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焼畑に伴う移住と祖先の移住 ――タイのミエン・ヤオ族における移住とエスニシティ―― [Migration by Swiddeners and Migration by Ancestors : The Ethnicity and Migration of the Mien of Northern Thailand ]

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東 南 ア ジ ア研 究 35巻4号 1998年3月

焼畑 に伴 う移住 と祖先 の移住

タイの ミエ ン ・ヤ オ族 にお け る移住 とエ スニ シテ ィ

吉 野

晃 *

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TheMienofNorthernThallandhavemlgratedwlththeirswlddeneultivatlOn.Whilethism igra-tionwastheresultofthelrmodeofprodtlCtlOnuntllrecentyears.Mlenmythals()holdsthatthe migrationhascontinuedslnCethetimeOftheirmythlCalancestors.ThlSmythofallCeStralmlgr a-tion (theCrossing-the-seamyth)lSWidely knownamC)ngtheMlenOfChinaand SoutheastAsia, However,agreatdistancelntlmeandspaceseparatesthepersonalmemor'yofrealmlgratlOnin recentdecadesandthemlgrationoftheirmythicalancestorslnancienttlmeS.ThisdlStaneelS i

n-termediatedby anothercultur'allnStltution.Eachhouseh()ld possessesadocumentr.ecordingthe sitesofthetombsofltSPatrillnealancestors A MlenCanlearnofhlSaneeStOr'sCourseofmlgr a-tionbyreadingthedocument.whlChisindispensableforakindofancestorworshipritual.The migration lSanethnicSymbolofcontinultybetween mythicalMien ancestor'sand presentMlen persons.Thetomb-recorddocumentintermidlateSbetweeneachMienlspersonalmemoryofml gra-tionandhlSmythicalancestralmlgr'atlOnandIntensifiesthisSymbolofMlenethniccontinuity.

は じめに

ミエ ン ・ヤ オ族 は 自称 を ミエ ン(。、i∂。)1)ない しユ ー ・ミエ ン(iun、i∂n)と称 し, 中国南 部 ・ 大 陸東南 ア ジアの 山地 に居住 す る民 族 で あ り, 主 と して焼畑 耕 作 を営 んで きた。 中国で は, 少 数 民 族 と して の揺 族 の範晴 に属 し, そ の大半 を占め る.二ベ トナ ムで はザ オ(Dao)族 の範時 に属 して い る。 タイ, ラオ スに も分布 し, その分布域 は, 中国の湖南 省南部 ,広東 省北 部 ,貴 州 省 南 部 ,広西壮 族 自治 区,雲南 省東 南 部, そ してベ トナ ム北部 , ラオ ス北部 , タイ北 部 と,広域

* 東京 学芸 大 学地域 研 究 学 科 ;DepartmentofAreaStudleS.TokyoGakugeiUnlVerSity.4-111Nukul

-KltamaChi.Koganei.Tokyo184-0015.Japan

1)本 稿 で 用 い る ミエ ン語 の表 記 は,Downer[1961]の表 記 の方 式 に筆 者 が修 正 を加 えた もの を用 い る。 -y、y/'=[j]:hqM-声 門 閉鎖 とな って い る点 以 外 は大 体】pA に従 って い る二 ミエ ン語 に は声 調 が あ る が ,表 記 が煩 雑 にな るので 本稿 で は省略 す る。 片仮 名の表 記 を付 した場 合 は, 正確 な音 訳 をす るの は無 理 な の で , 近 い と思 わ れ る発 音 の 仮 名 を当 て た - また , ミエ ン族 が 開 い て い る漢 字 表 記 は < >で括 って示 す。 -153-

7

5

9

(2)

東南 アジア研究 35巻4号 にわたっている。 ミエ ン族 の分布がか くも広範 囲にわた るのは,焼畑耕作 に伴 う移住 を繰 り返 して きたためで ある。現在 の タイ国領 内 に ミエ ン族 が居住 す るようになったの は,伝承 な どによる復元 では19 世紀後半 であ ると推定 されてい る。 ミエ ン族の移住 は,基本的 には,耕作 と休 閑の繰 り返 しに 伴 う耕地 の切 り替 えをその原動 力 と している。 しか し,移住が焼畑耕作 に媒介 されてい る とは いえ,彼 らに とっての移住 は,生業 レベルの移住 のみ を意味 は しない。彼 らの伝承 に見 られ る 移住 は,直接 的 には焼畑耕作 に起 因す る ものであ るが,彼 らの民族 アイデ ンテ ィテ ィに関わ る ときには, もう一つ異 なった レベルの抽象化 を経 る。そ こで は,焼畑耕作 と移住 は,生活過程 の一部である とい うよ りも,民族弁別 のための規準 となる。 ミエ ン族 の移住 については, い くつかの研究が な されてい る。 白鳥芳郎 と竹村 は中国の地方 誌 や ミエ ン族 の伝承 に よって,大枠 の移住 史 を再構成 した [白鳥 1978;竹村 1981]。 白鳥 は また, タイ国 ランパ ー ン県の-村落の住民が どの村 か ら移住 して きたか も聞 き書 きによって再 構成 している [白鳥 1978]。常 見純一 は,チ ア ンラ-イ県の ミエ ン族が政府 の森林伐採規制 に よって新 たな地へ移住す るこ とを企 図 し, カ ンペ ンペ ッ ト県 において風水 に基づ く立地選択 を 行 って,新 たな村 を設立 した過程 を報告 している [常見 1980]。一方,後 に述べ る神話 レベ ル の民族 アイデ ンテ ィテ ィにつ いては,竹村が詳細 に分析 した [竹村 1981]。しか し,彼 らミエ ン族 の行 って きた 「移住 」や,伝承 として認識 され る 「移住 」が, どの ような形で彼 らの民族 アイデ ンテ ィテ ィに関わ り

,

「祖先以来 の伝統」として認識 されるか,その枠組 み につ いては, 未 だ検討 されていない。 本稿 で は,如上の問題意識 に従 って, ミエ ン族 の焼畑耕作 と移住, それに まつ わる伝承,及 び父祖以来の営為 たる移住 につ いて,事例 を紹介 し, ミエ ン族の民族 アイデ ンテ ィテ ィに関わ る移住 の観念 につ いて論 じてゆ きたい。

ミエン族 の移住 一

焼畑耕作 に伴 う住居の移動

Ⅱ-1

タイの ミエ ン族 の焼 畑耕作 は,A .ウ オー カーの分類 に従 えば, 開拓 型焼畑 耕作民 pioneer

swiddenerに分類 され る [walker1975:7-9]。以前 はアヘ ン芥子 を換金作物 として耕作 し,比

較 的高標 高 (1,000m以上 )に分布 していた。 開拓型焼畑耕作 は,極相林 ない し長年耕作 して いない森林 の伐 開 を指 向 し,耕地 の切 り替 えに伴 って移住 を頻繁 に行 う型 の焼畑耕作 であ る。 これは, タイ山地民 の焼畑耕作 の もう一つの類型 であ る,陸稲畑 の耕地 ローテー シ ョンを規則 的 に管理 し移住 が少 ない定着型焼畑 耕作 民(establishedswiddener)とは区別 され る。 これ は 1970年代 までの構 図であ り,新 たな畑 の伐 開が禁止 された現在 では,些か様相 を異 に している。 760 - 154

(3)

-吉野 :焼畑に伴 う移住 と祖先の移住 また,現在 はアヘ ン芥子 の栽培 の規制が か な り強化 されたため,別 の換 金作物 の耕作 が広 が り, 必 ず しもその ような高 標高 に住 む とは限 らない。 タイ北部 の ミエ ン族 の焼畑 は,自給作物 と して陸稲 ・トウモ ロコ シ (家畜 の餌 と酒 の原料 ), 換 金作物 と して, かつ て はアヘ ン芥子 ,現在 で は絹 ・蜜柑 ・大豆 ・高校 ・龍 眼 ・トウモ ロ コシ 等 を栽培 す る。 換 金作 物 の種類 は, タイ北部 の 中で も地域 に よってバ リエ ー シ ョンが あ る。 タ イにおいて は, 開拓 型焼畑耕作民が アヘ ン芥子等 の換 金作物 を栽培 して いたの に対 して,定 着 型焼畑耕作民 は陸稲 栽培 のみ に特化 してい る点 が大 き く異 な る。 陸稲 の耕 地 は毎年新 た な土地 を開 くC陸稲 は雑 草 に弱 いが, 二年 目の畑 は雑草 の繁 茂が一年 目よ りも多いためであ る。 この ため,毎年異 なった場 所 に畑 を開か な くて はな らな

い。

そ うな る と徐 々に居住 村 落 か ら離 れ た ところに畑 を開 くこ とにな る。 当該村 落 の 周辺 の森林 の土 地 が 十分 に広 けれ ば,耕作 を続 け る こ とが可能 で あ る。 しか し開拓 型焼畑民 の場 合,定着型焼 畑 の ように,綿密 な耕 地 の ローテ ー シ ョンを村 落 で管理す る こ とが ない。す なわち,各世帯 の判 断 で 各 々が 良い と見 た土地 を切 り開 くわ けで あ る。 この よ うな野放 し状態 で は,周辺 に広 い土 地 が あれ ば,長年 の耕作 が可能 で あ るが, しか し,頻繁 な移住 に よって当該村 落- 人 口流 入が生 じやす い。す る とよ り多 くの畑 を一年 間 に耕 作 しなけれ ばな らな くな り, したが って休 閑期 間 が短縮 され る こ とにな る。 耕作 に適 した土地 が村 落周辺 に少 な くな る と, これが また移住 を誘 発 す る。結 果 と して,安定 した耕 地切 り替 え を維持 しに くくな り,移住へ到 るので あ る。い わ ば, 移住 が更 に移住 を引 き起 こす とい う 「移住 の フ ィー ドバ ック」 であ る。 ミエ ン族 は,恐 ら くは こ う した繰 り返 しで現在 の タイまで移住 して きた。 もっ とも,耕 地 ローテ ー シ ョン管理 を綿密 に行 わ な くて も,結果 と して生態条件 と人 口のバ ラ ンスが とれていれ ば,長期 に亘 って移住 せ ず に一定 の地域 内で耕作 す る こ とは可 能 で あ る。 筆者 が調 査 したパ ヤ オ県 チ ア ンカム郡 のPY 村 の大半 の メ ンバ ー は, 4キ ロ離 れ た pD村 か ら移住 して きたが,耕作 範 囲 と して は50年以上 同一地域 に とどまって い た。 Ⅱ12 移住 のパ ター ン ミエ ン族 の移住 は,通常 ,個 人あ るい は個 別世帯単位 で行 われ る。上記 の移住 の フ ィー ドバ ッ クで重要 な役 割 を果 たす のが, 出作 り小屋 の存 在 で あ る。 出作 り小屋 (リウliw)は,畑 の 中 に造 られ る 日除 けの屋 根掛 けの もの もあ る し,常住 で きる家屋状 の もの もあ る。 日帰 りで耕作 す るに は遠 い畑 の近 くで,寝 泊 ま りす るための もの は,常住可能 な家屋状 で あ り, リア ン ・リ ウ ・チ ヨー ムli∂91iw kyom とい う。 この 1)ア ン ・リウ ・チ ョ- ムが幾 つ か集 まって 出作 り小 屋 集落 を形 成す る こ とが あ る。 往 々に して親族 や姻 族, あ るい は友 人 な どが数 軒集 ま り, 出作 り小屋 集 落 を形成す る。 この出作 り小屋 集落 (娘村 )が 成長 して常住 村落 となる例 もあ る。 い わ ば出作 り小屋 の本 宅化 で あ る。 常 住村 落 は ラー ンlaagとい うが

,

「出作 り小屋 集落 」 を特 に - 15 5 - 761

(4)

東南 アジア研究 35巻4号 表す語句 はない。 先述 のPY村 は,約4キ ロ離 れた,母村 pD村 の出作 り小屋集落 であ った。 山の 中腹 にあ る pD村 か ら降 りて きて, 山間の小盆 地 に位 置す るPYで水稲 耕作 を始 め た ミエ ンの人 々が, こ こに出作 り小屋集落 を形成 していたのであ る。 しか し, この地域 で タイ国軍 と共産 ゲ リラとの 戟 関が あ り, 1968年 にPD村 の ミエ ン族 は平地 の村 に避難 した。戦 闘前 には,6戸 の ミエ ン族 世帯が ここで水稲耕作 を行 っていた とい う。 避難先 の村 には耕作 す る土地が なか ったので,戟 闘が終結 した1969年 にPYの場所 に多 くの村 人が戻 り,焼畑 に従事 した。pD村 にあ った家屋 は戦 闘で灰塵 に帰 していた。 その後, アヘ ン芥子 の栽培 に伴 って,PY村 か ら元 のPD村 の場 所 に リア ン ・リウ ・チ ョ- ムが作 られ る よ うに な った。 そ の うち にPDの リア ン ・リウ ・ チ ョ-ムに常住 す る住民が 出て きて,常住村落化 し,筆者が1987年 に調査 に入 った時点 で は, 既 に常住村 落 の体 を成 していた。 その時点 で は,pY村 の村 長 の もとにPYとpDの二集 落が 一つ の行 政村 (タイ語 :mu) を構 成 していたが,pY村 の現 村 長 の話 で は,1993年 にPD村 は別 の行政村 と して独立 した とい う。 す なわち, 当初 はPD村 が母相 でPY集 落が 出作 り小屋 集落で あ ったが, 内戦 に伴 う避難 で,結果 と してPD村 の大半 がPYに移住 した形 となった。 その後,今度 はPY村 を母相 と したPD集落が常住村落化 したわけであ る。 この出作 り小屋集落の成長 は,母相 か らの人 口流入 だけで起 こる とは限 らない。 よい土地 の 情報 を聞 きつ けて他地域 か ら移住 して くる世帯 も含 まれ る。 人 口増 が急激であ る場 合 は,遠隔 地へ の移住 もまた選択肢 になるか らであ る。焼畑 に伴 う移住 のパ ター ンを上記以外 の場 合 も勘 案 して仮説 と して纏 め る と以下 の ようになる。 A 常住村落- 出作 り小屋群- 出作 り小屋集落の成長-常住村 落 (分散 ) :通常時。 B 常住村落 (複/単数 )-常住村 落 (集 中。長距離 ) :通常 時。非常 時 に も見 られ る。 C 常住村 落 (複/単数 )一新村落形成 :非常 時。戦乱 な どを避 けるため。 py村 の世帯 主 の移住歴 を聞 くと,婚姻 に伴 って移住 して きた者 をのぞ けば,殆 どの世帯主 が以前 のPD村 の住 人であ ったかあ るい はその子孫 であ った。上 のパ ター ンに照 ら して見 れ ば, pY村 か らの現 pD村 の形成 は,Aパ ター ンの一例 であ る とい え る。戟 闘以前 のPY出作 り小 屋集落形成 は,水稲耕作 の開始 とい う点で,純然 たる焼畑耕作 に伴 うもの とは言 い難 いが,戟 闘 とそれ に よる緊急避難が無 けれ ばあ るいはAパ ター ンの村落形成 に到 った可能性 もあ るわけ であ る。 II-3 移住 の実例 - N村 の成 り立 ち (図1参照) pY村 の例 は, 旧pD村 出身者 の大半が結果 的 にPY村 を形成 し,更 にその一部が硯 PD村 を 形成 した例 で,新村 の形成過程 とは言 い難 い。 また,他 の村 か らの,焼畑地 を求 めての移住 も ご く少数 に とどま り, む しろ稀 な例 とも言 える。 762 - 156

(5)

-吉野 :焼畑 に伴 う移住 と祖先 の移 住

村 落 i N柑 rsab'芸 ugay-【Noq-koq-bong HuaiHiム賢 TDname_nbEtg.pong) U Tam Kat …その 他 州

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-1

5

7-

763

(6)

東南 アジア研究 35巻4号 ここでは複数の村 か らの移住者 によって村落が形成 された例 と して, ナ- ン県 ボー郡のN村 の形成史 を見 てみ よう。 図は,N村 の世帯主 あるいはそれに準ず る人の個 人の移住 史 を再構成 した ものであ る。 これは,焼畑 に伴 う移住 が主であるが,入婿や入嫁 (世帯主が女性 の場合 ) による移住 も少数含 まれる。 N村 は 4つの小集落 にわかれている。1987年時点での居住集落 を A- Dで表 し,それに世帯番号 を付 した。戊 申年 (≒1968)にこの村の 「草分 け」的 な世帯が 5戸移住 した (A2,A5,A8,AIO,Cll)。彼 らは戊 申年 の移住 前 に,すで にこの地 において出 作 り小屋 を作 り,焼畑 を行 っていた。す なわちAパ ター ンの端緒 である。 先 にPY村 の例 で述 べ た ように,1960年代末 ∼1970年代前半 にかけて,北 タイの ラオス寄 りの地域 で共産 ゲ リラと タイ国軍 との内戦がお こ り,当時のチ ア ンラ-イ県 (現在 はパヤ オ県 )ボ ン郡周辺 にいた ミエ ン族が当局の勧告 によって避難移住 した。 これはAパ ター ンの端緒 にあ った N出作 り小屋集落 が他地域 か らの流入者 も受 け入 れて急速 に常住村落化 したわけであ り,Aパ ター ンとCパ ター ンの両方の混合型 と見 なせ る。 また戦乱 に よる移住 で も遅 く移住 して きた世帯 については,B パ ター ンと見 なす ことがで きよう。 N村形成 の詳細 について見 る と,戊 申年 に移住 して きた 「草分 け」グループ と,庚成年 グルー プ (A9,B2,B4,B5,B6,BIO)がN村形成 の核 となっている。 後 に移来 して きた ピャオは,大 部分が この二つの核 グループを誘 因 として移住 して きている。 戊 申年 グループには編棒 した親 族 ・姻族 関係 があ る。 庚成年 グループは姻族 の紐帯でつ なが りはあ る ものの, む しろB2個 人 との個 人的 な面識 関係 で形成 された。後 に移来 して きた者 の村落選択 の基準 を聞 くと,親族 関 係 とな らんで,姻族 の関係が移住 に際 しての誘因 となってい る。 N村 を選 んだ理 由につ いての 設問で は,親族 ・姻族の存在 を挙 げた ものが多か った。 ミエ ン族 は漠族 的な父系 イデ オロギー を受容 しているが,実際 の移住先選択 の場面で は姻族 や知人 ・友人 な どの関係 も同様 に誘 因 と して機能 し,父系 の親族 関係 に片寄 ってい るわけではない。 この事例 は非常時の避難移住 の色 彩が強いため, これ を ミエ ン族 の移住パ ター ンとして一般化す るには留保が必要であ るが,級 織化 の過程 においては必 ず しも父系親族 関係 のみが偏重 され るわけで はな く,姻族 関係 も比較 的重要視 されてい るのである [吉野 1991]。 図 1 注 :「その他の村」の村落名略号

CL=PhaChangLuang,CN=PhaChangNoi,DG=DoGaai,Ds=DoiSaeMeng,DT=DoiTiu,DW=DoiWao,

HK=HuaiKhong,hk=HuaiKang,HP=HuaiPa,KK=Khun Kamlang,L=LAOS,NH=NongHa,NK=Nam Khang.NP=Nam Phit,NS=Nam Sao,pd=PhaDaeng(A.Maecai),PK=PangKae,pk=PhuKheng,PL=Phu Lak.PO=PangMal0,SK=Sakoen(HuaiFueang),SY=SuanYaLuang,TK=Takangbong

縦線はその村落に居住 した期間を表 し,横線は村落間の移住を表す。十字形の交差は線を直進 し辿 る。縦線が横線につ き当たる形の合流 (逆丁字形)は同じ年にその横線に連なる人が移住 したことを 示すが,必ず しも共同で移住 したことを表すわけではない。移住の年は言明のあったものは明記 した。 移住年の明記のないものはおおよそその頃に表記の村落へ移住 したことを示す。姓は省略 した。口で 囲った起点は生年である。「その他の村」については,移住の年ないし時期に移住先の村落略号を記 した。 764 -158

(7)

-吉野 :焼畑 に伴 う移住 と阻先 の移住 N村形 成以前 の各個 人の移住 史 を見 てみ る と, か な りの個 人差 が あ る こ とが看取 され る。

B7

Cll

の よ うに

4-

5年 ご とに移住 してい る者 もいれば, Al

,B12

C9

の よ うに数十年 に亘 って同一 の村落 に住 み続 けていた者 もい るわけであ る。 逆 に言 えば, この移住頻度 の大幅 な個 人差 は, 開拓型焼畑耕作民 の移住 の特徴 を示 してい る とも言 える。 す なわち,村落 に よる 耕地 ローテー シ ョンの管理 は行 わず,毎年 の耕地選択 ,移住先 の選択が専 ら各世帯 の個 別的判 断 に拠 ってい るこ とであ る。 この よ うな多様 な個 人差 を含 み なが ら, ラオスー タイの山地 において,良好 な土地 を求めて 集 中 と拡散が くり返 されて きた。 この よ うな集 中 と拡散 の くり返 しが,世代 を経過 して最終 的 には中国か らタイ- の長駆 の移住 と して結果 してい るのであ る。

移住 と民族アイデ ンテ ィティ

Ⅲ -1 民 族 ア イデ ンテ ィテ ィは, 一 般 に過 去 志 向 的 な集 団 ア イデ ンテ ィテ ィで あ る [cf.DeVos

1

9

8

2:

8-

9,

1

8-

2

0;

Keyes

1

9

7

6:

2

0

4-

2

0

8

]。過去 に 自分 たちの 「祖先 」 を想定 し, それが現在 の 自分 たちの民族 と連続性 があ る とい う自己意識 のか たちであ る。その場 合 に現在 の 自分 たちの 「民族 」が対 置 され る他 の 「民族 」 とどう異 な るか とい う弁 別 的特徴(distinctivefeature)が語 られ るのが常 で あ る。 また,過去 に投影 された 「祖先

と現在 の 自分 たち とが連続性 を持 つ こ とが規定 され るが,ここに もなん らかの文化 的規準 が連続性 を示す もの と して用 い られてい る。 接触 す る他民族 との弁別的特徴 と して如何 な る文化要素 が採用 されてい るか は,彼 らの調査者 に対 す る言説 や,儀 礼的 な表現 の中 に観 て取 る こ とがで きる。

Ⅲ-2

現在 の ミエ ン族 像 の構成 ミエ ン族 は民 族 自称 を ミエ ンmi∂nといい,他民 族 の こ とをチ ャ ンkyanとい うカテ ゴ リー

で纏 め る。 た とえば タイ山地 民 の ア カ族 はkyana-kha,北 タイ族 はkyankhaq-l〇mとい い,

kyansi∂n-1つは中部 タイの タイ族 (si∂n-loは遅羅 か ら) を指 す。 ラオスやベ トナム に ミエ ン族

とと もに分布 してい る藍龍 ヤ オ (自称 キ ム ・ム ンkim mun)は研究者 な どの外部 の者 か らは広

い意 味 のヤ オ族 として扱 われ るこ とが あ り,言語 ・文化 的 に も近 い ことを ミエ ン自身知 ってい

るが , かつ て ラオス にお いて彼 ら接 した こ とのあ る年 輩 の ミエ ンは彼 らをkyantshan-tseyと

呼 び, あ くまで もkyanとい う異 な った民 族 カテ ゴ リー と して認識 して い る。 kyanは,私 た

ちが民 族 的 な カテ ゴ リー と考 える カテ ゴ 1)-だ けで はな く,泥棒 kyantsaaq, 死体 kyantay

な ど も含 まれ るO 民族 的 カテ ゴ リ- を含 む

,

「他者 」の カテ ゴ リーであ る。

タイにお いて も,ミエ ン族 は漢族 との接触 が あ る。町の漢 人商店主や,かつて は ミエ ンの村 々

(8)

東南 アジア研究 35巻4号 を巡 回 していた漢 人行 商人 とのつ きあい は,現在 少 な くなった とはいえ,連綿 と続 いて い る [cf.吉野 1995]。漢族 に対 す る ミエ ンの民族 的弁別 は, <姓 >の レベ ルでの弁別であ る。 ミエ ン族 は自らを<十二姓偉 人 >tsiapgyeyfiniumianと称 す るが, この<十二姓 >がその他 の漠 族の<百姓 > と対比 され る。<百姓 >pEqfinは,一般 の人 とい う意味 を ミエ ン語で も有す る。 <十二姓 >は,彼 らの所持す る<評皇券牒 >あ るい は<過 山梼 >ki∂senp〇gとい う文書 に記 載 された ミエ ン族 の起源神話 に出典す る。 <過 山積 >に見 られる起源神話 は,盤護 とい う龍犬 が戦功 の褒美 と して皇帝 の娘 を要 り,その子孫が ミエ ン族 となった とい う筋で,古 くは後漢書 に見 える磐瓢神話 であ る。<過 山樺 >は, この神話 に基づいて, ミエ ン族の山中移動 ・山中耕 作 を許可す る,一種の許可書 の形 を持つ文書である。 この<過 山模 >に記載 された神話 に よっ て,<十二姓 >は規定 された ものであ るが,しか し,現在 の タイの ミエ ン族 の もとにおいては, <過 山模 >の所持 は周知 とはなっていて も,その内容 については余 り知 られていない。竹村卓 二が 「北部 タイにおける磐瓢神 話の退潮」 [竹村 1981:269] と表現 した ように,現在 の タイの ミエ ン族 の もとにおいて は,生 きた神話 として伝承 されてい る とは言い難い。 しか し, 口頭伝 承 と しては失伝 してい る とは錐 も, <十二姓 > とい う語桑 は伝承 されてお り, この点では, タ イの ミエ ン族 の もとにお ける,漢族 との弁別的 な象徴 として は機 能 している。 一方, タイ族 に対す るアイデ ンテ ィテ ィの規準 は,漢字や漠族 的な価値体系 が前面 に出て く る。 かつて よ りもタイ族 との接触が多 くなって きたので, む しろ筆者 と しては, タイ族 との弁 別 につ いて語 られ るの を耳 にす るこ とが多かった。そ こで は, タイ族 の仏教儀礼 に対 す る ミエ ンの儀礼体系 や,平地 の水稲耕作 に対す る山地 での焼畑耕作 な どが意識 されていた。儀礼 的な 対比 で は, た とえば<掛燈 >kwaataagとい う儀礼 は, ミエ ン族男子 に とって イニ シエー シ ョ ンの意味 を もつ儀礼 であるが, ミエ ンの人 び とは しば しば タイ族 の出家 と対比 させ て 「ミエ ン の出家」 と説明す る。 いずれ も男子 に一人前 の儀礼的 な人格 を付与す る過程である。 また<掛 燈 >儀礼が三 日間

,

「出家

が標準3カ月 とい う違 い はあ る として も,受礼者 が何 らかの斎戒 状態 に入 ることもこの対比 を成 り立 たせ ている。 儀 礼体系 に よる区別 で は,先 に述べ た藍寵 ヤ オ族 (キム ・ム ン)に対 して,lukw∂nmi∂n く老君人 > (太上老君 を信奉す る人 )たる ミエ ンとtshintsi∂mi∂n(真 な らざる人 )たるキム ・ ム ンとの対比 を示 した老人が いた。 ミエ ンもキム ・ム ンの両者 はい ずれ も道教 的な儀礼体系 を 持 っているが,系統 を異 に してい る。 この ことは年輩者 にはある程度広 く知 られている。 この 老人 はその儀礼的 な差異 を民族的な差異 の説明 として用 いていたのであ った。 生 業技術 -焼畑耕作 を行 うこ とts∂wdey (<倣 地 >)あ るい はts∂w liagdeyは, タイの コ ンテキス トで は,先 に述べ た如 く水稲耕作ts∂w ligと対比 され,民族的弁別 の特徴 として意識 されてい る。 先 にPY村 の水稲耕作導入者 の例 を示 したが,1980年代の時点で は,水稲耕作 の 自作 はせず に,水 田地主 と して タイ族の小作人 に水 田を耕作 させ , 自らは焼畑耕作 に従事 して 766 一1

(9)

60-吉 野 :焼 畑 に伴 う移住 と阻 先 の移 住 い た。水 田 は,あ くまで も,換 金作物 と同様 の現 金収 入 の途 で あ った。かつ て比 較 的早 く,1950 年 代 に水稲耕 作 を始 め た先 駆 的 な ミエ ン老 人 (複 数 )に何 故 水稲 を 自作 せ ず に焼 畑 耕作 に戻 っ たか とい う質 問 をす る と

,

「水 田の仕事 は冷 た くて辛 いか ら」 との答 えが返 って きた。逆 に言 う と,技 術 的 な懸 隔が , 水稲耕 作 を先駆 けて導 入 した ミエ ンに も感 じられ て お り,慣 れぬ 困難 な農耕 と して意識 され て い た。 ミエ ンが 水稲 耕作 の 自作 に再 び取 り組 む よ うにな ったの は,彼 らの息 子 達 の世 代 にな って か らで あ った。

Ⅳ 弁別的特徴 としての移住

民 族 の弁 別 的特 徴 は, そ れが実 際 に伝持 され て きたか否 か を問 わず

,

「過 去 の 『祖 先 』 か ら 伝持 され て きた」 もの と して思 念 され る。 す なわ ち, 弁 別 的特 徴 が 時 間的 な連続性 を もつ とい う投 影 の仕 方 をす るわ けで あ る。コ ンテ クス トに よって は,身体 的連続性 (民俗 生物 学 的 親子 ) も弁 別 的 な特 徴 と して用 い られ よ うが , しか し, よ く知 られ て い る よ うに, ミエ ン族 には他 民 族 か らの養子 が 多 く, ミエ ン族 の民 族 ア イデ ンテ ィテ ィの規準 と して は, 身体 的連 続性 は一般 に は言説 と して は強調 され ない3)[吉野 1995]C 身体 的連続性 とは別 に,祖 先 の来 歴 を時 間的 に た どる方法 と して,祖 先 の移住 史 の知識 が あ る。 現 在 の ミエ ン族 が行 って い る焼 畑 耕 作 とそ れ に伴 う移住 の記憶 は, 口頭 伝 承 レベ ルの移住 伝 承 につ なが り,過 去 の ミエ ン族 との連続性 を保 証 す る もので あ る。ただ し,そのつ なが り万 は, 個 別 世帯 の祖 先 の移住 史 とい った世帯 レベ ルの祖先 の来 歴 と, もっ と一般 的 な ミエ ン族 の祖 先 の来 歴 との二 つ の レベ ル に分 けて考 え る こ とが で きる。 Ⅳ-1 世 帯 の祖 先 の移 住 個 々 人 の具体 的 な阻 先 は, 各 人 が属 す る居 住 世帯 ピ ャオ(pyaw)の先 祖 <家先 >kyaafinで あ る<家先 > と子孫 の 関係 は保 護 一被 保 護 関係 とされて い る。 個 々人の ピ ャオ- の帰 属 は<家 先 > に よる保 護 関係 を確 立 す る儀 礼 的手 続 きに よって確 認 され る。個 々の ピャオの系譜 は<家

先単 > kyaafintaanと言 い, 当該 ピ ャオの世帯 主(pyaw tsy∂W)の父 系 の直 系 祖 先 とそ の妻 た

ちが 原則 と して記 載 され る。 記 載 は漢字 に よる。 儀 礼 的 な父系 観 念 の再確 認 は,男子 に とって の イニ シエ ー シ ョンで あ る とこ ろの <掛 燈 >儀 礼 に よって規 定 され る。 この儀 礼 は, すべ て の 男子 が祭 司資 格 を形 式 的 に獲 得 す る形 式 (総 体 的祭 司 削 )[cf.Lemoine1982:33;吉 野 1993: 179;1995:60ff.]を持 ち, 父子 関係 を師弟 関係 と して再指 定 す る もので あ る。 この儀 礼 を経 る 2)親 子 の 身体 的連 続性 の観 念 が無 い わ けで は ないが , 親子 関係 を構 成 す る要 因 とな る もの と して は, 公 には余 り言 述 され な い。 む しろ儀 礼 的 な関係 が しば しば強調 され る傾 向 にあ る。 - 161 - 767

(10)

東南 アジア研 究 35巻4号 ことで,祖 先以来続 いて きた ミエ ン族 の呪術 の師弟 関係 に連 なる ことが確認 され る。 また, こ れ は,個別 の<家先 > と受礼者 との祖先 一子孫 関係 を確立す るのであ り, この儀礼 に よって, 受礼者 は個 別 <家先 >の保護下 に入 り,その<家先 >帰属 の変更 は許 され ない もの とされ る[吉 野 1990;1993]。 この, <家先 >の系列- の帰属 は,祖 先 祭祀 の継承 と して認識 され る

「祖 先祭祀 の継承 」 は,儀礼文書 の脈絡 で は, <接組 >dzipts∂W といわれ る。 この よ うに,祖先祭祀継承 の観念 を媒介 と して,個別世帯 の祖先 -<家先 > との関係 が意識 され るので あ るが, これ らの<家先 >は,現在 の ミエ ンと同様 に焼畑耕作 と移住 を くり返 して きた もの と認識 され る。 父 や祖 父 とは,実際 に移住 を共 に して きてい る し, その父 や祖 父,あ るいは母 や祖 母が経 て きた,更 に以前 の移住 は,昔語 りと して耳 にす ることが可能 であ る。 <家先 >を葬 った場所 を記載 した文書 を<祝 園 >ts∂w t∂W とい う。その一例 を,以下 に示す。 もともと各個 人の筆写 になる もの なので,異体 字 や ミエ ン独 自の漢字 (日本 の国字 の如 し), 俗 字やあ るい は誤字が少 なか らず入 ってい る。 ここで は,異体字 で明 らかな もの は,我 々が用 いてい る字体 に替 えた

● は現存す るイ ンフ ォマ ン トの プ ライバ シー を考慮 した伏せ字 であ り, t は筆者 には判別 で きなか った字 で あ る。 改行部 分 には一重鍵括 弧 (「)を,改頁部分 には二 重鍵括 弧

(

) を付 した。改行改頁以外 の部分 は,原 テキス トで は続 けて書 かれて い る。丸 囲 いの数字 は,筆者が便宜 的 に付 した,所持者 の直系男子祖先 (<家先 >)であ る。これ に続 けて, 当人の妻 (単数 または複数 )が併せ て記載 され るのが定式 であ る。 記載 の名 は, ミエ ン族 の儀 礼 ラ ンクに よる儀礼 名 で あ る。3)この<祝 園 >の所持者 は, ナ- ン県 ボー郡 の L村 に住 む李姓 の ミエ ンであ り,1987年7月 に閲覧 ・撮影 した。 表紙 「具 開宗枝移園留博子孫磨用 「課礼李●●記号 開祖宗元盆 本文 「又到祝 園記号 「(∋太清一郎墳 堂葬在雲 南道 開花府 文面 [山 ?]県 「羅竜 里新 星 甲管 入放儀1嶺 大平捌 塞王 「進贋地九 師孝侯家地主 趨氏 五娘墳 堂葬在 「贋西道 尚練 沖梁呉梁順摩 家地主 「(参太龍二郎墳 堂葬在鹿西 道 清酒神馬尤坪梁呉 「梁順地主趨氏五娘供 地葬厚家地主 『(彰李磨 一郎 葬在鹿西道鉢枝 沖黄家珠法旺地主 「同妻李氏-娘供掘供地主 ④李金五郎葬在鹿西道 「羅城願頂善為 金 山鵠尤地主又到盤氏五娘葬在 「鹿西道 四城府管下 鼻瀬 沖黄総兵黄盤傘地主 3)儀礼 ランクを決める儀礼には,初次的なものから高次なものへ と,<掛燈><度戒><加職><加 太>の

4

段階があ り,<掛燈>のみ経た者は

,

「姓+法

X

」,その妻は

Ⅹ氏者」を得,<度戒>を 経て且つ<加職>に至った者は

,

「姓

+Y

O郎」,その妻は 「姓+氏

〇娘」となり (<度戒>だけ の場合は,<掛燈>の場合 と同様),<加太>を経た男子は 「太

+z

O郎」(姓の記載なし)となっ ている

○には数字が入る。 768 -16

(11)

2-吉野 :焼 畑 に伴 う移住 と祖 先 の移住 「⑤ 李蓋一郎葬在 開花府管 入云平里老束 寮姐鍋 神大 「地主丙境地主八寒王地主 郡民 -娘 葬在 開花府雲平 「里九半管下人馬樹地主位八王地主 『⑥ 李官二郎葬在 開花府管 下呆羅 沖了 口案嶺大平 「地主張家老林地八寒地 主 盤氏五娘 葬 在 開花 「府管下仰 了山嶺頭坪地主八寒張老体地主 「⑦ 李行 一郎葬在猛瞳府管 入猛宣州管 入猛標洞 「管 入捻金平 河 沖嶺頭座乗 向無垢西座南 向 北柁 槌地主 「盤氏五娘葬在猛瞳府管 入猛進州管 入猛標洞 「管 入 捻金含河塩塘 沖太 陽塞柁樋地主 『⑧ 李法保葬在猛 障府管入漁 自沖嶺 失 「平座南 向北位樋地主 邪氏者契未年十一 月十九 日 「未時命寓 陰了又到二十 四 日巳時安葬猛 竜府管 入 捻 「邪栃恐 洞管 人骨沖洞 中嶺平座南 向北 柏 槌地主 「轍 位郡民者葬在猛竜府管 入猛誇洞管 入滑 吊樺沖 「半嶺平柁 樋地主 ⑨ 李法規突酉年七 月初八 日丑 時鵠 陰 「同月十一安葬猛 瞳府管入猛恰渦管 入檎東竜 神嶺 『大 平座北 向柁槌地主 ⑲ 法 県陽名李文 昌倣 甲失「李法 県命馬 陰辛酉 歳五 月二十八 日午時連 陰又到六月二十八 日「安 葬在猛南府管 入猛蜂洞管入捻割 沖太 陽案座乗 向 「西猛南大王二王地主P^邪陸地主 法 県同 妻郡氏昔年庚 「生子丙午歳 四 月初-建生行庚八十歳又到丙寅歳七 月初 「九 日寅時命 中掃 除 叉到十二 目送終 叉到丁卯 歳二 月初 四午時 「安葬座猛瞳 管 入城尤渦管入 曾庚括 沖合 鮎二条/Jllii, 「河 中干 [平 ?]座南 向北猛 瞳大王地主桂 槌地主社王地主 『⑪ 李法贋安 葬猛南府管入猛利 洞捻壷 河頭 沖座南 「向東小唐 失隔 界地猛南 大王二王地 主社 王地主 「同妻郡氏者安葬猛南府管入猛領洞捻 量沖柾 林地 「小唐 失猛領P^雅地主大王二王地 主座乗 向西 ここには,李姓 の所持者 の祖先 たちが,雲南 か ら広西 に入 り (② ),再 び雲南-入 り (⑤ ), その後 ラオ ス- 入 った (⑦ )こ とが分 か る。「猛 瞳」 あ るい は 「猛竜 」 とい うの は, ラオスの ム ア ン ・ルア ンバ バー ン(MuangLuangPrabang)の ムア ン ・ル ア ンの部分 を漢字 になお した も ので あ る。 同様 に 「猛南」 とい うの は, タイのナ- ン県 の こ とであ る。 ナ- ン県 に入 って きた の は,⑲ の李法県 の代 であろ うと看取 され る。 しか し,妻 の郡氏者 は法県 よ りも後 にルア ンバ バ ー ンに埋葬 されてお り, ナ- ン-入 った後 も, ナ- ン県 とルア ンババ ー ン県 に またが って移 住 を繰 り返 していた こ とが推察 され る。実 際の移住 は,先 にN村住民 の事例 で も分か るように, 一生 の内に数 回行 われ るこ ともあ るので, <祖 園 >の記述 で はおお ざっぱな移住経路 しか分 か らない。 この様 に, 自 らの<家先 >の墓 の位置 は,漢字 を識 っていれば,如実 に知 ることがで きる。 <祝 園 >を見せ て くれた ミエ ンの人々は,祖先が どの地 に眠 っているか,文面 を見 なが ら説 明 - 163- 769

(12)

東南 アジア研 究 35巻4号 して くれ た。 <祖 囲 >は, <家先単 >に付 随す る場 合 もあ る し,4)独 立 の冊 子 とな って い る場 合 もあ る。 この文書 は,祖 先 の墓 を象徴 的 に清掃 す る<安墳 >〇nts∂W (あ るい は<安 阻 >) とい う儀礼 を行 うため に必要 で あ る。 <安墳 >には, 一人 の <家先 >の墓 を浄化 す る<平安墳 > と, シ ャマ ンの参加 す る大規模 な <普 天安墳 > とが あ る。 後者 は複 数 の <家先 >の墓 を集合 的 に浄化 す る。 個 々の<家先 >の墓 は,実際 には上記 の例 で示 した とお り,行 くこ とので きない遠地 にあ り, また ミエ ン族 は火葬 した骨 を入 れ た骨壷 を土 中 に埋 め るだ けで,通常 は墓 と分 か る 目印 を設置 しないので, た とえ 墓 の地名が判 別 して も,精確 な位 置 は分 か らない。 したが って,実 際 に埋 葬 した人 の記憶 にあ れ ば と もか く,何代 も離 れた祖 先 の墓 に参 る こ とは不 可 能 で あ る し,漠族風 の墓 を作 ってい る 稀 な場 合 を除 いて は,通常 ,墓参 りは しない。 その ため,墓 の レプ リカ を屋 内 に作 り, これ を 象徴 的 に清掃 して祖 先 の墓 を清 めた こ とにす るわ けで あ る。 <普 天安墳 >において は, <安項 謝墓疏 > (あ るい は<安祖 謝墓疏 >) とい う書 信 を神霊 にあてて書 かな くて はな らない。 その ため には<祖 圏 >に記載 されてい る祖 先 の葬地 を, この儀礼 的書信 に書 き込 まな くて ほな らな いのであ る。 この様 に実 際 の儀 礼 の 中で重要 な意味 を持 つ文 書 が <祝 園 >で あ る。 逆 に言 えば, この<祝 園 >が無 けれ ば, <家先 >の墓 の修復儀 礼 も行 えず, <家先 >の不興 を買 うこ とにな る。 その 意味 で も欠 かせ ない文書 であ る。 ミエ ンは この文書 を読 むだ けで な く, <安墳 >儀 礼 に よって も,祖 先 の来歴 を再現 ・確 認 す る こ とが で きる。過去 に さかの ぼ る系譜 (<家先単 >)に加 え, その葬 地 を示 して祖 先 た ちの移住 来歴 の よ り具体 的 な情報 を示 し, かつ儀礼 に よってそ の葬地 を再確 認 す るわ けで あ る。 いわ ば,形式上 は祖 先 名 の羅列 のみ の系譜 に,具体 的 な葬地 の情報 を肉付 けす る もので あ る。 Ⅳ-

2

<十二姓偉人 >の移住伝 承 先 に挙 げた犬祖神 話 とは異 な る ミエ ン族 の 口頭 伝承 ``渡海神 話 ''は,早魅 に よる南京 か らの エ ク ソ ダス とそ の顛 末 を描 いて い る。 南 京 か ら逃 れ た ミエ ン族 の祖 先 た ち は, <瓢 遥 過 海 > piw iukyi∂k⊃yす なわち海 を渡 り,遭難 しそ うにな った ところ を盤皇 (異伝 に よって は他 の神 の名 も出 る) とい う神 の加護 を得 ,広東 に上 陸 した とい う伝承 で あ る。 この神 話 は, タイに在 住 す る五 十代 以上 の ミエ ン男性 に は広 く知 られて い る。 系譜 や <祖 園 >以外 の,祖 先 の来歴 を 語 る伝 承 で あ る。こ こに見 られ るの は,大枠 と して の ミエ ン族 の祖 先 の設定 で あ る。また同時 に, 中国 と,現在住 んで い る タイ との地 理 的 ・時 間的 な連続性 を伝 える もので もあ る。 4)例 えば竹村 がチ ア ンラ- イ県で採集 したく家先単 >には, <阻囲 > と同様 の葬地 の記載 があ る [竹 村 1991:452-453]。 770

(13)

-164-吉野 :焼畑に伴 う移住 と祖先の移住 <瓢 遥 過 海 >神 話 は,ラオ スや タイにお いて は,J.Lemoine[1972:62],竹村卓二 [1981:277

]

らの採 集 した異 伝 (ヴ ァー ジ ョン)が あ る。以 下 に示す の は,筆者 が1987年 にナ- ン県 ボー郡 のN村 で採 集 した もので あ る。 イ ンフ ォマ ン トは,1930年生 まれの祭 司で あ り,本 人 自身が筆 記 した。句読 点 は筆 者 が後 に付 した。 南 京 海岸 八万 十 保 山頭。 寅卯 二 年 天 大草 三 年三 歳, 無根 所 養 ,餓 死 人民 太 多。望 見朝 川 府 羅 昌製大 下雨 。 請 詣造船 過 海(。 共有 十 二船 ,船 浸 七部 船 ,存 有 五船 。 昔 時聴 析到 海龍 門畔 鳴響 ,覚 得 驚伯 。只得 許上祖 宗 ,行 司 ,三活 大 道 ,廟 主 ,五旗 兵 馬 。許 後 三 日三夜 船 到 岸 。 乗 到朝 川府羅 昌県。就 到 還願 之 時 ,末 有 猪歴 用 。打 算安縄捉 捕 野 猪 ,山鶏用 設鬼 。在 此 之 後 , 病痛 多麻 。邪就 三活 大道打 開 大羅 明鏡 看 下 界凡 人被神 赫 害 ,被 鬼謀摸 。三浦 大 道就 分 派老 君 天 師 降凡博法掛 燈給 人民。 お お よそ の意 味 を読 み とれ ば, 以 下 の よ うに な ろ う。)「南 京 の八万 十保 山 にい た と き, 寅 卯 の年 に大草 魅 が あ り,飢 盲董とな った こ遥 か朝州 府 の羅 昌県 に大雨 が 降 るの を見 て,相談 の上 , 船 を造 り, 海 を渡 った。船 は全 部 で12隻 あ ったが, 7隻 は沈 み, 5隻残 った。 海 中の竜 門が 鳴 るの を聴 き, 大 変怖 れ たが ,祖 宗 ・行 司 ・三 活 大 道 ・廟 主 ・五 旗兵 馬 とい った神 々に願 掛 け し て祈 った。 その後 ,三 日三 晩 して船 は岸 に着 いた。 朝州 府羅 昌県 に着 い て, 神 々 に謝恩 儀 礼 を しよ う と したが ,豚 が なか ったので,野 猪 や野 鶏 を捕 って神 を示巳った。 後 に病 気 が流 行 った。 そ こで三浦 大 道 は大羅 明鏡 で下 界 の 人 々が神 鬼 に害 され て い るの を見 て,老 君 天 師 を派 遣 して 人 々 に法 を伝 え, <掛 燈 >の儀 礼 を与 えた」。 上 記 の伝 承 は,N村 で は 口頭 で伝 え られ て いた もので あ り,筆者 の質 問 に応 じて そ の場 で イ ンフ ォマ ン トが 筆 記 した もの で あ る。 竹村 が チ ア ンラ一一イ県 で採 集 した際 に もイ ンフ ォマ ン ト の記憶 に したが って筆 記 して い る [同上書:277-278]。 したが って,採 集 され た異伝 ご とに細 部 の違 い は多様 で あ る。 しか し,早 魅 に よる南 京 か らの脱 出- 渡海- 神 に よる救 難- 広東- の 上 陸一一神 々- の謝恩儀 礼 とい う大 筋 にお い て は共通 して い る。 上記 の筆 者 所採 の異伝 は, 渡 海 の基 本 的 な筋 に, ミエ ン族 の男子 の イニ シエ ー シ ョンた る<掛 燈 >の起 源神 話 も付加 され て い る もので あ る。 一 方 , ルモ ワ ンが ラ オ スの ル ア ンバ バ ー ン県 で採 集 した異 伝 は

,

「完 盆 歌 堂

yun punts∂w daagとい う儀 礼 に用 い られ る儀 礼 テ キ ス トに記 載 され た もので あ り [Lemoine1972:58159], その一部 は,Lemoine [1982:14-17]に も写真版が掲載 されて い る。 人民 生在 有字 分 明。 青 雲 廷過 了照 見凡 間。 叉来交過 無 万 , 明朝 出世返 敗 人民 百姓 。重 叩盤 皇 聖帝 差 有五旗 馬 ,随 後救 生 。盤古 聖 王 座 落 金鷲殿 上 ,置 有南 京 道 十 保 洞平 田水土 平 地所耕 。 - 1 6 5 - 771

(14)

東南 アジア研究 35巻4号 一千八百五十 四歳完満以了。又来交過寅卯年 間,天王造遅,地主流乱,返敗 天下人民。洪 武関枝聖王退位 。十二姓拓祐子孫 田基地 荒,退下南海八万 山頭 ,随 山断種 。又来交過寅卯 二年,天地大帰三年。官倉無米,官庫無根 。深溝水底,小溝浪鯉魚。横木 出火,格木 出個。 人民慌乱無慮投生,吃尽寓物 。君是吃君,民是吃民 。愁気在心 十二姓柊祐子孫 。不耐之何 思謹思着。正来瓢湖過海。限定七朝夜船頭到岸。船尾到街-千路途過 了三月。 船路不通。 水路不通。船頭不得到岸,船尾不得到街。十二姓 格祐子孫愁気在心。投 天無路,入地無 門, 投 山山高,叩水水深。恐伯柾風 吹落五海龍 門。原在船 中里 内,思量着 門路無人救得十二姓 猿祐子孫 。昔初以来盤皇聖帝差有五旗兵馬,随后救生,恐伯救得。一十二姓 狂祐子孫,願 在船 中裡 ,備排 白紙銀銭三牲長利,敷動祖宗香 火太祖家先五旗兵馬 回頭轄面,許上完盆部 春歌堂 良願在案。進在船 中裡 内,担保十二姓 猿祐子孫。未経三朝-七夜,船路也通。水路 也開。送船到岸,送馬到街 .劉 落慶東館州府 落 昌願庭剤三年 四歳。各人 開 口話謡備排還恩 答謝聖

。(

Le

mo

i

n

e [

1

9

7

2:

6

2

]のテキス トに従 い,一部 は

Le

mo

i

n

e [

1

9

8

2:

1

4-

1

7

]掲載 の 写真版 に よって修正 した。異体字 は現在通用 の もの に改 めた もの もあ る。句点 は写真版 を 参照 して吉野が付 けた) また

,1

9

9

7

年 に筆者が タイのチ ア ンラ-イ県 メ- フ ァールア ン郡 の

L

村 で閲覧 した ノー トに も, この<瓢遥過海 >神話 の異伝が見 られた。以下 に示す。 --首初以来,原在南京海岸里大 ,少無簿書歌堂 良願 。交過京走 院年 [景走元年 ],洪水尊下。 滝死天下人民。重有伏義姉妹二人正来置得 人民十二姓催祐子孫,在落南京海岸十保 山頭 。 随山耕種 ,随水仝遊 。又来交過洪武年 間,又逢 明朝皇 出世,退散天下万民 自[百 ]姓 人民。 又来交過寅卯二年,天地大帰三年三歳。官槍無米,官庫無根 。蕉木 出火,格木 出梱。人民 流

,飢餓難求。君是吃軍,民是吃民 。十二姓催祐子孫 ,飛天無路,叩地無 門。正来 開 口 急儀 請 謁合起 大位龍船。一面受来親遊過海-千路途。過 了三月,七朝七夜原在船 中里 内。 船路不通,析嶺風吹■落五海龍 門。昔時得 見風吹過海,又伯風吹随水湯流。昔時彼風 吹■ 落海底龍 門。十二姓偉 人愁憶在心。飛天無路,叩地無 門,投 山山高,投 水水深 。思量着 門 路無人。為大当初以来盤皇手下大位五旗兵馬,能幹之人本祖家先,為大前来殺死,後来救 生救得十二姓借祐子孫。凡吹不動浪打不行 。劉在船 中里 内焼起名香 ,関帝米根 ,玉女仙茶, 煩五旗兵馬男位本祖家先 回頭樽面。許上簿書在案。担保人丁一度。風情末経三朝-七夜。 船路也通,水路也 開,風乗送船到岸,送馬到街 。流落慶東通留州府羅 昌願。立居屋 宅。掌 捉 山珍財 。江還恩塔謝大神 父母万代霊神 。--・。(■ は同一の字 で,難読 の字 であ る

扇」

か 「戻」 と推 される)

7

7

2

ー1

6

6

(15)

-吉野 :焼畑に伴 う移住 と祖先の移住 この ノー トの持 ち主 は1955年 ラオス生 まれ の男子 で, 祭 司 の弔絹巨を有す る。1971年 に戦禍 を 逃 れ て タイ領 内 に移住 した。 件 の ノ- トは 自 らが 司祭 す る儀 礼 の た めの文 言 や歌 を記 した ノー トで あ る。 この異 伝 は,儀 礼 で用 い る神 霊 宛 の奉 書 の様 式 テ キ ス トの形 式 を とって お り

,

「意 者 書 用 博 人民 」 と題 され て い る。細 部 の文 言 は ル ア ンバ バ ー ン異 伝 と異 な る ところが 多 い が , 大 まか な筋 と して は相 同で あ り,N相 異 伝 と も (<掛 燈 >の 由来部 分 を除 け ば )違背 しな

い。

竹村 の紹 介 した異 伝 も大 筋 は相 同 で あ るが ,救 難 後 に岸 に着 い た こ とを述べ るだ けで,伝 東 の具体 的 な地 名 は出て い ない [竹 村 1981:277]。 上 記 の三 異 伝 中,南 京 か ら脱 出 して渡 海後 に到 着 した地名 と して,

N

村 の異伝 で は 「朝州 府 羅 昌

」 (県-解 ), ル ア ンバ バ ー ン異 伝 にお け る 「贋 東 詔 州 府 落 昌

」,L相 異 伝 の 「贋 東 道 菖召州 府 羅 昌解 」 とな って い る。 富津 光 が1943年 に報 告 した広 西 北 部 の 「盤 古 ヤ オ」 (ミエ ン 族 ) の 異 伝 で は

,

「寮 東 詔 州 府 ・- -羅 昌賭 --」とな って い る [雷 1943:41,46]。 これ らの 「羅 昌

「落 昌螺 」 は,現 在 の広 東 省 楽 昌県 で あ ろ う。 現 在 の広 東 省 詔 関市 の楽 昌県 ・曲江 県 ・乳 原揺 族 自治 県 に またが る一 山塊 は ミエ ン族 が住 む 「北江揺 山」 と して知 られ, 明酒 代 に は広 東 道 詔 州府 に属 して い たか らで あ る。 一方 ,北 江景 山の,楽 昌県 に隣接 す る曲江 県側 の ヤ オ族 (この 「ヤ オ族 」 は ミエ ン族 で あ る )の もとに伝 わ る 『批 記

とい う文書 に は,上 に述 べ た く瓢遥 過 海 >神 話 と同様 の,更 に詳 しい伝 承 が記 載 され,南 京 か らの移住 の最 終 的 な到達 点 が 「寮 東 通 音針 目府 曲 江 願 」 とな っ て い る5)[劉 1937:17]。 い ず れ に して も, < 十 二 姓 催 (揺 )祐 子 孫 >あ るい は<十 二 姓 借 入 > と して言 及 され る ミエ ン族 の 「祖 先 」 の,海 と神 に よ る救 護 ,神 へ の謝恩儀 礼 が ,南 京 や広東 詔 州府 とい った具体 的 な地 名 を挙 げ て記 されて い る。 この具体 的地 名 に よって, ミエ ンは彼 らの祖 先 (<十 二姓 怪 人 > )が かつ て 中国か らや って き た とい うこ とを強 く意識 し,筆者 な ど外部 者- の言述 で も,昔 中国 にい た こ とを屡 々語 るので あ る。6)ラ オス にお い て は,文書 の形 で あ る程 度流布 して い た もの と推 察 され るが , タイで は 必 ず しも文書 に よ らず , 口頭 で も伝 承 され て い る。 これ は逆 に言 えば, そ れ だ け強 い 関心 を持 つ話 と して 人 口 に胎 灸 して い るわ けで あ る。 また, この神 話 で規 定 され て い る救 難神 へ の謝恩儀 礼 は, <歌 堂 >dz∂w daagとい う。 <歌 堂 >儀 礼 は,十 年 -二 十 年 くらい の 間 をお い て不 定期 に行 われ る儀 礼 で あ り, ミエ ン族 の義 務 と して認 識 され て い る [cf.竹 村 1981:282-284]。この儀 礼 にお け る供 物 の供 え方 の規 定 は, この神 話 に付 随 す る伝 承 に よ っ て , そ れ ぞ れ の <姓 > の 下 位 区 分 (< 分 明 >punmet)とい 5)興味深いことに,N相異伝には,渡海遭難中に何隻かの船が沈むという筋があるが,これは 『批記』 にも見 られる。 6)筆者の聞いた話では,太古, ミエ ン族 と日本族kyanyipunはともに中国にお り, ミエ ンは南へ, 日本族は東へ移動 したという筋であった。これには徐福伝説が混入 しているようである。 また,一 人のみならず,複数の ミエ ンか ら同様の話 を聞いた。 - 167- 773

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東南 アジア研究 35巻4号 う)毎 に異 なる。 例 えば郡姓 には郡妹 と郡酸 とい う<分 明 >が あ るが,

郡蛙

に属す る者 は物 の 豚 をあぶ って供 えな くて はな らない。 これは, <親遥過海 >の際 に神 と交 わ した,謝恩儀礼 を 行 う約束 に由来す る ものであ る。 この様 に, <瓢遥過海 >神話 は,親族 アイデ ンテ ィテ ィの規 準枠 となるカテ ゴ リーの一つ の枠組 み を も,儀礼 的 に規定 してい るのであ る。 お わ りに ミエ ン族 の移住 は,焼畑 に伴 うものであ り,現在 四十歳代以上 の者 に とっては,移住 も現実 の生活過程 の中の一部 であ った。 しか し,焼畑 と移住 は,単 に彼 らの生活 の再生産過程 の一部 であ るには とどまらない。 ミエ ン族 自身の 自己認識, と りわけ他者 と対比 した ときのエ スニ ッ クな 自己認識 において は,他者 と自らを弁別す る文化 的特徴 と して改 めて認識 され る。 現 に生 きてい る彼 らが焼畑耕作 と移住 を繰 り返 し行 って きた し,彼 らの 「祖先」 もまた焼畑耕作 と移 住 を行 って きた。この両極 には,焼畑耕作 と移住 とい う点での連続性 を兄いだす こ とがで きる。 最 も大 きな枠組 みでの 「祖 先 」 (<十二姓 借入 >)の来歴 は, タイの ミエ ン族 の もとで は, <瓢遥過海 >神話 に見 られ る。 そ こで は,現在居住す る タイの地 と,祖先がかつて居 た中国 と の時 間的お よび空 間的連続性 が示 されてい る。 ミエ ン族 の共通 の 「祖先」たちの この大枠 の来 歴 は, しか し,か な りの径庭 が あ る。 現実 に彼 らが行 って きた焼畑耕作 に伴 う移住 と 「祖先」 たちの移住 とを媒介す る ものが,各世帯 で所持す る<家先単 > と<祖周 >であ る。 これが少 な くとも実際 に焼畑耕作 と移住 を繰 り返 して きた ミエ ン個 々人 に, <家先 >す なわち 自分 に直接 つ なが る直系 の祖先 たち もまた同 じく移住 を繰 り返 して きた こ とを知 らせ る。漢字が読 め る者 であれば, <祝 園 >を見て 自らの父祖 たちの大 まか な足 ど りをた どることがで きる。そ う した 祖先 の葬地 の記録 は,単 に伝承 や知識 に とどまるので はな く, <安墳 >儀礼 な どにおいて,具 体 的 に必要 とされ る もので もあ る。 ここにおいては,移住 は,単 に彼 らが焼畑耕作 に伴 って行 って きた住居 の移動 であ るだけで はない。ルア ンババ ー ン異伝 とL相異伝 中の 「随 山耕 (畔 )種 」とい う表現 に見 られ るように, ミエ ン族 の祖先 たちが 「南京脱 出」以来行 って きた営為 と して,象徴化 されてい るのであ る。 現 に 自分 た ちが行 って きた焼 畑耕作 に伴 う移住 の記憶 は, <祖 園 > を媒 介 と して, <親遥過 海 >神話- と遡 る出発点であ り,逆 にこの様 な<祖 園 >,神話 とい った道具立 て に よって,焼 畑耕作 と移住 が 「祖先」以来 の伝統 と して意識 され るのであ る。 以上述べ て きたの は,少 な くとも実際 に移住 の経験 ない し記憶 のあ る,現在 四十歳代以上 の ミエ ンに とっての構 図であ る。 現在 で は

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年 か ら強化 された森林伐採 禁止 の全 国的規制 に よ り,森林 を切 り開 く焼畑が 出来 な くなった地域が多い。新 たな耕地 を切 り開いて耕作す る可 能性 が無 くなれ ば,新 たな耕地 を求 めての移住 も行 われ な くなる。 十年前 に筆者 がPY村 で実 774

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8-吉野 :焼畑 に伴 う移住 と祖先 の移住 見 した , 森 林 を切 り開 き焼 く焼 畑 耕 作 は現 在 行 わ れ て お らず , 草 地 を除 草 剤 で 更 地 に して 陸 稲 を植 え る形 の 畑 作 に 変 わ っ た C 焼 畑 耕 作 とそ れ に伴 う移 住 を記 憶 に と どめ て い る 人 も徐 々 に 減 っ て ゆ く趨 勢 に あ る 。また ,< 祖 国 > や 神 話 伝 承 の 情 報 を伝 え る媒 介 た る漢 字 の 識 字 能 力 は , 若 い 世 代 に は養 成 され て い な い。 耕 地 拡 大 が 不 可 能 とな っ た 為 に , タ イ国 内 外 - 出 稼 ぎ に行 く 者 も増 え て い る。 今 後 , 本 稿 で 検 討 した 移 住 の 記 憶 , < 祖 国 >

,

渡 海 神 話 を彼 らが どの よ う に 変 形 させ て ア イ デ ンテ ィテ ィの 基 盤 と して ゆ くか , あ る い は異 な っ た ア イ デ ンテ ィテ ィ保 持 -と変 化 して ゆ くか は予 断 で き な い が , 今 後 の 調 査 を通 じて 明 らか に して 行 きたい 。 付 記 本稿 で用 いた資料 は,文部省 アジア諸 国等派遣留学生 として タイ王 国チ ア ンマ イ大学留学 中,1987年 -89 年 に行 った実地調査,及 び,その後数次 に亘 って タイの ミエ ン族村 落 を訪 れ収集 した新 たな情報 と菜料 に 基づ いている。特 に1995年3月に 日本学術振興 会 とタイ国学術 評議 会の「拠 点 大学方式 に よる学術交流事業」 (拠点 :京都大学東南 アジア研究 セ ンター )に よって タイに赴 き, ミエ ン族の社 会変化 に関す る貸料 ・情 事剛文集 を行い,本稿 に も用 いた.ノまた,文部 省科学研究費補助 金 (国際学術研究 )「タイ北部 にお ける山 地民族 の出稼 ぎの研究」 プロジェ ク トにおいて1996年12月以 降,調 査 を行 ってお り, その過程 において収 集 した資料 も用いた。 ここに, 日本国 文部 省, タイ国学術評議 会, ナ- ン県 とパヤ オ県の公共福祉局, タ イ国労働社 会福祉 省山地民研究所,チ ア ンマ イ大学社会学 ・人類学科, 日本学術振 興会,京都 大学東南 ア ジア研究セ ンター,そ して懇切 な教示 を賜 った ミエ ン族 の方 々に甚深 の感謝 を申 し上げ る次 第であ る。 参 考 文 献

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参照

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