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Sur les comptes de la ville de Bruges à la findu XIII ^ e siècle

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(1)

Kyushu University Institutional Repository

Sur les comptes de la ville de Bruges à la fin du XIII ^ e siècle

平嶋, 照子

https://doi.org/10.15017/2920716

出版情報:経済論究. 70, pp.99-129, 1988-03-10. Kyushu Daigaku Daigakuin Keizaigakukai バージョン:

権利関係:

(2)

1 3 世 紀 末 ブ リ ュ ー ジ ュ の 会 計 簿 に つ い て

目次

序ーベルギー学界における中世都市会計簿の研究とその問題点 I 13世紀末ブリュージュの会計簿

(1)  財政文書と会計簿

(2)  会計簿の作成・提示・監査・締切 II  13世紀末ブリュージュの都市財政

(1)  収入 (2) 支出

付表 13世紀末ブリュージュ会計簿の収支計算 文献目録

‑ 99 ‑

筆者は, 19867月から19876月まで,文部省の国際交流制度によって,幸運にもベ ルギーの)レーヴァン・カトリック大学で学ぶ機会に恵まれた。本稿は,その際ジャン・ヒ°

エー)レ・ソッソン J.P. Sosson教授に御指導頂いた中憔史料講読で取り上げた, 13世紀 末ブリュージュの会計簿を史料としている。

ブリュージュ史に関してはオランダ語での研究が少なくないが,残念ながら筆者のオラ ンダ語の知識は極めて貧しいので,ベルギー及び日本の友人達の協力を得て,必要と思わ れるものの内容を知ることができた。なお,地名は総てフランス語名に統一した。

文献に関する注は総て本文中の( )内に,著者,文献目録(末尾所載)での番号,頁 建の順で記した。但し主要史料である〔8〕は,編者名を省略して引用している。

序ーベルギー学界における中世都市会計簿の研究と その問題点

西 欧 中 世 史 研 究 に お い て , 王 や 領 邦 君 主 の 財 政 と 並 ん で 都 市 共 同 体 の 財 政 は

(3)

常に研究者の関心を集めてきた重要な問題であるが,その解明のために多くの び:

財政文書,なかでも都市財政の変遷と構造とを示すとともに,金融技術につい ての間接的な情報をも与える会計簿の検討が,いかに重要であるかは論をまた ないであろう。中世都市史研究では先進国であるベルギーの学界は,早くから その財政史料の研究にも着手しており,ガン,ィープ)レといった大都市の初期

の記録がそれぞれ1900年 (Vuylsteke〔認〕), 1909‑13年 (DesMarez & De  ..; ; Sagh紅〔7〕)に刊行された後,中小都市の会計記録の検討が続けられていた

(Prevenier 〔団〕 113‑4)。1960年頃までに, 中世都市財政を専門に扱った最 高の成果としては,ファン・アウトウェン『ルーヴァンの都市財政と都市経済

‑12世紀から16世紀末まで一』(〔VanUytven臼9〕)がある。もちろん財政問 題がベルギーにおける個別都市研究で占める地位は様々であり,例えばジョリ ス『中世における都市ウイ, その起源から 16世紀末まで』 (Joris日1〕)では それほど大きくない。

1960年代には中歯財政一般への関心が高まり,その中で都市財政記録への研 究が深められた。まずベルギーで地方自治体の歴史的研究において一つの中心

. ,  ,.  

となっている研究・出阪機関ProCivitateが連年開催している,国際研究集会 'I 

が2回この問題にあてられた。『13‑14世紀の都市財政と都市会計簿』(〔3〕),

『都市と国家の枠内における税』(〔4〕)がそれであり,いずれもヨーロッパ諸 国の研究者による比較検討の場となった。ことに前者からは,本稿に有益な示 唆を多く得ることができた。

ついで,個別都市の財政史料の検討も進展し,その中で,一般に会計簿の成 立期といわれる13世紀末から14世紀初頭の記録の刊行が進められた。フランド ルで最も早いものとして知られる1241‑4年アラスの会計簿から要約された財 政文書については, 1964年にウァイフェルスによって刊行の必要性が指摘され

ながら (Wyffels〔訊〕),なお実現されていない。 しかしながら,初期財政記 !  録を最もよく伝来させているとして知られていたブリュージュについては,

1281年から1299年にかけての11の会計簿を中心とする史料集が『都市ブリュー ジュの会計簿 (1280‑1319年)第1 (1280‑1302年)』 (DeSmet  & Wyffels 

〔8〕)として1965年に,同じくカレーについては1268年以降10の会計簿を中心

(4)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑101‑

に, 『13世紀のカレーの財政。 1255‑1302年の史料』 (Bougard & Wyffels 

〔 2 〕)—財政制度と収支の詳細な検討を含むーーが翌年刊行された。さらに

1971‑3年には,モンスについても,1279‑1356年の記録が刊行された (Pierard

〔14〕)が,そこにも1289‑1300年の 5つの会計簿が含まれている。

こうした史料刊行に続いて,個別研究も進展し,最近では1982年に『イープ ル都市財政 (1280‑1330年) フランドルの1都市研究への寄与 』(Mer‑

levede 〔認〕)といった成果を得ている。なおベルギー学界での中世都市史の水 準とその中での財政問題の関心は,最近の一般的叙述にも見てとることができ

る (VanUytv細〔20〕)。

わが国では, ヨーロッパ中世都市への強い関心にもかかわらず,その財政問 題の検討(例えば田北〔26)〕 は比較的少なく, 殊に13世紀末までには殆ど手 がつけられていない。 13世紀末フランドル諸都市の財政機構と会計簿について は,フランド)レ伯財政との関係で山瀕善ー氏が言及されている程度である(山 棟員 〔29〕12‑3,  〔3〕゜ 332‑9)。

本稿では13枇紀末ブリュージュの会計簿11を検討し,その内容を紹介すると ともに,それが照らしだす当時の中世都市社会・経済に僅かなりとも光を当て てみたい。その際特に注意したいのは,中世都市の財政機構と会計制度が,市 民の手によって確立しているはずの14‑15歯紀と違って,初期の会計簿には,

都市をめぐる諸勢力の関係がよりよく反映しているのではないか,という点で ある。現在の学界では中世都市の再検討が進んで一ーベルギー学界については 森本〔28〕;斎藤〔25〕;藤井〔27〕ー―, これを封建社会の中に位懺づける作業 が行なわれている。ドーントは, 1962年研究集会の報告で,中世都市会計簿の 成立契機を,都市財政そのものの拡大や増加という一般的背景や,市民による 財政公聞要求といった都市内部の状況のみに求めることはできず,都市領主・

領邦君主・王など上級権力による監査要求に注意しなければならないと述べて いる (Dhon出〔9〕)。 13世紀末から14世紀初頭のフランドル諸都市では,内部 で,いわゆる「都市貴族層」〈patriciat〉(VanW erveke 〔幻〕 556‑8)による 市政独占に対抗する一般市民の上昇があり,これに領邦君主であり都市領主で もあるフランドル伯と,その主君として富裕なフランドルの征圧を狙うフラン

(5)

(Pirenne 〔応〕 376‑412)。そ の中で,財政問題が1つの焦点となり, 1279年フランス王は,要約的財政報告

ス王とが絡んで, 複雑な政治状況を示していた ` ー ︶ ︐ 

を要求する権利を伯に認め,一般市民の代表,及び伯もしくはその役人の前で,

財政報告が行われるべきことを定めていた (Prevenier〔邦〕 119)。そしてブリ ュージュ市民は1280‑1年にかけて重税と都市財政の乱脈な管理を不満とし,

市参事会に義務づけられた財政報告提示の拒否をきっかけとして反乱を起した (Van Routte 〔訂〕 30‑1)。1302年には,

 

フランド)レ諸都市が大きな制度的変 革を行ない,手工業者も市政官となる途が開かれる (Ibid.,36)  が, それ以前 の一般市民の要求は,公正な都市財政運営とその公開にしぼられていたようで ある。

ともあれ, こうした時期の会計簿の検討は,視野を広く市民層の活動の外に も向けて,中世都市像の再検討に資することが期待できるのである。

ー 13世 紀 末 ブ リ ュ ー ジ ュ の 会 計 簿

(1)  財政文書と会計簿

都市ブリュージュの財政記録は, 1280年から1789年にかけて, ブリュージュ の古文書館に伝来しているが, 1318年から30年にかけて全く失われている。そ こでウァイフェルスらは, 1280年作成の断片的支出記録から始まり, 1318年以 前の会計簿及び多くの副次的書類をブリュージュの初期財政史科として.

行している (De Smet  Wyffels 

XVII)。 但 し1280‑1年度の支出記録ー一これが当座帳か会計簿の一部かは

&  〔8〕, 史料解説を含む序は,

不明ーーと, 1281‑2年度会計簿での前年度会計簿作成費用と繰越金の記載か ら, 1280‑1年にも会計簿が作成されたのは確実である。 1280年8月の火災に よる文書の焼失のため,

Ibid., IX‑

それ以前の会計簿の有無は確認され得ない。

アラス には会計簿から作成したとされる 1241‑4年についての要約が伝来している (Wyffel廷24〕)が,経済的により活発であったブリュージュにも,すでにこの 時期に存在を想定しうるかもしれない。ウァイフェルスは1280年以前の会計簿

. . 

' )  

,,, 

作成の可能性を否定してはいないが(〔8〕XIII),  この年以前はフランドル伯

(6)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑103‑

権の弱体期であり, ドーントによって強調された会計簿作成への上級権力から の促進 (Dhondt(9〕356‑7)が考えにくい時期であることも,注意されるべ きであろう。

史料集は, 第1部(〔8〕16‑802)として1281‑99年に残された11の会計簿

1281‑2(不完全)・1283‑4・1284‑5; 1287‑8・1290・1290‑2・1292・ 

1292‑4 (断片)・1294・1297‑8(不完全)・ 1298‑9[以下本稿中ではそれぞ れの年度の会計簿をく81-2►, {83-4

……と表記する]—ーと,第 2 部 (Ibid.,

803‑1049)として 1)収支当座帳, 2)特別会計簿 孤児資産供託,都市役 人 JanDeinardの収支記録,僅少な収入と徽収,床屋からの収入に関するもの

—, 3)債務と利子の記録 (1294‑1301年)とを含んでいる。

最も早いく81-2► が巻物状である他は,総て書冊状になった羊皮紙に記載さ れ,同時代のカレーの会計簿が巻物形式をとっていた (Bougard& Wyffels 

〔2〕16)  のとは対照的である。一般に巻物は書冊よりも古い体裁と考えられ ており (Dhon由〔9〕352‑3), プレヴニールもフランドル全体に関して, 1402 年まで巻物体裁が続いたイープルは別としても,大都市で14世紀,小都市では 14世紀末ー15世紀初頭を書冊への移行期と捉えている (Prevenier〔訪〕 137)。 しかし殊に興味深いのは,むしろ14, 5世紀になっても記録の性格によっては 書冊ではなく, 巻物として作成される文書があるという指摘 (Ibid.)であろ う。事実13世紀末ー14世紀初頭のブリュージュにおいても,会計簿は書冊で作 成されているが,収支の当座帳は数葉の羊皮紙が縫合された巻物で伝来してい

るのである。

会計簿はラテン語とアラビア数字(年代はローマ数字)で記録されている。

但し1300‑1年の支出当座帳はラテン語とフラマン語の並用, 1302年の孤児資 産供託の帳熊はフラマン語のみでの記載である。同時代カレーでの財政文書 は, 1285年煩までほぼラテン語で作成されていた後,一部にフランス語が用い られるようになっていたが, 1298年の政治変勁以降再びラテン語へと戻される ことになった (Bougard& Wyffels 〔幻 19‑20)。これは特殊な例だが,一 般に14歯紀初頭にフランドルで文書の言語がラテン語から日常語へ変化するの は,実務的な文書の作成が聖職者から俗人の手へ移ったことが,重要な理由で

(7)

はないかというドーントの仮説に注意しておこう (Dhondt〔釘 367)。 ツ'¥

各会計簿には,年度を示す明確な日付が記入されておらず,年代決定は以下 のデータを総合して推定されている。

1)  項目中に散見される 『すなわち現在の年である 82年の』 {de anno  LXXX secundo,videlicet anni presenti吟(〔8〕18)といった年代表記。

2)  諸項目中に記載された日付,特に前年度からの引継に関る日付による,

期首の決定。なお期首はまちまちであり,会計年度はほぽ1年であるが,実際 には会計年度を超えた収支の記載もある。

13世紀以降フランドル諸都市会計簿の標準的な形式は,収入・支出・債権=

債務の 3部に分かれ.時に債務一覧が付加されるとされている (Prevenier 

〔16〕認6, 138; De Roov紅〔6〕92)。ブリュージュでは収入・支出・通常債 務一覧.債権=債務の順で,常に4部門が記載されている。これらには大項目

としてのタイトルが付されていないが,内部の小項目は独立したタイトルを持 っており,収支に関しては, 13世紀末の約20年間のうち,時に付加される特別 項目ー一例えば1297‑8年度に見られる市壁と堀のためのくtallia}徴収ーーを 除けば,文言と記載順序の変化は多少あるものの,ほぼ一定した項目による記 録が残されている。ここでは, {87‑8}(⑬〕 142‑87)から引用してみよう。

収入:『アラスの金貸及び他の者からの利子付受取』 {Receptumab usura‑ riis  Attrebatensibus et  aliis  sub usuris} ; 『孤児からの受取』 {Receptum ab orphanis〉; 『売却された終身定期金からの受取』 {Receptum pro  reddi‑ tibus ad vitam  venditis} ; 『雑収入』 {Receptumcommune

• ; 

『罰金として

の受取』 {Receptumpro emendis

• ; 

『ハンザのための受取』 {Receptumpro  Hansa

•;

『市民権のための受取』 {Receptum pro  burgagio} ; 『4回の期限

についての間接税からの受取』 {Receptumab assisia pro 4or terminis》 支出:『アラスの金貸及び他の者への利子付支払』 {Extradatum  usurariis  Attrebatensibus et  aliis  sub  usuris〉; 『孤児への支払』 {Extradatumor‑ phanis〉, 『同様に孤児への支払』 {Extradatum similiter  orphanis} ; 『終身 定期金のための支払』 {Extradatum pro  redditibus  ad vitam

• ; 

『雑支出』

{Extradatum commune}; 『騎馬行のための支払』 {Extradatumpro equita‑

 

 

 

, .  

9 ]  

C, 

(8)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑105‑

tione}; 『使者への支払』 {Extradatum nuntiis} ; 『教会会議のための支払』

{Extradatum pro causa synodi》.

さらにく87-8►, {90〉,{92〉,{94〉には,会計簿締切の立会人が冒頭に序の 形で日付とともに記載されている。

(2)  会計簿の作成・提示・監査・締切

ブリージュの会計簿には,手続の実際をうかがわせる手がかりは少ないが,

『雑支出』の項での前年度会計簿作成費用の言及と, 冒頭に記入された締切の 際の立会人の列記とから, 伯の介入のあり方及び財政機構の変遷をうかがえ る。

前年度会計簿作成費用の記載は,日付を除いて以下のとおりである。

く81‑2〉(Ibid.,34)『会計でなされた支出のために』 {proexpensis in  com‑

putatione factis

121ib. 14½s.

く83‑4〉(Ibid.,70)『会計でなされた市参事会員達の支出のために』 {proex‑ pensis scabinorum in computatione factis〉71ib.7s.  2d. 

く84-5► (Ibid.,  111,  116)『市長 LambertusTolnare及び Alardusの息子 Alardusの会計でなされた市参事会員達の支出のために〉』 {proexpensis ...  scabinorum factis in conputatione Lamberti Tolnare et  Alardi  filii  Ala‑ rdi, burgimagistrorum

181ib.  17s.  9d.; 『彼らの会計でなされた市長の支出 のために』 {pro expensis  burgimagistrorum in  conputatione sua factis

51ib.  3s.  6d. 

く87-8► (Ibid.,  159,  165)『市長の会計で市参事会員逹によってなされた支出 のために』 {proexpensis a . . . scabinis  in  computatione  burgimagistro‑ rum factis

141ib.  17s. lQd.; 『市長の会計でなされた支出のために』 {proex‑ pensis factis  in  computatione burgimagistrorum〉21lib.28d. 

く90► (Ibid.,  207)  『市長の会計でなされた支出のために』 {pro expensis  factis  in  computatione burgimagistrorum

221ib.  6d. 

以下く90-2► (Ibid., 276) では 12 リブラ 3½ ノリドゥス, {92〉(Ibid.,340) 

では 21 リブラ 23 デナリウス,く94► (Ibid.,  452)では 17リブラ 12ソリドゥス

(9)

3デナリウスの支出があり,

われたと考えられるが,

ること,

文言はく90}と同じである。 {92‑4〉は保存状態 が悪く『雑支出』の殆どを欠いているため (Ibid.,388),  作成費用の記載も失 く97-8〉 {98-9►には完全な『雑支出』の記録がありな がら,作成費用の記入がない。

ここで注目されるのは,会計簿作成に関して市参事会員のみならず市長も関 与してくる84‑5年度に,単なる『会計について』から『市長の会計について』

となる文言の変化であろう。 ~87-8〉

scabinis〉が特記された後, 90年度以降は『市長の会計で』とだけ記されてい ではむしろ『市参事会員達によって』 {a

それも84‑5年度では LambertusTolnare,  Alardusという特定の 名と結びつけられているが,次年度以降は {incomputatione burgimagistro‑

という表現が定着している。会計簿作成での費用支出者は,市参事会員 が 3 年度 ({83-4► {84-5〉 {86-7►) に亘って指摘されるのに,市長は 84-5年度 のみである。ともあれ, 89年度以降 {proexpensis  factis  in computatione 

burgimagistrorum

という書式への固定は, ブリュージュでの会計簿作成に

一定の制度が定着したことを示すのではなかろうか。当初は特定の収入が特定 rum} 

の支出に充当されていたフランドル諸都市では,都市機構の整備に伴い,統一 的な会計が成立してきたとされる (Prevenier〔託〕 117‑8)が, 13世紀末ブリュ ージュでは,単に市参事会員による都市財政の管理という概念から,都市共同 体の代表者たる『市長』の責任という考え方へ,変化しつつあったのであろう。

他方『市長』は, 年2回の『孤児への支払』の記録については, 『孤児の会 計でなされた市長の支出のために』 {proexpensis burgimagistrorum in com‑

putatione orphanorum> ({87-8>{90> {90-2

{92

•)

と,『雑支出』中に会計 記録作成費用支払者として現われる。ブリュージュでは『市長』は,『宣誓者』

~juratus> と『市参事会員』から各1名選出され,都市共同体の代表者である とともに,市民,

ていた (VanUytven 〔⑳〕 229)。

とりわけ孤児や寡婦といった弱者の後見人であると考えられ

『市長』が孤児資産の会計記録に特に強く 関与している理由もここから理解される。

次に分析する会計簿の序は,会計簿を締切る際の記録で, {87‑8〉{90}{92〉 く94} {97‑8}  {98‑9}に現われている。前4者の序はほぼ同じ書式で記載され

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(10)

13世紀末プリュージュの会計簿について ‑107‑

ているので,まずく9幻(〔8〕322)を引用しよう。

『1292年12月23日に,市参事会員として MatheusHoft及び宣誓者として彼 の市長職務から Jacobus de  Groen dikeが,伯の代わりとして,その場に列 席するフランドルの収入役 Jacobus de  Donze殿とその時のブリュージュの バイイ Waltero de Hammeの前で,市参事会員として列席している……(11 名列記)の前で,その場に列席している宣誓者として……Clo名列記)の前で,

その場に列席している市政官…...(4名列記), 都市の聖職者達の前で, その 場に列席している・…..(5名列記)と都市の下役人達の前で,会計簿を締切っ た』 {Anno Domini  millesimo  ducentesimo  nonagesimo  secundo,  feria  tercia ante Nativitatem Domini, computaverunt Matheus Hoft,  tanquam  scabinus, et  Jacobus de Groendike, tanquam juratus,  de suo  burgimag‑ isterio,  coram domino Jacobo de Donze, receptore Flandrie,  et  Waltero  de  Hamme,  tune  ballivo  Brugensi,  ibidem  pro  comite  existentibus;  et  coram ... (11名列記), ibidem tanquam  scabinis  existentibus ; et  coram ... (10名列記), tanquamjuratis ibidem  existentibus ; et coram  magistris ... (4名列記), clericis ville  ibidem existentibus ; et  coram  ... (5名列記), servientibusville  existentibus ibidem》.

このように,常に市参事会員1名,市長1名,伯の代理人1‑3名,市参事 会員 11 名 ({87-8►のみ10名),宣誓者10名({94〉のみ11名),さらに市政官1 ‑

4名,おそらく会計簿を筆記したと思われる都市の聖職者の他に, {serviens} {garsion〉といった下級役人 ({90〉のみ不在)を立会人として,会計簿を締切

っている。

これに対しく97-8►{98-9

は,会計簿の締切に市参事会員と市長に代るより 専門的な役人として,『財務役』{thesaurarius》が登場し,立会人として都市役 人以外の者が『このために委任された者』として記されているのが特徴である。

く97‑8》(Ibid.,509‑10)『1298年12月23日,財務役である Jacobus de V iridi  dicoとLambertusTolrtareが, 97年の9月14日よりその時までの都市資産の 管理について,市参事会員である…… (10名列記)の前で,そして宣誓者と他 の数名の市民の前で,会計簿を締切った』 {AnnoDomini M°CC0 nonagesimo 

(11)

VIII0,  Viridi 

feria  III ante  dico  et  bonorum ville  ab 

Nativitatem  Domini, computaverunt  Jacobus de  Lambertus  Tolnare,  thesaurarii, 

Exaltatione  sancte Cruds anni  XCVII,  usque  tune,  coram ...  (10名列記),

opidanis}. 

く98‑9}(Ibid.,  676) 

scabinis,  et 

1299年10月9日,

coram juratis  et  aliis  pluribus 

財務役である Wei tines  Tolnarsの代りに Johannes de  Curtraco 

de  amministra tione 

Robelotus  Cantと が,前年についての都 市収入の管理について,市参事会員である…… (13名列記),••…. (9名列記)

と他の宣誓者, さらに特にこのことを委任された列席している20名の者, 都 市の聖職者と下役人の前で,会計簿を締切った』 {Anno Domini  M°CC0XC0  IX in  die  beati  Dyonisii  computaverunt 

CJ 

de  Curtraco,  proventuum 

loco  Weitini  ville  pro  anno 

Tolnars,  tune 

Robelotus  thesaurarii,  preterito, 

Cant  et  Johannes  de  amministratione  coram ...  (13名列記),

scabinis, . . . (9名列記) et aliis juratis,  existentibus etiam 20 personis  ad hoc deputatis,  ac clericis  et  servientibus ville〉.

く97-8► {98-9

では, 1279年の王令 (Prevenier 119)以来認められて

いた市民による立会が,実現したと考えられる。これに対して伯の代理人は不 在であり,伯権力による監査は後退している印象を受ける。

ところで会計簿成立の契機であったこの監査は, どういう形で行われていた のだろうか。フランドルで監査方法が比較的詳しく分っているのは14世紀末か らのブルゴーニュ公国時代であり,以下のようであった。市政官1名(市長と 市参事会員によって選出) ・若干の有力市民・公から派遺された役人が会計報 告を聴いた後,公の役人が会計簿の副本一原本は市政官用ーの欄外に疑問点や コメントを記入し,必要に応じて項目の削除や計算のやり直しを命じた上で,

最終的には花押によって会計簿の締切を承認する。その後監査に用いた副本は 公行政の担当部局である

から,

{Chambre des Comptes〉に移送させた, というの である (Ibid.,122‑9)。なおこの部局に保管される会計簿は14世紀初頭に渕る フランドル伯領でもこの時期にはそうした監査方法がとられていたよう

〜 ノ

L

である。

(12)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑109‑

この点で, 1285年にフランス王がガンヘ与えた文書で,ガンに毎年の会計簿 作成を義務づけながら,他方でフランドル伯には,会計監査において写本では なく要約を得る権利しか認めていないという事実 (Wyffels〔糾〕233。ウァイ フェルスは王がフランスの制度を強制したと考えている)は,示唆に富んでい る。監査が当時の政治的なかけひきの対象として,なお制度として確立してい ない中で,フランドル伯が監査権を要求した1285年には,会計簿副本の引渡が 監査の要件と考えられていることが,明らかになるからである。

13世紀末のブリュージュに関しては,当時フランドルの大都市が伯との関係 で同一歩調をとっていた点から考えて,ガンと同じような状況を想定すること ができよう。すなわち,伯の代理人が派遺された4回の会計簿作成締切の際に は,何らかの監査が行われており,その結果として会計簿副本の引渡が要求さ れた可能性が大きい。ただし,刊行された会計簿は総てブリュージュの古文書 館蔵のもので, {Chambredes Comptes

にはその時期の会計簿が発見されて いない以上,後者の点を確認することはできない。そして1297年以降の 2つの 会計簿で伯の代理人が序に登場しないのは,おそらく同年6月15日のフランス 王のフランドル侵入によって,フランドル伯の勢力が著しく後退する時期だか

らであろう。

II  13世紀末ブリュージュの都市財政

会計簿は財政文書として一定の形式に従い収支が整理され,長期間に記録さ れていくから,特定時点での状況の詳しい把握には,別の実務的な書付の検討 が必要である (Dhondtげ〕 359)としても,一定期間に亘る都市財政の傾向 を知るためには,最も基本的な史料といえよう。ここでは11の会計簿を対象と してその収支を統計的に整理・表示する(付表を参照)とともに,文言に表れ る特徽的な問題を探ってみたい。

(1)  収入

個別都市と時期で収入の中心が相違する (De Roov虹 〔6〕94‑6 ; Dhondt 

(13)

〔9〕364‑5 ; Bougard & Wyffels 〔幻 33‑8)としても,収入の種類は, ー  

定の範囲に入っている。 ここでは網羅的なプレヴニールの分類 (Prevenier

〔訪〕 140‑1)から, 収入源をまず①債務,②租税, ③不動産及び都市公権収 入,④その他に大別し,会計簿自体に記載されている項目をそれぞれに分類し ていく形をとった。

①  債務ー一『アラスの金貸及び他の者からの利子付受取』;『孤児からの受 取』;『売却された終身定期金からの受取』

借入はアラスの金融業者であるクレスパン家からが多いが,年ごとの金額は まちまちである。一般に,軍事費や伯への支払など,多額が臨時に必要な場合 に増加すると考えられ,以下のような場合にはおそらく借入がそのまま支払に あてられたと思われる。『…フランドル伯へ, 都市が上述の年月日に,この都 市の反乱のために彼に負った債務として』{... comiti  Flandrie  pro  debito  quad  villa  sibi  debuit anno et  die  predictis,  pro  ceditione  dicte  ville} 

〔8〕111)として, 19,000リブラの支払が見られる1284‑5年には,約13,400 リブラの借入が行なわれ, 『建設さるべき都市の囲壁のための支払』 {Solutum pro fortaliciis  ville  faciendis》(Ibid., 702‑6)が, 12,500リブラ余りに上っ

た1298‑9年には, 100,000リブラもの借入が見られる。 しかしこうした明確 な理由がないままに借入が増大し, 『孤児への支払』や借入の利払・返済に充 当されている場合も多く,当時のブリュージュの財政運営に借入は不可欠だっ たように思われる。借入が収入全体に占める割合も15%前後({90〉{92}{94})  や25%前後 ({83‑4}{84‑5} {90‑2})が多いが, 例外的には50% ({81‑2}),  71% ({98‑9})にまで上っており,これらの利払と返済が都市財政を圧迫した であろうことは,たやすく想像できる。ただ借入という形での資金調達が容易 であったのは,ブリュージュの返済能力への信頼があったことを示すともいえ

よう (Dhon由〔9〕354)。

ブリュージュでは孤児名義の財産を強制的に都市に供託させ,都市がこれに 年10形の利子を払うとともに,孤児が成年に達した際に元金を償還する制度が あった (De Roov紅〔6〕96‑7)。同時期のカレーの会計簿に現れるだけでな

, ドゥ工,サントメール, リー)レ,イープルと,アルトワとフランドルの多

‑ . . !  ~ヽ~ : 

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(14)

13批紀末ブリュージュの会計簿について ‑111‑

くの都市にもあるという (Bougard& Wyffels 〔幻 55‑8)。平均して収入の 10 彩前後を占め,例外的に 30 彩近くになる場合 ({81-2►) もある。

収入の重要なもう 1つの項目に,定期金の販売ーー毎年一定額を都市が支払 う約束に対する資金の引渡ーーがあった。殆どが『終身定期金』 {reddi tus ad  vitam

であり,『世襲定期金』 {redditushereditarius

はわずか560リブラ

売却されたのみで(〔8〕682), 支出項目でも言及は少ない。双方を合計して も,定期金収入はあまり大きくない。

②  租税ー {tallia►

{assisia

フランドル諸都市の租税には,大別して市民の不動産・動産に課せられる直 接税たる{tallia〉と,都市内での生産・輸入・販売・労働といった経済活動に 課される間接税たる {assisia► (Prevenier 〔邦〕 140‑1 ; Bougard & Wyffels 

〔2〕34‑5)があった。両者の割合は都市によって異なるが, 13世紀末のブリュ ージュは租税収入の殆どを,ビール・ぶどう酒・蜂蜜水などの飲料に賦課され る {assisia〉から得ており, 他方 {tallia► は臨時にしか徽収されていない。

{tallia〉は, もともとは領主による臨時賦課であって, 領主によって都市 に徴収権が認められた際にも, 収入の一部は領主の収入になるとされてきた (Merlevede 〔認〕 177)。 しかし 13世紀末ブリュージュでは, {tallia► は都市 当局が市民に課す「強制貸付」の意味でも用いられており,(〔8〕Glossarium  221), 償還されるべき債務でもあった。事実後に見るように, {97-8► {98-9

では 1297年 6 月 24 日の {tallia► の償還が支出の1項目をなしているのである。

{tallia〉が会計簿の収入欄に 1 項をなして記載されるのは, {98-9► の『建 設及び修復さるべき都市周囲の堀と囲壁のためになされた,都市への強制貸付 からの受取』 {Receptumex mutuo per talliam ville  facto  pro  fossatis et  fortaliciis  circa villam faciendis et  reparandi吟(〔8〕524)のみである が,他の {tallia〉がく97-8► {98-9

の『雑収入』に散見される。まずく97‑ 8

の『先任の市政官によって, 都市でなされた強制貸付の遅滞金のために』

{pro arreragio tallie, per precedentes burgimagistros in villa facte

(Ibid., 

515,  518)によって, 1297年以前にも {tallia► 徴収があったことが分かる。

また {97‑8〉(Ibid.,515,  517), {98-9

(Ibid., 684)には,『93年になされたク

(15)

ールトレヘの軍事行動に際しての強制貸付のために』 {protallia expeditionis  :;, 

apud Curtracum, facte anno XCIII゜〉とある。

{assisia}では, 『ビールの消費税』 {assisia servisie}・『ぶどう酒の消費 税』 {assisiavini〉・『蜂蜜水の消費税』 {assisiamedonis}以外に,公設の秤 を使用する際に徴収される『秤税』 {assisia ponderis}がある。さらに『染 色工への間接税』 {assisia  tinctorum},  『皮なめしエヘの間接税』 {assisia  tannatorum〉, 『鍛冶への間接税』 {assisiafabrorum〉といった手工業者へ の賦課や,『パン屋への間接税』 {assisiapis to rum}, 『魚屋への間接税』 {as‑ sisia  piscatorum〉, 『果物屋への間接税』 {assisia fruthiers}のような小売 商への賦課がある。手工業ではおそらく原料を,小売業では商品を対象として 徴収されたと考えられ, 手工業者や商人を通じての徴収は, {assisia}のおよ そ25%前後を占めている。

同時期のイープ)レの都市財政を検討したメルレヴェーデによれば, 一般に {assisia}徽収は個人による請負制度を取るものとされ,イープルでは伝来し ている請負人名簿からそれが全体請負・中間請負・下級請負と, 3段階に分れ ているという (Merlevede〔認〕 160)。ブリュージュでも,散見される『間接 税徴収請負人』 {assisiator}の文言と,一部だけが伝来している 1293年2月 のくassisia〉受取の記録(〔8〕837‑40)から,おそらくイープルと類似の段 階別徴収請負があったと考えられる。 例えば 『ぶどう酒の消費税から』 {De  assisia vini}の項では,『LamsinusTolnareに代って Johannesde Tornaco  から』 {A Johanne de  Tornaco pro  Lamsino Tolnare} 173リブラ;『同様 に PhilippusCantより』 {Itema Philippo Cant} 173リブラ 4ソリドゥス の記述の後, 『Deinardによって。総計』 {PerDeinard. Summa} 34リブラ 4ソリドゥスとの記載が続く。おそらく Johannes de  TolnacoとPhilippus Cantは下級の, LamsinoTolnareは中間の,そして Deinardは全体の徴収 請負人であろう。

{assisia〉徽収に際して,累積している遅滞金の収納は,『間接税の遅滞金の ために』 {proarreragio  assisia〉 として『雑収入』 に記載されており,全 {assisia}収入が遅滞金とされる {81‑2}は例外としても,殆どの年度に見ら

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(16)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑113‑

れる。 しかしその総額は, 例外的に高額な場合でも500リブラに満たず,比較 的低額といえる。

ブリュージュ会計簿のくassisia〉に関する問題の一つは,年度による収入額 の大きな相違であろう。請負徴収されている {assisia► は,年度末に請負人か らの受取がまとめて記入されていると考えられるが,この際くassisia〉項目に 添えられた文言が収入額多寡の理由を示唆している。

まずく83‑4〉(Ibid.,59‑60)では, 2年に亘る会計年度の1年ごとのくassisia} 集計が,『間接税より』 {Deassisia〉と『84年の間接税受取』 {Receptumas‑ sisie  anni LXXXIIII〉という形で二分されて記載され, {84‑5〉(Ibid., 103‑ 4)  も同様である。 ところが以降の記述では,多い場合は年度4回に亘る集計 がある。 {87‑8〉(Ibid.,149)では『4期間について間接税からの受取』 {Recep‑ tum ab  assisia pro 4 or terminis〉;{90〉(Ibid.,195)『3回目と4回目の支 払として間接税からの受取』{Receptumde assisiis pro tercio et quarto pa‑ gamento

• ; 

{94

(Ibid.,  439)1回目の間接税としての受取,この支払は全間 接税の4分の 1であった』 {Receptumpro  primo  pagamento assisie,  quad  pagamentum fuit  quarta pars totius assisie► 。

{assisia〉徽収請負人からの実際の受取とは別の期日に,会計簿のための集 計が独自に行われた可能性は否定できないが,上記の『支払』という文言から 考えても,おそらくはまず徴収請負人からの受取記録が残され,それが年度末 に会計簿作成のため参照されたと考えられる。請負人からの受取の時期は,会 計簿の文言からは不明だが,少くとも1287年以降は年4回の『支払』が行われ ていることになる。

上記の文言と,会計簿ごとに期間や期首・期末の日が異なっている場合が多 いことを考えても,毎年4回あった請負人からの受取が,何らかの理由で年度 によって2回もしくは3回しか記されなかった可能性が大きい。

14世紀ブリュージュの会計簿の統計処理を行っているデ・ルーヴァーの研究 によれば (DeRoov紅〔6〕94),  14世紀においても収入の中心となるのはくas‑

sisia〉一ー専ら飲料への賦課—であるという (Ibid.,100‑1)。一般に都市収入 構造には,こうした間接税中心型と,例えば15世紀フィレンツェのような直接

(17)

税型があるが, 14世紀には「あらゆるフランドル諸都市の財政機構において間 : i•

接税の優越が共通の特徴である」 (Ibid.,95)とされており, 13世紀末のブリュ ージュでも既にその傾向が現われていたと考えられる。

この点で, 1268年から1301年まで伝来しているカレーの10会計簿では, {tal‑ lia}がより容易に徴収されている点が注目される。それはくassisia〉徽収に は依然としてフランドル伯の許可を要し,その収入の一部も伯に婦するという 事情があったからであり (Bougard & Wyffels 〔幻 27), ブリュージュな どがくassisia► 中心の収入構造を示したのは,ともかく上級権力に対する自主 性の強さを前提としていたのである。

'③  不動産及び都市公権収入一『罰金としての受取』;『市民権のための受 取』

『雑収入』のなかには都市が所有している不動産からの収入が, 『取引所か ら』{dehalla},  『採草地から』{deprato}, 『養魚場のサンスと遅滞金として』

{pro censu et  arreragio  piscarie〉といった形で散見される。最も多い場合 でも3,000リブラを上まわる程度で,金額としては決して重要ではない。

都市公権に由来する収入には,都市で売買される物品の品質管理権に由来し

ている (Joris(11J 416)『罰金のための受取』と,『市民権のための受取』とが

̀) 

ある。前者には『魚屋の罰金のために』 {proemendis piscatorum

•,

{肉屋の

罰金のために』 {proemendis carnificum

など小売商への罰金,『鍛冶の罰金 のために』 {proemendis fabrorum〉, 『染色工の罰金のために』 {proemendis  tinctorum》など手工業者への賦課もあるが, とりわけ毛織物工業に関する罰 金が多い。『糸の罰金のために』 {proemendis fileti

•,

『整経台の罰金のため

に』 {proemendis licinorum〉など原料,生産用具への罰金の他に,『薄手毛 織物への罰金のために』 {proemendis sagorum

といった製品そのものへの 罰金もある。しかしながら金額的には取るに足らない。

『市民権のための受取』も, 1リブラにも満たない徴収が多い。残念ながら この支払を行っている者については,名前とそれぞれ40デナリウスの記載に限 られている。

④  その他

(18)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑115‑

『ハンザからの受取』は, ロンドンを主たる舞台とするフランドル商人の組 合であるハンザ (Van Routte 〔訂〕 20)への加入に際しての支払で, 日付と 名前,支払金額が列記されている。支払金額は, {81‑2〉からく90‑2}では,

30ソドリウス (スターリング) と 5ソリドゥス(スターリング), {94}から く98‑9〉 で は 5リブラと 16ソリドゥス 8デナリウスの2種類ある。おそらくフ ァン・ハウテが指摘するように (Ibid.),新規加入者が現構成員の息子である か否かで金額に6倍の差がついていると考えられ,事実支払金額が少ない者に は 殆 ど {... a Roberto,  filio  Robloets  Pardecoper ... 

のように,某の息

子といった説明が付されている。収入額は総額の1%にも満たないが,必ず独 立の項目とされている。

その他に,特に高額の臨時収入が目立つのはく90‑2}{92} {97‑8〉である。

く90‑2〉 で は 『 雑 収 入 』 に 記 載 さ れ た11,532リブラ(〔8〕253)については,

前後関係は明白でないものの, ともかく 『フランドル伯が都市に担保とした』

{pro assignamento a ... comite ville facto〉とされている。 {92}(Ibid., 328)  では,『前任の市長 PaulusCalkra及 び Johannis Hubratにより,同人達 からの現金での引渡として』 {APaulo  Calkra  et  Johanne  Hubrat,  prece‑ dentibus burgimagistris, pro supradato ab eisdem in pecunia numerata} 

11,007 リブラ 18 ソリドゥス 3½デナリウスという例外的に高額の繰越金があ る他,『フランス王のためヴェルマンドワのバイイにより,若い方の Biervliet の手を介して2,000リ ブ ラ , 王 が 都 市 に 負 っ て い る 負 債 の 減 額 で 』 {... a  ballivo  Viromandie pro rege  Francorum,  per manum Biervliet junioris  2000 lib.,  in  diminutionem debiti  quod rex ville  debet} (Ibid.,  328)とい

ぅ, フランス王からの取り立てがあり, ともに『雑収入』に記されている。

く97‑8〉には,やはり『雑収入』の項に,『我々の領主たるフランス王によって,

当市になされた賠物からサン・ポール伯の手を介して』 {a domino  nostro  rege Francorum ex dono ab  ipso  ville  facto  per manus comitis  Sancti  Pauli} 1,000リブラ (Ibid.,514)や,『Robelotus Cant  と Petrus の息子 Johannesの手を介して, 同じ王からの同じ贈物から』 {ab eodem  et  ex  eodem per manus  Robeloti  Cant et  Johannis  filii  Petri}  (Ibid.,  514) 

(19)

4,800リブラといった受取が見られる。

以上のように13世紀末ブリュージュの会計簿に見られる収入では,ビール・

ぶどう酒・蜂蜜水に課された間接税収入が中心的地位にあるが,他方,アラス からの借入金,孤児資産の供託及び定期金販売からの収入も,かなり大きな割 合を占めており,これらの利払・返済・償還が,次節で見る支出において大き な負担となってくるのである。

(2)  支出

都市財政における支出は,大別して①債務返済(借入の利払・返済と定期金 の支払), ②都市行政費, ③公共事業(主として道路・橋・囲壁・堀等の建設 及び維持),④軍事費や領主への援助金などの臨時出費に, 分類される (Pre‑ venier 〔訪〕 142‑4)。ここでは会計簿自体の項目をこの4項目に振り分ける他

に,『雑支出』での無秩序な記載もそれぞれに分類していくことにした。

①  債務返済ー『アラスの金貸及び他の者への利子付支払』;『孤児への支 払』;『終身定期金のための支払』

借入の利払・返済,孤児への支払,定期金支払は,収入構造から予想された とおり都市財政を逼迫させており,例外的に借入金の返済が全く欠落している く97‑8}で,他2目の支出が全体の14.8%に留まっている場合を除けば,支出 の40,‑‑..,78%が債務返済にあてられている。それぞれの支出額は,会計年度ごと に変動が大きい。デ・ルーヴァーによれば,ブリュージュの定期金は14世紀を 通じて完全に償還され,その後新しい定期金の設定はなかったようであるが,

供託された孤児資産への支払は,都市財政にとってはより大きな負担となって おり, 元金の償還も極めて緩慢で, 最終的に会計簿から項目が消失するのは 1381‑2年であるとされる (DeRoov紅〔6〕96‑7)。

②  都市行政費

都市行政費には, 役人の出張のための『騎馬行のための支払』,派遣された

『使者への支払』,『教会会議のための支払』の他に,『雑支出』に計上されてい る都市役人への支払,役人の被服費,領主への贈与の他,市参事会員による行 政経常費,会計簿作成費用,外交交渉費等が中心となっている。しかしこうし

︐ 

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(20)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑117‑

た都市行政の経常支出の他に,会計年度によって偶発的な支出があり,その時 々の政治状況や都市財政状況に関する興味深い手がかりとなっている。

まず問題となるのが,『間接税の返還のために』 {prorestitutione assisie

という文言で都市によって行われている {assisia► の払戻しが, {83-4► {84‑ 5

{87-8> {97-8

の『雑支出』の項に散見されることであろう。これらは一 般に1,000リブラ前後の支払であるが, おそらく何らかの理由による, 都市か らくassisia► 徴収請負人への徽収金一部払戻しと考えられる。その理由が示唆 されている場合には,以下のような記載がある。

く83-4► では,伯に対する反乱に加担しなかった市民への報償として,『Sy‑ gerus de Ballialo殿を通じてJohanesHubertへ,反乱の際都市外にいて伯に 随行した市民によって支払われ,年度の終りに83年の諸聖人の日に彼らに返還 されることになった間接税のために』{... Johanni Hubert per dominum  Sygerum de Balliolo  pro assisia soluta a burgensibus, tempore ceditionis  extra villam existentibus et  comiti adherentibus,  restituenda eisdem de  anno finito  in  die Omnium Sanctorum anni LXXXIII〉(〔幻 70)との文 言で,税の払戻しが行われている。 {84‑5〉でもほぼ同様の文言で550リブラ28 デナリウスの支払がある。

く97-8► には,『ぶどう酒の消費税徽収請負人達へ, 98年諸聖人の祝日まで都 市の警調をしている王の騎士達によって消費されたぶどう酒の消費税の返還の ため』 {assisiatoribusvini pro restitutione assisie vini, habiti a militibus  regis villam custodientibus  usque ad  festum  Omnium Sanctorum anni  XCVIII} (Ibid.,  568)との文言で, 675リブラの支払がある。 1297年6月に始

まったフランス王のフランドル侵入と併合という事態のなか,ブリュージュに 駐屯したフランス軍のぶどう酒のくassisia►が,請負人に払戻されているので ある。

こうした {assisia► の返還の他に,一旦請負に出された {assisia► が何ら かの理由で解消され,都市が既に徴収請負人から受取っていた金額を彼らに返 却している事態を, {92‑4〉で見ることができる。ここでは支出の欄に,『この 売却の後に取り消された,間接税の売却について受取られた貨幣についての支

(21)

屯ム』 {Solutum de denariis receptis super venditione assisiarum post die‑ )  tam venditionem annulatarum

(Ibid.,  389)  との項目で, 徴収請負人名に

金額が付されたリストが,ビール・ぶどう酒・蜂蜜水・公設の秤のくassisia►

の他,手工業者と小売商を通じて徽収される {assisia〉について,記載されて いる。ここでの支払は約10,000リブラにも上っているが,返却分はなお完済さ れておらず,同年度会計簿の債権=債務の欄に,未払の払戻金のリストがほぼ 同じ形式で記され, 合計約3,700リブラに上っている。 この未返却分は,次年 度く94► の『雑支出』の項に,例えば『AlardusLamへ,前年に彼に負って いるビールの消費税の遅滞金のために』 {AlardoLam pro arreragio  assisie  servisie sibi  debito de anno preterito〉(Ibid.,461)  113リブラ15ソリドゥ

ス 7 デナリウスというように,名前と金額及び返却されるべきくassisia► の種 ,)  類が列記されており,次年度に繰越されて支払われているのが分る。末返却分

のリストと遅滞金としての支払を比較すると, {94► で債務は完済されている。

こうした {assisia► の解消が見られる《92‑4》は,収入項目の殆どを欠く会 計簿のため, この間に別のくassisia〉請負が設定されたかは直接には不明だ が,特別会計簿の中に1293年2月22日 の くassisia〉徽収人からの受取の記録 (Ibid.,  837‑40)が残っていることから,少くとも 1回は別の請負がなされたこ とは分る。ともあれ請負後のくassisia}解消やその払戻しに遅滞が見られる点 で,この間接税に依存していた都市財政の弱い側面をうかがうことができる。

このようなブリュージュ都市財政の弱点と,そこから生ずる混乱を示す支払 遅滞は,都市役人に対しても生じており,ことにく97‑8}{98‑9〉では『先年度 の市長逹によって,彼に負われているもののために』 {prodebito  sibi a pre‑ cedentibus burgimagistris}との文言を伴って,役人への債務返済がひんばん

に現われている。 {97‑8}では,『NicholausAloudへ,パリヘの旅について,

彼に負っている遅滞金のために』 {NicholaoAloud pro arreragio sibi debito,  occasione  itineris  Parisiensis〉(Ibid.,566)を始めとして,『同じ遅滞金と

して』 {proeodem〉と付された10件の支払が3,600リブラに達している他,

『Waelkinusへ,彼によってなされた様々な行程のため,先年度の市長逹が彼 に負っている遅滞金のために』 {Waelkinopro arreragio sibi  debito a pre‑

',) 

(22)

13世紀末ブリュージュの会計簿について ‑119‑

cedentibus burgimagistris pro diversis viis  ab ipso factis

(Ibid., 568)や

『Willelmusde HilleとJohannesLoysへ,モーヴォージュヘの旅について 彼らに負っている遅滞金のために』 {Willelmode Hille et Johanni Loys pro  arreragio ipsis debito occasione itineris de Maubuge

(Ibid., 573)と,先

行会計年度の役人の出張費の立替分が, 『雑支出』から遅滞金として支払われ ているのが分る。さらに『…先年度の市長達が彼に負っている,彼の給与のた めに』{... pro  salario  suo, a precedentibus burgimagistris  sibi  debito〉 (Ibid., 565)と,給料の遅配も見られる。

く98-9► にも『先年度の市長達によって』とされる都市役人への支払が,約 7,600リブラにも逹している。 しかもその多くが, ここでは『都市の証書によ って』 {percartam ville》としか記載されていない。 {percartam ville

支払は, 2,000リブラ, 1,300リブラ, 1,200リブラが各1件の他, 400リブラ前 後の支払が4件,計7件に及んでいる。この表現の具体的な意味や,支払理由 は不明だが,ともかく先行会計年度の支払が, {98-9► に繰り越されているの は確かである。

1297年のフランス王によるフランド)レ侵入に始まるこの3年間には, 2度 に 亘って囲壁と掘のためにくtallia〉が徽収され,他方では1297年6月24日徽収の

{tallia

が償還されている。こうした軍事行動や土木事業の影響が,とりわけ

支払遅滞金の増加という形ではっきりとうかがわれるのである。

③  公共事業費

経常支出のもう一方の大きな項目は土木事業費である。『雑支出』での表現 は,『修理さるべき道のため』 {pro calceia reficienda

と工事の対象のみを

記す場合,『様々な場所へ運搬され,荷降しされるべき, 種 々 の 工 事 で の 木 材 のために』 {pro lignis ad  diversa  opera in  diversis  locis deferendis et  devehi faciendis

といった材料の記載, 『同じ門での石エと人夫へ』 {ma‑

chenariis et  operariis ad eandem》のような働き手の明記など多様だが,主 となるのは工事対象による記述である。

都市が行っている工事は以下の如く多岐にわたっている。『道路のため』

{pro calceia

• ; 

『取引所のため』 {prohalle〉;『橋のため』 {proponte

• ; 

『水

(23)

門で』 {adspoyam

• ; 

『護岸のため』 {prostatbone

• ; 

『井戸のため』 {pro

puteo

• ; 

『泉水のため』 {profonte

• ; 

『水車で』 {admolendium ad aquas►。

少額の出費ではあるが, 溝の清掃や鐘楼と鏡の管理・維持, 『牢獄のため』

{pro domo obsidum

といった管理費用も,毎年支出されている。

土木事業への出費は,当然のことながら会計年度毎に中心的対象が異なって いる。各年度で支出上位3位を挙げた表を参照すると,毎年一定額の管理・維 持費ではなく,特定の年に突出した工事費が前面に現われる。

土木事業支出〔上位3 12924年度会計簿(断片)を除く。〕

12812 £  12834 £ 

332 

, 

取 引 所 8,113  177  19  1/2  水 門 398  12 

水 門 140  12  1/2  141  12845  £  I  12878 

取 引 所 4,846  18  11  704  11  1/2  173  15  水 門 576  16 

建 設 資 材 61  14  1/2  導 水 管 336  10  12  1290 £  12902  £  水 門 1,065  11/2  取 引 所 6,775  10  690  12  1/2  1,275  16  10  鐘 と 鐘 楼 520 

, 

608 

1292  1294 £ 

846  取 引 所 1,448  10  1/2  建 設 資 材 678 

1,201  17  11 

450  10 

, 

698  17 1/2  15 

12978  12989 £  堀 と 護 岸 10,141 

, 

12,522  1/2 

6,498  13  建 設 資 材 550  11 6,273  12  1/2  55 

, 

一見して, 1297‑8年の堀と設岸の工事と1298‑9年の囲壁建設が高額に上 っているのが分る。 これらの年度にそのための {tallia► が必要であったのが

 

, ' 

し ァ

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