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日本の新聞における中国報道に関する研究 ―先行研究の整理と今後の課題― 利用統計を見る

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日本の新聞における中国報道に関する研究 ―先行

研究の整理と今後の課題―

著者

陳 洋

著者別名

CHEN Yang

雑誌名

東洋大学大学院紀要

52

ページ

1-15

発行年

2015

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008720/

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要旨

本研究ノートの目的は、日中両国で刊行されている日本の新聞の中国報道に関する主要な 先行研究を、1937年―1945年の日中戦争を境に戦前・戦中・戦後と3つの時期に分けて整理 し、各時期の特徴をまとめた上で今後の課題を提示することである。その結果、日本の新聞 における中国報道のあり方が変わったのは事実であるということが明らかになった。 キーワード:日本の新聞、中国報道、中国のイメージ 1. 研究の背景、目的、方法及び意義 1-1. 研究の背景と目的 1-2. 研究の方法 1-3. 研究の意義 2. 日中戦争以前(1937年以前)における日本の新聞の中国報道 3. 日中戦争期間(1937-1945年)における日本の新聞の中国報道 4. 日中戦争以後(1945年以後)における日本の新聞の中国報道 4-1. 日中国交正常化以前(1964-1972年)における日本の新聞の中国報道 4-2. 日中国交正常化以後(1972年以後)における日本の新聞の中国報道 5. まとめと今後の課題

1.研究の背景、目的、方法及び意義

1-1.研究の背景と目的 日本の新聞は、その膨大な発行部数と高い信頼度により、日本人の世界認識を大きく左右 していると考えられる。多くの日本人にとって、必ずしも身近な存在とは言えない外国につ

日本の新聞における中国報道に関する研究

―先行研究の整理と今後の課題―

社会学研究科社会学専攻博士後期課程2年

陳   洋

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いて、なおさら新聞が与える影響は大きいと考えられる。 そのため、日本人の中国認識は日本の新聞における中国報道につながる。例えば、日中両 国の戦争に関する報道や中国の学生デモ活動、北京五輪及び中国の最高指導者の報道などは いずれもこれと関係がある。したがって、日本の隣国である中国に関する新聞報道を扱った 先行研究が多い。 そこで、本研究では、これまで積み上げられてきた日本の新聞における中国報道の先行研 究を整理し、今後の課題を示すことを目的とする。そのため、日中両国で現在までに刊行さ れている主要な研究論文や学術書を収集し、それらが提示した成果や知見の整理を行った。 1-2.研究の方法 本研究では日中戦争を境に、先行研究を日中戦争前(1937年以前)、日中戦争中(1937-1945年)及び日中戦争後(1945年以降)に分けた。というのも、この3つの時期に日中両国の関 係が大きく変化するためである。日中戦争が終結するまで、国家の利益に従わなければなら ないという原則のもとで、新聞の報道は当時の日本政府に厳しく制限されていた。1945年の 終戦以後、日本は民主と法治の国家へと姿を変え、新聞の報道の自由も日本国憲法に保障さ れるようになった。 前述したように、主要な研究論文や学術書は、主に中国の学術論文データベースである中 国知網(www.cnki.net 検索した日付:2015年7月1日)と日本の学術論文と文献資料データベー スである国立国会図書館のウェブサイト(www.ndl.go.jp 検索した日付:2015年7月2日)も利 用し、まとめた。 1-3.研究の意義 本研究の意義は主に次の3点がある。 第一に、本研究には、より長期的な視点で日本の新聞における中国報道の変化を理解する のに役立つ意義がある。本研究では研究対象を3つの時期に分けて考察する。この3つの時期 の長さは70年を超えている。すなわち、本研究を通して、特定の期間に限定することなく、 中国報道の長期的な変化を明らかにすることができる。 第二に、本研究には、日本人の中国認識を形成する諸要素の解明に寄与できる意義があ る。膨大な発行部数を有し、また重要な情報源としての新聞が日本人に厚い信頼を寄せてい るので、日本の新聞における中国報道のあり方を明らかにすることによって、マス・メディ アである新聞がどのように日本人に影響を与えているかを把握するのに役立つ。 第三に、本研究には、先行研究では扱われてこなかった課題を析出できる。先行研究の整 理から、既存の研究では扱われてこなかった課題や手薄になっている課題の発見につなげる ことができる。

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2.日中戦争以前(1937年以前)における日本の新聞の中国報道

日中戦争以前の日本の新聞における中国報道を研究したものは、主に日清戦争(1894年7月 25日-1895年4月17日、中国の通称:甲午戦争)前後の朝日新聞を対象に分析している。先行 研究から見れば、当時の両国は敵対関係にあったため、日本の新聞における中国報道は主に 否定的、一面的な報道であったということが分かる。 郭海燕(2014)は日清戦争が正式に開戦する前の1894年6月2日-1894年8月1日の朝日新聞を対 象に分析し、中国報道の特徴を次の2点にまとめている。 第一に、当時の朝日新聞には清国の陸軍と北洋海軍の動向に関する「小報道」に当たる記 事が多い。「小報道」とは300-400字、10数行以下の比較的短い記事である1。また、ここで 言う「清国の陸軍と北洋海軍の動向」とは主に次の7つの内容を指す。すなわち、「①清国の 出兵と軍隊の移動、軍隊の状況;②清国の陸軍の実力;③清国の海軍の軍制と実力;④朝鮮 入りの清国の官兵と現地の朝鮮人との関係;⑤袁世凱と李鴻章に関する報道;⑥『清国の軍 備総覧』の紹介;⑦他の報道」2のことである。郭はこのような報道が「中立的、情報の価 値も高く、説得力も強い」3という特徴を持つと指摘している。すなわち、当時の朝日新聞 は「清国の陸軍と北洋海軍の動向」を「中立的」に報道する同時に、具体的なデータや事例 を利用して中国との戦争の正当性を日本人に「説得」した。 第二に、戦争と関係のある記事を掲載することを通して、朝日新聞は「開戦の雰囲気を醸 し出した」4。郭によれば、「清国の陸軍と北洋海軍の動向」に関する記事の特徴と異なり、 戦争と関係がある記事の内容は「バラエティに富んでおり、記述も詳細である」5。これを 通して、「日本人はこの日清戦争を契機に『漢文化』や『漢学』と違う中国イメージを持ち 始めた」6と郭は述べている。 王美平(2012)は日清戦争期間(1894年9月17日-11月27日、この期間に日清黄海海戦が起こ り、日本が相次いで中国渤海沿岸を占領した)の朝日新聞における中国報道を分析している。 王によると、この期間の中国報道の焦点は「中国軍の連戦連敗、中国軍の軍記弛緩と汚職腐 敗、敵前逃亡」7である。また、王は当時の朝日新聞において、戦争報道や従軍日記で「わ ざと軽蔑の言葉」を使い、中国を「非難する報道」が見られたこと8を示している。 日清戦争期間の朝日新聞における中国報道を研究する郭・王と異なり、王潤澤(2011)は日 清戦争以後の五四運動(1919年5月4日)後の5月から6月までの朝日新聞に限定し、記事内容か ら中国報道の特徴をまとめている。王によれば、朝日新聞(5月の記事)は、事件が起きた当初 は「日中友好が大切をアピールするのを通して、表面的に客観主義を保っている」9ように 見える一方で、時間の経過とともに、「中国人が熱狂の暴徒になった」10という極端な表現が 多くなる。また、王は、当時の朝日新聞の中に「熱狂の中国の学生はすでに理性を失った。 日本人に害をもたらしただけでなく、自分自身も無意味に身を犠牲にした」11というような 報道が多くあると指摘している。このような報道から、王は日中戦争前の朝日新聞における

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中国報道の特徴として、新聞が「政府の立場に立って報道している」という結論12を出した。

3.日中戦争期間(1937-1945年)における日本の新聞の中国報道

日中戦争期間(1937年7月7日-1945年8月15日)、日本の新聞における中国報道の特徴は、日 中戦争以前とほぼ同じである。というのは、日中戦争中、両国が敵対関係にあり、また新聞 も当時の政府から厳しい統制を受け始めたからである。これは日中戦争以後の状況と比べ、 大いに異なるところである。 鄒燦(2014)は1937年7月7日の盧溝橋事件から1938年1月の「第一次近衛声明」までの間の東 京日日新聞(現・毎日新聞)の中国報道について分析した。鄒によれば、当時の東京日日新聞 における中国報道は盧溝橋事件が中国軍陰謀論を主張しながら、日本が短時間に勝利を収め ることができるという特徴を有する。続けて、鄒は「日本国民に印象を深めるために、東京 日日新聞その報道を繰り返し行った」13と指摘している。また、東京日日新聞は、「日本側は 被害者であり、自衛のために反撃した正当性を強調した」14。鄒はさらに「戦時中(注:日中戦 争中)新聞統制が行われる以前、既に戦争宣伝の役割を自ら担っていた」15と述べている。 鄒の研究対象と異なり、唐思蜀(2013)は日中戦争期間における読売新聞と朝日新聞を研究 対象に、重慶爆撃(1938年12月4日―1943年8月23日)の期間に当たる日本の中国報道のあり方 について研究を行った。当時の読売新聞の報道に関する特徴について、唐は日本軍の中国に 対して行った爆撃に対して、読売新聞の報道は「中国で行った残酷な爆撃に対して、人道主 義から生まれた同情の言葉は少しもなく、ただ日本の軍隊の設備の完備や日本軍の戦闘機に よる爆撃の『偉大な攻撃』を称えただけであった」16と述べている。唐は、朝日新聞が「重 慶爆撃の報道を新聞の一面に載せたことはなかった。その代わりに、新聞の第二面、つまり 外国記事という面に載せた。重慶爆撃に関するニュースはそれほど重要ではないからだ」17 と指摘している。 唐は、読売新聞と朝日新聞の各自の報道の特徴を指摘したうえで、この両紙における2つ の同じ特徴についてもまとめている。 まず、唐はこの両紙における重慶のイメージは同じと指摘している。すなわち、新聞の報 道によって、重慶の様子は国として「腐敗無能であり、外国の援助を待つだけであり」18 軍として「日本軍の攻撃を前に総崩れとなり、大衆の目には最も醜い中国イメージしか映ら ない」19 次に、重慶での爆発の記事では、「共産党に言及した報道もあったが、共産党を報道主体 としての文章はもっと稀であった」20と指摘されている。 金赢(2005)は日本の新聞における中国の報道の特徴について直接に研究しなかったが、し かし、1937年から2004年までの日本のマス・メディアの中国に対する姿勢の変化について考 察した。これは、本研究にとって、参考になる部分がある。

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金の考察によれば、「国益の理念は日本のマス・メディアの報道に影響を与える」21。なぜ なら、金は「日本のマス・メディアの上級者の抱いている国家の発展を自分の責任とするエ リート意識は、彼らが他の分野のエリートと同じように国のために努力する目標につながり、 こういう努力の目標は『国家の利益』である」22と述べたからである。また、この国益の理 念の影響は「客観的、公正、真実、全面的などマス・メディアが持つべき職業上の理念より 深遠である」23とも説明されている。 金の見解を踏まえ、また、日中戦争が終結する以前の日本の新聞における中国報道の特徴 の紹介と結びつけ、本研究では日中戦争が終結する以前の日本政府が新聞を統制していたほ かに、国益も日本の新聞における中国報道に影響を与えた原因の一つであると考える。すな わち、金の「新聞は侵略戦争の急先鋒の役割を果たしていた」24という表現と同一の視点を 取る。なぜなら、「マス・メディアのエリートを含むエリート層は、満州を占領したことは 日本の国益に合っていると信じているからだ」25

4.日中戦争以後(1945年以後)における日本の新聞の中国報道

日中戦争が終結した1945年以後の日中関係に大きな変化が生じたのは、1972年の日中国交 正常化以後と考えられる。本節では、日中国交正常化以前(1964-1972年)と日中国交正常化以 後(1972年以後)の2つの時期に日本の新聞の中国報道を分け、それぞれの時期における日本の 新聞の中国報道の特徴を明らかにする。 なお、1964年から日本の新聞における中国報道に関する先行研究を整理する理由は、1945 年-1964年という期間に中国報道が少なかったということである。例えば、春原昭彦によれ ば、「朝鮮事変の拡大に伴い(中略)また中国軍の参戦まで(注:1950年10月)、共同の新華社ニュ ースが対外的にも大きく評価されることになった」26。中国報道が少ないため、関連する先 行研究も少ない。したがって、本節では、日本の新聞記者が中国に駐在し始まる1964年以後 を対象とした先行研究を扱う。 4-1.日中国交正常化以前(1964-1972年)における日本の新聞の中国報道 1947年に正式に施行された日本国憲法の保障のもとで、日本の新聞における中国報道は日 中戦争が終結するまでにされたような日本政府からの制限を受けなくなった。しかし一方で、 この時期は中国から様々な制限を受け始めるようになった。この点は日中戦争以前・戦争期 間とまったく異なり、今日まで引き継がれてきた。 1964年、日本と中国が『日中双方の新聞記者交換に関するメモ』(通称:『日中記者交換協 定』)に調印したことで、日本の新聞における中国報道が正式に実現された。協定には、「日 中双方は新聞記者を交換することを決定した」27と「第一回の新聞記者の派遣は、一九六四 年六月末に実現することをメドとする」28というような項目があるため、日本人記者は20年

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ぶりに中国の本土に足を踏み入れ、彼ら自身の目とペンで直接的に中国に関することを報道 することができるようになった。これに対して、協定以前の新聞にも中国に関する記事があ ったが、いずれも日本語に翻訳した間接的な新聞記事であった。 『日中記者交換協定』は、日本の新聞における中国報道の実現に寄与したが、その一方で 日本人記者に対する制限は、自由な報道にネガティブな影響ももたらしたと言える。当時の 取材について、産経新聞の初代特派員である菅栄一は、「①取材要求は新聞局に、文書また は電話で提出すること。取材要求の対象となるのは、政府機関・学校・人民公社および工場 など。②北京を離れ、地方に行く際には、新聞局、公安局外国人管理課で手続きをすること (許可されるまで少なくとも1-2週間かかる)。③北京の中心から四十キロ以上離れる場合も 許可が必要」29といったように、取材には様々な制限があったことを記している。このこと から、『日中記者交換協定』の調印以後も、日本人記者たちはやはり様々な制限を受けなが ら、中国報道を行っていたことが伺える。 また、日本人記者の人数の制限も中国報道に影響を与えた。貝塚茂樹(1967)は「日本に比 べて(中略)人口も八、九倍というあの広大な中国大陸をわずか九人、しかも一人ずつ違う社 から特派されている記者でカバーすることはどだい無理な話である」30という問題を指摘し ている。さらに、中国の国土面積は日本の約25倍だということから見れば、当時中国に派遣 された記者の人数は確かに少なかったと言える。 その後、『日中記者交換協定』は1968年に内容が修正された。1968年3月、『日中覚書貿易 会談コミュニケ』(注:コミュニケは共同声明という意味)が発表された際、日中双方は『日中 記者交換協定』の内容を修正することに合意した。修正された項目の第一項にある「会談コ ミュニケに示された原則」に山田賢一は注目を向けた。 第一項 双方は、記者交換に関するメモにもとづいて行われた新聞記者の相互交換は双方 が一九六八年三月六日 に発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の 相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。31 山田(2015)の説明によれば、この原則は中国側がたびたび主張してきた日中間の外交3原則 である。即ち、 一 日本政府は中国政府を敵視してはならない。 二 米国に追随して「二つの中国」をつくる陰陰謀を弄しない。 三 中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない。32 この3原則について、山田は、「日本の記者は北京に派遣される場合に(中略)もしこの原則 を守らなければ、中国に常駐することが禁じられる」33と述べている。そのため、山田の考 えでは、付け加えられた「会談コミュニケに示された原則」は実際に日本の新聞における中 国の報道に制限をもたらしていた34 『日中記者交換協定』の締結から日中国交正常化まで、中国にいた日本人記者は特殊な体

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験をした。その期間、日中両国は政治レベル関係も樹立していなかったことに加え、貝塚の 指摘した日本人記者が少なかったという2つの原因のほか、1966年に始まった文化大革命 (1966-1976年)も日本の新聞における中国の報道に影響を与えていた。貝塚は次のように述べ ている。すなわち、「日本の新聞が、壁新聞を主な情報源にして中国に関する不利な情報を 伝えているというふうに向こうでだんだん認識し始めたのかもしれない。紅衛兵自身が警戒 心をもってきたということもあろうし、いろんな点で日本の特派員の取材が困難になりつつ あることは事実だろう」35のである。これを見れば、当時の報道の環境は非常に厳しかった ということが想像できる。 報道の自由を十分に得た日本の新聞はなぜ中国政府が設置した多くの報道の制限も受ける ことになったのか。1937年から2004年までの日本のマス・メディアの中国に対する姿勢の変 化について考察した金赢(2005)によれば、この期間(1964-1972年)における日本の新聞は「国 益」の立場から「新聞は日中国交正常化回復の使者を担当していた」36。なぜなら、金は 「日本の経済界、政治界及びマス・メディア分野のエリートたちは、台湾ではなく、中華人 民共和国と国交を正式に樹立するのが日本の国益にふさわしいと思っている」37と指摘して いるからである。 4-2.日中国交正常化以後(1972年以後)における日本の新聞の中国報道 1972年9月29日、日中両国の『日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明』の調印は日 中国交正常化の実現を示した。戦後、日中両国の関係の改善とともに、日本の新聞における 中国報道の対象も次第に多くなってきた。また、日中国交正常化以後の日本の新聞における 中国報道に関する先行研究の整理について、本節は天安門事件の起きた1989年に注目しなが ら、まとめる。具体的な理由が2点ある。 まず、日中国交正常化以後の日本の中国報道において、大きな転換点の1つに1989年の天 安門事件があげられる。次に、本研究の執筆に際し、日中国交正常化の1972年から天安門事 件が起きた1989年までの間に、日本の新聞における中国報道に関連する先行研究を見つから なかった。 張寧(2000)は朝日新聞・読売新聞・毎日新聞における1989年の天安門事件の報道が、その 時期の日本人の対中国感情に大きな影響を与えたという仮説を立てながら、当時の三紙の報 道の特徴をまとめた。張は、三紙の報道は「受け手の中国に対する認識を、強いマイナスイ メージを持つ天安門事件に集中させたことが明らかになった」38と指摘している。また、張 によれば、三紙の記事は「学生民主化運動」と「天安門事件」の2つの争点をよく報じてい た。さらに社説では「学生民主化運動」と「中国指導部の動き」を取り上げていた。三紙の 報道と社説の特徴から、張は「当時の受け手の対中国イメージに影響を与えた」39と指摘し ている。

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高井潔司(2012)は、1989年の天安門事件をきっかけにして報道フレームが「友好フレーム」 から「普遍的価値フレーム」に転換したことを指摘している40。高井によれば、1960年代か ら1989年の天安門事件まで、日本の新聞における中国報道フレームを「友好フレーム」と名 づけた。なぜ新聞の報道フレームが1989年に転換したかについて、高井は当時の世界の民主 化の潮流と、中国の民主化への期待という2点をあげている。すなわち、「天安門事件とその 後のソ連東欧圏の崩壊、冷戦の終結は、市場主義と民主主義の推進を底流にグローバル化の 波を加速させた」、また「中国は人権、民主化といった『普遍的価値』によって転換される べき対象として見なされるようになる」41という要因である。したがって、日本の新聞は「中 国の抱えるさまざまな矛盾に焦点が当てられ、中国の政治体制に対する批判報道であふれる ようになった」42 張の研究対象と異なり、張寧・梅琼林(2006)は1990年代の日本の新聞における中国報道の 特徴についてまとめた。両氏は、1990年代の日本の新聞における中国報道には2つの報道フ レームがあり、「脅威の中国フレームと微笑み中国フレームである」43と述べた。「脅威の中 国フレーム」とは、報道において中国は「他国を脅かす危険な、不正直な、邪悪な国であ る」44ということ、「微笑み中国フレーム」とは、報道において「中国は不純な動機で、日本 の援助を獲得するために、歴史問題の姿勢を変えるにも惜しまない」45ということである。 日本の新聞における中国報道に異なる報道フレームがあることについて、両氏は3つの要因 を挙げる。まず、両氏は「日本のマス・メディアは、報道対象の取捨、報道の角度及び論調 においても日本の基準に基づく傾向があり、また、いつも日本の視点や日本の国益に基づい て中国を報道している」46と指摘している。 続いて、「中国を報道する時に、欧米のマス・メディアからの影響を受けながら欧米と同 じような論調を使っている」47と両氏は述べている。例えば、「欧米のメディアは常に中国の 人権や核兵器などの問題を取り上げている。日本の新聞も同じような歩調を合わせている」48 と指摘されている。 最後に、両氏によれば、新聞は「発行部数の至上主義の影響で、中国を報道する時に、片 面性やセンセーショナルといった特徴を持っている」49。例えば、読者の意向に合わせるた めに、ある突発的な事件にある劇的な部分を勝手気ままに大げさに取り上げ、「よく扇情的 な表現を使い、事実より大げさに報道し、ニュースのセールスポイントを向上させる」50 とがあげられている。 張と梅の研究結果を踏まえ、張玉(2007)は朝日新聞と読売新聞を研究対象に、定量的研究 で1995年1月1日から2005年12月31日までの日本の新聞における中国イメージをまとめた。張 の研究によれば、朝日新聞と読売新聞における中国報道は主として「中立報道」であり、そ の割合は報道総数の6割(朝日は477件で58%を占め、読売は436件で67%を占めている)を占め ている51

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また、両紙の否定的な報道の割合はそれぞれ異なっている。朝日新聞の方は3割弱(268件、 32%を占めている)であり、読売新聞の方は2割強(174件、27%を占めている)である52。1995年 から2005年の間、日中両国は尖閣諸島(中国の通称:釣魚島)問題や歴史教科書問題及び靖国 神社問題をめぐって、紛争が続いていた。張は「中日両国の関係の良し悪しに関わるもとで、 新聞によって中国イメージは変わる可能性がある」53と指摘している。 島田由利子(2010)も読売新聞と朝日新聞を研究対象に、北京五輪が開催された2008年8月と その前後の2ヶ月、合わせて3ヶ月の間に掲載された報道をサンプル(読売新聞は104件、朝日 新聞は130件)にして内容分析を行った。それによれば、島田は「中国」「北京」「五輪大会」 をキーワードに、両紙からそれぞれ49件と33件の北京五輪と関係のある報道について注目し た。 島田によれば、読売新聞は北京五輪に対して肯定的な報道は非常に少なかった(サンプル 数の2%を占めている)という54。また北京五輪に対して、読売新聞はマイナスイメージを中 心に報道した(サンプル数の73%を占めている)55と述べている。これに対して、朝日新聞の報 道は読売新聞の報道よりもっと「客観的、多方面的」(サンプル数の52%を占めている)であ り、「やや中立的に」報道したという特徴56を指摘している。 島田は、両紙は北京五輪を報道した共通点として、「五輪大会というスポーツ聖典」を報 道しながら、やはり「中国人の人権」「中国政府の強権」などのことを問題として提出した。 その記事の量はスポーツ方面の記事の量を超えていた。これは新聞の読者に中国は「怖い」 という印象を与えやすい57と指摘している。 北京五輪後の2010年に、中国のGDPは日本を抜いて世界で2番目の経済大国となっている。 金赢(2005)は中国の経済の台頭に伴い、日本の新聞における中国に対する姿勢も変わったこ とを指摘している。その姿勢とは、上述した新聞は「侵略戦争の急先鋒」、「日中国交正常化 回復の使者を担当していた」から「『中国脅威論』の提唱者」に変わったことである。この 変化が起こった根本的な要因について、金は「日本のエリート層は、台頭している中国は日 本の国益に合わないから、中国を抑え、抑制するのは日本の国益だと信じている」58と指摘 している。 王怡静(2011)は中国の人民日報と日本の朝日新聞を対象に、日中両国の新聞における中国 国家指導者が訪日した報道について比較研究を行った。王は1978年の鄧小平の訪日、1998年 の江沢民の訪日、2008年の胡錦濤の訪日のそれぞれの滞在期間とその前後の30日間の新聞報 道を対象に内容分析を行った。そのうち、朝日新聞における中国国家指導者の3回の訪日の 報道の量はそれぞれ108件、69件、33件である。朝日新聞の報道の特徴について王は、「異な る時期に、朝日新聞は訪日した中国国家指導者に関する報道の焦点が大いに異なっている」 59と指摘している。例えば、鄧小平の場合は、朝日新聞は「指導者個人の会談」を報道の焦 点に、江沢民と胡錦濤の場合は、「日中関係」と「両国経済文化協力と交流」を焦点にして

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報道したという特徴60がある。また、王によれば、朝日新聞の報道に対して内容分析から、 鄧小平から胡錦濤までのネガティブな報道の割合が増えている61が説明されている。これに ついて、「商業主義の傾向や西側の新聞理念の影響で日本の記者は批判性のある否定的な報 道に熱を入れた(中略)。これを受けて、朝日新聞の記者は中国国家指導者の報道には無意識 的に否定的な報道に傾いた」62ことが指摘されている。 一方、戦琦・劉妍(2009)は北京五輪の開催する2008年の朝日新聞における中国の報道につ いて研究を行った。両氏の研究によれば、2008年の朝日新聞における中国の報道は517件あ る。そのうち、経済、政府管理、政治という3つの分野は朝日新聞の主要な報道対象になっ ている。それぞれ、109件、107件と106件である。 また、両氏は、朝日新聞における「中立的な報道は主に中国が次第に透明的な、実務的な 政府運営メカニズムに集中し、否定的な報道は民主化の進行過程、政府管理の漏れ穴などの 問題に集中し、肯定的な報道はスポーツ分野に集中している」63と述べている。特に、なぜ スポーツ分野に肯定的な報道が集中しているかについて、両氏は「これはおそらく2008年の 北京五輪が行った原因からである」64と指摘している。 報道の量と立場に注目する両氏は朝日新聞における中国イメージの輪郭を描いた。すなわ ち、「中国は世界と日本に大きな影響を持っている経済大国であり、また、日本と密接な関 係を持っている政治大国でもある」65ということである。続けて、表面から見れば、「様々な 社会問題があり、完璧ではない」66ことが指摘されている。 社説の内容分析という角度から日本の新聞における中国報道の特徴をまとめた研究もある。 信太謙三・小川祐喜子・大谷奈緒子・島崎哲彦(2008)は朝日新聞・毎日新聞・読売新聞の社 説について量的な内容分析を通して、日中関係における日本側の問題意識を明らかにした。 信太らは、朝日新聞は批判的内容が多く、毎日新聞は批判的・提言的な内容が多いことか ら、これらの二紙が政府や権力主義的でない市民主義的な姿勢を取っていていることを指摘 している。また、読売新聞は、提言と状況・経過紹介が多く、保守的な姿勢が確認された67 一方、朝日新聞、毎日新聞が市民主義的な姿勢であり、読売新聞が保守的な姿勢であると いうと結論を出した信太らと違い、日本の全国紙である読売新聞・朝日新聞・毎日新聞にお ける報道の同質性に注目した馬新明(2010)は、中国報道に対して、この三紙の差異性がない と指摘している。すなわち、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞は市民主義的または保守主義的 という区別はない。馬は、「靖国神社参拝、歴史教科書問題、中国の歴史教育問題、東シナ 海問題、釣魚島(日本の通称:尖閣諸島)領土問題、中国の食品安全、在日本の中国人による犯 罪などの歴史と現実に関連している問題をめぐって、この三紙は頻繁に爆撃式の報道を行 い、問題を大げさにし、『中国脅威論』を唱え、日本国民の反中感情を煽った」68と指摘して いる。

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5.まとめと今後の課題

5-1.まとめ 本節では先行研究の整理を通して明らかになった日本の新聞における中国報道に関する研 究の現状をまとめる。 第一に、先行研究の分析対象から見れば、日本の新聞における中国報道の対象が拡大して いる。日中戦争以前と戦時中、中国に関する戦争や政治などの記事は日本の新聞に頻繁に掲 載されていた。日中戦争が終わってから、中国に関する文化、社会、国家の最高指導者など の記事は日本の新聞において次第に多く掲載されるようになった。この報道対象の変化につ れて、日本の新聞における中国報道に関する研究も多様化になっている。 第二に、先行研究の結論から見れば、日本の新聞における中国報道のあり方が変わったの は事実である。前述した金赢の「国益論」と高井潔司の「報道フレームの変換」の論調から 見れば、日本の新聞は偏見を持っていながら、中国を報道していると言えない。また、日本 の新聞における中国報道のあり方の変化の要因について、以上の先行研究から見れば、報道 の自由は日中戦争以前と戦時中に、当時の日本政府の統制を受けたという状態から戦後に日 本国憲法に保障されるまでの転換があげられる。このような変化によって、日中戦争以前か ら現在にかけて、日本の新聞における中国報道のあり方は変わったと言える。 第三に、日本の新聞の中国報道について、主要な全国紙に集中している。以上の先行研究 から見れば、読売新聞と朝日新聞を対象に行った先行研究は最も多い。読売新聞と朝日新聞 の発行部数は、日本国内で一番目と二番目なので、日本の国民の中国認識にも大きな影響力 を持っている。高橋直之(1995)によれば、「現代日本の新聞ジャーナリズムのイデオロギー的 基本構図は原則的に言うなら、『読売』『産経』の保守主義ブロックと『朝日』『毎日』の市 民主義ブロックを両極に(中略)日本の主要な新聞はこのようなイデオロギー的配置のもとで 政治判断の方向付けを明示的・暗示的に行い、世論形成にかかわっていると思われる」69 この点から言えば、日本の新聞の代表として、対中国の立場が異なっている読売新聞と朝日 新聞の比較研究を通して、日本の新聞界の中国認識の様子を把握することができる。 5-2.今後の課題 以上の整理を通して、本研究は日本の新聞における中国報道に関する先行研究の問題点を まとめる。 第一に、先行研究から見れば、研究者たちは日本の新聞における中国国内に起きたことの ニュースを研究対象に日本の新聞の中国報道を分析した。しかし、海外で起きた中国や中国 人に関するニュースにあまり目を向けていない。中国の新聞検閲制度や外国人記者への規制 などの要因で、在中国の日本人記者たちは全く自由に取材や報道を行うことができない。そ れに対して、グローバル化と中国の経済の急速な発展につれて、ますます多くの中国人は世

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界の各地へ旅行に行くようになっている。例えば、2015年2月、大勢の中国人観光客は日本 を訪れ、ショッピングをしていることに、日本の新聞は注目している。このように中国内陸 以外で起きた中国(人)関係の報道は次第に多くなる見通しであるが、しかし関連の研究論文 は非常に少ない。 第二に、先行研究から見れば、読売新聞、朝日新聞及び毎日新聞を研究対象にした研究論 文が多い。発行部数と影響力から言えば、全国紙としての三紙は日本の新聞の代表的であ る。しかし、経済報道を中心にする日本経済新聞や日本の地方紙などはどのように中国を報 道しているか、それぞれの報道特徴は何かについて研究を行う意義もある。 第三に、先行研究から見れば、日中国交正常化以後、特に1989年の天安門事件以後の日本 の新聞における中国報道に関する研究論文が一番多い。それに対して、日中戦争以前・戦時 中、日中戦争の終わる1945年から『日中記者交換協定』の1964年までの研究が少ない。同時 に、1972年国交正常化以後から1989年の天安門事件以前の研究も少ない。このような研究状 況は、日本の新聞における中国報道の研究にとって、アンバランスと言える。 第四に、先行研究をまとめているうちに、1964年から1972年まで日中両国の発展の過程と いう意味で特殊な期間の関連研究が少ないという現状に気がついた。この長くない8年間に おいて、日本と中国は各自の発展の道に入った。日本では1960年代に池田勇人内閣の所得倍 増計画を通して、日本人の平均収入も高くなった。これに対して、1966年から中国は文化大 革命という時期に入り、中国の主要な文化の破壊と経済発展の長期停滞をもたらした。こう したことから、国交正常化以前において、豊かな社会を迎えた日本の新聞は、当時経済的に 貧しかった中国をどのように報道したかは、研究を行う意義が大きい。

参考文献

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引用文献

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Abstract

The study aims to analyze the different reporting styles in Japanese newspapers’ coverage of China before, during and after the Sino-Japanese War through an in-depth analysis of the published news stories during these periods. The study finds that the way Japanese newspapers report on China changes over time. Keywords: Japanese Newspapers, China-related reports, Image of China

A study on China-related reports

in Japanese newspapers:

Previous research and future issues

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