ノぐーミヤーン地域における
スキンチの導入
岩 井 俊 平
はじめに
パミール高原の西方.パキスタン北部からアフガニスタン中央部を貰〈カ ラコルム山脈やヒンドゥークシュ山脈といった諸山塊は.古米インド方面と トハーリスターンTokharistan方面を遮る障壁となってきた。逆に脅えば. この山岳地帯をどのようなルートで越えるのかという点が,同辺地域の歴史 的動態を明らかにするうえで非常に重要な意味を持っているということであ る(桑山1985: 1990 : Grenet 2002 ;稲葉2004など)。したがって,まさに ヒンドゥークシュ山脈のr
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央にあって.巨大な2
体の大仏をはじめとする壮 麗な仏教美術が花聞いたパーミヤーン遺跡群の文化とその年代を追求するこ とは,パミール西方のプレ・イスラーム期の研究において欠かすことのでき ない課題といえよう。 これまでパーミヤーン遺跡群の文化については,その仏教美術を中心に研 究が進められてきた。とりわけ宮治昭による一連の美術史学的研究は.現地 における細かな観察およぴ正雌な描き起こし図,そして広範なアジア地域と の比較によって構築されており,パーミヤーン仏教美術の様式と年代を確定 す る に 際 し て 重 要 な 役WIJを巣たしている(宮治1977-78: 1983 : 1984 : 1992 ; 2002など多数)。今こよで,近年の放射性炭素年代測定の特出(1111付 編2006:中村2007)も踏まえつつ諸研究をまとめれば,以下のようになろう。 すなわち.、遅くとも6
1
1
1
:
紀中ばに聞旅がはじまり,6
世紀後半には交通路の -79-パーさヤーン地舗におけるえキンチの導入 要衝となったことから急激に富俗化して(桑1111985), 京 大 仏 (6世紀後 半)・西大仏
(
7
世紀初頭)が相次いで造立され.仏教石衡の開館は一部で9
-10
世紀に及んだ,ということである。 このように.特に6世紀以降のパーミヤーンが交通の要衝として重要な役 割を果たしていたことから,その仏教壁画の様式には多様な地域からの影響 が見て取れる。つまり,仏教美術の様式的研究は,パーミヤーン美術,ひい てはパーミヤーン文化の汎アジア性を際立たせる結果となる。しかしながら, その一方で,パーミヤーンの在地の文化に焦点を当てようとするときには, より地域性の高い要素を検討することが必要となってくる。そこで本稿では. パーミヤーン石窟の意匠としてしばしば認められるスキンチに tl~1
1
し,それ が実際に聞いられているパーミヤーン周辺の建築とそこからのm士
二
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1
器を取 り1
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げ.パーミヤーンの地域性と歴史地理的な位置づけを改めてlリl
らかにす ることを試みる。1
. パ ー ミ ヤ ー ン 周 辺 に お け る ス キ ン チ の 分 布 ト1.スキンチとは ここで取り上げるのは.スキンチあるいはスキンチ・アーチ squInch archと呼ばれる建築技法で.以下では「スキンチ」と呼称する。 サーサーン朝の建築に起源するとされるスキンチは.基本的には石および レンガ等の建材を用いて正方形平両からドーム天井を架構する組積み造り建 築の工法である(図1)。正方形の部屋に円形(半球形)のドーム天井を架 けようとする場合,壁上部の四隅には三角形にはみ出す部分が生じることに なる。ガンダーラなどの石積みの建築では,この部分だけ大型の平らな部材 を用いることで,上層のドーム天井基底部のうち,室内にはみ出す部分を支 えていた(図2
)
。しかし同様のことを,一定の規格の石材あるいはレンガ によって行おうとする場合,当然のことながら別の技法が必要となる。そこ で,タンプール(鼓胴部)と呼ばれる「移行部」を墜と天 ~I: の 1111 に設け,そ-
80-パーミヤーンI也岐におけるスキンチの導入 図1(t王トー) シャフリ ・ゾハークのスキ ンチ 図2(左) タフティ ・パイ寺院のドーム 図
3
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二) フィールーズ・アーノ〈ー ド・出 般のスキンチ のI
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料に内側11に迫り出す持ち送り積みを構築することによって,部屋の内f
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へとはみ出す部分を解消するのがスキンチの技法である。 サーサーン手iiJの建築においては,アルダシール]I
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が雄造したと考えられ るフィールーズ・アーバードFiruzAbadの民-殿(1女13) や,それと同時期 から位造がはじまる,チャハール・ターク ChaharTaqと呼ばれる各地のH
火十111雌にすでにその技法が認められ,3
世紀には杯以しはじめていること がわかる。この技法が,パーミヤーン北方のトハーリスターン地域や, li~}J -81-バーミヤーン抱-'lにおけるえキンチの導入 のカーピシー・カーブル・ガズニ一地域までいつごろ到来したのか,正確に は決定しがたい。さらに言えば,この技法を用いた建築は,上記したアフガ ニスタン東部地域はもちろんのこと,ソグドや新覆ウイグル自治区方面まで 広大な範闘に分布しており,それらの伝播経路や建造時期を特定することは 容易ではない。 しかし,少なくともパーミヤーン周辺と,そこへ至る交通路沿いの遺跡に 認められるスキンチについては,ル・ベール
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によるその先駆 的かつ総合的な研究 0987:桑山1989)と,コドリントンK.d
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およびオールチンF
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によって実施されたシャフリ・ゾハー クS
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とその周辺遺跡の調査(
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1991)によっ て,かなり詳しく分布状況を把掘することが可能となっている。以下では, こうした研究に従ってパーミヤーン周辺におけるスキンチの分布を確認し あわせてそれらの年代を検討していきたい。 1-2.パーミヤーン周辺における分布 ヒンドゥーでクシュ山脈のただ中に所在するパーミヤーンからは,山越えの ための様々なルートが各)ilir!に延ひ駒ている。そうしたルート沿いには,人々 の出入りを見張る望楼や臓の遺F
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が点々と敷設されており,その保存状態 の良さから,おそらくは改築を経て長〈使用されてきたことがわかる。スキ ンチの技法は.これらの型機・要塞建築の内部に配置される正方形の部屋に しばしば採用されているのである。 今,ル・ベールの報告(1987)およびポールw
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によるアフガニスタ ンの遺跡カタログ(1982)によって望楼・城塞の分布を示したのが岡4であ る。ノ勺レフやクンドゥズ方面からヒンドゥークシュ山中へと至る,スルハー プ渓谷およびシカーリー渓谷とシパル峠の聞や, ドアープから困のカフマル ド渓谷,サイガーン渓谷に多くの遺跡、が集中している。南側に日を転ずれば, パーミヤーン渓谷はもちろんのこと,ハージーガク峠へと向かうカール一部 谷にも多くの遺跡、が分布しており,パーミヤーン渓谷とカールー渓谷の介流 -82-パーミヤーン地 岐におけるスキンチの持人 点には城進退跡のシャフリ ・ソ'ハークがそびえて,通過する旅人にその威符 を示していたものと考えられる。 このうち,泣跡の残存具合の問題から,確実にスキンチの技法が採用され ていると判断できる逃跡はそれほど多くはなく,さ らに建造物自体の改修を 重ねていく 中で新たにスキンチを採用した可能性も有定できないため,その 導入年代を明らかにすることは難しい。しかし,附行で採集された土説お よびシャフリ ・ゾハークの発掘調資で料られたよ掠から,その忠l以!!年代がこ q t u n D
パーミヤーン地岐におけるスキンチのぬ人
れらの望楼・要迭の中では比較的古いと
4
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えられる諸遺跡で,すでにスキン チが認められる場令があり,それらはt、ずれもスルハーフ.渓谷からパーミヤ ーン渓谷の入口にかけてのルートに分布している。ここではそういった例を簡単に紹介しておきたい。
-セフペスタ Sehpesta(Le Berre 1987: A-I, No. 29; Ball1982:No. 1014)
スノレハーフ1実ヰ干の左岸,ドーシーより凶前回に約32kl11の地点に所在する。 111婦を|川んで方ì71~ の小音1I屈が並ぶキャラパンサライ風の主I!造物で,このうち のいくつかの部屋はスキンチを伴う ドームヲ司
1
:
となっている(図5)。ル・ ベールの断査においては,後述する「エフタルニ│二器1 (5 -6世紀)Jに分 類される土器が採集された唯一の泣跡で,f
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当時からスキンチが用いられ ていたとみなされているようであるが,ポーjレはこの追跡を10世紀までと紹 介しており,スキンチが実際にこの泣跡、の[11怯!
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に属するのかどうかは判然 としない。また,移行部のスキンチとスキンチのIUJに柱の形をした装飾が付 加されている点も興味深い。-ドアービ・メへザリーンDoab-iMekhe Zarin(LeBerre 1987:
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, No.区15 セフペスタのスキンチと村."J仮装飾
パーミヤーン地岐におけるスキンチの導入
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スルハーブ混谷とカフマルド渓谷が合流する地点の両w
にわたって.いく つか存在している望楼・要塞をまとめてこのように呼称している。ニのうち, スキンチの遺構が残るのはNo.15
とNo.17
で.残念ながらこれらの遺跡で は土器が採集されていない。一方で.No.14
(ギャルダンとリヨネによる土 器の報告では“DoabA" と lザ称される)からは「エフタル士:~;~2(6-7
世 紀)Jと呼ばれる土器が採集されているc -シャフリ・ゾハーク(LeB
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1) パーミヤーン渓谷への東側からの進入路で.カールー渓谷と合流する住置 に所在する。1
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年に.コドリントンとオールチンが発掘調査を行っており, その報告が1
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年に出版されている。フランス隊は,ル・ベールの踏査のほ か,ベルナールP
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年に発掘調査を行っているが,残念なが ら未報告のままである。 各建造物は,少なくともゴール朝期まで何度も改修を受けており,個別に 年代を特定することは難しいが.北側の円形稜墨付きの城慢に認められる方 形の部屋(
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は.城塞 への『門」として機能していた可能性が高<(
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建築当初の建造物であると考えられる。この部屋にスキ ンチとドームが構築されていることから.スキンチの技法はシャフリ・ゾハ ークの創建知jにすでに導入されていたことがわかる(凶1
)。また.ル・ベ ールによる探 m 土協は,ギャルダンらによって「エフタル-I: ~:f2
Jに分類さ れるものを合んでおり,コドリントンらの発掘でlI'r土した1
:
慌に│刻しでも. 6世紀頃に年代付けられる呼能性が高い。-
85-パーミヤーンj也峨におけるスキンチの導入
2
.土器の特徴
以上のとおり,スルハープ渓谷からパーミヤーン渓谷の入り口にかけて, スキンチを伴う望楼・要塞が存在することが確認でき.さらに前章で紹介し た3遺跡に閲して言えば.採集あるいは出土した土器が5-7世紀の様相を 示すことが報告されている。そこで本家では.改めてこれらの土器がどのよ うな特徴を持っているのか確認し川辺地域出土資料と比較を行っていく。2
-
1.土器資料の概観 まず,ル・ベールが踏査中に採集した土器である。これらの資料について は,先述のとおり.ギャルダンとリヨネが分類・整理し他地域出土土器と 詳細に比較することによってその年代を示した (Gardinet Lyonet 1987)。 土器はGroupe1の前半(エフタル土器1. 5 -6世紀)および後半{エフ タル土器 2. 6 - 7世紀).Groupe 2 (テュルク=エフタル土器. 8世 紀 ー10世紀).Groupe 3 (イスラーム陶器.11
世紀ー13世紀初頭)に分けられ, Groupe 1のエフタル土器が採集されたのは上で概観したセフペスタ, ドア ービ・メヘザリーン,そしてシャフリ・ゾハークのみであるという。 一方.同じシャフリ・ゾハークの土器については,コドリントンとオール チンによる発掘に関する報告書の中で詳しく触れられている (Bakerand Allchin 1991: 101-156)。この調査では,挫築学的調査と簡単な発掘が行わ れ,土器の表両採集も実施されている。発揚IIでは肝位的に土器を取り上げ, 採集土器も合わせ,全部で五つのグループに分けられた。それがWare Group (以下では.W.G.と表記)のI-Vで . こ れ は 年 代 で は な し 土 器 の胎土や製作技法による分類である。なお.W.G.I (精製された胎土で, 表面にはスリップがかけられ.さらに会而あるいは一部にミガキが施されて いるグループ)については,全ての調査l
乏で基本的に最下層から出土するこ とが判明しており (Bakerand Allchin 1991: 91-92).シャフリ・ゾハーク - 86ーパーミヤーン地1則二おけるスキンチの導入 削建期の土器であることは確実である。 ただし,これら二つの土器の調査にイ'盾があることが指摘されている
(
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1991: 106)。すなわち,層住的にもっとも下憎から出 土するW.G.I
の土器が.フランス隊の分額ではGroupe2
に合まれている のである。一方で.特に層位的に偏りの無いW.G.I
I
に属するタイプの土 器が.フランス隊の分額でGroupe
1.すなわちもっとも古い土器として扱 われている。 資料となっている土器のほとんどが衣耐採集によって得られたものである 以上.このような矛盾が発生することはやむを得ないように思える。むしろ こニでは,両報告によって明らかになった土器の多くについて.ヒンドゥー クシュ山脈北側の地域と「比較可能』であること白体に大きな忠昧があるの ではないだろうか。実 I~禁ギャルダンらは,パルフ (Gardin 1957) のほか, クンドゥズ周辺のドゥルマン・テベDurmanTepe
(水野編1968).チャカ ラク・テベC
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(樋口・桑山1970).コフナ・マスジッドKohna
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など. トハーリスターン地域の遺跡から出土した土器を大量に提示 しながら,その比較を行っている(
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1987)。ペンジケントP
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やベグラームBegram
の11'.-
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器,さらに,未公刊ではあるがス ルフ・コータルS
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の土器とも比I肢を行っているが,類似する型 式が多く出土しているのは.特にパグラーン・クンドゥズ方lfIi
の遺跡のよう である。また,彼らが比較対象として挙げる土器が必ずしも同じ器形あるい は同じ製作技法に属するわけではなく.むしろパーミヤーン地域独自の土器 型式が存在していることも明らかである。そこで以下では,パーミヤーンお よびスルハーフ1戒械の I~ 器とトハーリスターン地域の土器にある根度の類似 性があることを確認するため.いくつかの特徴的な器形について具体的な比 較を行っておきたい。なお,ここではギャルダンらの検討とは興.なる比較を 行っている。彼らが指摘した.Groupe
1に属するセフペスタ出土の大喪(
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1987: 108-109) およひ¥オールチンらが指摘するw
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に属する鉢(Ba
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1991: 108-109) のチャカラク・テペと - 87一パーミヤーン地域におけるスキンチの導入
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1,4・シャフリ・ゾハーク 2,3:ドアープA 5:チャカラク・テペ下J¥'iJ抑 6,7:チャカラク・テペ1j1h'1J切 図6 哉のj目立。
20cm の類似は明らかなので,ここでは取り上げなかった。2
-
2
,各器形の検討 ..".l:; -・円 F1::1 .!Jc. 査型の土器には ~Iö',;;r; に多くの口縁のj形態が知られているが,ここでは特徴 的なものとして,シャフリ ・ゾハークおよびドアーブAで雌i
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.
されている, 強く内湾する11紋部を持つ系統を取り上げる(図6。)1-3
については,ル ・ベールの踏読によって採集されたもので,ギャlレ ダンらはエフタル1
'
.
総2
(6-7'111:紀)に認定している。1は, 1-1緑内部か ら外表に赤色のスリ ップがかけられているが,2と 3にはそれが認められな い。内湾する日蝕と,その下部の│人l而が 偵 <),吊山するという同様の特徴を持 つ,明らかに同系統の土器がコドリントンらによるシャフリ ・ゾハークの発 掘でち出土しており,オールチンらは'
'
'
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.G.IIに分類している。ぷ而には燈 から赤色のスリップがかけられており1
とほとんど同じ担式に同すること が示唆される。 このような口献とまったく同じ形態のむのはヒンドゥークシュ山脈の南北 では出土していないむのの,近い形態として比較可能な資料が,チャカラ ク・テぺIf,二L
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,に知lられている。それが阿6
の5
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で,ギャルダンらが挙 げる比較資料とは児なるが, ここで収り1
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げておきたい。5
は「下肘期」の 。民 v n aパーミヤーンJ血岐におけるスキンチの導入
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了寸〆司
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守二弓
-d V 6 4 1-3シャフリ・ゾハーク 4チベ・カラク・テペ下回Jg-J5.6・チャカラク・テペ中層WJ。
20αn 肱17 腕の比較 出土で,仁i紘内i
JllJから外表而にはi府褐色スリ yプが施されている。6と7は rrドI
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出土で,スリップはかけられていない。 チャカラク ・テぺの各府の絶対年代については,ある干!,l
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を持った年代 で示すしかないが, rj'W
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にはじまり,6
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紀に まで及んでいると考えられる(樋口・桑J111970:118;n
)1'2003: 48-52)。 なお,チャカラク ・テペ山上例と同様の形態の土品は,トハーリスターン 東方における泣跡分布調査においても確認されている (Lyonet1997: Fig. 78, serie F2-5)。
-碗 オーjレチンらがW.G.Iに分類した土総の111でも非常に特徴的なものに, 肩部が膨らんだ,いわゆるcarinatedbowlがある (Bakcrand Allchin 1991: Fig. 4.3: 21-29)。図7の1- 3がこれに当たり,凪1111した日音11からは外反 するil*.~~が1'lf.J<形態である。伐存する例から考えて,民六I1は平底で, dJi157を 持たない。表面は内外l珂ともH
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から赤柑色のスリップがかけられ, ミIJ・キが 施されているほか,彩色によって文様が4長されている例が矢n
られる(Jヌ17の 2 )。この系統の腕はW.G.lに│浪られ.パーミヤーンから西に260kmほど 雌れた,ハ1)ールードi
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いにり!r
在するアーハンガラーンλhangaran(Ball 1982: No.15)で多くの類例が発見されているという (Baker anclAIlchin 1991:106-108, Fig. 4.29)。
o d o oパーミヤーン地域tニおけるスキンチの導入 一方.同様の系統の碗はル・ベールの踏資でも採集され.テュルク=エフ タル土器 (8-10世紀)に分類されている (Gardinet Lyonnet 1987: 106 -107, Plate 124のH7.
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.
H12. H13)。これらはいずれもスリップがかけ られ,去而全体にミガキが施されている。したがって,オールチンらがW.G
.
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に分類した土器と1
9
1
らかに同型式に属すると思われるが,先述したとお り,ギャルダンらの分額ではより新しい時期の土器と認識されるという矛盾 が認められる。. ギャルダンらは,この碗を合めたテュルク=エフタル土器の主要な諸系統 は,エフタル土器と典なり,コフナ・マスジッド出土の例外を除けばヒンド ゥークシュ山脈北側には類例がないという (Gardinet Lyonnet 1987: 110, note 5)。実際,先述の特徴的な査と同様に,まったく同じ系統のものはこ れまでの報告では認められない。一方で.5
-8
世紀頃にヒンドゥークシュ 山脈北側で広〈出 1..するcarinatedbowlが長1
1
られている(附7の4-6)。 口縁部の立ち上がり方,底部に高台が付〈点,さらにミガキによる時文が全 体に施される点などが異なっているが,岡部の屈曲や.一部に口縁が外反す る例が合まれているといった形態に関しでも,スリップの使用とミガキを多 用する技法に関しでも,非常に関連が深い比較資料であると考えられる。 4 がチャカラク・テベF
周期.5
と6
がJ!t
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の出土である。 -煮炊き用襲 内外耐に多くの煤が付着しており.火に掛けて煮炊きに使用していたと考 えられる土器がシャフリ・ゾハークで出土している(図8
)
01
はW.G.I
に 分類される例であるため.胎土は精良,全面にスリップをかけてミガキが施 されているが,外面は煤で黒色になっている。三角形の把手が特徴的である が,同じように把手を取り付けた例がW.G.I
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(粗製で,手づくねの土器) に存点している(図8の2)。こちらはIJ台土が粗<.スリップもミガキもな いが,煮炊き用の土器としてはこうした例の方が一般的である。 事実.こうした特徴的な把手を持つ煮鴻用の褒は.ヒンドゥークシュ山脈 - 90ーパーミヤーン地域におけるスキンチの狩人
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20cm 3 4 1.2・シャブリ・ゾハーク 3・ダルヴェルジン・テパ・チタデル 4・カライ・カフィルニガーン 図8 煮炊きm
裂の比較 ~tiJ!lIで広く出土している。図 8 の 3 と 4 はその一例で,いずれも粗質の )1台土 を使)
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いず,へラ削りおよび指ナデによって成形されている。 す で に ギ ヤ ル ダ ン が,これ ら の把手をjよく 比較 検7トlしていて (Gardin1
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地域は黒海沿岸にまで及び, その作代も7片い{タ11はI.iii4
世 紀まで遡ることを指摘している。したがって年代の折以とすることは如しい が,111脈の北側との官般な関係を示す:11';例としてここで制介した。2
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土器の年代とスキンチとの関係 以1
:
のとおり,ル ・ベールによる採集土器,コ ドリントンとオールチンに よる発似のI
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土上総のうち,彼らが比較的古いH寺JUJに位i
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づけた資料は,ヒ ンドゥークシュ山脈北側のトハーリスターン地域と術按な│刈係があることが 判明した。そしてそのIIS:J!J.Iについても, 6t止品己前後に品¥Ili
1f.可fiEな土器と非常 に近い│刻係にあることがわかる。それでは,その年代をどこまで遡ることが 可能であろうか。オールチンらは,W.G.Iの土総を分析する[
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1で,資料数 が少なく年代を限定することは難しいという留保を付けつつ,それらが 5.11卜 円 日パーミヤーン地域におけるスキンチの導入 紀まで遡る可能性を示唆している(1
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。事実,類似する土器が チャカラク・テペの下層W
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から出土している点を考えると.5
世・紀初頭まで その年代が遡ることも否定はできない。一方で.チャカラク・テペ中層期と の特に密接な関係を考慮すれば,その時期は6世紀頃となるだろう。 こうした点と,シャフリ・ゾハークの自11拙jUIにすでにスキンチが導入され ていたことをあわせて考えれば,遅くとも6
1
世紀には,パーミヤーン周辺に スキンチを用いてドーム天井を架構する建築技術が到来していたということ ができる。そして,比較的古い土器が出土する望楼・要塞が,パーミヤーン 渓谷に北側からアプローチするルート沿いに統いていることから,その技術 の到来も,やはりトハーリスターン方面からである可能性が高いといえるの である。3
.パーミヤーン石窟のスキンチ
パーミヤーン遺跡群に所在する各石窟群においては,本来は組積み建築の 技法であるスキンチを,石窟開削時にその内部空間において模倣する例が多 く知られている。当然のミとであるが,石痛を掘ってドーム天井の形態に仕 上げる場合には,組積み挫築とは異なり,スキンチに構造上の必要性はまっ たくない。したがって石窟内部のスキンチは,あくまで地上建築を模倣した. 装飾的な目的で採用されているのである。現在のところ.パーミヤーンの各 石窟群と.ヒンドゥークシュ北側のハイパク石窟においてしか.スキンチを 石織内の装飾に使用する例は知られていなL、。実際の地上建築のスキンチが 広〈ユーラシアの組積み技法を用いる地域に分布していることから考えると, 非常に限られた分布である。 そこで以下では,パーミヤーン石窟群にスキンチが導入された年代を検討 し併せてその文化的背景を考えていきたい。- 9
2
ー
パーミヤーン地岐におけるスキンチの導入 3-1.石窟の年代 冒頭でも触れたとおり.パーミヤーンの年代については多くの研究がなさ れており,特に近年行われた放射性炭素年代測定はその実年代をより明確な ものとする役割
l
を*たした(山内編2006)。それまでに行われてきた美術史 学的な方法によって示された年代観とは.{I~I 々の壁 Itlilの制fd"F.)1固という点で異 なっているものの.遺跡全体の年代幅についてはおよそ6-9
世紀となり, 過去の研究と見事にiIi:なり合っている。問題となるのは.この中でもっとも 古い年代を示したJ
筒群(京大編号383-389窮)およびM絞(京大編号111 窟)で.例えばM慌の場合.1σの誤差範囲で較正年代が438-538A.D.と いう年代を示した。このように年代幅が広いのは,年代較正に使用された国 際標準データセットであるINTCAL98が. 5世紀から6世紀前半において は複雑な対応関係を示すことによるのである(中村2006)。これらの次に古 い年代を示したC術群(京大編号164,165窟)の年代は.1
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の年代をぶしており.パーミヤーン主患の各石 窟が順次連続して1
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世紀前半 から半ばに造営されたと考えるのが妥当であろう。 ただし,これまでの美術史的研究では.J
窟群とM
簡の壁画はパーミヤ ーン仏教美術の中でもっとも新しいと考えられてきた。そのため.これらを もっとも古い壁画とする放射性炭素年代測定の結果については多〈の異論が ある。ただ,この測定結果を見ると.ひとつの石窟から複数のサンプルを採 取した場合や.ひとつのイj窟群からそれぞれ採取したサンプルがほとんど同 じ測定結果を示しており.少なくともサンプルを採取した俄Illljの下塗り層の 編年としてはかなり日j品性が高いと考えるべきである (1Ir,H'2006:表2.図1
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2
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。本稿では.ut
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lllilの11'-代ではなく,あくまで石簡をIl日削した年代を問題 にするため.墜阿lのtl'liきl白:しの問題などについては考察を避け.ニの年代湖JI 定の結果を「石餓l
陣!削年代」として受け入れることとしたL。、 -93-,<ーミヤーン1血J,~におけるスキンチ Q)i!J 入 lヌ19 パーミヤーン
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(g)窟3
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石窟へのスキンチの導入 近年,パーミヤーン地域の建築'字 的制穴が改めて行われ,その報告・が 出版された(岩U', .内守2011)。石 慌の平r(iiJ~ とドーム Rjl"や万形組み 上げ天7
ド(ラテ/レネンデッケ)の組 み合わせパターン, そしてドーム天 井の場令には鼓Jj阿部およびスキンチ の布然などを詳制に検討し,その年 代幅む合めてパーミヤーン各石町群 の主l!築が網羅されている。 スキンチについて比ると,先述したJ筋併のうち,J(g)筒(ボ大編号3
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筒)にすでにスキンチが州り山されている(
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)。その一方で‘同じJ
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符)では正方形平1(liにドーム 天:
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を嬬り出すものの,移行部の四間はそのまま三角形に伐され,スキンチ は認められない。ほぽH:J追いなく述献して1J~Il'íIJ されたこれらのイi r,:tに, この ような追いがあることも興味深いが,いずれにしろ,パーミヤーン石窟の開 削最初期に (その年代が5
世紀後半なのか,6
1
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紀半ばまで│ごがるのかは月JI の1
:
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1
姐として)すでにスキンチが樽入されていることは明らかである。さら に,この装飾としてのスキンチは, E (e)(222符)のように比較的後期 (1σ で6
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など)に開削されたと考えられる石窟でも継続して使間さ れていることから, パーミヤーンの'
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で長く好まれた意匠であることがわか る。 石符へのスキンチの導入に際して, ~良市・の地上の建造物を参考にしたこと は確実であり,パーミヤーン各石町併が開削されはじめる段附で,すでにM
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都み校法でスキンチおよびドーム天井を架椛した挫物が身近にイヂイEしていた ことになる。 前立てリL
たとおり,ノfーミヤーン地域におけるスキンチを伴う 雄造物の年代は遅くとも6
世紀である可能性が出いが,この年代はJ
(g)席 - 94ーペーミヤーン地減l二おけるZキンチの導入 の放射性炭;,{{年代とおおむね一致している。したがって,
6
世紀までにこの 地域に到来した最新の処築技法であるスキンチが.石窟の開削にあたってさ っそくその内部装飾として取り入れられたと考えられる。4
.
パーミヤーンの地域性 これまでの議論を簡単にまとめれば,以ドのようになろう。 パーミヤーン探谷およびそこへ至る究通路沿いには多くの望楼・要塞の遺 跡が点在し.その一部には日子レンガの組摘み技法によるスキンチとドーム 天井カf構築されていた。そうした望楼・要本のうち.採集土器および出土土 器から判断しでもっとも古いと考えられる遺跡はスルハープ渓谷からドアー ブを経てパーミヤーン保谷に入るルートに所在しており.スキンチも備えて いる(ただしシャフリ・ゾハーク以外はスキンチが創建当初の遺構なのか どうかは判断が雌しい)。土器についても.ヒンドゥークシュ山脈北側・ト 、ーリスターン地棋のU'.
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土器と比較可能なものであった。さらにスキンチ は.パーミヤーンイi
簡の開削当初から衡内の装飾として導入され.その年代 はパーミヤーンi
兎谷に1
1
干レンガ組積みのスキンチが導入される年代と重な 。っており.遅くとも6
1
1
1:紀である。 このように.パーミャーン石窟群の1
1
日削にあたって, トハーリスターン }j 而と密接な閑係を有する技術・文化が導入されている点は注目に値する。先 に触れたとおり,石館内部にスキンチを装飾として取り込むのは現在のとこ ろパーミヤーン以外にハイパク石衝が知られているが.ニのうち第3館では. 移行部のスキンチとスキンチの聞に柱の形をした装飾が掘り11'.されている (図10)。これは.都 1:$:で触れたセフペスタ遺跡のほか,l
.
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じくスルハー ブ渓谷沿いに位置するガンダクのカーフィル・カラ KafirQala of Ghandak (Le Berre 1987: A・1
.
No. 8; Ball1982: No. 1199)でも認められ.やはり両地 域の建築意匠に深い関係が存存aすることを示唆している。 パーミヤーン地域のこのような具体的な地峡性は,実は壁画のモチーフの F h u n uパーミヤーン地域におけるスキンチの~q.入 図10 ハイパク
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3kif 研究から導きJー'11すことは雌し い。仏教壁画には,アジア各 地の文化要素が広くJIRり入れ られており,どこか特定の地 域との関係、だけを 1111,'1'1するこ とができないからである。さ らに,同時代の仏教泣跡が発 凡されていないクン ドゥズ周 辺との関係となると,よりー 用不明確で・あった。しかし,このような挫築な│正と出土土器を取りL
げるこ とで,パーミヤーン石街併の成立J
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に, トハーリスターン地域との悦拡な関 係が存在することが判明した。アジア各地の文化が融合し,独 (1の仏教文化 を生み出すこととなるパーミヤーンにおいて,その基盤となる地域1'"1:を明確 にしたことが,今後の詳細な文化交流史の研究にも神益するものとイliじたい。おわりに
地上の建築に;,~られるスキンチの技法と,それを模倣した石慌の形態,そ. してn
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土土器によってパーミヤーンの地域性を考察し,北方のトハーリスタ ーン方耐との関係が強いことを iりlらかにした。今後の展望という芯:Il;j~でも最 後に若干触れておきたいのは,このような両地峡のl
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係がどこまで遡るのか という問題である。パーミヤーン地域が主要な交 j並路となって急、散に',o;õ;r~ 化 するのは, 6.1止紀後半以降になってからであり(桑山1985; 1990).この点 は多くの研究者が同,むしている (Klimburg-Salter1989 ;宮治2002;柿某 2004など)。一方で,ここがまったく人の生jliしていない無人の トJ山で‘あっ たわけではなく,ローカルな交通路として作在していた可能性は桑山自身ち 指摘しているとおりである(桑山1990: 342)。 この点について,新たな資料となる文書が,いわゆるパク トリア文t
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の中 -96-ペーミヤーン地岐におけるスキンチの導入 に合まれている。“
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がそれで.シムズ・ウィリアムスによる 英訳によって文書の一節を確認しておきたい(
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2007 : 80 : 2008: 92)。
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ニの文書に紀年はないものの.登場する固有名詞などから,4
世紀後半に 年代付けられるという<
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2008 : 90-93)0 そうであれば.こ の文書が『パーミヤーン』という地名を記す最古の文献ということになる。 ニこで登場する“f
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田"がどのような種類の建造物であるのか,さらに それを“c
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したのが誠なのかについては,いくつかの考え方ができょ う。しかし,その城塞が rI'i拠された」のであれば,パクトリア文書が関連 する現在のルーイ Rtiy地方とパーミヤーンがもともと強L、関係で結ぼれて いたと解釈することも可能であるo4
世紀後半というのは,近年の中央アジ ア古代史の研究においてもっとも問題となる年代であるが.パーミヤーンと その北方との関係がここまで遡り得るのであれば,その後の様々な遊牧民の 移動経路に関しでも改めて検討する余地があることを示している。将来的に このような研究を進めるに吋たっても,パーミヤーンの地域性を示す石衝の 形態や土器の検討は欠かせない,繰越となっていくのではないだろうか。 位 (1)本績の「トハーリスターン」は.バルフB
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周辺以来のアフガニスタン 北京都と.アム川以北・鉄門以南のウズペキスタン・タジキスタン南部を合む 地域としておおまかにとらえておきたし、トハーリスターンとパーミヤーンの 境界がどこにあるのかについても雌しい問題であるが.本t
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1
ではスルハープ流 -97-ペーミヤーン地域におけるスキンチの場人 域であればドアープ1周辺.フルムKhulmおよぴパルハーブBalkhab上 流 で あればサイガーン北方のダンダン・シカン峠付近と
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英然と捉えている(桑 111 1987: 154,設33を参1I日)。いずれにしろ,今後はこうしたJ誌について詳細な検 討が必要である。t
l<j4も参照。 (2) この点については.本稿の元となる発表を行ったワークショップ, "Explor・ ing the Past and Envisaging the Future: Current Issues in the Ancient History of Afghanistan" (2013年11月26日-28日.於京都大学人文科学研 究所・龍谷大学龍谷ミュージアム)において.出席者の方々から貴重な情報を ご提供いただいた。記して感謝申し上げたい。(3) オールチンらは, 'Y~楼 (Tower) ,要塞 (Fortification).より大引の要塞 あるいは城塞 (Fortress)を区分している(Bakerand Allchin 1991: 156)。 本稿では,まとめて望機・要塞といったように表記することとする。 (4)報告書-のannexとしてギャルダン]..C.GardinとリヨネB.Lyonnetが採集 土器の分析を行っている(1987)。土器の分析については後述する。 (5) ヒンドゥークシ且山脈南側と密接な関係を持つ土器も知られている。大型の 円形スタンプを伴う査で (LeBerre 1987: Planche 127-a).ハージーガク峠西 方のカール
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遺跡で採集された。テュルク=エフタル土器に分類されて いる。 (6) ガズニーの南凶.アルガンダープArghandabi
兎谷沿いに点在する石続鮮の 中に.やや似た機造の石衡が存在することが指摘されているが (Verardi and Paparatti 2004: 20).パーミヤーン各石窟群に認められるような明確な遺構で はない。ただし今後.スキンチの意匠を取り入れた石衝がえfズニ一地域で発見 される可能性はf
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分にあるだろう。 (7) カクラク石窟の一部は 10世紀に及んでいる。 (8) ](g)窟では, 2か所からサンプルが採取されており,それぞれの1σでの較 正年代は.439-596A
.
D.および438・538A
.
D.である('1'村2006)。 (9) オールチンらはトゥルガイ・マザラ Turgai Mazraと呼ひ¥ここからはW. G.Iおよぴ1
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器が採集されているζとから,このルートでも比較 的古い遺構と位置付けている (Bakerand Allchin 1991: 179-189)。 (10) 玄笑の r大唐西械記』党街郷国粂の記述(桑山1987:19)からも. トハーリ スターン方面(観貨温困}との密接な関係は明らかである。 (11) もちろんこの地名が.我々が現在認識している「パーミヤーン」と同じ場所 を指すのかどうか.厳密な検討が必要であるが,シムズ・ウィリアムス"
1
身は 現代のパーミヤーンであると認識している (2007: 201)。 参考文献Baker, P且 B.and Allchin, F.R. [1991]Shahr.i
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トレース 4-Baker and Allchin 1991: Fig. 4.12の85 を -~Il改変し再トレース 5-樋11.桑LIJl970: Fig. 29の65-385を再トレース6-樋日・桑山1970:Fig. 29の65-391を再トレース 7・樋口・桑山1970: Fig. 30の65-420を再トレース
図7 1-Baker and Allchin 1991: Fig. 4.3の23を}部改変し再トレース 2-Baker and Allchin 1991: Fig. 4.3の24をー古Ilt吹雪
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図8 1-Baker and Allchin 1991: Fig. ".10の73をー部改変し再トレース 2-Baker and Allchin 1991: Fig. 4.10の72を-1I11改変し再トレース 3-筆者織影 4-山内利也氏撮影 凶9 樋1-'編1983-84 第II巻:Plate 100-1 図10 水野緬1962: Plate 16-2 キーワード パーミヤーン,スキンチ.土器編年 - 101ー