土地所有をめぐる現実
台湾・ブヌン社会における保留地継承・分配制度の現代的諸相
石 垣 直
(日本学術振興会特別研究員)
Reality of Land Ownership
Contemporary Situation of the Reservation Succession and Distribution of the Bunun, Taiwan
Ishigaki, Naoki
JSPS Research fellow, Yokohama National University
A tenet of modern socio-cultural anthropology is to collect and examine infor- mation on societies all over the world. Historically, this discipline had relation to colonialism, the land tenure systems had been one of the most important subjects of research. At the end of World War II, decolonization was advo- cated by the United Nations and the International Community. In response to this, the anthropological concern has focused on the historical change of land tenure systems and the native’s response to those changes. On one hand, in spite of the plentiful amount of Anthropological research on Austronesian Societies of Taiwan during the Japanese colonial period, surprisingly few studies have thus far been conducted in reporting and investigating the his- torical changes of their land tenure systems and in including a contemporary response from native’s point of view. e purpose of this article is to illustrate and analyze the land tenure system from the contemporary prospective of an Austronesian indigenous people called the Bunun. The Bunun historically lived in the central mountainous area of Taiwan and were renowned for their complicated “magico-religious land ownership”.
In an overview of the article, the following will be covered. Chapter 1:
Pre-colonial Land Tenure System of the Bunun; Chapter 2: Historical Changes of Land Policy; Chapter 3: Contemporary Economic life of Austronesian Peo-
Keywords: Bunun, Land system, Land policy, Private land ownership, Magico- religious land ownership
キーワード: ブヌン,土地制度,土地政策,個人的土地所有権,呪術的・宗教的土地所有権
* 本稿は,筆者が2008年1月に東京都立大学に提出した博士学位論文(cf. 石垣 2008)の第3章を加 筆修正したものである。本稿のもととなった保留地に関する調査資料は,筆者が2007年から2008 年にかけて数回にわたって実施した現地調査に基づくものであり,同調査は日本学術振興会からの 研究助成によって可能となったものである。また現地調査中には,南投県信義郷および台東県延平 郷に住むブヌンの方々に大変お世話になった。関係各位に対し感謝申し上げたい。
はじめに
土地は人が生きていく上で必要不可欠なも のである。であるからこそ,土地に対し自ら の力をいかに行使するかという問題をめぐっ て,幾多の戦いや交渉が繰り広げられてき た。このことは,自己の勢力範囲を飛び出 し,他の人びとが住む世界に対してその力を 伸張させようとした植民地統治においてはな おさらであった。他なる人びとが,どのよう な場所に住み,どのように土地を利用してい るかという問題は,植民者にとって統治上最 も重大な問題のひとつであった。その現実を 直視しないことには,他者を武力で征服する ことも,そして何かしらの「正当性」をもっ た論理で人びとの意見を抑え込むことも容易
ではなかったからである。では,こうした外 来勢力による統治政策・土地政策を通じて現 地社会の土地制度はどのように変化したのだ ろうか。現地の人びとは,植民地期およびポ スト植民地主義の時代をどのように生き,か れらの土地をどのように認識してきたのだろ うか。本稿では,台湾に住むオーストロネシ ア語族系住民(以下,原住民(族)1))の中 でも,先行研究において「呪術的・宗教的土 地所有権」をもつ人びととして描かれたブヌ ン(Bunun,〈布農族〉2))の土地制度を具体 的な対象として,この問題に迫ってみたい。
植民者にとって必要不可欠な土地および現 地の慣習に関する情報収集プロジェクトにお いて,その一翼を担ったのは植民地行政官や 人類学者たちであった。現地社会の土地制度 は,人類学的調査の必須調査項目のひとつに ples; Chapter 4: Case Study on Succession and Distribution of the Reservation in the Bunun Society; and Chapter 5: Discussion about Characteristics and Conceptions of Contemporary Land ownership of the Bunun. Additionally, in this chapter, the following contemporary features of succession and distribu- tion of reservation in the Bunun Society will be discussed: 1) male land owner- ship preference; 2) egalitarianism among men in inheritance of reservation; 3) segmentation of patrilineal extended family since the Japanese colonial era; 4) mosaic of fi xed and privatized reservation plots; 5) pervasion of private own- ership concepts; and 6) commodifi cation and loss of the reservation.
はじめに
1. 植民地化以前の土地制度 2. 外来勢力による土地政策史
2.1. オランダ・東インド会社,鄭氏政権期
2.2. 清朝期 2.3. 日本統治期
2.4. 戦後期 3. 現代の生業 4. 事例
5. 考察―土地所有をめぐる現実―
おわりに
1) この名称は,1980年代前半から始まる権利回復運動でかれらが主張し,その後に憲法追加修正条 文にも明記されるようになったものである。現地の活動家らは,先住民族の集団的権利を追求する 国際的な議論に基づいて,「人民・民族」(nationあるいはpeople)としての「自己決定権」(right to self-determination)や「主権」(sovereignty)を主張するために,〈原住民〉ではなく,あえて
〈原住民族〉と表現することが多い。
2) 本稿では,中国語表現を用いる場合に,日本語の漢字表記との差異化を目的として〈 〉を用いて 表記している。また,中国語の漢字表記だけでは理解し難いと思われる用語に関しては,その後ろ に( )を用いて,その日本語訳を示している。
挙げられ,多くの制度や慣習が記録されてき た。オランダの人類学者によるインドネシア 慣習法調査,ドイツ比較法学派によるアフリ カ・ニューギニア・太平洋島嶼部調査,イギ リスによるアフリカ・インド・太平洋地域に 関する慣習・土地制度調査,米国による「イ ンディアン」調査などはいずれも,植民地経 営および領土の拡大という国家プロジェクト にもとづいて進められたものであった。こう した土地制度や慣習に対する注目は,国際連 合主導の下で植民地解放が国際的な命題と なった第二次世界大戦後の世界においても同 様であり,アジア,アフリカ,太平洋島嶼部 などにおいて,土地制度の変遷に関する研究 が進められてきた。たとえば,太平洋島嶼 部におけるこの種の研究の代表格であるR・
ワードとE・キングドンの編著『南太平洋に
おける土地,慣習,実践』においては,ヨー ロッパ,アジア,アフリカ地域との類似性と 差異を視野に入れた上で,ヴァヌアツ,西サ モア,トンガ,フィジーなど南太平洋諸地域 の土地制度および土地をめぐる人びとの実践 が詳細に検討されている(Word & Kingdon
(eds.) 1995)3)。
同様の研究は日本の人類学者らによって もおこなわれており,1999年には杉島敬志 の編著『土地所有の政治史 ―人類学的視 点』が刊行された(杉島(編)1999)。杉島 は,それ以前の論考(杉島 1996)において,
太平洋島嶼部における植民地的邂逅ならびに その後の現地人と西洋人との相互作用を論
じる際にN・トーマスが用いた「歴史的も
つ れ あ い」(historical entanglement)と い う考え方を批判的に検討した(cf. omas 1991a: 312, 1991b)。その上で同編著におい て杉島は,アジア,アフリカ,太平洋地域の 土地所有状況における「歴史的もつれあい」
を記述することに「人類学の経験的歴史記 述の可能性」をかけようとする(杉島 1999:
13)。同編著には,①重層性,②全体性,③ 儀礼性といった特色をもつアジア,アフリカ,
太平洋地域の土地制度,および土地政策の実 施にともなう土地制度の歴史的変遷,そして 諸政策への人びとの対応に関する詳細な論考 が寄せられた4)。同編著は,R・ワードらの 編著と同様に,実証的な社会科学的研究の成
3) たとえばM・ロドマンは,独立後の憲法により土地所有者を「慣習的所有者」に限定することが
規定されたヴァヌアツにおいて,「カストム」(慣習)が重要性を増す中で,人びとが土地をめぐっ てさまざまな実践を繰り広げる状況を,「呼吸する空間」(breathing space)というキーワードを たよりに描き出している(Rodman 1995)。また,R・ワードは,フィジーの事例をもとにして,
かつての土地制度,植民地政府によって導入された「正統モデル」,そして現代の土地をめぐる実 践とのズレをあぶり出した上で,現代を生きる人びとがさまざまな手法を用いて土地に対する最大 の利益を追求しようとする姿や,土地をもつことが「フィジー人」としてのアイデンティティの重 要部分となっている状況を明らかにしている(Ward 1995)。他地域の状況,たとえば植民地期イ ンドにおいて実施された土地政策の成功と失敗については,N・ダークスの研究がある(cf. Dirks
1992)。彼は同論文において,英国植民地政府が進めた「ザミンダーリ制」(旧領主などに地主と
しての身分を認め,かれらから間接的に徴税するという制度)という土地政策が,自身の権威を維 持するために人びとに土地を譲渡するという各地の旧領主の行為によって妨げられた一方で,法 による統治という言説・制度が人びとの生活に次第に影響力を及ぼした状況を考察した。またS・
ベリーは,アフリカ植民地における土地政策の概要(移住政策,土地境界線の画定,法整備)を 描いた上で,伝統的リーダー,新たな政治的リーダー,官僚・公務員,農民などが自らの利益確 保・獲得を目指して土地に対するさまざまな主張を繰り広げている状況を通時的に描き出してい る(Berry 2002)。他方でA・マクウィリアムは,中央集権化と地域主義の対立がより顕在化しつ つあるポスト・スハルト時代のインドネシアにおいて,マイノリティが「先住民族」としてその 慣習的土地権を主張する際の困難を,土地政策に関する歴史的な考察を通じて明らかにしている
(McWilliam 2006)。
4) たとえば棚橋訓は,クック諸島における土地政策を事例として,植民地政府が実施した(現地社会 の現実には即していない)土地政策が現地社会の土地利用状況に変容を迫ると同時に,現地の人び とが逆に,こうした政策を足掛かりとして自らの利益追求のためにさまざまな試み(たとえば,↗
功例として高く評価されるべきであろう。
ところで,杉島がアジア・太平洋地域の土 地制度の特徴のひとつとして挙げた①重層性 という議論は,後住者に対する先住者の「呪 術的・宗教的」な優位性,あるいは先住者と 土地との「呪術的・霊的」紐帯という馬淵東 一の議論を踏まえたものである(馬淵 1974 [1971])。馬淵自身は,1930年代初頭に台湾 中部山地に住む原住民(ブヌンおよびツォ ウ)集落で実施したフィールド調査をもと に,東南アジア,インド,西アフリカの諸事 例との比較検討を通じてこの議論を展開し た。しかし,杉島の編著では,「呪術的・宗 教的土地所有権」という概念を広めるのに貢 献した台湾原住民のその後の状況について検 討されてはいない。他方で歴史学者の岸本美 緒は,「(近代的な)個人的所有権」の考え方 とそれによって影響をうける以前の世界各地 の「土地制度」との対比に一定の有効性を認 めた上で,世界各地のさまざまな所有の在り 方を検討するためには,「近代/非近代」と いう二項対立を強調するよりも,どの文脈に おいて何が(たとえば「個人的権利」あるい は「社会(の全体性)」など)強調されてい るのかに注視するほうが,多様な所有の在り 方の比較研究としての可能性を秘めていると す る(cf. Kishimoto 2003)。 で は, 世 界 各 地のさまざまな所有の在り方(その類似と差 異),そして歴史的変容あるいは「歴史的も つれあい」という視点に立った場合,近代日 本が「初めて」植民地として統治し5),戦後 中華民国政府によって統治されてきた台湾,
なかでも「呪術的・宗教的土地所有権」をも つ社会として描かれたブヌン社会の現代的土
地制度は,どのように立ち現われてくるのだ ろうか。本稿が当該社会の土地制度およびそ の歴史的変遷に注目する理由はそこにある。
この問題を明らかにする上で,以下ではまず,
台湾原住民の土地制度および慣習・実践に関 する先行研究を振り返ってみたい。
台湾では1895年の領台直後から,軍や研 究者を動員した地図作成や旧慣調査などが実 施された。また,1901年には民政長官・後 藤新平の主導のもと「臨時台湾旧慣調査会」
が設置され(〜1919年),岡松参太郎を代表 とする法学者らによる清朝時代の行政文書や 漢族系住民の慣習法を中心に調査研究を通じ て,『清 国 行 政 法』(1905〜1915)や『台 湾 私法』(1910〜1911)が刊行された6)。さらに,
同調査会では,原住民に関する調査も進めら れており,『番族慣習調査報告書』(1915〜
1922),『蕃族調査報告書』(1913〜1921),『台 湾番族慣習研究』(1921)などが編纂・刊行 されている。これらの諸シリーズの調査者お よび執筆者は人類学の専門家というよりも,
現地配属の警官や官吏および法学者であっ た。現地語表記にカタカナが用いられ,情報 が断片的であるという問題点はあるものの,
いずれのシリーズにおいても,地名の由来や 個々の社会の土地制度に関して一定の紙幅が 割かれていた。そして,こうした研究成果は 人類学者がその後の個別的な調査を進める上 で貴重な基礎資料となった。
第二次世界大戦後,研究の主体が日本人か ら台湾社会のマジョリティである漢族研究者 に代わって以降も,個別社会の土地制度や慣 習・実践に対する関心が消えてしまったわけ ではない。たとえば,1960年代および70年
↗ 土地法廷の記録を利用した権利主張)を展開する状況を検討している(棚橋 1999)。また,槌谷智 子は,油田開発が進むパプアニューギニアにおいて,政府からの補償金やロイヤルティを得るため に,人びとがクラン成員のメンバーシップを操作し,新しいクランを創設し,神話や系譜を「創造」
する状況を明らかにしている(槌谷 1999)。
5) 江戸期および明治期におけるアイヌや琉球(沖縄)に対する諸政策は,こうした植民地統治に先行 するものとして捉えられるべきであろう。
6) 同旧慣調査会による調査研究には,ドイツ比較法学派(たとえば,J・バハオーヘン,A・H・ポスト,
F・ベルンヘフト,J・コーラーなど)の影響があるという(cf. 中生 2000)。
代に相次いで刊行されたモノグラフは現地の
「伝統的」な土地制度について一定の紙幅を 割いており(e.g. 丘 1966),中央研究院民族 学研究所が台湾省政府民政庁の委託を受けて 80年代初頭に李亦園が中心となってまとめ た『山地行政政策之研究與評估報告書』にお いても,原住民の人口,教育,健康,行政シ ステムと並んで,現行の保留地制度の問題点 や違法売買・リースにもとづく保留地流失の 問題が取り上げられている(李其他 1983)。 さらに近年では,顔愛静と楊国柱によって,
経済史の分野において,原住民を対象とした 土地政策の変遷に関する網羅的な研究がなさ れている(顔・楊 2004)。
しかし,こうした先行研究の蓄積にもかか わらず,台湾原住民の土地制度に関する研究 にはひとつの問題があった。それは,「伝統 的社会・文化」の再構成を目指すあまり,現 地社会の変化や社会問題へ十分な注意がはら われることがなかったという点である。他方 で,李や顔らの研究は社会変化や社会問題と いう点を重視してはいたが,概況的な数値提 示やアンケート調査の整理という程度にとど まり,原住民の土地制度および実践の具体的 状況が描かれてきたとは言い難い。
こ う し た 状 況 を 補 う も の と し て 重 要 な のが,黄應貴らの研究成果である(e.g. 黄 1973, 1992)。黄は,台湾中部のブヌン村落 で行なったインテンシヴな研究を通じて,
1950年代末から60年代に実施された土地測 量・土地登記プロジェクトによってブヌンの 父系拡大家族が分裂し,土地・保留地に対す る権利が個人化していったことを指摘した。
黄はまた,このような変化は村落内部におけ る貧富格差の拡大ならびに都市への労働人口 流出をもたらしたが,個人的能力―および
その基底にある「ハニトゥ」(hanitu,霊魂)7)
の力 ―を重視するというブヌンの文化的 なロジックは存続していると主張した(黄 1992: 90-92)。黄の議論と多くの部分で主張 を同じくする呂秋文も,台湾東南部のブヌン 村落に関する研究において,戸籍資料や保留 地登記資料などの諸行政資料・個人資料,さ らには社会学的なアンケート調査資料などを 利用しながら,戦後に行われた土地測量およ び土地登記プロジェクトに際して,当該地域 のブヌンの父系拡大家族が分裂していったこ とを示した(cf. 呂 1990: 第3,4章)。
他方で日本の研究者としては,長沢利明が 1980年代初頭における台湾東部・花蓮県山 地部のブヌン村落の状況について,クラン構 成,婚姻,世帯構成および拡大家族の分裂に 焦点をあてて報告している(長沢 1990)。長 沢は同報告の中で,ブヌンのサグ・グループ のひとつであるタケヴァタン・グループの諸 クランによって構成される村落における婚姻 圏の拡大と伝統的な婚姻ルール8)の遵守,集 団移住および戦後における父系拡大家族の分 裂・分戸(直系家族化)を指摘した。
戦後の戸籍資料や保留地登記資料などの行 政資料を重視した黄や呂の研究で問題なの は,植民地期にブヌン社会が経験した社会変 化と土地制度の変容との関連性が十分には描 かれていない,という点にある。また,黄が インテンシヴな調査を行った中部の集落は,
ブヌン社会では例外的に植民地期の集団移住 を経験していない集落であり,かつて山地部 に住んでいた多くの原住民がそうであったよ うに,外来政権の統治を通じて集団移住を経 験した人びとの現在的状況を考慮する必要が ある。さらに,いずれの先行研究においても,
現代を生きるブヌンたちが実際に保留地を継 7) 黄はさらに,ブヌンの霊魂観には右:(男性・集団・秩序・父系クラン)/左:(女性・個人・無秩 序・母方クラン)という対称性が存在するとし(黄 1992: 194-200),ブヌンの「権力」観念,「空間」
観念,「時間」観念,「物」観念などの議論を進めた。
8) そのルールとは,①諸クランの連帯としての胞族(phratry。馬淵が言う「大氏族」)間での婚姻の 禁止,②母の出身クラン成員との婚姻の禁止,③母の出身クランが同じ者同士の婚姻の禁止である。
南投県信義郷一帯における現代的婚姻の状況については拙稿(石垣 2001)を参照のこと。
承・分配・リース・売却する具体的状況は報 告されておらず,かれらがどのような認識で 土地をとらえているのか,その詳細は十分に は検討されていない。
そこで本稿では,まず,先行研究を補足す るために,筆者が台湾中部および東南部の諸 村落において行なった現地調査で入手した資 料にもとづき,現代のブヌンによる土地・保 留地の相続(分配・継承)制度,売買・リー スなどの具体的事例を報告する。その上で,
植民地化以前のブヌン社会における土地制度 と現代的な土地・保留地制度とを比較・検討 する。また,こうした比較・検討では,他地 域の状況に関する先行研究の成果も踏まえな がら,現代のブヌンが,自らが使用する保留 地をどのように捉えているのか,その一端を 描き出したい9)。
以下ではまず,第1章において,植民地化 以前のブヌンの「伝統的」な土地制度の再構 成を試みる。つづく第2章では外来勢力によ る統治政策―特に土地政策―を整理し,
第3章ではブヌンの現代的生業について概観 する。さらに第4章では,筆者が近年継続的 に実施している現地調査の資料をもとに,土 地・保留地の継承分配およびリース・売却に 関する具体的な状況を報告する。その上で第 5章では,先行研究の成果と対照させながら,
ブヌンの現代的な土地・保留地継承制度の特 徴および歴史的変遷について検討し,他地域 との比較においてブヌンの土地制度の現状に 対して考察を加える。本稿の具体的な対象は,
かつて台湾中部山地をその勢力範囲としたブ ヌンに限定されている。しかし本稿では,個 別・具体的な資料にもとづいた特定社会の土 地制度変遷の検討を通じて,現代の先住民諸 社会を研究する上で人類学者に必要とされる 基本的な認識枠組みについても探究してみた い。
1. 植民地化以前の土地制度
植民地化以前のブヌンの土地制度および農 耕については,植民地期に調査を行なった 日本人研究者および戦後の漢族研究者によ る研究成果が残されている(e.g. 田中 1913;
佐 山 1983 [1915]; 森 1916〜1917, 1997; 何 1958; Mabuchi 1960; 馬淵 1974 [1937], 1974 [1941], 1974 [1952], 1974 [1971]; 瀬川 1954;
丘 1966; 黄 1992)。ブヌンたちの現代的な土 地利用状況および保留地をめぐるやり取りの 具体的な状況を検討する前に,本章ではま ず,上述の先行研究の内容をもとに,植民地 化以前の土地制度を可能な限り再構成してみ たい。
日本の植民地権力が台湾山地に支配力を行 使する以前,中央山脈の各所には,数戸から 10数戸程度の父系拡大家族(「ルマ」lumah
あるいはlumaq。「家屋」あるいはそこに住
まう「家族」の意)10)から構成されたブヌン の集落(asang,「巣・住処」の意)が点在し ていた。アワやイモなどを中心とする焼畑農 耕と大小の野生動物の狩猟を生業としていた かれらは,森林(libus)を猟場(hanupan)
として利用し,ときに森林を開墾(ka-libus)
して作物を栽培した。3年ほど耕作を続けて 地力が衰えてくると,かれらはその場所を休 耕地(simok)とし,別の場所(森林や休ま せておいた休耕地)を開墾・耕作した。しか し,居住地付近で開墾/休耕/再開墾を繰り 返したとしても,人口の増大などにより良質 な猟場や焼畑耕作地は次第に乏しくなる。か れらはその場合,遠出の狩猟などでみつけた 土壌や気候などの諸条件が良い土地に耕作小 屋(taluhan)を建てて試験的に開墾・耕作 し,収穫が良ければ,一定の準備期間を設け た上で新たな土地へ移住した。こうした移住 9) 植民地統治開始後に台湾総督府や戦後の中華民国政府によって収奪・接収され,近年の権利回復運 動の中で注目されるようになってきた土地に対する人びとの意識については,別稿で検討したい。
10)北・中部方言の発音「q」と南部方言の発音である「h」は対応関係にある。
は,父系拡大家族全体で行われることが多 かったが,良質の猟場や焼畑耕作地の不足な らびに家族内部の不和などを理由として,移 住が父系拡大家族の分裂=分戸(min-vaz)
をともなうこともあった。現代においてイン タヴューが可能なブヌンの古老たちは,こう したかつての分戸に際して土地が分配される ことはなく,新たな土地の取得や開墾は移住 する者が「独力・自分たちで」(anak-anak)
行ったと語っている。また,こうした移住は,
ある種の実力主義にもとづいたもので,分戸 する者の長幼などは問われず,長男だから家 に留まる,あるいは第2子以降だから分戸 しなければならないといった規範は存在しな かったという。
当時の土地制度においては,使用者・居住 者のいない森林・処女地を誰が最初に利用し たかが重視されていた。上述のような移住プ ロセス(狩猟⇒開墾・耕作⇒移住)をへるた め,土地の最初の使用者とは,通常,猟場と しての利用者であり,それは「土地の持主」
(taima-dalaqあるいはtaimi-dalah)11)と呼ば れた。その権利は,最初の使用者の同一父系 拡大家族,理念的には,父系的な紐帯でつな がったサブ・クラン(ときにはクラン)成員
全体にまで拡大された12)。
しかし,かれらの土地は「土地の持主」集 団によって極めて排他的に利用されていたわ けではない。「土地の持主」とは異なる親族 集団の成員であっても,「土地の持主」集団 の許可,および「土地の持主」集団成員の同 行を条件として,その猟場で狩猟することが 許されていた。このようにして他集団の猟 場を利用し獲物があった場合,その利用者 は「土地の持主」集団に獲物の右側の太腿
(pinasah)などを返礼として贈った。また,
「土地の持主」集団の許可を得れば,その猟 場内の一画を畑として開墾・耕作することも できた。その場合も,アワ酒や肉を用いて「土 地の持主」集団を饗応するのが常であった。
こうした贈答は,「土地からの物」(pais-dalaq) などと呼ばれ(帝国学士院 1941: 117),か ような饗応をすませた人びとは,その畑に対 する「耕地の持主」(taimi-huma)としての 権利を獲得することになった。ただし,それ だからといってもともとの「土地の持主」集 団の土地に対する権利が消滅したわけではな く,その耕作地付近で「耕地の持主」が取得 した獲物の一部も,返礼として「土地の持主」
集団に贈られた(馬淵 1974 [1971]: 208)13)。 11)「taima-dalah」あるいは「taini-dalah」などの表現もある。また,それが猟場であることを強調し,
「猟場の持主」(taimi-hanupan)と呼ばれることもあったようである。
12)戦前の研究で言われる「小(中)氏族」,ブヌン語で言うところの「ひとつの種類」(tas-tu-lumaq),
「出てきたところが同じ」(kautuszang)など。関連する表現としては,「(かつて)ひとつの炉の灰」
([mai-]tas-tu-qabu),「(かつて)ひとつの家族」([mai-]tas-tu-lumaq),「ひとつの種類」(tas-tu-sidoq
あるいはtas-tu-sidoh)というものがある。前二者がより近しい父系拡大家族関係を指すために用
いられるのに対し,後者「ひとつの種類」が示す範囲はより伸縮性が高く,「ひとつの家」あるい はそれを束ねるものから,より大きなカテゴリー(〜集団,〜族)にまで拡大することも可能であ る。なお,人類学用語で「クラン」あるいは「氏族」と呼ばれてきたブヌンの父系親族集団を,系 的な出自概念ではなく,現地語の「ルマ」(家・家屋・家族)という表現から再解釈しなおした論 考としては拙論(石垣 2005a)がある。
13)馬淵は,人口密度が比較的に高くなっていた「郷土のブヌン」(現在の南投県山地部)の間では,
休耕地となるまでの耕作地の使用期間が延長され,かつ休耕地に対する「耕地の持主」の権利が強 調されて,「耕地の持主」の方が「猟場の持主」よりも「土地の持主」として人びとに認識される 傾向がでていることを指摘している。他方で馬淵は,勢力拡大を通じて後に獲得された「移住地」
一帯(現在の台東・高雄県山地部)では,開墾されていない森林が豊富あったため,休耕地に対す る「耕地の持主」の権利主張はそれほど厳格ではなかったことも記している(1974 [1971]: 209)。 こうした状況からみて,「休耕地に対する権利の強調度」は,手付かずの森林がどれだけ残されて いるか,「耕地の持主」が実際に休耕地の近隣に住んでいるか否かということと相関関係にあった ものと考えられる。この問題に関する詳細な検討は今後の課題としたい。
馬淵によれば,こうした土地に対する重層 的な権利関係および複数の集団間での贈答関 係の背後には,土地を先に利用した者たちの
「心」(is’ang)あるいは「霊魂」(hanitu)の 状態(喜怒哀楽や嫉妬心など)が,後にその 土地を利用する人びとの吉凶禍福(e.g. 狩猟 や耕作の成果)に影響をおよぼすという考え が存在していたのだという。馬淵はブヌンと 土地とのこうした関係性のあり方を「呪術 的・霊的紐帯」(magico-spiritual tie)と呼 んだ。さらに彼は,東南アジア,南アジア,
アフリカなどにおいても同様にみられる,土 地を先に利用した者たちと後から利用した者 たちとの間の類似した権利関係を,より広義
に「呪術的・宗教的土地所有権」(magico- religious land ownership)と名付け,その 特徴および傾向について考察を加えた(馬淵 1974 [1971])。
2. 外来勢力による土地政策史
前章では,先行研究の成果にもとづき,植 民地化以前のブヌンの「伝統的」な土地利用 状況を再構成した。では,17世紀からはじ まる外来勢力の登場は原住民社会にどのよう な影響を与えたのであろうか。本章ではまず,
土地政策を中心にその状況を整理することに しよう。
写真1. ブヌンのかつての焼畑耕作地 出典:瀬川(1954: 55)
12月実際の開墾・耕作 11月粟畑開墾祭︑農具への呪文 10月里芋・稗収穫︑実際の鍬入狩猟祭︑長子祭 9月伐採︑開墾︑焼畑︑鍬入 8月収穫乾燥︑倉入︑形式的鍬入子供祭 7月粟収穫祭︑乾燥︑保存の呪文豚供犠 6月除草・甘薯植付け 5月増殖の呪文︑粟畑祓い狩猟祭︑子供祭 4月実際の除草 3月粟畑除草(祭)︑粟発芽(祭)毬︑独楽︑豚毛 2月播種祭の続き︑実際の播種 1月種粟準備︑粟播種祭長子祭
陽暦内容その他
表1. ブヌンのかつての農耕暦(粟作中心)
出典:馬淵 1974[1936](カ=トアン集落の事例)より内容を簡略化して筆者作成。
2.1. オランダ・東インド会社,鄭氏政権期 1624年にはじまるオランダ(東インド会 社,VOC)による植民地統治においては,
現地における収入源として,漢族への人頭税
(台南付近のみ),村落請負税,稲作10分の 1税,市衡量税,豚屠殺税などが設けられた。
このうちもっとも原住民と関係が深いのが村 落請負税である。この税制度は,すでに帰 順した原住民村落との独占的な交易(e.g. 鹿 皮,鹿肉,etc.)をオランダ側から認められ た商人(多くが漢族)が,その交易を通じて 得た利益の一部を,植民地政府に納税すると いうものであった(cf. 中村 1963)14)。
その後,1661年には鄭成功がオランダ勢 力を駆逐した。3代,22年間にわたる台湾 支配において鄭氏政権は,オランダ時代から の村落請負税制を踏襲する一方で,これまで 西部沿岸部(ならびに東北部および南東部の 一部)に留まっていた植民者側の影響力をよ り内陸部へと押し広げて開墾を奨励した。ま た,こうした内陸部進出に抵抗する原住民に 対しては,武力をもってこれを制圧した。他 方で,オランダ植民地期には統治を円滑に進 めるために原住民に対するキリスト教の布教 なども行われたが,鄭氏政権は上述の村落請 負税制を踏襲する(そして抵抗者を掃討す る)以外は,原住民社会に対して実質的な影 響をおよぼすことはできなかった(cf. 中村 1954; 伊能 1904: 第3篇第3章)。
2.2. 清朝期
1683年に鄭氏政権を滅ぼした清朝は,台 湾が再び反抗勢力に支配されることを危惧 し,中国大陸の住民が許可なく渡台すること を禁じた。清朝はまた,帰順の有無にしたがっ て原住民を〈熟番〉と〈生番〉とに分け,漢 族入植者が許可なく〈番人〉の生活地域へ入 植することを制限した。ただし,清朝もまた,
すでに帰順している原住民村落に対しては,
それまでのやり方を踏襲するかたちで,原住 民村落との交易を行う商人から税を徴収する という村落請負税を課した。オランダ統治期 には入札制(もっとも高額な村落税を設定し た商人にその原住民村落との独占的交易権を 許可するというもの)であった〈番餉〉(原 住民村落に対する村落税)を,定額制へと変 更した。また,政府から認められた〈大租戸〉
と呼ばれる土地開墾権保持者たちは,原住民 との交渉を通じてその土地の開墾権を取得し た場合,〈番大租〉を原住民に納めることも あった。このように,清朝は名目上の〈禁渡 封山〉政策(台湾渡航ならびに山地への入植 を禁止する政策)は堅持したものの,実質的 には漢族による原住民居住地域への侵入・入 植が止むことはなかった。そして漢族の山地 入植は,各地で漢族と原住民勢力との武力衝 突を招いた(cf. 張士陽 1988, 1994)。
効力の乏しい隔離政策はその後も存続した が,19世紀後半,極東地域における英仏な どヨーロッパ列強の影響力が増大するように なると,東シナ海に浮かぶ台湾の戦略的重要 性を認識した清朝は,台湾の近代的開発へと 路線を変更した。原住民が多く居住する山地 および東部をも含めた台湾全土における支配 を確立すべく,同地域への漢族の入植を積極 的に主導する〈開山撫番〉政策(入山を許可 し原住民を慰撫する政策)も着手された。し かし,軍備増強,鉄道・幹線道路の建設,税 制改正といった急激な開発路線は財政上の逼 迫ならびに住民の反発をまねくこととなり,
数年で頓挫した。山地部で生活していたブヌ ンなどの原住民にも近代的な統治政策が本格 的に浸透してくるのは,日本植民地期以降の ことであった(cf. 中村 1954; 張勝彦 2003;
顔&楊 2004: 107-170)。
2.3. 日本統治期
1895年,日清戦争に勝利した日本が台湾 14)林・候・劉によれば,オランダとの交易,漢族の入植・耕作を通じて,17世紀半ばにはすでに台
湾西部平地の原住民の土地流失が始まっていたという(cf. 林・候・劉 1996)。
を領有することになった。総督府は山地およ び東部地域に対しても積極的な統治を実行し た。総督府が当時「蕃人」と呼ばれた原住民 に対して実施した「理蕃政策」の基本は,無 主地論にもとづいた土地収奪,さらには警 察権力を用いた同化政策であった(cf. 小島 1979, 1981a, 1981b)。
台湾領有直後,総督府は「官有林野及樟脳 製造業取締規則」(1895年)を公布し,所有 権を証明できない山林原野は全て「官有」と した(藤井 1997: 14)。さらに,1910年から は「五箇年計画理蕃事業」と題した武力制圧 を断行している(〜1914年)。また1925年 からは,国土保全と林業部門発展の調整を目 的とした「森林計画事業」を実施した(〜 1935年)。1928年, 総 督 府 は「蕃 人 用 保 留 地面積標準ニ関スル件」を発布し,原住民1 人当たりのために保留されるべき土地を3ヘ クタールと定めている。その内訳は,「定住地」
0.2ヘクタール,「耕作地」1.8ヘクタール,「用 材燃料採取共用地」0.5ヘクタール,「牧畜其 他産業増進用地及災害予備地」0.5ヘクター ルであった。
総督府はさらに,1930年から1937年にか けて,とくに「蕃人」の生活保護上の必要性 を考慮し,各自が使用する土地範囲を確定
する「蕃地開発調査」を実施した。このと き,実際の土地登記手続きまでは実施されな かったが,当時の原住民人口を8万人と換 算し,約24万ヘクタールのみが保留地とし て原住民に残されることとなった。その面積 は,かつて原住民諸族が勢力範囲としていた 約165万ヘクタールの15%に過ぎない。残
りの85%はすべて「官有」となり,それは
総督府主導の開発事業用林野,保安林,帝国 大学演習林,民間登記用などとして区分され ていった。
他方で総督府は,統治上の利便性や原住 民の生活改善(さらには帝国の臣民として 同化・皇民化)を目的とし,山地部の集落 を山麓部へと移住させた。また,タイヤル
(〈泰雅族〉)による抗日蜂起・霧社事件発生
(1930年)後には理蕃政策の刷新が試みられ,
強制的な集団移住政策も断行された(cf. 山 路 2004: 第2章)。
2.4. 戦後期
戦後台湾を統治した中華民国は,日本植民 地期以来の保留地制度(土地の所有主体は国 家)を踏襲する一方で,かつて「蕃族」や
「高砂族」と総称されていたオーストロネシ ア語族系住民の呼称を〈高山族〉,さらには
表2. 日本植民地期「蕃地」区分(1930年)
出典:顔&楊(2004: 207) より引用(一部修正済み)。(甲≒0.97ヘクタール)
総面積(ha.) 土地用途 面積(甲) 割合(%)
1,681,482(①)
民間登記地 2,985 0.18
各種許可地 28,884 1.72
官行施業地 営林所 179,387 10.67
専売局 2,471 0.15
大学演習林 117,091 6.96
保安林 45,672 2.72
開墾制限および禁止地 3,378 0.20 新規施業地 386,264 22.96
「蕃人」所要地 261,618 15.56 高山不毛地および断崖・河川見地 168,482 10.02 小 計 ② 1,196,232 71.14 余 剰(①−②)企業導入地 485,250 28.86
〈山地同胞〉(略称,〈山胞〉。以下,山胞)へ と改めた。さらに日本植民地期には特別行政 区であった原住民居住地域にも地方自治体制 を敷き,県以下の地方自治体として30の山 地郷を設置した。他方で1950年代半ばから は,普通行政区に原籍を有する山胞をとくに
〈平地山胞〉(以下,平地山胞)と呼称するよ うになり,かれらが多く生活している25の
(県の下位の)地方自治体を〈平地郷(鎮・
市)〉と呼ぶようになった。
日本植民地期と戦後の原住民土地政策の最 も異なる点は,1950年代末から本格化する 土地測量を通じ保留地使用権(後に所有権) の個人登記が実質的な効力をもちはじめたこ とである。戦後の保留地は1948年に施行さ れた「山地保留地管理弁法」(全29条。現「原 住民保留地開発管理弁法,全44条)によっ て管理された。
しかし,同法は登記から数年間の継続後に 原住民の保留地所有権取得を認める一方で,
漢族による保留地の使用という現実を追認す るように再三にわたって改正された。1960 年の第1回改正では,山地郷の経済発展を目 的として掲げられた「山地の定住農耕化の奨 励」の下,漢族の自作農や普通行政区の企業 が「山胞による開拓および山地行政を妨害し ない」限りにおいて保留地の部分的に借用す ることが合法化された(第11,12,13条)。 第2回改正(1966年)においては,登記後 10年間の継続使用後に,農地ならびに宅地 の所有権を山胞が取得することが認められる ようになった。政府は他方で,同年から開始 された保留地開発計画において国家および普 通行政区の漢族による保留地利用に対する規 制緩和政策を推し進めた。第4回改正(1990 年)では,同弁法の制定単位が台湾省政府か
ら行政院(中央政府)へと格上げされ,名称 も「台湾省山胞保留地開発管理弁法」に改め られた15)。同弁法(第8条)では,林業用お よび牧畜用の保留地についても,登記後の継 続使用を通じて山胞が所有権を取得すること が認められ,所有権取得までの継続使用期間 も5年へと短縮された。しかし,その後の改 正でも保留地所有権の移譲は山胞身分を有す る者の間に限定されたものの,すでに保留地 内で生活している漢族による保留地の継続的 借用を認めるなど(第28条),非山胞によ る保留地借用の制限はよりいっそう緩和され つづけた。皮肉なことに,1950年代末から 1960年代にかけて進められた保留地の測量・
登記事業の実施ならびに1960年に始まる保 留地の開発・経済発展を目指した「保留地管 理弁法」の再三にわたる改正が,保留地を現 金収入のための商品へと変容させ,保留地の 非合法売買・リースを可能にしていった。台 湾の急速な経済発展にともなって,山地が全 台湾の経済システムの一部として急速に取り 込まれていく中,少なからぬ保留地が漢族 の手に渡ったといわれる(cf. 顔&楊 2004:
352-359)。
またこうした保留地流出の背景には,長年 にわたる開発の結果,1960年代に入ると台 湾の人びとの大多数が生活している西部平地 の土地不足が深刻になり,〈上山下海〉(「山 に登れ,海へ下れ」)というスローガンの下,
多くの漢族が山地郷内の山胞保留地を求める ようになってきたという状況もある(cf. 黄 1992: 110)。他方で,原住民側にもまた,台 湾経済と直接的に接合されるなかで,現金経 済への依存度が高まったという要因があっ た。なお,政府の統計によれば,2001年末 現在,漢族による使用が確認できている保留 15)この改正は,「中央政府」,「中央政府下の省・(行政院直轄)市」,「省の下位に位置する県・(省轄)
市」,「県の下位に位置する(県轄)市・鎮・郷」という行政システムを採用している中華民国が,
国共内戦の末に現実的にはその一部でしかない台湾省(および「中華民国・福建省」)の上にしか 存在していないという矛盾を部分的に修正するためであり,ナショナル・アイデンティティの再編 という潮流の中で1998年12月に実施された「台湾省の簡素・形式化」(行政院の出先機関として の位置づけ)に先駆けたものであった。
地(約1万6,522ヘクタール)の3分の2に あたる約1万930ヘクタールは,違法使用 であるという(cf. 顔&楊 2004: 352)16)。
植民地勢力による土地収奪ならびに戦後に おける保留地流失という状況に直面し,原住 民の教育エリートおよびキリスト教関係者ら は,1980年代に社会運動・民主化運動が興 隆する中で,「土地を返せ!」と題した抗議 デモを行なった。原住民が土地に対する権利 要求を高める中で政府がとった具体的な対応 策とは,1980年代末から「台湾省山胞社会 発展方案」の一環として実施された保留地の
「増加編入」(〈 増 編 〉)および「区画編入」
(〈劃編〉)というものであった(cf. イチャ ン1997 (1994): 15-19; 藤井 2001: 251-259)。
「増加編入」とは,かつて原住民が使用して いた土地でかつ現在の保留地に隣接している 土地を対象とし,原住民の人口および土地不 足に応じて原住民保留地を新たに増やすこ とであり,その対象には〈山地原住民〉(実 施当初は山地山胞以下,山地原住民)およ び〈平地原住民〉(同じく平地山胞以下,平 地原住民)が含まれる。山地原住民とは,日 本植民地期に特別行政区内に(高砂族あるい は個々の「種族」としての)戸籍を有してい た人びとであり,平地原住民とは,当時から 平地の普通行政区において同様の戸籍をもっ ていた人びとである17)。他方で「区画編入」
とは,普通行政区に区画されたために保留地 をもっていなかった平地原住民が家屋として 利用している公有地を,保留地として新たに 編入することである。すなわち,原住民側が 土地返還運動において保留地区画の根本的な 見直しを要求したにもかかわらず,政府は現 行の保留地区画自体の正当性を問題にするこ となく,「人口増」や「土地不足」さらには 現在の宅地使用状況の承認という方策のみを 打ち出したのであった。1990年から1998年 に行われた増加編入および区画編入プロジェ クトにおいて実際に返還がなされたのは,増 加編入が約1万8,195ヘクタール,区画編入 は約284ヘクタールであった(顔&楊 2004:
252-257)。保留地全体から見た増加率は7%
程度に過ぎない。
ちなみに,台湾では,1972年に「国立公 園法」が制定され,1982年には最南端に位 置する墾丁海岸に墾丁国立公園が設立され た。その後,玉山(1985年),陽明山(1985年), 太魯閣(1986年),雪覇(1992年)の国立公 園が相次いで設立されている。その総面積は,
保留地総面積の1.2倍に相当する32万ヘク タールの広さを誇る。その内の4つの国立公 園は,タイヤル,ブヌン,ツォウ(〈鄒族〉), パイワン(〈排湾族〉)などがその祖先が生 活 し て き た 土 地 と し て 主 張 す る か れ ら の
〈伝統領域〉18)と重複している19)。
16)「原住民保留地開発管理弁法」(最新改正:2008年10月24日)は,保留地を使用(耕作,造林,
家屋建設,リース)あるいは所有する主体を,原則として原住民に限定している(第15条)。ただし,
かつては上記以外にも,「山地同胞(現在の原住民)が多く居住してきた地方自治体」として政府 が指定してきた〈山地郷〉内で働く非原住民の公務員に,生活に必要な範囲での保留地の利用を認 めたこともある。しかし,現行制度での例外は,開発・興業を理由として,郷レヴェルで組織され ている「原住民保留地土地権利審査委員会」に借用を申請し許可された場合,あるいは同法施行以 前より当該地方自治体内に戸籍をもち,その土地を継続的に使用してきた非原住民による宅地の継 続使用などである(第24条および第28条)。同弁法の最新版は全国法規資料庫HP<http://law.
moj.gov.tw/>で参照した。
17)原住民側の再三にわたる「山地原住民/平地原住民という区別の撤廃」要求にもかかわらず,こう した日本による植民地統治以来の制度は,現行の選挙区区分や土地管理制度にも継承されている
(cf. 笠原 2004: 33-35)。
18)この言葉は,一部のネイティヴ研究者,地理学者,生態学者らが90年代後半から始めた原住民関 連の土地調査の中で用いられるようになったものである。こうした調査は,北米などの先住民が 1970年代から行ってきたものを台湾に導入したもので,2002年からは,GPS(全地球測位システム)
やGIS(地理情報システム)などを用いた政府主導の伝統領域調査が各地で実施されている。 ↗
3. 現代の生業
前章で概観したように,過去100年足ら ずの間に原住民社会に対してさまざまな近代 的な土地政策が実施されてきた。では,こう した諸政策を受け,台湾原住民たちの生業は どのように変化したのであろうか。次章にお いて土地・保留地をめぐるやり取りの具体的 な状況を論じる前に,本章ではブヌンの状況 を中心に,原住民の現代的な生業活動につい て振り返っておこう。
中華民国政府は,戦後初期(1950年初頭) から「生活改善」,「定着農耕」,「造林事業」
という3本立ての政策を始めた。こうした政 策により,原住民社会には大きな変化がもた らされた。これらの事業は日本植民地期より すでに始動されていたが,戦後のそれは原住 民たちの主体的な参加,および全台湾規模の 市場経済と原住民経済とのより直接的な接合 を迫るものであった。原住民社会はこうして 1960年代から1970年年代にかけて大きな 転換を余儀なくされることとなった(cf. 黄 1975; 瞿 1983; 李其他 1983)。他方で,戦後 の「奨励山地育苗及造林実施弁法」(1951年) 下での造林事業は,台湾全土の山林へと次第
にその規模を拡大させ,1950年代から60年 代にかけて,造林は原住民にとって身近な現 金収入源のひとつとなった。また,原住民の 一部,とくにもともと部分的に漁撈活動に慣 れ親しんでいたアミ(〈阿美族〉)などにとっ て,遠洋漁業は1970年代における重要な収 入源となっていた。
換金作物の栽培自体は日本植民地期からす でに行われていた。しかし戦後のそれは,各 地の郷公所や農業協同組合による栽培指導な どのサポートはあったものの,より直接的に 台湾全土の市場と結びついていた。こうした 換金作物には,原住民出身の一部の新興リー ダーらによって積極的に導入されたものも 多く,台湾中部山地に居住するブヌンの場 合,稲,トウモロコシ,タバコ,梅,茶,シ イタケ,インゲンマメ,トマト,ピーマン,
キャベツ,ショウガ,ピーナッツ,花卉,ブ ドウ,山茶花などがこれに該当した(cf. 黄 1973: 45)。こうした経緯を踏まえ,1982年 からは,山地郷に住む原住民に対しても全面 的な納税義務が課されることとなった(cf.
蕭 1986: 103; 藤井 2001: 215)。このような より大きな経済システムとの接合を経験する 中,原住民社会の一部では,村落のキリスト 教会内での紐帯や縁故関係などを中心とした
↗ こうした流れを受け,原住民による近年の権利回復運動では〈伝統領域〉という言葉が頻繁に叫ば れるようになっている。関連する調査プロジェクトおよびそれに対する人類学的検討に関しては拙 稿(石垣 2005b, 2006a)を参照のこと。
19) 1980年代末の土地返還運動以来,再三にわたり国立公園内の土地に対する原住民の抗議行動が繰
り返されてきた(cf. 陳 1999)。なお,近年の土地返還をめぐる動き,ならびにこうした活動が直 面する憲法・法制度的な問題点については拙稿(石垣 2006b, 2007)を参照されたい。
表3. 戦後初期における保留地面積(1966年)
出典:顔&楊(2004: 245)より引用(一部修正済み)。
類別 原住民保留地面積(ha.) 割合(%)
山地 平地 合計 山地 平地 合計
農業適地 43735.7278 3,565.7366 46,301.4644 18.69 29.77 19.24
林業適地 169,641.2001 7,672.4080 177,313.6081 74.19 64.06 73.68
牧畜適地 2,773.4740 144.1100 2,877.5845 1.20 1.20 1.20
その他 13,546.4620 595.1630 14,141.6254 5.92 4.97 5.88
合計 228,656.8639 11,977.4180 240,634.2819 100.00 100.00 100.00
図1. 原住民保留地分布図(1991年)
出典:顔&楊(2004: 249)。
相互扶助・組合組織化による共同生産・流 通・販売も試みられた。しかし,多くの場 合,こうした試みも全台湾をひとつとした市 場経済システムへの包摂という急激な変動の 中で,挫折を余儀なくされた(cf. 黄 1992:
第2章)。また,かつては水稲,サトウキビ,
タバコ,トウモロコシ,大豆などに対しては 公定価格買い取り制度や価格変動に応じた補 助金制度が存在したが,政府が世界貿易機構
(WTO)加盟を目指すなか,こうした保護 制度も1990年代後半には相次いで廃止され た。2002年に台湾がWTOに加盟して以降,
図2. L村保留地地籍図(部分)
出典:南投県信義郷公所の許可を受けて複製したコピーをもとに筆者作成
台湾の農産物市場には東南アジアや中国大陸 からの安価な作物が流入することになり,原 住民の零細農家はさらなる危機に直面してい る。なお,表4は,筆者が調査したブヌン諸 村落における現代的な農耕暦の概要である。
表4にみられるような現代的な農耕が村 落部で行われている一方で,1960年代末以 降,保留地の違法売却・リースの横行や漢族 資本の山地への流入を通じて,多くの原住民 労働人口が都市部へと流失していった。原住 民社会を襲ったこうした変化は,当該社会の 就業構造や所得構成のデータに如実に現れて いる。たとえば,1980年に発表された政府 統計によれば,それまで90%以上を占めて いた山地郷労働者の第1次産業への就業率
が,1960年代末から1970年代初頭にかけて 70%台へと減少に転じはじめた。それと同時 に,出身地の外部に就業機会を求める原住民 人口もこのころから急速に増加しはじめた。
1972年には年間5,661人だった〈山地山胞〉
(後の山地原住民)の出稼ぎ者数は,6年後 の1978年には倍近い9,369人にたっしてい る。〈平地山胞〉(後の平地原住民)となると この状況はより一層顕著で,1969年におけ る出稼ぎ者数3,992人が,9年後の1978年
には3倍以上の14,422人にたっしている。
さらに,出稼ぎ先での就業種別は,製造業,
農林水産業,建築業などいわば「3K」業種 が大半を占めた。また,都市部へ出稼ぎに出 た原住民たちは,職業・生活上の差別,教育
表4. 現代ブヌンの農耕暦(概要)
出典:調査データにもとづき筆者作成
上の非適応,売春業への従事といった困難に 直面せざるをえなかった(cf. 蕭 1986)。
原住民をとりまくこうした経済・就業状 況は現在でもつづいている。2002年現在,
山地郷内で農業などの第1次産業に従事し ている原住民は,その労働人口の27%に過 ぎない。これと比較し,同地域内の技術工,
機械整備工,非技術工・肉体労働者の合計
は36.33%に上る(原住民全体では,前者は
18.3%,後者は43%)(cf. 表5-1・2)。筆者 が実施した聞き取り調査によれば,2003年 時点における都市部での非熟練工・アルバイ ト(飲食店・雑貨店やガソリンスタンドの 店員,清掃員など)の日給は700元から800 元(約2,450円〜2,800円)であるが,山間 部での日給は600元(約2,100円)ほどにと どまるという。また,建設工事現場などでの 肉体労働の場合,都市部では経験者・熟練 工になると日給1,700元(約5,950円)ある いは2,000元(約7,000円)以上支払われる 場合もあるが,山間部ではこうした肉体労 働でもせいぜい日給1,000元程度(約3,500 円)に過ぎない。世帯単位の毎月の平均所 得は,台湾の一般国民世帯が92,372元(約
32万3,000円),原住民世帯が38,665元(約 13万5,000円)であり,その差は2.4倍に達 する(cf. 行政院原住民族委員会(編)2004:
144, 149)。さらに,多くの台湾企業は1990 年代以降,より安価な労働力を求めて,東南 アジア諸国から多くの外国人労働者を受け入 れている。通常こうした外国人労働者は日給 500元(約1,750円)ほどで雇われている。
就業機会を求めて都市にでる非熟練工の台湾 原住民の多くは,賃金の安い外国人労働者と も就業先をめぐって争わざるを得ない状況に ある。
以上みてきたように,戦後政府が推進した
「山地経済の台湾経済への取り込み」は,全 台湾規模の経済システムに接合されサブ・シ ステム化していった山地経済に対し効果的な 保護政策を打ち出せずに,原住民社会を根底 から揺さぶった。現在,原住民人口の約3分 の1(2002年時点で約15万人)が都市部で 生活していることの背景には,都市と地方と の所得格差,グローバル化の過程における国 内就業状況の変容といった経済的な要因が色 濃く影を落としている。
表5-1. 原住民業種別就業割合(2002年5月調査)
出典:行政院原住民族委員会(編)(2004: 146, 173-174, 267)をもとに筆者作成。
* 全国平均の数値は軍人を除いた数値である。
4. 事例
前章までにおいては,かつてのブヌンの土 地制度,外来勢力による土地政策,および現
代的な生業について概観してきた。本章で は,かような歴史的状況をへて,ブヌンの土 地制度がどのように変化したのか,とくに相 続(分配・継承)や売却20)・購入・リースに 焦点を絞ってその具体的な事例を提示する。
表5-2. 原住民(個人)の経済状況・月収(全国平均との比較。2002年調べ)
出典:行政院原住民族委員会(編)(2004: 264)をもとに筆者作成。
写真2. 現代の農地 出典:筆者撮影
20)保留地を利用したい非原住民(たいてい漢族)は,保留地の名義は原住民としたままで,口頭ある いは文書で契約を交わし,直接現金などを支払って,あるいは保留地登記後に発生する土地に係る 税金を肩代わりするなどして,当該保留地の実質的な使用者となることが多い。こうしたやり取り が公にされることはないが,実質的には,結ばれた取り決めの遵守を原住民および非原住民の双方 に強制する力をもっている。したがって,先に言及した「原住民保留地開発管理弁法」の第15条 および第18条,第20条,第24条,第28条,第30条(参照,注16)に基づくならば,こうした やり取りも「違法」なものだといえる。なお本稿では,違法性ゆえに水面下で行われる「売買」↗
なお,筆者は土地・保留地のやり取りの統計 データを分析することも考えたが,郷公所や 土地管理事務所に保管されている資料21)は 不特定多数の人びとのプライバシーにかかわ るため,筆者が調査を実施した時点では入 手・利用することが不可能であった22)。した がって筆者は個別の村落における悉皆調査を
断念し,筆者の調査趣旨に理解を示してくれ た個々のインフォーマントのみに対してイン タヴューを行なった。その範囲は,台湾中部
(南投県信義郷)および東南部のブヌン村落
(台東県延平郷),計4村落である。
最初に紹介する2つの事例(事例1,事例 2)は,親世代(基本的に父親)がその権威
写真3.保留地土地所有権状
出典:筆者撮影
↗ 行為をとくに「 」付きで表記している。
21)たとえば,『山地保留土地詮定等則清冊』には,地方自治単位(郷)内における保留地の位置・住所,
土地番号,土地分類(e.g. 宅地,畑,造林地,etc.),面積(ha.),土地登記期日,登記された保留 地にかかる税額,権利取得者の氏名・住所などが記載されている。
22)黄や呂らが集中的に調査を行った70年代,80年代にはまだこうした資料への研究者のアクセスは 許容されていたようである。
のもとで,子供たち(基本的に男子)に保留 地を「平等」に分配したことを強調するもの である。
◆事例1―土地の購入,子供たちへの継承―
台東県延平郷P村に住むB氏(Takis- vilainanサ ブ・ ク ラ ン。 男 性)は,1928 年生の79歳である。B氏の家族は氏が14 歳(1942年)頃,日本人警察の勧めに応 じ,家族7人(両親,B氏,4人の妹)で Halimudun集落よりD村に移住した。当 時,特別行政区内で原住民を管理してい た警察は,山麓部への移住を唱導してい た。しかし,D村への移住が強制的に行 なわれたわけではなく,B氏の父を含む
Halimudun集落の有力者数人が移住先の
視察を行なった上で移住が決定したとい う。オジ家族とは移住前に分戸していたが,
農作業や移住は一緒に行なった(移住後の 土地の割り当ては日本人警察が各戸の人数 に応じて行なった)。
B氏の家族は,戦後になって延平郷の郷 長にもなった親類(B氏の父方オバの夫。
部分的に漢族の血を引く)を頼り,1951 年P村後方の丘陵地の水田3ヘクタール を250元で購入し,その隣に移住した。こ の土地はほんらい総督府が移住のために準 備した土地だが,戦後漢族の手に渡り,そ の後アミ族の兄弟が使用していたものを買 い受けたものだという。B氏はその後,T 村出身の女性(Is-tandaクラン)と結婚し,
4男4女をもうけた。当初は後方の山で自 家用のアワや野菜を栽培して生活し,その 後,水稲,野菜,竹の販売を通じて得た金 で次々と保留地を購入した。現在では計 20数箇所,約20ヘクタールほどの土地を もち,延平郷の中でもかなりの土地持ちで ある。
保留地名義は最近までB氏自身のもの だった。しかし,数年前に大病したのを機 に,保留地を4人の息子(「女に土地の権 利はない」)に分けた(名義変更済み)。「い つ他界しても良いように」との配慮からで ある。山地部の保留地はさほど気にしな かったが,水田や畑は測量にもとづきなる べく平等になるように息子たちに分配した と言う。現在住んでいる宅地も,息子たち が平等に受け取るように分け,家屋も兄弟 が並んで建築した。「相続する土地の大き さと出生順位は関係ない」と言う。しかし,
大学を卒業させ日本留学もさせた3男への 分配は,「あいつが若い頃に教育にかなり金 をかけたから」という理由で少なめにした。
知人の多くが現金欲しさに保留地を手放 しているが,B氏自身は漢族に土地を売り 渡していないということが自慢である。以 前にある漢族が現在の宅地および隣接する 田畑一帯を1,000万元以上で購入しホテル を建設したいと言ってきた。しかし,当時 B氏家族には借金もあったが漢族からの申 し出を断った。「自分が生まれたかつての 集落は土壌も良くなかったのでとくに帰り
図3-1. 事例1系譜