【資料】『公文録』に見るファン・ドールンの野蒜 築港計画案
著者 仁昌寺 正一
雑誌名 東北学院大学東北産業経済研究所紀要
号 31
ページ 115‑135
発行年 2012‑03‑10
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024485/
東北学院大学東北産業総滴研究所紀笈/輔31号/2012年3月
【資料】
「公文録』に見るファン・ドールンの 野蒜築港計画案
仁昌寺疵一
東北学院大学経済学部教授
1. 資料の紹介にあたって
(1) 野蒜築港跡の被災
2011年3月11Hに発生した東H本大震災は、東北地方の太平洋側沿岸地域に甚大な被害を与 え、多くの人命が失われるという日本観測史上最大の惨事となった。 またそれだけでなく、多く の人々の生産・生活の場も失われることとなった。震災の発生から約1年が軽過した今日におい ても、沿岸部には当時の傷痕が生々しく残り、事態収束の見通しは未だに立っていない。
この大震災では、遠い昔から現在まで受け継がれてきた「歴史」 もまた壊滅的な打繋を受けた。
大地震により損壊・破損きれた雁史的遺産、あるいは大津波により流失した腰史的週産は数えき れない。宮城県束松島市野蒜地区沿岸部の築港跡とて例外ではない。その築港跡にあった近代に おける東北開発の出発点の状況を現代に伝えていた様々な遺構も流出・消失してしまったという (「河北新報」 2011年5月7日)。
周知のように、野蒜築港事業は、今から約130年前の明治10年代、内務卿大久保利通が推し 進めた富国強兵・殖産興業政策におけるとなる国家的プロジェクトのひとつであり、運輸・交通 網の整備の要として、従来の帆船(和船)に代わって海運の主役になりつつあった蒸気船の寄港 を可能にする大規模港湾の建設を企図したものであった''。これらの事業に関わる一連の工事が 1878 (明治l1)年7月からスタートし、 1882 (明治15)年10月には第一期工事は一段落して 落成式も行われた。 しかし、 1884 (明治17)年9月に発生した大型台風によって、鳴瀬川河口 に建設きれた東西2本の突堤が崩壊した。この突堤は、伝馬船が鳴瀬川河口の和船,小蒸気船の
かつげが 『うら
繋留場(内港) と宮)I島内勝ケ浦の蒸気船の繋留場(外港) との間をスムーズに往来すること を可能とするもので、内港と外港のワンセットの特異な構造で建設された野蒜港のいわば生命線
このような継緯から、向補窩雄は、 「大久保にしてはじめて着眼されえ、また突施に移されえたところの「尚 年の大計」であった」 (「東北の風土と歴史」、山川出版社、1976年11月、383J、R‑ジ) と述べている。また、
このような港湾の建設は日本で鰻初の試みであったことから、しばしば、「日本における踊初の近代的築港」
(寺谷武明「東北野蒜港覚え樽」、 「横浜市立大学論叢社会科学j第15巻1号、 1965年11月、 62ページ)
とされる‐
東北曄業維済研究所紀要第31号
ともいうべきものであった。その後、宮城県の再三の要請にもかかわらず、政府はついにその突 堤の修復工事を行おうとはしなかったz」。かくして「幻の野蒜港」となってしまい、新市街地建 設のための地均しに使用さオLた石のローラーや、鳴瀬川の切替えに伴って建設きれた新鳴瀬川沿 いの三つの橋台などが後世に残きれることになったのである。
野蒜築港事業に関する多くの遺構が失われてしまったとはいえ、今日においても、同事業の東 北開発史における意義はなんら変わったわけではない。この事業に対しては、 「もし、 この港湾 が計画どおり出来上がっていたとすれば、おそらく東北の開発の歴史は、非常に変わっていたと 思います」3:という考えが根強く残っている。それゆえ、やはり、平重道氏のことばを借りれば、「東 北の歴史を考え、東北の開発を論じる者にとって、野蒜築港失敗の事実が与える教訓は大きい」;;
といえるであろう 。
そこで、本稿では、 この事業が東北地方にとってどのような意義があったのか、 またそれはな ぜ挫折したのか、今後の東北開発のためのどのような教訓を学ぶことができるかといった点につ いて再考するための手がか│)を探してみたいと思う5'。
(2) ファン・ ドールンの野蒜築港計画案について
そのような作業の一環として、 ここでは、 さしあたり、野蒜港の設計責任者であったコルネル ス・ ヨハネス・ フアン ・ ドールン (CornelisJohannesVanDoorn, 1837年1月5日‑1906年2月 24日、以下ファン・ ドールンと記述) 'の最初の同築港計画案である「日本水政第百十号溝加
2当時の政府がそのような姿勢に鱸じた理由は単 。ではない。難波信雄のいうように、 「この築港は着工後 六年にして、むざんに失敗した.その直接のI;(因は台風による内港突堤の崩壊であり、港湾造成計画の不 完全きであったが、この立地条件や技術のほかに、当時の経済状況や政府の経済政策.殖産興業政策の変化、
鉄道建設に伴う交通・迎輪体系の変化など、 さまざまな要素がからんでいた」 (難波信雄「東北開発と近 代日本一野蒜築港を地域の視点から見る−」、塚本哲人・渡辺信夫・米地丈夫編「歴史にみる東北の方位」、
1991年4月、河北新報社、109ページ)のである『 このほかにも様々な論があるが、それらに関する立ち入っ た検討は他日を期したい.
:' l l l本壮一郎著「新しいふるさとづくりj, ぎようせい、 1989年、 31ページ。
4平重道「明治初年の野蒜築港について」、 「東北地理』第7巻2号、東北経済地理学会、1954年10月、77ペー ジロ
5かねてより筆者は野蒜築港耶業に強い忠い入れがある。 これまで、本学経済学部で私が担当する「東北経 済論」の授業で、野蒜築港叫業を日本の近代初頭における東北開発の象徴的事例として紹介してきただけ でなく 、筆者のゼミナールの活動の一環として、野蒜築港跡をたびたび訪問していたからである。その際に、
鳴瀬川河' 1から海に向かって突き出している東西二つの突堤(第三次世界大戦終了後に修復工事が行われ たという)、旧ili街地、北k巡河などの遺櫛めぐ})を行った,そしてまた、野蒜築港資料館が開館してか らは、そこにもたびたび行った。そして今から4年前の2008年6月に市場史研究会が石巻市で開催され た際、特別諭第報告のひとつとして「「幻の野蒜港」について」 と題する報告も行った。
61 ファン・ドールンについて、 「[1本史大事典」 (平凡社、 1993年11月)では次のように記述きれている, 「明 治初年に政府が招いた御雇外国人(上木部門)の技師長。オランダのヘンデルランド州に生まれ、デルフ トエ業大学の前身である専門学校を卒漿して土木技師の資格を得た。 1872年(明治5)に工兵士官の1.A・
リンドウとともに来日、直ちに利根川、江戸ll l 、淀111 、信濃川なと'の改修、砂防工事に従事、 このとき利 根川筋・江戸111筋に日本最初の最水標を設置した, 73年に日本の技術者のために「治水総論」を、 さらに 後年に「治水要木」および「堤防略解」を記して、 日本の治水土木事業の基礎を作った。78年に福島県安 積疏水工事の計1曲I設計を手がけ、 79年には仙台湾野蒜港の工事に着手したが、いずれも完成をまたずに 80年に帰国した。 1931年(昭淵6) に彼の功を顕彰する立像が猪苗代湖畔に立てられた」 (同書、 1146〜
1147ページ、 ) 、可
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「公虻録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
ヲ以テ北上川ヲ海卜連絡セシムルノ件」 という文書を紹介することにする師。
この文普は、 1877 (明治10)年2月27日に、野蒜築港の設計責任者であったファン , ドール ンが、内務宵土木局農石井省一郎に提出した野蒜築港計画案である脚。本文響の末尾には「平野 重彰諜」 と記してあるから、おそらくファン ・ ドールンの吐凶語であるオランダ語で菩かれたも
二うき上 、〈
のをこの人物が翻訳したものであろう11 '。 この訳は、運河を「櫛加jとし蒸気船を「火舩」 とす るなと 、当時の雰囲気が伝わってくる貴重な資料であるように思われる。内容は、 「櫛汕ヲ以テ 北 k川ヲ海二連絡セシメ並二湊港繋船場ヲ野蒜二開設スル始針」、 「設計ノ概記」、 「北上川ヨリ深 川二至ルノ瀧川」、 「高屋鋪近側ノ闘堰」、 「深川ノ港」、 「高屋敷ヨリ石巻二至ル放水瀧」 という見 出しで区分きれ、それに沿った説明がなされている'0。
ところで、 このファン ・ ドールンの野蒜築港計画案を「公文録』に記載きれているままで紹介 してみようと思ったのは、 これを蕊視するようなかたちでドールンの案が紹介されるケースが少 なくないからである。 もっと直裁にいえば、廣井勇の「日本築港史」 (丸善、 1972 〔昭和2〕年5 月)に記述されている野蒜築港計画案が、 ファン・ ドールンの計画案とみなすケースが少なくな いからである。その理由としては、片平六左のことばを借りれば、 「ファンドールンの設計にな る野蒜港とはどんなものか、野蒜港に関する資料は、広井勇「日本築港史」昭和二年発行のもの のみと言われている」' ' という認識が多くの人々にあったことが挙げられよう。 ともあれ、野蒜 築港を取り上げた従来の著書・論文・郷土史・自治体史・小説などで、鹿井勇のこの腎杏の中の 野蒜築港計凹に関する記述が、引用者の補足説明が加えられるなと§して、 ファン・ ドールンの同 港築港計画案として踏襲きれている。その場合、同書に添付きオしている「野蒜築港図」 (図1) ア この文神は、 「公文録」の「明治十一年11明内勝省伺え」 (六等偶中澤並信整頓)の中の「陸前鯉野蒜築港
伺 二剤. ,!《」に、以rの文諜と一括して保存されている〃 l 「明治I≦一年第三月陸前l蓋i桃生郡野蒜築港 仕様目鏡見峻 t木局」、 負「明治| ・−.年二jl廿六H調盗局」、 3 坤出第弐百│『六号・ 陸前'五l桃生郡野 蒜築港之朧二付伺」、Ⅲ , 「大蔵省別紙内務省伺陸荊国桃生郡野蒜築港ノ義朱普ノj曲没播令候粂此旨相遮 候事 明綺1− ≦年叫jlFqH 太政大臣三篠実美」、 豆「内二百七十号明治・トー年三jj廿七II IW 月四1 1 詳記官内傍省同陸前園桃生郡野蒜築港之能」,
このうち、 'j]は、 1878 (明治11) 年3Hに内祷省提出土木肘が作成したもので、 「iil年の2H27pに提出 きれたファン ・ ドールンの報告書(野蒜築港計画案)の中に盛l)込まれている工蝋の内容と見積り額の チェックを行ったものである。予算の総経費は、25万5聯544円85銭5厘となってお}) 、1年前にフ7.ン・ 卜'一 ルンはじきだした内潅I郡関連の同経賀17/j1,000円より、約8万5,000円増額されている.末1色には、
この作業の資if茜であったと思われる「内務四等侭早川智寛内務五等屈黒澤敬徳」の2人の糾前が記職 きれている。 2J〜5)は、1878 (明治11)年3月26日から4月4日にかけて、この内務背上水間の子騨案が、
|大]務卿大久保利通の手を緑て上奏され、政府直轄工事として決定していく経緯がわかるものである。
"」 この文郷が1977 (Iリlifi 1O)年2月27日に提出されるまでの経緯は次のようである。 1873 (明治6)年末 に内務卿に就妊した大久保利通は、常'五I強兵・殖産興業の推進にあたり、 1875 (明治8)年に東北地方踵 官会識を開仙し愈兇を求めたところ、朴県の県令は期せずして北化川河uに港湾の整燗を行うことで一致 したという。そこで大久保は、 1876 (明治9)年6月の天皇の東北巡幸に先だって石巻を訪れ、 fi巻港周 辺の視察を行ってこの地への築港の決意を固めた。そして帰京後の同年6月、現地での築港囎所の選定な どの詞壷を内務宙の土木局長石井省一郎に命じた,そしてこれを 受け、内務省お雁い外'五1人(オランダ人)
技師ファン ・ ドールンは、いくつかの候補地について調盗を行い、その報告雷(野蒜築港計瞳I案) を行腓 に提出したのである.
このファン ・ ドールンの』:いたオランダ語の原虻は、管見のかぎり未だに見つかっていない.
、参考までであるが、 この文瞥を転記したと思われるものが『公文録」 ・N0,2 、概要惜報「陸削国野蒜築港・
三条」、および「公文録』 ・No.86・概要情報「公文本末」にも収められている』
!] 片平六左「陸前野蒜燭、 1982年4月、 39r、:‑:/'[)
東北産業経済研究所紀要第31号
が掲載きれていることも少なくない'2'・
廣井の同書での野蒜築港計画に関する記述は以下のとおりである。やや長くなるが、引用して みよう。
「築港工事
野蒜ノ地タルヤ石巻湾ノ西隅二位シ南ハ宮戸島ニヨリ半ハ大海ヨリ庇蔽セラレ西ハ松島麓 二通シ三里ニシテ關釜二到り東ハ石巻ニ達スルニ北上川口ヲ經スルモ五里二過キス、又タ背 部ニハ鳴瀬川ヲ改修シテ水運二利用シ得ヘキ等ハ海港ノ設置二適スルモノ選樺セラレタル主 ナル理由ナリトス、是二反シテ仙臺地方ノ者ハ松島湾内即チ盟釜二築港セラレンコトヲ希望
セルモノナリ
野蒜築港ノ計画タルヤ其関係図書ノ存セルモノニ擬レハ、大器二於テ港ヲ内川及上松島種二 連絡シ、外洋ニハ外洋航行ノ大船ヲ碇泊セシメ、艀二擦り内港トノ接績ヲ期スルニアリタリ、
而テ各部工事ノ設計二至テハ當初ノ成案ヲ後チ蟹更シタル鮎少ナカラスト錐モ其実施シタル モノハ大略第一岡二示ス如クニシテ左記ノ諸工事ヨリ成りタルモノナリ
ー鳴瀬川ノ河口内二於ケル繋泊地即チ内港ノ築設 二内港ヨリ海二通スル航路即チ港口及上運河ノ築造 三鴫瀬川ノ切替及上締切
四野蒜ヨリ北上川二通スル運河(北上運河) ノ開鑿 五松島湾二通スル運河(東名運河) ノ開盤
六新市街地二築設 七雑工事
内港ハ面積九千坪ニシテ淺渓シテ水深平均干満面以下十四尺トシ吃水十三尺以内ノ船舶 三十艘ヲ繋留セシメントスルニアリタル
港ロハ初メ鳴瀬川ノ河口二於テ之ヲ築造スルノ設計ナリシモ、施工二際シ其前方二當リ暗 礁アルヲ發見シタルニヨリ約百間西方二移シテ現位置二定ムルニ至しり、其幅員ハ三十七間
財 ちなみに、贋井功の「日本鴇港史」の野蒜港に関する記述は、今日からみれば問題がないわけではない その最たるものは、閥井が「新市街地ハ十四年ノ交ニハ家屋ノ新築七ラレタルモノニ百餘二暁上足り卜雛 モ其後悉ク撤去セラレ爾来耕地トシテ使用七ラル、ノ外ハ松樹ノ掩フ所タリ」 (28ページ)。として、明洽 14年時点でのいわば「ニュータウン繁栄説」につながる一文を残したことである。すなわち、 このような 記述を根拠にして、 「而巻市史」 (1956年10月)のように、 「工事は、兎もかく曲りなりにも予定通り進捗 したが、一方新市街地の建殻も、それと併行して着々実現し、而かもこれは当時としては極めて斬新な近 代的都市訓・画的櫛想のもとに披計きれたもので、道路、轍地の整備するにつれ、警察署、電信局、測候所、
銀行等の官行署が次々と匙設され、東京、仙台、石巻方面から各柧の商人、旅館、料理屋、芸妓置屋など 先を争って進出開業するという盛況で、明治十四年には早くも総戸数二百軒を超え、それまでの一望の原 野も忽ち変じて堂々たる新興市街を現出し港口出入、運河通航の船舶漸増による荷客の往来も頻繁となっ たため、料理屋の如きつねに絃歌のざんざめきが絶える時もないという有様であった」 (179ペー ジ180ページ)という記述が職場することになったのである。 しかし、そのようなことなどはあI)えなかっ たことはその後の研究ではつきl)している。なお、 1998年3月発行の「石巻の市史第二巻、通史縄(下 の2)』 (石巻Ili史縄さん姿貝会編)では、 この「ニュータウン繁栄説」を「一八八一年(明治一四)当時 の様子を忠実にi女えているとは思われない」 (111ページ) として否定している,
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図−1廣井勇「日本築港史」に掲載されている野蒜築港図
−一
﹃浄掛難﹂丙細が叫司v・元Iぞぐs頚訓撒蘇迦園綿
出所:廣井勇【日本築港史j、丸善、 1927年5月。
東北産業経済研究所紀要第31号
ニシテ砂斥ヲ横断シ東西二条ノ突堤ニヨリ深水二連スルモノトシ、東堤ハ延長百五十間、西 堤ハ百三│一間ニシテ、突堤間ノ水深ハ之ヲ干潮面以下十l呵尺トナセリ、鳴瀬川ノ切替ハ圖二 新川卜記セル所二之ヲ開鑿シ締切ニハ新菖流路ノ分岐黙二近ク笛川ヲ横断シテ潜堤ヲ築造 シ、以テ1t水ノミヲ内港二流入セシメ、餘ハ新河口ヨリ海に注潟セシムルニアリタリ北上 jiEillIハ延展六千五百間ニシテ敷幅八十四尺(M:鯉蹴IM,サr,!" '」 '')、左右ノ法二割水深ヲ干潮面 以下五尺五寸トシ、其北上川二接績スルノ所二水閑ヲ築設シ以テ北上川トノ水位ノ差二備へ、
亦夕新川二横断ノ箇所二於テモ内港側二於テ同シク水間ヲ股ケテ新川ヨリ遮断セントセリ、
同水岡ハ築設後鳴瀬川ノ出水二際シ流失シタリ
東名連河ハ延艮千八百間ニシテ其横断ハ北上運河卜之ヲ等クセリ、 liil運河ハ初メ本設計中 二含レサリシモ突堤ノ築造其歩ヲ進ムルニ随上其西方二砂洲ノ進出甚シク椿湾ヲ埋塞セント スルノ傾向アルヲ認メタルト松島湾二向テ平水ノ通路ヲ畔ン力爲メ開繋スルニ決定シタルモ ノナリ
東名運河ノ東端二於テ現存スル水間ハ鳴瀬川出水ノ際、土砂ノ侵入甚シキニヨリ、後年宮 城懸鳴二於テ建設セシモノナリ
新市街地ハ新駕鳴瀬川ノ間二之ヲ設ケ面積十萬五千坪トシ半ハ埋築ニヨリ其他雑工事中ニ ハ北上川二於ケル水制、運河ノ左右二沿う灌概溝、道路、曳船路、楠梁、堤防等アリタリ
上記ノ諸」ユ事ハ之ヲ第一期工事トナシ外港トシテ宮)コ烏ノ東端市二築設スヘキ防波堤及上 同島卜野蒜方liliノ連絡工事ノ如キハ之ヲ第二期二隅セシメタリバンドールンノ説明ニヨレ ハ、 1乞水十八尺以下ノ船舶二對シテハ現状二於テ宮戸島ノ束北側二安全二碇泊シ得ヘク、若 シ長百五十間ノ防波堤ヲ築造セハ更二大型船舶ヲ安全ナラシムヘク其工費六萬圓トス、若シ 堤長ヲ三百間トセハl1乞水十六乃至二十四尺ノ船舶七艘ヲ収容シ得へシ卜云ヘリ」'帥
しかしながら、贋丼によってこのように記述きれている野蒜築港計・画案を、次節で紹介してい るファン・ ドールンのそれと照合してみると、大きく異なっていることがある.
その典型的な例が、腐井の記述の中で7つの工事の中の5番8にあげられている「松島湾二通 スル運河(東名運河) ノ開盤」である。内務省が1982 (明治15)年12月に稟議し、翌1883 (明 治16)年2月21日に許ロIぎれたという東名運河の開削'4は、むろん、 ファン . ドールンの同港 築港計FIII案には存在しない。廣井自身も、上の引用文中で、 「同連il1Iハ初メ本設計中二含レサリ シモ突堤ノ築造其歩ヲ進ムルニ随上其西方二砂洲ノ進出甚シケ椿鐵ヲ理塞セントスルノ傾向アル ヲ認メタルト松烏輝二向テ平水ノ通路ヲ得ン力爲メ開鑿スルニ決定タルモノナリ」 と記述してい る。つまり、鳴湘川河口から海中に向かう2本の突堤の建設中、砂州の拡大によって椿湾が狭く なったため、野蒜・松嶋湾間の船の航行が不可能になる恐れが出てきたことから、新たに建設さ
1 1 1
1 lili」i:蝿「1 1本蕊港蝿」、 メL善、 1927年5月、 2326ベーシⅡ
"I1噸街「荊産興業政策と野蒜築港」、 「国連大学人間と社会の開発う・口グラムli)i究報告」、 1979年1月 11ペーシ
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I公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
れることになったものであると記述している。
このことは、 1880 (明治13)年頃の野蒜築港工事の進行状況を伝えている「起業公債井起業 景況第三回報告」 (1880年10月発行)でも確認できる。すなわち、 この文献には、東運河の開 削に関する記述はないし、 この文献に添付きれている図の中にも東名運河はみられない'鄙。
それにもかかわらず、 ファン・ ドールンの野蒜築港計画案に東名運河の開削計画が盛り込まれ ていたかのような記述がなされるケースが多い。そして、廣井の同書における野蒜築港計画をファ
ン・ ドールンの野蒜築港計画案と誤解した上で、 「先の案から消えた東名運河の開削は、内務省 の築港事業の一環として、ようやく明治十六年四月に着工され、この十七年に完成した」'鮒' といっ た主張がなされたているのである。いうまでもなく、 「先の案」は「消えた」のではなくて、鎧 初からなかったのである。
ところで、多くの文献が廣井の記述に基づくものをファン・ ドールンの野蒜築港計画案とみな している中で、管見では、唯一、 「公文録」に収められている文書に依拠してファン・ ドールン の野蒜築港計画案を説明している文献がある。それが増冊廣賃の前掲論文「殖産興業政策と野蒜 築港」'7'である。当然、 この計画案の説明には東名運河は全く登場しない。
ところが、増田は、 これと別のところでは、
「石巻港を調査した内務省お雇い外国人技師ファン・ ドールンは、石巻港改修に代え、野蒜 築港を提言した。その計画によれば、新たに鳴瀬川河口野蒜に築港し、 ここから東には北上 運河を開削して北上川と結び、 また西へは東名運河を開削して松島湾と結び、更に西へ貞山 運河を改修して阿武隈川に連絡させようとするものであった」'淵 。
としている。これでは、 ファン・ ドールンが、 1877 (明治10)年2月27日に内務省土木局長石 井省一郎に調査報告書を提出した頃から、東名運河の開削を考えていることになるのではなかろ
うか19]c
(3) 市街地払い下げ数についての疑問点
ところで、小きいことであるが、再検討すべき点がもう一つある。それは、 1884 (明治17)
年12月5日に書かれた「野蒜市街地計画方之義二付同」の中に出てくる数字の解釈である。
l河 この図からは、 1880年頃まで、市街地整備がある程度進行していたことがわかる.次節で紹介する文普を みるように、 フアン ・ ドールンは、 1877年2月時点で、本文の紹介文替をみるように、 「港ノ沿地及上港 北ハ後来、倉庫、工場、舩巌、官舎、暁上居家ヲ建ヅルニ適用ス」と記述されていたことが、 1878年711 の築港工事開始以降、少しずつ実施きれていたのである。
難波信雄、前掲論文、 120ページ。
脚注14)参照。
増田廣實「近代移行期の交通と運輸」、岩田書院、 2009年11月、 266ページ。
ついでにいえば、内務卿大久保利通が1878 (明治11)年3月6Hに太政大臣三条実美に提出した「=般 殖産及華士族授産ノ儀二付伺」には、 「同川(阿武隈ll l ・・ ・…引用者) ヲ濁鵯シ更二連河ヲ疏鑿シテ閣寵ノ 内海二達シ以テ野蒜ノ新港ヲ合スルヲ得ハ福島地方ノ便利ヲ得ル又少小ニアラサルヘシ」 と記述きれてい るが(日本史籍協会編「大久保利通文割九、東京大学出版会、初版1929年、復刻版1969年) ここでの 運河は阿武隈川の河口から松島湾までの木曳堀、御舟入堀などのいわゆる貞山堀などを指しているといえ る。東名運河の建設構想は、 この時点でもまだなかったのである
帥 荊 H q 1 1 1 1
一睡に
図2 起業公憤井起業景況第三回報告』 (188() 〔明治13)年1()月)に掲械されている野蒜港図
宮城絲下野・ 蒜轆港葺刻 萎詞
ナミ 方 公、 室一 一
右冬心 会弟山屈鞭 令 駒眺里急粘
灘L"!
譜
・凸一拶 一浩︲言壼涛謙熟睾・寵三蔵窪
I身
鐘
毒 蚤 唖
出所; I起業公債併記業景況第==回報告」 (1880 [明治13]年1()月)
「公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
この文耆は、以下の通りである。
「明治十七年 野蒜市街地書類綴
│雑部第三函 市街地係
口七六八三
野蒜市街地計画方之義二付伺
管下野蒜市街地貸下取扱方之義先般本県へ御引渡相成候後都テ御省二於テ御取扱相成居候心 得書二依り貸下入札取扱来候へトモ兎角借地出願者勘現今二至ル迄貸下ヲ允可セシ者漸ク
セ八 T イワ余
二三名ニシテ其地モ僅々七百弐拾余坪二不過剰へ従前許可ヲ得家屋建築セシモノ、内未タ開 業等不致内二既二売家ヲ広告スル物有之寸進尺退ノ有様ヲ顕シ慨歎ノ至り二不堪候如斯萎龍 不振モノハ方今米価下落金融閉塞等ノ為メナルヘシト錐トモ蓋シ他二大ナル要因ナキニ非ス 其故ハ築港ノ事業ハ追々歩ヲ進ムルニモ不拘舩舶ハ荷物揚卸ノ市街ナキ為メニ依然石巻其他 へ輻轄シ野蒜港ニハ殆ン卜出入スルモノナク為メニ僅少ノ家屋市街地二点、建設スルモ当分 内ハ差ダル営業ノ目途無之而ルー地積壱坪二付一ケ月三四銭ノ借地料ヲ納メ其他家屋建築費 四壁ノ修繕等二余分ノ費額ヲ費シ徒手座食ノ有様二有之現二共同運輸会社スラ借地料ヲ出ス ラ厭上頻リニ無借地料貸下ヲ請願セシ位二付一己ノ商人二於テハ弥退歩ノ念ヲ生シ響キー多 少望ミヲ有シタル者モ進ンテ家屋建築スル物無之建築者勘レハ愈舩舶輻轄ノ便ヲ不得実二舩 舶出入ノ数卜市街ノ繁盛トハ相待テ進ムモノニ可有之而メ之ヲ進ムルノ事業ハ夛少前後勿ル ヘカラスシテ今日ノ急務ハ建築者ヲ奨励シ該港ヲ速二繁盛ノ地二至ラシメ舩舶ノ出入ヲ促ス ノ法ヲ講スルヲ専一卜存候果シテ然ラハ先貸下地入札法ノ内梢緊厳二過クルノ項ヲ省キ衆人 来住二易カラシメ度依テ現行貸下法ノ内許可ノ節直チニ三ケ月分借地料即納云々ノ項ヲ改メ 三ケ年間無借地料四ヶ年目ヨリ料金徴収家屋建築ハーケ年間内トシ又是迄ノ借地料ハ予定地 価ノ百分ノ八ヲ改メ百分ノ四卜為シ人気ヲ挽回致度幸イニ御允可ヲ得ルトキハ恰モ新鳴瀬川 口運河ノ閑門及東名浜エノ運河開鑿モ間モナク成功二至り従テ望ミヲ属スヘキ地位ニモ可進 候折柄衆人先ヲ争うテ市街地二集マルノ期二至り愈目的ヲ達スルノ場合二可相成卜相信候間 実際ノ事情御洞察ノ上前件御允可相成度広告更正案並二市街地坪数調書相副此段相伺候条至 急何分ノ御指揮有之度候也但本文御許可ノ上ハ是迄貸下済ノ分モ料金下戻シ今回更生ノ借 地料ヲ四ケ年目ヨリ徴収二取計度此段モ併テ相伺候也
宮城県令松平正直代理
明治十六年十二月五日宮城県大書記官和達孚嘉
東北朧業経済研究所紀要第31号
内務!Ml山門顕表殿」剛'
これは、 1883 (明治161'年12月5Rに宮城県令松平正直の 代理の者が│ノ、l務」Ⅲ│I山剛顕表に提出したものであるが、筆者が疑
L ,
問を感じているのは、 この中の訂正きれている数字「潮クニ三 名ニジテ」をどう解釈するかということである 参考までに、
該当箇所の原文を撮影したものを掲げておくと、図3のよう に訂正きれている皿〆
この箇所を、平車道は「剛i<78名にして」 と記述している ほか22 、岩本由輝も 「漸く七十八名にして」 と記述している2鮒。
しかしながら、 この箇所は、 「7, 8名」 とすべきではなかろ うか〃もし、この文吾の執聿者(あるいは訂正者)が78名(七十八 名) と考えていたとすれば、その下の訂正前の数字の「七口弐 拾余坪」ように「拾」を入れるか、あるいは「明泊十六年」 と いう記述があるように「 i一」を〕、れるかしたように思われるか らである=
筆者がこの78名という数に疑問を持ったのは、 この文吾が 吉かれた1883 (明治16)年12月時点ではあまりに多すぎるよ
うに思われたからである、
市街地払い下げ申請苔に閨するそれまでの経緯を振り返って みると、 1878 {明治11)年7月の築港工事開始から2年くら いまでは市街地払い下げ申請者が急増を続けており、 1880 (明 治13)年頃には157名にも及んだという□ しかし、内務省が、
1883 (明治16)年4月から6月まで7回にわたって貸下げ入 札という方怯での払い下げを実施した時、 「実際にこの十六年 は五十八名にすぎなかった」2# という口数年前に較べれば、市
図3数字の訂正箇所
出所:宮城県公文言館所蔵
の入札に参加し、落札に至ったのは五十八名にすぎなかった」許 という口数年前に較べれば、市 街地取得に吋する人々の関,L,が大きく低下していることがわかる
さらにその後も、 「松方デフレ」の影響もあって入札数は激減していったと考えられる。それ と・ころか、上の文吉にもあるように、 「従前許可ヲ得家屋建築セシモノ、内未タ開業等不致│大'二 既二売家ヲ広告スル物有と寸進ノミ退ノ有様ヲ顕シ慨歎ノ全リニ不堪候」 という始末であり、その 訓Ⅲ 「リ]蒜曲弛計│由Iファ之義二付伺」 |宮城県公文当節所蔵盗料}、 虻中の訂正箇所図3参照は、原文では
朱当さでなさオ'ている、
』 なぜこぬような司正が行;われたのかは定か‑ではない[
』妙1章道、前掲論りこ、 76ヘーシ
u剴 肖本由輝「東北開発一二口年」哨捕版、刀水害i矛、 2009年3月、 33ページ) ゞ また、 た藤H廿典も78名と 1̲ている I佐卿H典Iもう一つのi朝騒」、 1966年ll「1 , 81 ・ページ)〃
抑難波信唯、前掲論」虻、 124ぺ一う
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「公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計両案
結果、 「僅少ノ家屋市街地二点、建設スルモ当分内ハ差ダル営業ノ目途無之」 というような惨 階 たる状況となっていたのである。正確な数は定かではないが25' 、とても78名にまで増加している
とは考えられないような状況になっていたのである。
上の文書は、そのような状況に対して、宮城県知事は、 「貸下地入札法」の条項が離し過ぎる ので、 「借地料即納云々ノ項ヲ改メ三ケ年間無借地料四ヶ年目ヨリ料金徴収」とか、 「是迄ノ借地 料ハ予定地価ノ百分ノ八ヲ改メ百分ノ四卜為シ」とかとに変更するように内務卿に要求している。
その際、その要求を認めされるため、市街地払い下げ入札者の数を誇張して「2, 3名」 と記述 したとは考えられないだろうか。 しかしその後この数はあまりにも誇張しているとして、それよ りも多い「7, 8名」と訂正したのではなかろうか26!。
いずれにしても、野蒜築港事業に関しては、 まだ疑問点が少なくない。それゆえ、それらに関 して、再度、原点に立ち返って検討を加えてみる必要性があるように思われる。そこで、 ここで は、そもそもファン, ドールンの野蒜築港案とはどのようなものであったを確認すべ<、以下の 資料を紹介してみることにしたのである27。
2. 紹介する資料
日本水政第百十号
溝油ヲ以テ北上川ヲ海二連絡セシムルノ件
今蕊二別書ヲ貴下二奏呈スルモノハ、則溝油ヲ以テ北上川ヲ海二連絡セシメ、並二湊港、
繋舩場ヲ野蒜二開設スル始針、及上概費ヲ上申センカ為ナリ
千八百七十七年第二月廿七日 長工師ファンドールン
土木局長石井君
溝汕ヲ以テ北上川ヲ海二連絡セシメ並二湊港繋船場ヲ野蒜二開設スル始針
25 参考までであるが、 1884 (明治17)年1月に新市街地に移住してきたと思われる住民11人が宮城県令に 提出した「野蒜市街地拝借科年賦延納願」 (宮城県公文書館所蔵)によれば、 「戸数値二二十有余戸市街地 各所二建築七ルノミニ有之」 となっている。
2御他方、西脇千瀬は「二三名」 (23名) としている (西脇千瀬「築港の社会史一野蒜築港をめく って̲」、
東北芸術工科大学東北文化研究センター「東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要」第8号、
2009年3月、 193ページ)。原文の訂正を認めないというのであろうか。 しかしそのような解釈をしたと しても、 この箇所は読点を入れて「二、三名」 (2, 3名) とすべきではなかろうか。
27 尚、 この文菩は、原文は縦書きであるが、本誌の執筆規定によI)横書きとした, また、文中の句読点は引 用者が付したものである。
東北産業経済研究所紀要第31号
夫レ北上川ハ航程五十里以上ノ大河ニシテ其吐ロハ他ノ日本諸河二於ケルモノ、如ク悪シ、而シ テ該河ノ水ハ仙墨湾ノ沙涜ヲ経テ迂回路ヲ海二開ク然リ而シテ此ノ吐口二沙洲ノ成形スルヲ干潮 ノ際、此鹿ノ水深六尺以上二至ルヲ着ズ、故二載貨シテ十三尺ノ吃水二至ル海舟ハ只洋上二在テ 其貨ヲ揚卸スルノミナラズ、偶々載貨ナキトキト難トモ該河二達センニハ満潮ヲ侍タズンバアラ ズ、此レ其海舟二不便ヲ致ス、其因吐ロノ埋没ヨリ来タス鹿ニシテ、且ツ北上川ノ吐ロハ洋上ヨ リ石巻ノ海濱二直達スル南風及上南東ノ激風二触ル、ノー大困事アリ、而シテ南風激烈ナルノ際 及上其風死シテ数日ヲ歴ルモ沙洲アルノ邉篭波尚ホ鎮静セザルヲ以テ海舟及上多少載貨ノ小舩卜 錐モ敢テ海二赴カンコトヲ試ミントスルニ至ル、故二舟舩ハ巳ムヲ得ス之レカ為メ三十日間、該 河二徒然滞泊スルコトアリト余二語レルモノアリ、依テ思ラク今如此富饒ナルノ地ニシテ唯吐ロ ノ悪シキカ為メ該河ヨリ生スル許多ノ利益ヲ妨碍セラル、ハ実二歎息スヘキノ形態ナラスヤ、故 二以上困難ヲ撤却スルノ方策ハ沙洲二至ルマテ海中二二突堤ヲ堤出シ以テ吐口ヲ修理スルヲ第一 トス、而シテ此ノ築設竣成ノ日ハ大ヒニ載貨スル海舟卜錐トモ吃水ニ充分ナル航路ヲ得ンコトヲ 期スヘシ、旦ツ此ノ航路ハ暴風ノ際モ亦舟ヲシテ海二行ク又海ヨリ該河二来ラシムルニ充分ノ保 護ヲナス
余ハ副図二北上川新吐ロヲ造スヘキ両箇ノ突堤ヲ顕ス、而シテ該堤ノ位置西方二弩回スルヲ以テ 航路二在ルノ舟ハ南及上南東ノ風ヲ隔遮シ、又堤ヲシテ干潮以下十七尺ノ水深マテ及達セシメタ レバ其碑波ノ助二因テ洋上二赴クコトヲ得ベシ、而シテ堤ノ築料ハ柴枝ヲ用上之レヲ蓋フニ石ヲ 以テシ、且ツ堤身二、一、二列ノ杭ヲ打入シ、之レヲシテ強固ナラシムルトキハ其工金下流二要 スルエ費ヲ除キテ殆卜拾八万円二至ルベシ
依テ思う、今此工金ヲ費シテ善良ノ吐口ヲ得、之レヲ以テ河海舟舩ノ用二供セントスルトキハ必 ズエ賢二通スベキノ利益アラン、故二余ハ頗ル勧奨シテ此業ヲ起サシメントスルモ然シ退テ従来 ノ要用ヲ算スレバ未ダ之ヲ可トセズ、如何トナレバ目今突堤ノ築設二因テ航路ヲ造レバ其用日本 舩二足レリト雛トモ後日巨大ノ火舩次第風帆二代リテ来ルトキハ尚此ノ新吐ロヨリ大ナルモノヲ 望マントス、且ツ石巻ハ其演岸裸出スルヲ以テ北上川吐ロノ近傍某地二湊港、或ハ安全ナル繋舩 場ヲ造ルヘキノ地ヲ見ズ、且ツ巨大ノ火舩ヲ該河二入ラシメンニハ少ナクモニ十五尺ノ水深ヲ要 スト錐トモ是亦吐ロー在テハ得ベカラズ、偶々之レヲ得ルモ多費妙巧ノ方技ニアラサレバ其水深 ヲ保持スルコト能ハス、又北上川吐ロヲ悉ク改修スルモ巨大ノ火舩ハ尚他ニーノ湊港ヲ求メンコ トヲ要ス、而シテ之レカ載貨モ日本舩ヲ以テ運搬セスレバアラズ、加之如此不便ナル景況二在テ ハ時ノ損失及上物貨ノ複載ヨリ冗費ヲ来タシ、且許多ノ危険二鯛、ノ虞アリトス、故二余ハ速二 北上川吐口改修ノ考按ヲ翻シ、而シテ石巻ノ小距離二在テ北上川卜水路ヲ通スベキ湊港、或ハ繋 舩場ヲ努メテ發見セントスルニ至りシ
三菱会社ノ舩長ニシテ能ク日本海濱ヲ辨知スルモノハ石巻ノ南東折濱ヲ以テ天然ノ湊港卜云ヘ リ、然シ該濱ハ仮令其水深巨舩ヲ容ル、二足り、且ツ該地ハ四園皆高岸加フル二諸事辨達スヘシ ト雛トモ溝加ヲ該涜ヨリ石巻二交通セシムルコトハ難シトス、如何トナレハ折濱ハ只石巻ノ前港 トナリ且ツ其溝汕モ従テ廣大ナレバナリ、故二余ハ寧口石巻ヨリ凡ソ三里程ニシテ殊二鳴瀬川吐
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『公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
ロノ近労ヲ好シトス、而シテ該地ニハ宜シク投錨スヘキノ繋舩場アリ、且ヅ此場ハー聯ノ島喚二 因テ南風ノ害ヲ受ケズ又海濱二於ケル石巻ヨリモ深ク、加之鳴瀬川吐口近傍ノ地勢ハ其質自ラ築 港二適スルガ故、遂二溝油二因テ該港ヲ北上川卜結合セシメンコト易スシ
設計ノ概記
溝汕ノ堀開ハ高屋鋪村ノ近妾北上川ノー方ヨリ直線二平地ヲ経テ赤井村ノ邉定川二至り該川ヲ横 断シテ大曲村二及ブ而シテ此路ヲ殆卜直線二取り濱峰二平行シテ鳴瀬川ノ吐口ニ達ス、而シテ擶 汕ハ漫溢ヲ防クカ為メ高屋鋪村二閖堰ヲ造り以テ北上川卜分隔ス
鳴瀬川ノ吐口野蒜ノ近妾二入江アリ之レヲ深川卜唱フ、溝油此入江中二突出ス、而シテ其水面ノ 東部ハ干潮以下二尺或三尺ヨリ深カラサルカ故之ヲ渡泥シテ五尺二至ラシメ、又其西部ヲシテ港 ロー適セシメンニハ之レニ十四尺ノ水深ヲ興ヘスンバアラズ
海港ノ両間二於ケル交通ハ干潮以下十八尺ノ水深二達スベキニ突堤ヲ海中二堤出シ以テ之レヲ獲 セシム、而シテ室戸島ノ後背ニシテ此突堤卜相對スルノ地ハ火舩二向ツテ安全ノ居所ヲ輿フト云
うヘシ
物産ヲ戦七北上川ヨリ来ル小河舩ニシテ吃水三尺以上二至ラザルモノハ該川ヨリ石巻二至ラズシ テ高屋鋪間堰ヨリ溝汕ヲ経テ深川二行ク而シテ此地二来ツテ其載貨ヲ巨大ノ海舟二移シ又直チニ 両突堤ノ間ヲ航シテ繋舩場ノ火舩二至ル
北上川ヨリ深川二至ルノ溝汕
余ハ溝汕ヲ以テ北上川ヲ海卜連聯センカ為メ、其方向ヲ左ノ三所二精査セリ、即チ其一ハ廣淵沼 ヨリ深川二至ルノ線、其ニハ石巻ヨリ海岸二沿テ深川二至ルノ線、其三ハ高屋鋪ヨリ深川二至ル ノ線、而シテ第一線ハ簡便ナリト錐トモ廣淵沼ハ水位ノ変更大ヒニシテ降雨ニハ湫溢シ、旱天ニ ハ只水深一、二尺ヲ余スノミ、加之此線ハ許多ノ瀧渠ヲ横断スル至要ノエ事アルヲ以テ之レガ為 溝加ノ費冗多ナルニ至ル、故二余ハ此線ヲ掲載セズ、又第二線ハ石巻ノ椹要トナリ且ツ沿岸ノ全 線平坦ニシテ頗ル昂低ナリト難モ然シ余ハ高屋鋪ヨリ深川二至ル第三線ヲ選バザルヲ得ズ、如何 トナレバ載貨シ以テ北上川ヨリ分派シ来ル鹿ノ小舩、高屋鋪二到ルノ後、海二達センニハ其行程 三里ナリト錐トモ該舩若シ石巻ヲ経テ深川二航セント要スルトキハ道程殆卜五里二至ルベシ、且 ツ高屋鋪ヨリ深川二達スルノ全線ハ平低膏膜ノ地アルカ故溝汕ヲ此土二設クレバ其利益沙濱不毛 ノ地二於ケルヨリ大ナリトス、又余力此線ヲ好ミスル所以ノモノハ高屋鋪ノ周囲二於ケル時トシ テ放水宜シキヲ得サレバナリ、而シテ現今ノ放水溝ハ其ロヲ石巻ノ上北上川二開クヲ以テ該川脹 瀧ノ際ハ其害ヲ該水溝ヨリ遠ク高屋鋪ノ上二及ス、依テ水ヲ放洩センニハ退潮ヲ侍タスンハアラ ス、故二該地ノ人民モ既二溝汕ヲ高屋鋪ヨリ定川、又ハ海岸ノ近傍二掘開スヘキノ企アリシト吾 輩二語しり、而シテ之レヲ設クルノ目途ハ只放水ヲ能クシ以テ北上川ノ聯絡ヲ免レントスルニ在
東北産業経済研究所紀要第31号
リシノミ故二今余ノ始計スル溝汕ハ北上川卜深川トノ間二通航ヲ設ケ労う高屋鋪周囲ノ稲田放水 ヲ鴇スルヲ以テニ重ノ目途二鯉スベシ、而シテ溝加ノ全長ハ高屋鋪ヨリ深川マテ三里五町ニシテ 其底幅ハ三十尺、深サハ干潮以下五尺、傾斜ハー、二半ナリ、又駆道ヲ可及的溝加二沿接シテ置 クヘシ、但シ此幅八尺、高サハ水平比較面以上八尺ヲ以テスヘシ、而シテ掘鑿セシ土ハ瀧加ノ護 方二積貯シ之レヲ以テ溝加ノ堤ヲ造り、且ツ堤顛二幅十一尺ノ道路ヲ築キ、以テ之レヲ平常ノ往 還トナス
図上二顕ハス鹿ノ溝汕ノ側面、其第一図ハ地面ノ高サ水平比較面以上七尺五寸ニシテ、第二図ハ 四尺ナリ、溝汕ハ最初小舩ノミ緩慢ノ速ヲ以テ航行スルカ故其傾斜ハ別二防護ヲ用サルモ水激二 侵サレス、然シ后来小火舩ノ往復熾ナルニ至テハ已ムヲ得ス溝加ノ尺度ヲ増大シ其邉縁二石崖ヲ 具へスンバアラス、別a号ノー図及二図ヲ以テ此ノ増大スヘキ溝汕ヲ示ス、而シテー、二図ノ構 汕側面ヲ着ルトキハ此側面ハ後来溝汕ノ増大スルニ依テ容易クa号一、二図ノ如キ側面ヲ取ルヘ キコトヲ知ル
溝汕ノ呑口北上川二水制ヲ置キ、以テ沿岸ノ削剥ヲ防キ、且ツ航路ヲ間堰ノ方二造ランコトヲ要 ス、然シ石築水制ノ設既ニアルカユヘ其一分ハ之レヲ用ユルコトヲ得ヘシ
高屋鋪近側ノ間堰
高屋敷ノ近側北上川ノ水堰ヲ越ヘテ来ル小河舩ノ吃水今三尺以上ナラサルモノ、 ミ通航ヲ許ス、
故二堰閾上三尺五寸ノ水深ハ稠密計量二依テ充分ナリト雛トモ、然シ北上川改修ノHハ忽チ該川 及上溝油上二小火舩ノ往来スヘキカ故、余ハ弦二注目シテ堰閾二水脚五尺ノ舩モ亦常二通航スヘ キー層ノ水深ヲ与フル二至しり、而シテ印旛沼溝加ノ如ク今北堰幅ヲ二十尺、間長ヲ百二十尺卜 定ムル所以ノモノハ余嘗テ同所ノ溝汕二付、論辨セシコトアルヲ以テナリ
堰頭ハ碑瓦ヲ以テ造ルト雛トモ、閼壁ハ天然石ノ近傍二廉、且ツ得易キカユへ之レヲ以テ埋築ス、
又其礎ハ大抵厚サ三尺五寸ノー層膠泥ヨリ成ルト錐トモ、然シ之レヲシテ尚強固ナラシメンニハ 最初ボーリンケンヲ要ス
堰壁ハ北上川ノ溢水ヲ支ユル為水平比較面以上十六尺マテ築上クヘシ、而シテ堰ニハニ對ノ木扉 ヲ具フ、但シ此扉ハ其面ヲ北上川二向ケ且ツ比較面以下五尺五寸ヨリ同面以上十四尺二達ス、又 扉ハ日常及上朔望二向ツテ四、五尺ヨリ以上ノ水ヲ遮キルコト能ハサルヲ以テ、若シ比較面以上 十三尺ノ如キ異常水位二遭フトキハ己ムヲ得スニ對ノ扉ヲ以テ之レヲ支へ其問ハ舩ノ通行ヲ停メ スンハアラス、然シ如此ノ水位ハ甚タ稀レニシテ且ツ暫時ニシテ止ム、又時トシテ北上川ノ水比 較面迄落ルコトアリシナラバ扉ヲ蓋ク開諮シテ舩ヲ自由往復セレムルコトヲ得ヘシ
深川ノ港
深川ノ東南二溝汕ヲ突出シ該川ノ西部ヲ港トシテ日本大舩ノ用二供ス、其水深ハ干潮以下‑'一四尺、
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「公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
港ノ幅ハ低水線以上三百尺、其長サハ千五百尺、其面ハ巨大ノ海舟三十余隻ヲ容レ、且ツ妾ラ航 路及上溝川ヨリ分シ来ル日本小舩ノ為二充分ナル間隙ヲ剰スヘキ大サヲ保ツヘシ、若シ又後来港 ヲシテー層開廣セント要スルトキハ只深川ノ第二区ノミヲ撰泥シ以テ其水深ヲ十四尺二至ラシム レハ容易二之レヲ得へシ、即図上ヲ−瞬スレハ直二之レヲ了解スヘシ
港ノ沿地及上港北ハ後来、倉庫、工場、舩廠、官舎、及上居家ヲ建ツルニ適用ス、而シテ此地ヲ シテ最高海水位ヨリ上望ムヘキノ高サニ致サンニハ港ヨリ得ル虎ノ鑿土ヲ以テスヘシ
アーイ ミュール アーシ
沿港ニハ後来、石築ノ繋舟壁ヲ置カンコトヲ請求スルニ至ルト難モ、然シ最初ハー對木ノ繋
レプステイJ7jル
舟桟ヲ以テ足レリトス、如何トナレハ溝加ヲ経テ蒐二運搬スル物貨ハ直二甲ノ河舩ヨリ乙ノ 海舟二移韓セラルレバナリ
海ヨリ港二連スルノ入ロハ低水位下深サ十四尺ノ航路ヲ以テ之レヲ得ベシ、而シテ其南側ハ海中 二二突堤ヲ提出シテ之レヲ限しり、面シテ此二堤ハ平行突出シテ其互心ヨリ三百尺ノ間隔ヲ取し り、又其東堤ニハ顛輻四十尺ヲ與へ、西堤ハ其裸出ノ少キカユへ之レニハ三十尺ノ顛幅ヲ供シ、
以テ低水面ノ航路二二百六十五尺ノ幅ヲ得セシムヘクナス、即図上二両突堤ノ横断面ヲ示ス、而
(ママ)
シテ此構造ハ柴枝及上石ヲ用井、且ツ之レヲ硬固ナラシメンカ為、其身二列杭ヲ打入ス、但シ 柴枝ハ日本國中各所大抵得へキカ如ク此地二於ケルモ亦然リトス、又石ハ宮古島ノ近傍及上石巻
ノ石杭二於テ螺多之レヲ着ル
(ママ)
又突堤ヲ成瀬川ノ吐口二提出スルニ方リ第一ノ幸福卜榊スヘキモノハ十四尺ノ深線自ラ該川ノ 沿岸二接スルヲ以テ堤長短少其費用従テ滅却スレハナリ、尚ホ其他巖石ノ海表ヨリ鉛直冗隆シテ 殆卜東堤ノ頭二達スルハ第二ノ利益トス、如何トナレハ此突堤ノ巌石二衝當スルヲ以テ其頭部華 麗ノ状ヲ呈シ、且ヅ怒涛ノ際ハ巖石之レカ障屏ヲ為テ防遮ス、又此巌石ハ海上遥カニ著明ナルヲ 以テ舩舶二港路ヲ示スヘキ望標トナレバナリ
鳴瀬川ノ吐口
鳴瀬川ヲ港卜分隔センコトヲ求ムル所以ノモノハ砂泥該川ヨリ港内二流稗シテ其水深ヲ減スレハ ナリ、故二該川ノ吐口ヲ西二移シ、而シテ柴枝及上石ノ堤二依テ之レヲ港卜分隔ス、然シ此分隔 二在テハ該川卜港トノ間二舟行ヲ存センカ為、 幅百尺ノ隙地ヲ剰スヘシ、而シテ其地底ニハ沈床 (蛎僻蝿鯛') ヲ置キ以テ削剥ヲ防キ又鳴瀬川ニハ水制ヲ設ケ以テ護岸二具へ且ツ該川ノ水ヲシテ其 新河口二流レシムヘキコトヲ促ス
宮戸鴫近傍繋舩場
舩舶海上ヨリ来ルノ際、南風及上南東ノ風ヲ全遮スヘキ安穏ノ居所卜謂フヘキモノハ則宮戸嶋及 其近傍諸島ノ背後ナリ、而シテ該地人民ノ報告二依レハ繋舩場ノ水深充分ニシテ且ツ其証トスヘ キモノハ火舩近日弦二投錨シ其舩長モ泊所ノ平穏二意ヲ安シセント
東北産業経済研究所紀要第31号
然シ余ハ尚ホ水深ノ確実ヲ得ン力為、南ハ宮戸島及上其近傍諸島、北ハ海涜ヲ限り以テ測愚セシ カ此鹿ノ水深二十四尺及上三十尺ナルモノハ遠ク深川二及達セス、是し余力希望二適フヲ以テ頗 ル歎息セリ、故二図上六尺、十二尺、十八尺、二十四尺、三十尺、深線ヲ着ルトキハ、水脚 二十四尺ヨリ三十尺二至ルノ舩ハ仮令南東ヲ遮断スルモ南東ノ風二直接スルコト判然ナリ、然シ 水脚十五尺ヨリ十八尺ノ舩二至テハ深川二達シ又宮戸島ノ濱岸二近ツクコトヲ得ルー依テ南東ノ 風ヲモ亦遮断スヘシ、而シテ前記ノ如ク深川ノ内部二至テハ水脚十八尺以上ノ水深既二顕ハレス ト難モ之ノ失望二関セス、余ハ宮戸島繋舩場ノ保存ヲ充分主張セント要スルモノハ左ノ條理アル ヲ以テナリ、則第一舩舶投錨ノ地ハ石巻ノ周囲何レノ所二於ケルモ未タ宮戸島ノ右二出ルモノヲ 見ス、第二海舟及上火舩ノ水脚十八尺迄ハ殊更防護ヲ繋舩場二為サ、ルモ宮戸島二在テ安全ノ居 所ヲ得ヘリ、而シテ如此ノ水深ハ今仙塁湾ヲ航行シテ寒澤ノ繋舩場二停泊スル火舩ニハ全ク充分 セリ、第三仙豊湾ノ商販水脚二十尺ヨリ三十尺ノ火舩ヲ蕊二来ラシムルノ繁盛二至レハ其火舩ハ 南風醗波ヲ起スノ際卜雛モ無事宮戸島ノ繋舩場二達スルコトヲ得へシ、然シ腿風及風南東ヨリ来 ルトキハ折濱二逃レテ其鎮静ヲ侍ツヘシ、第四蝿風ノ際巨大ノ火舩其停泊ヲ折演二求ムル為費ス 虚ノ時間、貨財、及上巨大海舟ノ為ニモ亦宮戸島二繋舩場ヲ築カンコトヲ希フノ情實ヲ考フルト キハ突堤ヲ該島或ハ近傍島喚ノ邉二設ケテ諸般ノ困難二供シ、且ツ舩舶ニハ安全ノ繋舩場ヲ得セ シメ、以テ其望ヲ充タシムルニ至ルヘシ、故二余思ラク繋舩場二突堤ヲ設ケサルノ間ハ仙壁湾ヲ 航スル火舩只其水脚十八尺ヲ限ルヘシ、若シ後日此繋舩場二巨舶モ亦来ランコトヲ望ムトキハ圖 上二示ス如キ突堤ヲ南西ヨリ北東二建設スヘシ、而シテ其堤長ハ九百尺、堤頭ハ低水位下三十尺、
又築料ハ柴枝及上石ヲ用ユ、尤右ハ宮戸諸島ノ近傍二獲ラルヘキヲ以テ堤ノ築費六万円ヲ超ヘサ ルヘシ、且ツ該島及上其深線路二當ル近傍諸島ノ位置ヲ着ルトキハ此堤ノエ費六万円ハ割合些少 ニシテ、之レヲ其建築二費スヘキコトハ実二希望スヘキ虚ニシテ、且ツ其命アランコト侍ツ
高屋敷ヨリ石巻二至ル放水溝
高屋敷ヨリ石巻ノ北北上川ノー鮎二突出スル現在ノ放水溝ハ溝加開鑿ノ日無用二属ス、如何トナ レハ高屋敷ヨリ定川及上其他二至ル新開ノ溝汕ヲ以テ放水ノ用二供スレハナリ、然シ該水溝ヲ尚 ホ保存セント欲セハ石巻ノ上北上川二於ケル其吐ロヲ鎖閉シ、以テ溝汕内二来ルノ高水ヲ妨ケズ ンハアラス、而シテ其閉鎖ハ土築ノ堤ヲ以テ得へシト錐モ然シ尚此ヨリ優レルモノハ暗瀞、或日 本製ノ墜戸ヲ具フル放水堰ナリ、殊二此水堰ハ労う放水ノ用ヲナスヲ以テ、若シ北上川ノ水低ク 溝棚ノ水非常二高キトキハ之レヲ用ヰテ剰水ヲ洩スヘク、且ツ該水堰ヲ設クルトキハ設計施行ノ
日、石巻石抗ヨリ突堤及上水堰ノ築石ヲ運輸スルノ便路トナレバナリ
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『公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計i由I案
溝加ヲ北上川卜海ノ間二掘開シ湊港繋舩場ヲ野蒜二設置スルノ概費
水制
右北上川二設クルモノニシテ其延長千百尺、但シ毎尺平均四円替ニテ 此工費金四千四百回
閑堰
右同川二置クモノニシテ碑瓦及上天然石ヲ以テ之レヲ築キ、且ツ之レニニ対ノ本扉ヲ具フ、而 シテ其通航幅二十尺、閑長百二十尺、航深低水位下五尺、之レヲ副図模形ノ如ク竣工シテ
此工費金弐万八千円
土料移転
溝油ヲ鑿開スヘキ地場ノ高サハ水平比較面以上平均六尺トス、又溝汕側面ノ贋サ底幅三十尺、
傾斜一二二半、深サ平均該面以下四尺五寸、之レニ堤脚溝ノ五十尺平方ヲ加ヘテ平均側面 六百四十尺平方トナル、又溝汕ノ長さ三里五町、即ち四万零六百八十尺、故に移転スル土料ハ溝 加ノ側面六四零二其長サノ四零六八零ヲ乗シテニ千六百零三万五千二百尺立方、即ち十二万零 五百三十四間立方トナル、而シテ此土ヲ掘鑿シテ溝汕堤ノ上、即チ溝心ヨリ護方平均十四間ノ所 二運搬シ、蒐二積貯セン事ヲ要ス、但シ此賃間立方平均三十二銭、 ‐│・二万零五百三十四間立方二 付
此工費金三万八千五百七十円八十八銭
駆道
ジヤリ
右長サ三里、即ち三万八千八百八十尺、幅八尺細石或ハ石巻或ハ石抗ノ石屑ニテ固ム、其厚サ 三寸、而シテ此積ハ三八八八零二八ヲ乗シ、又零、三ヲ乗シテ九万三千三百'一二尺立方、即チ
ヅナラシ
四百三十二間立方トナル、但シ細石或ハ石屑ノ運搬、發散及上漉路共、間立方四円五十銭替ニ
テ
(マ手)
此工費金千九百四十四間
溝汕堤顛ノ主路
右長サ三里九町、即チ四万二千百二十尺、幅十一尺細石或ハ石屑ヲ以固ムルコト、厚サ三寸、
而シテ比積ハ四二一二零ニーーヲ乗シ、又零、三ヲ乗シテ十三万八千九百九十六尺立方、即チ 六百四十四間立方トナル、胆シ細石或ハ石屑ノ運搬、發散及上瀧路共、間立方四円五十銭替ニテ
此工費金弐千八百九十八円
東北産業経済研究所紀要第31号
ハj ・バン
吊橋
右木築ニシテ其行舟幅二二十一尺、但シ橋畳、石築共 此工費金四千五百円
沿港東堤ノ築費総計 金弐万七千二百円 内讓
掘鑿 此工費金百九十弐円六十銭
右ハ沈床ヲ海濱洲渚二設クル為施スモノニシテ、其積六百四十二間立方、但シ間立方二付 三十銭替
沈床 此工費金三千三百八十八円
右四万四千尺平方、但シ百尺平方二付鎮唖共七円七十銭替 沈床 此工賃金千零六十三円八十銭
右一万千八百二十尺平方、但シ百尺平方二付鎮唾、沈定共九円替 沈床 此工賃金七千零三十一円
右七万零三百十尺平方、但シ百尺平方二付沈墜、沈定共十円替 捨石 金千五百円
右堤長七百尺ノ傾斜二施スモノニシテ、其積二百五十間立方、大サ間立方二百箇ナルモノ 其運搬、沈定共、間立方六円替
上置捨石 金八百四拾円
右巨大ノモノヲ用ユ、其員数千四百箇各積五尺立方ヨリ下ラサルベシ、而シテ各箇六十銭 替
上層工 金千零六十二円
右長サ千百八十尺、幅二十九尺、毎尺九十銭替 上層ノ填石金五百九十二円
右百六十間立方、但シ間立方三円七十銭替 堤嶺ノ蓋石金二千四百円
右表面千二百間立方ニシテ、之レヲ蓋フノ石ハニ尺五寸立方積、但シ其厚ミハー尺二寸ヨ リ下ラサルモノヲ用ユ、而シテ運送、蓋敷、且ツ細石ヲ以テ、蓋石ノ騨隙ヲ充填スルエ費 共、同平方二円替
本杭 金三千五百円
右員二百五十本、長サ平均二十尺、頭ノ太サ九寸二九寸、其質堅硬ナルモノヲ選用ス、但 シ右打入賃料共、一本十四円替
木杭 金二千四百円
右員三百本、長サ平均十五尺、頭ノ太サニ尺七寸廻り、但シ打入賃、其一本八円替 纒銅 金七百五十円
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『公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
右二百五十本ノ杭二施スモノニシテ、各杭二十五尺平方ノ銅板ヲ以テス、故二二百五十本 ニハ三千七百五十尺平方ノ板ヲ要ス、但シ毎尺平方二十銭替
損害 金二千四百八十円六一│‑銭
右工事ノ際、若クハ海哺ノ為起ス虚ノ本石流失等ヲ豫算ス、但シ此算ハ、殆ント東堤築費 ノ総計百分ノ十二居ル
沿港西堤ノ築費総計 金壱万六千八百円 内讓
掘鑿 此工費 金百五十円
右ハ海濱二沈床ヲ置ク為施スモノニシテ其積五百間立方、但シ間立方二付三十銭替 沈床 此工費 金千四百零九円十銭
右海濱二設クルモノニシテ其積一万八千三百尺平方、但シ百尺平方二付七円七十銭替 沈床 此工費 金千五百四十四円四十銭
右積一万七千百六十尺平方、但シ鎮唾、沈定共百尺平方二付九円替 沈床 此工費 金五千四百五十二円
右積五万四千五百二十尺平方、但シ鎮躍、沈定共百尺平方二付十円替 捨石 金九百円
右堤長五百四十尺ノ傾斜二施スモノニシテ、其積百五十間立方、石ノ太サ間立方二百個ナ ルモノ其運送、沈定共間立方二付六円替
上置捨石金三百六十円
右巨大ノモノヲ用ユ、其貝六百個、角積五尺立方ヨリ下ラサルヘシ、但シ毎個六十銭替 上層工 金五百零四円
右長八百四十間、幅十九尺、毎尺六十銭替 上層ノ填石 金二百七十七円五十銭
右七十五問立方、毎間立方三円七十銭替 堤顕ノ蓋石金千三百十円
右表面六百五十五間平方ニシテ、之レヲ蓋フノ石ハニ尺五寸立方積ニシテ
其厚ミー尺二寸ヨリ下ラサルモノ、而シテ運送、蓋敷、且ツ細石ヲ以テ蓋石ノ孔隙ヲ充填 スル費共、間平方二円替
木杭 金二千七百円
右員二百二十五本、長サ平均十六尺、頭ノ大サ八寸二八寸、其質堅硬ナルモノヲ用ユ、但 シ打入賃料共一本十二円替
纈銅 金六百七十五円
右ハニ百廿五本ノ杭二施スモノニシテ各杭二十五尺平方ノ銅板ヲ以テス、故二二百廿五本 ニハ三千三百七十五尺平方ノ板ヲ要ス、但シ毎尺平方二十銭替
東北産業経済研究所紀要第31号
海哺損害ノ豫算 金千五百十八円 右ハ殆ン卜西堤築費百分ノ十二居ル
水制
右ハ鳴瀬川二施スモノニシテ、其延長千四百尺、毎尺平均二円五十銭替 此工費 金三千五百円
渡泥工
鳴瀬川ノ新吐ロヲ掘開及上没泥スルコト五千二百間立方、即低水面以上幅四百尺傾斜三ニー、
深サ低水以下三尺二及ブ、而シテ掘鑿セル土ハ湊港突堤ノ後背近傍ノ地二積貯ス、但シ間立方 三十五銭替
此工費 金千八百二十円 港ロノ渡泥
右ハ零鮎ヨリ五尺マテノ深サニ至ル、其積五千七百四十五間立方毎間立方、毎間立方三十五銭 替
此工費 金二千零十円七十五銭 港ロノ淺泥
右ハ低水面以下五尺ヨリ十四尺ノ深二至ル、其積一万千百三十七間立方毎間立方五拾銭替 此工費 金五千五百六十八円五十銭
両突堤間ノ掘鑿渡泥
右ハ水平比較面以上三尺ヨリ同面以下五尺マデ、其積七千六百三十間立方毎間立方三十五銭替 此工費 金二千六百七十円五十銭
両突堤間ノ渡泥
右ハ低水面以下五尺ヨリ十四尺二及ブ、其積一万千四百二十五間立方毎間立方五十銭替 此工費 金五千七百十二円十二円五十銭
右掘鑿渡泥共合計
金一万七千七百八十二円二十五銭 繋舩場
右湊港二設クルモノニシテ其製木築其員二個 此工費 金四千円
木築暗溝
〈ママ)
右ハ石巻ノ上放水溝ノロニ設クルモノニシテ、其他稲田、灌概ノ小暗溝、並二植柴。渡舩 等合セテ
此工費 金六千円
総計金十五万五千五百九十五円十三銭
此虚二諸雑費及上遺忘事件ノ豫算凡ヨ総計百分ノ十、即一万五千四百零四円八十七銭ヲ加ヘテ
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「公文録」に見るファン・ ドールンの野蒜築港計画案
総概費金十七万千回也
千八百七十七年二月廿七年 二月十七日
(ママ)
ブンドールン 東京 長工師
平野重彰課
(付記)
上で紹介した文誉中で筆者が解読できなかった文字等については鵜飼幸子氏(前仙台市史編き ん室長)からご教示を賜った。 また、雲然祥子氏(東北学院大学大学院経済学研究科博士後期課 程)からは、上の文普の読み合わせを行っていただく中でいくつかの有益な助言をいただいた。
ここに記して感謝の意を表したい。 しかし、 もし誤りがあるとすれば、筆者の責任であることは いうまでもない。