翌年に開催された第 16回党大会は論争のない 最初の党大会となった。
終章
スターリンは権力闘争の過程において、特に 党書記長就任以後、積極的に自らのE聾命を展開 してきた。しかし、これまで論じてきたことか ら指摘できることは、彼の理論は彼自身の首尾 一貫した思想に基づくものではなく、権力闘争 を勝ち抜くための道具として、その時々の状況 の中で~を変えながら機能していたということ である。例えば、スターリンは「トロッキ一派」
との闘争では重農主義を「右派反対派jとの闘 争においては重工主義を支持していた。こうし た点から考えると、1920年代のスターリンの権 力闘争には、彼のオポチュニストな側面が強く 出ていたと言えるだろう。
1920年代末の「右派尉守派
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を最後に、党内 においてスターリン存命中に公然とした反女計取 関が現れることはなかった。それどころか、「右 派反対派Jが党内闘争で敗北してから約8か月 後にはスターリンの生誕 50周年が全党をあげ て祝われるまでに、党内でのスターリンの地位 は確立していた。そのため、 1930年に開催され た第 16回党大会では、スターリンおよび「ス ターリン派j
に対する批判は少なくとも公然と 行われることはなくなった。この出来事は党内における彼の権力掌握を僻見するものであり、
その後1930年代中頃には共産党の他の指導者 たちに対する大テロルが発生したことで一層の 独裁体制が構築されることになった。この意味 で、スターリンが党内での権力闘争の中で自ら に対する敵対者やライパルを次々と排除してい った 1920年代は、それに続いて訪れる絶対的 なスターリン独裁体制の「始まり」、あるいは「前 史
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として位置づけられるのである。研究を閉じるにあたり、残された課題につい て1つだ、け触れておきたい。本研究では、スタ ーリンの党外での権力基盤、例えば亡命知識人 やブルジ、ョア専門家、さらには農民や労働者な ど一般の大衆基盤との関係にまで言及すること ができなかった。党内での権力闘争を中心にし た本研究はもっぱら酎台史に軸足を置いたが、
この問題を扱うには社会史や構造史の観点も必 要となってくる。この点については、今後の課 題としたい。
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