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The Days Spent by Nakajima Atsushi Visiting Yosami Village, Aichi
Nakajima Atsushi (1909–42) was a Japanese novelist born in Tokyo, noted for his elegance of language, erudition and pessimism (Kodansha, 1993, p. 1038). His most widely-known work Sangetsuki (The Moon over the Mountain), 1942, has figured as a set text in high school Japanese textbooks since 1951. Nakajima’s wife (Hashimoto) Taka (1909–84) was a native of Yosami Village (1906–55), Hekkai-gun, Aichi. This paper reexamines previous theories offering 1931 and 1942 as the likely dates for Nakajima’s visits to Taka’s birthplace Shin-ike, Takatana, Yosami (now Takatana-cho, Anjo, Aichi) and redates these visits to March 1933 and August 1942. It further discusses Atushi’s interest in a poem in the Manyoshu collection citing the place name “Awomizura-Yosami-no-hara” (7: 1287), and introduces Taka’s reminiscence of Atsushi “standing at the foot of the wireless transmitting towers” at Yosami, in August 1942. Just four months after their return from this family visit to Yosami, Taka found herself tending the 33-year-old novelist on his deathbed in Tokyo.
中島敦(1909‒42)は格調高い表現、学識、厭世観を特徴とする東京生まれの 小説家で(Kodansha, 1993, p. 1038)、1951年以後高等学校国語教科書採用の「山 月記」(1942)で知られる。夫人の中島(旧姓橋本)タカ(1909‒84)は愛知県碧 海郡依佐美村(1906‒55)の出身である。本稿は敦が1931年と1942年に依佐美村 大字高棚字新池(現安城市高棚町)のタカの生家を訪問したとする従前説を検討、 1933 年3月と1942年8月であったことを明らかにする。また、敦の万葉歌「あを みづら、よさみの原」(7: 1287)への関心、敦が依佐美の「無線電信の高い塔が立っ ている風景」にあったとする1942年8月のタカ回想を紹介する。タカが東京で33 歳の小説家を看取ったのは里帰りの4カ月後である。 Keywords: あをみづら、山月記、中島敦、中島(橋本)タカ、光と風と夢、無線通信、依佐美村
鈴 木 哲*
Tetsu SUZUKI
* 桜花学園大学学芸学部英語学科非常勤講師Part-time lecturer, School of Liberal Arts, Department of English, Ohkagakuen University, Toyoake, Aichi, Japan. The address is [email protected]
˹ࡀᴥ൞టᴦʉɵˁේՙᴥ൞టᴦ១Ȼ˹ࡀୡ 2010年4月、刈谷市野田町(愛光屋)で「依佐美送信所『IEEE マイルストーン』記念碑 建立を祝う会」が開かれた。依佐美送信所は1929年4月に愛知県碧海郡依佐美村に開局1、 1993 年停波し、2006年解体された。「IEEE マイルストーン」は2009年5月に授与され、翌 年4月、フローラルガーデンよさみ(刈谷市高須町)の南東角「対欧無線通信発祥地」(1986 年電子情報通信学会東海支部建立)隣に田中浩太郎寄贈により記念碑が建立された(依佐美, 2010)。祝う会で名古屋工業大学名誉教授・荒井から言があった。 中島敦の奥さんが、実はこの依佐美の出身 4 4 4 4 4 4 なんだそうです。中島敦の小説のどこかに [依佐美送信所の]電波塔 4 4 4 、アンテナのことが書かれているのではないかと思って、い ろいろ探しているのですけれども、今のところまだはっきりしません。(略)/子供さ んは一時刈谷中学に在籍されていたようです。(荒井,2011,傍点・角括弧筆者,以下同じ) 依佐美村は1906年5月に野田村、半高村、小垣江村、高棚村と長崎村大字井杭山が合併 し成立、1955年4月、野田・半城土・高須・小垣江の四大字が刈谷市に、高棚・井杭山・ 二本木(野田村から起立)三大字が安城市に合併された(鈴木,2005,p. 58)。現安城市北 西部・刈谷市南部にあたる。同時代の「依佐美村」記事を掲げる。 愛知県三河国碧海郡の中部。岡崎市の西方一〇粁。北は刈谷町・知立町に、東は安城 町、南は高浜町に接し、西は衣ケ浦湾に面す。此村一帯は矢作川の堆積地たる洪積層台 地より成り、西部は境川を以て境し衣ケ浦に注ぐ。明治用水は中部を西南に向けて流れ、 洪積台地依網の原 4 4 4 4 (依網の森とも云ふ)を潤し広く水田化せり。されど所々には小森林 を存して独特の景観を呈す。(日本書房,1938,p. 5688) 筆者は依佐美送信所が登場する小説として大薮春彦『俺に墓はいらない』(1969)と小松 左京『首都消失』(1985)を紹介し(鈴木,2011)、翌年、吉村昭『大本営が震えた日』(1968) と鷺(2002b)を参考に「中島敦・タカ」2を加え、刈谷文化協会『群生』55(2011): 77‒80に「小 説に現れた依佐美送信所」を寄稿した。 生前ご指導を得た永田友市(1923‒2014)に「中島敦」(永田,1988)があった。文中「月 報」は文治堂書店『中島敦全集 第2巻』(1960)月報「ツシタラ」第2輯で、「中島敦の想 い出─義妹の語る─」(pp. 13‒17)である。
あるとき[刈谷高等学校奉職中1957‒60]、ふと中島のことを口にしたことから、全 く偶然にたか夫人が刈谷の近くの出身 4 4 4 4 4 4 4 4 であることを知った。さらに長男の桓さんも、戦 時中の疎開で一時刈谷中学に在学されたことを知った。/それから次々にたか夫人の実 家を知り、(略)ある日[埼玉県]久喜にたかさんを訪ねることができた。/たかさん の令妹貞さんが一時期中島家に同居しておられたことがある。昭和十二年[1937]四月 ごろである。たかさんが健康を害された時、家事の手伝いに行っておられたそうである。 その貞さんが知立市に嫁いで住んでおられるという。しかもわたくしの家から二キロも 離れていない字である。/(略)毛受貞さんを訪ねた。(略)思い出話(略)の聞き書 きは稿にして文治堂版「中島敦全集」の月報 4 4 に寄せた。(永田,1988,pp. 192‒93) 貞(旧姓橋本)は毛受隆一に嫁いだ(鷺,2002,p. 493)。知立市上重原町村上の永田が訪 ねた地は知立市西中町永崎(旧碧海郡知立町西中永崎)である。永崎は村上の東南1km で、 村上から「二キロも離れていない」。西中は貞の生家・碧海郡依佐美村高棚の北5km である。 永田に日本文学研究会『日本文学研究』(誠和書店)30: 28‒33に「中島敦の人間構造」がある(齋 藤,1997,p. 151)。 1937年1月13日に敦の長女正子が生後3日で死亡している(鷺,2002b,p. 502)。「健 康を害された」のはこの時期である。1940年8月頃の横浜市中区本郷の家族写真(田鍋, 1981,p. 81; 後掲6図)に貞が見える。同年1月31日に誕生した次男 格のぼる(鷺,2002b,p. 503)の世話と見られる。貞の中島敦家同居は1937年と40年である。 中島敦(1909‒42)は東京生れの小説家で、東大国文科卒後、1933年横浜高等女学校教 師となった。1941年パラオの南洋庁に赴任、翌年帰京。「山月記」が42年2月の『文学 界』に掲載され、同年12月喘息で没した(鷺,1985)。『中島敦全集』は筑摩書房版(三巻, 1948)、文治堂書店版(四巻+補巻,1959‒61)、第二次筑摩書房版(三巻,1976)、第三次筑 摩書房版(三巻+別巻,2001‒02)がある。「山月記」は1951年三省堂『高校国語二上』以 降「文学作品の中では高校の教科書で最高掲載回数を記録」する(佐野,2013,p. 11)。 鷺(2002b)、永田(1960)から中島(旧姓橋本)タカ(1909‒84)・依佐美村関連記事を拾 う(表1)。鷺(2002b)は現時点で「最も詳細」(p. 494)な年譜である。 通説では敦の依佐美村訪問は1931年10月1日と1942年8月7‒9日である(鷺,2002b)。 郡司(1976)に依佐美村訪問記事はない。高等学校2年生用の指導教材『現代国語2 学習 指導の研究』2訂版(1983)「山月記」には「(昭和)五年四月に東京帝国大学文学部文学科 に進学、翌年橋本たかと結婚した」(分銅,2011,p. 153)とあるのみで、授業で中島敦と依 佐美村の関係が語られることはまれと思われる。
表1.中島(旧姓橋本)タカ年表(鷺,b; 郡司,; 永田,; 田鍋,)[*本稿検討事項] Table 1. Timeline for Nakajima (Hashimoto) Taka, 1909‒48, the wife of Nakajima Atsushi, 1909‒42 年 中島(橋本)タカ(1909‒84) 中島敦(1909‒42) 1909 11.11 碧海郡依佐美村の橋本辰次郎三女 に生。 5.5 東京市四谷に中島田人長男に生。 1912 7.8 弟和夫生まれる。 1917 3.9 妹テイ(貞)(後、毛受隆一に嫁す)生。 1918 c. 二里程離れた祖父母の世話。 1920 1.2 次妹ヒサ(後、野々山正信に嫁す)生。 1923 15 歳で上京、和田義次(船具問屋)のも と働く。 3.11 異母妹澄子生。 1931 c.3 桜田本郷町の勤務先麻雀荘で敦と知 り合う。 c.9.10 帰郷のタカを新橋駅に見送る。 10.1 敦に名古屋の飯田の家に送られる。 10.1 「依佐美に 4 4 4 4 タカを訪ね」る。* 1932 3. 結婚(郡司、1976)。* 3末、8 名古屋で会う。 1933 4.28 長男桓(たけし)依佐美村で生。11. 上京。 「金を送っただけで行かず」。* 1935 7. 1年8カ月の別居を終え、横浜市中区本郷町に初めて家を構え、暮らす。 1937 1.11 長女正子生まれるが1.13死亡。 4. 貞同居(永田,1960)。 1940 1.31 次男格(のぼる)生。 c.8 横浜市中区本郷で家族写真(田鍋,1981,p. 81)* 1941 8.26 横浜から世田谷・中島田人宅へ越す。 1942 8.7‒9 桓、格連れ依佐美に里帰り。 8.7‒9 依佐美、早く帰京。* 12.4死去。 1948 2.11 父辰次郎死去、79歳。 筑摩書房『中島敦全集』全3巻(筑摩1次) 1959‒61 文治堂書店『中島敦全集』4+1巻 1976 筑摩書房『中島敦全集』全3巻(筑摩2次) 1984 10.2 タカ、死去、74歳。 2001‒02 筑摩書房『中島敦全集』3+1巻(筑摩 3次) ࢳఌȈΗʹᏩȾʉɵɥᜪɀȉȲȞ 1931年10月1日、「依佐美にタカを訪ね」た(鷺2002b,p. 499)か、を検討する。論拠は 中島タカ「思い出すことなど」である。 私は明治四十二年[1909]十一月十一日生まれで(略)、家は昔、愛知県碧海郡の新 川(今の安城市 4 4 4 4 4 )で大きな宿屋をしていた(略)。父の橋本辰次郎は一人息子で、二里 4 4 ほど離れた新池 4 4 というところで農業をやっていました(p. 224)/昭和六年[1931]九 月十日頃(略)[和田]義次さん[従兄弟]から叔母の世話をするように言われ、(略)
[東京から]新川 4 4 へ帰って参りました。(略)叔母[辰次郎の妹・和田まさ]が[埼玉県] 久喜[敦が寓居]に出かけていた留守、十月一日に、主人が氷上さんと 4 4 4 4 4 やって来たので す。氷上さんは直ぐ東京へ帰りましたが、主人は私を名古屋の飯田の家 4 4 4 4 に連れて行った というか、送り届けたのでした。(中島タカ,2002a,p. 226) 安城市に「新川」はない。橋本(2002,p. 397)に1931.10初「元来タカ義わママ私[辰次郎] の両親が新川町ニ在住致居り老年ニなりたる故を以て(略)差遣しありし者」とある。「新川」 は碧海郡新川町(1892‒1948,現碧南市新川町)で(角川,1991,p. 705)、新池の南西8キロ(2 里)である(図1)。「新川」が新川町であることは、橋本辰次郎誓書に「愛知県碧海郡新川 町相生」(中島敦,2002,p. 528; 後掲)とあることからも明らかである。 「思い出すことなど」は田鍋による1975‒83年の聞き書きである。新川町を安城市と勘違 いし、鷺(2002b)が「新川」を高棚字「新池」と混同、「依佐美に 4 4 4 4 タカを訪ね」(p. 499)と したのである。親戚が新川町にいた関係で、橋下家は「新川」町と字「新池」を並列に扱った。 「叔母が久喜に出かけていた」のは「羽織袴姿で久喜に乗り込んで[中島家側と]談判し、 金銭まで出させて了った」「叔母の一方的な行動」(中島タカ,2002a,p. 226)という。 「氷上」は一高時代の友人で、ニイチェ研究で知られる氷上英廣(1911‒86、ドイツ文学者・ 東大教授)である。「飯田の家」はタカの長姉ゆきゑ(1902.1.22生)の嫁ぎ先の中区陶生町・ 飯田博吉宅(鷺,2002b,pp. 409, 493)である。 氷上に北新川行の回想がある。 (1931)[記録の]「九月三十日、十月一日、北新川 4 4 4 行」というのは(略)豊橋の近くで、 中島[敦]は問題を解決するというところまではゆかなかったが、ともかくそんなこと で私を同伴してそこ 4 4 まで行ったのである。交渉中の人[和田まさ・義次]は不在で、た だ帰郷中の恋人[タカ]に逢えただけ 4 4 4 4 4 だった。これは少なくとも私には不得要領な 4 4 4 4 4 旅行 であった。(氷上,1978,p. 202) 「北新川」は三河鉄道(現名鉄三河線)駅で、北は「高浜港」、南は「新川町」駅である(図 1)。「豊橋の近く」は同駅で特急を普通に乗り換えたためで、三河鉄道へは「刈谷」から乗 車したであろう。訪れたのは和田義次の叔母のいる碧海郡新川町であって、高棚新池ではな い。 9月30日(水)は「北新川」駅付近に宿泊したと考えられる。「不得要領な」は「氷上さ んは直ぐ東京へ帰りました」に呼応する。1931年10月に敦が依佐美を訪ねていないことは、 同日以降の書簡の「はぢめまして」「一度、そちらへ行き度い」からも明らかである。
図1 碧海郡役所(1918)「碧海郡全図」(部分)日新堂書店(安城市史編集委員会[2006]『新編 安城市史7 資料編近代』付図[手書き丸数字も])。南西に新川町、北東8キロに依佐美村高 棚「新池」、新池東4.5km に東海道線安城駅(域外)がある。西中は図北端「野田」の北側(域外)。 原図縮尺1/40,000(本図東西間距離約8.8km)▲1‒8は筆者による対欧無線電信局(依佐美送 信所)鉄塔(1928‒97、高さ250m、依佐美送信所は1929年「高須」[図北端東]に開局)。「新 池」「井池」(◎印)は南東の7‒8号塔の南東1.5km である。 んしやりか 至 きたしんかハ あんじやう やりか 至 ▼ 2 ▲1 ▲3 ▲5 ▲7 ▼ 4 ▼ 6 ▼ 8
(1931.10.21 中島敦、橋本辰次郎あて、封筒なし)はぢめまして 4 4 4 4 4 4 お手紙を差上げます (略)過日母[コウ]が参上いたし、色々おもてなしにあづかり(略)厚く御礼を申上 げます。/(略)いづれ、学校が休暇になりましたら、私自身おうかゞひ致し 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 まして(略) お話やお願ひも申上げたいと存じて居ります。(中島敦,2002,pp. 509‒510) (1931.12.26 中島敦[東京市外駒沢町]、橋本たか[高棚新池]あて)一度、そちら 4 4 4 4 4 へ行き度い 4 4 4 4 4 と思ふけれど、やはり、お金がないので仲々出来ない。(略)逢ひたいと思 ふよ。十月一日に氷上 4 4 と一緒の時以来だね(同,p. 516,氷上 4 4 は傍点原著,「ヒカミ」と ルビ) 敦は10月1日(木)に新川町から名古屋市陶生町へ向かっている。1931年10月の上旬、 継母コウが名代として依佐美村高棚を訪れた。翌年のタカ書簡の「未だ一面式もなく」「あ なたにお目に掛かりたい」が1931年に敦が義父・橋本辰次郎の面識を得ていないことを裏 付ける。 (1932.1.15 たか、敦あて、封筒なし) 新池の父[辰次郎]は未だ一面式もなく 4 4 4 4 4 4 4 4 ても、 あなたの事、非常に喜んでくれますの(中島タカ,2002b,p. 341) (1932.6.20 たか[名古屋市南区豊田町]、中島敦[東京市外駒沢町]あて)新池のお 父さん、あなたにお目に掛かりたい 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 と云ふておりました。とてもお逢ひしたいんですの、 でもお金が入りますから無理に居らつしやるの、いけないと思ひます(同,p. 346) ঢ়ᅺᅇᆧΗʹᏩర۾ޏᯚޏ 敦の橋本家あて先は愛知県碧海郡依佐美村字高棚新池で、番地はない。1931.11.25 敦(東 京市外駒澤町)の橋本辰次郎のあて封筒(田鍋,1989,p. 18)が残っている(図2)。正し くは碧海郡依佐美村大字 4 4 高棚字 4 新池である(角川,1991,p. 777)。 中島敦とタカの書簡には「高棚」でなく「新池」が頻出する。敦が新川町を訪れた翌月 1931.11.9 名古屋市の飯田方橋本たかあて書簡に「お前がまだ新池に居るのか、と思つて居 たよ」(中島敦,2002,p. 510)、1931.11.19敦あてタカ書簡に「新池の父も夕方お忙しいところ、 [名古屋市中区陶生町に]来て飯田兄様と相談の結果」(中島タカ,2002b,p. 335)とある。 村山(2002)には「昭和八年[1933]四月には愛知県の新池(現・安城市)のところに戻っ ていたタカは敦の長男となる桓を出産」(p. 108)とあるが、字「新池」が現・安城市である ことが理解できるのは安城市高棚町周辺の者であろう。
1933.5.21中島田口あて書簡同封の辰次郎誓書に「愛知県碧海郡新川町相生弐拾五番地現 住和田まさ 和田義次両名」「高棚井池一ノ廿九 橋本辰次郎」(中島敦,2002,p. 528)とある。 新池は通称で、正確には井池一ノ二九と考えられる。井池は新池の南西隣である。 図2 1931.11.25(消印[昭和]6.11.26/27) 橋本辰次郎あて中島敦書簡封筒 (田鍋,1989,p. 18)。あて先は「愛 知県碧海郡依佐美村字高棚新池」 で番地はない。 図3 帝国市町村地図刊行会(1937)『愛知県碧海郡 依佐美村土地宝典』p. 6。「大字高棚」図の[井 池]1‒29(中央右)は「字新池」(右上)との 境界の南西。現高棚町石亀の交差点「高棚茨池」 東80m。 帝国市町村地図刊行会(1937,p. 6 「大字高棚」)に同番地が確かめられる(図3)。東「字 石亀」、西「字茨池」で、3軒北東は「字新池」である。住所地記述を表2にまとめる。 表2.中島(橋本)タカ出生住所地記述
Table 2. Descriptions of the birthplace of Nakajima (Hashimoto) Taka
出典 表記 現表記 1931‒42 中島敦・タカ・橋本 辰次郎書簡(中島敦,2002他) 碧海郡依佐美村[大]字 高棚[字]新池 安城市高棚町新池/石亀 1933.5.21 橋本辰次郎書簡同封 誓書(中島敦,2002,p. 528) 碧海郡依佐美村[大]字 高棚[字]井池一ノ廿九 安城市高棚町石亀 (交差点「高棚茨池」東80m) 現安城市高棚町に新池・石亀・茨池はあるが、「井池1‒29」はない。現在の高棚町石亀で ある(2020.6.22安城市回答)。国道23号線交差点「高棚町新池南」「高棚町井池」間の交差点「高 棚茨池」東80m、デンソー高棚製作所と安城西中学校の中間にあたる。
ࢳᴰఌΗʹᏩరᜪץɁᄉ 図4 日新堂書店発行(c.1929‒33)対欧無線電信依佐美発信所絵はがき「欧無線電信依佐美発信所 ノ鉄塔」(河野和夫蔵)。高棚付近から北西(高須)に臨んだ鉄塔風景で、右[南東]の奇数 号鉄塔(遠方から1、3、5号塔;1号塔は現刈谷市立双葉小学校南隣)の南側の7号塔は写っ ていない。左側は遠方から2、4、6、8号塔である(2号塔は現依佐美送信所記念館記念 鉄塔場所)。1933年3月1日(火)に中島敦(23)が、また1942年8月9日(日)朝に中島敦(33)・ タカ(33)長男桓(9)、次男格(2)が眺めたであろう風景は東側奇数号鉄塔を右手に見る東(右 手)側後方の高棚字新池・井池からで、本図に近い。 敦が1933年依佐美村を訪れたと考える書簡を掲げる。 (1933.[3].2、中島敦、橋本タカあて、封筒なし)昨日[1933.3.1]は停車場迄 4 4 4 4 送つて くれて有難う。/お前が丈夫でゐてくれたことが、─それから、コロ〳〵、笑つてばか りゐたことが─何よりうれしかつた。新池のお父様にお目にかゝつた 4 4 4 4 4 4 4 こともうれしい。 (略)生まれる兒は、いゝ兒にしてやらう。(略)/(横浜に下宿し弟(ママ)、新池に 新聞を送り初めようと思つている)此の上も身体を大切にしてくれ。ころんだりするな よ。(停車場へきたときは、割に目立たなかつたね 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 )(中島敦2002,pp. 525‒526,丸括弧・ 「コロ〳〵」傍点原著) 「停車場」「新池のお父様にお目にかゝつた」「新池に新聞を」「割に目立たなかつたね」に
注目したい。タカは1932年8月桓を身ごもり(中島タカ,2002a,p. 226)、11月28日に名古 屋市南区豊田町の奉公先から新池に戻っている(中島タカ,2002b,p. 348)。敦は1933年3 月1日(火)に辰次郎に初めて会っている。タカは妊娠8カ月で、「停車場」は新池の最寄り、 書簡は世田谷発・新池あてのはずである。新池東4.5km に東海道線安城駅がある。刈谷駅は 西8km、岡崎駅は東8km で、現安城・刈谷駅間の三河安城駅(開業1988)・東刈谷駅(1966)・ 野田新町(2007)の開業前である。橋本(2002,p. 405)1935.11.30敦あて書簡に「安城乗 車発車時間の横浜着」とあり、「停車場」は安城駅と理解される。東京から豊橋駅まで5時 間の特急、豊橋―安城間は1時間の普通を利用したと考えられる(旅行案内社,1931.6,p. 48)。 図5 1933年6月長男桓と中島タカ(田 鍋,1981,p. 53)。生後2カ月の 長男と安城の写真館で撮影、敦に 郵送した。 図6 1940年8月頃の横浜市中区本郷自宅での家族 写真(田鍋,1981,p. 81)。左から橋本(毛受) テイ(貞)、中島タカ(膝に次男格)、長男桓、敦。 1933.[3].2書簡の検討はこれまでなされておらず(鷺,2002b; 郡司,1976)、1933年3月1 日訪問(あるいは前日泊か)は発見と考えられる。3月東京帝国大学文学部文学科卒業、4 月同大学院入学(鷺,2002b,p. 500)のあわただしい時期をぬって、橋下家に結婚のあいさ つをしたであろう。帰京する敦を身重なタカが安城駅まで見送った。辰次郎が同道したであ ろうか。長男が生まれても「金を送っただけで行かず」(鷺,2002b,p. 500)は冷淡に感じ られようが、桓誕生の2カ月前に訪問はあったのである。1928年建設の対欧無線電信局依 佐美送信(発信)所の250m 8基の鉄塔(図4)を目にしたであろうが、無線電信を敦は文 字にしていない。 「思い出すことなど」の桓誕生箇所を掲げる。 そのうち、[私は]出産のため[名古屋の泊りがけの働き先から]新池の父のところ
に帰って参りました。そして八年[1933]の四月二十八日、ちょうど主人の月給日に桓 が生まれました。主人は月給を送ってくれただけで来ません 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 でした。(略)。主人はここ に一回 4 4 来ただけで、横浜には連れて行こうとせず(中島タカ,2002a,p. 227) 「一回来た」というのは、本稿で明らかにした1933年3月1日に違いない。 結婚時期を分銅(2011,p. 153)は1931年、郡司(1976,p. 767)は1932年3月とし、鷺(2002b) は明示していない。 (1933.9下旬 中島敦、橋本たかあて、封筒なし)モウ届ケハ(略)スンダナドト言ツテ、 又コンナコトヲイフノハ面目ナイガ、コンドハ大丈夫ダ。(中島敦,2002,p. 530) (1933.10.14 横浜市中区山下町168 中島敦、愛知県碧海郡依佐美村字高棚新池 橋本 たかあて)もう橋本ぢやなかつたんだね。だが、橋本辰次郎様方とするのも面倒だから、 当分このまゝにしておく。/坊主の写真も見た。仲々面白い(?)。(同,p. 530) 婚姻届提出は1933年10月以後である。分銅(2011,p. 153)の根拠は桜田本郷町での出会い、 郡司(1976,p. 767)は名古屋で桓を身ごもった(中島タカ,2002a,p. 226)ことと思われる。 勝又(1993,pp. 450, 51)は入籍1933年12月11日、桓出生届出12月18日とするが、論拠明 示はない。「坊主の写真」は1933年9月の写真(田鍋,1981,p. 53)であろう。1933年6月 母子写真(図5)ともに安城町の写真館で撮影したとされる。1933年11月タカ・桓上京す るも東京で別居、1935年7月に横浜市中区本郷町に初めて敦と一家を構え(図6)、暮らす (鷺,2002b)。 ᕱᕹᪿȈȕɥɒȸɜǾɛȨɒɁՁȉ 敦は1941年6月∼42年3月、南洋庁内務部地方課国語編集書記としてパラオに赴任する (鷺,2002b)。敦書簡に「萬葉集を読んだ」と見える。 (1941.11.21中島敦[ロタ郵便局]、中島タカ[世田谷区世田谷]あて) 十一月十八日。 (略)甲板の寝椅子にひつくりかへつて萬葉集(日本で一番古い和歌の本だよ。千年以 上前)を読んだ。その中には、妻に分れて遠く旅する(或ひは戦に行く)者の歌や、あ とに残つた妻のよんだ歌が大変多いので、身につまされるよ。(中島敦,2002,p. 637)
1941.12.1付書簡に「岩波文庫の『サミュエル・ジョンソン傳』」(中島敦,2002,p. 647) とあり、「萬葉集」は佐佐木信綱編『白文万葉集』上下巻(岩波文庫,1929)と考えられる。 岩波文庫(1941)表記は「サミュエル・ヂョンスン」で、イングランドの文学者 Samuel Johnson(1709‒1784)の伝記である。11月18日記に「万葉集巻十八、十九を娯しみ読む」(中 島敦,2002,p. 481)とあり、翌年の書簡に「よさみの原」「碧海郡の依佐美」が見える。 1942.1.9(中島敦[パラオ郵便局]、中島タカ[世田谷区世田谷]あて) 萬葉集を読 んでゐたら、「あをみづら、よさみの原 4 4 4 4 4 」といふ言葉が出てきた。あをみといふのは碧 海(アヲミ)といふこと。だから、碧海郡の依佐美の原つぱ 4 4 4 4 4 4 4 、といふことになる。従つ て、お前や桓の生まれた所には、千年以上も前から碧海郡の依佐美 4 4 4 4 4 4 4 といふ名前のついて ゐたことが分る。之は一寸面白い発見だつたよ。(中島敦,2002,p. 661,傍線原著) 敦が目にしたであろう『新訓万葉集』巻七・旋頭歌「あをみづら」歌を掲げる。 一二八七 靑みづら依 よ さ み 網の原に人もあはぬかも石 いはばし 走り淡 あふ 海 み 縣 あがた の物がたりせむ ばしり或ばしの (略)柿本朝臣人麿の歌集に出でたり。 (佐佐木,1927,pp. 299‒301) 「ばしり或ばしの」は「石走」は「いはばしり」とも「いはばしの」とも読む、の意であ る。原文『白文万葉集』(佐佐木,1930,p. 305)は「青角髪 依網原 人相鴨 石走 淡海 縣 物語爲(略)柿本朝臣人麿之歌集出」で、ふりがな・注はない。「一二八七」は国歌大 観番号である。佐佐木(1927, 1930)に「依佐美」の言及はない。 1906年に成立し、1955年に刈谷市と安城市に吸収合した依佐美村の名は「万葉集の『青角髪 依網の原[略]』の歌に付会したもの」(刈谷市史,1993,p. 264)とされる。「青角髪 依網原」は、 契沖(1640‒1701)・本居宣長(1730‒1801)らが三河国碧海郡依網郷とし、賀茂真淵(1697‒1769) が河内国依羅郷・摂津国大依羅郷説を取って以来、300年以上たつも決着を見ていない(鈴 木,2000)。 敦は9年前の「小森林を存して独特の景観」と対欧無線電信鉄塔を思い起こしたであろう。 ࢳᴵఌȈི፷αɁᯚȗڳȉ 「山月記」「文字禍」が総題「古譚」で『文学界』1942年2月号に掲載された。「山月記」は「人
生は何事もなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」でも知られる。文 頭を掲げる。横浜学園附属元町幼稚園(元横浜高等女学校)に碑文(1975)がある。 隴ろう西せいの李徴は博学才さい穎えい、天宝の末年、若くして名を虎こ榜ぼうに連ね、ついで江こう南なん尉いに補せ られたが、性、狷 けん 介 かい 、自ら恃 たの むところ頗る厚く、賤 せん 吏 り に甘んずるを潔しとしなかった。 氷上「北新川行」の続きに「山月記」への言及がある。李徴は失意に虎となった主人公、 袁䎁は監察御史となった旧友である。 その[北新川で会った]恋人すなわち現在の未亡人は、いつか私に「山月記」の李徴 は中島で、袁䎁は氷上さんだと思っているといわれた。しかしそれはあたっていないと 私は思っている。(氷上,1978,p. 202) 「思い出すことなど」に「無線電信の高い塔」の記述があった。しかし「高い塔」が依佐 美送信所の8本の250鉄塔であることを理解することは一般には難しいであろう。 最初の原稿料 4 4 4 4 4 4 が入った時でしたか、夏休みになった[1942]七月 4 4 、揃って新池 4 4 に帰っ たことがあります。(略)主人は私と子供二人を残して一日だけで 4 4 4 4 4 東京へ帰って行きま した。その帰る日の朝 4 4 4 4 4 のこと、無線電信の高い塔 4 4 4 4 4 4 4 4 が立っている風景のなかで、主人が何 か近寄り難いような、遥かな人のように見えたのをはっきり覚えています。(中島タカ, 2002a,p. 229) 「最初の原稿料」は第一創作集『光と風と夢』(図8)である。「古潭」(狐憑・木乃伊・山 月記・文字禍)「斗南先生」「虎狩」「光と風と夢」から成る。奥付刊日は7月15日とあるが、「実 際の刊行は1カ月近く遅れて8月10日頃。ちなみに8月7日、朝日新聞一面に広告掲載」(鷺 2002b,p. 509)された。8月7日朝日新聞(東京版)一面の筑摩書房『光と風と夢』の広告 (図7)を掲げる。朝日新聞中部版(名古屋)や新愛知・名古屋新聞に広告は見られなかった。 8月7日は敦らが依佐美村に到着した日である。横浜―岡崎の急行は5時間である(鉄道 省,1942.11,p. 8)。安城駅東の日新堂書店に立ち寄ったであろうか。 「光と風と夢」は「ツシタラの死」(「ツシタラ」はサモア語で「物語の語り手」)の改題で、『文 学界』1942年5月号に掲載されていた(鷺 2002b,p. 508)。『宝島』(1883)『ジキル博士と ハイド氏』(1886)で知られる英国作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン(1850∼1894) のサモアでの晩年記である。
図7 1942.8.7朝日新聞(東京版)一面下段左の筑 摩書房新刊 中島敦創作集『光と風と夢』広 告。敦らが依佐美村高棚新池を訪れた当日の 掲載(中部版未掲載)。刊行は敦帰京の翌日、 8月10日頃。 図8 中島敦(1942)『光と風と夢』筑摩 書房表紙。https://page.auctions.yahoo. co.jp/jp/auction/m407694957 (2020. 5.1).「昭和十七年七月十五日 初版 発行」。実際刊行は8月10日頃。 『文学界』1942年2月号「古潭」、5月号「光と風と夢」の月刊誌掲載はあるが、『光と風と夢』 は初めての単行本である。実際の刊行日の8月10日に「私と子供二人を残して一日だけで 東京へ帰って行」き、書店に書籍を見たであろうことは自然な行動と思われる。 1942.8.6中島敦(世田谷)、田中西二(淀橋区)あてに「明七日から女房の郷里に一寸行 つてくるので、七日―九日迠は 4 4 4 4 4 4 不在」(中島敦,2002,p. 667)、また折原澄子(1985)に新 池訪問は「八月七∼九日」とある。「思い出すことなど」の「七月」は「八月」で、8月7 日(木)東京―依佐美、8日(金)依佐美、9日(土)依佐美―東京で、8日(金)を「一 日だけ」としたと考えられる。 「無線電信の高い塔が立っている風景」にあったのは8月9日(土)である。小垣江事務 所(1942.8.9)に「晴曇不明ノ天候、農家ノ雨ヲ待ツヤ切ナリ」と見える(同記事1933.3.1は「晴、 西風」)。無線電信の風景には、敦見立ての着物をまとったタカと新調の服を着た9歳の桓、 2歳の格の姿があった。敦の異母妹・折原澄子(1976)に次がある。 その年[1942]の夏休み 4 4 4 、兄は、結婚以来苦労のかけどおしで報いることのなかった 義姉に、初めて 4 4 4 の里帰りをさせた。兄は自分でデパートに出掛け、着物と帯を見立てて 買ってきた。値段を見て義姉はしきりに勿体ながった。普段おしゃれに縁のない義姉だっ たが、もともと美しい人、とてもよく似合った。子供二人にも新調の服を着せ、愛知県 の実家に連れて行ったのである。兄は仕事の都合 4 4 4 4 4 でか、間もなく[世田谷へ]帰ってき た。義姉の帰って来るまで、その間何日ぐらいだったか(略)、ある日、書き損じの原
稿などを行李一ぱい出して、「今日これを燃してくれ」といわれた。(略)仕方なく風呂 のたきつけにして燃してしまった。真夏とはいえ、風呂の水が相当にぬるむほどの量で あった。(略)義姉ならばたぶん泣いても止めたのだろう。私もとんでもないことをし たのかと、このことは義姉にもだまっていたように思う。(折原澄子,1976) 「仕事の都合」は、初の単行本『光と風と夢』刊行である。世田谷に戻ると敦は新池のタ カに書く。 (1942.8.11中島敦[世田谷区世田谷]、中島タカ[依佐美村高棚新池 橋本辰次郎方] あて)18‒19日頃にでも帰ればいいだらう。(略)[土屋の小母さんが]僕の本[光と風と夢] の広告を見て有隣堂へ行つたら、まだ来ていなかつたといふ。(中島敦2002,p. 667) タカらの新池滞在は8月18日までと考えられる。1942.8.13中島敦(世田谷)、川口直江(横 浜市中区)あてには「大分遅くなつたが、本、もう出た筈。有隣堂へでも行つて、御覧なさ い」(中島敦2002,p. 667)とある。川口は横浜高等女学校の教え子である。 「光と風と夢」は『文芸春秋』1942年9月号で第15回芥川賞候補となるが受賞に至らなかっ た。10月中旬から喘息の発作烈しく、11月に世田谷区の岡田病院に入院、12月4日、33歳 で早逝した(鷺,2002b,pp. 509‒10)。「小森林を存して独特の景観」にあった4カ月後であ る。「つききりで看護した」タカは「可哀そうに、可哀そうに」(折原,1976)と泣き伏した。 ˹ࡀʉɵˁՁ༎ފ 敦の没後、小学3年生の桓と2歳の格を連れて久喜町に疎開したタカは、空襲警報で防空 壕に持ち込むトランクに敦の遺稿を入れていたという(鳥海,2009)。またタカと隣組だっ たという冨澤(2009)に「中島敦夫人の想い出」がある。 昭和十八年(1943)頃、東京から疎開してこられた中島タカさんと始めて久喜に移り 住んだ私とは、同じ隣組で直ぐに何でも話し合う親しい間柄となりました。/タカさん は亡くなられた夫、敦氏のことを宝物のように胸にしまっておられ、何気ない会話の中 にも「おとうちゃまが、おとうちゃまが…。」と敦氏の思い出を語っておられました。 /(略)タカさんは、一見優しくロマンチスト風に見えましたが、反面、意外に逞しく 現実的・行動的な面をお持ちでした。/(略)御子息の結婚を機に浦和の地に移られて からは、純粋なキリストの福音に触れ、喜びと平安の中に余生を送られ、最後迄、夫へ の敬愛の念を持ちつつ、天にかえってゆかれました。(冨澤,2009,pp. 70‒71)
桓は早稲田大学を経て日本育英会に、格は東京工業大学を経て三井建設に勤務した(鷺, 2002a,p. 692)。在籍とすれば桓一年生時は1949年ごろであるが『刈谷高校同窓会会員名簿』 (2013)にはない。「疎開で一時刈谷中学に在学」(永田,1988,p. 193)で、卒業はなかった と考えられる。桓と同年1933年生まれの同窓生3人に伺ったが、証言は得られなかった3。 折原澄子は小説家・折原一(1951‒)の母である。折原一は『倒錯のロンド』(1989)『沈 黙の教室』(1995)で知られる。敦は伯父にあたる。 母の口癖は「兄さんがあと10年生きてくれていたら……」。太宰治、松本清張、大岡 昇平は同年(1909)生まれ。作家で食えない兄、その死後、窮乏する妻子を見ているの で、私が作家になると言った時は反対した。(折原一,2019.3.13) 「あと10年生きてくれていたら」を名声や経済的な功利的なものを想像していたが、折原 一(2020.7.13)に「戦後まで生きていたら、新薬が日本に入ってきて、喘息が治っていたの ではないか」を目にし、不明を恥じた。埼玉県久喜市の「敦が2歳から6歳までの幼少期を 過ごしたところ」には「中島敦ゆかりの地」の案内板が立っている(折原一,2020.7.13)。 ᏩԧշɁާڌ͍ 中島敦の33年の生涯は碧海依佐美村時代(1906‒55)に包含される。碧海郡安城町(1906‒52) は1924年ごろから「日本のデンマーク」と呼ばれていた(角川,1981,p. 125)。 愛知県知多郡半田町(現半田市)出身の新美南吉(1913‒43)は1938年4月に安城高等女 学校(現安城高校)に奉職、晩年までが南吉「安城時代」で、1942年5月に「花のき村と 盗人たち」を書き、10月には『おじいさんのランプ』が刊行された(安城市アンフォーレ課, n.d.,1‒2)。 敦の「『たとえ4、5人でも、おれの文章を読んでくれる人があれば、それでいい』といっ て亡くなった兄」(折原澄子,2002,pp. 222‒223)は、南吉の「たとい僕の肉体がほろびて も君達少数の人が(いくら少数にしろ)僕のことをながく憶えていて、美しいものを愛する 心を育てて行ってくれるなら、僕は君達のその心にいつまでも生きている」(1943.2.9教え子・ 佐薙好子あて葉書、新美南吉記念館)を彷彿させる。 「ごん狐」(『赤い鳥』1932年1月号初出)は1956年に大日本図書が小学4年生の国語科教 科書に採用、1980年からはすべての教科書に掲載され(新美南吉記念館)、「山月記」とと もに国民的教材となっている。敦と南吉はともに戦時下の作家である。敦が1942年に「日 本のデンマーク」看板の立つ安城駅に降り立ったとき、南吉は安城駅北の安城町新田出郷に 下宿していた。しかし敦と南吉の出会いはなかったであろう4。敦没の翌年、南吉も29歳で
没した。 ˹ࡀୡȻΗʹᏩర 明らかにされた事柄を表3にまとめよう。 敦は1931年10月1日に依佐美村を訪ねていない。訪問は碧海郡新川町で、依佐美に立ち 寄らず、タカを名古屋に連れて行った。継母が使者として依佐美村高棚の橋本家に赴いた。 タカの生家橋本家は通称愛知県碧海郡依佐美村高棚新池で、厳密には碧海郡依佐美村大字 高棚字井池一ノ廿九である。現安城市高棚町石亀である。 敦の依佐美村初めての訪問は1933年3月1日で長男桓誕生2カ月前である。安城駅を利 用してと考えられる。「月給を送ってくれただけ」はこのためである。 タカの妹・貞はタカが長女夭逝後健康を害した1937年と、赤子の次男 格 のぼる の世話のため 1940 年横浜市中区本郷の中島家に住み込んだ。貞は碧海郡知立町西中の毛受家に嫁した。 1942年1月、敦はパラオで万葉集「あをみづら、よさみの原」歌を読み、依佐美の名に 興味を抱いた。1933年の小森林との無線電信鉄塔の風景を思い起こしたであろう。 2度目最後の訪問は1942年8月7‒9日である。タカ回想に「高い塔が立っている風景」が ある。敦が妻子を残し発ったのは10日に初の創作集『光と風と夢』が書店に並ぶためである。 タカら依佐美村にいる間に横浜で敦原稿が燃された。敦が没したのはその4カ月後である。 表3.中島敦・依佐美村年表(*本稿発見)
Table 3. Timeline for the relationship between Nakajima Atsushi and Yosami Village
1931 10.1 敦、氷上英廣と碧海郡新川町* に橋本タカ訪ね、タカ姉嫁ぎ先名古屋市陶生町飯 田宅に送る。 10 上旬 継母コウ、敦の名代として、依佐美村大字高棚字新池の橋本辰次郎家を訪問。 1933 3.1 敦、依佐美村大字高棚字新池[井池]* にタカ見舞い、初めて橋本辰次郎に会う。* 晴、西風(小垣江、1933.3.1)。* 4.28 長男 桓たけし、依佐美村で生。 10 または12 婚姻届*。 11. 中島タカ・桓、上京。 1937 1.11 長女正子誕生するも生後3日死亡でタカ健康害し、貞、横浜市中区本郷の中島家 に同居。 1940 1.31 次男 格のぼる誕生、赤子世話のため、貞、横浜市中区本郷の中島家に同居。* 1942 1.9 敦、パラオで萬葉集「あをみづら、よさみの原」歌で依佐美村を思う。* 8.7‒18 敦(早めに帰京)・タカ・桓・格、依佐美に里帰り。 8.9 晴曇不明ノ天候(小垣江、1942.8.9)。敦のみ『光と風と夢』筑摩書房刊行に合わ せ帰京。* 8.10‒18 敦の指示により、折原澄子、敦の原稿焼却。
2019年3月2日‒5月19日、依佐美送信所記念館で開催された依佐美送信所竣工九十周年 展示で筆者は「書物で訪ねる依佐美送信所」展示(鈴木,2020)を担当、依佐美村と中島敦・ タカとの関係を紹介した。「山月記」に親しんだ若い世代が、敦と依佐美村の関係に興味を 示した。 冒頭の荒井(2011,p. 41)は「[産業技術とは異なる中島敦と依佐美の関係を]文化の別 の側面として調べていただいて(略)記念館の脇にでも、中島敦の本があれば」と締めくくる。 記念館に置くとすれば、依佐美村訪問時に刊行された『光と風と夢』(1942)と中島タカ「思 い出すことなど」所収の田鍋幸信編『中島敦・光と影』(1989)がふさわしい。 中島敦の「最大の讃美者で、献身的な愛情を注いだ」(折原澄子,2002,p. 222)タカが依 佐美村高棚の出身で、敦が2度、250m 8本の無線電信鉄塔の風景にあったことを伝えたい。 ពǽᢷ 課題を提示された荒井英輔名古屋工業大学名誉教授と、60年も前に中島敦と依佐美村との関係 を調べられ、生前、著書『城と桜』(中部日本教育文化会,1988)恵贈により課題解決示唆をくださっ た故永田友市元愛知淑徳大学教授に感謝する。英文概要について四日市大学・愛知学院大学講師の David Dykes 先生にご助言をいただいた。また2020年9月13日刈谷市郷土文化研究会談話会「中島 敦が依佐美村を訪れた日」(刈谷市中央図書館大会議室)で15人もの方からご意見ご感想をいただ き、本稿修正の資とさせていた。併せてお礼申し上げる。 า 1 依佐美村大字高須山ノ田一番地(現刈谷市高須町山ノ田一番地)。跡地は2013年に電気興業依 佐美太陽光発電所(メガソーラー)となった。2007年開園のフローラルガーデンよさみは西 隣地である。 2 誤って北西方向(高須)から南東(高棚)に望んだ文部省(1929)『尋常小学地理書 巻一』「名 古屋無線電信局の送信所」図(p. 79)を掲げた。 3 2020.9.13 刈谷市中央図書館で開催された刈谷市郷土文化研究会2020年度第3回談話会(参加 者46人)で本稿骨子を「中島敦が依佐美村を訪れた日」の演題の下、お話しした。 4 南吉は1933.1.10‒3.3東京に在学中、1942.8.6‒17は長野方面に旅行中である(新美南吉,1983, pp. 151‒60, 418‒19)。 ऀႊ୫စ
Kodansha Ltd. (1993). Japan: An Illustrated Encyclopedia, Tokyo: Kodansha Ltd.
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