トマス・ホッブズの初期政治思想
― 自然法・情念・国家 ―(1)
山 本 隆 基 *
目 次
(1) はじめに-本稿の課題
(2) ルネサンス政治思潮とホッブズ
① ルネサンス政治思潮における自然法・情念・国家 ② ホッブズとルネサンス人との接触
(3)初期ホッブズの政治思想
① ルネサンス政治思潮の受容とツキディデスとの邂逅 ② 人間の情念-政治思想の前提(以上,本号)
③ 教会と国家 ④ 統治者論 ⑤ 政体論
⑥ 国王・議会両陣営の対立とホッブズの政治思想
(4)むすび-本稿の総括と後期ホッブズへの若干の展望
(附録)初期ホッブズ研究文献目録
(1)はじめに-本稿の課題
1588 年生まれのトマス・ホッブズが,最初に世に問うた書物は,既に 40
* 福岡大学法学部名誉教授
歳を過ぎた 1629 年に刊行した古代ギリシアの歴史家,ツキディデス(前 460 年頃-前 400 年頃)の『ペロポネソス戦史』(以下,『戦史』と略記す る)の英訳書であった(1)。この翻訳書は,1679 年に生涯を閉じたホッブズ の政治思想の出自を画する作品となった。『戦史』は,紀元前 431 年から 404 年に至る 27 年間に渡って古代ギリシアの両雄,アテネとスパルタが,
全ギリシアを巻き込んで交えた戦闘の 21 年目までの顛末を書いた者であ る。彼は,この英訳書の冒頭に,「キャヴェンディッシュ卿への献辞(2)」,
「読者へ」,「ツキディデスの生涯と歴史」の三編の文章(以下,「序文群」
と記す)を付し,その中で,彼のツキディデス観,引いては,彼自身の道 徳・政治思想を開示している(3)。そして私も,大方の見方を踏襲して,
ホッブズの思想的生涯に関して,この翻訳書出版の時期を節目として,それ までを初期ホッブズ,それ以降を後期ホッブズと捉える。彼は後期に入って からも,本書を 1634 年,1648 年,そして,1676 年の三度,出版している
(4)。ホッブズの思想的生涯に渡って,ツキディデスは重要なキー・パーソ ンであり続けたのである。本稿は,『戦史』に付せられた三編の「序文群」
を主たる素材として,初期ホッブズの道徳・政治思想を考察することを課題 としている。
本稿の課題について,更に具体的に述べて見る。その手掛かりとして,
ホッブズが,上掲訳書の約 10 年後,人生の半ばを過ぎてから書き上げた最 初の論稿,『法学要綱』の冒頭に付した「ニューカスル伯への献辞」の一節 を取り上げる(5)。ホッブズは,その中で,これまでの政治哲学(自然法思 想)が「情念の叙述」に過ぎなかったと批判し,新しい政治哲学の構築に関 する構想を,次の様に披瀝している。
「この(道徳・政治哲学の-筆者)教義を,(幾何学と同じような-筆者)理性の規則と無
謬性に適うものとするためには,まず,絶対的に信頼できる情念が認めざるを得ないような 諸原理を基礎として打ち立て put such principles down for a foundation, as passion not mis- trusting, may not seek to displace 次にその上に,個々の自然法(これまで,それは空中に築4 4 4 4 かれていた4 4 4 4 4(傍点は筆者))に関する真理を,段階を追って築き,全体を確固不動のものとす る以外にありません。(6)」
この文章は, 50 歳台に達したホッブズが,それまでの思想活動の総括と 反省を踏まえて,それ以降の自らの思想課題を述べた開眼宣言として読め る。その意味で,ホッブズの思想展開を見る上で非常に重要な文章である。
ホッブズは此処で,伝来のアリストテレス・アキナス流の自然法思想(以 下,伝統的自然法と称する)が「空中に築かれていた」と批判すると共に,
彼が,人間の精神的諸要素の中で,唯一,「絶対的に信頼できる」と確信す るに至った情念の考察から出立し,それを踏まえた新しい自然法の構築を課 題としている旨を宣告している(7)。逆に言うと,情念こそが「絶対的に信 頼できる」という確信,情念以外の人間能力-理性・道徳心など-は必ずし も「絶対的に信頼できる」者ではないという確信が生まれると共に,伝統的 自然法が「空中に築かれていた」という認識が生じたのである。彼は,1640 年の段階で,深刻な情念認識を媒介として,伝統的自然法が非現実的な空想 の類に過ぎない旨を確信するに至り,情念認識から出立し,それを基礎とし て新しい自然法を,構築していく作業を開始した次第を明かしているのであ る。この開眼宣言は,上記翻訳書の出版後,1630 年代のユークリッド幾何 学,ガリレオ力学,エピクロス政治思想などとの接触を介してなされた。そ して,この基本的構えを踏まえて,後期のホッブズは,『法学要綱』以降の 著作において,新しい自然法の構築とその実現へ接近して行く方途の模索と いう二つの作業を遂行して行ったと考える。その際,勿論,斯様な普遍的課 題の遂行は,内戦・革命の勃発,共和政の出現,そして,王政の復活などの 歴史上の時世の激変の影響を,相当程度,受けたと考えられるのであるが。
しかし,かかる次第の考察は,その前提となる 1630 年代の思想的開眼過程 に関する考察と共に,本稿の対象外に属する。
他方,時間の流れを逆行してみると,上の引用文から,ホッブズが,1640 年に先立つ何れかの時期までは,「空中に築かれていた」と批判した伝統的 自然法に対して,何らかの信頼を寄せていた次第が読み取れる。一般的に 言って,自然法はこの世の人間や法・政治の在り方を律し,正す道徳的・政 治的な規範,つまり,人間や政治の追求すべき理想世界の規範を意味する。
ホッブズは,ある時期までは,アリストテレス・アキナス流の政治規範・理 想論に対して,何らかの信頼を寄せていたのである。それでは,『戦史』を 刊行した 1629 年の段階では,ホッブズは,伝統的自然法や人間の情念に関 る問題について,どのような態度を採っていたのか。その際,ツキディデ スの歴史書は,彼の自然法観や情念論にどのような影響を与えたのか。ツキ ディデスの『史書』の翻訳作業は,一見,斯様な道徳・政治哲学上の問題と 無関係に見える。しかし,ホッブズは,実は,この『史書』こそが,彼が直 面していた道徳・政治哲学上の問題に応え得る最高の素材であると考えたが 故に,この翻訳作業を遂行したのである。翻訳書の冒頭に付せられた「序文 群」の検討を通して,初期ホッブズの自然法論,情念論,そして道徳・国家 論について検討を加える所以が此処にある。そして,この作業を踏まえて初 期ホッブズの思想が,後期ホッブズの思想展開にどの様な影響を与えたかと いう点に関しても,若干の考察を行ってみたい。
ここで,初期ホッブズが私たちに残した第一次資料に関して述べておきた い。初期ホッブズの第一次資料は,ホッブズ自身が書いた文章とホッブズが 翻訳した文章の二つに分類できる。そして,両者はそれぞれ,公刊された者 と手稿の形で残された者に区分できる。ホッブズ自筆の公刊物は,上述の
『戦史』の「序文群」とこの書物に彼が付した脚注,「ピーク山の驚異 De mirabilibus Pecci」と題する詩(8)そして,三通の書簡(9)などである(10)。
次に,ホッブズの翻訳作品で公刊されている者は,『戦史』の他に,若干の 者がある(11)。そして,最後に,上記の二つの分野の文章で,手稿の形で残 されている者-勿論,私はそれに接近することは不可能であるが-が挙げ られる(12)。それにしても,ホッブズの思想的出自を探るための第一次資料 は極めて,限られている。以上の内,纏まった資料と言い得るものは,「序 文群」であるが,それでさえも,上記脚注の全集本で,30 頁の分量であ る。ペックは,「ホッブズ学者は,長い間,当時(ホッブズの初期時代-筆 者)の資料が不足している事に,困惑を覚えて来た。(13)」と述べ,マルカ ムは「トーマス・ホッブズの初期時代は,殆ど全く,暗闇に包まれている。
(14)」という指摘を行っている(15)。
初期ホッブズに関する研究は,これらの限られた第一次資料を素材とし て,19 世紀末のロバートソン著,『ホッブズ(16)』や 20 世紀初盤の,既出の シュトラウス著『トマス・ホッブズの政治哲学』などを嚆矢として,以来,
相当数の蓄積が閲されて来た。その一覧(管見の限りにおいてではあるが)
は,末尾に附録として載せておいた。また,初期ホッブズの研究史を此処で 纏めて,披瀝することは差し控え,以下の本論において,順次,必要に応じ て差し挟むことにする。
本稿は,日本ピューリタニズム学会例会(2010 年 12 月,聖学院大学)や 本学の「研究チーム」研究例会(2012 年 3 月)で報告させていただいたも のを基礎にしている。二つの研究会において,報告をお聞きいただき,ご教 示をいただいた方々に対して改めて深謝の意を表したい。また,本稿は,
以前に発表した「初期ホッブズの思想-政治的歴史と自然法-(1)・(2)」
(『福岡大学法学論叢』第 43 巻第 1 号・第 3・4 号,1997 年・1998 年)の姉 妹編に当たるものである。そのために,この稿と重複する叙述もあるが,ご 了承をお願いしたい。更に,前稿から今日までの期間,私は陸羯南,竹越三 叉,金允植,厳復など,東北アジアの人々に関する文章を書いて来た。しか
し,初期ホッブズに対する関心が消滅していたわけではなく,関連資料の収 集には努めて来た心算である。本稿はこれ等の資料も取り込んで成った者で ある
(2)ルネサンス政治思潮とホッブズ
① ルネサンス政治思潮における自然法・情念・国家
さて,後段で順次,明らかにして行く様に,初期ホッブズの政治思想は,
宗教改革思想と並んで 16 世紀から 17 世紀の初頭にかけて,西欧の思想界を 主導したルネサンス思潮を学びつつ遂行されたものであった。そこで,先 ず,ルネサンス政治思潮の展開を概観しておきたい。その代表者としては,
特に,イタリア都市国家フレンチェの危機の渦中に出現したマキャヴェリ
(1469 - 1527),フランス宗教戦争の煙火の消滅を模索したボーダン(1531
- 1559),スペインのオランダ抑圧に抵抗したリプシウス(1547 - 1606),
そしてイングランド憲法闘争からスチュアート朝を擁護したベーコン(1561
- 1626)などの人物が想起される。彼等は何れも,絶対主義国家の勃興,
宗教戦争の勃発,大航海時代の幕開けなどの代表される所謂,西欧の初期近 代期の激動を背景として思想活動を展開した。ホッブズも同様の時期に,思 想形成に乗り出したのであり,彼が「序文群」の中で駆使する言語範疇,そ して,それを用いて展開される道徳・政治思想は,これ等の人物のルネサン ス思潮と密接な関連を持っている(17)。
ところで,これ等のルネサンス人は,何れも政治理想論の領域において は,伝来のアリストテレス・アキナス流の自然法思想に信頼を寄せていた。
彼らは,ローマ・カソリック教会の実定的教義や宗教・政治政策を厳しく 批判したが,伝統的な自然法思想を掲げている点では共通の土俵に立って
いた。個人の意思を超えた客観的且つ普遍的規範たる自然法の存在を認め る点では共通していたのである(18)。その点について,シュトラウスは,当 時,「アリストテレスこそが哲学の古典とすべき人物そのもの4 4 4 4 4 4
the classical
philosopher
であるとみなす支配的意見(19)」が流布していたと述べている。植村雅彦は,「テューダー・ヒューマニスト」の「根本思想」に関して,「中 世を支配したスコラ学的な人間観,自然観,社会観からほとんど脱却してい ない」と指摘している(20)。越智武臣も,「一七世紀という時代」と題する論 説の中で,「スコラ的学統なるもの(は-筆者)・・・中世からルネサンスへ と流れる一種の雰囲気,一つの心的構造であった・・・(21)」と指摘してい る。さらに,ザゴリンも「アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は,初期 近代の諸大学における道徳哲学で最も広範に学習された書物であった。」と 指摘している(22)。
しかしながら,これ等のルネサンス人たちは,自然法を実現して行く手立 て如何という問題において,教会や大学の哲学者・神学者と袂を分かつこと になった。先ず,後段で述べるように,若きホッブズが一時期,秘書として 使えたベーコンは,伝統的自然法の理想規範としての有効性を認め,哲学 者や神学者は,「善,徳,義務,幸福の素描と似姿をのせてある立派な美し い手本と模範をつくり,そのうまく描かれた手本を人間の意志と欲望との真 の目的と目標として示し(23)」ていると述べている。しかし,彼らは,「どの ように人間の意志を起こしまた抑えるべきか(24)」という問題,つまり,自 然法の実現方如何については沈黙している。専ら,「善や最高善についての 無際限の議論(25)」に耽り,「論争の精妙あるいは議論の雄弁(26)」を追及し ているに過ぎないと批判している。そして,ベーコンに先行するルネサンス 人,マキャヴェリ,ボーダン,リプシウスたちも,同様に,伝統的自然法思 想に則り,国家の「共通善」,「至高善」,「公共善」の実現を政治思想の最高 規範として掲げた(27)。しかしながら,彼らも,哲学者・神学者は,斯様な
最高規範の実現方如何に関しては,何も示唆しないと考えた。ホッブズは
「序文群」の末尾でリプシウスのツキディデス論を称賛している(28)。当の リプシウスは,「今日の大勢の哲学者」の議論を次の様に糾弾している。
「彼らは不幸にも屁理屈という刺,あるいは審問という罠を好み,討論という言わば繊細 な糸によってそのような刺や罠を織ったり,ほどいたりする。彼らがするのはただそれだけ である。彼らは言葉もしくは詭弁に固執する。その結果,彼らは全生涯を哲学の入り口で過 ごし,その深奥を見ない。彼らは哲学を娯楽とみなし,救い remedium とは考えない。彼ら は,生の最も真剣な手立て・・・を駄弁の遊技といったものに変えてしまう。彼らの中の誰 が倫理 mores について私に尋ねるであろうか。誰が諸々の情念・・・を和らげるであろう か。誰が恐怖・・・や希望・・・に限界を画し,穏やかにするであろうか。(29)」
ルネサンス人は,哲学者・神学者たちが自然法の理想を実現するために,
只,ひたすら理想の何たるかを説く戒律一辺倒の態度を批判した。体制化・
実定化・教義化した戒律の言辞の有効性を否定したのである。例えば,マ キャヴェリは,「いかに人がいま生きているのかと,いかに人が生きるべき なのかとのあいだには,非常な隔たりがある(30)」と述べ,哲学者・神学者 の思考を批判したのであるが,他のルネサンス人たちにおいても事情は同様 であった。そして,諸々のルネサンス人が哲学者・神学者の戒律や教義に 替わるべきものとして注目したのが,古代ギリシア・ローマ時代に生まれ た「政治的歴史」であった。「政治的歴史」は,娯楽性・観照性を旨とする
「物語的歴史」を批判して成立し,自覚的・方法的に政治的有用性を目的と して書かれた史書である(31)。マキャヴェリは,『政略論』の冒頭の部分で,
「古代に対するこんにちの崇拝の風潮」の諸相を指摘し,「現代人」が「古 代人」から多くを学んでいる状況を説明すると共に,政治の世界において は,その点で著しい立ち後れが見られる次第を,次のように指摘している。
「・・・共和国を整備し,王国を統治し,市民軍を編成し,戦争を指導し,征服の結果支配下 にはいった国民を導き,さらに国土を拡張することになると,・・・古代の先例に救いをもと めようとするようなものは,だれひとりとして見あたらない実情である。(32)」
ルネサンス人が重用した古代史家は,ツキディデス,ポリビウス,タキ トゥス,リヴィウス,ルキアヌス,ポリビウスなどの古代歴史学の群像で あった(33)。ルネサンス人たちは,彼等の作品の中に「いかに人がいま生き ているのか」という問題への応答の鍵を見出していった。哲学者・神学者の 戒律や教義が素通りしていた自然法蹂躙の現実が如何なる理由によって生じ ているのかに対する回答を見出したのである。そして,彼らは,人間の現実 態の観察を踏まえ,そこから出立して自然法の世界に接近して行く方途を模 索したのである。
それでは,ルネサンス人たちは,古代の「政治的歴史」書の中に,具体的 には,如何様なものを発見したのか。既に,上のリプシウスからの引用文が 示唆する所であるが,彼等はそこに,何故,哲学者や神学者の高尚な戒律が 自然法の実現のために無力であるかの原因・理由を見出した。自然法と現 実世界との落差の原因・理由を見出したのである。斯かる落差の根因が,
人間の情念の世界にある旨をつきとめたのである。ルネサンス人は,情念の 躍動の中に,現実の人間の行動と彼等が織りなす政治過程の在り様の根因を 見出したのである。マキャヴェリは,人間は「生来『野心』と『貪欲』と を具え,そのため善と平和とは人間において完全に消滅している(34)」と考 えた。彼は,人間情念の特質を,動物との比較において,次の様に喝破して いる。「豚は他の豚に対して苦痛を与えず,鹿も同様である。しかるに人間 は他の人間によって殺され,苦しめられ,略奪されている。(35)」哲学者や 神学者は,戦争と内乱の原因を尋ねようとしない。マキャヴェリは,中世 来の哲学者・神学者が人間の無意識世界の深刻性・重要性を弁えず,専ら,
意識世界だけを楽観的に取り上げた点を批判したのである。ボーダンもマ キャヴェリを継いで,人間の無意識世界に注目し,次のように言っている。
「・・・この(人間の-筆者)快楽は限界を持たず,ここに人間は動物に見 られない新しい価値,即ち,『栄光 gloria』を追い求め,そこから支配と暴 力,不和と戦争,殺人と奴隷化が生ずる・・・。(36)」リプシウスも又,マ キャヴェリの「統治者は,国家の善 the good のために,悪事 bad things を 働くべきである」と言う信念に忠実であった(37)。そして,四人目のベーコ ンもマキャヴェリ以来のルネサンス人に倣って次の様に述べている。
「われわれはマキアヴェルリやその他の,人間はどんなことをするかをしるして,どんなこ とをすべきかをしるさなかった人びとに負うところが大きいのである。というのは,ヘビの 性情を残らず正確に知っていなければ,・・・すなわち,悪のすべての種類と本性を心得てい なければ,ヘビの賢さとハトの素直さを兼ねそなえることはできないからである。それとい うのも,この心得がなければ,徳はあけっぱなしで,無防備になるからである。(38)」
この様に,マキャヴェリからベーコンに至るルネサンス人は,此の現実の 世界において,自然法の理想規範が蹂躙されている原因として,人間の無意 識世界たる情念の領域へ注目したのである(39)(40)。
しかし,その次第は,既述の様に,政治理想論としては,伝統的自然法な る意識世界に対する信頼の念を揺るがす者ではなかった点に注目しなければ ならない。ルネサンス思潮においては,情念への着眼は,理想的規範として の伝統的自然法を拒絶するものではなかった。ルネサンス人は,中世的自然 法を実現していく方途に於いて,政治的歴史から情念の深刻さを学ぶべき旨 を主張したのである。だから,ルネサンス人達は,裸のままの情念の奔流を コントロールし,社会の秩序と平和を構築する術について思索をめぐらして 行くことになる。そして,情念の世界からの脱却の試みの方途を教会や聖職
者ではなくて,新興の国家と為政者(国王)に求めたのであった。そのモデ ルも古代の歴史学の中で展開されている国家論に求められたのである。この 次第は,直接的には,マキャヴェリの主著が『君主論』・『政略論』であり,
ボーダンの主著が『国家六論』であり,リプシウスの主著が『政治学』であ り,ベーコンの主著『学問の進歩』が「国王陛下」へ献呈されていることに よって明らかである。かつて,マイネッケは,古代政治思潮に拠って,宗教 的国家観の脱却を志向する「国家理性」論を唱えた先駆者としてマキャヴェ リを挙げて,彼の関心の焦点が最早,教会ではなくて国家である次第を,次 のように指摘した。
「その人(マキャヴェリ-筆者)をもって近代西欧における国家理性の理念の歴史が始ま り・・・この異教徒は,地獄の恐怖を知らず,古代の素朴をもって,国家理性の本質を考 えぬこうとするその生涯の仕事に着手できた・・・(41)」「・・・マキアヴェリは,まったく 明確な国家の最高目的に熱中したのである。そして,まったく同様に,かれの政治思考全体 も,国家理性に従った不断の思考にほかならないのである(42)。」
また,ボーダンも,「実際政治の諸問題の鍵は,歴史の研究の中に見出さ れるべきである(43)」述べ,古代歴史学の有用性を力説した。そして,ユグ ノー戦争による母国,フランスの分裂と対立を克服すべく,宗教勢力の争闘 の間隙を縫って,フランス人の統一と平和の確立の方途如何を探求し,所 謂,「政治派 politique」の立地点から『国家六論』を執筆し,近代国家の重 要な指標となる「主権 souveraineté」観念を創造したことはよく知られてい る(44)。さらに,ベーコンの政治思想の中心的課題は,「君主制国家イングラ ンドという所与の現実を不可避の前提としたうえで『政治的に可能である事 柄』を模索することにあった(45)」とされる(46)。この様にして,ルネサンス 人達は,古代歴史学の世界へ立ち返り,人間や国家の至高の規範である自然
法と現実の人間と国家の有様の乖離の原因を,人間の情念の働きに求め,そ の乖離の克服への接近を,最早,教会勢力にではなく,初期近代の新興の集 権・統一国家とそれをになう政治家(=国王・官僚)に求めたのであった。
初期ホッブズは,斯様なルネサンス思潮を言うなれば,「模写」する所から 思想活動を開始して行くのである。
② ホッブズとルネサンス人との接触
ホッブズが斯様なルネサンス人の政治思潮に接触する端緒となったのは,
出生地,ウィルトシャーはマームズベリーに於けるラテン語の修学であっ た。ホッブズと同郷の伝記作家,オーブリーに依ると,ホッブズは,ロバー ト・ラティマー(1577 ?- 1634)と言う「すぐれたギリシア学者」からラ テン語を習い,ギリシアの悲劇作家,エウリピデスの作品,「メデイア」を ラテン語に翻訳した(47)。これは,「メデイア」なる一女性が自分の子供を殺 め,夫に復讐するという筋書きからなる作品である。ギリシア世界における
「情念の奔流」を描き出した者であり,ペロポネソス戦争の勃発した紀元 前 431 年に初演された(48)。残念ながら,この翻訳原稿は失われたのである が,この翻訳作業は彼が若い時期から人間情念の問題に強い関心を持ってい たことを示している(49)。またホッブズの哲学者・神学者に対する批判の素 地が,既に,この時期に養われていたと見ることが出来る(50)。ラティマー なる人物について詳しいことは分からないが,古典語に通じていた所を見る と,チューダー人文主義が生んだルネサンス人であると考えられる。ちなみ に,ツキディデスはエウリピデスの墓碑を書いたと言われている(51)。
ホッブズが,本格的にルネサンス思潮に接触する機縁は,1608 年,オッ クスフォード大学卒業後に,ウイリアム・キャヴェンディッシュ(1590 - 1628),後の,第二代デヴォンシャー伯爵の家庭教師兼秘書として,ダー
ビーシャーのチャッツワースに居宅を構えるキャヴェンディッシュ家へ入っ たことである(52)。彼は,晩年に著した自叙伝の中で,この邸宅で過ごした 30 年余りの期間について,「コレゾワガ生涯ノコノ上ナク甘美ナル一時期ナ リシ」と書き残している(53)。ホッブズは翻訳書,『戦史』の冒頭に付した
「ウィリアム・キャヴェンディシュ卿への献辞」の中でキャヴェンディシュ 家の蔵書・学風が,オックスフォード大学のそれと異なり,ルネサンス調の 者であった次第を次のように書いている。
「父君にお仕えする名誉 the honour を頂いた多年の経験から,私には,次のことが分かり ます。あなた様の父君に勝って,自由学芸 the liberal arts を,より自由に liberally,且つ,
より虚栄心 glory 抜きに,自由に研究された人は見当たりません。また,・・・父君の御邸宅 に勝って,大学なる者を必要としない邸宅を構えた者はおりません。と申しますのは,父君 のご研究の大部分は,偉大な人物が労苦と時間を費やすに最も相応しい学問,つまり,歴史 学と道徳・政治学 civil knowledge に捧げられ,そして,ご自分の読書を誇示することにでは なく,ご自分の生活と公共善 public good のためになされたからであります。父君の読書は,
学問で取得された知識を,判別・消化され,自国の利益のための知恵と能力に変えられたか らであります。父君はこのために,熱意を持って身を捧げられ,しかも,党派心や野心に よって焚きつけられたものではありませんでした。(54)」
ホッブズはここで,「父君の御邸宅に勝って,大学なる者を必要としない 邸宅を構えた者はおりません」と述べ,かつて彼がかつて在籍したオック スフォード大学とキャヴェンディッシュ家を比較して後者の学風に軍配を 上げている。その理由は,同家の当主が,「偉大な人物が労苦と時間を費や すに最も相応しい学問」としての「歴史学と道徳・政治学(55)」の修得に努 めたことである。ホッブズは,大学の哲学者・神学者が述べ立てている戒律 や神学的知識 ecclesiastical knowledge 対する批判を踏まえて,歴史学と道 徳・政治学の重要性を指摘しているのである。その際,歴史学は道徳・政
治哲学の必須の素材として位置づけられ,後者が目的,前者がその為の手 段である(56)。この様な見地が,マキャヴェリからベーコンに至るルネサン ス思潮を継承したものであることは明らかである。キャヴェンデッシュ家 は,斯様なルネサンス思潮に接近し得る豊富な蔵書を所持していた。ホッブ ズが求めていた学問や蔵書は大学には存在せず,キャヴェンデッシュ家に 存在したのである(57)。またホッブズは上の引用文の中で,キャヴェンディ シュ卿が,「自由(教養)学芸(中世に於ける教育の主要な学科で,文法・
論理・修辞の三科 trivium と算術・幾何・音楽・天文の四科 quadrivium の 総称-筆者)を,より自由に liberally」学んだことを賞賛している。この Liberally なる語彙は,ここでは ecclesiastically との対比を意識して用いら れていると見てよい。実定的な神学や戒律から自由な教養科目という含意を 持っている。これまた,斯様なルネサンス思潮に拠るものであると考えられ る。さらに上の引用文は,ウイリアム・キャヴェンディシュ(第二代デヴォ ンシャー伯)が「偉大な人物」が習得するに相応しい歴史学と政治学を修め て,自然法実現に適う行動をとることに努めた次第を称揚している。先述の ように,「公共善」=自然法の実現,これこそは,ホッブズが史書の翻訳を 進めた基本動機でもあったのである。
ホッブズがルネサンス思潮との接触を一段と深め,歴史学と道徳・政治 学の学習を更に進める契機になったのは,1614 ~ 5 年,ウイリアム・キャ ヴェンディッシュのイタリア研修旅行に同行したことであった(58)。彼等は イタリア・ルネサンスの中心地,ヴェネツィア共和国のルネサンス人,P.
サルピや F.ミカンジオたちと思想的交流を深めた。前者は,タキトゥス,
ツキディデス,ベーコンに強い関心を持つイタリアのルネサンス人であっ た。後者は,彼の周りに集うヴェニスの政治家や著作家の一人であった。
彼等にとって,此の旅行の期間は,正に,「知的発酵の時間 an intellectually formative period(59)」となった。そして,此の旅行を契機にして,イングラ
ンドのルネサンス人の代表格として活躍していたベーコンとの接触が始まっ た。サルピは,ベーコンの新思想を随時,知らせて欲しいと考え,そのため に,ベーコンの秘書として働く人物の推薦方をキャヴェンディッシュに依 頼した。かくして,ホッブズは,1623 年頃からベーコンの秘書として,後 者の論文集のラテン語訳の補助,彼の口述筆記などに従事することになっ た(60)。ハミルトンによれば,ホッブズが作成したチャッツワース図書館の 蔵書目録の中で,ベーコンのものは,本稿でこれまで屡,引いて来た『学問 の進歩』を初め,11 点に及んでいて,他の人物のものの数と比べて抜きん 出て多い(61)。さらに,イタリアから帰国後,キャヴェンディッシュとミカ ンジオとの間で幾度も書簡のやり取りが行われたが,ホッブズは,この書簡 群の英訳を行っている(62)。斯様なベーコンとホッブズの接触に関しては多 くの論者が指摘して来ている所である(63)。
(3)初期ホッブズの政治思想
① ルネサンス政治思潮の受容とツキディデスとの邂逅
以上,初期ホッブズとルネサンス人との接触を概観したのであるが,次 に,彼がルネサンス人から影響を受けて,如何様な道徳・政治思想を形成し て行ったかを見ることにする。先ず,ルネサンス人達は,道徳・政治規範 として,伝統的自然法を受容していたのであるが,ホッブズの場合はどう であったのか。上述の如く,彼は 1640 年に先立つ何れかの時期までは,伝 統的自然法を,根本規範と見做していたと明言していたが,1629 年の『戦 史』翻訳の刊行の段階では,どうであったのか。ホッブズは,三編の「序文 群」の中では,正面から直接に自然法問題を扱っていない。それどころか,
自然法という言葉すら出てこない(64)。田中秀夫は,初期ホッブズは,「行為
の規範が何であるかに沈黙を守っている(65)」と言っている。ザゴリンも,
初期時代のホッブズに関して,「我々は,彼(ホッブズ-筆者)が自然法に 関するどの様な書物を読み得たかに関して示唆を与えるような直接的な証 拠を殆ど持たない(66)」と指摘している。しかし,シュトラウスは,ホッブ ズが,明白に,伝統的自然法の立場を採っていた次第を次の様に指摘してい る。
「アリストテレス哲学が人間行動の規範を正しいやり方で指示していることは,ホッブズに よって自明のこととして for granted 前提されており,いずれにせよそのことは何ら論駁の対 象にはなっていないのである。(67)」「伝統的道徳論と政治論の権威は,なおも不動のままで ある。・・・伝統的規範の妥当性とその応用可能性はかれにとって自明 a matter of course で ある・・・(68)」
つまり,シュトラウスは,先述のルネサンス人たちと同様に,初期ホッブ ズにおいても又,アリストテレス・アキナス流の自然法思想が,「自明」な る者として前提されていると見ているのである。言い換えると,人間の情念 が,先述の『法学要綱』における「ニューカスル侯への献辞」の言葉を援 用すると,「絶対的に信頼できる」者とは了解されていないと言うことであ る。彼がその典拠としているのは,「序文群」中の「読者へ」に出てくる次 の一節である。
「色々の人達によって by divers,ホメロスの詩学,アリストテレスの哲学,デモステネス の弁論術,そしてその他の古代人の学問は依然として,現代人に対して優位を保ち,それら の部門の中で,一つとして,現代人の誰かが凌駕している者はなく,ある部門に於いては,
近寄ることさえ出来ていないと指摘されてきています。(69)」
この文章は,ホッブズが,周知の「古代人」と「現代人」の優劣如何とい うルネサンス人のパラダイムに言及したものである。彼はこの中で,諸々の 人達によって,「哲学」の領域で,「現代人」は「古代人」つまり,アリスト テレスに及ばない旨が認められて来ていると述べている。シュトラウスは,
この箇所を典拠として,初期ホッブズが,ルネサンス思潮を継承して,アリ ストテレス・アキナス流の伝統的自然法を「自明のこと」として受け入れて いたと理解したのである。また,シュトラウスの先行研究者,ロバートソン も,必ずしもその典拠を明示してはいないが,「彼が明白な意識を持って,伝 統的教義から離脱していたと見られる理由は,何処にも見当たらない。(70)」と 指摘している。
このようにして,初期ホッブズ研究の二人の開拓者は,ホッブズは,『戦 史』発刊の段階では,未だ,伝来の自然法が「空中に築かれていた」という 認識に達していなかったと見た。シュトラウスは,斯様な見地を踏まえて,
初期ホッブズの思想的営為の基本的課題が,母国,イングランドの政治世界 にこの自然法の政治規範を実現することにあった次第を,次の様に指摘し たのである。「伝統的規範はホッブズにとって自明であるがゆえに,かれは もっぱらこの規範の実現,その応用の問題に従事する可能性をもつ。(71)」。
私は「ニューカスル侯への献辞」におけるホッブズの自然法観も踏まえて,
斯様なシュトラウス達の見方に大筋,賛成する者である。初期ホッブズは,
未だ,アリストテレスの「政治的人間」やアキナスの「共通善」の見地を離 脱してはいないのである。したがって,そこには,後期ホッブズに表れてく るような個人の権利や安全,個人の生命や財産などを価値原理とする新たな 自然法思想を見出すことが出来ない。有機体的・共同体的な国家・社会観を 基にして,国家や社会の安定・安全・統一・平和の確立という目標が価値規 範とされることになるのである。初期ホッブズの自然法思想は,客観的・実 体的な秩序を価値空間として,それを地上の現実世界に実現しようと試みる
者であった。そして,「序文群」の中には,他にも斯様な見方を取り得る根 拠となる者があると考えるが,その点に関しては下段で順次,言及して行く 心算である。
ところで,初期ホッブズ研究は,ロバートソンとシュトラウスの先駆的 研究の後,しばらくの間,低調となったが,1970 年代に入って,レイクや サクソンハウス等によって再開され,活気を呈するようになった(72)。しか し,1970 年代以降の一群の研究は,初期ホッブズが未だ,伝統的自然法の 圏内に止まり,そこを自覚的に脱却する境地には達していないという点につ いて,十分に配慮していないと思われる。抑も,自然法問題が重要な論点と して扱われていないのである(73)。そのために,初期ホッブズの思想的営為 の眼目が,伝統的自然法をイングランドの現実の中に実現していくという点 にあった次第が踏まえられず,『戦史』翻訳作業の意図が十分に捉えられな いと共に,初期ホッブズの政治思想の全体像4 4 4が十分に捉えられていないとい う恨みがある。引いては,初期ホッブズと後期ホッブズの思想的関連如何と 言う問題についても理解が不十分な者となっていると考える。
しかしながら,同時に,私は,シュトラウスの様に,初期ホッブズが,伝 来の自然法を字義通り,「自明のこと」と捉えていたと言い切ることには躊 躇する者である。私は,ホッブズの伝統的自然法観は,それほど積極的な者 ではなかった。彼の伝統的自然法観の中にはある程度の亀裂が走っていたと 考える。ともあれ,初期ホッブズが伝統的自然法に対して,一切,疑念を持 たなかったと言う呈の理解に対しては,ここでは,ひとまず,留保を付して おきたい(74)。その次第については後段で,漸次,説明をしていく心算であ る。ここでは,とりあえず,ホッブズが 40 歳に達した段階で,自らの体系 書を著していないということが,既に,彼が伝統的自然法に関して,「自明 のこと」と断定できる程には確信を持ち得なかった次第を示している点を指 摘しておきたい。
さて,伝統的自然法思想は,人間の理性の力を信頼し,人間は「政治的動 物」たり得るという見地に立って,国家の統一・秩序・安定・平和の実現を 理想として掲げる思想である。しかしながら,ホッブズが目撃したイングラ ンド内外の現実の人間と政治の有様は,既述のルネサンス人の場合と同じ く,伝統的自然法の規範と著しく乖離したものであった。国内では,1603 年,スチュアート王朝が始まると同時に,国内各領域に宗教的・社会的・経 済的対立が醸し出され,それらは,国王陣営と議会陣営の政治的・軍事的な 対立と衝突に収斂して行った。彼は晩年に書いた自伝詩のなかで,『戦史』
翻訳の時局的な動機が,両陣営の対立・衝突の発生であった次第を吐露して いる(75)。シュラッターの指摘した様に,ホッブズは,ツキディデスが『戦 史』で描いたアテネ国家のペリクレス時代以降の崩壊の過程と母国の命運を 重ね合わせて捉えていたのである(76)。他方,ホッブズは,自伝詩の中で,
1588 年の無敵艦隊来襲を回想して,自分は「驚怖(77)」との双生児として生 まれたと述べた様に,母国の対外環境の帰趨に強い危機意識を持っていた。
フェルスターが指摘する様に,オランダ,フランスそしてドイツなどで展開 した宗教戦争はその最たるものであった(78)。特に,ドイツの宗教対立は,
スペイン,フランス,イギリス,スウェーデンなどの西欧列強を巻き込んだ 30 年戦争に拡大した(79)。マルカム編集のホッブズ書簡集の冒頭に収録され ている二通のホッブズ宛の書簡では,1620 年代,ホッブズがこの戦争の動 向に強い関心を寄せていた次第を窺うことが出来る(80)。また,マルカムは 手稿群の中から,ホッブズが,三十年戦争の一方の主役,神聖ローマ帝国の プファルツ選定候を巡って戦わされた諸論争に関る羅語文章の一編を英訳し ている次第を断定し,出版している(81)。さらに,ホッブズの初期時代は,
所謂,西洋諸国の域外侵略の「大航海の時代」と重なっていた。周知の様 に,イングランドの東洋・亜米利加侵攻も活発であった。彼は,地球規模に おける諸国家の対立・抗争・戦争の展開にも注目していたと思われる。
斯様にしてホッブズは,伝統的自然法の理想世界とイングランド内外の現 実世界の乖離を如実に認識した。その上で,シュトラウスの上掲引用文の 様に,ルネサンス人達と同様に,自然法の理想を如何なる手立てを以て,
この現実世界の戦乱の真只中に実現していくかと言う問題と取り組むことに なる。彼は,この問題に関しても,哲学者・神学者と袂を分かち,ルネサ ンス人達に与していく。ホッブズは,「序文群」の文章,「ツキディデスの生 涯と歴史」の中で,「哲学者の役割」が,偏に,「戒律のくどくどしい伝達 open conveyances of precepts(82)」に止まっている次第を,厳しく糾弾して いる。哲学者・神学者が,自らの作り上げた煩瑣且つ教条的な「戒律」の一 方的宣教によって,自然法の理想を此の地上に実現することは出来ない。現 実の人間が作り上げた戒律・教義と自然法の理想規範の二つが,別物となっ てしまっているのである(83)。ホッブズが斯様に宗教的・道徳的戒律や説教 を垂れる哲学者を批判する場合,先ずは,彼が 1603 ~ 1608 年に在籍した オックスフォード大学の哲学者・神学者の学風を対象としていた(84)。そこ で教授された戒律・教義は,先のルネサンス人の戒律批判の項で説明した様 に,あるべき人間と国家とは何か,つまり人間と国家の理想を説き立てる者 であった。しかし,実際には,戒律は,現実の人間の中に食い込み,現実の 人間を動かして,自然法を実現する契機・動力となってはいない。建前・理 想を教条的に説き立てることが,即,建前・理想を実現することを意味しな い。ホッブズは,スコラ学者達の言説の中に窺われる「諸々の戒律がそれ自 体として実効性を持つこと(85)」の主張を認めることが出来なかったのであ る。初期ホッブズは,哲学者・神学者の自然法思想そのものは受容したが,
それを現実の人々の生活や国家の運営の世界で如何に実現していくかと言う 点では,彼らのやり方を批判しているのである。かくして,ホッブズには,
何故,人々の間には分裂,軋轢,戦争が絶えないのか,何故,自然法が蹂 躙されているのか,そして,それを克服して自然法の世界へ接近するために
は,如何なる方途を採ればよいのかという問題が残されることになった。
ホッブズは,種々のルネサンス人との接触を経て,斯様な思想的課題に対 する応答に重要な示唆を与える人物とその著書,ツキディデスと『戦史』に 出会うことになる。ホッブズ自身は,ツキディデスと接触した経緯について は,語っていない。ロゴウは,ベーコンからの示唆が契機になっていると指 摘している(86)。また,タックに依れば,ホッブズが先述のイタリア旅行で 交わった,ヴェネツィア共和国のルネサンス人,サルピ達は,「ツキディデ スを熱心に研究し(87)」ていた。しかし,ホッブズのツキディデス着眼の契 機は,彼と同時代のルネサンス人に限られた者ではない。彼が親しんだそれ 以前のルネサンス人もツギディデスに強い関心を示していた。ホッブズは,
ツキディデスに対する「最も正当且つ適切な賞賛」をリプシウスのツキディ デス評に求め,「序文群」の「ツキディデスの生涯と歴史」の末尾で,そ の全文を引用・紹介している(88)。ボーダンもツキディデス史学の「真実性 truthfulness」を高く評価していた(89)。さらに,ホッブズは,上記の文章の 中で,ツキディデスを高く評価したポリビウス,ルキアヌス,マルケリヌス などの古代の歴史家から学んだ次第を明らかにしている(90)。これ等の様々 な経緯を経て,自叙伝の中で,「他ノ誰ヨリモとぅきゅでぃですヲ我ハ好メ リ(91)」と述べたような強烈なツキディデス関心が生まれたのである。
以上のように,ホッブズのツキディデス接触の経緯については,ある程 度,分かるのであるが,翻訳・公刊作業の経緯については完全に謎に包まれ ている。しかし,彼が公刊に踏み切った理由は明瞭である。それを示してい るのが「序文群」の中の先に引用済みの箇所-注(69)を付した引用文-の 続きの部分である。
「色々の人達が指摘して来た所によれば,ホメロスの詩学,アリストテレスの哲学,デモス
テネスの弁論術,そしてその他の古代人の学問は依然として,現代人に対して優位を保ち,
それらの部門の中で,一つとして,現代人の誰かが凌駕している者はなく,ある部門に於い ては,近寄ることさえ出来ていないと言うことです。そして,我らのツキディデスを,これ らの人物群の中に加えることは不当ではありません。彼は,上に名前が挙がった人達と比べ て,決して見劣りしない完璧な作品を残した名工でした。(92)」
ここで,ホッブズは,先に引用した個所の後に,歴史学の分野において,
「現代人」が見習うべき「古代人」として,新たにツキディデスを加えるべ き旨を提唱している。そのため,アリストテレスの哲学とツキディデスの歴 史学が一緒に称揚されるという,一見,奇妙な取り合わせが見られるが,
初期ホッブズの思想構成に於いては,決して奇妙な者ではないことは,彼 が影響を受けたルネサンス思潮に関するこれまでの叙述で明らかであろう。
では,ツギディデスは何故に,「完璧な作品を残した名工」と見做されてい るのか。本稿冒頭で言及した前稿では,ホッブズが斯様な評価を下したツキ ディデス史学の方法上の特色について検討した。そして,ホッブズが,『戦 史』こそが,「歴史の魂」たる「真実性 truth」と「歴史の肉体」たる「修 辞性 eloquence」の二要件を満たし,それ故に,自然法をこの世に実現して 行くに際しての有益な素材を提供する,つまり,「有用性 faculty」を持って いる旨を主張した次第を見た。ホッブズは,上記の引用文の直後に,「彼に おいて,歴史記述の効用 faculty は,最高点に達しました。(93)」と述べ,彼 こそが「最高の政治的歴史家(94)」であると最大限の賞賛の言葉を呈したの である。そして,ホッブズは,神学者・哲学者の神学的戒律とツキディデス の歴史叙述を比較して,「(後者の方が-筆者)戒律が,多分,なし得るよ りももっと効果的に(読者を-筆者)教導する(95)」と述べたのである。彼 が,一群の「政治的歴史家」の中から,別して,ツキディデスを選抜した次 第を銘記しなければならない(96)。
以上,初期のホッブズは,16 世紀以来のルネサンス思潮の影響下に思想 活動を開始し,その到達点として,彼が「最高の政治的歴史家」と理解した ツキディデスの『戦史』を翻訳出版したのであった。今日のツキディデス 研究者も,この翻訳作業を高く評価して,ホッブズこそが,「イギリスに於 ける最高のツキディデス読者」であるという評価を下している(97)。次に,
斯様なホッブズのルネサンス人との接触の経緯を踏まえつつ,更に,そこか ら生じてくる二つの問題を考察して行きたい。第一は,ルネサンス人達は,
現実世界において理想規範としての自然法が蹂躙されている原因・理由とし て,人間の情念の深刻さに注目したのであるが,ホッブズの場合は如何とい う問題である。第二は,ルネサンス人達は,人間の情念が招来する人間社会 の分裂・対立・戦争を克服する方途を基督教会ではなく,勃興の過程にあっ た世俗国家並びにそれを運営する統治者に期待したのであるが,ホッブズの 場合は如何という問題である。この二つは,言い換えると,上記の「歴史の 真実性」なるものの具体的内実は如何なるものかを問うことである。
② 人間の情念-政治思想の前提
初期ホッブズは,一群のルネサンス人の見地を受け継ぎ,自然法思想と現 実世界の乖離を哲学者・神学者の戒律・教義によって無くすことは不可能と し,自然法の世界へ接近するためには,古代歴史学の学習が有用であると考 えた。そして,彼はツキディデスの『戦史』に注目し,その翻訳作業を通し て,これ亦,ルネサンス人と同様に,斯様な二つの領域の乖離が人間の情 念の働きに起因する次第を確認して行くことになる。ツキディデスは,『戦 史』の中でペロポネソス戦争の様々の局面における分裂・対立・抗争の根本 原因を人間の情念の跳梁に求めが,ホッブズは斯様な見地に大いなる共鳴を 覚えたのである。シュトラウスは指摘している。ホッブズにとって,「トゥ
キュディデスが他の歴史家よりも抜きん出ているのは,とくに,かれが,人 間の社会生活 social life を主に規定している,かの通常は無視されている情 念を話題にしているからである。(98)」そして,初期段階で獲得された情念 論は,生涯,ホッブズの思想活動の基調因子として消滅することはなかっ た。例えば,後期時代における「万人の万人に対する闘争」或いは「この世 に至福は存在しない」等の有名な言葉を想起されたい。
ところで,ホッブズは,「序文群」の中では,『リヴァイアサン』に見られ るような纏まった形の情念論を体系的に論じている訳ではない。論説,「ツ キディデスの生涯と歴史」は,歴史書の修辞性の問題が中心になっていて,
かつて,前の拙稿でも言及した様に,この問題こそが,「序文群」の主題で あるとする解釈も生まれたほどである(99)。だから情念の問題は,文章の修 辞性如何を論じる中で取り扱われるという形になっている。斯様な事情を,
もう少し敷衍して説明する。周知のように,史学史において,ペルシャ戦争
(前 492 -前 479)史を描いたヘロドトス(前 484 年-前 430 年以降)とペ ロポネソス戦争史を描いたツキディデスは,対照的な史風を持つ人物として 理解されて来た。ホッブズは,「序文群」の中で,ヘロドトス並びに彼を推 奨した紀元前 1 世紀頃のギリシアの歴史家且つ修辞家,ハルカリナッソスの ディオニュシオス(生没年不詳)の史風を批判するする形で,ツキディデス 擁護論を展開している。ホッブズが批判の対象としたのはディオニュシオス の「ポンペイウスへの書簡」である(100)。「序文群」では,後者による『戦 史』の修辞・文体批判に対する反批判が行われ,その中に情念論が差し挟ま れて行くのである。そこで,以下,それに関わる記述を抜き出して引用し,
省察を試みて見たい。
先ず,ホッブズのヘロドトスとディオニュシオスに対する批判の中から,
次の個所を取りだして見る。
「私が思うに,・・・(歴史の主にして重要な徳に関して-筆者)かくも愚劣なことが書かれ たことはなかった。彼(ヘロドトス-筆者)は,歴史の課題を,真実 truth を書くことで利を もたらすことにではなく,詩歌のように聴衆を喜ばせることに求めるからである。歴史の話 題として自国の惨禍や苦難を含む必要は,彼にはまったくなく,そうしたものは沈黙の中に 葬っただろう。あるのはただ,祖国の光栄ある華麗な行為だけだ。歴史家の徳として彼が数 え上げるのは,祖国愛であり,さらに,聴衆を喜ばせ,論拠が人を導く以上のことを書き,
そして祖国の名誉にならぬ全行動を隠す努力である。これは明々白々な悪徳だ。(101)」「歴史 を編もうとする者にとって,基本的かつ最も必要な役目は,話題を取り上げるに際して,自 分で確実に処理しうるもの並びにそれを読む後代の人々に役立つ者を選ぶことである。ヘロ ドトスは,それについての真実を自分では知ることの出来ない事柄について,そして,真実で 納得させるよりも,寓話的な叙述で耳をくすぐるような事柄について書こうと企てた。(102)」
この二つの引用文で最も重要な個所は,ホッブズが,ヘロドトスが「歴史 の課題」を「真実を書くことで利をもたらす」ことにではなく,「詩歌のよ うに聴衆を喜ばせる」あるいは,「寓話的な叙述で(聴衆の-筆者)耳をく すぐる」ことに求めていると批判している所である。ヘロドトスは歴史の 課題を真実性,引いては政治的有効性にではなく,読者に迎合する娯楽性・
観照性に求めていると手厳しい批判を浴びせているのである。ホッブズは,
ヘロドトスの『歴史』は,「架空の歴史 a picture of history」に過ぎないと
言う(103)。それに対して,ツキディデスの『戦史』は,先述の如く,「真実
性」という条件を満たし,もう一つの「修辞性」と併せて,歴史の目的たる
「有用性」を備えている。それ故に,国家にとって有益な「最高の政治的歴 史」と称揚される。ディオニュシオスが,ヘロドトスの肩をもって,歴史の 素材として,「祖国」の「栄光」と「名誉」に資する者を選択すべきと言う のに対して,ホッブズは,祖国の「惨禍」や「苦難」をこそ描くべきである と反論する。真実を書くことこそが,アテネの秩序・平和・繁栄に貢献する と主張するのである(104)。
「人々は,繁栄よりも逆境に目を向ける方が得るところが大きい。従って,人々の悲惨が,
彼らのすばらしい成功よりも,教訓を与えるところが遙かに大きいことを見ると,ツキディ デスは,話題を取り上げるに際して,ヘロドトスが彼の話題の選択に於いて賢明であったと 言うよりも,幸運であった。(105)」
悲惨な経験こそ,後代に重要な教訓を残す。ペロポネソス戦争におけるア テネの惨劇・非運を経験し得たツキディデスが,ペルシャ戦争によるアテネ の興隆・幸運を経験したヘロドトスに比べて,歴史家としては幸運であった という訳である。
次にホッブズは,戦争の様々の局面における人々の競争,対立,分裂,戦 闘などが発生・亢進して行った精神的・内面的な原因の考究に向かってい く。現実世界において自然法の理想が蹂躙され,哲学者・神学者による戒 律・教義の説教が何故に,実際的効力を持ち得ないのかという点が問題とさ れるのである。それは,歴史の「真実性」の契機の深層を探る試みである。
その点に関して,ホッブズは,次の様な文章を書いている。
「・・・その難解さ the obscurity は,それらの文章の深遠さに由来する。それらの文章 は,人間の情念 humane passions に関する熟視 contemplation の結果である。情念と言う者 は,偽装される dissembled か,あるいは,多くの場合,表立って問題として取り上げられ ないのだが,人々の社会的な交わり public conversation において,最大の影響力4 4 4 4 4 4(傍点は筆 者)the greatest sway を発揮するのである。(106)」
この文章は,ディオニュシオスがツキディデスの文章が難解であるという 修辞法上の批判を行った点に対抗して,書かれた。ホッブズは,『戦史』の 中の「難解」な箇所は,文章内容の「深遠さ」の故であると応えている。此 処の「深遠さ」という言葉は,戦争の諸々の局面で展開する人間行動の精神
的真底の如何を意味する。ホッブズは,それを,ツキディデスと共に,「人 間の情念」に求めて行くのである。人間の情念は多くの場合,道徳的戒律な どによって「偽装され」,或いは,無意識世界に属す故に,「表立って問題と して取り上げられない」。しかし,戦時における人間の行動を根底において 規定する者は,衝動的・無意識的な情念である(107)。否,人間の情念は,戦 争という非常時に際してだけでなく,日常の「人々の社会的な交わりにおい て,最大の影響力を発揮する」のである。戦争における情念の噴出は,人間 行動にとって,典型的な事例でこそあれ,決して例外的な事例ではない。
人々の行動を誘う最強の内面的・精神的契機となるのは,最早,理性・良心 や道徳心ではなく,それらを脇に押しやって貫流して行く情念である。ホッ ブズは人間性の中に理性や良心といった道徳性が存在していること自体は認 めている。ただ,それが現実の人間行動において,「最大の影響力4 4 4 4 4 4を発揮」
していない事実を注視しているのである。ここに於ては情念こそが,「絶対 的に信頼できる」者であるという,前掲の「ニューカスル伯への献辞」にお ける認識の段階へ,相当,接近していると言える。ツキディデスの『史書』
は,一般的風潮に抗して,人々の間,そして,国家の間の争いの根本原因と して,人間の内面における情念の躍動を白日の下に曝け出した(108)。ホッブ ズが,ツキディデスの『戦史』をもって,「最高の政治的歴史」と評価した 最も重要な理由は,様々の人間模様の最基層を貫流している人間情念への注 目にあった。彼は,この点を看過していることが,ディオニュシオスの「最4 大の4 4(傍点は筆者)誤謬(109)」であると言っている。
それでは次に,ホッブズが,『戦史』の中で展開されている,ギリシア人 の戦乱・内乱における情念の噴出の具体相を如何様に捉えて描いているかに ついて,見ることにする。『戦史』の素材として,先述の様に,ペロポネソ ス戦争の様々な局面に於ける分裂・対立・抗争が取り上げられているが,
『戦史』の主題と言うことになると,一つは,全ギリシアを二分したアテネ
陣営とスパルタ陣営の戦争の経緯と原因の追及であり,もう一つは,この戦 争に於けるアテネの敗北と衰退の経緯とその内的原因の追及ということにな る。そして,此の二つの主題局面における最重要な主役の位置を占めている のが,人間情念論なのである。
そこで,先ず,最初の問題局面に関して見ることにする。ホッブズは,
ディオニュシオス批判を進める中で,アテネとスパルタが戦端を開くに至っ た原因について,ツキディデスが二種類の者を挙げている点に注目して,次 の様に述べている。
「彼(ツキディデス-筆者)は,戦争の真の原因 the true cause of war,つまり,アテネ 人の支配力の強大さ greatness をラケダイモン人が恐れ feared,嫉妬した envied ことの叙述 を,ケルキュラとポティダイアにおける紛争を扱う前に,始めている。・・・彼(ツキディデ ス)が,初めにこの戦争の表だって公言された理由に関する叙述を行い,その後,真の秘め られた動機 the true and inward motive を叙述した点を(ディオニュシオスが-筆者)批判 するのは馬鹿げている。と言うのも,戦闘行為それ自体と同様に,表側の公言された戦争の 理由 the public and avowed cause と言う者は,それが如何に軽微なものであっても,歴史家 の扱う仕事である。口実抜きに,戦争は始まらないからである。この口実は何時でも,損害 を蒙ったとか,損害を蒙ったと装う呈のものである。それに対して,他国の強大さに対する 妬み envy や将来の侵害に関する恐怖 fear のような,敵対を生み出す内的動機は,推測的な もの conjectural に過ぎず,歴史家が常に注目しておかなければならない事実 evidence では ない。さて,優れた歴史家なら,戦争の根本原因として,公言された侵害と秘められた妬み concealed envy の内,どちらを扱うべきかについて,誰かに判断してもらおう。一言で,こ の点に関してツキディデスが用いた方法を描くとこうなる。『ケルキュラに関する紛争がこの 様に経過した。そして,ポティダイアに関する紛争がこの様に経過した。』・・・・・『二つの 紛争に際して,アテネ人は侵害を行ったと非難された。しかしながら,ラケダイモン人は,
此の侵害によって,アテネ人に対する戦争に及んだのではなくて,前者は後者の権力の強大 さを妬み envy,後者の野心 ambition が生み出す者をおそれた feared のである。』私が思う に,これ以上,明白且つ自然な書き方を工夫することは出来ない。(110)」