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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

新宗教・中山身語正宗の諸相 : M教会における調査 から

石井, 奈緒

東京都立大学

https://doi.org/10.15017/2235372

出版情報:九州人類学会報. 15, pp.25-42, 1987-07-10. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

新 宗 教 ・ 中 山 身 語 正 宗 の 諸 相

一 − M教 会 に お け る 調 査 か ら

石 井 奈 緒

は じ め に

人は,災難・病気・不幸などに直面した時,なぜほかならぬζの自分iζ庖災がもたらされたのか,

という説明を求めようとする。 ζの原因模索の過程で納得いくような説明がなされえない場合,ある いはこれと平行して,しばしば超自然的存在である,前世の因縁,先但や死霊,生霊のたたり,呪誼,

有者街,邪術,タブーの侵犯とtどにその原因が求められるζとが少くない。 ζれらの災因を解明し,災 難}ζ出会フた本人や病人』ζ納得のいくような説明を与えるのは,僧侶,得宮,祈爾師,呪医,占師,

シャーマンなどと呼ばれる宗教的職能者である。宗教に鰐わる者の不幸容に対するアプローチは,何ら 科学的・合理的な解決を与えるものではないが,結果として表出した現象は,その人々ぞとりまく宗 教的

t

世界観の内部で超自然的原因と結びつけられることによって,整然と秩序づけられ完結する。こ のようにして人は,混沌とした状態から脱却し教われるのである。 ζれが一般に多くの新宗教におい て世間の人を引きつけ,現世利益といわれている事象のメカニズムなのではなかろうか。

ζのような新宗教における救いの背景にある説明体系を考察したものに,渡辺雅子の 「救いの論理」

がある。 ζれは天照皇大神宮教の信者が,入信後に遭遇した苦難ぞどのように解釈し,また入信以前 の自己の生活史を再解釈しているかを,教団発行の綴関誌に掲載された手記を用いて分析したもので ある。本小論も,新宗教に内在する救いの論理ぞ参与観察によって明らかにしようと試みたものであ る。 ζ乙でとりあげた中山身語正宗にも,同様の手記を掲載する機関誌があるが,今回の調査の重要 な情報提供者であったM教会の信者 Bさんは,自らの信仰体験を投稿した経験があったが,ビの際教 団側がBさんの原稿に手を加えた乙とに不満を持ち,教会内の他の信者も同じような感情ぞいだい ていた。また,本宗では個々の災いを説明するために,信仰活動の場面では信者の前世の因縁物語り を創作したり,具体的な系譜をたどれるホトケが透いていると宗教的指導者によって表現されるが,

手記では.ほとんどそのような乙とには触れられない。そして乙れらの解釈は,信者が受け入れ理解 していても進んで第三者に語ろうとはしない。つまり, 一人の信者が救われる過程をつかむためには 信者だけでなく彼を指導する者による苦難の意味づけを知らなければならない。さらには,彼らが共 有する世界観を描きだせるほど,新宗教全体を理解してはじめて救いの構造を明らかにするζとがで

きる。乙のようは考えのもとに,多分I<'..呪術的な不幸の説明体系をもっ中山身語正宗の信者が,救済 される過程ぞ把握する乙とを目的とし,同時lζζの自的を達成するために,新宗教中UI身語正宗の全 体像の縮写を試みたのが本小論である。

ト 中 山 身 語 正 宗 の 概 要 一 一 本 山 を 中 心jζ

中山身語正宗は,宗教法人 「中山身語正宗

J

で,本山灘光徳寺は 佐賀県主主主郡基山町宮浦2200

‑25‑

(3)

番地ζl置かれている。本宗の役員は,責任役員10名(うちl人を代表役員として管長があたる),宗 務総長,本部長各々 l名,各部長6名(総務部・布教部・教学部・法要部・文化部・青年本部),教 区長14名をおき,教団全般の管理運営にあたっている。布教組織として14教区と 2地区があり,各教 区と地区ζlは寺院・教会・布教所が置かれ,各末寺にはさらに布教所を設けていると乙ろもある。各 教区には教区三役(教区長と副教区長2名)が本部より任命され,教区内の僧侶,青年部,寺院,教 会,布教所を統括する。また『佐賀県百科辞典

l J

11:.よると,全国の布教機関は約600ケ所,信者は40 万である。そのうち,佐賀県内の末寺は4ケ寺,教会13ケ所,布教所20万所,そして信者は,全体の 一審jである4万人が存在するとされている。

分布については,藤弁正雄氏による『現代人の信仰将軍造

J

を参照すると,日本にみられる多くの宗 教を「全国的な分布」「広域的な分布」「局地的な分布jに区分した場合,中山身語正宗は, 「広威

(1) 

的分布

J

IC該当し,三重県を境IC西南l乙信者が偏っている西日本型の分布を示すとしている。実際,

本宗機関誌「めぐみj (倉I]刊号一昭和509月号)に掲載された,乙の期聞に新しく認可された布教 機関の住所をもとに分布区を作成したと ζろ,前述のような分布の特徴がみられた。

湾ぴ,藤井氏の前出の著作によると,既成の宗教教団が長い歴史を経て全国に分布し固定している のに対し,自由選択的な宗教といえる教派神道や新宗教は動態的であり,これらの分布が,ある意味 において東西を特徴づけるなにものかを持っていると考えれば,東臼本は霊友会,孝道会,仏所護念 会,妙智会教固など日蓮系のものが多く,西日本は,出雲大社教,黒住教,金光教, PL教団,中山

(2) 

身語正宗など教派神道系や真言系の山岳仏教.修験系の色彩が濃いことを知るζとができょっ,と述 べている。このように,中山身語正宗は,日本の宗教全体の動向にも一致している宗教といえる。

と乙ろで本山のある義山は

f

概説中山身諾正宗

J

にみられる田村円澄氏の記述によると!?}古代から

きい

陸上交通の要所であった。 664年に山城の£簿織が築かれ,四王院も置かれた。後の天台座主丹仁は,

唐から帰国した際基山に滞在し大輿善寺を再興する。また,寺門派の丹珍は,唐留学の出発直前851 年l乙さま山の四王院に滞在する。その後.山岳仏教が時代の大勢となり,基山千坊が開かれた。近titI乙 は浄土真宗が広まり,室町時代には大発展をとげる。現在基山にある寺は,天台宗3ケ寺,真言宗1 ケ寺,浄土真宗本願寺派5ケ寺,浄土真宗東本願寺は 1ケ寺であるとされている。

中山身語正宗の教組である木原松太郎は,明治3年基山山麓仁逮寺の染色を家業とする木原要吉の 二男K生まれ,木原本家は真宗妙光寺の埋聖徒であった。 3歳ごろから,手・足・口が動かなくなるζ

とがあり,そのような際には南無阿陀仏を 3図唱えると動くようになった。また予言めいたζとぞし ばしば口にするため,友達は少く小学校も 3ヶ月しか通わなかった。明治12年,父親の再婚のため養 子へ出されるが,ある朝東南の~IC 「チュウクン アイコク コッキヲタテテ ナムアミダブツヲヒ

ラクゾjの文字を読みとる。 24畿で復籍するが,仏のお告げをロにするため臓が定まらない。翌年結

Cとう

婚し対馬へ渡り,コレラの大流行を契機IC長崎の御厨へ移る。その後妻が病弱なため婆の実家を頼る が,その家の主人と子供が一年のうちに他界する。再び御厨l乙戻り,炭焼き4をして生活していたがそ こで長女と一夜の火事で炭を失う。生活をたてなおすため,漁師として単身平戸へ渡り,金比羅御社 にお参りする毎日を送る。ある時化の日潟、に出たところ,金比羅の力で九死し け IC一生を得る。明治44

5月に婆を失い三人の子供を抱え生活l乙も困り, 12月には子供らとともに入水自殺を試みるが,弘法 大師および親鴛i乙「お前の進む道はただひとつ, 一念衆救世あるのみ

J

と諭される。その数ヶ月後の

‑26‑

(4)

大正元年二月,再び弘法大師より「立教せよ」との指示を受ける。

おざもん

ζの立教の指示と同時に,本宗で使用する経文のうち,唯一強自の経文「御座文」(図1)が,

弘法大師から与えられた。 ζれは自力本願のお経とされ権成する字句は大半が浄土系・真言系の典 籍にみられるものである。当初は仮名書きの経文として流布していたが その後本宗の学僧が漢字を あてた。しかしその中には,教組によって異る字をあてるよう指示された部分があり,乙の字は本宗 にとって特l乙重要と・される。外見は既成仏教の大伝統をくむようにみえる乙の経文の確立は,新宗教 を対外的に認めてもらうのに有効であり,初めて本祭K援する者にもなじみやすいものとなっている と同時に,理性で理解できる教義を求める信者を引きつける。ところが ζの経文の解釈や意味づけ は仏教本来のものとは異なり,本宗独特のものである。例えば,怨霊万箆供餐を行う新宗教,霊友会

るおきょうかん

においてもその経典 「青経巻」は『法華経

J

を抄録したもので,乙ζi乙独自性はみられず,祈願文i

(4

霊友会信仰の特色がわずかに出ているとされる。 ζのように,両者において因縁による病気・不幸の 概念は,経典以前の段階で敷街され,それに対処する方法が実行されていると考えられる。また, ζ

の御座文は後に触れる儀礼「御座jで,諸仏諮尊を勧請するのに使用される。

乙の他,本宗の諸儀礼や信仰生活において使用される緩文は,藤井正雄編『仏教儀礼辞典

J

~参照 すると密教系の祭は.天台宗,真言宗にみられるものが多い。 ζれは立教の後に弘法大師のお告げに よる教祖の,高野山における得度を契機iζ,徐々に本宗の教義が定められたためと考えられる。また,

教祖は大正七年lζ古義真言宗の教師試補l乙任命されており,本宗は天照皇大神宮教のように全くの新宗 教としてではなく,伝統ある既成宗教の傘下で制約や保護を受けながら出発し,昭和21年の宗教法人 令を機lζ,はじめて古義真言宗から分派主主立している。本宗の 「三時勤行要集jにみられる経文は.

高野山真言宗の在家勤行式にほぼ一致している。なかでも般若心経はあらゆる場面で唱えられ,その 他観音経,般若理趣経,諸真言は本山で開かれる講習会でも議議される。しかしながらもう一方で乙 れらの経文K伴う儀礼では 浄土宗の百万遍念仏の形式が用いられている。

教組の没後,後継者となったま受理の息子覚照が生前の教祖の言行を本宗の戒めとして文字lζ記した ものが 「おきづけ」(図 1‑ 2)である。 一般に信者に対しては覚照の霊霊能者としての印象は薄く.

お に

大本教の教祖出口ナオの「お筆先Jを解説した出口王仁三郎の果たした役割lζ似ており,おきづけに は覚照の宗教的力能によって教祖から与えられたという 「おじひJのカリスマ性は付されていない。

以下に各条の内容を簡単に記す。

1 乙の御成就とは入信式を指し信者が初めて教祖の言葉を聞く儀礼である。ζの際に得た言葉「お じひ

J

に沿って生活する乙との重要性をとく。

信者は,善知識である各布教機関の指導者をどζまでもたて,従う乙と。

十戒警を守札菩提回向をする乙と。

4 行i乙対して

f

おじひJを得られる乙とのありがたさを知るζと。 信者のあるべき姿を示している。

ところで本宗では 「お行

J

と呼ばれる実践を重要視しており本

t l J

も行場としての燦々な機能をもっ

ζζ

が,次にあげる古四国も地元基山i乙密着した信仰活動の場を提供している。

番外札所7ケ所を含む95ケ所の札所からなる霊場古四国は 全長80km余りでほぼ基山を一巡する。

本尊の大半は,明治初めの廃仏鍛釈によって山中やJII IC.埋められた志ので ζの霊場の権成は大正5・

‑27‑

(5)

文 南 無 阿 弥 陀 仏 南無阿弥陀仏

し装妥結語五言 語 芯 i t き芳量ご笠霊芯 d 両

かんしεうひょ〈 +<しんじ ,,ぶ今 ι.. ">.Jら で ん 企 、 "-• • I' .... 

願買(!,彼国即身

h ! t

仏従不転通の

f u : t : こ 屈 す る

T

7

~

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南無阿弥陀仏 か た じ け な い 南無阿弥陀仏 か た じ け な い 南無阿弥陀仏 か た じ け な い

(有事)

南無阿弥陀仏 さても

南無阿弥陀仏 さても

南無肉体陀仏 さても

南無阿弥陀仏 さても

南無阿弥陀仏 さても

南無阿弥陀仏 さても

仏し生陀い衆

阿川念 弥日仏

ゼ 世

州 方 仏h

十 は 陀 令 と

弥 し

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阿叫 遍ふ 不

無け明い取

南川 光心 開依

とかれたり

(宵蜜)

なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ

」孟主込 L

なむあみだぶつ な む あ み だ ぶ つ な む あ み だ ぶ つ なむあみだふ つ な む あ み だ ぶ つ

(打軍)

南 無 阿 弥 陀 仏 南無阿弥陀仏

aらい氏、。 ,ぽんと〈 ...  他 令

如 来 大悲 の 恩徳 は身 を粉 にし ても 報ず ベし

••、~~ "んξ〈 ぬ , > L .  

自市主智識の恩徳、は骨をくだきても謝するべし

(有蓋)

南無阿弥陀仏 か た じ け な い 南無阿弥陀仏 か た じ け な い 南無阿弥陀仏 か た じ け な い

(打冨)

南無阿弥陀仏 さても

南 無 阿 弥 陀 仏 さても

南無阿弥陀仏 さても

南無阿弥陀仏 さても

南 無 阿 弥 陀 仏 さても

南 無 阿 弥 陀 仏 さでも

南無阿弥陀仏 関無阿弥陀仏

厳 f ! J d t 訪露半等誕二訪前菜語謀芯

お.じa今あんら〈ニ〈

往 生 安 楽 闘 で有蓋

7

‑28‑

(6)

お 座 文 終 章

願 似 此 功 徳 平 等 施 一 切 開 発 菩 提 心 往 生 安 楽 園

(打鍍)

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

ニラA• ιんごLa令ねが ぜ んtaうほうべん aう し ゅ め 化、a・〈そん た怠 ιぅ,E

光明身語正願わくば答巧方便めぐらして生死の夢をおどろかし大覚書事となし給え精霊

..今L• ι sうご〈ら<しaIfんれん記、−ιa う 0・〈ばだい~aうがん」らむいてん んどうit>Iaう山う9 . J !'  t.

決定生極楽上品蓮台成正覚菩提行願不退転 引導三有及法界 願わくば此の功控を以

今~ ~-,,~われら とも Jド勺 ιaうじゅ ζ ぬ か aらいたいひ ζ 、 'hん

てあまねく 一切の衆生と我等と共に仏道を成就せん事を願う如来大悲の盟ニ金

{打鑓)

図1ーl

※ お さ づ け

ζんどa今 ど どえんに., Laうしゅ レにど とき ι,>C,>IJ<弘A a・ て レ し ご と にちに'>ぇ、-~.

1 .今生一度の御縁日様、御成就を簸いた時の清浄無垢心を、家庭にお仕事に日々永久に もちとどけること。

しゅ ちしt おんと〈 崎 ね 〈だ ι.  ぜんちL ご温ぜん ゐ 与 が た

2.  「師主主

r

識の思徳は、骨を砕きても謝するべし」と、善智識の御恩有難きかな。

ぜんかい まも ご ぜ ん ぞ ど い ど い I H $;~ .. a ふうふ わ ご う も し て い 傘 、 ,.t,

3.十 善戒を守り、御先復代々菩提、親には孝行、夫婦よく和合し、兄姉弟妹仲陵まじ

... 、、・....ん ね ん

く、不平不満の念をおこさざること。

しんごLaう しゅうよう L・うよう じ骨二う じ吻占令 Aょ "'"&  J1t 

4.身語正は修養から、修養は実行よりみのる、 実行は先づ自分の足下から始むべし、御

D•‘・~んし a うにんどい•H 。ごト〈ん わた(LI念ど,bS ひと ほ か ぐ ら ぐ ど ん

開山上人大菩薩の御遺ヨIIに、 「弘程浅間しいものはも一人と外にありません、愚痴愚鈍

か〈え 今ね.,,L~t E

ε

εa今じん

の覚窓

J

と、常に足下に気をつけ努力努力精進すべし。

ご ほ う . . . ん . . 令 て あ わ b aAaうねん.s; しんごLa Lん じ ん ま−"t 

5.御宝前に両手を合せ、ロに唱名念仏するのみが、身語正の信心にあらず、又滝にかか

't  b・二、 ごと 必レしa,じ'~》げ よれ怜ξすさま さず

るのみが行にはあらず、自身さずかるお仕事は、大小上下によらず、之仏様より授かり

~'う さと ふ;勺 化、− e丞うおんかんL<' ねん も勾 L'うじんど a《

たる菩薩の浄行なりと悟り、一事一物に対しても、報恩感謝の念を以て精進努力する、

aれすf<h Lん ご し,>t,,c.L ば き っ

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ち身語正行者、真の菩薩なり。

I,  だいLへんじ aう二んご,L

南無大師遍照金剛身

,,  I,  どいLへんむa ζんごうしん

南無大師遍照金剛身

fl  II  /;\• Lへんじ a うζんご今L

南無大郷遍~金剛身

図1‑ 2 

Qd   nu

(7)

6年』己完成した。本空宇の多くは風化,破績のため判別不可能で,各本君事が自ら教組』乙語った 「おじひ」

によって本尊の種類が決定されている。開場は,大正元年4月20日の弘法大師のお告げに端を発し,

教組が古物商あるいは山,川などに埋もれていたものを発見して次第に形成された。現在は本山の月 一泊二日の日程で巡拝する。今回調査の対象となったM教会の指導者も毎回 並行事のひとつとして,

7回半まわればどんな 祈願もかなえられるとされ,また,祈願が成就した際IC.は御率L報謝のために赴く。

信者は,真言宗が背祭iとある教義』乙引かれて入信するのではなく.現世利益l乙基づく直接的な教い を求めて入信する傾向がある。 ζれは立教の白に弘法大師が「現世利益をもって本願となす

J

と述べ た仏告「おじひ」にも表れている。また,教績は生き神(仏)としてではなく,あくまでも仏の声や

お制まとけ

姿「おじひ

J

を得る霊媒としての位置にどどまっていた。さらに各布教機関の指導者「親仏

J

も「お 行」によってトランス状態K入り,おじひを得る技術を身につけている。殺仏はζのおじひに基づい た不幸の説明を信者に与え おじひに沿った行動をとるように信者を説得するζとによって信者を苦 緩から救う。その後観念的な教義によって信者を本宗IC.定着させていく。入信したての信者でも,儀 参加するようにしており,他の信者も教会の行事より優先させる傾向があり,

L

御座やお行の過程でおじひを得る機会が与えられている。 ζのように,おじひを得られる指導者が 各布教機関に存在し,しかもおじひが一般に開放されているζとは,本宗の布教力を著しく高めてい ると考えられる。以上のような円滑な布教が行われるようになった背景には,教組の後継者党照の功

(図 1‑3)党照は教組と血のつながりが全くないが,教組の娘と婚姻関係を結ぶ乙とに よって本山ではおじひの持つカリスマ性を 「家カリスマ

J

(5)へ移行させた。彼は高野山大学に学び,

おさづけ争明文化し.講習会の制度を発足させたが,おじひの視点からみると現在の毅仏たちには不 評である。しかしながら,立教当初のおじひは,主として弘法大師によるものであったが,教組没後 はこれに代わって各儀礼においても教組がおじひを出すという現象によって覚照の鐙能者としての弱 績がある。

さは補われている。

霊友会においては強力な神がかりをする信者が出現した場合.それが直接教団の分裂へとつながっ ていったが,本宗では,おじひ~得られるようになった信者はいずれは親仏となり,教団IC.内包され 重要な役割を果たすことになる。

入寂マツ 教 組

〆 =守一 0

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守 = = ¢

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太 | 照 ミ 国 タ 郎 | 男 ヤ 守 ヅ 子 エ

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図1‑3 

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句 ︒

(8)

.中山身語正宗の下部組織

一 一 恥徹会の活動から一一

得度した後,布教機関を待つ者を・名称で「親仏j,呼称で「親先生」と呼ぶ。したがった得度してい

ζ

fとけ

でも布教機関ぞ持たない者は, 一般信者と同じ 「子仏jであり「お悶行Jと呼ばれる。今回調査の対 象としたM教会は,信者およそ100名を有し,お堂I乙は教祖,弘法大師,不動,阿弥陀如来,地蔵,

荒伸および親仏の親族の位牌,水子の位牌争記っている。

親仏は,おじひを得るカリスマ性が必要であるが,本山のアンケー トによると,各布教機関の後継 者として考えられている者は,長男・長女合わせて52%,これに他の子女 ・姪を加えると68%にのぼ り,弟子はわずか15%である。本山では, ζれら後継者のカリスマ性の不足を補うために,昭和60年 からは毎年3月・9月l乙後継者研修会そ行うようになった。乙のような各布教機関の後継者選択は,

本Illを手本としているとも考えられる。また乙の結果,霊友会iとみられるような分裂が釆然に防がれ ている。 M教会においても親仏の孫が後継者として本山ζ登録されている。彼女は昭和49l 年に極小未 熟児として生まれ,危ういと乙ろを親仏の行によって命を授かったとされ,生後 6ヶ月ζ得度し,とi の教会公認の後継者となっている。

殺仏は,おじひに「得度せよJと出た場合,信者の意志lζ関係なく, 「それだけの業があるのだか ら,その深い因縁を断ち切るためには得度が必要である。

J

と信者を諭す。得度は,家Illでの2泊3 自の得度者前行日穫を消化するζとで達成される。参加者lζは,組母K連れられた幼児,殺に付き添 われたダウン症の障筈をもっ者なども含まれている。得度者は,本山で毎年春と秋iζ行われる講習会 ζ出席する乙とによって位階が上がる。i M教会の得度者の得度時期と位階は図2

lのとおりである。

曽 位 人数 得 度 時 期 (昭和)

大 僧 正

中僧正 1  32年(親仏)

権中{曽正 小僧正 権小僧正 大 僧 都 権大{曽都 中{曽都 権中{首都 小 僧 都 権小{首都

上 律師 45年12月 位 権 律 師 2  ともに49年5月

大法師 4  全員53年5月

特 旨 大 法 師 5  45年、 50年、 53年、 57'.午、 57年 図2‑I 

内 一

v

(9)

得度者の他.約80名の一般信者が教会員を格成しており,殺仏を頂点にピラミッド裂にはっている。

貌仏は,悩みや病気をかかえている信者i乙対して,因縁果報の法則iとよってすべて先祖であるホト ケにその原因があるため,そのホトケを供養することによって問題が解釈されると説明する。 ζれと 同時に,本宗は「お行

J

の宗教とも言われるように,ホトケによるおじひに基づいて,親仏は供養の ための 「お行jを信者l乙果す。信者の側でも,その問題が深刻なほど懸命に,滝行,お百度,百礼,

読経念仏などの「お行Jをするζととなる。乙れらは信者個人で行なうものであるが, ζの他, 「お 行jとして教会単位で行われる儀礼がある。

お ざ

M教会にみられる重要な儀礼「御座」は,浄土系の百万遍念仏の形式を援用し,先週回向する乙と によって,ホ卜ケから保護を受けるために行われる。まず閉経備を唱え 御座文の長念仏の部分でホ トケを招きょせ,般若心経ぞ親仏の任意の巻数,例えば3巻, 7巻, 21巻など唱えた後,巨大な数珠 を「なむあみだぶつJ'6lと唱和しながら左廻り It繰り,ホトケを「繰り上げる」(ホトケの供養令す るととによって,そのホトケに由来する因縁を断ち切り,逆にそのホトケから保護ぞ受けようとする 試み)。数珠繰りの際に親仏をはじめ各信者は,祈願をしてそれに対するホトケからのオシラセを受 ける。その後殺仏は代表してホトケのおじひを信者iζ伝え,次l乙得度者が数珠を用いて信者や親仏ぞ お済度して終了する。

M

教会では以下のような御座が行われている。

百万遍の御座

本山では毎月教祖の没した5日l乙行われているが,恥徹会では不動の臼とされる28自に行う。参加 する信者は80名余りで40代から60代の主婦が大半を占める。ホ卜ケを供養して喜ばせ,不芸評から守っ てもらう ζとを主眼とする。おじひは,教祖が殺仏の体をかりで諾し,先名目回向する乙との大切きを 述べ,具体的な信者の家名をあげてどのような利益を施すか伝える。

水子供養の御座

本山では行われておらず, M教会では毎月,第1日曜日の午後K行われ,50名ほどの参加者はすべ て女性である。 7J<子はζ

t

佐i乙生まれる前l乙ホトケとなり,現世で善行を積むζとができなかった。

乙れは水子を生じさせた者の大変な業となる。また,水子は自らの子孫を残していないため,供養の 要求を病気や災い4をもたらすことによって知らせる。したがって,信者は自分の知る範闘で水子がい なくても,そのオシラセを未然l乙防ぐため位牌を作って供養する。おじひは教組が水子供養の意議を 述べ,水子からの感謝を伝えるお礼の形で出される。

7日間のお行

昭和56年M教会が摺改築された時から,寺院昇格の願いをこめて,月はじめの任意の一週間の早朝 に行われる。得度者が中心で十数名が参加する。おじひは満願となる 7日目のみ出る。

各信者の家庭での御座

乙れは,信仰歴の比較的長い信者が特に自分の家の先祖回向をするために親仏に頼み,親仏も必要 であると認めた時から行われる。信者は年末に教会内にかけられるカレンダーの親仏に来て欲しいと 思う月 ・日K自分の名前を記入する。得度したような信者になると,自分がしばしば助けてもらって いると考える,18日の観音の臼, 21日の弘法大師の日, 24自の地蔵の日l乙自宅で御座をひらく。 M教 会の親仏は月に

5 0

軒ほどとの御座を行う。おじひは,教祖の言葉のあとに,その家のホトケの年齢,

性別iζ合わせた声でホトケが話すとされる。

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q o    

(10)

おじひは,信者の行動規範となっており,立教当初は, 主として弘法大郷が教祖iζ告げた言葉がお じひであったが,御座』ζ顕著lζみられれるように教祖没後は,教組が信者に伝える言察もおじひとさ れるようになった。また, 信 者のホ・トケが話す言葉もおじひと呼ばれる。御座で殺仏を通じて出され るおじひは声音が変えられ,歌うようにふしがつけられ,主語と述語が離れているのが特徴である。

殺仏や信者は,御座だけでなく, ζの他のお行中にもおじひを得るとされる。

各御~の最後に大きな数E去を,額づいて般若心経あるいはなむあみだぶつを唱えている信者の身体 に押しつけるものがお済度である。数践の玉には各々108つの煩悩を吸い取るカがあるため,信者は お済度によって悩みや痛みから開放されると考えられている。 ζれとは別K,頻繁に儀礼ζl参加でき ない遠方から訪れる信者l乙対して,親仏が般若心経を唱えながら大きな般若経の経本で,背中をきす るとともお済度と言う。

ζろで,乙のような実際の信仰活動にみられる,おじひ,御座などの諸要素は,基山ζl江戸時代 から浸透していた民間信仰にもみられるため,次にその信仰について記す。

n .

中 山 身 語 正 宗 が 発 生 し た 背 景 に あ る 民 間 信 仰

f

新宗教辞典

J

に記載された,小野泰惇氏による「神(仏)のことばの取り次ぎ」において本宗は,

せしゅう ないしんじん

江戸時代「新後世宗」あるいは「内信心」と呼ばれた信仰から発展した新宗教であるとされている。

し人としょう

また,古賀和則氏の

f

秘密念仏集団新後生の一研究jでは 本宗と光明念仏身語翠宗の2つは 「新後 生jの信仰から「シャマン的能力

J

を獲得した信者たちが次々と独立し 西日本各地から信者を集め 組織的な新宗教として寺院を形成した10以上の団体のうち媛大級のものとされている。

き や ぷ

本山の置かれている基山の民間信仰の歴史的状況は,前出の諸論文や古賀氏の 「基養父地方におけ る新後生の研究

J

によると以下のとおりである。

み や き

佐賀県三養基郡基山町宮

1

潟地域は, 1711年以降幕府が対馬の宗氏ζl与えた飛領地であった。小野氏 によると,宗氏は真宗一授を恐れ浄土真宗を弾圧した。乙のためか碁山iこは,

f

たぬき信心」 「きつ ね信心

J

と呼ばれた信仰があり,村落では.月一回「内信心」と称する村供養が行われ, ζの信仰は

「新後位宗」とも呼ばれるとする。

一方古賀氏は, ζの信仰は 「シンゴショウ」「ナイシン」 「シンブツコウ」などと称されるが,乙 乙では城戸村宗門改帳にみられる 「新後生jの字そあてるとする。 「新後生」信仰は基山全体K広 がり,住民は江戸時代より農業・売薬業ぞ生業とし,幕末の新後生の信者は3200人余り,全人口の40

%強であり,仏教寺院では浄土真宗がとりわけ多いと言う。以下lζ省資氏による新後生の歴史的変遷 を記す。

1 .江戸時代l乙新後生信仰の弾圧記録のある久留米・中津・天草などのいずれからか伝矯して来た と推測する。とζろで名称にも反映されているように 「後の世に新たに生まれたい」との気持ちが 込められ,儀礼御Jfilの目的色「お浄土参りの御約束の成就」の確認にある。また乙の時期は全国的』ζ

天災にみまわれ,一僚が多発している。乙れらの乙とから 「新後生

J

l乙は,現世において究極的な救 済を予期する社会的宗教運動 千年王国運動と共通する要素があるのではないかと思われる。

2.江戸末期から明治中期にかけて, 天本茂左衛門が登場し,信者の拡大をはかり,浄土災宗寺院 を建立した。彼は布教をかねた行商を行い数々の不思議な乙とを大衆l乙示したと伝えられるが, 半

合 ︒

令 ︒

(11)

宗教的駿能者であり,あくまでも浄土真宗の既存のハイアラーキーの中ζl新後生信仰を位霞づけるζ

とによって,乙の信仰の正当化を試みた。

3.明治中期以降,基山地方各地l乙小集団が形成され,これは現在る継続している。他方明治中期 には,木原わかを中心とする悶行集団が,天台宗・真言宗と接触をもちつつ四ケ寺 を 建 立 し , 議 長 以外の信者も集め勢力を鉱大していった。乙の木原わかの同行として,本宗の教祖木原松太郎は,本 福寺と瀧光徳寺を建立した。現在,前者は光明念仏身語聖宗の本山,後者は中山身語正宗の本山となっ ておりともに基山の宮浦にある。分散して存在する

f

新後生J集団五派のうち丸林派は,弘法大師を 紀る「お大師さん仲間jで,五派の中でも最も信者が多く木原松太郎志向行であったとされている。

ζのように,地元t乙堅留な萎盤を持ちながら,基山以外にも布教したところに今日の中山身語正宗の 発展要因があると考えられる。

次i乙,中山身語正宗と新後生信仰において重視される入信儀礼と儀礼御墜を比較検討する。

新後生l乙おいては,入信式・葬送儀礼,平素の儀礼御座のうち,入信式が最も重要とされている。小 野氏によるとかつては,オチョウモンとして妊娠三ヶ月の妊婦が宝蔵参りをし,胎児IC経文の初読み 聞かせをするζとを指していたが,今では,善知識と呼ばれる指導者が,6・7歳の信者の子弟をと 法蔵(宝蔵と間意と恩われる) '乙一人ずつ呼び入れ, 3・4人の成人と一緒に「助けたま

J

を連呼し て大唱和の中にある時,救いの成就したζとを告げ終了する。また,古賀氏によると入信式には三段 階あり,安産祈願のために経文を聞かせるハラゴミノゴヅヨウジュ,幼児に閉じく経文を読み聞かせ るオチョウモン,最後にゴフヨウフュぞ経る乙とで入信は完成する。御成就は,春秋の彼岸の一日Iζ, 民家・塚穴・寺の床下に設けられた宝蔵ζl,小学校入学の頃の新後往信者の子弟が入り,一般に阿弥 陀仏を背にして立つ「見届けの客人

J

の前で,保護者に付き添われている受式者に対する「介添の客 人

J

の「一心におすがりなさい」あるいは「助け給えと額みなさい」との勧めに従って,受式者は

「南無阿弥陀仏

J f

助け給え

J

を繰り返し唱え.トランス状態になった時,見届けの客人が, 「御慈 悲を戴かれた

J

「成就された

J

と宣言するものである。

中山身語正宗の入信式は,本山のと宝蔵堂l乙おいて行われ,

r e

成就会」と呼ばれる。信者と教組,

諸仏諸尊が初めて正式に縁を結ぶ機会であり,信者と仏が一体になって「おじひ

J

を体現する場であ る。信者は丈の短い白装束を必ず左前IC着て,親仏と一緒に入り, 一時間余り「助けたまえ」を連呼 し,ついに信者は「おじひ

J

を得るとされている。これによって信者は,現世での努を洗い清め,教 祖とより強固に結びっく乙とができる。あるいは一度死んで新たに生まれかわれると考えられており,

一般に,得度する前』ζ r e~就J を受ける。 ζ れは死と再生をテーマとした入信儀礼である ζ とがう

カ〉カ2える。

中山身語正宗l乙関する御座は前述したので,以下では新後生の御~を中心に紹介する。小野氏が,

昭和54年8月に基山町宮浦の天本紋三郎方で御座立てを見聞した際の記述によると, ζれは幼少に御 宝蔵iζ一緒に入った人々八軒から成る秘密の集まりであり.かつては 「お茶をわかすから来てくださ

いjというのがζの集まりの呼びかけであった。まず,御座文を九遍唱え,ナムアミダブツを48遍 繰 り返す。乙の唱和のあと導師のロをついて 「お慈悲Jが出る。 ζれは七五調でリズミカルで「エクス タシーによる御託のようでもあり,津軽のイタコが呼び出した震の言葉を語るのに似ている

J

と言う。

ζ乙で使用される御座文は,中山身語正宗の教組が「おじひ」によって弘法大師より授かったとする

‑34‑

(12)

「御座文」にほぼ一致する。また, 「おじひ

J

の内容も大筋において共通する。しかしながら,数珠 繰りについての記述はないため, ζの点において本宗と新後生は異なるといえる。

古賀氏による御座は「三遍返し

J

と呼ばれる勤行の唱和と客人の方便(御慈悲)から成る。乙れは

「御成就jの際の「お浄土参りの御約束の御成就

J

IC.対する報謝の場であると岡崎K,仏の御慈悲が 具現主れ,その偉大な力能が確認される場面でもあるとされる。御怒悲については,客人の口ぞつい て出るイムの言葉であり,客人の意志は介在せず,その内容は明確な意味をもっとする。それは仏l乙対 する報謝の証明,霊界の描写,御座の対象となっている故人の霊界での僚子などである。乙の他,ト ランス状態に入る能力は獲得的で,一般の人に関飲されており,御座で使用されるだけでなく信者末 信者の病気の原因,生来の予告,奇術まがいのζとなど様々な要求に答えるよう期待されるとする。

また導師になる動機,方法は中山身語正宗の綬仏のそれと類似している。

IV  .信者の信仰体験

以上のような中山身語正宗の特徴を前提として, ζの中山身語正宗のもつ宗教的世界観の中で,実 際l乙信者がどのように救われていくかについての事例を2つ紹介する。

事例1

昭和3年Bさんは,天台宗を信仰する家i乙生まれた。実家では荒神を把り l臼, 15自には赤飯・お 頭付きを供え,食事の前にはいつも祝詞をあげていた。

Bさんは,昭和42年5月6日IC.近所に住む主婦Hさんに誘われて.病弱な姉のことを相談するため に初めてM教会を訪れた。 ζのとき貌仏は, 「あなたには女のホトケさんがとりついて,生き自を吸っ ている。」そして 「あなたの息子には事故のオシラセが出ている。乙の恵子は仏縁深く生まれている ので,得度するととになるだろう。またそのために,いろいろ俊足(厄災のかたちをとる)を受ける だろう。

J

とBさんに告げた。

Bさんの家族構成は図4 1のとおりである。

「 寸 了寸

2

0  J 2 J   包 ーァ〆

ん ム ムー「=

0

0  . o  

ダ ウ ン 症 児

図4‑l 

初めて教会に行った臼の数日後の5月24臼l乙 当時中学2年生であったBさんの長男は,バイクに 乗せてもらっていて大事故l乙会った。長男を乗せていた人も 衝突した相手もまだ未成年で保険にも 充分加入していなかったため 長努の治療費は両親も負担した。近くのT外科i乙入院した長男は,頭 を強く打ち意識不明の重体で 足も切断することになるかもしれないと言われた。

きさぐり

長男の入院中Bさんは,M教会の貌仏l乙連れられて初めて篠栗ぞ訪れた。そ乙でBさんは「長男が

EIV 

J

(13)

良くなりますように」と念じて,かかえや地蔵(ある額いをζめて持ち上げ,その願いがかなうので あればζのかかえや地蔵は持ち上がると言われている)を持ち上げようとするが重たくていっとうに 持ち上がらない。同行した他の信者は稜々と持ち上げているのにどうしてだろうと患い,何度も持ち 上げようとするが持ち上げられない。乙れを見ていた殺イムはお経をあげ.気合いをかけた。すると B

Sんにもかかや地蔵を持ち上げる乙とができたという。乙ζで親仏は 「信じないから長男の意識

6

戻 らない。長男は医者の力と親織(教組)の力と本人の寿命が合った時に初めて助かる。

J

とBさんに 言った。

長男の意識は回復したが,足を切らないで治してやりたいと患った両親は, K大学医学部附属病院

(以下「K病院」と絡す)に転院させたいと申し出て快諾して色らっ.た。 K病院では足を切断しない ですむように,試験中の保険のきかない高価な凝を使用して毎月一回. 4ヶ月にわたって治療をした。

乙の筒Bさんは, M教会で御座4きした際に次のようなおじひぞ親仏から与えられていた。 「よく来た,

よく来た,助かるぞ,溶としはせぬ。衣の中』乙抱きかかえているぞ

J r

科 学の世の中ζl医学があって も.学の知恵では助けられとZい。 中山身諮正宗,ζの覚恵(教組)が傷者ケ助けるぞ」などであった。

乙れらのおじひを聞いた8さんは.その足でお百度参りなどのお行に励んだ。

長男はK病院に転院した当初.一年の入院が必要とされていたが,治療の経過が良〈約半年後の1l  月20臼lζil!院した。 Bさんは12月K長男を伴って御礼報謝のために本山の古四国を巡揮した。 B怠ん

は長男の窓識が回復したのも, K病院に移れたのも.足を切断しないですんだのも,すべて中山身諮 正宗の教祖の力によって告が協力してくれたからだと考えていた。

年が明けて昭和43年1月15臼にBさんは,初座(信者の家で初めて御座をするζと)を親仏』ζ頼ん でいたが「私色 Bさんも命をとられるようなことが起乙る

J

と断わられた。綾仏は前日M教会の近く で火事があり.一暖もしていなかったのでとのように告げたが,代わりに 「教会でB家の先組回向の ための御座をするから来るようにjと伝えた。そζでBさんはHさんらと一緒K M教会へ行き12人で 御座をした。 ζのE寺M教会の賞受も古い信者であるR怠んはBさんに「Bさんの隣りにホトケさんが一 人いて13人で御座をしているのが見えた。 Jと宮った。御座のあと親仏は8さんに「乙のまま帰った ら命をとられるので.少し休んで帰りなさい。 」と忠告したが• BさんはHさんと一絡に帰った。と 乙ろがBさんは帰宅する途中にパスからパス IC.乗りかえたとたんに意識を失い,パスに乗ったままQ

病院に運び込まれた。御座をしたあと気分が懇くなった親仏は休んでいたが,Hさんの電話を受けて 教会II'..残っていた傷者とと毛K,般若苦心経を21巻すべての経文を唱えて御

E 1 f

をした。おじひ II'..教組が

「われ受け持った命助けるぞ

J

と出たのでζれを知らせるために病院に電話を入れたとζろ, Bさん はちょうど意識をとりもどしたとζろであったそうだ。親仏は「ζの時Bさんは.ない命を教祖か ら教われて授った」と説明する。 8さんは乙の出来事をきっかけに よく風務をひいたり熱が出るよ うになったと言う。

長男が退院した喜びも長くは続かず• Bさんの方が看護疲れのためか起き上がる乙とができず穫つ いてしまった。けれどもζの頃のおじひに「そんな信仰をしていても命はとEいぞ

J

と出ていたので.

8さんは無理して教会に通いお行だけはしていた。しかしお行の3日自の靭に台所に立っていた8さ んは気絶してしまい.驚いた 8さんの夫はかかりつけの N医院に往診を頼んだ。

往診の結果腎臓の病気と言われ.当時ζのあたりでは悠一人工透析を受けられる.北九州市のY病 c o  

qd  

(14)

院に2月頃入院した。まだ人工透析には保険がきかず 大金が必要であった。元看護婦だったBさん は,腎織の病気には有効な薬はないと考えていたため,費用の必要な人工透析も絶対受けたくないと 思いながら入院していた。また, Bさんが入院した3日後ζl長男が家出し, 一刻も早く家』ζ帰りたい

と考えたが退院はできなかった。人工透析を拒んだまま一ヶ月ほど入院しているうちに,やっと熱が 下がったので逃げるように退院して自宅ζi帰ってきた。

IO日間ほど自宅療養していたが,また高熱が出て下がらなくなった。そこで.知り合いの産婦人科 の医者に相談しに行ったと乙ろ.今度は小倉のM病院に入院するよう勧められた。乙の病院では筏カ は別に葱くなかったのに,目良底の検査ばかりされたとBさんは言う。そして入院中,留の難病に指定 されているベーチェット氏病とカルテに容かれていたのを見る。 ζの頃親仏は 「Bさんの病気は因縁 の病気だからお行一本よ

J

と言っていた。

Bさんの入院中長男は家出を繰り返し 高校も 3日間通っただけで退学した。またボンドを吸うよ うになり,急速に非行i乙走っていった。

Bさんは自宅K戻ったが, 一週間後再び発熱し体がだるいので,近くのK小児科i乙行く。こζでは,

即座i乙K大学附属病院へ行くよう忠告される。 K病院では様々な検査を受け,中には苦痛を伴なう検 査があったとBさんは言う。検査の結果,脅織の病気で治すのに5年かかると説明され,すぐに入院 するように言われた。しかしBさんは長男のζとが心配で,入院しでもすぐには良くならないことを 知り,医者の反対を押し切って週3図通院するととにした。また長男の負傷,Bさんの病気と続き,

家を手ばなさなければならない状態にあったζとも理由のひとつであった。

K病院に通院しはじめた半年後K,親仏がBさんのために教会で御座をしていたことを日さんから 聞く。乙の時Bさんは入院を繰り返していた悶,長男を助けてくれた教祖や親仏に感謝しながらも.

因縁因縁と言われると,迷い心が出て教会から遠ざかっていたことを悔やんだそうだ。 ζれは,外部 の人から「お陰信仰にすぎない」「不動は一度は助けてくれるが お礼が少ないとパチが当たるJ

「灘IC:.入れば気が狂う」「本山に登ればキツネが懇<

J

など聞かされたためでもあった。しかし,親

おやさま

仏がBさんの乙とを心配して祈願を続けていた乙とぞ聞き Bさんはその足で教会に向かい「親様

(教組) ・お不動様許してください

J

と祭療に手を合わせて親仏にも心から詫びたという。

K病院には週一間通院していたが,再ぴ御践に参加しお行をするようになった。 ζれと問時l乙,足 かけ三年続いた微熱もとれたので病院で渡される薬も服用せず捨てる乙とにした。またとれ以後病気 になった際iとは,健康食品や漢方薬を使用し病院には行っていないと言う。これまでは,径者や病院 を信じて金銭の許す限り治療に専念していたが K病院への通院もやめた。乙の頃Bさんは「ζのよ

うに医者にもはっきりした病名のわからない自分の病気は,毅仏の言うように,自つぶしの病気(ホ トケが供養を要求して子孫にもたらす病気)にほかはらず,因縁から来る病気で,乙れらはすべてホ トケからのオシラセなのだ。

J

と理解するようにった。

闘病中B窓んは,入院している間IC不良化しボンドを吸っては暴れる長男を殺して自分も死のう,

と包丁を握った乙ともあったが健康を回復してからは 長男が一日も早く立ち直るように祈願し必 死にお行4きするようになった。また 長男から自が離せないので 泊まりがけでは参加することがで

きなかったが,百四国の巡礼も(本来は一泊二日)も毎月一日だけ巡拝した。

親仏は「Bさんの長男はま震を持って生まれており,事故の後遺症も重なって不良になった。そして

q o  

勾 ︐

(15)

Bさんの長男の場合は,得度しない限り乙の業からのがれられない」と説明する。

昭和46年Bさんの長男は,周囲の人の好意で佐世保の海上自衛隊に入隊した。 ζれは行願が実った ためだとBさんは考え.いっそうお行に励ひょうになった。とζろが,お行の3年 3月の満期が近づ いた昭和4812月Ir.長男は,岩国基地で飲酒運転のうえ石垣K激突して懲戒免職にとZった。

Bさんの長男が入院中,親切に看病した女性Sさんがいた。その後Sさんは長男の子を妊娠したた め,長男と二人で親仏に相談しに行った。 ζの時「ζの子はまともじゃないぞ,流せ流せ」とおじひ が出fこ。親イムは二人』己中絶を勧め, 二人はζれに従っTニ。 Bさんはこの乙とを知らず.単』乙婚前lζ妊 娠したために中絶したのだと考えている。親イムはかつて,長男がシンナーを吸い,麻薬を打っていた のを知っていたので,健康な子は生まれないと考えたからだと言う。

昭和49年Bさんの長男とSさんは結婚した。 BさんはSさんが再び妊娠したため,安産祈願を頼み に教会へ赴いた。親イムが祈願したところ「今生むと不具の子が生まれる,流せ流せ,まともじゃない ぞ」とオシラセを受けたので, Bさんには「生まない方がよい」とだけ告げた。 ζれを聞いたBさん は.長男もまだ若いしζ乙で子供が生まれたら経済的にきしくなるだろう,と教祖が考え乙のような おじひが出たのだと解釈し.生まれてくる子が初孫であるζともあって産ひょうにした。

昭和50719日にSさんが産んだ女児は,左手指が欠損したうえ,ダウン症の障害をもっ子であっ た。乙の初孫誕生をきっかけに, Bさんの失も自宅での御座に参加するようになった。 9月lζは, S

さんを含めたBさん家族は,本山の

r e

i箆jiζ入り,教組との縁結びを行った。

ダウン症の初孫が生まれて半年後の昭和51年1月, Bさん宅で行われた御座のおじひに

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さんの 夫の命がない

J

と出た。その後も数ヶ月続けて同様のおじひが出ていたそうだ。親仏にはこの頃から すでに, Bさんの夫の死がわかっていたが,御座のあとの説明では 「Bさんが自殺をしようと思うほ どの大事件が起る。

J

とだけ告げていたという。

Bさんは,その年の5月の古四国巡拝で「夫の命を助けてください」と祈願しながら歩いていた。

いつもは教祖から「落としはせぬ,引き上げてやるぞ」「助けるぞ

J

など祈願している乙とに対する

「お受けとり

J

があるのにζの臼は伺もなく,不安になったそうだ。しかも,七四半巡ればどんな祈 願も成就するとされている古四閣の,八回目の巡停をしていた自の出来事であった。

次の日曜日の5月23日,庭で花の消穫をしていたBさんの夫は「太陽がまぶしい

J

と言ってその場 にしゃがみζんだ。翌日' Bさんと夫はK病院の外来毎訪れる。そして6月1日ll:は入院して検査を 受ける乙とになった。 Bさんは一番良い病院に入るのだから必ず治ると信じていたが, 6月4臼ICは 臼血病との診断が出る。乙の頃のおじひは「Bさんが生きてゆけるだけの力ぞ授けよう

J

というもの であった。 Bさんは個室i乙移った夫の付き添いをはじめ,枕の下ll:「家内安全・祈願成就」と舎かれ た,本山から求めてきた護摩札を敷いて回復を祈った。しかし8月下旬には白血病に加えて,腎ガン と診断される。 Bさんらと医師の話し合いの結果,白血病のために非常に低い成功率しかのぞめない 手術は断念された。 Bさんはζの直後.よく当たると評判のオガミヤさんを尋ねた。乙 ζでは「夫の 家の300年ほど前の自殺したホトケさんがサワっている。」と言われた。 Bさんは,初めてM教会l乙 行った時の「あなたの生き血を吸っているホトケさん」とはこのホトケさんなのだと確信を持ち,早 速夫の君主の墓おζ しに行った。

9月6自白血病が寛解したのでBさんの夫は退院し,病人のために改築した自宅で療饗する。朝・

‑38‑

(16)

タにはこ人で般若心経を 3巻あげる日々を過 Cした。しかし,胃ガンは徐々に進行し, Bさんの夫の 身体は衰弱していき,翌年4月には臼血病が再燃したため,湾びK病院に入院する。 Bさんはラ更にずっ と付き添っていたが,夫の前では笑顔をみせ,かげでは泣くという生活に耐えられとよくなって,数日 後iとは夫に胃ガンである乙とを告げた。 ζれを関いたBさんの夫は「浄土真宗では俺の因縁は切れな い, (中山)身諮正宗でしか切れないかもしれないjと言い この臼から内服薬を飲まないζとにし た。それまでBさんの夫は,自分の誕生白である7月20日までは闘病を続けようと5考えていたが,そ れも実現しそうにないことぞ知り,自分の母の祥月命臼である4月20日を新しい目標にするζとをB

さんに伝えた。またBさんの夫のための祈願を含めて本四国(四国88ケ所)巡礼iζ出発する直前にお 見舞いに来た貌仏には, 2081乙死んだら浄土真宗で葬式を出し 21自に死んだら中山身諾正宗で葬式 を出してもらおうと考えていることを述べ, 「中山身語正宗は,死んでも Bや息子たちと話す乙とが できるから」と言ったそうだ。

4月20日Bさんの夫は,毎日午後3時に受けていた輸血を拒否し 昭和52年4月21臼午前零時すぎ に永眠した。

21日は弘法大師の臼であり.本四国』乙行った親仏はス 卜のため20臼に帰って来る予定が, 21臼にし かまにあわなくなった。 Bさんは,夫が貌イムや弘法大師の臼を待っていたのだと考え,浄土真宗で葬 式を出すべきだとする夫の親戚の猛反対を押し切って 中山身諮正宗で葬式を出す乙とに決めた。 B

さんの長男が生まれたのが21日であった乙とも理由のひとつであった。

失の死後Bさんは,自宅での御座はできるだけ21日にしてもらうよう親仏に頼んでいる。またM教 会が改築された際には,失の退職金や保険金を費やして弘法大師像を寄贈した。この前日Bさん宅l乙 来ていた長男とその婆は,ささいな乙とから鐙嘩し,双方とも包丁を主要りしめて大騒ぎしたが,弘法 大師像ぞ寄贈した臼以後はζのような夫婦臨峰をしなくなったと言う。乙れを8さんは,弘法大筋や 夫が守っていてくれるためだと考えている。

53年 2 月に本山の講習会 i乙出席した B さんは,その帰途 M 教会の百万遍の御~Iζ参加したと乙ろ

「もう待てない.息子の身代わりに得度せよ

J

と教組のおじひが出たので,5月l乙得度した。

1人になったBさんは.障害のある孫をるつ人簡として この地域l乙居住する障害者のいる家庭や 一人暮らしの老人の役に立ちたいと考え 民生委員になった。しかしその後なぜか体の調子が悪くな り,度々寝ζむようになってしまった。 ζれを知った親仏はBさんに「あなたはホトケに額られやす い性格なので,そのような家に行くとどうしでもその家の因縁を背負って帰るととになる。だから健 康でいたいと思うなら,民生委員はやめた方がよい。」と言った。 Bさんは,やめるのは残念だと思っ たが,親仏の忠告に従って民生委員を一年で辞任した。また,臨時の看護婦もしてみたが,同様に体 の調子が悪くなるので,乙れもホ卜ケζ頼られるだめだと考えて看護婦の仕事をしないととにしていi る。現在はもっぱら,M教会の信者たちとー絡に廃品回収をして,教会に納める会費を得ている。こ れは重労働だけれども.不思議と病気になるζとはない,とBさんは言う。 Bさんは,長男が一日も 早く得度する乙とぞ祈願しながら,教会で行われる宗教行事l乙参加し,廃品回収を含めたお行をする

日々ぞ送っている。

事例2

先にあげたBさんの事例は,殺仏と本人から話を聞き年代順IL事実』LHPして記したが,次ζl示すB

‑39‑

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