機械仕掛けの馬車伝説
―『ダーバヴィル家のテス』と偶然の飼いならし
平成27 年 9 月25 日発行機械仕掛けの馬車伝説
―『ダーバヴィル家のテス』と偶然の飼いならし
原 雅 樹
1 1891 年に出版されたトマス・ハーディ (Thomas Hardy) の代表作、『ダー バヴィル家のテス』( )には、周知のように、destiny 、 doom 、あるいは fate という運命を意味する言葉が頻出する。当然なこと に、この作品の物語がいかに決定論的に展開しているかということを、多くの 批評家が指摘してきた。作品内において運命は、ダーバヴィル家の因果応報や 馬車伝説として表現されている。ダーバヴィル家の因果応報が作品内で最初に はっきりと言及されるのは、主人公のテスがアレクに処女を奪われる瞬間であ る。かつて彼女の先祖がある田舎娘に乱暴をはたらいたつけをテスが払わされ ている、という“the possibility of a retribution”(82) がそこで提示されるのだ。1この因果応報の具体的な物語が“the legend of the d Urberville Coach”(232) で あって、その詳細は作品内で徐々に明らかになってゆく。まず、テスと結婚し た直後のエンジェルが、その馬車伝説の存在に言及する(第 33 章)。だが、 そこで彼はその伝説が縁起の悪いものであるという理由から、その詳細に関し ては口を閉ざす。次にその伝説を話題にするのは、テスが処女ではないことを 知ったエンジェルが単身でブラジルへと去った後に、求婚者として再び彼女の 前に現れるアレクである(第 51 章)。ここでようやくその伝説の内容の詳細が 明らかになる。アレクによれば、かつてダーバヴィル一族の者がある田舎娘を 馬車で連れ去ろうとしたのだが、彼女が馬車から逃げ出そうとしたために両者 は揉み合いとなり、どちらかが相手を殺したのである。物語の終盤は、ほぼこ の馬車伝説のとおりに展開していく。一家を貧困から救うために仕方なくアレ
1 以 下、『テス 』 からの 引 用 は Thomas Hardy, (Oxford:
クの妻となったテスのもとへ、ブラジル帰りのエンジェルがやってくる。する と彼女は、タロットカードにおける運命の車輪だけでなくダーバヴィル家の馬 車の車輪をも想起させる“Ixionian wheel”(402) に縛りつけられた人が発するよ うなうめき声をあげながら、アレクを刺殺する(第 56 章)。その結果彼女は処 刑されて、物語は終りを迎える。こうして、ダーバヴィル家の因果応報の物語 は実現することになるのだ。見落としてはならないのは、この馬車伝説がすで に第 8 章で一度実現しかけていることである。そこでアレクはテスを馬車に乗 せて、車輪をうならせながら―“the wheels humming like a top”(60)―坂道 を全速力で駆け下りる。ここでは、幸いにも、彼女は彼を殺さずにその馬車を 降りることができる。だが遡及的にみれば、この場面はテスの人生を支配する 運命、ダーバヴィル家の馬車伝説の始まりを告げる場面であるといってよい。 しかし、『テス』の物語中の出来事がすべて因果関係によって支配されてい るという決定論的な理解は、むろん唯一絶対の作品解釈として通用してきた わけではない。J・ヒリス・ミラー (J. Hillis Miller) は、運命や因果の鎖はすで に生じた諸々の出来事を事後的に振り返ったときにのみ見出されるものであっ て、事前におけるそれら出来事は偶然の産物でしかないという洞察を、『テス』 の中に見出している。すなわち、作品における運命は、それと対立関係にある はずの偶然と、実は表裏一体の関係になっているのだ (139)。2こうした画期的 な解釈をさらに発展させたのが、ジリアン・ビア (Gillian Beer) の研究である ことに異論はないだろう。言語理論に基づく非歴史主義的なアプローチをとっ たヒリス・ミラーとは対照的に、ビアは『テス』と同時代の進化論のコンテク ストを重視するアプローチを採用し、『テス』を含むハーディの小説作品にみ られる決定論と偶然の表裏一体的な関係性を再解釈しようとする。ビアによれ ば、ハーディの小説にみられる偶然的な物語展開は、チャールズ・ダーウィン (Charles Darwin)の進化論が内包している物語性をハーディが小説のプロット 構成にうまくとりいれた結果なのである (236-258)。3 本稿の試みは、以上の先行研究とは異なる観点から、『テス』における決定 論と偶然の関係性について再考することである。コンテクストを重視するこ 2 『テス』における偶然性を論じる研究はヒリス・ミラー以前にもいくつか存在 し、とくに Guerard; Hornback が興味深い。だが、それらを含むほとんどの解釈で は、作品における運命と偶然の関係性が十分に考察されているとはいえない。
とによってその洞察を達成しいまや古典として認められているビアの読解は、 そうした解釈につきまといがちなある問題点を抱えてしまっている。その解釈 においては、『テス』という作品がもつテクストの特殊性に対する十分な注意 が払われていないのである。『テス』の物語が、決定論的に展開するものとし て解釈されるのと同時に、偶然性を孕んだ展開としても読まれるのはなぜか。 それは、因果応報や馬車伝説というかたちで決定論的な物語の根幹を成す当の ダーバヴィル家の実体が、作品内で具体的に描かれることがほとんどないから である。つまり、ダーバヴィル家はその領地と屋敷を失ってしまい、今はたん なる家名というテクストとしてしかその姿を残していない、没落した一族とし て描かれているのだ。そして作品において、ダーバヴィル家のこうした状況 は、ビアのいうように進化論的な世界観に由来するものというよりはむしろ、 産業資本主義の農村への浸透に由来するものとして描かれている。作品の物語 展開が偶然性に大きく左右されるのは、農村の近代化によって土地を失った ダーバヴィル家が、特定の意味を失って浮遊する記号としてしか描かれていな いことと深く結びついているのである。4 3 ビア以後、ハーディの小説における偶然性に注目した研究では、同時代の統計学 や道徳哲学の文脈の中でハーディの (1878)を解釈しようと する Small が重要である。 4 『テス』の物語世界の基底が産業革命以後の近代化しつつある農村であること は、たしかに Kettle; Brown によって 1950 年代にすでに論じられている。そし てそれらマルクス主義的な批評の伝統は、70 年代から 90 年代にかけて Williams; Goode; Fisherによって批判的に継承されてきた。また最近では、必ずしもそうし た系譜に位置するわけではない、Meadowsong; Kreisel; Ferguson の研究が重要で ある。なかでも Kreisel は、同時代の経済学的文脈、とりわけ限界革命 (marginal revolution)との関連で『テス』を論じており興味深い。以下の本稿第 2 節における 議論は、以上の研究に負う部分が大きい。しかし、それら先行研究では、農村の近 代化と浮遊する記号としてのダーバヴィル家との間に深い結びつきがあり、その結 果として作品の物語展開が偶然性を内包してしまうということについては、主題的 に論じられていない。
2 作品第 1 章で、テスの父親であるジョン・ダービーフィールドは、彼が征服 王ウィリアムに従ってノルマンディからやってきた有名な騎士の家系、ダーバ ヴィル家の後裔であるらしいということを、アマチュア好古家でもあるトリン ガム牧師から教えられる。「ダーバヴィル家」のテスの物語は、まさにここか らはじまるのである。だが、この場面は同時に、ダービーフィールド家とダー バヴィル家との間に埋めようのない亀裂を生じさせてもいる。その理由として は、第一に、トリンガムが彼自身で認めているように、彼の情報が確かな根 拠を欠いた“curious bit of lore”(15) にすぎないということがある。第二に、そ してより重要なことに、ダーバヴィル家は郡の旧家としては絶えてしまって久 しく、一族の墓地以外には家屋敷をすべて失っており、地方の歴史家や系図学 者以外の人々にとっては何の興味もひかれない対象として描かれているのだ。 ダーバヴィル家が今まさにそこに存在するということの根拠となるだろう土地 や屋敷がまったく残っていないということは、むしろ、その一族が不在である ということを際立たせている。実際に、作品の冒頭から最後まで、はっきりと 目に見える具体的な姿形でダーバヴィル家が描かれることは一度もない。これ によってダーバヴィル家の実体性が希薄となり、その結果として、物語展開が 偶然的なものとして解釈されうる余地が生じてしまうのである。 『テス』の物語展開に対するダーバヴィル家の因果応報の支配力が弱まるの は、その一族が領地を失ったことばかりによるのではない。作品において、 ダーバヴィル家は、地方の歴史書や系図や人名録などの著作の中に書かれた家 名としてしか存在しないことが強調されている。しかも、その家名は、その一 族と深く結びついた濃密な文脈を内包するものとしては描かれていない。むし ろそれは、そうしたコンテクストを失ったために、恣意的に意味を読み込まれ うるテクストにすぎないものであることが示唆されているのだ。このために、 『テス』の物語展開はより偶然的なものに見えてきてしまう。ダーバヴィル家 のテクスト性がもっともはっきりと示されるのは、アレクがダーバヴィルを名 乗るようになった経緯が説明される箇所においてである。彼が「アレク・ダー バヴィル」になったのは、彼の父であるサイモン・ストークが、大英博物館所 蔵の旧家を取り扱った著作の中に見つけたダーバヴィルという姓を、自分の名 前に「付け足した」(“annex”)(45) からだ。見落としてはならないのは、サイ モンがダーバヴィルという姓を選んだのは、その見た目と響きが気に入った
―“he considered that looked and sounded as well as any of them” (45)―からである、という点だ。彼は「ダーバヴィル」という家名が内包し ていたはずの一族の来歴には一切関心をもっていないのである。こうして彼 は、「ダーバヴィル」という記号をまるで引用するかのように、彼自身の名前 に“regraft”(44) するのである。テスと彼女の両親は、こうした家名の接ぎ木が 可能であることを知らずに、“a family name came by nature”(45)と素朴に思い 込んでいたために、アレク・ダーバヴィルにたやすく欺かれてしまうことにな る。そのため、アレクは作品において“sham d Urberville”(384) としてみなされ ている。一見したところ、ここで問題になっているのは、アレクが偽のダーバ ヴィルであることを見破ることができなかった、テスと彼女の両親の無知であ るように思われる。しかし、ここで示唆されているのは、本物のダーバヴィル が誰なのかということが原理的に決定できないということなのだ。「ダーバヴィ ル」というテクストを自分の名に接ぎ木することによって誰もがダーバヴィル 家の一員になることができるのだとしたら、現時点で「自然に生じてきた本物 のダーバヴィル家」としてみなされている者たちもまた、過去のある時点で人 工的な接ぎ木によってダーバヴィル一族になったのかもしれないという疑いが 生じてくる。すると、本物のダーバヴィル家の探求は無限に後退してゆくこと になるだろう。ダーバヴィル家の起源が特定される度毎に、それが派生物にす ぎない可能性が頭をもたげてくるからである。こうしてダーバヴィル家は、土 地との有機的な結びつきを失って、本来的な意味や物語をもたずに浮遊する記 号として見えてきてしまう。そして同時に、テスの人生とダーバヴィル家の因 果応報とを結びつける必然性が見当たらないことが暗示されてしまうのだ。 土地や家屋敷を失って浮遊するダーバヴィル家のテクスト性は、『テス』の 物語展開に無視しがたい偶然性を孕ませてしまう。さらに重要なことに、作 品内で、ダーバヴィル家において見られるような土地と家系との間の有機的な つながりの解体は、農村への産業資本主義の浸透という歴史的な変化と密接に 関連づけられている。つまり、ある特定の土地で何世代にもわたって暮らして きた特定の人々をそこから切り離し根無し草にしてしまう要因として、農村の 近代化が示唆されているのだ。これについては、ダービーフィールド一家が マーロット村からほとんど追い出されるかたちで引っ越していく様子を描いた 場面に、もっともよく見てとることができる。終身保有権者である家長のジョ ンが亡くなったために、一家は農場経営者によって三代にわたって暮らしてき
た家から追い出されることになる。というのも、自分の雇用する勤勉な労働者 をそこに住まわせたいその農場主は、ダービーフィールド一家のように終身保 有権をもつというだけでそこにいる怠惰な家族の賃貸借期限を更新したくない からである。その経営者が必要としているのは、利益をあげるために必要な 労働者であって、“the backbone of the village life in the past”であり、また“the depositaries of the village traditions”(372)でもあるそうした前近代的な家族で はないのだ。言うまでもなく、ダービーフィールド一家がダーバヴィル家の後 裔であるらしいということは、その経営者の関心をいささかもひかない。 こうした状況の変化を極端なかたちで提示しているのが、フリントクーム= アッシュ村における農作業の場面である。フリントクーム=アッシュは、そこ に長い間暮らしてきた村人や地主によって営まれている村でなく、土地をただ 賃貸ししている不在地主の村であると説明される (304)。ここでは、マーロッ ト村の将来の姿を暗示するかのように、グロービーという農場経営者が生産性 を高めるために蒸気脱穀機を導入し、労働者を酷使する様子が描かれるばかり で、村人や村の歴史に関する描写は一切ない。村の実質的な中心は、利益をあ げることだけに専心するグロービーと彼の農場なのである。いや、より正確に 言えば、村の核心は固有名によって特定できる個人や農場ですらない。その農 場という小さな宇宙の“ ”(345)は、蒸気脱穀機を動かすエンジン なのである。しかも、そのエンジンはフリントクーム=アッシュの原動力であ るにもかかわらず、“portable repository of force”(346)なのであって、その村と の有機的なつながりを一切もたない。その上、そのエンジンを操作するのは、 人に何者であるかとたずねられても“an engineer”(346) と返答するだけの、匿 名的な機関手なのである。彼は、まるで持ち運び可能なエンジンの一部である かのように、各地を渡り歩いている。
He was in the agricultural world, but not of it....He travelled with his engine from farm to farm, from county to county....hardly perceiving the scenes around him, and caring for them not at all....The long strap which ran from the driving-wheel of his engine to the red thresher under the rick was the sole tie-line between agriculture and him. (345-346)
は、あらゆる場所が束の間の滞在地でしかないのである。彼がどこにいようと も、その場所と彼とを結びつける必然性は何もない。こうして、彼のような機 関手がいなければ機能しない近代的な農業に携わる者たちもまた、彼のように 根無し草的な放浪を強いられることになるだろう。 実際に、『テス』は、その主人公テスがダーバヴィル家の因果応報に支配さ れて愛する男と結ばれぬままにその生涯を終える悲劇的な物語ではなく、産業 資本主義の浸透によって彼女が不安定に職を転々とする様子を描いた物語とし ても読める。彼女は、ほとんど常に労働しているのだ。父親に代わって蜂蜜の 巣箱の運搬を引き受けたことにはじまり、彼女はアレクの屋敷で鶏の世話をす る係として雇われ、アレクのもとを去ってからは未婚の母としてマーロットで 野良仕事に従事し、その後、口さがない世間の人々から逃れてトールボセーズ の酪農場で乳搾りとして働くことになる。そして、エンジェルが彼女のもとを 去ってブラジルへ独りで行ってしまった後、彼女はポート・ブレディ近くの酪 農場において臨時雇用の乳搾りをやり、その契約が切れるとフリントクーム= アッシュ農場へと移り、最終的には父親の死後困窮する一家を救うために、ア レクにいわば彼女自身を売るのだ。こうして物語終盤において、彼女は「ダー バヴィル夫人」として、サンドボーンという都会の豪勢な下宿で再びアレクに 仕えることになる。周囲の自然環境との間にいかなるつながりももたないその 都市は、“a fairy place suddenly created by the stroke of a wand”(398)として描 写されており、乳牛も酪農場も存在しないその人工都市に暮らす彼女はエン ジェルの目を通して次のように描写されているのだ。
his original Tess had spiritually ceased to recognize the body before him as hers̶allowing it to drift, like a corpse upon the current, in a direction dissociated from its living will. (401)
ここで、自然との有機的なつながりを失い、無機的な死体のようにただ流され るままの「ダーバヴィル夫人」の姿は、エンジンという機械に仕えて各地を漂 流する固有名の不明なあの機関手の姿と、奇妙に重なって見えてくるのだ。
上記引用箇所でエンジェルのいう“his original Tess”が、トールボセーズで乳 搾りをしていたころのテスを指していることは明らかだ。たしかに、トールボ セーズは作品中もっとも牧歌的な自給自足の共同体であるかのように見える。
この酪農場は、自然界の有機的なリズムに従い、そこで働く人々と土地とが調 和した共同体のように見えるのである。しかしながら、トールボセーズもま た、近代化という歴史的な変化からは逃れられていない。というのは、その酪 農場はすでに市場経済の中に組み込まれているからだ。 その経営は、鉄道で結 ばれたロンドンの住人たち―彼ら彼女らは、テスがいうように、牛乳の産地 であるトールボセーズのことも、そこで働く乳搾りたちのことも、鉄道の駅ま で誰がどのように牛乳を運ぶのかということも知らない匿名の消費者たちであ る (205)―の需要にかかっているのである。こうして、自然と調和したこの 共同体に、鉄道の時刻表が侵入してくることになる。
Dairyman Crick...suddenly looked at his heavy watch.
“Why, tis later than I thought,” he said. “Begad!̶we shan t be soon enough with this milk at the station, if we don t mind!” (201)
無機的な鉄道のシステムに合わせられなければ、トールボセーズの農場経営は 成り立たないのである。 『テス』の世界観の基底を成しているのは、産業資本主義の農村への浸透に よって、特定の土地とそこで暮らしてきた人々との間の有機的な結びつきが 解体しつつある状況に他ならない。そうした近代的な状況と、貴族の家系であ るダーバヴィル家が没落して領地や屋敷を全て失い、その歴史に関心をもつ者 を得られぬまま、今やいくつかの本の中に家名というただの文字列として存在 しているにすぎないという状況とは、作品において深く結びついているといえ る。そして、その密接なつながりは、アレク・ダーバヴィルに見てとることが できるのである。彼のもとの姓がストークであること、またストーク家がイン グランド北部出身であること、そしてサイモンは北部では商売人であったこと は、ストーク家と産業革命との関係を容易に想起させる。ここから、次のよう なストーリーが自然に想像されるだろう。すなわち、ダーバヴィル家は新興の 商人たちの台頭によって没落し、その後、そうした勃興する中産階級のうちの ひとつであるストーク家がテクスト操作によって「ダーバヴィル」を自らに接 ぎ木することになったのだ。『ダーバヴィル家のテス』において、ダーバヴィ ル家の後裔とされるテスから見た場合には、その物語展開は必然的な因果の連 鎖から成るように見える。しかし、アレク・ダーバヴィルから見た場合、作品
の物語展開に必然性を見出すのは難しくなるだろう。アレクは、『テス』の物 語展開が孕む偶然性を象徴する登場人物なのである。 3 前節の議論から明らかなように、作品世界の基底となっているのは、人々を 特定の土地から切り離し漂流させる不安定な近代社会である。ダーバヴィル家 は、なによりもまず、農村の近代化によって真っ先に衰亡し、一族と有機的に 結びついた領地や屋敷を失って、いまや本来的な意味をもたずに浮遊する記号 として描かれているといえる。そうであるならば、ダーバヴィル家の因果応報 ではなく偶然こそが、『ダーバヴィル家のテス』の物語展開を支配していると いうことになる。すると、ここで新たな問題が浮かび上がってくる。それは、 作品の物語展開がこれほどまでに偶然に左右されているのにもかかわらず決定 論的に見えてしまうのは、いったいどうしてなのかという問題である。そこに は何か特別なメカニズムが働いているはずである。以下で詳しく論じていくよ うに、ダーバヴィル家の馬車伝説や因果応報は、作品物語の自明の前提では決 してない。それはむしろ、まったく脈絡を欠いたまま生起する出来事の数々に 因果関係が存在するかのように見せかけようとする、自然化の作業によって支 えられているのである。換言すれば、作品において因果応報や馬車伝説として 表現される運命のプロットは、次々に生起する出来事がもつ偶然性を馴致しよ うとする修辞的な戦略、すなわち自然化の作業なしでは機能しないのだ。5 ダーバヴィル家の因果応報とその自然化による偶然性の飼いならしがもっと も明白に描かれているのは、終身保有権の期限が切れたダービーフィールド一 家がマーロット村を立ち去る場面である。本稿前節における議論のとおり、そ の村の近代的な農場経営者は、ダービーフィールド一家のように終身保有権を もっているというだけでそこにとどまっている怠惰な家族を疎ましく思ってい るため、そのような家族の賃貸借期限を更新することはない。こうして、その 村の屋台骨として伝統を担ってきたそうした前近代的な家族は、より大きな都 市へと移住していくことになる。この過程は、次のように描写されている。
the process, humorously designated by statisticians as “the tendency of
the rural population towards the large towns”, being really the tendency of water to flow uphill when forced by machinery. (372-373)
ここでは、ダービーフィールド家のような家族の都市への移住が、農村の近代 化によって強制的に引き起こされた事態であることが示唆されている。その ような移住は、機械によって本来向かうはずのない方向へ無理やり押し流され た結果であって、自然の流れに反するものであるとされているのだ。しかし、 注目すべきことに、ダービーフィールド一家の移住はダーバヴィル家の因果応 報によって説明されてもいる。重要なのは、そこではその因果応報が、さきほ どとは対照的に、機械ではなく普遍的な自然現象の比喩で説明されていること だ。
Thus the Durbeyfields, once d Urbervilles, saw descending upon them the destiny which...they had caused to descend many a time, and severely enough, upon the heads of such landless ones as they themselves were now. So do flux and reflux̶the rhythm of change̶alternate and persist in everything under the sky. (371)
ダービーフィールド一家が故郷を失って移住しなければならないのは、近代化 がもたらした機械の力によって自然に反した方向へと押し流されているから ではなく、ダーバヴィル家の因果応報のためなのだ。しかもそれは潮の満ち引 きのように自然のリズムに従った変化であって、それまでの生活から一家を断 絶させる破壊的な変化ではないという。さらに、この箇所はダービーフィール ド一家の移住についてのみ語っているように見えるが、この世のあらゆるもの に行き渡る潮の干満のリズムを持ち出すことによって、実際にはその一家以外 の移住についても因果応報という運命によって説明してしまっている。こうし て、機械による遡上に喩えられた産業資本主義の浸透による農村全体の歴史的 な変化は、潮の干満に喩えられたダーバヴィル家の因果応報という説明がそこ に上書きされることによって、普遍的で自然な変化のように見えてくるのだ。 このような自然化のプロセスは、作品のよりミクロなレベルでも進行してい る。すなわち、浮遊する記号であったダーバヴィル家は、いわば、物語が進行 するにつれて徐々にテスの身体に埋め込まれていくのである。 そして、本稿
の関心から見た場合、エンジェルという登場人物こそが、作品においてこのプ ロセスを中心的に担う要素となっているのだ。この点で、エンジェルとアレク は、作品の物語においては一度も対面することがないのだけれども、本稿の議 論においては明らかに対の関係をもっている。つまり、本稿前節の終わりに述 べたように、アレクが作品の物語展開における偶然性を象徴している一方で、 エンジェルは自然化のプロセスと密接に結びつけられているのだ。 第一に、ダーバヴィル家はテスの顔として身体化される。新婚旅行の下宿先 として選んだかつてのダーバヴィル家の館の中に、その一族の婦人たちの肖像 画を見つけたエンジェルは、彼女らの残忍な顔貌をテスの顔の中に見出してし まう。
The long pointed features, narrow eye, and smirk of the one, so suggestive of merciless treachery; the bill-hook nose, large teeth, and bold eye of the other, suggesting arrogance to the point of ferocity, haunt the beholder afterwards in his dreams....The unpleasantness of the matter was that...her fine features were unquestionably traceable in these exaggerated forms. (235-236)
ダーバヴィル家は、テスによる彼女の過去の告白を聞いた後のエンジェルの 視点を通して、再びテスの顔にマッピングされることになる―“again he experienced the distressing sensation of a resemblance between them”(254)。
第二に、ダーバヴィル家はテスの行動の中に見出されてもいる。テスと アレクの過去の関係を知ったエンジェルは、彼女に対して“‘I cannot help associating your decline as a family with this other fact̶of your want of firmness. Decrepit families imply decrepit wills, decrepit conduct ”(252)と言い 放つ。6ここで見落としてはならないのは、なによりもまず、テスがダーバヴィ ル家の血を引く後裔であるということを彼が自明視していることだ。本稿前節 の議論のとおり、作品冒頭ではダーバヴィル家とダービーフィールド家との間 にあるギャップの存在がむしろ強調されていた。つまり、彼女がダーバヴィル 6 Greensladeはこの引用箇所を世紀転換期の人種退化 (degeneration) をめぐる議論 との関連で論じている。
家の後裔であるということは、テスの外部にあってほとんど無根拠に彼女に押 しつけられるものとして位置づけられているのである。アレクに迫られて彼女 が処女を喪失してしまう場面は、そうした状況において描かれているのだ。し かし、エンジェルの考えでは、まったく反対に、彼女がダーバヴィル家の血を ひいているからこそ、彼女はアレクとそのような関係を結んだということに なってしまう。こうして、ダーバヴィル家はテスの身体の内部に深く埋め込ま れるのである。 最終的には、作品序盤においてはその根無し草性を強調されていた「ダーバ ヴィル」という記号は、テスの身体を流れるダーバヴィル家の血として描かれ るようになる。アレクを殺して彼のもとへやってきて、幸福のあまり涙を流し ているテスを見て、エンジェルは次のように考える。
he...wondered what obscure strain in the d Urberville blood had led to this aberration....There momentarily flashed through his mind that the family tradition of the coach and murder might have arisen because the d Urbervilles had been known to do these things. (408)
彼によれば、彼女をしてアレクを殺させたのは、テスの中に流れるダーバヴィ ル家の血に隠されたある性質なのだ。彼の思考の前提は、ダーバヴィル家の血 によって彼女の行動の全てを説明できるという信憑であるといってよい。さら に彼は、ダーバヴィル家の馬車伝説もまた、その一族の血に由来するものとし てみなしている。このことは、本稿の関心から見た場合、注目に値する。とい うのは、この箇所で、『テス』の物語展開を決定論的なものとするあの馬車伝 説が、テスの中に血肉化したものとして描かれているからである。ここにおい て、ダーバヴィル家は、土地を離れて浮遊する死んだテクストからテスの身体 を流れる血という生きた自然物へと、大きく変容するのである。 こうした自然化による偶然性の馴致は、アレク・ダーバヴィルの死によって 決定的なものとなる。冷静に考えてみれば、「偽のダーバヴィル」であるアレ クがダーバヴィル家の因果応報に巻き込まれて死んでしまうのは奇妙である。 なぜならば、先祖の悪行の責任をとらなければならない人物は、その血をひい ているテスだけでよいはずだからだ。そうだとしたら、テスがアレクに弄ば れたあげく殺されるという結末のほうが、因果応報の物語展開としてふさわし
い。しかし、実際にはそうなっていないのだ。この結末が物語全体の解釈に及 ぼす効果は、実のところ思いのほか大きい。アレクの死によって、産業資本主 義による伝統的な農村の解体、そして土地を失って記号と化したダーバヴィル 家という、作品の物語展開に偶然性をもたらす要素が象徴的に取り除かれるの である。しかも彼の死は、彼があたかもダーバヴィル家の血をひいているかの ごとく、その血に由来する馬車伝説の枠組みの中で生じた出来事として描かれ ている。その上、作品においてテクスト性を象徴する登場人物であった彼は、 テスに心臓を刺されることにより白い天井にできた“scarlet blot”(404) から、 “a blood-stain”(404)へ、そして最終的には“a lot of blood”(405) へと変容してし
まうのである。ここに至って、彼の身体からしたたり落ちる大量の赤い血は、 テスの中を流れるダーバヴィル家の血と重なって見えてくる。ここで彼は、ま るで本物のダーバヴィルであるかのように描かれているのだ。 4 作品序盤ではそのテクスト性を強調されていたダーバヴィル家は、自然化の 作業プロセスの中で、自然界にあまねくゆきわたる潮の干満のリズムやテスの 血肉と徐々に固く結びつけられてゆくことによって、ダーバヴィル家の血に由 来する因果応報の馬車伝説として具体化してゆく。そして最終的には、「偽の ダーバヴィル」であったはずのアレクが死後あたかもダーバヴィル家の血に変 わってしまったかのように描かれることで、その自然化の作業は完了したよう に見える。しかし、実際にはそうではない。以下で詳しく論じられるように、 自然化の作業それ自体の中に偶然性が侵入してきているのである。つまり、決 定論的な物語が組み立てられる際の足場となっている当の自然と身体が、偶然 性を内包したものとして描かれているのだ。 何よりもまず、『テス』において自然は、その力や信頼性の乏しさを強調さ れている。7それだけでなく、自然はテクスト性とも結びつけられているので ある。テスが、エンジェルよりも前にアレクとの関係を深めることになってし まったことについて、作品内で次のように語られる。
Nature does not often say “See!” to her poor creature at a time when
7 『テス』における自然の観念の曖昧性や両義性については、本稿とは異なる観点
seeing can lead to happy doing; or reply “Here” to a body s cry of “Where?” till the hide-and-seek has become an irksome, outworn game....it was not the two halves of a perfect whole that confronted each other at the perfect moment....(48-9) 本稿前節における引用箇所では、自然は潮の干満という安定した周期をもつ普 遍的なリズムとして描かれていた。しかし、ここで自然は、本来なら結ばれ るべき完全な全体の二つの分身を必ずしも結び合わせることができない、能力 不足の存在として描かれている。しかも、“not often”という表現に暗示されて いるように、その結合作業は周期的なリズムに従ってなされるのではなく、ま るで気まぐれになされるかのようだ。そうした自然の信頼性の乏しさについて は、別の箇所でも明示されている。テスが過去にアレクともった関係について 告白したあと、エンジェルは目の前にいる彼女の清純な外見と、告白内容から 示唆される彼女の内実との間の齟齬に苦しむ。
She looked absolutely pure. Nature, in her fantastic trickery, had set such a seal of maidenhood upon Tess s countenance that he gazed at her a stupefied air:
“Tess̶say it is not true! No, it is not true!”(257)
アレクと関係をもったことで未婚の母になったはずなのに、なぜか彼女は清純 な処女に見える―エンジェルはそう考え困惑している。そして彼の目を通 して、その状況は、自然による策略の産物というほとんど撞着語法的な仕方で 説明されている。彼は自然と技巧の区別をつけられなくなっているのだ。その 上、重要なことに、テスの内実と結びついているべき処女性が、ここでは彼女 の内実とは無関係に、自然によって外部から取り付けられる記号として描かれ ている。すなわち、ここでは、アレクによって象徴されるテクスト性あるいは 偶然性が、それとは対立するはずの自然の中に見出されているのである。 作品における自然化作業の要の一つである身体性もまた、偶然性を物語内 へと入り込ませる侵入口になってしまっている。本稿前節で、「ダーバヴィ ル」という記号がテスの中に流れる血として形象化されることによってその具 体性を増していくことは、すでに論じられた。興味深いのは、その一方で、
「ダーバヴィル」は身体の一部である骨という形象として描かれてもいると いうことである。たとえば、“grander and nobler skillentons”(16)、“ancestral skeletons”(23)、“finer skillentons”(32)、“family skillentons”(274)、“skeletons at Kingsbere”(362)、“bones of her ancestors”(118)、そして“genuine county bones and marrow”(277)というように、ダーバヴィル家の骨が作品内では繰り返し 言及されている。8そのさい、ダーバヴィル家の墓地に眠る一族の骨は、ダーバ ヴィル家に関するものの中で、時間の流れを超えて唯一現在まで残っているも のとして位置づけられている。さらに“marrow”という語が使われていること も考え合わせると、死後も残存する身体の核心である骨と結びつけられること により、ダーバヴィル家の自然化の作業は後押しされるように思われる。ダー バヴィル家の骨への再三の言及は、『テス』の物語に因果応報的な馬車伝説と いう、まさに頑強な骨組みを与える効果をもつように思われるのだ。しかし、 皮肉なことに、“skeleton”や“bone”には骸骨や死骸の意味がある。そのため同 時に、ダーバヴィル家の死が強調されることにもなってしまう。その結果、作 品にとってダーバヴィル家の馬車伝説という要素がたんなる形骸、内実をもた ない空虚な外形にすぎないものに見えてきてしまうのだ。意味深長なことに、 以上で論じてきたことは、作品の最初に置かれたわずか三つの、一見何気ない 文章の中に凝縮されている。
On an evening in the latter part of May a middle-aged man was walking homeward from Shaston to the village of Marlott, in the adjoining Vale of Blakemore or Blackmoor. The pair of legs that carried him were rickety, and there was a bias in his gait which inclined him somewhat to the left of a straight line. He occasionally gave a smart nod, as if in confirmation of some opinion; though he was not thinking of anything in particular. (13) この中年の男、ジョン・ダービフィールドは、この直後に彼がダーバヴィル家 の後裔であることをトリンガム牧師から知らされることになる。だが注意して 読めば、この時点ですでに彼の身体がダーバヴィル家の骨と結びつけられてい
8 『テス』において繰り返し言及されるダーバヴィル家の骨に関しては、Kreisel が
ることがわかる。彼の歩き方には、左に傾く癖があるのだが、それは彼の脚の 骨が弱っているからなのである。そして最後の一文によれば、彼には歩きなが らときどき何か考えがあるかのように頷く動きが見られるのだけれども、彼は とくに何かを考えているわけではない。彼の中身は空なのだ。そしてまさにそ のような彼の歩みとともに、作品の物語が動き出すことになる。作品冒頭で描 かれるテスの父親は、ちょうど作品全体の隠喩になっているといってよい。こ の箇所は、これからはじまる作品の物語が形骸的な馬車伝説のプロットに従っ て展開してゆくことを象徴しているのである。 偶然性の飼いならし作業がその立脚点として身体性を利用したことにより、 逆説的に偶然性を再び孕んでしまうという事態は、別の点でも生じている。偶 然性は、形骸としての骨だけでなく疲労する身体の眠りからも侵入してくるの だ。テスは物語展開におけるいくつかの重要な場面で眠っている。 彼女がアレ クの屋敷で鶏の世話係として雇われるきっかけとなったのは、作品第 4 章で描 かれる馬車の事故である。普段であれば眠っているはずの夜明け前に、彼女は 酩酊して目を覚まさない父親に代わって、取引相手に蜜蜂の巣箱を届けるため にプリンスという馬に馬車を引かせて出かける。だが、彼女が眠ってしまった ためにプリンスは対向の郵便馬車と衝突してしまう。そのさい、郵便馬車の先 の尖った車軸がその胸部に刺ささったために、プリンスは深紅の血をほとばし らせて事切れる。ちょうど馬車伝説のプロットの最終段階であるアレクの死の 場面を予示するかのようなこの場面において、眠りが彼女の意識を奪ってしま うのだ。こうした状況は、テスがアレクに処女を奪われる場面においても反復 されている。迷い込んだ御猟林の中で、その日の労働と外出、そして長時間の 騎乗による肉体疲労のためにテスは眠りに落ちるのだ。こうして彼女はアレク の意のままになってしまう。注目すべきは、福岡が指摘するように、ここでは 彼から彼女を守るべき超越的な存在もまた眠ってしまっていることだ (49)。
She was sleeping soundly, and upon her eyelashes there lingered tears. ...might some say, where was Tess s guardian angel? where was the providence of her simple faith? Perhaps, like that other god of whom the ironical Tishbite spoke, he was talking, or he was pursuing, or he was in a journey, or he was sleeping and not to be awaked.(82)
大事なときに眠っている神は、疲労のために眠り込んでしまったテスだけでな く、酩酊して目を覚まさない彼女の父親と重ねられてもいる。だが、より注 目に値するのは、作品の重要な転回点にとりつくこうした眠気が、物語の最も 重要な要素であるダーバヴィル家にまで襲いかかっていることである。作品の 終盤において、長時間の徒歩での逃亡に疲れてストーンヘンジで眠ってしまっ たテスは―“Tess, really tired by this time, flung herself upon an oblong slab” (416)―彼女を捜索していた警察に捕まり、後日アレク殺害の罪で処刑され る。注目すべきことに、作品の最終段落には“the d Urberville knights and dames slept on in their tombs unknowing”(420)という一文が置かれているので ある。これは当然、ダーバヴィル家によって象徴される決定論的な物語が眠っ たままで展開していることを含意してしまうだろう。ちょうど“somnambulistic state”(266)に陥ってテスを死んだものとしてみなし石棺に入れたエンジェルの ように、ダーバヴィル家の馬車伝説は夢遊病に侵されて、明瞭な意識による統 御を失ったまま進行しているのだ。 このように、テスの身体をその要として いるはずの決定論的な物語展開は、まさにその身体が発する眠気の伝染によっ て偶然性を内包してしまうことになる。 最後に、自然化の作業によって物語展開に対するその支配力が維持・強化さ れているダーバヴィル家の馬車伝説は、車輪と血のイメージとともに描写さ れることによって、逆説的にもあの蒸気脱穀機の姿と重なって見えてしまうこ とになるのだ。ダーバヴィル家の馬車伝説が車輪と血によって象徴されること は、それぞれ本稿の第 1 節と第 3 節ですでに論じられた。 このことはまた、 先に言及したプリンスの事故死や、それがきっかけで生じたテスとアレクの出 会いの場面の描写にも見てとることができる。
Tess Durbeyfield did not divine...that there behind the blue narcotic haze was potentially the “tragic mischief” of her drama̶one who stood fair to be the blood-red ray in the spectrum of her young life. (47-48)
眠気を催させるアレクの煙草の煙の向こうに、血のように赤い彼女の運命が待 ち構えているのだ。9だが、ダーバヴィル家の因果応報の象徴である車輪と血の
Close under the eaves of the stack, and as yet barely visible was the red tyrant that the women had come to serve̶a timber-framed construction, with straps and wheels appertaining̶the threshing-machine.... (345) あの各地を放浪する匿名的な機関手が持ち運ぶエンジンで動くこの蒸気脱穀機 は、繰り返しその赤色と回転する車輪及び巻胴を強調されている。たとえば、 “the red thresher”(346)、“the driving-wheel”(346)、“the inexorable wheel”
(346)、“the revolving drum”(346), そして“the buzzing drum”(352) というよう に、この機械はまるで、“a sort of trance”(345) に陥ってエンジンに仕える名前 のない機関手によって駆動される、運命の馬車であるかのように描かれている のだ。つまり、ダーバヴィル家の血に由来する因果応報的な馬車伝説が、一皮 むいてみれば、実はその内側に機械構造をもっていることのみならず、その馬 車伝説を動かしているのが身元不明者の居眠り運転であることをも、この箇所 は暴露してしまっているのである。決定論的な物語が偶然性によって駆動され ている様を、ここでわれわれは目にすることになるのである。 5 産業資本主義の農村への浸透という歴史的な状況を背景として展開するテス の物語は、偶然的な要因に支配されている。そうした観点から見れば、彼女 がアレクと関係をもったことで処女を失ってしまったことは、たまたま生じた 出来事であって、そこに何か特別な意味や理由はないということになる。そし て、彼自身も認識しているように、エンジェルの人生もまた偶発事故の連続か ら成っている。テスを“fresh and virginal daughter of Nature”(136)、あるいは “a new-sprung child of nature”(252)だと思い込んでいたエンジェルにとって、 彼女と結婚した後に、彼女が実際にはもはや処女ではないことを彼女自身の口 から聞かされるという出来事は、予期しえなかった事態である。そのさい、 “He was simply regarding the harrowing contingencies of human experience,
the unexpectedness of things”(254)とあるように、彼は人生におけるそうした 偶然性の存在を認め、心を痛める。人生にはあらかじめ定められた特別の意義
9 『テス』における運命が血の赤色によって象徴されていることは、Tanner がより
や方向性など存在しないことは、出来事にある特定の意味や物語を読み取ろう とする彼のような人物を苦しめずにはおかない。こうして彼は、ダーバヴィル 家の馬車伝説という物語を利用することによって、その出来事に因果関係を見 出し、そこに内包されていた偶然性を取り除こうとするのである。 作品において、ダーバヴィル家の自然化作業を中心的に担っている登場人物 がエンジェルであることは、本稿第 3 節ですでに述べられた。その因果応報が 普遍的な潮の干満のリズムと重ね合わされ、その馬車伝説がテスの中を流れる 一族の血に由来するものとしてみなされることによって、彼の解釈は自然なも のとして作品中に浸透している。物語の最後まで、自身の人生をダーバヴィル 家の因果応報に支配されたものとして必ずしもみなしてはいないテスもまた、 エンジェルを神のように崇拝することによって―“he was so godlike in her eyes”(199)―結果的にダーバヴィル家の運命という物語の形成に力を貸して いることになる。こうして『テス』は、決定論的な物語展開をもつ悲劇的な作 品として現れてくる。 そして、そのような作品は、エンジェルのようにその 内側に偶然性を内包した近代社会に生きる、作品の読者の荒んだ心を慰撫する ような効果をもちうるだろう。 しかし、作品テクストにおいては、ダーバヴィル家の馬車伝説の物語が産業 資本主義の根無し草的な性格と対立しながらも共犯関係にあるという、入り 組んだ構図の存在が暴露されている。われわれが目撃するのは、ダーバヴィル 家につきまとう偶然性を馴致しようとする自然化の作業が、まさにその偶然性 を物語内にもたらすものとして描かれている産業資本主義の象徴である蒸気脱 穀機の作動と重なってしまう瞬間なのだ。逆説的なことに、自然化の作業は偶 然性をその内側にとりこむことによって進行しているのである。そうだとした ら、エンジェルや彼のような読者がおこなっている行為は、一見したところ近 代社会を特徴づける偶然性を除去するかのようでありながら、実際にはそれを 再導入する行為であるといえる。そのような洞察こそが、作品テクストの核心 をなすものに他ならない。『テス』は、近代社会の偶然性を因果応報や運命と いう大きな物語によって馴致する可能性を提示するとともに、そうした行為の 限界をも同時に暴いてみせている作品なのである。
引用文献 Beer, Gillian.
. London: Routledge, 1983. Print.
Boumelha, Penny. .
Madison: U of Wisconsin P, 1982. Print.
Brown, Douglas. . London: Longmans, Green and Co, 1954. Print.
Ferguson, Trish. “Hardy s Wessex and the Birth of Industrial Subjectivity.”
. Ed. Trish Ferguson. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2013. Print.
Fisher, Joe. . Basingstoke: Palgrave Macmillan, 1992. Print.
Goode, John. . Oxford: Blackwell, 1988. Print.
Guerard, Albert J. . Cambridge: Harvard UP, 1949.
Print.
Greenslade, William. . Cambridge:
Cambridge UP, 1994. Print.
Hacking, Ian. . Cambridge: Cambridge UP, 1990. Print.
Hardy, Thomas. . Ed. Juliet Grindle and Simon Gatrell. Oxford:
Oxford UP, 2005. Print. Hornback, Bert G.
. Athens: Ohio UP, 1971. Print. Kettle, Arnold.
. Melbourne: Hutchinson s U Library 1953. Print. Kreisel, Deanna K.
. Toronto: U of Toronto P, 2012. Print.
Meadowsong, Zena. “Thomas Hardy and the Machine: The Mechanical Deformation of
Narrative Realism in ” 64.2
(2009): 225-248. Print.
Miller, J. Hillis. . Cambridge: Harvard UP,
1982. Print.
Small, Helen. “Chances Are: Henry Buckle, Thomas Hardy, and the Individual at Risk.” Ed. Helen Small. Oxford: Oxford UP, 2003. Print.
Tanner, Tony. “Colour and Movement in Hardy s ”
. 10. 3 (1968): 219-239. Print.
Williams, Raymond. . New York: Oxford UP, 1973. Print.
and the Taming of Chance
Masaki HARA
As many critics note, the story of Thomas Hardy s (1891) is grounded on the legend of the d Urberville coach or the d Urberville retribution, and develops deterministically. It is true that the story seems to be based on a fatalistic chain of cause and effect. On the other hand, however, a few critics consider the development of the story as dependent not on fate rather on sheer contingency. It is also sometimes claimed that the story seems to unfold without any law of causality. The aim of this paper is to analyze how both fate and contingency relate in . I argue that readers can interpret the development of the story as both deterministic and accidental because the d Urberville family is related not only to the legend or retribution but also to textuality: it is portrayed as an extinct family which has lost its mansions and estates because of the modernization of rural villages after the Industrial Revolution, and now exists only as a wandering sign without its original meaning or history. The text of suggests that the story takes place in rural communities through which industrial capitalism has permeated, and that its development depends on chance rather than destiny. In spite of this, why has the development of the story been interpreted by many readers as deterministic? This paper considers this problem and proposes that the mechanism which makes the story seem to develop deterministically is the work of naturalization by which the contingency of each event in the story is tamed so that the story seems to have a cause-and-effect sequence of events. It is by this rhetorical strategy that the idea of the d Urberville retribution is maintained and enhanced in the whole story. Finally, however, this paper argues that the work of naturalization, paradoxically, involves the very contingency that it tries to tame. The text of , thus, shows the possibility of taming chance in modern society through ideas of fate or determination and at the same time exposes the complicity between such a grand narrative and contingency.