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全文

(1)

余五将軍平維茂の軌跡

著者

森 公章

著者別名

MORI Kimiyuki

雑誌名

東洋大学大学院紀要

54

ページ

328-307

発行年

2017

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009714/

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はじめに

私は先に河内源氏の祖源頼信、大和源氏の祖源頼親の活動と子孫 の 展 開 過 程 を 検 討 し、 武 者、 ﹁ 兵 の 家 ﹂ と 称 さ れ る 新 し い 社 会 集 団 で あ る 武 士 の 生 成・ 発 展 を 考 察 し よ う と し た ︶1 ︵ 。 後 代 の 家 格 で 言 え ば、頼信・頼親らは四位・五位を極位とし、受領などを務める諸大 夫 ク ラ ス で、 ﹁ 軍 事 貴 族 ﹂ と 称 さ れ る こ と も 多 い が ︶2 ︵ 、 彼 ら は 武 士 と しての発展を目指していた訳ではなく、頼信の子頼清や頼親の子頼 成は武者とは異なる処世を企図してお り ︶3 ︵ 、十一世紀前半・中葉段階 では明確な方向性は定まっておらず、十一世紀後半∼十二世紀にお ける展開や地方の状況なども相俟っ て ︶4 ︵ 、新社会集団が成長していく ものと展望される。 小稿で取り上げる平維茂は、平将門の乱平定に功績があった平貞 盛の弟繁盛の子兼忠の子で、貞盛の養子になって、その第十五子に 位 置 づ け ら れ る の で、 ﹁ 余 五 ﹂ と 称 さ れ た。 鎮 守 府 将 軍 に な っ た の で、余五将軍の名で知られており、その子孫は越後城氏につながっ て い る。 維 茂 は 治 安 二 年︵ 一 〇 二 二 ︶ に 死 去 し て い る か ら︵ ﹃ 小 記 目 録 ﹄ 第 二 十・ 治 安 元 年 四 月 十 三 日 条 ︶、 と も に 八 十 歳 を 越 え る 長 命であった頼信・頼親の活躍期間には及ばないが、概ね同世代くら いの人物である。中央の武士の祖となる人々と地方の武士団の祖と なる維茂の活動を比較する意味もあり、十世紀末∼十一世紀前半に おける武者的人物の活動形態やその後の子孫の展開を知る一例とし て、平維茂について整理しておくことは必要であると思われる。 なお、平維茂は長保五年︵一〇〇三︶に下総国府を焼亡した平維 良の乱を起こした維良と同一人物であることが明らかにされており ︵上記の維茂の死亡を示す記事は維良のものである ︶ ︶5 ︵ 、この平維良の 乱も維茂の足跡を検討する重要な材料となる。そこには藤原道長の 御堂流が摂関家として固定する前後の時期における、摂関家諸流と の関係模索のあり方という要素も看取され、貴族社会の中での武者 の位置づけ・役割と武士への展開という要素を考究することも期待

余五将軍平維茂の軌跡

文学部史学科教授

  

公章

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さ れ る。 ま た 前 二 稿 と 同 様 に、 越 後 城 氏 へ の 展 転 過 程 に も 言 及 し、 武士の歴史を構成する事例蓄積にも努めたいと思う。

  ﹃今昔物語集﹄の説話から

平維茂は古記録類では専ら維良︵吉︶の名で記され、維茂として の活動が見えるのは系図・説話史料においてである。説話では﹃今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 二 十 五 第 四 話﹁ 平 維 茂 郎 等、 被 殺 語 ﹂、 第 五 話﹁ 平 維 茂、罰藤原諸任語﹂が知られる。第四話は、 上総守兼忠ト云フ者有ケリ。此ハ平貞盛ト云ケル兵ノ弟ノ繁茂 ガ 子 也。 其 ノ 兼 忠、 上 総 守 ニ テ 有 ケ ル 時 ニ、 其 ノ 国 ニ 有 ケ ル ニ、余五将軍維茂ト云者ハ此ノ兼忠ガ子ニテ有ケルガ、陸奥国 ニ 居 タ リ ケ レ バ、 父 ノ 兼 忠 ガ 上 総 ニ 有 ル ニ、 ﹁ 久 ク 不 見 奉 ニ、 此ク上総守ニ成テ下リ給タレバ、喜ビ乍ラ参﹂ト云ヒ遣セタリ ケレバ、兼忠モ喜テ其儲ヲ営テ、 ﹁何シカ﹂ト待ツニ、館ノ人、 ﹁既ニ此ニ御座シタリ﹂ト云ヒ騒ケム。 とあり、上総守︵上総国は親王任国なので、実際には介︶として上 総国に赴任した父兼忠の下を陸奥国で活動する子の維茂が訪問した 時 の 出 来 事 を 記 し て い る。 兼 忠 の 任 官 時 期 は 不 明 と さ れ て き た が、 ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ 四 〇 八 号 長 保 三 年︵ 一 〇 〇 一 ︶ 四 月 八 日 山 城 国 禅 定 寺 田畠流記帳︵禅定寺文書︶に綴喜郡田原郷字山田の杣山︵墾田・家 地あり︶は﹁上総守藤兼忠朝臣売﹂とあるのは、当該期に藤原兼忠 桓武天皇――葛原親王――高見王――高望王――― ――――――――――――――――――――――― ―国香――貞盛#――維叙――――――永成(盛)# ―維将――――――《維時》―直方 ―《維時》 ―維衡―――――――正度―正衡―正盛―――忠盛――清盛 ― ―《維茂(維良)》#――繁貞(滋定) ―繁成―貞成―永基――永家 ―繁盛――兼忠――――――《維茂(維良)》# ―長成 ―惟基(維幹)…大掾氏 ―助国――助永 ―良持(将)# ―将門 ―助職(長茂) ―良文――忠頼――将恒…畠山・秩父氏 ―忠光 ―忠恒(常)…千葉・上総氏 ―忠通(貞通)…三浦・鎌倉・大庭氏 図1 桓武平氏略系図 (備考)《 》は養子関係になった者を示す。人名の右肩の「#」は鎮守府将軍就任者。

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と い う 人 物 は 知 ら れ な い こ と、 禅 定 寺 文 書 の 異 本 に﹁ 藤 ﹂ を﹁ 平 ヵ﹂とするものがあることなどにより、これは平兼忠を示すものに 他ならないことが指摘されてい る ︶6 ︵ 。とすると、第四話はこの長保三 年前後の話ということになる。 一方、第五話は、 実方中将ト云人陸奥守ニ成テ、其ノ国ニ下ダリケルヲ、其ノ人 ハ止事無キ公達ナレバ、国ノ内ノ可然キ兵共、皆前々ノ守ニモ 不 似、 此 ノ 守 ヲ 饗 応 シ テ、 夜 ル 昼 ル 館 ノ 宮 仕 怠 ル 事 無 カ リ ケ リ。 とあるので、長徳元年︵九九五︶正月任で、同四年十一月に任中 で死去した藤原実方が陸奥守であった頃の話である。したがって時 代順では第五話、第四話となり、上掲の如くに第四話では維茂は既 に 陸 奥 国 に 定 着 し て い た と 描 か れ て い る か ら、 そ れ と も 符 合 す る。 ただ、第四話には維茂の郎等のあり方が記されているので、分析の 順序としてまず第四話から検討することにしたい。 第 四 話 で は 維 茂 に は﹁ 郎 等 ノ 宗 ト 有 ル 者 共 四 五 人 計 調 度 ヲ 負 ヒ、 前 ノ 庭 ニ 居 並 タ リ ﹂ と あ り、 郎 等 が 随 行 し て い た こ と が 知 ら れ る。 そ の 中 に﹁ 第 一 ニ 居 タ ル 者 ハ 字 ヲ バ 太 郎 介 ト 云。 年 五 十 余 計 ノ 男 ノ、 大 キ ニ 太 リ テ 鬚 長 ク、 ク 怖 シ 気 也。 現 ニ 吉 キ 兵 カ ナ ト 見 タ リ﹂という者がいた。維茂一行が到着した時、兼忠は﹁風発テ、外 ニハ不出シテ簾ノ内ニ寄ニ臥シテ、入シ立テ仕フ小侍男ヲ以テ、腰 ヲ叩カセテ臥タル﹂という状況であったという。兼忠は小侍男に太 郎 介 を 知 っ て い る か と 尋 ね、 こ の 年 少 の 者 が 知 ら な い 旨 を 答 え る と、 ﹁ 汝 ガ 父 先 年 ニ 殺 テ シ 者 ノ ゾ ﹂ と、 小 侍 男 の 父 の 敵 で あ る と 教 えている。 太郎介らは維茂が食事を終え、寝室として用意された部屋に行く のを送り届けた後、自分達の宿所で休息することになる。彼らには ま た そ れ ぞ れ に 郎 等 が お り、 ﹁ 傍 ニ 弓・ 胡 録・ 鎧・ 甲 有 リ。 庭 ニ 郎 等共、調度ヲ負テ、所々ニ立廻ツ々主ヲ守ル﹂という状況で、重層 的な主従関係が形成されていたことがわか る ︶7 ︵ 。今回の維茂の上総国 訪問は最低限の随員であったと思われ、巻十六第二十話﹁従鎮西上 人、依観音助遁賊難持命語﹂の大宰大弐の子息で﹁武勇ノ家ニ非ズ ト云ヘドモ、力ナド有テ極テ猛カリケル﹂という者が上京した時の 郎 等 二 十 人 程、 巻 二 十 三 第 十 四 話﹁ 左 衛 門 尉 平 致 経、 送 明 尊 僧 正 語﹂で、藤原頼通の命により夜間に急に護衛を行った際に三十余人 の郎等を駆使した例、また巻十九第四話﹁摂津守源満仲出家語﹂に ﹁ 年 来 仕 ケ ル 親 シ キ 郎 等 五 十 余 人、 同 時 ニ 出 家 シ ツ ﹂ と あ る こ と な どを参照すると、数十人規模の中核的兵力を従えたものと推定され る ︶8 ︵ 。 第四話では太郎介周辺の厳重な警備の中、小侍男が父の仇討ちを 果 す 展 開 に な っ て い る。 太 郎 介 を 殺 害 さ れ た 維 茂 は、 ﹁ 抑 モ 此 ノ 介 ハ一トセ人殺テシ者ゾカシ。其ノ被殺ニシ者ノ子ナム小侍ニテ守殿 ニ有ナル。然様ノ者ノ殺シタルニコソ有ヌレ﹂ 、﹁一トセ慮外馬咎メ ニ射殺シ候ヒシ男ノ子ノ小男コソ殿ニ候フナレ。定メテ其レガ為態

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ニ コ ソ 候 フ メ レ ﹂ と、 事 件 の 背 景 と 下 手 人 を す ぐ に 思 い 付 い て お り、父兼忠に犯人引き渡しを申し入れるが、この出来事は両者の間 で蟠りになっていたらしく、兼忠はもし兼忠が殺害されて、維茂の 郎 等 が 仇 討 ち を し た ら ど う 思 う か、 ﹁ 祖 ノ 敵 ヲ 罰 ヲ バ 天 道 許 シ 給 フ 事ニハ非ズヤ﹂と告げ、維茂も納得せざるを得なかったという。ち なみに、この小侍男は程無く病死している。 兼忠と維茂は久しく相会していなかったようであり、父が殺害さ れた時、小侍男は﹁未幼カリシ﹂であったと記されているので、そ の殺害事件はしばらく前の出来事であったと思われる。京内でも貴 族の邸宅の前を断りなく、あるいは騎馬などで通過すると、紛擾に な る 例 が 散 見 し て お り、 ﹁ 馬 咎 メ ﹂ と は 乗 馬 の ま ま 前 を 通 る 無 礼 の ことで、些細な事が紛争・殺人につながるのである。巻二十五第十 話﹁依頼信言平貞道、切人頭語﹂では、源頼光の郎等であった平貞 道 が、 酒 の 席 で 頼 光 の 弟 頼 信 に﹁ 駿 河 国 ニ 有 ル[   ] ト 云 フ 者 ノ、 頼 信 ガ 為 ニ 無 礼 ヲ 至 ス。 シ ヤ 頸 取 テ 得 サ セ ヨ ﹂ と 命 じ ら れ た 時、 ﹁ 其 御 弟 ニ 御 座 レ バ、 現 ニ 一 家 ノ 主 也 ト ハ 云 ヘ ド モ、 未 ダ 参 リ 仕 リ ナアドハ不為﹂ 、﹁此様ノ事ハ、我レヲ宗ト憑ム人ニコソ云ヘ﹂と思 い、明確な返事をしなかったが、その後に要事で東国に下向する際 に、 駿 河 国 で そ の 男 に 会 し、 ﹁ 己 等 許 成 ヌ ル 者 ヲ バ、 心 ニ 仕 セ テ 為 得給ハムズカハ﹂などと無礼な言辞を投げかけられたので、使命を 思い出して殺害するという顚末が描かれており、太郎介にしても主 人に対する無礼を看過し難いところであったのであろう。 以上、第四話では維茂の郎等集団の様相を瞥見したが、彼らの陸 奥 国 で の 活 躍 ぶ り、 ま た 維 茂 と の 関 係 形 成 の 端 緒 は 如 何 で あ ろ う か。第五話によると、維茂は陸奥国において藤原秀郷の孫諸任、字 を 沢 股 四 郎 と 称 す る 者 と 争 っ て お り、 ﹁ 此 ノ 二 人 墓 無 キ 田 畠 ノ 事 ヲ 諍テ、各道理ヲ立テ、守ニ訴ケルヲ、何レモ理也ケルニ、亦二人乍 ラ国ノ可然キ者ニテ有レバ、守否定メ不切シテ有ケル程ニ、守三年 ト云ニ失ニケレバ﹂とあって、さすがの藤原実方もこの二人の争い に裁定を下すことができないままに過ごし、任中の長徳四年十一月 に死去し て し まった と あ る。実方の後任の陸奥守は し ば ら く不明で、 ﹃ 権 記 ﹄ 寛 弘 元 年︵ 一 〇 〇 四 ︶ 三 月 七 日 条 に 見 え る 橘 道 貞 は 諸 国 申 請雑事を申上しているので、この年が任初と目される︵その後は寛 弘六年に藤原済家、長和三年に藤原貞仲、寛仁三年に橘則光、万寿 三年に平孝義と続く ︶ ︶9 ︵ 。 第五話では十月一日前後と言うから、実方の死の翌年頃、次の守 の赴任前か任中かは不明であるが、維茂と諸任は互いに牒を交わし て合戦による決着を図る仕儀になる。維茂方は兵三千人、諸任方は 千余人の兵力であったといい、諸任は不利を察知して常陸国に逃走 したという風聞があり、維茂方は﹁集タリケル兵共モ暫クコソ巻ケ レ、遙ニ久ク成ヌレバ、各、 ﹃要事有﹄ナド云テ、皆本国ニ返リヌ﹂ と散会してしまう。維茂方では沢股君︵諸任︶は﹁常陸・下野ナド ニ通テ有ラム﹂と、油断していたところ、丑時頃に﹁軍真黒ニ打散 テ四五町計ニ見ヘ候ツ﹂と、諸任は維茂に夜襲をかける。維茂方は

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家内に二十人程しかいなく、妻・女房や小児は後ろの山に隠遁した といい、まだ小児であった左衛門大夫滋定︵繁貞︶もこの中に含ま れていた。 諸 任 側 は﹁ 屋 共 ニ 火 ヲ 付 テ 焼 キ 掃 フ ﹂、 ﹁ 一 人 ト シ テ 逃 ス 者 無 ク、 皆家ニ籠テ、或ハ射殺シ或ハ焼殺シツ。火消ヘ畢ヌレバ、皆打入テ 見 ル ニ、 焼 ケ 死 タ ル 者、 上 下 男 子・ 児 共 ナ ド 取 リ 合 テ 八 十 余 人 也 ﹂ という攻撃ぶりで、諸任の郎等も二十∼三十人が射殺されたとある ので、かなりの激戦であったと思われるが、ともかくも維茂を焼死 させたものとして引き上げることになる。ここで諸任は妻の兄の大 君 と い う 人 物 の 所 に 立 ち 寄 る。 大 君 は 能 登 守 □︵ 橘 か ︶ 惟 通 の 子 で、 ﹁ 長 武 者 ニ テ 心 恥 カ シ ク 心 俸 テ 有 ケ レ バ、 身 ニ 敵 モ 無 ク、 万 人 ニ被請テナム有ケル﹂と描かれており、陸奥国で一目も二目も置か れる存在であったようである。諸任は﹁軍共物食セ、酒飲セテ﹂と 考えて到来したのであるが、大君は﹁其ノ余五ガ頭ハ慥ニ取テ、鞍 ノ鳥付ニ結付給ヘリヤ﹂と詰問し、諸任がそのような措置・確認を していない旨を答えると、大君は維茂の生存の可能性に留意すべき ことを伝え、中立の立場を示すためか、諸任を館内に入れず、酒食 を与えて追却するという態度をとっている。 諸任は﹁哀レ、賢ク坐スル翁共カナ﹂と嘲笑し、五∼六十町程進 んで、西に小川が流れる野岳に至り、ここで酒食を摂り、臥寝して し ま う。 維 茂 は 生 存 し て お り、 生 き 残 っ た 郎 等 た ち を 集 め、 ﹁ 彼 レ ハ勢多クシテ軍四五百人許有ケリ。此方ハ僅ニ五六十人許ニコソ侍 メレ。其レヲ以テハ忽ニ何ダセサセ給ハムト為ルカ。然レバ、後ノ 日ヲ以テ軍ヲ集メテ、何ニモ戦ヒ可給也﹂という慎重論を退け、諸 任側の油断を推量して、追撃に出ることを主張する。維茂が諸任を 追走するには大君の家の前を通過せねばならないが、大君は防禦を 固めるものの、維茂を制止することはなく、諸任の敗死を予見する のみであった。維茂方は﹁軍ノ員ヲ計フルバ、馬ノ兵七十余人、歩 兵三十余人、合セテ百余人ゾ集レル。此レハ家近キ者共ノ疾ク聞テ 馳セ集レルナルベシ。家遠キ者共ハ未聞ネバ、遅ク来ナルベシ﹂と あり、遠近に居住する郎等が集結して、百人程の中核的兵力を動員 することができている。 維 茂 は 諸 任 を 急 襲 し、 ﹁ 射 取 テ 頸 ヲ 切 ツ ﹂ と 勝 利 を 納 め、 さ ら に 諸任の家を攻撃、 ﹁屋共ニ火皆付テ、 ﹃凡ソ女ヲバ、上下、手ヲ不懸 ソ。男ト云ハム者ヲバ、見ヱムニ随テ射臥セヨ﹄ト云ケレバ、片端 ヨリ皆射殺シツ。其中ニ不意ニ逃ル者モ有ケリ﹂という結末になっ た。上述のように、諸任の妻は大君の妹であり、維茂は﹁人ヲ入レ テ、沢股ガ妻ヲバ女房一人ヲ具シテ引出テ、馬ニ乗セテ、市女笠ヲ 着セテ、現ニモ不見セズ、女房ヲモ同様ニシテ、余五ガ馬ニ傍ニ立 テ﹂と保護し、大君の家に立ち寄り、門前で﹁自ハ否参入ラ。沢股 ノ君ノ妻ニハイササカニ恥モ不見セ。此ク御妹ニ御座ヌレバ、其レ ニ 憚 リ 申 シ 慥 ニ 将 奉 タ ル 也 ﹂ と 告 げ た と い い、 大 君 に 敬 意 を 示 し、 関 係 確 立 に 努 め て い る。 以 上 が 第 五 話 の 概 要 で、 ﹁ 其 ヨ リ 後 ナ ム 此 ノ維茂ハ東八ケ国ニ名ヲ挙テ、弥ヨ並ビ無キ兵ニ被ケル。其ノ子左

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衛 門 大 夫 滋 定 ガ 子 孫、 公 ニ 仕 テ、 于 今 有 ト ナ ム 語 リ 伝 ヘ タ ル ト ヤ ﹂ と結ばれるところである。 まずは武力のあり方を検討したい。維茂は三千人を動員したと記 されているが、これは国衙軍制の構造を示す史料として注目される ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 二 十 五 第 九 話﹁ 源 頼 信 朝 臣、 責 平 忠 恒 語 ﹂ に 描 か れた常陸介源頼信の館ノ者・国ノ兵共計二千人に対して、左衛門大 夫平惟基︵維幹︶の三千騎と等しい数である。ともに繁盛流で、兼 忠︱維茂も常陸国に拠点を有していた可能性があり、あるいは同様 の 形 で 兵 力 を 糾 合 す る こ と が で き た の か も し れ な い。 ﹃ 将 門 記 ﹄ で は承平六年七月二十六日の下毛野国之堺での合戦の際に下総介平良 兼が千余人、同七年九月十九日の常陸国真壁郡服織之宿での合戦で 将門が千八百余人を率いたとあり、一国で勢威を振るう段階では千 人程度の兵力引率が可能であったと考えられる。新皇として坂東諸 国を席捲した将門が一旦﹁諸国兵士﹂を返した時は、 ﹁僅所 レ遺之兵 不 レ千人﹂とあり︵天慶三年二月一日前後︶ 、やはりこの千人程 度が将門の基本的な動員可能兵力であったと解されよ う ︶₁₀ ︵ 。新皇段階 で は 五 千 人、 常 陸 国 司 藤 原 維 幾 が 徴 発 し た 常 陸 国 の 国 軍 が 三 千 人 ︵天慶二年十一月二十一日条︶ 、下野国押領使として藤原秀郷が動員 した兵力が四千人︵天慶三年二月一日条の前︶と見えており、諸任 の 千 人 余 が 基 本 的 な 兵 力 に 近 似 し、 維 茂 の 三 千 人 は、 後 に﹁ 本 国 ﹂ に散会したとあるので、坂東からの動員をふまえたものではないか と思われる。 一 方、 維 茂 の 中 核 的 兵 力 は 百 人 程 で、 こ れ は 将 門 ら と 同 様 で あ る。 彼 ら は 維 茂 の 家 の 近 辺、 ま た や や 遠 所 に 居 住 し て お り、 ﹃ 将 門 記﹄ではこうした従類が核となり、さらに周辺に居住する伴類と呼 ばれる人々を動員する構造になっていた。戦闘は相手の拠点を殲滅 す る こ と を 目 的 と し て し て お り、 ﹃ 将 門 記 ﹄ を 要 約 し た﹃ 今 昔 物 語 集﹄巻二十五第一話﹁平将門、発謀反被誅語﹂には﹁父故良持ガ田 畠ノ諍ニ依テ、遂ニ合戦ニ及﹂とあり、第五話でも﹁墓無キ田畠ノ 事ヲ諍テ﹂とあるが、土地の争奪よりも、人的結合に打撃を与える こ と が 主 眼 と な っ て い る。 ま た 第 三 話﹁ 源 充・ 平 良 文 合 戦 語 ﹂ で は、 ﹁ 二 人 ガ 云 事 ヲ 互 ニ 中 言 為 ル 郎 等 有 テ ﹂、 ﹁ 人 ノ 云 ヒ 腹 立 テ 合 ス レバ、共ニ大キニ嗔ヲ成シテ﹂と記され、互いの直接的な争いとい うよりも、中間に存する郎等同士の対立などが事を大きくする要因 で あ っ た と 描 か れ て お り、 こ の 第 五 話 で も、 ﹁ 其 後 共 ニ 愁 ノ 憤 リ 不 止シテ、互ニ不安ラ思テ有ル程ニ、各此ノ事ヲ便無キ様ニ中言スル 者共有テ、不吉様ニ聞セケレバ、本ノ極リ中吉カリケル者共ノ只悪 ニ悪ク成ヌ﹂とあって、やはり同様の構図で合戦に至ったようであ る。 ﹃ 将 門 記 ﹄ 天 慶 三 年 正 月 中 旬 の 将 門 に よ る 平 貞 盛・ 藤 原 為 憲︵ 常 陸国司維幾の子で、貞盛のいとこ︶追討では、貞盛らは取り逃がし た が、 貞 盛 と 源 扶 の 妻 を 捕 獲 し て お り、 こ の 時、 ﹁ 陣 頭 多 治 経 明・ 坂上遂高之中、追領 二彼女。新皇聴此事、為女人、雖勅命、々々以前、為夫兵等悉被虜領也。就中貞盛之妾、被

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…桓武天皇―葛原親王―高見王―高望王――国香――貞盛――維叙―永成(盛) =維茂 ―繁盛――兼忠―維茂 ―良将――将門 …魚名―――藤成―――豊澤――村雄――秀郷――○――諸任 …嶋田麿――真材―――峯範――広相――公材―好古――繁政――則光* ―則隆* ―行平 ―輔政――惟通――好則――致範 ―女子 ―女子 ―長谷雄――海雄――茂枝――佐臣―仲任――道貞* 図2 維茂、諸任、大君の系譜的比較 (備考)「=」は養子関係を示す。人名の右肩の「*」は陸奥守就任者。 秀郷#――千晴 ―千方# ―千常#――文脩#― ―――――――――――― 〔信夫佐藤氏〕 (佐藤庄司) ―公行――師清――師文――師則――師信――師治――元治 〔佐藤〕 ―文行――公行――公光――公清――季清――康清――義清(西行) ― ―正頼――経清――清衡――基衡――秀衡――泰衡 ―兼光#――頼行#――兼行――師種 ―兼助 ―成行――成綱――家綱――俊綱〔足利〕 ―行高――行政――行光――政光――朝政〔小山〕 図3 秀郷流藤原氏の略系図 (備考)『尊卑分脈』を中心に作成。信夫佐藤氏の系図は『伊勢佐藤系図』を参照。人名の右肩の「#」は鎮 守府将軍就任者。

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剥取 一形、更无為方矣﹂となったといい、以下やや文学的な叙 述が続くが、女性は暴行の対象となっている。それ故に、維茂は大 君 の 妹 で あ る 諸 任 の 妻 を 庇 護 す る こ と に 意 を 払 っ て い た の で あ る。 大君は﹁喜テ門ヲ開テ、妹ノ君ノ女房ヲ受取テ、給ハリヌル由ヲ云 ヒ出シタレバ、使ハ返ヌ﹂とあり、これにより戦後の大君との関係 構築が可能になるものと思われる。 ところで、当初、諸任は常陸あるいは下野に逃去したのではない かと描かれている。維茂と諸任の合戦の舞台が陸奥国のどのあたり であったのかは不明であるが、彼らが元来は坂東から進出してきて おり、諸任に関しては秀郷流藤原氏の拠点である下野、また繁盛流 の本拠地の常陸にも何らかの拠点を有していたことが窺われ、維茂 も第四話では時に坂東に往還していることを考慮すると、陸奥国で も坂東に近接した南部の地域が想定されてくる。諸任の沢股四郎と いう呼称との関連では、福島市に北沢又・南沢又があり、ここは信 夫郡域で、後代にはやはり秀郷流藤原氏で、奥州藤原氏の有力な郎 等・姻族となる信夫佐藤氏が勢力を確立する地となる。したがって 維茂と諸任の争いも、この南奥の地での合戦の一齣であったと目さ れよう。 なお、維茂、諸任、大君︵橘好則︶の系譜上の位置関係を比較す ると、第五話で秀郷の孫とある諸任は概ね維茂と同世代の人物と見 る こ と が で き る。 但 し、 ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ で は 秀 郷 の 六 代 孫 に 師 種 が お り、 ﹁澤股、余五将軍敵人﹂ ︵二︱四〇五頁︶とあるが、世代的には 合 わ ず、 秀 郷 流 藤 原 氏 の 系 図 復 原 に は 色 々 と 問 題 が あ る と 思 わ れ る。また大君は﹃橘氏系図﹄ ︵﹃群書類従﹄五︶には惟通の子に﹁好 則︿ 陸 奥 住 人、 従 五 下 / 大 君 ト 云 フ ﹀﹂ と あ り、 そ の 子 致 範 は 従 五 下・越中守、女子は﹁秀郷孫諸任室﹂と記されており、この点は妹 と す る 第 五 話 と 齟 齬 し、 図 2で は 両 案 を 併 記 し て 示 し た。 さ ら に 妹・ 女 子 い ず れ に し て も、 諸 任 と 大 君 の 関 係、 大 君 は﹁ 長 武 者 ﹂・ ﹁翁﹂と記されていることから考えて、諸任や維茂よりは年齢が上、 または世代も上と目されるが、橘氏の系図の世代では諸任・維茂よ りも代数が下になり、橘氏の人々が若年のうちに次々と世代交代し ないと、系譜上の位置が合わなくなるので、これも検討課題とせね ばならない。 ちなみに、橘氏のこの前後の人々には陸奥守の経歴を有する者が 散見し、大君=橘好則が陸奥国で活動する前提として、こうした同 族 の 任 官 に 伴 う 下 向・ 随 従 と い う 契 機 が 推 定 さ れ る と こ ろ と な る。 この点は維茂の陸奥国進出の要因を検討する上で留意し、後述する ことにしたい。また諸任に勝利した維茂は陸奥国での勢威をさらに 高めたものと思われ、上述の第四話では太郎介という者を郎等にし て い た こ と が 知 ら れ る。 ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 二 十 六 第 五 話﹁ 陸 奥 国 府 官大夫介子語﹂には、 ﹁陸奥ノ国ニ勢徳有ル者、兄弟有ケリ。兄ハ、 弟ヨリハ何事モ事ノ外ニ増テゾ有ケル。国ノ介ニテ政ヲ取行ヒケレ バ、国ノ庁チニ常ニ有テ、家ニ居タル事ハ希ニゾ有ケル。家ハ、館 ヨリ百町許去テゾ有ケル、字ヲバ大夫ノ介トナン云ケル﹂と描かれ

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る在庁官人の上首者の様子が窺われるが、こうした人物ともつなが りを築いていくのではないかと考えられる。

平維良の乱

次 に 平 維 茂 = 維 良 の 動 向 が 知 ら れ る の が、 長 和 五 年︵ 一 〇 〇 三 ︶ に 下 総 国 で 勃 発 し た 平 維 良 の 乱 で あ る。 前 章 冒 頭 で 触 れ た よ う に、 長和三年には維茂の実父兼忠が上総介として在任しており、第四話 には陸奥国から郎等を率いて上総国に到来する維茂の姿が描かれて いる。第四話では郎等間の敵討ちの紛擾があり、維茂は程なく陸奥 国に戻ったように記されているが、平維良は﹃平安遺文﹄四三九号 寛弘二年︵一〇〇五︶四月十四日条事定文 写 ︶₁₁ ︵ に見える上野介橘忠範 の 申 請 雑 事 中 の﹁ 一 請 兼 被 レ 符 一 停 下 隣 国 々 司 并 隨 兵 郎 等、 恣越来残 中滅所部事﹂という行為に関連するものであり、兼忠も上 総介在任の中での、維茂の坂東における活動の一端を示すものと位 置づけられる所以であ る ︶₁₂ ︵ 。 a﹃小記目録﹄第十七長保五年︵一〇〇三︶正月十六日条 同五年正月十六日、下総・武蔵両国司、依 二維良兵乱、言上解状 一 事。 b︱1﹃小記目録﹄第十七長保五年二月八日条 同年二月八日、被 レ討平維良使事。 b︱2﹃百錬抄﹄長保五年二月八日条 諸卿定申下総守義行言上平佐︵維︶良焼 二亡府館虜官物事。 c﹃権記﹄長保五年二月二十八日条 ︵ 上 略 ︶ 又 被 レ 佐 宮 申 請 及 上 □︹ 総 ヵ︺ 国 司 解 文・ □︵ 前 ヵ︶ 司著信等申文 一 d﹃権記﹄長保五年四月二十三日条 ︵上略︶又参 二左府、奉越後守為文申押領使・惟風著任後追 二 捕平維良 一 上 。︵下略︶ e﹃権記﹄長和五年四月二十六日条 ︵ 上 略 ︶ 左 右 金 吾・ 弼 相 公・ 左 大 丞 候 二 御 前 一 有 二 韻 事 一 有 二 定 一 遠 江 □︹ 守 ︺ 惟 貞・ 下 総 守 為 重︹ 度 ヵ︺ 申 十 个 条、 上 総 前 々 [   ]︵ 司 著 信 ヵ︶ 申 曲 殿 等 事、 及 上 総 国・ 相 模 国 申 文、 下 総 国 申 文・日記等也。 ︵下略︶ f﹃小記目録﹄第十七長保五年五月三日条 同年五月三日、追 二捕平維良事。 g﹃小記目録﹄第十七長保五年五月五日条 同年同月五日、平維良焼 二下総国庁事。 h﹃権記﹄長保五年九月五日条 参 レ衙、 有 レ政。 参 内。 左 大 臣 被 レ 惟 風 朝 臣 言 上 平 維 良 所 レ 弁 定事 一。惟風言上之旨、専非官府︵符︶之意、先向事発所、弁 二 定理非 一言上。偏以義行等申状実、是非証拠。次 問 下 総 国 司 及 加 二 署 於 義 行 解 文 一 者 等 上 依 二 紕 繆 一 否 一。又受勘問者与使共不於日記。風︵凡ヵ︶又焼亡処

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之事実者、慥注 二其数及子細言上也。使解状者︵脱アルカ︶ i﹃小記目録﹄第十七長保五年九月八日条 同年九月八日、下総守義行并雑任等問注記事。 j﹃権記﹄寛弘元年︵一〇〇四︶三月七日条 ︵ 上 略 ︶ 被 レ 房 守 秀 俊 申 雑 事 六 个 条、 下 総 国 守 忠 能 申 五 个 条 一 ︵下略︶ 平 維 良 の 乱 が 起 き た の は 長 保 四 年︵ 一 〇 〇 二 ︶ 末 の こ と と 目 さ れ、 翌 五 年 正 月・ 二 月 に な っ て 朝 廷 に そ の 状 況 が 報 告 さ れ て い る。 b ︱ 2 に は﹁ 焼 二 府 館 一 ﹂、 g に は﹁ 焼 二 総 国 庁 一 と あ り、 下 総 国府を焼き打ちにするものであったことが知られ、そこには国司と の対立・国司を襲撃するという事柄が中心になっていたものと考え ら れ る。 当 時 の 下 総 国 守 は b ︱ 2・ h・ i に 登 場 す る 宮 道 義 行 で、 彼は﹃小右記﹄長保元年十二月二十七日条に下総守で、藤原実資に 絹・露草移などを送付したことが見え、その前年の﹃権記﹄長徳四 年二月二十三日条には藤原惟親が﹁下総功﹂により従五位上に叙せ ら れ た こ と が 記 さ れ て い る の で︵ ﹃ 本 朝 世 紀 ﹄ 長 保 元 年 三 月 十 六 日 条の東三条院への行幸では﹁召 二楽者﹂の中に見える︶ 、長保四 年は宮道義行の任終年と推定され、この事件は任終年における国司 の 苛 政 に 対 し て、 隣 国 で 活 動 す る 平 維 良︵ 維 茂 ︶ が 関 与 し た も の で、国司苛政上訴が国司襲撃事件に展開した出来事と位置づけるこ とができよ う ︶₁₃ ︵ 。 但し、平維良の乱の原因や国府焼き打ち以外の詳細は、主要な史 料 で あ る﹃ 小 右 記 ﹄ 本 文 が 欠 如 し、 ﹃ 小 記 目 録 ﹄ し か な く、 ﹃ 権 記 ﹄ ではh以外に具体的な記述に欠けることもあり、不明の部分が大き い。 ﹃ 将 門 記 ﹄ に お け る 平 将 門 の 武 蔵 国 や 常 陸 国 の 紛 擾 へ の 介 入 の ような行動によるのではないかと推測されるに留まる。またaには 下 総 国 司 か ら だ け で な く 武 蔵 国 司 か ら の 兵 乱 勃 発 の 言 上 が あ り、 d・hに平定に加わったことが見える藤原惟風は、時に武蔵守と目 さ れ、 ﹃ 御 堂 関 白 記 ﹄ 寛 弘 元 年 十 月 九 日 条 で は 藤 原 道 長 に 馬 一 疋 を 献 上 し て お り、 ﹃ 小 右 記 ﹄ 寛 弘 二 年 正 月 二 十 日 条 に は 坂 東 の 通 例 で ある二箇年分の済事により受領功過に合格している。ちなみに、上 掲 の 上 野 介 橘 忠 範 の 申 請 雑 事 に は﹁ 一 請 因 二 傍 例 一 賜 二 領 使 官 符於下野・武蔵・上総・下総・常陸等国 一、捕糺凶賊、兼賜随兵 廿人 一事﹂とあり、公卿らの裁定では﹁当国押領使及随兵等、任 例 一裁許歟﹂とあるので、坂東の国司は押領使を兼帯するこ とができた。 藤原惟風は北家長良卿孫で、長良︱国経︱忠幹︱文信︱惟風とい う 系 譜 で、 ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ に は﹁ 従 四 上 / 備 中・ 武 蔵 等 守 / 中 宮 亮 ﹂ とあり︵二︱一五二頁︶ 、﹃権記﹄長保二年︵一〇〇〇︶正月二十二 日条には﹁申 二受領等之中、新叙﹂として、検非違使分の中に惟風 が見え、ここで武蔵守になったのであろ う ︶₁₄ ︵ 。惟風は﹃小右記﹄寛和 元年︵九八五︶二月十三日条には時に右衛門尉で円融上皇の子日御 遊に御馬 龓 として登場し、永祚元年︵九八九︶正月十五日条の使宣 旨では文章生右衛門権少尉、長徳三年︵九九七︶五月十五日条の藤

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原 道 長 の 右 近 馬 場 で の 競 馬 で は 検 非 違 使 で、 出 馬 を 分 取 し た と あ る。 ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ に は﹁ 使 / 蔵 ﹂ と も 記 さ れ て い る の で、 文 章 生 か ら出身して右衛門尉・検非違使・蔵人を歴任したことが知られ、武 蔵守でありながら、平維良の追討に起用されたのは、武官の経歴・ 相応の武威があったためと考えられる。なお、その後の動向として は、 ﹃ 御 堂 関 白 記 ﹄ 寛 弘 五 年︵ 一 〇 〇 八 ︶ 十 月 十 七 日 条 で は、 時 に 散位で、敦成親王︵後一条天皇︶家の別当になっており、同七年三 月十三日条には時に備前守で、道長に任国下向の挨拶をし、馬一疋 を賜与されている。長和元年︵一〇一二︶四月二日条には道長から 唐鞍具を賜与され、長和二年九月十六日条では、三条天皇が道長の 土御門第に行幸した時、中宮亮︵中宮妍子は道長の女︶として従四 位 上 に 昇 叙 さ れ た こ と が 知 ら れ る。 ﹃ 小 右 記 ﹄ 長 和 四 年 四 月 五 日 条 には中宮の御乳母中務典侍︵藤原灑子︹高子︺ ︶に関連して、 ﹁故惟 風妻﹂と見えるので、この時には故人になっていた。 この惟風による追討に対しては、dに越後守源為文が追捕を停止 するように言上したことが知られ、維良=維茂は後代に越後を拠点 とする城氏の祖となることを勘案して、既にこの頃から越後とのつ ながりがあり、越後に逃走していたと考えられるのではないかと指 摘 さ れ て い る が、 本 稿 で は 新 説 に 従 っ て 史 料 の 読 み 方 を 改 め た の で、こ の よ う な想定は成り立た な く な る。こ の点は措く と し て、 ﹃玉 葉﹄治承五年︵一一八一=養和元︶七月一日条には、城助職が信濃 国 に 侵 攻 し て 木 曾 義 仲 に 敗 れ た 後、 ﹁ 本 国 在 庁 官 人 已 下、 為 レ宿 意 一 欲 レ 助 元 一 間、 欲 レ 藍 津 之 城 一 処、 秀 平 遣 二 従 一 欲 二押領。仍逃去佐渡国了﹂という行動が記されており、越後と 陸奥は会津を介して連絡可能であったか ら ︶₁₅ ︵ 、維良=維茂は陸奥を経 由して会津から越後に逃走したとも考えられなくはない。 さらにhでは、左大臣藤原道長が陣定において、惟風の言上は追 討 官 符 の 趣 旨 と 相 違 し て お り、 ま ず 事 発 所 で あ る 下 総 国 に 出 向 い て、事実関係を弁定した上で言上すべきであって、事件を報告した 宮道義行の申状を事実とするだけでは証拠にならないと叱責してい る。この陣定ではまた、上総国司と義行の提出した解文に加署した 者を尋問すれば、その誤りによって実否を知ることができるであろ うこと、勘問を受ける者︵義行側︶と追討に加わった惟風が一緒に 事件の報告書に署名すべきではないこと、下総国府が焼亡したこと が事実であれば、その被害数と子細を言上すべきであることなどが 指摘さ れ て お り、総じ て惟風や義行に は手厳し い内容に なって い る。 i に よ る と、 下 総 守 宮 道 義 行 と 雑 任 = 在 庁 官 人 が 勘 問 さ れ て お り、 朝廷は義行側に原因があると目途をつけていくようである。 以上を要するに、平維良の乱は維良=維茂に対する処罰は曖昧な ままに終わっており、むしろ下総守宮道義行や追討に加わった藤原 惟風らが藤原道長から責問される仕儀になっている。e・jには上 総国司、また義行の後任者である下総守藤原為度、さらに同年中の 八月十六日に下総守になった源忠能︵良︶から申文があったことが 知られるが、上総国司が維良=維茂の父兼忠であったか否かを含め

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て、その内容が不明であるため、維良の乱との関係がわからないの は残念である。 ち な み に、 d の 越 後 守 源 為 文 は、 ﹃ 御 堂 関 白 記 ﹄ 寛 弘 元 年 閏 九 月 十 六 日 条 に は 敦 康 親 王 に 小 馬 二 疋 を 献 上 し た こ と が 見 え る。 但 し、 彼はその後、寛弘六年二月には時に前越後守で、中宮彰子・敦成親 王・道長らを呪詛した法師円能の勘問により、高階光子らとともに 造意者とされる民部大輔源方理の妻源氏に父であったため、罪名を 勘申されており、円能は為文は厭符の事は知らなかったと証言した も の の、 明 法 勘 文 で は 八 虐 の 罪 に あ た る と 判 断 さ れ て い る︵ ﹃ 百 錬 抄 ﹄ 寛 弘 六 年 二 月 四 日 条、 ﹃ 政 事 要 略 ﹄ 巻 七 十 寛 弘 六 年 二 月 八 日 勘 文 な ど ︶。 為 文 は 除 名 に は な ら な か っ た よ う で あ る が、 d の 時 点 を 含めて、道長との関係は不詳とせねばならない。 宮 道 義 行 は﹃ 本 朝 文 粋 ﹄ 巻 六 長 徳 二 年 正 月 二 十 一 日 の 奏 状 で ﹁拝 二任安房・能登・淡路等国守闕﹂を求めた時、 ﹁天延元年︵九七 三︶候 二蔵人所、貞元元年︵九七六︶任木工允、当時造営、日夕 奔 営。 天 元 三 年︵ 九 八 〇 ︶ 遷 二 蔵 一丞、 永 観 二 年︵ 九 八 四 ︶ 適 預 二 栄 爵 一 と い う 経 歴 を 述 べ て お り、 こ の 時 は 国 司 へ の 転 身 は 叶 わ な かった が、上述の よ う に、そ の後に下総守に就任す る こ と が で き た。 彼は﹃小右記﹄に散見し、正暦元年︵九九〇︶十一月二十七日条で は実資が小野宮東家の造作に伴う犯土を避けるために義行宅に移居 している。長和二年︵一〇一三︶四月十六日条には十五日戌尅頃に 五十七歳で死去したことが知られ、 ﹁執 二行政所雑事之間、曾無 怠 一 也。 太 惜 之 ﹂ と 記 さ れ て い る の で、 小 野 宮 家 の 家 司 で あ っ た ことがわか る ︶₁₆ ︵ 。寛仁元年︵一〇一七︶九月一日条では宮道仲光が皇 后 宮 少 進 に 申 任 さ れ て お り、 ﹁ 故 義 行 朝 臣 仲 光 父。 従 二 冠 之 時 一 従 二余于尚。依昔志、今謹所申任也﹂と見え、治安三年︵一〇 二三︶八月二十八日条では義行の子で、長和二年八月五日条で家司 になっていた︵ ﹁故義行朝臣子。義行朝臣自 二昔日閇目、殊致 二 勤節 一。仍為彼職補也﹂とある︶式光を実資の女千古の 家司に任じており、実資はその子息たちにも配慮していたことが窺 わ れ る。 な お、 ﹃ 九 条 殿 記 ﹄ 天 暦 二 年︵ 九 四 八 ︶ 正 月 五 日 条 に は、 藤 原 師 輔 の 大 饗 に 際 し て、 ﹁ 左 大 臣 差 二 衛 門 尉 宮 道 忠 用 一 引 出 物 料 馬 一 疋 ﹂ と あ り、 藤 原 実 頼 の 使 者 を 務 め た 宮 道 氏 の 者 が 知 ら れ、 義行はこうした類縁によって小野宮家に仕えていたのではないかと も指摘されてい る ︶₁₇ ︵ 。 k﹃続左丞抄﹄寛和三年︵九八七︶正月二十四日官符 太政官符近江・美濃等国司。応 レ上延暦寺散位従五位下平朝 臣 繁 盛 奉 二 写 一 泥 大 般 若 経 一 部 六 百 巻 事。 右 得 二 寺 今 月 五 日 奏 状 一、繁盛去寛和二年十一月八日解状、謹検案内、奉公之勤、 古 今 未 レ倦、 至 二 老 後 一 猶 含 二 節 一 況 坂 東 大 乱 之 時、 故 秀 郷 朝 臣・貞盛朝臣、与 二繁盛等共竭筋骨、入万死一生、□天下 之騒動也。依 二其勲功、秀郷・貞盛各関恩賞、拝分憂職、繁盛 独漏 二朝恩、未夕膓。毎鴻涙之難 一レ 通、猶歎 二鳳徳之不 一レ 同、 涯 分 不 レ及、 方 寸 所 レ 也。 然 而 及 二 白 髪 之 時 一 偏 懐 二 道 之

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節 一 仍 奉 二 聖 朝 安 穏 鎮 護 国 家 一 以 二 泥 一 般 若 経 一 部 六 百巻 一、為丹誠、負之白馬、欲上天台。揚題名 間、 陸 奥 介 平 忠 頼・ 忠 光 等、 移 二 武 蔵 国 一 引 二 率 伴 類 一 運 上 之 際、可 レ事煩之由、普告隣国、連日不絶。件忠光等、依 レ 犯 明 白 一 奏 二 公 家 一 隨 即 可 二 捕 一 官 符、 被 レ 東 海・ 東 山 両 道 一也。 爰 諸 国 司 等 任 二 符 旨 一 欲 二 捕 一 間、 去 年 八 月 九 日 被 レ 下 下 止 一 官 符 上 因 レ 忠 光 等 暴 逆 弥 倍、 奸 謀 尤 甚。 為 レ 旧敵 一、欲此善根。爰一泣本願之徒止、一歎奉公之欲 一レ 廃。 繁 盛 従 二 若 時 一 奉 二 九 条 右 大 臣 一 独 戴 二 恩 一 尤 在 二 時 一矣。 望請政所恩裁被 レ聞公家、賜官符於路次国々、省途中之危 期 二 上 之 計 一者。 依 二 状 一 情 一 事 是 善 根、 為 レ 無 レ損、 為 レ 寺 有 レ 益。 望 請 蒙 二 天 裁 一 被 レ 賜 二 官 符 件 等 国 々 一 運 二 件 大 般 若 経 一 且 遂 二 盛 之 大 願 一 且 為 二 家 之 法 宝 一者。 正 三 位 行 権 中 納 言 藤 原 朝 臣 道 兼 宣、 奉   レ 勅、 宜 下 国 々 一 上 レ 件 経 一者。 国 宜 二承知依宣行 一レ 之。符到奉行。 ︵下略︶ こ の よ う な 累 代 の つ な が り と 言 え ば、 k に 記 さ れ て い る よ う に、 維良=維茂の祖父繁盛は藤原師輔に奉仕していたといい、hで師輔 の孫にあたる九条流の道長が小野宮流に仕える宮道義行を非難して いるのは、兼忠︱維良︵維茂︶も九条流と緊密な関係を維持してい たためではないかと考えられてくる。したがってa・b︱1・f・ g・iなど﹃小記目録﹄で藤原実資が維良の﹁乱﹂を記録している のは、小野宮家の家司宮道義行を庇護する意識が大きく、一方、九 条流の道長は事態を冷徹に判断し、むしろ﹁良識﹂を示したものと も評価し得るところである。 ところで、世代を越えた対立という点では、kの繁盛と良文流の 忠 頼・ 忠 光 と の 紛 擾 は、 以 後 の 坂 東 の 行 方 を 考 え る 上 で 重 要 に な る。維良=維茂は今回の事件により下総から退去せざるを得なくな った。将門の乱平定に良文がどのように関わったのかは不明の部分 も あ る が、 良 文 が 将 門 を 平 定 す る 側 に あ っ た こ と は ま ち が い な く ︶₁₈ ︵ 、 武蔵を拠点とする良文流と常陸を拠点とする繁盛流は上総・下総へ の 進 出 を め ぐ っ て 競 合 す る 関 係 に あ っ た よ う で あ る。 ﹃ 百 錬 抄 ﹄ 長 元元年︵一〇二八︶二月二十一日条には﹁諸卿定 下申追討前上総介 忠 常 一︿ 以 二 衛 門 尉 平 直 方 一 討 使 一 ﹀﹂ と あ り、 そ の 後、 両 総地域では良文流の平忠常が上総介に就任し、当地に勢力を扶植す る こ と に な る。 ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 二 十 五 第 九 話﹁ 源 頼 信 朝 臣、 責 平 忠恒語﹂は、寛弘五年︵一〇〇八︶∼七年頃と推定される常陸介源 頼 信 の 在 任 中 の 出 来 事 で ︶₁₉ ︵ 、﹁ 下 総 国 ニ 平 忠 恒 ト 云 兵 有 ケ リ。 私 ノ 勢 力極テ大キニシテ、上総・下総ヲ皆我マゝニ進退シテ、公事ニモ不 為 リ ケ リ。 亦、 常 陸 守 ノ 仰 ヌ ル 事 ヲ モ、 事 ニ 触 レ テ 忽 緒 ニ シ ケ リ ﹂ と描かれている。この出来事は頼信の率いる国衙軍に常陸国に居住 する左衛門大夫平惟基︵維幹︶の軍勢が加わり、忠常の討伐に向か うが、忠常は﹁守殿、止事無ク御座ス君也。須可参シト云ドモ、惟 基 ハ 先 祖 ノ 敵 也。 其 レ ガ 候 ハ ム 前 ニ 下 リ 跪 キ テ ナ ム 否 不 候 マ ジ キ ﹂ と抗戦姿勢を示し、 ﹁香取の海﹂ ︵霞ヶ浦︶を渡る船をすべて撤収さ

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せてしまったので、迂回すると七日もかかり、忠常を取り逃がすこ とになるところを、頼信の﹁家ノ伝ヘ﹂による知見から海中の道の 存在が明らかになり、忠常を急襲し、見事にその降服を得ることが できたという。 そして、長元元年に始まる平忠常の乱である。これは上総介県犬 養為政の任終年に勃発したもので、平維良の乱と同様の原因と目さ れ、為政は藤原実資の養子資頼︵兄懐平の子︶が伯耆守になった際 に、 初 度 庁 宣 を 清 書 す る な ど し て お り︵ ﹃ 小 右 記 ﹄ 治 安 元 年︹ 一 〇 二 一 ︺ 二 月 二 日・ 三 月 六 日 条 ︶、 奇 し く も 小 野 宮 流 と つ な が り の 深 い人物であった。忠常の乱の平定には当初追討使平直方を始め、周 辺国司にも貞盛流の人々が任用されており、kに記された良文流と 貞盛・繁盛流の対立に由来する要素も大きかったと考えられ る ︶₂₀ ︵ 。貞 盛流の直方はこの乱を平定することができず、結局のところ、甲斐 守源頼信が起用され、上述のかつての討伐・降服によるものか、頼 信が乗り出すと、すぐに平定が実現し、忠常は京上途中の美濃国で 死去、その首級は都に届けられたが、上総国でなお抗戦を続ける子 息らは許され、坂東南部では良文流が勢威を築き上げ、鎌倉幕府の 成立を迎えることになる。 以上を要するに、平維良の乱は当該地域の勢力関係、その後の歴 史の展開を左右するものであり、維良=維茂の活動には大いに注目 しなければならない。では、その後の維茂はどのような活躍の場を 見出していくのであろうか。

鎮守府将軍とその後

維良=維茂が再び史上に姿を現すのは、やはり陸奥国においてで ある。 l﹃小右記﹄長和三年︵一〇一四︶二月七日条 今日将軍維良自 二奥州参上。所左府之物、馬廿疋︿十二疋貢 レ 置 二調 鞍 一 今 二 疋 不 レ 置 レ鞍、 今 八 疋 貢 二 子 達 一 ﹀、 胡 禄︹ 籙 ︺・ 鷲 羽・砂金・絹・布等其数尤多。為 レ将軍任符、隨身数万物 二 蓮 府 一 道 路 成 レ 見 レ 之、 巨 万 云 々。 件 維 良 初 蒙 二 捕 官 符 一 不 レ 経 レ 関 二 爵 一 又 任 二 軍 一 財 貨 之 力 也。 外 土 狼 戻 輩 弥 濫 貯 二 宝 一、企官爵之計歟。悲代也々々々。 m﹃御堂関白記﹄長和四年十一月三日条 ︵上略︶将軍維能献 二馬十疋 n﹃御堂関白記﹄長和五年十一月六日条 入 夜 按 察 大 納 言・ 太 皇 大 后 宮 大 夫・ 他 上 卿 六 七 許 人 来 会、 歌 二 楽 歌 一。其小馬間、引出馬二疋志。是今朝将軍維良奉馬五疋内。 o︱1﹃御堂関白記﹄寛仁二年︵一〇一八︶八月十九日条 ︵上略︶又有 下陸奥守貞仲与将軍維吉申雑事之定云々。 o︱2﹃小記目録﹄第十七寛仁二年八月十九日条 被 レ陸奥国司并将軍合戦事 p﹃御堂関白記﹄寛仁二年八月二十九日条 ︵ 上 略 ︶ 此 日 有 二 定 一 々。 資 業 朝 臣 来 云、 摂 政 消 息、 可 レ

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推 問 使 一 諸 卿 定 申 云、 民 部 丞 藤 原   等 間 者、 為 輔 大 不 合 者、 不 レ 能 二遠行   宜歟。返事云、唯以 二然者遣、如此事余非定申 一 。︵下略︶ q﹃小記目録﹄第二十治安二年︵一〇二二︶四月十三日条 前将軍維良死去事。 まずlによると、平維良の乱にもかかわらず、維良は程なく五位 を授与されたことが知られる。そして、lにおける鎮守府将軍任用 である。表1によると、貞盛流の祖平貞盛には鎮守府将軍の経歴が あ り、 こ れ は﹃ 紀 略 ﹄ 天 暦 元 年︵ 九 四 七 ︶ 二 月 十 八 日 条 に、 ﹁ 右 大 臣 著 二 陽 殿 一 定 云、 鎮 守 府 将 軍 貞 盛 朝 臣 申、 使 並 茂、 為 二 坂 丸 等 一 被 二 殺 一 其 員 十 三 人。 件 坂 丸 等 徴 二 発 軍 士 一 為 レ 二 兵 粮 一 将 二 討 滅 一 々。 先 差 二 国 使 於 賊 地 一 可 レ 糺 一 由、 給 二 官 符 一 というもので、狄坂丸の蜂起に対処しようとしている。本件の結末 は不詳であるが、鎮守府将軍はこのような兵乱に対応し得る能力が 求められたところである。したがって表1のうちでは、光孝源氏の 源 信 孝︵ ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ 三 ︱ 三 七 四 頁 ︶ を 除 く と、 桓 武 平 氏 や 秀 郷 流 藤原氏、そして河内源氏の源頼義と、いずれも武者の家系の者が就 任している。特に貞盛以降では秀郷流藤原氏の独壇場であり、lで 維良の任用が見えるのは、第一章で検討した秀郷流の諸任との競合 に勝利したことをふまえて、久方ぶりに養父貞盛の後継となること ができたものと考えられる。 lでは維良は陸奥国から上京し、藤原道長に対して莫大な献上物 を奉納して、鎮守府将軍の任符発給に与ろうとしている。任符は外 官の正規の任用を証明するもので、これを任地の人々に示して、正 式の着任・政務の開始へとつながるものであっ た ︶₂₁ ︵ 。したがって維良 が鎮守府将軍として陸奥国で勢威を伸張するには不可欠のものであ り、将軍任用も道長への奉仕と庇護があってのものである。前章で 触れたように、この時点ではあの宮道義行は死去していたが、lに おける実資の記述ぶりは、なお維良を指弾する論調が強い。それ故 に と 言 う べ き か、 m・ n に は 維 良 の 道 長 へ の 奉 仕 ぶ り が 看 取 さ れ、 陸奥国の特産品である馬の献上に努めている様子が知られる。 こうした中で、o・pには陸奥守藤原貞仲と鎮守府将軍平維良と の紛擾が起きたことが記されている。貞仲は北家魚名流、山蔭の子 表1 鎮守府将軍の就任者 承平7(937):平良茂(将)(時に故人) 天慶3(940):藤原秀郷 天暦1(947):平貞盛《現》 康保2(965):源信孝《現》 天禄1(970):藤原千常 天元1(978):藤原千万 永延2(988):藤原文条(脩) 長保1(999):藤原兼光 長和3(1014):平維良《現》 寛仁2(1018):平永盛 治安2(1022):藤原頼行 天喜1(1053):源頼義 (備考)『国立歴史民俗博物館研究報告』84 (2000年)資料編「国司等補任表」を参照して 作成。「現」は所見年次、その他は任用年次を 示す。

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兼 三 ︱ 為 忠 ︱ 高 節 ︱ 貞 仲 と い う 系 譜 で︵ ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ 二 ︱ 二 九 五 頁 ︶、 ﹃ 御 堂 関 白 記 ﹄ に は 道 長 が 整 備 に 勤 し む 木 幡 浄 妙 寺 の﹁ 預 作 寺﹂として散見し︵寛弘元年二月二十八日、同二年九月二十九日・ 十 月 十 九 日 条 ︶、 法 華 三 十 講 で も﹁ 僧 等 送 二 下 文 一 ﹂ と 見 え て お り ︵ 寛 弘 七 年 五 月 二 十 日 条 ︶、 ﹃ 小 右 記 ﹄ 長 和 元 年 六 月 二 十 九 日 条 に 虹 が 立 つ 恠 異 が 起 き た 時、 ﹁ 相 二 左 府 一 人 々 宅 多 立 之 由 云 々﹂ と 記 され、その中には﹁貞仲朝臣宅﹂も挙げられていた。したがって貞 仲 は 道 長 と 緊 密 な 関 係 を 有 し て い た と 考 え ら れ、 陸 奥 守 就 任 後 に も、 ﹃ 御 堂 関 白 記 ﹄ 長 和 五 年︵ 一 〇 一 六 ︶ 十 月 二 十 二 日 条﹁ 陸 奥 守 貞 仲 貢 二 十 疋 一 ﹂、 寛 仁 元 年 十 二 月 三 日 条﹁ 又 貞 仲 貢 二 四 一 と あ り、奉仕に努めていたことがわかる。 今回の対立の原因と顚末は不明であるが、陸奥国の貢納品である 絹・馬・砂金のうち、馬・砂金は鎮守府が徴収を担当しており、維 良がこれらを国司に提供しなかったためではないかとする指摘がな さ れ て い る ︶₂₂ ︵ 。﹃ 小 右 記 ﹄ 長 元 四 年 二 月 二 十 三 日 条 に は﹁ 又 命 云、 陸 奥守貞仲時砂金以 二色代進済之由、去年除目以諸卿定申、満 正 任︹ 時 ヵ︺ 、 以 二 一 疋 一 金 一 両 一 済。 貞 仲 申 下 請 以 二 疋 一 充 二 両 一 由 上 法 令︹ 諸 卿 ヵ︺ 定 下 可 レ 許 一 依 レ レ 注 二定文、慥所覚者。報云、一疋倍満正例。就中雖 レ 進 二見金之責、難進納歟﹂ 、二十四日条﹁貞仲金代事、先日定趣 如 二下官陳﹂とあり、確かに貞仲は砂金の調達に苦しみ、色代の絹 による納入を申請せねばならなくなっている。 但し、貞仲は何とか代納によって責務を果して交替できたが、こ の件については維良は相手が悪かったようで、pでは道長は維良へ の 肩 入 れ は 放 擲 し て お り、 道 長 に よ り 緊 密 な 貞 仲 と の 対 立 に よ り、 維 良 は 鎮 守 府 将 軍 に 再 任 さ れ ず に 死 去 す る こ と に な る。 ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 二 十 五 第 九 話 に も 登 場 す る 滋 定︵ 繁 貞 ︶ は、 ﹁ 其 ノ 子 左 衛 門 大夫滋定ガ子孫、公ニ仕テ、于今有トナム語リ伝ヘタルトヤ﹂とあ るように、その子孫は衛門尉・国司などとして中央で活躍する道を とっている︵ ﹃尊卑分脈﹄四︱一五頁︶ 。維良=維茂は結局のところ 陸 奥 国 に 安 定 的 な 基 盤 を 築 く こ と は で き な か っ た の で あ る。 た だ、 繁貞には越後国での活動が知られ、維茂の三男の繁成は従五位下・ 出 羽 城 介 と あ り、 こ の 系 統 が 越 後 国 に 拠 点 を 確 保 し、 城 氏 と な り、 武士の家系につながることになる。 r︱1﹃春記﹄長暦二年︵一〇三八︶十二月十日条 ︵ 上 略 ︶ 仰 云、 左 衛 門 尉 平 繁 貞、 依 二 後 国 事 一 当、 于 レ 今 不 二 免 除 一 已 及 二 箇 年 一 今 年 過 畢 可 レ 年 一 此 事 太 無 レ便。 先 日 繁 貞 郎 頭、 付 二 国 司 一 可 二 捕 一 之 由、 給 二 宣 旨 一 其 宣 旨 請 文 進 上 哉。 隨 二彼請文状、可右繁貞事。其旨可東宮権大夫者。又仰 云、 検 非 違 使 一 度 召 問、 可 レ 旨 一 此 間 官 人 等 可 レ 之 由、可 レ別当者。予先参関白殿、申廷尉事、便行別当畢。 又 参 二 宮 権 大 夫 御 許 一 仰 二 貞 事 一 被 レ 云、 召 二 経 長 朝 臣 一 可 レ案内者。予帰蓬之。 r︱2﹃春記﹄長暦二年十二月十四日条

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︵ 上 略 ︶ 午 時 許 参 二 関 白 殿 一 伝 二 昨 日 綸 命 一︿ 関 白 今 明 日 御 物 忌 也 ﹀、 被 レ 申 云、 繁 貞 事 已 欲 レ 箇 年 一 又 彼 従 類 等、 国 司 可 二 捕 一 由、 被 レ 旨 一 已 畢。 至 レ 彼 国 自 承 知 歟。 又 已 及 二 末 一 殊 被 二 免 一 等 事 候 哉。 検 非 違 使︿ 一 日 別 当 以 レ 被 レ 也 ﹀ 等 所 二 陳 申 一 明 白 也。 又 或 将 来 免 給 何 等 事 候 哉。 ︵ 中 略 ︶ 深 更 退 出、 参 二 東宮権大夫御許 一。為繁貞免除事也。而早退出云々。 ︵下略︶ r︱3﹃春記﹄長暦二年十二月十五日条 ︵ 上 略 ︶ 予 即 退 出、 参 二 堂 一 相 二 師 房 卿 一 仰 二 貞 免 除 由 一畢。 ︵下略︶ s﹃ 朝野群載﹄巻十一廷尉・永久五年︵一一一七︶五月五日検非違 使庁下文 検非違使庁下   越後国住人平永基。応 レ早附使者、召進称 対馬守源義親 一法師等事。右、義親者、去嘉承年中、依已叛科 討 早 畢。 而 近 来 如 二 聞 一者、 浮 浪 法 師 一 人、 自 号 二 親 一 従 二 奥 国 一 越 二 当 境 一 後、 徘 二 永 基 之 所 一 々。 因 レ 可 二 進 一 由、 先 日 附 二 司 一 知 一 処、 初 申 下 進 一 状 上 後 称 下 得 一 之 旨 上 前 後 之 詞、 非 レ 无 二 相 違 一 奸 詐 之 甚、 何 以 如 レ之。 早 附 二使 者 一、可進正身之間、称死殺由、梟其首者、真偽難知歟。 尚 遁 二 於 左 右 一 致 二 引 一者、 永 基 参 洛、 使 者 共 可 レ 子 細 一 状 如 レ件。 依 二 別 当 宣 一 仰 如 レ件。 事 出 二 於 院 宣 一 不 レ 得 二 敢 延 怠 一 故下。 rによると、維茂の子繁貞は本人または郎等が起こした越後国で の何らかの出来事により勅勘を被っていたことが知られる。 ﹁已及 二 三 箇 年 一 と あ る の で、 事 発 は 長 元 九 年 四 月 の 後 朱 雀 天 皇 の 即 位 年 の頃であろうか。r︱1・2の東宮権大夫はr︱3の源師房で、彼 は長元八年十月二十六日までは左衛門督であったが、事発時には任 を去っており、左衛門府の職務を通じてのものではなく、繁貞と何 ら か の 関 係 に あ り、 ﹃ 春 記 ﹄ の 記 主 藤 原 資 房 が 繁 貞 の 勅 勘 免 除 に つ い て の 情 報 を 照 会 す べ き 立 場 に あ っ た の で は な い か と 考 え ら れ る。 師房は村上源氏、藤原頼通の猶子になっており、繁貞の家系がなお 摂関家本流とその周辺との間につながりを持っていたことが窺われ よ う︵ ﹃ 玉 葉 ﹄ 治 承 五 年 七 月 一 日 条 に﹁ 国 人 号 二 川 御 館 一 と 記 さ れ る 城 助 職 の 拠 点 で あ る 沼 垂 郡 白 河 庄 は 摂 関 家 領 で あ る ︶。 ま た 繁 貞が越後国の出来事に関わり、当国に郎等を扶植していたは、第二 章で触れたように、やはり父維茂の時代から活動の展開・拠点が存 したためであると解したい。 次にsでは繁成の孫永基に対して、源義親所称者の召進が命じら れている。 ﹃尊卑分脈﹄では繁茂の子貞成に﹁城太郎﹂ 、孫の永基に は﹁城二郎﹂の注記があり、十一世紀後半∼十二世紀前半頃に城氏 としての土着・勢力確立が看取されるところである。源義家の子義 親は鎮西での濫行により康和四年︵一一〇二︶に隠岐国へ配流にな ったが、脱出して出雲国で目代を殺害するなどの事件を起こしたた め、天仁元年︵一一〇八︶に伊勢平氏の平正盛が因幡守として平定 に あ た り、 首 級 入 京 が 大 々 的 に 行 わ れ て お り︵ ﹃ 中 右 記 ﹄ 天 仁 元 年

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正 月 十 九・ 二 十 三・ 二 十 九 日 条 な ど ︶、 院 の 武 力 と し て の 伊 勢 平 氏 の台頭を飾る出来事になった。しかし、sの頃から義親所称者が出 没、 生 存 説 が 囁 か れ た 始 め、 ﹃ 中 右 記 ﹄ 元 永 元 年︵ 一 一 一 八 ︶ 二 月 五日条には摂津源氏の下総守源仲正︵頼政の父︶が常陸国住人を搦 捕 し た こ と が 見 え、 ﹁ 件 犯 人 ハ 称 故 義 親 法 師 雇 置 宅 主 云 々。 仲 正 去 年 越 二 常 陸 国 一 捕 之 間、 賊 已 去 レ 也。 被 レ 人 一 処、 雇 二宿 義 親 一 太 無 実 之 由 申 云 々﹂ と い う 情 報 が 示 さ れ て い る。 常 陸 国 は 維 茂 と も つ な が る 大 掾 氏 の 拠 点 で、 源 頼 義 は 多 気 権 守 平 宗 基︵ 致 幹 ︶ の 女 を 娶 り、 女 子 が 誕 生 し て い た か ら︵ ﹃ 奥 州 後 三 年 記 ﹄︶ 、 義 親とも何らかのつながりがあり、身を潜める上で、常陸国、また繁 盛流との関係で維茂の子孫が居住する越後国などが流転の寓居とな っていたのかもしれな い ︶₂₃ ︵ 。 t﹃ 平安遺文﹄三三二八号長寛三年︵一一六五︶正月越後国司庁宣 写 ︵前欠︶右、件庄、金剛心院   勅免有 レ限、隨則鳥羽院庁御下文明鏡 也。 仍 不 レ 籠 一 処、 目 代 已 下 在 庁 官 人 等 □︹ 不 ヵ︺ 二 受 一 由、庄家所 二訴申也。事若実者、甚不穏便。自今以後同停止国 妨 一 但 於 二 波 河 一者、 有 レ 国 領 也。 就 レ 漁 鮭 為 二 色 済 物 一 庄 家不 レ妨。兼又城太郎助永濫行可停止。若猶符不制法 一 者、 召 二 其 身 一 可 レ 科 一也。 在 庁 官 人 等 宜 二 知、 依 レ 行 一レ 之。以宣。 ︵下略︶ ともかくも、維茂の子孫たちは城氏として越後国に一大拠点を築 くことができ、国司の干渉にも容易に応じないような勢威を誇るよ うになっていた。その後の城氏のあり方としては、tや前章で掲げ た﹃ 玉 葉 ﹄ 治 承 五 年 七 月 一 日 条 に、 信 濃 侵 攻 が 失 敗 し た 後、 ﹁ 本 国 在 庁 官 人 已 下、 為 レ宿 意 一 と あ る よ う に、 城 氏 は 国 衙 機 構 と 熾 烈な争いを繰り広げていたのではないかと思われる。また﹃平家物 語 ﹄ 巻 六﹁ 横 田 河 原 合 戦 ﹂ で は、 ﹁ 城 四 郎 長 茂、 木 曾 追 討 の 為 に、 越 後・ 出 羽・ 相 津 四 郡 の 兵 共 を 引 率 し て ﹂ と あ り、 城 助 職︵ 助 茂、 長 茂 ︶ は 会 津 に も 勢 威 を 有 し て い た こ と が 知 ら れ、 ﹁ 城 四 郎 が た の み き ッ た る 越 後 の 山 の 太 郎・ 相 津 の 乗 丹 房 な ン ど い ふ 聞 ゆ る 兵 共 ﹂ とある乗丹︵湛︶房は、会津恵日寺の衆徒頭で、助職の叔父だった という。とすると、城氏は越後国北部を拠点に、出羽方面や会津か ら南陸奥を窺い、奥州藤原氏と勢力を接するような支配地域を築き 上げていたことがわか る ︶₂₄ ︵ 。そこには維茂に始まる陸奥国や越後国で の活動が重要な起点となっているのである。

むすびにかえて

小 稿 で は 越 後 城 氏 の 祖 と な る 余 五 将 軍 平 維 茂 の 足 跡 を 検 討 し た。 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ 巻 六﹁ 廻 文 ﹂ に は、 木 曾 義 仲 を 評 し て﹁ あ り が た き 強 弓・ 勢 兵、 馬 の 上、 か ち だ ち、 す べ て 上 古 の 田 村・ 利 仁・ 与 五 将 軍・知頼・保昌、先祖頼光・義家朝臣といふ共、争か是にはまさる べき﹂とあり、鎮守府将軍や武者の代表的存在としての維茂像が窺

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