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真宗研究10号 011藤原幸章「法然教学と親鸞教学―その教義展開をめぐる一視点―」

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Academic year: 2021

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ーーその教義展開をめぐる一視点||

︵ 大 谷 大 学 ︶ 法然教学の基調は善導の﹃観経﹄解釈を直接的なよりどころとした、 ﹁廃立為正﹂ということ一つに求めることが できる。このことは主著寸選択集﹄はもとより、師一代の教義表現を通じて極めて明瞭な事実である。それゆえにこ れに直接する宗祖の真宗も当然のことながら﹁たど念仏のみぞまこと L であって、これを中核として顕浄土真実の体 系は整えられ、念仏往生の信心はいよいよ純化せられてゆく。覚師のいわゆる﹁真宗の門においてはいくたびも廃立 を先とせり﹂とは、正にこのことを言いあてた言葉である。されば﹁廃立為正﹂とは、法然教学はもとより、これに つながる宗祖の真宗をも支える根本基調であるというべきである。 ところで廃立とは根本的原理的には法然の選択本願論に基くものであったが、周知の如く師は選択をもって﹁取捨 の義﹂と解しているから、従って廃立とはまた取捨と同義に用いられて、それは一般に一を取って一を捨てる二者択 一の意味にうけとられている。このことは﹃選択集﹄ 一部、各章通じてただ廃立取捨ということ一つをもって貫いて 法然教学と親驚教学 /¥ 九

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法然教学と親驚学教 九 0 い る 事 実 に お い て 明 ら か で あ る 。 かくの如くこの書が一すじに廃立取捨をもって貫き、 ひたすら如来選択の願心その ものを明らかにしてゆくところに、それが特に﹁見る者諭り易し﹂といわれる明快さがあり、同時にまた廃立義その もののもつ重要な歴史的意義があるといわなければならない。もしも法然にしてこのことがなかったとしたならば、 浄土教は寓宗として諸宗の中に埋没してしまうほかはなかったであろうし、さらに仏教そのものも平安朝の塔堂伽藍 と共に滅び去ってしまったに相違ない。もとよりわれわれもまた真実の仏道に値いえなかったであろうことは明らか で あ る 。 然るに廃立為正の宣言は、それだけで完全であって全く欠けるところはなかったであろうか。確かにそれは過去に おいて重大な役割を果しとげたというだけに止らず、常に信心純化の原理としてわれわれの現在にも生き続けている。 けれども廃立為正といわれるとき、問題はすべてがこれによって解消し去ったとはいえないものがあるようである。 何となれば廃立取捨ということの明快さの陰に、なお泊化しきれない次の如き問題点が指摘せられるからである。 第一に、ここでは能立の念仏そのものについては鋭く明快ではあっても、その反面に経の現文に明説せられた所廃 の諸善に関しては、必ずしも完全に消化し切られていないこと。 このことは廃立義に伴う根本的な問題点として常に指摘せられてきたところであるが、この点に関して最も苦慮 した人は恐らく誰よりも法然自身であったであろうことは、師のおかれた歴史の時点に顧み、 またその配慮にみち た表現をみるとき、容易に想察することが出来る。けれども廃立とは選択取捨を意味する限り、所詮﹁諸行は廃の 為に説く、念仏は立の為に説く﹂ものとして、 ﹁念仏の特秀﹂は明らかになったとしても、諸善の経説は依然とし

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て不消化のままに残される他はないこととなるであろう。 かくしてここから法然教学における諸善への腰昧さが発 生し、それは師の残後にまで永く問題を残さざるをえないこととなったのである。 第二に、廃立義は単に浄土一門のみの特殊の世界における特殊の論理に止って、広く全仏教々学を支える普遍性に 欠 け て く る こ と 。 ﹃選択集﹄教相章には﹃安楽集﹄の聖浄二門論を引用して二門の興廃を明らかにし、もって浄土二木の独立を宣言 している。ここでは恰も浄土一門の独立は、聖道門の否定抹殺なしにはありえないかの如く、この場合﹁安楽集﹄ の ﹁ 聖 道 一 種 今 時 難 証 ﹂ と か 、 ﹁唯有浄土一門可通入路﹂とかは、これを裏付ける何よりの教証となる如くである。 然るにいうところの﹁聖道難証﹂とは、果して聖道門の否定を意味する言葉であろうか。寧ろそれは聖道一門の厳 しい要請に応えんとして応ええぬ者の、深い悲しみを表わすものと見るべきであろう。 ﹁一には大聖を去ること遁 遠なるに出る。こには理深くして解微かなるに由る﹂とは、なさんとしてよくなしえないものの傷みにおいて感知 せられる末法五掲の悲しみであり、 かくして肯かれる世界こそ、縦令一生造悪のよく通入せしめられる﹁唯有浄土 一門﹂である。されば浄土門は聖道門の疎外や否定を前提とするどころか、逆にこれを主体的実践的立場から真実 に生かしめゆくもの、これこそ浄土一円であり、浄土宗そのものであるといわなければならない。それゆえに、も しも廃立為正ときいてこれを聖道門抹殺の為の論理と解したとするならば、 ﹃ 安 楽 集 L はもとより、恐らく﹃選択 集﹄の真意でもないであろう。 かくして廃立とは単なる浄土一門を支える特殊性にのみ止らず、むしろ聖道門仏教 をも真の意味において意義あらしめる普遍の論理であるといわなければならない。上にわれわれが、もしも廃立為 正の宣言がなかったならば、仏道そのものまでが遂には滅び去ってしまうほかはなかったであろう、といった所以 で あ る 。 しかるに廃立取拾の二者択一的表現は、 しばしばその真実義を見誤らしめて、浄土一門のみの特殊性の中 法然教学と親驚教学 九

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法然教学と親鴛教学 九 にそれ自らを閉じこめる結果を招くこととなる如くである。 第 三 に 、 かくしてわれわれの信心は固定化し柔軟性は失われて、現実の複雑な諸問題、特に人の宗教的要求の諸段 階に対処し切れずに、批判には鋭くても包容性には欠けて、遂には排他的独占的な宗派我を引き起さずにはおかな い と い う こ と 。 信心の個定化、柔軟性の欠除、信仰の排他性ということこそわれわれの最も誠むべき問題点であって、もしもこ こに陥ることありとしたならば、廃立為正とは仏の名における対立と抗争、独善と偏見のための教証とせられる他 は な い こ と と な る で あ ろ う 。 かくして廃立とは自を許し他を裁く為の証権とうけとられて、自己と異った道を歩む ものに対する寛容や和解の精神はもとより、 諸仏・諸菩薩や神々への敬度な心情すら失われることとなるであろ ぅ。そこから信心の名に包まれた、人聞の我執や思い上りがいよいよ募られてゆく。廃立が二者択一的表現におい て強く鋭いほど、この偏向はいよいよ強烈となる。 かの﹃輿福寺奏状﹄や﹃七筒条起請文﹄等には、明らかにこの 事実が指摘せられている。それは単に過去における歴史的な出来事であったというだけに止らず、現に﹁ただ念仏 のみぞまこと﹂の信心一つに徹するわれわれの、こころして誠むべき重要な問題点であるといわなければならな ぃ。廃立為正とは、果してかくのごとき排他的独善的な宗派我を助成するための原理や、教証とせられていいので あ ろ う か 。 上述の如く、もともと廃立とは本質的には選択本願のおんこころに基くところであった。従ってそれは﹁老少善 悪をえらばれず﹂、﹁よき人にもあしきにも﹂すべてに同感したもう柔軟な仏心そのものの直接的な表現であり、大

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悲そのもののこの世へのうつしであるといえる。としたならば、廃立を正となすと聞いてわれわれのいそぐべきは、 一切の狭雑物を排除して純粋に仏心太悲そのものに帰一するということ一つであって、それゆえに法然自身にあって もその選択論の本質を﹁平等の慈悲﹂そのものに見出したことは、 ﹃選択集﹄本願章に明らかである。されば本来そ れは決して排他的独占的なものではなく、却って他の一切を包容し、 一切を真実に生かしめるべき仏心大悲の所在を 明確に指し示すための、っ愚鈍往き易き捷径﹂であった筈である。それゆえにこそこの明快な指標によって指し示され た念仏為本の信心には、﹁白然のことわりにて柔和忍辱のこ L ろ﹂が恵まれる所以であり、自らこのこと一つに徹した 法然自身にも、諸仏・諸菩薩に対してはもとよりのこと、異学異見の人々に対してさえも、敬度な心情と寛容な態度 を 失 う べ き で な い こ と を 、 そ の 法 語 ・ 書 簡 の 随 所 に 説 き 示 し て い る と こ ろ で あ る ︵ ﹃ 津 戸 コ 一 郎 へ 遣 す 御 返 事 ﹄ ・ ﹃ 大 胡 の 太 郎 へ 遣 す 御 返 事 ﹄ ・ ﹃ 鎌 倉 の 二 位 の 禅 尼 へ 進 ず る 御 返 事 ﹂ ・ ﹃ 隆 寛 律 師 伝 説 の 詞 ﹄ 等 ︶ o にもかかわらず法然の廃立義が現実には上述の如き諸問題を伴うということは、それが結果的には師自身を包む歴 史の時点において、簡結平明を旨とし且っその効果を急ぐ余りか、 いわゆる行々相対の教義表現において、平面的な 取捨と謬られやすき二者択一的表現をとったという一点にあるように思われる。このことは師が念仏往生の願意を領 解するに、正依の﹁大経﹄に説くっ摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行﹂の﹁摂取 L の聖言を避けて、殊更に﹃大阿弥 陀経﹄の﹁選択﹂の語をもってしたこと、 叉善導に順じて﹁摂取不捨しの経語に控目しながらも、これをもって念 仏・諸善の廃立取捨を表わすための有力な教証としてとりあげ、特に善導の三縁釈を援用してこれを裏付けている事 実、等においても略々うなずかれるところである。 かくして廃立為正ということは、その本来の意図にもかかわら ず、結果においては不測の誤解や事態を招かざるをえないこととなったものと考えられる。 蓋しかくの如き二者択一的な表現は、それが鋭ければ鋭いほどいよいよ排他的独善的な偏向を伴うこととなって、 法然教学と親驚教学 九

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法然教学と親驚教学 九 四 そこからやがて念仏の行を裏付ける平等の慈悲や柔軟な仏心は見落されてゆく。 いいかえれば仏心そのものの現成で ある﹁賜りたる信心﹂の疎外を伴うこととなる。もしも廃立為正の指標からこのことが疎外せられるならば、それは 文字通りの選択であり、取捨であり、対他批判のための原理となって、遂には固定的排他的な宗派我をいよいよ助成 せしめるための、最も都合のよい拠り所としてのみうけとられることとなるであろう。 か く て は 柔 和 忍 辱 ど こ ろ か 、 対立と抗争、独善と偏見を招く結果におちいることは当然である。

かくしてわれわれはここに宗祖の真宗が、教行証の三法組織を超えて行から特に信を聞き、 いわゆる行々相対から 行信相対の教義構造をとらざるをえなかった所以、ならびに特に開かれた﹁如来より賜りたる信心﹂を本質として、 廃立取捨の一面性から所廃の上にもなおはるかなる仏心を仰ぐ、顕彰隠密の両面性へと徹底せられるに至った必然性 の重要な契機をみることが出来る。もしも行が行としてのみ孤立して信を疎外したとするならば、そのとき仏心は失 われて、念仏は﹁わがものがおにとりかえさ﹂れた、 ただの小行に転落して諸善と混同せられるか、 せいぜい﹁本願 の嘉号を以て己が善根とす﹂る白行におちいる他はないであろう。それは所詮自を是とし他を非とする定散心・罪福 心の世界に止るものであって、この限り柔軟な仏心とは無縁となり、念仏する自己に誇って他を排除する一面的な偏 向をとることとなるであろう。念仏が諸善に対して特に勝易の徳をもっと示され、 念仏者が﹁人中の分陀利華﹂と 台、 ﹁則ち我が善き親友﹂とか讃えられるに於いては猶更である。 かくして宗祖の賜りたる信心を本質とした信の開 ︸ 不 は 、 かくの如き偏向を正し以て廃立為正に伴う上述の如き諸問題に応えるに充分なものがあった。何となれば、 ﹁如来選択の願心より発起﹂した真実の信心は柔軟な仏心そのもののこの世へのうつしとして、それは選択本願の念

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仏をわれわれの矛盾にみちた現実に密着せしめ、現実を現実としてうけとめつつ、そこに仏心大悲の顕現を仰がしめ る基盤となるからである。従ってここでは字義通りの廃立取捨の一面のみにとどまることなく、賜った信心にもとづ い て 、 一面には﹁権を捨てて実を取り、仮をさしおきて真につ﹂かしめつつ、 いよいよ廃立為正の精神に徹すると共 に、しかも他面には捨てられた権仮そのものの上にも、すでにその内面深く躍動するはるかなる仏心を仰ぎ、権仮 2日 体のもつ内面的意義をききとって、深く如来選択の願心に参入せしめずにはおかないのである。 われわれはここに顕彰隠密のつ彰 L に対して、特に﹁内にあらはす﹂と左訓︵影印本﹃教行信証﹄化本四八︶せられた 所由を思わずにはいられない。けだし﹁内にあらはす﹂とは、賜りたる信心に催されてどのような文義や事象の上に も、その内面深く流れる柔軟な仏心を仰ぎえたものの感激をあらわした言葉であろう。そこにこそ仏心大悲に包みと られたものの安らぎと柔らぎがある。 したがってここでは一面的な廃捨や批判にのみとどまらず、所廃そのものをも すすんで包容し摂取してゆかずにはおかないのであって、断じて否定や疎外にのみ終るものではない。もとよりそこ には対立や偏見や独善が入りこむ余地はなく、あるものは矛盾に即する調和であり、対立の上にも見出される和解で ある。これこそ法然が選択廃立論の一本質として見出した阿弥陀の﹁平等の慈悲﹂そのものであり、 ﹁ す べ て 行 者 の は からいなき L 法爾自然の世界である。廃立為正とは実にこの平等自然の世界への明快な指標そのものに他ならないも の で あ っ た の で あ る 。 それゆえに宗祖は十九・二十の方便願に対しても単に方便所廃の一面のみに止らず、夫々の﹁内にあらわす﹂真実 の仏意を聞きとったのであって、例えば、第十九願要門の教についても、 方便之願を按ずるに仮有り、真有り。:::亦此の経︵﹃観経﹄︶に真実有り。斯れ乃ち金剛の真心を聞いて摂取不捨 を顕わさんと欲す 0 ・ 法然教学と親驚教学 九 五

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法然教学と親驚教学 九 ノ 、 と、そこに方便真実、隠顕両面の二重性的構造を明らかにしているのであるし、 また第二十願真門の体系についても、 同じく顕説方便に即してその内面に流れる真実の仏意を聞きひらいているのである。 かくして三願転入の告白を結ぶ に 当 っ て は 、 愛に久しく願海に入りて、保く仏思を知れり と、廃立取捨の一面からいうならば、既に廃捨疎外せられた筈の要・真二門の上にもそれぞれに深厚な仏恩を仰、ぎ、 つ づ い て ﹁至徳を報謝せんが為に真宗の筒要を擁うて恒常に不可思議の徳海を称念す﹂ と 一 切 を 仏 思 の 世 界 に 統 摂 し 、 さらに﹁遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ﹂と、すべてに対してはるかなる慈育を感 戴 し て い ら れ る の で あ る 。 それゆえに﹁いくたびも廃立を先と﹂し﹁ふたつならぶことをきら﹂って、 ﹁たど念仏して弥陀にたすけられまい らす﹂る信心一つに徹底する真宗も、 ﹁ゆめゆめ余の善をそしり、余の仏聖をいやしうすることな﹂く、また﹁よろ ずの神祇冥道をあなずりすしてないのであるし、疑諒さえも却って獲信の縁と転ぜられるのみか、更にこの法を﹁さ またげそしる﹂ものに対しても寸あわれみのこ L ろ﹂がもたれるのである。ここでは所廃に即してその内にあらわさ れた仏心を聞くものの柔らかな調和の世界がひろびろと聞かれている。ここにこそ廃立為正の師教にひたすら信順し でただ阿弥陀一仏に帰命し、平等の大悲につつみとられた宗祖の柔軟な信心のすがたがあるということが出来る。

法然聖人の廃立釈はいわば人間的な現象の世界そのものの絶対否定を意味するものということが出来る。ざればこ

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そそこでは、起立塔像も布施持戒も、乃至孝養父母や妻子容族までも、さらに白己自身をも含めて一切が否定せられ なければならない。廃立為正とは実にかくの如く厳しいものであった。 しかもこの厳しい関門を経なかったならば仏 心の所在は見失われて、われわれは永劫に輪廻の世界に止る他はないであろう。ここにこそ廃立義のもつ本質的な意 義がある。然るにわれわれは果してこの厳しい否定にどこまで堪えうるであろうか。かくして人はしばしば現実との 安易な妥協に流れて、廃立といえば文字通りの取捨の義として排他的独善的にのみうけとられ、それが究極的に指標 ずる柔軟な仏心は見失われてゆきがちとなる。この場合上述の二者択一的表現はその何よりの裏付けとせられて、こ こから上に指摘した如き廃立義に伴う諸問題が引き起されると考えられるものであった。 かくしてわれわれは次の如く以上を要約することが出来るであろう。 つまり廃立釈はわれわれの求めゆく往相の否 定面にのみ鋭く急であって、この点極めて明快ではあっても、これによって指し示された念仏往生の信心が、やがて しかも現実への随 還り来る現実人生への随順の一面においては、欠けるところなしといい切れないものがあること、 順ということこそ、信心の今をいきるものにとって本質的な問題でなければならないこと、それゆえに宗祖は師法然 が深く平等の大悲にわけ入って明らかにせられた廃立為正の原理的指標をうけて、これを矛盾に満ちた現実に即して 領解するべく、さらに賜りたる信心を本質とした隠顕釈を按じて、いかなる文義や事象の上にも隠顕両面の二重性を 明らかにし、所廃の上にもそれの﹁内にあらわ﹂された仏心大悲を仰がずにはいられなかったこと、これによって廃 立釈の精神は具体的な現実の人生そのものの上に真に徹底せられることとなったこと、これである。しかしてわれわ れはここにみられる如く、常に矛盾と不合理とに満ちた自己自身の現実そのものに即して、師教を仰、ぎ仏心を領受せ んとした宗祖の教法領解の仕方の上にこそ、廃立釈から隠顕釈へ、法然教学から親驚教学への本質的な展開契機を確 かめうるであって、これこそ両教学の展開をめぐる一視点としてここにとりあげた問題の焦点そのものである。 ﹁ 摂 取 ﹂ の 原 語 ℃ 同 片 岡 間

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は 、 ﹁ 完 全 に 把 握 す る 、 包 容 す る 、 着 用 す る ﹂ ︵ 荻 鳳 ﹃ 党 和 辞 典 ﹄ ︶ 等 の 意 味 で あ る か ら ﹁ 選 択 ﹂ よ り は ﹁ 摂 取 し の 訳 語 が そ の 原 意 に 近 い 。 註 ︵ 一 ﹀ 法然教学と親驚教学 九 七

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