Bull. Shikoku Univ. 🄐 54:41 − 60,2020 ●はじめに―― 教育関係者なら,少なくともいちどは「子ども(学 生)たちが,学ぶ喜びを充分に味わえる〈たのしい 授業〉を実現したい」と思ったことがあることでしょ う。 それでは,そうした〈たのしい授業〉は,現在の ところ,まったくの理想にすぎないものかというと, けっしてそうではありません。じつは,「熱心な教 師でさえあれば,誰にでも〈たのしい授業〉ができ る」そうした授業理論が,確かに存在するのです。 それは〈仮説実験授業〉です。仮説実験授業は,板いた 倉 くら 聖 きよ 宣 のぶ (1930~2018)によって1963年に提唱されまし た。仮説実験授業とは,〈科学上のもっとも基礎的 な概念と,もっとも原理的な法則を教えるための教 育内容と方法に関する授業理論〉です。 いまここで,仮説実験授業について詳しく紹介す る余裕はありませんが1 ),板倉によると,この授業は , 《授業書》と称する一種の教科書・兼授業案・ 兼読み物・兼ノートを中心に展開される。提唱 当時は,小中学校の自然科学教材が中心だった が,今日では社会科学教材の開発もすすみ,そ の基本的な考え方を数学教育や国語教育,さら には美術教育にまで拡大する研究が進められて いる2 )。 ということです。 また,その特色は, その授業に出ている実験問題について,その 実験の結果を予想させ,その予想を出しあわせ て討論させ,その後実験を行って,どの予想が 正しかったかを明らかにする授業を積み重ねる ことにある。 と言います。 この論文は,その板倉聖宣の生涯をたどりながら, どのようにして仮説実験授業が成立するに至ったの
板倉聖宣伝=仮説実験授業成立史 1
-―― 生誕から科学史の研究者を志すまで -――
小 野 健 司
The Biography of Kiyonobu Itakura = The History of the establishment of
“Hypothesis-Experiment Class”
-1-―― From Birth to Deciding to Become a Science Historian -1-――
Kenji O
nOABSTRACT
This paper attempts to clarify the history of estabishment of “Hypothesis-Experiment Class” (“Kasetsu-Jikken-Jugyo” in Japanese) while tracing the life of Kiyonobu Itakura (this time targeting the period from his birth to high school).
“Hypothesis-Experiment Class” is a class theory established by Dr. Kiyonobu Itakura (1930-2018) in 1963. This theory is about educational content and methods for teaching the most basic scientific concepts and the most fundamental laws.
In this paper, particular attention was paid to the following two points. (1) How Itakura's democracy passion was formed?
(2) What the concrete contents of Itakura's advanced research on scientific recognition is?
KEYWORDS: Kiyonobu Itakura, Hypothesis-Experiment Class, science education, epistemology, science
か,その歴史について明らかにしたものです。 ●仮説実験授業を過小評価していた私 今から50年以上も前の1963年 8 月のことです。板 倉聖宣は,民間の教育研究団体のひとつである科学 教育研究協議会[以下,〈科か教きょう協きょう〉と略す]の「全国研 究大会」において,授業書〈ふりこと振動〉(今のと ころ発表時の題目は不明)を発表しました。それから間 もなくして,この授業書を改訂したものが,科か教きょう協きょう の機関誌『理科教室』(1963年11月号)に「ふりこと 振動――〈仮説・実験授業〉のためのテキスト――」 と題して掲載されました。このとき仮説実験授業は 誕生しました。 それでは,仮説実験授業が誕生するまでには,ど のような歴史があったのでしょうか。最近まで私は, 「それまで板倉は,科学史を専門に研究していた」 「仮説実験授業の認識論は,板倉が学生運動に関 わっていた頃の経験と関係している」 「学習院初等科の教員だった上かみ廻さこ昭あきらが,〈板倉が勤 めていた国立教育研究所〉に内地留学したことを きっかけにして仮説実験授業の研究が始まった」 などということを断片的に知っているくらいでし た。そうした知識はすべて,板倉の自伝や回想録を 読んで知ったことでしたが,それらに書かれている ことを知っているだけで十分だと思っていました。 「〈仮説実験授業がどのようにして成立したのか〉と いうことについては,仮説実験授業を作った本人で ある板倉が一番詳しいに決まっている」そう思って いたからです。そこで,教育史学の専門家であるに もかかわらず,これまでの私は,〈仮説実験授業の 成立の歴史〉について,十分に知ろうとはしません でした。 ところが,〈私が知っていることは,まったくの 表面的な知識に過ぎない〉ということを思い知らさ れる経験をしました。私は,昨年「仮説実験授業の 評価論」について講演する機会がありました。その とき私は,どのような話をしたらよいかかなり迷い ましたが,最終的に「仮説実験授業の評価論の基礎 は〈子どもの側に授業の評価権を認める〉という点 にあるが,このような考えはいつ頃,どのようにし てできたのか?」ということを中心に話すことにし ました。ところが,この問いに対して明瞭な答を出 せない自分に気づくことになりました。さらに,仮 説実験授業の成立に関する他の事がらについても, 分かっていないことがたくさんあることに気づかさ れたのでした。たとえば, 「〈授業がたのしいかどうか〉という仮説実験授業 の評価基準の源泉はどこにあるのか?」 「最初の授業書《ふりこと振動》は,上廻の内地 留学をきっかけにして作成しはじめた,と考えてい いのか?」 「《バネと力》をはじめとする最も初期の授業書の アイディアは,いつごろ生まれたのか?」 「板倉の科学史の研究と仮説実験授業のつながり はどのようなものか?」 などといったことです。もちろん,こうしたこと についても板倉自身が書き残したり,話したりした ことを記録したものがたくさんあります。しかし, それらは回想の対象とした時期が限られていたり, また回想を書いた時期がバラバラだったりするなど しているため,必ずしも通史としてまとまってはい ません。いや,それ以上に,どの自伝でもそうです が,〈書いた本人が,自分自身のことをいちばんわ かっている〉とは必ずしも言えません。これまでの 私の研究上の体験でいうと〈本人がとても重要な事 がらを見落としてしまっている〉ということがしば しばあったからです。 そこで私は,仮説実験授業が誕生した1963年以前 に板倉が書いた文献を中心に悉しっ皆かい的[ほとんど全部] に集めて,〈仮説実験授業の成立〉に関わっている と思われることがらをできる限りもらさずに調べて みることにしました3 )。 すると,私が初めて知ることがたくさんありまし た。さらに,これまで私が勝手にわかっているつも りになっていただけで,じつはまったくの誤解だっ た,ということもありました。そうしたことがわかっ てくると,とても新鮮な気持ちになれました。この 研究の途中で,〈これまでの私は,仮説実験授業を 過小評価していた〉ということを何度も思い知らさ れました。しかし私は,そうした自分の不明さを恥
じる気にはまったくなりませんでした。そんなこと よりも,「仮説実験授業は,私の想像をはるかにこ えて確かなものである」ということを実感できてと ても嬉しく,そして,これまで仮説実験授業を高く 評価してきた自分を誇らしく思えたからです。それ と同時に,いままで以上に〈仮説実験授業の実践と 普及に力をかけ続けていく意欲〉が増したのです。 思いがけず,長く書きすぎたかもしれません。前 置きはこれくらいにして,本文に入ることにします。 ●「民主主義の旗を高くかかげよう」に込められた 想い 1963年 8 月に開催された科か教きょう協きょうの「全国研究大会」 は,「自然科学教育の現代化」を統一テーマとして 開催されました。この「自然科学教育の現代化」と いうスローガンは,「理科は自然科学を教える教科 である」という認識のもとに,「現代科学の水準に 合わせて,科学教育の内容を新しく組織しなおす」 ことを目指したものでした。 こうしたなか,板倉は, 3 日間の日程でおこなわ れた大会の前半の「全体会議」の場で,科教協の「現 代化」の基本方針に対して真っ向から異議を唱えま した4 )。この発言は,終生変わることのなかった板 倉の科学教育研究に取り組む姿勢を代表するもので あった,と言っていいものでした。 板倉は,〈現代化した教育内容が,一部の者にし か理解できない〉という結果に終わることは,絶対 あってはならないとしたうえで,次のように述べま した。 〈現代的な自然科学を教える〉ということは, 何も〈むずかしいことを教えこまないと現代社 会におくれてしまう〉ということだけをもとに していわれるべきことではないのである。科学 教育の現代化の主張は,〈日常身辺の雑多な事 実の集積である理科教育で子供たちを苦しめ, 彼らを科学から遠ざけることをやめて,ほんと うの科学を味わわせよう〉という民主主義的な 要求にもとづくものでなければならないはずで ある。 このように板倉は,〈科学教育の現代化〉そのも のを否定していたわけではありませんでした。しか し,彼が唱える〈現代化〉の一番の目的は,〈すべ ての子どもが理科を学ぶことが好きになる〉という 点にあったのです。それは,「現代的な自然科学を 教える」ことを優先していた科教協の方針とは根底 的に異なるものでした。 そうした板倉の思想の出発点は,「従来の理科教 育の非民主的なあり方に対する憤り」にありました。 板倉は,次のように述べています。 これまで学校を終えて社会に出た人々の中の どれだけが理科が好きだと思い(もちろん,理科 が他の教科よりも好きだ,などということは必要ではな い),科学は勉強しさえすれば自分にも理解で きるものだ,と思ったことだろうか。理科教育 のおかげで,「おれには科学は理解しえないも の」という確信を強め,「これからは決して科 学の本だけは手にすまい」と決意して社会に出 た人々の数がどんなに多かったことだろうか。 その一方,学校教育で理科がよく理解できた 人々の数は数少ないのである。これらのことは, 従来の理科教育の取り返しのつかないほどの失 敗を示しているのである。 そのうえで板倉は〈科学教育の現代化〉をするこ とによって,こうした状況を打ち破って,「すべて の子どもにわかりやすい科学教育プラン」を建設し ようとしたのでした。板倉は,次のように述べてい ます。 〈科学教育の現代化〉がはかられなければな らないのは,私の考えでは,そうすることによっ てはじめて,理科という教科がいきいきとした ものになり,科学に対する理解が容易になると 思うからである。そして,それによってはじめ て〈科学をすべての国民のものとする〉という 目標がかなえられると考えるからである。だか ら〈科学教育の現代化〉というスローガンは,〈す べての生徒にわかりやすい科学教育プランの建 設〉という目標のもとに進められなければなら ない。そこでは,目標とされた科学教育の基礎 概念が90%以上のものの身についたということ が,いつでもテストによってたしかめられるよ
うなものでなければならない。 このように板倉は,〈科学をすべての国民のもの とする〉という「民主主義の旗」を高く掲げながら, 「だれにでもわかる科学の論理を備えた内容を教え る科学教育プランの建設」を進めることを高らかに 唱えたのでした。もちろん科教協の中にも,「現代 自然科学の基礎をどのようにしてすべての国民のも のにしたらよいのか」という意識はありました5 )。 しかし,思想というものは,単に言葉だけのもので はありません。具体的な内容をともなったものでな ければなりません。その点,板倉は,そうした「民 主主義的な情熱」だけでは,その理想を実現するこ とができないとして,次のように述べています。 〈科学教育の現代化〉のプログラムは,何よ りも〈民主主義的な情熱と結びついた科学認識 に関する高度の研究〉によってはじめて行われ うるものだ,ということを忘れてはならないで あろう。 そうした「科学認識に関する高度の研究」による 成果とは,仮説実験授業のことに他なりません。そ う考えると,この後の分科会で《ふりこと振動》の プランの発表を控えていた板倉の自信に満ちあふれ た姿が目に浮かんできます。 こうしてみると,〈仮説実験授業がどのようにし て成立したのか〉その歴史を明らかにするためには, 次の 2 つの問題を解くことが必要となります。 ①〈民主主義的な情熱〉はどのように形成された のか? ②〈科学認識に関する高度の研究〉の具体的な中 身とは何か? ●勉強嫌いの少年 板倉聖宣 それでは,これから,板倉聖宣の生涯をたどりな がら,仮説実験授業の成立の歴史を見ていくことに しましょう。 板倉聖宣は,1930(昭和 5 )年 5 月 2 日に,東京 市下した谷や区西町(いまの台東区東上野町)に,医療器械製 造職人の父 板倉冝のぶ吉きちと,母 よし乃ののあいだに10 人兄弟の 7 番目として生まれました6 )。 聖宣は,1936(昭和11)年に小学校に入学しまし たが,ほとんどの授業が嫌いでした。板倉の自伝に よると, 「九九なんて単調なものを丸暗記するのはばか ばかしくてしょうがない」 「国語は漢字を覚えるのがいや」 「〈てふてふ〉を〈チョウチョウ〉と読ませられ るのがたまらなくいや」 「理科も好きになれない」 「国史もだめ」 「学校の予習や復習はまるでやらない」 「宿題もやる気がしないから大嫌い」 という子どもでした。 きっと,みなさんの周りにも,こんな子どもが一 人やふたりはいることでしょう。それでは,そうし た子どもの勉強嫌いは,単なるわがままによるもの だと決めてしまってよいのでしょうか? いいえ, 私はそう思いません。勉強嫌いの子どもの心の中は, そんなに簡単ではないからです。現に聖宣には,単 に「九九の暗記が嫌だ」というのではなくて,「そ の丸暗記がばかばかしくてしょうがない」から,と いうはっきりした理由があったではありませんか。 それに聖宣は,同じ算術でも〈量的なイメージを 頭に思い浮かべて問題を解く〉ということは大好き でした。そういう勉強なら〈たのしくわかる〉こと ができたからにちがいありません。このように聖宣 は,同じ勉強だとはいっても,明らかに〈その勉強 に学ぶ価値があるかどうか〉を判断していた,とい うわけです。そうなると話が変ってきます。勉強嫌 いになるにはそれなりの理由があって,そのほとん どは〈子ども自身が学ぶ価値を見出せないことを無 理矢理わからせようとすることに対する嫌悪〉によ るものだ,と言ってもよいと思うのですがどうで しょうか。 ●不思議な「化学の眼鏡」との出合い 6 年生に進級した聖宣のそうした勉強嫌いは,ま すます意識的なものとなりました。あるとき先生か ら,中学校を受験するための参考書が与えられまし た。当時の中学校は,義務教育でなかったために, 入学試験がありました。聖宣は,その参考書の中に
「ジャガイモやサツマイモのいもは,根か茎か?」 という問題を見つけました。そこで,解答欄をみて みると,「ジャガイモは地下茎,サツマイモは根」 と書いてあったというのです。もしもみなさんが, 小学校 6 年生だとしたら,このような解答を見てど う思うでしょうか。 おそらく「そんなものかな…」と腑に落ちないま までも,とにかく覚えこもうとする人が大半ではな いでしょうか。ところが聖宣の反応は,まったく違 いました。板倉は,そのときのことを次のように回 想しています。 私はこれに猛烈な反発をおぼえた。私には地 下茎などという概念は不要な,人をおとしいれ るための概念としか思えなかった。〈こんな問 題は勉強するものか〉私はそう思って,その受 験参考書を全くやらなかった。もちろん,その 他の受験勉強もしなかった。(p. 41) このように聖宣は,学校のほとんどの授業に興味 を感じることはありませんでした。しかし,幸いに も聖宣は,学校以外の場で知的好奇心を満足させる 機会にめぐまれました。それは,縁日の夜店で古本 として安く売られていた子ども向けの科学雑誌や本 でした。 もっとも,その多くはつまらなく思えて読めな かったようですが,中にはおもしろいと思えた本も ありました。その 1 冊が『児童物理化学物語』(興 文社・文芸春秋社,1928年)でした。この本は, 3 人の 科学者が「物理学」「化学」「応用化学」の 3 つの分 野を分担して執筆したものでした。聖宣は,その中 に収められた友田宜のぶ孝たか「化学」の個所だけは楽しく 読むことができました。特に,そこに登場する不思 議な「化学の眼鏡」を使って,直接,目では見るこ とのできない原子分子を見るという話に感動しまし た。じつをいうと聖宣は,それが架空の話だとはまっ たく思わずに,「化学の眼鏡」が実際に存在すると 信じていました。後になってから板倉は,そのとき の自分の勘違いに対して, それは間違いだったが,そう間違っていたか らこそ私は楽しい夢をえがけたような気がす る。(p. 35) と回想しています。これが板倉と原子(論)との 最初の出合いでした。この出合いは,後の仮説実験 授業の成立に大きく関わるものとなりました。 ●〈忠君愛国〉と〈合理創造の精神〉とのはざまで 1945(昭和20)年の敗戦前の日本の学校教育は, 明治の最初の10年ほどのあいだをのぞいて,「教育 勅語」の精神のもとで,〈忠ちゅう君くん愛あい国こく〉と〈家族主義〉 中心の「修しゅう身しん教育」を中心にしておしすすめられま した。特に,聖宣が小学校に入学した1936(昭和11) 年ころは,「日本精神作さく興こう・教きょう学がく刷新」というスロー ガンのもと,軍国主義的な教育が強まった時代でし た。そうしたなか聖宣は,同年代の子どもがそうだっ たように,そうした天皇制国家主義的な教育によっ て,軍国主義的な考え方をごく自然に身につけるよ うになっていきました。そうしたなかで聖宣は,〈忠 君愛国〉の価値基準に積極的に則っとろうと,以下 のような優等生的な行動をとったりしていました。 私は同級生の中でも先生にはもっとも従順な 方だったから,「新聞にのっている皇族の写真 を切り抜いて持ってこい」と言われると,なに がなんだかわからないままにせっせと新聞を切 りぬいて学校へ持っていった。おかげで古新聞 紙は包み紙にも使えなくなったが,私の持って いく写真の量は,友人たちよりずっと多いよう だった。それで私は,自分が教師にもっとも従 順な生徒であることを確認することができた。 (p. 67) さらに,軍国主義的な教育は激しさを増していき, 1941(昭和16)年に,小学校では,「国民学校」と名 称を変えるとともに,義務教育も 8 年間に延長され るなど戦時下のもと,あたらしい教育制度が始まり ました。 しかし,そうした「日本精神」の発揚を観念的に 唱えるばかりでは,産業や経済が発展しないのはも ちろんのこと,戦争に勝つことはできない,と日本 国家が判断したのも当り前のことでした。そこで, 戦争の気運が高まるにしたがって,当時の教育政策 は,科学教育を振興するために,「合理創造の精神」 「科学的精神」を養う必要を盛んに唱えるようにな
りました。あたらしく発足した国民学校でも,そう した教育をおこなうために,教科書を全面的に改訂 しました7 )。 たとえば,1941年 3 月に制定された「国民学校令 施行規則」の理数科関係の項には,以下のように書 かれています。 「理数科は,通常の事物現象を正確に考察し処 理するの能を得しめ,之を生活上の実践に導き 〈合理創造の精神〉を涵かん養ようし,国運の発展に貢 献するの素地に培うを以って要旨とす」(第 1 章第 1 節第 7 条) 「理数科理科は,自然界の事物現象及び自然の 理法と其の応用に関し,国民生活に須要なる普 通の知識技能を得しめ,科学的処理の方法を会 得せしめ〈科学的精神〉を涵養するものとする」 (第 1 章第 1 節第 9 条) しかし,そうした教育目的は,本来,国家主義的 な教育のそれとまったく矛盾する性格のものです。 しかし,「日本精神」と「合理創造の精神」の涵養は, 以下のとおり,聖宣の頭と心のなかがそうであった ように,ほとんどの子どもたちにおいても,矛盾す ることなく,うまく結びついていました。 「戦争にうち勝つためには,大和魂と合理創造 の精神がなければならない」と私たちは教えら れた。私は「そうだ」と思った。私は騎馬戦を やっても棒倒しをやっても,がんばりやとして の自分に誇りをもっていた。最後までへこたれ ない自信を持っていた。しかし,精神力だけで はだめなことは明らかであった。合理創造の精 神がなければ,いい機械も飛行機もつくれない。 私は尺しゃっ貫かん法ほうよりメートル法のほうがずっと合理 的だと聞いて納得した。そして,大きな数に 3 桁 けた 区く切ぎりでコンマをうつのは欧米かぶれのばか げたやり方で,日本人は 4 桁けた区く切ぎりでコンマを うつべきだという話をきいて感激した。(p. 63) この「〈合理創造の精神〉がなければ,いい機械 や飛行機をつくることはできない」という指摘は, 今でも変わらないことなので,とてもイメージしや すいでしょう。また「尺しゃっ貫かん法ほう」というのは,長さを 「尺しゃく」,重さを「貫かん」などという単位で表すものです。 日本では,メートル法が採用され普及するまで,昔 から使用されていた単位の名前です。「一いっ寸すん法ぼう師し」 の「寸」も長さの単位のひとつです。しかし「尺貫法」 では,「10寸」=「 1 尺」で十進法となっていますが, その一方で「 1 間」=「 6 尺」などと,すべてが十 進法に則っているわけではありません。そこで,特 に慣れていないと,単位の換算がとても面倒なので す。 ●「 4 桁区切り」とその合理性 また「大きな数には 3 桁区切りではなく, 4 桁区 切りでコンマをうつべき」ということについては, 少し詳しい解説を加えた方がいいでしょう。 たとえば「 4 万円」をコンマなしの数字だけで表 すと「40000円」となりますが,特に公的な書類で は「40,000円」と 3 桁ごとにコンマを打って区切る のが普通です。こうしたコンマの打ち方を「 3 桁区 切り」と言います。じつをいうと,この 3 桁区切りは, 主に英語圏の人が大きな数字を直観的に認識しやす いように工夫した表記法なのです。このように表 記すると「40,000(= fourty thousand)」は,直観 しただけで,「fourty(=40),thousand(=1000)」 と認識することができるからです。 しかし,日本人の場合は, 3 桁区切りではうまく 認識できません。たとえば「40,000円」をひと目み ただけではわからないので,どうしても,「一,十, 百…」と下しもの位から順に数えてしまいがちです。と ころが「4,0000円」と 4 桁区切りで表すと,「 4万 0000円」と直観的に認識できるようになります。 4 桁で区切ることによって,「万,億,兆…」という〈日 本の数の単位〉にうまく即して表記することができ るからです(たとえば「44,4004,0040円」は「44億4千4万40円」 と認識しやすくなります)。このように日本人には, 3 桁区切りよりも, 4 桁区切りの方がたしかに合理的 な表記法なのです。 それでは,戦前の小学校では,いつごろ,どのよ うに「 4 桁区切り」の合理性を教えていたのでしょ うか。戦前の小学校は,「国4の定4めた教科書(=国定44 教科書)を全国の小学校で一律に使用しなければな らない」という決まりがありました。聖宣は,入学
の 1 年前(1935=昭和10年)に改訂されたばかりの国 定算術教科書『尋常小学算術』という教科書(表紙 が緑色をしていたので,「緑みどり表びょう紙し」と呼ばれることがあります) で算術を 6 年間勉強しました。 この教科書は,明治末年から大正期にかけての自 由主義的な算術教育研究の成果を積極的に採り入れ ることによって,それまでの国定の算術教科書を全 面的に改訂したものでした。そのなかの 5 学年前期 用の『(教師用)尋常小学算術 上』をみると,「大き い数と小さい数」の項目で,以下のように「 4 桁区 切り」について書いてあります。 「整数の名は,一に始まり,十進して,十・百・千・ 万と進み,その上は,一万・十万・百万・千万 と十進して,一万の一万倍を一億といい,同様 にして,一億の一万倍を一兆,一兆の一万倍を 一京というように表わす。かように,一万より 上は四桁毎に名を改めるのが,我が国の命数法 である」(p. 2 ) さらに,このような日本の「命数法」の考え方に 基づいて,児童に対しては,次のように〈 4 桁区切 りの合理性〉とその表記法について教えるとよい, と書いています。 「児童用[教科]書に従って,百万,千万,一億… を数字で書かせ,これを一十百千…と位取りし て読ませる。そうして,四桁毎に区切って読む と極めて読易いことを認めさせ,〈コンマ〉で 区切る仕方を教える」(p. 7 ) おそらく聖宣も,このような教え方によって, 4 桁区切りの合理性をおしつけられることなく,納得 することができたに違いありません。 ●中学進学と下町主義 聖宣は,1943(昭和18)年 3 月に東京市立第二中 学校を受験しました。このときは筆記試験がなく, その代り面接による教科の試験と体育の検定によっ て選抜されることになっていました。じつは,第一 次世界大戦(1914~ 8 年)後,中学校への進学者が急 激に増加したことによって,激しい受験競争による 弊害が社会問題にまで発展しました。そこで文部省 は,1929年度の入試から「すべての筆記試験を廃止 して,内申書と口頭試問,身体検査によって選抜す る」と決めていたのでした。 しかし聖宣は,この試験に落第してしまいました。 口頭試問では,まったく質問に答えられないばかり か,体育の検定も失敗つづきだったようです。板倉 は,受験に失敗した当時のことを「人生最初の大き な挫折」として次のように回想しています。 市立二中の合格発表を見に行ったとき,半ば 予期したことではあったが,そこに自分の名が ないことを確認して大いにあわてた。そして, 眼から涙があふれ出るのをどうすることもでき なかった。私の人生における最初の大きな挫折 であった。(p. 45) 結局,聖宣は,私立の本郷中学校に進学すること になりました。当時の中学校は,〈男子だけ〉が入 学を許されていました。〈入学年齢〉は,満12歳以 上とされていました。今の中学校 1 年生と同じ年齢 です。また〈就学期間〉は 5 年制だったので,最高 学年は,今の高校 2 年生に当たります。 しかし,戦前の学校をイメージするのに〈入学年 齢〉をもとにして,今の学校制度にあてはめて考え るだけでは,間違いのもとです。その当時の学校を できるだけ正確にイメージするには,〈卒業率〉を 調べるのが一番です。〈卒業率〉とは,「〈卒業生数〉 を〈学齢人口(=小学校入学予定者数)〉で割った値」 です。たとえば,いまの子どもたちの〈学齢人口〉 は100万人ほどで,〈大学卒業者〉は50万人ほどです。 ですから,現在の〈大学卒業率〉は,〈50万人÷100 万人=50%〉となります。 もっとも聖宣の誕生年度(1930年度)の子どもたち は,戦中戦後の混乱があったため,細かな数値を出 してもあまり意味がありません。それでも, 卒業 率は10%ほどでしたから,現在の〈高校卒業率(= 90%)〉はもちろんのこと,〈大学卒業率(=50%)〉 よりも,断然,低かったのです。そこで当時の中学 生にはエリートとしての誇りが強くありました。そ れに,もともと,知識技術というものには〈先駆者 効果〉というものがあります。たとえば,現在の中 学校は義務教育ですから,全員が英語を学ぶことに なっています。しかし,戦前は,学校で英語を勉強
できる子どもはごくわずかしかいなかったのです。 ですから,中学校でちょっとした英語の知識や技術 を身につけただけでも,社会全体ではずい分と英語 が堪能な人と見なされて,社会的に大きな役割を演 ずることができた,というわけです。当時の中学生 は,そうした一種のエリート意識によって,とても 勉強熱心だったのです。 そうしたなか,聖宣の中学校の成績は, 250人中 150番ぐらいで,けっしてかんばしくはありません でした。しかし,それは当然の結果でした。なんと いっても聖宣は,日々の授業の予習や復習だけでな く,試験勉強さえもまったくしなかった,というの です。 あるとき聖宣は,他のみんなが試験のための勉強 を特別にしていることをはじめて知りました。そこ で聖宣は,あわてて自分も試験勉強をするように なったか,というとまったくそうではありませんで した。聖宣は「みんながふだんどのくらい勉強して いるか調べるのがテストの目的である」と勝手に思 い込んでしまって,「試験勉強をするのはカンニン グと同じでずるいことだ」と本気で考えていたので した。小学生のときと同じように,中学生の聖宣に とっても,〈授業の内容がたのしいかどうか〉とい うことがいちばん大事なことでした。エリート意識 だけでは,学習意欲を高めることができなかったの です。このことについて板倉は,次のように回想し ています。 私は中学校がたのしくなかった。とくに英語 がいやだった。国語もいやだった。私には英語 や古文など,学ぶ意義がわからなかったからだ。 漢文もいやだったが,ただ『論語』などにもられ ている儒教道徳はおもしろいと思った。図画や 音楽も,大嫌いになった。理科もつまらなかっ た。「物象」(いまなら理科第 1 分野とでもいうべきも の)の最初の時間には,先生がわざわざ連通管 をもってきて見せたが,「馬鹿らしい」としか思 えなかった。私の楽しかったのは,数学の授業 だけだった。(p. 48) こうした小学生だったころからの授業に対する好 き嫌いの感セ ン ス覚は,聖宣の育った家庭の環境が大きく 影響している,と考えて間違いないでしょう。父 冝 のぶ 吉 きち は,東京の下町で医療器械の製造業を営む職人 でした。そこで幼いころから聖宣は,父親がしてい る〈ものづくり〉のように〈普通の庶民に役立つこ と〉がもっとも大事なことだと考えていました。そ こで〈何の役に立つかわからないようなこと〉に対 して,自ら進んで勉強することなどまったく考える にも及ばないことでした。聖宣には〈いい成績をと るために勉強する〉ということに価値を認める意識 は,まったくといっていいほどなかったからです。 そうした意識は,上級学校への進学を考える際に も発揮されました。あるとき同級生が,高校や大学 への進学について話をしているのをたまたま耳にし た聖宣は,すぐさま次のように疑問を感じました。 「中学校 4 ~ 5 年を終えた上に高等学校・大学 と,そんなに長い間何を勉強することがあるの だろう」 「基礎的な勉強は中学校で十分で,はやく機械 か何かの具体的なものについて勉強・研究した ほうがよいのじゃないか」 「大学や高等学校では英語やドイツ語なども勉 強するらしい。そんなことやって何になる」 さらに板倉は,こうした意識に関連した,そのと きの自分の想いを次のように回想しています。 私は英語だけでなく,歴史も地理も国語も, 要するに文科系の教科はすべて〈それを知らな い人を軽蔑するために学ぶもので,それ以上の ものでもない〉と思っていたのだ。(pp. 74~ 5 ) 「人に軽蔑されないために勉強する。そしてと きには人を軽蔑するために勉強する」――文科 系の勉強というものはすべて,そういういやら しいものだというのが私の考えであった。私は 漢文のように人生訓のはっきりしているものを 学ぶ意味はよくわかったつもりだったが,英語 や国語や歴史や地理を学ぶ意味は全くわから ず,そういう勉強をおもしろいと思ったことは 一度もなかった。国語にしても〈小学校卒業程 度の漢字の読み書きができれば十分〉という感 じが私にはあった。(p. 75) 後年になってから板倉は,頑かたくな過ぎるともいえる
こうした自分の感セ ン ス覚を「下した町まち主義」と名付けました。 この「下町主義」こそ,板倉が生涯を貫いて変るこ となく持ち続けた感セ ン ス覚でした。 ●幼年学校への進学とオチコボレ意識 そのご聖宣は,中学入学から半年ほど経った1943 (昭和18)年10月に,陸軍幼年学校の入学試験を受け ました。聖宣は,当時のほとんどの子どもがそうだっ たように,将来は軍人になることを志すようになっ たのでした。幼年学校は 3 年制でしたが,それを卒 業すると,陸軍士官学校に無試験で入学することが できることになっていました8 )。このことは,〈将来, 陸軍将校(=少尉以上の階級)となることが保障された〉 ということを意味しました。当時,幼年学校は,東 京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本と全部で 6 校 ありました。入学年齢が13~14歳である他は,それ 以外の学歴などの条件は,特に設けられていません でした。ただし入学試験の程度は,「中学 1 年生 2 学期修了時の学力」とされていました。 この試験で聖宣は,不合格となりました。そのと きの倍率は不明です。参考までにあげておくと,そ れより 5 年前の1938年度には,志願者が 1 万人ほど で,そのうち採用者が601人でしたから,競争倍率 は17倍ほどと超難関でした。 翌1944(昭和19)年10月,聖宣は幼年学校を再受 験し合格し,翌年の 4 月から名古屋の幼年学校に入 学しました。この学校は全寮制でしたが,学校生活 にかかる費用は官費によってまかなわれるのではな く,授業料の他にも,寮での食事や衣服にかかる費 用を払う必要がありました。その総額は,月額20円 でした。当時の小学校教員の初任給が,月額50円ほ どでしたから,板倉家の家計にとって相当苦しい出 費だった,といってよい額でした。 それでは聖宣は,幼年学校での生活をどのように 送ったのでしょうか。一言でいうと,聖宣は,完全 にオチコボレてしまいました。唯一の得意科目だっ た数学も例外ではありませんでした。もっとも, 〈まるで内容がわからなかった〉というのではなく, 〈学ぶ気がしない内容だった〉ということが一番の 原因だったようです。このことについて板倉は,次 のように回想しています。 なによりもショックだったのは数学であっ た。「数学だけは人並み以上に出来る」という 自信があったのに,はじめからまるでわからな くなったのである。どうしてそうなったのか, いま考えてもよくわからない。むずかしかった ようには思えない。はじめから「なんでこんな ことをやるのかわからない」という違和感が あって,なじめなかったのである。軍事用の実 用数学を断片的に教わったらしい。(p. 78) ●下町主義と学習意欲 聖宣は小学校のときと同じく,〈なんのために学 ぶのかが明らかでなければ学習意欲がわかない〉と いう感セ ン ス覚を発揮した,というわけです。そうした 感セ ン ス覚は,「物ぶっ象しょう」という戦時中に新しく設けられた 理科の科目(いまでいうと理科第 1 分野の内容)の時間 にも,以下のように存分に発揮されました。 物象は,少尉の軍服を着た以前女学校の先生 だったという人に教わったが,これもおもしろ くはならなかった。あるとき,この少尉は言っ た――〈人間の密度をはかるにはどうすればよ いか〉。生徒たちはさかんに手をあげる。私は なぜかこの質問がおかしくてたまらなかった。 笑うのをおさえようとすると,ますます笑いが つのる。そして,とうとう吹きだしてしまった。 もちろん,少尉殿はすぐに私の方を向いていっ た〈なぜ笑うのか〉。そこで私は困ったが,〈は い!人間の体積をはかるのは簡単ですが,体積 や密度をはかってどうするのですか〉と正直に いった。私は真っ赤になって,罰せられること を心配した。(p. 79) こうしたやりとりから,みなさんのなかには,「聖 宣が,それなりに時間をかけて勉強しさえすれば, そこそこの成績をとることもできたのではないか」 と考えた人もいることでしょう。しかし,そうした 考えは,まったく的がはずれたものでした。次のよ うに,聖宣は,〈他の生徒が当り前のようにしてい た予習や復習をする気にまったくならなかった〉か らです。
私には毎日予習や復習をする習慣がまったく なかったのに,他の連中は,それをちゃんと やっていたのだ。私は宿題だけをやると,何を やっていいかわからずただポカンとしていたの であったが,他の連中はその日の分の復習と次 の日の分の予習に余念がなかったのである。し かし,私は幼年学校時代の 3 ヵ月余りの間,つ いに他の連中を見習って,予習・復習をすると いうことをはじめなかった。(pp. 80~ 1 ) 板倉自身は,このような自分の態度について, どんなことを復習したり予習したりすれば いいのか,見当もついていなかったのである。 (p. 81) と解釈して書いてあります。しかし私は,それは 怪しい解釈ではないか,と疑っています。なぜなら, すでに聖宣は,小学校時代に〈どのような方法で予 習したらよいか〉ということを同級生から学んで, 実際に予習をしていた経験が,ほんの少しはあった からです。もちろん,そのときは予習した成果を発 揮して,教師からの質問にもうまく答えることがで きた,ということです。 しかし聖宣は,「うまく答えたことに対して満足 できたか」というと,次のように,まったくそうで はありませんでした。 私は小学校 5 ~ 6 年ころ,2 ,3 ヵ月だけ〈『全 科』というものをノートに書きうつしていくと, 先生の質問にまちがいなく答えられる〉という ことを知って,ちゃんと予習したことがある。 予習の効果はてきめんだった。先生の問いに対 して,いつも自信をもって挙手できた。そして, 間違いなく答えることができた。知識もかなり 身についた。しかし空虚なこともあった。「〈す なわち〉とはどういうことか」と聞かれて,『全 科』まる写しのノートを見て「〈とりもなおさず〉 という意味です」と答えて「よし」と言われた ときなど,全くなにがなんだかわからないくら いいやだった。〈すなわち〉なら私にもわかっ たのに,〈とりもなおさず〉というのは私には わからなかったからである。(p. 39) こうしたことから,聖宣が中学校や幼年学校の生 徒になったころには,既に「〈つまらないことを学 ぶ〉ということ自体を意識的に4 4 4 4拒否するようになっ ていた」と考えた方が,当時の聖宣の心のうちをよ り的確にとらえていると思うのですが,どうでしょ うか。 ●「将校生徒」としてのエリート意識 その一方で聖宣は,〈幼年学校の生徒であること のエリートとしての誇り〉を明らかに意識していま した。そうしたエリート意識は「忠君愛国主義」の 考え方としっかり結びついていました。板倉は,自 伝のなかで次のように書いています。 幼年学校での生活はこうしてずるずるとすぎ 去っていった。私は幼年学校の生活にうまくつ いていかれなかったが,そうなるとかえって〈将 校生徒〉[幼年学校の生徒に対する呼び名]という誇 りだけで生きていくよりほかなかった。幼年学 校では何かというと,教官や上級生から〈将校 生徒(ドイツ語の略称で KカーDデーといった)としての誇 りをもて〉と,エリート意識をかきたてられた からである。そこで私は,日曜日などたまに外 出すると,とても胸をはって歩いたりした。 7 月の下旬だろうか,幼年学校も夏休みになって 私も塩尻にもどったが,そんなときは学校内で のおちこぼれ意識はふきとんで,自信満々と いった顔をしていられた。それだけで私は,忠 君愛国に身を捧げることがいいことだと思うこ ともできたようだ。夏休みには東京にも出て, わが家の焼けあとを見たりして胸をはって町の 中を歩きまわった。幼年学校生徒の私は,町の 中でだけかっこうがよかったのである。(p. 83) こうした聖宣のとった,「忠君愛国」を賛美する 軍国主義的な考え方や行動は,単に受動的なもの だったとはけっして言えません。聖宣は,そうし た「軍国主義が,日本国民にとって,特に道徳的な 秩序を維持するために〈役立つ〉という面が少なか らずある」ということを無意識的にせよ,認めてい たに違いないからです。このことは,1945(昭和20) 年 8 月15日の敗戦後まもない時期に起こったある小 さな事件によって,明るみになりました。
●敗戦体験と忠君愛国主義の自覚 1945年 2 月25日の東京での空襲により,板倉家は 焼失してしまいました。そのご板倉家は長野県に疎 開しましたが,聖宣は, 4 月から名古屋陸軍幼年学 校に入学したため,家族と離れて寮で生活すること になりました。そして 8 月15日,日本は敗戦しまし た。一夜にして日本社会は,大きく変わりました。 聖宣にとっても,この敗戦体験は,これまでの自分 への根本的な反省とともに,これからを生きていく うえで必要となる,これまでとはまったく異なった 新しい価値基準の創造を迫るきっかけとなった,と ても大きなでき事でした。 それでは,聖宣は,敗戦後すぐに,そうした新し い価値基準を見出すことができたのか,というとそ うではありませんでした。戦時下の教育によって養 われた〈忠君愛国〉の精神を,敗戦後すぐに根源か ら疑って否定することなど,聖宣には到底できるこ とではありませんでした。板倉は,敗戦直後の聖宣 の心情について,次のように回想しています。 教官や上級生たちは「敗けても国体を守らな ければならない」と力説した。私もこれまでの 教育の線に従って,「そうだ」と思った。「天皇 制がつぶれれば,日本という国はなくなる」と いうような気がしていたのだ。それほど天皇制 教育は,私の意識の中に徹底していたのである。 (p. 84) さらに聖宣は,幼年学校が無秩序化していくなか で,これまで見事に保たれていた学校内の規範まで もが,完全に崩壊していくのを目の当たりにしまし た。それまで優等生として振舞っていた生徒たちが, 自宅に戻るに際に,宿舎の中の金目のものを勝手に 持ち去っているのを目撃したのです。板倉は,この ときの気持ちを次のように回想しています。 その自己の利益をはかることのガムシャラさ には,私もびっくりした。そして思った〈あー, そうか,日本は敗けたのだなぁ。みんな自己主 義者になってしまう。何とかしなければ大変だ〉 私は,かつて教えられていた道徳がひどく乱さ れるのを心配しながら,友人たちの動きを見て いた。そして〈日本人の道徳心をだめにしない ためには,これまでの日本の道徳の頂点に立っ ていた天皇制の護持しかない〉とかなり真剣に 思うようになった。私は敗戦後になってはじめ て,天皇制・国体護持の重要性を自ら積極的に 考えるようになったのである。(p. 85) そして聖宣は,敗戦から 2 週間ほど経った 8 月28 日の日記に,「将校生徒」としての誇りを持ちつづ けながら,天皇制にもとづく「国体護持」のために 力を注いで生きていこうとする決意についてこう綴 りました。 予の行くべき道,如何あらんとも,その目的・ 精神に於いては変るべからざるなり。何事も休 戦の大詔に思いを致し,又幼年校 4 ヵ月余りの 生活を最も良く活かし,諸上官の方・戦友を思 い,身は KD[「将校生徒」のドイツ語略]ならずとも, 心よく KD の意気を発揮し,先ず己に克ち,味 方に克ち,敵に勝つの基を礎かん。先ず黙念反 省五項目,隠忍・持久・努力・実行の意気を以っ て進むべし。最後迄〈予は KD なり〉の誇りを 以て進むべし。新たに黙念・反省を作り,増々 努力すべし。(p. 86) ●揺らぎはじめた忠君愛国主義 そのご聖宣は,幼年学校の寮を出て,家族の疎開 先の長野に身を寄せました。このころから聖宣は, 独学をしはじめました。「英語の教科書を中学 1 年 のものから全部勉強しなおしたり,学校の授業とは 関係なく受験参考書のたぐいで勉強」したりしまし た。(p. 87) そうした聖宣の独学生活は,数カ月で終りました。 旧制の県立松本一中の 3 年生に転校したからです。 この学校は,長野県内で 1 , 2 を争う「名門校」で した。そこで聖宣は,授業についていくことができ るかどうか,とても心配だったようです。しかし, その心配は,まったく無用であったことがすぐにわ かりました。戦争中,同級生たちは学徒動員されて, 軍需工場などで働かされていたので,授業らしい授 業をほとんど受けていなかったからです。 そうすると,これまで嫌いだった「物象」や「歴 史」の授業もたのしく感じるようになっていきまし
た。さらに,そのころの日記には, 学科にして何一つ国家再建に必要[でないもの はない]。(p. 90) と綴るようにまでになりました。それにともなっ て,実際の成績も,学年末には,「326人中 8 番」と トップクラスに位置するようになり,幼年学校のと きに失った自信が明らかに回復しました。 こうして上位の成績をあげるようになった聖宣で したが,それだけで満足することはありませんでし た。中学 4 年生になると,こんどは〈自分の世界観 や人生観を豊かにする〉ことに興味を持ちはじめた のです。そのきっかけとなったのは,同級生が「公 民」の時間に,〈教師と堂々と論じあい,最後には 教師を怒らせてしまったにもかかわらず,一歩も後 に引かなかった〉という姿を目の当たりにしたこと でした。その日の聖宣の日記には,こう綴られてい ます(pp. 92~ 3 )。 国語の公民に於て,予の考え方の幼稚なるを 痛切に感ず。即ち,人生なるものを全く知らざ るなり。 さらに,ある日の公民科の授業の時に, 「自己の存在は実に微小なれども,唯一つにして 偉大なるものなり。自己程大切なるものはなし」 「中学上級程度にして自己に目ざめるなり。こ の時こそ大切なり」 などと教師から教えられた時には,「予の頭,混 乱状態なり」と日記に書くほどに,とても大きな ショックを受けました。このようにして聖宣は,戦 後の民主主義的な教育によって,これまでの国家主 義的な考え方に疑問を持ちはじめるとともに,「自 己」つまり自分自身の人生観を根底から考えなおし はじめるようになりました。そうしたことから,次 第に聖宣は哲学に関心を持つようになっていきまし た。 1946(昭和21)年12月末のことです。聖宣は,家 族とともに,東京の上野の元の家に引っ越しました。 父 冝吉は,先に引っ越していて,既に医療器械製 作の仕事を再開していました。 聖宣は,以前に在籍していた本郷中学校の 4 年生 に転校しました。ここでの成績も,トップクラスで した。そこで,教師から官立浦和高校理科の受験を 勧められました。旧制中学校の教育期間は 5 年でし たが, 4 年修了時点でも受験する資格があったので す。とはいっても, 4 年生と 5 年生とでは,受験学 力においては 1 年の差があります。それに,浪人生 の受験もあったので,聖宣にとって合格することは, とても難しいことと思えるものでした。しかし幸い なことに合格しました。こうして 4 月から,聖宣は, (旧制の)高等学校に通うことになりました。 ●新しい価値基準の創造のために哲学を学ぶ こうして聖宣は,普通よりも 1 年早く高等学校に 入学しました。当時,旧制の高等学校は,官立と私 立を合わせて全国で39校ありました。旧制の中学校 と同じく,男子だけが入学を許されていました。通 常は,これらの高等学校を卒業した生徒だけが,大 学に進学することを許されていました。 当時の高校生のあいだでは,戦前から引き続いて, 酒やタバコをはじめとして,様ざまな遊びを経験し ながら,その一方で文学書や哲学書を読みあさるな どして,幅広い教養を身につけることが理想とされ ていました。 しかし聖宣は,ここでも「下町主義」を発揮して, この世に役立つような人間として生きていく ためには,何か一芸に秀でなければならない。 (p. 111) と考えました。そこで聖宣は,酒やタバコなどいっ さいやらずに,自由になるお金のほとんどは,本代 にあてました。 そうしたなか聖宣は,文学よりも哲学と科学に興 味をもちました。聖宣は,たくさんの哲学書を読み ながら,〈どのように善よく生きるべきか〉その価値 基準を確立しようとしたのでした。そのことについ て板倉は,次のように書いています。 私はずっと道徳主義者だった。陸幼[陸軍幼 年学校のこと]時代や中学時代には,その道徳の 規準は外から与えられたものであった。ところ が,敗戦後の混乱期という現実もあって,哲学 書を読んでいるうちに,その価値基準がガタガ タになってきたのだ。私は善の規準を考え直さ
ざるを得なかった。(p. 116) そして聖宣は,特に哲学者の阿部次郎の『倫理学 の根本問題』(岩波書店,1916年)や英国の哲学者ミル やベンサムが書いた哲学書を頼りにしながら,自分 が道徳的により正しく,より善く行動するための価 値基準を創っていくための有効な考え方を学ぼうと しました。 聖宣が高校 2 年生の夏休みに書いた以下の日記に は,哲学的な自己問答を繰り返しながら,そうした 自律的=主体的な価値基準を見出そうとする彼の姿 がよく表れています。 〈我々人間は正しいことを求め様,求め様と すること自体に幸福を感ずるものである〉(第 一公理)これが〈良心〉となづけられるもので ある。しかし,これは自己賞讃を超えたもので あるか。何故に我々は正へ正へと努力するの か。それは他人が褒めるからか。(自己賞讃の裏 面には他からの賞讃がなければならぬ)。何故に正を 褒めるのか?正は他人にとっては都合がよいか らか,何が根本なのか。何が正しい方向へ我々 を向かせるのか。また,正とは何か。我々が他 との完成に於いて平等なる様に見る時にこれを 正と云うのか。(pp. 116~ 7 ) ●「幸福論」と主体的な価値基準の創造 そうした読書と思索の結果,聖宣は,18歳の 2 年 生の夏休みに「幸福論」という題名の論文を,400 字詰め原稿用紙で90枚ほどにまとめました9 )。その なかで聖宣は,まず「人間は〈幸福〉という原動力 によって行動する」ということを〈幸福の原理〉と しました。 しかし,それだけでは「各人が自分の欲望だけに したがって行動したのでは,混乱が起きてしまうで はないか」という反論が出てくることが,当然,予 想されます。そこで聖宣は,以下のように,「絶対 自己的自己賞讃」という概念を独自に創りだして, その反論に対処しました。 一人ひとりの人間が,自分自身のなかに〈も う一人の自分〉を創って,それを絶対的なもの とする。そうした〈絶対的な価値基準をもった もう一人の自分〉が〈善〉とすることにしたがっ て行動をする。そうすれば,自分が幸福となる ための行動は,必然的に自分自身が賞讃するに 値すると判断したものとなる。このような〈絶 対自己〉による〈自己賞讃〉,つまり〈絶対自 己的自己賞讃〉を最高の価値基準として行動す ればよい10)。 これが,聖宣による「幸福論」の基礎となる考え 方です。 ●科学史に興味を持つ こうして聖宣は,〈いかにして生きるべきか〉と いう価値基準を見出すことに成功したわけですが, その一方で聖宣は,数学史や科学史にも興味をもち はじめるようになりました。算術や数学好きだった 聖宣が,数学史や科学史に興味をもつことは自然な ことでした。しかし,そうした興味の奥底には,単 なる知識欲とは異なる問題意識が無意識的であった にしろあったはずです。なぜなら聖宣は,どんなこ とに役立つかわからないような〈学問のための学問〉 や〈勉強のための勉強〉を最も嫌っていたからです。 その問題意識とは,いったいどのようなものだった のでしょうか。 聖宣は, 1 年生の10月に,ダンネマン『大自然科 学史(改訂版)』第 1 巻を古本で買いました。しばら くしてから,次のような日記を書いています。 考えるに,科学史を読むは昔の天才の考へ方 を読む[こと]にして,事実を知るにはあまり 力を入れざる方がよいと思う。それなのに近頃 [読書の]速度ばかりを気にして考察さへも欠く ることなしとせず,又,やさしい数学史を作る こともおもしろいことと思う。(p. 107) このように聖宣は,科学史の知識を増やすことよ りも,科学者の考え方,つまり科学者の認識過程を 知ることに対して,より興味をもっていました。聖 宣が読んだ科学史の本の中でも,物理学者アイン シュタインとインフェルトとの共著『物理学は如何 に創られたか(上・下)』(岩波新書,1939年。原著は1938 年刊行)は,聖宣が科学史・科学教育を志すうえで, とても大きな影響を受けた本でした。聖宣は,この
本を 4 月にいちど読み終えていたのですが,半年ほ どたってから再度読みはじめたのです。そして, 2 度目の読書を終えた日の日記には,以下のように綴 られています。 本日,『物理学は如何に創られたか』を読み 終わる。私の二度読んだ本の最初として感激無 量なるは云う迄もない。この本は従来疑い深い 私に更に疑念を起させた。今迄の科学に対する なまやさしい疑いはここにやぶられたのであっ た。[中略]それにこの書物のわかりやすき述べ 方,簡単な常識的なる事件より偉大なる思考 による拡張,おどろくべきものと云うべき。 (p. 107) 私が実際にこの本を読んでみたところ,特に上巻 の2/3を占める「力学的自然観」についての記述は, 高校の「物理」に落ちこぼれた私でも,たのしく読 むことができました。特に「ベクトル」概念につい て解説した個所は,高校の数学で〈何を意味してい るのかまったくわからないまま,解き方だけを暗記 してごまかした〉私でも,その概念の有効性を感動 的に理解させてくれた内容でした。 さらにいうと,仮説実験授業の成立の基礎である 〈実験的な認識論〉に関する記述も,以下のとおり 数カ所だけですが見つけることができました。 近代物理学の最も重要な特性の一つは,最初 の手がかりから導かれる結論が,単に性質的の ものではなく,数量的であるということです。 再び,塔から落とされた石を考えて見ましょう。 それが落ちるにつれて速度の増すことは記述の 通りですが,更にそれ以上のことを私たちは知 りたいと思うのです。〈この速度変化はどのく らいであるとか,また落ち始めてから後の刻々 の石の位置と速度とはどうであるとか〉いうこ とです。私たちはその結果を予想して,実際の 観察がこの予想を確かめ,初めの仮定を正しい とするかどうかを判断したいと望むのです。(上 巻,p. 31) このようにして万有引力の場合には,力が両 運動体の距離に関係することを簡単に示すこと ができたわけです。同様に種々の力――例えば 電気力,磁気力など――の働いている他のすべ ての場合にも進んでゆきます。私たちは力に対 する簡単な表現を用いてゆくのですが,これは それから導き出される結論が実験によって確か められる時にのみ正しいものとされるのです。 (p. 33) 私たちは,初めの手がかりをたどって行って 到達した結論が,投げられた石の運動や,月, 地球,惑星などの運動で実現されるのを見るこ とができます。/実際それは私たちの推測して 作り上げた事柄で,すべて実験によって正否を 判断されなければなりません。そしてどの仮定 も一つだけ引離して検べてはいけないのです。 太陽のまわりを幾つもの惑星が回転する場合に は,これが立派に力学的体系をなしていますが, しかし私たちはこの場合にも,これと異なった 仮定に立つ別の体系が形作られていると想像す ることは必ずしも困難ではありません。(上巻, p. 35) この本を読んだことが,後年になって板倉が〈実 験的認識論〉を確立していくうえでどれくらいの影 響を及ぼしたか,ということまでは明らかではあり ません。しかし,そうした〈板倉の認識論がどのよ うにして成立したのか〉ということを詳しく知ろう とするのであれば,欠かすことのできないことだ, と言っていいでしょう。 ●小倉金之助との出会いと不安 数学史・数学教育の分野で,聖宣が最も影響を受 けたのは,『(カジョリ)初等数学史』(山海堂,1928年) と『数学教育の根本問題』(イデア書院,1924年)とい う 2 冊の本でした。最初に聖宣が読んだのは『初等 数学史』の方でした。この本の原著は,フロリアン・ カジョリという米国の数学・科学史家が古代エジプ ト・ギリシャから1900年代初頭までの初等数学・数 学教育の歴史について書いたものです。これを,数 学・数学史の研究者である小倉金之助が,中学校 教師の井出弥門と共に,1928(昭和 3 )年に「補訳」 して出版しました11)。小倉は,翻訳出版するにあたっ て,少しでも読みやすくするために,原著にはな
かった「小見出し」や「図」をつけ加えたり,原著 の「註」の記述を大幅に省略する代わりに,本文に 登場する数学者の小伝や,数学や数学教育に関する 解説をつけ加えたりしました。これによって,数学 史に不慣れな人でもとても読みやすい内容の本とな りました。 聖宣は,この『初等数学史』を読み進めるなかで, この本が当時の高校生が求めた〈精神修養や幅広い 教養を得る〉という目的には,必ずしもそぐわない 内容であることと, 500ページを超えるこの大著を 読むためには,多大な時間をかけなければならない ことに対して強い不安を感じていました。 しかし読み進めていくうちに,とても役立ちそう な内容が書いてあることがわかり,「おもしろさ」 の方がまさるようになりました。それは,この本に は,以前から聖宣が心の中に秘めていた〈教育の方 法として数学史をとり入れたらどうか〉というアイ デアを確かなものとするのに役立ちそうな「資料」 がたくさん書かれていたからです。聖宣は,そうし た「不安と面白さ」との葛藤をかかえながら『初等 数学史』を読み終えた日の日記に,こう綴っていま す。 ついに『(カジョリ)初等数学史』を読み終え る。この書は250円で買求めた。[私の買った本で もっとも高価だった]しかし,私には500円以上の 価値がある様に思えるのだ。精神[修養]上に は何も考マえマなかったかも知れぬ。しかし,〈教 育の方法として数学史をとり入れる〉と云う私 の見解に資料を与えて呉れたのだ。実に20日程 もこの書ばかりにとらわれてしまった。途中に 何回,時間に対する不安を感じたかも知れない。 しかしそれはただ〈面白い〉と云う事実によっ てしりぞけられた。〈のちのために〉〈数学教育 のために今のうちに〉と云う見解は,この〈時 間に対する不安〉に勝てなかっただろう。それ ほど僕の考えはしっかりしていないのだ。また, しっかりするはずもないのだ。特に,この本の 最後のあたり〈精神陶冶としての数学教育に対 する批難〉に於いて不安を感ずるのだ。(p. 115) この日記の最後には,「〈精神陶冶としての数学教 育に対する批難〉に於いて不安を感ずる」と書かれ ていますが,これは何を意味したものだったので しょうか。まず〈精神陶冶〉とは何かというと, 「教育の目的を〈知識や技術そのものを教える〉 ということに置くのではなく,〈推理力や思考力 など精神力を高める〉という点にもとめる考え方」 とでも理解すればよいでしょう12)。 また『初等数学史』の「精神陶冶としての数学教 育に対する非難」という節(第 3 篇第 4 章第 4 節) には,1800年代半ばころから1900年代初頭にかけて, 欧米の哲学者,科学者,教育関係者などによって主 張された〈数学あるいは数学教育に対する非難〉の 概要が,いくつか紹介されていますが,それらの「非 難」をまとめると次のとおりになります。 「数学者は,数学という学問のために数学研究 をするばかりで,その研究成果を自分や他人の 人生に役立てることができない。従来の数学教 育で教えられた生徒たちも数学者と同様で,実 際に役立たないことばかり教えられている」 つまり,これまでの数学教育は,その目的を〈精 神陶冶〉と称して,推理力や思考力を高めることに 置いてきたが,はたしてそれに失敗している。そこ で,これからの数学教育では,そうした役立たない 内容に替えて,〈実用的な教育内容〉を教える必要 がある,というのです。 おそらく聖宣は,数学教育の目的を何に求めたら よいのか,という問題について考えたことなど,こ れまで一度もなかったことでしょう。それにもかか わらず,将来,数学教育の研究を志そうとしていた ことに対して「自分の未熟さ」を感じて不安になっ てしまった,というわけです。 ●小倉金之助と〈科学的精神〉の開発 しかし聖宣は,そうした「不安」をいつまでも抱 えたままではいませんでした。少しでも早く不安を 解消するために,さらに数学史の勉強をしつづけま した。次に聖宣が読んだのは『数学教育の根本問題』 でした。おそらく『初等数学史』の大胆な「補訳」 を知って,その訳者のひとりである小倉金之助に興 味をもったのでしょう。幸いなことに『数学教育の