インド学チベット学研究 No. 7/8 (2003/2004) 005那須良彦「説一切有部における得と随得」
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(2) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 138. ihedam iti buddhir yato bhavati yataś cāsarvagatānām adhigatānyatvānām avis.vagbhāvah. sa samavāyākhyah. sambandhah. / 不可分離に成立している、保持されるものと保持するものとの関係にある諸々の ものに関して、 「ここに〔これが〕ある」という知の起こる原因である関係が、内 属である。つまり、実体・属性・運動・普遍・特殊が、因果関係であろうと、因 果関係でなかろうと不可分離に成り立っており、保持されるものと保持するもの との関係を以って存在している場合、 「ここにこれがある」という知が甲に基づい て起こる。また、遍在しておらず、別異であることが理解されている諸々のもの に、甲に基づいて不可離関係が生ずる。その甲が内属と呼ばれる関係である。 また PBh では結合 (sam . yoga) は次の様に定義されている。. PBh., p. 28.8: sam . yogah. sam . yuktapratyayanimittam / 結合とは、 〔「これはこれと (idam anena)〕結びつけられている」という知の原因 である。 仏教では、説一切有部 (Sarvāstivādin、以下 有部) は、身心と法との結合関係を説明 する原理として得 (prāpti, 獲 pratilambha, 成就 samanvāgama) をたてる。即ち有部 は、択滅無為 (pratisam . khyānirodha) 法及び非択滅無為 (apratisam . khyānirodha) 法、 或いは自相続中の有情数の有為法を自らの身心に獲得し、具有せしめる機能を得と呼 んでいる(3) 。例えば世親 (Vasubandhu, 400-480) の『倶舎論』では、得は次の様に定 義されている。. AK in AKBh., p. 62.15, 18, 21: prāptir lābhah. samanvayah. / prāptyaprāptı̄ svasam . tānapatı̄tānām . nirodhayoh. // AK., II-36bcd // 得は、 〔未だ得していないもの、及び既に失ったものの〕獲と、 〔既に獲たものの〕 成就とである。〔有為法の場合、〕自らの相続のなかにある〔諸法〕について得・ 非得がある。 〔無為法の場合、〕二滅 (択滅無為と非択滅無為) について〔得・非得 がある〕。 (3) 得の定義の大綱については、中川善教. [1995] pp. 79-93 を参照。. [1979] pp. 144-147, 加藤宏道 [1985(1)] pp. 50-53, C. Cox.
(3) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 139. Vaiśes.ika 学派の内属及び結合と、有部の得とには、その役割を果たす文脈上の相違 点が存する。Vaiśes.ika 学派の内属は実体と属性等との不可分離な結合関係を説明する 原理として、結合は諸実体間等の分離可能な結合関係を説明する原理として、主とし て存在論や認識論上の文脈においてその役割を果たしている。一方、有部の得は、有 情が聖法、離繋果、或いは有漏法を身心に具有せしめる原理として、主として修道論 上の文脈等において役割を果たしている。また得される対象も、自相続中の有情数の 有為法、及び二無為 (択滅・非択滅無為) に限られている。 この様に、Vaiśes.ika 学派の内属及び結合と、有部の得とには違いが見られる。しか し、彼ら Vaiśes.ika 学派と有部には、これらの結合関係なるもの (つまり二つのものを 関係づけるもの) を結合関係項から分離独立させた上で、実体視するという共通性が ある。 ここで一つの問題が生ずる。それは、結合関係を、結合関係項から分離独立させた 上で実体視するならば、二つの結合関係項を関係づけるもの (=結合関係) をさらに関 係づけるもの (=結合関係の結合関係) が必要になり、結合関係の結合関係をさらに関 係づける結合関係の結合関係の結合関係が必要になるという様な無限遡及の過失を招 来してしまう、という問題である。この問題は、結合関係を実体視する考え方をめぐ る議論に頻出する。 一例として、 『倶舎論』や PBh より後代の 600〜660 頃に活躍したとされる Dharma-. kı̄rti による結合関係批判が挙げられる。彼はその著『結合関係の考察』(Sambandhaparı̄ks.ā) の中で、結合関係を実体視すれば無限遡及の過失に陥ることを指摘して、次 の様に述べている(4) 。 Sambandhaparı̄ks. ā, p. 141.3-4: dvayor ekābhisambandhāt sambandho yadi taddvayoh. / kah. sambandho ’navasthā ca na sambandhamatis tathā // 4 //(5) 二つのもの (結合関係項) が一つの関係づけるもの (結合関係) に基づいて結びつ (4) Dharmakı̄rti. による結合関係批判については、E. Frauwallner[1934(1982)]、金倉圓照 [1973] 及び清. 水庸 [1981] を参照。 (5) 対応するチベット訳は次の通り。. Sambandhaparı̄ks. ā(Tib), p. 493: gnyis ni ’brel pa gcig pu yis / / ci ste ’brel na de dang gnyis / ’brel pa gang yin thug pa med / / de bzhin ’brel med shes par bya / 4.
(4) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 140. けられるとするならば、それ (結合関係) と二つのもの (結合関係項) とには一体 如何なる結合関係があるのか?そして〔もし、結合関係項と結合関係を結びつけ る為に、またさらに別の結合関係があることを認めるとすれば〕無限遡及となる。 〔故に、〕その様な (別個の実物である様な) 結合関係の知はないのである。(『結 合関係の考察』第 4 偈). Dharmakı̄rti よりも遙かに前の紀元後2世紀頃、有部においても、 『阿毘達磨大毘婆 沙論』(玄奘訳, 以下 『婆沙論』) 巻一五八の中で、法の得にさらに得があるとすれば、 その得得、つまり随得(小得)にさらに得 (得得の得) が必要になり、無限遡及の過失 に陥るのではないか?という問題が論じられている(6) 。ここで有部は、単純に無限遡 及の過失を回避しているわけではない。 そこで本稿は、かかる得と得得の問題に関して、有部が得の無限遡及の過失の問題 をどの様に処理していたかを中心としつつ、 『婆沙論』及び『倶舎論』の所説を資料と して考察を加えるものである(7) 。. (6) 玄奘訳『婆沙論』において得・非得が中心的に論じられているのは、巻九三及び巻一五七・一五八であ. る。巻九三では得の実在論証が中心的に論じられており、巻一五七における得の実在論証と内容をほぼ同 じくしている (『婆沙論』における得の実在論証については櫻井良彦 [2003(1)] 及び櫻井良彦 [2003(2)] を 参照にされたい)。巻一五七は、得・非得の実在論証に引き続き、主に『発智論』本論の論題に従いながら、 得の諸門分別をおこないつつ、様々な観点から得・非得の問題を考察している。続いて巻一五八に入ると、 劈頭で得と非得はどの様に違うのかを論じ、次に得・非得と本法の性類差別の問題を論ずる。随得の問題 はその次に論じられている。 さて、旧訳『毘婆沙論』は玄奘訳『婆沙論』の「定蘊得納息」に相当する部分を欠いている以上、旧訳 『毘婆沙論』では随得の問題は論じられていない様に思われる。しかしそうではない。旧訳『毘婆沙論』で は思わぬ所で随得の問題が論じられている。それは巻一七「雑度 (=雑蘊) 愛敬品 (=愛敬納息) 中」であ る。すなわち、巻一七は、本論の論題に従い、冒頭で数滅 (=択滅無為) 及び非数無為 (=非択滅無為) の 問題を論じ、次に有余・無余涅槃の問題を論じ、そしてその涅槃が学所摂か?無学所摂か?非学非無学所摂 か?という問題が論じられている。旧訳『毘婆沙論』での随得の問題はその次に論じられている。玄奘訳 『婆沙論』「雑蘊愛敬納息」巻三三は、涅槃と学・無学・非学非無学の問題が終了すると、 此中得義、如後定蘊得納息中、当広分別。(『婆沙論』T. 27, p. 171b6-b7) という様に、得の問題を巻一五七・一五八に譲っている。旧訳『毘婆沙論』はまさにこの巻一七「雑度愛敬 品中」の箇所で随得の問題を論じている。以下、註及び本文において、『婆沙論』と対応する旧訳『毘婆沙 論』の部分も示していこう。 (7) 随得に関する先行研究には加藤宏道. [1985(2)] の他に、福田琢 [1990] pp. 10-13, n10-n12, 及び C.. Cox[1995] p. 99, n61, p. 209, n141 等がある。.
(5) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 1. 141. 得と得得の名称について. ところで、この得と得得については、諸論書において名称の異なりが存する。これ については武田 (旧姓 加藤) 宏道教授によって詳細な分類が為されている(8) 。従って、 武田教授の成果に依存してまとめれば次の様になる。 『婆沙論』では、本法 (=所得法) を成就するものは「得」、その「得」を成就する ものは「得得」という名称を用いている(9) 。また、世親の『倶舎論』は、本法を成就 するものを prāpti(得) と呼び、その prāpti を成就するものを prāptiprāpti(得得) 及び. anuprāpti(随得) と呼ぶ(10) 。普光 (生没年未詳、後 7 世紀頃) の『倶舎論記』及び法宝 (生没年未詳、後7世紀頃) の『倶舎論疏』は、両者を併置させる場合、本法を成就す るものを「大得」、その大得を成就するものを「小得」と呼んでいる(11) 。 本稿では、 「得得」の名称に関して、基本的には「随得」という名称を用いるが、資 料の解説等の関係上、「得得」等の名称も任意に用いる。. 2. 『婆沙論』における随得をめぐる議論 (1). それでは『婆沙論』において有部が得と随得の問題をどの様に論じているかを、一 つ一つみてゆこう。有部は、得と随得の問題を論じるに際し、先ず、 「得にはさらに得 はあるのか?」という問いを設け、これに対して「得には得得がある」と答える。 資料1. 『婆沙論』T. 27, p. 801a26-a28:. 問、所説得為更有得、為無耶。若更有得者、得復有得、何非無窮。若更無得者、 此得由何可説成就。 答、応説得復有得(12) 。. (8) 加藤宏道. [1985(2)] p. 155.. (9) 『婆沙論』T. (10) AKBh.,. 27, p. 801a-c.. p. 67.1-5, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c, 真諦訳『倶舎釈論』T. 29, p. 182b.. (11) 『倶舎論記』T.. 41, p. 92a-c, 『倶舎論疏』T. 41, p. 540c.. (12) 対応する旧訳『毘婆沙論』巻一七は次の通り。. 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 127c15-c17: 問曰、所説得復有得不耶。若当有者、得復有得。便為無窮。若無窮者、無成就此得者。答曰、応作此 論得復有得。.
(6) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 142. この資料1に示した様な有部の返答は、ただちに「もしそうであれば無限遡及の過 失を招く」(13) とする論難を招く。これに対する有部の返答は、二つの方向から為さ れる。それは、無限遡及であっても過失はないとするものと、無限遡及とはならない 故に過失はないとするものとである。 資料2 『婆沙論』T. 27, p. 801a29-b6: 答、(a)無窮亦無有過。由此生死難断難越。 (b)或無量得皆一刹那倶生而滅、無無窮過。 (c)如是説者、 「一刹那中、但有三法。一彼法、二得、三得得。由得故成就彼法 及得得、由得得故成就得、由更互相得故非無窮。是故説、 〈色蘊行蘊一得得乃至識 蘊行蘊一得得有為無為一得得〉」。 資料3 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 127c18-c24: 答曰、 (a)無窮有何過。未来世寛、能容此得。以生死法無窮故。得亦復然。是故 難断難除難過、衆苦相続、猶如連鎖。 (b)復有説者、以倶在一世一刹那中故非無窮。 (c)評曰、応作是説。法生時、三法倶生。謂、法、得、得得。以得故成就彼法 及得得、以得得故成就得。是故非無窮。以是事故而作此論。 先ず、無限遡及であっても過失はないとする返答は、資料2及び3の(a)の部分 である。玄奘訳から見てゆこう。この返答は、修道論的な見地から、得を断じ尽くす ことの困難さを指摘するものである。或る有情が、断惑の過程において、一つの得を 断じたとしよう。しかしその有情には、さらに別の得がある。その別の得を断じても、 またさらに別の得がある。つまりその有情には、数限りない得が存在している。この ことが、有情が断惑して生死を超えることの困難な理由である。従って、無限遡及で あっても過失ではない。この様に有部は答える。旧訳『毘婆沙論』もまた同様である。 次の様に述べられている。未来世は広いので、無限の数の得の量を収容できる。生死 (13) 『婆沙論』T.. 27, p. 801a28-a29:. 問、若爾、応成無窮。 対応する旧訳『毘婆沙論』巻一七は次の通り。 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 127c17-c18: 問曰、若然者、是則無窮。.
(7) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 143. 法は無限に尽きることがないからである。得もまた同様である。つまり有情には数限 りない得が存在している。このことが有情が断惑して生死を超えることの困難な理由 である。従って、無限遡及であっても過失ではない。この様に旧訳『毘婆沙論』は述 べている。 次に、無限遡及とはならない故に過失はないとする返答は、資料2と3の(b)及 び(c)である。これらは、得の存在論的見地、及び得の機能の面から、無限遡及と はならないことを弁ずる。 得は有為法である以上、刹那滅なものである。資料2と3の(b)は、得が刹那滅 なものであることを指摘することによって、無限遡及の過失を回避しようとするもの である。しかし得が刹那滅であることを指摘することが、何故に無限遡及の過失の回 避の論拠になるのかは、現在の筆者には不明である。 資料2と3の(c)は、得と随得はそれぞれ機能する対象が決まっているが故に、 無限遡及とはならないと返答するものである。本法と随得は、得によって成就され、 得は随得によって成就される。従って、第三・第四・第五…の得が必要になるという 様な無限遡及の過失とはならないのである。つまり、得は本法と随得との二つに対し て機能し、随得は得のみに対して機能する。それ故、得と随得が機能する対象はそれ ぞれ決まっているので無限遡及の過失にはならない。以上の様に、有部は返答する。 福田琢氏は、上記資料2と3の(a)及び(b)を、無限遡及の過失を答える際に 常用される Stock Phrase とし、その上で、『婆沙論』は(c)の説を「正しい有部の 答 (如是説 tathāvacana) として挙げている」としている(14) 。 筆者は、資料2と3の(a)〜(c)をそれぞれタイプ(a)〜(c)とし、以下 の様にまとめる。 タイプ(a)無限遡及であっても過失ではないとする論法 修道論的な観点から、生死を断じ超えることの困難さを強調し、得の数量が際限 なくなるという無限遡及となっても過失ではないとする論法。 タイプ(b)無限遡及の過失を回避せんとする論法 (1) 刹那滅であることを指摘することを通して無限遡及の過失を回避せんとする論法。 タイプ(c)無限遡及の過失を回避せんとする論法 (2) 得と随得が機能する対象はそれぞれ決まっているので無限遡及の過失とはならな いとする論法(15) 。 (14) 福田琢. [1990] pp. 19-20, n12.. (15) 有為の四相に四随相があるかどうかをめぐる議論においても、 『婆沙論』所述の有部は、得と随得をめ.
(8) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 144. ぐる議論に登場する論法と似た様な論法、つまりタイプ(a)〜タイプ(c)の論法をもって答えている。 武田宏道 [1993] p. 88 を参照。 『婆沙論』T. 27, pp. 200c13-201a4: 問、生相復有余生相不。設爾何失。若有者、此復有余、此復有余、如是展転、応成無窮。若無者、誰 生此生、而生他耶。 答、応作是説、生復有生。 問、若爾、生相応成無窮。 有作是説、(a)許此無窮亦無有失。三世寛博、豈無住処。由是因縁、生死難断難破難越、衆苦生長、 連鎖無窮。又(b)同一刹那故、無無窮失。 有余師説、(c−1)諸行生時、三法倶起。一者法、二者生、三者生生。此中生能生二法。謂法及生 生。生生唯生一法。謂生。由此道理、無無窮失。問、何故生能生二法、生生唯生生耶。答、法性爾故、 不応為難。如諸女人有生二子、有生一子、豈応為難。 評曰、応作是説、 (c−2)諸行生時九法倶起。一者法、二者生、三者生生、四者住、五者住住、六者 異、七者異異、八者滅、九者滅滅。此中生能生八法。謂法及三相四随相。生生唯生一法。謂生。由此 道理無無窮失。問、何故生能生八法、生生唯生生耶。答、法性爾故、不応為難。如鶏犬等有生八子、 有生一子、豈応為難。如生与生生、住与住住、異与異異、滅与滅滅、応知亦爾。 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 150b8-b21: 問曰、生相為有生相不。若有者、云何非無窮。彼生復有生故。若無者、誰生此生。 答曰、応作是説、生相復有生相。 問曰、若然者、云何非無窮。 答曰、(a)無窮有何過。未来世寛、無住処耶。又生死是無窮法。以是事故、難除難過、能生衆生無 量連鎖之苦。 (c−1)復次此二同在一刹那中故非無窮。彼一刹那中、生生二法。一生法、二生生生。生生唯生 生。問曰、何故生生二法、生生唯生生。答曰、如是亦無有過。猶如女人有生一子者有双生者。 復有説者、(c−2)生相生八法。謂彼法・生生・老・後老・住・後住・無常・後無常。生生生一法。 謂生。問曰、何故生生八法、生生唯生生。答曰、是亦無過。猶如猪犬狼豺等、或生一子、或生多子。 (a)は、「三世(旧訳は未来世) は寛博である以上、四相・四随相が存在しうる余地がある。そしてこ の故に、生死を断じ超えることが困難である。従って無限遡及であっても過失ではない」とする。このこ とからこの(a)は、タイプ(a)と同じであると考えられる。 問題は、玄奘訳の(b)「同一刹那故、無無窮失」である。この説は、二通りの解釈が可能である。一つ は、「同一刹那故、無無窮失」が旧訳『毘婆沙論』では玄奘訳の(c−1)説に相当する説に組み込まれて いる (「復次此二同在一刹那中〜有双生者」) とみる解釈である。この解釈に立つと、玄奘訳の「同一刹那 故、無無窮失」は、「同一刹那の中に、生と生生の二法がある。そのうち生は本法と生生とを生じ、生生は 生のみを生ずる。従って、無限遡及の過失はない」ということになる。そうであるならば、玄奘訳の「同 一刹那故、無無窮失」は、生と生生はそれぞれ機能する対象が決まっているので、無限遡及の過失とはな らないとする説になる。従って、タイプ(c)に分類される。二つ目の解釈は、「同一刹那故、無無窮失」.
(9) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 3. 145. 『婆沙論』における随得をめぐる議論 (2). 次に、 『婆沙論』の中で有部は、一々の法を同一の得が成就するのか?それとも各々 別個の得が成就するのか?という議論を問題とする(16) 。ここでも、先のタイプ(a) 〜タイプ(c)の論法が登場する。だが、それらは単に並列されているわけではない。 資料4 『婆沙論』T. 27, p. 801b7-b18: (I)或有説者、倶有法同一得得。問、若爾、不応作如是説、 「色蘊行蘊一得得等」。 答、欲顕法与得得無異得故、作如是説、然実不無五蘊四蘊一得得義。 (II)有説、一一法各別得得。唯除得得与彼法同一得得。問、若爾、便有無窮過 失。以得皆有生住異滅、生等復有得与得得。彼得得得復有生等。如是展転成無窮 故。答、(a)無窮復有何過。由此生死難断難越。(b)或此諸法皆一刹那倶生而 滅、無無窮過。 (III)(c)如是説者、法与生等同一得得。相与所相極親近故、由此善通色蘊行 は旧訳『毘婆沙論』では説かれていないとみる解釈である。この解釈に立つと、「同一刹那故、無無窮失」 は、「同一刹那の中に、四相と四随相とがある。従って、四相と四随相は一刹那に倶に生じ滅する故に、無 限遡及の過失とはならない」と解釈できる。そうであるならば、この「同一刹那故、無無窮失」は、刹那滅 であることを指摘することを通して無限遡及の過失を回避せんとする論法であるとみることができる。こ の故に、タイプ(b)の論法であると解釈できる。筆者は二つ目の解釈を採る。 玄奘訳(c−1)の有余師説は、「諸法が生起する時には、本法・生・生生の三法があり、生は本法と生 生を生じさせ、生生は生のみを生じさせる。この様に四相と四随相が機能する対象はそれぞれ決まってい るので、無限遡及の過失はならない」と解釈しうる。従って、タイプ(c)に分類される。 玄奘訳(c−2)の説が有部の正説である (旧訳『毘婆沙論』では「有説」となっている)。この説では、 「諸法が生ずる時には、本法と、生・住・異・滅の四相と、生生・住住・異異・滅滅の四随相とが生ずる。 このうち、生は、本法と三相と四随相との計八法を生じさせ、生生は生のみを生じさせる。従って、無限遡 及の過失はない」とする。このことから、この有部の正説もタイプ(c)に分類されよう。 結局のところ、『婆沙論』における四随相をめぐる議論においても、随得をめぐる議論においてみられる 様なタイプ(a)〜タイプ(c)の論法をもって、四随相が抱える無限遡及の過失の問題に答えていること になる。 (16) 『婆沙論』T.. 27, p. 801b6-b7:. 問、為一一法各別有得、為不爾耶。 対応する旧訳『毘婆沙論』巻一七は次の通りである。 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 127c25: 頗有行陰色陰同於一得耶。.
(10) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 146. 蘊一得得等、又去如前無窮過失(17) 。 この議論において並列されているのは次の三説である。 (I)倶有の法 (四蘊・五蘊) は同一の得によって成就されるとする説。 (II)一々の法は各々別個の得によって成就されるとする説 (ただし随得と本法は 同一の得によって成就される)。 (III)本法と四相・四随相は同一の得によって成就されるとする説(18) 。 ここでタイプ(a)及びタイプ(b)の論法が登場するのは、 (II)の説においてであ る。(II)の説は、一々の法は各々別個の得によって成就されるとするものである。し かしこの説に対して無限遡及の過失を招来してしまうとの論難が起こる。つまり有為 法であれば、四相・四随相のはたらきを被る。それ故、本法ばかりでなく、得と随得 にも四相・四随相があることになる。そしてそれぞれの四相・四随相にもまた得と随 得がある。そしてこの得と随得にもそれぞれ四相・四随相があることになる。そして このそれぞれの四相・四随相にも…、という様に無限遡及の過失を招来してしまうで あろうとの論難である。タイプ(a)及びタイプ(b)の論法は、この(II)の説が 招来してしまう無限遡及の過失に答える際に登場する。 有部は(III)の説を正説としている様である。 (III)の意は次の様である。得は、本 法と随得、そしてこの本法と随得にある四相・四随相とを成就する。随得は、得と、こ の得にある四相・四随相とを成就する。従って、得と随得とが機能する対象は決まっ ているので、無限遡及の過失はない。この様に(III)の説は述べている。このことか ら、この(III)の説はタイプ(c)と言える。. (17) この部分の旧訳『毘婆沙論』は、玄奘訳と内容に異なりが見られる。色蘊行蘊等を同一の得が得すると. 主張する玄奘訳の(I)説のみがみられ、一々の法は各別の得が得するとする(II)の説は見られない。ま たタイプ(a)〜タイプ(c)の論法も見られない。かわって、有為法と無為法は同一の得が得すると主張 する説が挿入されている。 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 127c25-c28: 答曰、有。所謂色得得是也。乃至行陰識陰、説亦如是。有為無為亦同一得。所以者何。無為得得無為 及得得。是名有為無為同共一得。. (18) 解釈は木村泰賢・西義雄・坂本幸男. [1933] p. 110, n15 に依った。.
(11) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 4. 147. 『婆沙論』における随得をめぐる議論 (3). 第三に、『婆沙論』所述の有部は、過去の得、或いは未来の得をさらに成就するの かどうかに関する議論に移行する。 資料5 『婆沙論』T. 27, p. 801b24-c8: 問、過去未来得為成就、為不成就。若成就者、則為無窮。謂一刹那三法倶起。一 法、二得、三得得。此三滅位有六得生。謂、三得、三得得。此六滅位十二得起。 謂、六得、六得得。十二滅位二十四得起。謂、十二得、十二得得。如是展転、無 始時来乃至後際、念念倍起、其得無限。隣次刹那倍増尚爾。況於隔越前前刹那諸 得倍増。是故展転、有無窮過。若不成就、便与此蘊後説相違。如説、 「従無色界歿 生欲界時、所得蘊・界・処・大種・善根・不善根・無記根・結・縛・随眠・随煩 悩・纒、当言曾得得、未曾得得。答善染汚法当言曾得得。異熟法当言未曾得得」。 如此則非不成就。以得亦有善染汚故(19) 。 問者は、過去・未来の得をさらに成就すれば、無限遡及の過失に陥り、もし成就し ないとすれば、『発智論』の文に相違する過失に陥ることを指摘する。 これに対して有部は、過去・未来の得は成就されると答え、 『発智論』の文に相違す る過失を回避する。しかしこの答弁は、ただちに無限遡及の過失に陥るとの論難を蒙 る。有部はこの論難に対して次の様に答える。 資料6 『婆沙論』T. 27, p. 801c8-c13: 答、応作是説、過去未来得有成就者。以善及染汚法等有三世得故。 問、若爾、豈非無窮。 答[第一説](a)無窮復有何過。由此生死難断難越。 [第二説](b)或彼諸得一刹那生無無窮過。 [第三説](c)又此諸得但可言多而非無窮。猶有分限故。 (19) 対応する旧訳『毘婆沙論』巻一七は次の通り。. 旧訳『毘婆沙論』T. 28, pp. 127c28-128a9: 問曰、有成就過去未来得不。若成就者、云何非是無窮。所以者何。法生時、法得得得倶生。此三滅已、 便生六得。三是得、三是得得。是六生十二、十二生二十四、乃至無量無辺。若不成就者、定度又云何 通耶。如説、「無色界命終、生欲界中、所得陰・界・入・四大・善・不善・無記根・結・縛・使・纏・ 煩悩、当言本得得、本不得得。答曰、善染汚当言本得得、報当言本不得得」。彼得亦有善、亦有染汚。.
(12) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 148. ここでも先ず有部はタイプ(a)及びタイプ(b)の論法をもって答えている。つま り第一説と第二説がこれに相当する。問題は最後の説である。この説は、 「刹那刹那に 得と随得は膨大な量に増えていくが、得と随得が機能する対象は決まっている。従っ て、増え方にも分限 (=限界) がある。よって、無限遡及の過失とはならない」という ことを意図していると考えられうる。そして、その分限ある増大の仕方とは、資料5 に示した問者が述べた「謂一刹那三法倶起。一法二得三得得。此三滅位有六得生。謂 三得三得得。此六滅位十二得起。謂六得六得得。十二滅位二十四得起。謂十二得十二 得得。如是展転、無始時来乃至後際、念念倍起」に則ったものであろう(20) 。得と随 得が機能する対象が決まっているからこそ、この様に刹那刹那に増大する得の分限が 定められるわけである。それ故に、この最後の説はタイプ(c)に分けられる論法で ある。 一方、資料6に対応する旧訳『毘婆沙論』巻一七には、タイプ(a)の論法しか見 られず、タイプ(b)とタイプ(c)を欠く。次の様に述べられている。 資料7 旧訳『毘婆沙論』T. 28, p. 128a8-a11: 復有説者。有成就過去未来得者。 問曰、若然者、云何非是無窮。 答曰、 (a)仮令無窮復有何過。未来世窮無容処耶。以生死是無窮故、難断難除難 過、衆苦相続、猶如連鎖。 未来世は尽きることがないので、無限の数の得の量を収容できる場所を確保できる。 生死法は無限に尽きることがないという理由で、有情は断惑して生死を超えることが 困難なのである。ちょうど、諸々の苦の相続の連鎖が尽きることがない様に、無限の 数量に増えてゆく得の連鎖があるのである。従って、無限遡及であっても過失ではな い。この様に旧訳『毘婆沙論』は述べている。. 5. 『倶舎論』における随得をめぐる議論. 以上の様な『婆沙論』の議論を踏まえ、随得に関して『倶舎論』ではどの様な議論 が為されているのであろうか?そこで、以下、 『倶舎論』が『婆沙論』における随得を めぐる議論のどの点を継承し、どの点を継承しなかったのかを中心に考察を加える。 先ず『倶舎論』は、「得と非得にも、得と非得があるのか?」(21) という問を設け、 (20) 後に示す様に、この数え方は『倶舎論』等とは異なる。 (21) AKBh.,. p. 66.23, AKBh(Tib)., D. 73b2-b3, P. 83a6, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c8, 真諦訳『倶. 舎釈論』T. 29, p. 182b3..
(13) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 149. それに対して「両者いずれにも両者 (得と非得) がある」(22) と答え、随得の問題を開 始する。そして『婆沙論』と同様に、得に得があるとすれば無限遡及の過失に陥ると する論難を設定する。この論難に『倶舎論』所述の有部は次の様に答える。 資料8 AKBh., pp. 66.24-67.3:. nanu caivam anavasthāprasaṅgah. prāptı̄nām / nānavasthāprasaṅgah. / parasparasamanvāgamāt / ātmanā tr.tı̄yo hi dharma utpadyate / sa ca dharmas tasya prāptih. prāptiprāptiś ca / tatra prāptyutpādāt tena dharmen.a samanvāgato bhavati prāptiprāptyā ca / prāptiprāptyutpādāt punah. prāptyaiva samanvāgato bhavaty ato nānavasthā /(23) 【反論】だが、この様であるならば、諸得には無限遡及の過失があることになろ う。 【有部】〔諸得には〕無限遡及の過失はない。何故ならば、〔得と得の得は〕相互 に成就し合うからである。実に〔本法それ〕自体を合わせて、第三の法〔まで〕 が生起する。〔即ち、〕その本法と、それ (本法) の得と、得の得とである。その うち、〔有情の相続に〕得が生起することに基づいて、〔その相続は〕かの本法を 成就し、また得の得をも〔成就する〕。さらに得の得が生起することに基づいて、 〔その相続は〕その同じ得を成就するのである。この故に、無限遡及の過失はな い(24) 。 (22) AKBh.,. p. 66.23, AKBh(Tib)., D. 73b3, P. 83a6-a7, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c8-c9, 真諦訳. 『倶舎釈論』T. 29, p. 182b3-b4. (23) AKBh(Tib).,. D.73b3-b4, P. 83a7-b1, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c9-c14, 真諦訳『倶舎釈論』T.. 29, p. 182b4-b9. (24) 諸註釈は次の様な註釈をしている。. AKV., p. 156.3-9: nanu caivam anavasthāprasaṅgah . prāptı̄nām iti / prāpter api prāptih. / asyā apy anyā / tasyā apy anyā ity anavasthā / parasparasamanvāgamād iti / prāptiprāptiyogāt prāptyā samanvāgatah. / prāptiyogāt prāptiprāptyā samanvāgata ity arthah. / prāptyutpādād iti vistarah. / prāptyutpādāt tena dharmen . a cittena vā samanvāgato bhavati / prāptiprāptyā ca samanvāgata iti vartate / prāptiprāptyutpatteh . prāptir ubhaya. prāptyaiva samanvāgato bhavatı̄ti / evam tra vyāpriyate / prāptiprāptis tv ekatreti ato nānavasthā / 【反論】「だが、この様であるならば、諸得には無限遡及の過失があることになろう」とは、得に又.
(14) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 150. 得があり、これ (得の得) にも又別のもの (得) があり、それ (得の得の得) にも又別のもの (得) があ る、という様に無限遡及となろう。 【有部】「何故ならば、〔得と得の得は〕相互に成就し合うからである」とは、「得は、得の得に基づ いて成就され、得の得は得によって成就される」という意味である。 「得が生起することに基づいて」 云々。 〔その相続は〕得が生起することに基づいて、かの本法、或いは心を成就し、また得の得をも成 就する、という文脈である。得の得が生起することに基づいて、〔その相続は〕その同じ得を成就す るのである。この様に、得は二つのもの (本法と得の得) に対して作用し、得の得は一つのもの (得) に対して〔作用する〕。この故に、無限遡及の過失はない。. AKTA., D. 215b5-b7, P. 252a2-a4: de ltar na thob pa rnams thug pa med par thal bar ’gyur ba ma yin nam / ji ltar zhe na / thob pa la yang thob pa yod cing / de la gzhan yod la / de la yang gzhan yod pas de ltar na thug pa med do / / de bzhin du ma thob pa la yang brjod par bya’o / / ma thob pa ni ma thob pa dang lhan cig skye ba med do / / ’on ci / thob pa kho na de dang lhan cig skye’o / / thob pa’i thob pa yang ngo / / thob pa dang ma thob pa dag cig car mi srid do / / 【反論】だが、この様であるならば、諸得には無限遡及の過失があることになろう。 【有部】どの様にしてか? 【反論】得にも得があり、それ (得の得) に別のもの (得の得の得) があり、それ (得の得の得) にも 別のもの (得の得の得の得) がある、とこの様に無限遡及となる。 同様に非得についても述べられるべきである。〔だが、〕非得がおこる時は、非得は〔本法と〕同時 には生じない。 【問】その場合どうなのか? 【答】得のみがそれ(本法)と共に生ずる。得の得もまた〔同様〕である。何故ならば、得と非得と は同時にはあり得ないからである。. AKLA., D. 162b2-b4, P. 190b2-b4: de ltar na thob pa rnams thug pa med par thal bar ’gyur ba ma yin nam / ji lta zhe na / thob pa la yang thob pa yod cing / de la gzhan yod la / de la yang gzhan yod pas de lar na thug pa med do / / phan tshun ldan pa’i phyir zhes bya ba la sogs pa ’byung ngo / / thob pa skyes pas chos de dang thob pa’i thob pa dang ldan par ’gyur la / thob pa’i thob pa skyes pas thob pa kho na dang ldan par ’gyur ro / / de ltar na thob pa ni gnyis la byed pa yin la / thob pa’i thob pa ni gcig la byed pa de’i phyir thug pa med pa ma yin no / / 【反論】だが、この様であるならば、諸得には無限遡及の過失があることになろう。 【有部】どの様にしてか? 【反論】得にも得があり、それ (得の得) に別のもの (得の得の得) があり、それ (得の得の得) にも.
(15) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 151. ここでは法を獲得した初刹那における本法と得と随得が問題となっている。そして、 ここで『倶舎論』所述の有部は、『婆沙論』で有部が為した様なタイプ(c)の返答 を為しているといえる。すなわち、法を得した初刹那には三法が倶起するが、得と随 得はそれぞれ、機能する対象が決まっているとする。本法と随得は得によって成就さ れ、得は随得によって成就される。従って、第三・第四・第五…の得が必要になると いう様な無限遡及の過失とはならないのである。つまり、得は本法と随得との二つに 対して機能し、随得は得のみに対して機能する。それ故、得と随得が機能する対象は それぞれ決まっているので無限遡及の過失にはならない。以上の様に、『倶舎論』所 述の有部は、『婆沙論』を承けて返答する。 続けて『倶舎論』は、資料5及び6に示した『婆沙論』の所説と同じ様な議論に移 行する。 資料9 AKBh., p. 67.3-5:. evam . ca kr.tvā ātmanā tr.tı̄yasya dharmasya kuśalasya klis.t.asya vā dvitı̄ye ks.an.e tisrah. prāptayo jāyate / tāsām . ca punas tisro ’nuprāptaya iti s.ad. bhavanti / tr.tı̄ye ks.an.e prathamadvitı̄yaks.an.otpannānām . dravyān.ām . nava prāptayah. (25) sārdham anuprāptibhir ity as.t.ādaśa bhavanti / そして、以上の様に考えて、 〔第一刹那において〕生じた〔本法それ〕自体を合わ せた第三の法〔までのもの〕、〔例えば〕善〔法〕或いは染汚〔法〕に、第二刹那 においては三つの得が生ずる。そしてさらに、それら(三つの得)に三つの随得 が生ずる。故に、〔第二刹那においては〕六〔法〕が生起する。 第三刹那には、第一刹那と第二刹那において生じたものに、九つの得が、〔九 つの〕随得を伴って生ずる。故に、〔第三刹那には〕十八〔法〕が生ずる(26) 。. 別のもの (得の得の得の得) がある、とこの様に無限遡及となる。 【有部】「何故ならば、〔得と得の得は〕相互に成就し合うから」云々。得が生ずることによって、か の法 (本法) と、得の得が成就される。得の得が生ずることによって同じ得が成就される。この様で あるので、得は二つのもの (本法と得の得) に対してはたらき、得の得は、一つのもの (得) に対して はたらく。それ故に、無限遡及とはならない。. (25) AKBh(Tib).,. D.73b4-b6, P. 83b1-b3, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c14-c18, 真諦訳『倶舎釈論』. T. 29, p. 182b9-b13. (26) 諸註釈は次の様に註釈する。. AKV., p. 156.9-16:.
(16) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 152. この『倶舎論』所述に有部の所説は、資料6に示した『婆沙論』の[第三説]と同様 kuśalasya klis.t.asya ceti / anayor agrajapaścātkālajaprāptitvād grahan.am / avyākr.tasya hi sahajaiva prāptir iti / dvitı̄ye ks.an . a iti vistarah. / dvitı̄ye ks.an.e tasya dharmasya tatprāpteh. prāptiprāpteś ca prāptaya iti tisrah . prāptayah . / prāptiyogād dhi taih. samanvāgato bhavati / tābhis tisr.bhih. prāptibhih. samanvāgamārtham . punas tisro ’nuprāptaya udbhavāntı̄ti s.ad . bhavanti prāptayah. / prathamadvitı̄yaks.an . navānām . . otpannānām . dravyān . ām iti / dharmen.a sārdham dravyān.ām . nava prāptayah . sārdham anuprāptibhir as.t.ādaśa bhavanti / 「善〔法〕或いは染汚〔法〕に」というのは、双方 (善法或いは染汚法) には、〔本法よりも〕前に生 ずる〔得〕(=法前得)と、〔本法よりも〕後に生ずる〔得〕(=法後得)があるという理由で、〔こ の〕語を用いるのである。何故ならば、無記〔法〕には、〔本法と〕倶に生ずる得(=法倶得)のみ があるからである。「第二刹那において」云々。第二刹那においては、かの本法と、それ(本法)の 得と、得得とに対して得が生ずる。故に、三つの得が生ずる。何故ならば、得に基づいてそれら(本 法・大得・小得)が成就されるからである。さらに、それら三つの得を成就する為に、三つの随得が 生ずる。故に、六つの得が生ずる。 「第一〔刹那〕と第二刹那において生じたものに」とは、「本法を合わせた九つのものに」である。 〔それら九つのものに〕九つの得が、随得を伴って〔生ずる。故に〕十八〔法〕が生ずる。. AKTA., D. 215b7-a3, P. 252a4-a7: dge ba yang rung nyon mongs pa can yang rung zhes bya bas ni ma bsgribs la lung du ma bstan pa ni ma yin no zhes ston par byed de / de ni thob pa dang lhan cig skyes pa can yin pa’i phyir skad cig gnyis pa la thob pa med do / / skad cig gnyis pa la thob pa gsum skye’o / / skad cig ma gnyis pa la skad cig dang por skyes pa chos bdag nyid gtogs pa gsum dang ldan pas skad cig ma gnyis pa la thob pa gsum ’byung bar ’gyur la / rjes kyi thob pa yang gsum mo / / skad cig ma gsum pa la ni / skad cig ma dang por skyes pa bdag nyid gtogs pa gsum gyis gsum dang / skad cig ma gnyis par skyes pa’i thob pa’i rdzas drug gis drug ste / de ltar dgur ’gyur la / yang de dag gis rjes kyi thob pa dgu ste / de ltar na bco brgyad du ’gyur ro / / 「善〔法〕或いは染汚〔法〕」とは、無覆無記〔の法〕ではないということを示している。何故なら ば、それ(無覆無記の法)は同時に得されるもの(法倶得のもの)であるという理由で、第二刹那に おける得はないからである。第二刹那においては、三つの得が生ずる。〔つまり、〕第二刹那において は、第一刹那において生じた〔本法それ〕自体を合わせた第三の法〔までのもの〕を成就している。 故に第二刹那においては三つの得が生ずる。そしてさらに、〔それら三つの得に〕三つの随得が生ず る。 第三刹那においては、第一刹那において生じた〔本法それ〕自体を合わせた第三〔の法までのも の〕に三つ〔の得〕、〔それから〕第二刹那において生じた得されるべき六つのものに六つ〔の得〕が.
(17) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 153. に、「刹那刹那に大得と小得は膨大な量に増えていくが、得と随得が機能する対象は 決まっている。従って、増え方にも分限(=限界)がある。よって、無限遡及の過失 とはならない」ということを意図していると考えられうる。つまりこの資料9の『倶 舎論』所述の有部による所説は、資料6[第三説]と同様に、タイプ(c)に分類さ れうる論法であると考えられる。 だが、 『婆沙論』と『倶舎論』とでは、刹那刹那に増量する得の数について、数え方 に異なりがある。第一刹那に三法(本法と大得と小得)が倶起し、第二刹那において は六法が倶起するという点では同じであるが、その後、第三刹那と第四刹那に関して 『婆沙論』は単にそれぞれ前刹那の二倍にしているにすぎない。ところが、『倶舎論』 は第三刹那における得の数を次の様に数える。第一刹那においては、本法と大得と小 得の計三法が生じていた。第二刹那においては、その三法に対する三つの大得と、三 生ずる。そうであるので、それらに九つ〔の得〕が生ずる。さらにそれら(九つの得)に九つの随 得が生ずる。以上の様であるので、十八〔法〕が生ずる。. AKLA., D. 162b4-b6, P. 190b4-b8: dge ba ’ang rung nyon mongs pa can yang rung zhes bya bas ni ma bsgribs la lung du ma bstan pa ni ma yin no zhes ston to / / de ni thob pa lhan cig skyes pa can yin pa’i phyir skad cig gnyis pa la thob pa med do / / skad cig gnyis pa la dge ba dang mi dge ba’i thob pa gsum skye’o / / skad cig ma gnyis pa la skad cig dang por skyes pa chos bdag nyid gtogs pa gsum gyi thob pa gsum skye bar ’gyur la / rjes kyi thob pa yang gsum yin pas drug tu ’gyur ro / / skad cig ma gsum pa la ni skad cig ma dang por skyes pa bdag nyid gtogs pa gsum gyi gsum dang / skad cig ma gnyis par skyes pa’i thob pa’i rdzas drug gi drug ste / de ltar na dgur ’gyur la / yang de dag gi rjes kyi thob pa dgu ste / de lar na bco brgyad du ’gyur ro / / 「善〔法〕或いは染汚〔法〕」とは、無覆無記〔の法〕ではないということを示している。何故なら ば、それ(無覆無記の法)は同時に得されるもの(法倶得のもの)であるという理由で、第二刹那に おける得はないからである。第二刹那においては、善〔法〕と〔不〕善〔法〕に対する三つの得が生 ずる。〔つまり、〕第二刹那においては、第一刹那において生じた〔本法それ〕自体を合わせた第三の 法〔までのもの〕に、三つの得が生ずる。そしてさらに、〔それら三つの得に〕三つの随得が生ずる。 故に六〔法〕が生ずる。 第三刹那においては、第一刹那において生じた〔本法それ〕自体を合わせた第三〔の法までのも の〕に三つ〔の得〕、〔それから〕第二刹那において生じた得されるべき六つのものに六つ〔の得〕が 生ずる。そうであるので、それらに九つ〔の得〕が生ずる。さらにそれら(九つの得)に九つの随 得が生ずる。以上の様であるので、十八〔法〕が生ずる。.
(18) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 154. つの大得に対する三つの小得、つまり計六法が生じていた。従って、第三刹那におい ては、第一刹那の計三法に対する大得と、第二刹那に生じた計六法に対する大得、つ まり計九つの大得がそれぞれ随得を伴って生ずる訳であるから、合計十八の得(十八 法)が生ずるのである。この様に『婆沙論』と『倶舎論』とでは、刹那刹那に増量す る得の数の数え方に異なりがみられる(27) 。 (27) ちなみに、第四刹那以降を、Yaśomitra,. Pūrn.avardhana, 藤井玄珠 (1813-1895, 本願寺派勧学) は次. の様に数える。. AKV., p. 156.20-28: caturthe ks.an.e prathamaks.an.otpannais tribhir dharmaih. prāptyanuprāptimadbhir bhavitavyam / dvitı̄yaks.an.otpanābhir api s.ad.bhih. prāptyanuprāptibhih. punah. prāptyanuprāptimatı̄bhir bhavitavyam evam . tr.tı̄yaks.an.otpannābhir as.t.ādaśabhih. prāptyanuprāptibhih. punar api prāptyanuprāptimatı̄bhir bhavitavyam iti prathamadvitı̄yatr. tı̄yaks.an.otpannānām . saptavim . śatih. prāptayah. sārdham anuprāptibhis tāvatı̄bhir iti catuh.pañcāśat prāptayaś caturthe ks.an.e bhavanti / pañcame tu ks.an.e prathamadvitı̄yatr. tı̄yaks.an.otpannāh. prāptyanuprāptayah. punaś catuh.pañcāśac caturthaks. an.otpannaprāptyanuprāptayaś ca dviścatuh. pañcāśad bhavanti / trı̄n.i catuh.pañcaśatkāni dvās.as.tyuttaraśatam . prāptı̄nām . jāyate / 第四刹那においては、第一刹那において生じた得と随得を伴った三つの法が生ずるはずである。また第 二刹那において生じた、さらなる得と随得を伴った六つの得と随得が生ずるはずである。同様に、第 三刹那において生じた、さらなる得と随得を伴った十八の得と随得が生ずるはずである。〔故に、第四 刹那においては〕第一・第二・第三刹那において生じたものに二十七の得が生じ、〔その二十七の得は〕 同じ数の随得を従えている。結局、第四刹那においては、 〔合計〕五十四の得が生じているわけである。 そして、第五刹那においては、第一・第二・第三刹那において生じた〔二十七法〕が持つ五十四の得 と随得、及び第四刹那において生じた〔五十四法〕が持つ百八の得と随得が生ずる。〔故に、第五刹那 においては〕五十四の三倍の数である百六十二の得が生ずる。. AKLA., D. 162b7-163a1, P. 191a2-a3: skad cig ma bzhi pa la ni skad cig ma dang po dang / gnyis pa dang / gsum pa la skyes pa’i rdzas rnams kyi thob pa nyi shu bdun dang / de dag gi rjes kyi thob pa rnams dang / sngar gyi rdzas nyi shu rtsa bdun po rnams gcig tu bsdoms pas thob pa ni lnga bcu rtsa bzhir ’gyur ro zhes bya ba de lta bu la sogs pa’o / / 第四刹那においては、第一・第二・第三刹那において生じたものに、二十七の得が生じ、それら (二十 七の得) の随得が生ずる。前の実物 (計二十七の得) を二十七〔の随得〕と一つにすることによって、得 は五十四となる云々。 藤井玄珠『阿毘達磨倶舎論校註』巻之四, 二七丁右〜二七丁左 (冠註部分、原漢文): 第四刹那には、第一の三、第二の六、第三の十八を以て所得法と為し、此の能得大小五十四有り。第五.
(19) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 155. 以上の様に、得がはたらく対象が決まっている以上、得が後々の刹那で膨大な量に 増えていくとしても、理論上は、得の増え方に制限があるわけである。ただし、理論 上、得の増え方に制限があるとしても、得が断ぜられない限り、刹那ごとに「膨大な 数の得が際限もなく生じ続ける」(28) わけである。まして、異生にしてみれば、無始 以来の過去からの輪廻に繋がれている諸法に関する膨大な量の得を有しているわけで ある。それ故、得の量の計測は事実上不能である。この様に、得がはたらく対象が決 まっている故に、得の増え方に制限があるとしたところで、有情には無限の得の量が あるわけであるから、有部の随得の理論は無限遡及の過失を成じていることになる。 『倶舎論』の著者世親はこの点を嘲笑して次の様に述べる。 資料10 AKBh., p. 67.6-9:. evam uttarottaravr.ddhiprasaṅgenaitāh. prāptayo visarpantyah. sarves.ām atı̄tānāgatānām . kleśopakleśaks.an.ānām upapattilābhikānām . ca kuśalaks.an.ān.ām . sam . prayogasahabhuvām anādyantasam . sāraparyāpannānām anantā ekasya prān.inah. ks.an.e ks.an.e upajāyante ity anantadravyāh. pratisantānam ātmabhāva(29) ks.an.āh. sattvānām . bhavanti / atyutsavo batāyam . prāptı̄nām . vartate /. 以上の様に、 〔得は〕次第に後になるに従って増大することになる以上、過去・未 来の煩悩の諸刹那、及び先天的に得ている善の諸刹那における相応〔法〕や共に 生ずるもの (心不相応行法等) を伴った、無始無終の輪廻に繋がれている〔諸法〕 に関する、これら拡大しつつある得は、一有情において〔すら〕一々の刹那毎に 無限に生ずる。故に、諸々の有情の一々の相続身毎に、身体の諸刹那は無限の〔数 の得という〕実体を有する。ああ!諸々の得には過大なる喜びがあることよ!(30) 刹那には、前来の能所得を合して八十一法、此を所得と為し、大小能得百六十二倶起す。是れ一法上の 法後得に就きて之を言ふ。若し同時心心所等に就かば、須臾に無数の得有り。『〔倶舎論〕要解』 ・ 『〔倶 舎論〕法義』算を失す。. (28) 福田琢. [1990] pp. 11-12.. (29) AKBh(Tib).,. D. 73b6-74a1, P. 83b3-b5, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c18-c23, 真諦訳『倶舎釈. 論』T. 29, p. 182b9-b17. (30) 諸註釈は次の様に註釈している。. AKV., p. 156.16-19: evam uttarottaravr.ddhiprasaṅgeneti vistarah. / uttarottarasya ks.an.asya vr.ddhih. prāptibhih. / uttarottare vā ks.an.e vr.ddhih. prāptı̄nām / tasyāh. prasaṅgah. uttarottaravr. ddhi-.
(20) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 156. prasaṅgah. / tena / uttarottaravr. ddhiprasaṅgena / etāh . prāptayo visarpantya iti / 「以上の様に、 〔得は〕次第に後になるに従って増大することになる以上」云々。 〔uttarottaravr. ddhi-. prasaṅgena という複合語は次の様に釈される。〕「後々の刹那において増大する得の故に」、或いは 「得は後々の刹那において増大する以上」である。「その様になってしまう」というのが、「次第に後 になるに従って増大することになる」である。そうである以上、つまり次第に後になるに従って増大 することになる以上、これら得は拡大しつつあるものとなる。. AKV., pp. 156.29-157.1: atı̄tānāgatānām ity atra pratyutpannāgrahan. am . anāvaśyakatvāt / utpattilābhikānām . ceti / atra prāyogikāgrahan.am anāvaśyakatvād eva / sasam . prayogasahabhuvām iti / savedanādisajātyādı̄nām / anādyantasam . sāre . sāraparyāpannānām anādāv anante ca sam sam . gr.hı̄tānām / anantā aprameyā ekasya prān . aṅga bahūnām / ks.an . inah . / kim . e ks.an .e upajāyante prāptaya iti / anantadravyā eva / anantaprāptidravyā ity arthah. / atyutsavo batāyam . prāptı̄nām iti / parihāsavacanam etat / 「過去・未来の」というここにおいて、「現在」という語を使用しないのは、〔現在のものは〕確定的 なものではないからである。 「及び先天的に得ている」というここにおいて、加行〔善〕という語を使 用しないのは、〔加行善も〕同じく確定的なものではないからである。「相応〔法〕や共に生ずるもの を伴った」とは、「受等を伴った、及び生等を伴った」である。無始無終の輪廻に繋がれている〔諸 法〕に関する、つまり始まりなく終わりのない輪廻の中に摂在されている〔諸法〕に関する、〔これ ら拡大しつつある〕得は、一有情において〔すら〕一々の刹那毎に無限に、つまり無量に生ずる。ま して、多く〔の有情〕においてはなおさらである。まさに「無限の実体」とは、「無限の得という実 体」である。「ああ!諸々の得には過大なる喜びがあることよ!」というこれは、嘲笑の言葉である。. AKTA., D. 215a3-a4, P. 252a7-b2: skad cig ma gong nas gong du ste skad cig ma gong nas gong du spel ba’i skad cig ma gong nas gong du spel ba de yis bskyed na thal bar ’gyur ba’o / / mtshungs par ldan pa dang lhan cig ’byung bar bcas pa zhes bya ba ni / mtshungs par ldan pa ni sems dang sems las byung ba’o / / lhan cig ’byung ba ni skye ba la sogs pa ste / thog ma dang tha ma med pa’i ’khor bar gtogs pa’o / / lus kyi skad cig ma re re la rdzas mtha’ yas pa can ste / thob pa rnams mtha’ yas pa’i phyir ro / / 「得は次第に後になるに従って増大する」とは、後々の刹那において、〔或いは〕後々の刹那に増大 する」である。その様なことになる以上、〔得は〕拡大するものとなってしまう。 「相応〔法〕や共に生ずるものを伴った」といううち、「相応〔法〕」とは、心・心所〔法〕であ る。「共に生ずるもの」とは、生等〔の四相四随相等〕である。〔それらを伴った諸法は〕無始無終の 輪廻に繋がれている。「〔一々の相続身〕毎に、身体の諸刹那は無限の〔数の得という〕実体を有す る」というのは、得に限りがないからである。. AKLA., D. 162b6-b7, P. 190b8-191a1:.
(21) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 157. それにもかかわらず、世親は、有部の立場を代弁する答弁を次の様に為し、随得の説 明を終えている。 資料11 AKBh., p. 67.9-10:. kevalam . tu apratighātinyo yato ’vakāśam ākāśe labhante / itarathā hy ākāśe ’py avakāśo na syāt dvitı̄yasya prān.inah. / /(31) だが、〔得は有色法ではないので〕、決して〔互いに〕抵触し合うことはない。そ のことにより〔無限の数量の得は〕虚空中において場所を得る。もしそうでなけ れば、虚空の中には〔一人の有情の持つ得だけで一杯になり〕、第二の〔有情の 得を容れる〕余地はないことになろう(32) 。 de ltar thob pa rnams gong nas gong du spel ba’i ’gres kyi zhes bya ba la / de ltar thob pa rnams skad cig ma gong ma gong ma spel ba ’am / skad cig ma gong ma nas gong mar spel ba de’i ’gres ni skad cig ma gong nas gong du spel ba’i ’gres te / skad cig ma gong nas gong du spel ba’i ’gres des bskyed na’o / / 「以上の様に、得は次第に後になるに従って増大することになる以上」といううち、〔uttarottara-. vr.ddhiprasaṅgena という複合語は次の様に釈される〕。「以上の様に後々の刹那において増大する 得〔の故に〕」、或いは「〔得は〕後々の刹那において増大する以上」である。「その様なことになって しまう」というのが「次第に後々〔の刹那〕に増大することになる」である。その様なことになる以 上、つまり次第に後々〔の刹那〕に増大することになる以上、〔これら得は〕拡大するものとなる。. AKLA., D. 163a1-a2, P. 191a3-a5: mtshungs par ldan pa dang lhan cig ’byung bar bcas pa zhes bya ba la / mtshungs par ldan pa ni sems dang sems las byung ba’o / / lhan cig ’byung ba ni skye ba la sogs pa ste / thog ma dang tha ma med pa’i ’khor bar gtogs pa’o / / so so’i rgyud kyi lus kyi skad cig ma la rdzas mtha’ yas pa can ni thob pa rnams mtha’ yas pa’i phyir ro / / 「相応〔法〕や共に生ずるものを伴った」といううち、「相応〔法〕」とは、心・心所〔法〕である。 「共に生ずるもの」とは、生等〔の四相四随相等〕である。〔それらを伴った諸法は〕無始無終の輪廻 に繋がれている。「一々の相続身毎に、身体の諸刹那は無限の〔数の得という〕実体を有する」とい うのは、得に限りがないからである。. (31) AKBh(Tib).,. D. 74a1, P. 83b5-b6, 玄奘訳『倶舎論』T. 29, p. 23c23-c25, 真諦訳『倶舎釈論』T.. 29, p. 182b17-b20. (32) 諸註釈は次の様に註釈する。. AKV., p. 157.1-2: kevalam . na pratighātinyah . arūpin.ı̄tvāt yato ’vakāśam . labhante prāptayah. /.
(22) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 158. この「得は有色法ではないので、互いに抵触し合うことはない」という理由による返 答は、『倶舎論』独自のものといえる。 しかしながらこの返答は、文脈上、先の資料10において世親が示した「諸々の有 情の一々の相続身毎に、身体の諸刹那は無限の数の得という実体を有する」という所 説を承認した上で成り立っている返答である。つまり、資料11は、 「有情には無限の 数の得が存在することに成ってしまうことは認めるが、得は有色法ではないので、互 いに抵触し合うことはなく、無限の数量の得は虚空中に存在場所を確保できるので過 失はない」という趣旨である。そして資料9〜資料11までの議論の流れを整理する と次の様になる。 〈資料9の所説〉 有情に存在する得は刹那刹那ごとに膨大な量に増えてゆくが、得がはたらく対象 が決まっているので、得の増え方に一応の制限がある。 〈資料10の所説〉 だが、有情には無始無終の輪廻に繋がれている諸法に関する得を有している。故 に、得の増え方に制限があるとしても、諸々の有情の一々の相続身毎に、身体の 諸刹那は無限の数の得という実体を有するということになってしまう。従って、 結局、無限の数の得が際限もなく生じ続けるという無限遡及の過失を成じてしま うことになる。 〔得は〕有色法ではないので、決して〔互いに〕抵触し合うことはない。そのことにより〔無限の数 量の〕得は〔虚空中において〕場所を得る。. AKTA., D. 215a4-a5, P. 252b2: thogs pa med pa ni chos kyi khams kyis bsdus pa’i phyir ro / / de ltar ma yin na zhes bya ba ni gal te phan tshun sgrib par ’gyur na’o / / 「抵触し合うことはない」というのは、 〔得は〕法界所摂のものであるからである。「もしそうでなけ れば」とは、「もし相互に礙げがあるならば」である。. AKLA., D. 163a2-a3, P. 191a5: thogs pa med pa ni chos kyi khams kyis bsdus pa’i phyir ro / / de lta ma yin na zhes bya ba ni gal te phan tshun sgrib par ’gyur na’o / / 「抵触し合うことはない」というのは、 〔得は〕法界所摂のものであるからである。「もしそうでなけ れば」とは、「もし相互に礙げがあるならば」である。.
(23) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. 159. 〈資料11の所説〉 ただし、得は有色法ではないのだから、互いに抵触し合うことはなく、諸々の有 情の無限の数の得であろうと、虚空中に存在場所を確保できるので過失はない。 これら資料9から資料11までの議論の流れを考えると、 『倶舎論』は「無限遡及を 成じてしまっても、無限の数の得は虚空中に存在場所を確保できるので過失はない」 と述べているわけであるから、つまり無限遡及であっても過失ではないとしているこ とになるのであるから、 『婆沙論』で説かれた様なタイプ(a)の論法をもって論じて いると見なしえる。 『婆沙論』は、得の量は刹那毎に倍増してゆくが、もし過去・未来の得を成就する とすれば、無限の数の得が際限もなく生じ続けるという無限遡及の過失を成じてしま うとする問者の問を設け(資料5)、それに対して、先ず無限遡及であっても過失で はないとするタイプ(a)の論法をもって答え、次に刹那滅であることを指摘するこ とを通して無限遡及の過失を回避せんとするタイプ(b)を介在させ、最後に有部の 正説として、タイプ(c)の論法をもって答えていた。 それに対して『倶舎論』は、先ずタイプ(c)の論法をもって得が刹那毎に増量し てゆく仕方を示した(資料9)後で、得の増量の仕方に制限があるとしても、結局、 無限の数の得が際限もなく生じ続けるという無限遡及の過失を成じてしまうことにな る点を指摘(資料10)し、それに対して、無限遡及であっても過失ではないとする タイプ(a)の論法をもって答えている(資料11)ことになる。. 6. 結論. 6.1 『婆沙論』における随得をめぐる議論 以上『婆沙論』及び『倶舎論』における随得をめぐる議論を考察した。その結果、 次のことが言い得る。 「『婆沙論』における随得をめぐる議論 (1)〜(3)」では、常に有部の得と随得の理 論は無限遡及の過失を招来してしまうのではないか?という問題が議論されている。 その際、有部は (1)〜(3) の何れにおいてもタイプ(a)〜タイプ(c)の三タイプ の論法をもって答えている。 タイプ(a)無限遡及であっても過失ではないとする論法 修道論的な観点から、生死を断じ超えることの困難さを強調し、得の数量が際限 なくなるという無限遡及であっても過失ではないとする論法。.
(24) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 160. タイプ(b)無限遡及の過失を回避せんとする論法 (1) 刹那滅であることを指摘することを通して無限遡及の過失を回避せんとする論法。 タイプ(c)無限遡及の過失を回避せんとする論法 (2) 得と随得が機能する対象はそれぞれ決まっているので無限遡及の過失とはならな いとする論法。このタイプ(c)は常に有部の正説 (如是説) として登場する。. 6.2 倶舎論における随得をめぐる議論 『倶舎論』は、資料8に示した様に、法を獲得した初刹那において、本法と得と随 得が問題となる際、『婆沙論』で説かれた様なタイプ(c)の論法をもって論じてい る。だが資料8の箇所では、タイプ(a)やタイプ(b)の様な論法は見られない。 また、資料9〜資料11に示した様に、『倶舎論』は、先ずタイプ(c)の論法を もって得が刹那毎に増量してゆく仕方を示した(資料9)後で、得の増量の仕方に制 限があるとしても、結局、無限の数の得が際限もなく生じ続けるという無限遡及の過 失を成じてしまうことになる点を指摘(資料10)し、それに対して、無限遡及であっ ても過失ではないとするタイプ(a)の論法をもって答えている(資料11)。 つまり『倶舎論』は、 『婆沙論』で説かれたタイプ(a)〜(c)までの三つのタイ プの論法のうち、タイプ(a)及び(c)の二つのタイプの論法を受容していると言 い得る。. 略号及び参考文献一覧 一次資料 (1) Sanskrit 及び Tibetan AK & AKBh = Abhidharmakośabhādsya of Vasubandhu. Edited by P. Pradhan. Tibetan Sanskrit Works Series 8. Patna: K. P. Jayaswal Research Institute, 1967. AKV = Sphut.ārthā Abhidharmakośavyākhyā. Edited by U. Wogihara. Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1936(rep. 1989) AKTA = *Abhidharmakośabhās. yat.ı̄kā Tattvārtha-nāma (by Sthiramati). D. 4421, P. 5875..
(25) 2009 copyright インド哲学研究会. 説一切有部における得と随得. AKLA = *Abhidharmakośat.ı̄kā Laks.an.ānusārin.ı̄-nāma(by Pūrn.avardhana). D. 4093, P. 5594. PBh = Word Index to the Praśastapādabhās. ya. Edited by Johannes Bronkhorst and Yves Ramseier. Delhi: Motilal Banarsidass, 1994. Sambandhaparı̄ks. ā = Vādanyāyaprakaran. a of Ācārya Dharmakı̄rti with the commentary Vipañcitārthā of Ācārya Śāntaraks.ita and Sambandhaparı̄ks.ā with the commentary of Ācārya Prabhācandra. Bauddha Bharati Series 8. Varanasi: Bauddha Bharati, 1972. Sambandhaparı̄ks. ā (Tib) = E. Frauwallner [1934(1982)] Dharmakı̄rti’s Sambandhaparı̄ks.ā, Text und Übersetzung E. Frauwallner Kleine Schriften. Glasenapp-Stiftung Band 22. Wiesbaden: Franz Steiner Verlag GMBH, 1982. VS = Vaiśes.ikasūra of Kan.āda with the Commentary of Candrānanda. Edited by Muni Śrı̄ Jambuvijayaji. Gaekwad’s Oriental Series No. 136. Baroda, 1982.. (2) 漢訳 及び 漢文注釈書 『婆沙論』=五百大阿羅漢等造『阿毘達磨大毘婆沙論』玄奘訳, T. 27, No. 1545. 旧訳『毘婆沙論』= 迦栴延子造 五百羅漢釈, 『阿毘曇毘婆沙論』浮陀跋摩・道泰等 共訳, T. 28, No. 1546. 玄奘訳『倶舎論』= 世親造『阿毘達磨倶舎論』 T. 29, No. 1558. 真諦訳『倶舎釈論』= 婆薮盤豆造『阿毘達磨倶舎釈論』 T. 29, No. 1559. 『倶舎論記』普光述, T. 41, No. 1821. 『倶舎論疏』法宝撰, T. 41, No. 1822. 藤井玄珠『阿毘達磨倶舎論校註』三十巻全 10 冊, 京都: 永田長左衛門, 1889-1892.. 二次資料 (1) 和文 加藤宏道 [1985(1)]「得・非得の研究」『仏教学研究』41. 加藤宏道 [1985(2)]「得・非得の研究(承前)」『宗学院論集』56. 木村泰賢・西義雄・坂本幸男 [1933]「阿毘達磨大毘婆沙論」『国訳一切経』印度撰 述部・毘曇部 15, 東京: 大東出版社.. 161.
(26) 2009 copyright インド哲学研究会. インド学チベット学研究 7・8. 162. 金倉圓照 [1973]「法称における結合の考察」『インド哲学仏教学研究』I,仏教学 篇,東京: 春秋社. 櫻井良彦 [2003(1)]「建立因としての得」『印度学仏教学研究』53-2. 櫻井良彦 [2003(2)]「三世実有説と得」『龍谷教学』38. 清水庸 [1981]「Dharmakı̄rti Sambandhaparı̄ks.ā 」『仏教学研究』37. 武田宏道 [1993]「『婆沙論』における有為相の研究」『龍谷大学論集』442. 中川善教 [1979]「得 獲 成就」伊藤真城 田中順照両教授頌徳記念『仏教学論文集』 大阪: 東方出版. 菱田邦男 [1993]『インド自然哲学の研究』東京: 山喜房仏書林. 福田琢 [1990]「『婆沙論』における得と成就」『大谷大学大学院研究紀要』7. 松尾義海 [1955(1)]「和合の因果と転変の因果」『哲学研究』38. 松尾義海 [1955(2)]「ワ゛イシェーシカ哲学における和合の意味」山口博士還暦記念 『仏教学論文集』京都: 法蔵館.. (2) 欧文 C. Cox [1995] Disputed Dharmas: Early Buddhist Theories on Existence. Studia Philologica Buddhica, Monograph Series XI. Tokyo: The International Institute for Buddhist Studies. W. Halbfass [1992]On Being and What There is, Albany: State University of New York Press. キーワード. 得, 随得, 小得, prāpti, anuprāpti.
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