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Academic year: 2021

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(1)

元全国農業協同組合連合会 現在の所在地 群馬県藤岡市矢場 高山両地区 以下組合とい う 本稿は水田灌漑用水の貯水池築造に当って県と地元集落の合意にいたる過程に生ず る問題について取り纏めたものである 要点は以下の つから成立っている 第 三名川貯水池は 藤岡地域 町 村にわたる受益水田面積 の灌漑用水不足 分を補給することを目的とし 群馬県最大の貯水池として総額 万円 農林省の国庫補助 分の を受け 昭和 年から同 年にかけて築造され 当地域水田開発の先駆的役割を 果たした 第 県行政の実質的な下部機関で 貯水池並びに当該管内の水利関係管理組合として 三名川耕地整理組合が設立され 地元集落の慣行水利権と 組合の管理権が抵触すること となった 第 集落自治による慣行水利権は 灌漑対象水田面積 と 入会溜池を含んでお り 長い間実効占有を続けていた 県 組合と対立したが 組合管理を受け入れざるを得 なかった 第 行政の強い指導は 藤岡地域の水田農業の発展を実現したが 部集落の慣行水利 権を収奪した 今日農業の多目的機能発揮は 集落自治との共生によって維持 継続の必 要が問われていることから 慣行水利の歴史をとおして水利の維持 管理を再認識する必 要がある そうした視点から当事例は 多くの教訓を示唆している 三名川貯水池 農業水利権 矢場池 農業集落自治 耕地整理組合 で 貯水池敷地の買収交渉や 貯水池と同じ水源 となる三名川河川を築造の地元になる集落が古来 三名川貯水池 より灌漑用水として利用し その慣行水利権 溜 は 藤岡台地に配水可能な山間部の傾 池の入会権が 三名川耕地整理組合 斜地に群馬県最大の規模として 藤岡地域 町 の管理下へ移行することとなった 集落の自 村にわたる受益水田面積 町歩の灌漑用水不足 治的管理とするそれらの権利は 貯水池築造開始 分を補給することを目的として昭和 年 前から築造後にわたり地元集落への説明はなく 築造が計画された 予算確保のために藤岡地域の 全く知らないうちに組合の管理下へ移行された 有志と県が中心になり国への積極的な推進活動が そうした問題に関連し 一般的には国策をして 展開され その結果 農林省の国庫補助対象事業 慣行水利権から許可水利権への移行措置が計られ である 用排水改良事業補助要項 の適用を受け たとする見方があり この相克の歴史過程を鋭く 群馬県 営用排水幹線改良事業として 昭和 年 指摘する研究が多い 当工事も国の基本的な政策 から同 年の ケ年の年月をかけて行われた 方針 意図に沿った同じ措置であったものと理解 築造具体化に向けた取り組みが進められる中 され これらの研究から当該築造過程を考察する 上で示唆を得るところが多い

群馬県藤岡市三名川貯水池の事例を中心に

農業水利権をめぐる合意形成の展開過程

要約 キ ワ ド は じ め に ῐ ῑ ῐ ῑ ῐ ῑ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῒ ΐ ῍ ῍ ῎ ῍ ῌ ῌ ῍ ῌ

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(2)

単位 区 分 大正 年 大正 年 昭和 年 昭和 年 全 国 水田率 群馬県 藤岡市区域 全 国 桑園率 群馬県 藤岡市区域 出所 全国は 日本農業統計書 により作成 群馬県 藤岡区域は 群馬県統計書 により作成 注 水田率 水田面積 耕地面積 桑園率 桑園面積 耕地面積 単位 円 年 度 総生産額 うち米 うち麦 うち養蚕 大正 年 昭和 年 年 年 年 出所 群馬県統計書 により作成 水田率ならびに桑園率の推移 群馬県の一農家当り収穫価額の推移 以下 日誌 という 現藤岡市とする 本稿は この大規模貯水池築造でかつ広域的な 糸価ノ下落ト蚕業経済ノ不利ニ圧セラレ 遂ニ普 影響をもった事業遂行に抗して 地元小集落が組 通農事ヲ主位ニオクベキモノト自覚シココニ調和 合や県行政とのやり取りにおいて苦悩 苦闘する セラルニ至レリ との協議が交わされ 米麦主穀 立場を直視し 当時地元の美九里村大字三本木区 生産対策の重要性が確認されていた 長であった四方田儀十郎の 三名川貯水池築造日 群馬県の水田面積と桑園面積を全国と比較する 誌 平成 年に刊行された と 大正 年 では全国の水田面積 千 地元藤岡市矢場地区の同集落史料 矢場区史 史 町歩に対して群馬県の面積は 千町歩でその比 料集 やまた関係地域の現地調査をとおして 率は にすぎなく これに対して桑園面積は 当時の実態を検証しようと試みたものである こ 全国面積 千町歩に対して群馬県は 千町歩 うした地元集落 農家の視点から見た行政との交 であり その比率は になっている 群馬県 渉経過や権利を守るための陳情活動について取り の養蚕依存度はきわめて高い また全国 群馬県 纏めたものは地域農業史として あるいは水利史 藤岡区域の それぞれについて 研究として重要であるが こうした視点からの研 耕地面積に占める水田面積 桑園面積の比率を大 究は少ない また 三名川貯水池については 藤 正 年から昭和 年にかけてみると表 のとおり 岡市史 多野藤岡地方誌 群馬県土地改良史 である 水田率は全国で 台 群馬県は 等でふれられているが これらは貯水池の実態や 台 藤岡区域は 未満となっており 全国より その概要を紹介するに止まっており 社会経済史 県の比率が低いが藤岡地域では更に県の比率を下 的視点から体系的に整理 考察した研究は見られ 回る極端な低さとなっている またこれとは逆 ない状況にある に 桑園率は全国が 前後 群馬県は 経済合理主義の追求が進み経済社会が大きく変 藤岡区域は を超え 水田率と裏腹の関 貌しつつある現在にあって農業水利を維持 保全 係になっている さらに藤岡台地の中心に位置す するためには地域集落自治との繋がりを再認識し る各地域の水田率は藤岡町 美土里村 なければならない状況にある このような意義か ら この事例は今後の水利と集落の関連のあり方 について多くの示唆を提供している 群馬県は全国一の養蚕県として広く知られてい たが 県行政は明治後期から大正期に入り養蚕偏 重からの脱皮を図ろうとする施策を懸命に模索す る状況下にあった 中でも米の年産量は約 万 石に対して 毎年 万石の移入を行なわなけれ ば県内食糧が賄えない状況から 米麦等の主穀生 産への取り組みは重要な政策課題であった これを裏付ける農政活動の一端として 明治 年 月 県農会主催の篤農家懇談会が開か れ 当時の主要課題として普通農事と養蚕その他 副業との関係を取り上げ 以前ハ普通農事ヲ等 閑視シ 養蚕ヲ以テ主トセシモノナリキ 然ルニ 三名川貯水池築造構想とその背景 養蚕偏重経営からの脱皮と水田開発の取組                                                                                                   ῌ ῌ ῌ ῍ ῌ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ : : , . . -+ , / 3 - / // /. /+ /+ -+ -* -* -+ +2 +2 +3 ,* 3 3 ++ +, -- -- -0 .-.- /3 +** +** +/ +5+/* +3, +** /.3 , +5*/2 ,*0 13 .+0 - +5+-* +2+ 13 .+3 . +5+1- +0* 1- ./, / 3+* +-* /3 ,+3 +3+0 +3+, +* / , 22* -, + + .0/ -/ 1 / / / + /* -* ,* +* -* .* /* 0 +0 2* ,/ ./ . + ,

(3)

農村研究 第 号 藤岡地域概略図 平井村 と極端に低く それらの桑園率は を超えており 養蚕業に過度に依存している経営 明治期藤岡地域の水利に関する記述は 藤岡 状況にあった この藤岡地域町村の概略は図 の 町中心の平野地方では周囲に 流川 鏑川 烏川 とおりである 鮎川等の諸川を見ながら其水量乏しく稍もすれば 群馬県の一農家当りの生産額とその推移は表 既設の水田を潤すに足らず隣接町村間に紛糾を起 にみるように 総生産額に占める養蚕部門の比率 こし又は 流川を挟して埼玉縣と對峙し屡 流血 が非常に高く 大正 年には総生産額に占める の慘事の如きは余りに有名である 本地方は河川 養蚕生産額の比率が と非常に高い しかし の水量乏しきのみならず降水量叉非常に少なく明 昭和 年にはその比率が と急落し 農業経 治二十七年以降二十五ケ年間を調査するに平均年 営を不安におとしめている 繭価は国際取引に 降水量千百七十四ミリ最少は八百ミリ台を示す有 よって連動し生糸相場は大きく変動するため養蚕 様で本地方の灌漑用水に對する研究苦慮も久しい 農家の農業経営はきわめて不安定であった 群馬 もので明治四十五年縣の耕地整理基本調査の施行 県の繭一貫目当り平均価格をみると大正 年の せられた時多野郡長直井三郎氏は三名川より導水 円 銭を最高にしてその後上下変動を繰り返 の計畫調査依頼したることもあり とのべら しながら次第に低下し 農業恐慌となった昭和 れている こうした状況から 大正期末に農林省 年は 円 銭 に大暴落した これは養蚕依存偏 の土木技術者が土地改良政策の一環として多野 重農家の生活を直撃し こうした農業経営から脱 藤岡地域における河川事情の視察を行うなど 具 却する必要性が高まった 養蚕県である群馬県の 体的な水田開発に向けた動きが見られた その結 農政は深刻な事態に直面した 県内でもとりわけ 果 河川直接利用の方法に固執せず 乏しい水量 養蚕依存度が高い藤岡地域の農家では顕著とな を補完する対策として非灌漑期利用とする貯水池 り 藤岡台地での水田開発の要望はますます高 築造の考え方が提示されたのである その経過は まった 大正十五年農林省より技術官相次いで出張し鏑 農林省の現地調査 ῑ ῑ ῐ ῑ ῍ ῍ ῒ῏ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῎ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῏ΐ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῒ ῌ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ 44 / . +*, ,**0 +2 0* + , +/ .2 / ,. 2 +* -. / , 00 +

(4)

単位 町 期 間 ケ所数 累計 受益面積 受益面積累計 明 大 昭 出所 田中修 明治以降における群馬の水稲生産力発展に関 する一考察 群馬県史研究 より引用 作成 群馬県の溜池設置数及び受益面積の推移 以下 事業概要 という 川より導水及 流川沿岸に於ける地下水利用の調 くおびてきたことの表れであり 国家による直接 査計畫をなせるも之亦既設用水及高低關係等より 的な農業生産の制御の開始を意味するものであっ 地元の氣運熟せず實現に至らず其後之が對策に苦 た 心研究の結果貧弱なる自然流水を引用し既設用水 群馬県の水利条件の整備は 明治 年 との關係を一層複雑ならしむるよりも一大貯水池 の 耕地整理法 改正とともに農民の要求にそっ を築造し之により用水を補給し旱害を除き水喧嘩 た灌漑用水整備事業が進められた しかし 表 の根絶を計るを有利と意見が擡頭した と 水 にみるとおり小規模で溜池的灌漑事業程度であ 利権に係わる混乱を回避するため 水不足対策と り 受益面積からみてその成果は県行政の思惑か しての貯水池構想がこの時点より本格的に検討が らすればほど遠いものであり 国から提示された 開始された 用排水改良事業補助要項 の適用による事業の 他地区水利権との混乱を回避するという考え 抜本的取り組みが急務であったといえる これを は 大正 年農商務省農務局により実施された全 受けた県は 県営用排水幹線改良事業 として積 国の農業水利慣行調査がある それは 用水ニ關 極的な普及推進を計るが 三名川貯水池築造構想 スル慣行 の項目のなかで 開墾地目變換ニ依リ もこの施策に組み込まれて具体化されることと 新ニ用水ヲ必要トスル土地ヲ生スヘキ場合ニ於テ なった この結果は表 の事業実績推移に明らか 水量充分ナルニ拘ラス慣習上現ニ水利權ヲ有スル なとおり 受益面積は昭和期に入って急速に拡大 者ノ反對アルカ爲メ用水ノ供給ヲ受クル能ハサル し 近代的な土地改良の第二の躍進期を迎えた時 實例 として鏑川河川利用に関係し藤岡地域小 であったと見られている それはまた同時に公的 野村の中村堰についての報告がみられる そこで 資金の投入により 政府や県による土地改良への は自然流水を引用することは 同水系を利用する 直接的な介入が強まり 行政の農民と農村に対す 下流堰の農家との水利権争いが生ずることを想定 る支配力を浸透させることと密接な関連があった し 貯水池築造によって混乱を回避することが重 といえる 視されていた といえる 大正期における 我が国農政活動の特徴は 耕 地整理法の改定とともに土地改良事業が重要視さ 群馬県により策定された 群馬縣三名川貯水池 れたことがあげられる その主たる施策の一つは 用水改良事業概要 によ 大正 年 に 用排水改良事業補助要項 ると 事業対象区域は藤岡地域 町 村にわた が制定されたことである これに規定される条件 り 受益水田面積は であった 町村別ある は 町歩以上の既耕地を支配する用排水施設の 改良を促進し 県営で施工する工事費の 分の を国庫で補助し 法律によらず当時の農林省食 糧局長依命通牒をもって 各知事あてに通達され たのである この用排水改良事業は 第一次世界大戦後の新 しい社会経済体制を背景に生まれたものといわれ ている 中小河川を含む農業用排水基幹施設改良 の必要性のもと 既存水田の土地改良を目的とし ていたとはいえ 食糧生産の強化 稲作生産力の 基盤が強化されたときであり 公共的 性格を強 三名川貯水池築造とその内容 県営用排水幹線改良事業の適用 受益水田面積と灌漑用水量の実態 ῐ ῐ ῐ ῏ ῐ ῎ ῎ ῎ ῎ ῎ ῎ ῎ ῎ ῎ ῏ ῐ ῑ ῒ ΐ ῔ ῌ ῏ ῐ ῏ ῑ ῒ ῐ ῏ ῐ ῍ ῌ ῍ ῑ ῒ ῌ ῍ ῌῒ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῑ ῒ ῌ ῍ ῑ ῒ ῌ ῑ ῍ ῒ ῑ ῌ ῍ ῍ ῒ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῑ ῌ ῒ ῑ ῒ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῑ ῒ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῑ ῒ ῌ ῌ ῌ ῍ ῌ ῌ : ha 0 1 2 -2 -3 , , /. /. .* .. , . ,2 2, + . , 0 -2 +,* / 3 * 0 * +,* +* +. - 3 .04/ +004/ + . + +* +* +104/ / 3 +. ,2 +/240 0+.42 +* +. 3 -1 +1+4/ 12/40 +* +. 1 .. 111 +5/0,40 +3*3 +3,-., -0 . +, , / /0/ /** , +

(5)

-単位 町 期 間 着手区数 着手面積 工事完了面積 同左累計 大 昭 出所 田中修 明治以降における群馬の水稲生産力発展に関する 一考察 群馬県史研究 より引用 作成 町村名 用水名 水田面積 水量計 必要水量 不足量 不足率 単 位 藤岡町 山崎池 同 上 天 水 神流村 神流堰 同 上 中村堰 新 町 中村堰 小野村 中村堰 同 上 湧出水 美土里村 鮎川掛 平井村 鮎川掛 同 上 矢場池掛 美九里村 矢場池掛 同 上 牛田堰掛 同 上 根岸堰掛 同 上 三名川掛 計 出所 群馬県 昭和 年 三名川貯水池用水改良事業概況 より作成 注 メ トル法換算した 立方尺 町 の値で算 出した 注 中村堰は水系が異なるため不足量はゼロとした 農村研究 第 号 群馬県営用排水幹線事業推移 三名川貯水池用水関係町村別の水不足算定換算 月初旬の養水期終了後から翌年 月中旬田植開始期ま で 日の取水量 非灌漑期間の貯水可能量 日 いは用水別水不足の算定換算は表 のとおりであ 目的 は 本地域ノ貴重ナル水田ハ地味肥沃ナレ る 用水別に 現状の水量から 県耕地課の調査 トモ 用水不足ニ鑑ミ之ガ補給ノ水源ヲ求ム による必要水量を差し引き灌漑用不足水量が算出 ルニ當リ各河川ハ水量少ナク 水源トシテ現在以 された 現状の対象区域での配水量は 千 上信頼スルコトハ甚タ不安ニシテ河川ノ状況亦之 であるのに対して 必要水量は 千 と カ施行方法容易ナラス且 流川ノ如ク對岸縣外ト なっており その差となる不足水量は 千 ノ交渉複雑且至難ナレハ勢ヒ貯水池ノ新設ニ之ヲ で必要水量に対して不足率は となってい 求ムルノ利アルヲ知リ 茲ニ貯水池新設ノ計畫ヲ る 樹テ補給水ヲ供給シ旱魃ノ被害ヲ防クト共ニ勞費 貯水池築造計画の技術的視点から見た主たる目 ノ節約ヲ計リ農業經營ヲ安定ナラシメントス と 的は この不足水量 千 を非灌漑期間 のべられており 貯水池築造への期待と その実 現によって水不足の解消を図り それらに係わる に貯水可能な貯水池と管内配水過程における 労働力の節減が考えられていた 漏水を防ぐための基幹配水路を構築することに あった 三名川は図 にみるとおり 藤岡市美九里地区 当 事業概要 のなかに記されている 事業ノ を流れる神流川の一支流の河川である 流路は 流域面積は で 鮎川や神流川等 に比べ小渓流であることがわかる 三名川貯水池 の用水源である三名川の河川利用について 事 業概要 では次のとおり説明している 用水源タ ル三名川ハ前述セルカ如ク小渓流ナレトモ 本計 畫用水取入口ニアリテハ流域八百町歩ヲ有シ如何 ナル冬期渇水ニ際シテモ二秒立方尺 ノ水量ハ地表水トシテ存在ス 本流域一帯ハ鍼濶 混淆林ニシテ地層三波川層ニ属シ山相急ナリ 爲 ニ降雨ニ際シテハ急速ニ流下シ來リ相當ノ出水ヲ 見ルモ短時間ニシテ平水ニ復ス從テ 夏期渇水量 モ亦貧弱ニシテ本計畫ヲ満スニ足ラス 依テ降雨 時ノ出水ヲ引用シ貯水スルモノトス と記されて いる この貯水期となる非灌漑期間の 月 日から 翌年 月 日の 日間を 秒立方尺でメ ト ル法換算で計算すると 千 となっている この水量は蒸発や漏水 等の変動要素を除いているが 藤岡地域既存の水 田の不足水量 千 を満たす取水量が確保 できる計画となっている 三名川は 既に美九里村の三本木 矢場 平井 村の東平井の各集落で飲料水 水田灌漑用水とし て古来より利用されており 当貯水池築造にとも 三名川からの水源確保                                             ῌ ῌ ῌ ῍ ῍ 46 : ha m m m . m ha . m s , m , , m , m , m , m , m . , m . km . km , m , m - - -- -- -, -+, +. , ,5.*2 + . - ,53.* +5/*/ +5/*/ / 3 / 151+- ,5+2/ -503. +* +. - +5.-0 252-, +,5/,0 +/ +3 1 +-5**+ +53+0 +.5.., ,* ,. , +,51,2 ,/512. .*5,,0 ,/ ,1 + --2 --2 .*5/0. +*** +*** +*** 24* +**4. +,043 ,04/ ,*43 +-41 ,**42 ,+14. +040 140 +,14* ,512340 -5***4* ,+*4. 14* .*4* 2304. 3..43 .24/ /4+ -4* /14. .140 * * +.,4* -513-40 -5-/.4- * * -4* .-4* .140 .40 340 1141 +513,42 +52-/4. .,40 ,42 +*4* ,**42 ,-04, -/4. +/4* .*4* ,,,4- 0-.41 .+,4. 0/4* -*4* +134- .104* ,3042 0,4-.*4* 2304. 3..43 .24/ /4+ +04* -*+4, -1143 1042 ,*4-+/4* ,**42 ,-142 -14* +/4/ /0/4. ++50014/ +,5.0-41 +5,3040 +*4. . + * *,12- + + +*, ,**0 3 0 * *//00 + . 2*3 + -/0 +-2 . 2*3 ,2, / ++ 001 +, .0. + ,31 +* . + ,31 + / 3 1 /0 3 +, 0 ,+ ,2, , + -/0 + ,31 . / ῌ

(6)

三名川貯水池とその周辺図 なって これら関係集落と慣行水利権に関連した な取水可能な水量 千 の二つの条件を満 協議が必要となっていた その利用形態を集落別 たすものとして 千 規模の貯水池築造が に大別すると 三本木地区の水田灌漑と 溜池貯 計画化された 水による矢場 東平井両地区の水田灌漑となって 以上の数字のとおり 貯水池築造に当って求め おり これら慣行水利権 溜池入会権等について られた必要水量 河川からの取水量 貯水池の貯 関係集落の了承を得なければならなかった 水量 この基本的な三要素が 整合性をもった内 容で築造は計画 設計され具体化に向けて着手さ 貯水池は 図 のとおり 美九里村の三本木地 れることとなった ただし 貯水池内や導水路内 区 高山地区に築造されることとなったが 大谷 における漏水 蒸散等の損失水量については ど 池 小宮池 高木池の三つの池によって成立って のように考慮 算定されたのか明らかではない おり それらの貯水池とその貯水量は三本木地区 これら三貯水池の敷地となる用地買収にあたっ には大谷池 千 小宮池 千 高山地 て当該地区農家との交渉が開始されることとなる 区には高木池 千 合計貯水量は 千 が その面積は大谷池関係だけでも 町歩に及 であった び その交渉過程において敷地内の谷津田 町歩 貯水量は 前述のとおり 受益地水田面積 について 三本木地区はその代替の水田を要求す 町歩の灌漑用水の不足水量 千 と 用水 ることとなった 県は矢場池を開墾水田化して代 源となる三名川からの非灌漑期間において平均的 替水田の要求に対応することとなった 貯水池規模とその敷地 用地買収 ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ , m , m , m . m . m , m , m -- -+ -/0 + -,. , + ,2/ . / -/ / + -,. ,* 0 /0/ + ,31 ,

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農村研究 第 号 組合 藤岡地域は良質な粘土が採れそれによる 瓦は全国に出荷されている 旧村 旧村 三名川掛かり 矢場池掛かり 現在の藤岡市高山地区 に貯水され 灌漑期には当池を導水路の一部とし 三名川貯水池築造に要する主要事業費は 千 て通水し矢場地区と東平井地区の水田に灌漑され 円で 県営事業として実施することから国庫より ていた 半額 千円の補助を得て 県と地元 はそ その対象となる水田灌漑面積は 三本木地区 れぞれ 分の の 千円の負担割当額であっ 町歩 矢場地区 町歩 東平井 町歩 合計 た 町歩であった そして三名川掛かり水利の歴史は 主要項目別には 貯水池築堤費 円 用地 古く この 地区では古来から 三ケ村堰 とも 買収及び補償費 円 樋管及余水吐費 称されていた 円 導水路費 円等である これらの費目は その歴史経過をみると 上流に位置する三本木 年度別に工事計画が策定され 進行管理が行われ と下流に位置する矢場 東平井の間に生ずる水不 たが 工事期間を一ヶ年延長したことから繰り延 足 水利調整 導水路の堀浚い 役務の分担 堀 べ措置がとられた しかし これら工事内容とそ の維持 管理 その負担割合等は ケ村による協 の負担先別の関係を明らかにしたものは見受けら 議により運営されていた また下流の矢場 東平 れない 貯水池築堤費は 農家経済の救済対策を 井は矢場池掛かりともいわれ矢場村と東平井村の 配慮し周辺農家を人夫として雇用し 総延べ人数 ケ村で運営し 特に矢場池の浚渫や堤の補修と は 万人に達したとみられ 日当 銭とすると 清掃作業等の維持 管理と その費用負担 貯水 円になっている 更に原材料費の堰堤の芯 の分水 調整 養魚利用等の協議が行われてい となる粘土 た や砂は現地調達され これら地区は集落の自治組織として主体的に運 当貯水池の工事によって疲弊する藤岡地域の経済 営され 必要のつど 集落 あるいは 集 に相当の波及効果があったと見られている 落 での協議がもたれ運営されて来た しか し それぞれの組織間の協議にあたっては水利調 整問題や普請費用負担等でしばしば紛糾していた 当貯水池築造にともなって慣行水利権に関連す と伝えられ こうしたことを裏付ける史料が数多 る問題が発生することとなる 一つは三名川河川 く見受けられる その一部は次のとおりである 利用 の水利権 もう一つは矢場池 矢場池用水不足のために三本木村と矢場 に関する管理権 水利権 の つ 村 東平井村の ケ村論争となって幕府の出先 であり 集落に関連する問題は次のとおりであ 機関 岩鼻の役人までが出張し 訴訟に及ばん る としたが 役人の立ち入りで議定一札を取り交 わし解決した 天保九年 六月の矢場池用 貯水池の水源を三名川河川利用に求めることと 水不足につき取水議定済口証文 なったことから 既に同河川を利用していた地元 三名川取水口から矢場池迄の導水路の堀浚 美九里村三本木 同村矢場 平井村東平井の 地 い 経費負担等について ケ村間の争いの回 区の集落との間に次のような点が問題化すること 避 分担を取り決めた 嘉永六丑年 の為 となった 従来の取水口は三名川の高山地区下組 取替申議定書之事 に設け 図 にみるとお 三本木村と矢場村 東平井村間の堰浚 自 り 導水路 を経て三名川掛かりとして 晋請分の区域設定 また田植時における水使用 三本木地区民の飲料 水田灌漑に使用され 更に 時間帯等を取り決めた 明治廿二年 五月 三本木地区内を流下し 矢場池 に流入していた の為取替確証之事 この水は矢場池掛かりとして非灌漑期には矢場池 大暴雨のため矢場池が満水になったためこ 貯水池築造関係費用の内容 慣行水利権の実態 三名川掛かり水利権 ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῎ ῏ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῐ ῑ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῌ ῍ ῏ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῐ ῑ ῍ ῏ ῍ ῍ ῍ ῍ ῐ ῌ ῑ ῍ ῏ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῐ ῐ ῑ ῌ ῑ ῏ ῌ ῌ ῍ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ 48 . , , , , , , m 3 +*, ,**0 +2-2 +2/-+223 -+/ +/2 +-. + 12 1 -* .* 2-+-0 ,** -3- *** .* *** ,3 -** -, +1 /* 2/ *** - , + , -, - -, -+ -+** .

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内務省 寛文 年 元禄 年 現在の所在地 藤岡市矢場地区と同市東 平井地区にまたがっている れを矢場村の堤防警衛者が堤防を守るために破 場池を囲む北側の堤の一段下には矢場地区並びに 堤した これが東平井村の農家に水害を及ぼす 東平井地区の水田が広がり 藤岡台地へと繋がっ こととなったことから両村の争いとなり 三本 ている 木村が事態解決のための仲裁者としての労を 水系は三名川掛かりとして三本木 矢場 東平 取ったが その最終的な合意確認がなされた 井の 地区での慣行水利権が成立していたが 下 明治四十三年 八月の誓約書 流域にあたる矢場 東平井の 地区は矢場池の管 等 の関係史料が残されている 理に関連し水田灌漑用水の矢場池掛かりの水利権 また ケ村の水利に関する強い繋がりという として また入会溜池とする矢場池の管理権とし 意味では 大正 年農商務省農務局により実施さ て権利形態が重複する状態で 運営していた れた全国の農業水利慣行調査結果の中で 用水ニ 事業概要 によると矢場池の規模は 本地 關スル慣行 の項目の 用水ノ分配に關スル慣習 域内ニハ矢場池 山崎池其ノ他無名ノ小貯水池數 ニシテ適當ナリト認ムル實例 として 矢場村外 箇アレトモ何レモ皿池ニシテ貯水量甚タ少ク最大 二ケ村ニ於テハ左ノ定書ニ依リ用水ヲ分配シ居レ ナル矢場池ト雖八千立坪 ヲ超エス且漏 リ として ケ村による水利の 定書 が掲載さ 水甚タシキモノアリ と記述されている れ 全国に広く知られているところである また 土地所有は国有地 となっており そ このように地元 集落の三名川河川利用として の面積は で このうち矢場地区分 の慣行水利権が成立し地元 集落を中心とした自 東平井地区分 となっている 貯水 治的運営によって河川を維持 管理し 水田灌漑 量は 千 と少なく 水深が ほどの浅い 用水として利用してきた経緯がある そこに三名 ことから 小規模な皿池とみられ 行政からすれ 川貯水池築造が立案されることとなったのであ ば三名川貯水池の貯水量に比べ矢場池のそれは僅 る 集落はそれまでの慣行水利権利が維持され か で 当池の貯水機能としての役割や評価 灌漑用水が保証されるのかどうか 事態の成り行 は高いものではなかった きを危惧することとなった 矢場池は 矢場区史 史料集 によると 地元 このため 三本木地区は貯水池構想の説明を受 の矢場 東平井両地区の人 は矢場池を 我が郷 けた直後 用地売却交渉の不安のため集落として 土の誇りとする矢場堤 と呼び 両地区共有の象 速やかに築造反対行動を起こし 県との積極的な 徴的意味合いを持っていたといわれている 築造 交渉を展開することとなった 一方矢場 東平井 された時期は定かでないが 農業生産状況の推 両地区は築造前には格別な意思表示 反対行動を 移 その変化から推定して徳川時代前期とみられ 起すこともなかったが 築造後に矢場池の管理権 ている つまり 矢場村の割当石高が 寛文郷帳 が組合に帰属することを知った時点から事態を問 では 石であったが 元禄郷 題化するようになった このように両集落の対応 帳 では 石となり 此の は異なっていた 年の間で 石近く急増していることから推察す れば この背景には矢場池が築造されたことに 矢場池は よって当池での貯水を灌漑利用することで開田が その概略は 図 のと 盛んに行なわれた結果であったとみられている おりであり 三名川貯水池でもっとも大きい大谷 当地は前橋藩所領 で藩主が酒井雅樂 であっ 池から約 程離れたところに位置している たことからして その政治力と威勢によって藩財 その大谷池が山の傾斜途中に築造されているのに 政基盤拡充の政策を積極的に進め その一環とし 対してその本堤の下方にあって 矢場池からは大 て当地における溜池築造とそれによる開田を構想 谷池の本堤を斜めに見上げる位置関係にある 矢 し 地元矢場村 東平井村の農家をはじめ 前橋藩 矢場 東平井両地区の 矢場池 入会権 ῑ ῑ ῑ ῑ ῐ ῑ ῐ ῑ ῐ ῑ ῐ ῑ ῐ ῑ ῐ ῑ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῒ ΐ ῍ ῎ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῒ ῒ ΐ ῒ῏῏ ΐ ῒ ῍ ΐ ῒ ΐ ῒ ΐ ῍ ῏῏ΐ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῔ ῕ ῍ ῍ ῎ ῔ ῍ ῕ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῌ ῌ ῌ ῍ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ , m : , m , m , m m . m . m -+* ++ , , , -+, +-+3+* .2 *2. 2 +002 +0 +1* -, -0 -- .* /-3 ,1 11, - +, 101 .2 . / - - 0 /-+ 0,2 -/ +** -,**

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農村研究 第 号 矢場池の概略図 領から大勢の人夫を徴用し 手作業中心により いため防水として池底には近隣から確保された良 その時代としては大掛かりな築造作業を経て 米 質の粘土で打ち固めて 盤張り することで 特 増産政策を具体化したものとみられている 矢場 別な防水層を張り付ける 床締め の工夫が配慮 池の築造は土地支配 生産体制の強化と直接結び されており 貯水の透水抑制を図っていた つき 藩主として重要な藩権力拡大 維持政策で こうしたことから 矢場池は地元民の手作りに あったといえる よる溜池として古来 矢場つつみ と親しみを込 池の形状は図 のとおり東西に長く 高い南側 めて呼ばれていた 昭和初期段階における矢場 から低い北側へ向けた緩やかな斜面上に築造され 東平井両地区がまとめた資料の一部に 矢場池ノ ている 隣接する山土を削り取り それによる盛 由来 の項があるが それによると 土で小高い堤を北側に造成 半楕円形状に堤は巡 矢場池ノ起源ハ頗ル遠ク詳カラザレ共 碑 らされ 池の 分の に相当する矢場村の土地は ノ伝フル処ニ依レバ数百年前ノ昔時ノ領主ノ企 池隣りにある 廣澤寺 の朱印地が提供されたと 畫ニ係リ数年間ニ亘リテ 両区民ノ尠ナカラザ いわれている また 矢場村は築堤作業の折り当 ル経費ト努力トヲ犠牲トシ面積約八町歩ヲ有ス 時の風習に従って鬼門除けに 人柱として村内の ル大溜池ヲ構築シ 爾来矢場池ト称シテ両区ニ トネ と称する労咳を患っていた女性を説得し 潅漑専用権ヲ附與セラレ以テ今日ニ至ル 然レ 村を代表して堤の土中に埋め込んだのである こ 共両区民ハ其後ト雖モ三名川ヨリノ引水路又ハ れにより強固な堤を巡らした矢場池が築造された 溜池ノ修理等ニ關シテハ長年月ニ亘リテ有形無 とされ 廣澤寺境内には トネ の祠をもうけ現 形ニ甚大ノ犠牲ヲ払ヒ以テ現在ノ形質ヲ整ヘ近 在も矢場地区住民によって弔らわれている 当時 年ニ至リ甚シキ旱魃ニ遭遇セザル限リ漸ク両区 の農民の灌漑用水確保に賭ける異常さ 凄まじさ ノ米作ハ安定ノ域ニ達セリ を今に伝えている となっており 両地区の矢場池に対する認識 池の堤を越えた北側は急斜面の形状で その一 心情を率直に表現したものであった 段下は平坦部となり水田が広がっている また この矢場池の入会権は 三名川貯水池築造にと 地層は砂礫を多く含んでいることから漏水が激し もなって設立された 三名川耕地整理組合 が矢 ῏ ῏ ῏ ῎ ῏ ῍ ῍ ῍ ῐ ῑ ῍ ῌ ῐ ῑ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῐ ῑ ῍ ῌ ῐ ῌ ῍ ῑ ῍ ῍ ῐ ῍ ῒ ῍ ῐ ῑ ῌ ῍ ῍ ῐ ῑ ῍ ῌ ῍ ῐ ῑ ῌ ῍ ῑ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῐ ῑ ῌ ῌ 50 +/ +0 +. +*, ,**0 -- ,

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-昭和 年は 円 昭和 年は 円 場池を管理下に収めたことで 集落との間に激し とから安全のため実家に預ける等の労苦があった い対立が展開されることとなる と伝えられている 県耕地課との用地売買交渉は昭和 年 月 日から開始され 貯水池築造の起工式が同 年 三名川貯水池築造の計画については昭和 年 月 日に執り行われた後も引き続き 導水路用地 月から 月にかけて県より地元 集落への説明が 確保等も含めると長い交渉が続いた 貯水池本体 行われ 築造に関連する具体的な協議が開始され の敷地に関しては 同 年 月 日に最終的な た その後の経過は以下のとおりである 確認がされているが 四方田が貯水池築造に関連 して書き記した 日誌 によると具体的な県買収 三本木地区は当初三名川貯水池築造に絶対反対 価格は 田 反当り甲地 円 乙地 円 丙 という立場にあった それは水利権の問題に加え 地 円 山林 円 原野 円となっている 大谷池 小宮池 導水路として用地を提供しなけ 妥結に至る背景には 地区として県内外におけ ればならないという同集落にとって生活基盤の根 る行政の土地収用の価格を事前調査し 妥当な水 幹にかかわる問題を抱えていたからである 県耕 準を様 な角度から模索し 議論していた 地課との協議は 最初水田灌漑用水の水利問題が この交渉結果からその評価を考証すると この 先行して交渉がもたれたが 用地売却交渉が開始 価格水準には谷津田の代替地補償 三名川掛かり されると水利権で揉めた論議はその土地の交渉に 水利権等の補償 ということも含めた合意であっ 巻き込まれ隠れてしまう経過を辿った 用地売却 たものと推察され 別枠として小作農家への協力 の内容は明らかになっていないが 大谷池関係の 費的対応が配慮されていたものといえる 因みに 総面積が 町歩を超えるなど集落にとって大変 価格水準を昭和 年群馬県農産物価額と比較して な広い面積であり 交渉への関心は異常なほど高 みると米一石当り 円 の相 かったといえる 土地は 田 畑 山林の売却交 場になっている時のことである 美九里村の昭和 渉とそれに付随した形で谷津田 町歩の代替水田 年と 年の水稲平均反収は で貯水池敷 の要求問題 さらに三名川掛かりとなる水田 地は谷津田という条件を考慮し平均収穫量の 掛 町歩の水利権補償が交渉内容であった その交渉 けとして算定すると約 となり 谷津田一 は集落総体としての交渉 地主 戸との個別交 反歩当りの販売価額は 円 渉が交互再三にわたって持たれたのである そし と推定される 乙地の水田 円の場合と比較す て交渉途中からは用地買収に伴って小作農層から ると 倍に値することや また当時人夫の日当 の地主層に対して小作権としての就労保証要求 相場 銭からみて当時の生活実感からすればか や 一部地主が集落から離脱し全く関係のない東 なりの高額水準であったものと考えられる 周辺 京方面の不動産屋に用地を売却してしまった者の 農家の多くが養蚕不況で疲弊した農村の実態から 出現 等で集落の自治活動はしばし混乱する状態 すると集落としての判断はこうした情勢を配慮せ がみられた この時三本木地区 長であった四方 ざるをえなかったといえる 田儀十郎は ごく普通の農業者として平穏な生活 その後 三名川掛かりの慣行水利権が組合に移 を過ごして来たが 貯水池の構想が発表されて以 行したことについて特別な問題も見受けられず 後その状況は一転し 自宅は連日地区の集会や総 用地売買交渉との関連の中で様 な要請事項は収 会の開催場所となり 家族の犠牲を余儀なくされ 斂され解消していったものと推察される 食糧増 た 集落の責任者であるがために協議の進め方や 産を使命とする国策を背景とする行政側は 集落 内容に不満をもつ者も出現し 集落内の一部の者 からの協力によって用地を確保しなければならな から嫌がらせを受け 長男の嫁が身重であったこ い重い使命を負った立場としての交渉であった 行政と集落の貯水池築造協議 三本木地区の合意にいたる判断 ῐ ῏ ῐ ῏ ῐ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῑ ῒ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῎ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῎ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῎ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῌ ῌ . . . kg kg . +1 . ,1 , . 0 -/ 0 +1 / +, . + 3 , -/ 2 ++ + 1** 0** ./* +/* +-* ,* / +0 3 0 . / ,3* +- 1 ,** ,2 ,, / 0** ,1 /*

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農村研究 第 号 一方 集落側としては水利権問題 その他小作農 県内務部長の組合長宛ての通知文に明記されて 対策などあり 交渉結果の内容は土地売却に付随 いる見解は組合規約に準拠するものであるとし する条件として有利な交渉を展開し 妥協点を見 て その条文は 貴組合規約第一条第三号ニ 出し収拾したものといえる 貯水池ノ維持管理ヲ為スコトヲ規定シ居リ 本件 矢場池ナル貯水池モ三名川貯水池耕地整理組合ノ 存スル限リ 組合ニ於テ維持管理ヲ為スベキモノ 矢場 東平井両地区は県の貯水池築造計画の説 ナルト共ニ之カ用水ノ配分等ニ関シテモ組合用水 明後 格別な反対の意思表示もなく 貯水池築造 計画ニ基キ組合ニ於テ為スヘク 従而耕地整理施 の事業に対して理解を持ち前向きな態度をとって 行ノ結果之カ水利使用状況ニ異動ヲ生シタルモノ きた しかし 築造後 県 組合との関係は大き ナルヲ以テ地区内耕地ノ一部ニ付水利使用権ノ主 く変化することとなった 問題の起点は 矢場池 張ヲ為スヘキ限ニ在ラスト認ム と矢場池の の管理権は組合に帰属するもので矢場 東平井両 管理は組合の維持管理権に委ねられていると主張 地区の管理権 入会権が消滅している というこ している 準拠する組合規約とは 第一章總則 とを組合より通知を受けた時であった 組合が設 第一條本組合ハ設計書及本規約ノ定ムル所ニヨリ 立されたのは昭和 年 月 日であり その通 左ノ事項ヲ行フ 一 漑排水ニ關スル設備並ニ貯 知は設立から 年半も経過した同 年 月 日 水池 水路 道路ノ變更 廃置及工事 二 開發 のことであった 地目變換 三 第一號ニ於ケル貯水池 水路並道 矢場 東平井両地区の行政や組合に対して不満 路工作物ノ維持管理 と規定されている 県は が募った原因は こうした組合設立に際して両地 この規約をして矢場池の管理は組合に移行したと 区に対する矢場池の管理について十分な説明が行 する解釈に立っていたといえる しかし この規 われないまま 組合職員が通常業務の中で一方的 約をして両地区を納得させようとする考えは 組 に矢場池の管理について指導 管理する支配者的 合の組合員に対する業務遂行としての適正さを欠 な態度に出たことであった 当然のこととして両 き 当該集落農家からすれば到底承服できるもの 地区は驚き強く反発したのであった 加えて貯水 ではなかった 池工事の作業中に 矢場池に流れ込む導水路が壊 両地区は同年 月 日の通知文をして矢場池 される問題が生じていたが 組合はそれに対する の使用権が消滅したものであると知らされたので 事情説明や謝罪もなく 予てより組合の誠意が疑 あったが その後組合と再三にわたる激しい交渉 われていたのであった これに対抗した集落の一 を繰り返し 抵抗することとなった そして昭和 部農家が貯水池竣工後当池への配水路を封鎖し 年 月 日付け両区長から君嶋県知事に 陳 問題化することとなったため 警察が介入しなけ 情書 が提出されることとなった その内容は ればならないような不祥事件となり 両地区と組 両区民ノ意向条件 として 次の 項目にわたっ 合の間はますます険悪化し 溝を深めることと ている なった 一 矢場池ノ樋口ハ両区ニ於テ之レヲ管理スル こうした事態を憂慮した新井繁治郎組合長が昭 コト 和 年 月 日付けで金澤政雄群馬県知事に対 但シ配水ニ関シテハ第四項ノ場合ヲ除ク外 して 矢場池使用権に関する件照会 としてその 組合ノ統制ニ従フモノトス 見解を問い合わせ これに対して県内務部長から 二 矢場池ニハ組合大谷池枯渇ノ場合ヲ除クノ 組合長に対して同年 月 日回答が届き 組合 外常ニ満水ヲ維持スルコト は即この写しを添付し組合長名で両地区 長への 三 用水期間中ハ苗代設置ヨリ出穂ニ至ル迄適 通知を行い周知徹底したのであった 量ノ配水ヲ行フコト 矢場 東平井両地区と組合の対立から合意 過程 ῒ ῒ ῑ ῒ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ΐῐῐ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῐῐ῔ ῍ ῌ ῍ ΐ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῔ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ΐ ῍ ῔ ῌ ῍ ΐ ῔ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ΐ ῔ ῍ ῍ ῍ ῏ ῍ ῌ ῎ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ 52 +2 +3 +*, ,**0 . ++ +. . 3 0 ,-0 ,-++ + -* . 3 . ,0 0

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,-四 組合大谷池枯渇ノ為配水不能ノ場合ハ矢場 ザル儀ニ候得共簿力 ママ ナル両区民ノ衷情 池ノ維持水ハ両区ノ専用トスルコト 御憫察ノ上同組合ヲシテ大乗的見地ニ立脚シテ この内容は 両地区 長や水利委員と県耕地課 矢場池ニ関スル諸問題ヲ円満解決セシム方途ヲ 並びに組合との間で 年余の激しい協議が続けら 講ゼシムル様御諭示ヲ賜リ度 別紙陳情理由 れたのである 最終的に昭和 年 月 日 県 書及協定並ニ覺書写相添ヘ此段謹而及陳情候 耕地課長室において耕地課長 組合長と両地区 頓首 長外関係者の出席のもと 矢場池の管理監督権は この文面は 前半は前回陳情書の経過と解決に 組合に帰属するものの両地区要請の一部内容を受 対する一定の評価をおこなっているが 後半はそ け入れることで妥結した 手続きは昭和 年 の解決後の組合の約束不履行に対して憤慨し 組 月 日付け組合長と両区長の間で 覚書 が締結 合の運営や管理面の改善の申し入れであった こ されて 一旦は解決したのであった こでは入会権とする灌漑用水利用については 不 しかし 昭和 年 月 日 再び矢場 東平 服であったものの一応解決されたものとして扱わ 井両地区代表者より熊野英県知事宛に 矢場池 れているが 池の養鯉としての利用権が新たに問 管理に関連する 陳情書 が提出されることと 題化しているのである なった その経緯と内容は以下のとおりである それは 添付書類 陳情理由書 に書かれた 本県夛野郡三名川貯水池耕地整理組合ニ於テ の理由の内 つ 矢場池ニ対スル養鯉ノ否認 と 県ノ御指示ニ拠リ貯水池配水ノ便宜上集配ノ池 して次のとおり問題点を訴えている トシテ使用セラレツ アル矢場池ハ数百年来其 夛野郡平井村大字東平井及 郡美九里村大字 筋ヨリ夛野郡平井村大字東平井及 郡美九里村 矢場両区ハ矢場池管理費捻出ノ方策トシテ 古 大字矢場ノ両区ニ管理及使用権ヲ附與セラレタ 来之レガ水面利用ヲ慣例的ニ行ヒ来リシモ 昭 ル由緒深キ溜池ナルニ不拘 同組合ハ両区ガ組 和六年以来三名川貯水池耕地整理組合ノ貯水池 合地域決定ニ際シ組合成立以前ノ協約ニ従ヒ其 構築工事ニ次ギ同組合トノ間ニ生ゼシ係争関係 ノ地域ヨリ矢場池ノ除外ヲ気付カザリシヲ奇貨 等ノ為メ中止シ 咋十四年四月同係争事件ノ解 トシ 組合地域ノ確定スルヤ常ニ強圧的ニ両区 決ヲ機トシテ之レヲ復活シ同組合ニ其ノ旨通告 ノ既得権ヲ侵害セントスルガ如キ処置ヲ敢テセ シテ養鯉ヲ開始セリ 然ルニ同組合ハ同地域内 ル為メ 両区トノ間ニ容易ニ解ケザル係争ヲ惹 ニ介在セル矢場池ト同一事情ニ置カルル他ノ溜 起セリ 依ッテ両区ハ曩ニ昭和十一年一月三十 池ニ於テ数年来養鯉ヲ行ヒツツアルニモ拘ラズ 日付ヲ以テ県ニ詳細ナル陳情書ヲ提出セリ 爾 矢場池ニ対スル養鯉ヲ否認シ 剰ヘ両区ニ於テ 来関係県官諸公ノ御同情アル御高配ニ依リ漸ク 構築セル養鯉逃出防止柵ヲ暴力者ヲ使倣シテ悉 昭和十四年四月二十四日ニ至リ完全ニ本係争事 ク破壊放棄セリ 件ノ解決ヲ見タルハ偏ニ知事閣下御清艦ノ賜ニ 冒頭 事業概要 で述べているとおり 藤岡地 シテ両区ハ今尚感銘罷在候 然ルニ同組合ハ解 域は古来より水に不自由することから数多く小溜 決後ニ至ルモ 尚別紙陳情理由書ニ掲載セルガ 池があった これらの池は灌漑用水利用のみなら 如ク両区ノ構築物ニ対シ破壊ヲ命シ 或ハ覚書 ず養鯉としての利用も見られ 集落共同利用とす ヲ曲解シテ協約ヲ破リ 或ハ覚書ヲ一方的ニ破 る入会権を否定することは出来ない 当 理由書 棄シテ協約ノ不履行ヲ迫ル等事毎ニ挑戦的態度 の文面はそうした地域実態に照らして歴史的経過 ニ出デテ両区民ヲ刺激スル処為ハ 其ノ真意奈 と利用実績から 両区の権利主張は合理性を持っ 邊ニ存スルカ難計今ヤ再 セル両者間ノ紛糾ハ ていた 到底自治的ノ解決ハ絶望ノ状態ニ有之候 茲ニ 結局は この陳情 要請に対し昭和 年 月 再ビ知事閣下ノ御清鑑ヲ仰グハ寔ニ恐懼ニ堪ヘ 日 東平井 矢場両区 長と組合長との間に覚書 ῒ ῒ ῒ ῍ ῑ ῒ ῍ ῐ ῌ ῍ ῍ ῐ ῔ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ΐ ῔ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ΐ ῔ ῍ ΐ ῔ ῌ ῌ ῌ ῍ ΐ ῔ ΐ ΐ ῔ ῌ ΐ ῔ ΐ ῔ ῍ ῌ ῍ ῌ ΐ ῔ ῍ ῌ ῍ ῍ ῐ ῎ ῏ ῏ ῌ ῌ ῌ ῌ ,+ ,* ,, , +- +, 3 +. . ,. +/ . +* -+ +0 3 2

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農村研究 第 号 配水される水田は甲等級 乙等級 丙等級に区分 して負担額が決められているが 等級査定での調整が あったものと考えられる が締結され その内の養魚利用に関しては 旧矢 場池ニ養魚ヲナス場合ハ組合之ヲ行フ 但シ右ノ 場合組合ハ両字ト協議スルコト となっており 三名川貯水池の築造の意義は 藤岡台地におけ 組合規約に準拠し組合権限範囲内であるとしなが る水田開発を可能とし 昭和期における養蚕業に らも 組合との協議を前提条件として認められ 偏重する経営から脱皮するため農業改善の先駆的 両地区もこの考えを受け入れることとなった 役割を果たした 戦前から戦後にかけた国策の食 両地区は 貯水池築造後にして矢場池の管理 糧増産対策に沿って藤岡地域の水田面積と水田率 利用権を巡る問題が生ずることとなり 激しい抗 は昭和 年 町歩 から 昭和 年には 議を繰り返してきたが 実質的には矢場池掛かり 町歩 と飛躍的に拡大し 県行政や地域農家 灌漑用水の不足問題の解消や 組合賦課金の優遇 の期待に応える実績 実効を収め 藤岡地域農業 措置 の歴史 発展過程における画期的な事業として位 置づけられている 新田開発の特別容認 養 それは県営用排水幹線改良事業の適用によって 魚業者から賃貸料の一部受け入れ等 集落内部と 国庫補助を受け 県行政が主体的に事業推進を展 して了解し得る一定の条件を確保することが出来 開したことによることが大きい 同時にそのこと たのであった そして両地区が組合と協調を図ろ は行政が土地改良に直接的な介入を強め 当事業 うとする基本的な背景には 県や組合との間で係 においても池の築造推進具体策や組合の設立の状 争を長く続けることによって 貯水池利用を渇望 況からみてその管理 指導 水利管理等によって する多くの藤岡地域組合員から孤立化することを 県の支配力 統率力が強められた様相を否定する 懸念し 組合運営に協力していかなければならな ことは出来ない いという集落としての総合的な判断があったもの 組合は三名川貯水池の築造とともに その管理 と推察される 業務を遂行するために県の実質的な出先機関 下 行政からすれば貯水池築造とともに 矢場池管 部組織として設立された その規約からして 貯 理権の扱いは行政の指導に拠って処理する事柄で 水池の地元 集落の自治的組織によって管理され あるとの強い立場を貫いたといえる 規模の小さ てきた三名川掛かりの慣行水利権は組合に収奪さ い矢場池の位置づけは 新たな配水システムの設 れることとなった 水利環境の実態を旧来と比較 計から除かれ 合理化方針を変更するものでな すれば当 集落の灌漑用水も改善され 貯水池築 かった 造そのものを否定する理由は見当たらないが 行 つまり 貯水池築造の推進に当って行政の合理 政の矢場池に関する姿勢は 貯水池としての機能 主義を象徴するものとして 三本木地区との交渉 を評価せず そこには関係集落の慣行水利権を否 経過のなかで 両地区に事前相談なしに矢場池を 定し 組合の管理 支配の体制確立を図ったと言 一方的に開墾水田化して谷津田 町歩の代替とし える て提供する案を提示した経過からして 当初より 矢場区史 史料集 の郷土夜話で塩原亀次郎 矢場池を不要とする計画がされていたのである は 入会権 関係について その冒頭で 矢場つ 古来 三カ村堰 とする 地区間の不信感の醸 つみは三名川貯水池耕地整理組合成立当時 組合 成を恐れずにこうした地域社会秩序を否定しかね 地区に不当に編入され 法的には矢場 東平井に ない県の大胆な行動とその手続きには 事業遂行 権利がない様になって居るが 二百数十年間に亘 の焦りとその絶対主義からくる高圧的態度ととも り 深い縁故を有するのみならず矢場村として に 集落自治に対する配慮が稀薄しており 強引 は 村内半数以上飲料に至大の関係もあるから東 な交渉の感は否めない 平井村と共に永久に縁故を保持すべきである ま と め ῏ ῏ ῎ ῏ ῎ ῍ ῍ ῍ ῏ ῍ ῐ ῑ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῒ ΐ ῌ ῐ ῑ ῍ ῐ ῐ ῑ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῑ ῌ ῌ ῌ ῍ ῍ ῌ ῌ ῌ 54 , ,-,. +*, ,**0 / 101 ,* .* + --, .+ -0

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-藤岡市史 資料編 近代現代 三名川 藤岡市 藤岡の歴史年表 旧藤岡藩は元和 年 貯水池築造日誌 美九里村大字三本木区長 四方田 前橋藩の所領との記述 儀十郎による 昭和 年 月から同 年 月まで 上野国郡村誌 記述 藤岡町管轄は 元和八年ニ及ンテ厩橋城主酒井雅樂 矢場区史 史料集刊行会 矢場区史 史料 頭領トナリ との記述 集 矢場区史 史料集刊行会 矢場区史 史料 群馬県史 通史編 近代 現代 産業 経 集 藤岡市史 民俗編 並びに 廣澤寺 済 三十世住職 都丸龍雄の現場案内と説明にもとづ 群馬県史 通史編 近代 現代 産業 経済 く 元矢場区長 飯島詳弘の説明による 上毛新聞 昭和 年 月 日付け 三名川貯水 農政調査委員会 体系農業百科事典 農業理 池竣工式の記事の一部より抜粋 科工学 上毛新聞 昭和 年 月 日付け 三名川貯水 矢場区史 史料集刊行会 矢場区史 史料 池竣工式の記事の一部より抜粋 集 農商務省農務局 農業水利慣行調査 農 四方田儀十郎の孫に当る現四方田家当主四方田正 業土木古典選集 巻 日本経済評論 勝の説明 社 三名川耕地整理組合設立時の規約 群馬県立文書 群馬県耕地課 群馬縣三名川貯水池用水改 館所蔵 良事業概要 群馬県立文書館所蔵 矢場区史 史料集刊行会 矢場区史 史料 群馬県土地改良事業団体連合会 群馬県耕 集 地事業史 同上 矢場区史 史料集刊行会 矢場区史 史料 同上 集 同上 農商務省農務局 農業水利慣行調査 農 同上 業土木古典選集 巻 日本経済評論社 同上 と述べ その複雑な心境を吐露している そこに のもと水利施設の近代化 大規模化と当時に半強 は地元集落の心情を否定し 集落組織に大きな犠 制的に許可水利権へ移行し 集落自治の水利に対 牲を強いたとする見方ができる する介入を規制し それによる水利管理の弱体 慣行水利は農家生活と密着し確立された権利で 化 理解不足 問題からの逃避 を招く実態が多 あり 権利形態は変容しても水利に対する農家 く生まれつつある 集落自治の意識は強く 日常生活との係わりに基 単に合理主義のみの水利政策は自然環境とのバ 本的変化はみられない 日本農業の特性である零 ランスを失う危険性を持っている 水利施設を維 細小農経営と慣行水利権の歴史性は不離一体的関 持 管理し農業の多面的機能を発揮することで多 係にあるという見方は依然残されており その影 様で複雑化した地域社会と共生する期待の高まり 響力を軽視することは農業の維持 継続という視 に応えるには集落の存在は無視出来ない それ故 点から禍根を残す恐れがある 水利を支える集落末端組織のあり方を見直すこと 今日 農地の工場 住宅への転用によって 水 が焦眉の課題であり 本稿はその一助となること 田面積の減少が著しく 社会一般の風潮は農業水 を期待するものである 利権を軽んずる状況が窺え 慣行水利権は公権力 ῏ ῒ ΐ ῍ ῒ ῏ ῒ ΐ ΐ ῎ ῏ ῌ ῌ ῏ ῒ ΐ ῍ ῌ ῌ ῐ ῏ ῎ ῏ ῒ ῑ ῌ ΐῌ ῏ ῎ ῏ ῒ ῏ ῒ ΐ ΐ ῍ ῒ ΐ ῐ ῑ ῍ ῌ ῏ ῒ ῍ ΐ ῍ ῌ ῌ ῏ ῌ ῏ ῐ ῑ ῍ ῎ ῏ ῒ ῍ ῌ ΐ ῌ ῏ ῐ ῑ ῍ ῏ ῎ ῏ ῒ ῌ ΐ ῌ ῏ ῎ ῏ ῐ ῑ ῒ ῏ ΐ ῎ ῏ ῍ ῍ ῌ ῌ ῏ ῍ ῏ ῎ ῏ ῐ ῌ ῑ῍ ῌ ῏ ῎ ῏ ῒ ῏ ῎ ῏ ῐ ΐ ῌ ῑ ῌ ῏ ῍ ῌ ῏ ῎ ῏ ῒ ῏ ῍ ῌ ΐ῍ ῌ ῏ ῍ ῌ ῏ ῎ ῏ ῐ ῑ ῒ ῏ ῍ ῌ ΐ ῎ ῏ ῍ ῍ ῌ ῏ ῍ ῌ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῌ ῍ ῌ ῌ ῍ ῍ ῍ ῍ ῍ ῌ ῍ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ + ..+ .0* +, 2 +0,, . + 3 +, +- 1 -, +332 +. +332 - 2 , .03 -** .-1 . 2 , .32 +/ / 2 ++ ,, +301 2+, 0 2 ++ ,, +0 +332 .-3 ..* 1 +3+1 +1 +323 1 ,++ +2 2 +3,3 +3 +332 3 +31* .-2 +/2 ,* .., +* +332 ,+ ..0 -10 -22 ,, ..2 ++ +3+1 ,- ..3 +323 1 32 ,. -10

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農村研究 第 号 内田和子著 日本のためいけ 海青社 岡部守著 土地利用調整と改良事業 日本経済評論社 緒方博之編 水と日本農業 の第 章 川又政圀 千賀裕太郎著 今日の水利行政と水利調整 東京大学出 版会 川島武宜 潮見俊隆 渡辺洋三 入会権の解体 岩波書店 群馬県耕地協会編 群馬県土地改良史 群馬県土地改良事業団体連合会編 群馬県耕地事業史 上毛新聞 昭和 年 月 日付 上毛新聞社 中尾英俊 入会権 一粒社 農政調査委員会編 入会権紛争の性格 大系農業百科辞典 農業社会経済 農商務省農務局 農業水利慣行調査 農業土木古典選集 第七巻 日本経済評論社 玉城哲著 水社会の構造 論創社 玉城哲 旗手勲 今村奈良臣編 水利の社会構造 東京大学出版会 讀賣新聞 群馬讀賣 昭和 年 月 日付 讀賣新聞社 受付 年 月 日 受理 年 月 日 引用 参照文献 ῎ ῏ ῎ ῏ ῒ ΐ῍ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐ ῍ ῍ ῐ ῑ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐῌ ῎ ῏ ῒ ΐῌ ῍ ῎ ῏ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐ ῌ ῎ ῏ ῐ ῑ ῒ ΐῌ ῎ ῏ ῐ ῑ ῎ ῏ ῒ ΐ ῍ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐ ῌ ῎ ῏ ῒ ΐ ῌ ῎ ῏ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῌ ῍ ῏ ῎ ῐ ῌ 56 EKIGUCHI

This report summarizes the issues in the process of consensus building over the construction of the reservoir for irrigation water. The main points are as follows.

( ) Sannagawa Reservoir was constructed to supply the shortage of irrigation water for the benefit rice paddies. The cost of construction ran to a total of , yen, half of which was a state subsidy from the Ministry of Agriculture. As a greatest reservoir in the Gunma Prefecture, Sannagawa Reservoir played a pioneer role in rice paddies working-out in this area.

( ) Disappearance of Water Right Practiced by the Local Village. Sannagawa Readjustment of Arable Land Union, which was a substantial retainer organization of the Prefecture Administration, was established to control the water right of the Sannagawa Reservoir and its jurisdiction area. This organization took the water right away from the local village, and the water right belonged to this organization.

( ) The water right practiced by the local village had a long history. The village had the right to control the ha of the rice paddies and the joint reservoir. Concerning the water right, they were opposed to the prefecture and the new union. But at last, the village was constrained to accept the union administration under the prefecture.

( ) The strong control by the administration has realized the large development of the rice paddies in the Fujioka area, however it forced some cluster self-rule’s sacrifice. Today the multipurpose function of agriculture is required to be carried out by the local self-rule together with the administration. The history of the water right for Sannagawa would be an instructive case in this process.

: agriculture water right, process of the consensus building, Sannagawa Reservoir

Satoru S (Former Employee of Zen-noh)

Key words

The Development Process of Consensus Building over Agriculture Water Rights :

The Case Study of Sannagawa Reservoir in Fujioka City, Gunma Prefecture

+*, ,**0 ,**-,**+ +313 +30+ +322 +31* 2 ++ ,, +3--+32, +301 +3+1 +323 +32-+32. 3 0 ,. +3-. ,**/ ++ +/ ,**0 + ++ + --* *** , - 2-.

参照

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