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「ジョン・クレアの狂気」 : 自然と身体と詩的言 語

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(1)

著者 金津 和美

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 90

ページ 97‑118

発行年 2013‑01

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013265

(2)

―自然と身体と詩的言語

金 津 和 美

1 はじめに―反転する認識の歯車

 「認識の歯車が反転する (“the wheel of total recognition has been turned”

307)」。シェイマス・ヒーニー (Seamus Heaney, 1939-) はジョン・クレア (John

Clare, 1793-1864) の最良の詩の特徴をこのように指摘している。ハリネズミ

を描いたソネット (“I found a ball of grass among the hey”) を例にとって説明す るように,クレアの詩には,描かれた自然が精神の内面的風景へと転換する 瞬間,対象を凝視する視線が翻って内面へと向けられ,見つめる者が見つめ られる者へと転換される瞬間があるとヒーニーはいう。現代英詩において,

そして,特に昨今,環境意識の高まりに応えて,自然と人間との関わりを描 くことを主な関心事としている環境詩という取り組みにおいて,クレアの詩 に見られる「認識の歯車が反転する」瞬間は重要な詩的テーマを提供してい るようだ。その一例として,現代環境詩選集『アース・ソングス』(Earth Songs) に収められた作品,ディヴィット・ホワイト (David Whyte, 1955-)

「ジョン・クレアの狂気」(“John Clare’s Madness”)を見てみよう。

Northamptonshire’s deadly flat

spreads beneath the hawk.

(3)

Watching hedgerows and the muddy lanes.

Sharp eyed for winter he’s aware again

how each small movement’s plain to the eye awake

for food or touch of rain

to make his feathers start.

My pen touched paper just the same. Alert to follow

exactly what I saw. Said exactly how I speak.

Now,

Northborough’s fields hold nothing

—my house an empty shell.

Above Helpstone the hawk circles

the house that I have failed.

There is a small body caught in his claws, it cries to the hawk in fear.

(4)

I said, beat, beat, strange wings, what is won then lost

comes back with the fiercest pain. (1-27)

この詩では,詩人の視線が鷹と一体となって飛翔している。高く上空からノー サンプトンシャー州 (Northamptonshire) を見渡す鷹/詩人の視線は,やがて焦 点を一つに絞り,ノースバラ (Northborough) の村へ,さらにヘルプストン

(Helpstone) にあるクレアの生家へと降りてくる。「認識の歯車が反転する」

瞬間は,最後の二連において訪れ,詩人自身の存在が「小さな身体 (“a small body”)」となって鷹に捉えられ,連れ去られるとともに,詩人は見つめる者 から見つめられる者へと転倒する。そして,鷹と詩人との間にあって宙づり にされた視線は詩人の意識の内奥へとむかい,「勝ち取られ,そして失われ たものが,猛烈な痛みとともに戻ってくる (“what is won then lost / comes back with the fiercest pain”)」のに立ち会うのだ。

 では,ホワイトの詩において,何故,詩人は鷹と視線を一体としようと求 めるのだろうか。「小さな身体」が鷹に浚われることで,詩人は何を失い,「猛 烈な痛み」とともに何を獲得するのだろう。そして,そもそも「ジョン・ク レアの狂気」と題されたこの詩が,環境詩であるというのはどういう訳か。

ホワイトの詩は,鷹に象徴される自然,鷹に連れら去られる詩人の身体,そ して両者の関わりの中で生み出される詩的言語という,クレアの詩作品を考 察する上で注目すべき三つのテーマを提供してくれている。本論では,ホワ イトの詩が提起するこれらの問いを考察することで,クレアの詩における「認 識の歯車が反転」する瞬間を探求することを目的とする。つまり,クレアの

「狂気」の詩的本質を探り,現代の環境思想におけるその意義を検証すると ともに,現代詩が向かう方向性においてクレアの詩作品の位置付けを確認し てみたい。

(5)

2 詩人と自然―クレアの烏の詩

 鷹を自然の象徴として描いた詩人として思い出されるのは,テド・ヒュー ズ (Ted Hughes, 1930-98) であろう。「雨の中の鷹」 (“The Hawk in the Rain”) に おいて “His wings hold all creation in a weightless quiet” (l.6)と,また「憩う鷹」

(“Hawk Roosting”) では “It took the whole of Creation / To produce my foot, my each feather: / Now I hold Creation in my foot” (ll.10-12) と描写するように,

ヒューズは鷹を自然の創造性そのものとして描いた。“these two interests, capturing animals and writing poems….have been one interest” (15) と述べる ヒューズは,鷹の視線と自らの視線を一つにすることで,詩の中に鷹を捉え,

自然を捉えようと試みた。“My pen touched paper / just the same” と,ホワイト の詩においても,鷹の視線が詩を書くことに喩えられているように,クレア もヒューズと同じ詩的態度を共有していたのであろうか。詩論『詩の生まれ

るとき』(Poetry in the Making) の中でヒューズは,「動物を捉えること

(“Capturing Animals”)」の実践的一例として,村人の追撃に必死に抵抗して,

呻き,のたうち,やがて息絶える穴熊の姿を描きとったクレアの詩「あなぐ ま」(“Badger”) を挙げている。

 クレアも数多くの鳥の詩を書いたが,ヒューズとは異なり,彼の関心は鷹 のような猛禽類ではなく,むしろ鷹を恐れて姿を隠し,巣を守る小鳥たち―

ナイチンゲールやミソサザイ,キアオジといった小鳥たち―に向けられた ようだ。しかし,これらの二人の詩人はともに好んで烏を詩に描き,自然そ のものを体現する詩人の象徴とした。例えば,クレアの「ソネット―カラス」

(“The Crow”) は,ヒューズの詩集『烏』(Crow, From the Life and Songs of the

Crow) を中心に詩作された数々の烏の詩に並びうる作品として興味深い。

How peaceable it seems for lonely men To see a crow fly in the thin blue sky

(6)

Over the woods and fields, o’er level fen It speaks of villages, or cottage nigh

Behind the neighbouring woods—when March winds high Tear off the branches of the huge old oak

I love to see these chimney sweeps sail by And hear them o’er the gnarled forest croak Then sosh askew from the hid woodmans stroke That in the woods their daily labours ply I love the sooty crow, nor would provoke Its march day exercise of croaking joy I love to see it sailing to and fro

While fields, and woods and waters spread below

(The Later Poems, 1-14)

伝統的に不吉であるとして嫌われることの多い鳥であるにもかかわらず,こ の詩では烏は “peaceable” というイメージでとらえられ,肯定的な愛着をもっ て描かれている。村の家々,森,畑の中を風のように飛ぶ烏は,次第に高度 を上げて屋根の上に舞い,ついには一面を見下ろす空の高みにまで飛翔する。

ホワイトの詩において下降する鷹の飛行とは方向性が異なるが,しかし, “I love to see these chimney-sweeps sail by,” “I love the sooty crow,” “I love to see it

sailing to and fro” という表現が繰り返されるように,詩人の眼差しは常に烏

の姿を追い,烏の視線と一体となって上空に舞いあがろうとしている。

 日常的な自然の事物を間近に観察し,精緻に描こうとしたクレアの詩の中 では珍しく,このソネットには鳥瞰図的な構図が見られる。だが,こういっ た鳥瞰図的な視点を獲得するために,詩人が失わなければならないものがあ ると,この詩が示唆しているということにも気付くべきであろう。“Then sosh askew from the hid woodmans stroke / That in the woods their daily labours

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ply” というように,烏が森の中で労働にいそしむ木こりを地上に残して飛び 立つように,空高く飛翔するためには,詩人もまた人間共同体の外に身を置 かなければならない。烏が “peaceable” に見えるのは,人間共同体の周縁に ある “lonely men” にとってであり,詩人クレアがそのような存在であったこ とは間違いない。クレアを生涯に渡って苦しめた疎外感は,文学市場におい て彼の風景詩が正しく評価されなかったからばかりではない。故郷ヘルプス トンの農村にあって,農作業という肉体的営みを通してではなく,詩作とい う文学的営みを通してその自然に近づこうと試みたため,クレアは農村文化 の中心に身を置きながらも,その傍観者として故郷から隔てられ,孤立を強 いられることになった。彼の伝記には,自然に対する同じ美意識を分かち合 える友人が故郷に見出せない孤独感が繰り返し綴られている。

 人間共同体の内にもあり,かつ,外にもある存在,それが烏が象徴する詩 人の姿である。それゆえに,烏をテーマとしたクレアのもう一つの詩「カラ スが柳にとまって」(“The Crow Sat on the Willow”) では,愛の歌を歌う農夫 から距離を隔てた柳の上に烏は止まっているのである。

The crow sat on the willow tree A lifting up his wings

And glossy was his coat to see And loud the ploughman sings I love my love because I know The milkmaid she loves me

And hoarsely croaked the glossy crow Upon the willow Tree

I love my love the ploughman sung And all the field wi’ music rung

(8)

….

The crow was in love no doubt And wi’ a many things

The ploughman finished many a bout And lustily he sings

My love she is a milking maid Wi’ red and rosy cheek

O’ cotton drab her gown was made I loved her many a week

His milking maid the ploughman sung

Till all the fields around him rung (The Later Poems, 1-40)

互いに並び立ち,それぞれに歌を歌う烏と農夫の姿を描いたこの詩を,自然 と文化の二項対立的な関係を象徴し,またそこから詩が生まれる出る瞬間を 描いた作品として読むことができるかもしれない。柳の木にとまる烏は自然 を体現している。一方,「畝をひとつひとつたがやす (“turned each furrow down” 25)」農夫の労働は,自然を人間によって利用される客体的対象となし,

それゆえに人間を自然から切り離し,文化を培う者とする営みだ。このよう な自然と人間との対立した関係性を象徴するように,農夫は畑を耕しながら 恋人への愛の歌を,烏は柳の木の上でいつもの歌を (“The old crow croaked his song” 28),それぞれに歌っている。しかし,詩は次第に両者が同じ愛の 歌を共有するように導いていく。農夫の恋の歌を聴くにつれ,烏は多くのも のへの恋心を抱くようになる (“The crow was in love no doubt / And wi’ a many things”)。そして,“The ploughman finished many a bout” と,農夫がいくつも の畝を作り終えるとともに,烏がその歌声に唱和するかのように鳴き叫び,

自然の歌声が一面となって広がり,彼を包み込むのだ (“Till all the fields

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around him rung”)。

 鳥と人間との交感を描いているという点で,クレアの「カラスが柳の上に 止まって」は,ウィリアム・ワーズワス (William Wordsworth) の詩「少年が いた」(“There was a Boy”) を思い起こさせる詩である。いずれの詩も,自然 と人間との二項対立的関係が解消され,調和したところに詩が生まれ,満ち 溢れていく瞬間を主題としている。また,クレアが描く烏は,自然そのもの であり,かつ,人間に寄り添い,共感する存在でもある。それゆえにヒュー ズの『烏』詩群において,動物,子供,男,贖罪者など,変幻自在に姿を変 える烏が,自然と人間との境界をつなぐ詩/詩人を体現しているのと同じ象 徴性を,クレアの詩の中に読み取ることもできるだろう。さらに興味深いと 思われるのは,これらの詩がいずれも,詩の創造の瞬間とともに,詩人の身 体的,肉体的存在性の喪失を描いているという点である。ヒューズの烏が一 つとして同じ姿を持たないように,ワーズワスの「少年がいた」において少 年が死ななければならなかったように,詩が生まれるとき,クレアの詩の農 夫はその労働の手を止めなければならない。熱意を込めて歌う (“lustily he sings”) 農夫の愛の歌に烏が唱和するのは,農夫がその日の労働を終え,その 肉体的営みから離れた瞬間なのだ。同様に,ホワイトの詩「ジョン・クレア の狂気」においても,鷹に連れ去られる「小さな身体」が「恐怖に泣き叫ぶ (“it cries to the hawk in fear”)」一方で,詩人は鷹にそのまま高く飛翔するよう に求めている (“I said, beat, beat, strange wings”)。やはり,詩人は詩と出会う ために,自らの「身体」を犠牲にしなければならないということなのだろう か。だとすると,そのようにして喪失され,忘却されるべき「身体」とはい かなるものなのか。したがって,次にクレアの詩における身体表象に目を向 け,いかに人間の身体的,肉体的存在性が描かれているのかを考察してみた い。

(10)

3 クレアにおける自然と身体

 クレアの詩において特徴的な身体表象の一例は,風景詩「荒地」(“The

Mores”) に見出される。

Mulberry bushes where the boy would run To fill his hands with fruit—are grubbed & done

& hedgerow briars—flower lovers overjoyed Came & got flower pots—these are all destroyed

& sky bound moors in mangled garbs are left Like mighty giants of their limbs bereft

(Poems of the Middle Period, 41-46)

ここに描かれているのは,五体を満足に供えた力強い身体ではない。“mighty giants of their limbs bereft” というように,肢体をもがれたあわれな身体,も はや「身体」ではない身体のイメージである。それは囲い込みによって切り 刻まれた自然を象徴するとともに,次第に精神の平衡を失い,やがては精神 療養所で廃人となる運命を待つ詩人自身の姿とも重なる。

 精神療養所に収容された晩年のクレアは,身体的自由を奪われた身であり ながら,あるいはむしろそれゆえに自身をバイロン卿 (Lord Byron) や拳闘家 ジャック・ランダル (Jack Randall) であると信じる妄想にとりつかれた。美 しく逞しい「身体」への憧れは,自らの原点となる農民としての身体的記憶 への回帰を願うクレアの欲求の表れであったのかもしれない。農民詩人とし て自らの身体的記憶を描くことを主題としながらも,例えばロバート・バー ンズ (Robert Burns) やジェイムズ・ホッグ (James Hogg) といった先行する詩 人たちとは異なり,クレアは自らの農村文化の肉体性を直接に語る言葉を持 たなかった。農村文化の「卑俗な」 (vulgar) な主題や表現を警戒する後援者

(11)

ラドストック卿 (Admiral Lord Radstock) や,文芸作品としての「趣味」(taste) を重んじる編集者ジョン・テイラー (John Taylor) の厳しい検閲の目によって,

クレアの詩に度々手が加えられ,書き直しが求められたことは伝記研究者た ちがよく指摘するところである (Bate 197-205, Sales 30-75)。しかし,ここで はクレアが経験した支配と抑圧の関係そのものを問題としたいのではない。

興味深いのは,このように抑圧された「身体」への倒錯した執着が,クレア の詩作品にも同様に見出すことができるということだ。政治的,社会的,文 化的な次元において,自らの身体的記憶から幾重にも遠ざけられたクレアで あったが,彼は失われた「身体」の肉体的な存在性を描こうとはしなかった。

むしろクレアの関心が,「身体」の喪失そのものを語る言葉,いわば,“mighty giants of their limbs bereft” というイメージに見られるような「身体」を持た ない身体表象の創造に向かったということにこそ注目してみたい。

 「荒地」に共通する身体表象がみられる作品として,ソネット「飼い葉を やる少年」(“The Foddering Boy”) を見てみよう。

The foddering boy along the crumping snows With straw band belted legs & folded arm Hastens & on the blast that keenly blows Oft turns for breath & beats his fingers warm

& shakes the lodging snows from off his cloaths Buttoning his doublet closer from the storm

& slouching his brown beaver o’er his nose Then faces it again—& seeks the stack Within its circling fence—were hungry lows Expecting cattle making many a track About the snows—impatient for the sound When in huge fork fulls trailing at his back

(12)

He litters the sweet hay about the ground

& brawls to call the staring cattle round

(The Early Poems, 1-14)

この詩には,冬の寒さに身をかがめ,冷たい息を吐きながら,雪をかき分け て家畜に飼い葉を与える少年の動作が一つ一つ丁寧に描かれている。その精 緻な表現からは,身を切るような大気の冷たさ,寒さとの闘いの中で行われ る労働の過酷さが切々と伝わってくる。家畜に餌を与える少年の姿が,周囲 と一体となって風景に溶け込み,あたかも一枚の細密画のようである。しか し同時に,これらの精緻な描写にもかかわらず,少年の内面性や,自らの労 働について彼がどのように感じているかについては一切述べられていない

(Joshua 21)。確かに,少年が感じる寒さ,冷たさ,痛さ,重たさが鮮鋭に描

かれているが,詩的イメージとしての少年像には,肉体的な厚みが感じられ ない。

 このソネットが一枚の絵のようであるというのは,作品の構文を見てもよ くわかる。この詩は,冒頭の “The foddering boy” を主語とする一文(あるい は長い一文と最後の二行にある一文)のみによって書かれている。ところが,

“the foddering boy” という語は構文上の主語ではあるが,この長い一文の意 味を統括する中心としては働いていない。語りの視点は,主語に続く数々の 動詞(“Hastens,” “turns,” “beats,” “shakes,” “faces,” “seeks”)によって表された 少年の動作そのものに移っていき,行為の主体となる “The foddering boy” 自 身からはむしろ遠ざかっていくようだ。さらに,周囲の事物を描写する現在 分詞による動詞表現(“the crumping snows,” “circling fence,” “expecting cattle,”

“staring cattle”)が一文の中にいくつも施されていて,それぞれに意味上の主 語と動詞の関係性を持ち,それぞれに風景を構成する起点となっている。こ れらの詩文は,“the foddering boy” という主語と動詞の一貫した関係性を横 断し,取り込んでいきながら,互いに交錯しつつ,網目のような広がりを作

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り出している。つまり,この詩において,“the foddering boy” という主語は,

一連の動作の意味的主体としては立ち上がってこない。むしろ,それは数々 の動詞表現によって編み出された平面的な広がりの中に解体され,周囲の事 物と同じく情景の中に溶け込んでいく存在としてそこに置かれている。詩的 イメージとしての少年像に肉体的厚みが感じられないのはそのためだ。

 人間の存在を中心に置こうとはしないクレアの風景描写は,人間を中心に 据えない詩人の自然観の表れでもある。自然科学の客観主義と観念論的な主 観主義のいずれをも排したところに,現象学としての身体論を展開しようと 努めたのはモーリス・メルロー=ポンティ (Maurice Merleau-Ponty) であった が,ディープ・エコロジスト (deep ecologist) としてクレアの再評価を行った ジョナサン・ベイト (Jonathan Bate) もまた,メルロー=ポンティの身体論に 言及しながら,クレアの自然観を論じている。メルロー=ポンティが好んで 引用した “In a forest, I have felt many times over that it was not I who looked at the forest. Some days I felt that the trees were looking at me, were speaking to me….”

(Bate 166) という画家ポール・クレー (Paul Klee) の言葉に見られるように,

ソネット「飼い葉をやる少年」において,少年が周囲の世界を見つめる眼差 しは,世界が少年を見つめる眼差しと交錯し,溶け合うように描かれている。

主体と客体,精神と物質という二項対立においては捉えられない身体。メル ロ=ポンティの言葉を借りれば,それは空間の中や時間の中にあるのではな く,「空間や時間に住み込む」(I:235) 身体,あるいは「主観の観念と対象の 観念のこちら側にある・・・もろもろの観念や事実が生まれ出てくる原初的

地層」 (II:27) と呼ばれるものである。だとすると,クレアの詩が描き出すの

は,主体と客体の二項対立に基づく人間中心主義を遠ざけたところに見出さ れる,人と自然とが出会う原初的地層であると言えるのかもしれない。

 同様にホワイトの「ジョン・クレアの狂気」においても,鷹に連れ去られ る「小さな身体」とは,(意識として,また物体として)鷹の外部にあるが ゆえに,自然とは隔てられたものとしての人間存在を意味するのであろう。

(14)

したがって,このような「小さな身体」を失うことは,人間存在の根底を覆 してみるということであり,その試みには「恐怖」 (“it cries to the hawk in

fear”) が伴うのだ。しかし,詩人はこの恐怖を引き換えにしてこそ,人間中

心主義から解放されて,自然と触れ合う原初的地層を手に入れることができ る。そして,まさに人と自然とが出会うこの原初的地層こそが,クレアの狂 気が開く場であり,クレアの詩的言語が紡ぎだされる場であると言えるので はないだろうか。したがって,最後に,クレアの詩における詩的言語の創造 と狂気の問題を確認することで,本論を締め括りたい。

4 象徴の網を編むこと

 環境詩の最先端として活躍し続けている現代詩人の作品を集めた詩選集

『アース・ソングス』において,ホワイトの「ジョン・クレアの狂気」は「象 徴の網を編むこと (“Weaving the Symbolic Web”)」というテーマにまとめられ た詩群の一つに分類されている。この詩選集の解説が,人間を「象徴の作り 手 (“symbol-makers” 16)」と定義し,「象徴化すること (“symbolize” 16)」を「人 間の生物学的本性 (“our biological nature” 16)」であると定めるように,「象徴 の網を編むこと」という表現は,人間と自然が詩的に関わるとはどういうこ とかを比喩的に表している。

 昨今の環境思想において,人間を中心としない生態系のイメージを網目状 のものとしてとらえる傾向があるようだ(フロム 63-89)。進化論に見られる ような人間を頂点としたシステムではなく,それはあらゆる動植物,有機物 と無機物,生命体や非生命体が同時に存在し,互いに依存しつつ,網目のよ うに広がっていく生態系のイメージである。網の目のように無数の中心点を 持つ世界観。しかし,それは同時にどこにも中心のない世界であり,精神分 析学に喩えれば,一種の狂気の状態であるとティモシー・モートン (Timothy

Morton) は指摘する (28-31)。生態系の危機が強調され,地球規模で人間存在

(15)

のあり方を捉えようとすればするほど,「人間」という中心点から私たちは 遠ざかっていく。エコロジカル(環境主義的)に思考するということは,人 間存在の根底そのものに私たちの批判の眼差しを振り向けなければならない ということであろうか。それゆえにモートンは,精神療養所で自らの心神喪 失を詠ったクレアの詩「わたしは生きている」(“I Am”) を,環境詩の一つと して高く評価している。

 “I am—yet what I am, none cares or knows” (The Later Poems, 1) と,自己の喪 失を嘆く詩人は詩の最後で,人間の手が触れない原初的な自然への回帰を希 求する。

I long for scenes, where man hath never trod A place where woman never smiled or wept There to abide with my Creator, God;

And sleep as I in childhood, sweetly slept, Untroubling, and untroubled where I lie,

The grass below—above the vaulted sky. (The Later Poems, 13-18)

自然を犯すことなく,かつ,自然から遠ざけられることなく,自然の中に身 を置こうとする詩人の身体は,極めて透明で,大地や空といった周囲の事物 が突き抜け,透過していくかのようである。“The grass below—above the

vaulted sky” という最後の詩行が示しているのは,草の上,空の下という詩

人が横たわろうとする場所のことではない。この詩行が表しているのは,詩 人が背中に受ける大地の感覚,見上げる空の感覚という知覚そのものに他な らない。存在の無を詠うこの詩において,詩人の身体に刻まれた知覚的記憶 のみが,唯一,儚い詩人の存在意識を支え,詩の意味を支えている。

 心神喪失の狂気に落ち,身体に刻まれた知覚的記憶に言葉を与え,存在を 繋ぎ,詩を編み出すこと。同じテーマを扱った詩として,やはりクレアの晩

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年,精神療養所の中で書かれた詩「大きな樫の木」(“The Round Oak”) が挙 げられる。

The Apple top’t oak in the old narrow lane And the hedge row of bramble and thorn Will ne’er throw their green on my visions again As they did on that sweet dewy morn

When I went for spring pooteys and birds nest to look Down the border of bushes ayont the fair spring I gathered the palm grass close to the brook And heard the sweet birds in thorn bushes sing

(The Later Poems, 1-8)

この詩には,人間と自然の存在が融合し,調和を持って共生する理想的な情 景が描かれている。まず,第一連において,詩人はお気に入りの樫の木のそ ばで,周囲にある自然の事物に目を見張り,耳を澄ませ,手にとって触れる 感覚的主体として現れる。“I went for spring pooteys and birds nest to look,” “I gathered the palm grass close to the brook” という文章の構文を見れば,“I”(主 語)は,知覚の対象となる事物(目的語)に対して常に先行し,周囲に働き かける能動的な主体として風景の中心に立っている。しかし,第二連になる と,詩人が見つめ,感じる知覚の対象が一つ一つ挙げられ,詩文はその名称

―“The reed sparrow’s nest” (11), “the sallows” (11), “the wrens in a thorn bush”

(12), “the stickleback” (13)など―によって覆われ,満たされていく。さらに,

第三連において,“I”(主語)はもはや風景の中で優位を占める存在ではない。

“the carrion crows nest on the tree o’er the spring / I saw it in march on many a cold morn” (18-19) という一文において,目的語が主語に先行していることからも わかるように,自然の事物の存在感が強調され,詩人はその自然の存在感を

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受け入れ,包み込まれるように樫の木のそばにただ静かに身を置くのである (“I was able / To spend half a day and hear the birds sing” 23-24)。

 しかし,“The Apple top’t oak… / Will ne’er throw their green on my visions

again” と詩の冒頭で述べられるように,詩人と自然とが一体となって共生し

ているこの情景が,すでに存在しないものであるということも忘れてはなら ない。詩の最終連は,詩人が愛した風景がもはやなく,ただ夢の中の幻影と してのみ残されていると述べることで締め括られている。

But now there’s no holidays left to my choice That can bring time to sit in thy pleasures again Thy limpid brook flows and they waters rejoice And I long for that tree—but my wishes are vain All that’s left to me now I find in my dreams For fate in my fortune’s left nothing the same Sweet Apple top’t oak that grew by the stream I loved thy shade once—now I love but thy name

(The Later Poems, 25-32)

この詩は囲い込みによる自然破壊の痛ましさを描いた詩として読まれること が一般的であるようだが,樫の木を失った詩人の不幸は,ただ単に囲い込み という事実にのみ原因が求められるべきものではない。「象徴の作り手」と して「象徴化すること」を「生物学的本性」とする人間は,それゆえに文化 を培う者であり,自然に変化をもたらすことなく,自然の中に身を置くこと はできない。“fate in my fortune’s left nothing the same” と詩人が嘆く運命とは,

こういった自然の中における自らの存在の危うさのことなのだ。人間は,そ の本性ゆえに自然そのものから遠ざけられた存在である。しかし,それにも かかわらず,自然と触れ合うためには,人は言葉/詩を求めるほかはない。“I

(18)

loved thy shade once—now I loved but thy name” とこの詩を締めくくる最後の 一文が述べるように,詩人が愛した樫の木の木陰はやがて失われる運命にあ り,自然と人の存在をつなぐために,ただ言葉/詩が詩人に残されているだ けなのだ。

5 結び――ナチュラリストの死

 「象徴の網を編むこと」,すなわち詩を書くということそのものを主題とす るホワイトの詩「ジョン・クレアの狂気」において,詩人が最後に到達する のは,自然と自らの存在を刻む言葉/詩である。「勝ち取られ,そして失われ たものが,猛烈な痛みとともに戻ってくる (“what is won then lost / comes back with the fiercest pain”)」と結ばれるように,詩の言葉を獲得するために詩人は,

自然そのものからも,また自然の外に立つ身体としての自我意識からも等し く遠ざけられなければならない。つまり,詩との出会いは,自然と人間との 対立した関係性を乗り越えること,人間中心主義に偏った「認識の歯車」を 反転しようとする試みであるがゆえに,「猛烈な痛み」が伴い,「狂気」を導 くのだ。クレアの詩において「認識の歯車が反転」する瞬間,「私たちの被 造物性の鎖歯車 (“the sprockets of our creatureliness” 307)」が掴み取られるの だとヒーニーは言い添えている。ここで彼が言う「私たちの被造物性」とは,

ただ単に,人間が他の動植物と等しい自然の事物であるということではない。

おそらく,それは「象徴の作り手」という言語的存在としての人間の本性を 意味しているのであろう。クレアの詩が評価されるのは,それが「ナチュラ リストの観察 (“a naturalist’s observation” 304)」による忠実な自然描写である からではなく,むしろクレアが描く自然そのものが,精巧で完璧な芸術性を 備えた言語的産物(“an artistic achievement of rare finesse and integrity” 304) で あることを示しているためだと,ヒーニーはいう。確かに,ヒーニーにとっ て詩が生まれるときは,「ナチュラリストの死」(“Death of a Naturalist”) が訪

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れる時であったはずだ。蛙の卵をビンに入れて,自然の外に立って観察しよ うとする「ナチュラリスト」の地平は,地中に飲み込まれるように,崩れ去 り,沈み落ちていく。それとともに詩は,泥の中に入れた手が,ヌルヌルと した蛙の卵につかまれ,引きずり込まれていくような得体の知れない存在感 覚を捉える。まさにこの瞬間こそが,二項対立する関係性が形作られる手前 で,人と自然が触れ合う原初的地層へと立ち返る瞬間,自然の中で言葉を紡 ぐ者として「私たちの被造物性」が開示される瞬間なのだろう。昨今の環境 批評は,詩が地球を救うかどうかという問いを取り上げている (Felstiner)。 クレアの詩が,その問いに是と答えるか,非と答えるかはわからない。しか し,確かなことは,クレアの詩が,現代においても尚,私たちを人と自然と の出会いの原点へと立ち戻るよう促し続けているということである。

* 本論は,イギリス・ロマン派学会第38回全国大会(2012年10月 於 熊本 大学)での発表原稿を加筆・修正したものである。

参考文献

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Green Books, 2002.

Abram, David. The Spell of the Sensuous: Perception and Language in a More-Than-Human World. New York: Vintage Books, 1997.

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Synopsis

“John Clare’s Madness”: Nature, Body and Poetry

Kazumi Kanatsu

“[T]he poems of Clare’s that still make a catch in the breath,” argues Seamus Heaney, “are those in which the wheel of total recognition has been turned” (307). In “John Clare’s Prog,” a prose work based on his bi- centenary lecture for John Clare, Heaney explains that the attraction of Clare’s poems for modern readers lies in the intuitive moment when “the eye of writing” (304) turns from “what is before it” to “what is behind it”

(307). The turning “wheel of total recognition” is also the poetical experience that eco-poetry endeavors to represent; eco-poetry being defined as a style that responds to twentieth-century ecological thoughts and is deeply concerned with describing the precarious relationship between human beings and the natural world. The aim of this paper is to elucidate an ecological thought in Clare’s poems and, in particular, their significance for the eco-poetry genre, through a comparative reading of Clare’s works with David Whyte’s “John Clare’s Madness,” itself a notable example of eco- poetry.

First, this paper analyzes the corresponding imagery between birds’ vision and that of the poet, in both Clare’s and Whyte’s poems. In Whyte’s “John Clare’s Madness,” a hawk, flying over Clare’s hometown, Helpstone, shares his vision with the poet and together they create the poem. Likewise, in his sonnet on a crow, Clare describes the bird flying over his hometown, and the poet expresses his desire to take flight and follow its path. In another of his

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poems, entitled “The Crow Sat on the Willow,” Clare again uses the crow to symbolize the relationship between the poet (Culture) and the natural world (Nature), showing how poetic imagination comes into being.

Second, this paper explores bodily imagery in Clare’s and Whyte’s poems.

In “John Clare’s Madness,” the hawk, a symbol of poetic imagination, descends on the house in which the poet used to live and takes hold of “a small body” while in flight. The consequent absence of the body invites the poet to rediscover “what is won, then lost.” The bodily imagery in Clare’s poems similarly represents the absence of physical existence. Examination of Clare’s sonnet, “The Foddering Boy,” suggests that the description of daily labor in a rural landscape, in which the working boy as a poetic image is deprived of its organic unity, reflects Clare’s anti-anthropocentric view of nature.

Finally, this paper concludes with discussing the interplay between Clare’s mental illness and the consideration of man’s role in the natural world, both in his own, and in Whyte’s poem. Whyte’s “John Clare’s Madness” appears in an anthology of contemporary eco-poems, Earth Songs, within a section entitled “Weaving a Symbolic Web.” This section heading is a metaphor for a role of human beings as “symbol-makers”(19) in the natural world, whose biological nature is “to make, to play, to symbolize” (16). Clare’s later poem such as “The Round Oak,” written in a lunatic asylum, suggests the fragility of the relationship between human beings and the natural world. Humans are destined to discover themselves outside Nature, through their use of language. Our sustained existence within the natural world, however, is also made possible through reliance on language. Clare’s mental instability also reveals “our creatureliness,” or in other words, our biological nature as a symbol-maker, which compels us to

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reflect on what it means to dwell within the natural world.

参照

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