戦後教育の起点への省察
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(2) . 田中武雄:戦後教育の起点への省察. 戦後教育の起点への省察. 田. 中. 武. 雄. は じめ に. かつて宗像誠也は, 教育勅語法制と教育基本法制におけ る 「断絶」 を強調して その関係は 「前 , , 1 )というこ 者の発展の線上に後者が位置するというもの でない……全く異質なも のがとっ て代る」( と であるとのべていた. たしかに, 国家と国民の権利関係の転換という法構造の上からいえば 教 , 基法制 定による戦前・戦後の 「断絶」 は, 事実として承認されること である しかし 宗像は こ , , , の法制 史上の 「断絶」 が, それではどのような思想およ び運動の 「連続」 によっ て可能となっ たも の であ る か に つ い て ま では 考 察 の 対 象 と は して い な か っ た .. この戦前・戦後教育法制の 「断絶」 という視角は, 戦後教育改革およ び教育基本法の評価に 基づ くものであっ た, 宗像は, 教育基本法制の樹立を 「換言すれば, 一つの 思想をもっ た全法体系・全 組織制度の基礎がおかれた, ということを意味し……それが旧い法制にとって代ったのであり そ , 2 )と こに断絶があるの であっ て, それを確認することがまず基本的に, 決定的に,重要なの である」( とらえていた. すなわち, 彼における戦前・戦後教育法制 の価 値転換という分析視角は, 戦後教育 改革の評価を, 近代日本教育史の必然的発展と いう視野でとらえるものではなかったといえるので あ る.. 宗像における戦前・戦後教育の 「断絶」 の法制 史上の有効性を認めつつ, あえて本稿が問題にす るのは, 教育運動の 「連続」 からみた戦後教育改革の再評価について である. それは, これまで 「戦 後の教育改造の基本的な線を描いた」(『アメリカ教育使節団報告書要解』19 50年)と評価される「ア メリカ教育使節団報告書」 以前に, す でに存在していた下からの教育改革構想を分析対象として, 戦後日本の教育改革が占領下の 「外圧」 によっ てだけではなく, 日本人自身の手によっ ても 「内発」 的に準備されていたことを示そうとするもの である.. そのことは, 又, すでに1959年に芝田進午が, 村山俊太郎の教育構想 (1 947年) にふれて, 「戦 後いちはやく, 民主教育発展の先頭をきっ たものは, 教育制度においても教育内容や教育理論の点 3 ( )と指摘した点を実証的にあとづけることでもあ でも,教育労働者をふくむ労働者階級の側だっ た」 る, そこ で芝田が, 村山構想を評価して 「はやくも封建制の克服のみ でなく, さらに近代主義の限 界をこえて, 労働者, 農民など働く 人びとの教育要求を中心に生産と教育の結合をめ ざそうとする 4 )とのべたように 当時における下からの 「内発」 的改革の意識と 将来の教育への展望がみられる」{ , エネルギーこそが, 戦後民主主義教育の定着の第一義的要素 であっ たと思われるのである. 1. 戦時下における戦後構想 1945 年 8 月 15 日の敗戦は, 戦後日本の教育が戦前批判を媒介として出発せ ざるをえないという. 歴史的条件を与えた. そして, その戦前批判の究明は, 深部において, 戦前教育に対する批判者の 思想と運動の継承とつながるものであった. それは, たとえ少数にとどまっ たとはいえ, 帝国主義.
(3) . 田中武雄:戦後教育の起点への省察. 戦争に反対し続けた抵抗の戦争体験が存在したことを正しく評価し, そこに戦後教育の-起点を見 い出すこと である. 家永三郎は, こうした戦時下の抵抗によっ て, 民主主義と平和主義の伝統が- 棲の光を守りつ づけてきたことは,「日本の歴史が, そうした側面においても, 戦争期によっ て中断 させられることなく, 戦前, 戦中, 戦後を貫いて連続していること」 を示すものであり, しかも 「そ の内にす でに, 戦後の再建の道を示唆する構想のめばえている 点は, 右の連続性をいっ そうたしか 5 )と の べ て い る に 裏 づ け る も の と し て, 特 に 注 目 す べ き であ る」( .. 戦時下の抵抗の中から, 戦後日本の再建構想を準備したものとして, 中国の延安で 「日本人解放 6 )があげられるが 組織的抵抗がことごとく壊滅させら 連盟」 を組織した岡野進(野坂参三)の活動( , れた国内においても, 日本の敗戦を予測し, 戦後の準備を示唆する動きがかろうじて続けられてい た. 例えば, リ ベ ラルな外交史研究家, 評論家として知られる清沢例は, その日記に, 「国家を最大 絶対の存在と考え, その国策の線に沿うことが義務だという考え方……外国においてはそう した立 2 場をとらない人々 が少なく ない. そのアチチュ ー ドを作ることが, 今後の教育の任務だ」 (44年1 7 )「当分は戦争を嫌う気持が起ろうから その間に正しい教育をしなくてはならぬ それか 月 2 日)( . , ら婦人の地位をあげることも 必要だ。 日本 で最大の不自由は, 国際問題において, 対手の立場を説 明 す る こ と が でき な い 一 事 だ. 日 本 に は 自分 の立場しかない. この心的態度をかえる教育をしなけ れば, 日本は断じて世界一等国となることは できぬ. 総べての問題はここから出発しなくてはなら 8 )と 記 して い る ぬ」 (45 年 1 月 1 日)( .. 又, 敗戦を迎える以前に, すでに戦後につながる教育文 化啓蒙組織も生まれようとしていた. 1945年の7月, ……数人の同志の間に民主主義者の会合を組織することが提案された. 日本の 敗北は当初より予想されていたところ であっ たが, ついに 時間の問題となっ た. 今や来るべき敗 北の後の新日本の建設について考えなければならない時である. そこ でまず, 第一に, 戦争に反 対し, 和平の促進に努力 し, あるいは少くとも戦争中その 思想的立場を失はなかっ たところの, 信頼し得る民主主義者を, その過去の政党政派の如何を間はず探し求めて, 敗戦後の諸問題につ 9 ) いて互に胸襟を開いて話し合う 機会を, つくることとなっ た~ これは, 敗戦直後もっ とも早い動きを示した文化団体 「自由懇話会」 の結成準備である.45年10 月1日の発足後, この会は,「真撃ナル研究ト活発ナル実践トラ通ジテ高度ノ文化ヲ築キ平和国家日 本ヲ建設シテ国際親善ノ実ヲ挙 グルコト」 を目的にかかげ,「教育制度ノ根本改革」 を事業要目の一 つとして, 教育部会をおき活発な啓蒙 活動を展開したのである. 戦時下の193 9年に結成され, 後に, 教師の待遇改善問題, 国民学校制度の批判 ・検討等をとりあ 2月) させられた 「日本青年教師団」 に集まっ た教師たちも, それ以後 げたことにより解散(41年1 も全国的な結びつきを絶やさない でいた. そして敗戦後の45年9月,「教育研究会」 という名称で, 教育再建の活発な論議を開始していくの である。 その当初の 「教育再建案要項」 には, 教育機会の 均等, 公民教育の徹底, 学校系統・教 科課程の根本的改革, 教員養成機関の根本的刷新等と共に, 「教育に関する勅語』 の聖訓に格逸 し 『万世の為に太平を開かん』 との大詔を奉戴し, 世界人類の l o ) 為に新文化を創造するを教育の大目的とす」 という方針がかかげられていた( . しかし, こう した事実は, すでに戦時下において, 下からの教育改革の要求が芽生え, 結びあお うとしていたことを示すものであっ たと思われる. 1 1 . 村山俊太郎の戦後教育 構想 敗戦直後, 多くの国民が精神的虚脱と混乱の状 況におかれていた時, 他方 では, この新しい条件 の変化の下 で過去にかかげた 反戦平和とヒュ ーマニ ズムの運動の再出発を期 していた人たちもい 2.
(4) . 田 中 武雄 : 戦 後 教育 の 起 点 へ の省 察. た. 例えば, 戦前の 「教労」 (日本教育労働者組合. 19 30年1 1月結成) に参加 し, 治安維持法違反 で検挙されて敗戦の年の2月に釈放された山口近治は, 同年9月下旬の日記に次のような感懐を記 して いる.. 日本は敗れた.軍閥・官僚の短見者共によっ て指導さ れた侵略戦争 -- 無謀な且つ 己れの力を 知らざる -- は敗れるべく して敗れた。 やがて連合軍の圧力によっ て, 日本の軍閥 o 官僚は敗退 し, 日本国民は始めて封建的抑圧政治から解放され, 政治, 経済, 芸術, 科学, 教育 等のあらゆ る分野に於て, 近代的な自由とは どの様なものであるか を知るに去るであろう 。 日本は敗れた. 我々は空爆による廃櫨 の上に, 底知れぬ飢えと寒さと病苦と生活物資の欠乏と 失業とイ ンフレーショ ンの嵐の中に, 新しい日本を再建しなければならない 合理的な近代精神 . 1 0 ) に立つ自由にして民主主義的な日本を -- 封建的・軍国的な日本に代っ て --{ 又, 戦前の 「新教」(新興教育研究所。19 30年8月創設) , 児童文化運動, 教育科学運動に参加 し, 4 3年9月から敗戦後の4 5年9月ま で検挙・拘留をうけていた菅忠道も, 当時をふりかえっ て次の よう に の べ て いる。. 僕の場合, ポツ ダム宣言のなかの 「日本における民主主義的伝統の復活強化」 というのをどう 具体化するかということが, 今でも強烈な印象で残っ ています。 ……日本には, 日本の伝統があ り, 昭和初期の 「教労」「新教」 も含め, 大正時代の自由教育のプラス面なども含めて, 生かさな 1 1 } く て は な ら な いと 考 え た と い う こ と です( 。. 戦前, 山形の地で 「教労」 運動, 生活綴方運動 での二度にわたる検挙をうけ, 病いにおかされな がらも戦後の活動に立ちあ がる村山俊太郎も, 敗戦をみとおしていた一人 であっ た 先ず, 村山の 。 戦前20年間の実践の反省と展望は, 敗戦直後, 自らつづっ たメモ 「新教育の構想」 の中にあらわさ れている. そこ では, 新教育確立運動への摂取すべき教育遺産として, 芸術教育及 び生活教育の民 主主義的要素と戦時増産教育を否定的媒介とした 「科学教育の生活的生産的技術的総合組織化」 戦 , 時道義 (生活観, 倫理観) を清算した上での 「民主主義的倫理観の確立」 公民学のうえ そして に , , たつ 「民主的公民教育の建設」 があげられている. この原則の上に, 村山は, 新たに展開すべき 「新 教育の構想」 として, 新しい世界観に立つ教育科学の建設, 比較教育制度研 究による教育制度の改 造, さらには, 教師, 訓育, 学校自治, 教科組織, 学校・学級経営, 教科内容にまでわたる学校教 1 2 〉 育構想を提示したのである( . このヒュ ーマニ ズムとリアリ ズムを基調と した生活主義教育=北方性教育運動を継承してたてら れた 「新教育の構想」 は, 46年4月の復職, そして東村山郡教組委員長か ら6月の山形県教組副委 員長となる過程の実践, 運動をへて 「教育民主化への構想」 に発展していっ た. そこ では, 第一に, 「教育の解放」 を社会革命の基礎に立っ て すなわち政治と教育の結合の観点 で位置づけ その民 , , 主主義教育の建設=教育における民主主義革命は, 「人民自身の手による教育建設」 「労働観と技術 とを文化教育に組織する」 「あらゆる階級, 民族, 性の区別なく, 教育を受ける権利の確立」 「社会 科学と教育科学の結合」 等の原則に基づいて行なわなければならないとした 又, 第二に 過去に 。 , おける生活教育運動 (新興教育運動, 北方教育 o 生活主義教育運動, 教育科学運動) の歴史的遺産 の継承を検討し, 「この30年の教育史のなかには過去の日本文化の総結集としての歴史的理性と民 族的感情がとげあっ て」 おり, 新民主主義教育の建設にとっ て, 「何を滋養分として摂取すべき で」 あるか, すなわち 「これら教育展開から何を学び, 何を批判すべきかを明確に把握する必要がある こと」 を問題にした. そして, 第三に, 「教育民主化への構想」 として, 教員組合運動の強化発展, 文化サークル組織による文化啓蒙, 教育の封建性の克服と民主主義教育方法の建設, 学校委員 会に 3.
(5) . 田中武雄:戦後教育の起点への省察. 1 3 ) 村山が ここ でまずま っ 先に 「教員組合運 よる教育民主化, 国語国字の合理化等にふれている( , , . 「 動の強化発展」 をあげていることは, 彼の 日本を民主化するための全般的な運動の基本的な推進 4 1 )という原則的立場から出たもの であっ た しかも この教員組合運 力は, 労働組合運動 である」( , . 動が, 経済主義, 文化主義の偏向を排して,「生活権の確立のうえに……教師としての 正しい世界観, 1 5 )と主張した 教育観, 方法観の三位一体的把握をなすことによっ てのみ正しい発展が約束される」( ことは, 当時における教育労働運動と教育文化運動の統一的把握を提示したものであっ た. 2月の山形県教組理事会の「教育復興案」の中で, このような教育構 想をふまえて, 村山は,46年1 「国民自身が我が子の教育管理に参加するという 原則の確立」 の上に, 「文化, 経済, 政治, 学術等 の諸団体及 び労働組合, 農民組合の代表による教育委員 会」 を構想し, そこにおいて 「あらゆる教 育政策が審議され, それが最高の意志決定 機関とされる」 という教育行政改革をうち出した. 又, 学校運営についても, 児童生徒による全校委員会の代表と 父兄全体の公選による父兄委員会と学校 職員の三者による学校運営委員会を組織して, 学校の運営にあたり, 校長を公選とするという学校 1 6 ) 管理改革案を構想していたの である( . 村山が敗戦直後において, 明確な教育課題の認識をもちえたことは, 戦前の教労, 生活綴方, 生 活教育運動の遺産継承の認識ということと同時に, 敗戦後の教員組合運動のなか での正しい現状認 識に基づいていたものであっ た. 例えば, 彼は, 当時す でに, 「独占資本主義の打倒と封建勢力の一 掃とフ ァ シズムの再起への民主的斗争なしには教育建設は, 不可能 である」 こと, 又, その斗争の 障害物として 「教師自身が封建勢力への斗争を放棄して自 らが権力への服従のなごりを維持してい 1 7 )をも問題としていたの である それは 村山の戦後の実践運動の中 で, 戦前の弾圧の体 ること」( , . 験をもふまえて敏感に認識した問題状況を反映したものであっ た. 敗戦直後の4 6~4 7年にかけてす でにこのような 思想水準に到達していた村山俊太郎の戦後構想 は, 戦後いちはやく 再出発した教員組合運動と日本の労働者 階級の斗いの中から生まれた戦後教育 改革,の 「人民的発想」 ともいうべきもの であっ た. そして, 当時の教育情況においては, 末発の可 能性としておわっ たその諸原則は, 今日の教育運動への遺産として残されているの である. m. 敗戦直後における知識人の教育認識 戦後日本の教育構想は, ひとり教育関係者のみ ならず, 広く国民各層においても考えられていた. それは, 戦争と教育をめ ぐる国民の歴史体験の反省から生まれた強いねがい でもあっ た. 当時, 創 刊・再刊された総合雑誌の主張や論稿にも, そのことをうかがうことができる. 例えば, 『世界』 創 刊号 (4 6年1月) の論文 「自己教育」 の中 で, 湯川秀樹は, 「これからの日本にとっ て教育がどんな に大切 であるかは, いくら強調 しても足らないと 思ふ……単に少数の知識層 だけ でなく, 国民の全 体が社会を建全ならしめるに必要な だけの教養を身につけることが非常に 大切 な問題に なってく 1 8 ) 又 羽仁説子も る」 とのべ, 国民全体の良識と教養の向上を社会教育の問題として主張した( , . . 論文 「女性と自由」 の中 で, 母親が隷属の中にねむっ ている家庭には, 子供を教育する文化が成長 しないし, 又, 青少年学生から自由を奪っ たことが彼らをおそるべき無気力, 非文化, 知識に対す る盲目としてしまったと批判 して, 今後の 「教育学は戦後の不良少年少女たち, 多くの孤児たちと ともにあり……そ して, それは……もっ とも現実的なものと, もっ とも学問研究の深いものとの機 1 9 ) 械 的 でな い, ほ ん と う の 結 合 を 希 望 し て や ま な い」 と の べ て い た(. 46年1月に再刊された 『中央公論』 も, 同年4月号において巻頭言に 「民主主義と教育の改革」 を載せている. そこ では,「日本教育の民主主義化は国家教育の 反省から始めよ」 とのべた上で,「わ れわれは, 民主主義の発展が, かやうな天皇の名によっ て教育 思想の基盤 が示されねばならなかっ 4.
(6) . 田中武雄;戦後教育の起点への省察. た過去の 日本を再現することなく, そのような必要のなくなることを期待しているのである 国民 , 自身が自己の子弟をいかに教育 すべきかを自主 的に決定しうるやう 議会に基礎をおく政府が必要 , ある時に 教育政策の方針 を示せ ば足るやうな時代を実現した いのである と主張していた( 2 0 ) 」 さらに, 雑誌 『潮流』 第二号 (46年2月) の論文 「民主主義革命と日本歴史教育 の革新 の中で 」 , 安藤良雄は, 教育の民主主義的改造を歴史教育の民主化の問題としてとらえ その徹底的に民主主 , 義的 で科学的な歴史教育は, ただ 「歴史」 を教えるだけ でなく真の民主主義確立に 必要な多くのこ とを教えなけ ればならないとのべている そしてその目標 を 彼は 民主主義の精神 批判的精神 . , , , , 生産 の重要性と労働の尊さ, 社会正義の観念 ヒューマニ ズム等が教えられることにおいていたの , 2 1 ) であ る(. 敗戦直後の教育構想の中で, その教育民主化 の方向を科学的精神 の理念による人間解放 の問題と してとらえた古 在由重の論文 「教育の解放」(『人民評論』46年6月号) は 当時においてきわめて , 重要な原則 を示したもの であっ た そこ では 先ず 教育の問題 を 「あくま で人民解放の途上にお , . , ける教育一般の役わりという一層 ひろい視野のもとに究明されるの でなければならない とした上 」 で, 過去の 「頑丈な日本帝国主義の軍事的, 官僚的な機構のきりはなせない構成部分 であ た教 っ 」 育体制 が 「帝国主義日本の軍事的解体とともに くずれさろうと している 現在 その再建を. 人 」 , , , 民の立場から, ・「単なる関心からす でに実践にうつされた」 ものとして考 えなければならないと述べ ている. そして, その人民の立場からする教育 の再建を 「あらたな社会道徳 すなわち民主主義の , , 倫理」 に立脚して構想 したのである この教育におけるあらたな理念 民主々義的な人間形成の理 . , 念を, 古在は, 「科学的精神」 にもとめていた なぜなら ば 「ほんとうの人道的精神 (ヒュ ーマニ , . ズム) すなわち社会的人間の回復は 同時にまた一切 の観念的圧制とた たかう科学的精神 でなけれ , ばならない」 (傍点, 古在) から である . 「教育のあらたな精神とは ほかならぬ科学的精神 であり そしてこれらは 感性的な感覚 と行動 , , によっ て客観的な実在の把握をもとめ るところの精神だ ……科学的精神は もしこれが事実の . , 真相を追究してやまない精神 であるならば この客観的実在 をありのままの歴史的な発展の姿に , おいてとらえ, しかもなんらかの意味においてこの発展をうな がさなければならぬ もし人間が 。 環境によっ て形成されると すれば, 人は環境を人間的に形成しなけ ればならぬ .」 そ してこのような見地から, 教師の生活権の擁護およ び労働組合の性 質 教師再教育の方法 学 , ,. 校経営の民主化, 師範学校の根本的変革, 学校の地方分散化の必要 督学官制度等を含む官僚主義 , 的諸制度の廃止, 国語国字問題, 国定教科書の廃止, 民間の機関によるその編集 の必要 学費の国 , 2 2 庫負担の問題等々 の教育民主化 の諸問題の考察を行なっ ているの である( ). W。 戦後教育への出発 -- 戦後教育の主体形成 戦後教育の出発点における, 下からの教育構想の存在は 戦争体験の反省をふまえた国民の教育 , への要求を反映したものであっ た. 問題は, そのような国民教育の改造を担う国民の主体的力量と しての組織力と思想水準であっ た, それは, かつて勝田守一 が 新しい構想をもっ て戦後教育に立 , ち向かう変革主体 が 「不在」 であっ たと断定しな がらも その変革すべき 「主体 を 明確に 「国 」 , , 民」 であるととらえ, 「ここ で重要なのは, 戦後の教育改革が どのよう な国民の希望 と要求をもっ , て受けとられたかを明らかにする こと である」 あるいは 「重要なのは この時点で教育 の変革の必 , 2 3 )と指摘した点を実証的に 然性を日本人が どのような意識においてとらえたかという こと である」( あきらかにすること である. ここ では, そのような課題 を敗戦直後の教育運動の展開のなか で検討 5.
(7) . 田中武雄:戦後教育の起点への省察 して み た い.. 戦後教育の主体形成の問題を, 自らの当 面する第一義的課題として とらえてい たのは, 敗戦直後 主化運動の の教育運動 であっ た. この戦後初期の数年間は, 教員組合運動, 教育研究運動, 教育民 荒廃と飢 敗戦直後の とりわけ , 三相にわたる戦後教育 運動の基本 構造が形づくられた時期 である. 餓状況の下で, 戦前の人的, 組織的つながりを求めて結成された教員 組合は, 戦前と戦後の日本の 4 2 )であると同時に 教員 組合自らが 「民主主義の学校と 教育のあり方を 「載然と分っ最大の要因」( , 新教育の 発生そのものを 準備 した」 たすけるとともに 観からの脱出を して, 教師の奴隷 的な人間 5 )と い え る も の であ っ た (2 .. 0月 末~11月にかけて, 戦前の 「教労」 を 敗戦直後の全国的な教員組合結成の準 備は, 45年の1 はじめとする 教育運動関係者によっ てなされた. 教員組合が 「職場=学校の特質に 従い全国的単一 「 組織」 として 「教師の 生活権擁護を目的と する」 自主的団体であり, それゆえに 教育民主化の基 6 2 )に示された その原則的 立場は, 当時, 底となる」 という 「全国教員組合 (仮称) 結成要綱案」( , もの であっ た. 結成をうながす の教員組合の 体に 労働組合として 自主的教員団 旧青年教師団等の , 「 「 の教育の創始 」 とい 又, そこでのべられている 教育を人民自らの手に取り戻す」 人民による人民 う主張は, 戦後教育の民主化を, それを担う 主体の形成からはじめ なければならないという 課題認 識にうらずけられているものであった. 例えば, 12月1日の 「全教」 結成を期に発行された 『日本 「 教育新聞』 創刊号は, 羽仁五郎の 論文 「教育を人民の手にとりも どせ!」 を 載 せ, そ こ では わ が 教育をわが人民の手にとりもどすことが吾人の 急務 である」 そのために,「全日本教員組合は目から 図書編修委員を選出し, 最短時間に 必要なる最善の教科用図書, 映画, ラジオ台本等を編纂刊行す るであろう」「全日本教員組合は, 新しき民主主義日本建設のため, 全日本の学校の業務のすべてを 完全に学校生徒会議と教授会議との下に おくことを要 求する」 とのべていた. 5年11月の論文 「民主主 義教育徹底化のために」 の中でも, 東田操は, 「真の民主主 それ以前の 4 義教育は民衆の手で実 現せねばならない. 我々は, 政府の手による教育の 全面的革命を要求すると 同時に, 我々の手で, 民衆の大学, 労働者の学校等の設立, およ びすべての啓蒙 的教育機関の民主 化を努力せねばならない」「今後の我国の教育は, お国のためという 支配者の手段としての教育から 2 7 ( )と主張していた 解放され, 人民のため, 文化のため, 生活のための教育とならね ばならない」 . 又, 「全教」 結成後, 中央執行委員と なる渡会秋高も, 「民主主義教育は固定した, いはば教育 理想 として求められるの ではなく, われわれが学校に, 農村に, 工場に, 人民の一人として, 教育を自 己の手にとりもどす過程に, それは求められね ばならぬ.」 とのべたあと で, その具体的実践の一方 法として 「学区を単位として, 父兄, 教師, できる なら児童, 生徒代表をも参加せしめさらに教育 に 熱心な人, 文化人, 地方農村に於てならば, 農民委員会, 農民組合, 都市工場 地帯に於ては, 労 2 8 ) ( 働組合等からの参加者を以っ て構成され」 る教育委員 会組織の提唱を行なっ ているの である 教員組合運動の展開が, 戦後日本の教育民主化の前提条件をつくりあげ, 教育の今日の主体を形 成するものであったとするならば, その将来の主体の形成は, 教育の日々の実践活動に求められね ばならないものであろう. 敗戦直後の教育研究運動において, そう した教育実践への着目を自らの 7年12月,「民 研究課題としていたのは,「日本民主 主義教育協会」(民教協) であっ た. すなわち,4 0月19~20日の第一 教」 (民主主義教育研究会46年4月結成) から発展した 「民教協」 は, 翌年1 「 回総会で, 今後の 「新しい教育の創造のための活動」 を, 何を, いかに 教え, あるいは学ばせる の か」 という教育理 論, 実践上の根本問題において, 次のように提案したの である, … … 教 育 の 現 場 でお こ な わ れ て い る, どん な 小 さ な 実 践, ど ん な つ ま ら な いく ふ う でも そ れ が, 6.
(8) . 田中武雄:戦後教育の起点への省察. 現実の社会生活の必要から, 生きた子 どものためを思っ て発揮せられた創意性にとむ実践 である ならば, よくこれに注意してとりあげる…… これらの集積がむしろ高い教育理論をうみ出す土台 とされることがのぞまれる。 ……この意味でわれわれは, ある地域において, ある社会的必要か ら, また子どもや父兄の要求から, ある子どもたち (たとえそれがたっ た一人の子どもであろう とも) のためにほ どこされた教育実践というようなものをとくに重視し, それらの経験がもたら した成果を, 成功の面も, 失敗の面もすべ てとりあ げることによっ て, 新しい教育を創造するた めの尊い教訓をつかみとる必要がある. …… バク大な数を占める未経験教師たちのなや みと要求にたいして, とくに耳をかたむけるこ と, その声とその希望をあつめること……それと同時に, 児童大衆の 「よみ方, かき方, か ぞえ 方」 のような最低の技術を完全に保障してやれるごとき, 簡素に して能率的な指導方法をうみだ 2 9 ) すことは, 学力低下がさけばれている現在最も大切 である( この活動方針は, 当時の教育研究運動の研究課題を深く認識し, そしてのちの民間教育研究運動 へ発展する要素を理論的に準備するものであっ た。 しかも,「過去の教育上の遺産についても, 何が 摂取され, 何がすてられなければならないかを周到に研究し, かつこれを教員大衆の間に普及しな ければならない」 と戦前遺産の継承を問題にし, かつまた 「とくに教育の植民地化的傾向について の検討, 民族独立のための教育内容およ び方法と真の愛国心の教育」 の研究と実践を課題としたこ の思想水準は, 戦後 「新教育」 をのりこえて, 戦後民主主義教育を定着させ, 民主的主体を形成す る教育の原点を示すものであっ た, われわれは, そこに戦後日本の教育の出発点を見い出すことができる, 戦後教育の主体形成とい う問題は, この戦後民主主義教育を担う国民を形成する課題 であっ たといえるの である。 )王. ( 1 ) 2 ( ) ( 3 ) 4 ( ). ( 5 ) 6 ( ). ( 7 ) ( 8 ) ( 9 ) ( 1 の ⑪. 宗像誠也 「教育内容の決定権」(『宗像誠也教育学著作集』 第4巻, 1 97 5年, 青木書店) 所収66頁 同上. 芝田進午 「安保改定と国民教育の課題」(『現代の精神的労働』 9 66年, 三一書房) 5 7頁 ,1 , 所収2 同上, 尚, 村山構想の評価については, 森田俊男 「教師の成長と運動」(『現代教育学』18 9 61年, 岩波書店) . .1 志摩陽伍 「村山俊太郎がなお提起する問題について一(『国民教育研究』24号, 19 64年, 国民教育研究所) ,矢 「 川徳光 「民主教育の諸問題」(『現代日本とマルクス主義』 4,1 96 6年, 青木書店) , 西塔辰男 山形県における 民主的教育運動の発展」(『地域における教育運動』 全書国民教育7. 1 96 9年明治図書) 等がある. 家永三郎 『太平洋戦争』 6 8年, 岩波書店25 6頁 , 19 『野坂参三選集』 戦時編, 1 967年. 新日本出版社. 岡野 (野坂) は, 敗戦の年の4月, 中国共産党第七回全国 大会で報告した 「民主的日本の建設」 の中で「教育改革」 にふれて,「現在の教育制度と教育内容とが変革され, 民主々義と平和の思想が教育され, 教科書の全部が書きなおされなければならぬ. そして, 教育宣伝機関から ファシスト分子が掃蕩され, 新しい教師が訓練されなければならぬ」(同書, 45 6~5 7頁) とのべていた. それ は, 戦争中に発表された, 唯一の明確な戦後構想であったと思われる, 清沢例 『暗黒日記』工 1 3年, 評論社2 97 67頁 .1 同上, m, 5頁 『自由懇話会』 第一巻第一号 (19 4 6年1月) 建設社, 29頁 山口近治 「非合法教員組合運動の追憶」『教育運動史研究』1 2号, 1 97 0年. 教育運動史研究会, 14 9頁 「 『戦後初期の教育労働運動』への証言」(増淵穣『日本教育労働運動小史』 1 2年 新樹出版 9 7 ) 所収 77頁. . . . .2 尚, 菅は, 戦後教育運動への出発にあたっ て, 次のようにのべていた,「日本の教育界が, 暗黒に閉されていた ながらくの時代にも, 教育の現場がのこらず灰色にぬりつぶされていたわけではない. ひとりひとりの教師の 営みには, 創意によってゆたかにされた教育の実践があったし, 身動きもできないような学校組織のワクのな かで, 新しい教育の芽も育てられた. 同じように師範教育の型に鋳めこまれ, 画一的な統制のもとに教育にた ずさわらねばならなかったのに, 数はすくなかったかも知れぬが, 権威に対する異端者は, いつも存在した. ……かれらは, 教育者として, まず子供たちを, 青年たちを, リアリストの目で見た, つぎつ ぎに発見された 7.
(9) . 田中武雄:戦後教育の起点への省察 問題を, 自分の教育実践と結びつけて解決しようとせい一ばいの努力を傾けた. 問題が大きすぎて, 教師の実 践の及ぶ圏を越えていたとき, しばしば悲劇さえ起った. しかしかれらがリアリストの目を持ったかぎり, 問 題はいつも正しく位置づけられ, 問題の発生する根源がどこにあるかがつかみ出された」(「リアリストの目」 ◎. 『明かるい学校』 No 3, 1947年 6月) 88頁 968年, 百合出版, 297~2 『村山俊太郎著作集』 第三巻, 1. ( 1 3 0 同上. 316~324 頁. 側 Q 5 ) Q 6 ) q 7 ) ( 1 め 側 ◎ ( 2 1 ). 8頁 同上. 35 0 6頁 同上, 3 0頁 67年, 三一書房, 31 海老原治善 『続現代日本教育政策史』 , 19 8頁 前掲 『村山俊太郎著作集』 第三巻, 31 7頁 4 6年1月岩波書店, 96~9 湯川秀樹 「自己教育」『世界』 , 19 7頁 羽仁説子 「女性と自由」 同書, 12 6年4月号, 6頁 『中央公論』1 94 「 94 6年2月号, 吉田書房, 85~91頁 日本歴史教育の革新」『潮流』 民主主義革命と 安藤良雄 ,1 又, これらの他に, 清水幾太郎は,『世界』46年7月号の論文 「今日の教育」 において,「今日の教育の問題は, 現在進行中の社会的変化を望ましい方向に完成することにある. それは一方では, 人間に適応の技術を与える と共に, 他方では適応の対象である社会そのものを形成せねばならぬ」 そして 「社会生活の凡ゆる部面に就い て民主化が唱えられているが, 日本における政治的並びに社会的の変化過程に注目すれば, 民主化の最も緊急 9頁) と主 な仕事は, 全国の無数の集団が夫々の規模と方法とによって教育活動を営むところにある」(同書4 張していた. 森戸辰男も論文 「文化国家論」(『中央公論』46年4月) の中で 「文化国家への主体的条件を充た すための教育の転換“こふれて,「すべての教育は新しい文化建設のための新しい理念と新しい理論と新しい理 想と, これにたいする烈々たる熱意とをもって貫かるべきであり, また偏狭な民族主義から解放された個性と 人格観念の上に立つ,自由にして創造力に富むところの,文化的人間の育成をこそその目標とすべきであろう」 (同書15~16頁. 傍点. 森戸) とのべていた. 65年, 勤草書房. 尚, 古在は, すでに雑誌『思 9 ( 2 2 ) 『マルクス主義の思想と方法』古在由重著作集第二巻, 所収,1 潮』創刊号(46年3月) の論文 「明日の哲学」 で, 「日本の民主主義化は, なによりもまず, 旧来の政治機構お よび経済機構の根本的な変革を, そしてこれに照応しつつ万般の社会的, 法律的, 教育的, 文化的諸制度の変 革を要求する. このために, またそれは, 文化の領域をもふくむ一切の戦争犯罪人を, 徹底的に追及し摘発し なければならぬ, これらのことこそ, あらたな民主主義道徳の高揚のために不可避な先行条件であるばかりで なく, また人民の平和と幸福を念願しつつ, 勇断と公正を要求するところの民主主義道徳そのものの端初なの 5頁) と指摘していた, である」(同書, 所収, 11 2 8 7 9頁, 1 973年, 国土社, 1 2 ( 3 ) 勝田守一 「戦後教育の問題点」『国民教育の課題』 勝田守一著作集2巻, 所収, 1 頁 0 3頁 95 2年, 岩波書店) ( 2 4 ) 宗像誠也 「教育政策」(岩波講座 『教育』 第二巻1 ,3 9頁 9 5 ( 2 5 ) 城丸章夫 「戦後の教育運動の概観」『現代日本教育論』 , 新評論, 21 , 19 2 ~ 3 2 1頁 』 3 0 『 日本教育労働運動小史 ( 2 6 増淵穣 ) , ( 2 7 ) 東田操 「民主々義教育徹底化のために」『人民』 第一巻第二号, 人民社, 23頁 94 6年3月号, 民主評論社 ( 2 8 ) 渡会秋高・「一つの提唱 - 教育を人民の手に」『民主評論』1 ( 2 ) 「新しい教育の創造活動について」『あかるい教育』 N O 16 1948年 11月, 5 ~12 頁 9 (本学助 手・ 旭川 分校). 8.
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