457
第
27
回
空也堂と本能寺旧跡
■
野
口
家
住
宅
本シリーズ第 2回では、 町名看板 ﹁ 醒 ヶ井通四条上ル藤西町﹂ から出発して南に向かいましたが 、 今回は 、 逆 に北へ進むことに しまし ょ う 。 ちなみに 、 現在の町名看板の位置 ︵ 四 条醒 ヶ 井 の東 北角 ︶ を 正確にいえば 、 下 京区 かしわ やちょう 柏 屋 町 で 、 中京区藤西町の南に隣 接しています。 醒 ヶ 井通は 、 錦小路通で堀川高校の南塀に突き当た っ て 、 こ こ でい っ た ん中断します 。 この丁字路を東へ 。 醒 ヶ 井 通の一筋東の 通り 、 油 小路通に出ると 、 町 名看板 ﹁ 油 小路通錦小路下ル藤本 町﹂ 1 が貼 っ て あります 。 町 名が ﹁ 藤木町 ﹂ のように見えます が 、 よく目を凝らすと ﹁ 本 ﹂ の短い横棒が消えかか っ て いるがた しかにあることがわかります。 ﹁ 下京區﹂となっていますが、現 在は中京区。 町名看板 1 の町内に 、 京 都市指定有形文化財の野口家住宅 ︵ 中 京区油小路通錦小路下ル藤本町︶ があります。京町家の典型。 京都市による駒札の文面を次に引用します。 ち がいだな 違棚 、 す き や ふ う 数寄屋風 、 な げ し 長押 、 く ぎ かくし 釘隠 、 てんぶく ろ 天 袋 などは 、 われわれが住んでいる文化住宅ではす でに姿を消したものです 。 建 物の写真は 、 駒 札の説明にある店舗 棟の道路に東面した部分です。 ݱ߷ᡫ ρᚌᡫ ݱែᡫ ⡺᩵᳓ ԙ Ԙ ρᚌ ᡫ ᙱ ᨈ ᙱ λ ρ ᚌ ᡫ ᙱ ᨈ ᙱ λ ஜᏡ ݢ ထ ㊁ญኅቛ ׄவᡫ ᖶᕤࠖᡫ Ԛ ݱ ែᡫݱ ែி λ ᆰʍ ထ ᙱᨈᡫ ᣧ␠ ʟᡫ ؗ߷ᡫ ԛ ᧄ⢻ኹ〔⎼ Ⓑ⩄␠ ٟ ⓨၴ ၳᎹ㜞ᩞ ݱ ែᡫݱ ែɦȫ ݱ ែ ᡫ ݱ ែ ɦ ȫ ᕲஜထᕲ ஜ ထ Ԝ ᣧ⌳ ʟᡫρ ᚌ ɦȫ ᣧ ⌳ ʟ ᡫ ρ ᚌ ɦ ȫ ឭࢸᆳ ৷ ထ ឭ ࢸ ᆳ ৷ ထ ණ ݱែᡫ ᧄ⢻ኹဇ⎼ ٟ ٟ ਃᶆᄥᐘၴ 㧖 ᣧ⌳ ʟᡫׄఱɥȫ ٌ ⳚⲘጊ ྾᧦㋿ 㧖 ٌ ׄఱᡫᙱ ᨈᙱ λ ׄ ఱ ᡫ ᙱ ᨈ ᙱ λ Ͳ᤻ထͲ ᤻ ထ ⮮ၴ⮲㇗〔 㧔ᧄ⢻ኹᣥ〔㧕 㧮 ᧄ⢻ኹᣥ〔 ⊒ជὐ 㧯 㧭 ණ ණ ѕ ኹ శጯኹ 㧔દ㒙ᒎኅᣥ〔㧕 町名看板の所在︵本能寺学区界隈︶ あぶらのこう じどおり 油小路通 にしき こうじ 錦小路 さが 下 ル ふ じ もとちょう 藤本町 1野口家住宅 同駒札 野口家住宅 野口家は、代々呉服商を営んできた旧家である。 現在の主屋は 、 元治元年 ︵ 一 八六四 ︶ の 大火後に再建 されたもので 、 店 舗棟と奥の居住棟を玄関棟で接続した 表屋造りの形式となっている。 主屋の表構えは 、 店舗棟の北側に高塀を接続させた構 成である 。 内 部では特に座敷が注目される 。 野口家文書 によると 、 座敷はもと伏見の小堀屋敷にあ っ たとされる ものを 、 明治四年 ︵ 一八七一 ︶ に 伏見の豪商松屋彦兵衛 から購入 、 移 築したもので 、 十 二畳半の主室と次の間か にしきこうじ どおり 錦小路通 あぶらの こうじ 油小路 ひ が しいる 東入 くうやちょ う 空也町 2 ら成る。主室は一間半の床の間と一間の違棚をそなえ、 端正ななかにし ゃ れ た数寄屋風書院の構えをもち 、 長 押 の釘隠金物や天袋の引手金具の意匠に 、 小堀遠州との関 わりの深さを思わせる。 この住宅は 、 京町家の典型例の一つとして貴重であ り 、 昭和五十八年六月一日 、 京都市指定有形文化財に指 定された。 京都市 錦小路通と油小路通の十字路に戻 っ て 、 今 度は東へゆくと 、 町 名看板 ﹁ 錦 小路通油小路東入空也町 ﹂ 2 が貼 っ て あります 。 こ の看板も ﹁ 下 京區 ﹂ と な っ ていますが 、 現 在は中京区 。﹃ 京町鑑 ﹄ では 、﹁ 空也町 ﹂ について 、﹁ 古空也上人の あんじつ 庵 室 此町に あり 有 しゆへに よぶ 呼 とぞ ﹂ と 説明しています 。 庵 室とは空也寺のこと 。 天正十九年 ︹ 一 五九一年 ︺ の京都改造のときに京極高辻 ︵ 現 在の寺町高辻 ︶ に 移され、現在もそこにあります︵本シリーズ第 11回参照︶ 。
459 ■ 蟷 螂 山
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蟷
螂
山
空也町の東南 、 西洞院通の両側は 、﹁ とう ろうやまち ょう 蟷 螂 山 町 ﹂。 祇園祭で とう ろ う 蟷螂 やま 山 ︵西洞院通錦小路下ル蟷螂山町︶が出る町です。 ﹃京町鑑﹄に も、すでに載っていますが、 ﹁ か ま きりやま 蟷螂山 町﹂と振りがなをふってあ ります。 現在は、 山のほうは、 くん 訓 で ﹁ かまきりやま ﹂ と読んでも よいようですが 、 町名は おん 音 で ﹁ とうろうやまち ょ う ﹂ と 読むのが 普通のようです 。 この近辺では 、 四 条通に出たところに 、 四 条傘 鉾が建ちます 。 すでに本シリーズ第 4回で 、 町名看板 ﹁ 四条通 西洞院西入傘鉾町﹂を紹介しました。 蟷螂山は 、 御 所車の屋根に乗 っ た かま き り 蟷 螂 がカラクリ仕掛けで動く のが特徴 。 南 朝方の実務官僚兼武人である四条 たかすけ 隆 資 ︵ 正応五年 ︹ 一 二九二 ︺ ∼観応三年 ・ 天 平七年 ︹ 一三五二 ︺︶ が 、 北 朝に歯 向かった様を﹁蟷螂の斧﹂にたと えたと伝えられます。 ﹃ 祇園御 霊会山鉾記﹄ ︵塙保己一﹃続群書 類従﹄巻第五五、続群書類従完 成会﹃続群書類従﹄第三五輯、一九七二︶には、 ﹁ 祇園会山鉾事 応仁一乱之後 再興 ﹂ と記した原扉のあと 、 応仁の乱の前からあ っ た山鉾 が列挙されており、その一つとし て、 ﹁かまきり山、四條西洞院 と錦 ︵ママ︶ 少 路間﹂と記載されています。また、すこし時代が下って、 国宝の﹃上杉本洛中洛外図屏風﹄ ︵一五七四年に織田信長から上 杉謙信に贈られたと伝えられている屏風 ︶ の中にも描かれていま す 。 どんどん焼けのときに被災したため明治時代に途絶えました が、昭和五六年︹一九八一︺ 、約 百年ぶりに復活しました。復活 時に新調した四周の装飾は、友禅染で統一。 閑話休題 。 こ こで 、 四 条 たかすけ 隆 資 のこと 。 南 北朝時代の争乱の中 ﹃上杉本洛中洛外図屏風﹄の蟷螂山 米沢市上杉博物館﹃国宝上杉本洛中洛外 図屏風﹄七ページ︵二〇〇一︶ で、南朝を実質的に支えるほどの活躍をしたのに、 ﹃太平記﹄で は重きをおかれていない人物です。ところが、 ﹃ 増鏡﹄では、そ の後の活躍を暗示するように 、 その巻尾 ︵ 鎌倉幕府滅亡にともな い 、 後醍醐天皇が配流された隠岐の島から帰京した正慶二年 ・ 元 弘三年 ︹ 一三三三 ︺ の記述 ︶ で 、 四条隆資の還俗のことに触れて います。四 でう 條 ち う な ご ん た か す け 中 納 言 隆 資 といふも かしら 頭 おろしたりし 、 ま た かみ 髪 お ほしぬ 。 もとよりちりを い 出 づるにはあらず 、 かたきの ため 爲 に み 身 を かく 隠 さんとて 、 かりそめ 假 初 にそりしばかりなれば 、 いま 今 はた さら 更 に まゆ 眉 をひらく とき 時 になりて 、 をと こ 男 になれらん なに 何 の は ゞ かりかあらんとぞ、おなじ こゝ ろ 心 なるどち い 言 ひあわせける。 て ん だ い ざ す 天 台 座 主 にいませし ほつし んわう 法 親 王 だにかくおはしませば 、 ま い てとぞ たれ 誰 にかありけん、その ころ 頃 きゝし。 す み ぞ め の いろ 色 も か へ し つ つ き ぐさ 草 の う つ れ ば か は る はな 花 の こ ろ も に ﹃増鏡﹄終 ﹃増鏡﹄巻二〇、 ﹁ 月草の花﹂ ﹃水鏡・大鏡・今鏡・増鏡﹄ ︵ 国民文庫刊行会︶一九一〇 ︵現代語訳︶ 四条中納言隆資という 方は 、 頭 を 丸めていらっしゃ っ たが 、 後 醍醐天皇が帰京なさな っ たので 、 髪 を伸ばして 還俗なさ っ た 。 も とよりこの世を嫌 っ て 出家なさ っ たの ではなく 、 敵 から身を守ろうとして 、 か り そ 仮 初 めに ていはつ 剃髪 し た のであるから、 ﹁ 今はちょうど憂いを開くときになった ので、還俗して俗世に戻るのに何の障碍があろう﹂と、 同じ気持ちをもっているものたちは互いに言い合った。 ﹁天台座主でいらっ しゃ っ た 大塔宮法親王でさえも還俗 なさ っ た のであるから 、 ま してや誰が還俗してもかまわ ない﹂と、その頃の噂であった。 墨 染 め の 衣 の 色 も 俗 世 に 戻 れ ば は な や か に、月 草 も 日 が 経 て ば、花 の 衣 に 変 わ る よ う に、人 の 心 も 移 ろ い や す い。 正慶二年 ・ 元 弘三年 ︹ 一三三三 ︺ は 鎌倉幕府滅亡の年 。 翌年 は正慶三年 ・ 建 武元年 ︹ 一 三三四 ︺ は 、 後醍醐天皇がいわゆる 建武の新政を始めた年で 、 南 北朝時代の始まり 。 還 俗した四条隆 資は、南朝を支えて獅子奮迅の働きをします。 ﹃ 太平記﹄によれ ば 、 後村上天皇を奉じて男山 ︵ 石清水八幡 ︶ に 拠点を築き 、 観 応 三年 ・ 正 平七年 ︹ 一 三五二 ︺ には京都に攻め入 って 、 東 寺によ っ ていた足利軍を攻めますが 、 敗 れてしまいます 。 さらには 、 男山 ︵石清水八幡︶を足利尊氏の嫡 男義詮に攻められて、敗走する後 村上天皇の軍の し んがり 殿 をつとめて、結局敗死。 蟷螂山のスポンサーとして ち ん たいねん 陳 大 年 が伝えられていますが 、 これ が本当だとすると 、 彼 は足利義満に招かれて京都に来ていること を考慮に入れる必要があります 。 足利氏と戦 っ た 、 い わば敵方の 四条隆資をまつ っ た のは 、 おそらくは 、 四 条隆資の たましず 魂 鎮 めのため でしょう。
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蟷螂山と外郎
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珍説命名考
蟷螂山といえば 、 小田原の うい ろ う 外 郎 家との以外な関係 。 ういろう 外 郎 はお菓 子のほうが一般に知られていますが 、 も ともとは生薬を配合した 丸薬です 。 正 式の名前は、 ﹁ とうちんこう 透頂香 ういらう ﹂ で 、 写 真にあるよ うに 、 失 礼を顧みずわかりやすくいえば 、 大 粒の仁丹 。 も っ と461 ■ 蟷螂山と外郎—珍説命名考 も、 ういろう 外 郎 のほうが仁丹よりもず っ と古いのですが 。 味 はもちろん 違い 、 効 能は ﹁ とうちん こう 透頂香 ういらう﹂ のほうが広範囲です 。 筆 者の 現在住んでいるところは小田原にごく近いので 、 店 まで出かけて 購入しました。 透頂香 ういらう 外郎家は 、 十 四世紀後半に来日した ちんえんゆ う 陳延祐 が 祖 。 そ の 子 ちんたい ねん 陳大年 のとき 、 足利義満に招かれ 、 典医兼外交顧問となりました 。 京 都 では 、 蟷 螂山町内 ︵ 町 内の西側 、 西洞院通に面する ︶ に住み 、 薬 や菓子を商 っ て得た財産で蟷螂山を創始し 、 援助を続けたといい ます。 現 在 の 蟷 螂 山 町 は、 元 禄 時 代 の 絵 図 ︵元 禄 九 年 ︹一 六 九 六 年︺ 京 都 大 絵 図、 日 文 研 デ ー タ ベ ー ス、 h ttp://tois.nic h ibun.ac.jp/c h izu/san toshi 157.h tml ︶ で は ﹁ウイロウ丁﹂と記されていま す。ただし、この絵図では、町内 の西側は筑前久留米の有馬氏の知行地 、 東側は肥前平戸の松浦 氏の知行地とな っ て いて 、 陳 外郎宅は記載がありません 。 とこ ろが、インターネットで検索できる﹃城池天府京師地図﹄ ︵ 寛延 三年 ︹ 一 七五〇 ︺︶ で は 、 西洞院川の東側に沿 っ た通りは 、﹁ ウイ 外 郎 町 ﹂ という表示があり 、 その通りに面して ﹁ 外 郎家 ﹂ と 表示され ています。西洞院川の西側に沿った通りには、 ﹁ 有馬氏京亭﹂の 表示があります。 分家の外郎家は一五〇四年に小田原市に移り ︵ 長男が宇野の姓 を名乗るようにな っ て 小田原に移りましたので 、 一応分家として おきます ︶、 弟が継いだ京都外郎家はのちに廃絶しましたので 、 長 い間蟷螂山と外郎家の関係は途絶えていました。最近になって、 外郎売の口上︵歌舞伎十八番﹁外郎売﹂ ︶を祇園祭宵山のおりに 蟷螂山の前で公演するなど交流が復活しています ︵ 京都新聞二〇 〇八年七月二日付記事︶ 。 ﹃山城名勝志﹄巻四では、 ﹁ 陳外郎宅﹂の項目があり、次のよ うな説明があります。 陳外郎宅 今 在 二 西ノ洞院四條ノ 北、西 、側 一 是舊地歟、 殿中年中行事云 、 十二月 廿七日 外郎進上之透頂香 五 、 持參ノ出 座。 拜 ー 二 賀 、之 一 ﹃山城名勝志﹄ 、 大島武好、宝永二年︹一七〇五︺
﹃改定史籍集覧﹄二二巻、近藤瓶 城編、臨川書店、一九八四 新加通記類第一八 ︵書き下し文︶ ちんういらう たく 陳 外 郎 宅 ︵ 今西ノ洞院四條ノ北 、 西側に在り 。 是 れ舊 地か。 ︶ 殿中年中行事に い 云 はく、 ︵ 十二月廿七日︶外郎進上の とうち んかう 透頂香 ︵ いつつつみ 五 ︶、 持參ノ出座。 これ 之 を は い が 拜賀 す。 さらには 、 五 山文学の中に 、 陳外郎宅で作 っ た 漢詩があること が述べられています 。 当時の禅僧は 、 中 国 ︵ 明 ︶ との外交を担 っ ていましたので 、 帰 化人である陳外郎と関係を保 っ て いたので しょう。 ついでに 。 外郎家については 、 意外なことに 、 貝 原益軒 ﹃ 筑前 国続風土記﹄ ︵一七〇九年完成、写本のみ︶にも載っていますの で引用しましょう。 陳員外郎と云者唐土台州の人なり 。 後 光嚴院應安二年 に 、 亂をさけて日本に來り 、 博多に住す 。 上京して將 軍義滿公に種 々 の合藥を獻ず 、 就中 とうち んかう 透 頂 香 を甚稱美あり て 、 京都西洞院に宅を給はる 。 其 子孫世 々 透頂香の秘方 を傳へて、代々久しく博多に住し、亦京都にも住せり。 いつの時よりか博多には住せず 、 今 も京都西洞院四條上 る町に 、 其子孫家をつぎて透頂香を賣て家業とす 。 又 相 州小田原の透頂香は 、 北條氏政の時 、 外 郎が家僕を小田 原に遣はし 、 透頂香を賣らしむ 。 今 に其子孫傳はりて彼 所に住す 。 外 郎が家製の藥なる故 、 透 頂香を ういらう 外 郎 と名づ く 。 透頂香の本方 、 此 二家より外に傳はらず 。 透頂香を 日本にて製せしは、博多を初とす。 貝原益軒﹃筑前国続風土記﹄ 、 一七〇九 ︵益軒会編、 ﹃益軒全集巻之四﹄ 、 益軒全集刊行部、一九一〇︶ 中村学園大学 http://www.nak am ura-u.ac.jp/ ˜library/ ︵現代語訳︶ ちんいん がいろう 陳 員 外 郎 というのは 、 中国の台州の人である 。 後 光厳 天皇の応安二年 ︹ 一三六九 ︺ に 、 元末明初の乱をさけて 来日し 、 博多に住んだ 。 上京して将軍足利義満公にいろ いろな配合薬を献じた 。 中でも 、 とうち んこう 透 頂 香 を 、 非常に賞美 されて 、 京都西洞院に邸宅を賜 っ た 。 その子孫は長年に わたって透頂香の秘方を伝え、代々久しく博多に住み、 また京都にも住んだ 。 時代はは っ きりしないが 、 その子 孫は博多の邸宅を引き払い 、 今 も京都西洞院四條上る町 にて家を継いで 、 透頂香を売 っ て家業としている 。 ま た 、 相州小田原の透頂香は 、 北條氏政の時代に 、 うい ろ う 外郎 が 、 家 僕を小田原に派遣して透頂香を売らせたのがはじまりで ある。今もその子孫が継いで同じところに住んでいる。 外郎自家製の薬であるから 、 透 頂香を ういらう 外 郎 と呼ぶように な っ た 。 透頂香は 、 この二つの家以外には伝わ っ ていな い 。 このように 、 透 頂香を日本で作 っ たのは 、 博 多が初 めてである。
463 ■ 空 也 堂 貝原益軒の記載が正しいとすれば 、 十 八世紀初め ︵ 江戸時代中 期 ︶ まで京都外郎家と小田原外郎家が並存していたことになりま す 。 京都外郎家が室町幕府の瓦解とともに廃絶したという話 ︵ 外 郎家と足利氏の関係からありそうな話 ︶ もありますので 、 ほ んと うはどっちなんでしょうか? 貝原益軒の書きぶりは、 ﹁ • 今 • も 京 都 • 西 • 洞 • 院 • 四 • 條 • 上 • る • 町 に 、 其子孫家をつぎて ﹂ と所在地の記載も具 体的ですので、こちらに軍配をあげたくなりますね。 最後の ﹁ 透頂香を日本にて製せしは 、 博 多を初とす 。﹂ とは 、 お 国自慢の最たるもの 。 ちなみに 、 歌 舞伎十八番の ﹁ う い ろううり 外郎売 ﹂ の 初 演は享保三年︹一七一八年︺で、 貝原益軒の﹃筑前国続風土記﹄ の成立より 、 約十年後のことになります 。 つ いでに 、 外郎家は筑 前国 は か た 博多 → 京都 → 相模国小田原 。 か くいうわたくしめは 、 筑 前 国 と ば た 鳥旗 ︵ 戸 畑 ︶ → 京都 → 相模国小田原 ︵ の隣町︶ 。 多少、 似て いなくもない。 もう一つついでに。若干強引ですが、 ﹁ とう ろうやま 蟷螂 ﹂の名前の由来を 考えました 。 ま ず 、﹁ とうろう ﹂ と ﹁ ういろう ﹂ は発音が似通 っ て いますね 。 さらに ﹁ 蟷 螂 ﹂ の字 。 虫 偏を除けば 、﹁ 當 郎 ︵ 当郎 ︶﹂ に なります 。﹁ 当たり外れ ﹂ という言葉がありますので 、﹁ 當郎 ︵ 当 郎︶ ﹂と﹁外郎﹂は対になります。 ﹁ 外︵はずれ︶ ﹂は縁起がわる いので、 ﹁外郎﹂の﹁外﹂の字を佳字の﹁當︵当︶ ﹂ に変えると、 ﹁當郎︵当郎︶ ﹂。 その上で、虫偏を付けて﹁蟷螂﹂と、 しゃれ 洒落 たの ではないか。 つまり、 ﹁外郎﹂ → ﹁當郎 ︵当郎︶ ﹂ → ﹁蟷 螂﹂ の 道筋です 。 眉 に唾 、 わたくしめの新説です 。 し かし 、 とう ろ う 蟷 螂 が うい ろ う 外郎 のもじりとは 、 響 きといい 、 も じ づ ら 文 字 面 といい 、 い かにもも っ と もら しいではありませんか 。 この新説だと 、 蟷 螂山と陳外郎の結びつ きは 、 大 変に強いということになります 。 四条 たか す け 隆 資 の御所車の上 に 、 スポンサーであ っ た外郎家のもじりの蟷螂 。 祇 園祭の山鉾の 意匠の中で 、 蟷螂山は群を抜いて奇抜なので 、 不 思議に思 っ て い ましたが、このように考えると、腑に落ちます。 ﹁ 当 たり外れ ﹂ ときたら 、 籤 。 折りよく 、 宵山の蟷螂山会所で は、カラクリ仕掛けの かまき り 蟷螂 が運ぶおみくじが楽しめます。 ﹁ 當郎 ︵ 当 郎 ︶﹂ だ から 、 き っ と 、 大当たりの大吉か 、 運 がなくとも小吉 でし ょ う 。 昔 ︵ と い っ ても五十年ほど前 ︶、 神社の縁日などで 、 ヤ マガラのおみくじ引きをよく見たものでした。 蟷螂山と陳外郎の えに し 縁 を偲びて たう 蟷 らう 螂 の くじ 籤 は はづ 外 れ ず ゑみ 笑 こ ぼ る 艸 蟲 斎 やま 山 がら 雀 の げい 藝 を まね 学 ぶ か み 神 くじ 籤 ひき 引 同 右 うい 外 らう 郎 は たう 蟷 らう 螂 の も つ 玉 に 似 て 同 右
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空
也
堂
堀川錦小路の東北は 、 堀 川高校です 。 も ともと 、 堀 川高校の敷 地は 、 藤堂高虎の下屋敷があ っ たところ 。 堀 川通に面した正門の 脇 ︵ 中京区東堀川通蛸薬師下ル東側 ︶ に 、﹁ 此付近藤堂藩 々 邸 跡 ﹂ の碑が建 っ て います 。 この藩邸は 、 禁 門の変のどんどん焼で焼失 しました。 堀川高校の北側の通りは 、 蛸薬師通 。 醒 ヶ 井通との丁字路の東 北かどに 、 町名看板 ﹁ 蛸薬師通油小路西入亀屋町 ﹂ 3 を見つけ堀川高校 藤堂藩藩邸跡の碑 たこや くしどおり 蛸薬師通 あぶ らのこう じ 油小路 にしいる 西入 か め やちょう 亀屋町 3 ました。この看板も﹁下京區﹂となっているが、現在は中京区。 堀川高校の東北かどに稲荷神社 ︵ 中京区蛸薬師通油小路西入亀 屋町 ︶ が あります 。 堀 川高校の敷地は江戸時代は藤堂藩邸でし た 。 この稲荷神社は 、 藤堂藩邸の東北かど ︵ 鬼 門 ︶ に祀られてい た み ん ぶ 民 部 稲荷 、 亀屋町内の た つ た 龍 田 稲荷 、 四坊堀川町の お ふ く 御 福 稲荷の三神 を、合祀しています︵ ﹃本能学区 まちづくりのしおり﹄による︶ 。 ふつうは 、 た つ た 龍 田 稲荷神社と呼んでいるようです 。 こ の神社の所在 地は、町名看板 3 と同じです。 龍田稲荷神社 写真でもわかるように 、 この境内はこんもりとした もり 杜 に な っ て います。ここには、中京区の区民誇りの木に選ばれている神木、 オガタマノキ︵指定番号 C — 08︶ が あります。 か なりの年数を 経ているが、樹齢は不明。 駐車場を隔てて、空也堂︵中京区 蛸薬師通油小路西入亀屋町︶ があります 。 地図には 、 ごくらく いん 極 楽 院 として載 っ ていることもありま す。 宗旨は天台宗。 空也堂の所在地も、 町 名看板 3 と同じです。 空也堂の門前には 、 京 都市による駒札 ︵ 案内板 ︶ が建 っ て いま す。写真を載せますが、念のために、引用しておきましょう。
465 ■ 空 也 堂 空也堂 空也堂駒札 く う や ど う 空也堂 空也を本尊とするため空也堂と呼ばれるが 、 正しく は し う ん ざ ん 紫雲山 こうしょうじ 光勝寺 ごくらくい ん 極 楽 院 と号する 、 天台宗の寺 。 天 慶二年 ︵ 九 三九 ︶、 空也上人の開創といわれ 、 当 初は三条 く し げ 櫛笥 に あ っ たので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた 。 応 仁の 乱で焼亡したが 、 寛永年間に現在地に再建された 。 空 也 は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し 、 仏 教の庶民階層へ の布教に尽力する傍ら 、 橋 を架け 、 道 路や井戸を整備 し 、 野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業も 行った。そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、 後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。 毎年十一月の第二日曜日に 、 空 也上人を偲んで開山忌 ︵空也忌︶の法要が営まれる。 おうぶく 王服 茶の献茶式の後、空 也僧による か ん ぎ ゆ や く 歓 喜 踊 躍 念仏と重要無形民俗文化財の ろく さ い 六斎 念 仏焼香式が奉修される。 京都市 ﹃都名所図会﹄巻之一︵安永九年 ︹一七八〇年︺刊行︶には、 ﹁ し う ん ざ ん 紫雲山 ごくら くいん 極楽院 こ う しょうじ 光 勝 寺 ﹂ の項があり 、﹁ 四条 ぼうもん ほりかは 坊門堀川 の ひがし 東 、 たゝき 敲 町に あり、 く う や だ う 空也堂 と号す。 ﹂と説明し、本尊の空也上人像と じょうせい 定盛 法師 像などが安置されていることを述べています。さらに続けて、 空也上人 ︹ 九 〇三∼九七二 ︺ が鞍馬山の奥に庵を結ん でいた折、鹿が夜毎に来て鳴き、上人の閑坐を慰めた。 ある夜 、 鹿が来ないのでいぶか っ て いると 、 平定盛 ︵ あ るいは貞盛 ︶ が猟で得た鹿を携えて来て 、 こ の山で討ち 取った旨を告げた。上人は悲しみ、皮を か わごろも 裘 とし、角を 杖の頭に挿して 、 布教の折には常に携えた 。 定 盛は 、 上 人の弟子とな っ た が 、 妻子を連れ 、 有髪の俗体で 、 念 仏 の教化に勤めた。寒中に市中を徘徊したが、その様は、 瓢を叩いて 、 上人作の和讃を称えながら踊 っ た 。 今 、 空 也堂の境内には、定盛法師の子孫と称する八軒があり、 はち たたき 鉢叩 と称し、 ちゃ せ ん 茶筌 の製造を業としている。 というような意味のことが記載されています。 空也僧の念仏踊を ﹁ か ん ぎ ゆ や く 歓喜踊躍 念 仏﹂ と い い、 江 戸 時 代 は、 瓢 箪 を叩いて踊るのが目を ひ 惹 いたので、 ﹁鉢 たた 叩 き﹂とも呼ばれていま
した 。 空 也堂念佛踊 ︵ 鉢 たた 叩 き ︶ を踊る 、 半俗の空也僧のことも鉢 叩きと呼ばれました 。 空 也堂念仏は 、 本 シリーズ第 9回でも 、 与 謝蕪村に関連して取り上げ、 ﹃都 名所図会﹄の挿絵も引用しまし た。ここでは、 ﹃ 都年中行事画帖﹄の空也堂念仏の図を載せてお きます。
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王服茶と茶筌
上述のように、 ﹃都名所図会﹄は、空也堂の所在地を、 ﹁ たゝき 敲 町 ﹂ としています 。﹃ 京町鑑 ﹄ に は 、﹁ 亀 屋町 ﹂ の 俗称を ﹁ 敲町 ﹂ と い うと記載されています。もちろん 、鉢叩きに由来する俗称です。 亀屋町。俗に たゝき 敲 町とも いふ 云 。 はち 鉢 た ゝ き の いは 謂 れなり。 すな はち 則 、 南側に く う や 空 也 堂極楽院 あり 有 。時 宗 也 。 この 此 寺 、 開山空也上人 忌とて毎年十一月十三日 ね ん ぶ つ え 念佛會 あり 有 。 洛 中へ出る鉢た ゝ き は この ところ 此所 より いづ 出 る。 この 此 鉢 た ゝ き ちやせん 茶筌 を つく 造 り常の業となす。 さて 扨 、 このまち 此町 北側上ル町は越後突抜也 白露﹃京町鑑﹄ 、 宝暦十二年︹一七六二︺ ﹃新修京都叢書第十巻 山城名跡巡行志・京町鑑﹄ 光彩社︵一九六八︶ 空也堂の駒札にある ﹁ おうぶく 王 服 茶 ﹂ と いうのは 、 六波羅密寺でおこ なわれている﹁皇服茶﹂と同じ起源をもつもの。 ﹁ 村上天皇の天 暦五年 ︹ 九五一年 ︺ に 京都に流行した疫病の退散を祈 っ て 、 空 也 上人が十一面観音を ぞうり ゅう 造 立 し 、 そ の像を車に載せ 、 念 仏を唱えなが ら 、 病者に茶を授けたところ 、 疫 病が鎮ま っ た ﹂ と 伝えらていま ﹃都年中行事画帖﹄ ︵詞書 –江馬務、画 – 中島荘陽︶ ﹁空也堂念仏﹂の図 ︵国際日本文化センター ﹁ 都年 中行事画帖データベース ﹂ よ り引用︶467 ■ 狂言の鉢叩き す 。 青竹を八葉の蓮片に割 っ た 道具で茶をたて 、 まず天皇に差し 上げたのち 、 庶民に振舞 っ たということから 、﹁ おうぶく 王 服 茶 ﹂。 中には 、 梅干と結び昆布が入っています。 ﹁青竹を八葉の蓮片に割った道具﹂というのが、茶筌︵茶筅︶ の原型 。 この表現からは 、 ささら 筅 ︵ 中 華鍋などのこげ落としに使うも の ︶ のような形と考えられ 、 抹茶用の工芸的な道具とは違 っ て い たと推測されます 。 茶 筌で点てるとい っ て も 、 空也の時代にはど んな様子だ っ た のでし ょ う か 。 も しかしたら 、 沖 縄のぶくぶく茶 みたいなものかもしれない。これは、単に、 ﹁ おうぶく﹂と﹁ぶ くぶく﹂の連想です。 空也上人の始めた ﹁ おうぶ く 王 服 茶 ﹂ と 、 空也僧 ︵ 鉢 叩き ︶ が 生業とし た茶筌製造がここで結びつきます 。 つまり 、 毎 年 、 正月三が日に 空也堂の茶筌で茶をたてて服すれば 、 年中邪気を免れるという言 い伝えになります。 ﹁ 王服茶をたてる茶筌は空也堂のものでなけ ればご利益がない ﹂ と いうのは 、 なかなか巧妙なブランド戦略で はありませんか。 年の暮に新しい茶筌を求めて 、 新年に おおふく ちゃ 大 福 茶 を点てる風習を読 み込んだ狂歌が 、 好都合にも 、﹃ 古今夷曲集 ﹄︵ 寛文五年 ︹ 一六六 五︺刊行︶に載っています。 ﹁千早ぶる﹂は神に掛かる枕詞。こ れに ﹁ 古 茶筅 ﹂ を 掛けています 。﹁ たつ ﹂ は ﹁ 点つ ﹂ と ﹁ 立つ ﹂ を 掛けたもの。 満水 ち は や ふ る ちや 茶 せん 筅 も け さ は あ ら た ま り た つ おほ 大 ぶ く の 神 の 春 かな 哉 ﹃ ここんい きよくし う 古今夷曲集 ﹄巻第一・春歌・五 岩崎佳枝、網野喜彦、高橋喜一、塩村耕校注、 ﹃七十一番職人歌合・新撰狂歌集・古今夷曲集﹄ 岩波書店、新日本古典文学大系六一︵一九九三︶ では、空也僧は、どのように茶筌 を売り歩いたのでしょうか。 後述するように、 去来 ﹁ はちた ゝ き 鉢扣 の じ 辭 ﹂に は 、 墨 染 の 法 体︵ 僧 体 ︶あ るいは萌黄に ﹁ 違い たか 鷹 の は 羽 ﹂ の紋を付けた俗体で売り歩いたとあ ります。法体の様子は、都名所図会巻之一の﹁ やなぎ 柳 の水﹂ ︵ 中京区 西洞院通三条下ル東側柳水町︶の図の中に描かれていますので、 一部を切り取って引用しましょう。 図の中央に 、 さだもり 定盛 ず き ん 頭 巾 を被り 、 墨 染の法衣を着た者が二名いま す 。 一人は 、 緩んだ脚絆の紐を結びなおしています 。 二人が肩に 担いでいる わらづと 藁 苞 に 、 突き刺してあるものが見えますね 。 そ れぞれ の藁苞に挿してある 、 細 長い数本が くだん 件 の茶筌です 。 そ れを暗示す るように 、 こ の図の左上に空也堂 。 隔 てる雲の中に 、 空 也僧 ︵ 鉢 叩き ︶ の 茶筌売のことが説明してあります ︵ 全 体図は次回の ﹁ 柳 の水﹂ところに載せます︶ 。 俗体の鉢叩きが茶筌を売 っ ている様子は 、﹃ 人倫訓蒙図彙 ﹄︵ 元 禄三年 ︹ 一六九〇 ︺ 刊 、 第 七巻 ︶ に 描かれています 。 袖や背中 に、 たか 鷹 の は 羽 の紋がみえ 、 茶筌を挿してある藁苞と瓢箪をも っ て い ます。
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狂言の鉢叩き
﹃ ふ く べ 福部 の しん 神 ・ つとめい り 勤入 ﹄は、鉢叩きを題材にした大蔵流狂言です。 古くは ﹃ はちたたき ﹄ と呼ぶ場合もあり 、 同じ演目が 、 和泉流で鉢叩き︵法体︶の茶筌売 ︵﹃ 都名所図会﹄巻之一 柳の水の図の 一部︶ ︵ 国際日本文化センター ﹁ 平安京都名所図会データベース ﹂ よ り引用 ︶ は ﹃ 瓢の神 ﹄ や ﹃ 鉢叩 ﹄、 鷺流では ﹃ 鉢 叩 ﹄ とも呼ばれています 。 粗筋を次に示しましょう。 鉢 叩 き ︵ 甲︶ が、 のうり き 能 力 頭巾 ︵ 力仕事をする下級の僧が 被る頭巾 ︶ を 被り 、 金 の瓢箪と撥を腰につけて 、 い くつ もの茶筌を差した笹を肩にして登場します。そのあと、 囃子とともに 、 鉢 叩き ︵ 乙 ︶ が 角頭巾を被り 、 鉦 鼓と 撞木を腰にさした扮装で 、 また数人の鉢叩きが 、 角頭巾 鉢叩き︵俗体︶の茶筌売 ︵﹃人倫訓蒙図彙﹄元禄三 年︹一六九〇︺刊、第七巻︶ 京都大学付属図書館のデータベース ︵ h ttp://hdl.handle.net/2433/18072 ︶ を被り 、 銀の瓢箪と撥を腰に差した扮装で 、 や はり茶筌 をつけた笹を肩にして、 ﹁ 治まれる、都の春の はちたた き 鉢叩 、叩 きつれたる ひと ふ し 一節 を 、 ちやせん 茶 筌 召せと はや 囃 さん ﹂ と 謡いながらあ らわれます 。 一同は 、 同道して 、 北野神社末社の ふく べ 瓢 の 神 ︵ 福 部の神 ︶ へ参詣し 、 例 年通り勤行することにします 。 礼拝をすませ 、 瓢 箪や鉦鼓を打ち鳴らし 、 和 讃を唱えな がら踊ります。 あなたの かど 門 ではヒ ョ 、 こなたの かど 門 ではタン 、 たんたんからりころりと打ち鳴らいて 、 願う
469 ■ 蕉門俳諧と鉢叩き 後生は ちやせん 茶 筌 召せ 。 茶筌召せ 。 佛 法あれば世法 あり 、 煩 悩あれば菩提あり 、 柳は緑 、 花 は くれ ない 紅 のいろいろなれば、急いで後生を願うべし。 なもうだ。はるいた。はっぱいと茶筌。 脇狂言﹃福部の神・勤入﹄ 。小山弘志校注﹃狂言集上﹄ 日本古典文学大系第四二巻、岩波書店︵一九六〇︶ そのうちに 、 福 部の神があらわれて 、 い つも供えてあ る酒がないと催促し 、 酒がくるとよい機嫌で 、 こ の世が 栄えるように舞いおさめました。 ﹁ な もうだ ﹂ は ﹁ な む あ み だ ぶ つ 南無阿弥陀仏 ﹂ の 転 。﹁ は る い た﹂ は ﹁ は ら みった 波羅蜜多 ﹂ の転。 ﹁ は っ ぱ い ﹂ はもう一つよくわからないが、 ﹁ はつは らい 初祓 ﹂ が 訛 っ たものか? なお、 野 村萬斎による公演の動画を 、 Biglob e の動画サイトか らダウンロードすることができます 。 扮 装や ﹁ な もうだ ﹂ の繰り 返しを実際に見ることができます。
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蕉門俳諧と鉢叩き
■ 去来の﹁鉢扣の辭﹂ ﹁ 鉢 叩き ﹂ の 題材は 、 蕉門の俳人にと っ て 、 芭蕉の思い出につな がる特別な意味をも っ て います 。 む か い きょ ら い 向井去来 ︵慶 安 四 年 ︹ 一 六 五 一 ︺ ∼宝永元年 ︹ 一 七〇四 ︺︶ による俳文 ﹁ はち たたき 鉢 扣 の辭 ﹂ が ﹃ ふうぞ くもんぜ ん 風俗文選 ﹄ ︵ 森 川許六編 、 宝 永三年 ︹ 一 七〇六 ︺︶ に載 っ て いますので 、 引 用しまし ょ う ︵ 振りがな追加 。 俳 句の部分はカギ括弧で括りまし た︶ 。芭蕉が、鉢叩きの見物のために去来の草庵︵ ら く し し ゃ 落柿舎 ︶を訪 ねたときのできごとを題材にしています。 はちた ゝ き 鉢扣 の じ 辭 去来 師走も二十四日 。 冬 もかぎりなれば 、 鉢た ゝ き きか 聞 むと 例の翁わたりましける 。 こ よひは風はげしく 、 雨 そほふ りて 、 と みに來らねば 、 いかに待ち侘び給ひなむといぶ かりおもひて、 ﹁ ははき 箒 こせ眞似ても見せむ はち た ゝ き 鉢扣 ﹂と、灰吹 の竹うちならしける 。 其聲 たへ 妙 也 。 火宅を いで 出 よとほのめか しぬれど、猶あはれなるふしぐ
の似るべくもあらず。 かれが修行は瓢箪をならし 、 鉦打た ゝ き 、 ふ た り 二人 み た り 三人 つ れ てもうたひ 、 か け合へても うた 諷 ふ 。 その 其 しやう か 唱 哥 は 、 空也の作 也 。 かくて寒の中と 、 春秋の彼岸は 、 晝 夜をわかず 、 都 の外 、 七 所の三昧をめぐりぬ 。 無 縁の手向のたふとけれ ば 、 かの湖春も 、﹁ わが家はづかし ﹂ とはいへり 。 常 は杖 のさきに ちやせ ん 茶 筌 をさし 、 大 路小路に出て 、 商 ふ業かはりぬ れど 、 さ ま同じければ 、﹁ た ゝ かぬ時も は ち た ゝ き 鉢扣 ﹂ と ぞ 、 曲 翠 は申されける 。 あ るひはさかやきをすり 、 或 は四方にか らげ 、 法 師ならぬすがたの衣引かけたれど 、 そ れも墨染 にはあらず 。 お ほくは 、 も え ぎ 萌 黄 に鷹の羽 。 打ちがへたる紋 をつけて着たれば、 ﹁ 月雪に名は甚之丞﹂と越人も興じ 侍る。されば其角法師が去年の冬、 ﹁ことぐ
く寐覺は やらじ ﹂ と 吟じけるも 、 ひ とり きく 聞 にやたへさりけむ 。 打 ちとけて寝たらむは、かへり聞かむも口おしかるべし。あか 明 し て こそ 社 との給ひける 。 横 雲の影より 、 からびたる聲し て いできた 出 來 れり 。 げに老ぼれ足よはきものは 、 友どちにもあ ゆみおくれて 、 ひ とり今にやなりぬらんと 、 翁 の ﹁ ちやう 長 せう 嘯 の はか 墓 もめぐるか鉢た ゝ き ﹂ と 、 聞え給ひけるは この 此 あかつ きの事にてぞ侍りける。 向井去来﹁鉢扣の辭﹂森川許六編﹃ ふうぞ くもんぜ ん 風 俗 文 選 ﹄ ︵宝永三年︹一七〇六︺ ︶ 伊藤松宇校訂、岩波文庫、三 四六ー三六五︵一九二八︶ ︵理 解 の た め の メ モ︶ ﹁三 昧﹂ は ざ ん ま い ば 三 昧 場 ともいい 、 葬 送の地 ・ 火 葬場、あるいは墓地のこと。 ﹁七所の三昧﹂は、諸説あって一定 しないが 、 鳥 辺山 、 阿 弥陀峰 、 黒谷 、 船 岡山 ︵ 蓮台野 ︶、 金光寺 、 西院、狐塚︵栗栖野︶をあげてお きます。 ﹁萌黄﹂は、春に萌え 出る草の芽の色で 、 上に引用した ﹃ 都年中行事画帖 ﹄ の ﹁ 空也堂 念仏﹂ 図 で右上の人物が着ている着衣の色がそれ。 ﹁ くわ た く 火宅 ﹂ は、 現世のことで、火事の家にたとえたもの。 ﹁ こそ 社 ﹂は、国訓で、助 詞の ﹁ こ そ ﹂ のこと 。 そういえば 、 ベ ルリンオリンピ ッ ク に出場 し一万メートルで入賞して 、 記録映画 ﹃ 民 族の祭典 ﹄ で ヒーロー にな っ た 選手の名前が 、 むらこそ こうへい 村 社 講 平 ︵ 一九〇五∼一九九八 ︶ と いい ましたね。 ﹁ よこぐも 横雲 ﹂は、明け方に東の空にたなびいている雲。 俳文は 、 言外の含蓄をひそかに楽しむのがよいので 、 それを おもて 表 に出すのは身も蓋もない 。 したが っ て 、 言外の含蓄を補 っ て 現 代語訳を与えるのは愚行ですが 、 あえて無理矢理に訳してみまし た 。 この文の中に引用されている俳句については 、 全文を追加し ておきました。 ︵現代語訳︶ はちたた 鉢叩 きの じ 辞 去来 し わ す 師 走 も押し詰ま っ て 二十四日 。 冬 もこれで終わりなの で、 はちたた 鉢 叩 きを聞こうと 、 例 の芭蕉翁がわたしの草庵にい ら っ し ゃ った 。 この日は風が激しく 、 雨もそぼ降っ て 、 はちたた 鉢 叩 きは 、 すぐには来ない 。 それで 、 芭 蕉翁が待ちくた びれてしまわれるのではないかと心配になって、 はは き 箒 こ せ 眞 似 て も 見 せ む はち 鉢 た ゝ き 扣 去来 と 、 火吹き竹を打ち鳴らした 。 その音は 、 も っ と もらし く聞こえた 。 芭蕉翁は ﹁ 外 に出て打ち鳴らしたら 。 内 で鳴らすよりも はちたた 鉢叩 きらしくきこえるだろう。 ︵真似を するなら 、 現 世の草庵の中よりも 、 外 はず っ と 来世に近 い ︶﹂ とそれとなくお っ し ゃ っ たけれども 、 あのすばら しい ふしぶ し 節 々 には似ても似つかない 。 はちた た 鉢 叩 きの修行は 、 ひょうたん 瓢箪 をならし 、 かね 鉦 を う 打 ちたたき 、 ふ た り 二人 み た り 三 人 連れだ っ て 、 念 仏 を唱え 、 掛け合いで詠う 。 唱える歌は 、 空 也の作であ る 。 このようにして 、 寒 中と春秋の彼岸は 、 昼夜の区別 なく 、 京 都の外にある七箇所の墓地をめぐる 。 無縁のも のにも た む け 手向 をするのが尊いので、あの湖春も、 ﹁わが家 はづかし﹂と言った。 米 や ら ぬ わ が 家 は づ か し はち 鉢 たたき 敲 湖春 ふだんは 、 杖 の先に ちゃ せ ん 茶 筌 を差して 、 都の大路や小路に 出て、 あきな 商 う稼業に変わっても、 ふうてい 風体 は同じなので、 ﹁た たかぬ時も はちたた き 鉢 扣 ﹂ と 、 曲翠は 、 ま さにその有様を詠わ
471 ■ 蕉門俳諧と鉢叩き れた。 お も し ろ や た ゝ か ぬ 時 の はち 鉢 た ゝ き 叩 曲翠 一方で 、 あるものはさかやきを剃り 、 あ るものは四方 の髪を結びあげて 、 法 師ではない姿で売り歩く 。 着てい る衣は 墨 染 ではなく 、 多 くは も え ぎ 萌黄 で 、 たか 鷹 の は ね 羽 根 が交差し た紋をつけて着ていて 、 き りりと恰好がよい 。 俗 名甚之 丞のときには恰好がよいのに 、 冬の修行のときは 、 月 と 雪の舞台装置にもかかわらず 、 く たびれた僧の姿にな っ てしまうのを、ついつい冷やかして、 ﹁月雪に名は甚之 丞﹂と越人もおもしろがった。 はち 鉢 た ゝ 叩 き げつ 月 せつ 雪 に 名 は 甚 之 丞 越人 そんなわけで 、 其 角法師が去年の冬に ﹁ ことごとく ね ざ め 寝覺 はやらじ﹂と吟じたのも、 こ と ご と く 、 寝 覚 め は や ら じ はち 鉢 た ゝ 叩 き 其角 ﹁ ま さか寝覚めのときにはこないだろう ﹂ と 寝てしま っ たいいわけをしているようにみえるけれども、その じつ 実 、 寝覚めにひとりで聞くのがわびしく耐えられなか っ た の だろう。 今夜は連れがいるので 、 そ んないいわけをする必要は ないが 、 寝てしまうのもどうか 。﹁ 一緒に寝てしま っ て 、 通り過ぎたことをあとで聞くのもくやしいだろう 。 今 夜 は 、 いっそ よ あ 夜 明 かししてしまおう ﹂ と 芭蕉翁はお っ し ゃ っ た 。 明け方に雨があが っ て 、 東 の空にたなびく雲の影か ら 、 しわがれ声がして 、 鉢叩きが出てきた 。 ま っ たく老 いぼれて足が弱いので 、 一 行から遅れてしま っ て 、 一人 だけ今たどり着いたのだろうと、芭蕉翁が ちや う 長 せう 嘯 の はか 墓 も め ぐ る か 鉢 叩 き 芭蕉 とおっしゃ っ たのは、この明け方のことであった。 芭蕉は、 ﹁鉢叩きを歌に詠み込ん だ長嘯が、七所の三昧のひと つ鳥辺野の近くに葬られていること﹂を思い出して、 ﹁ 長嘯の墓 をめぐ っ たのなら 、 鳥 辺野のある東山から落柿舎のある嵯峨野ま で歩くことになる 。 老 いぼれて足の弱 っ た空也僧 ︵ 鉢叩き ︶ には 酷なことで 、 着くのが明け方にな っ たのは仕方のないことだ ﹂ と 同情しています。 ■ 木下長嘯子のこと 長嘯は きのしたち ょうしょう し 木 下 長 嘯 子 のこと ︵ 永 禄一二年 ︹ 一 五六九 ︺ ∼慶安二年 ︹一六四九︺ ︶。 歌人。豊臣秀吉夫人︵北政所ねね︶の甥で、小浜 城主 。 関 ヶ 原 合戦の折に 、 東山に隠棲 。 墓 は高台寺 。 人生の前半 は武将、後半は歌人。その数奇な人生は、 ﹃ 近世畸人伝﹄にも採 りあげられています。 芭蕉の句は 、 長嘯子の歌集 ﹃ きょは くしゅう 挙白集 ﹄︵ 慶 安 二 年 ︹一 六 四 九︺ 刊︶ の 最末尾 、 辞世の歌のすぐ前にある歌を踏まえています ︵ は ちたたき の歌の こと ばがき 詞 書 は 、 インターネ ッ ト の ﹁ 千人万首 ﹂ h ttp://www.asahi-net.or.jp/ ˜sg2h-ymst/y a matouta/sennin.h tml の記載から補いま した。辞世の歌の ことば がき 詞書 は、 ﹃近世畸人伝﹄の﹁木下長嘯子﹂の項 から補いました︶ 。
はちたたき いつも冬になれば 、 さ むき霜夜のあけがた 、 なにごと にかあらん 、 た かくののしりて大路をすぐる 。 か れが 声いと耐えがたく目ざめて 、 ふと聞きつけたるは 、 卯 の花のかげに隠るる心地す。 2119は ち た た き あ か つ き が た の ひと 一 こ ゑ は 冬 の 夜 さ へ も な く ほ と と ぎ す 辞世 王公といへども浅ましき人間の煩ひをばまぬかれず。 すべて身のうまれ出ざらんにはしかじ 。 ま して賤しく 貧しからんはいふにもたらず 。 されば死はめでたきも の也 。 ふ た ゝ び 彼故郷に立かへりて 、 始 もなく終もな き楽しびをうる 。 此たのしみを深く悟らざるともがら かへりていたみ歎く、おろかならずや。 2120つ ゆ の 身 の き え て も き え ぬ お き 所 く さ 葉 の か げ に ま た も あ り け り あと枕もしらずやみふせりて 、 口に出るをふと書きつ くる。人わらふべきことなりかし 木下長嘯子﹃挙白集﹄山本春正 編、慶安二年︹一六四九︺ ﹃新編国歌大観﹄第九巻、角川書店︵一九九一︶ 長嘯子の歌は、 ﹁ あかつき がた 暁方 になって、鉢叩きの一声があがった。季 節はずれの冬の夜に鳴く ほとと ぎす 時鳥 の声のようだ。 ﹂の意。 芭蕉をはじめとして蕉門の俳人は 、 木下長嘯子を敬慕していた といいますから 、 芭 蕉が落柿舎を訪ねて鉢叩きを聞こうとしたの は、この歌がきっかけになっているに相違ない。実際、 ﹁ はち た た 鉢叩 き の じ 辞 ﹂の中で﹁ あか 明 し て こそ 社 ﹂と芭蕉がことさらに言ったのは、 ﹃挙 白集 ﹄ に ある長嘯子の歌を意識していますね 。 こ の歌の通りに明 け方に鉢叩きが来たので 、 芭 蕉の思い描く通りの状況にな っ た わ けです。下世話な言い方をすれば、 ﹁しめた!﹂とおもったので はないでし ょ う か 。 長嘯子の鉢叩きの歌が辞世の直前にあること から、 ﹁ ちやう 長 せう 嘯 の はか 墓 ﹂と﹁鉢叩き﹂という組み合わせが、 ﹃挙白集﹄ の構成から強く示唆されたものであるといえます。 鉢叩きに関する芭蕉の句を追加引用しておきましょう 667 乾 から ざけ 鮭 も 空 也 の 痩 も 寒 の 中 芭 蕉 783納 豆 切 る 音 し ば し 待 て 鉢 叩 き 芭 蕉 松尾芭蕉﹃芭蕉句集﹄ ﹁ 発句編﹂ 大谷篤蔵、中村俊定校注﹃日本古 典文学大系﹄四五︵一九六二︶ ■ 越人の句への﹃去来抄﹄記載の評 俳文﹁ はち たたき 鉢扣 の辞﹂に引用されている越人の句に関しては、 ﹃去 来抄 ﹄ の ﹁ 先 師評 ﹂ に 芭蕉の考えがうかがえるおもしろい話が 載っています。 ﹁類句があるのでどうしたらよいか﹂という去来 の質問に対しての芭蕉の評です。 つき 月 ゆき 雪 や はち 鉢 た ゝ き 名 は じん 甚 の 之 じよう 丞 ゑつ 越 じん 人 ﹃猿 蓑 みの ﹄撰ノ時、去来 いは く 曰 、﹁ この ごろ 比 い た み 伊丹 の句に、 や 弥 へ 兵 ゑ へ と は 知 し れ ど あは れ 憐 や はち 鉢 た ゝ き 扣 と いふあり 云有 。 越 が 句、 につしふ 入 集 いか ゞ 侍 らん ﹂。 先師 いはく 曰 、﹁ ﹁月 雪﹂
473 ■ 蕉門俳諧と鉢叩き といへるあたり、一句 はた らき 働 見えてしかも風姿 あり 有 。たゞに、 ﹁しれど あは れ 憐 や﹂といひくだせるとは かくべ つ 各別 也。されど、共 に鉢扣の俗体を以て趣向を たて 立 、 ぞくみ やう 俗 名 を以て句をかざり侍 れば、 もつと も 尤 遠慮 ある 有 べし。又 かさね 重 て の をり 折 も あり 有 なん﹂と也。 向井去来﹃去来抄﹄宝永元年︹一七〇四︺頃 成立。大磯義雄、大内初夫校注 ﹃蕉門俳論俳文集﹄古典俳文学大系 一〇、集英社︵一九七〇︶ ︵現代語訳︶ つき 月 ゆき 雪 や はち 鉢 た ゝ き 名 は じん 甚 の 之 じよ う 丞 ゑつ 越 じん 人 ﹃猿 蓑 みの ﹄を撰したとき、去来が、 ﹁ この頃、伊丹一派 の蟻道の句に、 や 弥 へ 兵 ゑ へ と は 知 し れ ど あはれ 憐 や はち 鉢 た ゝ き 扣 蟻道 というのがあります。越人の句について、 ﹃猿蓑﹄への 入集はどういたしましょうか﹂と尋ねた。先師︵芭蕉︶ は答えて 、 ﹁﹁ 月 雪 ﹂ というあたりが 、 こ の句の工夫で あ っ てしかも風姿のよいところである 。 単純に ﹁ しれど あはれ 憐 や ﹂ といい下したのとは大いに差がある 。 しかしなが ら 、 両方とも鉢叩きの俗体で句の趣向を決めていて 、 俗 名で句を飾 っ て いるので 、 さ らに ひ と く ふ う 一 工 夫 を加える必要が ある 。 その上で 、 また撰に入れる機会もあるだろう 。﹂ と おっしゃ っ た。 ﹃去来抄﹄にある越人の句では、 ﹁ つき 月 ゆき 雪 や﹂が上の句で、訓読 みにしています。一方、俳文﹁ はち たたき 鉢扣 の辞﹂の現代語訳の中では、 原文中にある ﹁ 月雪に名は甚之丞 ﹂ を 尊重して 、 分 割せずに ﹁ 鉢 たたき﹂を上の句に す 据 え、 ﹁月雪﹂も音読みにしています。この ようにすると、 ﹁ げつせ つ 月雪 に名は甚之丞﹂が、ちょうど、歌舞伎の見 栄を切った せ り ふ 台詞 のように響きますね。 法体の鉢叩き︵ ﹃ 都名所図会﹄巻之一︶が茶筌売を売っていた のでは 、 空也忌の寒行のときの風体とおなじですから 、﹁ 弥兵衛 ﹂ とか ﹁ 甚 之丞 ﹂ と かの俗名は 、 そぐわない 。 やはり 、 俗体の鉢 叩き ︵﹃ 人倫訓蒙図彙 ﹄ 第七巻 ︶ が茶筌を売 っ て いることが 、﹁ 弥 兵衛 ﹂ と か ﹁ 甚之丞 ﹂ とかの俗名を喚起するにはどうしても必要 です。 ■ 句 兄 弟 ﹃去来抄﹄の先師評のところで紹 介したのは、要するに、 ﹁越 人の句は 、 蟻 道の句よりすぐれたところがあるが 、 発 想や道具立 てが同じであり 、 も う ﹁ ひと 一 く ふ う 工 夫 ﹂ しなければならない ﹂ というこ とです 。 この ﹁ 一 工夫 ﹂ は 、 実 際にどのようなものか 。 其 角編 ﹃ くきゃう だい 句兄弟 ﹄︵ 元禄七年︹一六九四︺ ︶ にはそのヒントが述べられて います。 ﹃ くきゃうだ い 句 兄 弟 ﹄ の前半では 、 兄 の句として 、 そ れまでに詠まれた句 をおき 、 其角が視点を転じて作 っ た句をおいて 、 両 者の対比を楽 しむ趣向です 。 その中に 、 鉢 叩に関する蟻道の句 ︵ 上述 ︶ を兄に おいた一対があります。 廿六番 兄 ぎ 蟻 だう 道
弥 兵 衛 と は し れ ど 哀 や 鉢 敲 弟 ︵其 角︶ 伊 勢 嶋 を 似 せ ぬ ぞ まこ と 誠 鉢 た ゝ き 一とせ都にて 、 冬 夜を咄し明しつるに 、 暁 と聞えし瓢箪の音 からびて面白く諷ひけるを 、 酒の肴にもと口づきける当座に 、 去来が 箒 こ せ ま ね て も み せ ん 鉢 た ゝ き と即興しける。その ゝ ち この 此 句聞え侍る也。 ﹁しれど哀や﹂ と いひ 云 とりしこそ、 ねぬ暁の思ひふかし。 自 句 寒 ー 夜 ー 行の信を起して 、 か れが 一 ー 流 派 の音声のみにて物に似 よらずむかしめきたれば 、 今めきたる句作りに心うつりすな と 、 俳諧のひさごを鳴ラして 邪 ー 路をしめし 、 句 を もと む 求 る人の感 を わけ 分 たり。 ﹃句兄弟﹄其角編、元禄七年︹一六九四 ︺刊行。宮本三郎、今営蔵校注 ﹃蕉門俳諧集二﹄古典俳文学大 系七、集英社︵一九七一︶ ︵現代語訳︶ 廿六番 兄 ぎ 蟻 だう 道 弥 兵 衛 と は し れ ど 哀 や 鉢 敲 ︵ 知 人の弥兵衛が鉢叩きとして回向しているとは知りながらも 、 そ の音はものさびしげに響く。 ︶ 弟 ︵其 角︶ 伊 勢 嶋 を 似 せ ぬ ぞ まこ と 誠 鉢 た ゝ き ︵ 派 手な伊勢縞を着て踊 っ て いても 、 外見で推し量 っ て はならな い。鉢叩きは誠心誠意の修行である。 ︶ ある年京都で 、︵ 芭蕉翁を囲んで ︶ 冬の夜を談笑しながら明か した 。 夜明けにな っ て 、 瓢 箪の乾いた音が響いて 、 鉢 叩きが 念仏を面白く詠 っ ているのを聞きながら 、 ﹁ これを酒の肴に ﹂ と口々にしゃべっているその場で、去来が、 箒 こ せ ま ね て も み せ ん 鉢 た ゝ き ︵ 箒 をよこしなさい 。 本物の鉢叩きが来るまでの座興に 、 鉢 叩きの 真似をしてみましょう。 ︶ と即興で句を作 っ た 。 そののち 、 この句は 、 人 々 のあいだで 喧伝された。 ﹁しれど あはれ 哀 や ﹂ とい ったのは、 夜明かしをした暁の思いが 深く よ 詠 み込まれている。 わたし ︵ 其角︶ の句は、 ﹁ か んやぎょう 寒夜行 ﹂ の 真剣さを取りあげている 。 蟻 道の一派が音声だけで 、 実際の 物を見て活写しているのではなく 、 昔風である 。 と はい っ て も 、 当世風の作句にうつつを抜かしてはいけないと 、 俳諧へ の警鐘にたとえた瓢箪を鳴らし 、 間 違 っ た道を明らかにする ため 、 上記の句を作 っ て 、 俳諧の道を求める人 々 の 考えの一 半を明らかにした。 ﹁ 一 とせ都にて 、 冬夜を咄し明しつるに ﹂ と 本題と関係のない 話を枕においたのは 、 去来の ﹃ 鉢叩の辞 ﹄ や ﹃ 去来抄 ﹄ から引き 続く論評であることを示すためでしょう。 蟻道の句は、 ﹁俗体のときとはうって変わって修行の時は別人 のように真剣になる﹂ということを、 ﹁ 弥兵衛﹂という俗名と耳 から入った情報にもとづいて述べています。一方、其角の句は、 俗体を暗示する ﹁ 伊勢縞 ﹂ と いう視覚的な情景に転じて 、 し か も、 ﹁弥兵衛﹂という俗体・俗名を直接にとりあげずに、修行の 真剣さを描写することに成功しています 。 こ のように 、 同じ対象 を扱 っ て も 、 発想や着眼点をずらすことによ っ て 、 新しい句境に
475 ■ 蕉門俳諧と鉢叩き 至ることの大切さ指摘しているわけです。 上記 ﹃ 去 来抄 ﹄ を 引用したところは 、﹃ 句 兄弟 ﹄ 流 にいうと 、 結 果的に、 ﹁蟻道の句を兄、越人の 句を弟とした場合にどうか﹂と いう問いかけになっているわけで す。そこでの芭蕉の答は、 ﹁ 越 人の句は 、 蟻道の句と同様に 、 鉢 叩きの俗体で句の趣向を決めて いて 、 俗名で句を飾 っ ている ﹂ というもので 、 ありて い 有 体 にいうと ﹁ 新 しい発想がない﹂との指摘です。 ﹃句兄弟﹄廿六番は、この論を 一歩進めて 、 芭蕉の ﹁ もつ とも 尤 遠 慮 ある 有 べ し 。 又 かさね 重 ての をり 折 も あり 有 な ん ﹂ と い う指摘への対処を、実作で示していることになります。 閑話休題 。 芭蕉は 、 越 人の句に ﹁ 新 しい発想がない ﹂ と 指摘し ているのですが 、 ま ずは 、 ﹁﹁ 月 雪 ﹂ というあたりが 、 こ の句の 工夫であ っ てしかも風姿のよいところである 。 単純に ﹁ しれど あは れ 憐 や﹂といい下したのとは大いに差がある。 ﹂と越人の句のすぐれ たところを述べています 。 こ のあたりが 、 芭蕉の俳諧宗匠 ︵ 教 育 者 ︶ としての力量でし ょ う 。 け なすだけでは 、 誰 しも萎縮してし まいますね 。 ほかの弟子がいる万座の中では 、 なおさらです 。 弟 子にもプライドがあるので 、 こ のような配慮があ っ てこそ 、 蕉 門 という大きな一派を率いることができたのでしょう。 ■ 芭蕉追悼と鉢叩き 芭蕉は 、 元 禄七年 ︹ 一六九四 ︺ 十月一二日に大阪で客死しま す 。 この報に接し 、 江 戸から嵐雪と桃隣が京 ・ 大 阪に来て滞在し ました。其角は、大阪に来ていて 、芭蕉の死に目に会いました。 これらの人 々 が 、 同 年一一月一三日に 、 去来の落柿舎に集まりま す 。 旧暦一一月一三日は空也忌で 、 この日から大晦日までの四八 日間鉢叩きの行がおこなわれるので 、 集 まる日をわざわざこの日 に設定したと推測されます 。 集 ま っ た四人は 、 芭 蕉同席の落柿舎 の昔︵ ﹃鉢叩の辞﹄で述べられた会合︶ 、﹃猿蓑﹄の評︵ ﹃去来抄﹄ の先師評︶など、芭蕉にまつわるできごとをしのびます。 ﹃ とな み山﹄ ︵浪化編、元禄八年︹一六九五︺刊行︶から、そのときに 作られた俳句を引用します 。 こ の中では 、 去 来の句が 、 鉢 叩きに 対する布施を取りあげて、毛色が変わっています。 刀奈美山引 ︵前略︶ 八つの鐘耳ひそかにして、鉢た ゝ きの 咳 しはぶき きた 来 る。 是を嵐雪が馳走にと十銭をなげて 、 せんこゑ 千 声 の 瓢 ひ さ ご をなら さしむ。 千 鳥 な く 鴨 川 こ え て 鉢 た ゝ き 其角 今 すこし 少 とし 年 より 寄 見 た し 鉢 た ゝ き 嵐雪 ひ よ う た ん は 手 づく り 作 な る べ し 鉢 た ゝ き 桃 隣 旅 人 の 馳 走 に 嬉 し は ち た ゝ き 去来 ﹃ありそ海・となみ山﹄浪化編 、元禄八年︹一六九五︺刊行。 宮本三郎、今営蔵校注﹃蕉門俳諧集二﹄ 古典俳文学大系七、集英社︵一九七一︶ 嵐雪の句は、 ﹁芭蕉翁が﹁ ちやう 長 せう 嘯 の はか 墓 ﹂の句︵ ﹃鉢叩の辞﹄ ︶ を詠 んだときには 、 老いぼれて足が弱い鉢叩きがあらわれたのに 、 今 回の鉢叩きは若すぎる 。 芭蕉翁の句をしのぶには 、 も っ と 年寄の 鉢叩きをみたいものだ﹂という意味でしょう。このように、 ﹃鉢 叩の辞 ﹄、 ﹃ 去来抄 ﹄、 ﹃ 句兄弟 ﹄、 ﹃ となみ山 ﹄ と続く鉢叩きの題材
は 、 蕉門俳諧にと っ て 特別な意味合いをも っ て いたことがわかり ます。
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江戸中期の俳諧と鉢叩き
﹁ 鉢 叩き ﹂ は 、 江 戸時代中期には 、 冬の季題として定着したよ うで 、 蕪 村の句会の兼題 ︵ あ らかじめ決められた題 ︶ や 探題 ︵ 当 日に籤を引いて決める題 ︶ に も ﹁ 鉢叩き ﹂ があるくらいです 。 京 都に住んだ蕪村は 、 鉢叩きを題材にした句をたくさん作 っ て いま す。 ﹃蕪村自筆俳句帳﹄に載って いる句を摘出します。末尾の番 号は﹃蕪村自筆俳句帳﹄における通し番号です。 いつ 一 ぺう 瓢 の い ん で 寝 よ や れ 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵六 一 一 ︶ 木 の は し の ばう 坊 ず 主 の は し や 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵六 一 二 ︶ 子 を 寝 せ て でて 出 ゆく 行 やみ 闇 や は ち た ゝ き 蕪村 ︵六 一 三 ︶ ゆ う が ほ の そ れ は どく 髑 ろ 髏 か 歟 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵六 四 八 ︶ すみ 墨 ぞめ 染 の よる 夜 の に し き や 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵六 七 六 ︶ つひ 終 に よ 夜 を いへ 家 ぢ 路 に 帰 る 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵六 九 九 ︶ 花 に へう 俵 た 太 雪 に 君 あり 有 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵七 七 七 ︶ さい 西 ねん 念 は も う 寝 た 里 を 鉢 た ゝ き 蕪村 ︵七 七 八 ︶ 与謝蕪村﹃蕪村自筆俳句帳﹄ 尾形仂編著、筑摩書房︵一九七四︶ 七七七番の句に出てくる﹁俵太﹂は、 ﹃ 近世畸人伝﹄に記載さ れている表具屋太兵衛のことです。 ﹁ 貞享、元禄の間の人で、京 都新町四条の北に住んでいたが 、 老後は三人息子の家に泊ま っ て は 、 昼間は 、 花 、 紅葉 、 月 、 雪 などをめでて過ごした 。 黒 い頭巾 を被 っ て 、 身長より長い杖に酒肴を仕込み 、 瓢 箪型の銀器に酒を 入れてもちはこんで浮かれ歩いた 。 花 の下で一人酒を飲み 、 眼 鏡 をかけて行き来の人をみてすごした 。 そ のころの京都の畸人の第 一といわれていた 。﹂ と記されています 。﹁ 花 をめでるといえば俵 太︵表具屋太兵衛︶ 。 雪をめでるのは鉢叩き。どちらも瓢箪を下 げている﹂とでも解釈しておきましょう。 七七八番の句の ﹁ 西 念 ﹂ は 、 固有名詞ではなく 、 僧によくある 名前としてもちだしたもの 。 上 の ﹃ 去来抄 ﹄ や ﹃ 句兄弟 ﹄ のとこ ろで述べたのは、 ﹁ じん 甚 の 之 じよ う 丞 ﹂や﹁ や 弥 へ 兵 ゑ 衛 ﹂という俗名や﹁伊勢嶋 ︵伊勢縞︶ ﹂ という俗体に眼目がありますが、七七八番の句では、 発想を変えて、 ﹁法体﹂に着眼しているところにあたらしみがあ ります。たわむれに、 ﹃句兄弟﹄流に書いてみましょう。 番外句兄弟 兄 ぎ 蟻 だう 道 弥 兵 衛 と は し れ ど あは れ 哀 や はち 鉢 たたき 敲 弟 蕪 村 さい 西 ねん 念 は も う 寝 た 里 を 鉢 た ゝ き まず気づく工夫は 、 俗 名によくある名前として 、 弥兵 衛をもちだした兄の句に対して 、 弟の句では 、 法名によ くある名前として、西念をもちだしていること。 ﹁ 俗名 弥兵衛の普段の行状を知 っ ているけれども 、 法体で ﹁ 鉢 叩き ﹂ の 寒行をおこなう姿をみると別人のようで 、 感動 ものだ 。﹂ というのが兄の句 。 同一人の俗と僧の対比 。 弟477 ■ 本 能 寺 跡 の句は、 ﹁仮に法名西念と名づけて特定を避けた近所の 僧が 、 普 段から修行もせずにぐうたらであることをよく 知 っ ている 。﹂ と いう設定に変えて 、﹁ 里では 、 ぐうたら 坊主の西念はもう寝てしま っ た のに 、 半 俗半僧の鉢叩き は厳しい行を夜を徹しておこな っ ている 。 ま っ た く 、 世 の中 、 あべこべだ ﹂ という意味をもたせた 。 別 人の僧と 法体の鉢叩きの対比。 次は 、 炭 太祇の句を紹介しまし ょ う 。 太 祇らしく 、 鉢 叩きと在 家の施しに関する句です 。 蕉門や蕪村の句が 、 主として ﹁ 鉢叩 き ﹂ 自体へ興味があるのに対して ︵ 俳文 ﹁ はちた たき 鉢 扣 の辞 ﹂ に引用され ている湖春の句などは例外︶ 、太 祇のスタンスが違うことがわか ります。 せつ 摂 たい 待 へ よ ら で すぎ 過 け り 鉢 た ゝ き 太 祇 暁 の 一 文 銭 や は ち た ゝ き 太 祇 炭太祇﹃太祇句選﹄ ︵﹃ 中興俳諧集﹄鳥居清、山下一海、 ﹃古典俳文学大系﹄第一三巻、集英社、 ︵一九七〇︶ ) ﹁ せ っ かく接待をしようと待ちかまえていたのに 、 鉢叩きがよ らずに過ぎてい っ て しま っ た ﹂ と いうのが第一句 。 第 二句は 、﹁ 明 け方に来た鉢叩きには 、 少ないけれども一文銭を寄進する ﹂ と い うことです 。 それにしても 、 上 記 ﹃ となみ山 ﹄ で 、﹁ 嵐雪が馳走に と十銭をなげ﹂たのは、破格のお 布施。そのとき、去来が、 ﹁ 旅 人の馳走に嬉しはちた ゝ き﹂と詠 った意味は、 ﹁京都に住んでい る在家の布施は 、 一 銭くらいが相場なのに 、 旅 行で来ている人は 剛毅なもの 、 そ の一〇倍をお布施にする 。 鉢 叩きも喜ぶはずだ 。﹂ となります。
■
本
能
寺
跡
油小路通の東 、 蛸薬師通の南のあたりは 、 元本能寺小学校の あ っ たところです 。 今は 、 本 能寺特別養護老人ホームにな っ て い ます 。 そ れを記念して 、 記 念碑が建てられています 。 これと並ん で 、 本能寺跡の碑が新しく建 っ て います 。 今は 、 寺 町御池に移転 していますが 、 天 正十年 ︹ 一五八二年 ︺ の ﹁ 本 能寺の変 ﹂ の時に は 、 この付近にありました 。 写 真を載せた石碑は 、 油 小路通蛸薬 師下ル東側のもの 。 このほかに 、 蛸薬師通小川西南かどにも ﹁ 此 附近本能寺址 ﹂ の碑があります ︵ 元 本能寺小学校が取り壊される ときにここに移されました︶ 。 これら二つの石碑の位置は、正確 でないことが最近の発掘調査ではっきりしています。 これら二つの碑のある付近の町名は 、﹁ 元本能寺 • 南 町﹂ ︵蛸 薬 師 通を挟む両側町 ︶。 ﹁ 南 町 ﹂ とな っ ているところが 、 味 噌 。 味噌 たる ゆ え ん 所 以 は 、 最 近の発掘結果によると 、 天正時代の本能寺の寺域 は 、 北は六角通 、 南は蛸薬師通 、 東 は西洞院通 、 西 は油小路通 に囲まれた一町 ︵ 平安京左京四条二坊十五町 ︶ だ っ た のです 。 本 能寺跡碑があるところより 、 もう一町北のブロ ッ ク で 、 現在の町 名で言うと 、﹁ 元本能寺 • 南 町 ﹂ の北半分 、﹁ 元本能寺町 ﹂、 ﹁ 本 能寺 町﹂の南半分。 もともと 、 元本能寺小学校があ っ た 元本能寺 • 南 町の南半分のブ ロ ッ ク ︵ 平安京左京四条二坊十四町 ︶ に 本能寺が存在したという 説は 、 森 幸安が ﹃ 中昔京師図 ﹄︵ 宝暦三年 ︹ 一 七五三 ︺︶ を作成し本能寺跡碑 本能寺址碑 たときに 、 北 は六角通 、 南 は錦小路通 、 東 は西洞院通 、 西は油 小路通に囲まれた二町 ︵ 平 安京左京四条二坊十四町と十五町 ︶ を ﹁本能寺地﹂としたことにより ます︵ちなみに、錦小路を挟んだ 南側は、陳卯良︵陳外郎︶家と記載されています︶ 。これは、明 らかに誤りであるにもかかわらず 、 南 北二町というのが一人歩き をしてしまいました。 元本能寺小学校が取り壊されたときに 、 発 掘調査がおこなわ れ 、 その結果が 、 京 都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報二〇〇 三 – 五 ﹃ 平安京左京四条二坊十四町跡 ﹄ として報告されています 。 このとき 、 蛸 薬師通 ︵ 四条坊門通 ︶ の南側に沿 っ た 下京 そうがま 惣構 え の 堀が発掘されたことにより 、 本 能寺が蛸薬師通以南にあ っ たとい う俗説が否定されました。 さらには、 京 都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告二〇〇七 – 一 一 ﹃ 平安京左京四条二坊十五町跡 ・ 本能寺城跡﹄ の発掘 ︵ A地 点 ︶ では 、 蛸 薬師通 ︵ 四条坊門通 ︶ の北側に沿 っ た本能寺の堀が 発掘されました 。 この堀は 、 西洞院川 ︵ 現 在は暗渠 ︶ と 東端で合 流していたことが確実で 、 本 能寺の南限と東限が確認されたこと になります。 京都市埋蔵文化財研究所の ﹃ リーフレ ッ ト京都 ﹄ No. 二三一 ︵ 二 〇〇八 ︶ 発掘ニ ュ ース 82﹁ 本 能寺の変を調査する ﹂ に よると 、 そ のほかにも二箇所 ︵ Bおよび C地点 ︶ の 発掘がおこなわれて 、 さ らに決定的な発掘結果がえられています 。 蛸 薬師通と六角通の中 間あたり西洞院通に面した場所︵関西文化財調査会の担当︶で、 敷地の内部に堀が入り込んでいることがわかり、 さ らに ︵能 の異体字 。 旁 の ﹁ ヒヒ ﹂ を ﹁ 火火 ﹂ と 読んで避けたもの ︶ の銘を