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こぺる No.080(1999)

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こべる刊行会

NO. 80

部落のいまを考える⑮ 小 林 綾 著 『 部 落 の 女 医』を読む 中島智枝子 ひろば⑩ はじめての中国旅行

思 智 理

ヒロの楽

き帳

多田ヒロミ

『こペる』(

N

o

.36-No. 56

論文目次

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部落のいまを考え る ⑮

報 編 集 委 員 A :z:;. 発 行 カ 吉

紹 介 欄

書 を

中島智枝子︵帝塚山大学非常勤講師︶ ﹁部落の女医﹂との出会い 一九六二年五月に刊行された本書との出会いは、本年 六月、岩波新書ばかりを並べている図書館の書架の中か ら何気なく取り出したことから始まる。同新書の中から 部落問題を取り上げたものを読むということはあったは ずだが、同新書中、部落問題を直接取り上げたもので私 が読んだものといえば、﹁ある被差別部落の歴史||和 泉 国 南 王 子 村 ﹄ ︵ 一 九 七 九 年 九 月 刊 ︶ 、 ﹃ ド キ ュ メ ン ト 屠 場﹄︵一九九八年六月︶ぐらいである。岩波新書中、部 落問題を取り扱ったものが少ないということなのだろう か。ところで、私の手元にある﹃ある被差別部落の歴史 ||和泉国南王子村﹄には既刊新書案内の﹁記録・随 筆﹂の項に本書が記載されてもいる。したがって、この 時点で本書を読んでおいてもおかしくないはずであるの だが読んでいない。改めて自分の不勉強を痛感させられ た 次 第 で あ る 。 何気なくと最初に書いたが、今年のご月に﹃部落解放 こぺる 運動情報﹄コ二号︵一九九九・二・二

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、 [ 部 落 解 放 運 1

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取 り 上 げ 、 ﹁ で も 私 は 面 白 か っ た 。 一 九 五

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年代から六

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年代の部落の様子がよくわかるというのがひとつ。衣 食住だけでなくムラの人の感情の機微とか、﹃ごすさ﹄ と か 、 気 の 良 さ と か が 見 え て く る 。 ︵ 中 略 ︶ ﹃ 部 落 差 別 ﹄ に迫るには、文化人類学的な視点も必要なのかもしれな い﹂と記された紹介で、部落差別を考えるさい﹁文化人 類学的な視点も必要﹂という指摘が強く印象に残り、本 書 に 興 味 を 持 ち 、 一度読まなければと考えたのかもしれ ごミ O J 句 、 ν ﹃部落の女医﹄と著者について 本書は一九五

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年代、奈良県の被差別部落で医療活動 を行なった女性医師の記録である。著者の小林綾さんは、 京都府立医科大学付属女子専門部の二年生の時に敗戦を 迎えた。戦後の民主化の中で、学生時代を過ごし、労働 運動に興味を持ち、夏休みには産業別労働組合会議京都 支部に出入りしたことが書かれている。インターン時代 に レ ッ ド ・ パ

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ジ闘争に参加したということで、大学当 局より﹁登院処分﹂を受けたという。その後、辛うじて 医師国家試験を受けることだけは認められたということ だ 。 著者が奈良県の被差別部落の一つである大福に巡回診 療の医師として訪れるのは、医師になった直後の一九五

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年 一

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月 の こ と で あ る 。

h 1 ・ おめが先生け。何とおかっぱの子供みたい なたよりない先生やの﹂、これが巡回診療を地区で世話 する﹁福田のおっちゃん﹂の著者との初対面のさいの開 口 一 番 の 言 葉 で あ っ た 。 三か月後の一九五一年一月、週一回の巡回診察では十 分な医療行為が出来ないとして、宇治市で中学校教員を している夫とともに大福に居住し、夜間診療を始めた。 地区の人の協力を受け、三か月後の一九五一年三月一日、 大福・香久山診療所が開設され、著者は所長として村の 人々の健康管理に当たる。診療所はやがて村の名所の つとなり、村の人たちのクラブとなっていく。 設立当初は村の中心にある区長さんの土蔵の二階に間

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借りして聞かれた診療所も、 一九五六年二一月、これま た大福の人々の支援をもとに、ベッド数一

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を持つ二階 建の診療所を自前で建てるまでになっている。その後一 九 六

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年五月に診療所を退職するまで、 一

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年間にわた って著者は大福での医療活動を続けた。 この間、著者一家は夫の両親とともに大福に住み、 人の子供を育てている。二人の子供を部落の保育園、小 学校に通わせる等、著者は医者としてのみならず文字通 り部落の住民として、衣食住万般にわたり、部落の人々 の 生 活 に 触 れ る の で あ る 。 著者にとって部落での医療活動に向かわせたのは、部 落差別に対する怒りを感じる著者のヒューマニズムであ ったといえる。戸著者は、﹁本当の民主主義は未解放部落 をすっかりなくしてしまわなければならない﹂と述べ、 ﹁私も部落民だったらよかったとか、もしまだ結婚せん うちにここへ来たのやったらこの村の人と結婚して、自 分で率先して胸をはって部落解放運動をするのにと思う ことがあるわ﹂と語っている。とはいえ、﹁私達一般人 は、先祖代々この人達に正当の人権も与えないでおい て﹂、﹁無礼だとおこったり軽蔑したりする私達自身の心 構えも、油断なくいましめなければならない﹂、﹁今この 部落診療所で苦労することが祖先のしてきた罪ほろぽし みたいな気になることもあるわ﹂等、著者は時として被 差別の当事者でない自分についてこのように語ることも ある。また、医学徒としてより新しい知識を学びたいと いう願望を満たす余裕もない程多忙な現実の中で心労の あまり欝的状況に陥ることもあったようだが、部落差別 を憎む著者のヒューマニズム精神は揺るぎなく貫かれて い た と 私 は 感 じ た 。 本書は、著者が診療所を退職した後書かれている。著 者は﹁あとがき﹂で﹁私がしようとした事は中途半端で、 何ひとつとして完成したものはありません。︵中略︶そ れなのに私は、解放運動の闘士も自分の子供のことにつ いてはどんなに弱い心を持っているかを知り、また、教 育もない貧乏な人達の飾らぬ美しい心を見ました﹂。そ して、このような村の人びとに対するお礼の心を表すた こぺる めに本書を書くことにしたと述べている。 3

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﹃ 部 落 の 女 医 ﹄ で描かれた部落 本書には、著者が一九五八年七月に聞かれた第六回全 国民主医療機関連合会総会の第三分科会で行なった﹁未 解放部落の ﹃医療問題﹄﹂と題された報告要旨が収めら れている。これによって、大福︵正式には南大福・吉備 北地区︶の状況をまず見てみよう。人口密度であるが、 大福では一平方キロメートルあたり一万一八三人である。 これを奈良市の九五九人、橿原市の一=二O人と比べて みると、同地区がいかに過密であったかわかる。農村地 帝にもかかわらず農家は一O%足らずで、全戸数の六 七・六%が失業対策事業で生計を維持しているという。 しかも、農家二戸あたりの田畑は二反一九歩にすぎず、 農業では生計が維持できない狭小さである。 当時は、富裕層を中心として皮革製品製造、履物製造 が行なわれており、これらの仕事に地区内の多くの人が 従事している。彼らは低賃金、かっ、部落内から通って いることからも労働基準法に程遠い長時間労働を余儀な くされ、また、未成年労働者が多く見られ、このような 労働条件の悪さが同地区の慢性多病の原因となっている と い 、 っ 。 一九五一、五二年、青年たちの大半を冒したヒ ロポン中毒はこのような環境が生み出したのではないか と も 報 告 さ れ て い る 。 これらの数値をもとに当時の大福の状況を考えると、 劣悪な環境、貧しい生活という姿しか浮かばない。とこ ろが、本書が私に語りかけるのは、数値では捉えきれな い部落の生き生きとした生活の実相である。たしかに本 書を読めば、当時の厳しい生活状況をうかがうことが出 来る。しかし、それよりも、もっと私に強いインパクト を与えるのは部落の人たちの赤裸々な生き方である。 著者が最初に間借りした宗吉さんは、﹁この村はかえ っ た μ ゃ 、 か 四 つ N やといわれるけんど住んでみたらえ え人間ぽっかりや。中には学のない悪い奴もいよるが村 の中でやったら滅多なことはない。たとえ電車の中でも 二つや三つの駅の間でやったら、無茶なことをする奴が あ っ た ら : ・ ︵ 中 略 ︶ : ・ 。 わ し は 何 時 な と 出 て 行 か

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いますよって﹂と著者が最初に同家へ行った時挨拶する。 宗吉さんのこの挨拶に、私は、著者同様驚くとともに、 劣悪な環境のなか、悲惨な生活を送ることを余儀なくさ れている部落というイメージと程遠い強さにただただ圧 倒されるのである。そして、なんとなく部落の顔役であ るこの宗吉さんに親近感を覚えてしまう。さらに、それ 以上に私にとって驚きであったのは、宗吉さんの語り口 である。著者が大福で家探しを頼んだ宗士口さんは著者が 勤務していた病院にやって来る靴直しである。著者は宗 吉さんを貧しい靴直しと見ていたが、靴直しはそれなり の資本がないとできない仕事であることも宗吉さんの家 に間借りするようになって知るのである。 一年後には診療所の運営のために村の有力者で構成さ れる世話人会が作られた。世話人の人たちであるが区長 をはじめとし村会議員、農協組合長、民生委員、および 解放委員会役員たちである。行政職と運動側を代表する 地元の有力者たちの後ろ楯を受けなければ、著者の診療 活動は円滑に取り組めなかったということをこのことは 物語っているのだろう。 i 著者は多数の患者の診療を通して日常生活の実情に触 れ、部落の人たちの織り成す心温まる世界に次第に魅か れていったようだ。著者のこの思いが読み手である私に も伝わり、部落の人たちの赤裸々な生活世界に引き込ま れ て い く 。 入院した時、こんな軽い布団で寝たことないといって 退院時に布団を家に持って帰りたいと駄々をこねた人、 順番を無視して診 R m 室に入ってくる人、電気メーターの 逆回しの話などについて著者は困惑すると同時に、部落 の人たちの生活の泣き笑いを筆にするのである。生活の 喜怒哀楽をともにする中で、著者は部落の人々について ・時に厳しい言葉を投げかける。治療費を﹁まけてんか﹂ と値切る患者に対しては、﹁部落の人はなんでもその調 子 や さ か い 、 いくら解放運動したかて嫌われるのやん か﹂と言い返すのだ。 こベる 5

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部落を支配するもの 著者が部落で物事を運ぶさいぶつかった壁は、部落は ﹁外からみると部落の人はひどく団結しているように見 えます。たしかに事件が部落の外で起こった時にはすぐ に話も行動もまとまってしまうのですが、ことが部落の 内側で起こるとなかなか思うようにはゆきません。︵中 イ ツ ケ 略︶部落の中に対立があったからです。第一に親戚です。 ﹂れは最も強力なもので、ほとんどすべての事を支配し ています﹂という親戚の結びつきの強さであった。 本書にはこの親戚という言葉が度々出てくる。著者は 血縁姻戚関係が何事にも働く部落の傾向を﹁村の封建 制﹂ととらえ、これが﹁身、つごきならぬほどに複雑で頑 固﹂に部落に見られるという。 この親戚を基本とする関係は部落の仕事にも見られる。 本家筋が親方、そして、この親方のもとに親戚のはしば しの人たちが労働する。このような構造だから働き手の 人たちは労働条件の改善もなかなか要求できない。当時 流行したヒロポンが部落に入り、中毒が若者の聞に蔓延 するのもこの構造と密接不可分だと著者は見ている。 一方、著者は厳しい差別の中で生きる部落の人々の生 活を知れば知るほど、問題を感じながらも言葉に出せな い思いを抱く。診療のさい見られる部落の親たちの子供 への猫可愛がりにもちかい溺愛ぶりに憤慨する一方で、 保育園での遊戯会の衣装に大金を掛ける親たちに対して 将来のためにそのお金を蓄えなさいといえるかと自問す る。高等学校、大学と進み、大会社に就職することが出 来るという保証が出来ない以上、﹁部落の子ばかりの保 育所で、やけ酒や、賭博のかわりに散財をすることをあ ながち止めるほどのこともない﹂と考え、部落の親たち の溺愛ぶりに仕方のない微笑を送るのである。 水平社以来の部落解放運動の活動家であり世話人の一 人でもあるよが、東京の大会社に勤めた我が子に会社を 退職させ部落に呼び戻した﹁茂ちゃん﹂の話では、著者 は﹁解放運動に献身しながら自分の子供の幸福のため矛 盾した行動を取った﹂ことに対して改めて部落問題の根

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の深さを感じさせられる。 また、当時の小学校、中学校での同和教育の取り組み について、なおざりにされている状況を知りがく然とす る。勤評反対闘争をする部落解放運動が自分たちの教育 では校長のいいなりになっていることに対して憤りを感 じたことが述べられている。 部落の女性と結婚して部落に住むようになった男性は 失対の登録をめぐり部落を優先するやり方について、次 の よ う に 著 者 に 語 る 。 ﹁この村の人は自分で差別されるようにしてると思い ます。そして私はこの村の失対の連中から逆な差別を受 けています﹂、﹁本当は村の人達もええ人なんだけれども、 ︵中略︶村の人は部落というグ権利 U を ふ り ま わ す し 、 役所は何かとおそれで無理をきかす。こんなつきあいは 対等ではありません。だから部落の人達は部落根性がと れないし、差別はちっとも解消しないのだと思います。 ︵中略︶自労の幹部の話し合いでも、最後には私は口を つぐまねばなりません。私は部落の中で差別され、部落 の中でグ特権 d をふりまわされていると思います。 般 の人がそれを恐れている事を知って利用しているので す﹂。これを聞いた著者は、﹁勇気を出し時機を見て、そ れを村の人達に理解させねばならない事を、夜おそくま で話し合いました﹂と記している。 被差別の当事者でないものが、部落の人たちの生活や 運動を批判することがいかに難しい問題であるか、それ を著者もこの話をした男性もわかっていた。部落外の立 場では、最後には口をつぐむことしか出来ないのだろう か。差別と批判は異なると考えるが、やはり、部落外の 立場には理解できないと批判されると、その言葉の前で、 さらに批判を続けるということは余程の勇気がいる。こ のような関係は現在はどうなのか非常に気になった。ま た、部落は﹁権利﹂をふりまわし、役所は何かとおそれ て無理をきかす、対等ではない等の指摘であるが、当時 の部落解放運動の一側面に見られたとしたらそのことを どのように考えたらよいのであろうか。さらに、これ以 後の運動ではこのような傾向はどうなのか等、 一 考 を 要 こぺる す る 指 摘 で あ る 。 7

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﹁部落﹂という一言葉について 部落の人が、﹁部落﹂ということについてどのように 考 え て い る か 。 著 者 は 、 一

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年間の部落での生活でこの 言葉はことさら聞くことはなかったと述べている。部落 解放同盟の会議等の時に聞く程度であったという。そし て、この言葉は著者のような部落外の立場から部落の人 たちに質問するのは難しい問題であったことが語られて い る 。 ある夜、活動家ではない普通の人たちがどのように感 じているか、著者は懇意に付き合っている家の人たちに 質問した。﹁ほんのちょっとの間さっと冷たい風がはい ったような空気を感じました﹂とある。やはり、非常に デリケートな問題であることがわかる。 質問された人は、﹁そら先生やさかい何いうても怒ら へんけど、外の人やったらちょっとこたえるな。そこが 部落民の証拠や﹂、﹁村の中では忘れてるし、桜井の町あ たりへ出ると、部落民であることをかえって便利がよい と思ってるのや。顔がきくし外の奴らはわしらにはよう 手をだしよらへんさかいなア﹂。著者はこの後、﹁本当に 部落という言葉は、部落外でも部落内でもタブーになっ ています﹂と記すのである。そのような中で、部落外に 働きに出ているこの家の若夫婦とようやく話が出来る雰 囲 気 が 出 来 た 。 大阪に働きに出ている夫の方は別になんとも思わない、 ま た 、 いう必要もないし、誰かが話をしているときは聞 くだけだという。彼はこのようなことを聞く著者に対し て、大福の駅で降りるとき﹁私は部落民とちがう﹂とい う安心感で乗っているところがあるのではないかと尋ね る。それに対 γ して著者は﹁私も部落民だったらよかった とか、もしまだ結婚せんうちにここへ来たのやったらこ の村の人と結婚して、自分で率先して胸をはって部落解 放運動をするのにと思うことがあるわ﹂といい、学校の 先生や学生らは一般的な理論の堂々めぐりで直接迫って くるものがないし、解放同盟の大会報告は苦しみの羅列 で理論がないような感じがする。それはあなた方のよう

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な部落出身のインテリが運動に参加しないからではない の か し ら と い う 。 気にじないという夫ではあるが、妻は職場に村の人が 靴を売りに来たといって嫌な顔をしていたことを著者に うちあけている。部落から出て、本籍を大阪に移し、長 く公務員として勤めた父親のもとで何不自由なく成長し た妻は、部落ということにものすごく卑下しているとい ぅ。妻は大和の人と付き合うときはよく調べないと危な いといってきたにもかかわらず、見合いで今の夫と結婚 した。そして、親戚回りのとき結婚相手が部落であった ことがわかり、びっくりしてしまい涙が出そうになったと 話す。妻の言葉の前で著者は自分がさつきいったことは、 ﹁気持ちはうそではないのに少しうしろめたく﹂思った と述べている。このあと妻は部落を取り上げた小説でも 映画でも貧しさや悲惨さばかりが強調され過ぎている。 文化的な生活をしている人もいるにもかかわらず、きた ない所や悪い所ばかりを取り上げるからよけいに嫌われ るのだと、日ごろ思っていることを著者に話す。 一 九 七

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年代に入り悲惨な部落像ではなく部落が担つ た生産と労働の意義に力点をおき部落を捉え直す主張が なされたが、当時すでに部落の中からこのような見方が あったことは驚きである。 部落という言葉に対してやはり部落の人は心穏やかで ないことがこれから読み取ることが出来るだろう。この ような部落の人たちの気持ちが現在どのようになってい るのだろうか。また、部落と部落外の人と人との関係で ﹁部落﹂という言葉がタブーでなくなったのだろうか。 これまた、三七年が経過したにもかかわらず、本書を読 みながら非常に気になった点である。 −−'ー. /、

刊行直後の書評

本書が刊行された直後、朝日新聞、毎日新聞では早速 新刊案内に本書を取り上げている。 一 九 五 六 年 一 一 一 月 に ﹁ 部 落 三

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万人の訴え﹂を連載し、部落問題のキヤ こベる ン ベ

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ンを行なった朝日新聞は﹁住民の生活の内側から 見た事実を、もの静かにつつましく語っているので、か 9

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えってひとを動かす説得力がある﹂と評価し、﹁小説や 映画で、あまりに暗い方面をカンパンにすることに反対 し ﹂ 、 J 部落という権利をふりまわし、行政がおそれで無 理をきかすというのでは差別は解消しないなど傾聴すべ き提言もあると述べている。︵一九六二年六月一七日︶。 毎日新聞では﹁貧しさと因習と差別待遇に悩む未解放 部落に住みつき、診療所をつくって、最底辺の人たちに 奉仕

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た感動的な記録﹂であり、﹁未解放部落の現実を よくとらえた本である﹂という。︵一九六二年六月九日︶。 雑誌﹃部落﹄でも刊行直後の六月号︵一四九号︶ 書を取り上げている。前田万千子さんによって書かれた 書評であるが、﹁生々しい生活記録﹂、﹁読書界でもっと も普及性をもった H 岩波新書 d がはじめて部落をとりあ げたということもあずかつて、たいへんな読まれようで ある﹂という。﹁運動を拒む要素を多分にもっている﹂、 ﹁何故この本を診療所在職中に書かなかったのか﹂、﹁も の売り的な︵興味本位な︶態度で書かれたもの﹂と当時 だされた本書に対する批判は部落側の偏狭きであるとし ながらも、自らの内部矛盾を語っていない著者の態度は、 で 本 部落問題が自身の問題ではなく部落の人たちのためとい う傍観者的なものになっているのではないか。さらに、 ﹁祖先の罪ほろぽし﹂という箇所を捉えて部落問題は ﹁結局人のことだとする﹂著者の態度が見られ解放運動 の側からの批判もこの点にあり、この二点が不満である と評している。とはいえ、﹁いままで出しえなかった部 落のもっている一つの面を、何より理くつでなく、部落 の中の具体的な生きた人間像をとおして国民の前に明ら かにしたという﹂点では評価が出来るとし、これを出発 点として解放のとりでをきずいていきたい。この意味で 著者にさらなる声援を送りたいと結ぼれている。 朝日、毎日両新聞および﹃部落﹂の書評からもわかる 通り本書は部落の実情を知る格好の書として当時の読書 界に迎えられたことがわかる。

私にとって本書が興味深かったのは一人の医師の日を

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通して部落のありのままの姿が描かれている点であった。 しかも、著者が女性でかつ母親として部落で育児をした だけに、衣食住全般にわたること細かな部落の生活の実 相がうかがうことができ、文献史料でたどれる歴史とま た違った角度からの一九五

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年代の大福が見えてくる点 にあった。大福が奈良県の水平社運動の主要な拠点であ り、戦後いち早く日雇労働者の組合を結成した部落であ ることは現在残されている史料からわかるとしても、生 活人としての矛盾を抱えつつ解放運動を担った活動家た ち

ρ

姿ゃ、部落の衣食住全般にわたる生活の実相等につ いて具体的に−記されている本書は、この意味で大福の歴 史を豊かにすることであろう。 そしてなによりも、部落差別の只中で部落の人々の憤 りや怒りや哀感さらには差別する側をやり返す強さ等、 部落の人びとの情感の機微についてタブ!なしに書かれ ていることが驚きであった。そして、このことがかえっ て当時の部落差別を具体的に浮かび上がらせているよう に 感 じ ら れ た 。 九 九 年 の 同 和 対

業 特 別 措 置

以 降

年 及ぶ同和対策事業により部落を取り巻く生活環境はじめ 部落の人々の仕事や生活も大きく変わった。このような 中にあって、部落内外の眼差しゃ関係はどのように変化 したのだろうか。この問題を考えるとき、今一度、本書 をひもとくことは意義があるといえる。 ︵ 一 九 八 六 年 増 刷 、 現 在 品 切 れ 、 再 版 未 定 ︶ こ,−<:_る 11

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ひろば⑩ 因 U 知 日 理 ︵ 高 校 教 員 ︶

はじめての中国旅行

中国に行けるなんて、思ってみたこともなかった。 もちろん、実際問題としては特に最近、別に行けない 理由なんてなかった。今は改革開放政策のおかげで、か なり旅行しやすくなっているし、自分の方に何か行けな い事情があったというのでもない。金銭的理由があるの でもない。でも実際に行くまでは、中国旅行なんて何だ かリアリティーのない絵空事みたいな感じだった。 中国って国に関しては、欝屈がある。ちょっと冷めた 見方をすれば、事情をよくも知らないうちに勝手にいい ほうに思い込んだ事柄を、あとで否定されて落ち込んだ っていうことではあろう。社会主義中国の毘って奴だ。 これは単なる思い込みの産物、といえばいえる。だが確 かに向こうの方も、そう思い込まそうとじていたのも事 実 で 、 いまさら﹁騎されたほうが悪い﹂などと、白々し いことをいわれでも困る。 だから最近中国関係で目にするものといえば、 ュ

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タ・ソフトのマニュアルぐらいなもの。政治的なも

のには触れたくもなかった。左翼は冷戦という戦いに負 けたことを認めたがらない。右翼が大東亜戦争に負けた ことを認めたがらないように。でも両方とも負けてしま ったのは事実で、そのあと運動に入れ込んでた﹁純粋 な﹂青少年たちがシニカルになってしまったのも同じだ。 というので私自身、もう青少年と呼べる歳でもなかろう が、相変わらず古傷を抱えたままだった。そして意地で もそれを直すまいとしていた。下手に直したら、自分で なくなってしまうような気がして。自分が存在してきた 意味がなくなってしまうような気がして。 /そんな自分がいまさら中国に行っていったい何を見て くるのか。それが分からなかったから行かなかったのだ ともいえる。結局行くことになったのは、大学時代の友 人が仕事で北京に赴任して誘ってくれたからだ。自分自 身、共産党の連中が我慢ならんのは事実でも、それ以外

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に人がおらんわけでもなかろうと思い始めてはいた。む しろ中南海の住人には白い目で見られているような集団 の中にこそ、面白い人聞が見つかるかも知れん。まあ漠 然とそう考えで、行ってみる気になったわけです。 それで私は何を見てきたのか。私には未だに﹁これを 見てきた﹂とはっきりいうことができない。混沌とした イメージしか湧いてこないのだ。ただそのイメージはそ の混沌さのゆえにというべきか、強く訴えかけるものを 持っていて、私を今でも根底から揺さぶる。それをアト ランダムに言葉にしてみると次のようなものになる。 歯を剥いて抵抗する四川の珍獣ブタネズミ。一気飲み バトルの連続の中国人との宴会。成都のお寺の法会で読 経に合わせて踊る坊さん。道観で話しかけてきたおじい さん︵方言がきっくて一言もわからない︶。祭壇にとも されているやたらぶつとい線香。茶館の日陰で暑さをし のぎながら食事をとってる老人夫婦。金属製の箸状のも のを鳴らしながら席を回る耳掃除。足の指にチョークを 挟んで詩を路上に書き、自分の境遇を訴える障害者。学 費を稼ぐために一人朗々と胡弓を弾き続ける小学生。 西安のイスラムクォ

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、夜の喧騒︵幻想的な光 景 ︶ 。 ﹁ ハ ロ

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﹂と声をかけてきたちっちゃい女の子︵カ メラのフラッシュをたいたらまぶしがってた︶。都心の 公園に夜集まった人の群れ、中には男のひざの上に腰掛 けている男までいる︵恋人同士?︶。モスクの礼拝にや って来た男の子の前髪は染められていて緑色。﹁日本人 だ﹂といつでもなかなか信じてくれない売店のおじさん。 ﹁日本人大好き﹂と話しかけてくるホテルの係の姉ちゃ ん。仲見世を杖を使いながら歩いていた目の不自由な人。 安くておいしい屋台の料理︵回族の人たち︶。﹁ボピンな 針﹂と日本語で書いてある

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シャツを着た観光客。フラ ンス領ポリネシアからやって来た客家系の人︵中国語が 話せない︶。名所巡りのパスツア

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で一緒になった日本 人たち︵最初うるさいんでシカトしてた︶。 フ ア ツ 、 ン ヨ ナ ブ ル な デ ィ ス コ ー の や た ら け ば い ホ ス テ ス ︵ ﹁ パ カ ! ﹂ など日本語も話せます︶。どう見ても無駄にいるとしか 思えない博物館の切符切り︵自動改札の先にいる︶。空 港周辺、一面に広がるとうもろこし畑︵イングランドみ こべる

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、 ノ

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− − ﹂ 13

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北京のカラオケパ

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で踊りまくる日本人。万里の長城 に何故かいるラクダ︵記念写真用︶、そして梅田のラッ シュ時を努露とさせる人混み。ウソつグルレストランのフ ラメンコ。オープンパ

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で飲んでたらやって来たたばこ 販売のコンパニオン︵ラパ

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地 の ス カ ー ト を は い て た ︶ 。 いくつもあって最後にはうんざりさせられる故宮の玉座。 観光客を見るとどこでも寄ってくる物売りたち。 今思い出すままに書いてみてもこの通りだ。しかもこ れは主に街の印象で、その前に訪れた四川省北部の山岳 地帯についてはほとんど触れていない︵その余裕がな い︶。中国滞在中、私は、二匹の大蛇が闘うなど、かな り激しい夢を立て続けに見たが、それもことわりという べ き で は な い の か 。 だからこれはかつての全体主義的な社会ではなく、十 九世紀イギリスの作家、ディケンズの描いた世界にむし ろ似ている︵白昼、西安の目抜き通りで私の腰にしがみ ついてきた小学生ぐらいの女の子の物乞いを、私は忘れ ることができないじ。福本勝清は﹃中国革命を駆け抜け たアウトローたち﹄︵中公新書︶の中で、﹁人民中国の皮 を一枚めくれば、民国が顔を覗かせる、そんな雰囲気で ある﹂と書いているが、まさにその通り。何でもありの 世 界 。 その民国期に活躍した詩人・閉一多の詩句が今そぞろ に思い出されてくる。唯美派の詩人として出発しながら、 晩年には民主党派の一員として国民党政権を蔵しく批判、 それがために暗殺された聞一多。その後中国では人民共 和国の成立を見たが、果たしてその頃と事態はどれほど 変わっているのだろう。私にできることは限られている が、今後ともこの国の人たちの行方を自分なりに見つめ て い け れ ば と 思 う 。 みぞ一杯のよどんだ絶望の水 こんなところに美などがあるはずがない いっそ醜いものをはびこらせ そこから何が生まれてくるか、見るべきではないのか ︵ ﹁ 死 水 ﹂ よ り ︶

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ヒ口の楽書き帳 聴覚障害をもっ人と知り合ったとき、私は、その人 が口唇読みも手話もできると思ったのですが、口唇読 みはできないし、手話もそんなにできないと話してく れました。お話

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はできても、こちらの話す言葉は届 かないので、筆記と片言の手話をまじえての会話にな ります。私は、ふと、こういうのもいいなぁと思いま した。筆記で、適切な言葉を選んで速く書き出して読 んでもらい、その人がゆっくり読んでいるあいだ手話 をつけているのを見ていると、私の知っている数少な い手話の単語だったりするとうれしいし、気になった 単語がどのように表わすのか教えてもらうのもよかっ た。そして、私自身の中に、﹁聴覚障害﹂ということ だけでその人をとらえようとするステレオタイプ︵紋 切り型︶があることに気づかされました。

NHK

のニュース番組のように、聴覚障害者は手話 ができるものと思っていたので、実際はそうじゃない 人もいるとわかつて、ぐっと親しみがわきました。確 かに意思を伝達するのに﹁書く﹂というワンクッショ ンが入るので手聞がかかる感じがしますし、おたがい に手話ができる方がスムーズなのかもしれません。け れど普段、人の話を聞くとき、耳と言葉に頼りすぎて いるような気もします。どのくらい頼っているか。た めしにテレビの音声を消してみると、表情を見るし、 体や動作から何を言おうとしているか理解するように 努めます。とは言っても、それは私にとって疑似体験 でしかない。音声をつけたら、簡単に言葉が理解でき る わ け で す 。 でも相手にこちらの言葉が聞こえていないというこ とに思いをはせることは忘れずにいたいと思うのです。 私にとっては、想像でしかないけれど、相手の人はき っと心細いような、取り残されているような気持にな ってしまうんじゃないかなぁと思えるんです。かとい って考えすぎないで接したい。﹁ねえ

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ちゃん﹂と呼 びかけても届かないけど、呼びつつ肩とかに触れたら 気づいてもらえるんだし。障害のあるなしに限らず人 とのコミュニケーションの方法はいろいろあって、ゆ っくりでも、また手聞がかかっても、伝え合う楽しき ゃ喜びがそこから派生してゆくといいなぁと、あらた めて教えてもらったできごとでした。 こぺる ︵ 多 国 ヒ ロ ミ ︶ 15

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﹃ こ ぺ る ﹄ ︵ Z081ZO 印 白 ︶ 論 文 目 次 一 九 九 六 年 一 一 一 月 | 一 九 九 七 年 二 月 Z0 ・ω 白 ︵ 同 也 市 出 品 ・ 印 ︶ ﹁らや予防法﹂を越えて|病気と差別を考え る 池 田 士 郎 ﹁ 学 力 ﹂ に つ い て 高 田 嘉 敬

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ω 吋 ︵ H 甲 山 出 品 ︶ や さ し さ と ぬ く も り の あ る 関 係 を ど 、 つ つ く る か 山 木 力 ﹁人権﹂概念を中心にすえた解放同盟綱領改 正 案 の 意 義 柴 谷 篤 弘 Z0

ω ∞ ︵ 日 由 也 由 印 ︶ 部落差別と共同体意識の関連について畑中 敏之著﹃﹁部落史﹂の終わり﹄と住田一郎 ﹁ 論 稿 ﹂ へ の 感 想 原 口 孝 博 人 権 啓 発 に つ い て の 疑 問 多 田 敏 行 Z0 ・ω 由 ︵ 戸 市 山 由 出 品 ︶ 現状認識の過度的表現と歴史評価部落解放 同 盟 綱 領 改 正 案 ・ 覚 書 八 木 晃 介 ﹁ オ l ル ・ ロ マ ン ス 伝 説 ﹂ と 私 前 川 修 三 重 県 立 図 書 館 で 焚 書

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部 落 問 題 が 特 別 扱 い さ れ る 意 味 を 問 う 山 城 弘 敬 ZO 与 口 ︵ 戸 市 w u m 叶 ︶ 瀬川丑松、テキサスへ行かず︵上︶|﹃破 戒﹄のキーワード﹁隠す﹂と﹁引き受け る ﹂ に つ い て 灘 本 昌 久 ZO 司 会 ︵ 円 也 市 出 − ∞ ︶ 瀬川丑松、テキサスへ行かず︵下︶!﹁破 戒﹄のキーワード﹁隠す﹂と﹁引き受け る ﹂ に つ い て 灘 本 昌 久 正義なるものの相対性について三重県立図 書館の焚害事件から考える山城弘敬 Z0 ・ 品 M ︵ HU 由 白 由 ︶ 同和行政と制度疲労上京都市議会での質問か ら 鈴 木 正 穏 ﹁ 停 通 院 ﹂ と ﹁ 伝 通 院 ﹂ 野 町 均 Z0 ・ 品 ω ︵ H U U φ ] ︷ O ︶ 部 落 解 放 理 論 の 行 方 柚 岡 正 禎 シ ン ポ ジ ユ ウ ム ﹁ 近 世 政 治 起 源 説 を め ぐ っ て L 師 岡 佑 行 Z0 ・ 品 品 ︵ H 甲 山 W E − H H ︶ ︿ 解 放 教 育 の 終 需 ﹀ を 考 え る 松 岡 勲 率直で開かれた議論の必要性|シンポジウム ﹁ 同 和 行 政 と 制 度 疲 労 ﹂ の 議 論 を 聞 い て 熊 谷 亨 ZO 品 目 ︵ HU 甲 田 a H N ︶ 進歩史観から落ちこぼれたもの部落史研究 の意味網野普彦+藤田敬一+師岡佑行 Z0 ・ 品 目 ︵ H U U 叶 ・ H 歴史の中に人間と自然の関係を見る 網野善彦+藤田敬一+師岡佑行 ZO 目 品 吋 ︵ H 坦 坦 寸 − M ︶ 差別と貧困の部落史観からの脱却 網野善彦十藤田敬一+師岡佑行 全同教長崎大会と福岡水平塾で考えたこと 住 田 一 郎 Z O E 品 ∞ ︵ ] F U 也 、 吋 ・ ω ︶ 人権擁護施策推進法の成立と部落解放運動 師 岡 佑 土 方 小 説 は 小 説 と し て 読 め Z0 ・ 支 出 ︵ 戸 市 山 由 叶 e A F︶ 身 分 ・ 身 元 ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー ﹁ 部 落 民 と は 誰 の こ と な の か 畑 中 敏 之 Z0 ・ m D ︵ 日 甲 山 当 印 ︶ 部落差別をなくすことはできるか山城弘敬 Z0

2 ︵ 戸 沼 当 白 ︶ 同 和 教 育 の 風 景 野 町 均 Z0 ・ 印 阿 ︵ H 坦 坦 吋 叶 ︶ ﹁向和校﹂の︿現実﹀は?﹁同和教育の終 わ り ﹂ を 議 論 す る 前 に 原 因 琢 ﹃知能指数﹄︵佐藤達哉著︶を読む高田嘉敬 Z0 ・ 印 臼 ︵ 同 坦 坦 叶 ∞ ︶ 過 去 を 探 し て 未 来 を み つ け る 北 口 ZO 印 品 ︵ 戸 市 山 也 、 吋 由 ︶ 部落差別と共同性をどう考えるか| Y − H ん へ の 返 信 ︵ 1 ︶ 原 口 孝 博 Z0 ・ 印 印 ︵ ] 戸 由 也 叶 HC ︶ ﹃ 破 戒 ﹂ の 読 み 方 柴 谷 篤 弘 新 し い 綱 領 を 読 ん で 師 岡 佑 行 Z0 ・ 印 白 ︵ HU 叩 斗 白 ] 己 ︶ ある公立’中学校で考えたこと学習センター が 元 気 な ら ば ・ : 北 村 淳 い ま 、 な ぜ ﹁ 部 落 ・ 部 落 民 ・ 部 落 差 別 ﹂ な か 藤 田 敬 一

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直 司 レ ド ﹁ 己 悶 市 4 4 一 言 ロ マ部落問題全国交流会が終ったあと、 しばらく放心状態におちいっていま した。二日間にわたる密度の濃い議 論に緊張した神経と、たくさんの人 に会って高揚した精神が休息を求め た の か も し れ ま せ ん 。 修さんの講演﹁批 判にこたえることのむずかしさ差 別とセクシユアリティ﹂はたいへん 興味深いものでした。講演録は近い うちに掲載させていただく予定です。 マ杉之原寿一さん︵部落問題研究所 理事長︶が、最近出版した﹃部落解 放の﹁虚構理論﹂批判﹄︵部落問題 研究所刊、九九・九︶のなかで、本 誌上の議論を﹁部落差別 H 共同幻 想﹂論としてやり玉に挙げています。 杉之原さんによれば、私なんぞは ﹁観念的なレベルでの主観的な空理 空 論 ﹂ を 振 り ま わ し て い る に す 、 ぎ な ところで三橋 い ら し い 。 どなたがどのように評価なさろう と自由です。問題は、差別・被差別 という﹁存在と関係﹂にかかわる心 理・意識・観念が人を縛っている現 実なのです。この現実が対話の途切 れと、ねじれ、ゆがんだ関係を生ん でいる。なんの役にも立たない一冊 五万円あまりの本が売り買いされて いるのは、その端的な表われです。 ここから出発しない議論こそ﹁空 理・空論﹂ではないでしょうか。こ の現実を無視したり、超越するつも りは、私にはないとはっきり申し上 げ て お き ま す 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ ﹃ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 の お 知 ら せ 日月幻日︵土︶午後 2 時 よ り 中 島 智 枝 子 さ ん 、 日 月 号 、 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー ; 第 二 会 議 室 mO 七 五 | 四 一 五 | 一 O 三 一 O 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9 阿件社 Tel. 075 414 8951 Fax 075 414 8952 定側300円(税込)・年間4000円郵便振替 010107 6141 第80号 1999年11月25日発行

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− 目次内容 I 民衆と町自治 || 町 組 と 小 学 校 序章町組と町代について 第 一 章 京 都 町 組 の 回 生 −町組と町代の確執 2 町代改義一件 3 町 組 連 合 の 成 立 4町組寄合のセレモニー 第 二 章 ﹁ 御 一 新﹂と町組 − 町 組連合の歩み 2 江 戸 時代の終罵 3 町組の改正 4 地 方 都 市 ﹁ 京 都 ﹂ 第 三 章 小 学 校の建営 ー 町 組 会 所兼小学校 2 ﹁ 政 教 不 岐 ﹂ の 小 学校 3 小 学 校の進展 終 章 ﹁ お 区 内 ﹂の 町 [ 付 1 ] ﹁ 町 組 寄 合 ﹂ 三 題 噺 そ の 一 町 組 の 分 離 m ・ 古町と枝 町・寄合順番歌 そ の 二 大 割 寄 合 、 大 割 勘 定 、 、 四 組寄合 ・ 六組寄合 [ 付 2 ] 天 明 の H 米 祈 願 一 件 M 始 末 [ 付 3 ] ﹁ 町 用 人 ﹂ 覚 書

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民衆の社会と

生活

辻ミ

チ子著

[ 付 4 ] 京 都 に お け る 幕 末 維 新 の 心 学 講 舎 1 心学講舎と教諭 所 2 小学校と 心学講 舎 3明治初年の心 学 E 都 市 の 再編||町共同体 ・ 民 衆 ・ 被 差 別 部 宮 市 第 一 章 明 治 十 年 代 京 都におけ る﹁町﹂と民衆 1 町 自治の機能 2 民衆意識の様相 第 二 章都市の再編成と被差別 部 落 | l 京 都 宮 と そ の 周 辺 を 舞 台 に し て 1 地方制度と 地 域 共 同体の自 治 2 被差別邸落と地域共 同 体 [ 付 1 ] 明 治 十 二 十 年代京都に お け る 町 組 の 自 治 を め ぐ っ て 皿 被差 別 社会の展開 第 一 章 近 世 社 会 の 身 分制 1 四座雑色と下村 家 2 役 目 地 支 配 と 年 寄 3 下村 家の断絶 と 役人村

阿昨社

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号 一 九 九 九 年十 一 月 二 十 五 日 発行 ︵毎月 一 回 二 十 五 日 発行 ﹀ 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第 三 種郵便物認可 定価 三 百円 持 己 以 六 ー かわた村支配の 再 編 4かわた村内部の身 分 と 公 役 5 百 姓役と本村支配 6 青 屋 と青屋大工 第 二 章 近世 社 会の芸能 1 賎民社会の芸能 2 非 人と芸能 第 三 章 一 九 世 紀 京 都 に お け る ﹁ 非人小屋﹂とその周 縁 ー 非人社会と町・村の 交 わ り 2 雑 芸 能と非人 3 角力奥行の周辺 4 御 一 新 に よ る 新 展 開 [ 付 1 ] な ぞ の 下 村 氏 再 考 | | ﹃ 京 匝 文 − Z ﹃ 京 五 条 復 古 隆 文 ﹄ 研 究 ノ ー ト [ 付 2 ] ﹃ 諸 式 留 帳 ﹂ に み る | | − 千本 野口と蓮台野村 2 一 人 世 紀 初 頭 の 京 都 に お け る え た 村 一 持 続 制 に つ い て かせ染青屋と背 慶 大 工 背屋大工 頭と組下 大 工 4 3

A 5 判 上 製 四 ︸ O 頁 定 価 ︵ 本 体七九 OO 円 + 税 ︶ 京 都 市 上 京 区 衣 棚 通 上 御 霊 前 下 ル 上 木 ノ 下 町 七 三 l 官 ︵ O 七 五 ︶ 四 一 回 | 八 九 五 一削 ︵O 七 五 ︶ 四 一 回 | 八 九

参照

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