から抄宗寮に納品されたのは明治二年十月二日であった︒次に︑その目的は︑初学者の理解しにくい古義古言を解説す
ることと︑勤王の志士の歌文を示すことで人々の和魂を壮
ならしめることにあった︒叢書中の﹃緑浜詠草﹄に関しては︑先行する元僴の詩文集﹃翠崖詩歌鈔︵翠崖詞歌抄︶﹄中の﹁翠崖詠草﹂から内容的に問題の
ある歌二首を削除し︑若干の歌に校訂を施して完成させたもの
であった︒本歌集には︑﹁言葉の雅でない歌や調べの高くない歌﹂︵芳樹の後書き︶もあるが︑勤王の志士の至誠溢れる歌を提示することに主眼があり︑叢書全体の目的にも適ったものと
なっている︒
一 はじめに
近藤芳樹は︑天保一一年︵一八四〇︶に長州藩士として取り立てられ︑嘉永二年︵一八四九︶に藩の儒家に列せられて萩城下の江向に開塾した︒その私塾を﹁抄宗寮﹂と名付けた︒開塾 キーワード近藤芳樹・宍戸真澂︵左馬介︶・国司親相︵信濃︶・翠崖詞歌抄・宮川臣吉
要 旨
幕末・維新期の歌人・国学者である近藤芳樹の私塾﹁抄宗寮﹂
から出版された﹁抄宗寮叢書﹂の総合的な研究・考察をおこな
い︑出版の経緯︑刊行の目的について新たな知見を加えた︒ま
た︑叢書中の﹃緑浜詠草﹄を取り上げて︑その特質と編集の過程を探って旧説を正すとともに︑右に述べた叢書刊行の目的が実際に歌集の中に反映されているかも考察した︒
その結果︑以下のようなことが判った︒
まず︑叢書の扉には﹁明治二年春正月⁝本寮寿梓﹂とされる
が︑成立の経緯の詳細は︑慶応二年︵一八六六︶春ころまでに発刊の計画が立ち︑五作品のうちの﹃楠公祭文﹄が慶応三年五月二十五日に近いころに完成し︑印刷・製本に関わった山城屋
小 野 美 典 ﹁ 抄宗寮叢書 ﹂ と 福原元僴 の ﹃ 緑浜詠草 ﹄
︵一八七〇︶一二月に﹁抄宗寮は廃止ニ相成余モ一等教授現勤引 日記にもその詳細が語られることはない︒しかし︑明治に入る 幕末の抄宗寮を具体的に窺い知る資料は少なく︑芳樹自身の ﹂となった︒ 4
と抄宗寮は重要な役割を果たすようになる︒それは︑﹁地方版
︵田舎版︶﹂という形での著作物の刊行である︒管見に入る限り︑抄宗寮の名が刻された版本は︑以下の三冊
であ
5
る︒
A﹃抄宗寮叢書﹄巻一︱﹃神道訓義﹄﹃にほのうきす﹄所収
B﹃抄宗寮叢書﹄巻二︱﹃緑浜詠草﹄﹃高田のおしね﹄﹃楠公祭文﹄所収
C﹃牛乳考 屠畜考﹄︱﹁抄宗寮蔵﹂版として刊行
このうちCに関しては︑旧
諸本・成立・芳樹の他の著作との関係などを考察した︒その中 稿において﹃牛乳考﹄を取り上げ︑ 6
で︑﹁幕末・維新期という激動の時代を経て明治の世になった時︑人々の体を壮健にし外国と伍せる体格を作ることは国家と
しての急務であった︒また︑牛乳飲用に対する人々の誤った認識・旧弊な考えを正すのも重要なことであった︒そうした背景
をもって﹁啓蒙の書﹂として﹃牛乳考﹄が書かれたのであろう﹂
という趣旨を述べた︒幕末・維新期という時代の流れの中で︑芳樹の著作は考える必要があり︑それは︑本叢書についても同様であろう︒近年活況を呈している芳樹研究において︑抄宗寮叢書に言及したものは少なく︑その全体像の把握もなされてい
ないのが現状である︒そこで本稿では︑まずその全容を俯瞰し︑特に刊行の目的について考察してみたい︒併せて︑叢書中から の様子は︑芳樹を幼いころから支援・庇護してきた上田
知ることができる︒ 芳樹書簡︵嘉永二年五月一一日付﹁上田両公﹂宛書簡︶から窺い 家への 1
⁝然るニ別ニ大役を被仰付実ハ難有事ニハ御座候へ共︑引立ニこまり入申候︒則別帋之通ニ被仰渡候ニて︑十五人入込被仰付扶持方采料等被立下候︒尤公物を費す事ニ付︑少々学文も出来候者ならてハ相捌申間敷︑始め候間ハ自分之物を以て賄ひ︑学文も出来かけ候人なれハ上之御賄ひニ致させ可申奉存候︒外ニも諸稽古場ヘ三四人宛御賄ひ之入込ハ御座候へ共︑十五人なとゝ申多人数ハ外ニハ不被仰候︒実ハ至極難有事ニて︑愚拙外出ニ不及内ニて何事も相済候様ニ被仰付候故︑たゝ役処のミニ出候而跡ハ内居引立之事のミかゝりゐ申候︒何とそ其御近辺よりも国学を心か
け候人御座候ハ私方へ罷出候様ニ奉存候⁝︵﹁⁝﹂は省略
を示す︒以下同断
︶ 2
右によると︑藩では抄宗寮ほかの﹁稽古場﹂に公費で諸々の費用を給付していたが︑抄宗寮には十五人分の給
付という過分 3
の扱いで︑芳樹も公費の支援を受ける以上はその運営に腐心し
ていたようである︒国学に興味ある人物の紹介を乞うている
し︑また︑寮生も当初は自弁で︑ある程度進んでから給費生と
する旨もしたためている︒
こうした公的な色彩を一部持つ﹁稽古場﹂であった抄宗寮は︑
その後も継続して運営されていたようだが︑明治三年
﹁抄宗寮叢書目録/巻一/神道訓義/にほのうきす/巻二
/緑浜詠草/高田のおしね/楠公祭文﹂④漢文序︱三丁オ〜三丁ウ
﹁丙寅春三月 督学小倉実敏題﹂と末尾に付された漢文序⑤﹃神道訓義﹄︱四丁オ〜一五丁オ *﹁藤原宜寸﹂︵近藤芳樹︶著⑥﹃にほのうきす﹄︱一六丁オ〜二七丁ウ *宍戸真澂︵﹁ま
すみ﹂とも︶の家集
﹃にほのうきす﹄の後書き︱二八丁オ〜三〇丁オ *﹁藤原芳樹﹂︵近藤芳樹︶による
︻巻二︼ *巻首題として﹁抄宗寮叢書巻二﹂とあり⑦﹃緑浜詠草﹄︱一丁オ〜一二丁ウ *﹁大江元僴﹂
︵福原元僴・越後︶の家集
﹃緑浜詠草﹄の後書き︱一三丁オ〜一四丁ウ *﹁長門殿人藤原芳樹﹂による⑧﹃高田のおしね﹄︱一五丁オ〜二七丁ウ *﹁高階親相﹂
︵国司親相・信濃︶の家集
﹃高田のおしね﹄の後書き︱二八丁オ〜三〇丁オ *﹁藤原芳樹﹂︵近藤芳樹︶による⑨﹃楠公祭文﹄︱三一丁オ〜三四丁ウ *著者未詳 ﹃楠公祭文﹄の後書き︱三四丁ウ〜三六丁オ *著者未詳
以上を概観して︑次のようなことが言えよう︒第一に︑巻一に③目録として巻二の作品まで掲載しているこ
とから︑抄宗寮叢書は当初から巻二までの五作品で完結予定で 具体的に﹃緑浜詠草﹄を取り上げ︑諸問題に関して検討を加え
るとともに︑叢書刊行の目的がどのように現れているかについ
ても考えてみたいと思う︒
二 抄宗寮叢書の概要
まず︑叢書の全容を見る︒底本には山口県立山口図書館蔵本
を使用し
7
た︒簡単な書誌を記す︒山口図書館認定の標題は﹁抄宗寮叢書﹂︑巻一と巻二の区別
はなく一括しての請求記号﹁Y九一一・一A﹂︒両巻ともに︑縦一七・一糎×横一一・七糎︑表紙は丁子色の地の布目の型押に浅葱色の草花蝶文様︑表紙左肩に子持ち枠の刷り題簽﹁抄宗寮叢書﹂︑本文の料紙は楮紙系の和紙︑袋綴︑序文・本文とも匡郭
は四周単辺︑無界︒巻一は全三〇丁︑巻二は全三六丁︒底本に
は頁数︵半丁ずつ︶が上部に漢数字で書き入れされているが︑後補であろう︵注7の文書館本・明治大学本ともにない︶︒なお︑明治大学本には題簽下部に﹁一/二﹂の別があるが︑後の加筆
と思われる︒各巻の概要は以下のとおり︒
︻巻一︼①扉︵内題︶︱一丁オ ﹁明治二年春正月/抄宗寮叢書/本寮寿梓﹂②和文序︱一丁ウ ﹁博古堂主人識﹂と末尾に付された和文序③目録︱二丁オ〜二丁ウ
今茲丁卯のとしの五月の廿日あまりいつかの日︒正三位橘の卿の︒みうせませる日にしあれは⁝
﹃楠公祭文﹄の後書きには︑﹁長州藩の藩校・明倫館では五月二十五日に楠公祭を挙行するのが近時の恒例となっているが︑
それを抄宗寮でも行うことになった﹂旨︑そして﹁楠公の霊前
に初穂を供えて読み上げた祝詞が﹃楠公祭文﹄である﹂旨が記
されている︒右掲の祭文の冒頭︵傍線部︶の﹁丁卯﹂は慶応三年︵一八六七︶
であり︑抄宗寮叢書の五作品のうち︑﹃楠公祭文﹄の成立は慶応三年五月二十五日にほど近いころと推測できる︒よって︑﹁抄宗寮叢書は慶応二年春ころまでに計画が立ち︑そのうちの﹃楠公祭文﹄は翌年五月二十五日の楠公祭に近いころに成立した﹂
と考えてよかろう︒
では︑叢書の扉に記載された刊行の期日﹁明治二年春正月﹂
を裏付ける外部資料はいかがであろうか︒芳樹の日記は精粗が激しく︑空白部分や欠落も多
9
い︒明治元年から二年頃の日記も同様で︑叢書の成立を窺わせる記述はな
い︒ところが︑山口県文書館に︑奇しくも﹃明治二年日記 抄宗寮﹄︹両公伝史料・八一六︺なる資料が蔵されている︒これは︑同館所蔵の﹃近藤芳樹大人事歴資材﹄︹吉田樟堂文庫・二四四︺
の中で吉田氏が﹁抄宗寮日記﹂として筆写したものと同一資料
であ
10
る︒
この﹃明治二年日記 抄宗寮﹄︵以下﹁日記﹂と略す︶は︑明治二年四月七日から同三年一月八日までの日記である︒芳樹は あったと推察される︒そして︑恐らくは巻一・巻二が一括して刊行されたのであろう︒第二に︑成立年次が推測できる︒①扉に︑﹁明治二年春正月
⁝本寮寿梓﹂とあることから︑抄宗寮叢書は﹁明治二年
︵一八六九︶一月刊﹂ということになりそうである︒④の小倉実敏の漢文序が﹁丙寅春三月﹂とするので︑﹁丙寅﹂すなわち慶応二年︵一八六六︶の三月までには︑抄宗寮叢書の刊行が企図さ
れ︑三年後に上梓されたということであろうか︒右のうち︑第一は問題ないと思われるが︑第二の成立に関し
ては慎重さが必要である︒それについて︑次章で考察したい︒
三 成立について
久保田啓一は︑芳樹の﹃寄居歌談﹄の成立に関して︑芳樹の日記を詳細に検討し︑﹁奥書や刊記の記載通りの定期刊行物で
はなかったらしい﹂ということを明らかにし︑その成立年次の通説に疑義を呈した︒そして﹁﹃寄居歌談﹄の各巻に備わる芳樹
の端書・奥書の年月日が如何に当てにならないかを痛感させら
れる﹂として︑芳樹の融通無碍さ︑ひいてはそうした姿勢が当時の学芸界である程度共有されていた可能性にも言及して
い
8
る︒抄宗寮叢書の成立に関しては︑前章で扉ならびに小倉実敏序
の日付から一応﹁慶応二年三月までには叢書の刊行が企図さ
れ︑三年後の明治二年一月に上梓﹂と推測した︒成立過程を知
りうる内部徴証としては︑さらにもう一つ︑﹃楠公祭文﹄の書
き出しを挙げることができる︵傍線は稿者︒以下同断︶︒
G抄宗寮叢書六拾部山城屋彦七ゟ今日取寄置候事︹十二月九日︺
Aは四月二一日付けの芳樹の書状に関する記述︵当時芳樹は京都滞在中︶︒芳樹が抄宗寮叢書のことなどについて書き記し
て来たという︒Aにはその具体的内容は記されないが︑Bによ
れば︑叢書の完成が遅れている旨を芳樹に返信したことがわか
る︒恐らく︑Aの書状で芳樹が気にしていたのもこのこと︵刊行の遅延︶であったのだろう︒そうして︑ようやく完成したの
はCの十月二日で︑書肆山城
屋から五十部︵Gの十二月九日に 11
は更に六十部︶が寮に運ばれている︒Dでは︑叢書の漢文序を記した小倉尚蔵︵実敏︶︑そして天野順太郎の両名に一部ずつ
を進呈︒小倉実敏は遜斎の号で知られた明倫館第十一代学頭で
ある︒更にFの十月二四日には︑両殿様への叢書献上が計画さ
れる︒両殿様とは︑十三代毛利敬親と︑当年六月四日に家督を譲られたばかりの十四代元徳である︵但し︑六月十七日の版籍奉還で元徳は山口藩知事に就任している︶︒﹁日記﹂によると︑敬親は当年四月二八日に抄宗寮を突然訪問し︑課業を聴講︑寮生たちの作文・和歌の研鑽を参観するなど︑抄宗寮に関心が深
かったようである︒
また︑Eの記述から︑叢書上板の具体的な話は昨年︑すなわ
ち明治元年︵一八六八︶から進められていたことがわかる︒些か重箱の隅をつつくような作業をしたが︑抄宗寮叢書の成立に関しては︑叢書内の内部徴証と外部徴証としての﹁日記﹂
の記述から︑以下のように纏められよう︒ この期間︑主として上方︵大阪・京都・奈良・大和︶に滞在し
ていた︒﹁日記﹂には日付・天気・当直宿直者の姓に続いて︑課業として扱われた書籍︑入寮者・退寮者氏名などの人事︑祭礼・歌会などの諸行事︑先生︵芳樹︶からの手紙の内容ほかが記されており︑恐らくは芳樹から抄宗寮を任されていた人物︑
もしくはそれに準ずる者︑都講あたりの手になる日誌かと思わ
れる︒
この中に︑抄宗寮叢書への言及がしばしば見られる︒成立の経緯を知る手掛かりとなる記述を掲げる︵︿ ﹀内は割り書き部分︑︵ ︶内は稿者による説明︶︒全て明治二年の日誌である︒
A先生ゟ四月廿一日之書状到来葬祭考草稿抄宗寮叢書等之事申来候事︹五月一七日︺
B︵先生への書状にしたためた内容の列記の中︶叢書に今埒明不申勿疎催促ハ致候へ共彦八気分相彼是ニ而遅延ニ相成候へ共今月中ニハ是非相調候筈ノ事︹七月一二日︺
C抄宗寮叢書出来ニ付山城屋ヨリ五拾部塾江取帰置候事︹十月二日︺
D叢書上梓相調候付天野順太郎︿学校主事﹀小倉尚蔵︿先学頭
ニ而叢書序文書調候人ニ付﹀両人江壱部宛配分之事︹十月九日︺
E昨年ゟ発起之当寮叢書漸当節上梓相調候然処上板一件ニ付而
は追々御沙汰之趣も有之︹十月一三日︺
F抄宗寮叢書弐部/右/御両殿様江献上仕度ニ付学校主事天野順太郎迄差出置候事︹十月二四日︺
て中市で書肆博古堂を開いた︒抄宗寮叢書の実際の印刷・刊行
に関与したのはこの博古堂宮川臣吉であろう︵前章の﹁日記﹂
の記事から判る︶︒
この序には︑叢書の刊行目的が端的に記される︒一つは傍線部①の﹁初学者には理解しにくい古義古言を解説すること﹂︑
もう一つは傍線部②の﹁勤王の志士の歌文・考説を集めたので︑汚い戎意に毒されることなく︑本来の和魂を壮ならしめる
ことができること﹂であ
14
る︒①は五作品のうちの﹃神道訓義﹄を指していよう︒そして②
は︑長州藩士として著名な三人の家集﹃にほのうきす﹄︵宍戸真澂︶・﹃緑浜詠草﹄︵福原元僴︶・﹃高田のおしね﹄︵国司親相︶︑な
らびに近世後期以降忠臣として勤王家達から盛んに称揚された楠木正成を祀る﹁楠公祭﹂で読み上げた﹃楠公祭文﹄を指してい
よう︒この中で注目すべきは︑採録された家集の作者が三人とも︑禁門の変︵蛤御門の変︶で重要な役割を果たした人物たちとい
う点である︒三人はともに長州藩の重鎮で︑変の失敗後︑幕府
による長州征討を恐れた藩内の保守恭順派︵いわゆる俗論党︶
によって切腹或いは自害・斬首に処せられた人物たち︵三家老四参謀︶であ
15
る︒実は︑抄宗寮叢書の刊行に関与し︑且つ序も書いた博古堂主人宮川臣吉も︑父彦八とともに禁門の変に参加し︑遊撃隊の支隊である市勇隊に加わって中立売門で奮戦し頬に被弾してい
る︒この遊撃隊ほか﹁嵯峨勢﹂と呼ばれる長州軍の総督が国司親相であった︒臣吉は国司親相の部下だったのである︒ちなみ 抄宗寮叢書は︑慶応二年春ころまでに発刊の計画が持ち上が
り︑五作のうちの﹃楠公祭文﹄は翌年五月二十五日の楠公祭に近いころには完成していた︒叢書の扉には﹁明治二年春正月⁝本寮寿梓﹂とあるが︑刊行は遅れ︑山城屋から抄宗寮に実際に納品されたのは明治二年十月二日であった︒
四 叢書の内容と出版の目的
本章では︑叢書の序文と後書きを手掛かりに︑叢書の内容︑特に出版の目的について考察する︒二章で概観したように︑叢書には和文序と漢文序がある︒そ
のうち小倉実敏の漢文序は近藤芳樹︑並びにその著作﹃神道訓義﹄に専ら筆が費やされており︑ここでは触れない︒和文序を見る︒以下がその全文であ
12
る︒
此はいさゝかなる冊子ながら︒ ①記紀萬葉律令格式を始め︒中古の書︒歌集物語等に至るまて︒広く披索して︒古義古言の︒初学の輩の解得がたき事どもを︒弁へ明らめ︒ま た ②勤 王の志厚き︒近世の人々の歌文︒あるはくさ〳〵の考説などを︒見聞に随ひ輯録たれば︒汚穢なき戎意に相混こらずて︒天性の和魂を壮にすべき︒本教の補佐となる書になん︒博古堂主人識
博古堂主人とは︑萩城下の呉服町の書肆山城屋の宮川臣吉の
ことであ
13
る︒臣吉は芳樹の弟子でもあり︑明治初年頃山口に出
したにもいかによろこふらん⁝︹﹃にほのうきす﹄後書き︺
︹乙︺⁝いにし甲子のみやこの戦の時︒此ぬし︒そのをりの軍将なりしかば︒岩国にて自裁せられぬ︒⁝此ぬし︒
わが 公の︒大みくにのまつりことを︒古しへのさま
にかへし奉らん︒とおもほし立給へるみこゝろさしをた
すけて︒ことにいたつきはかくれけるに︒かくあぢきな
くうせられしは︒いとも〳〵憤ろしけれど︒いま み
かどのみいづ︒四方の海にあふれ︒天の下のひとくさ︒
おほみおもむけのまゝに︒なびきしたがふ世となれるは︒
またく此ぬしたちの忠誠にならへるにしあれば⁝︹﹃緑浜詠草﹄後書き︺
︹丙︺⁝この親相主に至て︒殊に おほやけのおほんために︒
まこゝろを尽し︒命をすてられしは︒まことにとほつお
やの名を清め︒おもてをおこせりとやいはまし⁝︹﹃高田
のおしね﹄後書き︺
更には︑二重傍線部では︑芳樹が後書きを書いたと思われる明治元〜二年頃の三家老・四参謀への認識も読み取れる︒明治
の開かれた世となって︑人々が天皇の威光に従うようになった
のもこれらの人々の﹁忠誠﹂に倣ったからだというのである︒禁門の変・第一次長州征討における殉難の士である三人のおか
げゆえに︑維新の世が到来したと言わんばかりの口吻と言え
る︒この点は︑押さえておく必要があろう︒本章では叢書の内容を概観したが︑その出版の目的は︑一つ
には初学の者に古義古言を解説することであり︑それは﹃神道 に︑禁門の変に際して長州軍は三方から攻め入ろうとするが︑他の二勢の一つ﹁伏見勢﹂の総督を務めたのが福原元僴である︒長州藩が三家老の首を差し出すことなどにより︑第一次長州征討の︑戦いそのものは回避される︵三家老の切腹は元治元年
︵一八六四︶一一月一一〜一二日︶︒しかし年が明けると︑藩内
の保守恭順派勢力は早くも追いやられ︑外に対しては恭順だが攻撃されれば武力行使で対抗するという﹁武備恭順﹂の藩是が慶応元年︵一八六五︶三月二三日に表明される︒その九日前の三月一四日には︑断絶させられていた三家老の家が再興されて
いる︒その後は︑維新を迎えて︑三家老・四参謀は勤王の志士
として尊崇され︑招魂社に祀られるようにな
16
る︒抄宗寮叢書は︑以上のような藩内の政治史の流れの中で考え
るべき作品であろう︒先の博古堂主人の序は︑三人の汚名が雪
がれて招魂社に祀られ︑勤王の志士として崇められていく文脈
の中で読み取ることができる︒芳樹は宍戸・福原・国司の三人
の家集の後書きを全て執筆しているが︑次の波線部に共通して見られるように︑﹁甲子の都の戦い︵禁門の変︶﹂に言及し︑彼
らの死に触れている︒特に︹丙︺の波線部では﹁おおやけのた
めに誠意を尽くして命を捨て﹂とし︑その死が至誠ゆえのもの
であった旨を記す︒
︹甲︺⁝甲子のみやこのたゝかひの時︒浪華の館より︒軍営に入りて︒事ともとりおこなひしかば︒益田氏福原氏国司氏とともに自裁せり︒今かく天下の政一方にさだまりて︒四海みな天つ日の光を仰きまつる世となれるを︒こけの
まれて退却し︑自らも負傷した︒この変がきっかけで七月二三日に長州藩追討の勅命が下され︑幕府の第一次長州征討が始ま
る︒元僴は海路帰国していたが︑保守恭順派の勢力が台頭した
ことで徳山藩に監禁され︑幕府への謝罪のために同年一一月一二日岩国の龍護寺︵現・清泰院︶で切腹させられ︑家名断絶
となっ
19
た︒
さて︑元僴の父広鎮は和歌を嗜んだ君主として知られて
い
20
る︒同様に元僴も和歌を能くしており︑詩歌集・家集として
﹃翠崖詞歌抄︵翠崖詩歌鈔︶﹄﹃緑浜詠草﹄を残していることが知
られ
21
る︒ただし︑両集ともにその内容を詳細に検討した研究は
なく︑歴史研究の分野から元僴に言及する論稿は非常に多いも
のの︑その詩集・歌集の全体像に触れたものは皆無という状況
である︵一部の歌︑特にその辞世の歌は非常によく引用され
る︶︒そこで︑今回︑抄宗寮叢書の﹃緑浜詠草﹄を考察するにあ
たって︑﹃翠崖詩歌鈔﹄所収歌も併せて検討することにした︒稿者が披見した﹃翠崖詩歌鈔﹄は山口県立山口図書館所蔵本
︵Y二八九/F七四︶である︒書誌を簡単に記す︒所蔵者認定書名﹁翠崖詩鈔﹂︑外題﹁翠崖詩鈔﹂︑内題﹁翠崖詩歌鈔﹂︑縦二三・〇糎︑横一六・二糎︑全二〇丁︑袋綴じ︒表紙は山口図書館専用のもので︑題簽︵外題︶と併せて後補と思
われる︒その際︑書名を誤って記載したのであろう︑漢詩集の書名︵二丁オに記載された題︶を表題としている︒本文の一丁
オ左肩に﹁翠崖詩歌鈔 単﹂と内題があり︑これを正式な書名
と考える︵翠崖は元僴の号︶︒二丁オから一一丁オまでが漢詩集﹁翠崖詩鈔﹂︑一二丁オから二〇丁オまでが歌集﹁翠崖詠草﹂ 訓義﹄の主たる目的であったであろう︒そしてもう一つは︑禁門の変での長州側の失敗・退却後︑藩を存続させるために幕府側への恭順の意を表明するために政治的に切腹・自害させられ
た三人の家集を掲載することで︑読者の和魂を勇壮ならし
め鼓舞することにあった︒とともに︑三人への慰霊・鎮魂の思
いもあったのではないかと思われるのであ
17
る︒
五 福原元僴の﹃緑浜詠草﹄
前章で考察した︑叢書出版の目的が︑具体的に作品にどのよ
うに反映されているか︑また︑叢書編集者にはどのような姿勢
が窺われるかについても考察しなければ︑抄宗寮叢書を語った
ことにはなるまい︒作品の全てを扱うことはできないので︑本稿では︑福原元僴の﹃緑浜詠草﹄を取り上げてこれらの問題に
ついて考えてみたい︒
まず︑福原元僴について簡単に触れておく︵姓は﹁ふくはら・
ふくばら﹂の両様で読まれる︒地元の山口・宇部では元僴の姓
は﹁ふくばら﹂と読まれることが多いようである︶︒福原元僴は︑文化一二年︵一八一五︶八月二八日生まれ︑元治元年︵一八六四︶一一月一二日没︒号﹁翠崖﹂︑通称﹁越後﹂で︑
﹁福原越後﹂の名でも知られる︒長州藩の支藩周防国徳山藩の八代藩主毛利広鎮の六男
18
で︑宗家である長州藩寄組佐世親長の養子となり︑安政五年︵一八五八︶に藩命により長州藩永代家老職福原家の跡を嗣いだ︒前章で触れたように︑元治元年七月
の禁門の変に際して︑元僴は﹁伏見勢﹂として伏見街道を北上
しての入洛を目指したが︑藤森で大垣藩・桑名藩などの兵に阻
元僴の歌八九首が収載され
23
る︒部立はないが︑おおよそ四季・恋・雑に沿って配列されている︒一方︑﹁翠崖詠草﹂︵﹃翠崖詩歌鈔﹄所収︑以下﹁翠崖﹂と略︶
には元僴の歌九一首が収載され︑部立なしで四季・恋・雑に沿
う配列形式など︑﹃緑浜﹄と同一である︒そのうちの八九首は﹃緑浜﹄との共通歌である︒つまり︑﹃緑浜﹄に二首加わった形が﹁翠崖﹂ということになる︒今︑両歌集の全体像と異同を分かりやすく示すために︑﹃緑浜﹄での歌題と歌番号を以下に掲げる︒︵ ︶内の算用数字が歌番号︑A・Bは﹁翠崖﹂の独自歌である︒詞書の長いものは﹁⁝﹂
で省略した︒
元旦試筆︵1︶︑福寿草︵2︶︑梅︵3︶︑鴬︵4︶︑柳︵5・6︶︑待花︵7・8︶︑帰雁︵9・
10︶︑水辺春月︵
11・ 12︶︑弥生
のみかの日よめる︵
13・ 14︶︑春暁︵
15︶︑春の哥とて︵
16・ 17︶︑正月三日によめる︵
1 8
︶︑題しらす︵
19︶︑新樹︵
水辺卯花︵ 20︶︑
21︶︑待時鳥︵
22・ 23︶︑藤︵
24︶︑五月五日の昼
より雨のやみけるをよろこひて︵
25︶︑夏の半常磐堤にて
︵
26︶︑山口の鰐石にて蛍を見て︵
27︶︑鴈︵
夜雨ふりけれは︵ 28︶︑八月十五 29・A︶︑八月十七夜⁝よめる返しに︵
30︶ 擣衣︵ ︑ 24
31︶︑菊︵
32・ 33︶︑瓶にさしたる菊を見て︵
34︶︑虫
︵
35・B︶︑秋田︵
36・ 37︶︑題しらす︵
38︶︑十月更衣︵
元治二年の月の大小を上の句の上におき朔日の日よみを下 39︶︑
の句のうへにおきてよめる︵
40・ 41・ 42・ 43・ 44・ 45・ 46・ 47・ 48・ 49・ 50・ 51・ 52︶
︑忍恋︵ 25
53・
54︶︑深川の里 書写奥書がある︵﹁秋阳堂主人﹂は未詳︶︒ である︒二〇丁オ末尾に﹁辛未初夏下浣写了秋阳堂主人﹂と
よって︑山口図書館本﹃翠崖詩歌鈔﹄が辛未︵明治四年︶四月下旬に書写されたこと︑それ以前に﹃翠崖詩歌鈔﹄が成立して
いたことが判る︒元僴の自選・他選を窺い知る手掛かりはない︒
なお︑山口図書館には︑昭和初
親本の模写本︵謄写版印刷によるものであり︑﹁模写﹂と呼ぶの 印刷で作成した﹃翠崖詩鈔翠崖詠草﹄が蔵されるが︑これは 期に地元の田中喜市が謄写版 22
も不自然だが︶のようである︒今取り上げている山口図書館本
﹃翠崖詩歌鈔﹄と比べると校異も存し︑漢字・仮名の異同︑変体仮名の字母の違いなどが激しい︒また山口図書館本には存し
ない元僴の辞世の歌﹁くるしさはたゆる我身の夕煙空にたつ名
は捨てかてにする﹂を末尾に加えて歌数が一首多いなど︑田中
の謄写版本の親本は山口図書館本とは異なるようである︒﹃翠崖詩歌鈔﹄には諸本が想定される旨︑ここに記しておく︒以下
の考察では︑山口図書館本﹃翠崖詩歌鈔﹄所収の﹁翠崖詠草﹂を用いることとする︒
さて︑﹃翠崖詩歌鈔﹄の中の歌集﹁翠崖詠草﹂と抄宗寮叢書の
﹃緑浜詠草﹄をともに元僴の家集と考えて︑考察の対象とする
が︑結論から先に述べると︑抄宗寮叢書巻二所収﹃緑浜詠草﹄
と﹃翠崖詩歌鈔﹄所収﹁翠崖詠草﹂は︑ほぼ同一の歌を収載する歌集で︑恐らくは﹁翠崖詠草﹂をもとに校訂・改編がなされて
﹃緑浜詠草﹄が成ったのではないかと思われる︒以下︑この点について考察する︒
﹃緑浜詠草﹄︵抄宗寮叢書巻二所収︑以下﹃緑浜﹄と略︶には︑
・ ・ 元旦試筆 朝日影けほのかに匂ふ山端にのとけく春のなひき初つゝ
︹翠崖1︺
福寿草 正月立つけふゑみそむる幸草に黄金花咲春を見る哉︹翠崖 2︺ 正月三日よめる 春の色をけふ三かの酒酌みかはしむつきのとかに語るねき
こと︹翠崖3︺
配列としては﹁翠崖﹂の形がふさわしいであろう︒元旦の試筆︑立春の福寿草に続けて︑正月三日の酒を酌み交わしながら
の歓談を詠んだ歌を配するのである︒この﹁翠崖﹂
浜﹄で 3番歌が﹃緑 18番に位置する理由は不明である︒﹃緑浜﹄の
13・ 上巳の節供︑ 14番が 15番の﹁春暁﹂では霞が詠まれており︑﹁春の哥と
て﹂の
16番歌では﹁おしなへて都もひなもこのころはさくらに
にほふひのもとのはる﹂と﹁桜﹂を詠む︒
考えても不自然である︒この配列だけを見れば︑﹃緑浜﹄が先 18番歌の位置はどう
に成立していて﹁翠崖﹂が配列を訂正したと考えられなくもな
いが︑稿者は成立に関してはその逆を考えている︒しかし︑こ
の事例だけは説明がつかない︵稿者の論への反証となり得る︶︒後考に俟ちたい︒
ところで︑﹃緑浜﹄
18番歌と﹁翠崖﹂
線部分︶に異同がある︒﹁ほきこと︵祝言・寿言︶﹂なら﹁めで 3番歌とでは︑結句︵傍 の三の瀬にて︵
55︶︑公のみ供つかへまつりて⁝︵
山あたりの警衛うけたまはりし折︵ 56︶︑本 57︶︑家僕ともの常磐
の堤にて霰弾の業するを見て︵
58︶︑岐岨棧道︵
59︶︑徳山
の老君にたいめたまはりし時⁝︵
60︶︑燈下読書︵
貫之︵ 61︶︑紀 62︶︑小野小町︵
63︶︑常磐湖︵
64︶︑徳府の老君日比
きなれ玉ひつる衣を玉はりしよろこひに︵
65︶︑松露︵
常栄公の三百年の御忌に⁝︵ 66︶︑
67︶︑秋のなかはのころさくら
のかへり咲を人の送りたるに︵
68︶︑秋のころ福川の里に
やとりしに⁝︵
69︶︑深川十勝のうち高雄新樹を︵
阿寺松︵ 70︶︑興 71︶︑獅子渓蛍︵
72︶︑梶返てふさとに菅原のおほ
ん神を祭れるよし⁝︵
73・ 74・ 75・ 76︶︑四十の賀をきくに
よせて︵
77︶︑同しくまつによせて︵
78︶︑公の御つかさすゝ
み玉へるを祝し奉りて︵
79︶︑題しらす︵
80・ 81・ 82︶︑罪
をかうふりてとちこもりたりしほとの哥とも︵
83・ 84・ 85・ 86・ 87︶︑福田某が⁝返しに︵
88︶︑
寄松祝︵ 26
89︶
このうち︑﹃緑浜﹄と﹁翠崖﹂とで大きく異なるのは︑太字網掛けの三カ所である︒
﹃緑浜﹄の
同一歌が3番歌として入っている︒右の一覧で言うと︑福寿草 18番歌は左記のとおり︒しかし︑﹁翠崖﹂ではほぼ
︵
2︶の後に位置しているのである︒
正月三日によめる 春のいろをけふみかのさけくみかはしむつきのとかにかた
るほきこと︹緑浜
18︺
虫 さよふけて枕にひくゝくつわむしうまかふかたの草むらに
なく︹緑浜
35︺ あけまきかかふこの中を松虫もおのかしめ野の秋となく也
︹翠崖B︺
﹁翠崖﹂の独自歌Bは﹁しめの︵標野︶﹂に難がある︒﹁しめの﹂
は皇室や貴族の領地で一般の立ち入りを禁じた野のことであ
る︒歌意は﹁少年が飼っている虫籠の中を︑松虫も自らの標野
と思い︑秋もたけなわとばかりに鳴いている﹂︒下の句は︑籠
の中の松虫が得意げに鳴く様子を誇張して詠んだものだろう
が︑やはり﹁しめの﹂は用語として不適切であろう︒前章で﹃緑浜﹄の後書きを参照したが︑そこには︑﹁みかどのみいづ︒四方の海にあふれ︒天の下のひとくさ︒おほみおもむけのまゝに︒
なびきしたがふ世となれる⁝﹂という出版当時︵明治二年︶の認識が記されている︒天皇の御稜威が四海に溢れている明治の今︑幼い男の子が飼っている虫籠の松虫と皇室の禁野とでは︑
あまりにも畏れ多い︒訂正するとなれば大幅な改変が必要とな
り︑結局編者は削除を選んだのだろう︒もちろん︑︿﹁翠崖﹂↓
﹃緑浜﹄﹀の過程での削除である︒
ABの二首を除いて︑﹃緑浜﹄と﹁翠崖﹂の歌︵詞書も含めて︶
は共通している︒それらにはほぼ異同はないが︑若干の校異も見られる︒単純な書写上のミスとは言えないものもあるので︑以下に数例を挙げて考察しておく︒﹃緑浜﹄の詞書・歌を掲げ︑ たい祝いの言葉︑祝福︑祝辞﹂の意だが︑﹁ねぎごと︵祈ぎ言・祈ぎ事︶﹂なら﹁願いごと︑神仏への祈願﹂の意になる︒酒を酌
み交わしてのどかに語らい合っているのだがら︑ここは﹁ほき
こと﹂つまり︑﹃緑浜﹄の結句の方が歌としてはふさわしい︒配列はさて置いて︑﹁春の色を﹂の歌の内容に関して言えば︑﹁翠崖﹂の形から訂正されて﹃緑浜﹄の形になった︑と考えるのが自然であろう︒二番目の大きな違いは︑﹃緑浜﹄
29番歌の後に︑﹁翠崖﹂のみ
が独自歌Aを同題で持つ点である︒
八月十五夜雨ふりけれは ふくる夜のかやかのきはの雨そゝきいつこを月の秋となか
めん︹緑浜
29︺ 月見むと待ちにし秋の中空に雲吹払ふ山風もかな︹翠崖
A︺
﹃緑浜﹄
29番歌の二句・三句は﹁茅が軒端の雨注き﹂︒﹁翠崖﹂
の独自歌Aは︑詞書﹁雨ふりければ﹂に歌が適っていない︒し
かも﹁山風﹂は山の中を吹く風︑或いは山から吹きおろす風な
ので︑﹁秋の中空に雲を吹き払う山風が吹いてほしい﹂では不自然である︒抄宗寮叢書︵﹃緑浜﹄︶の編者︵芳樹とは断言でき
ない︶は︑このままでは採択できないと考え︑止むなくAを削除したのではなかろうか︒︿﹁翠崖﹂↓﹃緑浜﹄﹀の過程において削除された歌と考えよかろう︒三番目の違いも﹁翠崖﹂の独自歌である︒
が禁門の変を起こして切腹を命じられた年の正月の作というこ
とにな
27
る︒もしかして︑この米寿の賀の際に︑元僴は父広鎮か
ら衣を下賜されたのかもしれない︒ちなみに︑広鎮は元僴が果
てた翌年︵元治二年=慶応元年︶一二月一六日に卒している︒
さて︑この歌は隠居した老君から着慣れた衣を下賜されたこ
とへの﹁よろこび︵お礼︶﹂の歌である︒﹁翠崖﹂の形では﹁あつ
いお恵みはどのように応えるだろうか﹂の意となって︑老君の
お恵みがどう応えるかを推測した内容となり︑不適切である︒
﹃緑浜﹄の形では字余りとはなるものの︑助詞﹁に﹂を加えるこ
とで︑﹁お恵みを戴いた私︵元僴︶はそのお恵みにどのように応
えようか﹂の意となり︑歌意が明確なものとなっている︒︿﹁翠崖﹂↓﹃緑浜﹄﹀の過程において校訂されたと考えてよかろう︒以上︑﹃緑浜﹄歌を﹁翠崖﹂歌と対比しながら考察してきたが︑
﹃緑浜﹄の
外の事例は全て﹁翠崖﹂から﹃緑浜﹄への編集過程において生じ 18番歌の配列︵位置︶には問題があるものの︑それ以
た訂正・削除と考えて問題はなった︒それに関しては︑次の芳樹の後書きが参考になる︒
⁝ ①よまれし歌ども︒近くつかへし家人の︒聞書したるが
ありしをこひ得て︒こたひかく梓にちりばめしめたるにな
ん︒⁝ ②いま みかどのみいづ︒四方の海にあふれ︒天
の下のひとくさ︒おほみおもむけのまゝに︒なびきしたが
ふ世となれるは︒またく此ぬしたちの忠誠にならへるにし
あれば︒ ③よしやその言のははみやびかならぬがありて︒
その調べは︒高からぬがまじれりとも︒誰かはこれを玉と 校異のある部分に傍線を付し︑︿ ﹀内に﹁翠崖﹂の本文を記し
た︒ 小くらくもなりて︿いく日﹀ふるかな五月雨にひつしのと
きもわかぬしはのと︹緑浜
44︺
注
25で触れた﹁月の大小を上の句の頭︑朔日の干支を下の句
の頭に置いて詠んだ歌﹂の中の五月の歌である︒粗末な柴の戸
の家の中に居て︑晴れていれば明るいはずの未の刻も判らない
くらいに薄暗くなって五月雨の降ることを詠んだ歌である︒
﹃緑浜﹄は未の刻の暗さに焦点をあてているが︑﹁翠崖﹂の形﹁小暗くも幾日降るかな﹂では﹁薄暗くなって何日降るのか﹂とな
り︑日中も薄暗いまま連日雨が降り続くことを詠んだ歌にな
る︒それでは下の句とうまく続かない︒﹁翠崖﹂の形を訂正し
て﹃緑浜﹄の形になったと考えるのが素直であろう︒
徳府の老君日比きなれ玉ひつる衣を玉はりしよろこひに︑
きなれにし千とせの鶴のけころもの厚き恵にはいかゝ︿恵
はいかに﹀こたへん︹緑浜
65︺
﹁徳府の老君﹂とは︑元僴の父である徳山藩主毛利広鎮のこ
とである︒天保八年︵一八三七︶には七男元蕃に家督を譲り隠居している︒広鎮の歌集﹃類題玉函集﹄には﹁八十八の賀の時蓬莱の島台をみて﹂という詞書の歌があり︑広鎮の年譜と照合
させるとこの米寿の歌は元治元年の正月詠︑すなわち︑元僴ら
ね﹄についても同様のことが推測されるのである︒
六 おわりに
以上の考察をまとめる︒近藤芳樹の私塾﹁抄宗寮﹂は︑嘉永二年︵一八四九︶五月頃に萩の江向に開塾したが︑塾生には藩から十五人分︵或いは二十人分︶の食費ほかが給付されるという半ば公的な性格も持つ私塾であった︒抄宗寮は明治三年︵一八七〇︶一二月まで存続し
たが︑明治期に入って︑﹃抄宗寮叢書﹄全二巻を刊行している︒叢書の巻一には︑﹃神道訓義﹄︵近藤芳樹著︶・﹃にほのうきす﹄
︵宍戸真澂の家集︶︑巻二には︑﹃緑浜詠草﹄︵福原元僴の家集︶・
﹃高田のおしね﹄︵国司親相の家集︶・﹃楠公祭文﹄︵著者未詳︶︑
の計五作品が収められている︒これらは一括して出版の計画が
なされ︑巻一・巻二が同時に刊行されたと思われる︒その詳細
は︑山口県文書館蔵﹃明治二年日記 抄宗寮﹄によって確認す
ることができる︒すなわち︑慶応二年︵一八六六︶春ころまで
に発刊の計画が立ち︑﹃楠公祭文﹄については慶応三年五月二十五日の楠公祭に近いころには完成し︑楠公祭当日に奉読さ
れた︒具体的に板行の動きに入ったのは明治元年︵一八六八︶
で︑叢書の扉には﹁明治二年春正月⁝本寮寿梓﹂とあるが︑刊行は遅れ︑摺りに携わった山城屋から抄宗寮に納品されたのは明治二年十月二日であった︒
また︑山城屋︵博古堂︶宮川臣吉の序文と芳樹による後書き
から︑叢書出版の目的を読み取ることができる︒その一つには︑初学の者には理解しにくい古義古言を解説することがあり︑ もこがねともめでもてあそばざらん︒︹﹃緑浜﹄の後書き︺
傍線部①では︑﹁元僴が詠まれた歌を︑側近の家来が聞き書
きしていたのを乞い得て︑今回上梓した﹂旨が記される︒この
﹁近く仕へし家人の聞き書きしたるがありし﹂というのが︑も
しかしたら﹁翠崖﹂に該当する作品ではなかろうか︒他に手掛
かりとなる資料は見つかっていないので︑軽々に断言すること
は憚られるが︑そう考えて間違いないように思われる︒そして︑上板するに際して︑先に見たような校訂が施されたのであろ
う︒先にも引用した傍線部②では︑維新の新しい世の中︑すなわ
ち﹁天皇の御稜威︵みいづ︶溢れる世の中︑諸々の民︵たみ︶が靡き従う世の中﹂になった旨が記されるが︑それらは﹁この主
︵ぬし︶たち﹂すなわち︑福原元僴︑さらには宍戸真澂・国司親相らの﹁忠誠﹂に人々が倣った結果であると記す︒傍線部③では︑﹃緑浜﹄には言葉の雅でない歌や調べの高く
ない歌もあるが︑皆が賞翫するであろうと記して終わる︒実際︑
﹃緑浜﹄の歌を読んでいると︑和歌としては不自然な言い回し・韻律・様式︑或いは俗語的表現なども目に付く︒編者もそれら
は十分わかったうえで︑必要最低限の校訂︵先に見たような︶
を施して︑刊行することにした︒つまり︑﹃緑浜﹄の刊行目的は︑伝統的な和歌史の流れの中に位置付けられる秀歌が集まった歌集を提示することにあったのではなく︑勤王の志士の至誠溢れ
る和歌を提示することにあったのである︒そして︑今回は触れ
られなかったが︑他の二人の歌集﹃にほのうきす﹄﹃高田のおし
板﹄の編集︱﹂︹日本大学法学部﹃桜文論叢﹄第七八巻︑平成
22
年
11
月︺ 小野美典﹁近藤芳樹編﹃類題阿武の杣板﹄について︱歌人の考察を通して見えるもの︱﹂︹日本大学国文学会﹃語文﹄第一三八輯︑平成22
年12
月︺︵
山︶は天保九年︵一八三八︶に没している︒ 五郎︵光美︶父子︒芳樹を幼少時から支援していた十代少蔵︵堂 田両公﹂とは︑上田家の十一代五郎右衛門︵光逸︶・十二代源
2
︶引用は左記︵但し︑別添の﹁補遺﹂の部分︶による︒なお︑﹁上 岡本みよ﹃近藤芳樹の手紙﹄︹私家版︑平成22
年6月︺︵
3
︶抄宗寮の給費生の人数を左記の﹃萩市史﹄では﹁二十人﹂とする︒吉田祥朔作成の﹃近藤芳樹大人日譜草稿﹄︹山口県文書館蔵・吉田樟堂文庫・二四〇︺も﹁二十人﹂としている︒稿者
は左記の拙稿において︑﹃萩市史﹄に依りながら﹁二十人分の食料を藩から支給され﹂としたが︑この人数に関しては再考
の余地がある旨をここに記しておく︒或いは︑当初十五人で
のちに増員されたか︒なお︑芳樹の日記の嘉永二年の条は欠落している︒
﹃萩市史 第3巻﹄︹萩市編輯発行︑昭和
五六〇頁︺
62
年3月︑五五八〜小野美典﹁近藤芳樹﹃牛乳考﹄について︱﹃寄居歌談﹄から﹃舐蘇小言﹄﹃牛乳考﹄へ︑そしてその執筆意図︱﹂︹日本大学法学部﹃桜文論叢﹄九三巻︑平成
29
年3
月︺︵
樟堂文庫・二五六︺の十二月の条の末尾に記載︵日付なし︶︒
4
︶明治三年の芳樹の日記﹃帰藩日記﹄︹山口県文書館蔵・吉田︵
5
︶各種データベースほか︑左記を参照︒小川五郎﹁稿本 防長刊籍年表﹂︹﹃防長史学﹄七巻二号︑昭和 ﹃神道訓義﹄がその目的のもとに採録された︒もう一つは︑人々
に勤王の志士の歌文を提示することで︑戎意に毒されていな
い︑和魂を壮ならしめることを目的としていた︒後者に関
しては︑禁門の変での長州側の失敗・退却の後︑第一次長州征討が進む中︑藩を存続させるために幕府側への恭順の意を表明
すべく政治的思惑から切腹・自害させられた三人の家集を掲載
する点からも読み取ることができる︒そして︑三人への慰霊・鎮魂の思いも窺うことができる︒最後に︑叢書内の﹃緑浜詠草﹄を取り上げてその内容を考察
した︒本歌集には︑福原元僴の歌八九首が︑ほぼ四季・恋・雑に沿っ
て配列されている︒そのもととなったのは︑元僴の詩歌集﹃翠崖詩歌鈔﹄︵﹃翠崖詞歌抄﹄とも︶の中の﹁翠崖詠草﹂であり︑芳樹の後書きに書かれた﹁元僴の歌を側近の者が聞き書きしてい
た﹂という作品は﹁翠崖詠草﹂を指すと思われる︒この﹁翠崖詠草﹂から内容的に問題のある歌二首を削除し︑歌に若干の校訂
を施して完成させたのが﹃緑浜詠草﹄である︒
﹃緑浜詠草﹄には﹁言葉の雅でない歌や調べの高くない歌﹂︵芳樹の後書き︶もあるが︑勤王の志士の至誠溢れる歌を提示する
ことが︑本歌集を抄宗寮叢書に採録した目的であり︑それは叢書全体の目的にも適っているといえよう︒
注︵
屋格の家︒芳樹と上田家との関係は︑左記の拙稿を参照︒
1
︶上田家は︑芳樹の郷里岩淵村近くの台道村の素封家︑大庄 小野美典﹁近藤芳樹の類題和歌集編集の一端︱﹃類題阿武の杣ることがわかる︒
︵
11
︶叢書の和文序を書いた博古堂主人︵宮川臣吉︶の屋号︒詳細は四章ならびに注
彦七は未詳︒
13
参照︒なお︑彦八とは臣吉の父である︒︵
12
︶引用に際して︑闕字・平出は二字空きで統一した︒以下同断︒︵
関しては︑左記を参照︒なお﹃山口市史﹄は昭和8年版を除い
13
︶宮川臣吉︹嘉永元年︵一八四八︶〜大正七年︵一九一八︶︺にて︑左記の昭和
46
年版︵これが最も詳しい︶・昭和57
版ともに﹁博友堂﹂とするが誤植であろう︒山口図書館蔵﹃萩城六々歌集﹄の刊記に﹁文久二年壬戌春三月 長門萩 書林 博古堂﹂
とあるので︑山城屋は文久二年︵一八六二︶には萩でもすでに博古堂を名乗っていたことがわかる︒
﹁宮川臣吉翁の略歴と功業﹂︹第四二回山口地方教育関係者新年懇話会編﹃︵教育関係者懇 話会叢書
教育功労者宮川︑重富両先生を偲ぶ﹄︑昭和
19
︶山口学都に於ける37
年1月︺﹃山口市史 各説編﹄︹山口市役所発行︑昭和
六〇一〜六○二頁︺
46
年3月︑吉田祥朔﹃増補近世防長人名辞典﹄︹マツノ書店︑昭和
月︺
51
年6︵
14
︶原文の﹁相混こらずて﹂の部分は︑動詞﹁混こる・蠱る﹂が使われ︑﹁災いに引き込まれることなくて﹂の意と解してお
く︒
︵
15
︶禁門の変前後の長州藩︑並びに三家老に関しては左記ほかを参照︒国司親相と福原元僴が三家老のうちの二人︒宍戸真澂は四参謀の一人で︑萩の野山獄に投ぜられ一一月一二日に自害︵斬首とも︶︒
堀山久夫﹃国司信濃親相伝﹄︹国司信濃顕彰会発行︑昭和
39
年11
年12
月︑引用は昭和生遺文集﹄による︺
45
年刊﹃防長文化史雑考小川五郎先﹃近藤清石著作目録 附近藤芳樹著作目録﹄︹山口県立山口図書館編集発行︑昭和
27
年12
月︺︵
6
︶注3の拙稿︑また左記を参照︒小野美典﹁︹資料紹介・翻刻︺近藤芳樹﹃舐蘇小言﹄・山口牧牛会社﹃牧牛贅言﹄︱附﹃牛乳考︵明治五年版︶﹄︱﹂︹日本大学法学部﹃桜文論叢﹄九四巻︑平成
29
年3
月︺︵
明治大学中央図書館蔵本︹毛利公爵家文庫・九一八・三六・H︺
7
︶他に︑山口県文書館蔵本︹吉田樟堂文庫・二二〇・二二一︺︑を披見︒
︵
国語国文学会﹃国文学攷﹄二一八号︑平成
8
︶久保田啓一﹁近藤芳樹の活動拠点としての広島﹂︹広島大学25
年6月︺︵
9
︶芳樹の日記の概要については左記の多治比の論考が参考になる︒また︑久保田啓一・蔵本朋依による﹁山口県文書館蔵﹃近藤芳樹日記﹄翻刻︵一︶〜﹂が﹁内海文化研究紀要︵第三三号︶
〜﹂︹広島大学内海文化研究施設︑平成
続中である︒
17
年3月〜︺に掲載継多治比郁夫﹁近藤芳樹と緒方洪庵﹂︹適塾記念会編﹃適塾﹄一七号︑昭和
59
年11
月︺多治比郁夫﹁萩原広道︱広瀬旭荘・近藤芳樹の日記から︱﹂︹住吉大社発行﹃すみのえ﹄三八巻一号︑平成
12
年12
月︺︵
10
︶両公伝史料本の貼り紙を吉田本が欄外に書き入れており︑また両公伝史料本の誤写が吉田本では訂正されている点など
から両公伝史料本が吉田本の親本のようにも思えるが︑両本
には異同もまま見られ︑両本の関係は不明︒なお︑両公伝史料本の末尾には﹁原本初人氏所蔵﹂とあり︑当本も転写本であ
︵
19
︶以上の福原元僴の経歴は左記︑並びに︑注原越後﹄を参照した︒
15
の上田芳江﹃福萩原正太郎﹃勤王烈士伝﹄︹頌功社︑明治
39
年4月︺防長史談会編﹃増補 防長人物誌﹄︹防長史談会︑昭和8年1月︺
市古貞次ほか﹃国書人名辞典 第四巻﹄︹岩波書店︑平成
10
年11
月︺安岡昭男編﹃幕末維新大人名事典 上下﹄︹新人物往来社︑平成
22
年5月︺︵
20
︶毛利広鎮の和歌活動や家集に関しては︑左記の拙稿を参照︒小野美典﹁毛利広鎮﹃類題玉函集﹄について︱成立年次を中心
に︱﹂︹日本大学国語国文学会﹃語文﹄一三三輯︑平成
21
年3月︺小野美典﹁︹資料紹介・翻刻︺︵山口県文書館蔵︶毛利広鎮﹃類題玉函集 上・下﹄︹山口大学人文学部国語国文学会﹃山口国文﹄第三二・三三号︑平成
21
年3月・同22
年3月︺︵
21
︶注19
の﹃国書人名辞典﹄は元僴の著作として﹃翠崖詞歌抄﹄﹃緑浜詠草﹄の二作を掲載するが︑一応︑管見に入った山口図書館本により﹃翠崖詩歌鈔﹄を書名として以下使用する︒なお︑近藤芳樹が関係する類似書名の歌集に﹃緑浜集﹄があるが︑﹃緑浜詠草﹄とは別作品である︒これは︑山口県宇部上存内の大庄屋西村友信︵和歌を芳樹に学ぶ︶の編で︑宇部地方の士族・僧侶三四名の歌八二首を選んだ歌集である︒明治六年九月三日の近藤芳樹序を持ち︑無刊記︵菅宗次に依ると明治八年刊
か︶︒歌人の中には福原元僴夫人の美祢子や福原芳山︵元僴の養嗣子︶夫人のとは子らがおり︑元僴の﹃緑浜詠草﹄との関連
が窺えそうだが︑芳樹序にはそのことは全く触れられない︒
また︑﹃緑浜詠草﹄と関連ある歌題や詠歌︑元僴関連歌も見ら
11
月︺上田芳江﹃福原越後﹄︹宇部郷土文化会発行︑昭和
41
年11
月︺小川国治編﹃山口県の歴史﹄︹山川出版社︑平成
10
年3月︺堀雅昭﹁禁門の変と長州藩の三家老︱福原越後公と国司信濃公︱﹂︹宇部地方史研究会﹃宇部地方史研究﹄四三号︑平成
27
年
7
月︺︵
祭を斎行︒同年八月には元僴の罪状焼棄の命が下っている︒ 僴の霊を琴崎八幡宮︵宇部市︶に合祀することが許され︑招魂
16
︶例えば︑慶応元年︵一八六五︶五月に︑三家老の一人福原元そして︑同八幡宮近くの崩地区に招魂社を建て︵翌二年一一月落成︶︑元僴の神霊を遷すとともに禁門の変の戦死者二一柱
︵二二柱とも︶の霊を祀っている︵現在の宇部護国神社︶︒以上
は︑﹃宇部市史 通史編 上巻﹄︹宇部市発行︑平成4年
一〇四一〜一〇五三頁︺ほかによる︒
12
月︑︵
散見し︑招魂弔祭・慰霊の意が看取できることを指摘した︒ 月刊︶の雑部に︑長州藩の勤王の志士にかかわる長文歌題が
17
︶左記の拙稿で︑芳樹編の﹃類題和歌月波集﹄︵明治七年一〇また︑宍戸真澂らとともに獄に捕らわれていた大津忠之︵村田次郎三郎︶・波多野直温︵広沢真臣︶・楫取希哲︵素彦︶ほか
が往時を回想した歌を一括して配列していることの重要性に
ついても指摘した︒
小野美典﹁﹃類題和歌月波集﹄の政治的傾向︱雑部の歌題と歌
の考察︱﹂︹日本大学法学部﹃桜文論叢﹄九〇巻︑平成
27
年10
月︺︵
九代徳山藩主︑同じく弟一〇男定広が長州藩一四代毛利元徳
18
︶毛利広鎮は一二男一一女の子を持ち︑元僴の弟七男元蕃がとなった︒定広が宗家藩主となったのは毛利敬親に世子が居
なかったためである︒
︵
26
︶注23
参照︒︵
27
︶注20
の拙稿︵﹃語文﹄掲載論文︶参照︒︹
付記︺
本稿を成すにあたり︑資料の閲覧・写真撮影等の便宜を賜った︑山口県立山口図書館・山口県文書館・明治大学中央図書館に︑衷心よりお礼申し上げる︒なお本稿で底本として使用
した山口図書館所蔵の抄宗寮叢書は︑博古堂宮川臣吉本人が明治三十六年五月十五日に山口図書館に寄贈したものである︒調査の途中でそれが判明した折には︑不思議な感懐に打たれ
たことを記しておく︒
︵おの よしのり︑本学准教授︶ れない︒﹃緑浜集﹄については左記を参照︒
菅宗次・松崎一子﹁西村友信と近藤芳樹︱付﹃緑浜集﹄︵翻刻︶
︱﹂︹羽衣学園短期大学国文学会﹃羽衣国文﹄第四号︑平成2年
10
月︺︵
22
︶田中喜市による﹁昭和七壬申秋九月満州事変記念日﹂の日付を有する︒
︵
23
︶ただし︑左掲︵﹁﹂は稿者が補った︶のように30
番歌と88
番歌の詞書にそれぞれ他人詠が一首ずつ見られる︒底本では
これら二首はあくまで詞書として処理されている︒
八月十七日はしめて空はれけれはある人たはふれに﹁七夜
まてさはりし月のはれそめて閨の扉らにむかふかつら男﹂
とよめる返しに
くるゝよりねやに入くるかつら男のおもかけのこせゆめのま
くらに︹緑浜
30
︺福田某か﹁うきくもにしはしかくるゝ月なれはさやけきか
けをまたやあふかん﹂とよみておこせける返しに
あふきみる月にもうきをますらをの身の行末を誰に語らん
︹緑浜
88
︺︵
24
︶注23
参照︒︵
25
︶元僴は元治元年没︒よって元治元年中に︑翌年の暦に基づいて︑月の大小を上の句の頭︑朔日の干支を下の句の頭に置
いて詠作したものと思われる︒元治二年︵=慶応元年︶は五月
が閏月のため︑五月の歌が二首︵
44
・45
︶ある︒小くらくもなりてふるかな五月雨にひつしのときもわかぬし
はのと︹緑浜
44
︺大淀の川へにおふるあやめくさねなかきためしいさやひきて
ん︹緑浜