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今,ジャワの寺廟で何が起こっているか

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今,ジャワの寺廟で何が起こっているか

ポスト・スハルト期インドネシアの国家,宗教,華人コミュニティ

津 田 浩 司

(日本学術振興会)

What is Going on around Chinese Temples in Contemporary Java?

State, Religions, Chinese Communities in Post-Soeharto Indonesia

Tsuda, Koji

Japan Society for the Promotion of Science

Since the fall of Soeharto’s New Order in 1998, Indonesia has experienced political and social changes. It has been a decade of great change for ethnic Chinese living in this country, too. Contrary to the Soeharto’s regime in which anything related to China or ethnic-Chinese were oppressed both implicitly and explicitly, the post-Soeharto governments have made effort to do away with anti-Chinese policy. is change in policy has aroused the social atmo-sphere where everyone can enjoy “Chinese Culture” which the former regime strictly prohibited people from expressing in public space; now, Chinese New Year is celebrated offi cially.

Along with shopping malls and executive hotels, it is Chinese temples (klenteng) which have become the center of celebration during this festive gg

New Year’s period. Though these Chinese traditional worship facilities had largely been marginalized during Soeharto’s era and their activities had been restrained greatly, it seems that they are getting livelier and livelier following the general liberalizing policy regarding “Chinese Culture” mentioned above.

Keywords: Chinese temples, Java, Post-Soeharto era, ethnic-Chinese community,

state and religion

キーワード : 寺廟,ジャワ,ポスト・スハルト期,華人コミュニティ,国家と宗教

* 本稿執筆のためのデータは,2009 年 1 月 25 日∼ 2 月 15 日にジャワ島を横断して行なった調査旅行 によって得られたものである。同調査旅行は,日程の大半の期間を工藤裕子氏(東京大学大学院)と, また日程前半を小池まり子氏(東京外国語大学大学院),日程後半を北村由美氏(京都大学東南アジ ア研究所)と共同で企画・実施した。なお,1980 年代末を中心にジャワ島内の寺廟の大半を巡り, 扁額や石碑などに刻まれた碑文を網羅的に紹介したものとして Salmon & Siu[1997]がある。本調 査旅行においても同書を重要な指針として活用し,また行程中の 2 日間は,Myra Sidharta 氏とと もに中・西ジャワを調査旅中であった Claudine Salmon 氏本人と一部同道し,様々なご教示を受け た。本稿執筆にあたっては,永渕康之氏(名古屋工業大学大学院),ならびに貞好康志氏(神戸大学 大学院)に,草稿の段階から丁寧に御指導をいただいた。また,2009 年 7 月には第 61 回現代人類 学研究会(於:東京大学駒場キャンパス)において本稿を発表する機会を与えられ,相沢伸広氏(ア ジア経済研究所),中田有紀氏(東洋大学)をはじめ参加者各位から貴重なコメントをいただいた。 ここにお礼申し上げる。

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1. はじめに 1998 年にスハルト新秩序体制が崩壊した インドネシアでは,その後「レフォルマシ」 (reformasi:改革)の呼び声のもと,政治的・ 社会的にさまざまな変化が生じている。この 国に暮らす華人系住民(以下「華人」1))に とっても,この 10 年は大きな変化の 10 年 であった。1965 年の 9 月 30 日事件を機に誕 生したスハルト体制が,一般に中国や華人に まつわるものに対して極度に警戒的・抑圧的 であったのに対し2) ,98 年 5 月のジャカルタ 暴動3)を経て成立したその後の諸政権は,同 暴動後国外に流出したいわゆる華人マネーを 呼び戻そうとの思惑4) ,ならびに人権意識と en, what on earth is going on and what sort of change is taking place around Chinese temples in Indonesia after 10 years of post-Soeharto era? What kind of problems are they facing?

To investigate these issues, the author and 3 other researchers executed a fi eld trip during Chinese New Year’s period of 2009, visiting about 30 Chinese temples located in East Java Province and the northern coastal area of Cen-tral Java Province. Based on the result of this fi eld trip, this paper will argue several up-to-date topics concerning Chinese temples in post-Soeharto Java, which will further reveal the nation-wide situation in Indonesia. Also, this paper will explore the complicated relationships among the Indonesian state, religions—especially “Chinese religions” such as Buddhism, Confucianism and Taoism—and Chinese local communities surrounding the temples.

1. はじめに 2. 祀られている神明 2.1. 中国に由来する神明 2.2. ジャワ特有の神明 3. 寺廟の位置づけをめぐる問題 3.1. 寺廟の宗教的位置づけ 3.2. 寺廟の法的位置づけ 4. 寺廟相互間の交流 4.1. 相互訪問によって取り結ばれる関係性 4.2. 上部組織を介して取り結ばれる関係性 4.3. 神明によって取り結ばれる関係性 5. 寺廟の活動 5.1. 定期的・組織的な宗教礼拝 5.2. その他の活動 ―華人コミュニティ の結節点として 6. おわりに 1)「華人」という語は狭義には,仮住まいの意を含む「華僑」に対し,政治的に現居住国に帰属する ことを示す用語として 20 世紀後半から徐々に使われ出した経緯があるが,本稿では国籍の別など にかかわらず中国系住民を指す語として広義に用いることとする。なお近現代インドネシアにお いては,この「華人」カテゴリーはしばしば,かつての「原住民」カテゴリーである「プリブミ (Pribumi)」と対立的に語られてきた[津田 2008: 19-23]。 2) スハルト政権内部で中国や中国文化,華人系住民に対する政策がどのような過程で策定されたかを 分析したものとしては相沢[2006]を見よ。 3)「5 月の悲劇(Tragedi Mei)」と呼ばれるこの大暴動では,ジャカルタをはじめとする大都市各所 で華人経営の商店が多数略奪・放火されたのみならず,少なからぬ華人女性がレイプ等の被害に 遭ったと言われている。この 5 月暴動を頂点とする 1998 年前後の華人に対する暴力を分析したも のとしては Purdey[2006]を見よ。 4) 1998年の暴動後,スハルトの後任ハビビ大統領がいかに華人マネーを呼び戻すのに腐心したかに ついての素描は Purdey[2006: 174-178]を見よ。

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結びついた国内外からの強い批判の声を受け て,従来の差別的な対華人政策の大幅見直し を迫られ5),徐々にではあるがそれを実行に 移してきたからである。そうした社会環境の 大きな変化を受け,今インドネシアでは,長 らく公共の場で表出することが禁じられてき た「華人文化」を誰もが自由に享受できる空 気が全国的に生じており6),旧正月(Imlek) ともなると町中に赤い提灯などの派手な装飾 や「Gong Xi Fa Cai(恭喜發財)」などといっ た文字が躍るようにもなっている。 この旧正月の期間にショッピングモール や高級ホテルなどと並んで祝祭の中心とな る の は, イ ン ド ネ シ ア 語 で「ク レ ン テ ン (klenteng)」7) と 呼 ば れ る 寺 廟(中 国 寺 院) である。華人たちの伝統的信仰の拠り所であ り続けてきたこれら施設は,スハルト期に あっては無論活動が大幅に制限されたり増改 築が厳しく規制されるなど日陰の立場に置か れてきたが8),上述のようなここ数年の「華 人文化」開放の流れに伴って,次第にその活 動が活性化しつつあるのだ。 それでは,ポスト・スハルト期に入って 10 年経った今,この国の寺廟およびそれを 5) スハルト体制下の華人に対する抑圧的な法令を整理したものとしては Suryomenggolo[2003]を, またその後の政権によってなされた法改正については Winarta[2008]を見よ。  スハルト体制下の抑圧的な対華人政策を最も象徴的に示す法令のひとつとして,「チナの宗教, 信仰,慣習に関する大統領訓令 1967 年第 14 号」(Instruksi Presiden No. 14/1967 tentang Agama, Kepercayaan dan Adat-istiadat Cina)があった。この法令は,中国に由来する宗教や信仰,伝統的 慣習の実践を公の場で行なうことを禁ずるという非常に厳しい内容のものであったが,第 4 代ア ブドゥルラフマン・ワヒド大統領の時代に,従来の対華人政策の大幅見直しと人権への配慮を旨と する「大統領訓令 1967 年第 14 号の撤廃に関する大統領決定 2000 年第 6 号」(Keputusan Presiden No. 6/2000 tentang Pencabutan Inpres No. 14/1967)が出され,法的効力を失った。ワヒド政権によ77 るこの法令撤廃は,同大統領による中国正月(Imlek)祝日化への方向づけ,そして大統領自らが 「自分には華人の血が入っている」と公言したことと並んで,この国に暮らす華人たちから大いに 評価されたきわめて意義深く画期的な出来事であった。第 5 代メガワティ政権下の 2002 年には中 国正月が国民の祝日に昇格する(実際に祝日として祝われたのは 2003 年から)に至り,「華人文 化」開放の方向性は疑いようのないものとなった。また,2006 年には「インドネシア共和国の国 籍に関する 2006 年法律第 12 号」(Undang-undang No. 12/ 2006 tentang Kewarganegaraan Republik Indonesia)が公布・施行され,この国で生まれた華人系住民は少なくとも法令上は「華人の血」 を理由に差別的扱いを受けることがなくなった[松村 2008]。 6) この流れの一環として,スハルト体制崩壊後数年が経過してからインドネシア各地の地方都市に至 るまで広まった中国語(北京官話)学習ブームが挙げられる。これについては第 5 節で触れる。中 ジャワ州の一地方小都市ルンバンの華人たちが,どのように新たに解禁された中国語学習に臨んで いるかを分析したものとして,津田[2009]を見よ。 7) この「クレンテン」という語は一般には,寺廟で礼拝の際に用いられる鉦の音に由来しているとい われている[Buanadjaya 1980: 97-98]。また,福建語の「観音堂(Kwan Im Tang)」が訛って発 音されたものとする異説もある[Salmon & Lombard 2003: 111]。なお,インドネシアの寺廟建 築一般に見られる特徴については Gunawan (ed.)[1998: 115]を見よ。

8) 寺廟を規制する法令の代表としては,「クレンテンの整序に関する内務大臣訓令 1988 年第 455.2-360 号」(Instruksi Menteri Dalam Negeri No. 455.2-455.2-360/1988 tentang Penataan Klenteng)が挙げらgg れる。この法令ではまず,「クレンテンとは,いかなる名称を用いていようとも,中国の信仰およ び伝統的慣習に基づいた祖霊の礼拝や崇拝のために使用される一般に開放された場所,建物,もし くは建物の一部のことを指し,それらは通常竜や鳳凰,麒麟,虎,八卦,または神々や歴史上の人 物,聖人の像,そして漢字で書かれた文字など,中国民衆の伝統的信仰に起源を持つ諸シンボル で装飾されている」と定義している。その上で,そもそもそのような「外国の文化システム(tata budaya asing)」は「インドネシアの個性(kepribadian Indonesia)」にそぐわないので退けられ ねばならず,したがって今後はクレンテンを新築したり,建物を拡張したり,維持の範囲を超えて 修復することは一切認められないと定めている。またこの法令ではあわせて,上で定義されたクレ ンテンがその名称として,元々は「中国の伝統的信仰に基づかない仏教の施設」を指す用語である 「ヴィハラ」などを冠することも禁じている。なお同法令は,註 5 で触れた「大統領決定 2000 年

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取り巻くコミュニティ周辺では,具体的にど のような事態が生じ,どのような変化が起 こっているのだろうか。またそれらは一体ど のような問題に直面しているのだろうか9)。 この点と関連して,インドネシアの国家, 宗教,および宗教コミュニティとの間の相互 関係については,これまでもジャワ・イス ラームやバリ・ヒンドゥーなどを通して見る ような事例研究において,すでに優れた蓄積 がある[福島 2002; 小林 2008; 永渕 2007]。 また,仏教や孔子教など,いわゆる「華人の 宗教」がインドネシア国家との関係でどのよ うに位置づけられてきたかを跡付けたものや [Brown 1987; Coppel 1989, 2002a, 2002b; Suryadinata 1993, 1998; 北 村 2009], あ る いは,華人が移住先でいかに現地社会と混淆 しつつ独自の信仰要素を生み出してきたかを 報告したものなども[Salmon 1993],少な くない。しかし,そうした宗教的全体状況な いし個々の宗教団体の動向が,地方の華人コ ミュニティにおいては実際どのように発現 し,どのような問題を生み出しているのか, また人々の信仰実践にどのような変容を来し てきたかについては,研究蓄積も限定されて いる[津田 2006]。 一方,インドネシアの寺廟研究に関して 言えば,ジャカルタやスマランなど一部の 大都市に存するものについては,主に歴史 的観点からの調査がすでにあり[Salmon & Lombard 2003; Liem 2004 (1931)],またジャ ワに点在する寺廟については,その略史を紹 介したもの[Moerthiko (ed.) 1980]や,あ るいは膨大な数の碑文を網羅的に記録・整 理した記念碑的研究もある[Salmon & Siu 図 1.ジャワ島全図 9) 福建の医薬神,保生大帝を祀るネットワークが国境を越えて展開していく様を歴史的に跡づけつつ 丸山[2001: 72]も主張するように,寺廟の力は下からの民衆の力の発現であるという特徴を確か に持っているが,実際のネットワーク形成の活動(あるいは個々の寺廟の活動の展開)は,政治・ 経済的諸条件との対抗や協調の中でその時その時の決断を経ながら行なわれるものである。華人の 伝統的信仰施設の活性化についてはこれまでも,改革開放を迎えた中国とそれを取り巻く国際地政 学上の変化という大きな文脈[cf. 三尾 2001; 志賀 2001],あるいは威信増大や観光開発などとも 結びつくような地域活性化といった文脈[cf. 上水流 1999]などから,インドネシア以外の各地で 数多く報告されており,現在インドネシアで起こっている現象も無論そうした文脈の中に位置づけ て比較してみる必要があるだろう。ただし本稿では,この国で華人が置かれてきた社会・政治的諸 条件の特殊性と,近年それを取り巻く布置関係が劇的に変化していることの重大さとに鑑み,現代 インドネシアという文脈で寺廟周辺で生じ始めている現象に焦点を当ててみたいと考える。

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1997]10) 。しかしながら,寺廟がインドネシ アという国家のもとでどのような地位に置か れてきた/いるのか,また宗教との関係はい かなるものであった/あるのか,さらには, スハルト体制崩壊後の「華人文化ルネサン ス」的状況の中で,寺廟やそれを取り巻くコ ミュニティの間ではどのような事態が進行し ているのか,などといった今日的な観点から, 具体的現地調査に基づきつつ問題群を浮かび 上がらせるような研究は,管見の限り皆無に 等しい。 加えて言えば,ポスト・スハルト期のイ ンドネシア華人については近年,その全体 的な概略紹介やジャカルタを中心とする華 人団体の動向分析,あるいは政策面の変化を 跡付けることなどを通して,すでに様々なこ とが指摘されてきている[Herlijanto 2003; Suryadinata (ed.) 2008; Suryomenggolo 2003]。しかしながら,現代インドネシアの 華人をより多面的かつ総体的に理解しようと するならば,各地に散らばる華人コミュニ ティでどういった事態が生じているかについ て,それぞれのローカルな文脈に即しつつ緻 密に浮かび上がらせていこうとする視点が絶 対的に不可欠なのである[津田 2008: 第 1 章]。 こ の よ う な 問 題 関 心 の も と, 筆 者 ら は 2009 年 の 旧 正 月(Imlek) か ら 元 宵 節 (Capgomeh)の期間を挟む 20 日あまりを 費やして,比較的古くから多くの華人が定着 したことで知られる東ジャワ州および中ジャ ワ州北海岸の町々に点在する寺廟を巡る調査 旅行を実施した。本調査旅行においては,で きる限り多くの寺廟を訪れることを第一の目 的とした。実際に訪れることができた寺廟は 表 1 のとおりである。 各寺廟では,それぞれの場で祀られている 神明(Sien Bing:神様)を記録するととも に,廟公(Bio Kong:寺廟の清掃や礼拝補 助をする番人)や寺廟管理・運営組織の役員 などから聞き取りを行ない,あわせて可能な 限り資料収集にも努めた。ただし,今回は予 備的・概観的調査という性格から,各寺廟で の調査時間は必然的に限定されたものとな り,したがってそれぞれの寺廟のありさまを 厚く記述するに堪えるだけの情報を得ること はできなかった。しかし,ジャワの中・東部 の寺廟を広く見渡すことで,それらが共通に 抱える問題や,各町・各寺廟ごとの特殊性 なども浮かび上がってきた。そこで本稿で は,今次の調査旅行の過程で浮かび上がって きた問題群を整理することで,ポスト・スハ ルト期のジャワ―ひいてはインドネシア全 土―の寺廟を取り巻いている数々の論点の 全体的見取り図を提示してみたいと思う11) 。 2. 祀られている神明 寺廟は言うまでもなく,特定の神明を祀る 祭壇を中心とした礼拝施設である。大抵の寺 廟では,主神祭壇の左右にさらに祭壇を設 け,そこに別の神明を合祀している。比較的 規模の大きな寺廟では,主棟の後ろや左右に もさらに別棟が追加されており,最も大きな 部類になるとひとつの寺廟で数十体もの神明 を合祀していることもある。ジャワの寺廟の 現状を明らかにするために,まずそこで祀ら れている神明について概観することから始め たい。

10)この Salmon & Siu[1997]の研究は,Wolfgang Franke 監修のもとインドネシア国内に散らばる 中国語碑文を網羅的に記録・整理する研究の一環として出版されたもので,第 1 巻スマトラ島,第 2 巻ジャワ島,第 3 巻はそれ以外の外島の寺廟碑文・墓碑銘を収めている。 11)筆者らは 2009 年 8 月下旬からの 3 週間あまりをかけて,東ジャワ州内の未調査の寺廟およそ 10 か所と,新たにバリ州内の寺廟およそ 20 か所を調査して廻っている。ジャワ島の寺廟に関して得 られたデータは,基本的に本稿の論点を補強するものであったが,バリ島の寺廟調査からは,個別 に議論すべき特徴やテーマが浮かび上がってきた。それら論点の提示については別稿に譲ることと する。

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2.1. 中国に由来する神明 そ れ ぞ れ の 寺 廟 の 主 棟 内 奥 正 面 に 主 神 (tuan rumah)として祀られている神明は, 上記表 1 で示したとおりである。中でも目立 つのは,航海の女神である天上聖母(媽祖), 出稼ぎに効験ありとされる廣澤尊王(郭聖 王),それに土地公たる福徳正神などであり, こうした神明が多いことは,中国南岸から渡 航しそれぞれの地に定着してきた華人の歴史 そのものを物語っている。これらに加えて観 世音菩薩などは,関聖帝君などと並んで他の 多くの寺廟でも配祀されているのを見かけ る,人気の高い神明である。 いくつかの神明の中には,中国内の特定地 域と深い結びつきを持っているものもある。 たとえば上述の廣澤尊王は泉州・漳州と関わ りが深いとされ,また慈徳宮(トゥルンア グン)や慈惠宮(クディリ),大覚寺(スマ ラン)などで付加的に祀られている清水祖師 は,泉州でも特に安渓県と強く結びついた神 明である。一方澤海宮(トゥガル)で主神の 向かって右隣に安置されている清元眞君は, 漳州長泰県出身者からの篤い信仰を集めてお り,ジャワでは他にジャカルタの鳳山廟(大 使廟)でしか見られない珍しい神明である [Salmon & Siu 1997: XIX, 1-5, 587-607]。

これらの神明がいつどのような形でどこに祀 られたかを手掛かりのひとつとすることで, 当該神明に対する信仰の伝播,さらには中国 の特定地域からの移民の歴史的流れの一端が

No. 寺廟名 所在地 主神 1 慈徳宮(Tjoe Tik Kiong) パスルアン(Pasuruan) 天上聖母 2 龍泉廟(Liong Tjwan Bio) プロボリンゴ(Probolinggo) 陳府眞人 3 保唐廟(Poo Tong Bio) ブスキ(Besuki) 陳府眞人 4 白蓮山(Pai Lien San) ジュンブル(Jember(( ) 白衣娘娘 5 観音堂(Kwan Im Tong) ジュンブル(Jember(( ) 観世音菩薩 6 Pasarean Gunung Kawi カウィ山(Gunung Kawi) 観世音菩薩 7 永安宮(Eng An Kiong) マラン(Malang) 福徳正神 8 保安宮(Poo An Kiong) ブリタル(Blitar) 廣澤尊王 9 慈徳宮(Tjoe Tik Kiong) トゥルンアグン(Tulungagung) 天上聖母 10 慈惠宮(Tjoe Hwie Kiong) クディリ(Kediri) 天上聖母 11 鳳山宮(Hong San Kiong) グド(Gudo) 廣澤尊王 12 福隆宮(Hok Liong Kiong) ジョンバン(Jombang(( ) 天上聖母 13 茂淮廟(Bo Hway Bio) モジョアグン(Mojoagung) 善心公 14 福善宮(Hok Sian Kiong) モジョクルト(Mojokerto) 天上聖母 15 鎮水廟(Teng Swie Bio) クリアン(Krian) 廣澤尊王 16 関聖廟(Kwan Sing Bio) トゥバン(Tuban) 関聖帝君 17 慈靈宮(Tjoe Ling Kiong) トゥバン(Tuban) 天上聖母 18 慈惠宮(Tjoe Hwie Kiong) ルンバン(Rembang) 天上聖母 19 福徳廟(Hok Tik Bio) ルンバン(Rembang) 福徳正神 20 慈安宮(Tjoe An Kiong) ラセム(Lasem) 天上聖母 21 義勇公廟(Gie Yong Kong Bio) ラセム(Lasem) 陳黄弐先生 22 保安廟(Poo An Bio) ラセム(Lasem) 廣澤尊王 23 慈澤廟(Tjoe Tak Bio) ジュワナ(Juwana(( ) 観世音菩薩 24 大覚寺(Tay Kak Sie) スマラン(Semarang) 観世音菩薩 25 太平亭(Tay Ping Ting) ウェラハン(Welahan) 福徳正神 26 玄天上帝廟(Hian ian Siang Tee Bio) ウェラハン(Welahan) 玄天上帝 27 福徳堂(Hok Tek Tong) ジュパラ(Jepara(( ) 福徳正神 28 寶安殿(Pao An ian) プカロガン(Pekalongan) 神農大帝 29 澤海宮(Tak Hay Kiong) トゥガル(Tegal) 澤海眞人 30 萬丹院(Vihara Avalokitesvara Banten) バンテン(Banten) 観世音菩薩

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明らかになるかもしれない。 なお,今回訪れた寺廟のいずれにおいても, 主棟正面の入口近くに天公(Tee Kong)を 祀る香炉が外側に向かって置かれていた。こ の天公は,中国民間道教の最高神である玉皇 上帝と同一視されることもあるが12) ,ただし 第 3 節で述べるように,国民全てが「唯一至 高なる神(Tuhan Yang Maha Esa)」を信ず ることを絶対的に求められる現代インドネシ アの文脈にあっては,少なからぬ人々はこれ を単に抽象的な唯一神的存在と見なしている ようであり,その意味ではこの天公は,この 後に述べる所在地の文脈に多分に規定された 神明のひとつであるとも言える13) 。 2.2. ジャワ特有の神明 ジャワの寺廟には,それぞれの地で独自に 祀られている神明,すなわち中国本土にその 源流を辿れないローカルな崇拝対象も存在す る。以下,いくつかを列挙してみよう14)。 ・ジャワの信仰と華人の信仰の習合 ―カ ウィ山 その筆頭としてまず言及すべきは,東ジャ ワ州マラン市郊外に聳えるカウィ山に祀られ ている聖墓の存在であろう。この標高 2,860 m の山の麓には,19 世紀後半に亡くなったと 伝えられる,ジャワ神秘主義と習合したイス ラームの聖人(Mbah Djuggo)とその従者 (Iman Soedjono)の墓があったが,その傍 にはこの聖人を信奉していたひとりの華人 12)天公については可児・斯波・游(編)[2002: 539-540]の「天公」の項(執筆者:渡邊欣雄)を見よ。 また,台湾の民俗宗教における伝統的至上神観とその変容を論じたものとして,鄭[2009: 361-374]も参考になる。 13)たくさんの祭壇をかかえる寺廟では,参拝者への便宜を図るために,礼拝の順序を示した番号を祭 壇に記していることがしばしばである。またほとんどの寺廟にはそこの番人たる廟公がおり,礼拝 の手順を教えてくれたり手助けをしてくれたりするのだが,その場合,通常寺廟参拝者は主神に向 かって礼拝する前に,正しい手順としてまず天公の香炉に線香を捧げるよう案内される。  なお「天」概念を考える上では,清末の中国大陸で康有為が中心となって,孔子を中国の教主と して尊崇し,孔子廟に天に配して祀ろうとする孔子教国教化の試みがあったことも忘れてはならな い。その後,康有為の試みは換骨奪胎される形で,末期的な清朝政府,そして袁世凱の帝政などに 受け継がれて行った[子安 2003: 199-235]。  この天公に捧げられた香炉が,ジャワ各地の寺廟において創建当時から存在したのか,またこ れを設置するあり方というのがいつどのような形で広まったのかについては,今後歴史的な調査 が必要である。ちなみに筆者が集中的に調査を行なったルンバンにおいては,1970 年代初頭,華 人を取り巻く状況の悪化,ならびに唯一神への信仰が一層求められるような社会的圧力の中で, 寺廟にこの天公の香炉が設置されたことが,聞き取りから明らかとなっている。それによるとこ の当時,町内にある寺廟,慈惠宮が単なる吉運(rejeki)や良縁(jodoh( )を求めるための邪教の 秘術的(klenik)な場と見なされたり,あるいは境内に夫婦の獅子像や多くの神々の像が存在す ることをもって多神教的(musyrik)と見なされる恐れがあったため,当時の寺廟指導者たちは 「いかなる信仰といえども神への信仰を基本に持たなければならない(Semua kepercayaan harus

berketuhanan)」との見解で合意し,その上で唯一神を奉じていることを明示的に示すべく,概念 的にその同等物と考えられる抽象的な「天」に祈りを捧げる場として,新たに香炉を設置したのだ という。なお,この天公の香炉設置以前は,慈惠宮の内陣入口右側には小さな香炉が置かれており, 参拝客はやはり建物外側に向かって線香を掲げ祈った後に,それをこの香炉に突き立てていたとい うが,これは門の守り神(門神)に対してまず礼を尽くすという趣旨であり,天への祈りというわ けではなかったのだという。ルンバン町内にあるもうひとつの寺廟,福徳廟は,1978 年に慈惠宮 と同一組織のもとで管理・運営されるようになるが,その際に初めて天公を祀る香炉が設置されて いる(2003 年 5 月 7 日,ルンバンの古老 Tan Gwat Hing 氏への自宅でのインタビューによる)[津 田 2006: 79-81, 註 46]。

14)ジャワ華人に特有の信仰については,Salmon[1993]によるコンパクトで優れた紹介がある。なお, 鄭[2009: 382-411]は,タイおよびマレーシアの華人社会での短期調査を基に,出身地の違いに 由来する信仰形態や,それぞれの地で新たに創出された信仰形態について言及しており,より広い 文脈での比較の参考になる。

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によって小さな祠が建てられた[関本 1982: 119-120]15) 。その後,同地を訪れると経済的 に成功するとの信仰が広まり,今ではジャワ 人よりも華人の参拝者が多数を占めるように なっている。この祠では,華人参拝者はもと よりジャワ人参拝者も,線香を捧げて神杯16) と神籤で占いを行なうという具合に,通常寺 廟でするのと同じ方法で礼拝を行なうことが 多いようである。筆者らがここを訪れた時点 では,ジャワ出身でシンガポールに拠点を置 く大財閥総帥が寄付したという巨大な観音像 を収める堂宇が,聖墓の麓に新築されつつ あった。 なお上記のカウィ山麓にある祠は,ジャワ 神秘主義の聖墓に付随した施設であり,それ 自体は厳密には寺廟とは言えない。ただし, この祠から山頂を隔てて 40 km あまり北方 に位置する茂淮廟(モジョアグン)の主棟後 方には,カウィ山に眠るイスラームの聖人の 像が 1 体,「嘉惠山・大二老師」17) という名で, 福徳正神と並んで祀られている18)(写真 1)。 このような「ジャワと中国の文化・儀式の 混淆」とも言うべき場は,他にもたとえば鄭 和(Cheng Ho/三保公)を祀った三保公廟 (スマラン)などが知られている[Salmon 1993: 283-291]。

15) Salmon[1993: 288-291] は,1950 年 代 に ス ラ バ ヤ で 印 刷 さ れ た 資 料(Im Yang Tjoe. 1953. Riwayat Ejang Djuggo, Panembahan Gunung Kawi. Surabaja: Palma)などに基づき,カウィ山で祀 られている人物(Mbah Djuggo)は洪秀全の反乱に組して中国大陸からジャワに逃れてきた人物 であるとする謂れを紹介している。 16)この神杯(杯珓,pwee-sien とも)とは,そら豆形の 1 対の木組みを床に投げてその出方によって 事の是非を占う方法で,中国南岸や台湾では広く見られる。ジャワの寺廟でも,各々の神明の祭壇 手前には必ずといって良いほどこの木組みが置かれている。 17)茂淮廟は 1950 年頃にはモジョアグンの町の華人たちによって建てられていたが,大二老師像は後 に,独立戦争期に同地に渡り雑貨商を営む傍らカウィ山を信奉していた人物によって持ち込まれた。 同寺廟の歴史については,Moerthiko (ed.)[1980: 275-277],ならびに同寺廟理事会が 1990 年に 編集した記念冊子[Pengurus TITD Bo Hway Bio 1990]も見よ。現在,寺廟でカウィ山の聖人 を祀っているのは,知られている限りこの茂淮廟のみとのことである(2009 年 2 月 1 日,茂淮廟 の会長(ketua)黄栢周(Oei Pek Tjoe)氏へのインタビューによる)。なお一般にカウィ山の方では, Mbah Djuggo は「大老師」,Iman Soedjono は「二老師」と,それぞれ別々の中国名で呼び習わ されている。

18)上で触れた茂淮廟には,大二老師の祭壇と同じ部屋に「八義兄弟(Pa Gie Heng Teh)」なる祭壇 が置かれている。これは神像ではなく位牌の形で祀られているのだが,茂淮廟現会長の黄栢周氏に よれば,1970 年前後にバニュワギ(Banyuwangi)の町で犠牲になった 9 名の華人のうち 8 名の霊を, 同氏の兄が祀ったものだという(2009 年 2 月 1 日のインタビューによる)。なお,茂淮廟の棚には 「公元一九六五年十二月廿六日立 八義兄弟之靈 賢爐」と書かれた香炉が保管されており,聞き 取りの内容とも合わせて推測するに,八義兄弟とは 9 月 30 日事件後の混乱の中でバニュワギで命 を落とした市井の華人たちであった可能性が高いように思われる。あわせて茂淮廟の碑文を紹介し た Salmon & Siu[1997: 824-825]を見よ。

写真 1.茂淮廟に祀られている大二老師

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・ジャワで神格化された神明―澤海眞人, 陳府眞人,陳黄弐先生

他にジャワ特有の神明として注目に値する のは 3 つ,すなわち,トゥガルやプカロガ ンで祀られている澤海眞人(Tak Hay Tjin Djin)19)

, ジ ャ ワ 島 東 端 部 か ら バ リ 島 に か けて祀られている陳府眞人(Tan Hoe Tjin Djin/ 陳 眞 人 /Kongco Banyuwangi), そ して,中ジャワ北海岸のラセムの町を中心に 3 つの寺廟で祀られている陳黄弐先生(Tan Oey Djie Sian Seng/義勇公)である。

このうち澤海眞人は,18 世紀半ばに実在 した郭六官(Kwee Lak Kwa)という名の人 物であったと言われているが,彼にまつわ る伝説には大きく分けて 2 つのヴァージョ ンが存在する。1 つ目は,彼がジャワ北海岸 を交易船で航行中に海賊に襲われたというも ので,その後彼が悠然と船を退去するや否や 当の船は沈み,また彼自身もそのまま姿を消 し,やがて海の守り神として崇められるよう になったというものである。2 つ目の説は, 1740 年代に華人がジャワ北海岸一帯でオラ ンダ東インド会社(VOC)に対して蜂起し た際に20),トゥガル近郊で VOC 軍に包囲さ れていた華人とジャワ人の一団を彼が救っ た,というものである[Salmon 1993: 291-294; Gan (ed.) 2009: 111-112]。 次の陳府眞人も,もともとは交易商であっ たと言われている。陳はバリ島のムンウィ (Mengwi)王国に招かれ宮殿建設に携わる ことになるが,工事完成間際に彼の仕事を妬 む者の讒言によって暗殺されようとする。そ のために王の部下 2 名が刺客として派遣され たのだが,陳はこの 2 名から自身の暗殺計 画を打ち明けられ,その後 3 人共々一緒に 歩いて―もしくは蟹の背に乗って―海を 渡り,対岸のジャワ島東端にある山で姿を消 した,というモチーフの伝説が知られている [Salmon 1993: 294-297; Salmon & Sidharta

2000; Salmon & Siu 1997: 742-743]。 最後の陳黄弐先生に関しては,3 つの謂わ れが知られている。1 つ目は,漳州龍渓県で 18 世紀半ばから祀られていた明代の英雄, 陳思賢と黄道周に対する信仰が,ラセムに持 ち込まれたという説。2 つ目は,ラセムに初 めて上陸した華人を祀ったという説。3 つ目 は,澤海眞人にまつわる 2 つ目の説と類似す るもので,すなわち 1740 年代の VOC に対 する華人蜂起の際に,地元のジャワ人ととも に闘った陳と黄を姓に持つ 2 名の英雄―タ ン・ケー・ウィー(Tan Kee Wie)とウィ・ イン・キァット(Oei Ing Kiat)21)

―を死 後祀ったというものである[Salmon 1993: 298; Salmon & Siu 1997: XIX-XX, 475]。 なおこの陳黄弐先生は,ラセムの義勇公廟で 主神として祀られている他,慈惠宮(ルンバ ン)と慈澤廟(ジュワナ)でも寺廟隅に祭壇 が設けられているのだが,現在この地一帯で 伝わっている伝説は,筆者による 2002 年来 の調査によれば 3 つ目のヴァージョンのみで

19)寶安殿(プカロガン)の礼拝担当役員 Gan Tek Tjiang を中心とするチームが独自の調査に基づい てまとめた冊子[Gan (ed.) 2009: 91-92]によると,かつてこの寺廟では澤海眞人が主神として祀 られていたが,1918 年に神農大帝が新たに追祀されたのに伴い,主神の座を後者に譲ったのだと いう[cf. Salmon 1993: 292; Salmon & Siu 1997: 514]。澤海眞人は,澤海宮(トゥガル)に加え て澤海廟(スマラン),晏清廟(インドラマユ:Indramayu)で主神として祀られているのみならず, 前記の寶安殿とともに潮覚寺(チルボン:Cirebon)や金徳院(ジャカルタ)でも祭壇が設けられ ており,18 世紀半ばからジャワ島北海岸の西部一帯にかけてこの神明に対する信仰が広まったこ とが窺える[Salmon 1993: 291-294; Salmon & Siu 1997: XX]。

20)1740 年にバタヴィア(現ジャカルタ)で VOC によって華人が大量虐殺されたのを受けて,ジャ ワ島北海岸の華人がマタラム朝宮廷をも巻き込んで蜂起したいわゆる「華人戦争(Perang Cina)」 については,オランダ側歴史資料を駆使した Remmelink[1994]の研究が参考になる。

21)スマランの大覚寺が鄭和来航 600 周年を記念して発刊した冊子[Gan & Kwa (ed.) 2006: 264-265] では,この両名の英雄に対してそれぞれ「陳家偉」,「黄英杰」の字を当てている。

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あり,地元では完全にラセム独自の神明とし て見なされている[津田 : 2007a: 43-46]。 以上列挙したジャワ特有といえる信仰実践 が,歴史的にどのような経緯で特定の地域に 広まったのか,またより重要なことには,そ れらの伝承が現代インドネシアの文脈でどの ように受容され再解釈されつつあるかという 現在進行中の動態については,陳黄弐先生の 例を除き目下のところ手付かずのままであ り22),今後の詳しい調査研究が待たれるとこ ろである。なお,陳府眞人を軸に近年活発に なった寺廟相互間の交流については,第 4 節 で改めて述べる。 3. 寺廟の位置づけをめぐる問題 歴史的に寺廟は,中国から渡って来た移民 やその子孫たちが信仰を寄せる神明を祀る場 として建てられ,各々の町の華人コミュニ ティの間で維持されてきた。しかしそれらは, 単に「昔ながら」のまま存在し続けてきたの ではない。各地に散らばる寺廟は,それらが 置かれた地域の社会・政治的文脈の中で独自 の発展を遂げるとともに,時にはそれらに上 から覆い被さってくる統治機構と折り合いを つけつつ存立を保ってきたのである。そこで この節では,ジャワの寺廟の宗教的位置づけ と法的位置づけをそれぞれ検討することを通 じて,それら寺廟が置かれてきた全体的枠組 みを明らかにするとともに,その枠組みの中 で個々の寺廟が直面してきた,ないし直面し つつある変化についても論じようと思う。 3.1. 寺廟の宗教的位置づけ 独立以前のインドネシアでは,イスラーム の教えがスマトラ島やジャワ島などを中心に プリブミ23) の間でかなり浸透しており,ま たキリスト教も東部地域など外島では無視で きない広がりを持っており,ヨーロッパ人と 結びついた宗教として社会的に相当のプレ ゼンスを保っていた。こうしたことを踏ま え,独立直後に制定された 1945 年憲法の第 29 条では,国民各自の信教の自由を保障す ると同時に,「国家は唯一神(への信仰)に 基礎を置く」とも規定されたのである24) 。こ の「唯一神への信仰」の原則はパンチャシ ラ(Pancasila:建国五原則)の筆頭にも掲 げられたわけだが,やがて 1965 年の 9 月 30 日事件―公式の歴史では共産党クーデター 未遂事件とされ,その背後には中国共産党が いたとされる―の混乱を経てスハルト新秩 序体制が成立すると,「共産主義者=無神論 者」の復活を徹底して抑え込む目的から,対 抗イデオロギーとしてこのパンチャシラが絶 対視され,国民個々人の宗教心は共産主義思 想への内的砦としていよいよ重視されていく ようになる[Brown 1987: 111; Suryadinata 1998: 6]。こうした中で全ての国民は,「唯 一神」などの条件を満たしていると国家から 認められた宗教 ―イスラーム,カトリッ ク,プロテスタント,ヒンドゥー,仏教,孔 子教25) ―の中のひとつを信ずることが求 22)ジャワ人と協力してオランダに対し蜂起したという陳姓と黄姓の 2 名の華人を,インドネシアの 国家建設に貢献した歴史的な英雄(=Pahlawan Nasional:国家英雄)として顕彰することで,現 代インドネシアにおける華人全体の地位向上を図ろうと試みたポスト・スハルト期の動向について は,津田[2007a]を見よ。 23)プリブミについては註 1 を見よ。 24)宗教の自由を保障しつつ唯一神への信仰を国是とするという,やや矛盾した条文が憲法草案に盛り 込まれた過程については,土屋[1994: 276-277]の簡潔な説明を見よ。 25)孔子教はすでに 20 世紀初頭から,それが宗教なのか否か,あるいは今日的な価値があるのか否か, 盛んに議論がなされていたが,その後 1965 年に他の 5 つの世界宗教と並び公認の「宗教(agama)」 のひとつとして認定を受ける(Undang-Undang No. 1/PNPS/1965)。1967 年にはインドネシア孔子 教最高評議会(Majelis Tinggi Agama Konghucu Indonesia, 略称:MATAKIN)が結成され,イ スラームやキリスト教を模倣した形で,唯一神=天,預言者=孔子,聖典=四書を柱とする宗 ↗

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められるようになり,またスハルト体制が安 定する 1980 年代に入る頃になると,宗教本 体に対しても政府からの介入・管理が強まっ てゆくことになる。 この国の寺廟の宗教的位置づけを理解する 上でもうひとつ無視できない軸をなすのが, 「チナ(Cina)」をめぐるそれである。この 「チナ」とは,中国や華人を指す蔑称である が26) ,9 月 30 日事件後の社会的混乱からの 秩序回復を急務の課題に据えていたスハルト 政権にとっては,中国との外交問題や国内華 人の問題などが早急に解決しなければならな い問題群のひとつとしてあり,政府はそれら を「チナ問題(Masalah Cina)」として一体 的に解決すべく数々の政策を打ち出してゆく のである[相沢 2006]。それら諸政策の眼目 は,誤解を恐れずに言えば,インドネシア国 内に住む華人系住民を中国本国から切り離 し,またいわゆる土着系のプリブミ住民の反 華人感情に火が点かないようにすることに あったわけだが,これを踏まえて,華人をイ ンドネシア社会に完全に「同化」させるとと もに,表面的に目に付く「中国・華人らしさ」 を抹消するという施策が採られるようにな る。その「同化政策」の一環として,1967 年には「チナの宗教・信仰・慣習に関する大 統領訓令 1967 年第 14 号」27)が出され,「中 国由来」と見なされた諸要素は公共の場で 表出することが禁じられた。また 1979 年に は,誰の目にも明らかに「チナ臭い(berbau Cina)」宗教である孔子教が,突然非公認扱 いとなる28) 。 インドネシア各地に散らばる寺廟は,上で 述べたようなこの国の近現代の宗教をめぐる 特有とも言える状況,そしてまた,「中国ら しさ・華人性」と結びつくものを抑え込もう とする国家からの眼差しという,2 つの大き な軸の間で翻弄される中で,安定した地位 を模索してゆくことになるのである[津田 2006: 69-74]。 なお,この地位模索の実際のあり方は,本 来的には寺廟それぞれの事情に応じ個々に異 なっている。ただし,上で述べたような状況 的圧力に幾分地域的な温度差があったことを 反映してか,寺廟の対処の仕方には地域ごと にある程度の傾向性を見出すことができる。 そこで以下では,東ジャワと中ジャワとに大 きく分けて,その特徴を指摘してみよう29) 。 ・東ジャワの寺廟 9 月 30 日事件後の混沌とした社会状況は, ↗ 教 と し て 体 系 化 さ れ る。20 世 紀 初 頭 の 孔 子 教 内 部 の 議 論 に つ い て は Coppel[1989; 2002a; 2002b],独立後の孔子教の動向については Suryadinata[1998: 6-9]を参照。 26)スハルト体制下のインドネシアでは,「中国」や「華人」を指し示す用語として「チナ(Cina)」と いう蔑称が公的に使われてきた。同体制崩壊後は,中国・華人の立場を尊重する意を込めて,1920 年代以降盛んに用いられていた「ティオンコック(Tiongkok)」・「ティオンホア(Tionghoa)」と いう福建語由来の語が再び意識的に用いられるか,あるいは中立的なニュアンスで英語の“China” や“Chinese”が用いられる傾向にある。これら用語の問題に関しては Coppel & Suryadinata [1970]を見よ。 27)註 5 を見よ。1980 年には宗教大臣・内務大臣他の共同決定として,この大統領訓令の施行細則も 定められた。 28)MATAKIN は,結成後 10 年ほどは体制翼賛政党ゴルカル(Golkar)と蜜月が続き安定した地 位を保つが,1979 年 1 月,MATAKIN 第 9 回全国大会が突如開催不許可となり,同月 27 日に は孔子教は公認宗教ではない旨の政令が出された。この突然の公認取消し決定の背景に関して Suryadinata[1998: 9; 2005: 81]は,従来反共のため宗教勢力の支持を必要としていたスハルト政 権が,体制の安定に伴いむしろ華人に対する「同化政策」との整合性を図るようになったため,と 推測している。より詳細な経緯の分析は,北村[2009: 26-28]を見よ。 29)今回の調査では,古くから華人が定着したことで知られるジャワ北海岸を中心に回ったため,東ジャ ワ州ではマディウン(Madiun)周辺の南西部が未調査であり,また中ジャワ州については内陸部 のほとんどが手付かずである。そのため,以下の記述は必ずしも東ジャワ州ないし中ジャワ州全体 の傾向として一般化できるわけではないことを,予め断っておく。

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東ジャワでも強く感じられていた。そうした 中,危機意識を強く持ったこの地域の寺廟関 係者らは,寺廟が「宗教施設」ではなく単な る「華人の施設」であると見なされ閉鎖に追 い込まれるのを回避すべく,対応を協議し合 う。そうした中 1967 年 5 月に結成されたの が,全東ジャワ・トリダルマ礼拝所連合会 (Perhimpunan Tempat Ibadat Tri Dharma se-Jawa Timur, 略称:PTITD se-Jatim)で あ っ た。 こ の 連 合 会 は, 結 成 と 同 時 に 地 元 の 政 府(Penguasa Perang Daerah Jawa Timur)からの後押しを得ることに成功し, ま た 翌 12 月 に は 宗 教 省 ヒ ン ド ゥ ー・ 仏 教 総局(Dirjen Bimas Hindu dan Buddha, Departmen Agama)の支持を受け,全インド ネシア・トリダルマ礼拝所連合会(PTITD se-Indonesia/全印尼三教廟宇聯合會 , 以下 「PTITD」)と名を改め,以後スラバヤの本部 を中心に組織を拡大してゆくことになる30)。 ここで団体名に掲げられている「トリダル マ(Tri Dharma)」とは三教,すなわち,仏 教・孔子教・道教という華人の伝統的信仰 体系を一体と捉える宗教概念のことである。 ジャカルタでは早くも 1930 年代に,仏教な どに関する旺盛な著作活動で知られていた郭 徳 懐(Kwee Tek Hoay; 1886∼1952 年) が

中心となって三教會(Sam Kauw Hwee)31)

なる組織が立ち上げられ,華人の精神的支柱 としてこの三教を近代的な宗教に体系化すべ く試みられてきた歴史がある。ジャワ島西部 では,この三教會を継承したインドネシア・ トリダルマ連合会(=Gabungan Tridharma Indonesia,略称:GTI)が活動を続けてい たが,他方でスラバヤを中心とする東ジャワ では,上述のように 9 月 30 日事件後の混乱 に対処する中で,寺廟を単なる「華人の施設」 ではない「宗教施設」として認めてもらうべ く,独自の連合会が生まれる格好となったわ けだ32)。 かくして,東ジャワでは他地域に比べて多 くの寺廟がこの PTITD に加入し,「トリダ ルマ礼拝所(TITD)」としての地位を得る ことになる。中には,消極的理由からこの連 合会に加入した所もあるようであり,たとえ ばトゥバンの町の寺廟などは,「そのまま(= どの公認宗教の傘下にも属していない状態) では閉鎖されかねなかったので」,70 年代も 半ばになってからようやく TITD を名乗る ようになった33) 。いずれにしても,同州内で は現在確認できるだけでも実に 39 もの寺廟 がこの PTITD に加入している34) 。 さて,この PTITD は,スハルト体制下に

30) 2009年 8 月 30 日,鳳徳軒(Hong Tik Hian)において PTITD se-Indonesia の第一主席兼常務執 行主席,王欽健(Ong Khing Kiong)氏へのインタビューによる。PTITD se-Indonesia の成立 経緯については PTITD se-Indonesia[1988: 1]も見よ。 31)この三教會は,その名の通り 3 つの教えの融合を標榜してはいたが,そこで説かれる仏・儒(孔)・道の 各教義の間には必ずしも整合性が取れていなかったことが指摘されている[Willmott 1960: 253]。 インドネシアにおけるトリダルマ,および三教會の略史については Djajadi[2003: 1-10],三教會の 活動の概略については石井(監修)[1991: 190-191]の「三教会」の項(執筆者:今永清二)を見よ。 32)ジャカルタを中心とする GTI とスラバヤを拠点とする PTITD のそれぞれの聖職者団体は,1977 年に 1 つの連盟を築き,さらにその 2 年後には全インドネシア・トリダルマ聖職者評議会(Majelis Rohaniwan Tridharma Seluruh Indonesia, 略称:Martrisia)として完全に一体化した上で,マ ハーヤーナ系やテラヴァダ系など 9 つの仏教団体とともに,インドネシア唯一の仏教統一連合会と して結成された WALUBI(=Perwalian Umat Buddha Indonesia)の正式メンバーとして名を連 ねた。しかし 1997 年には,Martrisia からジャカルタおよび西ジャワの支部が再び分離し,翌年そ れらは新たに独自組織(Majelis Agama Buddha Tridharma Indonesia)を結成している[Djajadi 2003: 2-9]。

33) 2009年 2 月 2 日,トゥバンの寺廟管理・運営組織の副書記(wakil sekretaris),余慶興(Ie Khing Hien/Nur Iskandar)氏へのインタビューによる。

34)今回筆者らが訪れることができた東ジャワ州内 17 寺廟のうち,15 箇所が PTITD に名を連ねてい た。PTITD に属していなかった 2 箇所とは,カウィ山と観音堂(ジュンブル)である。この ↗

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おいては孔子教と道教が公認されていなかっ た関係で,制度上は仏教の一団体として自ら を位置づけてきた。しかし教義上はあくま でも仏教・孔子教・道教を一体的に奉じて おり35),そのため PTITD 傘下の寺廟には, 3 つの教えを体現する三(教)聖人(Yang Mulia Tri Nabi/Tri Suci),すなわち釈迦牟 尼・孔夫子・太上老君の像が,特別に祭壇を 設けて祀られている場合がほとんどである。 今回筆者らが訪れた東ジャワ州内の PTITD 所属の寺廟では,慈徳宮(パスルアン),龍 泉廟(プロボリンゴ),白蓮山(ジュンブル), 永安宮(マラン),保安宮(ブリタル),慈徳 宮(トゥルンアグン),慈惠宮(クディリ), 鳳山宮(グド),福隆宮(ジョンバン),茂淮 廟(モジョアグン),福善廟(モジョクルト), 鎮水廟(クリアン),関聖廟(トゥバン)の 13 箇所で三聖人の祭壇を確認できた(写真 2・3)36) 。これらの寺廟ではいずれも,配置 的に見て三聖人像が後年になってから付加さ れたことは明らかであり,実際にたとえば永 安宮(マラン)の釈迦像などは 1966 年に追 加されたことが資料にも示されている[Eng An Kiong: 3]。また 1857 年建立の慈徳宮(パ スルアン)では,もともと主棟左手前に建て 増された別棟内で孔夫子像のみを祀っていた が,60 年代後半に同寺廟が PTITD に加わっ たのを機に,「三教だから」という理由で釈 迦牟尼と太上老君の像も追加したとのことで ある37)。 ↗ うちカウィ山は,第 2 節で述べたように,本来はジャワ神秘主義の聖地に併設された小さな祠であ り,厳密な意味では寺廟として独立しているわけではない。また後者も観世音菩薩と福徳正神を祀っ てはいるが,実際には台湾に本拠を置く天道教群英道場の礼拝施設として 2008 年に落成した圓満 佛堂(Yuan Man Fu Tang)の敷地内に併設された,小さな祠に過ぎない。

35)PTITD の定款(Anggaran Dasar PTITD se-Indonesia(( )第 7 条第 4 項には,PTITD の目的として「全て の会員に対し,トリダルマ(仏陀,孔子,道)の教え/思想を与えることで導く」と明記されている。 36)一方,PTITD に加入しながら三聖人を祀っていなかったのは,保唐廟(ブスキ)と慈靈宮(トゥ バン)の 2 箇所のみであった。このうち保唐廟は比較的小さな廟であり,主棟内には陳府眞人を中 心に伽藍菩薩と福徳正神を,また外陣左翼には観世音菩薩と弥勒佛,それに関聖帝君を祀っている のみである。一方の慈靈宮は,同じ町内にある関聖廟と一体的に管理・運営されており,事務所・ 宿泊施設などの機能は圧倒的に規模の大きい後者の敷地内に一元化されている。三聖人を祀る祭壇 も関聖廟内に立派なものが設えられてあり,慈靈宮の廟公は「もう関聖廟にあるからこちらには必 要ないのだ」と語っていた(2009 年 2 月 2 日,慈靈宮でのインタビューによる)。

37)2009 年 1 月 27 日,慈徳宮で孔子教の礼拝指導を担当している Siauw Yoe Liong(Yudhi Dharma Santoso)氏へのインタビューによる。

写真 2.茂淮廟の裏 2 階に祀られている釈迦牟尼(中)・太上老君 (右)・孔夫子(左)の像(撮影日:2009 年 2 月 1 日)

写真 3.白蓮山の壁に描かれた三聖人

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上で列挙した PTITD 所属の寺廟は,もち ろんそれぞれで祀る主神は異なる。しかし, これらのうちでも十分な敷地を持ついくつか の寺廟では,主棟の後方に建て増されたス ペースに観世音菩薩や弥勒佛,そして伽藍神 として韋駄菩薩を祀るといった具合に,互い に神明の配置が酷似しているのも特徴的であ る。これらは,近隣の寺廟同士で相互参照し 合っていることは言うまでもなかろうが,そ れ以上に,上部連合組織としての PTITD が 奉じる教義・理念の影響が,傘下にある個々 の寺廟で祀られる神明の種類や配置にも影響 を与えたことが推察される。今後各寺廟での 調査で,PTITD への加入時期や神明を追加 した背景などをさらに精査していくことで, より具体的な関係性が浮かび上がってゆくも のと思われる。 ・中ジャワの寺廟 東ジャワの多くの寺廟がこぞって TITD としての地位を得たのに比べ,PTITD の影 響が弱かった中ジャワでは寺廟の地位がまち まちである。それらを概観すると,東ジャワ のごとく TITD を名乗っているものと,正 式名称ないし別名に仏教施設であることを 示す「ヴィハラ(Vihara)」を冠しているも のとに大きく二分されることが分かる。前 者の例としては,寶安殿(プカロガン)38)や 福徳堂(ジュパラ),ラセムの町の 3 つの寺 廟に加え,今回未調査の福徳廟(サラティ ガ:Salatiga) や 福 安 廟(ム ン テ ィ ラ ン: Muntilan),それにクドゥス(Kudus)の福 興廟・福徳廟なども挙げられよう。一方後者 の例としては,大覚寺(スマラン)の他に, やはり未調査ながらも福徳廟(ドゥマッ: Demak),保安宮(ソロ:Solo)などが知ら れている。ちなみに,スハルト時代に寺廟 は「ヴィハラ」になるようにとの圧力がきわ めて強かったとされるジャカルタや西ジャワ では,この後者のタイプが目立ち,その多く が萬丹院(バンテン)などの例にも見られる ように,正式名称としてサンスクリット語風 のもの(Vihara Avalokitesvara)を用いてい るなど,より仏教らしさを強調する傾向があ る39) 。 中ジャワの寺廟の中には,上記の分類から 漏れ出るような特殊な地位を持つものもあ る。特に際立ったものとして,ルンバンとトゥ ガルの寺廟の例を挙げることができよう。 このうちルンバンの慈惠宮と福徳廟の地位 については,別のところで詳細に論じたこと がある[津田 2006]。この両寺廟は 1970 年 代後半に釈迦如来像などを新たに祀り,また 正式名称も「ヴィハラ」を冠したサンスク リット語風のものに改めることで,一旦は公 認宗教仏教の下での安定した地位を確保す る。しかし,過度に「仏教性」を強調した結 果,カトリックに改宗した華人たちを中心に 寺廟離れが進むなど,様々な弊害が表面化し てきたことを受け,95 年に総会を開き,その 席で「クレンテンはクレンテンだ(Klenteng is Klenteng),それは華人の伝統的信仰の施 設であって特定の宗教施設ではない」とす る内容の定款を採択するのである。その後, 一旦取得していた「宗教施設」としての認

38)寶安殿の管理・運営組織は 1987 年に定款を改正し,正式名称を“Yayasan Klenteng Po An ian” から“Yayasan Tri Dharma”に変更している。スハルト体制崩壊後の 2000 年には再度定款を改正 し,名を“Yayasan Tri Dharma Klenteng Po An ain”と改めている[Gan (ed.) 2009: 93-94]。 39) PTITDに所属する団体(TITD)は法的にはすべて宗教大臣が認める宗教団体とされてはいたが

(Keputusan Menteri Agama No. H/31/SK/1979 tentang Penyempurnaan Keputusan Menteri Agama

No. H/29/SK/1979),その後も華人文化を規制する法令などを根拠に内務省や宗教省ヒンドゥー・

仏教総局などからの介入を受けることになる。そのたびに PTITD は,自身が歴とした宗教団体 であることを強調するとともに,傘下の TITD は三教を一体的に奉じる独自の宗教施設であっ て,仏教のみの礼拝施設であるヴィハラとは違うとする旨を,繰り返し主張することになる(cf. Surat P.T.I.TD No. 001/P.T.I.TD/I/1994 tertanggal 23 Januari 1994 prihal Kelengkapan T.I.TD sebagai Tempat Ibadah Umat Tridharma)

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定を取り消してもらうために,政府当局との 交渉に 1 年あまりを費やすが,釈迦如来像な ど仏像を撤去することを条件に,両寺廟は晴 れて「仏教施設」としての括りを外され,今 は「華人の伝統的施設」として単なる「クレ ンテン」を名乗っている。一般に「チナ」に まつわるものが公にはネガティヴに捉えられ ていたスハルト体制期にあって,どの宗教に も拠らずにむしろ「華人性」を前面に出すこ とで自らを位置づけようとしたこのルンバン の両寺廟の事例は,散見する限り今なお他に 類例を見ないきわめて特異なものであるとい えよう。 一方トゥガル市にある澤海宮は,1978 年以 来ヤヤサン・トリダルマ・トゥガル(Yayasan Tri Dharma Tegal:直葛三教基金會)とい う組織によって管理・運営されている。ただ しこの組織は,名前の上では「トリダルマ」 を名乗っているが,第 4 節で述べるように, 特に 2000 年からは道教色の非常に濃い儀礼 形態を導入するなど,PTITD とは一線を画 している。このため,「トゥガル独自のトリ ダルマ」であることを示すために,組織名に はあえて Yayasan “Tri Dharma Tegal” と引 用符をつけて標記することもあるようだ40) 。 以上見てきたように,この国の寺廟は,主 にスハルト体制下の困難な状況を切り抜け るという目的から,「TITD」になるにせよ 「ヴィハラ」になるにせよ,そのほとんどが 公認宗教である仏教の傘下に入ることで存続 を図ってきた。そうした対応は時には,祀ら れる神明の追加などに端的に現れるように, 名目上特定の宗教団体の看板を掲げるといっ たこと以上の変化を各寺廟に与えてきた。し かし注意しなければならないのは,仮に特定 の宗教団体のもとに身を寄せたとしても,そ れによって寺廟同士の関係が「支配―従属」 といったヒエラルキカルなものに一変するわ けではないということである。言い換えれば, 各寺廟はそれぞれが直面する内外の問題に対 して全面的に上部組織に頼れるというわけで はなく,独自に解決のための方向性を探り, 対処してゆかねばならないのである。無論, それぞれの寺廟を支えているコミュニティの 事情や,それを取り巻く社会環境はそれぞれ 異なる。そうしたことから,たとえば寺廟で 執り行なわれる儀式や礼拝のあり方なども自 ずと異なってくるわけだが,これについては 第 5 節で改めて述べることにする。 3.2. 寺廟の法的位置づけ 寺廟は最近になって,位置づけをめぐるも うひとつの大きな問題に直面することになっ た。それは,「ヤヤサン(yayasan)」として の資格を維持し続けるか否かという,法的身 分にまつわる問題である41)。 このヤヤサンというのは財団に近い法人格 で,社会活動,宗教活動,あるいは人道活動 を行なう非営利団体が半ば慣例的に用いてき た。ただし,従来ヤヤサンというもの自体を 直接的に規定した法令は存在せず,慣習に由 来する諸規則や一連の判例によってその地位 が位置づけられてきたに過ぎない。 スハルトが権力の絶頂に達した 80 年代半 ばには,非営利目的の社会団体(organisasi kemasyarakatan=ormas) 一 般 を 規 定 す る 法令が立て続けに出され,一応の法整備が なされた42) 。しかしそこでの眼目は,全て の社会団体がパンチャシラを基本綱領(asas tunggal)に掲げ,裁判所・内務省に登録す

40)2009 年 2 月 8 日,澤海宮の儀礼長(ketua upacara),陳敏善(Tan Min San)氏へのインタビュー による。

41)本節のヤヤサンの法的背景やその問題点に関する記述については,Djasmin[2008]を参考にした。 42)「社 会 団 体 に 関 す る 1985 年 法 律 第 8 号(Undang-Undang RI No. 8/1985 tentang Organisasi

Kemasyarakatan)」を皮切りに,それを補強する政令(Peraturan Pemerintah No. 18/1986)や内務66 大臣令(Peraturan Menteri Dalam Negeri No. 5/1986),および日本の66 NGO にあたる自助団体に関 する規定(Instruksi Menteri Dalam Negeri No. 8/1990 tentang Pembinaan LSM)などが出されている。

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るよう義務づけることにあった。これにより 政府は,国内で展開されるあらゆる集団活動 を,国家情報調整庁(BAKIN)や社会政治 総局(Dirjen Sospol)などの中央官庁,そ れに全国に張り巡らされた内務省系列の出先 機関を活用し,監視下に置くことができるよ うになった。しかしながら一方で,政治活動 もしくは秩序を乱すような活動を行なって いないと見なされた社会団体は,たとえ登 録しなくても問題視されることがなかった し,また仮に登録するにしても,その社会団 体がヤヤサンとして登録するのか,はたまた 協会や連合体といった団体(perkumpulan/ perhimpunan)43) として登録するのかについ てまでは,細かく問われることがなかったの が実態であった。そのためスハルト期には, 多くの寺廟管理・運営組織が一応の定款を定 めた上でヤヤサンとして登録を行ない,法人 格を得てきた44)。 1998 年にスハルト体制が崩壊すると,そ の後の政権は,冒頭に述べたように「レフォ ルマシ」を旗印に掲げるようになる。その 「レフォルマシ」が指す具体的意味内容は, 時期や当事者によって当然強調点が異なる が,一般には民主化や地方分権化,汚職の撲 滅など ―あるいは対華人政策の見直しな どもこの中に含まれるだろう ―が漠然と した共通理解であった。そしてそれらと並 ぶもうひとつ大きな課題として,「法の支配 (kepastian hukum)」の確立があった。これ は,Kカー・カー・エヌKNと略称される汚職(korupsi)・癒 着(kolusi)・ 縁 故 主 義(nepotisme) を 根 絶しなければならないという先述の課題とも 密接に関わっているが,同時に,少なからぬ 法令が未だにオランダ時代のものに依拠して いるという現状認識が背景にあった。こうし たことから,ポスト・スハルト期になって 徐々に様々な法改正・法整備が進められてゆ くわけだが,その一環として 2001 年と 2004 年には,これまで明確に定義されてこなかっ たヤヤサンを細かく規定する法令が発布され た。「ヤヤサンに関する 2001 年法律第 16 号 (UU RI No. 16/2001 tentang Yayasan)」,お よびその改正法である「2004 年法律第 28 号 (UU RI No. 28/2004 tentang Perubahan atas

UU RI No. 16/2001)」がそれである。 ところがこの 2 法の施行によって,多くの 寺廟は大きな問題に晒されることになった。 というのも,2004 年法律第 28 号第 71 条には, 同法施行以前に設立されたヤヤサンは施行後 1 年以内に,またすでにヤヤサンとして裁判 所に登録されるか官報に記載された団体は 3 年以内に,定款を新法の定めに則ったものに 改正しなければならない,と規定されていた からである。その新法,すなわち 2001 年法 律第 16 号第 1 条および第 2 条によると,ヤ ヤサンとは設立者(pembina)が特定の目 的のために一定の財産を分離して設立したも ののことをいい,最高意思決定権が付与され たその設立者(任期なし)の下には,実際の 事業執行者たる運営者(pengurus;任期最 低 5 年),そして運営を監視し運営者に対し て助言を与える監督者(pengawas;任期最 高 5 年)を置く,とある。またヤヤサンには, これらの役職以外には会員(anggota)もい なければ民主的意思決定の場としての会員 43)この“perkumpulan/perhimpunan”については,未だにオランダ時代の官報(Staatsblad 1870 No. 64)および現行の民法(1653-1665 KUH Perdata)によって緩やかに規定されているのみに過 ぎず,ヤヤサン以上に法的位置づけが曖昧である。

44)たとえばルンバンの旧寺廟管理・運営組織 Yayasan Metta Bhumi は 1975 年に設立されたが,ル ンバン県裁判所への登録が行なわれたのは 1986 年 3 月 8 日―註 42 で言及した 1985 年法律第 8 号が発布された 9 ヵ月後―であり,またルンバン県社会政治事務所への登録は 1994 年 10 月 24 日になってからなされている。一方,寶安殿(プカロガン)はすでにオランダ時代から団体 (Vereeniging)登録をし,その定款は 1917 年に東インド総督からの認可を受けている[Gan (ed.)

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総会(rapat anggota)のような機関もない, と定められている。 しかし一般の理解では,寺廟は,外に向かっ て広く開かれたものとして,そして町の華人 たちが協力し合って維持・管理すべきものと して受け継がれてきたのであって,新たに法 令で定められたヤヤサンの形態が果たしてそ うした寺廟のあり得べき姿にそぐうのかどう かということについては,各寺廟で判断が分 かれているようである。 た と え ば プ ロ ボ リ ン ゴ 市 の 龍 泉 廟 は, 1970 年代初めに「当時のインドネシアの時 代状況に対処すべく」一旦ヤヤサンの形に しているが,上述の法施行を期に 2009 年か らは「元の本来の形である礼拝所(aslinya dulu; tempat ibadah)」に戻すことが決まっ ているという45) 。またトゥバンの町の 2 つ の寺廟を管轄する組織は,スハルト時代に 「ヤヤサンでないと法律上保護されぬ恐れが あったから」との理由でヤヤサンを組織した が,やはり同法施行後に設立者や何やを設 けねばならず煩わしいとして,「普通の団体 (perkumpulan biasa)」に戻しているとのこ とである46) 。このような対処を行なった寺廟 としては,他に慈徳宮(トゥルンアグン)な ども挙げられる。 一方,たとえばマラン市の永安宮の伽藍内 には,正副会長や秘書職,会計職など役割分 担のなされた運営陣の上に,5 人の監督者, さらに 3 人の設立者をヒエラルキカルに配 置した組織図が大きく掲げられている(写真 4)。保安廟(ブリタル),寶安殿(プカロガン) なども,実際の運用面での権限がいかばかり かは不明ながら,組織上は明らかに設立者職 などを置いている。 ま た ル ン バ ン の 現 寺 廟 管 理・ 運 営 組 織 (Yayasan Dwi Kumala)は,1996 年にすで に定款を作成してヤヤサンとしての登記を済 ませていたが[津田 2006: 註 69],新ヤヤサ ン法施行に伴い設定された期限である 2008 年 10 月までに,定款を新法に沿ったものへ と改めている。ルンバンではここ 10 年あま 写真 4.永安宮に掲げられている 役員組織図(撮影日:2009 年 1 月 30 日) 45)2009 年 1 月 28 日,龍泉廟の会長(ketua),李子昇(Listyo Sentoso)氏へのインタビューによる。 46)2009 年 2 月 2 日, 関 聖 廟 で の 余 慶 興 氏 へ の イ ン タ ビ ュ ー に よ る。 な お,“perkumpulan/ perhimpunan”については註 43 で述べたように,未だ法整備がなされてはいないが,現行法によ れば,特定の理念に基づき社会・宗教・人道などの分野での活動を目標に掲げる団体は,公証人の 前で定款を作成して法・人権相の承認を受ければ,この“perkumpulan/perhimpunan”として法 人格を取得できる。その場合,ヤヤサンとは異なり,組織上設立者を持たない一方で会員を持つこ とができる[Djasmin 2008]。

参照

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