藤原秀能︵如願︶は︑後鳥羽院北面の武士で︑院に歌才を認
められ︑新古今歌壇において活動︑﹃新古今集﹄に十七首が入集した歌人であるが︑その評価に関して藤原定家は︑批判的で
あり︑後鳥羽院との間で対立する原因の一つとも言われてい
る︒しかし︑﹃新古今集﹄には︑定家の撰者名注記を有する秀能歌もあり︑定家は少なくとも建仁元年頃の秀能の和歌に関し
ては評価していたと思われる徴証がある︒秀能の最初期の和歌
を検証し︑その歌風と新古今的な表現を獲得するにいたる過程
を考察したい︒藤原秀能の和歌活動としてもっとも早いのは︑その家集﹃如願法師集
﹄にみられる正治三年︵建仁元年1200︶正月晦日 1
と二月一日の一連の和歌である︒資料
1藤原秀能の最初期の和歌 正治三年正月晦日当座御会に山路花
野の山 374よそめにはふかきかすみをわけすぎて花になりゆくみよし キーワード新古今集・藤原秀能・歌風
要 旨
新古今時代の歌人藤原秀能が歌壇に登場したのは︑建仁元年
︵1200︶十六才の時であり︑当初その和歌表現は︑先行す
る和歌の表現を摂取する稚拙なものであった︒しかし︑同年春
までには︑急速に成長し︑藤原定家など新古今時代の代表的歌人の和歌と並べても遜色のない新風和歌を身につけている︒注目されるのは︑従来︑秀能には批判的であったとされる藤原定家が︑この秀能の初学期ともいえる時期の和歌から︑二首を﹃新古今集﹄に撰歌し︑同集において当時の代表的歌人の詠歌の中
に配列させている点である︒定家が撰した﹃新古今集﹄入集歌
を中心に︑歌壇にデビューしたばかりの新進の秀能の歌風の変容を検討する︒
藤 平 泉 藤原秀能 の 変容
浪 89さくらさくひらの山かぜ吹くままに花になりゆくしがのうら
から摂取している︒良経歌は︑山風に吹かれて滋賀の浦に舞い落ちる花によって浪が花に覆われていく様子を映像的に描いて
いるが︑秀能は︑良経の着想を借りてはいるが︑内容的には︑深くなっていく春の霞の奥で霞と見まがう吉野の山々の桜が開花している様子を描き幻想的で動きのある良経歌に対して︑着想そのものは伝統的な域を出ていない︒
眺望の心をよめる円玄法師 歌 376番歌﹁かすみにうかぶ﹂は︑同じく﹃千載集﹄雑歌上の円玄 1049なにはがたしほぢはるかにみわたせば霞にうかぶおきのつ
り舟
からの摂取であり︑着想はほぼ同じで︑特に四五句は﹁沖の︵円玄歌︶﹂と﹁海士の︵秀能歌︶﹂以外そのまま摂取している︒翌日の二月一日の当座歌会の歌も︑﹁まどうつ雨の﹂﹁夢をあ
らそふ﹂といった表現は︑﹃新古今集﹄の俊成歌
入道前関白右大臣に侍りける時百首歌よませ侍りける郭公の歌皇太后宮大夫俊成 201昔おもふくさのいほりのよるの雨に涙なそへそ山時鳥 202雨そそぐ花たちばなに風すぎて山時鳥雲になくなり
や同じく﹃新古今集﹄夏部の公継歌
鳥羽にて竹風夜涼といへることを人々つかうまつりし時春宮大夫公継 朝遠舟
375明けわたるなみぢのすゑをながむればかすみにうかぶあまの つりぶね 山路霞 376 くればまた月をまつべきやまぢかははるのかすみのいくゑと もなき 正治三年二月一日当座御会に山家夜雨 841山ふかみいとどさびしきまきの屋をまどうつ雨の夢をあらそ ふ842やまざとにくずばひかるるまきのやをさびしといひてとふ人
ぞなき
これら一連の当座御会は︑他の資料には見えず︑後鳥羽院も
しくは秀能の近侍していた源通親周辺での小規模な歌会であっ
たかと推測される︒後鳥羽院は︑正治二年六月以降に頻繁に小規模な歌会を行い︑後半には大規模な﹃正治初度百首﹄︑﹃同二度百首﹄などが企画されているが︑そこにはまだ秀能の出詠は認められない︒秀能が最初に後鳥羽院の目に触れたのはいつか
は明確ではないが︑このような小規模の歌会での詠作が︑当時
の秀能の年齢十六才︵元暦元年1184生 尊卑分脈︶を考え
ると早熟の才能として源通親の推挙などを経て後鳥羽院の目に
ふれたかと思われる︒資料
1の秀能の和歌を検討すると︑
374番歌﹁花になりゆく﹂
は︑﹃千載集﹄春下
花のうたとてよみ侍りける左近中将良経 89番歌の藤原良経歌
後に行われた二月八日の﹃十首和歌会﹄であった︒この歌会に
ついては︑既に拙
稿において述べたので︑簡単にまとめておく 2
に留めるが︑題は﹁霞隔山雲﹂﹁尋花問主﹂﹁旅伯春曙﹂﹁郭公何方﹂など十題︑作者は︑後鳥羽院と︑藤原隆雅︑源顕兼︑源通具︑藤原雅経︑源具親︑藤原信実︑源家長︑賀茂季保︑藤原秀能ら二十人である︒後鳥羽院以外︑定家︑家隆など当時の歌壇の中心的歌人は誰も出詠していない点が注目される︒同和歌会の有吉保先生蔵本末尾には︑﹃明月記﹄の抜粋かと思われる記事が
あり︵現存明月記には欠脱︶そこには︑﹁今日可有和歌試云々﹂
などとあり︑久保田淳氏の指
摘があるように一種の新進歌人へ 3
の和歌試験であったようであり︑雅経︑通具︑具親︑家長︑秀能などその後の新古今歌壇で活躍する歌人達が好成績を収めて
いる︒同記事によるとその場には︑後鳥羽院だけではなく︑良経︑定家︑家隆など当時の中心的歌人達が参観しており︑その中で秀能は︑一定の評価を得たものと思われる︒
しかし︑先の拙稿においては︑秀能はこの二月八日の﹃十首和歌会﹄において歌才を認められたとしたが︑この催しの直後
から歌壇において活躍を始めたわけではなく︑記録上秀能が次
に歌会に登場するのは︑六月二十日の当座歌合からである︵如願法師集︶︒この二月から六月までの空白期間に︑秀能は藤原雅経と語らって百首を詠進しているが︑その中から一首が﹃新古今集﹄に入集している︒その入集歌には︑定家の撰者名注記
があり︑この雅経との百首の動機は不明であるが︑それ以前に特に接点のない雅経と個人的に百首を詠みあうのは不自然であ
り︑雅経が後鳥羽院の近臣であることを考えると︑あるいは後
同じく﹃新古今集﹄釈教部の寂連の歌 257まどちかきいさきむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢 法師品加刀杖瓦石 念仏故応忍の心を寂蓮法師 1949ふかき夜のまどうつ雨におとせぬはうき世をのきの忍なりけ
り
からの影響が見られる︒二月一日の当座御会歌は︑﹃金葉集再奏本﹄の
あきのはじめの心をよめる大納言経信 170おのづから秋はきにけりやまざとのくずはひかるるまきのふ
せやに
や﹃新古今集﹄の
題知らず曾禰好忠 1569山里にくずはひかるる松がきのひまなく物は秋ぞかなしき
からの影響が見られる︒
このように検討すると秀能の最初期の和歌は︑形式的には整っているが︑﹃千載集﹄など時代的に近い和歌からの摂取が目立ち︑﹁花になりゆく﹂﹁かすみにうかぶ﹂﹁まどうつ雨の﹂と
いった秀句表現を摂取するとともに︑霞の幻想的な風景や︑夜
の雨にうたれる寂しい山中の庵の孤独など︑当時の和歌の流行
に敏感に対応しているといえる︒当時十六才という秀能の年齢
を考えると︑正治三年以前に和歌を学ぶ時間はそれほどなかっ
たと思われ︑短時間に急速に成長した特徴がある︒そのことは
その後同年の二月の﹃十首和歌会﹄の出詠者の一人として抜擢
される際に評価されたと推測される︒秀能が歌壇に登場する最も重要な機会となったのは︑この直
521みなれさはさすやかはせのいかだしはなみにいくよの月をみ るらむ522もののふのやそうぢびとのうつころもひとりふしみのねざめ にぞきく 建仁元年春頃 二条前宰相雅経少将と申し時歌よみ侍し
に恋のこころを
637わがそではなにはのうらのうつせがひあふよをなみのしたに のみして638たのめこしひとはふゆののあさぢふにそではあきなるつゆぞ をきける639ひとぞうきたのめぬ月はめぐりきてむかしわすれぬよもぎふ のやど 建仁元年二条前宰相雅経少将と申し時の百首歌に 二条宰相ともなひて百首歌よみ侍し時暮秋を 覧 704雁かへるみねのかすみをもる月やはれぬおもひのゆくゑなる
747ならひにきさぞなむかしもけふはとてをしまざるべきあきの くれかな 建仁元年の二条前宰相雅経少将と申時百首歌に 814いはしろの松にはかぜのふきむすびとけてねぬよにむかしを
ぞおもふ
わずかな期間だが︑秀能が確実に歌人としての表現の範囲を拡げ︑あからさまに近い時代の和歌からの摂取が減っている︒
﹃新古今集﹄1281番に入集したのは︑﹃如願法師﹄346番歌である︒ 鳥羽院の指示があったのかもしれない︒いずれにせよこの百首
は新古今撰者の目に触れるものであったようである︒雅経の百首は現存しないが︑秀能の和歌は︑十一首が﹃如願法師集﹄に見られる︒資料
百首歌よみ侍し春たつこころを 建仁元年春頃二条前宰相雅経少将と申し時ともなひて 2建仁元年春の雅経との百首 346しもがれのふゆ野にたてしけふりよりかすみそめたるはるの あけぼの 建仁元年二条前宰相雅経少将と申し時ともなひて百首歌
よみ侍し
389こぞゆきのかはらずながらにほふなりみねたちならすはなの しらくも390ゆく人もたちどまるべくにほはなむさくらふきまくはるの山 かぜ391たかさごのはなのこずゑにいとふらんなをふきすぎぬしがの山かぜ
二条前宰相雅経少将と申し時歌よみ侍りしに 468みそぎ川かはせのなみもたちかへりあきやきぬらんみちしば のつゆ 建仁元年二条前宰相雅経少将と申侍し時の百首に 492おほかたのあきをつらしとうらみてもこころのほかのそでの つゆかは 建仁元年春頃 二条前宰相雅経少将と申し時ともなひて歌よみ侍し
雅経 1273 作者良経出典千五百番歌合撰者名注記有家定家
わが涙もとめて袖にやどれ月さりとて人の影は見えねど
恋ひわぶる涙や空にくもるらむ光も変るねやの月影 雅経 1274 作者公経出典千五百番歌合撰者名注記定家家隆 雅経 1275 作者通光出典千五百番歌合撰者名注記定家家隆
いくめぐり空いく月もへだてきぬ契りし中はよその浮雲
雅経 1276 作者通具出典千五百番歌合撰者名注記定家家隆
いま来むと契りしことは夢ながら見し夜に似たる有明の月
忘れじといひしばかりのなごりとてその夜の月はめぐり来にけり 1277 作者有家出典千五百番歌合撰者名注記通具雅経 思ひ出ててよなよな月に尋ねずは待てと契りし中や絶えなむ 1278 作者良経出典不明撰者名注記なし 忘るなよいまは心の変るともなれしその夜の有明の月 1279 作者家隆出典文治三年十一月百首撰者名注記定家 1280 作者宗円出典不明撰者名注記なし
そのままに松のあらしも変らぬを忘れやしぬる更けし夜の月
1281 作者秀能出典雅経との百首撰者名注記定家 1282 作者良経出典建仁二年八月十五夜歌合撰者名注記な
し
わくらばに待ちつるよひも更けにけりさやは契りし山の端の月
1283 作者有家出典建仁元年八月当座歌合撰者名注記な 題しらず藤原秀能
宿 1281人ぞうきたのめぬ月はめぐりきてむかしわすれぬよもぎふの
﹁待つ恋人は訪れず︑期待していない月だけが巡り来る昔の恋
を忘れていないこの蓬生の家に﹂の意で︑﹃源氏物語﹄蓬生の巻
を想起させる︒あてにならない光源氏の訪れをひたすらに待つ末摘花の孤独な心情が表出しており︑光源氏と末摘花の贈答歌
︵源氏︶藤波のうち過ぎがたく見えつるはまつこそ宿のしるし
なりけれ︵末摘花︶年をへてまつしるしなきわが宿の花のたよりをすぎ
ぬばかりか
︵日本古典文学全集︶
をふまえ︑また久保田淳
氏は︑﹃拾遺集﹄雜上の橘忠幹歌 4
わするなよほどは雲居になりぬとも空行く月のめぐり逢うまで
の﹁面影がかすかにある﹂と指摘している︒
わずか数ヶ月の間ではあるが︑最初期の和歌と違い︑単純に歌句を引用するのではなく︑叙情的な情景の中に人事と自然と
が交錯する物語世界を構築している点︑短時間で新古今的表現
を獲得しているといえ︑定家の単独撰を受けている︒﹃新古今集﹄における配列では︑当該歌の前後は︑定家︑後鳥羽院︑家隆︑良経など蒼々たる新古今を代表する歌人達の中に配列されてい
る︒資料
3新古今集恋四の配列 1272 作者良経出典千五百番歌合撰者名注記なし
めぐりあはむ限りはいつと知らねども月なへだてそよその浮雲
的表現を試みるなど︑単なる叙景歌から和歌に重層性を持た
せ︑それまで用いなかった歌枕を多用している︒﹁高砂﹂﹁みそ
ぎ川﹂﹁宇治・伏見﹂﹁浪速の浦﹂など一般的な歌枕だが︑当時十八才かと推測される秀能は︑できるだけ歌境を拡げようと努力していることがわかる︒建仁元年中の秀能の詠歌からは︑もう一首﹃新古今集﹄に入集している︒
夕恋といふ心をよみ侍りける藤原秀能 1116藻塩やく海士の磯屋の夕煙たつ名もくるし思ひ絶えなで
︵撰者名注記 定家・雅経︶ この歌は︑﹁建仁元年八月二十五日 北面歌合に暮恋﹂︵如願法師集︶とあり︑後鳥羽院北面の歌合であったと思われる︒秀能の最初期の和歌であるにもかかわらず︑﹃定家八代抄﹄﹃自讃歌﹄﹃時代不同歌合﹄﹃定家十体﹄﹃続歌仙落書﹄﹃新続三十六人撰﹄
などに採歌された︑秀能の代表歌ともいえる歌である︒﹁藻塩
を焼く海士の磯屋から立ち上る夕方の煙のように︑私の恋の浮
き名が立つことが苦しい︒あの人への思いも︵くすぶる火のよ
うに︶絶えることがないので﹂の意で︑﹃万葉集﹄巻
六の 5
三年丙寅秋九月十五日播摩国印南野に幸しし時に︑笠朝臣金村の作る歌 夕凪に藻塩焼きつつ海人娘子ありとは聞けど見に行かむよし 935名寸隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島松帆の浦に朝凪に玉藻刈りつつ
のなめればますらをの心はなしにたわやめの思ひたわみてた
もとほりわれはそ恋ふる船楫をなみ
を本歌取りしている︒この万葉歌からの本歌取りは︑後に定家 し来ぬ人を待つとはなくて待つよひの更けゆく空の月の恨めし
1281番歌の前後の和歌は︑出典が﹃千五百番歌合﹄を中心
に建仁年間のもので︑訪れが間遠になる男を切なく待つ女性の心を無情に巡り来る月に比較して表現している和歌が配列され
ており︑秀能の和歌は︑良経ら当時一級の歌人達の和歌に並ん
で遜色がない︒﹃新古今集﹄の恋四は編纂の最後まで定まらな
かった箇所であるが︑秀能歌には定家の撰者名注記があり︑撰者撰歌段階から選ばれていたことがわかる︒秀能の和歌前後は︑藤原良経を中心に建仁年間の詠歌が配列
されており︑﹃拾遺集﹄470番歌の たちばなのただもとが人のむすめにしのびて物いひ侍り
けるころ︑とほき所にまかり侍りとて︑この女のもとに
つかはしける よみ人しらず 470わするなよほどは雲居になりぬとも空行月のめぐりあふまで
を本歌とする︵1272・1275・1277︶など︑終わろう
とする恋を月を素材として﹁過去の恋の思い出﹂であったり﹁月日の推移の象徴﹂であったり﹁来ない恋人と対照的にめぐり来
るもの﹂であったりと様々な設定で月を用いており︑歌壇に登場してわずか数ヶ月の若い秀能は︑ベテランの歌人達に混じり
よく当時の流行ともいえるそれらの表現にうまく適合し見劣り
していない︒資料
和歌と同様叙景的な和歌も多いが︑389番歌は︑峰を吹く風 2の現存する雅経との百首の十四首を見ると︑最初期の
が花の香りを含んで雲さえも匂うと嗅覚的表現を加えて共感覚
注意すべきは︑建仁元年の二首の秀能歌には︑共に定家が撰
している点である︒藤原定家の秀能に対する評価は︑﹃道助法親王家五十首﹄における後鳥羽院との対立などから︑批判的で
あったと考えられている︒しかし︑建仁元年の時点では︑むし
ろ定家の評価は高かった面があると思われる︒若干十六才で身分的にも低い︵正六位上行左兵衛少尉︶秀能歌のしかも雅経と
の個人的な百首や北面歌合のような小規模な歌会での詠歌に定家の目が届いており︑秀能の﹃新古今集﹄入集歌全十七首の内撰者名注記があるのは全四首︵1116・1203・
1281・1603︵有家・家隆︶諸本により若干異同がある︶
であるが︑その内三首が定家が撰していることは注目される︒定家単独撰の後一首の和歌は︑
恋三︵題知らず︶藤原秀能 1203いまこんとたのめしことをわすれずはこのゆふぐれの月やま つらん︵撰者名注記 定家︶ で﹃如願法師集﹄では︑﹁歌めし侍りし時夕恋を﹂とあり︑撰集時期で正治三年以降後鳥羽院が召した和歌の一首と思われる︒
1203番歌は︑﹃古今集﹄の素性歌
題しらず素性法師 691いま来んと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるか
な︵恋四︶
を本歌として︑﹁今行くと言った自分の言葉を信じているなら︑恋人は夕暮れの月を今か今かと待っているだろうか﹂の意で︑恋人の心情を思う男性の立場の歌である︒秀能の歌壇登場が︑正治三年︵建仁元年︶であることを考え︑ の﹃小倉百人一首﹄にも撰歌した著名な﹃新勅撰和歌集﹄恋三 の定家詠849来ぬ人を松帆の浦の夕凪にやくやもしほの身もこがれつつ
に先行しており︑定家歌ほど完成されていないが︑くすぶる藻塩焼く夕方の煙に恋の焦燥感を象徴させている点︑定家詠に共通している面もある︒定家歌は︑建保四年︵1216︶の詠歌
であるので︑建仁元︵1201︶年の秀能詠は︑定家に先んず
ること十五年になる︒﹃新古今集﹄の配列を見ると資料
入道前関白家に百首歌よみ侍りける時不遇恋といふこと 4新古今集恋三の配列
を藤原基輔朝臣
1115いつとなくしほやくあまのとまびさしひさしくなりぬあはぬ
おもひは︵撰者名定家・雅経︶
海辺恋といふことをよめる藤原定家朝臣 1116 秀能歌 1117すまのあまの袖にふきこす塩風のなるとはすれど手にもたま らず︵撰者名注記 家隆︶ 摂政太政大臣家歌合によみ侍りける寂連法師 1118ありとてもあはぬためしのなとり河くちだにはてね瀬々のむ もれ木︵撰者名注記 有家・定家・家隆・雅経︶
1116の秀能歌の前は︑1112藤原基真︑1113藤原義孝︑1114藤原公教と平安時代歌人が続き︑秀能を境として︑
1117定家︑1118寂蓮︑1119良経と新古今時代歌人
が続く配列となっており︑秀能歌は︑隣接する定家歌と共に新風和歌として平安和歌と対比的に配列されている︒
かつ︑撰者の撰歌の提出時期を考えると︑短時間の間に三首を︑撰したのは決して少ないとは言えず︑この時期の秀能詠に対す
る定家の評価は高かったといえよう︒以上藤原秀能の最初期の和歌について検討したが︑ごく短時間において︑その歌風は建仁元年当時は︑物語的な要素や本歌取りなど新古今歌風を巧みに摂取して変容していったと言え︑
その歌は︑意外にも当時の中心的歌人である藤原定家からも一定の評価を受けていたと思われる︒秀能が当時十六才で歌作を始めたばかりであったことを考えるとこれは異例な評価といえ
る︒では︑定家の評価がその後秀能に対して批判的になるのは
なぜか︑別稿において︑更に藤原秀能の歌風の変遷を追いたい︒
注︵
日新聞社︶を用いた︒
1
︶如願法師集本文は︑﹃冷泉家時雨亭叢書資経本私家集﹄︵朝︵
2
︶拙稿﹁建仁元年二月八日十首和歌会について﹂﹃古典論叢﹄15
号1985
年6
月︵
3
︶﹁後鳥羽院歌壇はいかにして形成されたか﹂﹃国文学﹄昭和52
年
9
月号︵
4
︶新潮日本古典集成﹃新古今和歌集﹄新潮社1979
年︵
5
︶阿蘇瑞枝氏﹃萬葉集全歌講義三﹄笠間書院引用和歌本文は特に記さない限り﹃新編国歌大観﹄を用いた︒
2007
年︵ふじひら いずみ︑本学教授︶