• 検索結果がありません。

Félix Vallotton,- Rote Interieur Die Freie Studienschule Porträt eines jungen Mädchens Die Freie Ausstellung

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Félix Vallotton,- Rote Interieur Die Freie Studienschule Porträt eines jungen Mädchens Die Freie Ausstellung"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「丁度今、ここ(パリ)では屑鉄のような作品 ばかり集められた印象主義と象徴主義の小さな展 覧会が開催されています。僕はこの展覧会が、象 徴主義者たちにとって失敗に終わってほしいと願 っています。」これはヴィルヘルム・ハンマース ホイ(Vilhelm Hammershøi, 1864-1916)が、芸術 家仲間のユハン・ローデ(Johan Rhode)に宛て てパリから送った手紙のなかの一節である原註1。 続けて彼は次のように書いている。「絵画のほと んどは、僕には冗談にしか思われません。ある作 品では、格子模様の衣服を纏った女性が描かれて おり、草の茎、樹木の葉も四角に描かれています。 この画家―この人の名前は知らないのですが―の 別の作品では、着衣の女性が丸い帽子を被ってい るのですが、葉も草も真ん丸に描かれているので す。もしもこの絵に子犬が描き加えられるのなら、 子犬も真ん丸に描かれたことでしょう。これらの 絵はまさにひとつの様式を持っているのです。運 動するいくつかのエレメントによって成り立って いる作品もあります。例えばある作品では、公衆 トイレへと飛ぶように走る一人の男性が描かれて います。この作品はとても気に入りました。」 ハンマースホイがこの手紙のなかで語っている のは、ル・バルク・ド・ブットヴィル画廊で開催 された「印象主義と象徴主義の画家たち展」のこ とである。この展覧会では、ハンマースホイの美 術学校時代からの友人、イェンス・フェルディナ

ント・ヴィラムスン(Jens Ferdinand Willumsen) の作品もいくつか展示されていた。おそらくハン マースホイはこの友人と連れ立ってこの画廊に足 を運んだのだろう。この頃ハンマースホイは新婚 旅行でパリに滞在していた。1891年の9月にハン マースホイは、1916年に彼が死去するまで生涯連 れ 添 う こ と に な る イ ー ダ ・ イ ル ス テ ズ ( I d a Ilsted)と結婚している。2人はこのパリでの滞 在中に、ヴィラムスン夫妻と親しく交わっている。 ヴィラムスン夫人も当時パリに暮らしていたのだ った。 この手紙から読み取れることは、この頃までの ハンマースホイは印象主義、象徴主義の芸術には 馴染んではおらず、その立場の作品が彼の芸術観 に適ったものではなかったということである。こ の展覧会で最も物議を醸した作品のなかには、芸 術家グループのナビ派の人々による作品が含まれ ていた。モーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870-1943)、エドゥアール・ヴュイヤール(Edouard V u i l l a r d ,1 8 6 8 - 1 9 4 0 )、 ピ エ ー ル ・ ボ ナ ー ル (Pierre Bonnard,1867-1947)がこの展覧会にいく つかの作品を出品していた。なかでもボナールは、 全部で5点もの作品を出品している。ハンマース ホイが手紙のなかで話題にしているのは、ボナー ルの《庭のなかの女性(Femmes au jardin)》と いう絵画である。この作品はもともと屏風のパネ ルとして構想された全部で4点からなる連作のな

ハンマースホイと象徴主義

フェリックス・クレマー

(フランクフルト、シュテーデル美術館学芸員)

立野 良介

(訳:美学研究者)

仲間 裕子

(立命館大学産業社会学部教授)

(2)

かのひとつである。この展覧会ではナビ派の画家 たちによる室内画は展示されていなかったが、そ のすぐ後に室内画は彼らの最も重要な主題のひと つとなる。文献では繰り返しナビ派の画家フェリ ックス・ヴァロットン(Félix Vallotton,1965-1925) とハンマースホイとの関係性が指摘されている。 ハ ン マ ー ス ホ イ の 1 8 9 8 年 の 作 品 《 赤 い 部 屋 (Rote Interieur)》は、ヴァロントンの作品の模 写である。 ヴィルヘルム・ハンマースホイは1864年5月15 日にコペンハーゲンの商家で生まれた。彼の母親 は早くから息子の画才に気付き、その才能を伸ば すよう努めた。8歳のときから絵画の個人レッス ンを受けた。15歳でコペンハーゲン王立美術アカ デミーに入学するが、個人レッスンのほうも引き 続き受けている。美術アカデミーで学ぶかたわら、 同世代の他のデンマークの芸術家と同様に自由美 術学校(Die Freie Studienschule)にも通ってい る。この学校は1882年に、旧態依然とした美術ア カデミーの教育に不満をいだく学生たちによって 設立されたものである。

2 2 歳 の 時 に デ ビ ュ ー 作 《 若 い 女 性 の 肖 像 (Porträt eines jungen Mädchens》(図1)をコペン ハーゲン美術アカデミーの春季展に出品すること で、ハンマースホイは公の場に登場した。この肖 像画には、当時19歳の妹アナが描かれている。く すんだ彩色と大まかな運筆で描かれたこの絵画 は、美術アカデミーの理念に適ったものではなか った。その為、この作品は、春季展の審査員と自 由美術学校に所属する人々との間で激しい議論を 呼んだ。翌年の1886年にハンマースホイがアカデ ミーに出品した作品が同じく物議を醸したため に、その翌年、春季展の審査員は彼の出品を拒絶 する。とはいえ既にその頃ハンマースホイの作品 は海外で大きな評価を獲得していたのだったが。 彼の作品の出品が拒絶されたことに抗議して、ユ ハ ン ・ ロ ー デ を 中 心 に 「 自 由 展 ( Die Freie Ausstellung)」というグループが結成された。こ のグループが重んじていたのは主に展覧会開催の ための組織づくりであり、芸術的立場の表明はな されていなかった。 ハンマースホイは大変物静かな性格の持ち主 で、コペンハーゲンに籠って暮らしていたが定期 的に海外旅行にも赴いた。パリでの滞在の数カ月 のちに、北イタリアとフィレンツェを3か月間旅 してまわった。この時期には数年の間に何度か海 外旅行がなされたが、これはそのうち6度目の旅 である。 図1《若い女性の肖像、画家の妹アナ・ハマースホイ》 1885年 図2《アルテミス》1893−94年

(3)

この旅を終えコペンハーゲンに戻ると、ハンマ ースホイはモニュメンタルな作品《アルテミス (Artemis)》(図2)の制作に取りかかる。この作 品の人物描写は疑いなく初期イタリア・ルネサン スの作品から着想を得たものであり、象徴主義と の格闘を明白に裏付けている。この巨大なサイズ の絵画では、衣服を纏わぬ4人の人物が等身大以 上に描かれている。コンポジションの中心にアル テミスがいる。アルテミスのすぐ左後ろには人物 名が特定されない女性がいる。2人が並んで眼差 しを向けているのは、画面の右の縁に寄り掛かる ように描かれた両性偶有の人物である。画面の左 の縁のほうには鑑賞者に背を向けて立っている第 4の人物が描かれている。山の稜線のように描か れた狭い茶色の線がレリーフを思わせるような具 合に、4人の人物が共有する立脚面を示している。 画面の上の隅のあたりには左右に伸びる灰色の線 が引かれていて、薄く塗られたモノクロームの背 景の上限となっている。このモノクロームの背景 を背にして、4人の人物はまるで舞台上の人形で あるかのように互いから孤絶しそれぞれが自分の 役を演じている。透視図法による空間イリュージ ョンはここでは存在していない。人物たちの運動 は静的である。 この作品が1894年に美術家協会の展覧会(「自 由展」)で発表された時には、彼の支持者の間で も反応が分かれた。友人の美術史家カール・マス ン(Karl Madsen)がこの絵画を辛辣に批判した のに対して、芸術家モルガン・バラン(Margins B a l l i n) は デ ン マ ー ク の 季 刊 誌 「 ト ー ル ネ ズ (Taarnet)」の美術批評で、感極まったかのよう な文章を発表した。バリーンはこの絵画をデンマ ークの美術家による最初の象徴主義の作品である と述べている。 この季刊誌「トールネズ」は象徴主義を広める 拡声器の役割を果たしていた。発行者のユハンネ ス・ヨルゲンセン(Johannes Jørgensen)は、 「象徴主義」という表題の論文で次のように明確 に考えを示している。「真の芸術家は、必然的に 象徴主義者なのである。彼の魂は、時間のなかに ある事物の背後に永遠を、すなわち自らの魂がそ こから生じた源たる永遠を再認する。…現実は象 徴主義者にとって、単により気高い世界の象徴に 過ぎなくなる。現実は、いわば比喩的な言葉にな る。すなわち、地上の象形文字 ヒ エ ロ グ リ フ によって永遠を語 ろうとするものになるのだ。…世界とは深奥なる ものだ。このことが理解できないのは、浅はかな 精神の持ち主だけなのだ。」原註2ヨルゲンセンのこ の主張から、この季刊誌の目指すものがはっきり 理解される。この季刊誌は、デンマークにおいて、 象徴主義の芸術理解を審議する最も重要な法廷の 役を担うこととなる。だがこの季刊誌が取り上げ た対象は、スカンジナヴィア半島の文学、造形美 術に限られていない。ボードレール(Charles Pierre Baudelaire,1821-1967)、ユイスマンス (Juries-Karl Huysmans,1848-1907)、マラルメ (Stephaney Mallarmé,1842-1898)といった文学者、

ゴーガン(Eugene Henri Paul Gauguin,1848-1903)、 ピ ュ ヴ ィ ス ( Pierre Pubis de Chavannes,1824-1898)、それにナビ派に属する画 家たちもこの季刊誌で話題にのぼった。ハンマー スホイはこの季刊誌を通して、象徴主義の芸術観 に親しんだのだった。 《アルテミス》でハンマースホイは、疑いなく 彼自身の芸術の根本的確信を明確に示した。この ことで彼の作品は、19世紀末から20世紀初頭の象 徴主義の文脈のうちに位置づけられることとな 図3《5人の肖像画》1901−02年

(4)

る。ハンマースホイの第2のモニュメンタルな代 表作、1901年から翌年にかけて描かれた《5人の 肖像画(Fünf Portrats)》(図3)でも、この象徴 主義的立場は明確に示されることになった。この 作品では弟のスベン及び4人の友人が描かれてい る。5人は皆、彼の自宅のテーブルのまわりを一 緒に座っているのだが、5人は互いに関係を持た ぬかのように描かれている。画面上の出来事につ いて鑑賞者にまったく説明が与えられていないの は《アルテミス》と同様である。だが《アルテミ ス》と異なるのは、空間と時間から離れた世界を 舞台 シーン として上演されているのではなく、直接的な 現在を舞台として上演されている点である。この 作品は張り詰めた気分を醸し出しており、このよ うな気分は友情を描いてきたこれまでの絵画に期 待されるものとは相いれない。ハンマースホイは この《5人の肖像画》で、ひとつの絵画様式を発 見した。《アルテミス》にあった神秘的でメラン コリックな気分はさらに追及され、閉所恐怖症を おもわせる場面に濃縮されることでひとつの絵画 様式が誕生したのである。 ハンマースホイの《5人の肖像画》は、コペン ハーゲンのクレスチャンハウン市区のストランゲ ーゼ30番地にある彼の住居で制作された。今でも この場所には17世紀に建てられたレンガ造りの建 築が残っている。1898年から1909年までを彼はこ こで妻とともに暮らした。この間、彼は生涯でも っとも精力的に創作活動をなしている。全部で 370点程ある彼の絵画のほぼ半数をしめる室内画 は、ほとんどがこの住居で描かれた。ストランゲ ーゼで生活していたこの時期に、ハンマースホイ は室内空間を様々に変化させることで、数多くの 室内画を制作した。部屋の扉を開けたり閉じたり、 さまざまな家具を空間に配置したり、絵を壁に掛 けたり取り外したり、画面上の部分や視点を変化 させたりしたのである。 鑑賞者の眼の前に、黒髪を束ね黒い服を着た女 性が立っている(《室内テート(Interieur Tate)》)。 彼女は腕を曲げ、首を少しかしげている。1899年 に描かれたこの室内画では、画家はこの女性を鑑 賞者のすぐ眼前まで近づける。そのために彼女の 両脚は、画面の下の縁によって切断されることと なった。このことで生じる不動性は、部屋の半分 ほどを占める大きな丸い机によっても生じてい る。この机は女性から運動の自由を完全に奪って いる。同時に、この女性と机とは奇妙にも不安定 である。というのは暗い床は朦朧としており、立 ち位置が定かではないからだ。人物を切断するこ とで画面上には近接感が生まれ、この近接感がゆ えに、鑑賞者はいやおうなしにこの室内へと引き ずり込まれる。背を向けているため、間近にいる 鑑賞者の存在にこの女性が気付いているかどうか は分からない。超自然的な静けさが、この不可解 な状況を満たしている。ハンマースホイのすべて の作品を特徴づけているのはこの静けさなのであ る。 この接近性と接近不可能性との交替によって画 面上にはある種の緊張感が生じることになるのだ が、このような緊張感は描き出された部屋の空間 図4《背を向けた若い女性のいる室内》 1904年頃

(5)

の構築にも認められる。ここでもハンマースホイ は鑑賞者を閉じた扉や正面の部屋の壁に直面させ ることで緊張感を作り出しているのである。これ らの空間上の諸エレメントは、―後姿に描かれた 人物がまったくそうであるように―鑑賞者の想像 力を映し出すスクリーンになっている。 ハンマースホイによって空間上に配置された 様々な対象は―例えば佐藤直樹氏が説得力に富ん だ解説をしているようにオランダの室内画とは違 って―物語的な出来事を示唆するものではない。 それでも諸対象は、彼の描く室内画の間に視覚的 な関連性を作り出しているのである。なぜならハ ンマースホイは対象を何度も繰り返して異なった コンポジションのなかに統合しており、そしてそ のことで鑑賞者に再認を可能にしているからであ る 。 例 え ば 《 背 を 向 け た 若 い 女 性 の い る 室 内 (Interieur junger Frau in Rükenansicht)》(図4)

で認められる青と白の柄のスープ鉢は、1904年の 作 品 《 パ ン チ ボ ー ル あ る 室 内 ( Interieur mit Porzellanternine)》(図5)でも確認される。まる で高価なものが描かれているがごとくスープ鉢は いつも他の事物とは無関係に登場するのだが、そ のためにスープ鉢の持つ実用性は背後に退く。別 の繰り返して描かれた対象がピアノである。蓋が 閉じられたピアノは食器棚を連想させる。 テートギャラリーの室内画と同様、1908年の作 品 《 室 内 ス ト ラ ン ゲ ー ゼ 3 0 番 地 ( I n t e r i e u r . Strandgade 30)》(図6)も住まいの食堂で描かれ た。この絵画では、部屋の後方の大きく開けられ た扉の向こうの光景が描かれている。この扉を通 り抜け、眼差しは直線的に奥の方へといざなわれ る。そして突き当りでは、窓から光が射してい る。 1899年から1909年までの間に、このような空間 の見通しを主題にした作品が8つのバージョンで 制作されている。そのうち最も有名な作品は、人 物 の い な い 室 内 画 《 白 い 扉 ( Weiße Türen)》 (1905)(図7)である。この作品でハンマースホ イは、諸空間を構成上の基本構造へと切りつめて 図5《パンチボールのある室内》1904年 図6《室内、ストランゲーゼ30番地》1908年

(6)

いる。画家は物体を光景 シ ー ン のなかにみごとなまでに 明晰に配置している。この明晰さに感銘を受けた エミール・ハイルブート(Emil Heilbut)は、 1905年にこのように記している。「《白い扉》とい う素敵な表題を持つこの絵画はまったく美しい作 品です。開け放たれたこの白い扉は、実際に生き ており、木材は微かに輝きを放っています。部屋 から背後へと通じている別の扉も開け放たれてい ます。そしてそのことで、開かれた二つの扉の対 話へと誘っているかのようです。」原註3 1901年に描かれた作品《室内 ストランゲーゼ 30番地(Interieur. Strandgade 30)》(図8)も奇 妙な静けさに満ちている。この作品で描かれてい るのは正面から見る窓のある広々とした居間であ る。この窓からは、通りの向かいのアジア商社の 正面が見える。部屋の窓は二つあり、そのうち左 の窓の敷居には妻のイーダが凭れ道路を見下ろし ている。彼女の右にはもうひとつの窓があり、二 つの窓の間の狭い壁には額縁が二つ掛っている。 この額縁の下にはシステムテーブルが配置されて おり、テーブルの上には胴の膨らんだ花瓶が置か れている。空間の中央には黒い机が鎮座している。 その右手、壁の前には旧式のピアノ ハ ン マ ー ク ラ ヴ ィ ア がある。くす んだ色調、入念に画面上に配置された少数の対象 が互いに溶け合うことで、この描かれた光景は美 的にバランスのとれたコンポジションとして現出 する。それゆえ初見では、この絵画には次のよう な多くの不安を感じさせるエレメントがあること をうっかり見逃してしまう。 例えば額縁にはな かにあるはずの絵がない。花瓶にはそこに活けら れているはずの花がない。机の脚の長さは不揃い で、座るための椅子もない。なかでも奇妙なのは ピアノである。このピアノはまるで壁の前で浮か んでいるかのように見える。なぜならこのピアノ には後ろ脚がないからだ。しかしこのピアノが美 しい調べを奏でる気配のない理由はこればかりで はない。ピアノの傍には腰掛けるためのものがな い。それどころか、腰掛けるものを置くためのス ペースさえもない。なぜなら机の周りに何もない というのに、机はピアノのすぐ隣に配置されてい るからである。実用性を考慮しない家具のこのよ うな配置は劇場の小道具置場の様子を連想させる ものである。この配置により、家具のしつらえの 人工的性格が際立たされている。 これらの室内画の制作と並行して、ハンマース ホイは、風景、建築、海に関係した画題、裸体、 肖像の互いに関連性の薄い連作をのこしている。 これらの作品では、芸術家はその創作期間を通し て主題とその形式上のアレンジに誠実であったた 図8《室内、ストランゲーゼ30番地》1901年 図7《白い扉、あるいは開いた扉》1905年

(7)

めに、初期作品と後期作品との間には段階的な差 異しか認められない。 建築を描いたハンマースホイの作品でも、彼の 風景画と同様、人物は描かれていない。重くのし かかるかのような静けさに満ちた都市は、まるで 催眠術にかかったかのように硬直している。既に 建築を描いた最初の作品《クレスチャンスボー宮 殿(Schloss Christiansborg)》(1890/92)(図9) にもこの奇妙な性格が認められる。この作品はア ルフレズ・ブラムスン(Alfred Bramsen)の住居 から見たコペンハーゲンの中心に建つ宮殿の様を 描いたものである。薄暗く曇った空の下で、この 絵画の色彩上のアクセントは、銅と煉瓦でできた 宮殿の屋根のみである。 ハンマースホイの絵画のほとんど全てが、灰色 がかった 色 合 い ファルブスペクトルム を使用している。この色合い は、彼の同時代の人々が既に、彼の絵画の際立っ た特徴として把握していたものである。1907年に この色 価 ヴァルール について尋ねられた時、彼は次のよう に答えた。「この話題について語るのは私にとっ てほとんど不可能なのです。この色価は私にはま ったく自然で、何故そうなのかを述べることはで きません。でも初めて作品を発表して以来、どの 作品でもこのような色価を用いてきたのです。お そらくこの色価は最も中立的で切りつめられた色 価と言っていいでしょう。私は作品で使われる色 が少なければ少ないほど、色彩感覚上もっとも優 れた効果を持つという確信を抱いています。」原註4 灰色っぽい色合いは「中立的」な性格をもってい るというハンマースホイの確信は、古典的な色彩 理論にその由来を求めることができる。 この「切りつめられた」色彩は、ハンマースホ イの生前、すでに絵画と比較されるものになって いた白黒写真を想起させるものでもある。写真を 手本として描かれた作品はいくつかあるが、その ひとつがコペンハーゲンの旧アジア商会を描いた 作品である(図11)。建築を画題としたハンマー スホイの他の作品と同様、手本とされた写真では 数多くの通行人が認められるというのに道路には 人影がない。 1909年にストランゲーゼ30番地の住まいが家主 によって売却されることになったために、ハンマ ースホイは慣れ親しんだ住居を手放すことを余儀 なくされた。11年間夫妻はこの家に暮らしていた こととなる。コペンハーゲンの市内を2度転居し たあと、1912年の11月に夫妻は代わりになる丁度 よい家を見つけた。2人はストランゲーゼに戻る。 今度の住まいは、かつてのアジア商会だった建物 である。この転居は作品を創作するエネルギーを 得るという目的がゆえになされたものだったが、 この目的は十分にはかなえられなかった。1914年 の6月にハンマースホイの母が死去した。彼自身 図9《クレスチャンスボー宮殿、晩秋》1890−92年 図10《リネゴーオンの大ホール》1909年

(8)

も健康を崩した。咽頭癌を患っているという診断 を受けたのである。 1915年にはハンマースホイは1点しか作品を描 いていない。それは旧アジア商会の彼の住居を描 いた室内画である。この《室内 ストランゲーゼ 25番地(Intereieur. Strandgade 25)》(図12)とい う作品では、机に腰掛けて手仕事をしている妻イ ーダの姿が描かれている。彼女の前には誰も座っ ていない椅子がある。ハンマースホイは、まるで 自分自身は背後の一続きの空間を抜けて部屋を立 ち去る前にこの椅子に座って食事をしていたかの ように椅子を配置した。画家にはこの絵画を仕上 げるための時間がもはや残されていなかった。何 か月にもわたる入院の後、1916年の2月13日画家 は逝去した。 ハンマースホイの創作活動に影響を及ぼし続け た同時代の芸術家として、研究文献ではホイッス ラー(James Abbott McNeill Whistler1834-1903) の名が挙がるのが通例である。ホイッスラーの作 品 《 灰 色 と 黒 の ア レ ン ジ メ ン ト 、 画 家 の 母 親 (Arrangement in Grey and Black: Portrait of the Painter's Mother)》からハンマースホイは、彼自 身の母親を描いた1886年の肖像画の連作の着想を 得た(図13)。とはいえ彼は美術雑誌「ガゼッ ト・デ・ボザール」に掲載された銅版画の図版か らホイッスラーの絵画を知ることができたに過ぎ なかったのである。ホイッスラーのものとは左右 が逆さまに描かれたこのハンマースホイの作品で は、彼の母は暗い壁を背景にして画面の左半分に 座り右方を見ている。ここでもまた、いくつかの 限定された灰色の色調が全体の色合い フ ァ ル ブ ス ペ ク ト ル ム を作り上げ 図12《室内、ストランゲーゼ25番地》1915年 図 1 3 《 画 家 の 母 親 − フ レ ゼ レ ゲ ・ ハ ン マ ー ス ホ イ 》 1886年 図11《旧アジア商会》1902年

(9)

ている。ホイッスラーの作品で認められるひだ飾 り、縞模様のある絨毯、カーテンの花柄模様、壁 にかけられた絵画はここには描かれていない。ハ ンマースホイはこのような装飾的エレメントを削 って、少数の基本エレメントによって決定される 厳密な絵画のコンポジションだけに力を注いだの である。 この作品を描いた数年後の1898年、最初のロン ドン旅行の際、ハンマースホイはホイッスラーの もとに私的に出向こうと考えていた。ホイッスラ ーは、それ以前にハンマースホイのことを称賛し ていたのである。ハンマースホイはロンドンで描 いた作品《ふたりの人物画(Zwei Figuren)》(図 14)をホイッスラーに見てもらい作品の展示を依 頼するつもりだった。ところがホイッスラーは丁 度この時期パリに滞在していたためにこの望みは かなわなかった。ハンマースホイが旧識を得てい ない芸術家を訪ねようとしたのは、生涯でこの一 度きりである。

初 期 の 作 品 《 画 家 の 母 ( Die Mutter des Künstlers)》のみにホイッスラーの影響が認めら れるわけではない。ハンマースホイの用いてきた 色の調性 ト ナ リ テ ー ト にも、数多くの批評家はホイッスラーの 作品の持つ色彩的気分を認めてきた。ハンマース ホイのこの関心は、スカンジナヴィア半島の他の 同世代の芸術家の多くが分かち持っていた。そう いった芸術家の一人が、エドヴァルト・ムンク (Edvard Munch,1863-1944)である。青い色調で 描 か れ た 1 8 9 0 年 の 絵 画 《 サ ン ・ ク ル ー の 夜 (Nuità St-Cloud)》はオスロの秋のサロンで最初 に発表された。絵筆を広く動かしながら仕上げら れたこの作品では、月の光で照らされたムンク自 身の部屋が描かれている。空間の一番奥の窓際に 1人の男が座っている。頬杖をつきながら男は窓 の外の川を窓から眺めている。この絵画を称賛し、 当時まだ知られていなかったこの芸術家を発見し た の は 、 美 術 史 家 の ア ン ド レ ア ス ・ オ ベ ー ル (Andreas Aubert)のみだった。彼はリベラリズ ムを標榜するノルウェーの新聞「ダーグブラーデ (Dagbladet)」にムンクの展覧会の批評を掲載し、 ムンクの作品を次のように国際的なコンテクスト のなかに据えたのである。ムンクは「ロンドンの ホイッスラー、(そして)コペンハーゲンのハン マースホイ」に類似している。「…ドイツ美術で も、ガブリエル・マックス、ベックリーン、マッ クス・クリンガーといった人々には、彼に類似し た病的な特徴が見出される。」原註5ここで名前が 挙がった芸術家の作品は、様式上でも主題上でも それぞれが異なったものではあるのだが、 オベ ールは、神経質で神経過敏に思われるところに共 通点を認めた。そして、彼らの芸術を「デカダン ス」というひとつの概念で括ったのであった。こ の「デカダンス」という概念は世紀の変わり目頃、 ヨーロッパの若い文学者や芸術家にとってのスロ ーガンであり流行語であった。オーストリアの作 家ヘルマン・バール(Hermann Bahr,1863-1934) は、「デカダンス」という表題の論文で次のよう に書いている。「彼らすべては、浅はかで粗野な 自然主義から離れて、洗練された理想の深奥へと 向かう衝動を持つという点で共通している。彼ら は芸術を外部に求めていない。彼らは外部の自然 の模写を望んではいない。」原註6 ハンマースホイに影響を与えた同時代の画家を 図14《ふたりの人物画(画家とその妻)−あるいは二 重肖像画》1898年

(10)

求めるならばベルギーに目を向けるのもいいだろ う。ハンマースホイはこの国を、1887年から1913 年にかけて何度も旅行しているからである。すで にカール・シェフラー(Karl Scheffler)は、無人 のブリュージュの街を描いたフェルナン・クノッ プフ(Fernand Khnopff,1858-1928)の1904年頃の 風景画を、コペンハーゲンの建築を描いたハンマ ースホイの絵画と比較し考察している。 ハンマースホイの室内画との関係性を探ると、 クノップフの師で今日忘れられた画家グザヴィ エ・メルリ(Xavier Mellery,1845-1921)の作品が とりわけ示唆に富む。メルリは当時のベルギー象 徴派の主導者の一人であり、ハンマースホイの生 前、彼の作品は数多くの展覧会で展示されていた のである。メルリの最もよく知られた作品のひと つに、両親の住まいを描いた《物の生命(Das Leben der Dinge)》の連作がある。メルリが1889 年に《我が家の表玄関(Meine Eingangshalle)》 と《階段(Die Treppe)》を展示したとき、「ラー ル・モデルヌ」誌では次のような文章が掲載され た。「これらの作品で描かれているのは、ただの 無人の空間である。だがこの空間には人間以外の 何かが住んでいる。」これらの作品では全てが鉛 のように重苦しく静謐なまでに穏やかな色彩のな かに沈潜している。壁にも扉にも暗い影が覆って いる。そしてそのことで、全く日常的な風景に心 の平衡を失わせるような性格が付与されている。 メルリの別の作品《扉(Die Türen)》でも同様の 性格が認められる。この作品の形式的な構造は、 ハンマースホイの《開いた扉》を先取りしている かのようである。背後に窓が見える扉を通した眺 めが主題であり、またほとんどモノクロームとい ってもよい褐色の色調であるといった類似点がま ず目を引く。だがメルリの作品と異なっているの は、ハンマースホイは空間を一貫して建築学的基 本構造に切りつめており、3つの扉だけが運動的 なエレメントを表している点である。ハンマース ホイの作品では、模様のあるカーテンや額縁の中 の絵のような今は多分外出中の住民の存在を知ら せるものはない。既に1920年に、ノルウェーの美 術史家イェンス・ティイス(Jens Thiis)はメル リの作品とは異なりハンマースホイの作品では 「全ての生活者は締め出されてしまって」おり、 ただ壁と扉に刻印された「人間のドラマの痕跡底 知れぬ緊張感」が残っているだけであることに気 付いていた。原註7 ハンマースホイの作品を象徴主義の美学の文脈 に位置づけて考察したのは、オベールとハノーフ ァー(Hannover)だけではない。1898年にドル フは(Dolph)次のように書いている。「彼はフ ランスのサンテティスムの芸術家、マラルメやメ ーテルリンクと同じ芸術的本性を持つ夢想家であ り色彩の詩人なのである。」原註8さらにウィリア ム・リター(Willam Ritter)はこの画家を「兄弟 であると言っていいほどジョルジュ・ローデンバ ッハ訳註1に近い人物」原註9であると特徴づけてい る。 ハンマースホイの特に室内画は、実際に一見す ると、入念にバランスの取れた構築体であるよう に見える。数多くの連関性の欠けたエレメントを ここに見極めることができるのは、少数の解釈者 だけである。とはいえ、大多数の鑑賞者もこの不 安を感じさせるエレメントをむしろ無意識のうち に気分として共有しているのである。このような 作品との関係のあり方を鑑賞者はいつも認識でき てはいないのかもしれないが、たとえそうであっ てもこの芸術と情動的に対話する心の準備は不可 欠で本質的である。バールはこの心の準備に象徴 主義の芸術の中心的なものを理解し、次のように 記している。「つまりどれほど微かな示唆にもす ぐ耳を澄ます繊細で鋭敏な感受性を持たなければ ならぬということだ。さもないとこの芸術は働き かけてくれない。加えてさらに滅多に獲得できぬ 困難極まることは、理性のなかの出来事を理性が 伴う感受性でもってたどり、逆にあらゆる感覚的 な出来事を理性に書き写す訓練をすることで自分 の力で分析する習慣をもたなければならぬという

(11)

ことだ。」原註10けっして満たされることのない自 分自身の期待に鑑賞者を直面させるというハンマ ースホイの方法は、まさにこの文章の内容に即し たものである。 このような相反するものを備えた性格は、肖像 画でも認められる。ここで主人公たちは奇妙なま でに打ち解ける気配がなく生気にも乏しい。それ にこの性格は風景や建築を描いた作品でも認めら れる。描かれているのは、まるで死に絶えてしま ったかのようにひとの気配のない風景や建築なの である。彼の室内画の性格を決定づけているもの もこの画面に内在する緊張関係である。これまで 見てきたように画家は弛むことなく「くつろぎに 満ちた我が家」を描き続けてきたのであるが、実 際には住まいへの親密な眼差しを提示することは なかったのである。ハンマースホイの室内画は風 俗画を想起させる。だがたとえそうであっても、 情緒的なものや物語的なものが欠如した風俗画、 つまるところジャンル自体が欠如した 風俗画 ジャンルマレライ なのである。鑑賞者の期待に対して戸惑いを与え 続けることが、ハンマースホイの芸術の中心的要 因である。彼の同時代人たちによって認識されて いたように、この孤高の道を歩んできた画家ハン マースホイはホイッスラー、ピュヴィス・ド・シ ャバンヌ、メルリ、ムンクといった芸術家たちと 関係づけて考察されなければならないのである。 日本の国立西洋美術館にて、ヴィルヘルム・ハ ンマースホイの大規模な展覧会が開催されたとい うことは私にとって本当に喜ばしい。なぜなら ―ここ京都の、歴史ある宮殿や寺院で体験され るような―安らぎと自己の 観 想 コンツェントラチオン に類似した 何かが、このデンマーク人の精謐な作品に認めら れると思われるからだ。それは喧しく忙しない私 たちの時代には、全く似つかわしくない何かなの である。ヴィルヘルム・ハンマースホイは生涯に 一度も日本を訪問することはなかったが、確かに 彼はこの土地で理解が得られると感じたことであ ろう。

原註1 Zitiert nach Poul Vad: Hammershøi. Værk og

liv, Kopenhagen 1988, S. 105.

原註2 Johannes Jørgensen: Symbolismus, in: Taarnet, 2. Jg., Nr. 1 (1894), S. 53ff.

原註3 Emil Heilbut: Wilhelm Hammershöi, in: Der Tag (Berlin), 7. November 1905.

原註4 Vilhelm Hammershøi, in: C. C. Clausen: Naar Udstillingen nærmer sig. (II. Vilhelm Hammershøi), in:

Hver 8. Dag, 1907, S.437f.

原註5 Andreas Aubert: Höstudstillingen. Aarsarbeidet IV. Edvard Munch, in: Dagbladet, 5. November 1890, S. 2.

原註6 Hermann Bahr: Die Décadence [1891], in ders.:

Studien zur Kritik der Moderne, Frankfurt a. M. 1894, S. 19-26, hier S. 20.

原註7 Jens Thiis: Hammershøi og Ejnar Nielsen, in:

Samlede Avhandlinger om Nordisk Kunst, Kristiania

1920, S. 144.

原 註 8   Niels Vinding Dorph: Moderne Kunst in Dänemark. Eine Kurze Übersicht, in: Pan, 4. Jg., Nr. 2, 1898, S. 128-133, hier S. 131.

原註9 William Ritter: La Peinture en Danemark. Vilhelm Hammershøi, in: L’art et les artistes, Nr. 10, 1909/10, S. 264-268, hier S. 265.

原註10 Hermann Bahr: Symbolisten, in ders. (1894), S. 26-32, hier S. 30.

訳註1 Georges Rodenbach,1855-1898 ベルギーの詩 人

【訳者付記】

(12)

開催されたフェリックス・クレマー氏の講演Vortrag Kiotoのドイツ語による原稿の翻訳を、後にクレマー氏 が 加 筆 し た 原 稿 Vilhelm Hammershøi und der Symbolismusを参照し新しく書きくわえられた文章と註 とを補ったものです。表題は「ハンマースホイと象徴主 義」といたしました。

出典:『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩

(13)

立命館大学アート・リサーチセンターにおい て、2008年10月3日、ドイツ、シュテーデル美術 館19世紀絵画・彫刻部門長のフェリックス・クレ マー氏に「ハンマースホイと象徴主義」について 講演していただいた。クレマー氏は、国立西洋美 術館で同年、9月30日から12月7日に開催された 「ヴィルヘルム・ハンマースホイ―静かなる詩情」 展の企画協力者でもあるが、美術史研究者として の活躍も知られ、近年では『不安な家庭―1900年 頃の室内画について』(Das Unheimliche Heim: Zur Interieurmalerei um 1900, köln,2006)が ドイツで高い評価を受けている。この著書で氏は、 ハンマースホイだけでなく、ムンク、シニャック、 ヴァロットン、ヴュイヤールなどの室内画を文化 的・社会的背景から分析し、家庭的な幸福感では なく、むしろ個人の抱く脅迫感、恐怖、喪失感の 表現と捉える、示唆に富んだきわめて興味深い解 釈を提示されている。 ヴィルヘルム・ハンマースホイはデンマークの 象徴主義運動の中心に位置する画家である。彼の 作品が描き出す室内は、窓から射す北欧の鈍い光 に照らし出された静謐な空間であり、現代の喧噪 から遠い精神的な場所のような印象を与え、われ われの共感を呼び起こす。ほぼ白一色の壁に包ま れたその室内は清潔感が漂い、この事物の空間の 非物質性への昇華さえ感じさせる。しかし、その 一方で、黒い服に身を包んだ後ろ姿の妻や、家具 や陶器の描写に固執する画家の特異な眼差し、部 分的に省略された対象描写など、ふしぎな不気味 さと孤独感を画面に残し、この室内画がけっして 通常解釈されているように、市民社会の家庭の幸 せな情景を描いているのではないことが理解され る。 コペンハーゲンに住み、活動したハンマースホ イは見慣れたクレスチャンスボー宮殿、旧アジア 商会などの歴史的な石造りの建築物も描いている が、これらの建造物が北欧の薄暗く、冷たい、透 明感のある大気の中に凛とした姿を見せるのも、 社会における画家自身の孤立感の表れであろう か。リネゴーオンの大ホールの空っぽさは、その 広さに反比例してかえって息詰まり状態を感じさ せるのである。この広間の奥の、意図的とさえ思 われる半ば開かれた扉は、かすかな希望を表すの か、あるいはこの不安をいっそう深化させる象徴 なのか、観者はその合間を揺れ動くのである。 このような心的葛藤の複雑性は、写真を下地に しながらも、それをあえてぼかすように描く筆遣 いの手法がその効果を高めている。戸外も室内も まるで微細な霧で覆われているように、謎めいた 雰囲気を醸し出しているが、こうした手法は写真 と絵画の視覚性の差異の巧みな利用に基づき、ア ウラ化と非アウラ化の間に揺らぐ。ハンマースホ イの作品はこの手法においても斬新なのである。 講演後にクレマー氏が指摘されたように、ゲルハ ルト・リヒターなど今日活躍する画家たちが、ハ ンマースホイに多くの刺激を受けていることは確 かであろう。ロンドンと東京で開催されたハンマ ースホイ展では室内画だけでなく、肖像画と風景 画も数多く展示された。これまであまり注目され なかった画家だけに、この展覧会は再評価のきっ かけとなるだろう。クレマー氏の講演はハンマー スホイという画家が近代を映し出すまた一つの重 要な鏡であったことを示す、今後の象徴主義・近 代美術研究への貴重な提言であった。 講演に際して、国立西洋美術館主任研究官の佐

ハンマースホイと象徴主義

仲間 裕子

(立命館大学産業社会学部教授)

(14)

藤直樹氏に大変お世話になった。また、美学研究 者の立野良介氏には、講演原稿を丁寧に翻訳して いただいた。お二人に紙面を借りて感謝を申し上 げる。

参照

関連したドキュメント

人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒

市場を拡大していくことを求めているはずであ るので、1だけではなく、2、3、4の戦略も

喫煙者のなかには,喫煙の有害性を熟知してい

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

が有意味どころか真ですらあるとすれば,この命題が言及している当の事物も

わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから

ニホンジカはいつ活動しているのでしょう? 2014 〜 2015

ているかというと、別のゴミ山を求めて居場所を変えるか、もしくは、路上に