<現地報告>石芋伝説のサトイモについて

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<現地報告>石芋伝説のサトイモに ついて

青葉, 高

青葉, 高. <現地報告>石芋伝説のサトイモについて. 農耕の技術 1987, 10: 74-88

1987

https://doi.org/10.14989/nobunken_10_074

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74 

〈現地報告〉

石芋伝説のサトイモについて

青 葉 . 

1.はしがき 全国各地に石芋の伝説が伝えられている。石芋については日本国語大辞典

2.各地の石

(小学館)にも石芋の項があり,硬くて食べられないいも,その多くは弘法大 師に結びついた伝説があり……と解説され,「石芋は今に大師の骰土産」など 2句の雑俳を付記している。石芋伝説の伝わっている地には,現在もサトイモ が生育し続けているものや,近年まで伝説のサトイモが生えていたものがある。

それらのサトイモと現在の栽培品種との関係を明らかにし.それらの起原と 来歴を調査することは,野菜園芸の立場からも.わが国の農耕の歴史を検討す る点からも,意味があるものと思う。以上の点から本調査を行った。

ちいさがた

長野県小県郡背木村沓掛は上田市の西方約16kmの山間の集落で, 2軒の温泉

はりみ', 99

芋の来歴と 宿がある。古くは東lll道が通り,万葉集の,信沿路は 今の懇道刈株に 足踏 現状 ましなむくつはけわが背 は,この道の保福寺峠のことだといわれ,あまり遠

1)沓掛温 くない地に国宝の大法寺の三重の塔がある。

泉の弘法芋 この地の自生サトイモについては,大正2年の長野県史蹟名勝天然記念物調 査報告や,上田市立博物館組の郷土の民俗民話に,その自生状況や弘法大師に まつわる伝説が記載されている。自生地は一時は数反歩の地域にわたり,うら 盆会の際は仏前に供物を供えるためこの葉を刈って販売したという。

長野県出身の考古学者故藤森栄一氏は,長野県下の縄文時代中期の遺跡から コッペパン状の遺物を見出したが,これは野生サトイモを用いてクリやトチの 実などの粉を固めたものとし,沓掛の石芋はそれらサトイモの後代であろうと した[藤森 1969]。また京都大学農学部の人達がこの石芋を3倍体の野生サ トイモとしたことなどから,青木村はこのサトイモを学術研究上質韮な植物と し

, しかも繁殖地が減少する危惧もあり,昭和56年青木村の天然記念物に指定

* あ お ば た か し

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青葉:石芋伝説のサトイモについて し,管理人を定めて保設している(写媒1)。

写真1 長野県青木村沓掛の弘法芋

75 

現在サトイモは温泉の湯尻の約1アールの砂礫地を中心に,温泉宿の屋敷内 から水路の下流!OOmほど先までの地に点々と生えている。サトイモの葉柄長 は1.7m,菜身長は60cmほどで,葉柄は緑色で紫赤色の色索がわずか現われ,

乾燥時や低温時には一層i農色になる。子芋の基部は普通かやや長く,野生サト イモの特徴とする佃似J枝はみられない(写其2)。イモはえぐいが冬を越すと 子芋は我べられ,菜柄は戦時中食用に供したという。

写真2 長野県青木村沓掛の弘法芋

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76 牒耕の技術10

青木村教育委員会の塩澤久延氏によると, 温泉は硫化水素臭をもつ弱アルカ リ泉で, 特殊な軟体動物などが湯尻には生息している。 この付近は冬季は梢雪 が多いが, サトイモの生育地は湯尻のため結氷することはない。 なお管理人か ら分譲されたサトイモを鉢植えで試作したが, 其冬は早朝ー2-3℃に下る屋 外においても全株が越冬した。 子芋は春先にはえぐ味が少なくたべられた。

2)烏取県 烏取県東伯郡関金町は峠一つで岡山県真庭郡に通ずる山間の町で, 数軒の温

ゼさがわ関金のエグ 泉宿がある。古くは伯者と美作を結ぶ美作街道の間所があり, この温泉は1月温ほうき みまさか 芋 泉と呼ばれた。 ここのサトイモについては松岡布政の「伯苦民談記」(1742)

に関温泉エグ芋之事として,「久米郡の矢遣郷にあり, 此湯は銀湯なる由にて i黍癒(うるしのかぷれ)の類別して相応す・・・・・・此邑に弘法大師のエグ芋と云う あり, 昔弘法此里を過ぎ玉う処に, 或る民家へ立寄り玉うに卒女芋を洗う。 大 師是を乞い玉いしに亭女此芋はえぐしと答えて参らせず, 夫より此所の芋えぐ うして喰われず。依りて弘法のエグ芋と称するとなり」と記されている(ii\-水 誠氏による)。

写真3 鳥取県関金町のエグ芋

, 

(5)

青葉:石芋伝説のサトイモについて 77 このサトイモは温泉の湯尻の入る湯谷川に生えているもので,近年温泉地の 整備に伴って水路を改修し,かえってサトイモは生育し難くなった(写其3)。

なお温泉の宣伝材料にもしていて,土地の人逹がある程度保展している。

このサトイモの来歴と特性を調査してきた梢水誠氏は,本種を絃芋と同定 した[ii'i水1982]。本種は子芋の多い子芋用の品種で,子芋の基部は佃甜枝に はならない。本種の自生する湯谷川の水温は,冬の厳寒季にも10℃以下にはな らず,同様な大分県の別府温泉の地獄水路でもサトイモが生脊している。なお 鳥取県では以前は蔽芋は特廂品とされ,大山山龍の黒ぼく地幣では近年まで服 要な作物であった[梢水1982]。

3)甲府市 羽黒町は甲府市北西の羽黒山の南Lil館の躯落で,龍源寺の傍らに弘法党と呼 羽黒町弘法 ぶ小さいお堂があり,以前は旱魃時にこの堂で雨乞いをした。ここに昔弘法大 堂傍の石芋 師の頓みを断った老婆の芋が石芋に変ってしまったとの伝説が伝わっていて,

現在も石芋と呼ぶサトイモが生育している。

サトイモは弘法の池と呼ぶ水口からi勇き出る細い流れの中と両岸に生育し,

甲府市社会教育センタの丹澤節史氏によると,以前は30坪ぐらい生えていた という。その後流れに土砂がたまり,下流は設岸工事が行われ,現在は長さ10

m足らずの範囲に縮少している(写真/4)。龍源弄住職と付近の人の話による と,泉は旱魃時でも涸れることはなく,水は冬でも10℃以上を保ち,流れの部 分は其冬でも凍らない。龍源寺は古くは羽黒ill頂にあった曹洞宗の寺で,元柊 年間にill麓の弘法堂傍の現在地に建立され,このサトイモは現在龍源寺の石芋 と呼ばれている。

写真4 甲府市羽黒町の石芋

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78  典 耕 の 技 術10

サトイモはえぐ味が強く全然利用しないが,戦時中は葉柄を食用にしたとい う。現在は生育環境が良好でないためか, II月半ばの調査であったためか葉柄 はかなり紫赤色で,子芋は多く,佃勾枝状ではなかった。これらの形質からみ て,このサトイモも萩芋に近緑の品種とみられた。

能源寺の南東約2kmに湯村温泉郷があり,その北嬬の塩沢寺には湯村地蔵盤 前の石芋として弘法伝説が伝えられていた[日野 1979]。塩沢寺は955年に空 也上人が開いた寺で,山門,地蔵堂など国指定の重要文化財が多く,現在甲府名 所の一つになっている。この石芋は弘法大師の加持で生じたもので,芋は石の ように硬いが茎は軟らかだと今川意信の「甲陽落話」 (1728)に記されている

[日野 1979]。また野田成方編のは見寒話」 (1752)には,塩沢寺の石芋に ついて「昔弘法此地へ来れる時畑に芋あり,空海是を乞えども村人石也とて与 えず,空海怒って加持をせしかば忽化して石と成。今は沼の中にあり。按るに 此石芋は別種也。唐土にも有。本朝にも所々にあり」とし,加持して石にした

ことを難じ,これは邪説としている。

なお弘法大師が杖で石を取除いた所から湯が湧き出たと伝えられ,現在弘法 の杖と呼び,湯は弘法温泉と呼ぶ浴場として利用している。しかし塩沢寺のサ

トイモは今はなく,石芋伝説も忘れられてしまった。

4)松江市 島根県松江市大野町には古瑣時代の遺跡が81カ所もあり,鎌倉時代にこの地 芋谷の食え に君臨した大野一族の砦跡がある。この大野町の芋谷と呼ばれる谷に小さな井 ん芋 戸と石地蔵があり,その井戸に弘法芋,俗に大野の食えん芋と呼ぶサトイモが 自生している。ここには以前土居の寺という寺院があったというが今はない。

このサトイモについては他の石芋と同様,弘法大師と欲深い老婆との言い伝え があり,老婆の捨てた芋が芽を出し,それが今日まで生き続けているといわれ る(「大野郷土誌

l ,

「島根の伝説」など)。

消水誠一,吉田正温両氏の案内で現地を調査したが,井戸というのは縦3m,  Imあまり,深さ30cmほどの小さい泉で,水は後方の繁みからしみ出る程度 で,水の流れはみられない。しかし水の涸れることはないという。サトイモは この泉の傍にかたまって生えているほか,付近の道ぱたにわずか生育し,株数 はそれ程多くなかった(写其 5)。

サトイモの形態は沓掛の石芋に類似し,子芋の基部はやや長いが佃勾枝では ない。築者が関東で試作したところ沓掛のサトイモに類似し,耐寒性は強かっ た。

上述のようにこの食えん芋は普通の水溜りの傍に生育するもので,沓掛や関

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背葉:石芋伝説のサトイモについて 79 

写真5 松江市芋谷の食えん芋

金のような湯尻ではなく,甲府のような温い涌き水地でもない。大野公民館長 の佐藤正義氏によると.このサトイモは同氏が子供の頃と比べてほとんど増減 がなく,旱魃.厳寒や大苫の年もあったが春になると変りなく毎年芽を出すと いう。なお「大野郷土誌

J

によると,先年恩田梢氏は.この芋を「出裳風土記」

(733)に記されている芋訊芋菜とし.これはサトイモの原種ではなかろうか と推定している。

5)船橋市 「船橋市史」[船橋市役所]959]によると,千葉県船橋市西海神の阿須波明

かいじん海神の石芋 神の石芋については,「葛飾記

J

0750), 

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葛飾誌略」 (1810)など多くの森料 に弘法大師にまつわる言い伝えが載っている。また

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江戸名所図会」 (1800) には. 9月4日が同明神の祭日で,昔からこの祭りを芋祭と呼び,この日には サトイモを食う恨例があったと記されている。

また「成田道の記j(1830)には,海神村の竜神の社について記した後,「傍 に2坪に足らざる小池有,端高く水至て低し,水草繁き中に青からの芋六.七 生たり。これを土人石芋と呼り。昔弘法大師廻回してここに来りしに老たる婆

……。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑わしきま ま二三株を抜て見るに石にはあらずただの芋なり。案内せる小女顔色をかえて 恐憫し神罰を蒙らんと言いたるままもとの如く栽え骰たり。芋は水に生じぬも のと思うに一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍し。或書

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80  牒 耕 の 技 術10

には是をいも神と言えり」と記している。その後明治13年の咄岡良弼の「千業 日記」にも同様の記述があり.昭和28年頃まではこの井戸の中に石芋がわずか 残っていたという。なお船橋市史の筆者はこの石芋をオランダカイウともみて いる[船橋市役所 1959]。

. 6)千業県 千葉県安房郡白浜町は房総半島南端の町で, 1月の平均気温が5℃を超す温 白浜町芋井 暖の地である。同町の背木狼落は房総丘陵の南側山麓にあり,集落内の石芋の の石芋 泉,通称芋井にはサトイモが自生していた。傲田楓江の「安房古事志」 (1832) には,「芋井,胄木村民家の傍にあり.緑芋数茎,生長丈余に及び四時荘翠凋 枯せず.井の方径九尺強,其水甚深からずといえども常に梢冽の寒泉哨出して 涸ることなし,芋茎其中より亭々叢生す」と記され,以下弘法大師と老婆にま つわる伝説を述ぺている。また「房総叢書記」には.「芋井という

i

勇水の箱井 戸がある。この中に里芋ー株あり,往時空海ここに石芋を投げたあとと伝うと あり,また,里人云此芋横根のみありて塊なし」とも記している[船橋市役所 1959]

以前から石芋を調究してきた溝口他也氏によると,昭牙1130年代にこの泉を節 易水道に利用したことなどでサトイモは絶滅し,現在は石芋史跡の標札と,水 槽に植えたサトイモが昔の名残りを止めている。

7)千葉県 千葉県香取郡多古町は成田空港東側の股村で,同町の井戸lllは栗山川上流右 多古町井戸 岸の丘陵地の傍にあり,この地に梢水井戸が多いことから井戸Illと呼ばれ,地 山の石芋 内には大井戸,小井戸,井戸谷などの字がある。

房総の民話によると,他の石芋と同様,旅の

1

曽の頼みを欲深い老婆が断った ことから石芋が生じた。後日その

1

怜は弘法大師に迩いないと考え,大師の像を 造り堂を建て.以来これを芋大師と呼ぶようになった。多古町教育委員会の勝 又氏によると,芋大師の境内には現在も空海伝説の消水井戸があり,その中に 石芋の板碑が残っている。また石芋大師緑起文が同町文化財森科としてあり,

加瀬忠男氏家には空海箪とされる害がある。しかしサトイモは現在生えていな い[船橋市役所 1959]。

日野氏の「植物怪異伝説新考」 [!979]には石芋の項があり,前記の船橋市 海神と甲府市湯村の石芋のほか,次の地の石芋も紹介している。

8) 岩代国 この伝説では吝沓な男が里芋の煮たのを石芋だといったので,弘法大師が石 会津の石芋 に化してしまったと伝えている。

福島県南会津郡の室井康弘氏が会津各地の伝説を調査したところ,会津高田 町では石芋の話が残っているようであり.山口弥一郎芳「会津の伝説」には,

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青葉:石芋伝説のサトイモについて 81  豆打ちをしていたところ,旅俯に乞われたので.これは土豆だと答えたところ,

本当に土豆になり食われなくなってしまったとの伝説が救っているという。

9)越後国 弘法大師が芋を洗っている老婆に一つ所望したので,偽って食えぬ芋だと断 西蒲原郡の ったところ,そのサトイモが石になったと伝えられている[日野 1979]。この 石芋 石芋の場所は現在明らかでないが,新潟県史紺さん室によると,小千谷市の峠 狼落に住む星野ミカ氏 (78歳)が.同様な昔話を語ったことが「日本の昔話2, 越後の昔話j(未来社)に載っている。

なお新潟県の南魚沼郡では,冬でも12℃程度の湧き水の流れ出る地が多く,

この水を畦間に流して生長を促し,早春出荷する水掛け菜栽培が各地で行なわ れている。

10)武蔵国 この地は現在横浜市金沢区内にあり,この石芋については

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廂扁武蔵風土記 久良岐郡富 稿

J

(1825頃)と「観海没録jに記されている。この神社は金沢の近在にあり,

岡村板橋芋 疱折を俗にイモと云うことから疱桁神社とも呼ばれ.神社の祭礼には芋を沢llI 明神社の石 食させたのでこの祭礼を一般に芋町と呼んだ。この社の傍の田の中には片葉の 芋 蔑があり,石芋のあった小池の傍らには1847年に建てた弘法大fiili加持石芋片莱 巌之碑が残っている[船橋市役所]959]。金沢区役所の小買野他ー氏によると.

芋神様は芋観音とも呼ばれ.庶民の信仰を集めていたが,昭和II年飛行艇基地 開設のため.お堂は区内の長昌寺の本堂衷に移された。なおサトイモは現在自 生していない。

II)美作国 荒内は現在岡山県勝田郡奈義町内で,島取県境に近い津lll盆地東部の山村で 勝田郡古吉 ある。この石芋は弘法大師の加持で生じたものとされ,今も時々現われると 野村大字荒 [東作誌」 (1815)に記されている[日野 1979]。勝田郡勝央町の典業改良晋 内の石芋 及所の調査では,石芋に該当するサトイモは現在みられない。

12)伊予国 この地は現在の松山市吉藤町で,昔弘法大師がある民家に立寄ってみると,

温泉郡潮見 その家の人々が芋を煮て食べていた。大師がその芋を下されと頼んだが家の人 村大字吉藤 は惜んで芋を与えなかった。それ以来その家の畑の芋は固くて食えなくなった の石芋 という。

西園寺源透の「伊予奇談伝説」には食はず芋の項を設け.「湯月城の外堀の 辺,食はず芋とてあり,弘法大師娼にいもを乞いしにおしみたるに依て其芋忽 ち味を変じて食はれず,右玉の石に記しあり」とある[日野 1979]。松山市教 育委貝会の私信によると,玉の石は現在道後温泉にあるが,石芋の形跡はない。

松山市連合婦人会編の「ふるさとのおはなし」には,汐見山の麓の婆か谷の 欲深い婆の話として同様な話があり,今でもこの村の赤坂あたりにその芋が野

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82  農 耕 の 技 術10

かみぷ人

生しているとか,と記されている。なお同様な伝説は徳島県名西郡神山町上分 山にもあったという。

日野氏はさらに,江戸時代の「本草図譜」 (1828)の巻50に野芋,いしいも

(越後), くはずいも(土佐)や野芋一種(上総,下総)の記述のあることを 紺介し,クワズイモは本州には産しないので,土性の関係で硬化した里芋のこ

とかも知れないと述べている[日野 1979]。

また「植物妖異考

J

[白井 1925]では,石芋の項で,海神の石芋のほか伊予 国西条,土佐国嵯舵岬の某寺内と民家付近にも弘法大師の石芋があるとし,こ れはクワズイモとしている。

なお

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成形図説」 (1804)では,「石芋,相膜などの国にていう。 ‑,If芋,亦火 師芋という」とし,弘法大師が芋を洗う婦人に芋を乞うたことから生じたこと を記している。

3.いわゆる わが国のサトイモ品種には染色体数が体細胞で28の2倍

1

本の品種と, 42染色 石芋の品種 体の3倍休品種とがあり,沓掛と関金のサトイモは3倍体である[中尾 1981, 名 TANIMOTO et al.198 3]。またイ

r n ;

の形態は分類の重要なメルクマールにな るが,栽培品種の中にはほとんどl;tl花しない品種がある。このほか葉の形態,

色,球茎(芋)の形態なども分類の基準になる。しかし芋の形態や葉柄の色素 の多少などは栽培条件によっても変化し,サトイモの品種分類はかなり難しい。

なお野菜としてはどの部分を主に食用にするかで,子芋用,親芋用,菜柄用品 種に大別している。

熊澤三郎氏らは,主として花序の形態,染色体数などからわが国のサトイモ 品種を表]のように4変種, 13品種群に分類した[熊澤他 1956]。堀田満氏は サトイモ科植物の分類の中で,日本のサトイモを2倍体の2品種群と3倍体の 3品種群に分類し [HOTIA1970],その後2倍体のミガシキ,オヤイモ,セ ンクチ,ャッガシラ,タケノコイモの5群と3倍体のコイモ群とに分け,この 中のミガシキ群の中には3倍体のものもあるとしている。そしてミガシキ群は 長い1IJJ勾枝の先に子芋をつけるもので,野生サトイモの多くはこの群に入り,

日本では西南日本から沖縄にかけて数品種が栽培され,沓掛,関金,房州の野 生サトイモはこのミガシキ群の品種とみているようである[堀田 1983]。

谷本氏らは日本から東南アジアにわたって各地の自生サトイモを梨め,花序 その他の形質を調査し,それらのクラスター分析を行った。その結果,沓掛,

関金と九州の自生種とエグイモは,中国の江南地区のサトイモと同一群とみら

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青葉:石芋伝説のサトイモについて 83 

表1 わが国のサトイモの品種分類[熊澤他]956] 品 種 群 染色体数 植物学上の位骰 芋 3 n  C(Jasiaanliquomm  花穂の付属体は雄 沖 縄 背 茎 2 n  var. typica  花序より長い 巡 葉 芋 * 3 n  var. nymphaeifo lia 

石 川 早 生 3 n  付屈体は雄花序の 土 var. globulif era  半分程度 ', 

赤 芽 3 n  同 上

芋*

唐 芋* 2 n 

var. esc1de11ta  八 ッ 頭 *

み か し き 溝 芋 ',  筍 芋  ,,

*花は未観察

れ,沖縄本島以北種子島地区の群と,石垣島を含むタイ・インドネシア群とは 別の群とみられた[TANIMOTO  et al.  1983,谷本氏私信]。

八丈島で水田に栽培する水芋,ー名沖縄芋は,沖縄の田芋と同様親芋型の品 種で佃勾枝はないが,八丈の渓流などに自生する川芋(写其6)は沖縄宵茎と 同 様 子 芋 が(Ill勾枝の先につく(写其 7) [背葉 1983]。そして前にあげた各 地の石芋は,水湿の多い地に生育しているが佃萄枝は認められなかった。谷本 氏らも沓掛,関金のサトイモはストロンはないとしている[T ANIMOTD  et al. 

1983]

以前から関金温泉のエグ芋の調査をしてきた消水誠一氏は,これを以前鳥取 県の特産品でもあった蔽芋と同定し[消水 1982],谷本氏らもエグイモに類似

しているとみている[T ANIMDTD  et  al.  1983]。

蔽芋は非常に古い品種で,熊澤氏は中国の

r

斉 民 要 術

J

(540)の青芋をその 名称と記述内容から妖芋とみている[熊澤 1965]。わが国の最初の農書の「

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良記」 (1564)では,芋類として白塘芋など12品種をあげ,続いてヤマノイモ,

琉球芋をあげたあと嶋芋とえぐ芋をあげ,この2つは味は悪いが葉が多く芋も 多いので作って損にならないと記している。「百姓伝記」 (1682)ではえぐ芋な

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84 牒耕の技術10

写真6 八丈島自生の川芋

写真7 八丈島自生の川芋

7品種,「本朝食鑑j (1697) では妖芋など3品種をあげ, 妖芋は古くから知 られていた[有葉 1984]

紙芋は業柄, 葉身がi農緑色で, 葉柄の屈曲部と下部が微かに紫赤色になり,

背芋とも呼ばれる。 関金の石芋は蔽芋と同定され, 沓掛と松江の石芋も葉柄は

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青葉:石芋伝説のサトイモについて 85  緑色であったが,甲府の石芋は幾分紫赤色であった。なお鉢植で栽培すると紫 赤色になる。なおサトイモでは芽条変異の例がかなりあり,類似品種が多く,

妖芋でも19の類似系統があげられている[熊澤 1965]。

荻芋は花序をつけやすい品種とされているが,沓掛と関金のサトイモでも花 序が観察されている [TANJMOTO et al,  1983]。

叔芋は名のようにえぐ味が強い。しかし翌春まで貯蔵すれば食べられる。サ トイモは元来高温性の野菜で,タネ芋貯蔵は通常5℃以上で行っている。蔽芋 はサトイモとしては耐寒性が強く,他の品種より低温で発芽し,この点から親 芋は芽芋用に用いられる[熊澤 1965]。箪者が鉢植のまま戸外で越冬させた沓 掛と松江の石芋は,最低気温がー3℃前後の日がかなりあったが,翌春は全個 体が正'常に萌芽した。ただし ii,i水氏によると, l叱金のエグ芋は石川早生と比べ,

タネ芋の越冬率に差は認められなかった [ii'i水]982]。

なお台湾の阿里山では標高2000m付近まで路傍の水辺に野生のサトイモがみ られる。阿星山の標高2400m地点ではI, 2月の平均最低気温は1.8, 1,7℃,  最低気温は一7,I℃といわれ,台湾の野生サトイモはかなり耐寒性が強いとみ

られる。

以上のように石芋の品種名はまだ特定できない。しかし前記の諸点からみて ぷ芋に近い品種,系統とみてよいものと思う。なお石芋をクワズイモとする記 述が前記のようにみられる。しかしクワズイモの自生地はわが国では少なく,

全国各地に伝えられている石芋はサトイモとみるのが妥当であろう。なお岐阜 県本巣郡下で弘法イモと呼んで栽培しているものは在来のジャガイモである

[I][本他 1984]。

4.石芋の来 サトイモは東南アジアの原産とされ,わが国には野生しない。本稿の石芋と 歴と起原 呼ぶサトイモもI村方から渡来したものであろうが,その渡来の時期と経路は明

らかでない。

宇毛の名は万葉集などにあり,サトイモは奈良時代には重要な食物とされた。

近年,わが国においても稲作以前に雑設・根栽型煤耕文化が存在し,半栽培の サトイモは渡来していたのではないかといわれている[中尾 1983]。石芋につ いては前述のように江戸時代に各地で記録されている。この事実は江戸時代よ りかなり以前から自生のサトイモが広く分布し,多くの人々から注目されてい たことを示している。

弘法大師伝説はさまざまなものにみられる。その中には片葉の段などのよう

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86  農 耕 の 技 術10

に単に珍奇なものもあるが,弘法消水などのように大衆が実益を受けているも のも多い。新潟県の自生アプラナは弘法菜と呼んで食用にされ,在来ッケナと の交雑で大月菜が成立したとされている。わが国の自生ダイコンは平安時代に は大根に対してコホネと呼び,江戸時代には野大根と呼んで各地で栽培化し,

その一つの波多野大根からは二年子大根と時無大根が成立し,桜島大根は南九 州の自生大根と尾張大根との交雑で成立したと考えられている[熊澤 1965]。 この野大根を福島県会津と山形県米沢市では江戸時代から弘法大根と呼ぴ,凶 作時や戦時中は食税にした[脊葉 1983]。本稿の石芋も沓掛と甲府では戦時中 葉柄を食べたといわれ,各地の石芋も救荒植物として古くは宜用に供したこと が推察される。

弘法大師伝説の伝えられるものはたいてい尊いもの,神聖なものとして大切 に保存されている。たとえば船橋市の石芋の場合,抜いてそれを確めたところ,

案内した少女は頗色を変えて恐憫し神罰を蒙らんといったので元のように植え た,という江戸時代の記録がある。石芋の生えている井戸などが寺社の境内か 近傍になっていることも石芋が大切に維持されてきた一因だと思う。

石芋のある寺社の中には,横浜市窟岡の例のように祭日を芋町といい,参詣 者に沢山の芋を食べさせたものや,船橋市の阿須波明神のように祭礼を芋祭と 呼び,芋を食べるものがあった。これらの恨習は芋名月や餅無し正月と同様,

芋を韮要な食柑とした時代のI悶耕俄礼に通ずるものがあると思う。

石芋は前述のように全国各地に点在し.その生育地は沓掛と関金のような温 泉の湯尻か,甲府,松江と千菜県の例のように湧き水の湧き出る場所で,比較 的温かく, しかも水のかかる地であった。これらの事実をみると,石芋が相互 にかなり距離をへだてた地に散在していることは,サトイモ加汲地性の植物で,

耐寒性がそれ程強くないことから来ているものと思う。それは低温性の植物が,

ある時代の地球の温暖化に伴って高山と高緯度地幣だけに残存し,いわゆる高 山植物として生育し続けていることに似ている(適温が低いのと高いのと逆で あるが)。

佐々木高明氏は,縄文文化の研究者として著名な江坂輝弥教授が早くから弘 法芋に注意し,藤森氏の考え(前述)をさらに敷術して「恐らく縄文早期末か ら中期初頭の今日より暖かった時代に,中国の長江南部から渡来し,縄文人に よって日本列島の各地に移されたものではなかろうか」と述べていると紹介し,

その慈見を証明しうる証拠は現在みられないながらも,これらのサトイモは中 国江南地方で半栽培の状態で食用に利用したサトイモの系統をひくものとみて

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背葉:石芋伝説のサトイモについて 87  大きなIll!違いはないと思うと述べている[佐々木 1982]。前記の谷本氏らの調 査結果は,これを証明するとはいえないにしても,佐々木氏らの考えと一致し ている。

このような考え方にたてば,平均気温が現在より 2 3℃高かった縄文時代 前,中期前半に渡来した原始型のサトイモが,東日本までも伝わり,広く分布 したが,その後縄文晩期から弥生時代にかけて平均気温が現在より 1℃程度低 くなった時期に,その多くは絶滅し,温泉地や湧き水のある場所など,生育条 件に恵まれた地のサトイモだけが残存し,その後も生育を続け,石芋,弘法芋 などと呼ばれて現在も生育を続けているものと椎定することもできる。

5.むすび 江戸時代以前から全国各地に分布していた石芋については,その来歴や起原

青業 高

ばかりでなく,その特性もあまり検討されていない。箪者の調査の結果,石芋 と呼ばれるサトイモの中には先に述べたように比較的近年消失したものがある 反面,まだ奸lられていない石芋の存在している可能性がある。近年谷本氏らに よって沓掛と関金の石芋の特性が調査されたが,なお未紹介の石芋の発見,現 在残存している石芋の保設保存とさらに詳しい調究が望まれる。なお本調査に 協力された各位に深謝します。

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