はじめに
1.奴隷制廃止論者 CharlesSumner 1.1 出生から Harvard 大学時代 1.2 法学研究者としての Sumner 1.3 ヨーロッパへ
1.4 反奴隷制論者として 2.Sumner の反奴隷制論 2.1 独立宣言と奴隷制
2.2 州内の奴隷制に介入する連邦権限 2.3 人間所有の不当性
2.4 自由労働観念 むすびにかえて
はじめに
合衆国憲法修正第13条(以下では単に修正第 13条と記す)が奴隷制を禁じていることは良く 知られている。しかし,合衆国憲法によって奴 隷制を禁じることの意味は,単に奴隷制を廃止 すること以上のインパクトを持っている。なぜ ならば,合衆国の建国以前から存在した奴隷制 は,合衆国憲法を筆頭に様々な法制度によって 下支えされていたからである(1)。
今日において合衆国憲法それ自体が奴隷制 を「暗に」認めていたという評価が一般的であ る(2)。しかし,奴隷制廃止論が全国的に高まり を見せた1830年代を見てみると,今日の常識と
は異なる主張がなされている。それは合衆国憲 法が奴隷制を認めていないという主張である。
このように合衆国憲法に反奴隷制的特徴を見い だす立場は,今日の目から見ると,すでに合衆 国憲法によって奴隷制が禁じられているなら ば,なぜ修正第13条を制定する必要があったの かという疑問を生じさせる。
南北戦争が勃発する前の時代の反奴隷制 論者を合衆国憲法へのアプローチの差に着 目 し て 分 類 す る
William Wiecek
は, 合 衆 国 憲法を親奴隷制的文書として捉えたギャリソン派(
Garrisonian
)と,それを反奴隷制的文書として捉えた穏健的立憲主義(
moderate constitutionalism
) お よ び 急 進 的 立 憲 主 義(
radical constitutionalism
) に 区 分 し て い る(3)。 このギャリソン派の論者が憲法を修正しようと するのは理にかなっている。しかし,穏健的立 憲主義者と急進的立憲主義者については,憲法 修正は必然的ではない。そうであるならば,修 正第13条制定の立役者がギャリソン派の論者で あったかというと,そう簡単に評価することも できない。ギャリソン派というラベルの由来と もなったWilliam Lloyd Garrison
は,奴隷制を 認める合衆国憲法を否定すると同時に,そのよ*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程4年(指導教員 西原博史)
論 文
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
― 共和党急進派C. Sumnerの反奴隷制論に焦点をあてて ―
小 池 洋 平
*うな合衆国憲法によって設立された合衆国政府 をも否定していた。それゆえ,
Garrison
は連邦 議会による立法・憲法修正という解決ルート を採用しなかったからである[小池2011
:
135-
138]。むしろ修正第13条案は,Salmon P. Chase
のような穏健的立憲主義者に分類される人々と 共に活動した共和党員らによって支持されてい た。南北戦争後に修正第13条が可決に至ったこと は「偶然の産物」であったかもしれない(4)。た しかに,南北戦争の戦況と修正第13条案審議は 密接に結びついている。しかし,たとえ「偶然 の産物」であったとしても,修正第13条案の審 議はアンテ・ベラム期における奴隷制を巡る議 論を前提としている。そこで,修正第13条の審 議内容を検討するまえに,それ以前の理論状況 を整理し,検討しておく必要がある。
そこで本稿では,南北戦争の最中である1864 年2月8日に「すべて人は法の下に平等であ り,それゆえ人は他人に奴隷として所有される ことはなく,そして,連邦議会はこの条文を合 衆国内およびその管轄下にあるいかなる場所 において達成するためのあらゆる法律を制定 することができる(5)」という憲法修正案を議会 に提出した
Charles Sumner
連邦上院議員(マサ チューセッツ州選出)の反奴隷制論を検討する。
Sumner
を素材とする理由は3つある。1つ目の理由は,先にあげた
Sumner
の修正 案のユニークさである。実際に制定された修正 第13条の文言と比較すると,Sumner
修正案に は奴隷制が「法の下に平等」であるがゆえに禁 じられている。しかし,他の共和党員からださ れた修正案には「法の下の平等」という文言が 登場していない(6)。そして良く知られているように,「法の下の平等」は修正第13条ではなく,
1868年に制定された修正第14条で規定されてい る。すなわち現在の修正第13条審議のなかで
Sumner
案は特異なものであった。2つ目の理由は,
Sumner
を合わせ鏡とする ことで,他の反奴隷制論者の主張の意味を明 らかにすることができるからである。反奴隷 制論者としてのSumner
について,これまでい くつかの先行研究が光を当ててきた。なかで も,Ann-Marie Taylor
による研究は示唆に富ん でいる。Taylor
は,Sumner
が連邦上院議員にな るまでの時期に主に焦点をあて,彼がギャリソ ン派を理解し,急進的立憲主義者に分類されるLysander Spooner
の主張に親近感を抱きながら も政治システムを通じて奴隷制廃止を目指した と分析している[Taylor
2001:
202]。このよう に評価されるSumner
は,各反奴隷制論者を比 較するために有用な素材となりうる。3つ目の理由は,
Sumner
とChase
の政治的 な結びつきの強さである。後に述べるように,Sumner
は,Chase
が中心となって立ち上げた自由土地党(
Free Soil Party
)に参加し,共和 党が結成されると両者ともこれに参加してい る。また,Sumner
がChase
の反奴隷制論を高 く評価していたという指摘もある[Foner
1995:
82]。このことから,Sumner
の反奴隷制論を通 じて,共和党の理論的土台を作ったと評価され るChase
(7)と有用な合わせ鏡となりうる。これら3つの理由の根底にあるのは,各論者 の政治的立場決定を明らかにするための補助線 をただ単に引こうとするだけではない。むし ろ,各論者の反奴隷制論の根拠を合衆国憲法と の関係で明らかにしようとするものである。こ の分析を進めるにあたって,本稿では人間所有
の不当性,州内の奴隷制を廃止する連邦政府権 限,そして自由労働観念という3つの観点を設 定する。
1.CharlesSumner
1.1 出生から Harvard 大学時代
Sumner
は1811年1月6日にマサチューセッツ州ボストンで生まれた(8)。彼の父親
Charles Pinckney Sumner
は,Harvard
大学を卒業後に弁 護士として生計を立てていたが,その収入は 決して多いものではなかった。実際にPinckney
一家が住んでいたのは,ボストン市内でも あまり裕福な人々が住む地区ではなかった。Sumner
は,読み書きを伯母の私塾で習い,本を読むことに興味を持ち,ラテン語を独学する ようになった。
Sumner
が10歳のとき,父親のPinckney
は彼をBoston Latin School
へ入学させる。
Sumner
はこの学校へ5年間通い,ラテン語で書かれた古典を読むこととなる(9)。 家計が苦しかったことから,
Pinckney
は当初Sumner
をCollege
へ進学させる予定ではなかっ た。しかし,1826年にPinckney
がSuffolk
郡の保 安官に任命され,経済的にすこし余裕がうま れた。そのため,Sumner
は同年9月に父親の 出身校であるHarvard College
に入学することが できた。Harvard College
時代のSumner
は,文 学,芸術,道徳哲学などに興味を持ち勉学に 励んでいた。そしてSumner
は1830年にHarvard University
を卒業した。[Taylor
2001:
29-
37]1.2 法学研究者としての Sumner
大 学 卒 業 後 の1830年 秋,
Sumner
は, 父 と 同じく弁護士になろうと志してHarvard Law School
に入学する(10)。Sumner
が同ロー・スクールへ入学したことは,彼の後の人生において重 要な意味をもつ[
Marzen
2010:
613]。なぜならば,
Sumner
が入学する前年に当時合衆国最高裁判事であった
Joseph Story
が同校のDane
講座 の教授に着任しており,彼の指導の下で法学研 究をする機会を得たからである。
Story
は,個々の判例ではなく,法の歴史や哲学を講義のなかで強調していた(11)。実際に,
Story
が1833年に公刊したCommentaries on the Constitution of the United States
では歴史的 記述に多くの分量が割かれている(12)。
Story
の下で法学を学んだSumner
は,ロー・スクール卒業後の1834年にワシントンへ政治の 舞台を見学しに行く。反奴隷制論との関わりで 重要なのは
Sumner
がこの旅行中に奴隷州であ るメリーランド州を通過し,そこで奴隷制を 目の当たりにしたことであった[Donald
1970:
29]。この旅行をきっかけとして,Sumner
は奴 隷制に関して調べるようになる。もちろん,当 時Garrison
がボストンでthe Liberator
を発行 しており,Sumner
もこの新聞を目にしてはい た。さらに,1835年にボストンでGarrison
が暴 徒に襲撃される事件が発生した。Sumner
の父親
Pinckney
は,当時保安官を勤めており,この事件へ対応した。そして,
Garrison
はPinckney
の対応が紳士的であったとして彼へ感謝し,両 者の間に交流が生まれた(13)。ただし,Sumner
自身は
Garrison
と親しくしていたわけではない。[
Taylor
2001:
57-
77]ワシントンへの旅行から帰ってくると,その 後約3年間に渡って
Sumner
は弁護士として活 動しはじめる。加えて,Sumner
はthe North
American Review
などの雑誌に法律記事を寄せたり,連邦巡回裁判所の記録係(
reporter
)に任命されたり,
Harvard Law School
で主に証 拠法(the Law of Evidence
)の講師を勤めたり 弁護士活動以外にも多忙な日々を送っていた。[
Taylor
2001:
54-
74]1.3 ヨーロッパへ
1837年に
Sumner
は,学問を修めて見聞を広 めるために,ヨーロッパへ旅立つ。11月25日に ボストンを出発し,ニューヨーク経由で12月下 旬にフランスのLe Havre
へ到着した。到着し たその日にSumner
は市場で女性が重労働をし ているのを目の当たりにし,アメリカとフラン スの根本的な差異を感じた。その後Sumner
は,1840年5月にボストンに帰るまで,イギリスと イタリアに足を運んだ。[
Taylor
2001:
88-
125]奴隷制との関係では,
Sumner
がフランスで 人種平等を実際に「体験」してきたことは注目 に値する。なぜならば,後にSumner
が平等に ついて語る際,「フランスでは有色人種の若者 が大学で最も高い名誉をうけ,そしてあたかも 彼らが白人であるかのように歓迎されていた。ロースクールでも私は彼ら有色人種と同じ椅子 に座っていた」というエピソードが登場してい るからである[
Complete vol.
1:
161]。1.4 反奴隷制論者として
Sumner
は,ボストンに戻りしばらくしてから,弁護士としての活動を再開する。そして,
ボ ス ト ン 市 の 教 育 委 員 会(
school committee
) の委員などを勤めていた。1845年ボストンで 開かれた反奴隷制集会にSumner
は参加する。Sumner
にとってこの時が公の反奴隷制集会に参加したおそらく最初の時であった。この集会
では
Garrison
が主張していた北部連邦離脱論がテーマであったが,
Sumner
はこれに不賛成で あった。そして,Sumner
は,多様な反奴隷制 論の共有可能な原理について考えるようにな る。[Taylor
2001:
167-
175]
Sumner
の反奴隷制思想について,反奴隷制論者であった父親
Pinckney
の影響で彼が自然 と反奴隷制的感情を有していたことが指摘さ れている[Taylor
2001:
74]。また,ボストンでGarrison
が反奴隷制新聞であるthe Liberator
を発刊しているが,Garrison
の扇動的な言葉づかいに
Sumner
は好意的な印象はもっていなかった[
Donald
1981:
111]。これら父親やGarrison
がSumner
に与えた影響の程度につい ては推測の域を出ておらず,Sumner
自身の言 葉を検討する必要がある。
Sumner
にとって転機となったのは,1845年の独立記念日の式典における
The True Grandeur of Nations
という演説であった[Orations vol.
1:
1-
130]。この演説を通じて,Sumner
の演説能 力の高さが評判になった。さらにSumner
自身 もこの才能に気付き,以後演説活動を活発に行 うようになる。翌年の1846年9月23日,ホイッ グ党マサチューセッツ州大会においてSumner
は,Antislavery Duties of the Whig Party
と 題 さ れた演説(以下では単にDuties
演説と記す)を 行 う[Complete vol.
1:
303-
316]。 当 時 の マ サ チューセッツ州議会ではホイッグ党が長年与党 の座についていたことから,政治的な硬直状態 にあった。そして,この硬直状態にしびれを切 らしたのが反奴隷制論者であった[田中2000
:
71-
72]。この演説でSumner
は,ホイッグ党が 関税や銀行という論点に集中するのではなく,奴隷制の廃止を党是として掲げるべきだと主張 する[
Complete vol.
1:
304-
305]。
Sumner
は,ホイッグ党のなかでも反奴隷 制論をとなえる人々―― 良心的ホイッグ党 員――のリーダーとなっていた。そして,ホ イッグ党という枠組を超えた政治的連合をSumner
は求めていた。その頃,オハイオ州では奴隷制に対して態度を明確にしないホイッグ 党に限界を感じていた
Chase
もまた新たな反奴 隷制政党を求めていた。Chase
とSumner
は手紙 でやり取りをし,Chase
が新しく自由土地党を 立ち上げた際に,Sumner
が協力することを確 認した[Taylor
2001:
246]。Chase
を中心に自由 土地党が立ち上がるとSumner
は,この動きを 賞賛する演説を行い(14),自身も自由土地党へ 参加する。1848年選挙のとき,Sumner
は自由 土地党の候補者になることができなかった(15)。 しかし,1850年選挙でSumner
はようやく連邦 上院議員に選出された[田中2000
:
83]。連邦上院議員となった
Sumner
は反奴隷制論 を議会で展開し,その結果自らが暴行事件の被 害 者 と な っ た。1856年 にSumner
がThe Crime against Kansas
(以 下 で は 単 にCrime
演 説 と 記 す)と題された演説を行った(16)。1854年のカ ンザス・ネブラスカ法は,住民主権(popular
sovereignty
)原理に基づいて,これら地域が奴隷制についてどうするかを住民の決定に委ねて いた。この住民主権の主唱者であった民主党 所属の連邦上院議員
Stephen Douglass
(イリノ イ州選出)は,南部に近いカンザス地域の住民 が奴隷制を認めるであろうと目論んでいた。と ころが,奴隷制に反対する北部の人々がカンザ ス地域に移住した結果,州憲法で奴隷制を認め るか否かを巡って奴隷制反対派と奴隷制擁護派 が激しく対立し,奴隷制を認めないトピーカ憲 法がまず採択された。その約2年後には,逆に奴隷制を認めるルコンプトン憲法が採択される という大混乱を招いた(17)。
Sumner
は,Crime
演説のなかでDouglass
と同じく連邦上院議員Andrew Butler
(サウスカロライナ州選出)をこのような混乱の元凶として,サンチョ・パン サとドン・キホーテに例えて,激しく非難し た(18)。この演説の3日後,
Butler
の親戚の連邦 下院議員Preston S. Brooks
は,Sumner
の頭部を 杖の持ち手で激しく殴りつけた。Sumner
はこ の時に重傷を負い,1859年12月まで上院を欠席 せざるを得なくなった(19)。
Sumner
は奴隷制に反対すること以外にも,人種間の平等についても主張していた。それが 実際に表れているのは,ボストン市の公立学校 における人種別学制度が問題となった
Sarah C.
Roberts v. City of Boston
(1850)である(20)。この事件で
Sumner
は原告の弁護人として,法の下の平等を定めるマサチューセッツ州憲法下にお いて,このような制度は許されないと主張し た。1837年 の
Matilda v. Larkin Lawrence
事 件 を はじめとする逃亡奴隷事件で逃亡奴隷側の弁護 人をつとめたChase
と比較すると,Sumner
が携 わったこの事件の性質はずいぶん異なっている[小池
2012
b:
232-
235]。この差には単純に地 理的な原因を考えることができる。Chase
がオ ハイオ州のCincinnati
という奴隷州(ケンタッ キー州)との境の地で活動した一方,Sumner
が活動したボストンは奴隷州から離れていた。そのため,
Sumner
よりもChase
の方が逃亡奴隷 事件は身近な問題であった。ただ,Sumner
がRoberts
事件で人種間の平等を訴えた際,彼自身がヨーロッパでこの平等を体験してきたとい うことも大きな要因でもあった。
2.Sumner の反奴隷制論 2.1 独立宣言と奴隷制
アンテ・ベラム期の反奴隷制論者の多くが 独立宣言を反奴隷制的文書として認識してい た(21)。
Sumner
もその例に漏れない(22)。しかし,独立宣言の「すべて人は平等に造られ,生命,
自由及び幸福追求を含む,一定の奪われること のない権利を創造主によって,与えられてい る」という「自明の真理」から導き出される人 種間の平等に関わる結論については差がある。
Garrison
の場合,独立宣言の諸原理を足がかりとしながら,有色人種にたいしても白人と同 様に登用・経済的向上・向学の道が開かれな くてはならないと論じる[アメリカ学会
1953
:
487-
488]。Sumner
の 主 張 はGarrison
の 立 場 に 近い。Duties
演説においてSumner
は,独立宣 言で「自明の真理」が自由という肝要(vital
) な真理,特に「すべて人は平等に造られ」たと いう偉大(great
)な真理を具体的に表現したも のであると論じる[Complete vol.
1:
305]。平等 という観点を強調するSumner
の主張は,人種 間の平等を前提としている。この演説の前年,Sumner
はマサチューセッツ州New Bedford
で活 動する団体から講演を依頼された。しかし,こ の団体が有色人種にメンバーシップ及び講演 会のチケット販売を拒否していることを知っ たSumner
は, こ の 団 体 に 対 し てEqual Rights in the Lecture-Room
と題された手紙を送って い る[Complete vol.
1:
160-
162]。 こ の 手 紙 の中で
Sumner
は,自由にかんする極めて重要(
cardinal
)な真理が平等であり,肌の色による差別を批判しているからである[
Complete vol.
1
:
161]。その一方で,Sumner
がこの手紙を書いた45年に
Chase
が行ったTo The People of The United States
演説(以下では単にTo The People
演説と記す)では,平等それ自体を否定しては いないが,人種間の平等を訴える部分は確認で きない(23)。また,独立宣言の起草者と合衆国憲法の起草 者との間で奴隷制にかんする考え方の連続性を 巡っては対立があった。そしてこの論点は,合 衆国憲法が奴隷制を認めているか否かの立場決 定に影響を及ぼしている。
Garrison
やPhillips
は, 独 立 宣 言 で「自 明 の 真理」を謳い上げた人々が妥協した結果,合衆 国憲法が出来上がったという見方を提示してい る。つまり,独立宣言と合衆国憲法では奴隷制 にかんする考え方が連続していないと彼らは 捉えていた[小池2011
:
138-
139]。その一方でChase
は,合衆国憲法の起草者たちは独立宣言で謳い上げた自由をもとに,連邦レベルで奴隷 制問題を回避するような工夫をした結果,合衆 国憲法が制定されたのだと捉えている[
Chase
1847:
39-
40]。つまりChase
のなかでは,独立 宣言と合衆国憲法で奴隷制にかんする考え方は 連続したものである。
Sumner
は,1848年6月にマサチューセッツ州で行った演説(24)で,建国時に奴隷制につい て穏健的な形で留保されていたと述べる。そ して
Sumner
は,時代を経て奴隷主権力(Slave
Power
)――奴隷制の永続と拡大,奴隷主の地位向上に駆り立てられた人々と政治家のコンビ ネーション――が合衆国政府を牛耳ったこと によって,その留保が崩されてしまい,合衆国 政府が公然と奴隷制を支持してしまったと述べ る(25)[
Complete vol.
2:
226-
232]。Garrison
の立 場からするとこの穏健的な留保こそが奴隷制との妥協であると評価されるだろう。しかし
Sumner
は,この留保こそ憲法起草者たちが奴隷制を認めていなかったことの表れであると捉 える[
Complete vol.
2:
231]。
Sumner
はBarbarism of Slavery
と 題 さ れ た 演 説において,合衆国憲法が奴隷制を認めてい るという親奴隷制論者の主張に対して,合衆 国憲法が制定される以前の2つの国家的宣言(
national declaration
)を引き合いに出して批判 する。その1つが独立宣言であった(26)。そして,
Sumner
による独立宣言への依拠の仕方は,合衆国憲法を解釈するときに1つの参考とすべ き建国者たちの意図を表したものであった(27)。 それが可能なのは,独立宣言の起草者も合衆国 憲法の起草者も同じ哲学の下でそれらを作り上 げたとの理解を
Sumner
が踏まえていたからで あった。独立宣言と合衆国憲法の起草者たちの意 図を巡るこのような対立を受けて,
Lysander
Spooner
は,合衆国憲法を自然権に有利になるように解釈すべきであると述べ,その解釈の結 果として合衆国憲法が奴隷制を認めているどこ ろか,むしろ反奴隷制的文書として捉えるこ とができると主張していた[小池
2012
a:
145-
147]。Spooner
の憲法解釈方法では,理論上,独 立宣言や合衆国憲法の起草者たちの意図を考慮 する必要がない。
Sumner
は,独立宣言以外の根拠でも合衆国憲法の反奴隷制的性格を描き出している。人間 に対する財産権が合衆国憲法上認められている という言説に対しては,合衆国憲法にはそのよ うな言説を示唆する言葉は1つも無く,単なる 思い込みにすぎないと言っても過言ではないと
Sumner
は主張する。たとえば,Sumner
は,合衆国憲法第4条2節3項のいわゆる逃亡奴隷条 項について,ここでは「人(
person
)」と書か れており,「財産」――すなわち奴隷――と書 かれている訳ではないと論じる[Complete vol.
6
:
229]。さらに
Sumner
は,逃亡奴隷条項が奴隷制を示唆していないだけでなく,積極的に奴隷制 を禁じている条項であると理解する。その根 拠は,合衆国憲法案を審議した大陸会議にお いて,逃亡奴隷条項に「
servitude
」ではなく「
service
」という言葉が用いられたことである。Sumner
は,James Madison
が「servitude
」 と い う言葉を奴隷の状態と捉えていたのに対して,「
service
」は通常の自由人が行う仕事と捉えていたことを指摘する。それゆえ,この逃亡奴隷 条項は奴隷制を認めていないだけでなく,起 草者たちが意図的に奴隷制を合衆国憲法から 排除しようとしており,反奴隷制的性格がこ の条項には含まれていると
Sumner
は主張した。Spooner
は,この「service
」の意味をSumner
の ように解釈せず,「service
」という言葉が一般 的には様々な人の仕事を意味しているとして,奴隷と関連づける必然性はないと論じている
[
Spooner
1860:
45]。また,この逃亡奴隷条項 にかんするSumner
の解釈は,Chase
と共通している。
Chase
も逃亡奴隷法の憲法適合性が問題となった1847年の
Van Zandt
事件における弁論 で既にこの言葉の使い分けを根拠に,逃亡奴隷 条項が奴隷制を想定していない条項であると論 じていた[Chase
1847:
40]。2.2 州内の奴隷制に介入する連邦権限 合衆国憲法が奴隷制を禁じているとすると,
連邦政府が州内の奴隷制を廃止できるか否かが
次に問題となる。修正第13条が制定されたとい う事実を既に知っている今日の人々から見れ ば,反奴隷制論者たちが連邦議会にこのような 権限を認めていたと推測するかもしれない。し かし,反奴隷制論者の間ではこの点について対 立が確認できる。
州権を否定し,連邦議会に州内の奴隷制を廃 止する権限を認めていたのは
Spooner
である。Spooner
は,州市民権に優位する合衆国市民権を提示する。そして,奴隷制を認めていない合 衆国憲法上,奴隷であっても合衆国市民であ り,その合衆国市民には等しく合衆国憲法が保 障されていると論理を組み立てる。ここでは 明確に州権が明示的に否定されている[小池
2012
a:
230-
231]。しかし
Garrison
は,合衆国憲法上,連邦議会に州内の奴隷制を廃止する権限が存在しないこ とを承認する。
Garrison
の場合,この承認は,彼の合衆国憲法観――合衆国憲法は奴隷制を 認めている――と整合的である(28)。
Chase
も,すくなくとも建国時に既に奴隷制を認めていた州に対しては,そのような連邦議 会の権限は及ばないと考えていた。なぜなら ば,合衆国憲法上,連邦議会には奴隷制にかか わる一切の権限を与えられていないからである
[小池
2012
b:
237-
239]。Garrison
とちがって合 衆国憲法それ自体を否定しないChase
にとっ て,合衆国憲法上奴隷制が禁じられているにも かかわらず,なぜ州内の奴隷制については許 容されるのかという深刻な問題が生じている。Chase
のこのような見立てにつき,連邦法レベルで1793年逃亡奴隷法が制定されていた当時の 状況を踏まえる必要がある。特に
Chase
の場合,彼自身が逃亡奴隷法にかんする裁判で逃亡奴隷
や逃亡する奴隷を手助けした者の弁護人とし て,反奴隷制論を展開していた(29)。
Chase
が対 逃亡奴隷法という文脈のなかで奴隷制にかんす る連邦議会の権限を認めなかったことからする と,州内の奴隷制を廃止する連邦議会の権限を 認めることは困難である。実は
Sumner
もまた,対逃亡奴隷法を批判する文脈で連邦議会の権限を否定している。それ が最もよく表れているのは,1855年2月23日に 連邦上院議会で
Sumner
が行ったThe Demands of Freedom
と題された演説である(30)。ここでSumner
は,1850年逃亡奴隷法が州権にとって新たな脅威となっていると論じる[
Complete vol.
4
:
337]。Sumner
のこのような主張は,彼が連 邦議会の権限という論点に立ち入る前にこの議 論を打ち出したオハイオ選出の大切な友達――Chase
――の名前を挙げていることから,基本的には
Chase
の主張を下敷きにしたものであることが確認できる[
Complete vol.
4:
336]。2.3 人間所有の不当性
反奴隷制論者たちが考える奴隷制の要素は,
修正第13条が具体的に何を否定しようとしたの かを検討する際の素材となりうる。1860年の
Barbarism
演説でSumner
は,奴隷制の要素をい くつかあげている(31)。たとえば
Sumner
が指摘するのは,婚姻の破 壊(abrogation of marriage
)である。一夫多妻 性を認める奴隷制が婚姻の神聖さとcivil power
による契約という側面を損なうものであると 論じる[Complete vol.
6:
132-
133]。また,この要素は,
Sumner
がそれ以外の要素としてあげる,「親子関係の破壊(
abrogation of the parental
relation
)」と関連している。奴隷制において本来神聖な親子関係が奴隷主の恣意的な支配下に 置かれ,母親の腕の中から奴隷競売人のハン マーの下に置かれ,無に帰され(
nought
)てし まうとSumner
は指摘する[Comple vol.
6:
134]。このような家族関係の破壊を奴隷制と結びつけ る見方は,
Chase
のTo the People
演説のなかで は表に出てこない。しかし,この点はGarrison
によって1833年の段階で明確に問題視されている。
Garrison
自らが起草した「反奴隷制協会大会の信条宣言(
Declaration of Sentiments of the American Anti-Slavery Society
)」 で は, 奴 隷 の 家族が奴隷主によって破壊されていることの問 題を訴えている[アメリカ学会1953
:
483-
490,
485]。
Sumner
が指摘する要素のなかには,家族関係の破壊というような一部の反奴隷制論者のな かで重視されていない要素もあるが,共通性 の高い要素もある。それは人間に対する財産 権(
property in man
)である。自然法の下で人 間は自分自身に関する生来の権利を付与されて おり,奴隷制のように人間を家畜や物として 捉えることは,この自然法を否定することで あるとSumner
は論じる(32)[Complete vol.
6:
131-
132]。Chase
は,1793年逃亡奴隷法の憲法適合 性が争われたJones v. Van Zandt
(1847)におい て(33),James Madison
が合衆国憲法のもとで人 間=財産という定式が成り立たないという発言 を引き合いに出し,奴隷=財産という定式を否 定していた(34)。またSpooner
は,奴隷制の本質 を「人間が財産として所有されている」こと であるとストレートに表現している[Spooner
1860:
69]。さらにGarrison
も,さきにあげた「反奴隷制協会大会の信条宣言」において,奴 隷を無償解放すべきだと主張するなかで,人間
を所有する観念を明確に否定する[アメリカ学 会
1953
:
488]。すなわち,人間が財産として所 有されていることは,反奴隷制論者たちの間で は共通性の高い奴隷制の要素であった。2.4 自由労働観念
Sumner
はBarbarism
演 説 に お い て, あ る 者 の「労働の成果すべてを横領すること(the appropriation of the toil
)」を奴隷制の要素とし ても指摘する。この要素はSumner
のなかで重 要な位置を占めている。なぜならばSumner
は,奴隷制の諸要素が自分たちの仲間を報酬無しに 働かせるという単一の目的のために用いられて いると捉えているからである[
Complete vol.
6:
137]。また,Sumner
がこの演説で奴隷制が引 き起こす現実的結果を明らかにする時に,自由労働(
free labor
)の価値の低下が生じているとも述べる[
Complete vol.
6:
142]。これは,
Eric Foner
が共和党の中核的イデ オロギーとして描き出した自由労働観念をSumner
も共有していたことを示唆している。この自由労働観念とは,「単に労働に対する態 度だけでなく,アンテ・ベラム期の北部社会 を正当化するもの」であり,労働者が自己の 労働の適正な対価を得ることの重要性を意識 したものであった(35)。少なくとも自然法の下 でこのような権利が存在していることは,他 の反奴隷制論者の主張にも確認できる。たと
えば
Garrison
は,いかなる人にも「労働の成果を取得する権利」があると述べる[アメリカ 学会
1953
:
478;
486]。また,Spooner
の場合も,自然的正義(
natural justice
)のもとで労働によ る財産獲得が保障されていると考えられていた[
Spooner
1860:
6;
小池2012
a:
148-
149]。さらにChase
も,自らが考えた自由土地党の標語「Free soil, Free labor, and Free Men
(36)」からも明らか なように,自由労働観念を有していた。ただし,
Chase
とSumner
が共に共和党で活 動したことを踏まえると,両者の間でこの自由 労働観念がどのように構想されていたのか立ち 入って検討する必要がある。そこで,奴隷制か ら生じる実害についてそれぞれ論じている部分 を比較してみたい。Chase
は,奴隷制が労働の 価値をおとしめていると論じる。そしてこの 部分でChase
が指摘するのは,free laborer
の労 働の価値低下であった[Chase/Cleveland
1867:
116]。つまりChase
は,奴隷州で奴隷を所有し ていない白人,特に貧しい白人の労働の価値低 下を問題視している。Sumner
もまた,奴隷主 が労働を拒否する奴隷制が存在する所では,白 人労働者が不平等な状態に置かれることを問 題視している。しかしSumner
の語り口は,「黒 人たちにとって絶望が存在しているだけでな く」と訴えかえるものであった[Complete vol.
6
:
143]。つまり両者とも,自由労働観念を打ち 出すことによって,奴隷労働によって労働の尊 厳それ自体が傷つけられていることを主張し ている。しかし誰の尊厳かという点について,Chase
よりもSumner
の方が広い射程を明示するものであった。
むすびにかえて
Sumner
がBarbarism
演説を行ってから約5ヶ 月後,共和党のAbraham Lincoln
が合衆国大統 領に当選した。これを機に,南部諸州が合衆国 から脱退し始め,南部連合国が結成される。そして,
Lincoln
が当選した約5ヶ月後には南北戦争が勃発することとなる。
この南北戦争下で
Lincoln
が奴隷解放予備宣 言及び奴隷解放宣言を出したことは良く知ら れている。しかしこれら宣言は,あくまでも 大統領権限に基づくものであり,永続的な奴 隷制廃止を保障するものではなかった[Kyvig
1996:
157]。そのため,連邦議会では奴隷制問 題に関係する連邦法,そして憲法修正案につい て様々な議論が交わされた。これら議論において,
Sumner
をはじめとする反奴隷制論者たちが以前の主張をどのように発展させながら展開 していったのか。特にアンテ・ベラム期におけ る自由労働や州権理論を巡る議論がどのような 発展を遂げるのかについては,今後の課題とし たい。
〔投稿受理日2013. 5. 25 /掲載決定日2013. 6. 27〕
注
⑴ さしあたり[田中 1968: 424-442]参照。
⑵ たとえば[Finkelman 1999: 427-433; Chemerinsky 2006: 690-691; 小池 2012b: 229-231]参照。
⑶ [Wiecek 1977: 15-16]Wiecekの区分につき[小 池 2012b: 230]参照。
⑷ [Vorenberg 2001: 3]。なお,このVorenbergの見 方を紹介するものとして[朝立 2010: 106]参照。
⑸ Cong. Globe, 38th Cong., 1st Sess. 521.
⑹ 他 の 共 和 党 員 か ら 出 さ れ た 修 正 案 に つ い て
[Zietlow 2012: 101]参照。
⑺ [Foner 1995: 75; 小池 2012b: 231]。
⑻ ちなみに,Garrisonは1805年にマサチューセッツ 州ニューベリーポートで,Spoonerは1808年に同州 Atholで,Phillipsは1811年に同州ボストンでそれ ぞれ生まれている。また,Chaseは1808年にニュー ハンプシャー州で生まれている。特にPhillipsは,
Sumnerと同じBostonで生まれ,後述するように
Boston Latin School,Harvard College,Harvard Law
SchoolとSumnerと同じ学校へ通うこととなる。た
だし,Phillipsは裕福な家庭で生まれ育ったため,
Law School時代までSumnerと親しい交流はなかっ
た[Taylor 2001: 27]。
⑼ Sumnerのライフ・ヒストリーにかんして,これ までいくつかの研究・伝記が存在している。比較 的古いものとして[Donald 1970; Donald 1981]を あげることができる。比較的最近のものとして
[Blue 1994] や[Taylor 2001; Marzen 2010] を あ げることができる。DonaldやBlueによる研究が
Sumnerの一生を描き出しているのに対し,Taylor
はSumnerが上院議員になるまでをそれまでの研究
を踏まえて詳細に検討している。
⑽ 1817年に創設されたHarvard Law Schoolは,今 日のような巨大な組織ではなく,Sumnerが入学し た1830年の学生数は24名の比較的コンパクトな組 織であったと言われている[田中 1968: 277-280]。
⑾ [Taylor 2001: 51]。なお田中英夫は,Storyの講 義が「基礎法学的な科目は……いっさい省略され」
たと紹介している。ただし,この紹介はあくまで
もStoryの理念的なものであって実際の講義とは
「若干の食い違いがあるように思われる」と留保が ふされ,実際に行われていた講義について述べる ものではない[田中 1968: 279]。
⑿ 同書はSumnerがStoryの下で学んでいたときに 書かれている[Taylor 2001: 51]。
⒀ Garrisonが暴徒に襲われたいわゆるBoston Mob につき[Garrison W./Garrison F. vol. 1: 468-522, vol. 2: 1-72]参照。また,Pinckneyに対するGarrisonの感 謝の言葉につき[Garrison W./Garrison F. vol. 2: 29]
⒁ Parties, and Importance of a Free-Soil Organization
[Complete vol. 2: 299-315]及び,Appeal for the Free-Soil Party[Complete vol. 2: 316-319]参照。
⒂ ちなみに,このときオハイオ州ではChaseが自 由土地党所属の連邦上院議員に選ばれている。
⒃ Cong. Globe, 34th Cong. 1st Sess., Appendix, 529- 544.
⒄ このいわゆる「流血のカンザス」事件について
[甲斐 2013: 129-134]参照。
⒅ Cong. Globe, 34th Cong. 1st Sess., Appendix, 531.
⒆ Sumner暴行事件については様々な先行研究で
紹介されているがさしあたり[藤原 1960: 487; McCormick 2007: 1519-1521]参照。
⒇ 59 Mass. 198. 当該事件につき[Wiecek 2007: 241]
参照。なお,マサチューセッツ州では1855年に公 立学校における人種別学を禁じる州法が制定され た。これは奴隷制廃止論者たちによる勝利であっ た[フォーナー 2008: 128]。
� この点を指摘する先行研究は多いが,さしあた り[Tsesis 2004: 11-12]。
� [Marzen 2010: 609]。Sumnerの著作・演説集を編 纂したHoarはそのイントロダクションで,Sumner の政治的黄金律が独立宣言と合衆国憲法であり,
その合衆国憲法も独立宣言によって解釈していた と述べる[Complete vol. 1: xvii]。
� [Chase/Cleveland 1867: 73-125]。もちろんChase は「自明の真理」における平等そのものを否定し ているわけではない。
� Union among Men of All Parties against the Slave Power and the Extention of Slavery [Complete vol. 2: 226-240]。
� Sumnerは,連邦政府を奴隷主権力から解放する
ことが奴隷制に反対する人々の責務であるとする
[Complete vol. 3: 2]。
� もう1つの文書は1783年に大陸会議で採択され た「諸邦への呼びかけ(Address to the States)」で ある。
� なお,南北戦争後の再建期議会においてSumner は,憲法というものが起草者たちの考えていた原 理の具体化されたものであると述べている。合衆 国憲法は「彼ら〔起草者たち ―― 引用者註〕の再 現(transcript)」であったのである[Cong. Record, 42nd Cong., 2nd Sess. 825]。再建期におけるSumner の言説については今後の課題としたい。
� Garrisonは,1833年の段階で,連邦議会に州内
の奴隷制を廃止する権限はないことを認めている
[アメリカ学会 1953: 489]。
� Jones v. Van Zandt事件では合衆国最高裁で逃亡奴 隷法が連邦議会の権限
� [Complete vol. 4: 333-351]に収録。
� 以 下 本 文 で 取 り 上 げ る 要 素 の 他 に もSumner は,知識への門を閉じること(closing the gates of knowledge)」を奴隷制の要素としてあげている。
奴隷たちは読み書きを禁じられており,それゆえ 彼らの精神も束縛されてしまっていると述べる
[Complete vol. 6: 134]。
� 1864年に連邦上院議会でSumnerはNo property in manと題された演説を行っている。本稿の射程は アンテ・ベラム期のSumnerの言説にあるため,こ の演説はここでは扱わない。
� 46 U.S. 215.
� [Chase 1847: 81]。他にもChaseは,Birney v.
Ohio(1837)において,憲法起草者たちが人間同 士の所有関係を認めないように慎重に逃亡奴隷条 項を練り上げたと述べている。この点につき[小 池 2012b: 234]参照。また,Chaseの自由労働観念 につき[小池 2013: 152-156]参照。
� [Foner 1995: 9]辻内は,Fonerの研究をふまえて,
自由労働とは,他人のための労働ではなく,経済 的独立や自己統治などを可能にすることを意味し ていると説明する[辻内 1997: 67-91]。ただし,
Fonerが自由労働観念を曖昧な意味のまま用いてい
ることも指摘されている[辻内 1997: 18]。
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