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「海民」の生成過程 : インドネシア・スラウェシ周辺海域のサマ人を事例として (<特集>跨境コミュニティにおけるアイデンティティの継続と再編) 利用統計を見る

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「海民」の生成過程 : インドネシア・スラウェシ

周辺海域のサマ人を事例として (<特集>跨境コミュ

ニティにおけるアイデンティティの継続と再編)

著者名(日)

長津 一史

雑誌名

白山人類学

15

ページ

45-71

発行年

2012-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002421/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

      「海民」の生成過程

インドネシア・スラウェシ周辺海域のサマ人を事例として

長 津 一

史★       Formation of“Maritime Folks”: The Case of the Sama−Bajau in Sulawesi and its Neighbouring Seas, Indonesia NAGATSU Kazufumi★ Abstract This article discusses the ethnogenesis of“maritime fblks”in Southeast Asian maritime world. Through the analysis, it aims at depicting highly hybrid and creole nature of the maritime丘)lks in the f()rmation of their community and identity. It also aims at examining characteristics of the socio−ecological space where such the hybrid and creole nature has repeatedly emerged.    The study fbcuses on the Sama−Bajau as maritime folks. With an approximate population of 1,100,000,many of the Sama・Bajau live along coasts or on islands. The Sama’Bajau settlements are spread widely over the southern Philippines, Sabah, Malaysia, and eastern Indonesia. Their livelihood is generally based on fishing and other sea−oriented activities. Until the mid−twentieth century, solne groups of the Sama−Bajau lived on the boats. Thus, the Sama−Bajau has constituted one of the most distinctive maritime fblks in Insular Southeast Asia、    Scholars have long tried to trace the Sama−Bajau population flow in order to identify their historical origin. However, in my understanding, it is less significant to seek for their“true”origin from the historical essentialists’viewpoint, because the Sama−Bajau and the neighbouring communities in maritime Southeast Asia must have repeatedly converted their ethnic identiflcation from non−Sama−Bajau into Sama・Bajau, or vice versa.    This paper attempts to understand the making process of the Sama−Bajau in Sulawesi and the neighbouring seas, Indonesia. The discussions are mainly based on my fieldworks conducted from 1995 through 2010 in Sulu Archipelago, the Philippines, Sabah, Malaysia, and eastern part of lndonesia, also the statistical and spatial(GIS)analysis of the census 20000f Indonesia. キーワード:東南アジア海域世界,海民,民族生成,異種混渚性,サマ(バジャウ) Keywords:Southeast Asian maritime world, maritime f()lks, ethnogenesis, creole,       Sama−Bajau 東洋大学社会学部;Faculty of Sociology, Toyo University, 112−8606/e−mail:nagatsu@toyo.jp Hakusan 5・28・20, Bunkyo, Tokyo, 45

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白山人類学 15号 2012年3月

1 は じめに

 東南アジア研究においては,大陸部東南アジアの沿岸部と島喚部東南アジアをあわせた地理 空間を,海を媒介として密接に関係しあう歴史的持続性を持った社会文化圏とみなし,その圏 域を「東南アジア海域世界」と呼んできた[e.g.高谷1996;立本1996]。東南アジア海域世界 では,沿岸や汀線や河川沿い,つまり陸域と水域の「きわ」が長らく人間の居住に適した空間 とされてきた。この生態空間をニッチとし,独自の生活様式を発達させてきた人びとを,さし あたり「海民」(maritime folks)と呼ぶ。  海民とは,狭義には海を生活の基盤とする人たちを指す。専業的に魚介類を採捕する漁民, 海洋交易者,海賊などはその代表といえる。他方,こうした狭義の海民に対し,東南アジア研 究では,東南アジア海域世界に通底する社会的,文化的な特徴を捉えるための概念としても海 民という語を用いてきた[立本1996コ。その対象を広義の海民とする。広義の海民は,東南ア ジア海域世界の生態基盤,つまり熱帯多雨林が卓越する多島海に発達した典型的な生活様式を 措定して,それにあてはまる人びとを指示するための集団類型である。  本論では,いま述べた広義の海民集団のひとっとしてサマ人を取りあげ,東南アジア海域世 界における海民の生成過程について考察しようとする。サマ人は,フィリピン南部からマレー シア・サバ州,インドネシア東部に至る広い海域に拡散居住し,主に漁業,ココヤシ栽培,商 業,海上交易などを生業としている。2000年の人口は約110万人。いま述べた3力国のいずれ においても,人口面ではマイノリティである。サマ人の一部は,かつて船上生活を営んでいた ことでも知られる。サマ人が「海のジプシー(Sea Gypsies)」や「海の放浪者(Sea Nomads)」 と呼ばれてきたのは,そうした生活様式のためである。  サマ人は,古くから海を「道」として移動を繰り返してきた。本拠地といえるような地域は 明らかでなく,居住地は広い範囲に拡散している。こうした歴史と人口分布のあり方ゆえに, サマ人に関する歴史研究や民族誌は,かれらの起源や移動を主要なテーマのひとつとしてきた。 ただし,1980年代までの研究の多くは,サマ人の移動を周囲の具体的な歴史過程や政治経済 の文脈とはあまり関係せずに,独立的に生じた現象であるかのように扱い,そうした移動の捉 え方に基づいてサマ人の「真正なる」起源を探ろうとすることが多かった[e.g. Sopher 1977 (1965);Nimmo 1968,1972;Spoehr 1973;Pallesen 1985]。また,それらの研究は,近隣の他 民族との通婚や同化には留意しても,民族の生成という視点からサマ人集団の流動性,可変性 を論じることはなかった。  こうした先行研究に対し,歴史学者のウォレン[Warren 1981]は,詳細な史料分析に基づ いて,18世紀から19世紀までのスルー海域におけるサマ人やタウスグ人らの民族間関係なら びに民族生成の歴史的ダイナミクスを明らかにした。ウォレンの議論をふまえて,人類学者の 46

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床呂[1992]やセイザー[Sather 1997:Chap.1]は,スルー諸島やサバ州南東岸におけるサ マ人を含む民族の生成過程,あるいは民族の起源をめぐる言説の政治性や歴史性を論じている. このように,現在では,サマ人の「真正なる」歴史的起源という概念自体の有効性が再考され なければならなくなっている。  ウォレン以降の研究の展開をふまえていえば,サマ人の移動や民族間関係,それらの歴史過 程を論じることの意義は,かれらの「真正なる」起源を探るといった実体論的な目的にではな く,東南アジア海域世界における近代以降の社会や民族のダイナミクスを,この海域の主要ア クターである海民に焦点をおいて具体的に理解するといった地域動態論的な,あるいは社会史 的な目的のなかに見いだされるであろう。  本論の目的は,上記の立場から,サマ人の一部を様々な民族出自を持っ人びとからなるとい う意味での異種混渚の海民集団としてとらえ,その生成と持続のメカニズムを,植民地期以来 のやや長期的な歴史と,かれらの人口分布をふまえた広い空間枠組みのなかで理解することに ある。対象とするのは,インドネシアのスラウェシ周辺海域のサマ人である。スラウェシ周辺 海域は,インドネシアのサマ人の人口分布域をふまえて設定した空間の準拠枠であり,スラウ ェシ島全域の沿岸部の他に,カリマンタン島の東岸,カンゲアン諸島,小スンダ列島,ハルマ ヘラ島の南部等を含めている。現在の行政区分では,北・中・南・南東スラウェシ州,ゴロン タロ州,東ジャワ州,バリ州,西・東ヌサトゥンガラ州,マルク州と北マルク州にまたがる1)。 時間軸としては,この地域のサマ人に関する文字資料を確認しうる,17世紀のオランダ領東イ ンド植民地期から現在に至るまでの幅を扱う。  考察においては,サマ人の人口分布と民族間関係を主要な手がかりとする。基礎資料は,こ れらに関するマクロな地図・統計データといくつかの集落での調査事例である。地図・統計デー タとしては,主にインドネシア中央統計局(Badan Pusat Statistik, Republik Indonesia:BPS) が2000年におこなった人ロセンサスの電子版データと,BPSおよびインドネシア国家土地調 整調査局(Badan Koordinasi Surveidan Pemetaan Nasional:BAKOSURTANAL)が作成し た地理情報システム(GIS)のデータを組み合わせて用いる。サマ人の集落に関する記述は, 1995年から2009年までのあいだに,スラウェシ島の全州,東・南カリマンタン州,東ジャワ 州,西・東ヌサトゥンガラ州の沿岸・島喚のサマ人集落で継続的におこなってきたエクステン 1)正確には,2008年に分立したスラウェシ島南西の西スラウェシ州も含まれる。ただし,本論が依拠す  る統計や地図のデータは2000年のものであり,西スラウェシ州はまだ南スラウェシ州に含まれている  ため,ここでは記さなかった。        47

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白山人類学 15号 2012年3月 シヴな(広域踏査型の)フィールド調査に基づいている2)。  以下,まず第II章では,島峻部東南アジア全体でのサマ人の人口分布と居住地の生態基盤に ついて簡単に説明する。第III章では,スラウェシ周辺海域におけるサマ人集落の分布と,各地 域の集落どうしの社会関係を整理する。第IV章では,調査事例によりながら,サマ人の集団ア イデンティティのあり方を検討したうえで,海民集団としてのサマ人の異種混渚性を指摘する。 最後に第V章では,民族間関係に着目してサマ人集落の地理的分布の特徴ないしパターンを分 析し,その分析に基づいて,サマ人が生成し,またその異種混渚が維持されてきた社会空間の 文脈について考察する。

IIサマ人の人ロ分布と生活空間

1人ロ分布と言語グループ  本論では,サマ諸語を日常的に話し,一般に自らをサマと名乗る人びとを指してサマという 呼称を用いている。言語学では,サマ諸語はオーストロネシア語族マラヨ・ポリネシア語系の 言語とされている[Pallesen 1985]。サマ諸語を話す人びとのうち,バシラン(Basilan)島に 住むヤカン(Yakan)人は,自らをヤカンと名乗り,例外的にサマを自称しないが,ここでは かれらもサマ人に含めることにする3)。またサマ人は,バジャウ(Bajau)やバジョ(Bajo), バヨ(Bayo)などの他称でも広く知られている。バジャウはスルー諸島やサバ州での他称,バ ジョとバヨはインドネシアでの他称である。サバ州では,バジャウはかれらの自称にもなって 2)インドネシアにおける継続的な調査(1995∼2010年)は,次の文部科学省・日本学術振興会の科研費   プロジェクトにより可能になった。研究課題番号107041057,14251006,16252003,17651133,   18710210,19251010,19510257,19251004,21401039,21510271。わたしを除くプロジェクトの   代表者は,田中耕司(京都大学),加藤剛(京都大学),鏡味治也(金沢大学),山田勇(京都大学),   赤嶺淳(名古屋市立大学),松本誠一(東洋大学)である(所属は当時のものを含む)。マレーシア・   サバ州のサマ人に関する記述は,1997年から1999年までの約2年間におこなったインテンシヴな(定   点滞在型の)調査に基づいている。この調査は,文部省アジア諸国等派遣留学生制度(平成7年度)   によるマレーシア国民大学留学中に実施した。また,本研究の一部は,京都大学東南アジア研究所・   共同研究「東南アジア海域の社会動態に関する基礎研究」(2009∼2010年度),東洋大学特別研究補助   金「東南アジア島嗅部・サマ人の人口動態に関する研究」(2009年度)によった。以上,記して謝意を   表する。 3)他に,ラミヌサ(Laminusa)のように,もともとサマに付加して形容詞的に用いていた修飾語(主に   地名)を独立させて自称とするようになっているサマ語集団もいる。こうした人びとも,ここではサ   マ人に含めている。なお,ラミヌサはスルー諸島南西の島の地名である。同島に住むサマ人は,一般   に「サマ・ラミヌサ」(Sama Laminusa,ラミヌサのサマ)を名乗るが,ミンダナオ島のダバオやマ   レーシア・サバ州などでは自らを単にラミヌサと呼ぶようになっている。 48

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表1各国のセンサスの民族分類のうちサマ人に相当する分類(2000年) フィリピン 6分類:1)Badjao, Sama Dilaut,2)Jama Mapun, 3)Sama(Salnal)/Abaknon,4)Sama(Sama Bangengeh), 5)Sama Dilaya,6)Yakan マレーシア(サバ州) Bajau インドネシア     Bajo 出典:各国の2000年センサスをもとに作成。フィリピンの6つの分類範疇名は,スラソ    シュ,パーレンを含め原文のまま。 いる4)。  フィリピン,マレーシア(ただしサバ州のみ),インドネシア各国の2000年センサスの民族 項目(3力国とも英文では“ethnicity”と表記)では,本論でいうサマ人は表1のように分類・ 範疇化されている。同センサスによれば,3力国全体でのサマ人の人口は1,077,020で,国別 ではフィリピンが570,857人,マレーシア(同上)が347,193人,インドネシアが158,970人 になる[長津2009a]5)。図1は,1司センサスにしたがってサマ人の人口分布を図示したもので ある。図が示すように,サマ人の居住地は,広い範囲に拡散している。かれらの集落は,南北 ではインドネシアのロティ(Roti)島からフィリピンのミンダナオ島の南西端までの約2000 キロメートルのあいだに,東西では東ジャワ州沖合のカンゲアン(Kangean)諸島からマルク (Maluku)諸島までの約1300キロメートルのあいだに点在している。  既存の文献と,わたしのサマ語の語彙や方言間の相互理解性(mutual intelligibility)に関す る調査によれば,言語的にサマ人は,アバクノン系サマ人(Sama Abaknon),ヤカン人,ス ルー系サマ人,サバ西岸系サマ人,スラウェシ系サマ人の5つの集団に大きく分けられる(図 2を参照)[長津2009a]。これらの集団のあいだでは,言語面での相互理解性は低い。  この言語分類に関しては,本論では次の2つの情報が意味をもつ。第一は,スラウェシ周辺 海域では,東カリマンタン州北部,ブラウ(Berau)県の沖合(後述のマラトゥア群)のサマ 人がスルー系サマ語の話者である他は,すべてのサマ人がスラウェシ系サマ語の話者に属する ことである。長津[1997]で指摘したように,東カリマンタン州北部沿岸のサマ人の多くは, 19世紀末から20世紀末にかけてスルー諸島から移住してきた人びとである。他のスラウェシ 4)サマ人の集団名称のあり方は,国や地域のローカルな政治的文脈と密接に関わっている。また,同じ   地域でも時代によって異なる場合がある。本論では島嗅部東南アジア全体におけるサマ人の呼称のあ   り方については,主題からはずれるため,これ以上,深く立ち入らない。サマ人の呼称(バジャウを   含む)に関しては,Sather[1997:5・8]を参照。 5)2000年のマレーシア・センサスのうち,半島部とサラワク州のセンサスには,「サマ(バジャウ)」と   いう民族カテゴリーは設定されていない。そのため,両地域のサマ人人「1は不明である。       49

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白山人類学 15号 2012年3月 4彰・   ㌦・守’ 、←㌦∼

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 インドネシァ   図1 島嗅部東南アジアにおけるサマ人の人口分布(2000年) ★フィリピンは州(proVince),マレーシア・サバ州は郡(daerah),インドネシアは県 (kabupaten)を単位とする 出典:各国の2000年センサスをもとに作成 サバ州 マレーシア    骸羅i’   ばジ.灘・、、 x ・黛難竺、 縁鰹灘タ・ ぼiξ饗㍗バ, ◇﹂  tuqsw,.薇    ℃. インドネシァ Capul綱スルー系サマ人    品スラウェシ系サマ人    ≡サバ西岸サマ人 4a  一    灘灘ヤカン人    ■アバクノン系サマ人    一一一国境 Mindanao       N       !

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〇  250 500   1eOOkm    図2 言語を基準とするサマ人の下位分類 出典:Grimes(ed.)[2000]および筆者のフィールドワークによる

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系のサマ人は,島嶋部東南アジアで植民地化が始まる16世紀より前に,スルー系のサマ人と は分かれたと推測されている[Pallesen 1985]。第二は,スラウェシ系サマ語は,その話者が 広範囲に分布しているにもかかわらず,比較的,均質であることである。スラウェシ系サマ人 の集落の分布域の広さは,東西約1100キロメートル,南北約1200キロメートルに及ぶ(後の 図3参照)。このように広い範囲で均質的なサマ語が話されていることは,スラウェシ系サマ 人どうしでの,サマ語を基盤とする移動・交流がきわめて頻繁に,かつ長期にわたり繰り返さ れてきたことによると考えられる[長津2009a]。 2生態的基盤としてのサンゴ礁とその社会的意味  生態環境の面からみると,サマ人の集落はサンゴ礁の卓越した島峻・沿岸域に集中している。 集落の多くは,造礁サンゴの上,つまり海上に形成されている。  サマ人の多くは,18世紀頃までには,熱帯産ナマコ(Holothuriidae spp.)をはじめとする 中国向けの特殊海産物の採取に専業的に従事するようになっていた6)。特殊海産物には,ナマコ の他,天然真珠やシロチョウ貝(Pinctada maxima),ベッコウに加工するためのタイマイ (Eretmoche!ys imbrieata)などが含まれる。特殊海産物の輸出は,18世紀半ばから19世紀 前半にかけてスルー諸島で隆盛をきわめたスルー王国などの島峻部東南アジアの港市国家にと って重要な経済基盤であった[Warren 1981]。その経済的価値は,いまなお大きい。  サンゴ礁海域は,これらの海産物の主要な漁場である。サマ人がサンゴ礁域に集中的に居住 するようになったひとつの理由は,かれらが経済的価値の高いこれらの特殊海産物を求めて移 動・移住を繰り返してきたからである[Sopher 1977(1965)]。  ただし,サマ人の人口分布がサンゴ礁域に集中しているのは,少なくともいくつかの地域で は,島喚部東南アジアの周縁地域に植民地支配が浸透するようになった後の,マクロな政治過 程とサマ人との相互作用の帰結でもあった。  現在のマレーシア・サバ州南東岸,センポルナ(Semporna)海域の例を挙げておこう。19 世紀後半,スペインによる植民地支配は,フィリピン諸島の北中部からスルー諸島全体に拡大 した。20世紀初頭以降は,スペインにかわってアメリカがスルー諸島で実効的な植民地支配を 展開していった。こうした植民地化の過程で,数千人規模のサマ人がスルー諸島からセンポル ナ海域に継続的に移住した[Warren 1971]。その移住を微視的にみると,サマ人は広大なサ ンゴ礁に囲まれた島々を意図的に選んで居住地としていたことがわかる[長津2009b]。浅海に 広がるサンゴ礁とそれに囲まれた島々は,海上での武力行使をもっぱら大型の蒸気艦船に依存 していた西欧の植民地国家にとって,もっとも接近が困難な地理空間だったのである。 6) 特殊海産物とは,東南アジア研究者である鶴見良行の用語で,現地では一般的に利用することがなく,   もっぱら域外に輸出することを目的として採取・加工される海産物を指す[鶴見1990コ。       51

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白}⊥」人類学15号2012年3月  センポルナ周辺のサマ人は,イギリス北ボルネオ会社(British North Borneo Company)が 現在のサバ州に相当する地域を統治下においた1881年から約30年間,その支配に抵抗し続け た。このように長期にわたりサマ人が植民地支配に抵抗し続けることができたのは,かれらが サンゴ礁を利用して直接,間接に,その攻撃を回避していたからである[Warren 1971;長津 2004a,2009b]。同時期,インドネシア・カリマンタン東岸でも,サマ人はサンゴ礁を利用して, オランダ領東インド政庁の蒸気艦船を逃れ,海賊行為を続けていた[Verschuer 1883]。  このように,サマ人がサンゴ礁を居住空間とするようになったのは,単なる経済生活面での 生態的適応の結果ではなく,近代以降の植民地国家をはじめとする「外部」権力への抵抗と, その相互作用の歴史過程でのかれら独自の「適応」の帰結でもあったと考えたほうがよい。同 時に,そうした「適応」のあり方は,かれらの移動が,必然的に近代国家のマクロな政治空間 の周縁に向かうものであったことにも留意しておきたい。

IIIスラウェシ周辺海域のサマ人と集落群

1人口分布と集落群  前掲の図1からわかるように,インドネシアではサマ人の人口は,スラウェシ島を取り囲む 海域に分布している。総人口は158,970人である。図3は,スラウェシ島周辺域に焦点をおい たサマ人集落の分布図である。図には,サマ人の人口が50人以上の行政村(desa)すべてを人 口規模を表す記号により示している。  図ではまた,これらのサマ人集落を,地理的に近接する14のまとまりに分けている。この まとまりを集落群(クラスター)と呼び,そこに含まれる中心的な地名  島,湾,海峡ある いは都市の名称  に従って便宜的に名を付した。わたしは,これらの集落群のうち,マルク 諸島のバチャン群を除くすべての群のいずれかの集落を訪問し,短い調査をおこなったことが ある。上に地理的に近接するまとまりと述べたが,調査のさいの聞き取りで,群の内部の集落 がより日常的な往来と密接な親族間の結びつき,つまり社会関係で結ばれていることも確認し ている。つまり,これらの集落群は,サマ人の日常的な生活圏,あるいはミクロな社会空間で あると考えてもよい。  ただし,それぞれの集落群内部の社会的距離は,かならずしも同質ではない。たとえば,ス ラウェシ東岸に位置する4つの集落群(トミニ群,バンガイ群,クンダリ群,ブトン群)は,互 いの往来と親族関係がきわめて密である。4っの集落群の内部におけるサマ人どうしの社会的距 離は,おそらく他の集落群内部でのサマ人のそれと同じ程度であると思われる。社会関係の近 接性という観点からは,4つの集落群をまとめてひとつの群とみなすこともできる。  図に示した集落群の設定には,こうしたあいまいさが含まれている。それでも,スラウェシ

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    図3 スラウェシ周辺海域におけるサマ人集落と集落群 出典:インドネシア中央統計局電子版2000年センサスおよび筆者のフィールドワークによる 周辺海域の人口分布を視野においてサマ人の生成過程を理解するという本論の目的についてい えぱ,図の集落群の分類は,地理的な距離と社会的な距離の双方を考慮したうえで示しうる, 現時点でもっとも有意な分類ではある7)。 2集落群間の関係  次にスラウェシ周辺海域の主なサマ人集落群について,各集落群どうしの往来や移住,通婚 といった社会関係に着目して簡単に説明する。ただし,これまでの調査で他の群との社会関係 を確認することができていないため,バチャン群とナイン群は除外する。ここでは,海を媒介 とする空間のまとまりにしたがって,対象地域を(a)マカッサル海峡域,(b)スラウェシ東岸, (c)小スンダ列島およびカンゲアン諸島の3つに区分して記述していく。なお,各群の後に記 したカッコ内の数字は,図3に示した集落群の番号に対応している。 7)そもそもインドネシアにおけるサマ人の人口とその分布は,2000年のセンサスにおいてはじめて明ら   かになったばかりである。       53

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白山人類学 15号 2012年3月 (a)マカッサル海峡域  マカッサル海峡域には,カリマンタン島北東のマラトゥア群(1),スラウェシ島中部のトリ トリ群(2),東カリマンタン南東岸のプラウ・ラウト群(3)の3つの集落群がある。既述のよ うにマラトゥア群のサマ人は,スラウェシ周辺海域で唯一,スルー系サマ人に属する。マラト ゥア島やダラワン島などの離島では,サマ人が人口の圧倒的多数を占めており,かつ人口規模 も大きい。それらの島では,サマ人の人口は1,000人を超える。  スルー諸島やサバ南東岸のサマ人は,遅くとも19世紀半ばから,ナマコの採捕などを目的と してマラトゥア群に移住するようになった[Warren 1981;長津1997]。マラトゥア群のサマ人 と,スルー諸島やサバ南東岸のサマ人が,密な親族関係で結ばれるようになったのは,この時 代以降のことである。19世紀末,スルー諸島,サバ南東岸,マラトゥア群を含む東カリマンタ ン北部のあいだには,植民地国家によって国境線が引かれた。しかしその後も,これらの地域 のあいだのサマ人の移動・移住は,越境というかたちをとって続き,親族関係も現在に至るま で維持されている[長津2004a]。  スルー諸島からマラトゥア群に至る社会関係は,部分的にトリトリ群のサマ人集落にもつな がっている。しかし,トリトリ群のサマ人集落は全体としてみた場合,比較的,独立性が高い。 つまり,他の集落群のサマ人との往来,移住はあまり頻繁ではない。  マカッサル海峡の南側に位置するプラウ・ラウト群では,サマ人集落はやや分散している。 プラウ・ラウト群とマラトゥア群のサマ人のあいだには,あまり頻繁ではないが,往来はある。 しかし,それぞれの群の集落において,他方の群のサマ人との具体的な親族関係が語られるこ とは少なかった。他方,プラウ・ラウト群のサマ人と,そこからさらに南下したカンゲアン群 (9)のサマ人とのあいだには,ハタ科の魚の採捕や生活物資の島喚問交易,あるいは親族間の 相互訪問などを目的とする往Xが,比較的,頻繁にある。 (b)スラウェシ東岸  スラウェシ東岸,つまりミナハサ半島南岸からブトン島にかけての海域には,トミニ群(5), バンガイ群(6),クンダリ群(7),ブトン群(8)の4つの集落群がある。それぞれの内部で は,多数のサマ人の集落が狭い範囲に集中しており,またいずれの集落群にもサマ人の人口が 1,000人を超す大集落が複数含まれている。こうした比較的,人口稠密な集落群が南北に連な っていることが,スラウェシ東岸におけるサマ人の集落分布の地理的な特徴といえる。  この海域のサマ人の集落群は,単に地理的に近接するだけでなく,互いのあいだの通婚や移 住,往来などの社会関係も緊密に連続している。たとえば,バンガイ群のバンガイ諸島のサマ 人は,スラウェシ東岸および次に述べる小スンダ列島のすべての集落群のサマ人と通婚または 親族関係で結ばれていた。それらの関係はいずれも,個別の事例により確認しうる具体的なも 54

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のであった[長津2009b]。  スラウェシ東岸のサマ人集落の多くは,南スラウェシ半島の東岸(マカッサル沖)ないし西 岸(ボネ周辺)から移住してきたサマ人によって形成された。ソーファーによれば,南スラウ ェシ半島のサマ人の東岸への移住は,16世紀から17世紀にかけての,ゴワ王国(kerajaan/ kesultanan Goa)やボネ王国(kerajaan/kesultanan Bone)などのイスラーム王権国家の勢 力圏の拡大にともなって始まった。また,1667年のオランダ東インド会社とボネ王国の連合軍 によるゴワ王国の制圧,ならびにその後のオランダ東インド会社によるマカッサル港の支配は, マカッサル周辺のスプルモンデ諸島などを拠点としていたサマ人のディアスポラを引き起こし た。かれらのスラウェシ東岸への移動・移住は,その後,より頻繁になったと考えられている [Sopher 1977(1965)] 。 (c)小スンダ列島およびカンゲアン諸島  小スンダ列島には,アラス群(10),サペ群(11),マウメレ群(12),ロティ群(13)の4 つの集落群がある。そのうち前三者は,フロレス海に面する北岸と,フロレス海からサウ海に 抜ける海峡に集中している。これらの集落群にも,人口が1,000人を超す大規模な集落がひと つないし複数ある。また,ここではサマ人の集落群は地理的に連続せず,距離を隔てて点在し ている。3つの集落群のサマ人は,南スラウェシ半島東岸のバジョエ(Bajoe)から移住してき たサマ人が最初に自分たちの村を拓いたとする歴史認識を共有している。  小スンダ列島の3つの集落群のあいだの人の往来は頻繁であり,それぞれのサマ人は互いに 密な親族関係で結ばれている。さらに,先に触れたように,各集落群のサマ人と東スラウェシ の各集落群のサマ人とのあいだにも,頻繁な往来と密な社会関係がある。その他,アラス群の サマ人は,カンゲアン諸島のカンゲアン群(9)のサマ人の一部と近い親族関係にある。両者の あいだのサマ人の往来も頻繁である。  小スンダ列島の南,ロティ群のサマ人は,小スンダ列島の各群のサマ人,およびスラウェシ 東岸のサマ人と密接な社会関係で結ばれている。ロティ島北東のぺペラ(Pepela)は,スラウ ェシ東岸のサマ人が,オーストラリア国境域のアシュモア礁(Ashmore Reef)にサメやナマコ, タカセ貝を求めて出漁するための拠点になっている。スラウェシ東岸のサマ人の移動史を調べ たステイシーによれば,ぺペラの集落は,ブトン群のサマ人の移住によって形成された。移住 は1950年代に始まり,アシュモア礁でのサメ漁が盛んになる1980年代から本格化した [Stacey 2007:28・30] 。  ソーファーおよびフォックスによれば,南スラウェシやスラウェシ東岸を拠点としていたサ マ人は,18世紀までに,オーストラリア北岸にナマコ等の採捕のため出漁するようになり,19 世紀前半までには,小スンダ列島からロティ島周辺に至る島々に集落を形成した。小スンダ列 55

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白山人類学 15号 2012年3月 島では,南北に抜ける海道上にサマ人の集落が形成されていることを先に述べた。それは,ス ラウェシ島沿岸部のサマ人が,17,18世紀から南方に漁場を拡大していった歴史過程の所産で あると考えられる[Verschuer 1883;Sopher 1977(1965);Fox 1977]。

IVサマ人と異種混渚性

1インドネシアにおけるサマ人のアイデンティティとその様式  1970年代前半にスラウェシ島ミナハサ半島南岸のサマ人集落,トロシアジェ(Torosiaje)村 (本論でいうトミニ群に含まれる)で調査をおこなったザコトによれば,サマ人はすべての人 間をサマとバガイ(baga1)の2つに大きく区分していた。自分たちと同じ生活様式を持つ,っ まり船上生活を営むかあるいは海上集落に住むのがサマであり,そうでない人びと,つまり陸 に住む人びとはバガイに一括された8)。生活様式にくわえて,サマとバガイを分ける重要な指 標になっていたのはサマ語(baong Sama)であった[Zacot 1978:19−23]。すなわち,トロ シアジェのサマ人にとって「サマ」は,陸ではなく海を生活空間とし,非サマ語ではなくサマ 語を話すことを中心的な指標とする,二元論的で排他的な人間のカテゴリーということになる。 ザコトは,海に住みサマ語を話すことがサマ人のアイデンティティの源泉であり,たとえば特 定の土地への帰属はかれらにとって特に意味を持たないと指摘している[Zacot 1978:19−23, 29]。  現在のスラウェシ周辺海域のサマにとっても,多くの場合,サマ語を話すことと海を生活の 場とすることは,アイデンティティの源泉であるように思われる。特定の土地との歴史的結び つきは,いまもかれらの自己認識において特別な意味を持たない。こうした自己定位の仕方は, 見方をかえれば,サマ人が,異なる民族的出自の人びとを包含する海民集団として生成してき た,あるいは再編成されてきた可能性を示唆している。  多くの地域においてサマ人は,政治経済および文化(特に宗教)の面で周縁的地位におかれ てきた。それゆえサマ人は,しばしば政治的,文化的に優位な集団の文化要素を取り入れ,同 時に通婚などを通じてその優位集団に同化してきた。そうした例は,スルー諸島の中部,ボネ 湾西岸やミナハサ半島北岸など,いくつかの地域でみられる[e.g. Stone 1962;Spoehr 1973: 28−29;Sopher 1977(1965)1146・154;Pallesen 1985:28・30]。南スラウェシ半島西岸,マカッ サル市沖合のスプルモンデ(Spermonde)諸島では,19世紀まで「バジョ」と呼ばれていたマ 8)ザコトは,インドネシア語で「ブルバガイ・バガイ(berbagai−bagai)」というときの「バガイ」,っま   り「(他の)様々な」が,トロシアジェのサマ人が言うバガイの語源であるとしている[Zacot 1978]。   ただしスルー系サマ語では,バガイは「友人」を意味する(サマ人,非サマ人は区別されない)。スル   ー系サマ語のバガイが,トロシアジェのサマ語のバガイの語源である可能性も排除できない。 56

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カッサル沖合の人びとの一・部が,徐々にマカッサル語を話すようになり,現在では自らをマカ ッサル人とみなすようになっている[長津2009a]。  一方,スラウェシ周辺海域では,逆に他の民族を出自とする人がサマ語を日常言語化し,先 に述べたような自己定位の仕方にしたがって,「サマ人になった」と考えられる例がいくつかの 地域でみられる。以下の2つの節では,長津[2009a]の一部を要約して,そうしたサマ人生 成の具体的な事例を示す。 2カンゲアン諸島サプカン村におけるサマ人生成の事例  スラウェシ周辺海域の主要なサマ人集落,つまりサマ人が人口の多数を占め,かっその人口 が数百人ないし1,000人を超すような大規模集落(図3を参照)では,たいていサマ語が村レ ベルのリンガ・フランカになっている。さらに,そうした大規模集落では,サマ語とは異なる 言語を母語としていた人びとまたはその子孫が,サマ語を日常言語化し, 「サマ人になってい る」パターンがしばしばみられる9)。  なかでもサマ人の生成ともいうべき現象が特に顕著であると思われたのが,カンゲアン諸島 である。以下は,同諸島の中心地,サプカン(Sapekan)島の事例である。  サプカン島は,サンゴ礁に囲まれた広さ1平方キロメートル弱の小島である。この島を主な 行政区とするサプカン村(desa)は,東ジャワ州スムヌプ(Sumenep)県サプカン郡に含まれ る。2000年センサスによれば,サプカン村の人口は11,754人。うちサマ人が5,526人,マド ゥラ(Madura)人が4,296人で,それぞれ総人口の47%と37%を占めている。村で文化的, 政治経済的な優位集団になっているのはサマ人であり,リンガ・フランカはサマ語である。  このようにサプカン村では,住民の多数がサマを名乗り,日常的にサマ語で会話している。 しかしながら,この村のサマ人のあいだでは,サマ人としての自己定位,あるいはサマ語使用 が過去数世代にさかのぼることは稀である。両親双方がサマ人でも,サマ語話者でもないとい う「サマ人」さえいる。そうした人たちが親の民族属性として言及したのは,マンダル (Mandar)人,マカッサル(Makassar)人,ブギス(Bugis)人,マドゥラ人,ジャワ(Jawa) 人,あるいは華人(Cina/Tionghoa)であった。前三者は,スラウェシを故地とする民族,マ ドゥラ人は西に隣接するマドゥラ島において多数派を占める民族である。  A氏(男性)とその親族の例をあげよう。A氏はサプカン島生まれで,年齢は33歳(2007 年)。彼はサプカン島で,もっとも成功した鮮魚仲買人の一人である。彼は,村びとと会話す 9) わたしの調査では,以下で取りあげるカンゲアン諸島の他,北スラウェシ州マナド沖のナイン(Nain)   島(サマ人の人口,1,404人),ゴロンタロ州トミニ湾北岸のトロシアジェ村(同1,808人),中スラウ   ェシ州トミニ湾のトギアン(Togian)諸島のカバルタン(Kabalutan)村(同318人),南東スラウェ   シ州クンダリ北部のレモ・バジョ(Lemo Bajo)村(同723人),スンバワ島北西沖のブギン(Bungin)   島(同2,637人)などでこうしたパターンがみられた。       57

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白山人類学 15号2012年3月 るさいも,家族内においても,サマ語で話す(A氏も家族も,流暢にインドネシア語を話す)。  はじめA氏は,自らを「サマ・スラウェシ」,っまりスラウェシ出身のサマであると名乗っ た。しかし経歴を聞くと,生まれ,育ちともにサプカン島である。なぜ「スラウェシ」なのか を尋ねると,父のB氏が「スラウェシ出身のサマであるから」と答えた。しかし後にB氏自身 に聞くと,彼はスラウェシ出身ではあるが,民族出自の面ではマンダル人であることがわかっ た。結果的にA氏が出自の面でサマと結びっいたのは,母方の祖母が「純粋なサプカン島民で, サマ人の子孫であったらしい」という点だけであった(母方の祖父はマドゥラ人)。それでも 彼にとっては,自らがサマ人であること,また二人の子供がサマ人であることは自明のことの ようであった。  A氏の妻C氏(30歳)は,最初は自らをサマと名乗っていた。しかし,経歴を聞きはじめる と「チナ・マドゥラ(Cina Madura)」,つまり華人とマドゥラ人の子供であると言いなおした。 生まれはマドゥラ島のスムヌプであるが,4,5歳の頃までにサプカンに移り住んだ。父と母も 「チナ・マドゥラ」であるという。C氏は,中国語を話すことはできない。また,マドゥラ語 も「あまり上手ではない」。C氏が村の生活で日常言語としてきたのはサマ語であり,現在, 夫や子供ともサマ語で話している。  A氏の父のB氏(62歳)は,スラウェシ島南西部のサプカト(Sapukat)島で生まれたが, 数年のうちに両親に連れられサプカンに移った。彼は,父と母ともにサプカト島生まれのマン ダル人であるが,自らをサマと名乗っている。父母は,かつてはマンダル語で話していたよう に思う,と述べた。ただB氏自身は,「子どもの頃から」日常的にサマ語で会話をしてきたし, いまもそうであるという。  まとめると,まずA氏の妻のC氏と父のB氏は,出自の面ではまったくサマ人と関係してい なかった。A氏の場合は,サマ人との出自面での関係を見いだすことができるといった程度で あった。にもかかわらず,A氏とB氏は自らがサマ人であることを自明のことと考えており, また三人ともサマ語を日常言語としていた。A氏とC氏の子供は,当然のようにサマ人とみな されていた。  この節のはじめに述べたように,A氏たちの事例はけっして例外的なものではない。サプカ ン島では,多くの住民が出自に関わらずサマ語を日常言語化し,また自らをサマ人とみなして いる。A氏や何人かの村びとは,しばしば「サマ語を話す人はサマ人ではないか(kalau bicara baongSama, makanya dia orang Sama, bukan?)」と述べた。その言葉は,サプカン島におけ るサマ人の自己定位の様式,つまり血縁面での出自や出身地ではなく,サマ語がその指標とし て卓越することを端的に示していると考えられた。 58

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3歴史資料にみるサプカンの民族状況  サプカン島においてサマ人ではなかった人びとが,サマ語を日常言語化し,サマ人であろう とする傾向は,現在のこの島々における民族と言語をめぐる状況,つまりサマ人が人口,文化 (宗教),政治経済のすべての面で優位集団であり,それゆえサマ語がリンガ・フランカにな っている状況に起因すると解釈することはできる。しかし植民地期にまで時代をさかのぼると, サマ人はもともとこの島の多数派であったわけではないし,また文化,政治経済の面での優位 集団でもなかった。そうした時代において,サマ語がリンガ・フランカであったとも思われな い。  1917年に出版された『オランダ領東インド事典』のカンゲアン諸島に関する項目では,マド ゥラ人,ブギス人,マカッサル人がその主な住民であると記されている。加えて,その他の住 民として,カンバン人(Kambangers)が挙げられている[Encyeloρredie van IVedθrlandseh・ Indib’1918:267]。カンバン人とは,在地の住民がウォン・カンバン(Wong Kambang)と呼 んでいた人びとを指している。ウォン・カンバンは,ジャワ語で「(水上に)浮かぶ人」を意味 する。このウォン・カンバンと呼ばれていた人びとが,サマ人であった可能性は高い。ただし, かれらは人口的には少数にすぎなかった[Sopher 1977(1965):152・153]。  1930年にオランダ領東インド政庁が実施した人ロセンサスでは,カンゲアン諸島を含むよ り大きな行政単位であるスムヌプ県の民族別人口が掲載されている。ただし,そこにも「バジ ョ」というカテゴリーはない。同センサスによれば,スムヌプ県の人口の圧倒的多数(原住民 人口の約99%)はマドゥラ人で619,084人,それに次ぐのが南セレベス(スラウェシ) (Zuid・Celebes)出身者で5,914人であった。ここでの南セレベス出身者とは,主にマカッサ ル人とブギス人を指すと思われる[Department van Ekonomische Zaken, Nederlandch−Indie 1934:151] 。  他方,既述のように2000年のセンサスによれば,サプカンのサマ人の人口は5,526人で, 全体の約半数を占めるまでになっている。スムヌプ県全体ではサマ人の人口は,13,832人に達 する。  これらの資料にしたがえば,カンゲアン諸島のサマ人口は,1930年以降に大幅に増加したこ とになる。サマ人口の極端な増加は,サマ人が移住してきたことと,同時にもともとの住民や サマ人以外の移住者がサマ人に「なった」ことによって生じたといえる。上述の事例をはじめ とする調査地での聞き取りにしたがえば,おそらくは後者のパターンのほうが多い。つまり, ここでは様々な出自を持つ在地住民と多数の移民が,もともとは少数派にすぎなかったサマ人 の言語を日常言語化し,また自らをサマ人とみなすようになったと推測できる。移民の多くは, 海に生活の糧を求めてサプカンに移ってきた人びとである。これらの点をふまえていえば,い ま述べた「サマ化」の過程は,サマ人がまさに異種混渚の海民集団として生成してきた過程で 59

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白U」人類学 15号 2012年3月 もあったのである。 V 「サマ化」の文脈と社会空間 1異種混渚の歴史性  サマ人が異種混渚的な性格の強い集団であることは,植民地官僚らによっても古くから,そ してたびたび指摘されてきた[Lapian 2009]。あるサマ人のあいだで異種混渚性が属性として 顕在化していたということは,そのサマ人のあいだでそれ以前にサマ化が生じていたことを意 味する。以下に記すのは,サマ人に関するもっとも初期,1627年の報告である。報告では,オ ランダ東インド会社マルク総督のパドブルッへ(Robertus Padbrugge)が,「バジョ(Badjo)」 という呼称を用いてサマ人を次のように描いている。  バジョ〔サマ〕人は,酒をやれば,耐え難く粗野で声高になる民族(volk)の混合であ る。実際そのなかには,あごひげの長い中国人,ひげのないジャワ人,歯を削ったマカッ サル人,またバリ人,マレー人がいる。さらには,腰をかがめてわたしたちに拝礼する人 もいる。そのやり方はわたしたちオランダ人がやるのと同じで,きちんとわたしたちに敬 意を表しているようにみえる。わたしたちはそれをみて,彼はかつて高貴なオランダ人と 知り合いであったか,あるいは彼とともに住んでいたに違いないという結論をひきだした。 わたしたちは,彼は逃亡奴隷であろうと考えている……[Lapian 2009:82・84]10)。  上記の報告から200年以上がたった後,1905年には,オランダ領東インド政庁のバンガイ (Banggai)諸島に関する報告が,サマ人の異種混渚性についてより具体的な記述を残してい る。なお,ここでも呼称には「バジョ」が用いられている。  バンガイのバジョ〔サマ〕人のプンガワ(poenggawa)〔首長〕は,バジョ人どうしの 諄いの解決を〔配下の〕カピタン(kapitan)〔長〕に委ねている。……カピタンはマンダ ル人出身の男である。このことは特に驚くべきことではない。なぜなら,バジャウ人には, マカッサル人やブギス人など,外来者の影響が多くみられるからである。バンガイに住む マカッサル人やブギス人,マンダル人は,〔漁業や海洋交易などバジョ人と〕同じ生業を 持っており,また頻繁にバジョ人の女性と結婚する。それゆえ,かれらは自らをバジョ人 とみなすようになっている。バンガイの在地住民もまた,かれらはバジョ人であると考え 10)原文の史料は次のとおり。Padbrugge, Robertus, Berigtinge der Jegen woordige Staat, en Stand, der  Mo1UCCOS, met het Geenθ Daar aan Endθ omtrθnt Gθhoort, Mitsgaders wat er welAlommθ Gelaten  ofte Gedaen Diende, Ternate, August 1682, f()1.232−233,Arsip Nasional R.1.

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ている。さらにオランダ領東インド政庁任命の在地官吏も,かれらをバジョ人に分類して いる [Goedhart 1908:474]。  このようにサマ人の異種混渚性についての指摘は,時代を超えて繰り返されてきた。そのこ とはっまり,「サマ化」が歴史的に連続してきた現象であることを示しているといえるだろう。  ところで,ここで留意したいのは,サマ人を主体とする民族生成の構図が,先に言及した南 スラウェシのスプルモンデ諸島などの例のように,サマ人が多数派民族に同化していた場合の それと明らかに異なる点である。スプルモンデ諸島では,マカッサル人が歴史的に多数派かっ 政治的な優位集団であり,そうした状況で少数派であったサマ人がマカッサル化したと考えら れた[長津2009a]。  しかし,スラウェシ周辺海域のいずれの地域においても,これまでにサマ人が文化的,政治 的な優位集団を形成していたことはない。多くの場合サマ人は,マカッサル人やブギス人のよ うな南スラウェシの優位集団のみならず,スラウェシ周辺域に住む他の多くの集団に対しても, 周縁的な社会的地位におかれてきた。にもかかわらず,先に取りあげたサプカンや,スラウェ シ東岸や小スンダ列島の主なサマ人の集落では,地域的な優位集団の成員を含む様々な出自の 人が,サマ語を日常言語化し,サマを名乗るようになっていた。そしてそうした現象は,歴史 的に繰り返されてきたと考えられた。では,どのような文脈のもとで,非サマの出自を持つ人 びとがサマ語を話し,サマ人を名乗るようになったのか。いかにサマ化は生じたのか。 2サマ人集落の分布と民族間関係  サマ化のひとつの主要な文脈は,サマ人の集落が位置する社会空間の性格に求めることがで きると考えられる。サマ人の人口が数百人ないし1,000人を越すような主要な集落は,多くの 場合,近代国家や在地権力の双方の政治空間の周縁に形成されてきた。サマ化は,そうした周 縁性を特徴とする社会空間の文脈において生じてきたのではないか,ということである。  以下では,いま述べた2つの政治権力のうち後者,つまりゴワ王国やボネ王国など,スラウ ェシ周辺海域の在地王権を基点としてマンダラ的に広がる政治圏を念頭におきっっ,そうした 在地王権の担い手であったマカッサル人やブギス人などの主要民族の分布との地理的関係から, サマ人の集落群が位置する社会空間の特徴を考えていく。  図4は,スラウェシ周辺海域の南部における主要民族の分布を行政区分に従って地図化し, その上にサマ人の居住地の分布図を重ね合わせたものである。基礎データは,インドネシアの 2000年センサスの電子版である。主要民族の分布にっいては,郡(kecamatan)を単位とし, 61

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白山人類学 15号 2012年3月 凡例 ・ サマ人ロ/村;50−99人 ●  サマ人口/村:100−499人 ●  サマ人ロ/村・500人以上 Bugis多数派民族名  e      イ ・\司レ KALIMANTAN Banjar テ Pasir Bugis Laut Jawa

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図4 スラウェシ周辺海域(南部)における多数派民族の分布とサマ人集落 *空間単位は村(kecamatan) 出典:インドネシア中央統計局(BPS)の電子版2000年センサス、および筆者の   フィールドワークをもとに作成 各郡でもっとも大きな人口比率を持つ民族を濃淡・紋様等で図示しているID。この図から,人 口分布の面からみたサマ人と他の民族との関係について,次のような特徴を確認することがで できる。  第一は,サマ人の集落が多くの場合,ある民族が多数を占める地域と別の民族が多数を占め る地域との,海を挟んでの「はざま」に位置していることである12)。このように集落群が主要 民族の分布圏のはざまにあることは,同時にその空間が,19世紀までそれらの民族が政治的中 心を占めていた在地の王権の勢力圏や,かれらを主流とする文化圏の境界域,あるいは遷移帯 に重なっていることを意味する。 11)ただし,内陸部のみで多数派になっている民族は除外した。なお,2000年のインドネシア・センサス   では,各州における人口比率の大きさで8番目までに含まれる8つの民族についてのみ,下位の行政   単位でも個別の人口数を示している。そのため,かなりの数の郡で「その他」が多数派になっている。 12)サマ人の集落が,多くの場合,州や県(kabupaten)の境に位置しているのも,こうした集落分布の傾   向と関係していると思われる。 62

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 カンゲアン群を含むカンゲアン諸島は,そうしたはざま空間の典型といえる。カンゲアン諸 島は,地理的にはマドゥラ人の本拠地であるマドゥラ島に接している。19世紀初頭以降は,オ ランダ領東インド政庁によってマドゥラ島と同じ行政区に編入された。その行政区分は,独立 後のインドネシア政府によっても引き継がれた。しかしカンゲアン諸島は,歴史的には南スラ ウェシのマカッサルを拠点とするゴワ王国に属しており,植民地化以降も同諸島と南スラウェ シ各地とのあいだの社会的ネットワークは維持され続けていた。住民の多くは,いまも自らが スラウェシ出身者であることを強く意識している。  他のサマ人の集落群にっいて簡単に触れると,マラトゥア群とトリトリ群は,19世紀末まで, フィリピン・スルー諸島を中心地とするスルー王国(Kesultanan Sulu)とゴワ王国ないしボ ネ王国の勢力が拮抗する場所であった。19世紀半ば,マラトゥア群を版図に含んでいたサンバ リウン(Sambaliung)王国は,スルー王国の権威を承認していた。しかし,在地のサマ人は, ゴワ王国の貴族が記した書状をもってマラトゥア群の海域で漁業をおこなっていた[Dewall 1855]。バンガイ群,トミニ群,クンダリ群は,20世紀はじめまで,ボネ王国とテルナテ (Ternate)王国のそれぞれの勢力が重複する地域であった。この海域ではサマ人は,自らが採 捕した海産物と交換で得られる食料や衣類などの物資がより良い側を選んで「海浜税(bea pasi)」を払っていた[Goedhart 1908:473]。  第二の特徴は,サマ人の集落の多くが,複数の主要民族のはざまのなかでも,特に南スラウ ェシの優位集団であるブギス人と他の民族とのはざまに位置していることである。このことは, サマ人集落の分布が,ブギス人の人口分布と特に密接に関係していると言い換えることもでき る。  サマ人の集落の位置とブギス人の人口分布との関係を,少し詳しくみてみよう。図5.1∼図 5.4は,スラウェシ周辺海域のうち,東カリマンタン州から南カリマンタン州にかけての沿岸と, 中スラウェシ州の南東部から南東スラウェシ州東部にかけての沿岸に位置するサマ人の集落群 と,ブギス人の人口割合が一割を超える村の分布を重ね合わせ,地図化したものである。先の 図4よりは,大縮尺の地図を基盤図として用いている。  これらの地図をみると,ほとんどのバジャウ人の主な居住地が,一定のブギス人人口がある 村のなかに位置するか,あるいは隣接していることが,まずわかる。さらに,それぞれの地域 における両者の集落の位置をみると,ブギス人の分布が都市や交易の拠点に集中し,他方でそ れらのブギス人居住地からやや距離をおいた沿岸や離島にサマ人の人口が集中するという居住 空間のパターンを読み取ることができる。東カリマンタン州北東岸のタンジュン・ルデブ (Tanjung Redeb)を中心とする地域(図5.1),同州南東のタナ・グロゴト(Tanah Grogot) やバリクパパンを中心とする地域(図5.2),中スラウェシ州南東のコロンダレ(Kolondale) を中心とする地域(図5.3),南東スラウェシ州のコラカ(Kolaka)やクンダリ(Kendari)市 63

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白山人類学 15号2012年3月

曝 一謡ぷ

蓉〉

゜k

汐 図5.1 カリマンタン島北東岸

◎三 1譲寛

 25 50    100Kllometer ・十 Tetuk TOinini  凡例(図5,1∼5.4に共通)   サマ人ロ/村.50・99人 ●  サマ人ロ/村.100・499人 ●サマ人口/村・5・・人以上   サマ人が人口の過半数を

0

  占める村

ブギス人の割合/村10・54、9% ブギス人の翻合/村,50・74.9% ブギス人の割合/村75%以上 W

烏ち

Kep. Banggai 図5.3 スラウェシ島中部東岸

⇔含

s十

・簗継竃 図5.2 カリマンタン島南東岸   ; ●口     7    (r         D        tS O  25 50    100Kitometer     図5.4 Laut Banda

ち駕

    ㌔     、 スラウェシ島南東岸       図5 サマ人集落とブギス人の人口分布 *空間単位は村(desa) 出典:インドネシア中央統計局(BPS)の電子版2000年センサスを    もとに作成 64

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を中心とする地域それぞれにおける,サマ人集落とブギス人の分布との関係はそうした居住空 間のパターンを明白に示している。  こうした居住空間のパターンは,端的にはブギス人が経済的中心に,サマ人がその周縁に位 置することを示しているといえる。ただしそれだけではなく,その居住パターンは,より制度 化された拠点をブギス人が占め,より自由度ないし「違法性」の高い拠点をサマ人が占めてい るとみることもできる。また,海産資源利用の面からは,都市や交易の拠点から離れた沿岸, 離島は,同資源が十分に開拓されていない「海域フロンティア」[田中1993;長津2009b]に位 置しているともいえる。

3考察一サマ人生成の文脈

 最後に,これまでのサマ人集落群に関する検討をふまえて,それが位置する社会空間の特徴 とサマ化の文脈をまとめる。その前に,まずサマ人がマカッサル化した,つまり政治的,文化 的優位集団に同化した地域の例として先に挙げたスプルモンデ諸島がどのような社会空間に位 置していたのかを簡単に確認しておく。  スプルモンデ諸島は,東インドネシアの中心都市であるマカッサル市の沖合に隣接する島喚 群である。マカッサル人を政治的主体とするゴワ王国の王都は,マカッサル市の南部のソンバ・ オブ(Somba Opu)に位置していた。その経済的基盤はマカッサル港を基点とする交易であっ た。かつての王都と港を含めたマカッサル市は,在地王権や植民地国家,独立後のインドネシ ア国家の基盤であり,またその社会秩序が支配する空間の中心であった[Mattulada 1982]。 そうした空間を「陸」と抽象化して表現するならば,マカッサル市はつねに「陸からみた中心」   王権国家の中心地,近代国家の行政中枢,主要な交易拠点一であり,スプルモンデ諸島 はそこに近接していた。  議論をサマ化の社会空間に戻そう。これまでにみた集落分布に関するデータに基づいていえ ば,サマ人の集落群はスプルモンデ諸島とは対照的な性格の社会空間に位置していた。それは, 上記の抽象的表現を引き継いでいえば,「陸からみた周縁」と呼ぶことができるような社会空間 である。「陸からみた周縁」とは,在地の王権国家の版図の縁辺,王権を担ってきた主要な民族 集団の勢力圏ないし文化圏のはざまであったような地域であり,また近代国家との関係では, 植民地支配がより遅く,政府の関与が弱く,それゆえに密貿易や海賊の拠点になっていたよう な地域である。  個別の民族との関係では,サマ人の集落の多くはブギス人の移住圏の縁辺に形成されていた ことを確認した。その傾向が顕著にみられたカリマンタン東岸やスラウェシ東岸は,ブギス人 が商品作物栽培のための土地の開拓や,商品作物を主品目とする交易の拡大を目的として移住 を繰り返してきた地域である。その意味で両地域は,ブギス人のフロンティア空間とみなすこ 65

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白山人類学 15号 2012年3月 とができる[田中1993]。微視的にはサマ人の集落群は,そのフロンティア空間のなかの海向 きのフロンティア,いわば二重にフロンティア的性格を帯びた空間に位置していた。  このようにサマ人の集落の多くは,「陸からみた周縁」であり,かつ「海域フロンティア」な いし「二重のフロンティア」でもあるような社会空間に形成されてきた。そのことがサマ人集 落の地理的特徴であるとすれば,サマ化が生じてきたのもまた,そうした社会空間の文脈にお いてであったと理解することができる。  「陸からみた周縁」は,周縁かつはざまであるがゆえに,王権や近代国家の秩序,そうした 秩序に基づく様々な社会的規制や文化的価値がより薄い,あるいはより操作しやすい空間であ るといえる。ゴワやボネなどの王権国家の秩序のもとでは,マカッサル人やブギス人の貴族が 政治的支配層であり,その系譜に連なる人がその証としての「白い血」を持っていた[Pelras 1996]。そうした王権秩序が支配する社会空間では,サマ人は一海事専門家として特別な地 位を与えられることはあっても  王権の中心から広がる階層的な民族間関係の序列の末端に おかれてきた。  しかし, 「陸からみた周縁」の,いま述べたような社会文化的文脈で構成された空間におい ては,そうした民族認識が希薄化した,あるいは階層化された民族間関係に基づく自己定位そ のものが特に意識されなくなっていたのではないか。そうでなければ,マカッサル人やブギス 人,マンダル人が,サマ語を話し,サマを名乗るような過程は拡大しなかったはずである。  他方で,「陸からみた周縁」であると同時に「海域フロンティア」でもある社会空間では,サ マ語を話し,サマを名乗ることに,積極的な意味が見いだされていたのかもしれない。たとえ ば,そのことが,漁業や海洋交易などの海を基盤とする経済活動に従事し,そのための海道ネ ットワークを利用するうえで有効であったというような可能性である。さらに踏みこんでいえ ば,サマ人であることは,「海域フロンティア」に独自の価値観と結びつけられてきたとも推測 しうる。  先に述べたサプカン島で,わたしが民族的な出自について尋ねていたとき(2007年),サマ 人の塩干魚の仲買人のひとり(男性,51歳)がサマ人について次のように語ったことがある。  サマ人は雇われ仕事(buruh)を好まない。それは,ジャワ人やマドゥラ人がやること だ。サマ人は海を渡り(rantau),幸運を求める。このように海を渡って幸運を求めるこ とを,サマ語では「ダッレ(dalle)」という。島をたどって航海すれば,かならずサマ人 の集落がみつかる。そこでハタやウミガメをとっても良いし,コブラや干し魚を買って マカッサルやスラバヤに運んでも良い。海はサマ人の商売ネットワーク(jaringan dangan)で結ばれている。わたしの祖先もそのネットワークを頼って,スラウェシから この島に移住してきた。 66

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 「サマ人は雇われ仕事を嫌う」一このステレオタイプは,サプカン島での聞き取りのさい にしばしば語られたサマ人像である。サマ人を生成させてきた文脈のひとっは,こうした独立 志向と投機性,そして移動(=非定着)に価値を見いだすような文化的な文脈であった。もち ろん,そうした価値志向を持つのは,特にサマ人に限らない。島峻部東南アジアの多くの集団 が生業様式の面で独立志向かつ投機的,移動的であること,あるいはそうであることに高い価 値をみいだしていることは,これまでしばしば指摘されてきた。そもそも,上記のような語り は,むしろブギス人が好む自己表象として知られてきた[前田1991;Pelras 1996]。  はじめに述べたように,東南アジア研究では,東南アジア海域世界の生態基盤に発達した典 型的な生活様式を措定し,それにあてはまる人びとを指示するために「海民」という概念を用 いてきた。立本成文[1996]は,そうした東南アジアの海民の生活様式の特徴として,離散移 住傾向の強さ,生業における商業志向の卓越,臨機応変なネットワークによる社会圏の形成の 3つをあげている。  立本の見方から敷術していえば,上に述べたようなサマ人の価値志向は,東南アジアの海民 が共有するアイデンティティ要素のひとつであると考えることができる。そうしたアイデンテ ィティを持つ様々な出自の海民のうち,文化面では遷移帯に位置し,政治面では周縁性や違法 性を特徴とし,経済面では「海域フロンティア」であるような社会空間に特にニッチェを見い だした人びとが,混渚を経て生成した集団一それがサマ人だったのではないか。とするなら ば,いま述べた空間の境域性こそが,サマ化と,その帰結として異種混渚性を持続させてきた 主要な文脈であったということになる。

VIむすびにかえて

 近年の文化人類学の研究において,民族を生成・再編する社会集団ととらえ,その生成・再 編の過程を,国家や国際社会のマクロな政治の文脈に定位し動態的に理解することは,もはや 目新しい試みではなくなっている。東南アジアに関しては,植民地や独立国家の住民登録,民 族分類,センサス,あるいは観光政策といった権力装置とのかかわりで,民族をめぐるポリテ ィクスの歴史過程やそのメカニズムを把握しようとする論考が多数,著されてきた。わたしも また,マレーシアにおけるサマ人の社会的位相の変化を,イスラーム化政策やブミプトラ政策 とのかかわりで論じたことがある[長津2004b,2010]。  他方で,そうした近代国家との相互作用をふまえっっも,同時に歴史地理空間としての東南 アジア海域世界の社会的,文化的連続性に焦点をおいて,この地域の民族の生成や持続のメカ ニズムを具体的に検討し直してみる必要もあるように思う(そうした試みとしては,たとえば 67

参照

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