真の信仰共同体をめざした人々
宗教改革期における教会形成の多様性と葛藤
1Seeking the True Church:
The Multiformity of Church Development and the Ensuing Conflict during the Reformation
村上 みか
Mika Murakami
キーワード
宗教改革 教会論 ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、ミュンツァー、再洗礼派
KEY WORDS
Reformation, Ecclesiology, Luther, Calvin, Zwingli, Müntzer, Anabaptist
要旨
宗教改革は決して統一的な運動ではなく、その展開の中で諸派、諸グループを生み 出し、それらを通じて多様な教会形成のあり方を提出した。本稿は、宗教改革におい て影響力をもった改革者とグループを取り上げ、その教会論と教会形成について考察 を行う。具体的には宗教改革主流派のルター、ツヴィングリ、カルヴァン、そして急 進派のミュンツァー、再洗礼派を考察の対象とし、その教会論や教会形成の内容とそ の多様性を明らかにする。同時に、いずれの教会形成のあり方も、聖書に基づき、時 代状況に規定されつつ、模索する中で形成されたものであったこと、そしていずれの あり方も完成されたものではなかったことが確認されるだろう。このような歴史的考 察の結果、宗教改革の遺産は、伝統的な教会制度をそのまま無批判に受け継ぐことに あるのではなく、混乱の中にあって聖書に基づいた教会形成を試みた宗教改革者たち の姿勢そのものであることが示されるだろう。
SUMMARY
The Reformation cannot reasonably be considered to have been a uniform movement.
Indeed, a careful look at any of the churches and groups to which the Reformation gave birth evinces a multiformity of ways in which churches developed during the period.
The individual Reformers and various groups that were influential during the Reformation include, on the one hand, Luther, Calvin, and Zwingli (the Reformation mainstream) and, on the other hand, Müntzer and the Anabaptists (the Radical Reformation). This study attempts to illuminate the diversity exhibited by the views of these figures and groups through evaluating their understandings of ecclesiology and church formation. The study clearly shows that all of these views were historically conditioned and developed as part of an effort to build the church on the basis of the Bible. For these reasons, these views remain incomplete in their formulations. Taking an historical approach to her evaluation, the author shows that the true heritage of the Reformation is not its traditional ecclesiology and church system but, rather, the attitudes of its reforming figures and groups who, in the maelstrom of the period, strove to build the church on the basis of the Bible.
はじめに
本稿は、宗教改革期の教会論、および教会形成の問題を取り上げる。プロテスタン ト教会は周知のように多様な教会制度をもつ。監督制、長老制、会衆主義など、それ ぞれの教会が固有の教会制度を発展させ、今日も各教派において、その伝統的な教会 制度が受け継がれている。そして残念なことに、その教会制度の違いにより、教派間 の対話が成り立ちにくく、時には対立する現実が日本の教会にも存在する。そのよう な中で、そもそも教会制度とは何であるのかを問い、それについて考察することは神 学的にきわめて重要な課題である。この問題に対して歴史神学がなしうることは―特 に宗教改革研究がなしうる貢献は―、プロテスタント教会の原点である宗教改革運動 の中で、どのようにして新しいプロテスタント教会と教会制度が生まれたのか、それ を改めて見直し、考察することである。多くのキリスト者も、そしておそらく多くの 教職者や神学生も、プロテスタント教会とカトリック教会の制度の違いは知っていて も、なぜそのような違いが生まれたのか、なぜこのようなプロテスタント教会の制度 が生まれたのか、案外知らないのではないだろうか。ローマ教会のヒエラルキー制 度、教皇制度に対して、プロテスタント教会が全信徒祭司論や信仰共同体論を提出し たことは知っていても、それが制度としてどのように実現されたのか、十分には知ら
れていないだろう。これから見ていくように、プロテスタント教会は理念的な教会論 を掲げただけでなく、私たちが思っている以上に、現実に影響を受けながら、そして 現実に妥協しながら、教会形成を行っていった。そしてその教会形成のあり方は、す でにこの宗教改革期に多様なあり方をとって現れてきており、その相違による対立が 見られるのである。本稿は、プロテスタント教会の形成期に、当時のキリスト者たち が作ろうとした教会がどのようなものであったのかを明らかにし、そのためになされ た努力と葛藤を検証し、その歴史的意義について考察を行うものである。
順序としては、まず宗教改革主流派のルター、ツヴィングリ、カルヴァンを取り上 げ、その後、急進派のミュンツァーと再洗礼派―特にスイス兄弟団とメルキオール・
ホフマン―を取り上げ、彼らの教会論と教会形成のあり方について考察を行う。その 際、プロテスタント教会の教会論の基礎となるルターのそれについて、より詳細な検 討を行うことになる。
Ⅰ 宗教改革主流派
1.ルターの教会論と教会形成
(1)新しい宗教改革的神学―信仰義認論―の形成
最初に確認しておきたいことは、宗教改革を引き起こす契機となったのは「救い」
の問題であり、教会制度は副次的な問題であったことである。この救いの問題に取り 組む中で、ルター独自の神学が形成され、さらにそこから新しい教会論が形成されて ゆく。以下、その歴史的、神学的展開を確認しておきたい。
ルターはもともとローマ・カトリック教会の修道士であったが、彼が修道士になっ た背景には、当時のローマ教会の神学と実践が背景にあった。すなわち、良い行いを し、功績を積むことによって救われるとする行為義認論である。そして厳しい禁欲生 活を課される修道士はもっとも救われる可能性が高く、天国に至る道にあると理解さ れていたのである。しかしルターは修道士になっても、自分が救われているという確 信を持てず、苦悩する。表面的には厳しい禁欲生活を行い、修道士として立派に生活 していても、聖書の教えるように、十分に悔いていない、十分に神を愛していない、
十分に隣人を愛していない、と悩み、救いのための条件を満たせていない自分は地獄 に落ちるのではないかと深い絶望へと陥る。それは「狂気、激怒、精神錯乱にまで なった」と後に彼自身が告白するほどであった2。
その間、ルターは学位を取得してヴィッテンベルク大学の教授となり(1512年)、
聖書との取り組みを始める。彼の聖書講義は「詩編講義」(1513–15年)に始まり、
「ローマ書講義」(1515/16年)、「ガラテヤ書講義」(1516/1517年)、「ヘブル書講義」
(1517/1518年)と続く。そして聖書研究を行う中で、聖書の言葉により、彼はこの 絶望から救われることになる。
・信仰義認論の形成
聖書との取り組みを通じて、特にパウロを通じて、ルターは当時のローマ教会が教 えていたように、救いは良い行い、功績を通じて与えられるのでなく、人は信仰に よって義とされ、救われるのだとする「信仰義認論」を自らのものとする。このこと が、深い苦悩に陥っていた彼を救い、これこそが聖書の福音である、とルターは確信 するに至る。「ローマ書講義」では、人間の罪(すなわち、人はすべてにおいて自己 を求め、神から離れるということ)が徹底して語られ、そのような人間は自ら義を行 うことによっては義となりえないとされ、義と恵みの受動性、そして信仰の意義が強 調され、ここから行為義認論(功績)への批判が行われることになる3。この「信仰 義認論」に基づいて、行為義認論に基づく贖宥符を批判したのが1517年の「95箇条の 提題」であり、ここから宗教改革が始まり、ローマ教会との対立、分裂が生じてゆく のである。
以上のことから、ルターにとって問題であったのは「救い」に関することがらであ り、「ローマ教会」やその制度の問題でなかったことが確認されるだろう。ルターは 1517年の「95箇条の提題」が出される前に、つまりローマ教会と対立する前に、すで に彼独自の神学―信仰義認論―を形成しつつあったのである。この点、よく誤解され るところであるが、宗教改革の始まりは「制度」の問題でなく、「救い」の問題で あったことを、まず確認しておきたい。
(2)教会論の形成 : 信仰義認論の展開
ⅰ)初期:新しい教会理解の形成とローマ教会への信頼
・「神の言葉を告知する教会」
しかし、さらに興味深いのは、この「信仰義認論」に基づいて、のちのプロテスタ ント教会の基礎となる新しい教会理解がすでにルターの初期に―つまり宗教改革が起 こる1517年以前に―形成されていたことである。1515/16年の『ローマ書講義』にお いて、ルターは上述の「信仰義認論」の内容、つまり「罪」や「義認」の問題が人々 に教えられなければならないと述べ、ここから「説教する教会」という理解が現れて くる。すなわち「声と言葉」によって、罪を明らかにし、また罪を赦し、救いへと導 く恵み、福音が語られねばならない、というのである4。このようにして、救いを約 束する「神の言葉の告知」を教会の中心的課題とする理解が、ルターの新しい神学―
信仰義認論―に基づき形成されてきたのである5。そしてやがてこの理解が、プロテ
スタントの教会論の基礎となってゆくのである。
・ローマ教会批判
すでにこの初期において、ルターのローマ教会に対する批判は現れてきている。し かしそれは上述の「神の言葉の宣教」という教会理解に関連する限りにすぎない。つ まり、聖職者たちは本来なすべき「神への信従や聴取者の救いのために」6福音を宣教 するということを行っておらず、「自分の利得の追求や虚栄のために」7福音を伝えて いる。つまり福音そのものを、それにふさわしく宣教していないという意味におい て、ローマ教会やその道徳的堕落が批判されているのである。ここにはまだ、教皇や 教皇制度の批判は見られない。
むしろここではローマ教会にこの「神の言葉の宣教」が期待されており、教会の指 導者に従うことが強調されている。そして彼らに従わず、教会から離れてゆこうとす る者をルターは「異端者」とし、教会を「分かつ者」と断罪する8。ここにはローマ 教会に対するルターの信頼が確認されるだろう。つまりルターはローマ教会から離れ る意図はなかった、と言えるのである。
ルターのローマ教会に対するこの信頼は、その後も―1519年のライプツィヒ討論ま で―続く。「95箇条の提題」においても、たしかに贖宥符に関連して教皇の罪の赦し の権限が否定されるが、同時に教皇への服従の呼びかけが行われている(7, 38, 78 条)。ルターがローマ教会そのものや教皇制度を批判しようとしたのではなかったこ と、つまり教会改革や教会からの分裂は意図されていなかったことが、ここでも確認 されるだろう。ルターは最初から新しい教会を形成しようとしていたのではなく、福 音宣教という本来の教会の課題をむしろローマ教会に期待していたのである。
ⅱ)宗教改革形成期:新しい教会理解の展開
・「95箇条の提題」以後の状況の変化:ローマ教会との論争
しかし「95箇条の提題」を提出したことにより、ルターはローマ教会との対立へと 至る。そしてルターの問題提起はやがて教会改革運動を形成し、この経緯の中でさら に新しい教会論が生まれてくることになる。
ルターとローマ教会の対立が決定的になったのは、ローマ教会による二つの審問に おいてであった。1518年10月のアウグスブルク論争において、ルターは教皇使節のカ エタヌスにより「95箇条」の内容の撤回を求められ、これを拒否する。ここでルター は、聖書に示されている信仰義認論をローマ教会の代表者が理解しないことを知り、
はたしてローマ教会はキリスト教的であるのかと疑念を抱き始める9。そして翌年6–7 月のライプツィヒ論争では、エックを相手に議論を展開し、教会制度について大きな
対立をもたらすことになる。教皇を神と人との仲介者とし、救いに不可欠な存在であ るとするエックの理解は、人は信仰を通して聖職者の仲介なしに救いを受けるとする ルターの理解とは相容れず、教皇制に対する批判をルターはここで顕わにする。そし てさらにルターは、この400年の教会は、それ以前の教会や聖書と対立するとして、
当時のローマ教会のあり方を批判した10。こうしてルターは教皇の神的権限を否定 し、カトリックの教会概念から離れ、新しい神学のプログラムへと乗り出してゆく。
それが示された1520年の改革三文書において、新しいプロテスタント的教会論―全信 徒祭司論と二つのサクラメント論―が提出されるのである。
・全信徒祭司論
改革三文書の一つである「キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に 宛てて」11は、そのタイトルが示す通り、教会改革を訴えた文書である。この文書の 中で、宗教改革的な教会論の基礎である「全信徒祭司論」が現れてくる。
ルターはこの文書でローマ教会への批判を展開し、教会が聖職者の権限に基礎づけ られた救いの機関となっていることを問題とした。すなわち、教皇制度、ヒエラル キー制度を定め、聖職者が特別な霊性をもって信徒へ恵みを仲介し、サクラメントを 執行し、教理の決定を行ってゆくというあり方を批判した12。このいわゆる聖職者主 義のあり方に対して提出されたのが「全信徒祭司論」である。すなわち、すべてのキ リスト者は洗礼と信仰3 3(傍点筆者)によって霊的身分に属し、洗礼により新しく生ま れ変わる者は祭司となるよう聖別されているとルターは理解した。それゆえキリスト 者は霊的に同じ力をもつとされ、「神の言葉の宣教」と「サクラメント」に関して同 じ権限を有するとしたのである13。この理解が信仰義認論に基づいて展開されたもの であることは、その内容から明らかであろう。信仰において皆が等しく霊性をもつこ とをルターは論じ、ここから、聖職者主義の基礎となっている「霊的身分と世俗的身 分の区別」は人間の作り出した偽りにすぎないと退ける。そして聖職者の特別な霊性 とそれに基づいた聖職者の上位性を否定し、教導権や公会議への権限をはじめとする 教皇の諸権限を否定したのである14。そうしてルターはこの全信徒祭司論に基づい て、教会人でなく、世俗権力者である領主たち―すなわち教会に対する実質的な権限 をもち、聖職者より信頼できるとルターが理解していた領主たち―に教会改革を期待 し、協力を訴えたのである。
・サクラメント論:二つのサクラメント
一方、改革文書「教会のバビロン捕囚について」15においても、ルターは同様に制 度的な教会のあり方を批判した。すなわち司祭職に加えてサクラメントの執行が重視
される教会制度の中で、福音が制度の囚われ人となっていることをルターは批判し、
中世において7つに定められていたサクラメントのうち5つを否定し、2つに減じたの である。サクラメントとは見えない神の恵みを見えるしかたで表わすしるし3 3 3である が、ルターは神の恵みを「罪人の赦しの約束」と理解したため、堅信、婚姻、叙階、
告解、終油はそれに該当せず、洗礼と聖餐のみがそれにふさわしいものとして残され たのである。
こうして教会の定めた律法や誡めから解放されて、「キリスト教的自由」を生きる ことが教会のあり方においても求められたのである。(改革文書「キリスト者の自由」
1520)
以上のことから明らかなように、ローマ教会の制度への批判、すなわち教皇制やサ クラメントへの批判はローマ教会との論争の中ではじめて現れてきたものであった。
その際、その批判は信仰義認論に基づいて展開されており、それに代わる新しい教会 のあり方も信仰義認論に基づいて提出されたものであったことが確認される。聖書に 基づいたルターの新しい救いの理解が、新しい教会理解を基礎づけたのである。
ⅲ)宗教改革展開期:理念的教会論と現実的教会論
急進的な内容をもつこれらの改革文書を提出したことにより、ルターはさらにその 内容の撤回を要求されるが、それに応じず、そのため1521年1月にローマ教会より破 門され、4月のヴォルムスの帝国議会で帝国追放令を受けた。その後、ザクセン選帝 侯によりヴァルトブルク城に匿われるが、その間にも宗教改革運動は拡大し、ヴィッ テンベルクではカールシュタットによる過激な改革が進められた。この事態を収める ためにルターはザクセン選帝侯に請われて1522年2月にヴィッテンベルクに戻り、教 会改革を進めてゆく。この段階において、ルターの新しい教会論がさらに展開するこ とになる。まず理念的な教会論が提出され、やがて福プロテス音主タ ン ト義教会を確立してゆく段階 になると現実的な教会論が提出された。
・信仰共同体としての教会
ヴィッテンベルクへ戻った翌年の1523年に、ルターは新しい教会論の構想を提出 し16、具体的な改革を進めていった。前述のように、ルターはローマ教会に対して、
教会は聖職者の権限に基礎づけられた救いの機関ではないと批判したが、それに代わ る教会論が全信徒祭司論に基づいて提出された。前述のように全信徒祭司論は、洗礼 と信仰によりすべてのキリスト者が霊的に同じ力をもち、神の言葉の宣教とサクラメ ントに関して同じ権限を有することを述べ、救いに聖職者の仲介は不要であるとし
た。ここからルターは教会とは「キリスト者の集まり」であるとする教会論を導き出 す。そして聖職者でなく、キリスト者の集まりとしての個々の教会が、教理を判断 し、教師を招聘し、任命し、罷免する権利と力とをもつことを示し、会衆中心的教会 論を提出したのである17。
この新しい教会論に基づいてルターは教会改革を進めた。礼拝については、聖職者 の霊的権限により恵みが仲介されるのでなく、聖書の言葉によって神の恵みが、すな わち罪びとの救いの約束が明確に伝えられるよう、説教が重視され、その言葉もラテ ン語からドイツ語へ変えられた18。また讃美歌についても会衆の参加が重視され、聖 職者によりラテン語で歌われるグレゴリオ聖歌に代わって、ドイツ語の「讃美歌集」
(1524年)が作られ、会衆による讃美が導入された。
このように改革初期のルターは全信徒祭司論を主張し、それに基づき会衆中心の教 会を形成しようとした。しかし実際に教会形成を行ってゆく中で、信仰に関心のない 者が少なくない現実を前にして、ルターはやがて会衆に失望するようになる。さらに 宗教改革運動の拡大と共にラディカルな改革が展開され、前述のカールシュタットの 改革(1521
–
22年)やトーマス・ミュンツァーの破壊的な改革(とりわけ1523年以 降)、また彼を指導者とする農民戦争(1525年)、急進的再洗礼派の活動などにより、社会的な混乱が引き起こされる中で、ルターは次第に全信徒祭司論を後退させるよう になる。そして彼は秩序の必要性を主張するようになり、現実的な教会論を提出し、
教会制度の確立へと向かうのである。
・「真の霊的教会」と「見える外的教会」の区別
ローマ教会や急進派との対立の中で、ルターは「真の霊的教会」と「見える外的教 会」を区別する教会論を提出するに至った19。すなわち現実の教会には霊的教会は、
そのまま見える形で現実の教会の中に実現されるのではないという理解である。現実 の教会には義人と罪人が含まれ、義人もなお罪人である。それゆえ現実の教会は完全 なものではありえない。「真の教会」は霊的に存在するのであり、「目に見える外的教 会」を「真の霊的教会」と混同してはならない。現実の教会は「霊的教会」を信仰の 対象としてもつにすぎず、世の終わりに至るまで、教会はこの世の存在である。しか し両者は完全に分かたれるのでなく、「見える教会」の中にキリストへの信仰が存す ることにおいて、霊的教会は見える教会の中に―部分的に―実現される、としたので ある20。こうしてルターは、ローマ教会への批判的視点を提出した。しかしルター は、急進派のように教会を二元論的に理解することはしなかった。すなわち、ローマ 教会が偽りの教会で、福音主義教会が真の教会であると、単純に考えることはしな かった。ルターにおいて「霊的教会」と「見える教会」は終末論的な緊張関係の中に
捉えられたのである。
・二統治論:世俗権力の自立性
前述のように、ルターは改革初期より世俗権力への信頼を示していた。1520年の改 革文書「キリスト教界の改善に関して」では、世俗権力の特別な委託は神から与えら れたものであり、教会権力の下にあるのではないとして、その自立性を論じてい る21。その背景には、ルターに対し繰り返し理解と保護を与えたザクセン選帝侯フ リードリヒへの強い信頼があった。ルターのこの傾向はカールシュタットによる改革 のラディカルな進展とともに、さらに強くされ、世俗権力がヴィッテンベルクの教会 改革に参与すべきであり、そのように神から委託を受けている、と論じたのである
(1522年3月)。こうしてルターは世俗的秩序の必要性を強調するようになり、ここに おいて二統治論(いわゆる二王国論)が形成されることになる。
1523年の「この世の権威について:人はどの程度までこれに対して服従の義務があ るか」22において、ルターは二つの統治のあり方を示した。すなわち、内的な敬虔を 作る「霊的統治」と外的な平和を作る「世俗的統治」である。前者は教会、後者は世 俗権力により行われるものとし、世俗権力も神的委託を受けたものと位置付けた23。 そして世俗権力の必要性については、この世は神の国とは異なり、非キリスト教的で あるから、剣(権力)をもって治められなければならないとした。そしてこの権力に 従うことが要求され、世俗権力に従わない者、世俗権力を不要とする者、またその神 的委託を認めない者は批判されることになる24。この理論をもって、ルターはミュン ツァーや農民戦争への弾圧を促進した。そして農民戦争以降、ルターは前述の理念的 な教会論を後退させてゆくのである。
(3)教会制度の形成:福プロテス音主タ ン ト義教会形成期(1530~40年代)
神聖ローマ帝国において宗教改革が導入されたのは、都市部においては1520年代前 半以降であったが、領邦において新しい福音主義教会が形成されたのは1531年から40 年代にかけてであった。1529年の第二シュパイエル帝国議会においてヴォルムスの勅 令(ルターに対する帝国追放令)の更新の決議がなされ、それに対する領主たちの抵 抗の結果、ローマ教会からの決別が明確な形を取ったのである25。この時期になる と、新しい福音主義教会のあり方を確立させることがルターにとって重要課題とな り、制度に関する発言が多くなされることになる。
・牧師職
全信徒祭司論を主張し、すべてのキリスト者が信仰に基づき、神の言葉とサクラメ
ントに同様の権限を有することを論じたルターであったが、当初より「職務」として それを行うのは教職者であると理解していた26。その教職者について、ルターは詳細 に論じるようになる。すなわち、牧師職は「職務」として宣教を行う公的な存在であ ることが確認され、そのために「内的召命」だけでなく、教会による「選任と招聘」
のプロセスを経て公的に承認を受けること、すなわち按手が要求されると説く27。信 徒は公的な説教者でないが、それは質の違いによるのでなく、職務の違いによるもの であり、私的な領域では信徒も聖書の福音を語ることが可能である、とされるのであ る。
そして牧師職の任務は「救いの約束の告知」とされ、聖書の示す救いを告知するこ とにより弱き信仰を支えることに、その存在意義があるとされる。牧師職とは、した がって神の言葉への務め、福音への務めにあるとされ、説教とサクラメント(洗礼と 聖餐)の執行を通じて、福音を差出し、信仰を育むことがその務めとされる。そして 魂への配慮を通じて、教会内で一定の秩序が保たれるための働きが期待され、指導や 牧会も牧師の務めとされるのである28。
同時にルターは牧師が「仕え人」であることを強調する。牧師職はあくまでも一つ の職務に過ぎず、特別に霊的な意味をもつ存在ではないことが説かれる29。すなわ ち、牧師職は、中世期のローマ教会が理解したのとは異なり、特別に霊的で崇高な存 在であるのではなく、特別な権力をもつものでもなく、福音の告知という一定の職務 の執行に仕える「仕え人」であり、神の言葉の下に置かれ、それに従属すべきことが 述べられるのである。
・監督制(司教制):領邦教会の確立
ルターは前述のように二統治論を主張し、教会と世俗権力の管轄領域の区別を行っ たが、実際に教会形成が行われるプロセスの中で、この区別は維持されず、世俗的権 威が教会を統治する制度が定められてゆくことになった。すなわち、具体的に起こっ てくる教会内のさまざまな問題に対処するために、1539年にザクセン選帝侯を臨時司
教(
Bischof
)とする宗務局が暫定的な措置として定められ、これに続いて、同様に領主を頂点とする宗務局制度が各地に広がり、領邦教会制が確立されていったのであ る30。
ルター自身について見ると、二統治論に基づき、霊的統治を行う教会が逸脱者に対 して強制権をもって刑罰を課すことには否定的で、教会は懲戒の勧告に止まるべきと 考えていた。「臨時司教」の名が示すように、この制度はあくまでも暫定的なものと ルターは理解していたのである。しかし帝国からの抑圧と改革運動内部での分裂など 困難な状況が続く中でルターは妥協を余儀なくされ、その結果、世俗権力を頂点とす
る教会制度が定着し、法的強制力をもって刑罰を課す教会体制が整えられていったの である31。この体制は1580年の「ザクセン教会規定」32によって完成され、信仰や礼 拝、教職や教育に関する教会の問題が世俗権力の監督下におかれる中央集権的体制が 確立された。その中で、定められた領邦教会のあり方に反する者、とりわけ教理上の 見解の相違が示された場合には、陪餐停止、破門の刑罰が課され、追放の措置が取ら れたのである33。
以上のように、ルターは新しい神学に基づき、全信徒祭司論、信仰共同体論という 理念的教会論を提出したが、改革運動の現実の前でそれは貫徹されず、結果として現 実的な教会制度が作られていった。
以上において、プロテスタントの教会論の形成について、その歴史的経緯と神学的 基礎が理解されたことと思う。以下においては、それぞれの改革者たちについて、そ の特徴的な教会論に限定して論じてゆく。
2.ツヴィングリの教会論と教会形成:「国教会」体制
スイス・チューリヒの宗教改革者ツヴィングリもルターと同様、当初は世俗権力か ら独立した教会、すなわち信仰者から成る信仰共同体を形成することを試みた。しか しチューリヒの市政府(市参事会)は数百年にわたり、教会を自らの支配下に置くこ とに努め、宗教改革も市参事会のイニシアティヴにより導入された経緯から、ツヴィ ングリの元来の信仰共同体論は実現されず、チューリヒにおいても国家主導型の教会 形成が行われ、都市国家の教会(いわゆる国教会)が形成されることになる。
ツヴィングリはそのための神学的基礎付けを聖書に基づき、積極的に行っていっ た34。改革が始まったばかりの1523年に行われた「神の義と人間の義」35についての説 教では、ルターの二統治論に対応する理解を示している。すなわち、人間の内面生活 に関わる「神の義」と人間の外面生活に関わる「人間の義」を区別し、人間の罪ゆえ に「人間の義」、すなわち法が必要であるとした。そして人間社会の平和と共同生活 を維持するために、世俗権力の刑罰権が必要であることを強調した36。さらに後述の 再洗礼派が現れ、このような「国教会」のあり方を批判するようになると、ツヴィン グリは「洗礼論」37(1525年)を提出して、洗礼を割礼のキリスト教的対応と見な し、洗礼はキリスト教共同体への所属の公的証明であるとして、国教会制度を基礎づ ける理解を提出したのである。
もっとも、「国教会」制度は認めたとはいえ、ツヴィングリは前述のように、教会 と国家の機能を区別し、宗教上の逸脱者の取り扱いは教会固有の権限とする理解を 1525年になお示していた。しかし市参事会は独立した教会審判機関を認めず、その結
果、同年に 「チューリヒ婚姻裁判所規則」38が定められ、国家と教会の共同により破 門の問題が取り扱われることになった39。すなわち市参事会と聖職者からなる裁判官 により、婚姻に関する問題―そして翌年には道徳規律や教会規律に関する問題まで―
が取り扱われ、違反者に対しては、教会から破門され、その後、市参事会に告訴さ れ、そこで刑罰を科される手続きが取られた。すなわち体制的教会の定める信仰生活 を逸脱した者は教会権力と政治権力によって追放されるという体制が整えられたので ある。以下に見るように、このようなチューリヒの教会形成のあり方を批判し、その 基礎となる幼児洗礼を否定した再洗礼派は、この体制の中で追放され、処刑されるこ とになる40。
3.カルヴァンの教会論と教会形成:外的支えとしての教会制度
カルヴァンは『キリスト教綱要』(最終版)41第4巻において、教会論の問題を取り 扱い、詳細な議論を展開している42。それによると、カルヴァンは教会を「召された 者の集まり」43と表現し、ここでも信仰者の共同体としての教会論が基礎にあること が確認される。しかしその集まりもルターのように理念的なレベルで論じられるので なく、その不完全性が強調され、現実的な教会論が展開されてゆく。この理解の基礎 にはカルヴァンの聖書に基づいた人間論があり、神によって召された者も、この世に ある限り堕落から部分的に回復されているにすぎず、そのような人間の集まりである 教会(見える教会)も不完全でしかありえない。それゆえ教会の存続のためには、教 会の秩序と一定の制度が必要であると結論され、教職制度をはじめとする教会制度の 意義が積極的に論じられるのである。
しかし同時にカルヴァンは教会制度が必要な理由を示して、教会制度の意義を限定 的に論じる。すなわち、教会制度は「われわれの弱さ」ゆえの制度であり、不完全な キリスト者の信仰を支えるためのものである。すなわち「見える教会」が「真の教 会」であり続けるために必要な「外的支え」であり、それ以上のものではない、と説 明する44。したがって教会制度(特に教職制度)に一定の権限を与えるが、そこに何 らかの人間的な権威を認めることはできないとし、教会制度の権力や権威が必要以上 に大きくなることを警戒するのである。
さらにカルヴァンは、ルターやツヴィングリと同様に教会的統治と世俗的統治の機 能の区別を行い、教会が刑罰権をもたず、罪を犯した者には神の言葉を通じて自発的 な悔い改めへ導くよう対処すべきことを主張した。そして教会の問題が世俗権力に委 ねられてはならないことを強調し、「長老会」による合議制をもってそれが遂行され るべきことが主張されたのである45。
ジュネーヴの場合もザクセンやチューリヒと同様、世俗権力が教会を支配下に置く
ことに努めたが、カルヴァンは教会的統治と世俗的統治の区別が厳密に行われること を要求し、長い闘いの末、その主張が反映される教会制度が実現された。「ジュネー ヴ教会規則」(1541年)46では、教会職制の一つとして「長老会」が制定され、信仰生 活に関わる問題は、長老会により教会訓練をもって霊的に対処されること、改められ ない者については追放することが規定されている47。これにより、長老会に破門権が 認められ、教会が自律的に教会の問題を取り扱う制度が整えられたのである。もっと も、この長老会には市参事会のメンバーが加わることとされ、実際には、教会の完全 な自立が保障されたわけではなかった。また教会訓練を経ても改められない逸脱者に 対しては、市参事会への告発がなされることが規定されており、ここでも最終的には 政治権力によって刑罰が与えられる制度が定められたのである48。この体制の中で、
教理上の逸脱者たち、予定説を批判したボルセックが都市から追放され、三位一体論 を否定したセルヴェトゥスが処刑されていったのである。
教職制については、カルヴァンは新約聖書に基づいて四職制を採り、牧師や長老の ほかに神学教師、さらに社会経済生活の援助を行う執事(ディアコニー)を教職と定 めた49。執事は当時のジュネーヴの困難な経済生活を背景に導入されたものであり、
実際に有用な働きを行うものであった。制度に対するカルヴァンの現実的な理解がこ こにも表れていると言えるだろう。
以上のように、宗教改革主流派の改革者たちは、最終的には世俗権力と結びつき、
体制的教会を形成した。そして自らを正統的な福音主義教会として安定した地位を確 立していった。そして正統と定められた信仰生活や教理のあり方から逸脱した者に対 しては、それを排除する制度を整えていった。以下に見る急進派はこの制度の下で弾 圧され、追放されていったのである。このような国教会制度、そしてそれを基礎とし た「キリスト教社会(corpus christianum)」のあり方は、中世以来の社会関係を前提 としており、ここにおいて、宗教改革主流派は新しい教会のあり方を提出したわけで はなかったことが確認される。この点において新しさを示したのは、体制的教会から 排除されていった急進派であった。
Ⅱ 急進派
宗教改革主流派の形成した「国教会」体制に対して、それを批判し、理念的な教会 論の実現を貫徹させようとしたのが急進派のグループであった。しかし彼らはその非 妥協的な態度により、体制的教会から追放され、弾圧されることになる。その中で、
急進派グループはいずれもその主張を先鋭化させ、多くは二元論的な理解を提出し
た。この時期には受け入れらなかった彼らの思想は、近代の社会思想にもつながる新 しい思考を内容とするものであった。
1.ミュンツァー:選ばれた者による聖者共同体
農民戦争の指導者として知られるミュンツァーであるが、彼自身は元来、ローマ教 会の聖職者であり、1518年以後は宗教改革の担い手として各地に教会改革を導入する ことに努めた改革者の一人である。
ミュンツァーの神学は聖書に拠りつつ、しかし特に聖霊主義、神秘主義の影響を受 けており、それらの神学が彼の教会論の基礎にある50。すなわち、聖霊の働きを受け て神と一つとされた人間は「神となり」「神化」するものと理解される。そして、こ の霊的知恵をもつ「選ばれた者」が、神に従わず、堕落したこの世と対立的に捉えら れ、終末が目前に迫った今、終末における神の裁きの執行として、背信の徒―すなわ ち信仰をもたぬキリスト教界とこの世の支配者―を滅ぼすことが主張される。そして この不信仰の根が絶滅された後、選ばれた者による「正しいキリスト教会」が形成さ れるという教会論が提出されるのである51。ここには黙示文学的終末論の影響も確認 されるが、この教会論に基づいて、ミュンツァーは「選ばれた者」による聖者共同体 を作り、ここを彼らの活動の拠点とし、武器を取って、領主権力、またローマ教会に 対して戦っていったのである52。
このようなミュンツァーの神学と教会論は、彼の死の前年に出された「あからさま な暴露」(1524)と「きわめてやむを得ざる弁明」(1524)において提出された53。こ こに示されたミュンツァーの教会論は、上述の宗教改革主流派とは異なり、「選ばれ た者」と「背信の徒」という二元論的理解に基礎付けられ、選ばれた信仰者から成る
「信仰共同体」の形成が主張されている。ここでは主流派宗教改革者たちが前提とし ていた「キリスト教社会」の概念は共有されておらず、むしろそれは退けられるべき 対象として論じられている。この点においては、ミュンツァーの教会論は近代的「自 由教会」の教会論により近い。しかし、ここでは「選ばれた者」から成る教会の完結 性が主張され、体制的教会と同様、自分たちと異なる理解をもつ者を「背信の徒」と し、その存在を否定する排他的な態度が確認され、異なる信仰をもつ者への非寛容性 が見られるのである。
2.再洗礼派
再洗礼派には様々なグループが存在し、その神学も一様ではないが、国教会の基礎 となる幼児洗礼を否定することにおいて共通の見解をもつ。そして多くの場合、二元 論が取られ、それに基づき教会論が展開される特徴をもつ。以下においては、スイス
兄弟団とメルキオール・ホフマンを取り上げ、その教会論について考察する。
(1) スイス兄弟団:自覚的信仰者より成る信仰共同体とその純粋性
スイス兄弟団は、前述のチューリヒにおける国教会体制への批判を通じて形成され たグループである54。その初期の指導者であるコンラート・グレーベルやフェリック ス・マンツは元来、ツヴィングリの支持者であり、チューリヒの宗教改革を積極的に 推進していた。人文主義的志向をもつ彼らは、キリスト教の源泉に帰ることを主張 し、聖書研究を熱心に行い、宗教改革の目的は初代教会を復興させることにあると理 解した。それはすなわち、「自覚的信仰者からのみ成る信仰共同体」の形成にほかな らず、そのために悔い改めを経て信仰告白を行った者のみに洗礼を与えるべきである とする主張を展開し、幼児洗礼を否定した。そしてここからツヴィングリの受け入れ ようとしていた国教会体制を批判したのである55。幼児洗礼は国教会の基礎を形成す るものであったから、彼らのこの見解は危険視された。1525年1月の討論会において 市参事会によりこの見解が誤りであることを宣告され、その後、彼らは既存の教会に 信仰共同体を形成することを諦め、そこから離れて独自の信仰共同体の形成を始めた のである。彼らの運動は政府当局による厳しい弾圧を受け、1526年3月には死刑命令 が出された。指導者は逮捕され、処刑されて、彼らは離散を余儀なくされ、その中で 彼らはその主張を先鋭化させて、この世との関係を対立的に理解する二元論を提出 し、その教会論をさらに展開させることになった。
この二元論的教会論は、追われる状況のなかで提出された「シュライトハイム信仰 告白」(1527年)56において展開された。すなわち、自覚的信仰者により形成される教 会が真の教会であるとされ、彼らを理解せず、追放する「この世」と対立的に位置づ けられる。真の教会は「光」「善」「霊」と表現され、この世は「暗闇」「悪」「肉」で あるとされて、真の教会は悪のこの世から「隔離」されなければないと説かれる。そ してこの世の武力(剣)が否定され、公的職務に就くことも否定される。一方、この 信仰共同体においては、その純粋性を維持するため、規律に従った生活が要求され、
そこから逸脱した者は「追放」する措置が取られる。こうして、この教会はこの世か ら離れたところにあって「真理」と「義」に生き、「全き平和」を保つ生活を行うこ とが述べられるのである。
・フッター派
スイス兄弟団は迫害の中57、各地へ逃れて拡大していったが、そのなかでチロル地 方へ移住したフッター派によって、この教会論が実現された。ヤコブ・フッターを指 導者とし、数百名からなるこのグループは、モラヴィアの領主の庇護を受け、1540–
50年代にかけて信仰を同じくする者のみからなる集団を形成した。彼らは霊的生活の みならず、経済、教育にわたる生活を共同で行い、農場を経営し、共産制のあり方を とって、この世から離れ、閉じられた信仰共同体を実現したのである58。
(2)聖霊主義的再洗礼派とミュンスターの再洗礼派王国
再洗礼派の中には聖霊主義の影響を受けたものが少なくない。その一人がメルキ オール・ホフマン(
Melchior Hoffman
1500?–
1543)である59。彼はシュヴァ―ベン地 方出身の毛皮職人であったが、ローマ教会に対する強い批判をもって宗教改革を支持 し、自らも信徒説教者として改革運動に関わった。彼もミュンツァーと同様、ローマ 教会の制度や権威に対して破壊的な活動を行い、そのラディカルさゆえに各地を追わ れ、失望を経験する。その中で聖霊主義、黙示文学的終末論の影響を受け、さらに聖 霊主義的再洗礼派との出会いにより、その立場を自らのものとし、二元論的な教会論 を提出した。メルキオール・ホフマンは「神の法」(1530年)60において、黙示文学的終末論に基 づいて洗礼を理解し、ここから教会について論じている。すなわち、聖霊の働きを受 けて内的に浄化され、信仰の確信に至った人間が、洗礼を通じて神との結合に至り、
霊的に完全な者とされて終末の聖者の教会へ引き入れられる。そして教会の聖者たち は神の国の準備として、神を受け入れぬこの世を粛清し、平和の国(新しいエルサレ ム)の建設を諸都市に実現し、世界を変革してゆくことが述べられる61。そのために この世の権力や教会権力、すなわち皇帝や教皇、そしてルター派やツヴィングリ派に 対しても戦うことが要求される。その際、武力によるのではなく、聖霊による啓示と 祈りをもって、敬虔な官憲によりそれを実現することが求められる。
そして教会制度としては、聖霊の賜物をもって聖書を解釈し、終末的教会を導くた めの「使徒的伝道者」、そして聖者の教会を維持するための「牧師」を置くことが求 められた62。
このラディカルな主張のために、ホフマン自身は1533年に逮捕されるが、彼のこの 主張は彼の支持者たちによって、特に北西ドイツやオランダに広められ、やがてミュ ンスターにおいて実現されることになる。
・ミュンスターにおける再洗礼派王国の樹立
ヤン・マティスを指導者とするオランダの再洗礼派により、1534年2月から1535年6 月にかけてミュンスターに再洗礼派王国が形成された63。彼らは終末を期待しつつ、
背信の徒を根絶し、主体的な洗礼を受けた者によるキリストの王国を実現することを 試み、そのために武力により市の支配権を掌握し、神権政治を行った。その際、財産
共有制や一夫多妻制がとられたが、特に後者に対する批判から反乱がおこり、その 後、司教や領主による弾圧を受けて、再洗礼派王国は終結する。ここから逃れた者 は、メノナイト派、ヨリス派へ再編成され、新たな再洗礼派集団を形成することにな る。特にメノナイト派は今日なお、日本においても、その伝統が受け継がれている。
Ⅳ おわりに
以上、宗教改革期における教会形成の試みを概観した。いずれも聖書に基づき、時 代状況に規定されつつ、教会形成のあり方を模索し、追求した試みであったことが理 解されたと思う。そしてそれらは聖書に基づきながら、決して一様ではなく、多様な あり方として展開され、それゆえに葛藤や対立があったことも確認された。そしてい ずれの教会形成のあり方も歴史的な制約を受けて生み出されたものであり、完成され たものではなかったことも理解されたと思う。ルターやツヴィングリ、カルヴァンら の体制的教会は、政治権力と結びつくことによって安定したプロテスタント教会の基 礎を作り出すことに成功した。しかし当初、企図されていた理念的教会論は後退し、
教会構成員による生きた教会形成を困難にした側面は否めない。一方、急進派は信仰 共同体の実現に熱心であり、生きた教会形成の可能性を開いたといえよう。しかし体 制的教会や政治権力と対立する中で、自らの正しさを主張し、この世やこの世と結び ついた教会と対立した。ここには、この世もまた神によって創られた世界であること の理解が欠如しており、一面的な側面をもつことも否定できない。
このような歴史的考察より一つの結論として言えるのは、宗教改革の遺産として受 け継ぐべきものは、宗教改革を通じて提出されたいずれかの制度ではなく、ここで行 われた教会形成の姿勢であるということである。すなわち、「聖書に基づき、その 時々の、それぞれの場にふさわしい教会形成を試みる」ということを、われわれは何 よりも宗教改革から教えられるのである。宗教改革の残したいずれかの制度を伝統と して受け継ぐことは、必ずしも宗教改革の遺産の継承とは言えないだろう。500年前 のヨーロッパの地に生まれた制度を無批判にそのまま受け継ぐのは、今日の日本に生 きるキリスト者にとってどれほど意味があるのかを考える必要があるだろう。まして や制度の違いゆえに対立することは無意味な営みである。宗教改革者たちが行ったよ うに、われわれもまた、聖書に基づき、今日の日本の状況の中で、それにふさわしい 教会形成を自由に行っていくことが可能であることを、宗教改革の歴史は教えるので ある。宗教改革500年の年にあって、何よりもこのことが確認されることを願うもの である。
注
1 本論文は、同志社大学神学部基督教研究会公開講演会(2016年11月1日、於:同志社大学)の講演内 容に加筆、修正したものである。
2 この状況ついてはルター自身がのちに『ラテン語著作全集』第一巻序文(1549年)で記している:
Vorrede zum ersten Bande der Gesamtausgaben seiner lateinischen Schriften, Wittenberg. WA 54, 179–
187. 特に185f.
3 WA 56, 157f., 171f., 356f., 4 WA 56, 157f., 424–426.
5 この点については拙論を参照:「初期ルターにおける教会理解の展開―『ローマ書講義』における新 しい理解の形成」『基督教研究』第77巻第2号、25–39頁、とくに30頁。
6 WA 56, 424.
7 Ebd. 拙論30–31頁を参照。
8 WA 56, 251f., 494. 拙論32–33頁を参照。
9 WA 2, 6–26.(邦訳「アウグスブルク審問記録」(『ルター著作集』第一集第一巻、聖文舎、1981年、
407–448頁)
10 WA 2, 391–435(邦訳「ライプチヒで討論された命題に関するルターの解説」(1519年)、同479–569 頁)
11 Luther, An den christlichen Adel deutscher Nation von des christlichen Standes Besserung, WA 6, 404–
469.(邦訳『ルター著作集』第一集第二巻、聖文舎、1981年、195–311頁)
12 WA 6, 410–416.
13 WA 6, 410–416.
14 WA 6, 420.
15 Luther, De Captivitate Babylonica Ecclesiae Praeludium, WA 6, 497–573.(邦訳『ルター著作集』第一 集第三巻、聖文舎、1969年、197–347頁)
16 Dass eine christliche Versammlung oder Gemeinde Recht oder Macht habe, eine Lehre zu urteilen und Lehrer zu berufen, ein- und abzusetzen, Grund und Ursache aus der Schrift, WA 11, 408–416.(邦訳「キ リスト者の集まり、すなわち個々の教会は、すべての教えを判断し、教師を招聘し、任命し、罷免す る権利と力とをもっているということ」『ルター著作集』第1集第5巻、209–223頁)
17 注16を参照。新しい教会論が示されたこの文書のタイトルそのものが、その内容を明確に示してい る。
18 「会衆の礼拝式について」(1523年、WA 12, 35–37)「ミサと聖餐の原則」(1523年、WA 12, 205–220)
「ドイツミサと礼拝の順序」(1526年、WA 19, 72–113)を参照。
19 Luther, Von dem Bapstum WA 6, 285–324.(邦訳「ローマの教皇制について」『ルター著作集』第一集 第三巻、115–182頁);Von den Konzillius und Kirchen, WA 50, 509–653.
20 WA 6, 292–297.; Von den Konzillius und Kirchen, WA 50, 632f.
21 WA 6, 406–411.
22 Luther, Von weltlicher Obrigkeit, wie weit man ihr Gehorsam shuldig sei, WA 11, 245–280.
23 WA 11, 247–261.
24 もっとも世俗的権力の限界についても言及され、信仰の事柄には介入できないことが述べられてい る。WA 11, 261–271.
25 具体的にはルターを支持する領主たちによる「抗議(protestatio)の文書」(1529年)、アウグスブル ク帝国議会における「アウグスブルク信仰告白」の提出と皇帝の否定的態度、領主たちによる「シュ マルカルデン同盟」の結成がそれに続く。
26 「キリスト者貴族に宛てて」においてすでにこのことが述べられている。WA 6, 407f.(邦訳、201–
202頁)
27 Der 82. Psalm ausgelegt, 1530, WA 31I, 211.; Predigten des Jahres 1525, WA 17I, 360–362. 以下の拙論 を参照:「歴史的に見た牧師像―宗教改革期を中心に」、越川・松本編『牧師とは何か』日本基督教団 出版局 2013年、281–298頁。とくに291–292頁。
28 Von der Winkelmesse und Pfaffenweihe, 1533, WA 38, 233,239.; Eine Predigt, dass man Kinder zur Schulen halten solle, 1530, WA 30II, 527, 580. 注27の拙論291–292頁を参照。
29 Auslegung des dritten und vierten Kapitels Johannis in Predigten 1538–1540, WA 47,193.
30 Heun, Werner, Konsistorium, in: Theologische Realenzyklopädie, Bd.19, S.483–488. ここではS.484. こ れについては以下の拙論を参照:「宗教改革運動の多様性と共存の理解―再洗礼派における政教分離 思想の萌芽―」『ヨーロピアン・グロバリゼーションと諸文化圏の変容・研究プロジェクト報告書Ⅴ』
2012年3月、169–181頁、ここでは172–174頁。
31 注30の拙論を参照。
32 Des durchlauchtigsten, hochgebornen fürsten und herrn, herrn Augusten, herzogen zu Sachsen u.s.w.
Ordnung, wie es in seiner churf. g. landen bei den kirchen mit der lehr und ceremonien, desgleichen in derselben beiden universiteten, consistorien, fürsten und partikular schulen, visitation, synodis und was solchem allem mehr anhanget, gehalten werden sol. 1580, in: Sehling, Emil (Hrsg.), Die evangelischen Kirchenordnungen des 16. Jahrhunderts, Bd.1(1979), S.359–457.
33 Ebd., S.359–363.
34 以下の叙述については、前出の拙論「宗教改革運動の多様性」174–175頁を参照。
35 Zwingli, Von götlicher und menschlicher grechtigheit wie die zemen sehind und standid. Ein predge Huldrych Zwinglis an. S. Joanns Teuffers tag gethon im 1523. in: Huldreich Zwinglis sämtliche Werke, II. S.471–525.(邦訳『宗教改革著作集』5巻、教文館 1984年、21–82頁)
36 Ebd., S.474–492.
37 Zwingli, Von der Taufe, von der Wiedertaufe, von der Kindertaufe, in: Huldreich Zwinglis sämtliche Werke, IV. S.188–337.(邦訳「洗礼論」(1525年)、『宗教改革著作集』5巻、137–267頁)
38 Ordnung und ansehen, wie hynfur zu Zurich in der statt uber eelich sachen gericht sol werden. In:
Zwinglis Sämtliche Werke IV、Nr.55. S.182–187.ここでは特にS.183,186f. (邦訳「チューリヒ婚姻裁判 所規則」、『宗教改革著作集』15巻、教文館 1998年、59–66頁)
39 Gäbler, Ulrich, Huldrych Zwingli. Eine Einführung in sein Leben und sein Werk. München 1983. S.96f.
40 後述のように1526年3月には再洗礼派に対する死刑の命令が出され、厳しい弾圧が行われる。後に述 べる再洗礼派の指導者、マンツも翌年の1月に処刑されている。Goertz, Hans-Jürgen, Die Täufer, Geschichte und Deutung, München 1988, S.123.
41 Calvin, Jean, Institutio Christianae religionis, 1559, IV.(邦訳、『キリスト教綱要』(改訳版)Ⅳ、新教 出版社 2009年)
42 以下の論考については拙論「宗教改革運動の多様性」176–177頁を参照。
43 Calvin, Institutio, IV. 1:1 44 Calvin, Institutio, IV. 1:1
45 Calvin, Institutio, IV. 11:3–6.
46 Ordonnances Ecclésiastiques, in : Registres de la Compagnie des Pasteurs de Genève au temps de Calvin, Tome I 1546–1553, Travaux DʼHumaniste et Renaissance LV, S.1–13.ここでは特にS.3f.,11–13.
(邦訳「ジュネーヴ教会規則」(1541年)、『宗教改革著作集』15巻、85–104頁)
47 Ebd.,S.12f.
48 この教会規則はカルヴァンが起草したものであったが、市参事会への告発と刑罰の制度は、カルヴァ ンの草案にはなく、規則作成の過程で参事会側から付け加えられたものであった 。この点におい て、カルヴァンは妥協を余儀なくされたのである。
49 Ebd., S.1.四職制の根拠は、エフェソ4:11、ローマ12:7、第一コリント12:28である。(Institutio, IV. 3:4, 8, 9.)
50 この問題については以下の拙論を参照:「宗教改革期における二元論の展開(1)―トーマス ・ ミュン ツァー―」『教会と神学』第45号、2007年、37–56頁。;前掲「宗教改革運動の多様性」177–178頁。
51 Müntzer, Thomas, Ausgedrückte Entblößung, 1524, in: Franz, Günter (Hrsg.), Thomas Müntzer, Schriften und Briefe, Kritische Gesamtausgabe, Gütersloh 1968, S.265–319.ここではとくにS.281–301.;
ders., Hochverursachte Schutzrede, 1524, in: ebd., S.321–343.ここではとくにS.328–331.
52 ミュンツァーは宗教改革以前より、教会のヒエラルキー制度や聖職者の道徳的堕落の問題を批判し、
反教会運動を展開して、ラディカルな傾向を示していた。その彼が、改革運動の担い手となり、各地 で教会改革を実践してゆく中で、神秘主義や聖霊主義と出会い、彼独自の神学を展開させ、彼の活動 も急進化してゆく。しかしその急進性ゆえに彼は各地を追われ、またルターも彼の活動に否定な態度 を示し 、ミュンツァーの神学はその中でさらに先鋭化されてゆくことになる。(拙論「宗教改革期に おける二元論の展開(1)」を参照)
53 注51を参照。ミュンツァーのこの二文書は、弾圧に対する反動として示されたものであり、特に「き わめてやむを得ざる弁明」はルターの「反乱を起こす霊について」に対する反論として著されたもの である。この状況下でミュンツァーはローマ教会や世俗権力のみならず、ルターの宗教改革との対立 をも明らかにした。(拙論「宗教改革期における二元論の展開(1)」を参照)
54 スイスの再洗礼派の形成については以下の拙論を参照:「宗教改革期における二元論の展開(2)―再 洗礼派―」『教会と神学』第47号、2008年、97–112頁。
55 Goertz, Hans-Jürgen, Die Täufer, S.18–20.
56 Brüderliche Vereinigung etlicher Kinder Gottes, sieben Artikel betreffend, 1527, in: Quellen zur Geschichte der Täufer in der Schweiz, Bd.2, hrsg. von Heinold Fast, Zürich 1973, S.26–36.
57 1529年の第二シュパイエル帝国議会において再洗礼派は帝国法違反とされ、死刑命令が出された。
58 Goertz, Die Täufer, S.31–33. その後、弾圧が強化されて彼らは東欧、北米へと逃れた。フッター派は 今日なお残る数少ない再洗礼派のグループの一つである。(Ebd., S.32.)
59 ホフマンについては前出の拙論「宗教改革期における二元論の展開(2)」10–16頁を参照。
60 Hoffman, Melchior, Die Ordonnanntie Godts (1530), in: Spiritual and Anabaptist Writers. Documents Illustrative of the Radical Reformation, ed. by George Huntston Williams, London 1957, S.182–203.
61 Ebd., S.185–187, 190–197, 226–231.
62 Goertz, Die Täufer, S.36, 104, 106.
63 Goertz, Hans-Jürgen, Die Täufer, S.37–39.; Stayer, James M., Täufer/Täuferische Gemeinschaften I, in:
Theologische Realenzyklopädie, Bd.32(2001), S.597–617,ここではS.608–610.