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南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について

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(1)南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について 河. 村. 昭. 1. 兵庫教育大学第二部(社会系教育講座). 支配を、守護所や守護代以下の領国機構の復原考証を通して究明され、. 六年)に収載された一連の労作の中で'畿内近国における守護の領国. 今谷明氏は﹃守護領国支配機構の研究﹄(法政大学出版局へ一九八. から永享一二年(l四四〇)までの七四年間、範光-詮範-満範-義 節(義貫)の四代にわたって若狭を支配したが、この間の守護代は小. を明らかにしようとするものである07色氏は、貞治五年(1三六六). 近国に属する若狭をとりあげ、一色氏のもとで活動した守護代の実態. 四職家のlつとして幕府でも重きをなした1色氏の分国のうち、畿内. 小稿は、今谷氏の鵡尾に付して、氏の提言へ戒めを念頭に置きつつへ. 国人領主を﹁隷属化﹂せしめた守護権力の独自の権力構造と、そこに おける﹁国都制﹂の規定性の大きさを提示された。. 笠原長房-同長春-三方範忠-同忠治の四人である j O 蝣 (。本稿では紙数の 関係で小笠原氏二代に限り、三方氏については稿を改めたい。また、. はじめに. 私はかつて、南北朝期の越前を含む斯波氏分国における支配行政機. l色氏以前の若狭守護は、三〇年間で1四代(七氏)にもなりへ最. (u・,). 構を、斯波氏被官構成と合わせて考証したことがあり、またへ室町期. ければならないのはいうまでもないが、これも別の機会に考えてみた. 守護の分国支配を究明するには、守護代以外の行政機構をも検討しな. 長の潮川清氏でさえ七年の在職にすぎない.さらに、観応、応安の国. 1{1). の越前・遠江守護代甲斐氏の動向を検討したこともあるが、今谷氏の 自性を保ちつつ展開へ成長して﹂(前掲書、1四貢)いった過程を明 らかにしようとしたものではないし、後者の小論では、畿内近国にお. であった若狭だけに、7色範光以前の歴代若狭守護が分国支配機構を. (-). いわれる、﹁南北朝期以来7貫してその守護勢力が幕府から相対的独. ける室町幕府権力の規定性の強さを強調している。今さしあたってこ. 整備し定着させてい-余裕はさほどなかったと思われる0そうした意. o. 一接に象徴されるように、伝統的に国人の守護に対する自立性が顕著. ^MX . _ _ ヽ. の結論を撤回する考えはないが、守護権力が本来もつ求心性と分権性 は共に追求されるべき課題であって、7時のような後者の軽視ないし. 味でも、若狭における守護支配の制度史的解明は、l色氏のそれによっ. o:. 無視は、今谷氏が強調されるように改めなければならない。また、守. g > :. 護代以下の下部支配機構の実証をないがしろにしたままへ守護の分国. て過半は果たされるといえよう。. (4). 支配を性急に論じることも'思わぬ過ちを犯すことになる。. 73.

(2) 小稿が守護代のみを検討の対象としたのは、前述したように'主と して紙数の問題からであるが'加えて、守護研究における守護代の重 要性にもかかわっている。いうまでもな-、守護の分国支配において. 一、小笠原長房. I , 1 ]. -在職徴証 貞治五年(二二六六)八月、越前・若狭守護斯波高経(守護正員は. (2). 3. 守護代の占める位置はきわめて大きく、特に、在京を強いられ、かつ 、〓ヽ. (. 子の義種)が失脚したあとをうけて、一色範光が若狭守護に任じられ た。それまでの範光は'長年鎮西管領として九州経営に当った父範氏へ. ). 幕政の中枢に置かれた有力守護にとって、分国支配の成否はその衝に 立つ守護代の手腕にかかっているといっても過言ではない。したがっ. 3. 兄直氏と共に九州を転戦し、長門一宮二宮に戦勝を祈願した延文元年 (. て、少な-とも応仁以前の守護研究においては、守護代の動向それ自. (一三五六)一〇月から義詮の将軍宣下儀式に参列した同三年一二月 までの問に上洛したが'その後、同四年一二月直氏が義詮の摂津出陣. =. >. 体を考察の対象とすることも重要であると考える。そして、その際、 守護代を単なる守護権力の代執行者へ守護の分身といった、没個性的. (. に参加した以外へ一色氏の動静はほとんど伝わらず'おそらく不遇な. ). な存在としてでなくへ彼の行動の中に一定の自律性を注意深く探って. 状況に置かれていたと思われるOl色範光にとって最初の守護任国と ( S ). 貞治五年八月より給之へ(中略)代官小笠原源蔵人大夫長居縄1二. 2. みようとする視点も必要なのではなかろうか。応仁以後実権を失って. なった若狭の守護代に起用されたのは小笠原長房である。﹁若狭国守. (中略)信侍(範光)御逝去之後、小笠原三河守出家、法名道. C. いった代表的守護へ斯波氏、赤松氏の分国では'朝倉へ織田、浦上の. 護職次第﹂(以下﹁守護次第﹂と略記)は次のように記す(抄出)0 (一色範光の項). 守護代甲斐氏との抗争に勝利して当初は守護代の地位を獲得したので ありへ守護代はいわば″戦国大名化レース〃において守護に次ぐ有利. C S ). 諸氏が事実上大名化していったが、後二者は守護代であり、朝倉氏も. な位置にいたといえるのである。したがってへ戦国大名の形成を考え. (一色詮範の項). 鏡縞. ではないと思われる。. ︼Eサ. る上でも、室町期の守護代の動きを見極める作業は'けっして無意味. 応永四年九月十七日浄鎮死去之後、子息蔵人大夫長春出家. これによれば、小笠原長房は一色範光の守護就任と同時に若狭守護代. となりへ応永四年(一三九七)九月一七日に没するまで、範光・詮範. (2). の二代に仕え、この間名乗りは蔵人大夫1三河守1(出家)1道鏡1浄. 鎮と変わったことになる。﹁若狭国税所今富名領主代々次第﹂(以下 ﹁今富次第﹂と略記)の伝えるところも、これとまったく同じである。. 第1表は、小笠原長房が発給人もし-は宛人となっている文書で、. 若狭にかかわるものをまとめたものである。この表の一四点のうちへ. ). w,.

(3) 第1表小笠原長房関係文書 N o 文 書 日付. 文. 書. 名. 1 ( 貞 治 6〉 7、 1 3 守 護 一 色 範 光 書 状 案 " 3 ( 〟) 7.1 4 守 護 一 色 範 光 書 状 つ 4. 護 一 色 範 光 書 状 実 j 5.1 2 守. 応 安 3 .9.4 守 護 代 小 笠 原 長 房 奉 書. 5. i i 4. 閏 3.7. 〟. 6. i i b.1 0.2 9. 、 ) ′. ′. 5.2 2 ′ ト 笠 原 長 房 巻 数 返 事. 8 永 徳 2 .6. 1 守 護 代 小 笠 原 長 房 奉 書 9. コ 1 2. 2. ′ ′. 徳 4.l l.1 5 一 色 清 範 書 状 案 川明 守 護 代 帽肘鉄 震 音 下 案 ′ 5. 6. 1 l l ′. 苑. ノ 、. 1 4. 〟. ′ ′. ′ ′. 太 良 庄 の 牧 夫 工 米 催 促 停 止. 守 護 代 小 笠 相銀 芸 奉 書 案. ( 守 護 使 の 召 進 ). 多 長 保 地 頭 方 政 所御 所 節 供 料 足 の 催 促 I. 閏 月 御 所 繁 殿 方 料 足 の 催 促. 備. 考 ( 端 叢 書 .書 止 .署 名 等 ). 出. 【 端 】 守 護 遭 代 官 之 許 状 案貞 治 六 七 十 三 大 徳 寺 3 9 0 【 止 】 謹 言 【 止 】 謹 言. ′ ′1 1 2. 【 端 】 コ 下 案. 【 止 】 謹 言. 東 百 オ 2 3 2. 【 止 1m執 遠 如 件. 【 暑 】 散 位. 〝 オ5 4. #3 サ. 〝 ツ6 4. l ア ]. 太 良 保 地 預 方 政 所間 1 0 月 分 御 所 台 所 方 科 足 の 催 促l. 【 止 】. 祈 祷 巻 数 1枚 の 礼. 【 止 】 恐 々 謹 言. 太 良 保 地 頭 方. 八 幡 宮 放 生 会 . 上 下 宮 流 鏑 馬 役 の 催 促. 【 止 】 依 仰 執 連 如 件 【 暑 】 三 河 守. 御 所 椀 厳 科 足 の 催 促. [ i t]. 小 笠 原 参 州 入 道. 名 田 庄 上 村 反 銭 免 除 の 依 額. 【 止 】 恐 々 謹 言. 太 良 保 政 所. 八 幡 宮 放 生 会 . 上 下 宮 流 鏑 馬 役 の 催 促. 【 止 】 之 状 如 件. 太 艮 庄 の 役 天 工 米 催 促 停 止. 【 瑞 】 若 狭 守 護 施 行 I 止 】 仇 執 連 如 件. 〝 オ9 5. 【 端 】 若 狭 守 護 代 小 笠 原 三 河 入 道 書 下 乗 【 止 】 謹 言 【 暑 】 浄 祐. T 東 Jに 6 9. [ コ 朕 本 所 方. ′ ノ. 〟. ( 奉 書 如 此 ). 名 田 庄 上 村 の 人 夫 役 .十 分 一 役 催 促 停 止. l J. 【 %L 】I J 【 薯 】 散 位 長 房. #3. i '. 〝 オ6 4 明 通 寺4 4 東 百 ツ7 6 " X 2 1 6 若 杉 家 ∋. 【 暑 】 抄 弥. 東 百 ウ6 2. 【 端 】 名 田 庄 内 上 村 夫 役 十 分 一 免 除 守 護 状 若 杉 家5 【 止 】 由 被 仰 出 候 也 、 恐 々 謹 言【 暑 】 、 、. 往く1 ) ′ト笠原長房が発給人、もしくは第人としてみえるもので、若狭にかかわるものに限った. ( 2 )文書名は、統一のため、出典のそれを採らなかったものもある. NolJの発蛤人については本文参照. く3)備考の欄の呼号は、 E端】一端轟音・端見返書. 【止】一書止、 【暑】 -署名.なお、靖裏書は部分引用にとどめたものもある. (4 )出典の欄のNol蝣2は『大日本古文書家わけ大徳寺文書』 、 N07はF小浜市史』社寺文書編、 NolO蝣14は『福井県史』資料絹2の、それぞれの文書番号. その他の東百は東寺百合文書の時で、 Nol3 ( 『大日本古文書家わけ東寺文書』 )を除き、すべて東都府立総合資料舶緒F東寺百合文事日銀』の文書番号。. 催崇罫榊旨足技Q抑瑞軒縄だ÷納額田ゴロニtJ. 典. 明 通 寺 衆 徒 中. 守 凱小 笠 酎 浄 机 芸 脈状 案 蓮 沢 左 近 将 監 ノ ′ ′ ノ 4 .2 0. 容. 小 笠 原 源 蔵 人 大 夫名 田 庄 の 守 護 便 入 部 停 止. 守 護 一 色 信 将 霊 奉 行 人 連 署 奉 書 永 4.2.2 3 小 笠 原 三 河 入 道 1 2 応 1 3. 内.

(4) 厳密な意味での長房の守護代在職徴証と呼べるものは恥ぐらい CS) であろうが、恥7を除-残りについても、彼の守護代在職を裏づける. はできないけれども、決定的な反証もまたないので、ひとまず若狭. 上述の小笠原源蔵人と、のち若狭守護代となる小笠原源蔵人大夫長 房を結ぶのは、唯一官途のみであって、両者を同一人と断定すること. もしそうであれば、範光直臣団の脆弱性の原因としては'長い九州在. 守護代に任じる程の譜代直臣がいなかった反映とみることもできる。. 光と長房の関係が急速に深まったことを意味しょうがへ範光のもとに. 参の小笠原長房が守護代に登用されたとすれば、それは、1面では範. か10年足らずの間に長房を披官化し、若狭守護職拝任と同時に彼を. だとすれば、範光は若狭守護となる貞治五年(一三六六)までのわず. 年一二月までの間に帰洛しているから'もし上述の小笠原蔵人が長房. 一色範光は、前述したように延文元年(一三五六)一〇月から同三. 守護代小笠原氏の出自を将軍近習小笠原氏と推定しておくことは許さ れよう。. i n >. ものとみなして大過あるまい。したがって、﹁守護次第﹂の記事は、. スの根本披官が任じられる.被官化して10年にも満たないいわば新. 守護代に起用したことになる。いうまでもな-、守護代は守護にとっ てもっとも信頼し得る被官でなければならず、多-の場合、家宰クラ. 3師凸. は間違いない。. 名乗りの変遷も含めて事実とみなしてよい。ただ、法名について、 ﹁守護次第﹂のいう道鏡・浄鏡がみえず、かわりに浄柘とされている。 唯l浄柘の名を伝えるC3COと﹁守護次第﹂﹁今富次第﹂のいずれかの 誤記ということになるが、これは前者の誤りである。すなわち、幕末 ca) まで小浜八幡神社にあった鐘の銘の末尾に 大原主三河刺史浄鎮大工下金屋来阿 応永四年丁丑六月十一日銘蔦 とあり、同じ応永四年のA'Sに記す浄柘ではな-、浄鏡であったこと 2一色氏被官化 ければならないが、将軍近習として所見のある小笠原蔵人が、若狭守. 小笠原長房の出自については確証とよべるものがな-不明といわな 護代になる前の小笠原長房ではないかと推測している。この点の実証. ). (a). 陣に加えて、範光は直氏に次ぐ次男ということもあって、一色家の譜 8. 代重臣との間に私的関係が十分形成されていなかった、あるいは、上 (. は煩境にして末節にわたるため別に行うこととし、結論のみ示せば、 ). 失いながらも、なお京都に活動の拠点を置いていたと思われる小笠原. S. 小笠原蔵人は次のような人物であったと思われる。すなわち、観応の. よう。そうした歴史的事情を前提にして、かつての将軍近習の地位を. 洛後の一色氏が不遇な状態に置かれたらしいこと(注16)も考えられ. 直義方に走って将軍近習の地位を失い(捨て)へ同年尊氏・直義がいっ. (. そらく観応二年(l三五l)正月l六日の足利尊氏の京都脱出を機に、. 擾乱までは将軍の近習として供奉や的始の射手をつとめていたが、お. たん和解したあと再び対立した時には尊氏方に与したものの、将軍近. ﹁守護次第﹂は、一色範光の守護就任と同時に両便伊藤入道・遠山. 仙開所地・半済給付と守護代小笠原長房. 3若狭における活動. 蔵人(長房)と一色範光の関係が成立し、発展していったと考えてお きたい。. で直義党との合戦に参陣している.この観応二年11月以後の小笠原. ( S ). 習には復さず、同年ll月には、小笠原本宗家の信濃小笠原氏のもと. と推測される。. (2). 蔵人の動静は不明であるが、おそら-活動の拠点は京都に置いていた. 76.

(5) おそら-当初から下向していたと思われる.第1表恥-・2は'武田. て、翌貞治六年(1三六七)には在国していることが明らかであり、. で、その動きは必ずしもわからないoLかしへ第1表zl--1'^からみ. 入道が下向したことは伝えるが、守護代小笠原長房は名前を示すのみ. を指摘されている。これと同じ事情が守護と守護代の問にも想定でき. 料の提出、裁定の実行という二つの方面﹂における守護の役割の拡大. 守護に移ってい-背景を説明される中で'﹁裁定の根拠となるべき資. 的で強引な開所認定である。笠松宏至氏は'開所地処分権が幕府から. いと思われる。当時ご-普通にみられたこととはいえ、きわめて窓意. かくとして、禅舜の方は、本人が抗弁しているように従軍はしていな ( S ). 源九郎・市河九郎入道が守護使と号して徳禅寺領名田庄に乱入したの. るではなかろうか。すなわち、右掲の事例でいえば'渡辺が京都の一. (3). を停止し、両人を召進するよう長房に命じたものであるが'同じ頃、. 色氏のもとに太良圧の両職が関所たることを証する資料を提出し、l. ;. 長房自身が右の市河入道と共に荘園侵略に関わっていた。すなわち、. 色氏がしかるべき審議(たとえば東寺や禅舜・快俊らへの尋問など). 3. この年四月二〇日へ中原師茂は﹁田井保公文職守護代遵乱事目安﹂を. '. 守護1色範光のもとに届けたoこれに対して五月六日、一色方の奉行. たにせよ同じ結果となったかも知れないが、この作業は、先の田井保. をしたとは到底考えられない.1色氏のもとで開所認定作業が行われ. (8). きたので、師茂はこの旨を飛脚で田井保に知らせたところ、七月二五. 小江房は﹁先可止根籍、公文職閲所々見可注進之由可仰遥﹂といって. ろんへ関所地処分権が守護の保持するところであることはいうまでも. の事例より推して'在地、つまり守護代のもとで行われたが故に、し かるべき手続きを経ず強引な裁定となったとみることもできる。もち. 道入部之由﹂を報告した。そこで師茂は翌買この目安をもって1色邸 ( 保 公 文 職 閑 所 地 力 ) に赴き、奉行小江房と交渉した結果、﹁田井[]. な-、最終的には守護から宛行われるはずであるが'そこに至るまで. 日、田井保から飛脚が来て﹁是自守護方公文職可管領由令申'市河入. 之由雄令注進、内裏供御料所也、以別儀不可相椅﹂との下知状を得た。. ところで、渡辺は応安元年(一三六八)三月には﹁一国平均半済﹂. *-o. の守護代の関わりが無視できないものであったことを確認しておきた. (5). 以上の経緯からこの一件は、守護代長房が田井保公文職を関所と認 定し、これを市河入道に与えたものであって'﹁公文職閲所々見可注 進﹂といっている守護は、直接に関与していなかったと思われる。そ. と号し、改めて半済給人として入部した。東寺はこのことを同年四月. ﹁嘗守護御代官今年始而称可致半済之所務﹂して夏麦などの半済を強. 幕府に、六月守護一色範光にそれぞれ訴えたが'範光への申状では. れ故にこそ、当初からこれは﹁守護代遵乱﹂といわれたのである。 太良圧では、貞治六年四月、渡辺弁法眼直秀が領家方預所職・地頭. 経に内通しているということで、両職とも﹁摂州発向輩跡﹂とされへ 渡辺が﹁嘗守護方(7色範光)﹂より宛行われたのだという.しかし'. 認定され、また前預所侍従房快俊も越前柚山城で龍城を続ける斯波高. (守護は斯波高経)の摂津出陣に地頭方前代官禅舜法眼が従軍したと. 関所地・半済の給与権は最終的には守護の保持するところであった. の選定において開所認定と同様、守護代の関与する余地も考えられな くはない。. とながら守護代が執行するものであった。その際へたとえば半済給人. 行していると述べており、半済の実施においても、在地では当然のこ. (a). 方代官職として入部した。これはへ前々年、当時の守護代完草上総介. 実際に従軍して東寺から完草の﹁奉公人﹂とまでいわれた快俊はとも 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 77.

(6) 第1表<30は、7色満範が長房(浄鎮)に名田庄上村反銭の免除方. 件さえあったといえる。ちなみにへ先にふれた市河入道は、名田庄で. すれば'そこに守護代が在地国人との問に私的関係を形成してい-秦. ベルにおける守護代の役割が、けっして無視できないものであったと. にせよ、たとえば開所地の認定、半済給人の選定といった、具体的レ. 水三男氏が明らかにされた出雲杵築大社の流鏑馬神事のように﹁国司 在庁宮人と守護地頭の協力﹂による興行は困難であろうし、国街に結. 況であったことが指摘されている。このような状況下では、かつて清. 一二年(一四〇五)の上下宮臨時流鏑馬の記事から、国内在地領主層 の結番にもとづ-流鏑馬が上下宮恒例縁日神事の中核として催されて C S ) いたことを推測されている。また、建久七年(二九六)最有力在庁 宮人稲葉時定の税所職没官以後、とりわけ安貞二年(1二二八)守護 職が北条得宗領となって以後の若狭では守護(=税所)・地頭と、国 街・国御家人・上下宮の両勢力が疎遠、というより対立を含む政治状. トレーションと位置づけられ、若狭でも﹁守護次第﹂にみえる応永. 力に対して相対的独自性をもつ政治主体として行った軍事的デモンス. 世紀初頭に成立したもので、国衝に結集した在地領主が'中央国家権. 的関係が成立していた可能性もある。. (3). とで守護使として活動していたものとみられ、すでに長房との間に私. たからであって、田井保の例からみて、本来は守護代小笠原長房のも. は﹁号守護使﹂と指弾されているが、これは同庄が守護不人の地であっ. を依頼したものであるが、当時満範は丹後守護ではあるがへまだ若狭. 集する国御家人が地頭に任じられていない若狭の流鏑馬役が'杵築大. (S). 守護にはなっていない。したがってへ満範はあ-まで私人として、お そら-同村領主土御門家からの嘆願を受けて'私的に仲介の労をとっ. 社のように地頭役であったとも考えられず'おそら-は国衝と上下宮. の主体性において、在庁官人=国御家人によって催されていたとみて よかろう。. ( S ). たものであって'ここに長房が若狭における単なる反銭徴集責任者、. 南北朝期になって'一色氏は上下宮流鏑馬役を八幡宮放生会役とセッ. (8). という以上に、場合によっては個々の所領の免除の可否までもその裁 応永四年六月へ小浜八幡宮に鐘を奉納したのは、一色氏ならぬ守護. トで賦課するようになるが(第1表地CO.Hi)、馳co以前の永和三年. 量の中に含まれる程の権限をもっていたことがうかがえるのである。. に若狭でもっとも重視していた神社であったことを想起すれば'右の. (一三七七)にも太良庄に両神事役を賦課しようとしている。結局. 代小笠原長房であった(前述)。同八幡宮は守護一色氏が上下宮と共 事実は、長房の若狭における権威を象徴するものであり、八幡宮の鐘. ( S ). (5). これは免除されたが、その際の経緯を要約的に示せば、次のように なる。. ①守護側からの﹁書下﹂(第1表Nd8の如き守護代奉書カ)に ﹁任先規可動仕﹂とあった。 ②六月10日、税所代海部信泰は太良庄公文(弁祐)に、﹁八 幡宮(上下宮の誤りカ)流鏑馬役事、自守護方被御尋候之虞、 古日記等にも不見候間、先規於太良庄'彼役無動仕之由返事. (4). は彼の若狭経営のいわば金字塔であったといえよう。 惚若狭上下宮流鏑馬神事と守護代小笠原長房 第1表地00.3に、小笠原長房が小浜八幡宮放生会・上下宮(一二 宮=若狭彦姫神社)流鏑馬神事役の催促にかかわっている事例がみえ る。以下では、この時期の上下宮流鏑馬神事のもつ意義と、そこにお ける守護代小笠原長房の果たした役割について考えてみたい。 諸国l宮の流鏑馬神事について、河音能平氏は'二世紀末∼一二. 78.

(7) 令申候﹂との返状を送った。 をも寄進された7円領であって、かかる役を勤仕した先例は. 改めて地頭役としての流鏑馬役を国内に賦課し、神事を主催すること. 守護権力に抵抗してきた鎌倉期以来の土着領主を圧服した1色氏は、. Nd8の宛所からもうかがえる。応安の国7按の鎮圧によって、執勘に. としていたらしいことは、東寺の反論(地頭職兼帯を主張)や第1表. (S). うとする意図があったのではなかろうか。一色氏は流鏑馬役を地頭役. な-、そのことは﹁国神事奉行人﹂も存知しているところで. ③おそら-②のあと(日付は六月日)東寺は、太良庄は地頭職. あることをあげて、免除方を(一色氏にカ)訴えた。. 軍事的デモンストレーションとすることを図ったのではあるまいか。. によって、いわば、守護側からの'国人、および税所・国街に対する. 文﹂に対して、流鏑馬役の件を海部信泰に尋ねたところへ. その軍事的デモンストレーションの実質的主催者は守護代小笠原長 房であったことが、第1表=g--・3からうかがえる。恥8は奉書であ. ④八月一二日、﹁にしつの奉行﹂(西津は守護所)某は﹁太良保公 ﹁先々不大差荷由申﹂したので、その旨了解したへと申し送っ m. ているところに、この神事における長房の役割の大きさが如実に示さ. によるものであったことをうかがわせtもしそうであれば'前述の若. 税所に流鏑馬関係文書があったとすれば'以前の流鏑馬が守護の主催. 鎌倉期以来、税所職は守護=得宗の兼帯するところとなっていたから、. ると思われる文書がな-'それは税所にあったことへの二点である。. すなわち神事役徴集の記録で流鏑馬神事興行のための基礎台帳ともな. における軍事的デモンストレーションとして位置づけたと思われる上. 以上検討したように'一色氏が、国内諸勢力に対する'いわば平時. が行われているのも、川狩のもつ意味を示唆するものであるといえよ ra. た応安三年(一三七〇)に﹁守護殿(守護範光の子詮範カ)御河狩﹂. 為とみることもできなくはない。応安の国一撰の前哨戦が始まってい. る武芸の教練というよりも'応安の国一撲後間もないこの時期に守護 の権威を背負う小笠原氏が'国内諸階層に向けて行った一種の示威行. の子と思われる小笠原太郎が川狩・鷹狩を行っているが'これも単な. (S). れているといえる。永和元年(一三七五)から同三年にかけて、長房. るがtcSi-iの方は守護代でありながら書下によって神事役催促を行っ. (S). ⑤翌年一二月二四日、公文弁柘と代官有円は'海部への礼銭 一一貫二五〇文などを着服していない旨、東寺に起請文を捧 げた。. 狭の政治状況をも勘案して、流鏑馬の性格も再検討しなければならな. 以上の中で、とりあえず確認すべきは、流鏑馬神事の主催者は守護. -なるが、いまこの点について確認する方法はない。しかしへその問. の分国における軍事的支配権の中核的担い手として活動していたと思. 下宮流鏑馬神事に'小笠原長房は実質的主催者としてかかわり、守護. 一色氏であることへにもかかわらず、西津の守護所には﹁古日記﹂、. 題の如何にかかわらず、当時の税所は、かつてのように守護と一体の. かし、おそらく小笠原氏に限らず、南北朝末期頃から守護代の在地離. われるが'かかる彼の活動は、当然在国を前提とするものである。し. (S). 関係にあったのではなく、一色氏の守護就任以前から税所今吉名は山 で7色氏が敢えて流鏑馬興行を行おうとしたのは、興行のいわばマニュ. 名氏の領有するところとなっていた。したがって、そういった状況下. 脱-在京傾向が強まっていく。この点について最後に瞥見を加えてお. (4). アルを手元に持たない一色氏が神事の主催権を自己のもとに確立しよ 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 79.

(8) きたい。 4在京傾向. れる。ただし、応永元年(一三九四)頃、長房の一族とみられる小笠 C S ). 原備中守が在京守護代とおぼしき地位にあったらしいことを別稿で推. 測しておいたが、もしこれが事実だとすれば、当時は長房の在京が少. な-とも恒常的、体制的なものとはなっていなかったことになる。こ. の点の確認は、1色氏の領国支配機構全体の究明の中でなされなけれ. ばならないが、遅-とも次の長春の代には在京が恒常化することは次. ところで、前節で検討したように'長房は、本来守護権に属する開. 章でみるところである。. りをもち、あるいは上下宮流鏑馬神事の実質的主催者として、一色氏. 所地・半済給与へ反銭徴集などの手続き過程において少なからぬ関わ. ( ? ). 一色範光は、康暦元年(一三七九)閏四月までに新たに三河守護職 を得、子の詮範が明徳二年(t三九一)五月までに尾張智多郡へ応永 元年(一三九四)一〇月までに尾張海東郡へ詮範の子、満範が明徳三 (覗) 年正月に丹後守護職をそれぞれ拝領した。この新し-加わった分国の うちへ三河では康暦二年、守護範光の子、詮範が守護代、小笠原但馬 権守長身が守護又代となり、少な-とも永徳三年(T三八三)二月 までの在職が確認される。長身はおそらく長房の子、もしくは兄弟と. -在職徴証 小笠原長房の死後、若狭守護代は子の長春が継いだ。﹁守護次第﹂. 二へ小笠原長春. したがって、長房の在京=在地離脱傾向は、彼のいわば在地性深化の 道を狭めることになったと思われる。. 植に結び付けるには、在国することが有利であることは言を侯たない0. の若狭支配を担ってきたが、かかる活動を国内における自己勢力の扶. いった、きわめて近い間柄の者であろうが、長房とは別人が守護又代 に起用されていることの意味は、長房がまだ若狭に在国して分国経営. ( S ). に当たらなければならない歴史的段階であったということである。と ころがへ明徳二年になると、尾張智多郡において長房自身の守護代在. 職が認められる。一方、三河では'この頃にはかつて守護代にあった T色詮範が父の死後家督を継いでいたから、守護又代の長身がそのま ま昇格したか、もし-は長房が兼帯していたと思われる。 南北朝末・室町初期には、同一人による複数国の守護代兼帯がみら れるようになるが、こうなると守護代は特定の国に在国することは困. は次のように記す(抄出)0 (一色詮範の項) 代官同人附笠又代官武。、応永四年九月十七日浄鎮死去之後、子 息蔵人大夫長春出家、号三河入道明鏡、 (一色満範の項) 代官同人、又代官同人、雑然三河入道明鏡、同子息三郎共に同 (応永)十三年十月一日に京都一色道範□屋形に於て召禁ぜられ'. 難となり、在京を余儀なくされることになろう。あるいは、守護代の. れにせよ、第1表地<Nl.COがへこの時点での小笠原長房の在京をうか. 丹後国石河と云所に被龍者畢、依之舎弟安芸守、同一族等井若覚. (E). が'これらについては、その内実を改めて検討する必要がある。いず. 小守護代以下行政機構・収奪体系が定着していったことが考えられる. 狭では応安の国丁按の制圧によって1応の軍事的安定を得られたこと、. きたことが、守護代兼帯の状況をもたらしたということもできる。若. 在国が守護の分国支配にとって必ずしも不可欠の要件ではな-なって. がわせるように'彼の晩年には、在京することが多かったものとみら. 80.

(9) m. に.  ̄ oo 当. 曽. -J. E. 」 4} 捧 ー E9 諭 翁. 4} 蹟 詩 テ 榊 覇. 顔 奇 朝 識 > 権. 4} 尊 方 テ 脚 覇. 耕 母 琳 哉 > 搬. 47 韓 詩 テ … 鞠. テ 紳 淘 如 轍 嶋. 4} 舗 l EBr a も. 妙. 呂 ∬ k s K d 駐 ヨ 皿 E j. K. 9の日付の差がT日しかないのも、この時点での長春の在京を裏づけ. 守護代は原則として在京していたことを明示している。第2表の恥8・. う鮮やかな対照をなす。これは小守護代が在国を旨とするのに対して、. (8). あるが、これによると、小守護代の上洛に対して'守護代の下向とい. の上洛・下向記事を、室町期の三方民時代まで含めてまとめたもので. 定着した。第3表は太良庄年貢算用状などにみえる守護代・小守護代. ことが多-なってきたと思われるがへこの長春期には一層その傾向が. 前章4節で指摘したごと-、父長房の晩年には在国よりも在京する. 2在京原則の確立. 難いがへ法名の通字の風を重視して一応明鏡と推測してお-0. 鎌とでは'前者は長房の浄鏡に通じるのに対して'後者は字体の上で 寡-表の明棟に通じるものの、他の明証がない以上、いずれとも判じ. I3i柑Ef/pfJJKS旧匹ma-wEznEj;臣Ex. 品. ミ. 鵡 か *. 2. (2)江捗C)蓄<7)Nol!3・lotir載#初狩﹄輪丑も20)沖紳輔坤. ︼空列SMf1-i哩hkmma眉打BI. 以下数十人、三河国に於て同十五年十二月廿六日討死華、同十六 て鹿をからせられし御崇とぞ、大方風聞ありし事なりへ. 年三月に明鏡父子石河城にて被切腹革、此併小浜八幡宮上の山に. 応永四年九月十七日小笠原浄鎮死去之後、子息蔵人大夫長春後に. またへ﹁今富次第﹂には 応永八年卯月に出家、号三河入道明鎌へ とみえる。第2表は小笠原長春関係文書を整理したものである。これ によれば、﹁守護次第﹂﹁今富次第﹂のいう在職期間へ官途、出家の時 期のいずれにおいても矛盾するところがない。ただ、法名について. 〇. ー. >. い。この中で先の長房のケースから推して'すべて東寺百合文書の案. *. CT -. 抽 斗 "1 鵡 叫 悪 衣 > 事 軸 舛. FE. 斗. と. ミ 「 K Cト l N. ミ 「 K Ol、 l ー. ミ 「 K く ト i Ul. L+ 葛 コ. サ. ﹁守護次第﹂の明鏡へ﹁今富次第﹂の明鎌へ第-表の明棟と、一致しな. き き 柑 坤 <a IB - ・ > 関 南 Id t*. か. (1>No4・6蝣7番ゝIiJEL<lア﹁flB沸﹂i>l<琵ruB沸し. m. 文で占められる第2表の明棟がまず疑われるべきであろう。明鏡と明. tr- R ". 串 ・ i^ h. 柑 発 a =声. 題目 鼻汁. N 先 a =辞. 車 良.. 【 糖 " 護. 噴. tr. Fr. 【 糠 】 霊. 【 鋤 】 宗. 軸 Ⅲ i … N 竿. rE 葛 三 野 精 N警. 轟 有 fc -. 式 TT 故 ; 小 画 灘 叢 S> 顎 洋 串 fc -. N-. 義 細 m 串 坤 軸 心 I= ト 鞘 ai null. m 旨. 旨.隷 旨. 旨l 旨. J* 韓 々 苗I nut. n -韓 胡 一 計 々縞 覇 宙叫 r* m iSI サ を p ep 先 々 Jb 湘 輸 【 .【 耶 【 叫 鋤 軸 叫 鋤輸 】 . 】 】沖 ま ま 菖吉 es ^ 那 oni. 3} か m 由 h耳 河 漁 S. 叫 a 賓 →f 鞍 遍 洩 葬 3 蒋 専 併 賀 国 却 古, 糊 岳 3 呼 吋 轟 r =男 帥 呼 淋 、 ヰ HI 加 FR a 淋 薄 森 琵 * FT 汁 加 ミ と 前 s 事 〈 〈 叫 ヰ 射 5事 池 jZl h 沸 さ な 淋 S H n w- 皿 津 J rき 粗 目 竹 森 r, 醸 匂 南 轟 房 罷 涙 雨 .l 品 輔 譲 再 苛 〉 ヰ】 専 fc (V か EE] 内. 湖. ui コ. 謝 田 雨 曲 謙 > 枇 与 細 鞠 封 > 汁 淋 淋 a 針 鞘 葛 師 湘 a 瑚 無 > 淋 テ 軸 鞠 hL 主 > 淑 舶 笥 淋司 5iiォ 車 瑚迅 軸迅 労汁 溶汁 > 邦 > 対 m 糾 搬耐 者 載 ji a > ^ 漸 尚 与 叫 知 … ≡ > 恥 搬司 舞 t. 瑚迅 累汁 > >顛 > 漸> 枇 彬 与 輪 声l 川. 未 発 m. 教加 瀬 触 加 m m 先 発 m. H. o^ eg. 3. o* 皆. 4} 韓 詩 テ 桝 鞠. 0% Bt. Z ー. ED to. a-. 〈 ≒ ミ 、 }. 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 81. 竿享三十享三幸芋主 発 射か 沸 ・ #. 、 鼓 t 、 津ノ 、J ひ m 51 津′ ≒. 輸 ( ミ 津′ ≒ 呂 の. 10 U fc U1 fi 」 oo ォ S.

(10) 第3栽一色氏i由政下における若狭守讃代・小守護代の上洛.下向(主として太艮庄年貢箕刺創こよる) 年. 代. 永 徳元 (1381! 明徳 元 ( 1390 1. 守. 作. * 信. 田. 小. J′ 10 ( 1403. :t IS. r′ U l. 長 春J I 三州 下 向 ( 4 .W ). 吉 ″16 .12 .W. M il ). J′ 21 〈14 14 ). ″ 3H. t421 ). サ 32. M :ち ). 水 草元 ( 1429 1. r.ir恥. 典 87. 〟 ,、 t巧. +. t 卦 再 l 酎 却所若 狭遊覧 ( 5 月). l(13. r教 ⊥ 7R7 ′ ′. 847. 常 blハ 102. 武田敗 上洛 く2 .20 ▼10 .2 ). 足 利義満 若狭 立覧. ′ j、 守護 代上 洛 、下向 (度 々) 守m. t栴 所移 転 日1月). ., 7 78. r牧 』87 l b.軟 l. り2-). 東百 L. 72. { 土方 般 尽巾 見 、阜 ta r n 紐. 良. " 寸 lL8. l 三方 殿 下 向 ;三 方 下 軌 上清. 汰. 現 百ハ 129 .. F数 J. 上漣. - 宮造 営 (l 声= -r. 長法寺上 (末 節宝tl 寺併 発時 ). 蝣オ ll7. ')% リ 9q. 〝 ツ 1L0. 7. 88. r .t n.-- 十 H i* -.廿 十十∵. JJつ 90 - '東Lに L30 l一宮遷 宮式 (9 月 }. 範 ;三 方 下 向. 首 狭B )守讃 増次 帯 東 百 八 l45 -146. [守 蓋 等代 若狭 方上 洛. 柄. ! (三 方 在S3 ) Tt, l .LLL [三 方下 向. サ 6 (ー 434 ). 出 東 百ハ. ミ武田穀 東上 E武田殿 上漁 I 2 .20 . 12 .13). 盛. …守 譜 代 E U t 下向. ″ 29 ( 1422. 考. 長 …武Etl殿 木上 ( 3 .6 , 10 .2 ]. 方 L =-方 下 れ. I, .汀 日4ヱ)). 142う). 備. j 守護 lt三方 殿 下 向(8 .12 ).在 B3. 17 (14 10 1. ″ 斗). 代. I. l 三 方殿 下 向 く3 月 】. ″ lt> (14(19 ). ,′ l:6 〈14 19. 三州 下 1*1 ( 5 .24 ). 護. [ † v-.'iir -1' : 十 1 +. A. l 守護 代 下向 l 守書 af t 殿 下向. JJ 9 日 ′ 1 02 ). " 1H. 守. 止… 頃 長 サ'. 1うり 8). U 4C郎. 小. 衣 g右嬉 亮殿 出w. 応永 」 日397 ) サ 5. 護. ・ I-. ,l 八 M l - 19 】 〝 ハ 15 1 蝣リ L13. 松. =三 方 下 向 (S .19出来 ) 、在団. 小守 護 代ー Iー "..松山 と 申仁下 て膜. LlJ .. ′ ′ハ 165 -オ147 -し200 鞠ytI山 門 簡云 々. JI ′、174 - 有岡 日記. (t: ( 1 )年代の席Hi I音は年貢算用状のFl付で.何年渡のものか不明φ ( 2 )欄考の同の事項のうち.応永9年のはJ苫狭tB税所争苫名載上代T()二第.I 、剛h年のほ ̄若狭硯守-at轍次第_.岡26年のは同年 -1月8円若狭虎姫神経棲札銘写( T小浜市史』社寺文書縞、苫狭彦神社文書1,卜日に拠り、他は当ij約三*の出典の欄の火糾こ拠る (3)出典の欄の東百u礁寺百合文乱丁教LiはF数王護国寺文乱. T東止は『報寺文凱(大El本古文古等わけ)の軌. る。さらには、長房の晩年からみられることであるが(第1表. 恥Ct O-H ^* "f ¥-i)、第2表をみると、守護代から守護使、もし-は在. 国奉行ともいうべき蓬沢・藤田・阿曽沼らに宛てた文書が比較. 的多い。これはかかる職がこの頃初めて置かれるようになった. からではな-、またへ史料伝来の偶然性にもとづくものでもな. -、おそら-、守護代が任国を離れた結果を示すものと思われ (3) る。. 2長春の失脚とその背景. ﹁守護次第﹂は小笠原長春父子が応永一三年(一四〇六)一. 〇月l日、突然京都1色邸において拘禁されへ丹後石河城に幽. 閉されて、ついに三年後切腹したことを伝えている。この長春. の失脚については、他に関連史料がな-、その事情はまったく. 不明といわなければならないが、敢えて以下この背景を推察し. ておきたい。. 長春はこれより先へ父長房が明徳二年(l三九l)l二月よ. り任じられていた今宮名代官職を、応永六年(一三九九)六月. 二五日改替されている。﹁今富次第﹂は﹁里方名散田井寺社人. 給まで逃散之間、被改替了﹂としている。今富名では応永二八. 年にも又代官の長法寺納(入道道圭)が改替されているが、こ. の時は﹁小浜問丸共依訴訟﹂ってであった(﹁今富次第﹂)。こ. れに対して長春の場合は、小浜問丸ではな-、﹁里方﹂の寺社・. 給人という、より広範な勢力の抵抗にあって改替に至ったと思. われる。﹁守護次第﹂の伝える八幡宮裏山の鹿狩の崇という風. 聞も、京都から﹁下向﹂してきて、おそら-T種の示威行為と. して鹿狩をする守護代に対する'国衝・国人以下在地の者たち. の反感が込められているように思われる。長春失脚の背景には、. 82.

(11) 在地と小笠原氏を結ぶ結節点たる武田氏とは緊密な関係にあったこと が想定されるが、小笠原氏の若狭における拠るべき勢力が武田氏以下. 護代改替のいずれの時も'又代官武田氏が同時に改替されているから、. た若狭であったにもかかわらず、結果的には小笠原氏を支える基盤が 形成されなかったということでもあろう。長春の今富名代官改替、守. の入部以来、前章でみたように長-在国して経営の主導的立場にあっ. れていると思われる。そしてへ応永六年(一三九九)小笠原長春が今. 氏分国となった丹後の国人である.このように、右の一二人の中には 比較的近い過去にl色氏の被官となった新参の直臣が少なからず含ま. 家氏は三河の在庁宮人と思われるし、石川氏はわずか八か月前に7色. 小笠原氏が最多の三人みえるのは当然として、二人を出している氏. 氏家近江守範守佐野中務丞秀勝(敷皮役) (一色兵部少輔源満貞の随兵) 小笠原修理亮幸長(介副)石川八郎左衛門尉長貞 延永修理亮光信(笠役)岩田次郎左衛門尉範久 氏 家 三 郎 詮 守 河 崎 肥 前 守 光 信. この若狭における長春忌避の気運が少なからずあったのではなかろう か。. まで広がりをもたない、狭陰なものであったことがうかがえる。それ. 新参直臣は守護1色氏との関係において小笠原氏と比肩し得る地位を. ( S ). 音名代官職を改賛された時へその後任に石川長貞が就いているように、. 争を生む素地ともなり得たであろう。小笠原長春の失脚が一色詮範の. は、この頃の小笠原氏の本拠が三河にあったことを示唆するが、長房. 長春父子失脚のあと、一族、若覚が三河で蜂起し討たれたというの. は同時に、若狭における長房の活動の自律的部分が十分でな-、限界 があったことを意味する。. ていた一色満範との関係が特に緊密であったと思われ、それは権力闘. 短期間のうちに得てきたといえる。さらに憶測を重ねれば、石川民ら 丹後出身の直臣は'明徳三年の当初から父詮範とは別に丹後守護となっ. C S ). いま一つ長春失脚の背景として想定し得るものとして'l色氏直臣 団における小笠原氏の地位の相対的低下とそれに伴う権力闘争の可能. (5). 性が考えられる。範光期の一色氏はそれまでの長い九州在陣もあずかっ て直臣団は貧弱なものであったと思われ、そうした中で小笠原氏は、. 死、満範の襲封後四か月のことであったことも勘案して、その背景を. 加とそれに伴う一色家中におけるヒエラルヒIの動揺の中で、絶対的. とりあえず次のように推定しておきたい。すなわち、急速な直臣の増. 権勢を誇った小笠原氏の地位が相対的に低下していった時、一色氏当. いた。しかし、三河、尾張智多郡・海東郡、丹後と分国が増加するの に伴って、当然のことながら一色氏直臣団は膨張していった。明徳三. 長房の晩年において一色氏分国の守護代を独占する程の権勢を誇って. 年(l三九二)八月二八日の相国寺供養の際、後陣一一番の供奉をつと [ f i ]. めた一色満範・範貞兄弟の随兵は次のようであった。. 小笠原左近将監光長. かったことを示しているというべきであろう。. 語るというよりも'一色氏の権力基盤がまだ磐石のものとなっていな. 、SJ. 主の交替を契機にもたらされたのではなかろうか。以上は単なる憶測 にすぎないが、いずれにしても'長春の失脚は守護一色氏の専権を物. 小笠原三河三郎満房(介副). 尾藤三郎左衛門尉種光. (一色右馬頭源満範の随兵) 淵辺長門守兼季(笠役). 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 83.

(12) る余地ともなり得た。貞治五年(一三六六)一色範光が若狭守護職を 得た時、その守護代に起用した小笠原長房の出自に関する確証は今の. であったと推察されるが、それは逆に、譜代以外の新参直臣が台頭す. かれたものと思われる。そうした事情から一色氏直臣団は貧弱なもの. 局二〇年間もの九州在陣も報われないまま、上洛後も不遇な状態に置. 護職を与えられることな-、一貫して困難な九州経営を担わされ、結. い。l色氏は動乱開始以来、他の足利丁門守護のように畿内近国に守. これまで検討してきたことを要約Lへ残された課題を確認しておきた. 史料の少なさのみでな-分析力の不足から強引な推論を重ねたが、. あり方、京都における守護の政治活動とそこにおける守護代の関わり、. た、皮相的な事情からのみ説明されるべきでな-、分国支配の展開の. がらも、自律的部分を着実に拡大してい-。この点は別に検討したい。. かし、小笠原氏のあと守護代となる三方氏の代には在京を基本としな. 圧倒し、後者は腫胎の状態に留まっていたというべきであろうかOし. まだ守護を源泉とする権威の秩序の中に身を置く部分が自律的部分を. ども考えられようが、総じていえば、結局南北朝期の守護代にとって、. 年から強まり長春の代に確定した在京、すなわち在地との懸隔状況な. の要因には、小笠原氏が若狭よりも三河を本拠としたこと、長房の晩. とが、応永l三年(l四〇六)の長春の失脚によって露口王された。そ. いく可能性もあったのであるが、結果的にはそれは結実しなかったこ. ところないが、観応元年(一三五〇)まで将軍近習として所見があり、. むすび. 観応の擾乱以後その地位を失ったと思われる小笠原蔵人と官途が一致. さらには'守護代も含めた室町期国人領主にとって在京することのも つ意義、などを有機的に結びつけた総合的考察が必要であろう。その. 構の復原作業をも含めた、1色氏の分国支配、権力構造の全体的解明. ためにも、若狭以外のl色氏分国も含め、かつ、守護代以外の支配機. (8). ところで、守護代の在京傾向は、単に複数国の守護代職兼帯といっ. し'同一人である可能性がある。もしそうであれば'彼は披官化して. る。. (-)拙稿﹁南北朝期の守護権力構造-斯波氏の被官構成-﹂(﹃若越郷土研. 注. も今後に残された課題である。. 一〇年足らずの間に一色氏の筆頭被官に上ったことになり'それは同 時に、この時期の一色氏の権力基盤の底の浅さを露呈したものといえ. 若狭守護代としての小笠原氏は、原則として在国Lへ開所地・半済 て行っておりへ南北朝期の守護による荘園侵略と称されるものの内実. の給付といった'本来守護権に属する行為を、ある程度の主体性をもっ は、守護代によるものといっても過言ではない。また、一色氏は当時. (-)拙稿﹁畿内近国における大名領国制の形成-越前守護代甲斐氏の動向. 究﹄二三巻二∼四). を中心に-﹂(﹃史学研究五十周年記念論叢﹄日本編へ福武書店、t九. 山名氏の支配下にあった税所が興行のマニュアルを振っていた若狭上 下宮流鏑馬神事を自らの主導のもとに催しへこれを応安の国一撰圧服. 八〇年). 守護代の著しい成長を'甲斐氏の事例を通じて、具体的に跡づけよう. (3)前注拙稿は、室町期の畿内近国における政治史の特徴の一つといえる. 後の国内支配強化を目指した軍事的デモンストレーションにしようと と思われる。かくして、一色氏の若狭支配を名実ともに支えていたの. したと考えられるが、この神事を実質的に主催したのは長房であった が守護代小笠原長房であり、そこに彼自身の権力基盤を若狭に築いて. 84.

(13) としたらので'斯波氏がその家格とは逆に衰退のl途をたどった中で'. 証がある。. 年一〇月二三日三方忠治遵行状(﹃壬生家文書﹄三三六号)に在職の明. 一九六七年)二一一∼二二三五. (7)佐藤進一﹃室町幕府守護制度の研究﹄上(東京大学出版会へ. 甲斐氏は将軍権力との緊密な関係を背景として'斯波氏分国において 独自の権力編成を指向したが'それは、荘園制を媒介としていたこと も合わせへ幕府体制の枠をl歩も出るものでなく、l五世紀前半の畿. 田中稔﹁鎌倉幕府御家人制度の一考察﹂(石母田正・佐藤進一編﹃中世. (8)網野氏・松浦氏前掲論著。なお、鎌倉期の若狭の政治状況については. の法と国家﹄東京大学出版会、一九六〇年)へ網野善彦﹁中世における. の重みの所産と理解した。. 内近国における荘園制、およびそれを保障したところの室町幕府権力. 婚姻関係のl考察I﹃若狭l二宮社務系図﹄を中心にー﹂(﹃地方史研. 究﹄7〇七)へ河音能平﹁若狭国鎮守7二宮縁起の成立﹂(﹃八代学院大. (5)南北朝期以降の若狭における守護支配を論じた主要な論者としては'. 学紀要﹄二のち'同氏﹃中世封建制成立史論﹄東京大学出版会、. (4)今谷氏が、前掲書序章でい-つか例示されている(一〇頁)0 ①奥富敬之﹁若狭国守護領国制成立過程の一考察﹂(﹃民衆史研究﹄二)、. (9)注2拙稿はこうした問題意識に立った習作であるが'畿内近国の守護. ②網野善彦﹃中世荘園の様相﹄(塙書房へ一九六六年)二〇〇夏以降、. 代に関する専論は意外に少なく、仁木謙一﹁室町幕府侍所所司代多賀. l九七l年、所収)参照.. 五二∼一五九貢へ④松浦義則﹁南北朝期の若狭太良荘と守護支配﹂(. 高忠-大乱期近江守護代の動向と所司代の性格I﹂(﹃国学院大学紀要﹄. ③小川信﹃足利l門守護発展史の研究﹄(吉川弘文館、一九八〇年)1. l色氏の小浜問丸との結託による貿易利潤が国人l撰に勝利した原因. ﹃福井県史研究﹄四)などがあるO①は南北朝期の若狭政治史を概観し、. l二、のち、同氏﹃中世武家儀礼の研究﹄吉川弘文館、7九八五年へ. 第六章第五節)などが管見にふれている。他に、尾張在国守護代織田. 所収)へ水野恭一郎﹁赤松披官浦上氏についての1考察﹂(﹃史林﹄五四. 常竹による国人掌握に言及されている、斎藤純雄﹁尾張における守護. の一つとされる。②④は共に、主として太良庄を素材としながらも、. 支配はとらず'伝統的な主従制的軍事編成の方針をとったとされる。. 領BEI制の形成と国衝領﹂(﹃国史談話会雑誌﹄二二)や'戦国期の細川. 守護と在地領主の﹁疎遠﹂な関係が応安の国一按まで維持されている. ③は細川清氏の若狭支配を詳述し、被官の性格の検討から清氏の軍勢. 政権下の国人支配体制を﹁守護代・国人体制﹂として'守護代(内衆). 巻四へのち'同氏﹃武家時代の政治と文化﹄創元社へ一九七五年へ所. の﹁混成部隊的性格﹂を指摘されへその欠陥補強のため、守護領の国. ・国人が改元政権とは独自の行動をとるようになることを指摘された、. 収)へ上村喜久子﹁初期の織田氏と国人﹂(﹃新編一宮市史﹄本文編上、. 人への給付、半済実施を行ったとされる。以上いずれも示唆に富むも. 森田恭二﹁戦国期畿内における守護代・国人層の動向-管領細川氏の. 1色氏の支配は'石橋・斯波氏の時のように荘官までも動員する軍事. のばかりであるが'小稿は守護代小笠原氏の動向に対象を限定したこ. ことなどを'遠大な見通しと鋭い分析によって論じへまた④によれば'. ともあって'右の成果を必ずしも十分生かすことができなかった。今. 領国を中心として-﹂(﹃ヒストリア﹄九〇へのち'村田修三編﹃近畿. 大名の研究﹄吉川弘文館へ7九八六年'所収)なども学ぶところが大. 後の課題としたい。 (6)三方範忠までは﹁若狭国守護職次第﹂に名がみえ、同忠治は、永享九 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 85.

(14) きい。. 大学出版会、l九八八年、二六三頁)o. 立総合資料館編﹃東寺百合文書目録﹄の文書番号)、木崎弾正忠の押領. し(東寺百合文書オ四五1以下東百オ四五の如く略記I数字は京都府. 圧では同年九月二六日下地の打渡が幕府奉行人によって行われている. れた(佐藤氏前掲書、二二〇頁)。補任時期をいま少し考えれば、太良. 吃-、しばら-﹁守護未補﹂の状態が続き'同年一〇月までに補任さ. 文が収録されている。なおへ﹁若狭郡県志﹂の八幡宮の項にも﹁同(応 永)四年六月小笠原三河守長房<m懸鼻鏡於社頑﹂とある(﹃小浜市史﹄. 前後に大砲鋳造に供されて現存しないが、﹁諸国寺社鐘銘金石録﹂に銘. (S)﹃小浜市史﹄金石文編へ四六五。同書解説によればへこの鐘は明治維節. 1守護使という遵行系統上に位置づけられる。. 宛に出されているので(東百オ九四)、恥CN]i -CI Ol-Iは幕府1守護1守護代. (g)恥12の前に、同年二月一二日付で同内容の神宮方頑人加判奉書が守護. (2)﹃群書類従﹄四. を訴えた同年九月日東寺雑掌頼意申状(東百工八一)にも﹁今度伺守. (2)佐藤氏前掲書へ二一八∼二一九頁. 護未補之隙﹂とあるから'﹁吉田日次記﹂同年一〇月一六日条(﹃大日. 第一巻へ史料編へ四六一五)0. r-^同右. 本史料﹄第六編之二十七-以下﹃史料﹄六-二七の如-略記I四l三. 第1表地13は、文書とはいえ案文であり、しかも東寺百合文書中の塞. ォ)一色範光の守護職補任は、斯波高経の失脚した貞治五年八月すぐでは. 頁)に﹁若狭国守護一色修理大夫治定之由﹂とある通り、一〇月になっ. 文の中には、他にも正文(もし-は案文)の署名部分を正確に判読し. 二年頃から享徳三年頃にかけて若狭守護武田信賢の奉行をつとめた粟. ないまま作成されたとおぼしきものがままみられる。たとえば、文安. て補任されたとみてよい。. 屋右京亮(のち越中守)の実名を記す一一点の案文(一部のみ示せば. (3)九州における一色氏の動向については、川添昭二﹁﹃鎮西管領﹄考﹂ (﹃日本歴史﹄二〇五二一〇六)、一色氏全体についてはへ上村喜久子氏. には読めないまま模写したと思われるものさえある。したがって、こ. の要を得た概説がある(﹃室町幕府守護職家事典﹄上巻へ新人物往来社、. (2)﹃史料﹄六-二〇、八九四∼八九六亘、正閏史料、忌宮神社文書. の法名の問題は'﹁守護次第﹂﹁今富次第﹂の正確さを改めて裏づける. 東百ハ二六七二一七六・四〇九など)をみると'書体は一定せず、中. (3)﹁宝優院殿将軍宣下記﹂(﹃群書類従﹄二二). ものである。なお、両書の成立事情へ信感性の高さについては﹃群書. 7九八八年)0. (3)﹃太平記﹄巻三四. 拙稿﹁将軍近習小笠原蔵人と若狭守護代小笠原長房﹂(﹃若越郷土研究﹄. 解題﹄五、三二〇∼三二二頁(田沼睦氏執筆)参照。. の晩年の状況を暗示するものといえよう。九州経営の失敗の責任が問. 三四巻一). (2)色氏の諸種系図が範氏・直氏父子の没年を伝えないのは、この父子 われたのかも知れないO. 参詣に際して、直義の輿の左脇で松明を捧げ持つ役をつとめている. 康永四年の天龍寺供養の時の供奉の他、同三年の足利直義の新熊野杜. (﹃史料﹄六-一八へ三七八頁、円通寺文書)へ佐藤氏によれば兄直氏の. (﹃師守記﹄同年五月7七日条).. (5)範光が文和二年当時へ肥前守護に在職しているかの如き徴証もあるが 代官たる地位を示すものである(﹃室町幕府守護制度の研究﹄下、東京. 86.

(15) 建武四年と康永四年の小笠原瀬蔵人を共に長顕とする﹁御的日記﹂は. は﹁小笠原新蔵人﹂に﹁今度楠﹂の注記がありへこれが事実とすれば、. る)の名がみえる0なおへ﹃師守記﹄康永三年五月丁七日条(前注)で. の各年次に﹁小笠原源蔵人﹂(建武四・康永四の両年は実名を長顕とす. ﹁伽的日記﹂(﹃続群書類従﹄二三下)の建武四・康永四・貞和二・同六. 近習に復帰することはなかったにせよ、たとえば小笠原本宗家の本国. ともに三番に小笠原備前入道がみえる)。蔵人は又六(氏長カ)のように. となっていったものと思われる(﹁永享以来御番帳﹂﹁文安年中御番帳﹂. 位を失ったものの、観応の擾乱後しばら-して旧に復Lへのち奉公衆. 7質して又六を称しているOしたがって、この家はいったん近習の地. たのではあるまいか。. 信濃などに移るようなことはせずへ又六らと同じ-京都を離れなかっ. る0. 誤りで、康永四年以降の小笠原蔵人を長房とみなす余地も生まれて-. これは注25のように考えれば、反証とはならない。. 唯一﹁卸的日記﹂の﹁小笠原源蔵人長顕﹂の表記が不都合であるが'. 恥2の方に﹁昨日態以飛脚下状候了﹂とあり、これがmIを指すもの. 観応三年正月日佐藤元清軍忠状案(﹃史料﹄六-一五、九四∼九五貢へ. と思われるからへ死人小笠原長房は在国していることになる。. 佐藤文書)に、前年(﹃史料﹄六I一五、五六七五へ﹁鶴岡社務記録﹂ によれば二月五日)の遠江佐与中山における直義覚上杉憲顕との合. (53)おそらく、後述の太良庄頚所・地頭代と同様へ公文が前年失脚した前. 二六日の各条による。. (ァ)以下、﹃師守記﹄貞治六年四月二〇日・五月六日・七月二五日・七月. 戦の証人として﹁小笠原蔵人令兄知了﹂とみえる。なお、この軍忠状 案の証判には﹁兵庫守﹂の注記がありへ﹃大日本史料﹄は﹁小笠原政良 カ﹂とする。この比定には疑問も残るが(当時の政長の官途は遠江守)へ 大局的には、この頃へ足利尊氏から﹁早相催一族井分国軍勢﹂して直. (3)以下、﹃教王護国寺文書﹄四七l号-以下﹃教﹄四七一の如く略記-秦. 守護斯波高経に与していたことを理由とするものであろう。. 惣領、政長の軍事指揮下の行動とみて大過ない(﹃史料﹄六Il五'1. よる。なお、網野氏前掲書二六五∼二六七頁へ松浦氏前掲論文一七∼. 百ハ六六・六九、-四四(五)へな一二二(一)(二)へし三八、などに. 義党討伐に当るよう命じられていた信濃小笠原氏(小笠原本宗家)の 八八・四七五頁へ観応二年八月一〇日、および同年一〇月五日小笠原. (S3)禅舜は﹁東寺常住﹂たる自分はもとよりへ地下代官教実も山伏で、と. 一八貢参照。. 遠江守宛足利尊氏御判御教書へ勝山小笠原文書)。 笠原又六は、前注佐藤元清軍忠状にやはり証人(ただし小笠原蔵人と. (S3)小笠原蔵人と同じ-﹁御的日記﹂に貞和六年(観応元)までみえる小. もに軍役などつとめていないと主張している(東百ハ六六)0. (3)笠松宏至﹁中世開所地給与に関するl考察﹂(前掲﹃中世の法と国家﹄). は別の合戦)としてみえるから、蔵人と同様の道を歩んだ者と思われ るが'貞和二年から﹁御的日記﹂に登場する小笠原備前守は、又六本. 史料(﹁守護次第﹂)にもみえないからへ南北朝期以降入部した武士と. (S)市河氏の名は鎌倉期の国御家人にも(田中氏前掲論文)へ応安の国l撰. 思われるが'もし、信濃市河氏の一員だとすればへ長房が一時軍事指. 人、もし-はその子と推測される。すなわち、﹃尊卑分脈﹄や﹁小笠原 奉公衆となる京都小笠原氏に属する氏長(小笠原本宗家の惣領へ改良. 揮下に入った信濃小笠原氏を介して'若狭入部以前から長房との関係. 三家系図﹂(﹃続群書類従﹄五下)の﹁京都小笠原系図﹂によると、のち の従兄の子)の通称・官途は又六・備前守と伝え、氏長以降の歴代も 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 87.

(16) が成立していた可能性もある。 よい。. がNEIと同じ六月一日付でみられるから、他日の発給人は長房とみて. 永和二年一二月日太良庄地頭方年貢算用状(﹃教﹄五四七)の永和元年. (8)河昔氏前掲論文. 分に﹁小笠原太郎殿川狩ノ時酒手﹂、同二年分に﹁小笠原太郎殿川狩時. 酒手﹂とあり、同四年四月日(永和三年分カ)太良庄年貢算用状(﹃教﹄. (S5)田中氏・河昔氏前掲論文、網野氏注8論文. 五五四)にも﹁小笠原太郎殿鷹狩時﹂とみえる。小笠原長房・長春父. (3)清水三男﹁国衝領と武士﹂(﹃清水三男著作集﹄第1巻へ上代の土地関 係へ校倉書房へT九七五年). 氏前掲書三五七∼三五八頁へ尾張海東郡は今谷明﹃室町幕府解体過程. (4)尾張智多郡・三河は佐藤氏前掲書へ八五・九二∼九三五'丹後は今谷. 国7挟当時、一色詮範が在国していたことは﹁守護次第﹂にみえる.. (5)応安四年三月日太良庄地頭方年貢算用状(東百ハ七二)。なお、応安の. 子としてお-0. 子の通称はわからないので太郎の実名は確定できないが、l応長房の. 田中氏前掲論文 蔵文書二号への四点の文書による。. (ァ0以下へ東百ツ六九・七〇へハ八1'﹃福井県史﹄資料編2大谷雅彦氏所. 古文書家わけ東寺文書﹄はl五八号-以下﹃東﹄は7五八の如-. ォ)奉書形式の文書を東寺が﹁書下﹂と呼ぶ例は'第1表や﹃大日本. 略記-(幕府奉行人奉書の端裏に﹁書下案﹂とする)など、少な\な い。. の研究﹄(岩波書店、1九八五年)二五二貢、注52参照.. 島極楽寺以下地頭職の通行命令が幕府-守護(範光)l守護代(詮範). 州太守長身肘錆錯鵬守以為副使﹂とあるQまた、永徳三年の三河国塚. に﹁京兆ヂ源公(一色詮範)(中略)以康暦二年姶拝本州刺史へ乃通但. (4)﹁働室浸稿﹂所引﹁三州大岩寺千観音像記﹂(﹃史料﹄七-八へ三一五). なり(当時の若狭守護は斯波高経)へ時氏の死後もその妻(公家御前). (30﹁今盲次第﹂によれば'貞治三年三月二六日、山名時氏が今富名領主と. 1守護又代(小笠原但馬権守)と下達されている(佐藤氏前掲書へ九. て税所代となりへ嘉慶二年一二月二三日死ぬまで在職した。. (9)﹁今富次第﹂によれば'海部信泰は応安二年二月二七日へ父の死をうけ. が継承して'明徳の乱で没収され一色詮範に宛行われるまで領有した0. (S)明徳二年五月l三日小笠原三河入道宛l色詮範遵行状(﹃新編l宮市史﹄. 二∼九三貞)0. (5)松浦氏は、一色氏は太良庄において流鏑馬役を含む地頭職に固有の守 護役は地頭方に限って課していて'しかも﹁壱騎役﹂などの参陣要求 をしていないことに注意されている(前掲論文)。太良庄地頭方の流鏑. (3)この時l色氏が在京していたとすれば、12・2が同日付であるとこ. 資料編六、醍醐寺文書三九lE号). (3)第1表札1 1の文書名を﹃東寺百合文書目録﹄は﹁(若狭国守護)沙弥某. の明証は管見に入っていない。. ろから小笠原長房の在京が確認できる。ただしへ当時の一色氏の在京. 席役もあくまで米銭による負担であろう。 書下案﹂とするが、当時の守護一色詮範の出家は応永二年六月二一日. こ七月二八日条参照。. Km)注23拙稿Oなおへ明徳五年(応永元)﹁二十l口方評定引付﹂(﹃東﹄ち. であるから(﹃史料﹄七-二へ五九頁へ﹁柳原家記録﹂)へ発給人は詮範 ではない.t方守護代小笠原長房は前年には確実に出家しているし (第1表馳10)へ恥8の長房による八幡宮放生会・上下宮流鏑馬役催促. SB.

(17) 二人の中で明らかに若狭国人とみられるのは、応安の国一撰で守護. 方に属した佐野・河崎両人ぐらいである(﹁守護次第﹂)0. 小守護代武田重信は'一色氏の守護樺任以前から若狭で活動していた 武田氏の系譜を引くものと思われる。すなわちへ康安元年一二月から. 新行氏は、長春は満範の不興を蒙ったとされる(前掲論文)0. (昭和六十三年九月三十日受理). (g)注2拙稿では、国人領主の在京を荘園諸職獲得の面から考えてみた。. 翌年三月まで﹁武田殿﹂が当時の守護石橋和義から太良圧の給人とさ れ同庄に入部している(﹃東﹄は一四一)。したがってへ鎌倉期以来で はないにせよ'南北朝初期から若狭で活動し'めまぐるしく交替する 守護と関係を結びながら若狭に根を下ろしていった国人とみられる。 なお、奥書氏が前掲論文で、この武田氏をのちの若狭守護武田氏とさ れるのは誤認である。 令下達文書上にみえない理由については別に考える必要があろう。. (S)在国していて'蓬沢らの上位に位置するはずの小守護代が'守護の命 ﹁相国寺供養記﹂(﹃群書類従﹄二四) (8)(応永一四年)四月二六日氏家近江入道宛一色道範(満範)書状案( ﹃醍醐寺文書﹄f八二八号-二)は、三宝院の三河国衝職知行を認めた 前日付の足利義満御内書(同一八二九号)をうけて出されたものであ るが、端裏書に﹁正文者在庁方披付下也﹂とあるところから、氏家近 江入道は三河在庁の最高職にある者と推察される。また、氏家氏は応 永三〇年へ永享一二年に三河守護代としての徴証があるから(﹃康富訂巴 応永三〇年八月二三日条へ﹃師郷記﹄永享一二年五月二二日条)、小笠 原氏失脚後の当初から守護代になっていた可能性もある。なおへ新行 紀一氏が、小笠原氏のあとの三河守護代として石川氏を想定されてい. 四)0. るのは誤りである(﹁一五世紀三河の守護と国人﹂﹃年報中世史研究﹄. 閉された石河城主であろう。他に延永氏もtのち丹後守護代となると. (﹂)石川氏は'丹後与謝郡石川圧を名字の地とする国人で'長春父子が幽. ころから(今谷氏前掲書、三五七∼三五八五)へ丹後国人の可能性が高 い。 南北朝室町初期の若狭守護代小笠原氏について. 89.

(18) On the Ogasawaras, Shugodai in Wakasa Country, from the Nanbokucho to the Early Muromachi Period. Syoichi Kawamura. In 1366, Norimitsu Isshiki was appointed as Shugo (governor) in Wakasa Country. He employed Nagafusa Ogasawara as his Shugodai (administrator). Nagafusa had been an attendant of Shogun until he lost the position in 1351. Norimitus returned to Kyoto from Kyushu around 1357, and several years later he adopted Nagafusa as one of his men. Just after Norimitus took office as Shugo, Nagafusa went to Wakasa as Shugodai. Nagafusa reigned the country with so great powers that he even gave territorial rights to Bushi (the lords of the manor) living in the country before he got permission from Norimitus in Kyoto. In his later years before he died in 1397, Nagafusa left Wakasa and lived in Kyoto. After his death his child Nagaharu succeeded him, but he lost the position in 1406. This was caused firstly by the decline of the Ogasawaras among the retainers of the Isshikis, and secondly by the rise of anti-Ogasawara movements in Wakasa Country.. -90-.

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参照

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