生産的労働の本源的規定について
労働の経済学」との関連で
今 村 元 義
経済政策研究室
A Note on the first difinition of Productive Labor
in relation to the political economy of labor
Motoyoshi IMAMURA
Economic Policy 目 次 はじめに 労働の経済学」提起の意義 Ⅰ 質料変換」と生産的労働の本源的規定 渡辺雅男氏の「物質的労働」論 Ⅱ 生産的労働の本源的規定」と「労働の経済学」 原昭氏の「労働」 析視角 むすびにかえて 『経済学批判』序説における「消費的生産」の意義 要 約 かつて、K. マルクス(1818-1883)は1860年代に経済学を3つのカテゴリーに区 した。資本(= 所有)の経済学、労働の経済学、中間階級の経済学、がそれである。このなかでマルクスの言う「労 働の経済学」は、経済学の対象を、財貨の生産(労働)領域だけでなく人間の生産(消費的生産)領 域まで包摂しており、 括的・ 合的である。現在、「人間の生産」領域の経済 析は現実の進行に対 して遅れている。しかも、現実に、経済格差拡大など、社会・経済的問題がもっとも集中・集積して いる領域でもある。そこで本稿は、「労働の経済学」の え方を、生産的労働の本源的規定の視点から 整理することによって、「人間の労働・生活」領域 析の具体化の一歩としたい。 ※本稿では、「注」は本文中に組み込み、また、私のコメントについては【今村】として示した。Abstract
K.Marx (1818-1883)classified the political economies into three categories the political economy of capital(=possession),labor,and middle class in the1860s. Among them, The political economy of labor includes not only the mode of production of goods but also the way of production of human beings (= the consumptive production ), so it is overall and synthetic.
Now,we are well enough lagging behind in analyzing most of these economic situation on the one hand, working under the tough labor conditions and low wages, on the other hand, expanding the earning differentials among people.
Then,in this paper,we try to introduce some disputes over the object of the political economy of labor, in order to understand clearly the social problem between labor and life.
はじめに
労働の経済学」提起の意義
マルクスは、1860年代、経済学には3つの「経済学体系」(正確には経済学の理念像というべきかも しれない)がある、と述べたことがある。今から150年も前のことであった(「国際労働者協会 立宣 言」(1864年)『全集』第16巻、大月、9頁)。わが国では、大きく けて「近経(近代経済学)・マル 経(マルクス経済学)」と2つの経済学の系譜がある、と言われてきた。したがって、当時のマルクス のような発想にもとづいた経済学説 家は存在しなかったし、現在でも存在しない。かかる「マルク スの発想」に基づいて経済現象の理論化を進めた経済学者は、わが国においても稀有の存在だ、と言 えよう。かかる学問的風土のなかで、 原昭氏がマルクス「労働の経済学」に着目し、みずからの著 書にその名前を冠して、『労働の経済学 労働の社会的再生産についての研究 』(早大出版会) を世に問うたのは40年も昔(1965年)のことであった。 その内容は、 資本制経済の 析はサービス労働 野をも含めて検討すべきであ>り、サービス労働 の特殊な「生産過程」の 析を行なうとともに、社会的 資本の再生産の観点から国民所得概念を整 理し、これら(商業賃労働を含む)のサービス労働は「価値形成労働」ではあるが、国民所得を生産 する物的財貨(モノ)の価値は形成せず、物的(モノ)生産部門との 換によって所得の再 配過程 に属することを主張し、「現代のサービス労働も…労働力そのものを形成・維持・変化させるような種 類を除いては、その大部 が…非再生産的である。したがって、現代資本主義の賃労働を特長づける ものは、この非再生産的労働の増加にある」(33頁)と指摘したのであった。一読明らかなように、 原昭氏は、1960年代・高度成長期の日本資本主義の性格付けを、サービス労働拡大傾向をもって、寄 生性・腐朽性にあると指摘していたのである。 【今村】 渡辺雅男氏の『サービス労働論』(三嶺書房、1985)の序文をみよ。氏の、『資本論』に即したサービス労働 析が対象であるが、 原氏と同様の問題把握である。 ここで、いずれの「主張」を検討課題とするにしても、 原昭氏の 析視角の主要点を確認してお く必要がある。それは、資本主義社会の発展とともに「資本による諸労働過程の包摂」は進むのであ り、いわゆる「生産的労働の本源的規定」 より敷衍して物質的財貨の生産過程の 析 のみで は、「現在の資本主義的な労働」把握、したがって日本経済 析すら不可能であり、ひいては「現代経 済の構造把握」( 再生産と国民所得>)の把握などは到底おぼつかない、という点にあったことを忘れ てはならない。 さて、本稿の課題は、 原昭氏のかかる問題視角 「労働の経済学」視点から「資本に包摂された 《サービス労働》を える」 から、「現在のサービス労働論争の 括」を行うことではなく、「生 産的労働の本源的規定」概念を、『経済学批判序説』の《生産=消費》規定から、再構成・再認識し、 唯物 観に言うところの「物質的生活の生産」の意義を、 経済学の対象>との関連で明らかにするこ とである。まず、渡辺雅男説の検討から始めたい。
質料変換」と生産的労働の本源的規定
渡辺雅男氏の「物質的労働」論
1.質料変換と生産的労働 渡辺雅男氏の著書『サービス労働論 現代資本主義批判の一視角』(三峰書房、1985)執筆の目的 は、今日の第3次産業のほとんどは価値を形成しない不生産的労働であるにもかかわらず増大させざ るを得ない事情こそ、現代資本主義の矛盾だと把握する。その必然性を捉えることが「過渡期」とし ての現代資本主義の性格を明らかにすることにつながり、問題解決への真の出発点となる、という(序 章16頁)。渡辺雅男氏は、戦後のサービス労働論争の混迷の原因を、サービス概念の曖昧さにもとめ、 第1に、マルクスのサービス論の独自の課題と方法を発見すること、その上で、第2に現実のサービ ス労働の性格 析へと進むべきことを主張する(11頁)。 われわれが注目する「生産的労働の本源的規定」は第Ⅰ部・第1章「質料変換と生産的労働」で論 じられる。マルクスへの内在を目的として、もっとも根元的な議論 自然と社会を貫く原理=質料 変換(Stoffwechsel) に即して労働の意味を把握し、運輸労働を含む生産的労働の物質的性格を解 明する。これは、とりもなおさず、生産的労働の本源的規定の概念 質料変換遂行の物質的生産的 労働 として明らかとなることを示すことになる(12頁)。 【今村】 今回は触れることができないが、第2章「雇用労働の諸形態」において生産的労働の(歴 的 …引用者)形態規定として、賃労働形態が摘出される。3つの労働形態(サービス労働形態、過渡的労 働形態、賃労働形態)との対比のなかでその特徴が明らかにされる。この点は別稿で触れたい。1)マルクスの「質料変換」概念と生産的労働規定 ここでの渡辺雅男氏の目的は、「マルクスの質料変換(Stoffwechsel)概念の整理を通して、物質的 労働と生産的労働の関連を問うこと」(18頁)にある。マルクスの「生産的労働の本源的規定は、物質 的生産そのものの本性から導き出されたもの」(「『資本論』第Ⅰ巻 第5章」である以上、「物質的労 働」と「生産的労働」について詳しく内在的な検討が必要となる。そして「そもそも労働が物質的で あるか否かの違いは、労働過程が質料変換を媒介するか否かの差にあると思われる」(18頁)と結論さ れる(18頁)。 Stoffwechselは、現在の『資本論』訳では、有機的自然にのみ認める「物質代謝」となっているが、 1850年代後半以降、マルクスが依拠したであろう当時の自然科学では、「無機的自然にも妥当する概念 であり、物質代謝なる訳語は 用すべきでない」(19頁)。『資本論』では、①「自然的質料変換」、② 「人間と自然との質料変換」、③「社会的労働の質料変換」または「社会的質料変換」と三様の 用法 がある、という。いずれにしても、マルクスにとって質料変換を引き起こすものこそ、「自然力」と同 時に「労働力」だったのである(19頁)。 ところで、人間の社会的生活の基礎が、「人間をうみ・育てる過程」と「物質を生産し・流通・消費 する過程」との両者によって、成立していることは言うまでもないことである。「質料変換の諸過程が もつ全体的関連」とは無機的自然、有機的自然、人間的自然の諸過程の関連がいかなるものであるか、 その相互関係があきらかにされなくてはならない。渡辺雅男氏が言うように、質料変換の3過程のう ち、①は自然的質料変換であり自然 の段階に属す、それ以外の②と③は、人類 に属し、つねに人 間的・社会的過程を形成する。では、その全体像はいかなるものか。これこそが、社会経済学の対象 である。 渡辺氏は「モレスコットとビュヒュナー」に言及して彼らがマルクスの「物質」理解に与えた影響を 以下のように指摘している。 「…彼らは質料と力とを物質の相異なる2属性と え、物質の運動(「循環運動」)をこの両属性の変換 (「質料変換」と「力の変換」)の相関関係のうちでとらえ、質料変換は力の発現によって引き起こされ るもの、…逆に、力が 造される過程の背後には、そうした力を 造するなんらかの質料変換のあるこ とを主張した、…マルクスにも影響をあたえたろう…マルクスにとって質料変換を引き起こすものこそ 自然力と同時に労働力でもあったのである(19頁)。」 【今村】このように、生産的労働の本源的規定は、物質的労働・物質的生産と不可 な関係にあっ た。マルクス『経済学批判序説』における「生産の一般的規定」との関連で、「生産的労働の本源的規 定」の意義を検討する必要が生じよう。マルクスは、かかる『序説』の「生産」概念についても、「物 質的生産」から導かれたものであることを明言しているからである。その場合、物質的生産という場 合の「物質的」とはいかなる意味であろうか、それの解明が本稿での課題の1つとなる。
2)自然的質料変換 ⑴「人間をとりまく自然」における自然的質料変換(21頁) 「自然過程は次の4種に 類される。①有用的な自然力を 造する自然的質料変換の過程{水力エ ネルギーを 造する「落流」…この場合「自然質料は別として、なにも費用のかからない自然力が作 用者として、効果の強弱はあるにしても生産過程に合体されることもある」(『資本論』Ⅱ435)},②有 用的な質料変換過程を自然力が媒介する過程{畑にまいてある穀物、 蔵で発酵しているぶどう酒… 「いろいろな製造業たとえば皮なめし業などの労働材料で化学的過程にまかされているもの」(『資本 論』Ⅱ150)などについては「労働対象は、長短の期間にわたる自然過程のもとに置かれていて、物理 的、化学的、生理的諸変化を経なければならない」(Ⅱ292)}。③非有用的な自然力を 造する自然的 質料変換の過程、④非有用的な自然的質料変換を自然力が媒介する過程。極限には「異常な自然現象 や火災や洪水」という破壊力としての自然力や、腐敗・腐食という「自然的質料変換の破壊力」が含 まれる。(22頁) 「有用性の 造と区別される、有用性そのものの発見は、非物質的な科学的労働の成果である。(22 頁) 【今村】 渡辺雅男氏は、自然環境のもつ「労働抜きの」有用的作用が、生産過程に及ぼす影響を 析し ている。これは有用的作用ではあっても、労働過程の媒介を必要とする「有用効果」とはいえまい。「有 用性の 造」こそ,生産手段を 用しての労働の成果、すなわち労働過程の成果であり、これこそ「有 用効果」(生産過程の生み出す生産物=有用効果)というべきであるからである。とすれば、有用労働あ るいは具体的労働の有用的作用だけをもって「有用効果」と規定するのは、有用効果概念の矮小化では ないか、と えられる。要するに、ここでは自然の有用的作用と労働の有用効果との違いが、ひいては 労働過程と生産過程との違いとして主張されているもの、と解釈できよう。 また、機械の有用的作用・有用的働きと労働の有用的作用・有用的働きとの相違・区 も、いわゆる 用価値範疇の系列に属する「サービス」範疇に係る用語として、いわば「生産性理解」において重要 であろう。この点も要注意である。 2) ⑵「人間そのものの自然」における自然的質料変換(「消費的生産」の淵源…引用者】) 「そもそも「人間自身も,労働力の単なる定在としてみれば、1つの自然対象であり、たとえ命の ある、自己意識のある物だとはいえ、1つの物であって、労働そのものは、労働力の物的発現である (『資本論』Ⅰ280、注27)」のだから「労働力、したがって人間の自然力」(Ⅲ 1042)の評価に際し ては,グローブ(Grove,W.R)のいうように「ある人が24時間中に行なった労働の量は、その身体に 生じた化学的変化を検査することによって、ほぼ確定することができるであろう。というのは,物質 における形態の変化は、それに先行する運動力の 用を指示しているからである(『資本論』Ⅰ 683 注 14)」。(23頁) かかる見方は、「力」と「エネルギー支出」との相互関連の普遍的性格を「人間の労働関係における
労働者個人」に適用したものであり、注目すべき論理展開である。ただ、「人間自身も,労働力の単な る定在としてみれば」という人間観は、特殊に階級的な視点 資本家の見方ではないか、と当初私 は えた。しかし、渡辺雅男氏のマルクス理論の整理によって、「労働力の本源的な規定=生理的規定」 から、さらにそれの社会的規定へと重層的な構造をなすものへの上向の過程であることを私も理解し た(すぐに後述)。『資本論』に即した忠実な論理展開である。ただ、ここで、注目されるのは、氏が 「人間有機体内部での質料変換が労働力の 造と同時に消費の排泄物を生み出す」としている点であ る。私見によればこれこそ、『経済学批判序説』におけるマルクスの叙述 「生産的消費」とは異な る「本来の消費」を指す内容である。また、その主張が「⒜ここでとりあつかう対象は、まず物質的 生産である。社会で生産をおこなっている個々人、したがって個々人の社会的に規定されている生産 が、いうまでもなく出発点である。スミスやリカードゥがそこから説きおこしている個々ばらばらの 漁師や漁夫は、18世紀の、空想を えない想像のうんだものである。」(『経済学批判序説』岩波文庫、 287頁)というマルクスの前提とも異なる。以下、確認しておこう。 「消費は直接にまた生産でもあるが、それは自然界において諸元素や化学的諸成 の消費が植物の 生産であるのと同じである。たとえば消費の一形態である食物の摂取によって、人間が自 自身の肉 体を生産することはあきらかである。しかもこのことは、なんらかのやり方で、人間を、なんらかの 面から生産するものであれば、どんな種類のほかの消費についてもいえることである。消費的生産。 この場合の特徴。第1の生産物の破壊から生じる第2の生産である、と経済学はいう。第1の生産で は、生産者が自 を物と化し、第2の生産では、かれによってつくられた物が人間となる。だからこ の消費的生産は、 たとえそれが生産と消費との直接の統一であるとはいえ 本来の生産とは本 質的にちがうものである。したがって、生産と消費と、消費が生産と一致する直接の統一は、それら のものの直接の二元性を存続させる。(同上書、298頁)」 渡辺氏が以下のように言うとき、「直接の二元性を存続させる」とマルクスが言う生産と消費とはど のように関連するのであろうか。 たとえば、 「人間有機体の内部での自然質料変換が、一方で労働力を 造するとすれば,他方で質料変換の結 果は「消費の排泄物」を生み出す。ここで「消費の排泄物というのは、一部は人間の自然的質料変換 から出てくる排泄物のことであり、一部は消費対象が消費されたあとにとっている形態のことである (『資本論』Ⅲ 127)」(ゴミ、産業廃棄物…引用者)。したがって、 自然質料変換> が人間有機体の 内外で「消費の排泄物」にまで形態変化することこそ、 その過程で労働力を 造する> 人間の自然 的質料変換である> ということができよう(23頁)」。 【今村】① さらに、このレベルでは、たしかに、 消費手段の人間有機体内外における形態変化> は、
生物・動物の生理現象と動物としての人間の生理現象として同一で、その過程をつうじて生命体の再生 産が行われるのであろう。しかし、労働力とは合目的性 思惟をもつ人間にのみ特徴的な能力 を もつはずである。「労働力の 造」はいかに行われるのであろうか。 【今村】② それは動物一般とは異なる。『資本論』のこの箇所においては、「労働力の定在としての人間」 を資本が対象としているのであり、これから消費の対象として、その意味では完成した労働力として位 置づける資本家としての労働者=人間観 が前提となっているのであって、けっして、労働力の形成 過程を述べているのではないことに注意すべきである。したがって、私は、「人間の自然的質料変換過程 が、労働力を 造する」のではないと える。それではそれはどこで形成・ 造されるのであろうか。 それ故であろうか、渡辺雅男氏の説く「消費労働」概念が、財の消費過程で機能する労働として、積極 的な労働の性格が見えてこない。労働力を形成する労働、さらに生命・生活の生産としての労働過程は、 経済学においていかなる位置づけを占めるのであろうか。この点の解明が重要だと思われる。 渡辺雅男氏は、人間の生理現象の第1の結果を「労働力を 造する人間の自然的質料変換」とよぶ。 つまり「人間有機体の内部での自然質料変換」がそのまま「労働力の形成」であるというのである(対 人サービス労働を生産的労働として位置づける、内的自然論の置塩氏とは異なる。いずれにしても、 人間の生命・生活の生産の基礎にかかる生命現象が存在していること、またそれは質料変換(物質的 代謝)過程であること、その存在を確認するが、私は、かかる人間体内部における生理現象は医学の 対象であって、経済学の対象とはならない、と える。人間の生活の生産が、労働力の生産といかに 関連するか、労働力の定在として人間を えることと、人間の生活の生産を対象にしてその意義を えることとは、同一であろうか。疑問なしとしない。 なにより問題は、これらの「質料変換過程」は『資本論』における「生産的労働の本源的規定」に 相当するものだと、氏が見なしているという点である。この点については、 原氏の生産的労働の本 源的規定を検討する際に触れたい。 【今村】 指摘したように、かかる生産的労働の本源的規定の意義とさらにそれがより具体化され、資本 による包摂が形式的なものから実質的なものへと深化すること、そして、資本制的生産過程が労働過程 と価値増殖過程の統一として提示されるとき、機械制大工業における機械と労働者の関係が 析の対象 となる。かかるダイナミズムに照準をあわせて上向することが要求される。 3)人間と自然とのあいだの質料変換(24頁) 「…この過程は「労働過程を場として」(括弧…引用者)行なわれるが、この過程は、⑴質料の形態 変化=質料変換(労働対象の労働生産物への転化)と、⑵それを引き起こす力の発現(労働力の発現= 労働)、さらに⑶労働手段による両者の媒介という3つの運動局面に かれる。
⑴ 労働過程における客体的契機の運動 質料(素材…『資本論』邦訳)変換の過程 ここでは、人間は自然がやるとおりに 質料の形態を変化させることができるだけだから、質料 の形態変化すなわち、自然的質料変換である、が同時に、人間の欲望に った有用的形態変化である かぎり、自然的質料変換が人類 的段階を特徴づけるものへと転化したことを意味する。 ⑵ 労働過程における主体的契機の運動 質料変換を媒介する労働 労働そのものは労働力の発現であるが、自然力としての労働力の支出は「自 の肉体に属する自然 力である腕や脚や頭や手を運動させる」ような「生理的支出」として、「多少とも発達しているなら」 …生理的支出にとどまらず、「人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出」となる。この箇所の指摘 「労働力の生理的支出」と「労働力の生産的支出」が労働の際の「合目的的な意志」を生みだすと いう指摘は重要である。これで、人間労働が自然の形態変化を引き起こすものであることが明確とな る。 ⑶ 労働過程における主体化された客体的契機の運動 労働が質料変換を媒介するための条件 …(以下省略)… ⑷ 労働過程の社会化(27―28頁) 個別的労働過程が社会化され、労働と質料変換も社会化される。以下…省略…。 4) 社会的質料変換 「質料の変換が社会的有機体の内部で行なわれれば、そこには社会的質料変換が成立する。それは、 ⑴流通過程にまで 長された⑵追加的生産としての運輸過程を条件とし、⑶特別な労働により遂行さ れ、⑷労働手段の特殊な充用を必要とする。(29頁) 【今村】 質料変換」という用語によって『資本論』第Ⅰ巻では対象外とされた、流通過程における物質 的労働領域の確定を目指したものであり 運輸労働などへの経済学的 析を意図したものであろう。 「非物質的労働過程、あるいは地域における社会的生活過程など」の 析も視野に入っている。かかる 領域へのアプローチはどうか。労働過程を通じる、独自の「人間的自然の開発」過程へのアプローチが 期待される。「労働力の形成」においては、まさに家族・地域・職場における「 業にもとづく協業関係 としての人間関係の展開」が問題にされなければならない。…以下・省略… ⑴ 商品・貨幣流通と社会的質料変換(29―30頁) ⑵ 社会的質料変換の過程とその条件(31―32頁) ⑶ 社会的質料変換を媒介する労働(32頁) ⑷ 労働が社会的質料変換を媒介するための条件(労働手段…引用者)(32―33頁) 5)質料変換と物質的生産(物質的生産の構造…引用者) 渡辺雅男氏はいう。「従来、生産過程と労働過程の概念的区別が明確にされてこなかった…。しかし、
生産過程をなんらかの有用的質料変換過程であると定義すれば、人間と自然の質料変換はもちろん、 社会的質料変換もまた、さらに有用であるなら自然的質料変換さえも物質的生産過程を構成すること ができる。具体的には運輸労働が追加的生産過程として把握され、労働過程による質料変換過程の遂 行、自然過程も有用な場所変化の生産、が実現する。(34―35頁)」、と。 【今村】 労働概念と生産概念との相違というこの視点こそ、 原が指摘したマルクスの「生産的労働の 本源的規定」に通底する発想である。しかし、渡辺雅男氏にあってはこの相違はいかに展開されるので あろうか。第1に、質料変換概念をもとに「物質的生産の構造」が認識され、第2に、生産期間と労働 期間との差異の可能性が指摘されるにとどまっている。 生産過程とは、労働過程をその「成果」の観点から見直した、いわば過程への反省規定である。 労働対象・労働手段は生産手段として、労働は生産的労働として規定され直され、生産物は資本主 義的商品として売買される。生産的労働と生産手段との結合はいかにおこなわるのであろうか。 それに対して、対人労働の場合には、労働対象は消費者であるが、その消費者=人間を労働手段と 一括して、生産手段とすることは出来ないだろう。そもそも対人労働過程と物質的労働過程のアナロ ジーには無理な前提が存在するのである。内外的に労働対象たる人間に引き起こされた諸変化がいか に重大であったとしても、労働対象たる「人間それ自身」が生産物となるわけにはいかないからであ る。医療過程を えよう。医師の医療労働のサービスと看護婦のサービス、それに若干の道具や薬の サービスが必要となる。医師と労働対象である患者≠消費者との間の信頼関係・それを共同生産関係 と呼ぼう。そこに、市場関係は介在するか。その余地はない、と える。治癒のための共通の目的に よって、両者の間に信頼関係が存在しなければ医療労働過程は進行しないだろう。 6)物質的生産と生産的労働(36―38頁) 以上を 括して、渡辺雅男氏は、物質的生産過程については、有用性を持つ質料変換の過程であり、 他方、物質的生産労働とは、有用質料変換を媒介する人間労働力の発現である、と主張する。一般に、 自 の生活の維持・再生産のためには生活手段の生産が必要であり、それに充用される労働が物質的 労働である。生活手段の生産に要する労働時間への関心はこれまでの人間にとっては必要不可欠で あった。ところで、生産力一定なら、生産時間と再生産時間は比例関係にある。これに対して、非物 質的生産のばあいは、生産・再生産の労働時間の意義はおおきく異なる。 「二項定理を生徒は1時間で学ぶことができる」(マルクス『剰余価値学説 』全集26巻― 、44頁)。 物質的労働時間は、生産手段の生産に要した過去の時間の移転部 と生活手段の生産時間の合計と なる。 物質的労働は、一般的 業の観点からは、採取産業、農業、製造業、運輸の物質的生産の4大生産 部門に照応して、採取労働、農業労働、製造業労働、運輸労働に大 類され、さらに細かく 類され
る(社会的 業)。個別的 業については、協業形態をとることによって、物質的労働の概念が拡大す る。その動力は「個別資本の最小資本量」であり、それによって個別労働過程が一個の結合された社 会的労働過程に転化し、物質的労働は全体労働者によって体現され、個別労働者はその細目機能を担 うに過ぎなくなる。『資本論』においては、相対的剰余価値の生産の歴 に照応して生産的労働の論理 が展開されていく。生産的労働の本源的規定の展開においては論理=歴 説が特徴である。 以上、渡辺雅男氏によって整理された、「物質的労働としての生産的労働の規定は、つまり生産的労 働の本源的規定」は「一般的な」具体的な生活手段獲得労働であり、労働時間に関心を持ち、流れと して機械制大工業まで展開される具体的は協業労働過程を示す範疇だった、のである。すなわち 「以上論じてきた物質的労働としての生産的労働の規定、つまり生産的労働の本源的規定は、人間が 生活手段の生産に時間を要費する限り、止揚されることはない。もちろん、これだけでは生産的労働の 規定にとって不十 である。資本制生産のもとでは、…生産的労働の歴 的規定が…必要である。生産 的労働の本源的規定が物質的労働としての生産的労働にあったとすれば、この歴 的規定は賃労働とし ての生産的労働にある。」(38頁) これに対して、生産的労働の本源的規定では「単純な労働過程」というマルクスの指摘がある。そ こで「本源的」なる用語の意味については、端緒的・始源的という意味ではないか、という観点から、 原昭氏の主張を検討しよう。以下、要点を列挙し、渡辺説との相違を示すことにする。
生産的労働の本源的規定」と「労働の経済学」
原昭氏の「労働」 析視角
1.私が、 原昭氏の論文を取り上げる理由は、「労働の経済学」展開の出発点に「生産的労働の本源 的規定」を掲げているからである。 2.「生産的労働の本源的規定の意義を、歴 的規定と対置することなく、それ自体として 察してみ よう」。そして、渡辺雅男氏とおなじ引用箇所を引いて次のようにポイントを指摘する。すなわち、 「人間は、自然素材にたいして彼自身1つの自然力として相対する。かれは、自然素材を、彼自 身の生活のために 用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭 や手を動かす。人間は、この運動によって自 の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうす ることによって同時に自 自身の自然(天性)を変化させる。」『資本論』Ⅰ大月234頁 3.労働過程の単純な諸契機である合目的的な活動としての労働に続いて、その労働対象と労働手段 の 察に移り、「要するに、労働過程では人間の活動が労働手段によって1つの前もって企図され た労働対象の変化を引き起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある 用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働は 対象とむすびつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。」「この全過程をその結果である生産物の立場からみれば」「労働そのものは生産的労働として現わ れる」ということで「単純な労働過程の立場から出て来るもの」と注記を付しながら、この「生 産的労働の本源的規定」を提示するわけである。すなわち、 「この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、2つのもの、労働手段と労働対象とは生産手 段として現われ、労働そのものは生産的労働【注7】として現われる。 【注7】このような生産的労働の規定(「生産的労働の本源的規定」マルクス『資本論』 660頁)は、 単純な(einfachen)労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程については決して 十 なものではない。『資本論』 238頁 4.「労働はその素材的諸要素を、その対象と手段を消費し、それらを食い尽くすのであり、したがっ て、それは消費過程である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を 生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労 働力の生活手段として消費するということによってである。それゆえ、個人的消費の生産物は消 費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別な生産物である。」(『資本論』 241頁) 原昭氏は次のように言う 「つまり、ここでは生産手段の生産的消費の結果としての生産物 の他に、生活手段の個人的消費の結果としての生産物の存在が指摘され、この後者の生産物とは 消費者自身としての人間であることが明示されている。マルクスが、人間自身をも一面では自然 対象として認識していることは、労働が人間と自然とのあいだの一過程であるとしたさきの援用 によっても明らかであるが、さらに「人間自身も、労働力の単なる定在としてみれば、一つの自 然対象であり、たとえ命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物なのである。そして、 労働そのものは、あの力の発現である。」と述べている。したがって、マルクスは労働力を一つの 物と見做し、それゆえにある 用価値と えていたことは明白であって、それが個人的消費の過 程における生産物と特徴づけられているわけである」。 5.私見によれば、これは『経済学批判序説』における「生産と消費費の同一性」の叙述を『資本論』 において再現したものである。これの意味は以下のようであろう。すなわち、 このような物 財(「生活手段」)の消費からうみだされる「2つの消費過程の産物」の過程を抽象した枠組みこ そ、主体たる人間が、一方では「労働力」として、他方では「消費者」として、過程の主体になっ て、「生活手段を食いつくす過程」=「生産は消費であり、消費は生産である。」という「経済学批 判序説」の「序文」におけるマルクスの叙述の内容を『資本論』において、鮮明に浮き彫りにし、 再現したものであろう、と。 6. 原氏は、さらに続ける。「当然に、この個人的消費過程の結果としての生産物は、生活手段を生 産手段として利用する労働によって生産されることになるわけで、自然対象にたいする労働主体 である人間の立場からすれば、そのような人間の労働力を生産する労働こそが生産的労働となる。
だが、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件として特徴づけられている抽象的に単純 な労働過程の結果としての生産物とは、労働主体の人間と対置される自然対象としての物質的生 産物のことであり、その物質的生産物の立場から規定されているのが、本源的規定における生産 的労働の概念であった。(46頁) 7.また、マルクスの本源的規定にあっては、社会的労働過程の捨象、すなわち「単純な労働過程は 「純粋に個人的な過程」が想定されている。」(46頁) ここで明らかとなるように、本源的規定における単純な労働過程では「純粋に個人的な過程」が 想定されているのであって、労働過程における生産の社会的性格、それゆえに社会的労働過程が 捨象されていることが確認されねばならない。(46頁) 8. 原昭氏の積極的な主張は以下のようである。 「従来、生産的労働の本源的規定には、「どの 社会形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なもの」と特徴づ けられていることから、あたかも近代経済学における一般社会のようなものが想定されて、それ の一般性が強調されてきたが、そこではたんに①社会的な生産諸関係が捨象されているにとどま らず、②人間の生活と③生産の社会的性格そのものが捨象されていて、もっぱら主体の人間と自 然対象との関係から労働過程が抽象的かつ単純に 察されており、そのことのために人間生活の 永久的な自然条件であり、人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なもの、とされているわけ である。(46頁) (①∼③は引用者。かかる前提のもとで、具体的な資本主義的生産過程への上向の途の出発点に ついても、以下のような抽象的な労働過程を前提としたものとなっている。) 9.「このことは、資本主義的生産過程についても「資本家は、労働力を買うことによって、労働その ものを、生きている酵母として、やはり自 のものである死んでいる生産物形成要素に合体した のである。…労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、 一過程である。」(『資本論』Ⅰ、243頁)と説明されていて、人間の資本家と彼の物となっている 労働者の労働力や生産手段、つまり人間と物との関係として資本主義的生産過程が抽象されてい ることによっても明確である。(46頁) 原説を布衍すれば、資本家による、労働過程の位置づけ(物=生きている酵母と、物=死ん だ生産物との1つの過程)は簡単な労働過程の本源的規定から導かれたものである。要するに、 生産的労働の本源的規定を抽象した表象である簡単な労働過程とは、生活過程を捨象し、社会的 関係をも捨象したものであるから、もっとも簡単な歴 的規定(資本家的労働過程)としてみて も、資本家(人間)と労働力(物とその作用たる労働)と生産手段(物)との関係として、すな わち生産諸関係としてではなく、あるいは社会的労働過程としてではなく、人と物との関係とし て規定されることになる。与えられた表象からの 析と 合がここでの叙述の方法である。 では、かかる「資本家の立場」と「労働過程の生産物の立場」とはどう関係するのか。当然で はあるが、生産物(労働過程の成果)は資本家の所有物である。資本家の関心は、労働過程の成
果であろう。そこから、労働力の定在としての人間の活動=生産的労働⒱と生産手段⒞という2 区 規定が出て来る。 10.それゆえにマルクスは、生産的労働についてのこの最初の本源的規定のあとで、資本主義的生産 が歴 的に発展して行く社会的な生産過程を協業、 業とマニュファクチュア、機械と大工業の 析をつうじてトレースし、はじめに援用したように第14章にいたって、第5章の単純な労働過 程で 察されたものを生産的労働の本源的規定と記す前に、「およそ生産物は、個人的生産者の直 接的生産物から1つの社会的生産物に、1人の全体的労働者の共同生産物に、すなわち労働対象 の取扱に直接または間接に携わる諸成員が1つに結合された労働要員の共同生産物に転化する」 『資本論』Ⅰ660頁と書き、続けて「それゆえ、労働過程そのものの協業的な性格につれて必然的 に、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も拡張されるのである。」 と指摘したのであった。つまりマルクスは、生産の社会的性格を 慮すると社会的労働過程にお いて生産的労働の概念が一面では拡張されることになって、単純な労働過程における生産的労働 の本源的規定が、そのままではもはやあてはまらない、と えたのである。 【今村】 これは生産企業内部の 業について述べたものであって、社会的 業にまで無媒介に拡大され るべきものではない。飯盛信男『サービス経済論序説』278頁 11. 原昭氏の結論は以下のとおりである。「したがって、生産的労働の本源的規定にかんしては、マ ルクス自身がそれの展開による具体化を企図し、資本主義的生産過程については、「資本家にとっ て剰余価値を生産する労働」を生産的労働と規定することによって、独自に社会的な、歴 的に 成立した生産諸関係をも包括するものとしているわけである。そこでマルクスにおけるこの生産 的労働の本源的規定と資本主義的生産過程におけるいわゆる歴 的規定とは、前者が単純で抽象 的な規定であるのにたいして、後者は複雑化し具体化された規定として理解すべきであろう。(47 頁) 従来はこの本源的規定が、特殊・歴 的な社会形態を度外視した一般的な社会での規定として 把握され、歴 的規定の特殊・形態的な性格にたいして本源的規定の一般的かつ本来的な性質が 強調される傾向にあった。(48頁) そのために、この本源的規定による生産的労働だけが、一般的に商品の価値を形成し、したがっ て剰余価値を生産する生産的労働となると主張する金子ハルオ教授のような理解がかなり一般化 するにいたった。この点では赤堀邦雄教授の批判が正当性をもつわけであるが、その赤堀教授の ばあい…本源的規定による生産的労働が本来のもの以上に拡張され、さらに飯盛信男教授の場合 には「生産的労働の本源的規定は労働主体を労働過程視点から 察したものであり、社会の下部 構造(経済過程)を担う労働全体」(飯盛「生産的労働と第3次産業」『佐賀大学経済論集』1981/ 11,104、後に278頁)にまで拡張されて一般的な社会的生産力を形成する労働のように理解され
るにいたっている。また、その飯盛教授を批判された重森教授の立場でも、生産的労働の本源的 規定のなかに社会的生活過程における労働を組み込む理解によって、それを一般化する態度がと られている。(48頁) 12.しかも、マルクスにおける生産的労働の本源的規定は、それがたんに単純で抽象的な労働過程に おける規定であるだけでなく、そこでの人間と自然対象とのあいだの一過程を後者の自然的対象 としての生産物の立場から規定したものであることを見落としてはならないと える。 それゆえに『資本論』では、その生産的労働の主体である人間の立場から「人間は、この運動 によって自 の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自 自身の 自然(天性)を変化させる。」ことが提起されていた。ただその『資本論』においては、資本主義 的生産過程における生産的労働の具体的な規定が、その生産過程における直接的な生産者である 賃労働の立場からではなく、その賃労働の労働力を物として利用する資本の立場から、「資本家の ために剰余価値を生産する労働」と特徴づけられているわけである。したがって、現代社会、と りわけ現代の資本主義社会における生産的労働論を構築するにあたっては、社会の変革主体とし ての人間、つまり賃労働の立場からの生産的労働概念の理論化が重要であろう。生産的労働の本 源的規定は、この意味からもマルクスにとって本源的であったのではないのだろうか(下線…引 用者)。(49頁)
むすびにかえて
『経済学批判』序説における「消費的生産」と労働力の売買
原昭氏の主張12項によれば、現代資本主義社会における生産的労働論構築の「見通し」は、賃労 働の立場からの「生産的労働概念の理論化」によってあたえられるものであることを示している。そ れは、「個人の社会的生産」を対象とする国民経済学が登場してくる背景ともふかく関連しあっており、 『経済学批判序説』でも簡単に触れているように、自由な、法的に対等な人として契約を結びあい、 また、平等な商品所持者としての相互関係=等価 換の経済社会であり、所有、自 のものを処 す るだけで、みずからの私的利害の力によってのみ相互の利益、 益、全体の利益の事業を遂行できる という「経済社会(単純な流通・商品 換の部面)のありよう」を通じて、実現されるものであろう。 以上のような文脈から、『経済学批判序説』に即して、「個人を主体とした」(市民=ブルジョア)の 経済学(中間階級の経済学)を論じる意義について えてみる必要がある。『経済学批判』の第1章、 2章は、「単純流通」であり、「ブルジョア社会の表面」であり、まさに「自由、平等、ならびに「労 働」にもとづく所有の王国」である。(277頁) 『資本論』では、「第4章貨幣の資本への転化」の末尾でつぎのように書かれている。すなわち、 「労 働力の売買がその限界のなかで行われる流通または商品 換の部面は、じっさい、天賦の人権のほん とうのエデンだった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。 …この単純な流通または商品 換の部面から、…、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。さっきの貨幣所有者は資本家 として先に立ち、労働力所持者は彼のあとについていく。一方は意味ありげにほくそえみながら、せ わしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自 の皮を売ってしまってもはや革になめされるほ かになんの望みもない人のように。(『資本論』第Ⅰ巻、大月、230―231頁) ここでの労働力の売買は…「かれがいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買 い手に用立て、その消費にまかせるだけ」「労働力を手放してもそれに対する自 の所有権は放棄しな い」という関係、すなわち、彼は「彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者」として貨幣所持者と市 場で対峙するのである。」(『資本論』 220頁)。ここでの労働力商品の売買は「互いに対等な商品所持 者としての関係」なのである。これは(「労働力の一時的 用」の販売は…引用者)家屋を賃貸しする 場合に借り手ではなく貸し手が 用価値を前貸しするのと同じである。(『剰余価値学説 』 26 、 144頁) 資本主義的生産の深化とともに、いわゆる「市民制社会」(高島善哉)から「資本制社会」へのイデ オロギー的転換が現実に起こることが予想される叙述内容である。じじつ、『資本論』の直接的生産過 程の 析によって、その本質が明らかにされるわけである。にもかかわらずまず、『経済学批判序説』 の叙述 あるいは貨幣の単純流通の 析とそのイデオロギー的意義はどこにあるのだろうか。個人 的生産を前提にする商品・貨幣の世界の意義については、問題提起だけにとどめざるを得ない。 ⑴ 消費と生産との同一性は三重にあらわれる。(『序説』301―303頁) ㈠ 直接の同一性。生産は消費であり、消費は生産である。消費的生産。生産的消費。経済学者 たちは、この両者を生産的消費とよんでいる。しかし、なおひとつの区別をもうけている。第 1のもの(消費的生産…【引用者】)は再生産として、第2のもの(生産的消費…【引用者】) は生産的消費として、えがきだしている。第一のもの(消費的生産…【引用者】)についてのす べての研究は、生産的労働または不生産的労働についての研究であり、第二のもの(生産的消 費…【引用者】)についてのすべての研究は、生産的消費または非生産的消費についてのそれで ある。 ⑵ ヘーゲル学徒にとっては、生産と消費を同一にすることほど簡単なことはない。そしてこのこ とは、ただ社会主義的な美文家連中によっておこなわれているばかりではなく、たとえばセーの ような散文的な経済学者によってさえ、一国民を 察すればその生産はその消費である、という ような形でおこなわれている。あるいはまた、人類一般についても同じである。シュトルヒは、 セーのこのまちがいを指摘して、たとえば、一国民はその生産物を全部消費するのではなくて、 固定資本等々の生産手段をも 造する云々、といっている。そのうえまた、社会をひとつの単一 の主体として 察することは、社会を、あやまって 思弁的に 察することである。ひとつの 主体にあっては、生産と消費とは、ひとつの行為の要因としてあらわれる。ここではただ、もっ とも重要な点が強調されているにすぎない、それは、生産と消費とをひとつの主体または個々人
の活動として 察するならば、両者は、いずれにしてもひとつの過程の要因としてあらわれるが、 その過程のなかでは、生産が実際の出発点であり、そのためにまた包括的な要因でもあるという 点である。必需としての、欲望としての消費は、それ自身生産的活動の内的な要因である、けれ どもこの生産的活動は、実現の出発点であり、実現を包括する要因であり、全過程のくりかえし がおこなわれる行為である。個人は対象を生産し、それを消費することによってふたたび自 に もどる、しかも生産的な個人としての、自 を再生産する個人としての自 にもどるのである。 こうして、消費は生産の要因としてあらわれる。 ⑶ だが社会では、生産者の生産物にたいする関連は、生産物が完成するとすぐ外的なものとなる のであって、生産物の主体への復帰は、その主体の他の個々人にたいする関連に左右される。主 体は、生産物を直接手にいれるのではない。また主体が社会で生産するばあい、生産物を直接占 有することがかれの目的なのでもない。生産者と生産物とのあいだには、 配が介入し、それが、 社会的諸法則をとおして、生産物の世界における生産者のわけまえを規定するのであり、そうす ることによって、生産と消費とのあいだに介入するのである。」 後者、すなわち「消費者の個人的消費」は、「消費的生産」とマルクスが呼んだ過程の一部をさすに とどまるだろう。現代の経済社会をみればあきらかなとおり、社会的な労働によるサービス提供が必 要となる。家 内の消費者が行なう個人的消費については、その一部は社会化し、また個人的には提 供不可能な社会的サービスについては、税・保険料などを財源とする相互共助を原理とする「社会的 消費」の制度化にまで展開していくことになる。そこでは対人サービス部門が資本家的経営として展 開する一方で、 的サービス部門、あるいは生活協同部門(NPO)として担い手も多様化していく。 これらは、人間が人間を生産する「消費的生産」をになう社会的諸労働であって、単に物質的財貨を 消費する「消費労働」として済ませるわけにはいかないし、現状 析にまで具体化されるさいの出発 点=本源的規定の意義の確認として必要である。また、消費的生産は、単に「物質的生産」(生産的消 費)として、物をつくる労働と同等に扱うことも許されない。この点は私たちの両者 消費・生産 の相互関連を示す理論的メルクマールとして確認しておく必要があろう。当然、労働の経済学の 課題は、労働力商品売買の経済的意義から始めて、再生産と国民所得 生産国民所得の 析から、 配国民所得、支出国民所得 析へと歩を進め、「フローの社会化」をも展望した政策提起へと具体化 する必要があろう。 (原稿提出日 平成19年9月18日)