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アイルランドからアメリカへ--移民の歴史と経験 利用統計を見る

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全文

(1)

著者

佐藤 郁

著者別名

SATO Kaoru

雑誌名

国際地域学研究

5

ページ

71-80

発行年

2002-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003849/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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国際 地域 学研 究 第5 号2002 年3 月

アイルランド からアメリカへ

郁 * 71

移民の歴史 と経験

1997年 に出版 さ れたEllisIslandInterviews;InTheirOwnWords は1892年 から1954年 まで アメ リ カ合 衆国 の 移民入 国手 続 き所 とし て使 わ れた ニュ ーヨ ー ク港、 エ リ ス島 の移民 局 で働 い た6 名 の 人 たち 、そし て 移民 とし て そこ を通 過し た 約100名 へ のイ ン タビ ュー か ら構成 さ れて い る。閉鎖 さ れ て まもな く半世 紀 とな るた め、 エ リ ス島 の 生 き証人 は年 々 減 り、 生存 者 もみな高齢 化 し てい る。 出 版 から すで に5 年 が 経つ た め、 その 間 に亡 くなっ た方 もあ るだ ろう。 この数 十 年 は地 続 き のメ キ シ コ な どか らのヒ スパ ニ ッ ク系の 移民 が 急増 し、 移民 の7 割 が ニ ュー ヨ ー ク港 に到着 し た時代 は遠 い 過去 の こ とで ある が、現 在 で も合衆 国 の 約4 割 、数 にし て約1 億 人 の国 民 の祖 先が エ リ ス島 通 過者 で あ る と「 自由 の 女神 ・エ リ ス島財 団 」 は報 告 して い る。 本論 で は、5名 のア イル ランド 出 身 者 のイ ン タビュ ー を援 用し つ つ、エ リ ス島 の 歴史 と アイ ルラ ン ド からア メ リカ合 衆国 を目指 し た移民 たち の経 験 を概観 し て みた い。 1 。「涙の 島 」エ リ ス島 アメ リカ 合衆国 へ の移民 の統計 が とら れ始 めた の は1820年 であ る。 東 海岸 で はニ ュ ーヨ ー ク、 ボ スト ン、 西 海岸 で は サンフ ラ ンシ ス コへ の到 着者 が多 く、 特 に ニ ュー ヨ ーク はピ ー ク時 には全 体 の7 割 に達し た。1811年、 マン ハ ッタ ン島 の先 端 に建 て ら れ た キャ ッ スル ・ ク リント ン 要 塞 は、後 に キ ャ ッスル ・ガ ー デン の名で 娯 楽施 設 とし て使 わ れ、1855年 に は合 衆 国初 の移 民入 国手 続 き所 ( 移 民局 ) となっ た。 し かし 、 こ こ も増 え続 け る移民 に対 応し き れな くな り、 沖 の小島 エ リ ス島 に施 設 が建 設 さ れた。 正式 に 開所し た1892年1 月1 日、 第1 号 とし て こ の島 に降 り立 っ たの は アイ ルラ ン ド の コープ 港 を発っ てき たアニ ー・ ム ーア とい う 少女 だ っ た。 フ ラ ン ス人 男性 に先 を 譲 ら れ、 この15 歳 の少女 が 記念 の金貨 を贈呈 さ れ るこ とに なっ た。 彼 女 は すで に先 に ア メリ カに渡 っ てい た両 親 に 呼 ば れるか たち で、2 人 の弟 と と もに大 西 洋 を渡っ て きた のだ っ た。 こ の日 から1954年 の閉鎖 まで、ニ ュ ーヨ ーク に到着 し た移民 は約233万6 千人 、そ のう ちア イル ラ ン ド人 は約1,100万人 に のぼ る。 船 は 自由 の女 神 像(1886年 除 幕)を自 由 の国 ア メリカ の シン ボル と し て仰 ぎ見 る移民 を満 載し て 次々 とニ ュ ーヨ ー クの港 に入 っ て きた。 エ リ ス島 への上 陸者 数 は、 当 初1 日5 千 人 程度 だっ た が、 ピ ー ク時 の1907年 に は3 万 人 を超 えた。 その数字 は事務 的 にさ ば ける 限 界 の数 とい う 意味 で、沖 に はさ ら に着 船 を待 つ 船が停 泊し てい た とい う。 移民 局 は1954年 に閉 鎖 さ れ、 修復 を経 て1991年 に移 民博 物 館 とし て 公開 さ れた。 現 在 そこ に展示 され てい る当 時 の風刺 漫 ゛東 洋 大 学 国 際 地 域 学 部 ;FacultyofRegionalDevelopmentStudies,ToyoUniversity

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画(1906年4 月Iフ日付 けEveningf/orl/ 誌) は星 条旗 の デ ザイン の上 着 を着 た男性 と赤 ん坊 を 抱い た女 性 の や りとり を描 いて い る。 男 性 「 三 つ 子 だ な ん て 言 わな い で く れ よIf 」 女 性 「 三 つ 子 で す っ て'.4 万5 千 人 よ ! 」 赤 ん坊 のお く る みに は「今 週 の移民 到着 者」 と、 また 女性 (顔 は男 ) の服 の すそ に は「移 民 局 長官 ウ ォッ チ ホー ン」 と当時 の長 官 の名 がそ れぞ れ小さ く 書 かれて い る。移 民 船のI 等 船客 は船 上 で行 わ れ る簡 単 な審 査で たい て いの場 合 手 続 きが 済 み、エ リス島 に上 陸 す るこ とな くマ ンハ ッ タ ン に降 り立 っ た が、 移民 船 の乗 客 の多 く は2 等、3 等船室 の客 で あっ た。 サ ン フ ラン シ スコ湾 の エ ンジェ ル島 もエ リ ス島 と同 様 の機能 を もち、 また、 両 者 と も「涙 の島」 ("IslandofTears ”)と いう別 名 を与 えら れ ることに なっ た。1920年代 に は入 国 審査 は出 国 前 に 実 施 さ れる こ とが多 くな り、1924年以 降エ リ ス島 は主 に 違法 移民 の拘 留所 とし て使 わ れる よう に なっ た。 エ リ ス島 の記録 に よ る と、1892年 の 開所 か ら1924年 までの32 年間、 一 時拘 留者 は全体 の 約20% に の ぼっ た。 し かし、 その 大半 は1 日 か ら数 日の拘 留者 で あり、 最 終的 に母 国 に送 還 さ れた 者 は全 体 の約2 % に す ぎなかっ た。 し かし、32 年間 の延 べ数 に直 す と25万 人 とい う 数に な り、「 涙 の島 」と い う別 名 を与 え ら れた理 由 が理 解 で きる。 島 を通過 す るこ とを許 さ れ な かっ た理 由 は、 病 気、 経 済 状 況 、 身 元引 受人 が来 な い な どさ まざ まで あっ たが、 この間 、島 内 での 自殺 も3 千 件 を数 え た ので あ る。 2 。1 ア イル ラ ンド 系移 民18 世 紀 まで ア イル ラ ンド から北 米 への 移民 の 歴史 は古い。 ヨ ーロ ッパ で最 西端 に 位置 す るア イル ラ ンド で は 古 く から 「 ティ ル・ ナ・ ノ グ神話 」 とと もに海 の向 こう のア メ リカが 語 ら れて きた。 テ ィ ル・ ナ・ ノ グ と はそ こに 住 むもの が永 遠 に年 を とら ない常 若 の国 のこ とで あ る。12世 紀以 来 イ ギリ ス の圧 政 下 に置 か れ てい たア イル ランド で は、現 世 で の苦 し みをい っ と き忘 れん とし て、 至 福 の世 界 に思 い を はせ る こ と も少な くな かっ た ろう。 移民 が本 格化 し た18世 紀以 降、 ます ます現 実 の新世 界 と結 び つ け ら れる よう になっ た の も当然 で 、 その た めこの 伝説 は風 化 せず にア イ ルラ ンド人 の 心 に生 き続 け た ので あ る。映 画 『タ イ タニ ッ ク』(1998) で も、 脱出 をあ きら めた 母親 がテ ィ ル・ナ・ノ グ の話 をし なが ら幼 い子 供 らを 寝か せ つ け よう とす る場面 があ る。実際 タ イタ ニッ ク号 に は100人 を超 す ア イ ルラ ンド 移 民 が乗船 し てい た。 また、6世紀 の修道 士、聖 ブレ ンダ ン の伝説 も、コ ロ ンブ ス以 前 に ア メリ カに渡 っ た人 物 とし て ア イル ラ ンド の人々 が誇 り にし てい る もので あ る。 さ らに は、 コロ ンブ スが アメ リ カを発 見 し た際 、 同乗 し てい たア イル ランド 人 エ イ ヤ ース (記録 が残 って お り、事 実 と考 えら れてい る) も同様 で あ る。 こ の よう な 単発 的 な冒 険家 た ち と は別 に、長 期滞 在 の「移 民」 が始 まっ た のは、 イ ギリ スが 植 民 を 始 め た17世 紀 であっ た。 この世 紀 に渡 米 し たアイ ルラ ンド 人 は5 万 人 か ら10万 人 と推 定 さ れ てい

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佐藤: ア イル ランド か ら アメ リカヘー 移民 の 歴史 と経 験 73 る。 そ の大部 分 は年期 奉 公人 や 流刑 者で 、 イ ギリ スの植 民 地で タ バコ や サト ウ キビ の栽培 に従事 し たが 、年 期 が明 けた り、 刑期 を 終 える と、帰 国 する のが通 例 であ っ た。18 世紀 の移民 の大 部 分 は、 イギ リ スの 政 策に よ り前 の世 紀 に スコ ット ラ ンド か らア イル ラ ンド 北 部 に 移住さ せ ら れて きた スコ ッチ ・ ア イリ ッ シュ と呼 ば れるプ ロ テ スタ ント の人々 で あっ た。 ア イ ルラ ンド に渡 っ てなお 、 イ ギリ ス政 府 の重 税 に苦し めら れた彼 ら は、 再 び海 を渡 る 道を 選択し たの で あ る。 また 、 こ の世 紀 に はヨ ーロ ッパ全 体 で人 口が 急増し た。 医 学、 衛生 、 栄養 の改 善 や進歩 が 要因 となっ て死亡 率 が低 下し 、 平均 寿 命 が 伸び たた めで あ る。 そ れ と併 行し て ア イル ランド で は断 続的 に飢 饉が 起 き、 急増 し た人 口 が 飢饉 に よっ て移民 を生 む とい う現 象 が何 度か 繰 り返 さ れ た。 こ の世 紀 には約50万 のア イ ルラ ンド 人 が渡 米 し た と推 定 さ れてい る。 2.2 アイ ル ランド 系移 民-19 世紀 前世 紀 の渡 米 者数50万 が こ の世 紀 に は8 倍 の400万 と なった 。最大 の 要因 はアイ ルラ ンド の みな ら ず、 ヨ ーロ ッパ 史上 で も例 を みな かっ た 大飢 饉 (1845―49) で あっ た。 実 際 に は大 飢 饉以 前 にすで に100万 を超 える アイ ルラ ンド 人 が渡 米し て い た。 そ れは、 ナ ポレ オ ン戦 争(1783−1814)終 息後 に イギ リ ス、 ア イ ルラ ンド を襲っ た 景 気後 退 が 要因 だっ た。 大 飢 饉 は どの よう な戦 争 より もア イ ル ラ ンド 人 の運 命 を変 え た で きご と といっ て よい だ ろ う。1845 年夏 、主 食お よび主 産物 で あっ た ジ ャガ イ モに胴 枯 れ病 とい う病 気 が発 生し 、 こ の年 の収 穫 は 例年 の半 分 ほ どに とど まっ た。 イ ギリ ス政 府 は貸 付金 や食 糧 価格 高騰 抑 制 のた めの 補助 金 を出 す な ど の救 済措置 をと るが、 い ず れ も一 時 的 な もの に 過ぎ な かっ た。 公 共事 業 で も、9 月 時点 で3 万 人 だっ た 雇用 者が 、12月 に は50万 人 に まで 膨 れ上 がっ た。不 幸 な こ とに翌 年2 月 に は寒 波 が押 し寄 せ 、 チ フ スや赤 痢 が流行 、最 悪 の状 況 と なっ た。1846年夏 、 今年 こ そ とい う アイ ルラ ンド人 の切 迫 し た 望 み は、前 年以 上 の 不作 とい う 結果 に よっ て打 ち砕 かれ、そ の秋 か ら大 量 の移民 が始 まった ので あっ た。 こ の不幸 の最 大 の原因 は胴 枯 れ病 そ の もので はなく、12世紀 から 続い て き たイ ギリ ス政府 の圧政 、 冷酷 な 政策 で あっ た。1640年 頃 に は、約6 割 の土 地 がア イル ラ ンド 人 自身 に よっ て所有 さ れて い た。 し かし 、 オリ バー ・ クロ ムウ ェ ルに よ る制圧 (1649) や ボイン 河 の戦 い (1690) を経 て土 地 の没 収 がす す み、18世 紀 末 には5 % に まで 減 少し て い た。大 飢 饉 の間 、 ジ ャガ イ モ が まっ たく収 穫 さ れな かっ たわ けで はな い。 上地 没収 に よ っ て小 作人 となっ たア イ ルラ ンド人 たち は、 地主 に地 代 を払 う ため に収 穫物 を売 る生活 を強 いら れ て いた。 農 業 統計 に よる と、 大飢 饉期 間 中 もイ ギリ スへ の ジ ャ ガ イ モの 運搬 量 はそ れほ ど減 少し て い ない。 収 穫物 の ほ とん どが軍 隊 の護 衛 つ きでイ ギ リ スへ運 ば れて いっ たた めで あ る。 胴 枯 れ病 に よっ て収 穫 量 が減 る と自分 た ち の手元 に残 る もの、 すな わち 食 糧 はな くな り、や が て飢 え に耐 えか ね て売 る分 に手 を つけ た。 イ ギ リ ス政府 は飢 餓 に苦 し む ア イ ル ラン ド 人 に救 済 の 手 をさ し の べ るこ とに 終始 消 極 的 で あっ た。 当 時 のイ ギ リス の新聞 も、「 だ らし な い(カ ト リッ ク教 徒 の)ア イ ル ランド 人 に天罰 が く だっ た」 「 慈 悲 を与 えす ぎ るとア イ ルラ ンド 人 の性 格 がい っそ う悪 く な る」 な どと書 き立 てた 。政 府 は、 み

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ず から の負 担 を増 や し て救 済の 于 を広 げ る ことを拒 み、地 主 へ の課税 を増や す とい う方 策 を とっ た。1847 年6 月 に定 めら れた 「拡 大 救貧 法」 は、 抱 え る小 作人 の数 に応 じて 地主 が税 金 を納 める仕 組 み に なっ て いた た め、小 作人 か ら地代 が上 が らな くな ると、彼 ら を土 地 か ら追い 出 すの が税対 策 の 手 っ と り早 い方 法 であっ た。 アイ ル ランド 全島 が似た り よっ た り の状況 で 、親 類縁 者 から 金 を か き集 め て この島 を 出 てい くし か道 は残 さ れて い な かった。 運 が よけ れば追 い立 て の際、 お 情 け にい く ら か の金 を渡 さ れ るこ と もあ っ た とい う。 大 飢 饉 (1845−49) の5 年 間 で75万 、 続 く50−54年 に は98万、55 ―59年 には30万人 がア イ ル ラン ド をあ とにし た と推計 さ れて い る。 救貧員 の収容 者数 は、1845年 で10万人 、48年 で30万、49 年 に は93 万人 、 また全 島 の人 口 は1841年 で817万 人、 飢饉 が始 まっ た45年 に は850万人 だっ た の が、1851年 に は567万 に まで減 って いた。 大飢 饉期 間 中 に は、約100 万 の人 が飢 えや病 気で 死亡 し た と考 え ら れ て い る。 運 良 く渡航 費 を工面 で き た者 に もさ らな る苦 難が待 ち う けてい た。 まず、 イ ギリ ス の リバプ ー ル まで は家 畜輸 送船 で渡 る が、 リ バプ ー ルで は、 スリ、 サ ギに な けな し の金 を奪 われ る者 が後 を たた な かっ た。こ うし た者 たち は リバプ ール の スラ ムに住 みつ き、そ こか ら抜 け出 す こ とがで き な く なっ た。 また、 言葉 巧 みに だ まさ れ 売春 宿 に引 き込 まれ る女性 も少な くなかっ た。 この よう に、 渡 米 の 夢 を果 た せず、リバプ ールで一 生 を終 えた ア イルラ ンド人 も多 く、「 ランカ シャ ー・ア イ リッ シ ュ(ラ ン カ シャ ー地 方の アイ ルラ ンド 人 )」 という呼 称 がで きた ほ どで ある。(当 時 のリバ プ ー ル はラ ン カ シ ャ ー州、 現在 はマ ージサ イド 州 に 区分 さ れてい る。) ア イ ル ランド を あ とにす る移 民 の急 増 に応 え、1847年 か ら はコ ー クやコ ープ な どの 港 から 直接 ア メ リ カ行 きの船 が出 る よう にな った 。 彼 らが安 い船 賃 を払っ て乗 る船 は、 小型 で老 朽化 し た ボロ 船 で、 ろ くに 訓練 も受 けて い ない 船員 が乗 り込 んでい た。 食事 や 居室 の環 境 は最 低で 、船 上 で 伝染 病 に 罹患 する者 も多 かっ た。 もと もと栄 養不 良 の状態 で の旅立 ち であ っ たた め、 体力 の 弱っ て い る者 が 犠牲 とな り、船 上 で の死亡 者 は海 へ投棄 さ れた。当 時 、船 上 お よび アメ リカ 上陸 後 ま もな く死 亡 し た者 は4 割 に のぼ った とい う か ら、彼 らの乗 った船 が「 棺桶 船 」("coffinship")の名 で 呼 ば れ る よう に なった こ と は決し て大 げ さな ことで は なく、文 字 どお り、 命 を かけ た渡米 、 移民 だっ た の で あ る。 2 。3 社 会の 底辺 でI860 年 頃、アイル ラ ンド 移民 の アメ リ カ上 陸後 の平均 寿 命 は5 ∼6 年 と言 われて い た。何 とか アメ リ カ にた どり着い た もの の、 そ れ まで の栄 養不 良や病 気 がた たっ て、 ろく に仕事 もで きぬ ま ま病死 する 者 も少 なく なかっ た。 また、 アメ リカ で は まだ新 参 者で あっ た ア イル ランド 人 は、 社会 の底 辺 で 低賃 金・長 時間 の過 酷 な労 働に 耐 え るし かな く、 それ によっ て 、 結局 から だ を壊 す場 合 もあ れば、 危 険 な労 働 その もの に より命 を落 と すこ と もあ った。 女性 は英語 が で きるこ とが 有利 に働い て、 女 中や子 守 りな どとし て ひきあ い が多 かっ た が、 男 性 は肉体 労 働 が中 心で、 危険 な土 木工 事 の作業 に多 く の男性 が 従事 し た。 ア イル ランド 人 男性 が多 く

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佐藤 : アイ ルラ ンド から ア メリカヘー 移 民 の歴 史 と経験 75 従事 し た こ とで有名 な の は、大 陸 横 断鉄 道 の建 設 であ るが、「 す べて の枕 木 の下 に アイ ル ランド人 の 骨 が埋 まっ て い る」とい われた ほ どで あ る。 当時ヽ 成人 男子 の黒 人 奴隷 はI 人 】,000͡`3,000ド ルで 売 買 さ れて い たが、ア イ ルラ ンド人 男 性 の賃 金 は1 日1.5ド ルが普 通で 、1ヶ月で 食事 付 き の10∼15ド ル とい う ヶ− ス もあっ た。 黒人 奴隷 が すで に アメ リカ社 会 にお い て立 派 な労 働者 とし て認 め ら れてい た一 方 、体 力 も体格 も黒 人 より劣 り、 これ とい っ た労働 技術 も もたな い アイ ルラ ンド人 男 性 は、 か よう な扱 い を受 けた ので あっ た。 軍 隊 も また職 場 の一 つし て考 えら れた が、 南北戦 争 時(1861−65 ) に は、 二 つ のア イ ルランド 人 部隊 が 「敵 」 とし て戦う とい う 悲劇 も起 きた。 アイ ル ランド人 は英語 を 話せ る とい う利 点 が あっ たに もかか わ らず、 な ぜ アメリ カ 社会で 底 辺 か ら の スタ ート となっ た のか。 そ れに は二 つ の理 由 があろ う。 一 つ は、 本国 で イギ リ ス人 によっ て 支 配 さ れて いた彼 ら は、 ア メリ カに お い て もイ ギ リス系移 民 に よっ て蔑 まれた とい う こ とで あ る。 イ ギリ ス系 移民 は当 時 のア メリ カ社 会 で は すで に一 流市民 の地位 を確 立し てい た。 イ ギ リ スの政策 へ の不 満や 宗 教弾圧 、貧 困 に よっ て自 由 の国 ア メ リカへ渡 っ て きた は ず の彼 ら も、 いっ た ん地 位 を確 立し てし まった か らに は、 そ れを危 険 に さ らす 気に はな れ なかっ た ので あ ろう。 独 立 して もな お、 イ ギリ ス に対し「 本国 」「 母国 」意識 を持 ち、 劣 等感 を抱 い てい た彼 らは、 ア イル ランド 人 を大 事 に す れ ば本 国 の人 々 に嘲笑 わ れ る と思っ た に違 い ない。 もう一 つ は、 こ の時代 の ア イル ラ ンド 移民 のほ とん どが カト リ ッ ク教徒 で あっ た ことで あ る。 当 時 の アメ リカ は独立 の中心 的存 在 となっ た イ ギリ ス系移 民 を頂 点 に、WASP (WhiteAnglo-SaxonProtestant: 白人 で アン グロ ーサ クソ ン系 のプロ テスタ ント )絶 対 優 位 という 構図 が 出来 上 がっ て お り、 カト リ ッ クに対 する 根本 的 な偏 見 と恐 れ があ った。 また、 カ ト リ ッ クの国 は他 に もあ るが、 こ とア イル ランド の カト リ ッ ク という と、「 大家族 、 大酒 の み、 だ らし な い、無 知、 け ん かっ ぱや い、 が んこ」とい う イメ ージが 強 くヽ そ の結 果「 ア イ ルランド 系 の 応募 お 断り 」("NoIrishNeedApply" ) とい う門 前払 い が横行 す る よう にな っ た。 白人 で もキリ スト 教徒 で もなく、 英語 も話 せ な かっ た日 系 移民 が 比較 的早 く成 功で きた の は、 そ の勤 勉・几帳面 な国 民 性 ゆ え とさ れてい る こ とを考 え る と、 ア イル ランド 人 に対 す る先入 観 と拒 否 反応 的 行動 は理 解で き な く もない。 大 飢 饉以 降、 大量 にや っ て きた アイ ルラ ンド人 を排 除 す べ く、 反 カト リ ッ ク、 反移 民 の法 案 がい くつ か の州 で可 決さ れた の も この頃 であ る。 2 。4 底 辺 からの 這い 上 が り 急増 す る アイル ラ ンド 系 移民 へ の 差 別 と排斥 か ら身 を守 る た めに 彼ら が取 った手 段 は 、自 分 の身 は自分 で 守 るとい う もので あ っ た。 彼 ら は底辺 で の生 活 に 甘 んじ てい た わけ で はな く、英 語 が話 せ るこ と と、 数 が ます ます増 え てい くこ とを 武器 に、1860年 代か ら労 働 条件 の 改善 な どを求 める運 動 を 開始 し てい た。 また、自 警 団や 消 防団 、 相互 扶助 組織 、 自分 たち のた めの 教会 や学 校 を設 立し 、 こ れら の組 織 は苦 労を重 ねな がら し だい に 大 きな もの とな っ ていっ たの であ る。 現在 もニ ュ ーヨ ー ク周辺 で消 防士 と警 官 に アイ ルラ ンド 系 の 出自 の人 が多 い の は、 こ の当時 の状 況 を反 映し た もの で あ る。 また19世 紀 後半 に は、 アイ ル ラ ンド 系 の後 を追っ て、 ポー ラ ンド 系 、 ユダ ヤ系 、 南欧系 の移

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民 が 押し 寄 せ、 そ れ によ り、 アイ ルラ ンド 系 は自 ず とアメ リカ 社会 の中 で の位 置 を押 し上 げ ら れ る こ と に なっ た。また、こ の時 代 に は、市民 権 が なく と も居 住者 であ れ ば投 票が 認めら れ るよ う にな っ てい た た め、 数 の多 い ア イル ラ ンド 系 は自分 た ちの代 表 を議員 とし て送 り出 すこ とに成功 し た。 治家 は支持 者 から か き集 めた資 金 を も とに収賄 や買 収 を行 い、 徐々 に政 界 で力 をつ け てい き、 ア イ ル ラ ンド 系 全体 の地 位向上 に貢献 し た ので あ る。 ア イル ラ ンド本 土 にお け る1880年 代 の土 地法 改 革 や1921年 の自 治権 獲得 に よっ て極 度 に 貧し い移 民の流 入 が減 少し た こ と もアイル ラ ンド 系移 民 全 体 の生 活 水準 向上 の一 因 とな っ た。I960年 に は、 アイル ラ ンド 移民4 世 で カト リッ ク 教徒 のジ ョ ン ・F ・ ケ ネ ディが 合衆 国大 統 領に 就任 し 、 ア イル ランド 系移民 の苦 難 の時 代 は、一 応 の ピ リオド が 打 た れた のであ る。 以後 アイ ルラ ンド 系 は多 数 の著名人 を輩出 し、 現 在で はド イ ツに つい で、 アメ リ カ第2 の民 族 集団 であ る。そ の数 はお よそ3,800万人 、ア イル ラ ンド 全島 の人 口 を もし の ぐ数 とな っ てい る。 3 。 移 民 ひ とり ひ とりの 経験 前章 まで は、 アイ ル ランド か ら アメ リ カへ の移民 の歴 史 を概 観し た が、 ついで 、 移民 個 人 個人 の 歴 史 へ と視点 を 移し、 ひ きつ づ いて 、ア イ ルラ ンド 系 移民 の 経験 を振 り返 っ てみ たい。EllisIslandInterviews 、 ・InTheir・OwnWords に 登場 す る5 名 のア イ ルラ ンド 出身 者 は次 の とお りで あ る。プ ラ イバ シ ーの保 護 のた め、本 名 か仮 名 か は明 ら かにさ れて いな い。 そ れぞ れ、 イ ンタ ビ ュー の概 略 を 示し て い く こと とす る。JosephMcGrath ゴ ール ウェ イ州 出身1900 年生 まれ・1921年入 国MarthaO'Flanagan (女 ) ロ スコモ ン州 出身1903 年生 まれ・1925年 入 国MarjorieKellhorn (女) オフ ァ リ州出 身1906 年 生 まれ・1925年 入 国Emamuel “Manny"Steen ダ ブ リン 出身1906 年 生 まれ・1925年入 国StephenBradya − ク州 出身1914 年 生 ま れ・1927年 入国 3 。1 ジ ョ ゼ フ ・ マ ッ ク グ レ イ ス の ケ ー ス ( 概 略 ) 生 家 は ゴ ー ル ウェ イ州 の 農 家 で 、父 は自 分 の土 地 を所 有 し 、一 家 は 食 べ るの に苦 労 す るほ ど で はな か っ た が 、 概 し て 貧 し か っ た 。 我 々 は ゲ ー ル 語 を 話 す カト リ ッ ク 教 徒 だ っ た。19 歳 の と き、 じ ゃ が い も 掘 り の 仕 事 を し て い た 自 分 に渡 米 を 勧 め た の は母 親 だ っ た。ア メ リ カ に 住 むお じ が 渡 航 費 用125 ド ル を 送 金 し て く れ た 。船 賃 は100 ド ル で あ っ た 。 リ バ プ ー ル か ら( カ ナ ダ の )ハ リ フ ァッ ク ス まで は8 日 間 の 旅 で あ っ た。 そ こ か ら さ ら に 船 は ニ ュ ー ヨ ー ク へ と向 か っ た 。2 等 船 室 と い っ て も 寝 台 は2 段 、食 事 も よ か っ た 。ゴ ー ル ウ ェ イ か ら 一 緒 に 出 発 し た40 人 の う ち 、 メ イ ン州 ポー ト ラ ンド まで 一 緒 だ っ た の は2 人 だ け で 、 多 く は ボ スト ン、 数 名 が ニ ュ ー ヨ ー ク に 向 かっ た。 お じ が紹 介し て く れた ミ ッ チ ェ ル 港 の 港 湾 労 働 に従 事 し て い た1,200名 の う ち 、7 割 が ゴ ー ル ウ ェ イ 州 出 身 者 で あ っ た 。 19世 紀初 頭 、大 西 洋 の横断 には1 ヶ月 ほ どの 日数を 要し たが 、同世 紀 の末 に は約2 週 間 に まで 、短 縮 さ れた。 さ ら にこ こに もあ る よう に、1920年 代に は8 日に まで 短縮 さ れてい る。 蒸気 船 の登 場 や

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佐 藤: ア イル ランド か らア メリ カヘー 移民 の 歴史 と経 験 77 造船 技術・通 信手 段 の発 達 が背 景 にあ る こ とはい う まで もない 。 先 に述 べ た「棺 桶 船」(1800年代 後 半 ) の時代 に は、寝 台 は3 段で 、 し か も各段 に数人 ずっ がつ めこ ま れてい た が、1882年に 船上 の生 活 条件 に関 する法 律が ア メリ カ で定 めら れ、船 上 の環境 は著 し く改 善 さ れ た。 まず、 乗客1 人 の死 亡 に つ き、船 会 社 は10ド ルの罰 金 を課 せら れた。 また、 移 民局 に足 止 めに なった 乗客 の滞 在費 と送 還 者 の送 還費 用 も船会 社 の負 担 と定 めら れ た。1808年 に奴 隷貿 易 が 禁止 さ れて以 後 、移民 の輸 送 は 大 事 な 収入 源 となっ てい た た め、船 会 社 は船 上 の環境 を改 善 せ ざる を得 な くな っ たので あっ た。 3 。2 マ ー サ ・ オ フ ラ ナ ガ ン お よ び マ ー ジ ョ リ ー ・ ケ ル ホ ー ン の ケ ー ス ( マ ー サ ・ オ フ ラ ナガ ン概 略 ) 生 家 は ロ ス コ モ ン 州 の 農家 で 、一 家 は 食 べ る も の に は 不 自 由 し て い な か っ た 。し か し 、 成 長 す る と イ ギリ ス か ア メ リ カ に 行 くの があ た り ま え とな っ て い た 。 す で に 渡米 し て い た 長 兄 が 渡 航 費 の200 ド ル を 送 金 し て く れ た。 コ ー ク港 で乗 船 し た が 、多 く の ア イ ル ラ ンド 人 が ボ スト ン を 目 的 地 とし て い た。乗 船 前 、医 師 の検 診 が あ り 、自 分 は 手 に い ぼ があ っ て 心 配 し た が 、薬 を もら っ た だ け で 、問 題 は な か っ た 。8 日 間 の 船 の 旅 は快 適で 、 ダ ン ス に明 け 暮 れ た 。 ( マ ジ ョ ― リ ー・ ケ ル ホー ン概 略 ) 父 は 蒸 留 所 勤 め 、 母 は看 護 婦 を し て い た 。 家 は 小 さ かっ た が 当 時 で は 中 級 だ っ た 。 父 は出 稼 ぎ で 何 度 も渡 米 の 経 験 が あ っ た。2 人 のお じ 、2 人 の お ば 、2 人 の 姉 が 渡 米 し て お り 、自 分 も 渡 米 の こ と ば か り 考 え て い た。2 人 の 姉 はニ ュ ーヨ ー ク で 家 事 手 伝 い を し 、渡 航 費 を 送 金 し て く れた 。ク ィ ー ン ズ タ ウ ン ( 現 在 の コ ープ ) で 泊 まっ た ホ テ ル で は 、 主 人 か ら タ イ タ ニ ッ ク 号 に 乗 船 し た 泊 まり 客 た ち の 話 を 聞 い た 。 検 診 で は 洋 服 や 髪 を煙 で い ぷ さ れ た。検 診 の結 果 、そ の場 で 追 い 返 さ れ る 者 も多 か っ た 。8 日 間 の 旅 の 後 、ニ ュ ー ヨ ー ク の 姉 の も と へ身 を 寄 せ た 。 電 気 、 水 道 は もち ろ ん のこ と、5 つ の 寝 室 、2 つ の 居 間 のあ る ア パ ート は 、私 に は夢 の よ う な も の だ っ た 。 自 分 は メ イ シ ー 百 貨 店 の 仕 事 を 断 り 、 住 み 込 み の 子 守 り兼 家 庭 教 師 の 仕 事 に つ い た 。 翌 年 両 親 と弟 を 呼 び 寄 せ た が 、エ リ ス 島 で は 父 が 病 気 を 理由 に 拘 留 さ れ た 。姉 妹 で500 ド ル の保 証 金 を 用 意 し た が 、 そ れ で も足 り ず、 翌 日「 旅 行 者 援 助 団 体 」の 人 が「見 せ る だ け 」の 現 金500 ド ル を 用 意 し て く れ 、 やっ と 通 過 が 許 可 さ れ た 。 エ リ ス島や エ ン ジェル 島 に多 くの 者 が拘 留 さ れ、送 還者 や自 殺 者 もあ っ たこ と は、 先 に も述 べ た とお りで あ る。 また、1882年 制 定 の法 律 に より、 送還 者 をで き るだ け出 さ ない よう に する こ とが船 会社 に とっ て も重要 な こと となっ た た め、 乗 船前 に も検診 が行 わ れる よう になっ た。 移民 局 は、 無 一 文で は通 過す る こと はで きず、 あ る程度 の 金 を持参 し てい る必 要 があ っ た。 それ は、 仕事 を 見つ け る まで の間 の 生活費 とい う意 味が あ っ た。病 気 など、ト ラブ ル を抱 え てい る者 の場 合 はなお さ ら、 窮 乏す る見 込 みは ない とい う意 味 の保 証金 を見 せ る必 要 があっ た の であ る。 また、 ケル ホー ンのイ ン タビ ュ ーで は、1912年 に沈 没し た タ イタ ニ ッ ク号 のこ とが 言及さ れ て い る。 こ の客 船 はイ ギリ スの サ ザンプ ト ン を出 港し 、フ ラ ン スの シェ ルプ ー ルに 寄港 、最 後 に クイ ー ン ズタ ウン で123名 (う ち アイ ルラ ンド 人 は113名 ) の客 を乗 せた の ち大 西 洋に船 出 し た。 アイ ル ラ ンド 人 の ほ とんど がアメ リ カ を目指 し た 移民 と見ら れてい る。 ケ ルホ ーン が クイ ーン ズタ ウン の宿 で 聞 いた 話 とい う の は、 タイ タ ニ ッ ク号 乗 船 の前 に その 同 じ 宿 に 宿 泊 し た 犠 牲 者 につ い て の も の だっ た ので あ る。ア イル ラ ンド 人113 名 の死 亡 率 は65% と高い。とり わけ 男性 は87% の死亡 率 で あ る。 もと もと救命 ボート は全 乗船 者 数 の半 数分 もな く、 まし てア イ ル ランド人 が乗 った3 等 船室 は船 底 に近 く、出口 は施錠 さ れて いた の で あ る。当 時 ア メリカ の 移民 法 が常 時施 錠し て3 等船 客 を1 、2 等

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船 客 と分 離 する こ とを求 めて い た ためで あ る。 アメ リカ や日 本で は大ヒ ット し た映 画 も、 祖先 の悲 惨 な体 験 へ の深い 悲し みから か、 アイル ラ ンド で はあ まり受 け入 れ ら れなか っ たよ うで あ る。 3 。3 エ マ ニ ュ エ ル 。“ マ ニ ー ”・ ス テ ィ ー ン お よ び ス テ ィ ー ブ ン ・ ブ レ イ デ ィ の ケ ー ス ( エ マ ニ ュ エ ル 。“ マ ニ ー ”・ ス テ ィ ー ン 概 略 ) 母 は ポ ー ラ ン ド 、父 は ウ クラ イ ナ の 出 身 で 、2 人 は ス コ ッ ト ラ ン ド で 暮 ら し た 後 、 ダ ブ リ ン に 渡 っ た 。 我 々 はIrishJew ( ア イ ル ラ ンド 系 ユ ダ ヤ人 )で あ っ た。 ダ ブ リ ン の 家 は 長 屋 で 、 水道 は あ る が 便 所 は な く 、 各 部 屋 に お ま る が 置 い て あ っ た。1921 年 、 内 戦 が 勃 発 す る と 景 気 も悪 く な り 、 失 業 率 も悪 化 す る 一 方 で 、皆 ア メ リ カ に 行 くし か な い と 考 え る よ う に な っ た 。 当時 ア メ リカ で は 「 息 子 を 大 統 領 に す る 」 と 言 う とこ ろ 、 ア イ ル ラ ン ド で は せ い ぜ いT 息 子 を 銀 行 支 配人 に す る 」 と 言 う ぐ ら い 、 状 況 も、 希 望 も 違 っ て い た の で あ る 。 当 時 エ リ ス島 で は 最 低20 ド ル の所 持 金 を 見 せ る必 要 が あ り、 自 分 はな く さ な い よう 靴 に 入 れ てい た 。10 日 後 、 ニ ュ ー ヨ ー ク に 着 く と 、 数 百 人 ずつ 渡 し 舟 に 乗 っ て エ リ ス島 に 上 陸 し た 。 船 上 の と ば く で 所 持 金 を 失 っ た者 た ち に、2 ド ル の利 息 つ き で20 ド ル を貸 す男 が い た 。翌 日 、市 内 見 物 に 出 た 自 分 は、前 日 降 り 立 っ た ばか り の バ ッ テ リ ー 公 園 に 行 き 、 ホッ ト ド ッ グ と ア イ ス ク リ ー ム を 食 べ て 最 高 の 気 分 を味 わ っ た。 ( ス テ ィ ーブ ン ・ ブ レ イ デ ィ 概 略 )1920 年 代 、 ア イ ル ラ ン ド で は「 自 由 国 」を望 む 者 と「 共 和 国 」を 望 む 者 との 対 立 が 激し く、 状 況 は年 々 悪 く な っ て い た 。 母 は ア メ リカ 、 父 は ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド かオ ー ス ト ラ リ ア を 希 望 し た が 、 母 の親 族 が すで に移 民 し て い た こ と な ど か ら 、 結 局 ア メ リ カ へ 渡 る こ と に 決 め た 。 初 め は 父 と長 兄 、 次 は 次 兄 、 そ し て 翌 年 に母 と私 を 含 む6 人 とい う よ う に 、 段 階 的 に 一 家 が 旅 立 っ た 。 上 船 前 に は ノ ミ 退 治 の た め 入 浴 を し た が 、そ のお か げ で 、3 等 客 だ っ た に も か か わ ら ず 、エ リ ス島 に は上 陸 し な い で 済 ん だ 。船 は、ハ リ フ ァ ッ ク ス 、 ボ ス ト ン を 経 て ニ ュ ーヨ ー ク に 着 い た が 、 当 時 、 カ ナ ダ の ほ う が入 国 の 条 件 が厳 し くな か っ た の で 、 ま ず カ ナ ダ に入 国 し 、 し ば ら くし て から ア メ リ カ へ 入 る とい う 者 も多 か っ た 。 1878年 か ら79年 に かけ て、 ア イル ラ ンド は また もや 飢 饉 に見舞 わ れ、多 くの破 産 者、 追 放者 が出 た。 ア イル ランド 人 の不幸 の主 た る原因 を地 主 制に ある とみた活 動家c.s. パ ーネ ルや マ イ ケル・ダ ヴ ィ ツド ら の運動 はいわ ゆ る「土 地 戦争 」 へ と発 展し 、土 地 にお け る地主 の利益 を 減少 さ せ る土 地 法 が1881年 に制定 さ れた。 これ に より、 地主 が 手放し た土 地 を小 作人 らが買 い戻 す よ うに な り、 自 分 の土 地 が持 て ない こ とに起因 す る移民 は減っ ていっ た。 し かし 、 マッ クグレ イや オフ ラ ナガ ン の ケー スを 見て もわか る よう に、 食 べ る のに不 自 由し ない と はいっ て も、 ア メリカ で の自 由で 豊 かな 暮 らし と比 べる とか なり見 劣 り す る もので あっ た。19 世 紀 末以 来、 ア イル ランド で は大飢 饉 と は別の混 乱 が国 を襲 っ てい た。 プロ テ ス タン ト の地 主 で あっ た に もか かわ らず、 ア イ ルラ ンド の独 立 に向 けて大 きな役 割 を果 たし た天 才 的 な指 導者 パ ー ネ ルが 失脚 し、1891年 に死 亡し た後 は、 急進 派 の小 グル ープ が乱 立し た。1919年 か ら21年7 月 まで の イ ギリ ス =ア イル ランド 戦 争 は、 ゲ リラ戦 争 の色あ い の濃 い紛 争で 、町 が銃撃 や焼 き討 ちの 舞 台 とな るな どし て、一般 庶 民 を もお び えさせ た。1921年12月 に アイ ル ランド 自 由国 が創 設さ れた 後 も、 政 情 は不 安定 であ っ た。「 自由 国 」といっ て もそ れは、 制 限つ き のイ ギリ ス内 の自 治 地域 とい う意 味 で あ り、一 独 立国 家(つ まり「 共和 国」)とは異 なる もの であ る。 大多 数 の小 作人 は、 自 分 の土 地 が 所 有で き る一 連 の土地 制度 改 革 に満足 し てい た のだ が、1916年 の武装 蜂起 の失敗 と、 それ に対 す る 厳 しい 処 罰 は国民 に大 きな衝 撃 を与 え、 国全 体 が独立 へ の気運 を高 めて い くこ とに なっ た。 と同 時 に、 数多 くの挫折 や 失望 を も味 わう こ と とな る。 北部6 州 をの ぞ く南 部 が共 和国 とし て の完 全 独立

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佐藤: アイル ランド から アメ リカヘー 移民 の 歴史 と経 験 79 を 果 た すに はさら に 数十年 の 歳 月を 待 た なけ れ ばなら なか っ たの だ。 ア メ リカ への 移民 は1905年 を ピ ー クに、1910年 代 から20年 代 に かけ て徐 々 に減 少し てい っ た とはい え、庶 民 が自 由 と平和 と生 活 の豊 か さを 謳歌 で きる アメ リカ は ア イル ラ ンド の人々 の目 に は、 依 然光 に 満ち 溢 れる ティ ル・ ナ・ ノグ の国 とし て映 り続 けた ので あ る。 20世 紀 まで に700万人 のア イル ラ ンド人 がア メ リカに渡 っ た とい わ れ てい る。イン タビ ュ ーに登 場 す る5 名 はい ず れ も1920年代 の渡 米 者で あ り、 その半世 紀 ほ ど前 に「 棺 桶船 」 に命 を託 さざ るを得 な かっ た人々 とは かな り状 況 を 異 にし て い る。 し かし、 エ リ ス島 の移 民 博物 館 に展示 さ れ てい るお び ただ しい 数 の写真、 パ スポ ート、 入 国 記録 書 な どを見 てい る と、 移民 ひ とり ひ とり に物 語が あ る こ と を強 く思 い知 らさ れ る。 い ず れ が幸 福 で、 い ずれが不 幸 か な ど と、 序 列 をつ ける こ とは不 可能 で あ り、また無 意味 で あ る と感 じ る ので あ る。アメ リカ の多 民 族問 題 や 移民 問題 を 考 える際 、「一 系 アメ リカ人 」 とい う言 葉で ひ と く くり にし てし まい が ちで あ るが、 移 民 の歴 史 は無名 、無 数 の移民 ひ とり ひ とりの ライフ ・ スト ー リ ーに よっ て 構成 され る もので あ る こ とを忘 れて は なら ない。 [REFERENCES ]I.KerbyMillerandPaulWagner,Outof/reand:TheHistoryofIrishEmigrationtoAmerica(London,AurumPressLimited,1994)2.T.W.Moody,F. χ.Martineds.TheCourseofIrishHistory,1994RevisedandEnlargedEdition(Cork:MercierPress,1994 )3.DorothyandThomasHoblerwithanintroductionbyJosephp.KennedyII.TheIrishAmerican ;FamilyAlbum(Oxford:OxfordUniversityPress,1995)4.PeterMortonCoan ,EllisIslandInterviews:InTheirOwnWords(NewYork:CheckmarkBooks,1997)5.VirginiaYans-McLaughlinandMarjorieLightmanwithTheStatueofLiberty-EllisIslandFoundation.EllisIslandandthePeoplingofAmerica ;TheOfficialGuide(NewYork:TheNewPress,1997)6.S.J.Connollyed.,TheOxfordCompaniontoIrishHistory(Oxford:OxfordUniversityPress,1998)7.WilliamD.GrifTin,TheIrishAmericans(HongKong:HughLauterLevinAssosciates,Inc.,1998 )8.KevinKenny,TheAmericanIrish ;AHistory(London:PearsonEducationLimited,2000 )9. 大下 尚 一 他 著 『史 料 が 語 る ア メ リ カ 』(東 京 : 有 斐 閣 ,1989 )10. 亀井 俊 介 監 修 『世 界 の 歴 史 と文 化 ア メ リ カJ ( 東 京 : 新 潮 社 ,1992)II. 野村 達 朗 『「 民 族 」 で読 む ア メ リ カJ ( 東 京 : 講 談 社 ,1992)12, ジ ョ ン・ ハ イ ア ム 『自 由 の女 神 の も と へ 移 民 とエ スニ シ テ ィ 』 斎 藤 員 他 訳 ( 東 京 : 平 凡 社 ,1994 )13. ナ ン シー ・ グ リ ー ン 『多 民 族 の 国 ア メ リカ 』明 石 紀雄 監 修 , 村 上 伸 子 訳 ( 大 阪 : 創元 社 ,1997 )14. 野 村 達 朗 編 著 『 ア メ リ カ 合 衆 国 の 歴 史 』(京 都 : ミ ネ ル ヴ ア書 房 ,1998 )15. 五 十 嵐 武 士 編 「 ア メ リ カ の多 民 族 体 制 「民 族 」 の創 出 』(東 京 : 東 京 大 学 出 版 会 ,2000 )16. 明 石 紀 雄 ・飯 野 正 子 『エ ス ニ ッ ク・ ア メ リ カ 新 版 』( 東 京 : 有 斐 閣 ,2000 )17. ジ ョ ル ジ ュ ・ ペレ ッ ク 「エ リ ス島 物 語 」 酒 詰 治男 訳 ( 東 京 : 青 土 社 ,2000 )18. 松 尾 貳 之 「民 族 か ら 読 み と く 「 ア メ リ カ 」」( 東 京 : 講 談 社 ,2000 )

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IrishEmigrationtoAmericaExperiencesofIrishImmigrants

KaoruSATO

ForthesethreecenturiesaroundsevenmillionpeoplecameoutofIrelandto America.Everyimmigranthashisorherownuniquestoryandexperience.The

参照

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