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〈実践・事例報告〉指導者としての成長― 自らのライフヒストリーの振り返り ―

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Academic year: 2021

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近畿大学生物理工学部  〒 649-6493 和歌山県紀の川市西三谷 930

General Education Division, Faculty of Biology-Oriented Science and Technology Kindai University 930 Nishimitani, Kinokawa City, Wakayama, Japan, 649-6493

連絡先:橋本剛幸 ✉hasimoto@waka.kindai.ac.jp

指導者としての成長

― 自らのライフヒストリーの振り返り ―

橋本剛幸

Growth as a sports coach − Review of life history of one s own −

Yoshiyuki Hashimoto 1.はじめに  「教師のライフコース研究は教師の生き方の軌 跡を辿り、教師としての入職・成長・転機、実践 スタイルの形成、それを枠づける教育政策・教育 運動、社会的歴史的背景を、個人として集団とし て相対的に把握しようとするものである。これ はライフコース、ライフヒストリー、ライフス トーリーといくつかの潮流を形成しながら、教師 教育研究の広がりと深さをもたらしてきた」(大 脇、2018)。教師が日々の忙しい生活の中で、自 分の過去の教育実践を振り返ることは、そう容易 にできるものではない。ただ、問題に立ち向かっ たり、超えることが困難な壁を感じた時、自分の やってきたことが正しかったかどうかという振り 返りは常に行われていることであろう。その振り 返りを、もう少し長いスパンでとらえ、自分なり の教師としてあり方を見つめなおすことは、その 後の自分自身の教師としての成長につながること になるであろう。「多くの教師たちは日々の教育 実践に対する省察をもとに、自らの教師としての アイデンティティ、すなわち存在証明を模索して いる。(中略)教師のアイデンティティに注目し た一連の事例研究は、教師は教育実践における 様々な経験を通して教師になるということ、そし て一般的には否定的にとらえられがちな危機的な 出来事との対峙こそ教師を最も深いところから支 えるアイデンティティを再構築するきっかけにな ること、さらには教師の専門的成長にとって同僚 性の構築や子どもたちからの学びが決定的である こと、を示唆している」(高井良、2015)。筆者は 過去 27 年間、中学校、高等学校の保健体育の教 員として学校現場で生徒たちと接してきた。自身 のそのライフヒストリーを振り返り、学校におけ る教員としての立場とクラブ指導の中の指導者と しての立場に分け、特に本稿では指導者の立場に 着目して、指導者としての成長に対してその支障 となるものや契機について、今後につなげるため の考察を行いたい。 2.研究方法  本稿では、筆者自身の生い立ちから中学校、高 等学校の教員時代までの 50 年間(昭和 38 年∼平 成 26 年)の振り返りの中で、特にクラブの指導 者としての内容をライフヒストリーとしてまと め、その中での指導者としての在り方の形成や指 導者としての成長にかかわる観点について考察を 加える。なお、叙述にあたっては、個人名、学校 名はすべて仮名とした。

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3.陸上競技との出会いとその指導者への歩み ―自らのライフヒストリー― ①幼少期  1963 年(昭和 38 年)、筆者は中小企業のサラ リーマンの父親と専業主婦の母親の長男として大 阪府堺市で生を受けている。2 歳上の姉と 4 人家 族、堺市の公団住宅で小学校低学年まで生活をし ていた。姉は校区の公立小学校に通っていたが、 筆者は母の強い希望により、大阪市にある国立大 学の附属小学校に通っていた。電車に乗り 30 分 程度の道のりを通っていたため、居住地付近の友 人はいなかった。その後、小学校 4 年生の時に、 一戸建ての自宅を購入し、狭山町(現在の大阪狭 山市)へ転居することになる。家が大きくなり、 自分の部屋ができた喜びは大きかったが、小学校 へ通うのが遠くなり、バスと電車を乗り継ぎ 1 時 間程度の道のりになってしまった。ただ、姉は転 校をすることになり、友人ができるかなどの心配 をしていたようだが、筆者にはその不安などは 一切なく、変わらず学校生活は楽しく過ごした。 その後も中学校、高等学校とその附属学校で過ご したため、友人関係で苦労をした経験がほとんど なく、その当時の友人関係が長く現在まで続いて いる。  スポーツとの出会いは、小学校 1 年生の担任が 柔道を放課後に児童対象に指導をしていたため、 その中に入って活動をしたのがスタートである。 当時はつらい思い出が多く、特に寒げいこで朝早 くに寒い中、小学校へ行った記憶が今でも残って いる。スポーツのスタートとしてはあまりよい記 憶ではない。その後その先生も転勤され、すぐに やめてしまっている。父親は野球が好きで、おそ らく自分の子に野球をさせたかったのではないか と思われるが、通学のこともあり、少年野球など 地域のスポーツ活動に参加することはなかった。 ただ、日曜日など自宅の庭でキャッチボールを父 親とやっていた記憶は今でも残っている。人より 少し肩が強くなったのはその頃の経験が影響して いるのではないかと自分では思っている。小学校 3,4 年生の担任であった木村淳也先生、5,6 年 生位の担任であった島本和夫先生がともにソフト ボールが好きで、小学校高学年では、毎日放課後 にはソフトボールをしていた。その経験により、 スポーツが好きになったのであろうと考えてい る。また、5,6 年生では、校内の陸上競技大会 のようなものがあり、走高跳で優勝をしている。 これが陸上競技との出会いとなっている。小学校 高学年の先生との出会いが、スポーツとのつなが りを作ってくれ、教員になりたいと希望を持つ きっかけにもなっている。 ②中学校・高等学校時代  中学校に入学し、クラブ活動は体育系クラブと は決めていたが、どのクラブに入部しようかは最 後まで迷っている。陸上競技部が最有力ではあっ たが、友達がサッカーやバスケットボール、剣道 と決めていく中、どのクラブにしようか本当に悩 んでいた。最終的に決め手になったのは、陸上競 技部を見学に行ったときに棒高跳を見たことで あった。当初から陸上競技部なら走高跳をしたい という気持ちがあったのだが、それよりも高く飛 べる棒高跳を見て、入部することを決心した。以 後、大学卒業まで 11 年間の付き合いとなった。 当時陸上競技部は、他のクラブと異なり、種目に よっては中学生と高校生が一緒に活動をしてい た。棒高跳では、中学 1 年生入部当時、高校 3 年 生に大木康という強い先輩がいて、少しの期間で あったが、その練習を見ることができた。大木先 輩は、中学大阪記録、高校大阪記録を樹立し、イ ンターハイや国体に出場し、入賞していた憧れの 存在であった。また、その他にも多くの実力を 持った先輩がおり、大阪の中では、この学校の棒 高跳は少し有名であった。そのクラブを指導され ていたのが山村正雄先生である。もともと山村先 生は円盤投が専門で、棒高跳が専門ではなかった のだが、この学校に赴任当時から棒高跳をやりた いという生徒がいて、その指導のために自分の大 学時代の後輩で棒高跳専門の先生の所へ連れて いって練習をするということをやっていた。その 生徒たちが強くなり、その後も棒高跳をめざす生 徒が続いていた。生徒が続くことで伝統が引き継

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がれていったわけで、山村先生はよく「棒高跳び はファミリー、だからつながりが強く、いい選手 が育っている」といっていた。実は、この言葉が 筆者のこの後の指導者としての大切な考えになっ ている。こうして中学・高校時代、棒高跳に没頭 した生活を送るが、残念ながらあと一歩のところ で全国大会への出場を逃している。特に高校 3 年 生では、大阪府予選が修学旅行と重なり、どちら かを選択しなければいけない状況で、修学旅行へ は行かず、競技を選択したのだが、ケガのため全 国インターハイへは行けていない。この挫折はそ の後に大きく影響を及ぼしている。  棒高跳を専門として取り組んではいたが、投擲 種目、特にやり投には強い興味を持ち、棒高跳の 練習の合間によく投げていた。試合等にも何度か 出場しているが、成績はそれほどでもなかった。 ただ、幼いころに父親とキャッチボールをしてい たこともあり、比較的コツをつかむのは早かった ように記憶している。  ここで、中学校、高等学校の校風について触れ ておきたい。中高 6 年一貫の進学校と外部からは みられてはいたが、決して大学受験のために勉強 ばかりをしている学校ではなかった。どちらかと いえば生徒本人の自覚に任された学校である。特 に高等学校は自由な校風で、驚くことに定期試験 の際に試験監督がいない。カンニングをしたとこ ろで誰のためにもならないという考えからである が、その考え方が生徒全員にしっかりと理解され ている。行事も生徒の自主性に任されて企画、運 営され、自由な発想で取り組むことができる。特 に校則らしいものもなかったように記憶してい る。この環境での高校時代が、後の教員生活の中 でも影響を及ぼしているように感じている。 ③浪人、大学時代  クラブ活動ばかりの 6 年間を過ごし、勉強らし い勉強もしていなかったため、大学受験には失敗 している。進学については、高校 2 年生ぐらいか ら、小学校時代の二人の先生、そして山村先生の ような指導者にあこがれ、体育の教員を目指そう と考え始めていた。ただ、周りの友人は医学部志 望が多い環境であり、少しは夢見たこともあった が、クラブをやっていた友人も途中でやめて勉強 をやり始めており、最後までクラブに没頭し、勉 強などしてこなかった自分には到底無理だろうと 考えていた。中にはクラブを最後まで続けて現役 で医学部へ入った友人もいたが、筆者にはそんな 才能もなかった。ただ、両親からは経済的に私立 の大学は無理だと言われていたため、国立である 高峰大学を目指すことになる。高校 2 年生の頃、 ある新聞記事で、陸上の有名高校選手が推薦で高 峰大学に入った記事を読み、興味を持って調べ ると、日本でスポーツの研究ではトップであり、 一流選手を多数輩出し、指導者養成についても実 績があることを知り、ここしかないと考えたわけ である。しかしながら、全国大会も出ていないた め、当然推薦では受験できず、一般入試で当時の 共通一次試験を受けて受験をするが、不合格とな り浪人することになる。浪人すると、2 次試験で 実技があるため不利になることや、母親が理系の 学部を強く望んだこともあり、一時は理系の大学 を目指し始めた。しかしながら、夏ころになると どうしても体育の教員という気持ちが強くなり、 母親を説得し、受験、なんとか合格することがで きた。  大学では、自分のやりたいことが学べるという 気持ちが強く、授業は本当に楽しかった。教室で は、後ろの方に座ろうとする友人が多い中、でき る限り前の方に座り、ノートをしっかりとって授 業を聞き、テストの前には友人に内容を説明する 立場になっていた。浪人中に理系の勉強をしてい たことも影響しており、体育・スポーツの学びの 中で、理系分野、文系分野を問わず、苦にならず に学べたことも大きかった。クラブについては、 入学当時は陸上競技以外のクラブも考えたが、結 局陸上競技部に入部した。入ってみると周りは日 本のトップアスリートの有名人ばかり、驚きの連 続であった。自分自身の競技では挫折の連続で、 次第にモチベーションも低下していった。一時、 棒高跳や高校時代に少しやっていたやり投を生か して 10 種競技への転向も考え、何度か記録会な どに参加したが、続けるまでには至らなかった。

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この時期、時を同じくして実家の経済的な問題が 生じ、アルバイトをする必要に迫られ、それを優 先するあまりクラブへ行かなくなり、コーチや先 輩から退部勧告を受けるほどになった。同級生の 部員や先輩の励ましもあり、何とか最後、陸上競 技部員として卒業することができている。このク ラブでの経験が後の指導者として大きな影響を及 ぼしており、励ましてくれた先輩や友人が指導者 として全国的なつながりの原点になっている。大 学院への進学の強い希望もあったが、経済的な理 由で進学をあきらめ、大阪で教員をするため実家 に戻ることになる。  ここで一つ触れておきたいのが体罰についてで ある。当時は中学校、高等学校、大学において、 特にクラブ活動では体罰が行われているとよく見 聞きしていた。ところが筆者の過去の経験の中に はそれが存在していない。中学校、高等学校、大 学のいずれにおいても経験がないことはその時代 において稀なことかもしれないが、本当に学校、 指導者、先輩に恵まれていたということである。 中学校、高等学校、大学のいずれの学校も自主性 を重んじる校風があり、指導者や先輩から強制的 に何かをさせられるということがなかった。その 環境の中では体罰も暴力もなく、本当に良い学生 時代を過ごしてきたと感じている。 ④大阪・奈良、教員時代  1987 年(昭和 62 年)、奈良市にある実家に 戻っている。大学在学中に両親の経済的な理由で 大阪狭山市にあった自宅を手放し、奈良市に引っ 越しをしていた。ただ、教員の採用試験は大阪府 を受験したが、当時、保健体育の教員採用は非常 に狭き門であり、不合格になっている。不合格の 連絡を恩師である山村先生にしたところ、母校の 中学校で欠員があり、1 年間だけなら非常勤講師 ができるということで、1 年間恩師のそばで教員 生活ができたのである。自分がその先生にあこが れてめざした教師への道であったため、その 1 年 間は学ぶことが多く、本当に充実した 1 年間で あった。身分的には 1 年間の期限付きの非常勤講 師ということで、経済的にも精神的にも安定した ものではなかったが、毎日が教育実習のような緊 張感と、後輩を指導できるクラブ指導は、以後の 教師としての成長に大きく影響している。「新任 校は教員としての土台をつくる」(田中、2016)と 言われるが、まさに教員としても指導者としても 現在の土台となっている。次年度の教員採用試験 は、競争率の高い大阪府を避け、実家のある奈良 県で受験をするがやはり不合格となる。奈良県で の教員採用試験を受けていくには、奈良で講師 をするほうが良いだろうという考えで、1988 年 度(昭和 63 年)は奈良県で講師登録を行ってい る。この年、4 月から 8 月までは県立特別教育学 校で常勤講師、9 月から翌年 3 月までは岳陰高等 学校で常勤講師を務めている。県立特別教育学校 では、障害者スポーツとの出会いがあり、短い期 間であったが教育の原点ともいうべき学びがあっ た。岳陰高等学校では、山間部の公立高校という ことで、生徒も多様で、授業を行う上で苦労する ことも多かったが、また違った学びがあった。た だ、この 2 つの学校においてはクラブの指導がで きず、やや残念な 1 年間でもあった。講師も 2 年 目となり、奈良県の教員採用試験のほか、関西の 私立学校の教員採用試験も多数受験し、紀州大学 附属中・高等学校への採用が決定した。 ⑤和歌山、教員時代  1989 年(平成元年)、和歌山での生活がスター トする。結果として現在まで 30 年間和歌山県に 住むこととなり、人生の半分以上の年数を和歌山 県で過ごしている。赴任した学校は、進学校を目 指し、1983 年(昭和 58 年)に開校した 6 年目の 新しい中高 6 年一貫校であった。自分自身が中高 6 年一貫校出身であることや、進学だけでなくク ラブ活動にも力を入れている学校であったため、 理想的な学校で仕事ができる喜びの日々であっ た。また、この学校には田村啓介先生が在職され ていたことも楽しみである一つの要因であった。 田村先生はその学校の教員として指導しながら 陸上競技の選手としても活躍し、1985、1986 年 (昭和 60、61 年)に走高跳で日本選手権大会に優 勝していた。大阪府出身で高校時代から有名人で

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あった。そんな先生と一緒に仕事ができるという 期待感があった。クラブ指導では田村先生と種目 を分担し、棒高跳と投擲種目を担当し、それ以外 を田村先生が担当して指導を行った。大学時代、 短期間ではあるが 10 種競技を行い、投擲種目に 興味があったことが幸いしている。  棒高跳で初めて指導したのが立川圭太である。 当時中学 2 年生であった立川は、背が高く少しや せてひょろっとした印象であった。田村先生に棒 高跳専門の先生が来たと聞いていたらしく、赴任 早々に「棒高跳を教えてください。」と言いに来 たことを今も覚えている。当時、マットもポール もボックスもない状況であったが、砂場に穴を掘 り、大阪の母校からもう使っていない、当時筆者 が使っていたポールをもらってきて指導をスター トした。練習を始めるともう一人やりたいと言っ てきたのが、立川と同級生で友人の太田和弘であ る。走高跳の古いマットを寄せ集め、県営の競技 場から古いボックスを譲ってもらうなどして、少 しずつ用具を集め、練習環境を整えた。近畿大会 にも出場し、太田は 4m10 を跳び、本校初の 4m ボルターとなった。以後、「棒高跳ファミリー」 は増え、2014 年(平成 26 年)の退職までに男子 22 名、女子 8 名、合計 30 名になった。その間、 男子では、長谷川剛 (山梨インターハイ)、相川 翔太 (神奈川国体)、森裕也(山形全中)、渡辺良 平 (長崎インターハイ 9 位)、平田将司(奈良イ ンターハイ 12 位、新潟国体)の 5 名が、女子で は、榎本早紀子(神奈川国体、熊本国体、富山国 体、宮城国体 10 位、日本ジュニア大会 8 位)、榎 本友梨佳(高知国体、静岡国体)、久保真理(兵 庫国体 7 位)、本田美香(千葉国体 9 位)の 4 名 が全国大会に出場し、森裕也は当時の和歌山県 中学記録(4m10)、榎本早紀子は当時の和歌山県 記録(3m35)を樹立している。また、相川翔太、 藤本保志、久保真理、野村早百合、平田将司の 5 名が卒業後も大学で棒高跳を続け、藤本保志は 当時の和歌山県記録(5m03)を樹立、本校初の 5m ボルターになっている。相川翔太は大学卒業 後、母校の教員として戻り、筆者の後任の指導者 として、「棒高跳ファミリー」を引き継いでいる。 投擲種目においても 辻村浩太(青森インターハ イ)、永山隆二(新潟インターハイ)がハンマー 投で出場している。二人はともに、大学進学後も 競技を続けている。  これらの輝かしい成績は、確かに指導者として 好調な時期といえるかもしれない。しかしなが ら、その間にはやはり好調、不調の波があった。 例えば相川翔太、その次の年の藤本保志は 2 名と も全国インターハイの出場を逃している。この失 敗は、指導者である筆者に大いに責任があると当 時は考えていた。相川は和歌山県大会で大会新を 跳び優勝、ランキング 1 位で近畿大会に進んでい る。近畿大会 6 位までが全国大会出場から考えれ ば、問題なく全国大会に出場するはずであった が、直前に膝をケガして敗退した。藤本について も 6 位に入る力を十分持ちながら、7 位という結 果に終わった。筆者もケガで全国大会を逃してお り、そのアドバイスを十分できたはずなのに同じ 失敗を生徒たちにさせてしまったことになる。こ の時の落ち込みは本当に大きかったが、助けてく れたのが他の府県の指導者だった。やはり過去に 同じ失敗の経験を持つ指導者からの励ましは力に なり、もう一度、一から取り組む気持ちができた ことを覚えている。その後に活躍した、渡辺と平 田は中学までは他校で棒高跳をしていたが、指導 を受けたいと本校を希望して入学してきた生徒で ある。このような生徒たちとの出会いもモチベー ションを上げる要因になっている。榎本早紀子、 榎本友梨佳は姉妹で棒高跳を行い、榎本家として は 6 年連続で国体出場したことになる。保護者の 理解があっての結果であり、指導者として感謝の 一言である。特に姉の早紀子は、当時まだ女子の 棒高跳がそれほど行われていなかった中で、かな り勇気のいる決断であったに違いない。またそれ を見て、妹の友梨佳も中学で行っていた体操競技 をやめて棒高跳を始めている。このような出会い もまた、指導者として喜ばしい出来事であった。  大学へ進学しても競技を続けている生徒がいる ことも、競技の楽しさを感じてくれたという意味 で、指導者冥利に尽きることである。ハンマー投 の辻村は、筆者が中学 1 年生の担任であった。母

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親が陸上競技をやっていたと三者面談の際に聞 き、本人に入部を勧めたのがきっかけである。母 親からの遺伝であろうと思われる背の高い生徒 で、すぐに投擲種目を進め、中学 3 年生の終わり ごろからハンマー投をやり始めた。筆者の経験の ない種目であるため、ともに勉強しながらやって きた感じである。大学時代の先輩など、専門の指 導者にも見てもらいながら指導したことは、筆者 の恩師がやっていたことがきっかけになってい る。放課後は投げるのが危険であるため、早朝の 人のいないグランドで一人黙々と投げていたのが 今も印象に残っている。その結果、全国大会に出 場したことは本当に喜ばしい出来事であった。ま た、その後も競技を続けるため、筆者の母校であ る高峰大学へ進学したこともまた指導者として誇 らしいことであった。そのあとなかなか投擲では 結果が出ず、学校としては不調な時期が続いた が、永山が同じくハンマー投で全国出場を決めた ことは、先輩のやり方を引き継いだ伝統ともいう べき出来事である。永山も辻村と同じく他校の指 導者との出会いにも恵まれ、早朝の投擲練習を毎 日続け、結果を出している。  田村先生と二人でクラブ指導を行ってきたが、 その間に指導法などで対立することはほとんどな かった。二人とも生徒を自分の型にはめようとせ ず、生徒の自主性を尊重して指導をするスタイル であったことがその理由である。逆に厳しさがな く、強い選手が育たないとの意見を外部から聞く ことはあったが、やるのは生徒自身であるという 考えから、変えることはなかった。これには筆者 が育ってきた環境が大きく影響をしていると思わ れる。ただ、やる気がない生徒に対しては、退部 を促して、突き放すことは行ってきた。つまり、 クビにしてやる気を起こさせる指導である。それ でももう一度やりたいという気持ちが強ければ、 戻ってきて結果を出した生徒は多い。この指導 は、筆者自身の中学、高校、大学の経験から身に ついてきたものであろう。積極的に外部の指導者 に見てもらうこともここからきており、生徒が後 に混乱しないようにアドバイスすることで成長す る生徒も多かった。多くの陸上競技の指導者との 出会いがあったが、大きく分けると二つに分ける ことができるだろう。生徒を自分の型にはめ込む タイプの指導者と、大きな枠の中で比較的自由に 生徒のやり方を尊重してアドバイスをする指導者 である。前者の場合、指導者のカリスマ性が必要 で、その練習をこなせば強くなると信じて行うた め、集団として統制が取れ、その練習が合えば結 果も短期間で出せるのかもしれない。ただ、囲い 込みが強くなると他からの指導を許さず、生徒を 他の練習会などに出さないこともある。体罰が行 われるのもこのタイプに多いと考えられる。どち らが良いとも言えないが、多くはその指導者の経 験が影響していると思われる。  こうして 25 年間、陸上競技の指導者として過 ごしてきたが、とにかく多くの人たちとの出会い が一番の財産である。よき理解者でもある同僚の 教師、失敗したときに励ましてくれた指導者仲 間、指導している生徒を共に指導してくれた先 輩、後輩の指導者、競技に対して理解してくれた 保護者、そして一番の出会いはいろいろなことを 学ばせてくれた生徒たちである。 ⑥まとめ  筆者の指導者としてのライフヒストリーをまと めると次のような経緯となる。比較的恵まれた環 境の中で生まれ、母親の強い希望で遠距離の通学 を余儀なくされた小学校へ通うことになるが、そ れがその後の自由な校風の中学校、高等学校へと つながっている。遠距離通学のため自宅地域での 友人との遊びやスポーツ活動はできなかったが、 父親との休日のキャッチボールや小学校での放課 後のソフトボール、陸上競技大会などでスポーツ の楽しさに触れる良い体験をしている。中学、高 校時代は、自由な校風の下、その後一生共にする こととなる陸上競技との出会い、素晴らしい指導 者との出会いがあり、競技面では挫折を味わう が、指導者を志すこととなる。浪人期を経て希望 の大学へ進学し、より指導者の道へ進む気持ちを 強くするが、競技者としては更なる挫折を感じ、 同級生や先輩の助けを得て、陸上競技部員として 卒業を迎える。大学卒業後、採用試験の不合格、

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2 年間の講師生活を経て、私立の中高 6 年一貫校 へ採用され、クラブ活動も盛んな理想的な学校で 指導者としての本格的な日常が始まる。多くの生 徒との出会いの中で、好調、不調の波がありなが らも、自身の体験の中で身に付けた、生徒の自主 性を重んじた指導を行い、数多くの全国大会出場 者を輩出した。時には自分と同じ失敗を経験させ たことへの後悔なども感じ、多くの失敗もしてき たが、そのたびごとに理解ある保護者、励まして くれた他校の指導者など周りの人々との出会いに 助けられて、2014 年(平成 26 年)、25 年間の紀 州大学附属中・高等学校の指導者としての生活を 終えている。  『教職アイデンティティを、より分かりやすい 言葉で言い換えるならば、「教師としての存在証 明」ということもできるだろう。この「教師とし ての存在証明」は、教育行政や管理職、市民、保 護者、子どもといった他者に対する存在証明の みならず、自らに対する存在証明も含んでいる。 「教師としての存在証明」の問い、すなわち「何 をもってあなたは教師であると言えるのか」とい う問いに向き合うことは、厳しいことである。し かしながら、教師がその仕事を全うするためには 避けて通ることのできない問である』(高井良、 2018)。本稿でこれを置き換えるとすれば、「指導 者アイデンティティ」ということになるだろう。 陸上競技と出会い、夢を追いかけて過ごしてきた 経験を、指導者として同じ夢を追いかける生徒た ちに伝え、失敗と成功を繰り返しながら、時に保 護者や他の指導者に助けられながら、そしてその 生徒たちからも多くのことを学び、ともに同じ夢 を追いかけることができた。それが筆者にとって の「指導者アイデンティティ」と言えるだろう。 4.終わりに  ここまで、自らのライフヒストリーの中で、指 導者をめざすきっかけ、指導者としての成長、生 徒や保護者、他校の指導者との出会いなどに関わ る叙述をしてきたが、内容について検討を加え、 今後の課題について明らかにしたい。  1980 年代後半から 1990 年代初頭にかけ、日本 は「バブル時代」と呼ばれ、好景気の時期であっ た。筆者の大学時代から卒業当時がその時期にあ たるが、就職については好調な時期であった。し かしながら、教員の採用については、それまでの 時代に多く採用者を出しており、厳しい時代にあ たり、公立学校の採用試験は倍率が高く、なかな か教員になれない時期であった。これが現在の教 員の年齢構成のいびつさを引き起こしている。そ のような中で教員を目指し、採用された教員は熱 心で、教科指導やクラス経営、クラブ指導にも 一生懸命取り組んでいたように思われる。しか し、その指導が行き過ぎることで、体罰などに発 展することも少なくなかった。その一要因とし て、教員や指導者としてのアイデンティティを確 立していく過程において、自らの育ってきた経験 が大きく影響していることが考えられる。もちろ んすべての教員、指導者がそうではないだろう が、例えば自分自身がスポーツに取り組んできた 中で、体罰やそれに近い厳しい指導を受けて来た かどうかが、その指導法に影響している指導者 は非常に多いと考える。また、選手としての成 功、失敗の体験や様々な人たちとの出会いも大き な影響を及ぼしている。これは、指導者となって からも同様で、指導者としての成功、失敗体験、 様々な人たちとの出会いも「指導者アイデンティ ティ」形成の一つの要因であろう。  1 つのライフヒストリーから指導者の成長につ いて考えてきたが、もちろんこれがすべてではな く、今後このような指導者としてのライフヒスト リーを多く検討していくことが必要であろう。今 回は、自身のライフヒストリーであるため、語り を通してではなく、文章化することにより振り返 りを行ったが、他の指導者のライフヒストリーを 検討していくには、その指導者の語りが必要とな る。つまり、指導者のライフストーリーとして語 られたものを、聴く側が感じ取り、聴く側自身の 指導者としての考えを持ちながら紡ぎあげてい くことが必要である。「ライフストーリー・イン タビューで語られる話は、過去の物語であるとと もに、今ここで語られるという意味で、現在の物

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語でもある。さらには、語り手の物語であるとと もに、聴き手との相互作用の中で生み出されると いう意味で、協働の物語である」(高井良、2015)。 その意味で、本稿の自身のライフヒストリーの振 り返りは、今後の研究につなげていくためのス タートに過ぎない。自身のライフヒストリーの振 り返りは、これからライフストーリー・インタ ビューで語られたものを指導者のライフヒスト リーとして検討していくために、聴き手として指 導者の在り方のベースとして必要なものと考えて いる。「ライフヒストリー研究は、過去の事実や 経験を明らかにするために、語りの内容に注目し てきた。これは、ライフサイクル研究も、ライフ コース研究も同じであり、教師のキャリアと時代 経験を明らかにするために、語りの内容に注目 し、これらを研究の成果として示してきた。これ に対して、ライフストーリーは、経験の編集の枠 組みを明らかにするために、語りの形式に注目し ている。経験の編集の枠組みとは、人が対象世界 を捉える枠組みであり、アイデンティティと深く かかわっているものである」(高井良、2018)。今 後さらに多くの指導者から語られる物語を、「指 導者アイデンティティ」の形成と指導者の成長に ついて検討を加えるため、ライフストーリー研 究、ライフヒストリー研究を進めていきたい。 5.引用・参考文献 大脇康弘(2018)教師のライフコース研究への挑 戦―教育実践の山脈をつなぐ―、スクールリー ダー研究、11、1-2. 高井良健一著(2015)教師のライフストーリー ―高校教師の中年期の危機と再生―、勁草書 房、東京都、p.48-50, p.76. 高井良健一(2018)「教師のライフストーリー研 究」の射程、スクールリーダー研究、11、5-15. 田中滿公子(2016)教師としての成長の展望―我 がライフコースを振り返る―、スクールリー ダー研究、8、24-30.

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