<研究ノート>ビルマ中央平原の作物分布

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<研究ノート>ビルマ中央平原の作 物分布

田中, 耕司; 渡部, 忠世

田中, 耕司 ...[et al]. <研究ノート>ビルマ中央平原の作物分布. 農耕の技 術 1978, 1: 60-80

1978-10-10

https://doi.org/10.14989/nobunken_01_060

(2)

60

く研究ノ ト〉

ビルマ中央平原の作物分布

田 中耕 司*・渡 部 忠 世*

は じ め に

1974年11月から12月にかけて行なった著者らのビルマ調査は 主として 培稲の歴史的変遥過程の探索を目的として ビルマ中央部のイラワジ川流域を 主な調査地域とした**

プロ ム(Prome)からパガン(Pagan)を経てマソダレー(Mandalay)に 至るビルマ中央部は, 西暦紀元前後から近代に至るまで ビルマ民族と国家に とって常に歴史の主要な舞台であった。 ビルマ農業の伝統的諸形態の成立と推 移は, 他のどの地域よりもこの地域に現在もなおうかがうことが可能である。

今日では, イラワジデルクの水稲栽培がビルマのもっとも代表的な農業である とされているが ピルマ中央部に展開する乾地農耕と泄漑稲作は, デルクの水 稲栽培に先行するビルマの伝統的な疵耕様式である

本稿は, ビルマ中央部の調査経路に沿った主要作物の分布と農業景諷の視察 結果をまとめて, この地帯における農耕様式について若干の考察を加えようと

*たなかこうじ・わたべただよ 京都大学農学部

**本調査の総合的報告は, Prelimfaayy Repoッt of the I(:ッoto U面"ersitッScimtific Survey to Burnia, 1974, (1976)にまとめられている 調査にあたっては,•ピルマ政 府教育省高等教育局, および各地の教育委負会にお世話いただくとともに 有田大使 沼田書記官 奥平嘗記官ら在ビル・マ日本大使館関係者にビ協力をいただいた 著者ら の調査はこうした方々の協力によって実現したものであることを記し紺意を表したい。

また,調査に同行してLiaison Officerを務めてくれたU Thein Kyuとマンダレ 在住の歴史家U Maung Maung Tjnの協力なしには短期間の調査を効果的に終える

ことができなかったであろう。記して紺意を表する

(3)

するものである。

1 中央平原の概要

Smpによると,ビルマ全土はその地形的, 気候的条件によって次の9地 域に区分されている11)。アラカソ海岸,テナセリム海岸,西部山地,シャソ高 地,北部山地' グー山地,シックソ)Il流域,イラワジ川下流盆地と三角洲,

乾燥地域がそれである。これらのうち,後者の4地域をまとめた,アラカソIll 脈とシャソ高地に挟まれたイラワジ,シックソ両流域を中央乎原として括す る場合もある。いわゆるBurma Properと呼ばれる地域である。

著者らが調査を行なった中部ビルマは,中央平原のうちブロムからマソクに至るイラヮジ川流域の乾燥地域で,本稿ではこの地域を中央平原と総称 することにする。プロムはまた,ビルマで般的に使われる地域区分である 上ビルマと下ビルマの境界線上にも位固していろ。1852年の第2次英飼戦争の 結果,イギリスとミソドソ王によって定められた両地域の境界は,プロムと クウソグ (Toungoo)の北を結んでおり,この境界線はビルマの多雨地帯と 寡雨(乾燥)地帯との境界にもほぽ致している。したがって著者らは,上ビ ルマの乾燥地域をその入口から中心部へと北J:しつつ調査したわけである。

中央平原において作物栽培を制限している大きな要因は,何よりも降雨亜と その年閻分布である。著者らが調査したサガイソ管区(Sagaing Division),

マンダレ (1andalay)管区, グウェ(Magwe)管区の主要な都市と,さ らに南部に位慨するデルク地帯のラソグーソ(Rangoon),テナセリム 地方の

ルメソ(Moul me in)のデークをビルマの統計書より第1表に引用した1!)0 中央平原は,アラカソ山脈により南西モソスソがさえぎられるため,降雨最が 極端に少なもわずかに年間600から900mmでしかない。下ビルマの典型的な 熱帯モソスソ地帯と対比すれば,降雨盤の極端な少なさがこの表からもうか がえる。Stampはビルマの自然植生に関連して, 植生分布を決定づけるもっ とも重要な基準線として年間降雨蓋40イソチ(約1020mm)と80イソチ(約2040

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62 股耕の技術 1

第1表 各地の降雨批および気温2)

降雨盈(mm) 温(℃)

測候地点 1968

平年 1%8 1969

平最高気温1最気温日 最高1最低 SAGAING DIV.

Sagaing 859 1,126 592 ... ... 31.1 21.2 Shwebo 905 928 767 ... ... 31.9 19.4 Monywa 795 1,108 7杖) 33.8 21.8 33.1 20.7 MANDALAY DIV.

Mandalay 871 1,403 740 32.6 21.8 323 20.6 I{yaukse 797 943 682 33.1 22.3 32.9 21.3 Myingyan 698 669 600 33.9 20.8 33.5 17.5 MAGWE DIV.

Minbu 886 848 837 32.9 21.9 32.9 21.7 Pakokku 617 559 629

... ...

34.0 17.3

PEGU WEST DIV.

Prome 1,207 913 975 33.1 21.6 33.1 22.1 Rangoon(H.Q.) 2,618 3,174 2,564 31.9 22.9 32.2 22.1 TENASSERIM

Moulmein 4,828 4,195 5,781 30.2 23.3 32.l 22.3

第2表 月別降雨証および降雨日数IO

1969 最高 最低 33.0 21.7 33.8 19.9 34.2 20.9 33.3 20.3 33.4 21.5·

34.9 20.2 33.7 21.6 34.5 21.1 33.5 21.4 32. 6 21.9 319 22.4

測候地点

I -

I

2月

I

3月

I

4月| 5月T6月

1

7月| 8月| 9

110月}_1月

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1

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Minbu

降雨趾(mm) 0.0 9. 4 0.3 28.2 131.6 223.2 126.4 93.6 157.7 143.6 55.5 12.4 981.9 降雨日数

1

l 6 11 10 8

7 2

55

Mandalay

降雨最(mm) 0.0 10.3 2.2 42.2 52.3 104.4 79.8 101.4 151.6 1切7 56,5 12.3 740.7

降雨日数

1

3 8 7 6 7

6 3

50

Rangoon

降雨益(rnm) 0.4 6.0 7.5 100.2 311.2 538.2 643. 4 467.9 399.2 197.8 63.9 20.7 2756.4

降雨

1 1 3 14 23 27 24 21 11 3 1 129

mm)の二つの等雨蛋線をあげている10)

40イソチ以下の降雨批では, ビルマ では十分な森林の発逹はみられず,いわゆるShade treeとして梱えられたク

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マリンド(Tamam”dus切diatm), ンゴー(Mangifera indica), バルミラ ャッ(Borrastts flabellifer)が代表的な独立樹として観察されるのみである。

40から80 インチの降雨嚢の地域では乾季には落葉すろ熱帯モソスン林とな り, 80イソチ以上の地域では熱楷降雨林が展開するとしている。降雨蓋の年間 分布が5月から10月にかけての雨季に集中しているのは, デルク地帯や海岸地 域と同様であるが, 第2表に掲げたように,.乾燥地域では各月の降雨藍,降雨 日数ともにデルク地帯よりも極端に少ない。しかし, 乾燥地域の降雨の大部分 が数日間に集中し, 一時的な豪雨として降っていることは,この地域の自然条 件を考慮すろうえで重要であろう。

気湿の分布も第1表に掲げたように中央平原とデルク地帯との間には若干の 相違が認められる。 中央平原の乾燥地域にゆくに従って気温の日較差は 大き

く, 最高気温もビルマでの最高値を示す。上述した降雨盤の寡少と相まって,

中央平原が極度の乾燥状態を呈するのはこのような内陸型の気混変化も関与し ていると考えられろ。

中央平原の地形は, イラワジ川の盆地とペグ山地によって特徴づけられて いる。 マンダレからミソジャン(Myingyan)に至るイラワジ)1|流域および シュウェボ (Shwebo)やチャウセ{Kyaukse)の位置するその支流域はい ずれも平坦な沖積地で, 中央平原のなかではもっとも農業に適した地域であ ろ。いっぽう, プロムからバカツに至るイラワジ川東岸およびペグー山地西 腕は,第三紀層の砂岩質のイラワジ層を母岩とする砂,礫,粘土を含む砂質土棋 であるため,土紫の生産性は前者にくらべてかなり劣った地域となっている12)

以上のような自然条件を基礎1こ展開されろ中央平原の農業を考えるうえで,

もうひとつ注意しなければならないのは,この地域の歴史的,社会的条件であ る。王朝時代からの古い伝統ある社会組織を基礎として農村社会が支配的であ った中央平原では, 農業開発の歴史はデルク地帯よりはるかに先行していた

*

Adas1) は,その著,The Burma Deltaで,農業開発面における乾燥地域とデルク地帯 との差異を,とくにデルクの開発に箔目しつつ次のように述べていろ。「50年問 (185碕こ 以降:箸者注)のうちに, コンパウソ王朝時代の低開発地であり,人口稀薄な停滞地に

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64 農耕の技術

また, 仏教徒相続法に従って各世代にわたって土地や家財を平等に分割するこ とを一般的な原則とした上ビルマの伝統的社会にあっては, 家族労慟にもとづ く小規模な自作農が主体をなしていろ。 こういった士地所有の面でも, 中央平 原の農業は, 不在地主による大土地所有と小作農増大が特徴的であったデルク の農業と好対照をなしている。 このような上ビルマと下ビルマの 農業の差異

を, 溝口房雄氏は,「上ビルマの農業は, その基底には王朝時代の伝来的関係 が支配し, デルク農業が国際的・動態的かつ単作的なものとして展開したのに 対し, 民族的・静態的かつ多角的なものとして存在しつづけてきた」と表現し ている8)0

以上のように, 自然的条件が不規則かつ不足がちな降雨に代表されるような 厳しい条件におかれ, 地形的にもデルク地帯に比して非常に変化に富んでいる ことなどから, 中央平原では, 多種類の作物を選択しつっ, 伝統的方式による 農業があまり大きな変化もなく今日まで行なわれ, 現在に至っているといって よいであろう。 このようにして,中央乎原の農業は, 発展過程の停滞のなかに ビルマの伝統的な農業の姿をよく伝えているので, 前述したようにビルマの農 業の成立過程を考えるうえで重要な地域ということになる。

著者らが調査を行なった地域には, 農耕様式の面からみても, プロームから マグウェを経てパガノに至る粗放的な乾地農耕地帯, 比較的商品化した畑作物 栽培と罹漑稲作の混合地帯であるメティラ(Meiktila)県, 主要な泄漑稲作地 帯であるチャウセ, マソダレー, シュウェボ県等の特色ある地域が含まれて いる。 これらの地域での恨察にもとづいて, ビルマの伝統的農業とはどのよっ な性格と由来をもつものであろかを作物分布を中心に以下に検討していこう と思う。

すぎなかった下ビルマは,世界の主要な米餘出地帯へと変貌した。 この変化はビルマに おける人口分布のバラソスに変化をもたらした。 デルクにおける稲出経済の成長は乾燥 地帯やイソド亜大陸からの大倣の移民を吸収した。 英国によって上ビルマのセソサスが 初めて出版された1891年までには, デルク地帯の各県の人口総計は, 過去には周辺部の 人口をしのいでいた乾燥地帯の総人口をはろかに上まわるようになった。」

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2

中央平原の作物分布

第1図に著者らの調査経路を示した。

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ビルマのうち, 調査域はプロームか らマグウ , チャウバドン (Kyaukpa.dawn)を経てバカツに至るイラワジ川 流城とボバ山競およびペグー山地の北端, マソダレを中心とするイラワジ川

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第1図 調

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66 農耕の技術 1

およびその支流域である。 プロ ムからメティラに至る地域は,先にふれたイ ラワジ層を母岩とする砂質土穣地帯で,メティラからシュウェポーに至る河谷 部はイラワジ川およびその支流の沖猜土槃を主体とする地域である。乾地農耕 と泄概稲作という中央平原の二つの農業体系は,ほぼこれら2地城の土猿区分 に対応して展開されていろ。

乾地農耕をもっばらとする地域,すなわちクエッミョ (Thaet-myo), マ グウェ,ミンジャン,メティラおよびサガイソ等の各県ではマメ類,モPコシ,

ゴマ,ラッカセイ,トウモロコシ,ワクを主体に作付'が行なわれ,その他トウジ ンピエ,サンヘンプ(C,,otalaia juncea),ニガーツード(Gu'izotia abyssinica) などのマイナクロップも栽培されている。サガイソ県ではコムギの栽培を観 察したが,統計探料によると, ミンジャソ県やメティラ県でもある程度の栽培 面甜が記録されている

中央平原で栽培されるマメ類の種類はきわめて多く,著者らが短時日に採第 したものだけでも13種(species)であった。 主に 栽培されるのは, matpe (PJ1aseolits mimgo), pedisei?i (Ph. aureus), lztawb1ltpe (Ph. lati-ts), pegyi

(Lablab niger), gram (Pl,, mitngo, Ph. a1-treiis?, pessfogo1i (Cajanus cajan) などである。このうち gramの栽培面戟がもっとも大きいようで, サガイソ,

ッュウェボー, チャウセ, メティラ, ミンジャソ県で広く栽培されていろ。

炒dis曲はサガイン県に, そしてJ1tawb1ttpeはメティラ, マグウェ県に,

pegyi, pessingonはサガイソ,ミンジャソ, マグウェ県に栽培の中心があるよ うである。•Phaseoh-ts属のマメ類はいずれも10月~11月に播種され, 2月~3 月に収穫される**

*サガイン県のコムギ播種面稲は, 68-69年度で約5万エーカで,隣接すろシウェポ ー,モニュワ(Monywa)県で,それぞれ1万2千エカー,4万3千エーカーであろ。

全ビルマの播種面積が15万エーカであろから, コムギ栽培は, イラワジ)11右岸のこ の3県に集中しているといってよかろう。 ミンジャソ,メティラ両県では, いずれも 約千エーカほどであろ。なお, コムギの栽培面稜は年々減少傾向にあることがこの 資料からうかがえる

**ビルマで栽培されるマメ類の地方在来名と共通名, およびそれらと学名との関係につ いてはなお不詳の点もあろ。本文中に記したもの以外に,ビルマでの共通名と学名とを 対照できたマメを記せば,peyin (Pit. calcm·at11s), pe11(I,ik (Ph. mm1go), pec,•a

(9)

ラッカセイ, ゴマはビルマの重要な油料作物である。 ラッカセイの作季には 雨季作と乾季作の二つがあり, 雨季作は5月~6月に播種し, IO月~11月頃に 収穫される。乾季作は10月に楯種, 2月~3月に収穫される。 ゴマは比較的短 期問に成熟すろ作物であるが, これにも二つの作季があり, 早期(乍は5月~6 月に播種, 8月~9月に収穫され, 晩期作は9月~10月から翌年1月までが(乍 季である。 ラッカセイ栽培はマグウェ, ミソジャソ県でもっとも盛んで, ゴマ はこれら両県のほか, メティラ, サガイン県でもひろく栽培されている。

ワクの作季は雨季のはじまる5月からil月~12月までであろ。ミンジャソ,メ ティラ県が主な栽培地城で,最近では泄砥も行なわれる重要な商品作物である1'1

乾地農耕地帯のいたる所で栽培されている作物はモロコツである。 8月頃に 播種され, 1月に刈り取られる。食用として利用されることもあるが, 大部分 は飼料用あろいは輸出用マイロとして栽培されているようである。 トウモロコ ツが比較的新しく導入された作物であるのに対して, モロコツは, 他の雑穀類

(Pennisetum spp. やPanicum spp.)とともに, 乾棟地域の伝統的作物であ る。詳しい栽培面積は統計資料にもあらわれていないが, 乾燥地域での栽培而 積はかなりの広さになるようにみうけられた

いっぽう, チャウセ, マンダレ, シュウェボ県等の瀧漑稲作を主体とす る地域では,もちろん水稲が主要な作物として登場する。これら諸県は,同じ乾 燥地域に位骰しながらも, 他の諸県にくらべて著しく水稲の作付率が高く, チ ャウセ, マソダレ両県では60数バーセント, シュウェボ県では80バーセソ トである。 ミソジャン, マグウェ県などではわずか10バーセ ノト前後であるこ とを考慮すれば, 泄漑システムがいかに大規摸に網羅されているかがわかる。

(Cicer arietimmi), pedi (Pliヽ.ゲadiatus),pe•I咋あるいはpe-1 (Vig brnc}り'•

ga9ヵa)1 sadawpe (Pisum sativuni),ク”'oza (Lms esculC9ttn)となるS) 18)

*従来, わが国で紹介されてきたピルマの農業に関する記述では, モロコツ(Sorghmn bicolar)は全て黍(キビ) (Pa19icu992 9niliaceum)としてまとめられている。 ルマで は, キビは他モロコシはpyamigと呼ばれ, もちろん区別されていろ。 炒a’"tgに は多くの種があろが, 食用にも供されたsa,i-pya1,ng (white millet)と, もっばら飼 料用として栽培されたhuPッaitng (red millet)とに大別されている。1970-71年度 のモロコシの作付面積は413千エで,この10年間ほとんど変化はないが.いっぽう

トウモP コシはこの10年間に作付面積は倍増しており, 同年度で412千エであろ。

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68 農耕の技術

以上中央平原の二つの批業体系で選択されている主要作物について概観した が, 次に著者らの調査で観察された両艇業体系での作物分布をさらに詳しく紹 介することにしよう。 第3表は, 調査経路に沿って観察できた作物を一覧表に まとめたものである。斜線部はその地域でしばしば目にする程度に作物が分布

Paddy Wheat

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第3表 調査経路沿いの作物分布

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することを示し, 黒地の部分はその作物がほとんど優先して栽培されていろ状 態を示している。

プロムの町をはずれると, すでに水田地帯は姿を消し, チクの貌林や熱 帯落薬樹と常緑樹の混交林がしばらく続く。 しかし, このような疎林も徐々に 姿を消し, タエッミョ 県に入ると, いよいよ畑(乍地帯が現われる。 トウモ ロコシとマメ類, ラッカセイを主要作物とする地帯がまず続き, アウソラン (Aunglan)付近からはトウモロコツに代わってモロコツが広く 栽培されるよ うになってくる。 トウモロコシとマメ類は間作されることが多く, トウモロコ

シの畦間にマメ類が作付けされている。 モロコツは, 他の作物と問作されるこ とはなく, 播種密度の高い散播栽培であり, 飼料用としての栽培の特徴がうか がえる。この地域はラッカセイの栽培も多い。乾季作のラッカセイはすでに茎 葉が15cmくらいの高さにまで生育しており, 手労働による中耕除草が行なわ れていた。

クウンジソジー(Taungdwingyi)は プロムからメティラに至る乾地農耕 地帯のなかで唯一の瀧漑稲作地帯である。 しかし, その規模は小さく, タウソ ジンジ一周辺とその西部に限定されている。町の東方にある貯水池によって泄 漑され, 泄漑水は東から西への級斜面に沿って利用されているようである。こ の町からマグウェに至るまでの地域でも, モロコシ, マメ頻, ラッカセイが主 要な作物である。

マグウェからチャウバドソを経てバカンに至る地城は, 中央平原のなかでも っとも人口稀薄な地域で, またもっとも降雨批の少ない地帯でもある。散在す る小瀧木やサボテン頬が遠く東方のペグ山地にまでひろがり, まったくの荒 蕪地や耕作放棄地が随所にみうけられる。この地域でもっとも広く栽培される 作物はモロコッ, トウジソビエ, メ類で,fabiがや繊維作物のサノヘンプ,

*

lu珈は粒長2mm足らず,粒径Imm弱の小粒禾殺頬で,著者らの観察では,草丈わず か30-40cmで成熟期を迎えていた。畦間20cm程度で条播されていたが,耕地を完全に カバーすろだけの群落にまで生長するには至らず, 遠望するとまるで雑草が面に生い 茂っているかのようである。 この種子を京都大学附属農湯で栽培したところ,草丈約1 mで,たくさんの粒をつけた。雑草(}”しカキビ(Pa?ticum bisulaatum)に酷似した作 物であろが,学名は未同定である。

(12)

70 晟耕の技術 1

それにバルミラヤツ散見される。 とくにディンジョウン(Dingyawn)から チャウバドンまでの雑殻栽培は, 中央乎原でもっとも粗放であるといえる。

ウジソビニやlu珈 広く栽培されろのがこの地域で, 他の地域ではこれら 作物 はほとんど観察できなか った。

なお, この地域はラッカセイの主要栽培地帯でもあるが, 箸者らの調査した 時期はちょうど雨季作の収穫直後にあたっていたため, その分布程度は確認で きなかった。 第3表にラ カセイの分布が記されていないの はこのためであ る。11月から12月にかけては, 収獲の終わったラッカ七イ畑と休閑地が併存す るため, 見わたす限りの畑地がまるで何ひとつ作付けられていないかのような 印象をうける。 乾季の家畜飼料として利用されるラッカセイの茎葉が各所に円 型に猿みあげられているので, そのあたりがラッカ七イ畑であったことをう か がわせるのみである。また,この時期には,いったん抜き取りによる収穫 わり裸地状態となった畑で, 地中にとり残された英実を掘りとる作業が行なわ れる。いわば, ラ カセイの「落穂拾い」の時期で, 数人から十数人の男女が 一列に並び, 小さなスコップや棒切れで土を掘り返しながら, 地中に埋まって いるラッカセイの英を掘り出すのであろ。日中の箸熱を避け, 早朝と夕方を中 心にこの作業が行なわれている。

チャウバドソからメティラに至る道路はベ山地の北端部を横切る。 ベグ ー山地の西腕と東魏で は作物構成が異なり, 農業殿観は大きく変化する。 西能 一帯の作物構成は,いままで述べてきた典型的な乾地農耕地帯とほとんど変わ り はないが, メティラ県に入ると, 雑殻類の栽培少なくなり, ワクが主要作 物として現われ, ところどころに水稲栽培行なわれるようになる。 メティラ の西方20kmあたりに建設された泄漑用ダムを過ぎると, 泄漑地には水稲やワ クが 非泄漑地に はモロコツやマメ類が栽培され, ティラに至ると, もはや

完全な泄漑稲作地帯となる。乾地農耕地帯と泄漑稲作地帯の中間的な遥移帯を メティラ西方に見ることができる。

メテ ラからしばらく北上すると, 再びモロコツ, トウモロコツ, マメ 類,

ワクを主体とする乾地農耕地帯が続く, チャウセ県に入れば, そこはもう中

(13)

央平原で最大の泄漑稲作地帯である。 この地帯で重要な役割りを果たす泄祇用 水路は, 王朝時代に建設されたものも多い。 イギリス統治後も数多くの水路が 構築され, 歴史の古い水路と新しい水路とが, こべ近接する地域で併用されて いるところも少なくない。 チャウセ周辺の瀧漑水系はとくに有名である。 ビル マ最初の王朝であるパガン王朝を建てたアノウラクー王により11世紀に建設さ れたと伝えられるチ→ウセ運河は, 現在でも市内を浴々と流れ, 広大な水田地 帯をうるおしている。

水稲以外の主要作物はほとんど認められず, モロコツやメ類, ゴマの栽培 をときどき見かける以外には, 乾地農耕地帯で観察されたような雑殻頬や他の 作物は全く作られていないといってよい。 水稲以外の作物でこの地域を特徴づ けるのは, トウガラッ, ニンニク, クマネギなどの野菜類や, バナナ, マソ::f ー, パバイヤなどの果樹類である6 とくに, チャウセ県ではこれらの栽培が盛 んである。 ンダレ郊外のアマラプラ(Amarapura)周辺でも野菜栽培が 盛んである。

イラワジJIIを渡りサガイソ県へ入ると再び畑作地帯である。 サガイン県で は, さきに述べた乾地農耕地帯と異なりコムギが広く栽培されていろのが特徴 的である。 他の作物構成はほとんど同じであるが, ところどころに水稲栽培も 行なわれている。 この地域の土地利用は, 乾燥地域南西部の畑作とくらべて概 して集約的な印象をうけたが, これは, おそらくイラワジ)IIの沖積土捩地帯に 位概することと関係するのではなかろうか。すぐ北に隣接するシュウェボー県 に近づくにつれて水田を見る機会が徐々に増え, やがてシュウェボーの泄漑稲 作地帯が現われる。

以上のように, 中央平原の伝統的農耕様式と考えられる乾地農耕, 泄漑稲作 の両体系ではその作物構成にかなりの相違が認められた。概していえば, 前者 が雑殻類, マメ類を主体とし, それに油料作物や絨維料作物を加えているのに 対し, 後者ではもっばら水稲を主体に, それに加えて換金性の高い商品(乍物類 が栽培され, 集約度の高い農業体系を形づくっているといえよう。

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72 農耕の技術 1

3

二つの農業体系—その性格と由来

1 乾地農耕体系

乾地町)卜体系における伝統的製作物であるモロコ ン, トウジソビエ, ゴマ れにマメ類の大部分は, いずれもイソドの畑作地帯における主要作物である。

また』 ニガーツードやサソヘソプもイソドで広く栽培されている。 ほとんど がインドの「サパソナ農耕文化」を構成する重要作物で, 西アフリカからイソ ードの乾燥地帯にかけて発展した脹耕様式が, 東漸してビルマの乾燥地域へと伝 播されたものと考えられる9)

雑穀類を主体に, 油料作物としてのゴマ, ド, 蛋白源としてのマ メ頻からなる作物複合は, 休閑をともなう輪作体系として作付けが順序づけら れるのが, 乾地農耕体系の大きな特色である。主な作季は雨季作と乾季作で,

雨季作にはワク, ラッカセイの雨季作, ゴマの早期作が含まれ, 乾季作には雑 殻類, マメ頻, ラッカセイの乾季作, ゴマの晩期作などがある。 雨季作の場合 は, モンスーンによる降雨の始まりとともに播種作業が行なわれるので, 耕 起, 整地などの耕地の準備作業は比較的簡単に済ませ, 播種後の除草作業はた んねんに行なわれる。 たとえばワクでは, 6月に播稲された後, 草丈力吐5cm

くらいのときに1度, そして45cmくらいでもう1度計2回の除草が行なわ れるのが普通である。 乾季作の場合は, 除草よりもむしろ耕地準備作業を入念

*炉gya, pessfogoれ などは比較的新しくピルマに淳入されたといわれるが, これらは,

インドではそれぞれgram, t1,r と呼ばれ, ダルの材料となる重要なマメ類である。

matpe. pedisefo, pe-yaza, sadaw但などもイソドで古くから利用されている。 ニガー ツードが東アフリカおよびイソドで食用油,灯油として利用され, インドからは加工油 が若干巌輸出されていたという記録が,E. R. Bolton and R. G. Pelly. Tlte Reso1wces of the Empire S砂s: Oils, Fats, Waxes, a1id Regs, 1924, L�nd�nに出ている。

サンヘ/ブのインドにおける栽培,加工,利用等については,J.F. Royle. The Fibr()1l$

Plants of I"ぶtt, 1855, Londonに詳しく紹介されている。なお,乾地農耕で選択され る主要作物について,その特性, 適地,栽培管理,収盤, 利用法等を知るうえで,現在 のところ, もっともまとまった書物として, I. Arnon. Crop Prodtヽciio””ヽDrッ Region, vol. II: Systematic Teatment of the加,icipal Crops, 1972, New York をあげろことができる。

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にしなければならない。雨季の降雨のたびに浅く耕起する保水作業が乾季作の 播種時期まで数回繰り返される。

休閑輪作の例をシュウェボ県にみると, ..たとえば次のような輪作が行なわ れている。 休閑の後, 最初に作付けされるのはゴマの早期作で, その後ゴマの 立毛中にマメ類(たとえばpegyi)が間作され, 翌年は雨季作を休閑し, その 間は耕起作業のみで,降雨の蒸発を防ぎ, 保水につとめ, その後乾季作の雑殻 類が播征される。 これは2年3毛作の例で, このような作付順序を4年~6年 繰り返した後耕地は全面的に休閑され, この休閑期間に地力の回復をはかる わけである。作付順序としては, 立毛期間を異にする2毛作が行なわれるのほ 稀で, むしろ, 混作・間作による2毛作が普逼的である。先述したトウモロコ シとマメ類の間作やゴマの早期作とpegyiの間作, あるいはゴマの晩期作と pegyiの混作などがよく行なわれる間混作の例である”)0

このような休閑輪作は, イソドの乾地農耕とほとんどその技術的特徴を共有 している。休閑を定期的に組みこむのはもちろんのこと, 問作, 混作などの作 付様式がひろく採用されている点などは, 両者の畑作農法の共通性をよく示し ているといえよう。 たとえば, ビルマで重要な地位を占めるゴマやマメ類が,

インドでも他作物と混作あるいは問作されることはよく知られている。 以上 のような作物選択および栽培技術の共通性から判断して, ビルマの乾地農耕が インドの乾地農耕ときわめて密接に連繋しており,現在のピルマの乾地農耕技 術はイソドからもたらされたものであろうことはほば疑問の余地のないところ であろう。

2 泄祇稲作体系

では, もうひとつの批耕様式である泄漑稲作体系はどのような過租を経て中 央乎原に成立したのであろうか。 唯一の主要作物である水稲の由来については

*

Joshi6> によれば, ゴマは,ワタ, トウモロコシ,モロコツ,ラッカ七イなどと混作され ている。 また'マメ類について,前田 によれば,混作に採用されろマメ類は14種にの ぼろとされ,そのうち i'”, g99t,ラッカセイ,99ttmg, madなどの採用が多いとのこ とである。 なお. マメ類との結合作物としてはbajra (Pe,inisehrn: ty炒oidemti), jowaゲ(Sghtヽmbico加),トウモロコシなどが多いという。

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74 農耕の技術1

後述することにして, まずこの地域で水稲栽培を可能ならしめている泄漑技術 の由来について考えてみよう。 ビルマの泄漑方式は, ビルマ北方から中央平原 へと移住したビルマ人がシャソ人から水利法を学訊チャウセ地方に泄漑水系 を構築したことに始まると伝えられているが叫 これはおそらく, 雲南方面か ら移住したシャソ族によって伝来された技術であろうと思われる。

チャウセ, マソク, シュウェポーの各県では, 大部分の水田が水路泄漑 によっているが, シュウェボ県の部やミソジャン県では比較的小規模な涸 池瀧漑技術が行なわれている。 溜池による泄漑技術の伝来は王朝時代以前に渕 るようである。煉瓦を利用した溜池構築技術は, 南イソドやセイロンに広く普 及していた技術であり, 寺院やパゴダの建築技術とともにこの地からビルマに もたらされたものであろう。

したがって, 瀧砥技術にはふたつの方向からの影響が認められるようであ る。 ひとつは雲南方面からシャソ高地を経て中央平原に至った 水路泄祇技術 と, もうひとつは南イソド, セイロソ方面からベンガル湾を経てもたらされた 溜池泄漑技術である。 これら両技術のうち, より早くビルマに到達したのは,

おそらく溜池泄祇技術であろう。 しかし, これでは大規模な泄漑は不可能であ る。比較的大面積の水稲栽培を可能とし, より集約的に生産力を高めるために は, 新たに恒常的かつ大規模な水の確保が必要となってきたに速いない。 ピル マ王朝が建てられた11世紀以降, 主要な米の生産地となるチャウセ, マンダv ー等の発展が新たに渫入された水路構築技術によって支えられ, 以後の王朝が この泄漑稲作地帯を中心に栄えてきたことは, 泄漑方式における技術発展の過 程を裏づけるものではなかろうか。

次に, 以上のような泄祇方式の溝入に関連しつつ,現在この地岐で栽培され る水稲の由来について考えてみよう。 泄漑稲作地帯で現在栽培されている種類 は, ィンディカ型のアン(am邸)種に属する水稲が卓越している。 しかし,

ビルマでの栽培稲の変遷過租を辿っていくならば, この地域での栽培稲が変わ ることなくこの種の水稲であったとは言い切れない車実が著者らの調査で明ら かになった15)。 著者らが調査したビルマの先住民族ビュ族の遺跡のうち, 紀

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元後1~5世紀頃のベイクノー(Beikthano)造跡や, 8泄紀頃のハリソジ一 (Halingyi)遺跡から採集した煉瓦中には稲の籾殻が多く含まれており, その 形態からこれらは陸稲ないしはジャポニカ型の水稲であろうと推定された。 ガソ時代の寺院やバゴダの煉瓦に含まれる籾殻もほとんどがジャポニカ型であ るので, 中央平原に現在の栽培種と同じクイプの稲がもち込まれたのは, おそ らく12~13批紀以降のことではなかろうかと推測される。

したがって, 中央乎原に大規模な瀧漑方式が導入される以前には, 陸稲栽培 ないしはジャボニカ型水稲の天水栽培や小規模な泄漑栽培が行なわれていた可 能性が高く, 現在のアマン種は, 水路による瀧漑方式がシャソ族の影堰をうけ て盤備されて以後, 徐々にその栽培域を拡大していったのではないかと考えら れる。 水路による水の恒常的な確保を契機に, 比較的生育期間の長いアマソ種 の栽培が乾燥地域で可能となってはじめて, 現在の泄漑稲作体系の原型ともい える農業が形づくられたものと思われる。現在の栽培種に先行したジャボニカ 型水稲や陸稲がどこからもたらされたものかはまだ疑問点は多いが, おそらく 中国の裏南省あたりからツャソ巌地あるいはビルマのカチソ州を経て中央平原 にもたらされたと思われる。 この点については,別稿を参考とされたい14),10)0

3 農業体系の重層的成立

以上のように, 中央平原の二つの農業体系は, ともに伝統的なピルマの農業 体系ではあるものの, いずれも古くに導入, 受容されたものであることが, そ の農業体系を構成する主要作物の出自と技術的特徴から推測されるように思え る。 地理的にもイソドと中国を結ぷ重要な地点を占める中央平原に, 紀元前後 から9世紀頃の間に幾度かの民族移動を重ねながら定着したビルマ族は, その 後の民族発展の過程でイソドよび中国から厖大な文化的影醤を受けたといわ れている。中央平原の作物分布によっても, このような民族の軌跡がうかがえ るようである。現在まで受けつがれた中央平原の伝統的批耕様式は, わばイ ソドと中国の二つの農耕文化の接点に重層的に成立したものといえるのではな かろうか。

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76 長耕の技術 1

4

ビルマ農業の基屈ーミッチナ での印象

著者らは, 中央平原での調査を終えた後, カチン(Kachin)州の州都ミッチ (Myitkyina)へ飛び3日問滞在した。カチソ州にはビルマの少数民族で あるカチソ族が, その他多くの種族と共に州内の山岳地帯に居住し, 主として 焼畑耕作(taungya)を行なっている。 著者らの滞在はわずか3日間であった ので山岳地帯を訪ねることはできなかったが, ミッチナで知りえたカチンの 農業が,いままで述べてきたビルマ農業の重層的な成立過程の前段階を理解す るのにかなり重要なヒントを与えてくれるのではないかと思われた。

カチソ州では, 中央乎原の泄祇稲作と異なり, 栽培立地によって種々の稲栽 培が行なわれている。主な栽培法は,山間地の稲作と平坦低地の稲作に大別で きよう。前者はさらに, 焼畑による陸稲栽培と小さな流れをせきとめた谷間瀧 漑による水稲栽培とに別けられ,後者はIcboh栽培とy6lc栽培とに類別でき る。焼畑耕作は, 他の東南アジア諸地域で行なわれるものと大差なく, 2月~

3月に伐採され, 4月に火入れされた耕地に, 5月頃, 最初のモンスン降雨 ののち陸稲が播種される。 収穫は10月~12月頃であろ。 谷間泄漑による稲作 は, 小川をせきとめ, 小規模な水田を拓く方法で,この栽培法はツャン高地で 行なわれる栽培法と全く同様であるといわれている%lebok栽培は, 河川沿 いの低地に群生する雑草類(ka切g grass)をすき込み, 火入れした後さらに耕 起, 均平を繰り返し,水稲を直播栽培する方法で, 村落iこ近い河川沿い低地で よく行なわれる。 泄漑は行なわれず, 雨季の自然増水によって水が供給され る。ッele栽培は,中央平原の泄漑稲作地帯と同様な栽培法で,7月に苗代播種,

8月に移植し,12月に収穫される。 早期作ではkauksawと呼ばれる早生品種 群を用いて,10月に収穫が完了する。泄漑水の利用は,yele栽培では全面積の 約半分といわれているが, 詳しい泄漑面積は不明である。いずれも小規模な泄 漑水系によっている。

中央平原の泄祇稲作とはその栽培法を異にするカチソの稲作は,いずれもこ

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の地域の環境と人口との関係から生じる, いわば「生態的均衡系」として安定 した稲作を営んでいたものと考えられる。 より古い農耕様式である焼畑耕作 も, カチソ州の山岳地帯では, 陸稲のみならず他作物との結合によって, 安定 した生産力を保持していたのであろう。 それぞれの栽培法の地理的分布は不詳 であり, いまのところ, 上述したような山間部と平坦低地との栽培法の差異と しかいえないが, この地城の複雑な地形に対応して, 稲栽培の入り組んだ分布 が確認できれば, 稲作の歴史や構造をさらに詳しく知る手がかりを与えてくれ るのではなかろうか。

カチン族の栽培稲の種類も, 中央平原のそれと異なり, 陸稲が卓越している のが大きな特徴であろ。 ミッチナ農業試験場での話によれば, カチソ州の栽 培稲のうち約60バーセソトが陸稲で, カチソの伝統的栽培法もまた焼畑陸稲栽 培であるとのことであった。

また, 水・陸稲ともに, モチ稲の栽培が多いのもこの地域の特色である。 オ ープソマケットでは大小さまざまに掲きあげた餅が主要な商品として店先に 並べられている。丸餅もあれば菱餅もある。 モチ性の赤米を蒸し, マ塩をふ りかけて食事に供する習恨などは, わが国の赤飯と全く似ているのに驚かされ る。 モチ米を原料とした発酵酒(sltaッu)や蒸涸酒(lauku)も利用される。 こ のような陸稲栽培の卓越, モチ稲の栽培, 利用等の特徴は, カチン州が著者ら のひとりが想定した「モチ稲栽培圏」に明らかに包含されていることを示すも のである`3)。

マメ類についても中央平原と異なる而を指摘できる。中央平原では, 先述し たように, イソドから伝来されたマメ類が主体であったが, カチン州ではその 他にダイズやアズキが栽培されている。近年ではダイズの栽培がピルマ各地で 奨励されていると聞くが, カチソ州のこれら作物は, 雲南を経てこの地にもた らされたものと考えられる。しまたしてそれらがカチソ族の移動に伴って, 古く からカチソ州で栽培されていたものか, あるいは雲南地方から季節的にやって 来ろ中国人労慟者や商人の手を経てカチソ州に栽培されるようになったのかは 明らかではない。 しかし, マメ頬の利用法がかなり高度に分化していること

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78 飛耕の技術 1

は, この種のマメ類の遂入がそれほど新しいものではないことを示すようにも 思えろ。 マメ蛋白を利用した豆腐に類するものや, わが国の湯葉と同様な食品 が利用されている点などは, これらのマメがカチノの人々によって古い伝統的 食硝f.体系にとり入れられていたことを類推させる。

焼畑耕作や陸稲の卓越, モチ稲栽培などは, イソドシナ半島山岳部から中国 の雲南省へと連らなる地城の農業の共通性を示す指標である。 上述したよう な, カチノ州におけろマメ類の種類や, 稲の栽培法は, カチソ族の農業が中央 平原の農業よりもむしろシャン高地からクイ北部へと連らなる, イソドシナ半 島の山岳地帯の農業とより強く関連する とを示しているように思われる。 のように, 山岳地帯にとどまったカチン族が, ビルマの中央平原に展開される 二つの農業体系と異なり, むしろ国境をまたいで, 東南アジアの原初的ともい える農業を営んでいることは, ビルマの伝統的農業を考えろうえで見落として はならない点であろう。

ともにチベ ト=ビルマ語族に属しながらも山岳地帯にとどまったカチソ族 と, 乎坦地へと下っていったビルマ族とでは, その後の農業発展の道すじが大 きくかわってしまったのではなかろうか。 ビルマ族と同じような過程は, オプラヤー流城に定消したクイ族にもあてはまるのではないかと思われるが,

この場合は, 気象条件も関与してイソドからの乾地農耕の影靱は少なく, 中国 からの集約的な泄漑水稲作の影響がより大きな役割を演じたのでは なかろう か。 ビルマ中央平原の大規棋泄漑技術が, シャソ族を通じて雲南からもたらさ れたものであろうと先に述べたが, このような技術溝入が, 平坦地に植民を開 始し, 定着するようになったクイ族やビルマ族によってはじめて可能となった 点は, 東南アジアの農業の発展過程を考えるうえで典味あるところである。

コン, チャオプラヤー, イラワジなどのデルタ地域の開発が, 東南アジアの農 業を一気に国際的な米単作輸出経済へと変容させたことはよく知られている。

デルクの開発にみられたような, 東南アジア地域における技術革新の同時性 同質性が, クイ族やビルマ族が平坦地に登場し, 集約的な瀧慨水稲作を受容し た時代にも現われていたのではなかろうか。

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ビルマの「民族的・静態的かつ多角的」8) な 伝統的農業といわれる 中央平原 の二つの農業体系も, 実は, ビルマ族が中央平原に登場するようになってはじ めて受容したものであり, それ以前にはカチノ族あるいは他の少数民族が行な っているような農業を本来は営んでいたものと考えられる。 上述した遺跡煉瓦 中の籾殻から推定される栽培稲の変遷も, ビルマ族のこのような農業発展の過 程を示すものであろう。 したがって, ビルマの伝統的農業の基層には, 現在の カチソ族に みられるような焼畑を主体とする 農業が行なわれていたに遮いな く, 相対的には新しい二つの農業体系の伝播によって, その痕跡が完全に埋没 させられたのが, ビルマ中央平原の現在の農業の姿である, という仮定が成立 すろのではなかろうか。

お わ り に

ビルマ中央平原の作物構成が, 乾地農耕地帯と泄漑稲1乍地帯とでは全く異な っており, 両農業体系の特徴をこれら作物の分布からもうかがうことができた と思う。 わずか1カ月の調査期間中に観察できた作物は限られており, 点と点 を結ぶような観察でしかなかったため, 作物分布といっても正確に実情を伝え ていないかもしれない。 また, 作物栽培を考えるうえでぬかすことのできな い, 作季や作付順序などについては著者らの見聞の範囲はきわめて限られてい た。このように, 時間的にも地理的にも非常に限られた範囲ではあったが, 中 央平原で選択されている作物については, これをかなり明瞭に作物複合として とらえることが可能ではないかという実感は得られたものと思う。

ビルマの農業の成立過程について述べた部分は, 作物栽培の専門の域をはみ 出した, いささか乱暴な談論もあることと思う。 この点についてはさらに検討 を加える必要もあろうし, 具体的資料にもとづいた実証作業を進めなければな らないであろう。本稿では, 作物分布から推定されるビルマ農業の重層性とそ の基屈をひとつの仮説として提出するにとどめて, 多方面からのこ批判をあお

ぎたいと思う

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