退官記念講演要旨
異文化としての音楽受容
芸術系教育講座松本ミサヲ
1日本における異文化受容 日本文化の歴史を振り返ると、さまざまな時期に 我が国にもたらされた外来文化を基礎にして、そこ に土着あるいは既存の要素を加味しつつ、さらに新 しい文化形態を生み出す過程を繰り返して発展して 来たことが分かる。 これは音楽にもあてはまる。 吉 川英史は、日本の音楽の歴史は、外来音楽の輸入 外国音楽の日本化-日本民族音楽の興隆-外国音楽 の輸入一一-の繰り返しである、と述べている。 我が国が異文化と接触した結果、外来の音楽を受 容した時期として、次の3つの時代が特筆される。 第一は飛鳥・奈良時代から平安朝にかけての、律令 国家確立に際し、当時の先進国であった随・唐の宮 廷音楽と仏教音楽の移入であり、これらは現在まで そのままの形で伝えられている他、『越殿楽』から 『黒田節』が派生した例が端的に示している通り、 民謡をはじめとする新しいジャンルを生み出す源と なった。第二は安土-桃山時代にキリシタンの宣教 活動と南蛮貿易の結果もたらされた西洋音楽であっ た。キリシタンの弾圧と鎖国政策によって西洋音楽 は表面的には姿を消したように見えるものの、これ はその後の日本音楽にさまざまな形で影響を与えて いつ。現在の平均律に近い「オランダ調子」と呼ば れる調弦法が筆にあることもその証拠である。 皆川 達夫は、八橋検校による琴曲の改革も、西洋音楽の 影響下でなされたのではないか、と述べている。 第 三は言うまでもなく明治維新に伴う文明開化政策の 一環としての、近代的学校制度の確立に伴う、教科 の一つとしての学校唱歌の導入である。 この三つの時期のうち、第1と第3の時期には国 家統一、"近代化"を図るための国家政策として外 来文化の全面的な受容が行われた点に共通点が見ら れるだけではなく、何れの時期にも、外来音楽の受 容・伝達および演奏家を養成する目的の国家機関が 設立された。 それが律令国家における『雅楽寮』と 明治期の『音楽取調掛』である0 2『雅楽寮』 我が国に外来音楽が渡来した最古の記録は、允恭 天皇42年(469? )、天皇の葬儀に際して新羅の 楽人80人を参加させた、とする『日本書記』の記 事である。その後も欽明天皇15年(554)、推古 天皇20年(616)などにも同様の記事があり、こ れらの記述から、7世紀までにかなりの数の楽人、 多種多様な音楽が、主に朝鮮半島経由で日本にもた らされていたことが分かる しかし、大陸音楽の組織的な受容と教授が国家的 事業として位置づけるようになるには、律令制国家 の成立を待たなければならない. その意味で音楽の 面から見ても重要な法律は、行政機構、土地区分、 戸籍制度、租税制度など、統一国家の基礎を確立す る上で基本的法律となった、大宝元年(701)発 布の『大畠律令』であった。 これによって、中央行 政機関である左弁官局の中の治部省の組織の中に、 玄蕃寮、諸隆司、喪儀司と並んで『雅楽寮』が設置 されたのである。 治部省は「貴族、僧侶の家系や身 分のこと、貴族の葬儀のこと、外国使節応得など、 唐の礼部に相当する任務を職掌とする役所」と規定 されていることから、唐の組織を模倣したものでは あるが、音楽の使用目的には大きな相違があった。 すなわち中国では、式楽を司るという任務からも理 解される通り、音楽は孔子や祖先の祭礼に際して演 奏される、宗教的儀式用のものであったのに対し、 日本に渡来した音楽は宮廷、貴族のための様々な行 事を彩るか、外国使節接待などの儀礼的役割を担う ものへと変容したのである。 またそれだからこそ国 家の芋によって育成する必要があったのである0 『雅楽寮』に閑する規定を見ると、いくつかの特 徴が見られる。 完全に官僚機関に組み込まれた機関 として、事務職から教師、楽生に到るまで厳密にそ の数が定められているが、37名の教師の下、370 人の伝習生が、和楽、舞、笛などに分れて、唐楽、 高麗楽、新羅楽、百済楽あるいは伎楽などの教習を 受けている。 この時点では度羅楽、林邑楽は未だ教-3-授されていないが、少なくとも当時の日本が何らか の形で日本と接触のあった、すべての国々の音楽が 教えられた、かなり大規模な組織であったことが分 かる。和楽すなわち日本古来の音楽の教習生の数が 圧倒的に多いが、この領域のみは男女別の定員が定 められている。 ここで注目すべきは「笛工」の教習 生が居ることである。 それゆえ、大陸音楽の演奏技 術を学ぶもの以外に、楽器の製作技術を学ぶ者が居 たことになる。 しかし『雅楽寮』がこの体制で維持された機関は 比較的短く、時代と共に定員と教授される音楽内容 が大きく変化して行く。 和楽の比重は次第に低下し て行き、平安時代には男子の和楽生は大歌所で、女 子は内教坊で教えられるようになる. 天暦年間には 大陸音楽教習の事業そのものが『楽所』に移された 結果、『雅楽寮』は実質的に消滅の道を辿ることに なる。 なお『大宝律令』の規定では、右弁宮司、兵部省 の中にも、兵馬司、造兵司と共に『鼓吹司』が置か れ、軍楽関係はここが担当している。 つまり律令国 家では、儀式と軍事的利用価値のゆえに音楽が重視 されたのであり、決して音楽の芸術的側面に注目さ れていたのではなかった。 3『雅楽寮』と『音楽取調掛』の共通点 明治維新に伴う近代化政策の一環として確立され た義務教育カリキュラムの中で、「当分之ヲ欠ク」 と但し書きが付された唱歌を実施する目的で、『音 楽取調掛』が設立された事情、あるいはその事業内 容については、すでにさまざまな角度から研究がな されているので、ここでは『雅楽寮』と『音楽取調 掛』の共通点を探り、そこから我が国に音楽が移入 された要因を考えてみたい. ユーリ・エプスタインは、幕末期の1863年のイ ギリス艦隊による薩摩の砲撃は、薩摩藩がEl本で初 めて英国式の軍楽隊創立の決意を固めさせた点で、 日本音楽史上、極めて重大な事件である、と述べて いる。さらに自分達を砲撃した英国の音楽をモデル に仰いだことは、当時の日本人が極めて冷静に、か つ実用面から考えて、西欧音楽の導入を図った態度 を示すものであり、これがその後の日本における、 西欧音楽受容の基本的姿勢となった、とも語ってい る。 この言葉は、まさに日本における外来音楽受容 の本質を突いた指摘ではないだろうか. 大陸音楽が律令制国家にとっては制度的な意味で るいは直接的な使命のゆえに導入されたのではなかっ た。結局、徳川幕府の瓦解に伴う近代化を完成する 際の、社会制度改革に必要な手段に過ぎなかったの である。 特に軍楽隊が重視されている事実は、音楽 に対する最大の需要が何処にあったかを雄弁に物 明治5年に『音楽取調掛』『学制』の内容を見て も、教育理念はドイツ、学校制度はフランス、教科 内容はオランダ、教育方法はアメリカと、当時日本 を取り巻く建国をまんべんにモデルとしているだけ ではなく、半島からさまざまな人種の渡来人が来た のと同様、明治初期一中期にかけては、ドイツ、フ ランス、イギリス、イタリアからお覆い教師が来日 し、まさに豊かな国際色を示していた。 しばしば見落とされているが、『雅楽寮』と『音 楽取調掛』は何れも、外来音楽の受容・教授の役割 のみが目的ではなかった。 『雅楽寮』で和楽の教授 が行われていたのと同様、『音楽取調掛』でも「東 西南洋ノ音楽ヲ折衷シ」とその事業目的が規定去れ ている通り、西欧音楽の伝習と並んで日本音楽およ び明・清楽の調査も行われていた。 当時の演奏会プ ログラムを見ると、伝習生は西洋楽器と伝統楽器の の双方を演奏している。 『雅楽寮』でどのような教 授方法が取られていたかは明らかではないが、決し て外来音楽一辺倒ではなかったことには重要な意味 がある。 なぜならこのようにして新・旧の音楽を平 行して学習してこそ、外来音楽の特性をより明確に 把握することが可能となるからである. 原田英典は文化接触の形態を 1趣味的接触 受け手がすでに持っている文化が、異文 化に対して圧倒的に優位に立つ場合一既 成の文化を豊かにする機能を果たす。 2競合的接触 受け手の優位性が正当化出来ない場合一 見知らぬ文化によって修正と調整にせま られる。 3馴化的接触 未知の文化への競合から、意識しないま まで異文化を受容している場合一教育の 場でしばしば問題とされる成長・発達な ど。 と分類しているが、我が国の異文化受容はこの3つ のカテゴリーにはあてはまらない. さらに別の形態 を発見することが今後の課題である。 S ^^^^R^^^^S