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Title
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判
Author(s)
松竹, 秀雄
Citation
経営と経済, 65(4), pp.1-50; 1986
Issue Date
1986-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/28279
Right
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判
郵便汽船三菱会社に対する
「無類保護評価」批判
松竹秀雄
1.はじめに 2.明治以後の我国の海運政策 (1)商船・郵船規則による国旗制定・廻漕全社設立まで (2)日本国郵便蒸気船会社に見る助成 (3)パシフィック・メイル杜と三菱蒸汽船会社の角逐に見る助成 (4)ピーオー会社との競争及び西南の役 (5)大阪商船・共同運輸そして日本郵船設立 3.明治14年の政変 4.弁妄書と三菱の決算書 5.西南の役に関する三菱について (1)三菱に対する批判及び三菱の収益 (2)三菱は「冒険貸借」に投資したとする見解 6.海運萌芽期における三菱の役割と抱負−総括 1. は じ め に 郵便汽船三菱全社に対して、三菱が沿海航路を独占して貨客運賃を左右し (1) 商業発展を阻害しているとの非難が一斉に出始めたのは,海運史料の題言に 「我邦海運論ノ世二起ルヤ明治14年内閣更迭ノ後ヨリ明治18年日本郵船全社 創立ノ日二至ル4・54紺拍リ盛ナルハナシ。而シテ其間二於テ世論ノ隠顕 出没モトヨリ状態ヲ同フセズ。或ハ争機隠微ノ中二在りテ末ダ発セズ。タト ェバ地底ノ暗流,雲中ノ造雷ノ如ク知ル可クシテ聞ク可カラズ。聞ク可クシ テ見ル可カラザル者アリ云々」とあるように,明治14年以降である。また、明治15年11月30日師岡国編輯になる「三菱会社内幕秘聞記)には,三菱に「無 類保護」という肩書きをつけている。その内容は1"共同運輸会社の設立を 温まん為め岩倉右府及び野村駅逓総官へ差出したる三菱会社の意見書」と, 「其筋に於て右意見書を以て徒らに彼が妄説を逗しくして私曲を庇はんと欲 するの心情に出でたる所為なりとして三菱会社へ与えられたる弁妄書」の2 編である。 これ以後、今日に至るまで郵便汽船三菱会社に対する助成の見方は,安易 に「無類保護?)という括弧でくくられることとなって行くのであるが,弁妄 書を起草した「其筋に於て」とは「政府-筋」のことであり,国会図書館所蔵 「樺山資紀文書」の中に,新聞掲載文よりは'A¥Iいが曾視庁用紙に苦かれ,側 外に書入れがあってこの弁妄書の原案と見られるものがあるため,枠山智視 総監に近い政府筋の者の執筆と見られている(.1) 時の政府は,明治14年末から密かに共同運輸会社の設立を計画し,明治15 年7月26日付命令書を新会社に交付し,明治 16年 1月営業開始となって行っ たが,当時新聞雑誌の論説には共同運輸会社の設立を可とするものと否とす るものの両論が現われて世論は沸騰した。賛成論は明治日報・自由新聞・中 外物価新報などであり,反対論は郵便報知新聞・東京横浜毎日新聞などであ り(5)その多くは政府・自由党・改進党の論客て‘あって,互に論難攻撃し,三 菱対共同運輸の問題は政党聞の抗争或いは政府と野党の抗争にすり代えられ たといわれる。 本稿は弁妄書の内容にも幾らかは触れながら,郵便汽船三菱会社を無類保 護として急激に攻撃する原因となった明治14年政変に立入り,そして定期船 海運業経営及び海運助成という観点から明治以降の我国海運を見,且つ三菱 が確固として海運業の地歩を築いた明治の内乱と,ベンチャー企業三菱との 関係を新しい観点から見直し,それが一概に無類保護として片付けられるべ きでないことを論じようとするものである。 何れにせよ,明治初年の出来事を現代の感覚で論及するには難しいところ もある反面,冷静に判断出来る利点もあると思えるが,交通関係に於て陸上 の歴史的経過をみてみれば,新政府は慶応、4年 5月17日 (9月 8日から明治
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 3 元年)布告に於テ r諸国街道筋ニ於テ私ニ関門又ハ番所等ヲ建ルヲ禁ズ、」 として徳川時代までの前世紀的関所廃止が始まり,明治5年1月18日太政官 布告の r東海道伝馬所ヲ廃シ,諸官員通行休泊等相対ヲ以テ処弁セシム」 に於て r相対ヲ以テ相当ノ旅龍料相払ヒ,駅方ノ厄介ニ相成ラザルヨウ心 付ケ申ス可キコト」と,現代では当然過ぎることの通知がなされ,その翌日 の明治5年 1月19日通達に r東海道伝馬所並ニ助郷廃止ニ付キ,陸連会社 ヲ取建シム」とあり 9日さかのはる 1月10日に同じく大蔵省通達で「束海 道駅詰メ駅逓掛員廃止」と「束海道伝馬所廃止ニ付キ,以来公事旅行ノ人馬 モスベテ陸連会社ニ依託セシム」とあって,近代的装いに脱皮して行く様が うかがえる。また新時代への移行に混乱が見られ,明治 5年 10月25日の大蔵 省通達に於て陸連会社は相対継の様業であって,物11:運輸の私会(社)で従 前の伝馬所とは全く別種のものであるから「其ノ宿駅ニナセル借財」は「陸 連会社へ引受ケル理ハ之無クJr旧借財等ノ取扱方ノ、悉皆其ノ宿駅ノ戸長へ 引渡シ,カレコレ交渉セザルヨウ」とこと細かな通知がなされている。 海運は国際的関連があって,陸上のように国内問題として単純にお上の通 達のみで処理されない複雑さ,困難さがあった。以下,明治政府の海運に対 処した苦悩及び日本海運の契明をみてみよう。 (注) (1) liiflt運史半h博文館, 1886年。 (2) 海事史料叢書』躍松堂書出¥1931年,第20巻, 258頁。 (3) 日永祐治「交通における資本主義の発展』岩波書目, 1953年, 119頁。岡庭↑I,V- liif正Jlli の経営Ji/:正文堂, 1972年 9頁。篠原防ー外 liiI/t述概説Ji/正文堂, 1979年, 26頁。志it! 田氏diliì毎~J~立法の発展』海文堂, 1959年, 30flo 1JUdi照義「二大定期船会社の創立」 山鯨記念財団「海JI~交通研究」抗 16ft , 72頁。ほか。 (4) 脇村義太郎編「岩崎弥太郎伝」東京大学出版会,下巻540!T。 (5)脇村義太郎制・前拘書, 539n。
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明治以後の我国の海運政策
(1) 商船・郵船規則による国旗制定,廻漕会社設立まで 明治初年のわが国海運は,文久元年(1861)の幕府による「庶民大船所有」 許可があり,実質的に民間に西洋型船舶の所有が自由となったのが慶応2年 (1866)であって,明治元年(1868)に米国のマウス商会が小蒸汽船スタンチ 号で神戸・大阪間を航行して一般旅客と普通貨物を輸送し(1)また慶応4年(1868) 4月に大阪運上所の所属汽船浪花丸が大阪・椋ー浜間の飛脚船として動き,同年 6月横須賀と横浜問に横須賀造船所所有の横須賀丸が毎週 3回乗客専門に往 復した(2)と記録されてはいるものの,殆どは旧幕時代の和船廻消であり,江 戸と大阪間の物資輸送を受持つ菱垣廻船と伊丹・i
難のj酉を江戸に送る樽廻船 があり,北陸・奥羽・北海道と阪神を結ぶ北前船,そのほか阪神と九州を結ぶ 廻船などがあった。何れも「専ラ夫ノ千石積・二千石和ト称スル和様ノ船舶 ニ依頼シ,遠州洋ヲ以テ不illiJノ危険ナル処トナシ,芯ナク之ヲ来リ過ギルヲ 以テ再生ノ幸ヲ得タリトスル如キ有様ナリシ(?という程度の状態で、あった。 1867年(慶応3),アメリカのパシフイック・メイル社 Pacific Mail Steam Ship Company (俗に大平洋郵便蒸汽船会社)はサンフランシスコと 上海の間に航路を聞き(4)横浜にも寄港していたが;両社は附4年の米国海運補助 法による補助を得てサンフランシスコ ハワイ 日本支那聞の受命航路とし て定期航路を開設しようとしたもので,この航路就航のため3881トンの外輪 船が1866年8月に進水している。 同社はわが国海運の未発達の現状を見て, 日本沿岸の航運をも同社に委託 するよう日本政府に詰願した。「日本沿海の運搬を聞き,之を盛んならしむ べし。若し未聞の人民にありては斯業容易に起す能はず,政府亦起業し能は ざる事情あらば,姑〈之を当会社に任命の特許あらんことを請う」というも (6) ので,その回答を督促すること急であった。 新政府は慶応4年(1868) 2月3日,三職八局職制を定め I内国事務局J によって「京畿庶務及ビ諸国ノ水陸運輸・駅路・関市・都城・港口・鎮台市郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 5 手ノ事ヲ督ス」と運輸管理を行わしめ,慶応 4年 8月19日 r……以来,軍 荷台ノ外,仮令武家所持ノ分ト雄モ,商船遊船ノ向キ残ラズ相改メ,税銀上納 改済ノ分ハ目印ノ焼印相付申スベク,無印ノ船決シテ往来相成ラズ、候事」と 船舶課税の「管船令」を出した。同年9月8日,世は明治と改元された。 明治2年(1869) 2月22日,政府は行政官布告を以て r今 般 諸 開 港 所 ニ 於テ新ニ通商司を取建,貿易事務一切管轄可致旨被仰出候事」として「通商 司」による貿易事務を開始し,同年 10月 7日 r西洋形風帆船・蒸汽船,今 ヨリ百姓町人ニ至ルマデ所持差許サレ候間,製造又ハ買入等致シ度キ者ハ, 管轄府藩牒添書(この時点では未だ藩が存在していた)ヲ以テ束京外務省へ 願出ズベキ事。但シ,身元不タシカノ者ドモ,外国人馴レ合イ御国人所持ノ名 ヲ貸シ与へ候様ノ悪弊コレ無キヨウ府落府:ニ於テトクト吟味ノ上添書致ス可 キ候事」と,西洋型船舶の民間所有を急ぎ徹底させようとした。このような こ と か ら 汽 船 も 漸 次 増 加 し 旧 江 戸 積 問 屋 ・ 廻 船 問 屋 等 は 時 勢 の 変 化 に つ れ和合庖(後の東京荷積商組合)・九重社・廻運社(侍船問屋及びその荷主 より成る)とそれぞれ組織を改め,西洋船をも使用してここに菱垣廻船・樽 廻船というものはなくなった
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そして明治3年(1870) 1月 間 , 政 府 は ①政府(通商司)管轄の下に廻消会社を設立することとして,②蒸気郵船規 則(廻消会社運航の細目を規定)を定め,③商船規則(商船免状など規定) によって日本国旗の制定及び国旗の寸法,国旗掲揚の時間帯などを定めた。 こ の 商 船 規 則 に は 一 体 , 日本製造ノ船ハ度々難破ノ忠モコレアリ,人命 荷物等ノ損傷少ナカラズ,詰リ,皇国ノ御損失ト相成リ候ニ付キ,追テハ残 ラズ西洋形ノ大船ニ仕替度キ御旨趣ニ付キ,当今西洋形ノ船所持ノモノハ厚 ク御引立泣ハサレ候条」と,西洋形船舶所持者に特別の保護助成の計画が明 らかにされている。このとき汽船個人所有許可の布告(明治2年)にみる 「……管轄府薄腕添書ヲ以テ」にあるように,未だ滞が存在して居り明治 4 年 7月14日の詔書・勅語・布告による廃藩置燃を待って,やっと近代的政治 形態に辿り着いたのであった。(2)日本国郵便蒸気船会社に見る助成 パシフィック・メイル社(太平洋郵便蒸汽船会社)は,明治3年にサンフ ランシスコからの航路を,横浜から神戸・長崎を経て上海に至る定期支線を 設けて了)太平洋側に於ける旅客貨物の運輸を掌握した。即ちわが国の沿海の 航権が同社の手に握られる形勢となった。 ところで,明治3年政府設立の廻漕会社は幕府から接収した汽船を以て, 束京・大阪聞の貨客運輸並びに貢租米指定運送機関として営業を開始したも のの,老朽船が多かった事と,経営陣に人を得ず,明治4年 1月,僅か 1年 で解散した。政府は廻沼会社解散後直ちに廻漕取扱所を設立して廻漕会社業 務をヲ│継いだ。同年7月,廻油会社を管轄していた通商司は廃止されたが, その同月の廃藩置燃により諸藩の洋式汽船を政府が回収し, これを廻漕取扱 所に年賦払下げして営業を強化し,新たに株式組織を以て会社を設立せしめ る事とし,運航助成金を与える事とした。新会社は貢租米指定運送を含む廻 漕取扱所の業務を引継ぎ,明治5年 8月三井組・鴻池組・島田組・小野組等 の豪商によって設立された。名称を日本国郵便蒸気船会社とするこの株式会 社は,時の長洲藩閥政府との深It"'*:まによって出来たといわれ,交附船舶十数隻 の払下代価25万円は無利息 15ヶ年賦,大蔵省より 60万円を逐次下附する予約 を与えられ,運用資金は政府管轄の為替会社から融通の便宜を受け,政府貢 米輸送・郵便物託送を委託されて束京・大阪聞の定期航海,石巻・函館間の 不定期航海を開き,そのほかに年額6000円の補助金を以て沖縄航海を命ぜら れた。 幕末から明治にかけて先進国欧米の諸制度・会社組織の急ぎ導入が行われ たが,前記廻沼会社並ぴに廻
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取扱所は半ば官業であって,明治5年 8月に なって株式会社としての国立銀行が生まれ,同時に日本国郵便蒸気船会社が 認可されたものである 明治 5年 11月15日太政官布告349号の国立銀行条例 によれば I国立銀行元金ノ株高ハ百円宛ヲ以テ 1株トナシ,其者ノ望ニヨ リテ何株ニテモ之ヲ所持スベシ(第5条 1節)J. I此株高ヲ所持スル者ハ何 レノ族属何レノ職務アルニ拘ラズ総テ其持高相当ノ権利アルベシ(第 5条 2郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 7 節①」とあり, 日本国郵便蒸気船会社の「申合常則
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には「当会社ノ株金ハ 五百円ヲ以テ壱個トス(第1則)J, I株主自分ノ都合ニヨリ其ノ株証文ヲ何 等ノ価ヲ以テ他ニ売渡シ,或ハ譲渡ストモ勝手タルベシ(第4則 )J とあり, 株主という名称と別個に,株主の意味の社中といっ表現もある。なお,銀行 がなかった時代の金融のーっとして三菱創業時代の岩崎弥太郎は主として外 国商館から借入を行なったという。 これより先,明治4年 1月24日太政官布告40号を以て I東 海 道 筋 ニ 新 式 郵便ヲ開キ規則ヲ定ム」とある。飛脚便から郵便への大改革であった。但し 賃銭は未だー率ではなく 1里まで100文,最遠距離の束京・大阪問は 11T 500文などとあるが,新創立社の社名に郵便の名があるのは,貢米と共に郵 便物の運送が大きな目的でもあり,安定した運賃収入であると共に,之によ って政府助成が確約できた事を示すものであった。 貢米については,明治3年 1月の蒸気郵船規則の中に I米100石ニ付,金 120両」という運賃が明示してあり,同 3年 8月10日(大蔵省)I諸国立米ノ 儀,是マデ地雇船ヲ以テ差廻候処,当午年ヨリ以来,束京廻ノ分,思Ij紙綻書 ノ趣ヲ以テ蒸気船外国形帆前船等差廻シ運漕ノ筈ニ候条云々」の通達に拘ら ず,同年9月15日(大蔵省)I諸国貢米,当年ヨリ外国形帆前蒸気両船ヲ以 テ廻漕致ス可キ旨,兼テ相達シ置キ候処,差支ノ儀有之ニ付キ, 日田・浜田 両燃ノ外,諸府!際貢米ハ去年巳年ノ通リ地雇船を以テ,兼テ相達シ置キ{民地 方へ運漕御蔵納取計イ申ス可ク,此ノ旨相達シf
民事」とあり,更に同年11月 29日(太蔵省)I……地雇船ヲ以テ廻m
取計ウ可キ旨先般相達候処,地船原 附方差支候趣申立候向モ有之候ニ付キ,蒸気船差向為積請候条云々」と,廻j
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会社時代にはかなり混乱が見える。 明治5年 8月20日太政官達では, 日本国郵便蒸気船会社発足と共に従来の 取扱方を改め I府J際貢米納方之儀同規則」に於て「……無益ノ那賀相掛リ 村々可為難儀ニ付,一般改正府W
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便利ノ港々へ材方ヨリ運送云 々J I桔取船入洋致シ居リ候ハパ第六則以下ノ例ヲ以テ直チニ納廻シ取計船 方へ相波ス可キ事」等々と宍米収納の方法が改正されている。そして明治5 年10月17日(大蔵省)I各地方収入ノ武米大廻P
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ノ儀,当壬申ヨリ米q
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戊マデ3ヶ年ノ間,郵便蒸気船会社へ委任致シ候条,各地方官ニ於テ其旨相心得 ベク此段更ニ相達{民事」と郵便蒸気船会社名を明記して令達している。この 当時,三井が政府と密接な間柄であったことは,次の通達でもわかる。明治 5年1月20日の「旧薄々去未年貢米上納方」に r但シ大阪納ノ場所金納ノ 分,同所御用為替方,三井組切手ヲ以テ相納候儀苦シカラズ云々J,同年2 月27日「府豚貢米租税寮出張所へ納方心得」に「但シ別紙国々ノ分ハ大阪出 張三井組為替座へ預ケ同所証書ヲ以テ上納ノ儀ト相心待ベキ事」として別紙 国々には伊勢を除く近畿地方・中国・四国・九州、│の全部及ぴ佐渡が指定され ている。このような経過は,旧藩時代の西洋型船舶を政府が引継ぎ,政府は 諸制度を欧米諸国にならって整備しつつ,三井をはじめとする旧幕からの金 融資本の助けを借り,政府も当然のょっに大型援助を与えて,アメリカの大 平洋郵便蒸汽船会社など欧米の外圧を排除するために懸命に努力した姿であ った。即ち,日本国郵便蒸気船会社には明治初年の政府保有船,廃藩置燃によっ て政府所有となった各藩の西洋型船舶のすべて,及び貢米輸送・新市Ij度の郵 便逓送その他,金融資本,政府助成金など悉くこの会社に合流したといって よい。そしてこの間,神仏分離公布(慶応4年3月)が出て全国的に排仏段 釈運動で混乱し,太政官札が発行され,江戸城を束京城と改めて皇居とし, また欧米諸国の猛反対の中,長崎のキリシタン大弾圧(浦上四番崩れ)を行 なって約 4千人を全国21の藩に預けて強制改宗を試み,廃藩置j採を断行し, 入墨の刑を廃止し,平民に名字の称、を許し,兵制統ーを布告した。また平民 の帯万を禁じ,平民の乗馬を許可し,戸籍法を布告(明治4年 4月), 華士 族平民間の通婚を許可(明治 4年 8月),新紙幣を発行(明治 4年 12月)し, 明治5年12月2日を以て太陰暦を改め,翌3日を太陽暦の明治6年1月1日 とした。仇討を禁じたのは明治6年2月7日である。禄を離れた旧士族が地 方に不平を鳴らして世情不安で、あり,上からは「明治」というけれど,下か らは「治まるメイ」と読むといわれた疾風怒震の大変な時代で、あった。
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パシフィック・メイル社と三菱蒸汽船会社の角逐にみる助成 一方,明治3年10月,土佐藩船3隻を借受けて田市業を始めた九十九商会郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 9 (代表者・土佐屋善兵衛)は,外見は民間企業の如くして,内実は土佐藩の み つ 御用船というこ面性の経営であった。これが廃藩置!孫を経て明治5年 1月三 川商会と改称し,土佐藩からは独立した旧土佐藩士の組合商会となった。こ の時点では岩崎弥太郎は実質的には土佐屋善兵衛という名の代表者であった に拘らず,まだ岩崎としては表面に出ていない。三川商会は明治6年 3月30 日に岩崎の私商社として三菱商会となる。この頃既に日本国郵便蒸気船会社 とは激烈な競争に入っていた。 三菱商会は大阪を営業の中心としつつも明治7年 4月に本拠を束京に移し, 社名を三菱蒸汽船会社と改称した。この時期には三菱会社は明治7年2月の 佐賀の乱に輸送役務を受けて功を立て,大阪-東京,神戸 高知,神戸 博 多,四日市の勢州航路を経営して,政府肩入れの日本国郵便蒸気船会社針変 駕しようとする勢いであった またアメリカの太平洋郵便蒸汽船会社はその 前年明治6年に横浜に支庖を設け,その横浜支屈は「亜米利加四番
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といわ れ,その会社は俗に「四番船1
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と呼ばれ,隆々とわが国沿航に覇をとなえて し.t..こ。 この頃,わが沿海航路に於て日本国郵便蒸気船会社と太平洋郵便蒸汽船会 社は激しい競争を行なっていて,明治6年6月14日の太政官布告211号には, 「近来,郵便蒸気船問屋或ハ取扱所等ノ看板ヲ相掲ゲ候者多分コレアリ候処, 日本国郵便蒸気船ト米国太平洋郵便蒸気船ト相混ジ候ニ付キ,今ヨリ日本国 及ビ米国太平洋ノ文字ヲ加へ,判然区別シ申スベキ事」とある。このとき太 平洋郵便蒸汽船会社(以下パシフィック・メイル社と呼ぶ)は, 1864年の米 国海運補助法による年額50万ドルのほか, 1871年(明治4年), 別 に 並 行 の 1線(月 2回航海)を開くことによる年額50万ドルの補助を請願して許可が あり,計100万ドルの補助を得て活躍していたものである。 日本国郵便蒸気船会社は,政府から西洋型船舶の年賦払下げを受けてはい たものの,老朽船が多く,設立当初60万円を年々下附するという契約もその 実,船舶修結費にそれ程の多額を要するということであって, しかもこの60 万円は大蔵省会計法の政正のため下附の運び、に至らず了)また経営陣に人を得 ず, 日本人の海技未熟のため甲板部にも機関部にも外国人と日本人を併用するなど出費がかさみ,三菱会社が上昇してくるのと反対に経営困難におちい ってしまった。 明治7年4月の台湾の役に際しても,政府は日本国郵便蒸気船会社に軍事 輸送を依頼しようとしたが,同社の船腹内容が悪く,また同社は軍事輸送を 引受ければ,その間国内各航路は三菱会社に押さえられると考えて政府の申 出を断ったとも,また井上馨に代表される長州閥を背景とした郵便蒸気船会 社は政府部内における薩長の反目の結果之を受けなかったともいう。三菱会 社もまた日本国郵便蒸気船会社との運賃値下げ競争で船舶修繕が十分でない と見られており,政府はアメリカのパシフィック・メイル杜に船舶借用を交 渉したが,同社はアメリカ政府の局外中立宣言によって之を受けなかった。 依て,政府はにわかに1,576,800ドルを支出して 13隻の汽船を購入するこ ととし(22)三菱会社に運営を打診した。三菱は機乗ずべしと「弊社所有の汽船 数隻を以て敢て国思の高ーに報ぜ、む」と申出,官船運航の大任を引受けた。 三菱はよくその任務を全うして官憲の期待にこたえ,以後日本国郵便蒸気 船会社を圧倒して行く。日本国郵便蒸気船会社の没落はその外の理由として, ①貢米輸送をしていた同社にとって米納制度が廃止され,地租改正条例を以 て金納となったこと。明治6年7月27日太政官布告272号「今般地租改正ニ 付,旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆相廃シ,更ニ地券調査相済次第,土地ノ代価ニ 随ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト相定ムベキ旨仰出サレ候条,改正ノ旨趣別紙条例 ノ通リ云々J。②日本国郵便蒸気船会社を資本的に支える一本となっていた 小野組が破綻閉庖し,三井組・島田組にもその影響が及び資金に行詰りを生 じたこと(23)等があげられる。この間に,三菱蒸汽船会社は台湾の役の輸送に よって大きく伸びて行く。明治7年 7月28日,三菱は台湾蕃地事務局と「海 運担当約条」を取決めた。「即今海外有事之際ニ当リ海運尽力ノ命ヲ奉ズ。当 社ニ於テ粉骨砕身報国ノ義務ヲ尽シ,公用ヲ弁理スルヲ専務トスベシ(第1 条)JI御局ノ船舶ハ総テ当社ニ於テ御預リスル上ハ,運用ノ便利,修結ノ得 失ハ勿論,諸般ノ事件ニ深ク注意シ云々(第2条)J。そしてこの約条に三菱 が含めた重大な条項は第7条である。「無事ノ時ニ在テハ,御預リノ汽船ヲ 以テ人民運送ノ便ヲ広大ニシ,盛ンニ回航ノ利ヲ開クハ己ニ当社ニ許可ヲ賜
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 11 フモノトス」。 こ れ ら の 約 条 に 対 し 蕃 地 事 務 局 長 官 御 用 掛 の 名 を 以 て 今 般 , 当 局 所 持 ノ船,其社へ相預ケ候ニ付イテハ,別紙海運条件ニ照シ,諸事不都合コレ無 キヨウ,厚ク尽力致スベキ候。此段相達シ候事」と通達した。同年10月, 日 本は清国と台湾問題に関する北京条約を締結した。日本政府は,征台の役に 購入した船舶13隻をあげて三菱会社に委託した一方で,パシフィック・メイ ル社に対抗させるため,明治8年1月に三菱会社に上海航路の開始を命じた。 依て三菱は受託船中の4隻を以て,直ちに 2月より横浜 上海間に毎週l回 の定期航路を聞いた。但しこれには毎航海2万円の損失となり i最 初 こ れ が計画をたてた蕃地事務局も,のちになってこれを引きついだ駅逓頭もその 始末について頗る苦心を重ねた?という。 これと併行して,政府では台湾征討に際し外国大型船舶に輸送依頼しよう としたが中立宣言によって拒否され,また沿岸航路は日本国郵便蒸気船会社 が脆弱であってパシフィック・メイル杜らの跳梁を黙視している状態に鑑み, 海運政策の根本的建直しを計画した。明治8年 5月18日,内務卿大久保利通 は i商船管掌事務ノ義ニ付キ正院へ御伺案」を提出した。これが海運三策 といわれるもので,海運対策3案をあげてその何れか 1案を採択するように 要請したものである。その要旨は 第1案我国の海運を民営自由主義とする。 第2案 政府の保護管轄の下に民間会社を育成する。この場合,民間の 有力な会社を合同せしめ,これに海運を一任する。 第3案政府官営によって海運事業を行う。 第 2案の説明要点は i……①政府ヨリ運行ノ皮ヲ相当に定メテ,此会社 及ビ他の船主ヲシテ蹴ニ之ヲ遵奉セシムベシ。……②但シ即今ノ如ク太平洋 郵船会社ト抵抗スルヨリ生ル大損失ハ, ~Ijニ救フノ術ヲ設ケザルベカラズ。 若シ此ノ施設無クンバ,恐ラクハ即今吾国所有ノ船舶四,五年ヲ出ズシテ皆 敗治用フベカラザルニ至ルベシ。……③尚若干万額ノ助成金ヲ政府ヨリ年々 思賜シ,其報トシテ郵便等ヲ運
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セシムベシ。若シ此ノ思賜金無クンパ,此 新創会社ノ成立決シテ保全スベカラズ。④此ノ方法ヲ以テスルノ¥唯政府ト人民ノ事業ニ区別アルヲ明カニシ,政府直チニ之レヲ為サザルノミ。其ノ実, 政府専ラ任ジテ之ヲ掌ルト恰モ同般ナルベシ。且此挙ニ出ツヅ引ル前日
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通邑商司ノ 廻j活漕E
曹i会社ニ於ケルカ れた翌月の8年6月' 日本国郵便蒸気船会社は力尽きて解散し?翌月の7月 10日,参議列席の閣議審議に於て第 2案海運民営政府補助の採択が決定し, 続いて同7月29日付,大久保内務卿は商船管掌実地着手方法ノ義ニ付伺」 を以て第2案の民間会社には三菱を指定ありたき旨を上申し 8月10日太政 大臣三条実美の名を以て三菱起用の允可があった。その文には I何 ノ 趣 間 キ届ケ,本年分資額30万円助成金トシテ相波候条,大蔵省ヨリ受取ルベキコ バ)と助成金額を付してある。依て内務省駅逓寮は明治 8年 9月日日,駅逓 頭前島密の名を以て「第一命令書」を交付した。その命令書の要旨は,①台 湾の役以来委託中の束京丸以下の 13隻を三菱に無償下渡し,②運航助成金と して l年 25万円を給与する。③三菱は郵便物及び官物を託送する。④上海航 路は従前の如くし,内海運航と計算相当を目途とし,協議を以て漸次開申せ しむるときは別に相当の助成金を与える。⑤海員養成の助成金l年 15,000円 の割合で与える。⑥期間は 12ヶ月間が試験期間で,その後14年の計15年間,こ のほか特記すべきは I平常非常ニ拘ラズ政府ノ要用アルトキハ右各船ハ勿 論,其社ノ固有船ト雄モ社務ノ都合ヲ問ハズ使用スベシ。然レドモ其ノ運賃 ハ時々相当ノ額ヲ払フベシ(第 13条)J と杜船徴用の項目がある。また「…… 将来,其ノ社名ヲ以テ他ノ営業ヲ為スベカラズ(第 12条)とあって,三菱は 政府の保護助成を得ると共に,業務・会計報告を義務づけられ特殊会社の性 格をもつものとなった。この第一命令書に接して,三菱は 8年9月18日,郵 便汽船三菱会社と改称した。政府は9月23日,政府が日本国郵便蒸気船会社 から買上げていた汽船18隻を三菱に無償交付した。(前記 13隻と合計して 31 隻の汽船を受領し,それまでの社有船と合わせて40余隻の船隊を擁すること となった)。 ところで,海運三策・第一命令書及び日本国郵便蒸気船会社解散の重要事 項が決定される以前,即ち台湾の役が終結し,明治8年2月始めから三菱が 毎航2万円の欠損を出しながら上海航路を開始した頃,相手のパシフィック郵便汽船三菱会社に対する「無期保護評価」批判 13 -メイル社は直ちに運賃引下げを行なった。之に対し三菱もまた貨客運宍引 下げを行なって対抗した。三菱及び日本政府にとっては,始めての外国航路 に於ける始めてのダンピング競争に突入したのであったが,実はこのとき既 にパシフィック・メイル社は疲労困悠しつつあったのである。パシフィック ・メイル社は1871年(明治4)以来,サンフランシスコから日本 上海への 航海を月間 2航海と増航することによって,以前の倍額の年額100万 ド ル の 米国海運補助を受けていたのであるが,三菱の上海航路進出のやや以前に50 万ドル明額請願運動に1007]ドルのlHil!各を使ったことが発覚し(:JI)補助金停止・ 政府契約解除の処分を受け,
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民間資本のみで束洋航路を継続し ていたのであるO 明治8年2月20日のジャノfン・メイル紙によれば,ノfシフ イック・メイル社は去冬より再び支線買上の与を日本政府大蔵省に乞ひ 4笠 の/
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船及び各;をの役所等までをも合詳して其値は前年の乞ふ所に比すれば迄 に低価なリ?と,パシ 7 イソク・メイル社が買収価額を引下げたことを報じ ている。岩崎弥太郎は機を見て,人を介してパシフィック・メイル社に交渉 し,一方政府に買収の為の借入 ;j,'ít~n を行なった。結局,政府から 81 万ドル (お) (15ヶ年賦,年手JI2分)を借受け, i'(船 4~主及び長崎・神戸・横浜の支屈の 建物・合庫等を78万ドルを以て買収し,ノfシフィック・メイル社の姉妹会社オーオー会社
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に3万ドルを供与して, r~fij 社共に|訂後 30年間この航路並び、に日本沿岸諸航路 にその船舶を入れないよう協約させた(34)交渉妥結は明治8年10月6日であっ fこ。 即ち,このパシフィック・メイル社の撤退は三菱及び日本政府にとって誠 に好述であり,絶好の機会であったが,結果から冷たく見れば,助成金を得 て男限強敵に戦を挑んだ者と,政府補助を断ち切られた者との資金的差異が 余りにも明瞭に出た国際競争の勝敗であった。
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ピーオ一会社との競争及び西南の役 明治8年9月には朝鮮江草品事件に三菱は11隻徴用の命を受けて無事使命 を果たし,明治8年10月16日,アメリカ,パシフィック・メイル社を横浜・上海航路から駆逐して安堵する間もなく,今度は明治9年2月, 英 国 Pen -insular and Oriental Steam Navigation Company (以下, ピーオー会社
と略称)が新たに香港・上海・横浜線を開設した。同社は1840年(天保11) の会社設立て二英国とエジプト聞の郵便航路からインドのカルカッタに航路 を伸ばし, 1848年に上海に達していたもので,パシフイック・メイル社の撤 退を見て,上海と横浜の航路開設にのり出したものである。同社は更に阪神 一束京間の航路を聞き,当時三菱の海運独占に対し一部反感があったのを利 用して,大阪の荷積問屋九庖組合の貨物輸送を一手に引受ける契約まで結ん でしまったO パシフィック・メイル社に勝って,一旦引上げられた運賃は再 び半額に下落し,岩崎弥太郎は3月に社内に告諭書を出し,自ら月給を半減 し幹部社員もこれにならうなど,三菱会社は極度に緊張した。三菱は駅逓頭 に哀請して沿岸貿易保護の必要上,ピーオー会社に積む海上貨物は阪神間の 鉄道使を利用する事に承認を得(37)政府もピーオ一社の出現を重視し,外国船 乗込規則を公布して外国船利用者の許可手続を厳重にして手数料を徴収する (お) などの抑圧政策をとった。三菱にとって,決定的に勝利となった方法は,三 菱が考案した廻jW貨物を担保として荷主に金融を行なう「荷為替金融?)であ った。明治9年 3月19日,三菱会社は大蔵卵IJ大限重信に為替局設置願書を提 出した。「・…一依テ,今一層政府ノ御保護ヲ相蒙リ,束京 大阪ノ問へ為替 金ノ仕法相立候ハバ充分必勝ノ目算本目立チ,且人民ノ便利限リ無キ義ト存じ 奉リ候。……右ハ外商競航ノ為ノミナラズ,自然国家経済ノ一種ニモ属シ申 スベキヤト存ジ奉リ候云々」とある。これは大蔵省より年7分の利息で借入 れ 1航海 5万円の限度を以て荷主に貸付けるもので,外国資本の会社では 政府も金を出してくれず,結局,三菱をボイコットしてきた大阪・束京の九 庖荷積問屋も三菱の荷為替を歓迎する荷主には逆らえず,忽ちピーオー会社 に離反し貨物は三菱会社に戻った。斯くして明治9年 8月,ピーオー会社は 無条件で日本沿海航路から撤退したのである。政府は 1年間の試験期間を 終えた三菱会社に9年 9月15日付第二命令書を交付した。その内容は第一命 令書の通り15ヶ年(これ以後14年)政府の助成と管理を継続する事を確認し たもので,運航助成金年額25万円は次の各航路分と明示しである。
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 20万 円 上 海 線 路 2万円 東京・横浜・大阪及び神戸聞の線路 1万円 束京・横浜及び函館間の線路 1万円 東京・横浜及び、新潟沿海諸港聞の線路 5千円 東京・横浜及ぴ勢州四日市聞の線路 5千円 長崎・五島・対馬及び朝鮮釜山聞の線路 15 入交好崎氏の「岩崎弥太郎」によれば,この第二命令書の25万円運航助成 について rしかも,政府の育成策はさらに同社の上に黄金の雨を降らすの である。同年9月15日第二命令書が駅逓頭前島密より発せられた。すなわち ……」として恰も第一命令書のほかに第二命令書によっても別に年額25万円 があったと誤認されるやも知れぬ記述がある。しかしながら,岩崎弥太郎に 対し,強大なピーオー会社と競争するのは自ら恭穴を掘る無暴の挙と諌め, 寄れられず三菱を退職した官;ギ川村久直は,後年 rビーオー会社競争の際 は,三菱の疲弊は言語同断のものがあった。計数から;1命ずれば三菱はその!l寺 倒れていたであろう
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と述懐している。何れにしても,これ以後外国汽船会 社は全く我国の近海をうかがうことが無くなったのである。政府が海運保護 という確たる信念の下に行動し,民間の三菱を援護したことが,わが国の海 運自主権を確立させたといい得る。 話はかわって,明治9年8月15日,金禄公債証書発行条令が公布された。 廃藩置!院によって扶持を失った士肢に家禄を年給していたが,その総支出は 政府歳出の三分のー近くを占めたため,政府は一時金下附を以てこれを廃止 したのである。同年10月24日,熊本に神風述の乱.10月27日,福岡に秋月の 乱.10月28日,山口に萩の乱が起きた。三菱会社はこれらの役で汽船7笠の 徴用を命ぜられ,兵只・弾薬の輸送に従事した。そして,翌明治10年2月15 日,西南の役が勃発した。 そのJ1i
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月1月には鹿児島の情勢不穏のため,小合営所から 1中隊を海路長 崎に派兵し 2月2日には長崎病院を仮りに西南の役傷病兵収容所とし 3 月26日には海軍事務局と兵対基地が長崎に置かれた。 5月9日,西南の役叛徒処刑のため九州臨時裁判所が長崎に設置され 6月4日,熊本軍団本部が 長崎市西浜町に置かれ,香港・上海からの兵器弾薬は長崎港に陸坊された。 政府は長崎を西南戦争の基地としたのである。 三菱会社は,政府の社船徴用に直ちに応え,全社あげて軍事輸送に従事し, 為に一時は一般沿海の輸送が殆ど停止したという。岩崎弥太郎は6月 1日, 「政府の用を弁じて支障なからしめん為には,更に5~ 6!主の汽船を購入す るの急務」の詰願を以て政府より年8分の利息, 11年2月までに完済契約に て80万ドルの
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下げを得,外国i!(frJf}7隻を購入した(J:l) この戦役で政府は ,i!(船の機動力と運輸力を最大限に発揮した。これは同 (H) 時に三菱会社の輸送航海延7240日に達する輸送力であったといってよいであ ろっ。 即ち,海運三策の第2案 に い う よ う に 政 府 ハ 此 人 民 ヲ 者 テ 未 ダ 独 立 成 立スルノ時ニ至ラザルモノト倣サパ,姑ク其思!成ヲ以テ広ク邦内ノi諸船主ニ 諭シテ連合結会セシメ,之レニ政府所有ノ船舶ヲ下与シ,且他ノ方法ヲ以テ 之ヲネiH助シ,以テ之レヲ成立セシメ」という海運民営政府補助の根本方針が 危機に際して時の政府を助け,また我国海運興l
径の基礎を築いたといい得る であろう。 (5) 大阪商船・共同運輸そして日本郵船設立 大阪・神戸間の鉄道開通は明治7年であるが,開通直後から船舶の貨容は 忽ち鉄道に移行してしまい,両地fHjを往来していた数多の小引汽船は他の航 路に転用せざるを得なくなった。また明治8年から 9年8月にかけてパシフ イック・メイル杜及びピーオー会社を駆逐した三菱会社は,天保山沖の碇泊 を不便として専ら神戸港に寄港し,併を以て大阪と接続することとしたため, 大型汽船は殆どこれと同じ行動をとり,大阪港には寂客の風がただよった。 しかし,明治10年の西南の役には,大阪は軍需品の一大集散基地となって 異常な発展を示し,多くの小型汽船が戻り,購入され,新造されて,大阪・ 神戸を中心とする瀬戸内海は恰も雨後の街のように船主が増加し,忽ち船腹 過剰,運賃引下げ競争となってしまった。郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 17 大阪府はこれを救うために明治12年5月30日 I西洋形商船及び問屋取締 仮規則
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を布達して運賃競争の禁止,問屋の連合を勧奨したが,依然運賃競 争は行われた。このような情勢下,大阪府は再び明治14年2月7日に I小 型旅客汽船取締規則」を布達し,船主の連合を規定したので,やっと協定が 成立して大阪に大阪汽船取扱会社が設立された。しかし協定を破る船主も多 く,同盟汽船取扱会社なるものが出来,その後大阪の盛衰はこれら群小汽船 会社との興廃にかかるところ大であるとの認識が高まり,明治15年11月28日, 商船会社設立に関する盟約書が作成され,これが大阪商船会社の創立となっ て行く。創立旨意書によれば,営業目的は「会社方、社船ヲ以テ航海運消ノ業 ヲ営ムハ,大阪以西,内国航路内ニ限ルベシ」とあるが,好余曲折の末,明 治17年5月1日,有限責任大阪商船会社の成立となった。 55名の船主から創 立会社に提供された船舶は93隻に上り,大阪から瀬戸内沿岸を経て山陽・山 陰に至る航路,同じく瀬戸内海を経て九州東西沿岸に至る航路,大阪から和 歌山に至る航路,大阪から四国各地に至る航路等18本線・ 4支線を数えた(46) ところで,これとは別に三菱会社が沿海航路を独占して貨客運賃を左右し, 商業発展を阻害しているとの非難が各地に起り,これは三菱を庇護した大久 保の暗殺・大限の下野などの政治情勢ともからんで不穏な情勢が醸され始め た。三菱会社が政府の保護を既得権とし,我国海運のためと社勢の拡張に努 力すればする程,一般の反感は高まった。即ち明治9年,荷為替を始めて以 来,為替業務は三菱の重要な部門となっていたが,三菱で荷為替を組んだ貨 物は必ず三菱の汽船で輸送されねばならなかったし,海上保険もそうであっ たし,三菱の倉庫利用方もすべて一貫して三菱の収入にならないものはなか った。これらは近代的・純経済的手法であったにしても,地方の小廻N
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業者 等を圧迫し,零落せしめる事につながった。 このようなことから,政府は新たに東京風帆船会社・北海道運輸会社・越 中風帆船会社の三社を合併せしめて,三井・泣沢両財閥系たる共同運輸会社 を明治16年1月営業開始せしめた。政府出資130万円,民間170万円の半官半 民であったが,三菱会社に対抗させようとしたもので,後に官民各々倍額明資となり,三菱会社とほぼ同じ競合航路を経営せしめた。かくして両社は, あらゆる手段を尽しく悪戦苦闘を続けた。明治 17年 7月,政府工部省の長崎 造船局を三菱会社に対して貸借契約(明治20年払下げ完了)を以てする払下 げも,赤字続きの造船所を三菱に押付けて力を弱める魂胆があったとされ了) 三菱では政府が支援する共同運輸会社にその経営の話は行くのが筋であるの にと意外の感を受けたといい,1(長崎)造船局只の驚き大方ならず,全体右 造船局は海軍省へ引渡しになるか,然らざれば共同運輸会社へ払下になるべ しなど,該地(長崎)にて専ら噂ありし云々」と明治 17年 7月 8日の朝日新 聞記事にもある。そしてそのさ中に岩崎弥太郎は明治 18年 2月 7日に急逝し fこ。 一旦両社妥協案が出たが,再度苛烈な競争となって共倒れが予想され,結 局,先きに共同運輸が倒れんとする直前,政府が介入・勧告して合併せしめ, 新会社が明治 18年 9月29日に設立された。これが日本郵船会社である。 藩関の政争,帝国憲法制定をめぐる自由党・改進党の争い,北海道開拓使 官有物払下事件の明治14年の政変等すべてが,それ以前に政府援助を一身に 集めた三菱に対する反撃となったものであるが,富国強兵をめざす明治の絶 対主義政策が三井・三菱両財閥を交互に支援しながらも,海運後進国たるわ が国を近代的海運助成へと導く暗中模索・試行錯誤の行動となったと見てよ いであろう。即ち,海運三策の第2案,海運民営政府補助の根本精神はゆら ぐことなく継承されてきた。 因みに,日本郵船会社に対し政府は I会社ノ株金全額ニ対シ,開業ノ日 ヨリ15ヶ年間,其利益年8歩ニ達セザノレ時ハ之ヲ補給スベシ(但し明治20年 に毎年88万円宛下附に変更) (命令書第 7条)J の利益補給保証を授け,一方 大阪商船会社に対しても明治21年度以降 8ヶ年間,船舶改良のため毎年 5万 円の補助及び郵便物航送料として同期間毎年2万円の補助金を下附している。 (注) (1) 加治照義「二大定期船会社の創立」山服記念財団『海事交通研究』第16条, 74頁。な お,岩崎弥太郎伝(東京大学出版会-39-44頁)に「維新後の近海海運には米国のマウ ス商会, 日支貿易商会,英国シロン商会, ドイツのハルトマン商会などの持船が活躍し
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 19 ていた」とある。大阪商船株式会社五十年史(2頁)に「明治元年4月頃より米商マウ ス商会のスタンチ号は阪神間を往復し」とあり,また海運興国史 (211頁)に「明治元年 4月から私人の営利事業として神戸・大阪聞に小蒸汽船が一般旅客と普通貨物の輸送を 開始し,世人之をストンボ(スチームボートの転説)と呼んだ」とある。 (2) 海運興国史」海事葉報社, 1829年, 211頁。 (3) 博文堂,前掲書,中巻, 622頁(明治 16年 6月16日毎日新聞)。 (4)太平洋郵便蒸汽船会社のサンフランシスコ・上海聞の航路開設は, 日本郵船五十年史 によれば「慶応 3年(1867)桑港・上海間に航路を聞き」とあり,海運興国史にも '1867 年,桑j巷・支那線を聞き,年額51万ドルの補助を受〈。第 1船は木造汽船グレート・レ パブリック号 (3381トン一一引用者注3881トンの誤りか)なり」とある。富永祐治前-t1:J 舎には「パシフイック・メイル社, 1867年太平洋航路(サンフランシスコ・横浜・長崎 ・香港)を開始」とある。但し岩崎弥太郎伝(東京大学出版会)下巻には「同社は 1866 年にサンフランシスコと上海の間に航路をひらいた」とある。 (5) 宮本又次「日本政府郵便恭汽船会社についてJIi大阪大学経済学」第 9巻第 l号, 21
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(6) ii正事実報社,前:t1:J書, 215ft。 (7) 同上 同上 211頁。 (8)廻別会社の設立は三井組の献策によるといわれており,三井及び大阪・束京の豪商や 旧廻船問屋・定飛脚問屋も資本を出し半官半民の経営であった(宮本又次, )jij拘Uf.2 頁。脇村義太郎編,前f白書,下巻, 41頁)。 (9) 太平洋郵便蒸汽船会社の横浜・神戸・長崎・上海に至る定期j支線の開設について,明 治3年説は日本郵船五十年史及び宮本又次,前-tw
.!,t, ,近代経済史年表J(Ii角川日本史 辞典」角川書庖. 1969年. 1199頁)をとったが,戸田点次郎「米国海運史要」によれば 'Pacific Mailは前記受命航路の外に今一線の並行線を泣り,之に対して別に年初50 万ドルの補助金下附を詰即日し猛運動の末. 1871年(明治4)に許可を得た」とある。 1871年が「今一線の並行総を泣り」の当年であるのか翌年であるのかははっきりしな し、。 ( 10) 日本国郵便蒸気船会社の社名について,宮本又次氏iiiH白書に日本政府郵便活汽船会社 としており,脇村義太郎制前-t1:Jí'i=及び ~fIPJ~~主報社自íHぶ!?にも日本国郵便 !.J~~i!C船会社とし ているが,明治 5 年 11 月 3 日太政官布告329号(内問官報局 ~M.r
京m:JJ}Ii法令全力」に 「日本国郵便蒸気船会社ノ船々別紙ノb文京ヲ以テ荘IJ国内各沿へ郵便物述送快条,此段相 達[f見事」とある。 ( 11) 宮本又次,前北r
,Ii-.19T1。( 12)宮本又次,前拘書 4頁。 ( 13) 外国高館の金融の例一一「有力商社が金融業も兼営していた。幕末期長崎で金融業を 営んでいた商社の代表的なものとして,和市j商社とグラパー商会をあげることができる 云々」立脇和夫「戦前期長崎における外国銀行とその特徴」長崎大学経済学部『創立80 周年記念論文集.!239頁。 (14)九十九商会 廃藩置県系は明治4王子7月公布であるが,高知限発足は明治4年11月であ る。この移行mJの処理に高知収大参事林有造が当ったが,九十九商会の汽船運輸業を廃 止するのは高知!郎氏の死活にかかわるので,その引受けを弥太郎に怒附した。弥太郎は 始め自分の希望は他にあることを述べて辞退したが,板垣退助・後藤象二郎ら旧土佐藩 首脳部は一致して弥太郎を説得して9月15日に受諾させた。弥太郎の日記によれば 9月9日「林よりぜひ九十九商会引続ぎの事を促す。下村に行き相伴って板垣氏に到る。 林・坂井らと同じく板垣よりも九十九商会連続を促す。……余未だ即答せずして出 Jフ」 9月12日「春田基太郎未,此皮九十九商会廃絶の義,林有造らよりぜひ連続し土佐田氏 引立の事を促し談判中に付,余,春田に土佐国民引立と日目へ,相変らず我輩総裁の商 社は調L、難き旨を談ず」 9月13日「林氏よりぜひとも(土佐)国民のため一社引続ぎ呉皮旨,民主庁一統依頼なり と云々」 9月15日「林有造氏に行く。このたび取庁より九十九商会廃絶の義は国民一般の不便に 付,ぜひとも岩崎弥太郎引続ぎ,向々は岩崎一筒の商会を以て綜庁・国民よりいささ かも関係なきょう相しつらえ,土佐国内開拓の事を依頼により,余,亦同意。春田の 寓に行く。後藤・林亦来る」 これまで、九十九商会が藩から借入れていたのは夕顔・鶴・紅葉百(もみじのが)の3隻 であったが,紅葉21は官に返納し他の2隻を彼は4万両で払下げ‘を申出て了承を得た。 岩崎弥太郎は九十九商会を足場として独立したが,それは明治4年 9月15日である。 (以上「岩崎弥之助伝』上巻, 105-111頁による)。 ( J 日 脇村義太郎編,前拍書,下巻, 56頁。 ( 16) 日本郵船株式会社五十年史.! 4頁。 ( 17) 海事葉報社,前拘書, 215頁。 ( 18) 戸田貞次郎『米国海運史要」大阪商船株式会社, 1939年, 130頁。 (19) 宮本又次,前掲書, 22頁及び志津田氏治『海事立法の発展』海文堂, 26頁。 (20) 脇村義太郎材
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前損害,下巻, 103頁。宮本又次,前拍書, 25頁。 (21) 入交好情「岩崎弥太郎」古川弘文館, 120頁。郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 21 (22) 日本郵船株式会社五十年史(6頁)による。但し海事葉報社前掲書 (216頁)には 1 ,506,800ドルとあって, 7万ドルの差がある。 (23) 宮本又次,前拘書, 24頁。 (24) 三菱会社の4笠は,束京丸2217GT,金川丸1185GT,新潟丸 191OG T,高砂丸2121 G T。なお,このときノfシフィックメイル社の配船も次の4隻であった。コスタリカ (後の玄海丸2492G T), オレゴニアン(後の名護屋丸2574GT), ゴールデンエイジ (後の広島丸2453GT), ネパダ(後の西京九2143GT)。 木津重俊樹「日本郵船船舶100年史」海人社, 1984年, 14-40頁による。 (25) 海事実報社,前掲書, 217頁及び入交好怖,前拍書, 231頁。 (26) 宮本又次,前掲書, 28頁(新日本史第 1巻1120頁引用)。 (27) 入交好情,前f白書, 231頁及び富永祐治,前10s
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103頁,大阪商船株式会社五十年史 ( 4頁)には明治 8年 6月とあり, ;J.~ì1t 田氏 if:. 前J白書, 27頁には明治 8年 8月とある。 ( 28) 脇村義太郎編,前掲吉,下巻, 133-134頁。 (29) 脇村義太郎編,前10吉,下巻, 136頁による。 但し, 日本郵船五十年史(12頁)によれば明治9年の第二命令書と殆ど同時に無償下 渡しとある。これは結局,明治10年9月,船舶冥加金120万円上納によって実質的には払 下げを'3.:けた事になる。。
0) 三菱商会の長崎支庖が田市問屋を説得して運行を下げ,太平洋郵便汽船会社と争う」 長崎文献社「新長崎年表」下巻, 67頁 ( 31) 戸田点次郎,前拘書130!1では 1871年の 2年後,即ち明治 6年となる。但し伊藤1Eifi 郎「米国海運育成に対する官民の努力」神戸海運集会所「海運」第83号4頁には 1872年 の2年後,即ち明治 7年の事となっている。 (32) 脇村義太郎編, T~j拘吉,下巻, 217頁。。
3) 入交好情, jjij掲書, 131頁。 (34) 脇村義太郎編, lÌ~拘苫,下巻, 218-219頁,及び日本郵船五十年史 14頁。 (35) 脇村義太郎編,前掲吉,下巻, 220-22Hi。 (36) 入交好情, jj~1白書, 133rt。 (37) 日本郵船株式会社五十年史.!15頁。 (38) 脇村義太郎編,前掲吉,下巻, 223頁。 (39) 邦光史郎「弥太郎かく1伐えり」旺文社『野望の軌跡.!104頁 に よ れ ば 以 来 , 兄 は 弥 之助の力量;を高く只っていた。この弟がピーオー退治に妙案を編みだした。それは荷為 替金融を開設して,その資金を大蔵省から年7分の干IJKJ、で借りてきたことだった」と弥 之助の発案としてある。(40) 入交好的,前110書,134-1351'i。 (4!) 脇村義太郎科
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前1LJ書,下巻, 227頁。 (42) 入交好崎,前拍書, 139n。 (43) 脇村義太郎科ふ前拘書,下巻.253頁。 削 ) 向 上 向 上 同 上 265頁。 伯大阪商船株式会社五十年史,jJ5n
。 側 向上 37頁。 (47) 脇村義太郎有ム前110吉,下巻.391頁に「東山先生伝記稲本」の伝えるところとして, 「院派官僚の中井弘は,官営卒業のうち相夫の最も大なる長崎造船局を三菱に押しつけ たならば三菱も古二をあげるであろう。さすれば政府も負担を減じ,共同運輸会社を間接 に助け,三菱に打撃を与えることができる。一石三おの良策であると,中井はこれを井 上外務卿に献策し,m
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議決定に持込んだー」とある。 出) 岩崎弥太郎・弥之助伝記制築会『岩崎弥之助伝」下巻, 278頁。 例) 岩崎弥太郎・弥之助伝記制築会.iJiHI0書,下巻, 279-280頁。3
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明治
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年の政変
明治14年の政変は,明治初期政治史に於て欽定患法制定に関する漸進派・ 急進派の抗争が北海道開拓使官有物払下げ問題を捲込みながら,参議大限重 信を失脚に追込み,伊藤博文・井上蓉らの薩長藩閥政桔を確立させる事とな った政変である。当時,西南戦役が終り,翌明治11年に大久保利通が暗殺さ れた後, 自由民権運動の国会開設要詰の攻撃が激しくなって行き,政府部内 でも之に対抗するため漸進主義の立場から憲法問題の調査をはじめた。憲法制 定の大綱を決定するについて右大臣岩倉具視はその基準決定に悩んでいたが, 太政官大書記井上毅のフ。ロシア流君権至上の欽定憲法構想、を受入れ,時の実 力者のうち国会の即時開設,政党内閣論をとなえていた大限参議を排斥する こととして,天皇の北海道巡幸に従っていた大限が帰京するや否や辞職を強 要し,同時に開拓使官有物払下げの決定を取消すことを発表した。そのため (1) 大限一派の官僚が一斉に下野し,伊藤博文が参事院の議長となり,純薩長派 の内閣が成立した。郵便汽船三菱会社に対する「無知保護評価」批判l 23 北海道開拓使官有物払下げ問題は,開拓使長官黒田清隆の強引な安値払下 げ、案に大限が反対し,民権派はこれを院長の情実政治であるとして激しい政 府攻撃を行い,諸新聞の論説,各地の反対演説会は,斯かる病弊は国会開設 がないからであると憲法制定・国会開設を強く要求し,大限の声望が急速に 高まって行った。この払下げ反対運動の中心には,福沢諭吉の慶応義塾一派 が活躍し,海運の岩崎弥太郎もこれを支持したと見られて居り,・この福沢・ 岩崎の背後に大限参議が采配をふるっていて,大 pf~ 1J{薩長政府打倒の陰謀を なしているとの風説まで、伝わった。 北海道開拓使庁は明治2年7月の設置で,政府は事業費毎年40万円を投じ て道内の統治と開拓柏民の事業を行い,明治5年以後は年100万円に増額し fこ了)明治14年までの10ヶ年計画期限的:j了に際し,それまでに政府が1400万円 以上を投じた各杭の事業を保かに 38万円, しかも無利息30年賦の有利な条件 で詫摩藩出身の黒団長官が同じ院摩浮出身の五代友厚らの関西貿易商会及 び、薩摩出身元官吏らによる北海社なる 2社の何れかに拡下げ、ょうとした事 件 で あ る 。 史 家 渡 辺 幾 治 郎 に よ れ ば 伊 藤 ( 博 文 ) が 大 限 の 陰 謀 を 伝 じ た かどうかは疑問とするが,黒田がそう信じたことは疑いがない。大限が三菱 と結託,福沢と謀り,北海道によって,いざといっ場合,百t長と事
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を争うと いうのが,黒田等の信じた陰i附の真相て、ある?)という。 史家田中惣五郎によれば,明治の第一維新を大政奉還から版籍奉還とし, 第二維新を14年政変から議会開設(明治23年 11月,第一帝国議会召集)まで としている。そして第一維新の立役者に鋒を向けたのが第二維新の人々であ るとし,その政治的代表は大限,思想的代表は福沢,経済的代表を岩崎とし (4) ている。何れも14年政変の被害者となるが,立役者となった背後4J';'1i'Jとして は,国民大衆の世論・願望があったという。純経済的要件として,岩崎弥太 郎が北ibJ道開拓使官有物払下げ喝事件に哀而から反対の態度をとったと推察さ れることは,近藤康平の報告文にも「去る 11年,三菱会社の北海開航以米, 交通の使始めてやiiJわりしより,人心 ~rÎi然として北に向い, fJZ に商に移住する 者毎月百を以て数うるに至る。是より商会の景況一変せり, しかのみならず 三菱がーたび荷為符の便を興せしより,枯葉の雨を得, ~g 者の水に jlll うた如く,商況の活滋旺盛また前日の比に非ざるなり?とあるように,北海道航路 を独占した三菱にとって,それまでの北海道航路の最大顧客であった開拓使 庁の御用物資輸送が,払下げによって北海社などにきまった場合,その会社 は自ら汽船運輸も行うらしいという計画を聞き知った上は,三菱が払下問題 に困惑し,自社海運に不利とならないよう反対に廻ったのは当然の成行きで あったであろう。 ところで,北海道開拓使官有物払下げの認下は,明治14年の 7月であり, 黒田清隆が寺島宗則宛に三菱が千金をなげつって開拓使撃滅を策している。 今後何を仕出かすか判らぬから,大限を排撃するには先ず三菱を斬るべし, (6) と文書を出したのは8月21日 であるのに,岩崎弥太郎が函館支社の肥田・ 船本両人に宛てて r我杜ハスベテ右様ノコトニトンヂャクセズ,矢張リ商 売一向キニ意ヲ注シ,必ズ世間ノ風潮ニ渡合ワザルヨウ御覚悟コレアリタク (7) 候」と,不偏不党の態度を指令した文書は,黒田文書より16日前の 8月 5日 である。また明治14年 10月11日に開拓使官有物払下げの中止裁可があり,翌 12日,明治23年を以て国会開設する旨の勅諭が出た数日後に弥太郎が社内に 出した告諭に r我カ、三菱会社ハ新聞記者・演説者等ニ巨額ノ金員ヲ贈付シ, 与論ヲ鼓動セシメ,又,某大臣ノ門ニ出入シ,暗ニ国会ノ開設ヲ刺街尽力ス ルナド云イ触シ,奇怪ノ浮説ヲ伝播スル者コレ有ル由相聞ク,実ニ以テ容易 ナラザル事ニ候。ソモソモ我社ノ本務タルヤ,専ラ回消上ノ商業ヲ営ミ,郵 便御用物ノ運搬ヨリ一般客貨運輸ノ便ヲ謀り,ヒタスラソノ本業ニ従事致ス 可キハ勿論,徒ラニ時事ヲ論談スル等,他事ニ心ヲ移シ候様ノコトコレ有リ 候テハ相成ラズ,況ンヤ今回畏クモ勅諭ヲ発セラレ,国会開設ノ期限ヲ示サ レ,且マタ開拓使官有物御払下ノコトヲ御取消ノ御沙汰ニ相成リ候ノ、実ニ聖 代ノ美事ニシテ,一般感泣ニ耐エズ。……誓テ各自ノ本務ヲ守リ,責任ヲ尽 (8) シ候様致ス可ク,此段重ネテ諭達ニ及び、候也」とある。 岩崎弥太郎が明治第二維新の立役者に祭り上げられたのも事実であるなら ば,開拓使問題に商業的見地からかかわりをもったというのも事実であろう。 何れにせよ三菱会社は,岩崎弥太郎を理解し,海運を理解していた大久保利 通を明治11年 5月に失い,今また頼みの綱とした大限重信の下野によって政
郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価」批判 25 界への足掛りを失なった。それのみならず,明治 14年の政変はその後の政府を して露骨に共同運輸会社を設立せしめ,そしてその内容は資本金 600万円の うち政府出資260万円,経営航路は束京一函館,函館一大阪,束京一四日市, 東京一鹿児島-琉球,東京一大阪-下関-長崎一上海,長崎-釜山一元山一 ウラジオストック,東京一神戸一香港一度門-福建等,何れも三菱の航路と 競合するもので I貨客争奪は,更に海上における両社汽船の競航をひきお こした。両社の汽船が同じ港を同時刻近く出航するときは,互に速力を競い, 沖合で追い抜こうとし,為に煙突は火柱の如く焼けた。またすれ違う時は, (9) 互に航路を譲らぬため,ついに衝突事故を発生した」といっ程常軌を逸した ものとなり,完全に泥沼の様相となった。それに加えて,恰も三菱を政敵視 する政府筋による弁妄書をはじめ,明治 14年 11月19日以降の「三菱会社の助 成金を論ず」という東京経済雑誌,その他自由党の自由新聞論調,時の農商 務大輔品川弥二郎の演説等,攻撃の矢はその死命を制すべく三菱に向けられ, 遂に共同運輸会社との死闘のさ中に岩崎弥太郎は死没するのである。 (注) (1)社会科学大事典』鹿島研究所出版会,第18巻.37-38頁。 (2) 脇村義太郎編,前拍書,下巻.465頁。 1H.し入交好併前掲書160頁 に よ れ ば 政 府 は 明治5年より同14年にかけて約1500万円を投じ北海道の開拓を進めてきたが」とある。 (3) 脇村義太郎編,前拍手E,下巻.470n。 (4) "
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" 458-459頁。 (5) 入交好昨,前拍書.154頁。 (6) 脇村義太郎編.Jiij拘書,下巻.470-473頁。 (7)" " 478-479頁。 (8) 入交好情,前掲書.162-164頁。 (9)脇村義太郎編.J
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下巻.560頁。4
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弁妄書と三菱の決算書
共同運輸会社設立の計画があると聞き,三菱が岩崎弥之助個人の名で意見書を或高官に送ったところ,間もなくそれが自由新聞に載って(1)世論が沸い たという。報道されたその文言によれば,三菱意見書の要点は次の
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i.であ る。(
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)
政府は従来競争の弊害を夏-慮し,廟議一決して三菱会社を保護して競 争の惨状を救おうとされてきた。(
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)
三菱会社は,他の回漕会社に比べれば,或は大成した観をなすと見られ ても,外国の回漕会社に比すれば未だ微々たるもので,幼弱の地位にある。 (3) 政府が新たに汽船会社を設立して,二社争うならば,双方競争の惨状 に陥り,ようやく前進の気速に向おっとしている海運の芽をつみ,我国 沿岸航海は外国船が漁夫の利を得る事になり,国家にとって害あって利 なしで、ある。 (4) 三菱が航海権を独占しているというけれども,①大阪以西に数十隻の 汽船あり,束京一四日市l
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司,東京一北海・南海に各々数隻の汽船あり, 横浜-神戸一長崎一香港の間にピーオー会社あり,その他外商臨時の汽 船常に数隻往復あり,②三菱の運行が不当であるならば,第三命令書の 第10条によって政府はこれを正すことが出来るではないか。 (5) 三菱の運賃が,海外諸国沿海の運n
より高いというが,我国は大!
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汽 船を横付けする良港なく,陸運賃・人足費・鮮舟費を運n
に包含せざる を得ない。又,港湾不完全により碇泊日多く, ?需拡i
等の事故による弁金 も多く,且つ我国の船舶の修理費高く,邦産石炭も高く,船員費も高く ついているので西洋諸国に比し述1
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が高いのは当然である。(
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)
三菱は我佳であるから,一朝事ある日に当って不当高価の運行でなけ れば政府の命令を受けないのではないかというが,第一命令書・第三命 令書によってそういう事はないQ (7) 本邦沿海従事汽船が少い為に商品停滞をいうが,今日我国に於て汽船 の不足は7月-12月の 6ヶ月間で,他の 6ヶ月は船舶余剰の状態である。 それは北方諸道の沿海は天候によって汽船回航不能のときがあるので, 7月以降の 6ヶ月間で輸出入貨物のすべてを運搬することからである。 6ヶ月間の繁忙だけ見て船舶数を増すならば,採算上船会社は維持出来郵便汽船三菱会社に対する「無類保護評価)批判 27 ない。 上記に対する政府筋からする反駁弁妄の大略をみてみよう。 「三菱会社は台湾の役の13隻と旧郵便蒸汽船会社の 18隻を無代価で政府 から下付を受け,年々25万円の助成金を得ているが,海運に必需たる船舶 は明治9年を終るまで,三菱は 1隻も新たに増加さえしていない」という。 つまり,台湾の役で三菱がほろ貫けしたと言っているのである。 ところが、 (イ) 第一命令書によって上海線路に助成金を得ることとなった明治8年9 月15日から助成金額確定の明治 9年 9月15日の第二命令書までの1年間 にほぼ相当する計算について,明治9年7月28日付,郵便汽船三菱会社 (2) 社長岩崎弥太郎名で,第一命令書第7条を以て毎月会計月報表を受取り, 且つ会計検査を行なっている政府(駅逓頭前島密宛)に提出した会計報 告文を数字に直せば下記の通りである。 (第 1表) 政府に提出せる三菱会社会計報告 明 治8年10月 行船並旧郵便汽船会社所有船御引続をずi,市来多少之修純 明 治8年10月-ll}Wi9年6月 迄 (9ヶ月IHJ)会計 (円未満は切拾て) 運1t及雑椛小額の金只 小 計 1,098,101円 郵便送助成金の',~qJll式全 187,499 琉球通航助成金 4,000 土佐沿海航海保必助成金(高知県庁 200 ム航費 ム陸上諸'{? ム9年 6月分の給料(未払) ム年11式上納金 864,978 250,577 ム臨時災 ~g の予備(的価の幾百[)分を保険料) ム船価の','JIJij[ "
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却) 計 上289,800円 1,115,555 残高 174,245 45,000 残高 129,245 70,200 益金 59,045 未計算 米日十t.r 59,045商 船 学 校 助 成 金 (9年6月迄の分) 8,750円 三菱杜より商船学校への差額補助 ム " 経 費 13,130 駅 逓 頭 前 島 密 殿 ム 4,380 (船価償却なし)故終益金 54,665円 明治9年7月28日 郵 便 汽 船 三 菱 社 長 岩崎弥太郎 即ち,命令による商船学校の経営による赤字補填まで計算をみてみれば, 船価償却を行なっていない決算で、54,665円の益金となっている。当然計 算すべき船価償却を考慮したとき,恐らく間違いなく赤字決算であろう。 (ロ) 命令書による 25万円の助成金のうち 20万円は上海線路と定められてい る。然るに資料からすれば,これは赤字の補填に過ぎない。宮本又次著 「日本政府郵便蒸汽船会社」によれば i台湾征討に際して政府が購入 して三菱会社に貸下げた船舶は汽船12隻,帆船1隻合計 13隻であったが, 台湾役終了後,政府は自己の計算で一時航路を聞き,これにこれらの船 舶を使用し,三菱がその運用に当った。即ち明治8年2月3日横浜出帆 (上海へ)の東京丸を一番船として同船ほか 3隻を使用したのであった。 しかしこれには毎航海に2万円の損失を生じ,月2回の航海としても年 に50万円前後の損失となるので,最初これが計画をたてた蕃地事務局も, のちになってこれを引きついだ駅逓頭も,その始末について頗る苦心を 重ねた