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平 野 千 枝 子
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私たちと美術作品との出会いは鑑賞とよばれている。美術の教育のなかでも、表現とならぶ、ある いは相互に関わりあう鑑賞が、重視されるようになってきている。それに伴って、「鑑賞教育」の数々 の優れた実践も報告されている。 ところで、美術作品の「よさや美しさを感じ取り味わう」1)という鑑賞もまた、歴史的・文化的な 行為である。そして、しばしば現代美術が難しいと言われるのは、私たちにとってのこの鑑賞という 行為と、作品の構造のずれに起因するのではないだろうか。この問題を考えてみるために、初めに、 鑑賞の歴史的な位置づけを確認し、それが近代美学、とりわけ「象徴」の概念と関係していることを 推定する。そして象徴に対する「アレゴリーの復権」といわれる事態を、現代美術の批評のなかに確 かめる。そこに挙げられた具体的な作品に即して、現代の美術作品と鑑賞という概念のずれが明らか になるだろう。現代美術との関係から捉え直した鑑賞がどのような可能性をもっているかについては、 今後の課題として示したい。 1 象徴とアレゴリー 象徴は、近代美学の中心的な概念である。『美学辞典』の「象徴」の項を見ると、象徴論はすでに、 カントの「感性的理念」の概念に示されている。感性的理念が表現している内容は、この表現に先立っ て存在するものではない。「その内容は、その表現によって初めて囲い込まれるものであり、かつどの ように言語的な説明を試みても、なお別の言語化を刺戟するという点で、本質的に豊かな多義性をは らんだものである。」2)象徴とはこの感性的理念のように、理念を感性によって捉えられるように具 体化したものだが、その表現自体が独特の意味を創出し、形式と内容が内的に一体化している。つまり、 予めある一定の内容を伝達するのではなく、その絵画、その音楽によってしかその内容が表現されえ ない、特殊な記号のあり方である。こうした象徴概念によって、芸術作品の独自のあり方が示される ようになったのである。 このような象徴の概念は、一般的な用法とは異なり美学のなかで発展してきたものであるにしても、 私たちが芸術作品に求めている独特のあり方を、言いあてていると感じられるのではないだろうか。 こうした芸術観からは、現前する作品を感性によって直接に受けとめ、各々がその都度、豊かな多義 性を創出する理想的な鑑賞体験が浮かび上がってくる。 けれども、こうした象徴と区別されたアレゴリー(寓意)を中心に据えると、鑑賞体験も上のよう なものとは異なるものになる。象徴概念は、アレゴリーとの対比において確立されてきた。シェリン グにとっても象徴は、「自らの力によって精神的な意味を現象させる表現形象」であるが、一方アレゴ リーは、意味するもの(特殊)と、意味されるもの(普遍)との区別が前提とされる。3)象徴は自己 の外部の理念的意味を指すのではなく、それを自分自身のなかに有している。これに対してアレゴリー は、自らの外に存在する外的意味に依存している。4)そこでは、「知恵」という理念(普遍)がミネルヴァ (特殊)によって示されるのである。鑑賞の場面においても、象徴が無限の解釈を受け入れるのに対 して、アレゴリーは見る者に有限の意味をもたらすにすぎないとされる。しかし、アレゴリーが芸術作品の歴史のなかで大きな役割を担ってきた事実からは、象徴という概念を中心とした近代美学とそ れに即した鑑賞のモデルが、実は時代の要請に応じた特殊なものであることが明らかになる。 ガダマーは、『真理と方法』において「アレゴリーの復権」を語り、「まったく別の価値尺度が存在 したことを思い合わせれば、芸術作品を芸術作品たらしめるのは、純粋な体験や濃密な表現といった ものではなく、すでに定まった形式と語り口を巧みに操ることであるということもできるのである」 と述べている。5)ガダマーは、そもそも象徴とアレゴリーの技巧上の対立関係は、過去2世紀の哲学 的展開の結果であり、いずれも、表現されているものの意味が表現の現象面、つまり外面や字面にあ るのではなく、それらを超えたところにあるという共通性をもっていることを説く。つまり象徴もア レゴリーも、非感性的な(直接に感覚されない)内容を、感性的な対象によって表している。 アレゴリーはもともと修辞学における文彩のひとつであり、本来言い表したいものがそれとは別の、 もっとわかりやすいものによって代弁され、それによって本来言い表したいものを理解できるように する方法である。一方、象徴は、それが指示しているものを通じて他の意味と関係するのではなく、 象徴自体の感覚的な存在が意味をもつものとされた。例えばバッジや身分証明書のように、それを見 せることによって、直接に別のことが見てとれるのである。このように、象徴とアレゴリーは別の領 域で、近い意味で用いられていたとガダマーはいう。しかし両者が宗教的領域で好んで使用されるよ うになると、象徴は、可視的なものと不可視のものの連関を前提として、感覚されるものによってそ れ以上のものを示し、神的なものに高められていく。象徴がこのような形而上学的な結びつきを想定 するのに対して、アレゴリーはむしろ慣習と教義の固定によって作り上げられた秩序を想定している。 こうして18世紀終わりごろには、象徴とアレゴリーが対置されるようになる。「こうして象徴および 象徴的なものは、内的つまり本質的に、意味の付帯したものとされ、外的つまり人為的に、意味が付 帯されたもの、すなわちアレゴリーと対置されるようになる。」6) アレゴリーは古代ギリシアにおける神話的なものの合理化やキリスト教の聖書解釈と結びついて芸 術や文学の基盤となり、その最後の世界様式はバロックであった。その後、合理主義の束縛から美術 を解放する、天才による無意識の創造、自由な芸術制作というアイデアにとってかわられた。このよ うに考えるガダマーは、アレゴリーの復権をバロック芸術の再評価の機運に見いだしている。 そして、1980年前後の時期に、現代美術においてアレゴリーは再び注目された。そのことを印象づ けて、今もこの時代を代表する評論のひとつと見なされているのが、小論で紹介しようとするクレイ グ・オーウェンス「アレゴリー的衝動̶ポストモダンの理論に向けて」7)である。この論文は、1980 年の『オクトーバー』誌に2回に亘って発表された。1982年の、ベンジャミン・ブクローによる「ア レゴリー的手続き:現代美術におけるアプロプリエーションとモンタージュ」8)と並んで、そこでは 現代美術のアレゴリー的側面が論じられていた。現代美術はどのようにしてアレゴリー的であり、そ れを受け止める側は、どのような態度の変更をせまられるのだろうか。 2 現代美術とアレゴリー オーウェンスもまた、アレゴリーは「2世紀に亘って美的逸脱、芸術の反対物として非難されてきた」 という認識をガダマーと共有している。アレゴリーの抑圧はロマン主義の芸術の遺産のひとつであり、 批判されることなくモダニズムに引き継がれたとオーウェンスは述べる。同時代を描こうとするモダ ニストの信念によって、アレゴリーは歴史画もろとも歴史的な存在として排除された。「象徴は、純粋 な現前としての芸術作品を特徴づける形式と物質の分解できない結合を表していた。」「象徴と美的直 観の、アレゴリーと慣習の結びつきは、近代美学に無批判に受け継がれた。」9)コールリッジとクロー チェを引用しながら、オーウェンスもまた象徴とアレゴリーの対立を前提として語り始める。そして アレゴリーを「ある表現の外側につけ加えられた表現」と見なすことによって、形式と内容の結合に
挑戦するようなものは作品から排除してしまうことを「西洋美術理論の不変の戦略」と見なしている。 オーウェンスは、歴史の忘却、伝統の断絶というギャップを回復しようとする衝動が、アレゴリーの 基本的な衝動であるという。このことから彼は、建築上の歴史復興運動や美術史学におけるリヴィジョ ニズムのようなポストモダンの現象を、アレゴリーの再出発と見なしている。オーウェンスによると、 アレゴリーはテキストが作者によって二重化されているときには必ずおこっている。たとえば旧約聖 書は、新約の予型として読まれるときにはアレゴリー的になる。旧約聖書の出来事を新約聖書の出来 事と結びつけながら読むことは、もとのテキストをそのままの意味で読むのではなく、そこに意味を 累加して読んでいるのである。聖書の注釈がアレゴリーの起源のひとつであるように、アレゴリー的 作品は、作品自体がどのように読まれるべきかを規定する傾向がある。「アレゴリー的構造においては、 あるテキストは別のテキストを通じて読まれる。その関係が断片的、間歇的あるいはカオス的なもの であっても。」10)こうして最初のテキストを書き直す注釈や批評がアレゴリーのモデルとなるが、も ちろんオーウェンスが注目するのは芸術作品においてこの関係が生じるときである。それはつまり、 最初のイメージが利用され、別のものとして解釈されるときである。そこではオリジナルの意味は回 復されず、アレゴリー的な意味が、先行する意味にとって代わられる。 オーウェンスは、このようにアレゴリーを記述し直した上で、アレゴリーと現代美術のあいだに3 つの繋がりを見いだしている。アプロプリエーション(流用)、サイト・スペシフィシティ、アキュミュ レーション(集積)である。 アプロプリエーションの作品として挙げられているのは、トロイ・ブラウンタッチ、シェリー・レ ヴィーン、ロバート・ロンゴの作品である。かれらの作品は、複製されたイメージを通じて生み出さ れている。たとえばトロイ・ブラウンタッチは、キャプションをつけずに、素描をもとにした作品を 展示する。しかしそれは、かつて画学生であったヒトラーの手になる素描なのである。オーウェンス が1980年代に多く見られた手法であるアプロプリエーションをアレゴリーとして捉えるのは、オリジ ナルの作品(ここではヒトラーによる素描)を鑑賞するのではなく、第一のイメージへの注釈や批評 として作品が提示されているからである。 サイト・スペシフィシティとは、私たちが作品と出会うその場所に埋め込まれている、設置におい て生じてくる作品の特徴を指している。そのサイトと作品は、弁証法的な関係を結ぶとオーウェンス はいう。たとえば、ロバート・スミッソンがグレート・ソルト・レイクに築いた《螺旋形の突堤》は、 湖の底の渦巻きについての神話によって、その場の読みに関わっている。サイト・スペシフィックな 作品は、廃坑や石切り場といったサイトを注釈することで生み出されるから、アレゴリー的である。 また、アプロプリエーションとサイト・スペシフィシティは、歴史の忘却から対象の痕跡を保存しよ うとするアレゴリー的衝動を伴っている。 アレゴリーと現代美術の第三の繋がりとして挙げられるのは、アキュミュレーションである。それ は、一つ一つ(RQHWKLQJDIWHUDQRWKHU)単純に置くことによって構成される作品である。カール・アン ドレのレンガを並べた《レバー》や、トリシャ・ブラウンの単純な動作の反復による振り付け《プラ イマリー・アキュミュレーション》が挙げられている。断片の偶発的な積み上げ、見たとおりの論理 的手続きの外化、時間や空間における連続という構造は、物語のダイナミズムを拘束し、分裂させる ことによってアレゴリーたろうとしているのだという。ここでは、ある特定の先行するオリジナルが 別の意味にとって代わられるのではなく、物語の筋といったものが回復されずに保留される状態が、 アレゴリー的とされている。アキュミュレーションをアレゴリー的とするオーウェンスの記述には不 明なところもあるが、ここで彼はアンガス・フレッチャーを引用して、アレゴリー的な作品の枠組の ひとつとして数列を挙げている。「もしも数学者が1361120という数字を見たら、彼はこの数列の『意 味』を、数式の代数的言語に言い換えることができることに気づくだろう。」11)オーウェンスはアレ
ゴリーを、連辞に対する範列に、水平な読みに対する垂直な読みに、あるいは見えない構造の認識へ と拡張しているのである。そして論文の第二部で、「アレゴリーはすべての作品が含む構造的な可能性 である」と述べるに至る。 第二部の冒頭には、ローリー・アンダーソンによって1979年4月にニューヨークのキッチン・ビデ オ・音楽・ダンスセンターで上演された『アメリカンズ・オン・ザ・ムーヴ』のテキストが示されて いる。アンダーソンは、マルチメディアのパフォーマンスによってこの頃に注目されたアーティスト である。12)この作品の登場人物は、惑星探査機パイオニアが異星人へのメッセージとして搭載した 人類の図について語る。「あなたはかれらが、男の手がずっとああいうふうに付いていると考えると思 いますか。あるいはかれらは、我々の記号を読みとると思いますか。我々の国では、『さようなら』と『こ んにちは』は、同じように見えます。」13)ここでは、肘を曲げ手を挙げている男性像を異星人が見た とき、もともと人類がそのような形をしていると見るのか、それとも身振りとして読みとられるのか、 読みとられるとしたらどのような意味が読みとられるのか、という問題が提起されている。オーウェ ンスは、アンダーソンによるテキストのリーディング、写真、素描、映像、音楽を使用した作品自体 が、ネットワークとしての世界のなかでの読みの不確定性、記号の両義性を問題にしていると考える。 そしてアレゴリーは、言語の文字通りのレベルと隠喩的なレベルが互いに否定し合い、文字通りの読 みが脱構築されるような、記号と意味を分かつ距離のこととして敷衍される。このように考えるなら、 モダニズムの作品にもアレゴリー化の契機が含まれているのだが、モダニズムにおいては、それは潜 在的であった。ポストモダンの美術は、そのような読みの可能性に没頭する。そのとば口にあって、 ロバート・ラウシェンバーグは自らの作品を《オベリスク》《判じ物》《アレゴリー》と名づけたが、オー ウェンスは、ラウシェンバーグの作品を「我々の芸術体験を、視覚的出会いからテキスト的出会いに 変化させる作品」14)であるという。 4 アレゴリーと鑑賞 我々の芸術体験すなわち鑑賞が、視覚的な出会いからテキスト的な出会いに変わるということは、 オーウェンスが挙げてきたアレゴリー的な作品を思い浮かべれば理解できる。例えばトロイ・ブラウ ンタッチがヒトラーの素描を引用した作品に対して、象徴としての作品に応じて想定したような鑑賞 のしかたで作品をみつめ、その表現を感じ取るという態度が通用しないことは明らかである。三連画 のような三つの赤い色面に、画面に比して小さくランダムに版画で転写された黒い素描は、断片的だ が奇妙な丁寧さを見せている。(図1)不明瞭ながら、舞台、アーチのある入り口、沈没するタンカー が見える。そして、それらがヒトラーによる素描であることを示すキャプションはない。「作品は無言 で、無意味のままであるがこの不透明さこそがブラウンタッチが提示するものであり、これによって 我々は彼の作品をアレゴリーとすることができるのである。これらの秘密を解く鍵を手に入れるかど うかは純粋な偶然の問題のままであり、このことがブラウンタッチの作品にその否定しがたいパトス 図1:ブラウンタッチ《123》1977年、フリードリヒ・ペゼル・ギャラリー(ニューヨーク)
を与えており、作品の力の源ともなっている。」15)このようにオーウェンスはいう。一人の鑑賞者にとっ て、この謎のイメージと「ヒトラー」という過剰な意味はやがてぶつかりあうかもしれないが、それ は鑑賞の場においてではなく、例えばのちに展覧会の批評を読むときにである。新しい意味を読みと ろうとする鑑賞すら、必ずしも必要ないとされている。しかしこの作品がヒトラーの素描の流用であ ることを知らないまま見る可能性は、既にそれを知っている側から想定されているにすぎない。 同じくアプロプリエーションの作家として挙げられていたロバート・ロンゴの作品としては、《ボー イズ・スロー・ダンス》のシリーズについて述べられている。この作品は大きさの違う三連の構成で、 アルミニウムのレリーフにラッカーで塗装されている。ロンゴは自らがキュレイターを務めていた ニューヨークのキッチン・ビデオ・音楽・ダンスセンターでの映像の体験をもとに、映画のスチール から二人の男性の組み合わせを抜き出した。それぞれ、「スウィング」「パイロットたち」「レスラーた ち」と題されているが、背景はなくその関係も不明瞭で、例えばレスラーたちは、取っ組み合いをし ているようであり、抱き合っているようであり、それを立ってしているのか横たわっているのかも分 からない。オーウェンスは、この作品に判読不可能なアレゴリーを特徴づける意味の対立をみている が、この作品は、人間の身振りによって表現される暴力と愛の衝動を見るものに伝えるように思われ る。ところが、オーウェンスは加えて次のようにいう。「この曖昧さこそがまさに、写真、映画、テレ ビにおいて暴力を美的見せものに変容するのを許している曖昧さなのである」。16)そうであれば、た だその表現を感じ取ることに抗して、イメージの批評としてアレゴリーを捉えることが要請されるは ずである。私たちが鑑賞の態度を変えなければ、ロンゴの作品は、テレビや映画における暴力と同様 に美的なスペクタクルとして消費されることを避けられないだろう。実際〈メン・イン・ザ・シティー ズ〉(図2)のようなロンゴの鮮烈なイメージは、1980年代の美術マーケットの花形だった。 ラウシェンバーグ(図3)は、さまざまな物質の断片やイメージの引用、ほかのアーティストの素 描などを同一平面上に併置したが、その判読もまた失敗に終わる。断片のばらばらな組み合わせに対 して、イコノグラフィーは無力である。「フレームから外され扇のように広げられた赤い傘、メタリッ 左:図2 ロンゴ《無題》〈メン・イン・ザ・シティーズ〉より、1981年、8%6アート・コレクション(ニューヨーク) 右:図3 ラウシェンバーグ《アレゴリー》195960年、ルードヴィヒ美術館(ケルン)
クな襞をもつ滝のようにしわくちゃになり、鏡に張られた錆びた金属板、裂けてばらばらになったに 違いない印刷物から取られた赤いブロック体のレタリング、布の見本、洋服の端切れ。この目録のな かに、これらを一貫させて繋ぐような共通の特質を見いだし、一緒に横たわっていることを正当化す ることは、おそらく無理だろう。」17)それが何かを表すとしたらゴミ捨て場だが、そのことによって ラウシェンバーグの作品は、文化のゴミ捨て場たる美術館というサイトにおいて、その場との相互依 存性を獲得するという。美術館に展示されている作品は、なんらかの関係によって繋げられている。 ラウシェンバーグの作品の一貫性のなさは、美術館の言説を脱構築するが、そのためには美術館の一 部にならなければならない。つまりラウシェンバーグの作品は、私たちが美術を見る美術館という場、 そこでの意味生成自体に働きかける作品であるという。ここで想定されているのは、作品一点一点と 向き合うのではなく、美術館に対するメタ的な視点と作品とを往還するという鑑賞のし方なのである。 確かに、一点一点を鑑賞するといっても、美術館での鑑賞には周りの作品との関係が無意識のうちに も織り込まれている。 オーウェンスが挙げるアレゴリー的な作品において、いかなる鑑賞が要請され、それに私たちはど のように応えることができるのか。問題点も含めて検討してきたが、最後にシンディ・シャーマンの 作品を見てみたい。 シャーマンの、197780年の〈無題の映画スチール〉シリーズは、すべて写真によるセルフ・ポー トレイトなのだが、アーティストは常に変装している。18)195060年代の映画文化の名残であるポー ズとセッティングのなかで、キャリア・ガール、純情な娘、性的対象としての女といったステレオタ イプを演じている。そして、時折フレームの外に不安そうに目を向けることによって、物語は、示さ れないが暗示されている。私の授業での経験では、事前の情報なしにこの作品の策略を見抜くのはこ とのほか難しいようだが、アメリカ文化のステレオタイプが共有されていないことも一因かもしれな い。けれどもシリーズ作品としてのイメージの連続性と、わずかに奇妙な変装を注意深く観察すれば、 表情や状況をそのままその人物に帰することには迷いが感じられてくるのではないだろうか。オー ウェンスにとっては、シャーマンの作品は、無垢な女性性というメディア上の幻影を脱構築するだけ 図4:シャーマン《無題の映画スチール:第6番》1977年。
でなく、演じることによって自分自身を疎外し、そのことを通じて自己が想像的な構築物であること 示している。またここでは、美術館におけるラウシェンバーグと同じく、それを非難するために非難 される活動に参加するという避けがたい状況(ここではメディア上の女性像をなぞること)が生じて いるという。 このように見てくると、アレゴリー的な作品は鑑賞態度の変更を要請しているというより、むしろ 見て感じ取ることという鑑賞態度によって当惑することをこそ、要請しているかのようである。こう した状況を俯瞰する批評家の視点が、そこに意味を補うのである。現代美術を見ることの困難さとは、 鑑賞者として意味の決定不可能性に当惑することであり、そうでなければ、脱構築を見いだす視点を 獲得すべく努めなければならないことなのである。 5 多様な鑑賞に向けて 現代美術を見るときの困難さを作品の構造から捉えるために、象徴とアレゴリーの対比において、 現代美術にアレゴリー性を見いだすオーウェンスの議論を辿ってきた。その主張が鑑賞の態度に挑戦 することが確認されるとともに、問題点も浮かび上がってきた。これによって少なくとも、現代美術 の多くの作品がなぜ難しいと感じられるのか、その理由の一端を明らかにすることができた。 けれども、アレゴリーは作品の構造であるだけでなく、テキストを二重化しようとする私たちの態 度のことでもある。だからこそ、アレゴリーによってモダニズムの作品に潜在する読みが可能となり、 ポストモダニズムとともに美術史学のリヴィジョニズムが進展してきた。19)このような見方からは、 象徴に対応する美術作品への向き合い方としての鑑賞は、フィクションとも感じられる。 しかし、象徴とアレゴリーはともに豊かな議論の源泉であり、これらの議論を互いを排除すること なく役立てることができるだろう。象徴概念が示した芸術のあり方は、そこに全体性や超越性を求め ることはもはやできないとしても、依然として重要である。シェリングが自らの時代をアレゴリーの 時代と規定した上で象徴を希求したとすれば、近代人が体験した分裂から象徴の意味を考え始めなけ ればならない。20)一方、オーウェンスが「断片」として盛んに言及しているベンヤミンがアレゴリー に求めた弁証法的な意義も、恩寵を失った世俗的、物質的な世界を起点としていた。さらに、いかな る視覚芸術もまず感性の対象として現れるのだから、そこでの意識の発動の様相を探ることが求めら れることはいうまでもない。そしてそのような個別の研究は、枚挙にいとまがない。ここでささやか に試みたのは、鑑賞すなわち人々と美術が出会う場において美学、美術批評、美術教育といった専門 領域を、分断することなくクロスオーヴァーさせる提案だった。そのため、美的観照や美的体験の議 論を辿ることなく、一般的な用語である鑑賞に即した記述を試みた。21) 1)文部科学省『中学校指導要領(平成20年3月告示)』第2章(各教科)第6節(美術)。 2)佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年、142頁。 3)前掲書、142頁。 4)小田部胤久『象徴の美学』東京大学出版会、1995年、223頁。 5)ハンス=ゲオルグ・ガダマー『真理と方法Ⅰ哲学的解釈学の要綱』(轡田収・麻生建他訳)法政大学出版局、 1986年、102頁+DQV*HRUJ*DGDPHU:DKUKHLWXQG0HWKRGH*UXQG]XJHHLQHUSKLORVRSKLVFKHQ+HUPHQHXWLN1960 1965197219757ELQJHQ) 6)前掲書、106頁。 7)&UDLJ2ZHQV 7KH$OOHJRULFDO,PSXOVH7RZDUGD7KHRU\RI3RVWPRGHUQLVP LQ2ZHQV%H\RQG5HFRJQLWLRQ 5HSUHVHQWDWLRQ3RZHUDQG&XOWXUH%HUNHOH\/RV$QJHOHV2[IRUG8QLYHUVLW\RI&DOLIRUQLD3UHVV19925287
8)%HQMDPLQ+'%XFKORK $OOHJRULFDO3URFHGXUHV$SSURSULDWLRQDQG0RQWDJHLQ&RQWHPSRUDU\$UW $UWIRUXP
YRO21QR11982論文紹介として以下。増田展大「アレゴリー的手法:現代アートにおけるアプロプロエーショ ンとモンタージュ」『美学芸術学論集』3号、神戸大学芸術学研究室、2007年、7781頁。
9)2ZHQV6263 10)2ZHQV54
11)2ZHQV56$QJXV)OHWFKHU$OOHJRU\7KH7KHRU\RID6\PEROLF0RGH,WKDFD&RUQHOO8QLYHUVLW\3UHVV1964279
303フレッチャーによるアレゴリー論の邦訳として、以下。アンガス・フレッチャー「文学史におけるアレ ゴリー─アレゴリストの組合せ術と装飾術」、フレッチャー他(高山宏他訳)『アレゴリー・シンボル・メタファー』 平凡社、1987年、10849頁。 12)日本では2005年に回顧展が行われた。『ローリー・アンダーソン─時間の記録』177インターコミュニケー ション・センター。 13)2ZHQV71 14)2ZHQV74 15)2ZHQV79 16)2ZHQV79 17)2ZHQV76 18)この作品のカタログとして以下。'DYLG)UDQNHOHG&LQG\6KHUPDQ7KH&RPSOHWH8QWLWOHG)LOP6WLOOV0XVHXP RI0RGHUQ$UW1HZ<RUN2003日本での紹介として、以下の展覧会カタログがある。森千花他『シンディ・シャー マン展』東京都現代美術館他編・朝日新聞社、1996年。 19)こうした美術史学の成果に沿った教育カリキュラムの提案として、以下。$UWKXU(ÀDQG.HUU\)UHHGPDQ
3DWULFLD6WXKU3RVWPRGHUQ$UW(GXFDWLRQ$Q$SSURDFKWR&XUULFXOXP7KH1DWLRQDO$UW(GXFDWLRQ$VVRFLDWLRQ1996 また、エフランドを含む鑑賞教育の研究史について、以下を参照した。長井理佐「対話型鑑賞の再構築」『美 術教育学』第30号、2009年、265275頁。 20)佐々木、前掲書、144頁。小田部、前掲書、236頁。 21)『美学事典』は、「鑑賞」は「厳密な美学上の用語としてはあまり使用されない」とする。竹内敏雄監修『美 学事典(増補版)』、弘文堂、19741988年、166頁。 図版出典:
図1 'RXJODV(NOXQG7KH3LFWXUHV*HQHUDWLRQ197419847KH0HWURSROLWDQ0XVHXPRI$UW<DOH8QLYHUVLW\3UHVV 2009S104
図2 (NOXQGS231
図3 $PLQ=ZHLWHHWDO5REHUW5DXVFKHQEHUJ.XQVWVDPPXOXQJ1RUGUKHLQ:HVWIDOHQ'VVHOGRUI1994S28 図4 (NOXQGS138