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(1)

湯 河 原

■湯河原町観光課■ ホームページ http://www.town.yugawara.kanagawa.jp 〒259-0392 神奈川県足柄下郡湯河原町中央2-2-1 TEL.0465-63-2111 FAX.0465-63-4194 ■湯河原温泉観光協会■ ホームページ http://www.yugawara.or.jp 〒259-0314 神奈川県足柄下郡湯河原町宮上566 TEL.0465-64-1234 FAX.0465-63-1716

(2)

 湯河原は、万葉の時代から土肥郷と呼ばれ、 源平時代には豪族土肥次郎実平が居を構えて いました。この実平は源頼朝の挙兵にいち早 く馳せ参じた人でした。この実平を、征夷大 将軍となった頼朝が平家の地であった安芸(あ き)の国に送り、実平は瀬戸内海全域を治安し、 その名君ぶりを思う存分発揮したと言われて います。その安芸の国の本拠地がいまの広島 県の三原市でした。  「三原やっさ」は、実平の子孫小早川隆景 が三原城を築城した際に完成を祝った庶民が 祝い酒に酔い、思い思いに口づさみ、踊った といういわれが起源だといいます。この踊りを、 「実平さんが来たからこそ、いまの三原の発 展がある」とし、「どうか、湯河原でも」と いう申し入れを受け、無手勝流をお座敷風に アレンジしたのが、湯河原のやっさ踊りです。 これが縁で、1976年に両市町は親善都市の関 係を結びました。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原と広島三原の縁結び

一やっさ一

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

湯 ○1

(3)

 小字には興味をそそる読みがあるのは珍し くありません。湯河原も同じです。弁当場、 ガラメキ、入ノ河原、老僧坊、大草等々、思 わず何だろうと首をひねってしまう名前が並 びます。大字には相模国風土記に記載はある ものの、小字にはその記録がほとんど残され ていません。どうも、明治の地租改正の際に 決められたというのが事実のようです。失わ れつつある小字も、いい習わされた名として 記億に残っています。  いくつかを拾ってみますと、「塩川(しお かわ)」=シホカワの転用か。萎んだ地形の川 という説か。しぼり川。相模国風土記に渋川 の記載あり、「しぼかわ」からの転用かも。「真 砂(まさご)」=ガラメキを「空・カラ」「水・ ミ、メ」「処・キ」と読めば、新崎川の水勢 の弱い、砂が沈殿する処を、砂、礫が多い場 所と示し真砂、等、これだけで興味津々。深 いものです。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原の小字(こあざ)考

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

(4)

 横浜の山下公園が、関東大震災のビルの瓦 礫を埋め立てて出来たという話ですが、湯河 原にも似た話があります。  昭和34年頃の新幹線の隧道の捨土が、泉越 隧道・城掘隧道・南郷隧道から運ばれ、それ で約55ヘクタールの埋め立てができ、その費 用を活用して、駅前の階段下の区画整理が進 んだということです。  また、いまの下水道の地下処理施設ともな っている浄水センターや、その上部を利用し た海浜公園や湯河原高校のある場所は、実は 埋立地で、これも新幹線からの捨土75%、そ の他25%の埋土で、立派な公共用地として機 能しています。残土、捨土を有効にリサイク ルしたという先人の知恵がこうして子々孫々 の資源して活きています。その知恵に驚くだ けでなく、「環境」「共生」が叫ばれるいま だからこそ、これをみならう時だと痛感します。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

新幹線の隧道の捨土でできた土地の話

昔語 り         E n jo y T ra il

里の道

湯 河 原 海 浜 公 園 湯 ○3

(5)

 平成11年、湯河原町が全国京都会議で「小 京都」を使用することの栄誉を賜りました。 この機縁となる「一升石(いっしょうせき)」 の話をします。二宮尊徳などの有能な人材を 見いだし、登用したという小田原城の名君大 久保加賀守忠真(当時京都所司代)の秘話です。 時の光格天皇が上皇(文化14年1817)となられ、 そのお住まいの仙洞(せんとう)御所を改築 するときのことです。諸大名がきそって献上 品を模索している中、ひとりこの忠真だけは 後世に残る品をと考え、思案の末選んだのが 実は湯河原町にある吉浜海岸の浜辺の石でした。 寸法の違わない浜辺の石、その数、米俵にし て2千俵、個数にして8万個の石といいます。 その楕円形の石を浜辺から一升分拾う見返り に米一升を与えたことから「一升石」と名づ けられたといいます。この浜辺の石、いまも 仙洞御所の庭の縁にいっぱい敷き詰められ、 往時の吉浜の風景と民の姿を甦らせます。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

「さがみの小京都ゆがわら」と「一升石」

美 を 感 じ る     E n jo y T ra il

海の道

公園写真 駅 前 の 京 風 ポ ケ ッ ト パ ー

(6)

 標高625m。箱根古期火山が成長する段階で 生じた寄生火山。外輪山を突き破れず固まり 溶岩円頂丘の形で止まり、長い歳月の浸食作 用の結果、いまの外観を現したといわれてい ます。南西側はその名残か、二、三段の岸壁 がほぼ水平に連なり、独特の奇岩を曝け出し ています。柱状節理と呼ばれるその姿は、合 間に生える緑に映え、見るものに一種異空間 に迷い込んだような錯覚を与えます。その直 立する奇岩も、ロッククライマーのビギナー コースとなって久しく、「梅の宴」のイベン ト期間にも、その登攀姿が話題を呼び、観梅 の人々にもつとに知られています。  主な幕山の植生を挙げれば、アズマネザサ・ ススキ・ヤシャブシ・コナラ・珍しいところ でハコネサンショウバラなどがあり、2、3 月には麓の約3,000本以上の紅白の梅が微かな 薫りを風に乗せ、春の訪れを告げます。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

幕山(まくやま)原風景

自然 満 喫       E n jo y T ra il

山の道

湯 ○5

(7)

 2月・3月に賑わう「梅の宴」の地から山 間部へ少しばかり足を延ばすと一ノ瀬という 小さな橋にぶつかります。そこから、ほんの すこし行った処、吉浜財産区の碑の脇を左手 に入り、杣山(樵の山の意味)を登り切って みてください。クスノキの群生・純林が荘厳 に貴方を迎えてくれます。  このクスノキ、火薬の原料になることから 日露戦争の戦勝記念で植えられたものが、枝 打ちされ立派に成長しました。普段見かける もっこりとしたクスノキとは異なる幹を真っ すぐ天空に伸ばした姿。それは見る者に一味 も二味も違う感動を与えます。上空遥かな高 みに葉を透かし、枝葉を紺碧の空に映すその 様は、空気浄化と相まって、これこそが森林 浴そのものという感覚を覚え、都会にない新 鮮さを与えてくれます。神奈川美林50選の一 つにも数えられる穴場です。是非、足を運ん ではいかがですか? 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

杣山(そまやま)のクスノキ

自 然 満 喫      En jo y T ra il

山の道

﹁ 箱 根 ・ 真 鶴 ・ 湯 河 原 の 巨 木 ﹂ よ

(8)

 1930年のこと、家業の料理店を継ぐ一方、 独学で鉱物学を取り組んでいた桜井欣一氏は アルミニウムやカルシウムなど温泉成分が結 晶化した新鉱物を湯河原の不動の滝で発見。 当時はどこにでもある沸石と見られていたも のが、実は、世界で未発見の物と判明。1952年、 桜井氏はこれを「湯河原沸石」と命名、学術 論文を発表。これが認められ、氏は東京大学 の理学博士号を受けました。  以来、店と研究者の二足のわらじを履き、 鉱物、化石を徹底的に蒐集。これで、「鉱物 界の牧野富太郎」とまで呼ばれました。その後、 インドでも同種の沸石が発見され、世界でも2 箇所だけの発見という沸石となり、これら貴 重な蒐集物は、県立生命の星・地球博物館に 展示され、その実績を垣間見ることができます。 宮沢賢治のように農業などの本業にいそしむ かたわら鉱物に情熱を注いだ人の功績を私た ちは郷土の誇りとします。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原沸石(ふっせき)

昔語 り        En jo y T ra il

歴史の道

﹁ 湯 河 原 の 文 化 財 誌 ﹂ よ り 湯 ○7

(9)

 古の万葉集に詠まれた湯河原の温泉。  万葉集巻十四東歌の相聞歌(恋歌)をひも どきます。歌は『あしがり(足柄)のとひ(土 肥)のかふち(河内)にい(出)づるゆ(湯) のよにもたよらにころがい(言)はなくに』 です。歌意は、足柄の土肥の川べりに湧く温 泉の湯の、ゆらゆらとゆらぐように、決して ゆれ動くような不安定なことはあの子は言わ ないよ、ということです。  ではその効用は? 専門的には、泉質;ナト リウムー塩化物・硫酸塩泉(旧泉質名 含芒 硝一弱食塩泉)、アルカリ性、低張性、高温泉。  効用を記すと、入浴では、神経痛、筋肉痛、 関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、 うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え症、 病後回復期、疲労回復、健康増進等に効用が あるといいます。むろん、きりきず、やけど、 慢性皮膚病にも効果があります。源泉の数は 豊富です。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原の温泉①

(万葉のいにしえの湯)

昔 語 り        En jo y T ra il

湯の道

(10)

 湯河原の温泉は明治、大正、昭和の時代に さまざまな文人、墨客の隠れ湯、憩いの場と して愛されてきました。その先人のひとり、 咄家(はなしか)の巨匠、初代三遊亭円朝の 人情噺「名人長二」第六席から、往時の湯河 原を引用し紹介します。「湯河原の温泉は、 相州足柄下郡宮上村と申す所にございまして、 当今は土肥次郎実平の出た所といふので土肥 村と改まりまして、(略)。温泉は川岸から 湧き出しまして、石垣で積み上げてある所を 惣湯(そうゆ)と申しますが、追々開けて当 今は河中の湯、河下の湯、儘根(ままね)の湯、 下(しも)の湯、南岸の湯、川原の湯、薬師 の湯の七湯に分かれて、(略)。湯の温度は 百六十三度ないし百五度ぐらいで、打ち身・ 切り傷は勿論、胃病・便秘・子宮病・リョウ マチスなどの諸病に効き目があると申し」です。  往時の風景と温泉が彷彿と甦りませんか。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原の温泉②

(文豪・歌人の隠れ湯)

昔 語 り        En jo y T ra il

湯の道

﹁ 湯 河 原 の 文 学 と 観 光 ﹂ よ り 湯9

(11)

 人車鉄道とは、トロッコのような小型の箱 車を、人夫が2・3人でレールの上を押すと いう鉄道です。湯河原には吉浜や門川に停車 場がありました。面白いのは、客車は下等、 中等、上等と分かれていたと言いますが、た だ仕切りが分かれているだけで、乗り心地に 差はなかったということです。  では本当の差はどこにあるかというと、坂 道にさしかかり人夫の手に負えないときは、 乗客はみな降りて押すのを手伝うのだが、上 等客はその必要がなかったという特典がある という違いだけだったそうです。  国木田独歩の「湯河原ゆき」から、この人 車鉄道の雰囲気を味わってみましょう。「と ころが小田原から熱海までの人車鉄道に此(こ の)喇叭(ラッパ)がある。不愉快千万な此 交通機関に此鳴物が附いている丈(だけ)で 如何(どうに)か興を助けて居るとは兼て自 分の思つて居た(略)」 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

人車鉄道

(明治29年創業)

の話

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

﹁ ゆ が わ ら ﹂ よ

(12)

 芥川龍之介の小説「トロッコ」に人車鉄道 から軽便鉄道への転換のための道路改修工事 の風景が描かれ、現在の湯河原の川堀の集落 を思わせる描写があるので、紹介します。 「彼の村へはひつて見ると、もう両側の家家 には、電灯の光がさし合つてゐた。良平はそ の電灯の光に頭から汗の湯気が立つのが、彼 自身にもはつきりわかつた。井戸端に水を汲 んでゐる女衆や、畑から帰つて来る男衆は、 良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどう したね?」など声をかけた。が、彼は無言の儘 (まま)、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の 前を走りすぎた。」  軽便鉄道は、小田原早川口から熱海まで海 岸沿い約25㎞の距離を一日十数回往復してい ました。所要時間は3時間。下等40銭、中等 60銭、上等1円という料金。新橋のビアホー ル(明治32年開業)のビール1杯、半㍑10銭、 当時の盛そば1杯2銭ですから、その値段が 想像できますね。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

軽便鉄道

(明治39年創業)

と湯河原風景

昔 語 り        En jo y T ra il

歴史の道

﹁ ゆ が わ ら ﹂ よ り 湯 ○11

(13)

 湯河原は、日金山の分水から大黒崎までを 境に、東を相模国、西が駿河国という国境で した。明治六年の廃藩置県の際、政府が地図 上で線引し、そのため、一つが神奈川県足柄 下郡土肥村、一つが静岡県熱海市泉となりま した。この話の五軒町は現在は泉地区にあり ますが、その昔は相模国土肥郷字宮上分塩壷 という旧地名がありました。  落合橋の泉側の下流300㍍程の一廓がやがて 五軒町と発展するのですが、最初はペン街と 呼ばれていました。これは、ある料理屋が店 の塀に真っ赤なペンキを塗り、通称「赤ペン」 と大層繁昌し、それを真似て新しい呑み屋も 増え、それぞれが、「白ペン」「黒ペン」「金 ペン」「銀ペン」と呼ばれ、併せて「ペン街」 と呼ばれました。が、町の人はこの「ペン街」 という呼び名を好まず、料理屋が五軒出来た ので「五軒町」としました。花柳街でもあり ました。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

五軒町の由来と赤ペンなどの話

昔 語 り        En jo y T ra il

歴史の道

﹁ 湯 河 原 の は な し 其 の 二 ﹂ よ

(14)

箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  「デンポウ、電報」男が台所の戸を叩く。 すべてはそこから始まりました。男は、河野 大尉。帝国陸軍の若き青年将校です。身長五 尺六寸程、がっしりとした身体つき。体重十 八貫五百匁位に見えたといいます。その大尉 が戸を蹴破り、部隊を率い旅館に乱入し、閑 静な湯の里の朝は沈黙から騒動に変わりました。 場所は湯河原温泉、伊藤屋旅館の貸別荘光風荘、 湯の里での2・26事件でありました。その事件 のエピソードの一齣。「止まれ!」河野大尉は 男を制す。「君は何だ?」「俺は消防団だ。君 こそ何だ?」「我々は国家の革新の為にやるの だ。邪魔されては困る」「邪魔をするしない じゃない。民家に火をつけるって法はないん じゃないか。近所に延焼したらどうするんだ」 押問答。「そ りゃすまん」 大尉は一言云 った。この消 防団員こそ、 岩本亀三氏で あり、その勇 敢さで、知事 等の感謝に浴 しました。

昭和十一年の或る雪の朝

(2・26事件秘話)

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

「湯河原のはなし 其の二」より 湯13

(15)

箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  内務省警保局「昭和11年中に於ける社会運 動の状況」から抜粋。 □目標;牧野元内府(神 奈川県足柄下郡湯河原町橋上六二〇伊藤屋旅 館貸別荘) □時刻;自午前五時四十分頃至 同六時二十分頃 □指揮者;所沢航、河野大 尉 □兵員;指揮者共六(八)名 □被害; 巡査皆川義孝(即死)(略)岩本亀三(銃創) (略)別荘一棟焼失損害約六千円 □状況; 自動車二台機関銃二基を持して襲撃し同別荘 に放火す。  感謝状  岩本亀三  昭和十一年二月二十六日払暁県下湯河原二 於テ元内大臣伯爵牧野伸顕宿舎ヲ叛乱部隊ガ 襲撃シタル事変二際シ克ク同伯等ノ救護二努 メタルニ付金壱封ヲ賞与ス  昭和十一年三月十三日  神奈川県知事従四位勲三等 石田馨  記録の抜粋から、往時の事件の凄まじさや、 地元の救護の活躍ぶりが窺えます。

2・26事件の記録から

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

事 件 当 時 の 光 風

(16)

「帝展審査で上京しての帰途、瓢然とあこが れの湯の町に来てみた。その湯河原の第一歩 に足を留めたのが、今日永く滞在している天 野屋である。(略)宿帳には竹内恒吉と書いた。 暫くして、宿のお上さんが現れて「貴方は栖 鳳さんと違ひますか」と正体を見破られてし まった。(略)「絵の方では栖鳳といひます」 と素直に白状すると、それから宿の待遇が俄 然一変して、部屋を立派な大広間に移されて しまった。立派な床の間、庭には噴水が仕掛 けてあると云った具合、この天野屋第一の上 等の座敷らしい。然し、上等の部屋は、天野 屋に限らず何処の宿屋にも一つ二つは必ず在 るもの、庭の噴水などは却って目障りで、耳 に騒々しい」(「栖鳳芸談」、雑誌「翠彩」 から抜粋)。  ともあれ、こうした一齣から、栖鳳は天野 屋に画室を構え、これがゆかり(縁)となり、 その作品を飾る美術館が誕生しました。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

「湯河原ゆかりの美術館」の由来の一齣

美 を 感 じ る     E n jo y T ra il

歴史の道

湯 ○15

(17)

 塞の神は、「さいのかみ」、「どうそじん」、 「ふなどのかみ」とも呼ばれ、通行人を守り、 邪神や悪疫が村に入って来るのを、遮り止め る神さまと言われています。昔の子供たちは 六年生が親方となり子供の仲間をつくり、11 月14日と1月14日の年2回塞の神の祭りを子 供の行事として行ないました。  戦前、湯河原の鍛冶屋には向(むかい)に 一軒、森下(もした)に一軒これら行事を世 話する家があり、子供の宿と呼ばれていました。 11月14日には、醤油で味を付けたむすびとう ずわ(ソウダガツオ)という塩辛い焼き魚を ほぐし、まぶしたむすびを食べ、村人にもお 裾分けしたということです。このむすびには 収穫の喜び、豊作への感謝、病気に罹らずす こやかに育つ願いがこめられていたそうです。 厳冬、パンツ1枚姿の童が新崎川(にいさき かわ)の河原から拾った石を供えた百遍まい りも、いまは懐かしい原風景です。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

塞(さえ)の神の祭り

昔 語 り         E n jo y T ra il

里の道

(18)

 石橋山合戦に敗れ、源頼朝主従七騎は土肥 椙山(すぎやま)の山中(現寺屋敷跡)に難 を逃れました。これを僧純海は主従を堂内の 穴に匿い身を挺して救います。大庭景親の軍 勢堂内に押し入り頼朝の行方を追求するも、 純海これに頑と応えず、責め折檻の末、遂に 絶命。大庭方、引き上げざるを得なかったと 云います。暮れ近く、穴から出た頼朝が純海 の無残な姿にはらはら涙を流すと、不思議や、 涙、純海の唇を濡らし、上人蘇生。かくの如 く奇跡を経て、主従七騎は房州に逃れ鎌倉で 天下(政権)取り。晴れて純海の忠誠に報い るため、頼朝は寺領を与え堂宇を建立「小道 山来潮寺(しょうどうざんらいちょうじ)(小道山頼朝寺)」 の称を贈ったと伝えられています。来潮寺の 謂いは吉浜海岸に塩田を与えたとも云われて いて、この方が説得力あります。堂は火災で 焼失し仔細は歴史の彼方。が、信仰(小道地 蔵再建)はいまも残りその消息を伝えています。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

頼朝と純海 

一民話と名作の語り読みから一

昔 語 り         E n jo y T ra il

海の道

湯 ○17

(19)

 貞享三年(1688年)の福浦(現湯河原町) 明細帳に「蜜柑の木大小八本、内四本苗木」 という記載があり、地域こそ不明ですが、稲 葉氏の時代に将軍献上用の蜜柑を買い上げて いる記事があり、相模国に蜜柑の木が生育し ていたことがこれで証明されます。また、嘉 永七年(1854年)には644個の蜜柑を、一個二 文で、「御献上ならびに御配り御用として差上」 とあり、相模国では最も西南に位置していた 当地方が、この時期に藩の蜜柑御用を勤めて いたという事実がうかがわれます。このよう に湯河原のみかんの歴史は思っていたより古 いことが判り、驚きです。現在栽培されいる 蜜柑の品種は、青島温州、大津4号、宮本早生、 ポンカン、ニューサマーオレンジ(日向夏)、清見、 甘夏柑、ネーブルオレンジ、レモン、ゴールデンオ レンジ(黄金柑)など数十種に及び、大津4号な ど当地で開発された蜜柑の代表選手は、食味 は濃厚で風味があり、現在人の嗜好にことに むいているようです。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原のみかんの歴史と栽培種

自 然 満 喫       E n jo y T ra il

里の道

(20)

 湯河原温泉では、6月上旬に「ほたるの宴・ 花菖蒲展」を開催します。万葉公園で飛ぶホ タルは、幼虫の間を「ほたる小屋」で過ごし たゲンジボタルです。3月上旬に湯河原小学 校の2年生に終齢幼虫の観察をかねて、公園 の花木園に放流して貰っています。放流後は、 ホタルが自力で蛹化・羽化した自然発生の乱 舞を観賞できます。  平成10年、湯河原町は「ほたるの里」宣言 をしました。新崎川・藤木川・千歳川には自 生のゲンジボタルが飛びかい、町民や観光客 を楽しませてくれます。特に10年は、まるで イルミネーションを見ているような大発生。 11年は、前年の台風の影響で餌のカワニナが 流されたのか発生減でしたが、カワニナの稚 貝が増えていますので、今後は大いに期待で きます。カワニナの増加は川へ流れる温泉に も影響がありそうです。ともあれ幻想の光の 乱舞をご照覧あれ。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原温泉のゲンジボタル

自然 満 喫       E n jo y T ra il

里の道

湯 ○19

(21)

 江戸時代後期、文化14年(1817)のこと。 紀州(和歌山県)の熊野本宮を行司として相 撲番付を模しての「温泉番付」なるものが作 製されていました。このたび、草津温泉在住 の方から好意により、その番付が町に寄贈さ れました。  この番付は、熊野本宮が、古来、温泉の神 様とされ、江戸時代は伊勢詣り、熊野詣りが 盛んだったことから、熊野本宮之湯を立行司 にみたて作製されたようです。  これによると、湯河原温泉は「豆州湯小原湯」 として東の小結に位置付けられています。番 付の最高位が当時の相撲の最高位大関までで 横綱という位がない時代のことですから、小 結は立派なものです。  補足しますと、「江戸より二十四里、切り 傷などに効能がある」と記されており、つとに、 全国的にも湯河原の温泉が紹介されていたこ とがうかがわれます。

箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

湯の道

湯河原の温泉③(江戸後期の温泉番付)

ぬっくん のんちゃん

(22)

 「方言」には土の温(ぬく)もりがあり、 人の心を和ます力があります。静岡・伊豆と 同じように、湯河原の方言は「ずらことば」 に尽きるとおもいます。 ▼①そうずら(そうでしょう)▼②行っつら(行 ったでしょう)▼③言っつら(言ったでしょう) ▼④やっつら(やったでしょう)。この場合、 ②∼④を「行ったずら」「やったずら」など、 無理に「ずら」はつけません。  思いつくままに挙げると、▼ひずるしい(ま ぶしい)▼けけろ(載せろ)「荷物を載せろ」 ▼おてんとうさん(太陽)▼やっこい(やわ らかい)▼ひやっこい(冷たい)▼ちゃっち ゃと歩け(早く歩け)▼ゐどころ寝(うたた寝) ▼うざらっこい(気味悪い)「あの人はネチ ネチしてうざらっこい」▼ざっぱく(粗雑) など、いかがですか。言葉に懐かしい土の匂 いがしてきませんか。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原の方言(一部)

昔語 り        En jo y T ra il

里の道

湯 ○21

(23)

 湯河原町文化協会の機関誌「文林」から借 用し「吉浜音頭」のなれそめを紹介します。 ハア 入江吉浜ヨ 相模の花ヨ  踊りやほんのり ヨサヨイヨイ  おらが心の 色に咲くヨ  ヤアンレ ヨサヨイノヨイヨイ(リフレン) (囃子) ハア 沖じや燃えますヨ 三原の噴煙(けむり)  ままよ黒潮 ヨサヨイヨイ  今朝も大漁の 地曳網ヨ(囃子同然)  今日も歌い継がれてつがれているこの音頭、 作詞は川堀の故岩本助太郎氏です。12章から なる詩は、往時の吉浜の人情・風物・歴史が ふるさとへの深い愛情で綴られています。昭 和10年、作者若干28歳の作です。作曲は中山 晋平の友人、石塚寛。作曲の前年、氏は吉浜 を訪れており、このことが作曲のイメージを 膨らませたとのエピソードもあり、発表の日(昭 和10年8月7・8日の「吉浜音頭発表と映画 のタ」)は吉浜劇場で盛大に催されたといい ます。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

吉浜音頭の話(文林第8号から)

昔 語 り        En jo y T ra il

海の道

(24)

 万病に効く湯河原の温泉を将軍家に献上した故 事にならい、現在は温泉を祀った熊野神社例大祭 の宵宮に行っているのが『湯かけまつり』です。湯 河原町の3つの神輿会『湯河原睦』『巽』『素鵞会』 の協力の元に行われます。神奈川県はもとより近隣 から3神輿会の友好団体の担ぎ手が、3基の神輿を 渡御します。それに花を添えるのが湯河原の綺麗ど ころが担ぐ『芸者神輿』と、100人の女性だけで担ぐ 『体験神輿』です。この5基の神輿に、観光客が沿 道の樽に用意された温泉を威勢よくかけるという全 国的にも珍しい祭りです。神輿愛好者にも知れ渡っ た今、体験ツアーの参加者は関西方面からも担ぎ にやって来ます。この祭りのもう一つの楽しみは、沿 道で温泉をかける人々も共に楽しめることです。宿 泊先の旅館でもこの日は着替えの浴衣を用意してく れます。この楽しい祭りの裏方として、商工会や旅 館組合の青年部員、役場公営企業課の職員など の協力により、2千個の樽に5時間をかけて温泉を 溜める大変な作業があることも忘れてはなりません。 黄色のケロリンの桶も名脇役ですよ。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯かけまつり

楽 し む ・ く つ ろ ぐ E n jo y T ra il

里の道

湯 ○23

(25)

 『観光朝市』は毎週日曜日の早朝(6時30分より)、 観光会館前広場で15年以上も荒天以外休みなく 開かれている朝市です。初めの頃は、みかんなどの 柑橘類や野菜、干物、漬物などの地場産品が並べ られていましたが、少しずつ参加者が増え、旅館関 係者もイチオシの酒蒸しまんじゅうは早く行かないと 売り切れてしまいます。たくさんの品物がお手頃値 段で、食材は本当に美味しいこと請け合いです。現 在は魚介類、生花、衣料や竹細工等も並んでいます。 近くの旅館の宿泊客には早朝散歩と共にお薦めです。  この朝市が9時に終わると、『一畳市』が始まります。 朝市から続けて出展している参加者もいますが、温 泉場商店街も自店の店頭に畳一畳の台の上にお 薦め品を並べてさしずめ、観光客にとっては、お土産 通りと言った所です。湯河原温泉グッズもたくさんあ ります。旅館をチェックアウトした宿泊客が『ゆかりの 美術館』を見た後に、温泉場や万葉公園を散歩し ながらこの『一畳市』を楽しめる散策コースがお薦 めです。道中に『ぶらり見付た館』『いいとき館』な どもあります。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

観光朝市と一畳市

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里の道

一 畳

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 毎年11月10日、吉浜の本町通り(町道吉浜 旧県道吉浜西線)に市がたつ。吉浜稲荷神社 の11月9日の例祭に因んで農機具類を主に毎 年翌日に市が催しとなったと云われています。 稲荷の起源は古く、約800年前、元暦元年 (1184)の創立。祭神は宇迦之御魂神(うかのみた まのかみ)。素戔鳴尊(すさのおのみこと)の子、幼名保 食神(うけもちのかみ)。名が示すとおり、食物の研 究に熱心で、粟、稲、稗、麦、大豆、小豆な ど穀物、雑穀類を栽培、これを糧にしていた と云われる。この神は、死してなお五殻の種 子を残したことから稲の精霊とも云われます。 主役の農機具類は最近とみに見かけぬが、テ キ屋などの露天商の中に混じって季節の「ぬ き柿」が八百屋の店頭に並ぶなど、いまでも 五穀の神の面影が偲べます。最近の異常気象 の影響でここ数年は暖冬ぎみだが、昔は市の たつ日は必ず「稲荷風」が吹き荒れる寒い宵 の市でありました。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

吉浜の風物詩

−稲荷風(いなりかぜ)−

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里の道

湯 ○25

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 言い伝えで詳細に付いては分かりませんが、 知っている事だけを記載します。  鎌倉時代の前期、伊豆の国伊東四郎(鎌倉 幕府をひらいた源頼朝の妻北条政子を巡って の恋敵、今の伊東市に館を構えていた。)の 軍勢が土肥の郷(今の湯河原町)土肥実平の 館(今の湯河原駅付近にあった)を攻めに来 ました。  伊豆山神社を通って山の尾根伝いに進軍し てきた四郎軍は、土肥の館の見える地蔵さん の所まで来て城山を見ると、山の中腹から白 く光りながら水が流れているのが見えました。 それまでの情報では土肥の館には水が無いか ら回りを囲んで水を運ぶ道を絶てばすぐに土 肥実平の館は落ちると聞いていた伊東四郎は、 当てが外れその地蔵様の所から土肥の館を見 下ろし見返りながら帰路についたといわれて います。  実は、白く光りながら水が流れている様に 見えたのは、土肥実平が伊東四郎が攻め込ん で来るのを事前に察知して、山の上に伊東軍 の旗印が見えた時支度してあった白米を山の 中腹からこぼして水が流れているように見せ かけ、水には困って居ないと伊東軍に攻める 気を無くさせるという作戦だったのです。  結局、伊東四郎は土肥実平を攻める事無く 見返り見返り、地蔵様の所から帰っていった と言い伝えられています。

見返り地蔵のいわれについて

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

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昔 語 り         E n jo y T ra il  「手洗沢」より更に山の中腹尾根を北西へ 1500m位奥へ進むと、大きなカンパとヤシャ の大木が繁り、昼尚暗く、此処は四方からは 見えず、追手の全容が見渡せる所で今でもこ の一帯を「大カンパ」と呼んでいます。  源頼朝主従7騎は、この「大カンパ」で土 肥の大椙への逃走経路の作戦会議を練ったと 云い伝えられています。大カンパより「穴口」 「大石の平」へ下り、新崎川の上流をたどる のが1番の早道でしたが、其処は鍛冶屋の山 奥に当り、鉄鉱石の採掘、素金等をやってい る大勢の人達に見つかる危険があり、その他 の道は断崖絶壁で歩行も困難でした。そこで 強羅の東の端にある弾正河原の中間に、当時 白銀山の貴金属の採掘場の一つ目の洞、二つ 目の洞があり、其の洞のすぐ上に強い季節風 で熊笹や草木が低く繁り、通り易く、洞の人 夫達や追手からも見えない、土肥の大椙に通 じる尾根を選びました。この大カンパ作戦は 土肥実平が考えたと云い伝えられています。

大カンパの作戦会議

湯 ○27 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

歴史の道

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

 幕山の裾に在る「自鑑水」より北側すぐ下 の広い窪地は「大多賀窪」と呼ばれています。  源頼朝主従7騎は「堀口の戦い」に敗れ大 庭景親等の追手より逃れて、土肥実平の道案 内でこの大多賀窪に逃げ込みました。ところ がこの窪地にはススキが生い茂っていて、そ のススキの穂が頼朝の目を突き、激痛に悩ま され、そこで詠んだ1句「大多賀窪の鬼スス キ丈になりても穂は咲かず」は、頼朝の目を 突く様な大多賀窪の鬼ススキは、1丈(3.3m) になっても、穂は咲かせてはならぬという意 味の歌と云い伝えられています。以来800年余 り経た現在でも、大多賀窪のススキは「頼朝 様の戒め」により穂の数が非常に少ないと云 い伝えられています。このススキは、5月よ り9月末の5ケ月間良く生い茂り、牛馬の飼 料として草刈り場に最適地でした。しかし現 在牛馬も必要なくなり、草刈りはやらなくな りました。

大多賀窪

お お た が く ぼ

(大段窪)の鬼ススキ

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

湯 ○29  鍛冶屋の瑞応寺から北へ約50mの処に、大 きな椎の木が1本そびえ立っています。この 辺りは昔「陣場の沢」と呼ばれ、昼尚暗き椎 の木林があったと云い伝えられています。  「石橋山の合戦」に大敗した源頼朝の軍勢 が追手の大庭景親の大軍と激戦した「堀口の戦」 の戦場はこの沢から少し南西に下った波打際 の湿地帯でした。戦には騎馬は使えず、この 沢は馬草も水も十分あり、ここの住民は陣馬 の面倒を見てくれる事が、土肥の郷主で時の 作戦参謀土肥実平には解っていました。そこ で乗ってきた馬(約50騎)を椎ノ木林に隠し 放しました。この戦にも破れ、房州へ逃れる途、 陣馬の沢を避けたのは、飼い主の気配で馬が 嘶き、敵に覚られるのを恐れたからだと云い 伝えられていました。以来この沢は「陣馬の沢」 と呼ばれるようになりました。しかしこの地 名は俗称で正式名は「椎ノ木沢」で、「堀口 の戦」にゆかりの「陣馬の沢」の地名を知る 人が鍛冶屋にも数少なくなってしまいました。

陣馬の沢(鍛冶屋の歴史より)

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

 観光会館裏手に拡がる万葉公園の前身が、 製陶王国を築いた大倉孫兵衛の別荘であっ たことは意外と知られていません。日露戦 争の傷痍軍人の保養所に指定されてから、 以来、「養生園」と呼ばれ親しまれていま した。  この養生園を利用した最も著名な人は、 ロシアのバルチック艦隊を破ったのちの元 帥東郷平八郎です。かつての養生園には、 彼の漢文の石碑が残り、いまも往時の養生 園の姿を彷彿と蘇らせます。  その冒頭の一文(仮名まじり文に直した 文章)を引用し、往時を振り返ってみます。  「壬子(じんし)(大正元年)の晩秋、余、 痾(やまい)を湯河原に養う。毎(つね)に霊 泉に浴し、 (つえ)を養生園に曳く。精気 を呼吸し、逍遥自適。心舒(ゆる)やかにして、 体気益(ますます)荘なるを覚ゆるなり(略)」 (砂川幸雄著「製陶王国をきずいた父と子」)  この意思を継ぐように、万葉公園の草木 が四季を彩る社の中に、足湯「独歩の湯」 がオープン し、癒しの 場を与えて くれていま す。

万葉公園の前身・大倉別荘のこと

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  四季彩(しきさい)のまち湯河原町で定めた各 地区の花木・草花名をご紹介します。街角や 生垣や庭を彩る四季の移り変わりをお楽しみ ください。 奥湯河原【藤(ふじ)】花期4月∼6月。紫色 に咲く多年草、筒状花は黄色のツル性花木。 温泉場【紫陽花(あじさい)】花期6月∼8月。 落葉低木で、球状の青紫の花房をつける。 宮上【桜草(さくらそう)】花期4月∼5月。観賞 用に栽培される多年草。 宮下【水仙(すいせん)】花期12月∼1月。横 向きに咲く多年草〈球根〉。 城堀【千両(せんりょう)】11月∼2月。半陰の 庭や畑に栽培される常緑低木で実をつける。 門川【紅花(べにばな)】花期7月∼8月。末 摘花とも呼ばれ、夏、薊(あざみ)に似た紅黄色 の花を咲かせる一年草。 中央【梅花空木(ばいかうつぎ)】花期5月∼7 月。落葉低木で、梅に似た白い花が咲く。 鍛冶屋【梅】花期2月。甘い香りのする落葉 高木。 吉浜【どうだんつつじ】花期5月。庭木とし て植える落葉花木。 川堀【さつき】花期5月∼6月。常緑低木で 多くの園芸品種がある。 福浦【アガパンサス】花期7月∼8月。長い 花茎の先に、爽やかな紫色の小花が数十個 着く。

湯河原町を彩る地区の花木・草花

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里の道

湯 ○31

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  万葉公園の洞門をくぐって、独歩の湯へ向 かう散策路の途中に高札の文学碑があります。 引用し、往時の湯のまちの俤(おもかげ)を偲び ます。  湯河原の俳句 (大正一五・二・八日 中西旅館から片山広 子宛書簡) 道ばたの墓なつかしや冬の梅  芥川竜之介  小説家芥川竜之介(一八九二から一九二七) は繊細な感覚、緻密な文章で、「羅生門」「地 獄変」「河童」など数々の短編を書き、芥川 賞は新進作家の登竜門。湯河原温泉中西には 吉浜の人力石平蔵の仲介で度々訪れ、力石の 体験を材として「トロッコ」「一塊の土」な ども書く。  俳諧を好み俳号は我鬼(がき)、生涯の句 数約一千句。右の片山広子は一四歳年長の美 貌な未亡人で歌人。軽井沢で知り合い恋を寄 せた人で、中西滞在中湯河原の道端の景に、 信濃追分での体験を重ね、 静かな慕情をこめた句。 四連の詩「相聞(そうも ん)」、「旋頭歌(せどうか)」 では「越(こ)し人」(二 五)なども同じ恋慕の詩 歌である。 〈石井 茂氏の文。  原文のまま掲載〉

湯河原の俳句から

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歴史の道

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 −芥川龍之介と力石平蔵−  芥川作品の「トロッコ」「百合」「一塊の土」 は湯河原出身であり、芥川文学に傾倒してい た力石平蔵がその素材を提供したことは有名 です。芥川と力石はそれぞれの家に出入りす るほど親密な関係にあったようです。  芥川は神経衰弱の療養として度々、湯河原 中西屋に滞在しました。同じ期間、力石自身 も家を空け中西屋に入り浸っていたといいます。 その翌年の1922年に「トロッコ」「百合」は 発表されました。芥川は1923年にも湯河原に て療養し、翌年「一塊の土」を発表しました。 内容は共に湯河原を舞台とした力石の体験談 です。  力石自身、文人としての腕は確かであり、 芥川が服毒自殺を遂げた同年、「父と子と」 が懸賞小説に入選しています。しかし力石作 品はその一作品に留まり、芥川の死後、力石 平蔵もまた時代からその姿を消しました。  芥川の代表作、「トロッコ」「一塊の土」「百 合」がもし力石平蔵の作品だとしたら?真相 は如何に?

「密室の名作」

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歴史の道

湯 ○33

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 美 を 感 じ る     E n jo y T ra il

海の道

 吉浜海岸の浜辺から眺める海。果てしなく 広がる海原と幾度も打ち寄せる波達は、僕に いつも生きる勇気と希望を与えてくれます。  受験の失敗、家族の病気、親友や恩師の死。 挫折しそうな時、僕は一人海を眺めます。海 は僕の気持ちを知っているのでしょうか、どん な時でも穏やかな表情で静かに慰めてくれます。  全てはちっぽけな事、ちっぽけな存在。僕 自身が今、健康で生きている、生かされてい る理由。全てはこの海が教えてくれました。 どんな悩み事でさえ、打ち寄せる波達が洗い 流し、「思い出」という名の貝殻を残してく れます。  その見えない貝殻を手にした瞬間から、僕 は書き始めます。言葉達はもはや僕の意志と は関係なく原稿用紙の中を踊り始めます。そ れらはきっと湯河原の海や大自然が「僕」と いう個を通して発している言葉だからでしょう。  いくつもの海を越えて、僕は成長し、やが て静かにこの大地へと帰ります。その日まで 僕はこの故郷の海を守り、愛し続けてゆきた いと思います。

「いくつもの海を越えて」

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  湯河原は多くの「恋」の舞台でもあります。  昭和の作家立原正秋は「石楠花」の中で宇 野と千代子の切ない恋を描きました。恐らく 作者自身を表す宇野は、翻訳の仕事の為、一 週間程湯河原の寮に滞在します。同じ時期に 料理学校のアルバイトとして寮に滞在してい た千代子は、夫や子供を持ちながらも、執筆 を続ける宇野の後姿にやがて惹かれて行きます。 二人は烈しい恋に落ち、二人を引き合わせた 紅い石楠花が物語の最後まで深い印象を与え ています。  祝福される恋、一方的な恋、一瞬の恋。湯 河原は古く万葉の時代から恋の舞台に選ばれ ました。万葉集に刻まれた詠み人知らずの報 われない恋の歌も、悠久の時を超えて今、多 くの人々に愛され、湯河原を訪れる恋人達の 笑顔を今日も見守り続けています。  湯河原の石楠花が、切なくも紅く咲き誇る 頃の一瞬の恋。作家立原正秋もまた、決して 報われる事のないその密かな恋を「文学」に 託し、「永遠の恋」へと変えたのでしょう。

「永遠の場所」

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歴史の道

湯 ○35

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  詠み人知らずの歌人から近年の夏目・国木田・ 芥川・島崎に至るまで、この地は多くの文豪 や芸術家に愛され、名作を世に排出してきま した。湯河原には彼等を引き寄せる「見えな い力」が存在するのかも知れません。  彼等文豪や芸術家に共通する点、それは湯 河原を愛しその地において彼等の「代表作」 を産み出している事です。湯河原温泉の発見 年代が未だ不明であり、その発見すら数々の 伝説に彩られている点が、この町の不可思議 な魅力と無限に溢れ出すエネルギーを、彼等 にも静かに感じさせたに違いありません。  私達が存在しない千年後も、この地は今日 と変わる事無く湯煙に包まれ、次の人々に愛 されていることでしょう。文豪が多く集うと いう事実よりも、湯河原という地がそれ自身 を描いてくれる「創作家」を探しているよう です。  湯河原を知った貴方は、既に「文豪」とし ての資格を得たのです。明日の「名作」は「貴 方」によって生み出されるかも知れません。

「文豪達の聖地・湯河原」

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里の道

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山の道

 湯河原のハイキングコースとして幕山、南郷山、 城山、天照山、白雲の滝等が紹介されています。 一つランク上の山として星ケ山と白銀山があ りますが、登山道としての整備はされておら ず登山には精通者の道案内が必要です。  白銀山は箱根外輪山の一峯で今も山頂から 東への縦走路は数キロ歩くことが出来ます。 この道は太閤秀吉が大軍をもって通過した道 で関白道とも太閤道とも呼ばれて来ました。 白銀山から星ケ山を経て真鶴へ下る山道はよ りとも道と呼ばれ、石橋山の合戦に敗れた源 頼朝主従が通ったと言われています。  城山トンネルから湯本へ通じる白銀林道は 沿道ぞいに大杉の森(大杉の茂り)クスノ木 の純林、自害水、星ケ山公園等の見処へ寄り 道しながらの山歩きが楽しめます。短い時間 でウォーキングが楽しめる南郷山山腹の農道 歩きもみかんの花咲く頃に特におすすめです。 絵になる洋上の展望は湯河原の良さです。

湯河原の山とハイキング

星 が 山 よ り 相 模 湾 を 望 む 湯 ○37

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

 石橋山での敗戦から土肥(どひ)の大椙(おおす ぎ)までの逃走径路について、永井路子氏はその著 書「相模のもののふたちー中世史を歩くー」で、「石 橋山の後方の峰を越え、その西側にある箱根外輪 山の聖岳(ひじりだけ)(838m)の南腹に出て、こ こから南に向かって星が山(814m)、幕山(615m) の西麓を通り、吉浜(よしはま)の鍛冶屋川(新崎川) の上流の深谿にいたった」と述べています。  往時の土肥郷(現在の湯河原町)の豪族土肥 次郎実平の逃走手助けの先導とはいえ、敗戦での 重い足取りも加わり、山深い難渋する逃避行であっ たと想定されます。  その幕山の北部、白銀(しろがね)林道を10分ほ ど北へ山奥に下ったところに幅5、6m、長さ7、8mの 窪地があります。雨が降ると、池になり、地元では、 これを自害水(自鏡水)と呼んでいます。頼朝がこ の水を鏡にみたて、乱れた髪を結ったとか、そのやつ れた顔を見て自害をしようとしたと言われています。  いまでは、沼地のようになっていますが、ハイキン グの折り、寄り道をして、森林浴がてら、息抜きをして、 往時の風景を思い起こし眺めてください。

自害水(自鏡水)を覗く

じ が い す い じ か が み み ず 自鏡水

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  早藤巌(はやとういわお)氏の著「わがふるさ と 古老が語る 鍛冶屋」によると、湯河原 の製鉄は、山砂鉄、川砂鉄ではなく、鉄鉱石 によって始められたのではないかと推測され ています。場所は、大石ヶ平(おおいしがだいら) の奥だと述べていますが、関東大震災でその 跡がほとんど埋もれてしまって、いまでは採 掘の名残が見られないのは残念です。  新崎川の上流、大石ヶ平の入り口あたりでは、 清流がいったん土の中にもぐり、湧水のよう に伏流水が湧き出しているところを運がよけ れば見ることができます。この下流では、昔、 金屎(かなくそ)(鉱滓〈こうさい〉)が川底に混じ っていたということから、鍛冶屋の地のいわ れは、この地に、鍛冶屋を職とする、素金(す がね)渡し場や、踏鞴(たたら)を踏む人やその 鉄鉱石を採掘する人が居たことが窺われ、理 に叶った地名と言えるでしょう。  国道135号から幕山へ向け、町道幕山通り線 が走っていますが、JR東海道新幹線の手前、 熱海側に曲がる瑞応寺(ずいおうじ)への途次、 小さな御堂があります。ここは、昔、金山大 明神が、金山彦命が祀られていた金山堂がひ っそり残っています。  これからも、鍛冶屋のいわれが見ることが できると思います。

鍛冶屋のいわれ

昔語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

湯 ○39

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

 県道75号線、主要地方道湯河原箱根仙石原線を 奥湯河原方面湯河原観光会館の先、バス停留所「藤 木橋」のところで、県道からはずれて小さな橋を進行 方面左手に渡ると、少し狭い通りがあります。この通 りは、湯元(ゆもと)通りといい、少し坂を登るとまた県 道藤木橋の橋詰で合流するあまり延長のない道です が、県道の風情とはひと味違う昔の俤(おもかげ)を 残す界隈に驚きます。  合流して、少し先、左手に「湯河原ゆかりの美術館」 があります。  この美術館には、「東の観山、西の栖鳳」と並び 称された竹内栖鳳(たけうちせいほう)画伯の美術品 が多く展示されていますが、この湯元通りが、栖鳳の 愛した京都の風情を思い起こさせる景色だと、ここを「栖 鳳通り」と地元では呼ぶようになりました。  平成11年、湯河原町が全国京都会議で、「小京都」 の栄誉を賜り、「さがみの小京都ゆがわら」としてのま ちづくりを始めています。  湯河原ゆかりの美術館、こごめの湯、万葉公園内 の足湯「独歩の湯」などに立ち寄ったよりは、是非、 この通りにも足を延ばしてください。  栖鳳が散策したと思われる往時の風情に、きっとタ イムトリップしたセピア色の風景を味わえることでしょう。

栖鳳(せいほう)通り

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市 昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

 福浦漁港の船揚場から上手に少し上がった処 に、醍醐院(だいごいん)の寺があり、その隣に子 之神社が厳かに坐っています。  祭神は、大国主命、ご利益は、大国主命と子(ね)、 境内の美女石、子を背負い抱く雄雌の狛犬(こ まいぬ)は、子授け、安産、多産の象徴です。  社殿の文化財は豊富で、伊豆石田半兵衛の 作の彫刻、小連れの竜(正面向拝〈こうはい〉)、 竹内宿禰(たけうちのすくね)に抱かれる応神天 皇に供物を捧げる住吉神(正面欄干の中央)、 仙人の囲碁に見入る樵(きこり)〔右側〕、瓶割 温公(かめわりおんこう)(左側)、関羽と張飛(左 右脇障子の随神像〈ずいじんぞう〉)の他、町指 定文化財の格天井(ごうてんじょう)、花鳥獣魚 図(かちょうじゅうぎょず)などが配置されています。  絵馬では、土肥椙山(どひすぎやま)岩窟の頼 朝と景時の他、漁業・海運に関するものが豊富 に描かれています。  本殿は鞘殿(さやでん)で蔽われ非公開です。  往時に思いを馳せ、是非、立ち寄ってください。   (高橋徳〈たかはしあつし〉氏の研究から)

子之(ねの)神社

湯 ○41

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箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  今から約822年前、我が湯河原(当時土肥郷と 言われていました)の地は、平安時代の末期、関東 八平氏のひとり豪族土肥次郎實平が、今の小田原 周辺までを領地とし、荘園をなしていました。  治承4年8月17日、蛭ヶ小島の頼朝挙兵は、この 實平が一族をあげ、韮山の北條氏とともに戦略、挙 兵、合戦を指揮したものであります。  駅周辺が土肥の館の跡で城願寺(駅裏手300m) は持仏堂でした。伊豆の挙兵後、この館で頼朝以 下300余騎、鎌倉を目指す作戦を練り、軍備を整え 石橋山合戦に出陣したものです。多勢に無勢、不 幸にも源平第一戦に敗れ再度土肥の地に退去、 椙山に逃れました。頼朝は實平の勇武機略深慮遠 謀に助けられ、土肥の椙山の隠潜、真鶴より海上 脱出。僅か4ヶ月後、三万の大軍となり鎌倉入り、幕 府樹立となりました。  日本の歴史の中で、この土肥郷約10日間が中 世の武家政治発祥の機縁になったので、まさに「そ の時歴史が動いた」といえます。その後信長、秀吉、 徳川幕府に連綿と続く歴史を偲んで下さい。(源平 盛衰記、吾妻鏡に詳しく記述されています。)

「郷土史」を知る『土肥の館跡、城願寺』

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

(44)

 千歳(ちとせ)川をはさんで湯河原町と 熱海市泉の中沢(なかざわ)集落の奥、岩 戸(いわと)山の麓に岩殿(いわどの)観 音(岩戸観音とも)があります。  岩戸山は湯河原方面から眺めると富士山 に似ていることから、湯河原富士とも呼ば れています。岩殿観音は昔、この山の中腹 の巨大な岸壁の真下、岩をくり抜いた祠(ほ こら)の中に祀られていました。鎌倉幕府 の正史『吾妻鏡』(あずまかがみ)にも源 頼朝の夫人政子が参拝したり修理供養の式 をあげたりしたことが記されているほど歴 史の古い観音様です。  時代は過ぎて、ある里人がこの遺跡から 一寸八分(約6センチ)の金銅の観音像を発 見し、家に持ち帰ったところ、次々と不幸 に見舞われたため、昭和8年、東京考古学会 副会長沼田頼輔(よりすけ)博士の指導の 下に新しく観音堂を建て、観音様を祀りま した。  現在でも毎年4月第3日曜日の例日には、 泉集落の人々の手で盛大な例祭が行われて います。この日には由緒ある観音様を拝見 することができます。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

頼朝夫人政子が信じた観音様

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

湯 ○43

(45)

 2003年3月3日、湯河原町宮上(みやかみ) に私設の美術館がオープンしました。名づ けて「かぼちゃ美術館」。  予約しておけば、かぼちゃ料理も食べさ せていただけるます。  館長の桑田真菅(くわたますげ)氏の蒐 集された作品群はすべて草間彌生(くさま やよい)氏作のもので占められており、そ の愛着のほどが、アットホームな2階館内に 満ち溢れています。  草間氏の作品には、もちろん「かぼちゃ」 以外にも、個性的な銀色インスタレーショ ン等いろいろあるのですが、ここに集めら れたのは不思議な水玉模様が描き込まれた「か ぼちゃ」をモチーフとしたものばかりで、 その一枚一枚をじっくり見つめていますと、 小さな粒々が何か有機的な「穴」のように 思われてきて、つとそこから草間ワールド に吸い込まれていくような気さえします。 興味を持たれた方は、桑田館長にお願いす れば、他の秘蔵品も見せていただけるそう です。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

かぼちゃ美術館

その1

美 を 感 じ る     E n jo y T ra il

里の道

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 1999年4月から7月にかけて、東京都現代 美術館で開催された草間彌生展を拝見して 以来、私の頭の中には草間さんの描く水玉 模様が浮いたり沈んだりして、いまも消え ないでいるのですが、その不思議なアート が湯河原町宮上の地に「かぼちゃ美術館」 としてオープン。  美術蒐集されたのは東京でイベント会社 を経営している桑田真菅氏で、ご自宅の一 部を美術館に改装されたということです。  陽当たりの良い2階の館内の壁面すべてが、 一見デザイン風の「かぼちゃ」で占められ ているのですが、大小の水玉模様がことご とくそのかぼちゃたちの上に描きこまれて いて、見る者の深層意識に触れてくる何か があるようです。現代美術はよくわからな いという方も気軽に出向いていかれて、し ばし草間マジックを楽しまれてはいかがで しょう。 料金/大人500円高校生以下300円 営業時間/10時から17時 休館日/毎火・水曜日(祝日の場合翌日) 場所/湯河原町宮上97の2 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

かぼちゃ美術館

その2

美 を 感 じ る     E n jo y T ra il

里の道

湯 ○45

(47)

 鍛冶屋(かじや)の新崎川(にいさきがわ)に 架かる橋、宮ノ入(みやのいり)橋を真鶴寄りに 渡ると五郎(ごろう)神社があります。その手前に 丁の字の幕山に向かう交差点があります。黒石(く ろいし)農道です。神社を通りすぎた幕山への道 は黄金松(こがねまつ)農道です。「梅の宴」に 寄った帰りにでも、徒歩で、是非、黒石農道・黄金 松農道経由でのお帰りをお薦めします。この農 道沿いには、みかん農地がいまでも残されており、 苔むした石垣に囲まれた農地を見ることができます。  野石(のいし)や樵石(こりいし)の大小の石を きれいに積んだ石垣や同じ形状の石を積んだ石 垣など、さまざまな石垣を見ることができます。  石積みの名前を覚える必要はありません。いろ いろの工法を駆使した石垣の違いを目で確かめ、 愉しんで下さい。  石垣の工法を詳しく知りたい方は、田淵実夫(た ぶちじつお)著「石垣」を参考に。  そこでは、【「野石」は山野に転がっている自然 石のこと、「天石(てんせき)」とも言い、石工仲 間では凸凹して角張ったものを「野角(のがく)」、 丸味のあるものを「呉呂太(ごろた)」や、やや扁 平で長めのものを「野板(のいた)」とよんでいる。 「樵石」は野石に対して岩盤もしくは岩塊として ある自然石を、大割小割したものの総称で、中に「野 面石(のづらいし)」と「切石(きりいし)」がある。】 と記してあります。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

黒石農道

昔 語 り         E n jo y T ra il

山の道

(48)

箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市  湯河原駅から温泉場行きのバスに乗り、「落 合橋」下車。藤木川に架かる橋を渡ると、旅 館「翠明館」の前に出ます。ゆるくカーブし た道なりに中沢方面へ真っ直ぐ行き、道端の 道祖神だのゆったりとした山並を眺めたりし て15分ばかり歩くと「南湯河原」の停留所が あります。そして道の左側の石段を登りきる といきなり視界が開けて、あっと息を呑みます。  公孫樹並木がその果てを三角形の頂点にし て煌(きら)めく彩りで続いています。舗道 にも鳥の形をした葉が一面散り敷いていて、 辺りは黄一色の景観です。浅葱(あさぎ)の 空からさす陽の光を浴びると、木々は一層の 明るさを増してかすかに揺れています。  ひっそりした別荘地には人影もなく、正面 に百本余、左右に 分 か れ た 通 り に も、それぞれ六十 本ほどの公孫並木 が望まれます。  ここは地元の人 にもあまり知られ ていない別天地で す。勿論、新緑の 季節も言うまでも ありません。

南湯河原の

公孫樹

並木

昔 語 り         E n jo y T ra il

里の道

いちょう 湯 ○47

(49)

 湯河原が「湯河原(ゆがわら)」と呼ばれ る以前、このあたりは「土肥(どひ)」と呼 ばれていました。  太古の昔、箱根火山と熱海火山の狭い裾合で、 単独の湯河原火山が爆発しました。その火口 を破って流れる藤木川が千歳川に合流するあ たりにいわゆる“土肥の河内(かふち)”を 作りそこに豊富な温泉が湧き出します。  この「土肥の湯」が「湯河原温泉」と呼ば れるようになったのは、江戸時代中期以降の ことです。元来“湯河原”は“土肥宮上村”の 一部の小字名であったのですが、上記の温泉 涌出の中心地がその“湯河原”であったため、 後には広くこの温泉場の名称となりました。  幕末の頃は自噴するものを石で囲んだだけ の露天風呂でした。日清戦争の頃、旅館はわ ずか八軒でしたが、日清・日露両役に陸軍療 養所が設置され、多数の傷病兵が治療したこ とで「湯河原温泉」の名は世間に広まりました。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

土肥の河内の出で湯

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

(50)

 昭和11年(1936)2月26日大雪の早朝、昭和史 上稀にみる大事件が勃発した。いわゆる2・26 事件で、昭和維新の目ざし国家改造を求める 陸軍青年将校の率いる兵、1,400余名がかかわり、 首都東京では政府要人、護衛巡査等多数の犠 牲者が出たが、国内唯一の地方事件現場とな ったこの光風荘には、前内大臣、牧野伯爵(吉 田茂元首相岳父)一家が静養中を河野大尉の率 いる別動隊7名による襲撃を受けたものの、当 時の温泉場消防団長岩本亀三他消防団員の活 躍により牧野氏一家は辛くも難を逃れること ができた。しかし牧野氏護衛の皆川巡査と河 野大尉の交戦により、皆川巡査は銃弾に倒れ、 河野大尉も重症、付添看護婦森すゞゑ、この 歴史的大事件の現場を後世に正しく伝えるため、 光風荘を保存、事件に関する遺品その他重要 資料約100点を展示し土、日、祝祭日に限り公 開している。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

光風荘(2・26事件邸)

昔 語 り         E n jo y T ra il

歴史の道

湯 ○49

(51)

 理想郷(りそうきょう)の入口から急坂を 上り、右手の天神社の前をさらに少し上ると、 左手に小さなお堂が有ります。庚申塚(こう しんづか)と呼ばれるもので、堂内には「宮 上村講仲間施主謹白 奉造立庚申供養塔 元 文(げんぶん)五庚申年(注、1740年)正月 十八日」と刻まれた石碑が立っています。今 では廃(す)たれてしまった庚申信仰の名残 りを示す石塔です。  庚申信仰は、60日に一度めぐってくる干支(か んし)の庚申の日の夜は、人の体内の三尸(さ んし)の虫が人の眠るのを見すまして天に昇り、 天帝にその人の悪事を報告するため、短命に 成ってしまう。そのため人は寝ないで行(ぎ ょう)をしなければならないという信仰です。 この信仰は江戸時代には村落社会の講組織と 結びついて各地に広まりました。信仰行事を 年6回、3年連続して行うと、供養のために庚 申搭を建てることができたので、庚申搭があ る地域は、それだけこの信仰行事が盛んだっ たことを示しています。なお、石碑の下に刻 まれている猿は庚申講の本尊の青面金剛(し ょうめんこんごう)の従者とされています。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

260年の歴史を伝える

庚申搭

昔 語 り         E n jo y T ra ill

里の道

こう しん とう

(52)

 ふれあい農園は、町民が野菜・花等を栽培する ことにより、自然とふれあい、農業に対する理解を 深めることが主旨です。また、季節ごとのその収穫 の喜びを味わい、無農薬の新鮮野菜を家庭の食 卓に運ぶことにも役立っています。  この農園は、湯河原町がミカン畑等の有閑地を 町民に斡旋し、一借受者につき一区画30㎡を貸 し付けしています。現在吉浜地区の北側6箇所、 貸付計184区画、合計5500㎡にわたっています。  農園では、四季を通じて、各自が思いおもいに計 画を立て、初めて鍬を持ったひとも隣りのひとに聞 いたり、また、見よう見真似で栽培を愉しんでいます。  ときには、猿、猪などの動物からせっかく丹精した 野菜が被害を受けることもあります。  けれど、運がよければ、すぐ身近に野生の雉に遭 遇して、その色合いの美しさに感激することもでき ます。  一服して、太陽に耀く相模湾、そこに浮かぶ大島、 初島を眺めながら、おいしい空気を精一杯味わう 気分は最高です。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

ふれあい農園

自 然 満 喫       E n jo y T ra il

里の道

湯 ○51

(53)

城願寺のビャクシン  城願寺の山門をくぐって参道を登りきると、 右側に大木が眼に飛び込んできます。「かな がわの名木100選」に選定されたビャクシン。 和名、イブキ。ヒノキ科。土肥実平(どいさ ねひら)の手植えともいわれる幹のねじれが 著しく太く なっている 古木の巨樹 です。 五所神社のクスノキ  JR湯河原駅の改札を出て、ロータリーの 前の県道を右側へ温泉場方面へたどり、東海 道本線、新幹線のガードをくぐると、右側に 五所神社の風景が見えてきます。  境内の巨木が「かながわの名木100選」に選 定されたクスノキ。  「湯河原町指定文化財史蹟」と銘打った巨 木が「明神の楠」のクスノキです。このクス ノキは、根回り15メートルほど。樹齢800年以 上といわれています。  いずれの巨樹も、源頼朝ゆかりの古木。湯 河原駅から左右にわかれますが、どちらも徒 歩で10から20分ほどの処に位置しています。 湯河原訪れの折は、是非、散策がてらのご鑑 賞をお薦めします。 箱根町 湯河原町 真鶴町 熱海市

湯河原町の巨木

自 然 満 喫       E n jo y T ra il

里の道

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