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[Population of Southeast Asia in the Mid-nineteenth Century : Population Counts Appearing in the Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia]

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(1)

東南 ア ジア研究 32巻3号 1994年12月

1

9世 紀 中 葉 の 東 南 ア ジ ア の 人 口

-

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Population ofSoutheastAsia in theMid-nineteenth Century: PopulationCountsAppearinginthe

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YoshihiroTsUBOUCHI榊

ThispaperaimstocompileandevaluatetheinformationonthepopulationofSoutheast AsiaintheMid-nineteenthcenturyappearinginthe

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ia,which waspublished from 1847to 1860in Singapore. Thejournal containsconsiderablenumbersofpopulationfiguresforthepre-censusperiod,reflecting thepeople'sandtheeditor'sinterestsinthegeneralsituationsuroundingSingaporein thisperiod. TheinformationonpopulationcoversSumatra,theMalayPeninsula,the StraitsSettlements,Java,Bali,Lombok,Sulawesi,Borneo,and otherpartsofinsular SoutheastAsia.

Thegeneraltendency ofthepopulation countsofinsularSoutheastAsiainthis period by theEuropeansistoward underestimation. Thisisespecially trueforthe inland areasofthelargerislands,which wereremotefrom theEuropean sphereof influence. Populationsofthesmallislandslocatedoncommercialroutesarereported relativelyaccurately orevenoverestimated. PopulationsoftheEuropeansettlements aresometimesoverestimatedandtheirgrowth ratestendstobeexaggerated. Under -estimationofnativepopulationsbytheEuropeansistobeexpected,butdespitethisbias itisclearthatthepopulation densityininsularSoutheastAsiawassmallenoughto attractplantersandsettlers.

じ め

東南 アジアは,中国 ・イ ン ドとい う巨大 な人 口を擁す る地域 に挟 まれて, その相対的な人 口 希薄 さによ って特徴づ け られ る。島峡部東南 アジアでは, ジャワ島,バ リ島, およびスマ トラ 島の一部 を除 いて この人 口希薄が とりわけ著 しい。 このよ うな小人 口状態 はこの地域 の社会編 ・本稿 は文部省科学研究費補助金重点領域研究 「総合的地域研究 の手法確立

AO2班 「地域性 の形成 論理」 の研究成果 の一部 であ る。

(2)

東南 アジア研究 32巻3号 成 に大 きな影響を与えたが, それでは実際に, どれ くらいの人 口が この地域 に分布 していたか を示す ことは意外 に難 しい。土着の支配者によって住民数が公表 されることは, まずなか った か らである。中国系の資料 による情報 は重要ではあるが,現在 のところ補足的に利用で きるに 過 ぎない。 ヨーロッパ人が この地域 に強い関わ りを持つようにな っては じめて,人 口に関す る 情報量が飛躍的に増大 した。 それは 19世紀 の ことであるが, この時点で も, 情報 はまだ断片 的である. 本稿では, 19世紀中葉 に出版 された

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d(

以下

,PA

と略称す る) を取 り上 げて, そ こに掲載 された人 口に関す る情報を 整理す ることを試み る。 この雑誌 は

1

8

4

7

年か ら

1

8

6

0

年 にかけて, 英人

Loga

n

を中心に編集 発行 されたいわば当時の英領植民地 における情報誌で,新聞で報道 される貿易 ・政治関係の記 事 に満足せず,歴史,地理,言語,文学,民族誌等に焦点 をあてて編集 されている。取 り上 げ られた地域 は,蒸気船 によるコ ミュニケーションの確立を背景 に,海峡植民地およびマ レー半 島のほかに, スマ トラ, ジャワ, ボルネオ, スラウェシ, フィリピン, マルク,バ リ等を含ん でいる。

I St

.

John

の東イン ド諸島人口推計

PA

に掲載 されている最 も包括的な人 口推定 は, 東 イ ン ド諸島 (ただ しボルネオおよびスラ ウェ シを除 く)に関 して,

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が行 な って い る もので あ る

。1

8

4

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年 時点 で,

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8,

4

3

6

,

6

2

2

人の人 口数が提示 されている

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の編集者

Loga

n

は,

St

.J

ohn

の数値 が高す ぎるとい う感触 を示 してお り,随所 に注記 を加 えている。 ここで はまず,

St

.

J

ohn

の数値 とその依拠 した文献 などを示 しなが ら全体像を把捉することを試みよう。 彼の人 口推計 は, (1)マ レー半島および海峡植民地,(2)スマ トラおよび属島,(3)ジャワおよ びその他のイ ン ドネシアの諸島に分 けて示 されている。 マ レー半島および海峡植民地の人 口に関 して,

St

.J

ohn

は,

1

8

3

9

年 に出版 された

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wbol

d

の数値

[

Ne

wbol

d1

8

3

9:41

8-41

9

]

に依拠 しつつ, 若干の修正を加えて, 表 1のような数値 を示 している。1)海峡植民地の うちペナ ン (プロビンスウェルズ レイを含む) とマラカに関 し ては, St

.J

ohn

の数値 はセ ンサス値 と増加率 との組合せによる推計である。 ペナ ンについて は,

1

8

2

8

年 の

6

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,

5

51

人 と

1

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年 の

8

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,

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5

人を念頭 において

1

8

4

8

年の

1

6

8,

5

9

6

人が計算 され ているが,実際にはそれよりは低めの

1

2

0

,

0

0

0

人 とい う推定値が記載 されている。 マ ラカにつ 1) S

t

.

J

o

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n

Ne

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o

l

d

の地名表記法には,表1に見 られるように,かなりの違いがあり, これらは さらに現在の地名表記と異なっている場合が多い。本報告においては,他の表についても,地名に 関 しては,煩雑さを避けるため原則として著者の表記をそのまま採用した。ただし,本文中におい ては,判明するものについて,現在用いられることが多い表記あるいは他の地図帳などに見られる 表記を括弧内に示すことがある。

(3)

坪内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口

表l St.Johnによるマ レー半 島および海峡植民地人 口 (付Newboldによる人口) St.Johnによる人口 Newboldによる人口

Kidah 50,000 QuedahandLigore 50.000 Pera' 35,000 Perak 35,000 Salafigor 12,000 SalangoreandCalang 12.000 Johore 25,000 Johore(incLSejametandMuar) 25,000 Pahang 40,000 Pahang 40,000 Kemaman 1,000 Kemaman 1.000 Tra丘gganu 30,000 Tringanu 30,000 Kalantan 50,000 Kalantan 50,000 Patani 30,000 Patani 10,000 SufigeiUjong 3,200 Sungie-ujong 3,600

Ranbau 9,000 Rumbowe 9,000

JMuaroho1 22,,040000 0rangBinua(Johole) 1,000

0rangBinuaoftherestofthePeninsula 25,000 Johole 3,080 Jompole 2,000 Jellabu 2,000

Srimenanti 8,000 AboriginesscatteredoVerthePeninsula 9,000 PinangandProVinceWe11esly 120,000 ProVinceWe11esley 46,880(1835) MalSingaporaccae 4660,,080820 MalaccaandNaning 37,706(1836)

出所 :St.John [1849:380-381]およびNewbold [1839:418-419]による。 いて は,1818年 に25,000人 であ った ものが,Newboldの 1836年 の数値 と比較 す ると18年 間 に12,706人増加 した ことにな り, この増加 率 を適用 して46,882人 とい う数値 が示 されて い る。 シ ンガポールの人 口の出所 は明 らか に されてお らず,概数 で60,000人 が与 え られて い る。2) 2) Newboldの示す合計人 口374,266人 に対 して, St.Johnのそれ は542,482人 と相 当多 くな って い る。 これ は前者 にはペナ ンおよび シ ンガポールの人 口が含 まれていない ことに起因す る部分が大 き い。 ケ ダー, ベ ラク, ス ランゴール, ジ ョホール,パハ ン, クママ ン, トレンガヌ, クランタンな どのマ レー半 島の諸州 につ いて は,St.Johnは,10年 の歳月の経過 に もかかわ らず,Newboldの 数 値 を そ の ま ま踏 襲 して い る。 今 日 タイ領 に含 まれ るパ タニ につ いて は, St.Johnの数 値 は 30,000人で,Newboldの10,000人 を大 き く上廻 ってい る。 これ はNewboldが, パ タ二は もとも と人 口54,000人 で あ ったが, シ ャムの攻撃 のため に44,000人減少 した と捉 えて い るの に対 して, 減少数 を24,000人 に見積 り直 したためであ る。 ヌグ リス ンピランの人 口につ いて は, St.Johnは, Newboldが数値 を示す六 っの小国の うち三 つ につ いて は言及せず, ス ンガイウジ ョン, ル ンバ ウ, ジ ョホル (Johol-Johole) だ けを とりあげて いる。 しか もそれぞれの人 口はル ンバ ウを除 いて Newboldの示す数値 よ りやや少 ない。 この うち ジ ョホルに関 して は, ジ ョホルのオ ランビヌア と い う1,000人か らな る別項 が設 け られてお り, これを考慮す るとSt.Johnの数値 はNewboldのそ れにほとん ど等 しくな る。 ス ンガイウジ ョンにつ いて は,St.Johnの数値 はNewboldの3,600人 よ りも400人 だ け少 ない。 これ も同様 に, そ こに含 まれ るオ ランビヌアも 「ジ ョホル以外 の半 島 部 のオ ランビヌア」 に含 めたためか も知れない。 JohnとNewboldの間 に もっとも大 きな差 が存 在す るの は, 原住民 に関す るものであ って, 「ジ ョホル以外 の半 島部 のオ ランビヌア」 と してSt. Johnが25,000人 を推定す るのに対 して,Newboldは 「半 島部 に分散 す る原住民」 と して9,000人 を数 えている。 Newboldが示す ヌグ リス ンピランの他 の三小国 の人 口の合計12,000人 をSt.John がすべて原住民 のカテ ゴ リーに入 れて しま った と して も, なお25,000人対21,000人 とSt.Johnの 原住民 に関 す る見積 りの ほ うが大 きい。 海 峡植民地 を除 く, マ レー半 島の上述 の地域 に関 して, st.Johnの合計人 口は315,600人で,Newboldの289,680人 を25,920人上廻 っている。

(4)

東南アジア研究 32巻3号 表2 St.Johnによるスマ トラ人口 (付Temminckによる人口) St.John による人口 Temminckによる人口 Barusか らSiackに至るアチェ人 Achinか らRauwに至 るバタック人 西海岸Barusか らIndrapura,および 東海岸Siakか らPalembangに至 る 内陸部および海岸部のマレー人 ルジャン人,パスマ人等 ランボン人,および南西海岸の一部 600,000

1

,

200,000

2

,

000,000 600,000 150,000 600,000 1,200,000 2,000,000 600,000 150,000 4,550,000 4,500,000 Nias Batoeグル ー プ Foggy,Engano等

Linga,Bintang,Dryon,Singkip,Karimon等 Banka Billiton Anambasグル ー プ Aor,Tingi等 250,000 250,000.-300,000 3,270 10,000 100,000 40,000 7,000 3,500 1,000 88,000 35,000 414,770 出所 :St.John[1849:383]およびTemminck[1847:2-3,98,107,117]による。 上 述 の推 計値 に対 して, Loganは2つ の箇所 で注記 を加 え て い る。 その 1は ジ ョホール に 関 して, 全人 口 25,000人 が余 りに も多過 ぎる とみ な し, 他 の多 くの ケー スにつ いて もそ うで はな いか と疑 って い る。 その 2はマ ラカに関 して, 1847年 セ ンサ ス人 口が 54,985人 で あ った ことを記 して い る。 スマ トラの人 口につ いて は,S

t

.Johnは,Temmin

c

k

[1846-49] に示 され た数値 を踏 襲 し, これ に属 島 の人 口を加 えて い る。St.Johnによ るスマ トラ人 口 とTemminckに よ る もの とを並記 して示 す と表 2の よ うにな る。 スマ トラ本 島 に関 して, Temminckは表2に記載 さ れ た 5つ の地 域 の人 口の合 計 と して, 4,500,000人 とい う概数 を示 して い るが, St.Johnはそ れ ぞ れ を そ の ま ま加 算 した 4,550,000人 を採 用 して い る。 また本 島 につ いて はTemminckの 数 値 を その まま採 用 す るが, 属 島 につ いて は多 めの推 定値 を採 用 した り, あ るい は増加 を考慮 した修正 を試 みて い る。 す なわ ち, ニ ア ス島 につ いて は ラ ッフル ズの推 定値 230,000人 を と ら ず,Temminckが 引 用 す るOppeの 250,000人 な い し 300,000人 と い う推 定 [Temminck 1847:98] か ら 250,000人 を採 用 して い る。 リンガ ・ビ ンタ ン諸 島 につ いて は 1840年 にお け る 88,000人 とい う数値 [Temminck1846-49:Ⅱ,107] に代 えて, 海賊 が活動 しな くな った とい う理 由で, 9年 間 で 12,000人 の増加 を考慮 して, 100,000人 と して い る。 バ ンカ島 につ い て は,Temminckの 35,000人 [ibid.:Ⅱ,117] に対 して, 気 候 お よび労 働 状況 を考慮 しひか え めの増加 を推定 しつ つ も, 9年 間で 5,000人 の増加 を認 めて, 40,000人 と して い る。 この よ

(5)

坪内 :19世紀中葉の東南アジアの人口 表3 St.Johnによるマ レー半島 ・スマ トラ以外の東インド諸島人口 地 域 お よ び 摘 要 人 口 Javaおよび属島 3年半における増加 Bali Lombok Sumbawa Floris

Solor,Adenara,Lombatte,etc. Sumba Timor 9,560,380(1845) 500,300 900,000 250,000 200,000 278,000 157,000 425,000 639,000 計 12,909,380 出所 :St.John [1849:384]による。数値は原文のまま。 うな手続 きを経 て,St.Johnはスマ トラの人 口を, 属 島を含 んで,4,964,770人 と推定 して い る。3) マ レー半 島お よび スマ トラ以外 の東 イ ン ド諸 島 の人 口につ いて は, 表

3

の よ うな数値 が示 さ れ て い る。 この地 域 の人 口 の主 要 部 分 を 占め る ジ ャワ島 に関 して は,1845年 セ ンサ ス人 口 9,560,380人 に, 3カ年半 の増加推 定値 500,300人 を加 え た数 値 が採 用 され て い る。4) 第 2の大 きさの人 口を有 す るバ リ島 につ いて は,Temminck [1846-49:Ⅰ,340]の800,000人 と,Van DenBroek(出所不 明) の1818年 の推計 987,500人 の中間値,900,000人 が採 られて い る。 st.Johnによ る東 イ ン ド諸 島 の人 口推 定 の特 徴 と して は, 以下 の ことが挙 げ られ よ う。 (1) 第 1群 か ら第 3群 にか けて単位地域 の大 きさが変化 し, 第 1群 にお いて もっと も細 か く,第

3

群 が最 も粗 い。 (2) 総 人 口のみが示 されて い る。 (3) 植民地 につ いて は人 口増加 が勘 案 され るが, 土 着部 分 にお いて は増加 を計 上 しな い場 合 が多 い。 (4) 比 較 的小 さい島 に相 対 的 に大 きな人 口の居 住 を認 めて い るよ うに見 え る。 島 の人 口 の相 対 的評価 が大 きい。

3) St.Johnのスマ トラに関する人口は,Temminck [1846-49]による部分が多いが,Temminck の数値 は,Francis [1839]の引用ではないか と思われるところがあり,Loganもこの点を注記 し て い る。 ち な み にFrancisに よ る と, アチ ェ人600,000, バ タ ック人 1,200,000, マ レー人 2,000,000, ル ジャン人およびパ スマ人600,000, ランボ ン人150,000,計4,550,000とな っている libid.:31

]

.

4) Bleeker [1863b]によると, 1845年のジャワ人口は,9,551,385, 1848年には9,660,582, 1849年 9,584,130となっている。 Money [1861]の付表によると,1845年人口は9,530,780,1848年には 9,570,000,1849年 は9,584,130である。

(6)

東南 アジア研究 32巻3号

I

Logan

のスマ トラ人 口推計

S

t

.Johnの推計 に先行 して,

PA

の同 じ巻でLogan自身 もスマ トラの人 口に関す る推計を 報告 している。 Loganの推計方法の特徴 は, 第1に民族ない し種族別 に推計を行なっている こと,第2に地域別統計が入手で きる場合にはそれを利用す ること,第3に地域別統計不在の 場合には, 面積 ×推定人 口密度か ら人 口量を求めていること, である。 表4はLoganの総括 表4 Loganによるスマ トラ人 口 民 族 ・ 地 域 人 口 未開諸族 (WildTribes) 6,000 OrangMalayu 山地部 Menangkabau 同 ・海岸部居住者 SapuloBoaBandar 同 ・海岸部居住者 Korinchi Rawa 北部海岸 東海岸 西海岸 東部低地および丘陵地 他 の地域 のマ レー人 385,000 64,350 40,000 31,200 75,000 25,000 60,000 24,100 184,000 10,000 小 計 898,650 OrangPalembang OrangRejang OrangSerawi OrangLampong OrangBatta 西海岸 東部低地および丘陵地 山岳地帯 北 部 中 部 南 部 201,000 72,000 160,000 92,900 4,300 63,280 36,000 125,280 83,000 小 計 311,860 OrangAche 450,000 合 計 2,186,410 西部 の諸 島 OrangEngano OrangMantawei OrangNiha OrangMaruwi 900 5,000 286,000 3,000 小 計 294,900 出所 :Logan[1849:361]。

(7)

坪 内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口 表である。 以下, 彼 の推定方法を紹介 しつつ, 必要 に応 じて

St

.J

ohn

の数値 との比較 を行 な うことにす る。

(1)

未開諸族

(

w

i l

d t

r

i

be

s

)

スマ トラ各地 の未開諸族 の人 口を暫定的に

6

,

0

0

0

人 と推定 す る。 この うち南部 のアブ ンおよびクプは

2

,

0

0

0

人を占め る。 (2) マ レー人 i) 山地 のマ レー人

a.

ミナ ンカバ ウ人

Fr

anc

i

s

[

1

8

3

9:9

4

]

の数値か ら, ミナ ンカバ ウに属す る

1

0地域 の人 口を加算 し,総人 口

3

8

5

,

0

0

0

人を得て いる。

b.Sapul

oBuaBandar

などのマ レー人 ヨー ロッパ人 による調査が行 なわれてお らず,人 口密度 は低 い。 1平方地理 マイ ル5)あた り

1

5

人 (lkdあた り

4

.

4

人) と仮定,

3

,

2

5

0

平方地理 マイルに対 して

4

0

,

0

0

0

人 とす る。 (この計算では

4

8

,

7

5

0

人 になるが

,8

,

7

5

0

人 を切捨 てている)。

C.Kor

i

nchi

人 居住地域 を

1

0

0

地理 マイル

×5

0

地理 マイル

-5

,

0

0

0

平方地理 マイル と推定。

1

平方地理 マイルあた り

1

5

人 と して,

7

5

,

0

0

0

人。

d.Rawa

人 居住地域 を

4

0

地理 マイル平方

- 1

,

6

0

0

平方地理 マイル と推定。

1

平方地理 マイ ルあた り

1

6

人程度 にあたる

2

5

,

0

0

0

人が

Fr

anc

i

s

か ら引用 されている。 ii) 山地 マ レー人の西方 の丘陵地 のマ レー人

a.

沿岸部 の ミナ ンカバ ウ人

Fr

anc

i

s

の数値 に従 って

2

2

地域 の人 口の合計値 として

6

4,

3

5

0

人。

b.Sapul

oBuaBandar

の沿岸部

Fr

anc

i

s

の数値 に従 って

1

6

地域 の人 口の合計値 として

31

,

2

0

0

人。 血) 低地 (すなわち東部) のマ レー人 シアク, イ ン ドラギ リ, カ ンパル, ジャンビ, パ レンバ ン (一部) などを含 む

3

6

,

8

0

0

平方地理 マイルで,

1

平方地理 マイルあた り

5

人 (

1

kraあた り

1

.

5

人程度) として,

1

8

4

,

0

0

0

人。

i

v)

北部東海岸 のマ レー人

5) 1

英地理マイル

(

Ge

o

gr

a

phi

c

a

lMi

l

e

)

1

海里に相当する。JIAではこの外に,

1

蘭地理マイル

-4

海里

-7

.

4

0

7

4

0

7

kmが用いられたり,

1

蘭マイル

-5

.

5

5

5

6

kmが使われたりするので, 面積の扱 いには注意が必要である。

(8)

東南 アジア研究 32巻3号 Anderson [1826] に依拠 して 600平方地理 マ イルに散在 す る 45の地域 につ い て, 小 は20人, 大 は 10,000人 に至 るそれぞれの人 口を集計 して得 られた 56,510 人 を もとに して, Andersonに見落 された部分を掛酌 して, 60,000人の概数を示 している。 Ⅴ) 北部西海岸 のマ レー人 Francisに依拠 して, 小 は 200人, 大 は 3,000人 に至 る 15地域の人 口を集計 し, 24,100人を得ている。 (集計値 は24,300人であ って, ミスプ リン トない し計算間 違 いが含 まれている)0

v

i) その他のマ レー人 スマ トラの他の地域 のマ レー人 の総計を 10,000人 と推計 している。 ニアス島だけ で も3,000人, アチ ェの領域 およびパ レンバ ンに相 当数 のマ レー人が いるもの と 考 えている。 (3) パ レンバ ン人 13,400平方地理 マイルに, 1平方地理 マイルあた り 15人 (lkdあた り4.4人) とし て,201,000人。 (4) ル ジャン人

Francisに従 って Rejang (10,000人) および AmpatLawang (14,016人) の人 口 が, 1,500平方地理 マイル内に居住 し, 1平方地理 マイルあた り 16人 (

lk

dあた り 4.7人) であることを利用 して, 同 じ密度を残 りの 60地理 マイル× 50地理 マイル-3,000平方地理 マイルに適用 して,合計人 口 72,000人を得 る。 (5) スラウィ人 65地 理 マ イ ル × 25地 理 マ イ ル - 1,625平 方 地 理 マ イ ル か らな る西 方 沿 岸 に, Francisによると 26,530人が居住す るが, これ と同 じ密度 (すなわち1平方地理 マ イル あた り16人, 1kdあた り4.7人) で残 りの 65地理 マイル × 25地理 マ イル -1,625平方地理 マイルの内陸部 が居住 されているとみなす。 さ らにパ レンバ ン在住の 1,000人を加えて, 159,260人を得 るが, これを 160,000人 の概数 にまとめている。 (6) ランボ ン人

Zollingerの示す ランボ ン地域 の人 口 82,900人 に,Francisの Kroe居住人 口 10,000 人 を加えて92,900人を得 る。 人 口密度 は 1平方地理 マイルあた り 11人 (1

k

riあた り 3.2人)程度 になる。

(7) バ タ ック人

i) 西海岸 のバ タ ック人

(9)

坪内 :19世紀中葉の東南 アジアの人口 る。 ii) 山脈東側 の低地 および高地 のバ タ ック人 Andersonの報告 に従 って算 出 された 8地域 の合計人 口 126,560人か ら, 2分 の 1を差 し引 き, 63,280人を得 る。 マ レー人首長達が支配下 のバ タック人 の数 を誇 張 して報告 してい るとい うのが この控 えめな評価 の理 由であ る。人 口密度 は1平 方地理 マイルあた り約 20人 (1kI丘あた り5.8人) とな っている。 in) 山地部 のバ タック人

a.

北 部 60地理 マイル × 30地理 マイル- 1,800平方地理 マイルに 1平方地理 マイルあた り 20人 (lk適あた り5.8人) として 36,000人。

b.

中 央 部 4,176平方地理 マイルに, 1平方地理 マイルあた り30人 (lkr丘あた り8.7人) と して, 125,280人。 C.南 部

Pertibi28,000人 と, Mandheling55,000人 を加 えて 83,000人。 これ らの数値 の 出所 は明 らかではな く, た とえば Francisは, Mandhelingの人 口を 76,000人 とみな していることが注記 されている。 南部地域 の人 口密度 は 1平方地理 マイル あた り約 12人 (lkdあた り3.5人) となる. (8) アチェ人 22,600平方地理 マイルに 1平方地理 マイルあた り20人 (1kdあた り5.8人) として 450,000人 と推定 されている。 (9) ェ ンガノ島人 次 に述べ られ るム ンタワイ島 と同 じ人 口密度 (1平方地理 マイルあた り2.2人強, 1

k

rBあた り0.65人) を 400平方地理 マイルに適用 して 900人。 (10) ム ンタワイ島人 2,240平方地理 マイルに 5,000人。 (ll) ニアス島人 Fransisに従 って, ニアス島 お よびバ トゥ諸 島を合 わせ た 1,800平方地理 マ イルに 286,000人。 ニ ア ス島 のみで 1,200平 方地理 マ イル に 256,000人。Donlebinによ る 1846年時点で 169,500人 とい う情報

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b'1848:174) を見逃 した と注記 されている。

(12) マルイ人

(10)

東南 アジア研究 32巻3号 り1.5人) と して 3,000人。 以上 の情報 を提示 しつつ

Loga

n

は, スマ トラ本島の人 口

2

,186

,

41

0人, 西側 の諸 島の人 口 294,900人を推計 している。 ちなみにスマ トラ本島の人 口密度 は-平方地理 マイルあた り 17人 (lkllあた り5人) である。 前述 の

St

.J

ohn

によるスマ トラ本島4,550,000人 に比較す ると, 2分 の 1以 下 で あ り, これ だ け大 きな相 違 が現 わ れ る こ とは きわ め て興 味 深 い。 なお,

Lo

gan

が しば しば引用す る

Fr

a

nc

i

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は, すでに示 したよ うにスマ トラの総人 口を4,500,000人 と推定 している。

Lo

gan

によれば

Fr

a

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i

s

の推計 における誤 りは, 彼がデー タのない地域 の 人 口 を過 大 評 価 した た め で あ る とい う

[

Lo

ga

n

1849:360]。 しか し既 に示 した よ うに,

Loga

n

はアチ ェ人 口や

Mandhe

l

i

ng

の人 口の推定 の場合 のよ うに,既存 の人 口が示 されてい て も, なお,

Fr

a

nc

i

s

を下廻 る推定値 を提示 していることに注意す る必要がある。 アチ ェの場 令,

Fr

a

nc

i

s

の示す600,000人 を削 って 450,000人 と してお り,

Fr

a

nc

i

s

の数値 はマ レー人を 含 む と注記 しているが [ibid.:359], この差 150,000人 をマ レー人人 口として別 に数 えた形跡 はない。

Loga

n

において は, 過大評価 を避 けよ うと してむ しろ過小評価 とな った可能性 も考 え られ る。

Logan

の示す スマ トラ本島の人 口密度 1平方地理 マイルあた り 17人 は, lkdあた り5人 に 相 当 し,東部低地 および高地 のマ レー人 の人 口密度 1平方地理 マイルあた り 5人 は, 1k招あた り1.5人 に相 当す る。 これ らの低 い人 口密度 は, 仮 に 2倍 に増加 した として も本質的な低密度 には変 りがな く, この ことは人 口密度 とい うものが人 口推定 の手がか りと して用 いるためには きわめて不完全 な ものであることを も示唆 している。

Ⅴ マ レー半島および海峡植民地

マ レー半島お よび海峡植民地 に関 しては,

PA

には, 断片的ではあるが,人 口情報が比較的 多 く記載 されている。 とくに海峡植民地 に関 しては情報量 が多 い。以下 これ らの断片 を地域毎 に紹介 してい くことに しよ う。 ペナ ンの人 口については,

Low

[1849-50] をは じめ, い くつかの記事 のなか に断片的な 記述が見出され,設立期 のペナ ンおよびプロビンスウェル ズ レイの人 口の動 きをあ る程度知 る ことがで きる。人 口数 に関す る記述 を年次 を追 って簡約す ると以下 の如 くとなる。 (1) 1804年 の

Fa

r

quha

r

の報告書 によ ると, ケ ダーか らの譲渡時点 にお けるペナ ン島居住 者 は,4家族 23人であ った

[

Low

1851:409]。 (2) 1792年 のペナ ン島住民数 は 7,000人で, 東 イ ン ド会社職員 および使用人数 は 1,000人で

(11)

坪内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口 あ った [Low 1849-50:654] 。 (3) 1794年 の

Fr

anc

i

sLi

ght

の報 告 に よ る と, ペ ナ ンの華 人 人 口 は3,000人 で あ った

[

Anonymous

1850-52:1851,9

]

(4) 1802年 か ら1806年 の間 に書 かれた とみ られ る報告書 によると, この時点 か ら数年前 の ペナ ン島の華人人 口は5,000人であ った [ibid.:1852,150]。 (5) 1800年時点 での プロ ビンスウェルズ レイの人 口は,2,000- 3,000人であ って,1,500平 方 マイルの地域 に散在 していた [Low 1849-50:1850,12]。 (6) 1810年時点 における土着人 口 (ペナ ン島) は,24,424人であ った [ibid.:1850,16]。 (7) 1816年 の セ ンサ スによ ると, ペナ ン島の人 口は37,445人 で前年 に比 して2,450人増 え た。 プロ ビンスウェルズ レイの人 口は約4,000人であ った [ibid.:1850,20]。 (8) 1820年 時点 にお け るプ ロ ビンスウェル ズ レイの人 口は5,457人 で あ った [ibid.:1850, 25

]

(9) 1822年 に, プロ ビンスウェル ズ レイの人 口は, ケ ダーか らの移住 によ り著 しく増加 し た libid.:1850,109

]

.

(10) 1824年 12

31日にお け るペ ナ ン島 の人 口 は37,943人, プ ロ ビンス ウェル ズ レイ は 16,479人,計54,422人であ った [ibid.:1850,113]。 (ll) 1827年 のペナ ン島人 口は30,655人であ った [ibid.:1850,117]. (12) 1831年, プロビンスウェルズ レイの人 口は26,000人 [ibid.:1850,363] 。 (13) 1831年, シ ャム軍 が ケ ダー に進 攻 した ので,16,000人 が ケ ダーを去 って プ ロ ビ ンス ウェル ズ レイに移動 した。 ケ ダーには20,000人足 らずが残留 した [ibid.:1850,366] 。 (14) 1832年, プロ ビンスウェルズ レイの人 口は50,000人 に増加 した [ibid.:1850,369]. (15) 1854年 の記述 によるとペナ ンに到着 す る華人移民 は毎年2,000- 3,000人で, ペナ ンか らプロビンスウェルズ レイ,シャム,マ レー領 に移住 してい った

[

Anonymous

1854

a:

3

]

(16) 1859年時点 において, 年間移民数 は華人4,000- 5,000人, イ ン ド人 (kling)3,0 00-4,000人, ジ ャワ人 1,500- 2,000人であ った。 ただ し華人 はマ レー領 あるいはシャム領 に移住 し, イ ン ド人 は

3,4

年で帰国, ジャワ人 は契約終了後 直 ちに帰国す るので, た えず新規労働者 の需要 があ る

[

Anonymous

1859:52]。 上述 の数値 は海峡植民地 の一つ ペナ ンおよびその近辺 の人 口が もともときわめて少 なか った こと,移民 の通過地 と しての機能 を果 た しつつ もペナ ン自体が急激 な人 口増加 を遂 げて きた こ と, ケ ダーにおける戦争が と くにペナ ン島の対岸 プロ ビンスウェルズ レイの人 口を急激 に増加 させた ことなどを示 している。 前述 のS

t

.J

ohn

による1849年時点 におけ るペナ ンおよびプロ

(12)

東南 ア ジア研究 32巻3号 ビンスウェルズ レイの人 口は120,000人であ って, この数値 の算 出は激 しい人 口増加 を考慮 し つつ も増加率 の鈍化 を見込 んでいる。6) ケダーの人 口は, シャムとの戦争 によ って著 しい変動 を経験 したが,PA に散見 され る記述 は以下 の如 くである。 (1) 1786年, Lightがペナ ンを譲渡 された ときのケダー人 口は 40,000人 あるいは 80,000人 であ った。 マ レーの首長 は男子 と くに健康 な身体 の男子人 口のセ ンサ スを行 な ったの で, 人 口は40,000人の倍 であ ったであろうと注記 されている [Low 1849-50:1849, 603

]

(2) 多数 のパ タニ住民 が ケ ダーの クア ラム ダに移住 したが, その数 は 15,000人 に達 す る [Topping1850:44

]

(3) 1786年 のLightのイ ン ド総督への手紙 によると, ケダーは長 さ150マイル, 幅30-35マ イルの小 国 で あ って, 約 100,000人 の住民 を もつ ことが記 されて い る [Anonymous 1858:186

]

(4) 1831年, シ ャム軍 が ケ ダーに進攻 したので, 16,000人 が ケ ダーを去 って プ ロ ビンス ウ ェル ズ レイに移動 した。 ケ ダー に は20,000人足 らず が残留 した [Low 1849-50: 1850,361再掲]。 (5) 1849年 の時点 で シャム属領 として数 え られているケ ダ-人 口は 25,000人である [ibid.: 1849,607]。 (6) 1850年 において,Loganは遠 くない過去 にケ ダーは 100,000人 の住民 を数 えた と記 し て い る。 1850年現 在,TuankuDai等 によ るケ ダー平野 の人 口は下 記 の如 くで あ る [Logan1851:58] 。 ケ ダー平野 TuankuDaiの支配地 TuankuAnumの支配地 ム ダ (Muda) プル リス (Purlis-Perlis) サ トゥ ン (Stul) 4,500 2,000 1,300 2,500 1,000 計 ll,300 6) Braddell [1861]の示 す 1851年 の ペ ナ ン人 口 は43,143, プ ロ ビンス ウェル ズ レイ人 口 は64,908, 計 108,051であって,この推定をやや下廻っている。

(13)

坪内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 ロ ケ ダーに関連 してパ タこの人 口の記述 を拾 いだす と,以下 の よ うにな る。 (1) 1786年7月 に シャム軍 はバ ク二に進攻 したが, この頃のパ タ二の人 口は約 115,000人で あ った [Low 1849-50:1849,608-609]。 (2) かってバ クニは16歳か ら60歳 の男子 150,000人 の人口 を もっていた と言 われ る [Low 1849:180] 。 (3) 1849年 の時点 で シャム属領 と して数 え られて いるバ クニ人 口は50,000人であ る [Low 1849-50:1849,607

]

パ タ二 もシ ャムとの戦争 を契機 に大幅 な人 口減少 を経験 してい る。 パ タこの人 口の一部 がケ ダー-移動 し, さ らにケ ダーの人 口の一部 が プロ ビンスウェルズ レイ-移動 してい ることが分 か り, 当時のマ レー半 島の人 口が戦争 のためにきわめて変動的であ った ことを示 してい る。 次 いで, マ ラカを中心 とす る人 口記述 を検討 してみ よ う。 (1) マ レー年代記 の記載 によると, マ ラカの町 は, 周辺人 口を除 いて190,000人 (nineteen laxas)の住民 を含んでいた [Anderson1854:148]。

(2) 1509年, リゴール王が シャム王か らパ- ン攻略の命 を受 けた とき, マ ラカの スル タン はパ- ンに援軍 を送 ろ うと したが, この ときマ ラカ市 の住民 は,海岸部 お よび内陸部 を 除 いて90,000人 (91axas)であ った [Braddell1852:40;Anderson1854:148, ただ

しAndersonで はninetyLacとな っている。]。

(3) 1505年 にマ ラカを訪 れた と思 われ るJohnFrancisGomelliCareriは, マ ラカは5,000 人 を有 し,大部分 はポル トガル人 のカ トリックであ ると述べてい る[Blundell1848:72]。 (4) 1818年 のマ ラカ人 口は25,000人, 1836年 はナニ ンを含んで37,705人, 1849年 の推定 値 は46,882人であ る

[

S

t.John1849:381] 。 (5) 1826年 の マ ラカ人 口 は49,086人 で, そ の内訳 はキ リス ト教 徒 26,000人, マ レー人 16,000人,中国人4,478人,キ リン人 1,622人,ヒンズー教徒986人で ある [Low 184 9-50:1850,114] 。 (6) 1847年4月現在 のマ ラカ人 口は表5の通 りで あ る。 1846年人 口が付記 されてい る。 総 人 口は,1846年52,713人,1847年54,995人 である [Westerhout1848:173] 。 (7) 最近 のセ ンサ スによると人 口は60,000人 を越 えている [Blundell1848:743]。 (8) 昔 は城塞 の中 に11,000人 ない し12,000人 が いたが,現在 は200人 ない し300人 を越 え ない [Valentyn1850:67

]

(9) 1850年 頃華 人 移 民 は年 間2,500人 な い し3,000人 で, ジ ャ ンクで マ ラカ に到 着 した [Croockewit1854:123] 。

(14)

東南 ア ジア研究 32巻3号 表5 マ ラカ人 口 民 族 等 1846年 1847年 キ リス ト教 徒 マ レ ー 人 華 人 ア ラ ブ 人 バ タ ック人 ヒ ンズー教 徒 チ ュ リア人 (マラバル商人) シ ャ ム 人 ベ ンガル人 ジ ャ ワ 人 ブ ギ ス 人 バ リ 人 非 イス ラム原住民 有 罪 人 2,700 33,161 9,414 177 329 1,082 5,048 31 179 173 178 11 45 185 2,784 33,473 10,589 195 387 1,023 5,454 35 199 313 248 46 50 199 計 52,713 54,995 出所 :Westerhout[1848:173]による。 長 い歴史を有す るマラカにおいては,最盛期 と衰退期の差が大 きい。 1826年 の

Low

の数値 紘,1846年および1847年 に比 してキ リス ト教徒が著 しく多 く, 一桁間違 っている可能性 さえ ある。 この場合 には合計人 口 も訂正 されねばな らない。7) このような数値をそのまま記録す る だけ当時の英人 にヨーロッパ勢力への過大評価が内在 していたと考えることがで きるか も知れ ない。 マ ラカ近辺のマ レー人支配下の国々の人 口については,頻度 は相対的に少 ないが,若干の記 述を見出す ことがで きる。 (1) 1824年頃のベ ラクの人 口は約30,000人である。 スランゴールの人 口は1,000人 ない し 1,500人を越えない

[

Ande

r

s

on

1854:273]。

(2) Low

の記述 によるとスランゴールはペナ ンの南 に位置 し,南方でベ ラクに境界 を有す る小国であって,現在 (1849年頃) せいぜい2,000人あるいは3,000人の人 口を有 して いる

[

Low

1849-50:1849,609

]

(3) 1839年の時点で

Ne

wbol

d

はパ- ンの人 口を40,000人 と推定 しているが,

Thoms

on

が 土地の居住者か ら得た数値 は,華人および奥地在住の原住民を除いた, マ レー人および アラブ人の合計14,

1

1

0人であった。 地域別内訳 は表6の通 りである

[

Thoms

on

1851: 136

]

(4) 1850年頃のベ ラクのマ レー人人 口は最大20,000人を越える。 15,000人 と評価 したいと 7) Braddell[1861] に よ る と, 1827年 の マ ラカ にお け る ヨー ロ ッパ人 人 口 は,2,522, 全 人 口 は 33,162である。

(15)

坪内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口 表6 パ- ン人 口 (1851年頃) 地 域 人 口 パ- ン川 およびその支流 Indau Pontean Rumpln Bubar Merchong Tioman島 Tingi,Sibuお よび属 島 Aur 10,000 2,000 100 50 40 20 200 300 1,400 計 14,110 出所:Thomson [1851:136] に よ る。 ころである [Low1850:498]。 (5) ジ ョホル (Johole)王国の全人 口は約 3,000人であるといわれ る [Favre1849:154]。 (6) ル ンバ ウ (Rumbau)王国の全人 口は約9,000人である [ibid.:158]。 (7) ジェルブ (Jellabu-Jelebu)の人 口は 3,000人 に過 ぎない [ibid.:159-160] 。 (8) Low は英 直轄領 を除 くマ レー半 島人 口の最大値 を下記 のよ うに見積 って い る [Low 1849-50:1849,606-607]. 独 立 国 ジ ョホールお よび属領, な らびにパ- ン 40,000 トレ ンガ ヌ クラ ンタ ン ベ ラク ス ラ ンゴール シ ャムの属領 ノヾタ ニ ケダ ー 30,000 40,000 25,000 3,000 50,000 25,000 計 213,000 Low が ここにまとめているマ レー半島の各国の人 口は, 例えばベ ラクについては, 彼 自身 が別 の箇所で示 した最大推定値20,000人 を上廻 り, またスランゴールにつ いては大 きい方 の 推定値 を採用 している。 この意味で彼 にとっては上述 の推定値 は過大評価 とさえ言 い得 るもの であ った [ibid.:1849,605] 。 Low が示すマ レー各国の人 口を, 既 に紹介 した Newboldの数 値 (表 1参照) と比較す ると, ジ ョホールおよびパ- ン, クランタン, ベ ラク, スランゴー ル, ケダーに関 しては,Newboldの人 口の方がはるかに大 きい。 トレンガヌに関 しては両者 の推計 は一致 し,パ タ二に関 してのみLow の推定値の方が大 きい。Low の示す スランゴール 人 口 (最大値 として3,000人) が,Newboldのスランゴール (クランを含む) 人 口12,000人

(16)

東 南 ア ジア研 究 32巻 3号

表 7 シ ンガポール人 口 (1845)

民 族 等 男 女 計

ヨー ロ ッパ人 (Europeans) イ ン ド系英 国人 (ⅠndoBritains) アル メ ニ ア人 (Armenians) マ レ ー 人 華 人 ベ ンガル人 ク リ ン 人 ジ ャ ワ 人 ブ ギ ス 人 (Malays) (Chinese) (Bengalese) (Klings) (Javanese) (Bugis) ポル トガル人 (portuguese) ア ラ ブ 人 (Arabs) 非 イス ラム原住民 (Caffres) パ ル シー人 (parsees) ボ ヤ ン 人 (Boyanese) 204 158 38 6,217 28,765 350 3.948 210 1,340 214 210 26 14 223 2 2 7 8 7 0 0 0 1 8 0 3 0 9 3 2 2 1 6 0 0 5 3 6 5 3 1 1 8 3 2 7 6 1 2 3 336 280 65 10,035 32,132 550 4,648 260 1,971 382 260 59 14 232 小 計 52,347 罪 人 (Convicts) 兵 士 (Military) 病 人 (Patients)

ヨー ロ ッパ人病人 (HospitalEuropean)

船 上 生 活 者 (FloatingPopulation) 3 0 7 0 7 0 0 8 7 1 0 5 4 0 合 計 57,421 出所 :Little[1848:472]による。数値 は原文のまま。 を著 しく下廻 ることは,Newboldの過大評価 とい うよ りは Low の情報不足 とも言 えそ うで ある。 同様 に, ヌグ リスンピランの諸国がLow の取 り扱 いにおいて不明であることも情報不 足 を物語 るか も知れない。 ここで は,Newboldの示す人 口さえも過大評価 と判断す るような ほぼ同時代 の推計値が存在す ることに注意 してお きたい。 最後 に シ ンガポール に関す る記載 を点検 してみ よ う。 1819年 に この島が英 国 の植民地 に なったとき, そ こには200人 ない し300人 のマ レー人がいた。 この人 口数か ら, 主 に移民 に よって,1845年 には57,421人 にまで増加 している [Little1848:472]。 民族 および性別 にみ た同年 の人 口は表7に示す通 りである。 この表 の数値 は一見精微 に見えるが,民族別人 口の合 計 に疑問があ り, また, 末尾 に付 された船乗 り等 を含 む と思われ る水上人 口 (floati ngpopu-lation) は概数で示 されている。 罪人, 兵士, 病人, 水上人 口等 を含む正規人 口以外 の存在 は,後 に整備 された統計表 として年次比較 に供 され るシンガポール人 口の性格 を理解す るため に有用である。 Littleはこの表 の1845年時点 の人 口は, 彼 の執筆時点 (1848年) で既 に不正 確 にな ってお り, おそ らく70,000人 と推定 され ると述べている [ibid.:472]。 1849年 の シンガポール人 口が

PA

第 4巻付表 として示 されている.人 口は, 町, 田舎, 良, 川 に分 けて民族別 に示 されているが, ここで はシンガポール人 口の民族別構成 を表8に示す。

(17)

坪内 :19世 紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口 表 8 シ ンガポール人 口 (1849) 民 族 等 男 女 計 ヨー ロ ッパ人 (Europeans) ユ ー ラシア ン (Eurasians) アル メニ ア人 (Armenians) ア ラ ブ 人 (Arabs) ′ヾ リ 人 (Balinese) ボ ヤ ン 人 (Boyanese) ブ ギ ス 人 (Bugis) 非 イス ラム原住民 (caffries) 華 人 (chinese)

コーチ シナ人 (Cochin-Chinese)

ジ ャ ワ 人 (Javanese)

ユ ダ ヤ 人 (Jews)

マ レ ー 人 (Malays)

イ ン ド人 (Nativesoflndia)

パ ル シー人 (parsees) シ ャ ム 人 (Siamese) 243 472 35 121 78 720 1,452 1 25,749 11 1,139 18 6,612 5,423 23 4 2 5 8 2 5 5 8 7 0 5 3 1 3 1 2 9 6 0 4 4 8

0

1 1 5 1 7 7 4 1 3 1 1 9 3 360 922 50 194 149 763 2,263 3 27,988 27 1.649 22 12,206 6,261 23 5 計 52,891 兵 士 罪 人 船 上 生 活 者 居 住 地 不 明 9 8 5 0 0 4 9 0 6 5 9 0 1 2 1 合 計 5 9 0 34 出所:Jackson[1850:付表]による。数値 は原文のまま。 総人 口59,043人 は, 上述 のLittleの推定値70,000人 に達せず, 彼の推定が増加への希望的観 測 に支 え られていた ことを示唆 している。 1845年 と1849年 の統計 においては, 民族分類が若 干変更 されている。 前者 におけるイ ン ド系英国人 (IndoBritains)は, おそ らく後者 のユー ラシア ン (Eurasians)に該 当 し, この数 は280人か ら922人へ と増加 している。他 に著 しい 増加 を示すのはジャワ人で,260人か ら1,649人 にな った。 1849年 において, 新 たに出現 して いるのは,バ リ人, コーチシナ人, ユ ダヤ人, および シャム人である。他方, アルメニア人, 非 イスラム原住民 については減少が生 じている。 華人の減少 は4,144人 に及んでお り, この減 少が実際 にお こった とすれば,Littleの推定 は, これまでの趨勢 を基礎 に しているとい うこと にな る。 華人移民 の職業構成 については,SiahUChinによる一覧表が 1848年 に掲載 され [SiahU chin1848:290],次 いで1850年 に上掲 のセ ンサス人 口表 の裏面 に民族別 ・職業別人 口が報告 されている。 さ らに, これ らの表 は1855年 に 「海峡華人 に関す るノー ト」 とい う記事 の中に 整理 されて再掲 されている。 ここで,Siah U Chinの表 については整理 された ものを, セ ン サス人 口表 については抜粋 を示す と表9および表10のよ うになる。 SiahU Chinによる華人

(18)

東南 ア ジア研究 32巻3号 表9 シンガポール華人職業別人 口 (1846) 職 業 出 身 地 福 建 潮 州 マ ラカ マ カ オ 客 家 海 南 商店主 ・貿易商 ガ ンビール ・胡轍栽培 サ 船 仲 漁 石 木 煉 煉 同 石 建 家 材 船 鍍 金 パ 理 仕 般 ゴ 頑 灰 炭 瓦 上 築 木 細 溺 家 事 ・ 仕 師 瓦 手 工 具 大 治 ン 髪 ・ 便 農 輿 水 製 製 製 伝 大 製 工 靴 用 水 運 び 徴税手伝 い そ の 失 業 造 造 造 倣 い 工 職 造 工 戟 師 屋 師 屋 人 人 酒 他 者 3,100 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0 5 9 8 2 1 2 0 0 0 0 1 7 0 0 0 0 0 0 7 0 0 4 0 2 1 0 0 0 6 0 4 6 6 1 0 0 0 5 1 1 50 250 阿片調達 70 250 600 900 350 600 100 400 100 600 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 4 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 2 4 5 0 0 0 0 0 0 0 3 8 1 0 0 0 0 5 1 0 0 0 0 1 4 200 合 計 9,000 19,000 1,000 6,000 4,000 700 出所:Anonymous[1855:116]に よ る。 職業従事者総数が39,400人であるのに対 して,1849年 12月のセ ンサスによる華人人 口は,職 業従事者24,790人 (これは成人男子人 口に一致 す る),総数27,988人である。前者 の推計が多 過 ぎるとい う指摘がなされている8

)[

Anonymous

1855:115

]

シ ンガポールに関 して は,即 には人 口数 とは別 に華人移民数 に関す る記述 が見 出 され る。 1847年 12月27日か ら1848年4月末 に至 る4カ月間 に, マカオ (17隻), 広東 (10隻),ア モ イ (7隻)等 を含む55隻 の ジャンクによって8,709人,海南か らの23隻 によって320人,安南か らの30隻 によって 116人, 11隻 の四角帆の船 によって1,330人,合計 10,475人が シンガポー 8) 実際, 前者 は多 くのカテ ゴ リーにつ いて,100人 あ るいは1,000人単位 の概数 で示 されてお り,中 で も潮州人 ガ ンビア栽培者 お よび胡轍栽 培者 につ いて は 10,000人 とい う数値 が与 え られてい る。 セ ンサス人 口においては, 華人農業従事者 は8,426人 であ り,SiahU Chinの数値 において は, ガ ン ビア栽 培 者 お よ び胡 轍 栽 培 者 にそ の他 の農 業 従 事 者 を加 え た数 は 15,100人 で あ る。SiahU chinの数値 が高過 ぎるとい う可能性 と同時 に, 植民地 にお ける職業移動の激 しさ, および他方 で は政府統計 の人 口把握 の不完全性 な どを考慮す る必要が あ る。

(19)

坪内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口 表 10 シ ンガポール職業別人 口 (1849) 民 族 芸 会 ● 職 人 芸事芸 労 働 者 悪用芙 計 ヨー ロ ッパ人 40 14 10 ユー ラシア ン 52 12 14 アル メニア人 3 3 ボ ヤ ブ ギ 人 人 人 人 プ ン ス 非 イス ラム原住民 華 人 コ-チ シナ人 シ ャ ダ レ ン ル ヤ ジ ユ マ イ パ シ ワ ヤ 一 ド ム 人 人 人 人 人 人 98 5 3 7 7 1 3 45 310 89 242 2,322 8,426 136 336 236 450 181 255 2 3 8 0 0 3 3 3 6 6 0 5 3 3 8 7 6 5 5 7 9 2 1 3 131 198 102 124 304 24 30 13 60 82 3 1 54 21 69 703 8 469 1,116 1 1 335 5,306 24,790 6 37 116 981 5 6 16 361 733 4,540 415 2,113 4,937 11 5 23 4 4 計 234 2,996 10,088 13,991 1,310 9,156 37,785 出所:Jackson[1850:付表] による.数値 は原文 のままO ルに到着 した と述べ られている。 この数値 は, 上述 のSiahU Chinの記述 に対す る, シンガ ポール フ リープ レスの編集者か らの情報 に基づいたLoganの注記 [SiahUChin1848:286] によるもので,12月ない し1月 には じまる季節風 を利用す る移民船 に季節性 があることを考 慮す ると,SihaUChinが 「ジャンクで到着す る人数 は年間約10,000に達す る」 [ibid.:286] と述べていることと一致 し, 彼の情報 のある程度の信頼性 を示唆 している。 「海峡華人 に関す るノー ト」 の中で は,1840/41年か ら1852/53年 にいたる13年間 (うち 1年 は欠如) の到着者 表 11 シ ンガポール華人到着人数 年 次 人 敬 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 4 4 4 4 4 4 4 4 5 5 5 5 / / / / / / / / / / / / / 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 5 5 5 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 3 4 1 06 15 39 一 5 6 6 出所:Anonymous[1855:113] による。

(20)

東南アジア研究 32巻3早 数 が示 されて いる (表 11参照)。 この公的な統計 は近年 にお ける増加 を示 しているが, これが 実際 の増加 による ものか, あ るいは数 え方 の改良 による ものか は判断 しに くい。 ジャンクの船 主達 は統計 を理解せず,旅客数 あ るいは貨物 の梱包 を数 えよ うとす る試 みを課税-の兆 しと見 倣 し,可能 な限 りの最低数 で済 ませ よ うとす るとい う [Anonymous1855:113]。

ジャワ島,バ リ島, ロンポ ック島

蘭領東 イ ン ドの人 口につ いて は, その出所 の間接 的性格 が強 くなるが, か な り多量 の情報 が 収集 されている。以下, その概要 と性格 につ いて述べ る。 ジャワ島に関 して は,Temminckの書物 [Temminck1846-49] の紹介 とともに, そ こに 記載 された総人 口の引用がなされている。 すなわち, 1824年 6,368,090人, 1832年 7,323,982 人, 1834年 7,511,106人, 1837年 7,981,284人, 1838年 8,103,080人で あ る。 1832年 に関 して は, バ タ ビアの町 の人 口 118,000人 とその内訳, ヨー ロ ッパ人 2,800人, 華人 25,000人, 土着 人 80,000人, ムーア人 およびア ラブ人 1,000人,奴隷 9,500人が記 されてい る。9) ジャワ島の人 口につ いて は, 次 に, 主 と して 1845年 に関す るBleekerの記述 の翻訳が掲載 されている [Bleeker1847a]。 人 口は, 理事州 (Residencyあ るいはAss.Residency)別 に, ヨー ロ ッパ人,華人,土着人, ア ラブ人, ブギス人等, および奴隷 に分 けて示 され, これ に加 えて 1846年 の兵士 の数が総数 で示 されている (表 12参照)。 いずれの地域 において も多 過 ぎる数値 はな く, 多 くの場合過少 で あ るとい う評価 がBleeker自身 によ って加 え られてお り, ジャワ島総人 口 9,542,045人が示 され ると同時 に, この報告が執筆 された時点 で ジャワ島 人 口が 10,000,000人 を越 えているとい う推定 がなされて い る。 ス ラカル タお よび ジ ョクジ ャカル タの人 口に関 して は, 1828年 時点 にお ける この地域 - の 旅行 記 の中 に断片 的 な記述 が あ る。 す なわ ち, 1812年 の領土割譲後 の ス ラカル タ領 は約 100 万人, もう一人 の君主 の領土 (ジ ョクジャカル タ) は, はば 70万人 の人 口を有 し, 彼 らの領 土 は全 島の約 4分 の 1に相 当す る 11,000ない し 12,000平方 マイルであ るとい う内容 を含 む も のであ る10)[Anonymous1853a:149]。 ジ ョクジャカル タの人 口は,3年前 の戦争 のために現 9) 総人口に関する記載は,Bleeker[1863] に一致 している。TemminckおよびBleekerの 1824年 人口は,TNIに記載された理事州 (Residency)別人口 [Anonymous1839] の合計を求めるこ とによって得 られたWidjojo[1970]の 1826年人口4,301,552人をはるかに上廻 っている。Peper [1970] の 1826年人口5,302,000人はWidjojoの合計値の概数を丁度 1,000,000人上廻 っているが, これもまた出所はWidjojoと同 じで, 資料集成過程において, ジャワ土侯領の推定人口 1,000,000 人を加算 したものである。 Temminckの数値がこれらの数値を上廻ることは, 上述の比較的新 し い時代における研究者達によるジャワ人口に関する見解の再検討の可能性を示唆 している。 10) Bleeker[1847] によれば, これらの 2人の君主の領土はそれぞれ 1,803平方マイル, 926平方マ イルであって, 全島面積の 7.0% を占めるに過ぎない。 これらの地域の人口は, 504,167人, およ び347,525人, 計 851,692人で, 全島人口の8.9% となっている。 この間の領土の変動と人口の再 分布の過程は検討に値する。

(21)

坪内 :19世紀 中葉 の東南 ア ジアの人 口 表 12 ジ ャワ島地域別人 口 ア ラブ人

ブギ ス人等 理 事 州 等 ヨー ロ ッパ人 華 人 土 着 民 i/三.二/A

t

軍 隊 Bantam Batavia Buitenzorg Krawang 360 3,478 662 100 Preang.Regentschapp 168 Cheribon Tagal Banjoemaas Pekalongan Bagelen Samarang Kadoe Djocjokarta Soerakarta Japara Madioen Patjitan Rembang Kedirie Soerabaija EilandMadara Possoerocan Bezoekie 624 274 150 312 217 2,883 174 664 900 396 113 30 459 94 2,736 368 578 530 1 7 1 8 1 2 1 9 2 1 2 6 1 9 1 5 6 2 1 3 813 392,887 430 764 242,927 598 462 252.015

0

74 2 2 1 5 7 0

0

4 9 7 3 5 0 0 1 2 6 8 7 7 5 0 3 8 8 5 2 2 843 123.705 0 1 8 4 5 2 8 7 6 3 2 727,154 4 606.209 788 292,934 640 403,852 353 232,226 417 612,027 657 739,098 484 354,377 063 345,696 000 500,000 606 413,540 059 312.975 0 89,077 2 467.766 nU 2 1 1 0 0 6 1 1 0 6 1 232,467 923.687 544 280,314 229 331,981 373 497.106 2 2 0 1 0 7 2 3 8 4 0 6 2 2 6 7 7 1 4 4 5 1 6 1 4 8 1 3 計 16,270 105,983 9,373,989 92 3 9 7 1 1 92 5 合 計 9,542,045 出所:Bleeker[1847a]による。理事州等の綴 りおよび数値は原文のまま。 在 で はその一部 が残 って い るに過 ぎな いが, かっ て は100,000人 と推 定 され て いた [ibid.: 365

]

ジ ョクジ ャカル タの人 口につ いて は,1814年時点 にお ける比較的詳 しいセ ンサ ス結果 が当 時の英人植民地官吏 クローファー ドによって示 されている。 それ によると,結婚 してい る男性 10,188人, 結婚 してい る女性 10,355人, 寡夫 1,479人, 寡婦 1,919人, 未婚 の若者2,972人, 未婚 の少女2,313人,割礼前 の少年3,956人,研歯前 の少女3,274人,授乳中の男児 1,721人, 授乳中の女児 1,447人, 計39,624人で [Crawfurd1849:43], この時点 におけるこの都市 の 人 口がかつての10万人 に到底及 ばぬ状況 にあ った ことを示 している011) ll) Raffles[1817:Ⅱ,290]には1815年 の スル タ ン領人 口が, その年齢階層 区分 とともに掲載 されて い るが, その中 の ジ ョクジ ャカル タ地 域 を取 り出 してみ ると, その総人 口は37,339人 で あ る。 ほ とん ど同 じ時期 にお いて2,285人 の違 いが あ るの は当時 の人 口報告 の信頼性 の欠如 を示 す ものの, この時期 の ジ ョクジ ャカル タの人 口が10万人 とい う レベルで は捉 え られぬ もので あ った ことを確 認 す るの に役立 つ。

(22)

東南 アジア研究 32巻3号

ジャワのその他 の地域 に関 しては,朋 には注 目すべ き数値 はほとん どない。 Riggによる 1847年 の旅行記 は, ス ラバヤの 82,203人 を含 む 1845年時点 の クデ ィ リ川沿 いの各地域 の人 口 と人 口密度 を示 しているが, これ らは,

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に掲載 され たBleekerの数値 に依拠す るものである [Rigg∫.1849:25]。 ジャワ島に隣接す るバ リ島の人 口について は, 「イ ン ド諸島の貿易港」 と題す る事典的体裁 を とる連載記事 のバ リの項 に,バ リ島は約 100万 の人 口を有す ること, および 1平方 マイルあ た り人 口はジャワ島の2倍であ ることが報ぜ られている [Windsor1850b:538]。 ロンポ ック島につ いては,Zollingerの記述があ る。 彼 は税および軍隊 のためにあ る種のセ ンサ スが行われているに違 いないと考えつつ も, この種 の リス トの入手をあきらめて,個人的 な情報 に基 いて, 400,000人以上 と推定 している。 この情報 は 500,000人以上 とい う数 が全島 人 口よ りも多 い とい うラジャ自身 の発言 によ って間接的に確認 されている。 また,武器 を とる こ とが で きる男 子 の数 が80,000人 に の ぼ るとい うあ る首 長 の発言 か ら, これ を 5倍 して 400,000人 の妥当性 を得ている。 人 口の内訳 は, ヨー ロッパ人 4人, 有色 ヨーロ ッパ人 1人, 華人 10人 ない し12人, ブギス人 5,000人, バ リ人 20,000人, ササ ック人 380,000人である。 さ らに, これ らの人 口の居住地 と して山脈 の北側 に40,000人, 南部山地 に 10,000人, 平野 の 西部 に220,000人, 平野 の東部 に 135,000人 とい う内訳が与 え られている [Zollinger 1851: 459]。 上述 の数値 は, 40万 とい う概数を得て, それを各構成部分 に配分 した もの とみ られ, この時代 の人 口情報 の形式 の一つ として注意すべ き性格 を有 している。 1815年 に起 こったス ンバ ワ島の トンボ ラ火山の噴火 は, ロンポ ック島の人 口を 300,000人か ら20,000人 ない し 25,000人 に減少 させ た と伝 え られ る。Zollingerは この大幅 な減少 には疑 いを もち, も しそ うな らば1815年以来 375,000人 の増加 があ った ことにな ると記述 して いる

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ⅤⅠ

ス ラ ウ ェ シ 島

スラウェシ島 (セ レベス島) の人 口については,Temminckの書物 の第 3巻か らの翻訳が 掲載 されている。全島人 口について は6行 の記述がある。 まず人 口 300万人 とい う数値が挙 げ られ るが, これが過大評価であると し, 次 いでオ ランダ政府 の直接統治地域 の1838年 の推定 人 口が僅か410,000人であ ることが述べ られ る。 そ して,MelvilldeCarnbee氏 の示す全人 口 1,104,000人が妥 当性 の高 い推定値であるとす る [Anonymous1850-51:1850,665

]

Temminckに依拠す る人 口情報 は, ス ラウェシの各地方 に も断片的 に及んでいるが, それ らは下記 の如 くであ る。

(23)

坪内 :19世紀中葉 の東南 アジアの人 口

(1) Selayer 1824年人 口は, 付近 の島々を含んで30,525人である [Anonymous1850 -51:1850,686]。 (2) ミナ-サ 1840年人 口は,下記 の通 りである。 ただ し奥地 の住民 を除 く [ibid.:1850, 762]。 土 着 民 キ リス ト教徒 マ レー人 華 人 解放奴隷 78,700人 5,687人 2,875人 510人 500人 計 88,272人 Gorontaro(Gorontalo)の諸地域 50,

0

0

0人

Sangir島およびTalaut(Talaud)島 40,

0

0

0人

合 計 178,

2

7

2人

(3) スラ諸島 1840年 セ ンサスによる人 口は,7,630人である [Anonymous1851:251]。 (4) Buton (Butun)島 住民数 は不明であるが, 17世紀 の古文書 によるとこの島の人

口は50,000人であ り, また, 明 らかに大 きな誇張 を含むが, 他 の島々を加 えた住民数 は500,000人である [Anonymous1850-51:1851,252] 。 Temminckの紹介 の外 に, 蘭領 セ レベスに関 して もう一つの記事が収録 されている。 それ によると,東経120040′か ら1240,南緯 10か ら北緯10の間に広が るオランダ領 の人 口は, この 地域 の広 さに比 して非常 に小 さ く,住民 はあち こちに分散 しているので正確 な推定 をす ること は困難であるとしなが らも,以下 の数値が示 されている [Anonymous1848a:673-675]。 Gurontalo(Gorontalo) 24,000人 Limbotte(Limboto) 12,700人 Bolangen(Belang) 780人 Boni(Bone) 650人

Andagili(Andagileh)およびAntingola 350人

Bolemo(Balama) 300人

計 38,780人

官吏が引 き上 げたため,上記 の中には,Prigi(Parigi) およびMoutton (Moutong)の人 口は含 まれていない。Prigiは約3,000人,Mouttonは1,750人を数 え る [ibid.:676]。

以上 に示 した断片的 な人 口記述 にお いて は,例 えばGorontaroの諸地域 の人 口50,000人 と,Gurontoloの人 口24,000人 とが どの よ うな形 で重 ね合 わ され るのかが不明の まま残 る。 現在で は取 るに足 りない地域 に思 われ るSangir島およびTalaut (Talaud)島の人 口が,相 対的 に大 きく評価 されていることに も注意 してお きたい。

(24)

東南 ア ジア研究 32巻3号

ⅤⅠ

ボ ル ネ オ 島

ボルネオの人 口に関す る情報 の主要部分 もまたTemminckの書物 の第2巻か らの翻訳であ る。 ボル ネオ本 島 の人 口 は きわ めて大掴 み に3,000,000人 と推定 され るが, この推定 値 は Temminck自身 によって過大であると考え られている [Temminck1846-49:Ⅱ,428]。 Temminckは, まず1825年 11月 30日付 けの コ ミッシ ョナーTobiasのメモに従 って,西 海岸 の理事州 (residency)の人 口 (ヨーロッパ人を除 く) を次のよ うに記載 している。 マレー人およびアラブ人 ブギス人 支配下 の ダヤ ク人 華人 独立状態 にあ るダヤ ク人 134,946人 ll,360人 237,720人 36,074人 80,000人 汁 590,100人 (原文のまま) 1836年時点 において, この理事州の一部 を形成す るPontianakの主要部 に関 して次 の数値 が記載 されている。 ヨーロッパ人22人, アラブ人319人, マ レー人3,001人, ブギス人2,211人, ダヤク人 13,391人, 華人 17,693人, 計36,637人. この理事州 に属す るSambas,Succadana (Sukadana),MAt畠n (Matan),LAndak (Landak),Mampawa (Mempawah), および K畠puAs (Kapuas)

,Melawi(Melawi)

の流域地方や, 各小国の人 口はここでは言及

されていない [ibid.:

,430]。

南 海 岸 お よ び東 海 岸 理 事 州 を形 成 す る諸 地 域 の人 口 につ いて は,Temminckは1836, 1837,および1838年 の行政報告書か ら,数値 を引 き出 している。これ らすべてのデータは単 な る推測値 (approximation)であることを断わ りなが ら以下 の人 口が示 されている [loc.cit.].

Banjermassing(Banjarmasin)のスル タ ンの支配下 の諸国 蘭印政府領

Banjermassing(Banjarmasin)の独立 ダヤ ク

Mand畠wei(Mendawai),SAmpit(Sampit),およびPAmbuAn(Pembuan) Pasir(Pasir),Kuti(Kouti),およびBerow (Beraou)

大小 の ダヤク

Kotoringin(Kotawaringin),SentAng(Sintang),DAwi,およびDjeli(Djelai) PAg畠.tan(Pagatan),T且nAbumbai(Tamahbeambin),Batulitjin(Batulicin),

およびLaut(Laut) 沿岸諸 島 60,000人 40,000人 500,000人 45,000人 45,000人 40,000人 5,500人 1,100人 22,000人 計 758,600人

(25)

坪内 :19世紀中葉の東南 アジアの人口 上述 の西海岸 お よび東海岸 の二つの理事州 の合計人 口1,348,700人 (原文 のまま) が ボルネ オ島 の3分 の 2の面積 に居住 す る。 1,650,000人が残 りの 3分 の 1で あ る北部 に居住 しな けれ ば,人 口総数3,000,000人 とい う計算 が成立せず,従 って 3,000,000人 とい う推定が過大であ る とい うのが

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の立論 であ る [ibid.:Ⅱ,429]。

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はボルネオの華人 に関す る若干 の推定値 に も言及 している。 1836年 の推定 によ れば,西海岸諸国 の中国人 は130,000人 とされ る。 また英人

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l

は150,000人 と見積 もり, そ の内90,000人が華人地域 に, 残 りの 60,000人が蘭領各地 に分散 しているとす る。

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の華人首長 は

Ear

lに彼 の支配下 の華 人人 口は110,000人 にのぼ ると語 ったが,

Ear

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は この推 定 は過 大 とみ な して い る。 これ らの数 値 は, 東 印度 会 社

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の書 類 に よ る 30,000人,

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の推 定 値 36,000人 な どを は るか に上 廻 る もの で あ る

[

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1848b:445

]

ボルネオ北部 の人 口に関 して は, ブルネイの弱体化, サ ラワクにおける内乱 とプルークの介 入 な どを背景 に,正確 な情報 が伝 わ りに くい状況 があ った ともみ られ る。 ブルネイの人 口に関 して は, マゼ ランの航海 の際 の

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による1521年 の記述 が,〟Aで は二 カ所 において 引用 されている。 これ らの引用 は, 町の人 口が25,000戸 (あ るいは25,000家族) か ら成立 っ ていることを伝 えている

[

Anonymous

1848

C:

498;

Anonymous

1848

d:

523]。

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の訪 問 の僅 か80年後 に

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は戸 数 を3,000と伝 え, 1636年 に は

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は2,000とい う戸数 を記 してい るとい う。 18世紀初頭 に,

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は町の外 にあ る 多 くの家 々を除 いて,2,000ない し3,000とい う戸数 を数 えている。 1809年 に,

Hunt

は家族 数3,000, 人 口15,000人 と している

[

Anonymous

1848

d:

523]。 これ らの情報 は脚注 に追加 された他 の書物 か らの引用 によ って さ らに混迷 した もの とな る。 すなわち, 以前 この町 に1, 2年住 んだ ことのあ るアルメニア人が, 1836年 に, 人 口 100,000人 (内20,000人 は奴隷) と 伝 え,

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は現時点 の ブルネイ人 口を 12,000人 と考 えているな どと記載 されているか らであ る

[

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.]。 この記事 における結論 的な見解 は, マ レー人人 口が過去300年間 ほとん ど不変 であ った とす るものであ る [ibid.:523-524]。 その後, 1837年 の実地訪問記 が〟Aに掲載 され るが, それによるとボルネオの町 は川 の湾 曲部 の水上 に立っ 2列 の家屋群 か らな り, 25,000人 の住民 を有 していた

[

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1852:583]。 ブ ルネイ と中国 との貿易 は ブル ネイに在住 す る華人 コ ミュニテ ィを成立 させていたが,18世紀 末 に ブル ネイの支配者 が圧政 的,海賊 的 にな ったために ブル ネイの海外貿易 はほ とん ど消滅 し, 1809年 には 1隻 の ジャンクも来航 しない状況 が既 に数年続 いていた。 シンガポールが形 成 された頃, ブルネイの華人 は500人 を越 えなか った

[

Anonymous

1848

e:

615]。 このよ う な ブルネイの貿易 の変動 ない し衰退 が事実 な らば, ブル ネイの人 口 自体 に も相 当の変動 があ っ た と推定 され,少 な くとも3,000戸無変動説 は疑 わ しい もの とな る。

表 l St .John によるマ レー半 島および海峡植民地人 口 ( 付 Ne wbol d による人口) St . J ohn による人口 Ne wbol d による人口

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