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新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家

花岡, 興史

九州大学大学院比較社会文化研究院

http://hdl.handle.net/2324/4771855

出版情報:沖ノ島研究. 6, pp.37-60, 2020-03. 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会 バージョン:

権利関係:

(2)

﹁ 神 宿 る 島 ﹂ 宗 像

・ 沖 ノ 島 と 関 連 遺 産 群 保 存 活 用 協 議 会 令 和 二 年 三 月

  第   六

(3)

津 屋 崎 地 区 の 海 浜 型 古 墳 に つ い て    

池 ノ 上     宏 御 米

注 進 状 ・ 御 米 銭 注 進 状 に み る 宗 像 氏 貞 領 の 郷 村    

桑 田     和 明 最 後

の 大 宰 府 守 護 所 下 文 と 宗 像 大 宮 司 家    

野 木     雄 大 新 発

見 の 豊 臣 秀 吉 文 書 と 肥 後 宗 像 家    

花 岡    

興 史  

 

 

25

 

37

  沖 ノ 島 研 究   第 六 号   目 次

 

61

 

67

 

81

︽ 調 査 報 告 ︾

沖 ノ 島 へ の 眺 望    

岡         崇 北 九

州 市 若 松 区 小 竹 の 沖 津 宮 遥 拝 所 に つ い て    

鎌 田 隆 徳

・ 松 本 将 一 郎

・ 大 高 広 和

﹁ 神 宿 る 島 ﹂ 宗 像

・ 沖

ノ 島

と 関

連 遺

産 群

に 関

わ る

調 査

研 究

事 業

二 〇

一 九

年 度

調 査

概 要

(4)

新 発 見 の 豊 臣 秀 吉 文 書 と 肥 後 宗 像 家

花 岡   興 史

は じ め に

令和 元年

︵二

〇一 九︶ 九月 十八 日に 熊本 県球 磨郡 多良 木町 で︑ 新し く発 見さ れた 豊臣 秀吉 文書 二点 の記 者発 表を 町と 共に 行っ た︒ 反響 は大 きく 全 国的 にそ の内 容に つい て報 道さ れて いる

︒た だ︑ 宛所 の﹁ 宗像 才鶴

﹂が

︑ 桑田 和明

・本 多博 之

両氏 の先 行研 究上 で女 性と 考え られ る見 解が あ るこ とか ら報 道上 では 興味 をそ そる

﹁秀 吉認 めた 女城 主﹂ とい う見 出し で 表現 され

︑そ の部 分が 強調 され てい た︒ 著者 は︑ 史料 的な 制約 から この 見 解に つい ては 先行 研究 の紹 介を 行い

︑そ れを 積極 的に 否定 する 知見 も持 っ てい ない こと から この 時点 では 可能 性と して だけ 考え た︒ つま り︑ 女性 と 決定 付け る史 料と して 認識 して いた わけ では ない

︒た だ︑ この 部分 が新 発 見と して メデ ィア 上で 先行 した 部分 は否 めな い︒ しか し︑ 今回 の記 者発 表は そこ が新 発見 では 無い

︒今 回最 大の 発見 は︑ 一般 には 宗像 大社 大宮 司家 であ った 宗像 氏貞 の子 孫は 断絶 した とい われ て いる が︑ 実は 宗像 氏の 名跡 と血 脈を 今に 繋げ てい る子 孫が 熊本 に存 在し た とい う衝 撃の 事実 であ る︒ 今ま では

︑﹃ 萩藩 閥閲 録﹄ にあ るよ うに

︑宗 像

大社 の什 書は

︑氏 貞の 娘と 婚儀 をも った 草苅 重継 が受 け跡 式を 継い だと い うの が研 究上 の﹁ 常識

﹂で あっ た︒ それ は﹁ 大宮 司系 譜﹂ にも 草苅 氏が 跡 を継 いだ 記述 とな って いる こと から わか る︒ しか し︑ 結果 的に 宗像 を名 乗 らな かっ た草 苅氏 が名 跡を 継い だと はと ても 理解 でき ない

︒実 は大 宮司 で あっ た宗 像氏 の名 跡を 継い だの は熊 本の 宗像 家で あっ た︒ それ を証 明し た のが

︑今 回の 秀吉 文書 であ ると いえ る︒ 前述 の﹁ 大宮 司系 譜﹂ にあ る氏 貞三 女の 箇所 には

︑子 孫は 肥後

・大 坂に 行っ たと 書か れて いる

︒そ れに も関 わら ず︑ 不思 議な こと にこ れま での 宗 像氏 研究 では

︑肥 後宗 像家 に関 して 近世 史料 に基 づい た実 証が 行わ れて こ なか った よう であ る︒ 肥後 宗像 家は 宗像 清兵 衛を 祖と して 豊前 で細 川忠 興・ 忠利 に仕 えた

︒そ の後

︑寛 永九 年︵ 一六 三二

︶︑ 細川 氏の 転封 に伴 い熊 本に 来て いる

︒こ の 清兵 衛は

﹁御 国之 惣奉 行﹂ とし て郡 奉行 や代 官以 下を 支配 した 重要 人物 で︑ 近世 細川 氏を 研究 する もの にと って は誰 もが 知る 人物 であ る︒ つま り︑ 肥 後宗 像家 は細 川氏 の治 政を 支え た宗 像清 兵衛 の子 孫で あっ た︒ しか し︑ こ の家 がそ の後

︑明 治時 代に 政治 活動 をす るた めに 多良 木町 に移 住し たこ と

(5)

(秀吉文書A)(天正十四年)拾月十日付け 豊臣秀吉判物

(秀吉文書B)(天正十五年)三月廿八日付け 豊臣秀吉朱印状

(6)

は︑ 近世 史の 領域 から 外れ てい たの で寡 聞に して 知り 得て いな かっ た︒ た だ︑ 近世 史の 分野 では

︑清 兵衛 が細 川藩 の中 にあ り重 要人 物で ある こと は︑ 細川 氏研 究の 中で も度 々触 れら れて いた が︑ 宗像 大社 大宮 司家 の宗 像氏 と 関連 付け られ るこ とは 今ま では なく

︑ま た清 兵衛 自身 につ いて も特 に興 味 を持 たれ るこ とも なか った

︒ そこ で︑ 本稿 では

︑今 回発 見さ れた 秀吉 文書 二点 と︑ それ を現 在ま で伝 えた 肥後 宗像 家に つい て現 段階 まで の既 知の 史料 を中 心に して 述べ てみ た い︒ なお

︑肥 後宗 像家 文書 は現 在も 多良 木町 と継 続調 査中 で︑ 後に 正式 に 調査 報告 をも って 全容 を明 らか にす る予 定で ある

第 一 章   豊 臣 秀 吉 文 書 発 見 の い き さ つ

一︑

宗像 才鶴 宛て の秀 吉文 書二 点に つい 著者 は︑ 記者 発表 の二 か月 ほど 前の 七月 より

︑多 良木 町よ り肥 後宗 像家 の文 書群 の寄 贈に つい て相 談を 受け てお り︑ その 結果

︑文 書群 の調 査指 導 と調 査を 依頼 され るこ とと なっ た︒ 文書 群の ほと んど が近 世︑ つま り宗 像 清兵 衛以 降の もの であ る︒ その 中で 発見 され たの が今 回の 秀吉 であ る︒ 秀 吉文 書に つい ては

︑判 物と 朱印 状の 二点 で他 には なく

︑宛 所は いず れも

﹁宗 像才 靏﹂ とあ った

︒ま た﹁ 才靏

︵才 鶴︶

﹂に 関す る発 給文 書も この 二点 だ けで ある

︒先 ずは 今回 の新 発見 の史 料を 紹介 しよ う︒

︵秀 吉文 書A

︶︵ 天正 十四 年︶ 十月 十日 付け 豊臣 秀吉 判物 今度

︑島 津背 御下 知︑ 至筑 前取 出候 處︑ 手前 堅固 之段

︑神 妙候

︑然 間 當知 不可 有相 違候

︑猶 安国 寺・ 黒田 勘解 由可 申候 也    拾月 十日

︵秀 吉花 押︶         宗像 才靏 との へ 

︵秀 吉文 書B

︶︵ 天正 十五 年︶ 三月 二十 八日 付け 豊臣 秀吉 朱印 状 態満 筆候

︑其 方事

︑上 方人 数軍 法以 下可 為無 案内 候之 間︑ 陣取 普請 等 事︑ 浅野 弾

正少 弼可 相談 候︑ 諸事 可馳 走旨 被仰 付候 条︑ 可成 其意 候也    三月 廿八 日︵ 秀吉 朱印

︶         宗像 才靏 との へ 二︑

秀吉 文書 Aに つい

︵秀 吉文 書A

︶は

︑豊 臣秀 吉が

︑宗 像才 鶴に 対し て島 津氏 の九 州北 上︵

﹁島 津背 御下 知︑ 至筑 前﹂

︶を 阻止 した 事を 賞賛 し︑ さら に知 行を 認め た︵

﹁當 知不 可有 相違

﹂︶ 判物 であ る︒ その 内容 につ いて は︑ 安国 寺︵ 恵瓊

︶と 黒 田勘 解由

︵孝 高︑ 官兵 衛︑ 如水

︶が 申し 伝え るこ とが 書か れて いる

︒日 付 の下 には 秀吉 の花 押が 据え てあ る︒ 包紙 とも に料 紙は 雁皮 であ る︒ 島津 氏 は天 正十 五年

︵一 五八 七︶ 四月 に秀 吉軍 に降 伏し てお り︑ その 歴史 的背 景 から 本文 書は 前年 の天 正十 四年

︵一 五八 六︶ のも ので ある と比 定で きる

︒ また

︑秀 吉は

︑︵ 秀吉 文書 A︶ と同 日に 次の

︵史 料一

・二

︶を 麻生 家氏 と 時枝 鎮継 に対 して 発給 して いる

(7)

︵史 料一

︶麻 生次 郎左 衛門 宛判 物写

﹃筑 前麻 生文 書﹄

今度

︑島 津背 御下 知︑ 至于 筑前 取出 之處

︑手 前堅 固之 儀︑ 神妙 候︑ 然 間本 知之 儀︑ 右

馬頭 内儀 次第 可宛 行候

︑弥 忠儀 肝要 候︑ 委細 安

寺・ 黒田 勘

由可 申候 也   天正 十四    拾月 十日   大閤 秀吉 御書 判       麻生 次郎 左兵 衛と のへ  

︵史 料二

︶時 枝武 蔵守 宛朱 印状  

﹁児 玉韞 採集 文書

今度 島津 背下 知︑ 至筑 前依 取詰 候︑ 輝元

・両

川差 出︑ 追々 人数 遣候 処︑ 御請 申段 神妙 候︑ 然間 当知 不可 有相 違候

︑弥 於抽 忠儀 者︑ 右馬 頭申 次 第可 加恩 賞候

︑猶 安国 寺・ 黒田 勘解 由可 申候 也          秀吉 公    拾月 十日   御朱 印       時枝 武蔵 守殿 この

︑︵ 史料 一・ 二︶ はい ずれ も写 しで あり 文言 の検 討は 必要 であ ろう が︑ 内容 はよ く似 てい る︒

︵史 料一

︶は

︵秀 吉文 書A

︶の それ とほ ぼ同 じだ が︑ 文中 に﹁ 然間 本知 之儀

︑右 馬頭 内儀 次第 可宛 行候

︵毛 利輝 元の 内儀 次第

︶﹂ とい う文 言が 挿入 され てお り︑

︵史 料一

︶と は若 干異 なる

︒し かし 知行 を 保証 する とい った 秀吉 の趣 旨は 一致 して いる

︒ま た︑ 双方 共に 判物 であ る︒ 次に

︑︵ 史料 二︶ をみ てみ ると

︑時 枝鎮 継に 対し て︵ 史料 一︶ と同 じよ

うに 島津 軍の 北上 に関 して

︑十 月初 旬︑ 九州 に入 った 毛利 輝元

・吉 川元 春・ 小早 川隆 景ら の軍 勢を 請け るこ と神 妙と して

︑知 行を 保証 して いる

︒た だ し︑

︵秀 吉文 書A

︶・

︵史 料一

︶と 異な り朱 印状 であ る︒ 三つ の文 書は 十月 十日 と同 日で

︑秀 吉の 裁定 はい ずれ も知 行を 保証 して いる ので はあ るが

︑時 枝氏 への 朱印 状は

︑宗 像・ 麻生 両氏 のも のに 比し て 薄礼 であ る︒ この 文書 の時 代背 景を 次に 述べ る︒ 天正 十三 年︵ 一五 八五

︶十 月二 日︑ 前の 七月 に関 白に 任官 した 秀吉 は︑ 九 州に て大 友氏 を攻 める 島津 氏の 義久 に対 し﹁ 先敵 味方 共双 方可 相止 弓箭 旨︑ 叡慮 候﹂

正親 町天 皇の 叡慮 をも って 停戦 命令 を発 して いる

︒だ が︑ 島津 氏は これ を無 視す るよ うに 北上 を続 けて いる

︒翌 十四 年七 月に は︑ 島津 氏は 筑前 にお いて 高橋 紹運 の守 る岩 屋城 と紹 運の 次男 で筑 紫広 門の 娘婿 の高 橋統 増が 立て 籠も る宝 満城 を侵 攻し た︒ 紹運 は自 害し 統増 は宝 満城 を開 城し た︒ しか し︑ 実父 紹運 を討 たれ た立 花宗 茂は

︑立 花城 を死 守し 八月 二十 四 日

に︑ 島津 軍を 撤退 させ てい る︒ さら に︑ 島津 方の 高鳥 居城 を撃 破し

︑ 城に 籠も る星 野鎮 胤兄 弟を 討ち 取っ た︒ この 時︑ 淀に いた 秀吉 は九 月九 日 付け の判 物

で宗 茂に 対し

﹁誠 以粉 骨無 比類 候︑ 然而 其方 事忠 節儀 候間

︑ 新地

︵知

︶褒 美等 可被 仰付 之間

︑迄 下々 此由 申聞

︑弥 相勇 可励 忠功 事専 一候

﹂ と賞 賛し

︑﹁ 新知

﹂を 保証 して いる

︒ま た︑ 安国 寺恵 瓊・ 黒田 孝高

・宮 木堅 甫に 宗茂 のこ とに つい て︑

﹁無 比類 動絶 言語 候﹂

﹁誠 九州 之一 物ニ 候﹂

述べ た判 物を 発給 し激 賞し てい る︒ 実は この 時︑ 秀吉 は島 津氏 の軍 事力 を 侮っ てお らず

︑同 史料 に﹁ 今度 味方 城二 三ヶ 所不 慮之 処︑ 無異 儀相 拘候 儀

(8)

さへ 奇特 ニ被 思召 候処

﹂と ある よう に︑ 味方 の城 が二

〜三 か所 陥落 した の で︑ 落城 しな けれ ばい いと いう 程度 に考 えて いた 矢先 に宗 茂の 活躍 の報 が 入っ た︒ それ ほど

︑こ の段 階で の島 津氏 の軍 勢は 強力 であ った

︒た だ︑ 秀 吉は

︑安 国寺 以下 への 十月 三日 付け の判 物に

︑﹁ 星野 か刎 首さ せ候 ハ︑ 島 津弓 矢之 失面 目候 儀︑ 又ハ 心中 程相 見候 之間

︑さ せる 儀武 篇か た有 之間 敷 候事

﹂と

︑島 津が この 戦い で星 野の 首を 取ら れた こと で﹁ 弓矢

﹂の 面目 を 失い

︑島 津軍 の勢 力も そこ まで では ない と述 べて いる

︒し かし

︑島 津軍 は︑ 十月

︑九 州に 上陸 した 毛利 輝元 らと の攻 防を 引き 続け てお り︑ 決し て安 堵 でき る状 況で はな かっ た︒ 事実

︑十 二月 の豊 後戸 次川 の戦 いで 秀吉 軍は 敗 戦し てい る︒

︵秀 吉文 書A

︶・

︵史 料一

︶に は︑ ほぼ 同文 で︑

﹁今 度︑ 島津 背御 下知

︑至 筑前 取出 候處

︑手 前堅 固之 段︑ 神妙 候︑ 然間 當知 不可 有相 違候

﹂と あり

︑ この 段階 では 島津 軍の 北上 に対 して

﹁手 前堅 固﹂ であ るこ とが 重要 であ っ た︒ 秀吉 が同 月十 七日

︑﹁ 九州 之一 物﹂ と評 価を した 宗茂 に対 して も﹁ 今 度其 面堅 固相 拘付

﹂﹁ 可尽 粉骨 事専 一候

と述 べた よう に︑ これ から も 激し い戦 いが 十分 予想 され てい たの であ る︒ これ より 半年 前の

︑四 月十 日の 輝元 宛て の秀 吉朱 印状

10

には

︑一 つ書 き で﹁ 蔵納 申付

︑九 州弓 箭覚 悟事

﹂﹁ 門司

・麻 生・ 宗像

・山 鹿城 々へ 人数

・兵 粮可 差籠 事﹂ とあ り︑ 秀吉 は島 津氏 の豊 前・ 筑前 への 侵攻 に対 し︑ 九州 に おい て﹁ 弓箭

︵戦 闘︶

﹂を 覚悟 しそ れに 備え るよ うに 輝元 に指 示を 行っ てい る︒ この 中で

︑籠 城の ため に兵 粮を 準備 させ る対 象者 に﹁ 宗像

﹂が みえ る︒ この 時︑ 宗像 氏は 当主 であ る大 宮司 氏貞 が既 に三 月四 日に 病死 して いる が︑

この 島津 氏北 上の 抵抗 力の 一つ とし て宗 像氏 を指 定し てい るの であ る︒ この 時の 宗像 氏の 当主 は確 定し えな いが

︑﹁ 宗像 才鶴

﹂宛 ての 判物

︵秀 吉文 書A

︶が 出さ れて いる こと から

︑こ の頃 に何 らか の形 で秀 吉が 才鶴 を 宗像 家の 当主 とし て認 識し たの であ ろう

三︑

秀吉 文書 Bに つい つぎ に︵ 秀吉 文書 B︶ は︑ 秀吉 が︑ 宗像 才鶴 に宛 てた 朱印 状で

︑料 紙は 大高 檀紙 では なく 奉書 紙で ある

︒才 鶴は 秀吉 の軍 勢と 軍法 につ いて は不 案 内で ある こと から

︵﹁ 上方 人数

・軍 法以 下可 為無 案内 候之 間﹂

︶︑ 陣取 普請 など 浅野 弾正 少弼

︵長 吉・ 長政

︶に 相談 し︑ その 折り には 諸事 馳走

︵﹁ 諸 事可 馳走 旨﹂

︶せ よと いう 内容 を伝 えて いる

︒参 考の ため

︑こ の朱 印状 と 同様 の内 容の もの を次 に掲 載す る︒

︵史 料三

︶立 花左 近将 監宛 朱印 状﹁ 立花 家文 書﹂11

括弧 内は 著者 によ る︶ 態染 筆候

︑先 書如 被仰 候︑ 昨日 廿五 日至 関

御着 陣候

︑然 者先 へ御 人 数被 遣候 上衆 儀︑ 其方 可為 無案 内候 間︑ 陣取 普請 以下

︑浅 野弾 正少 弼 可相 談候

︑諸 事︵ 可︶ 馳走 旨被 仰付 候条

︑可 成其 異候 也    三月 廿六 日︵ 朱印

︶         立花 左

将監 との へ また

秀吉 は︑

︵史 料三

︶と 同日 付け で︑ かつ 同じ 文言 の朱 印状 を筑 紫広 門に 発給 して いる

12

︒ これ らの 朱印 状に

︑﹁ 昨日 廿五 日至 関戸 着陣 候﹂ とあ るこ とか ら︑ 秀吉 は

(9)

二十 五日 に長 門国 赤間 に到 着し てい る︒ ここ に二 日間 逗留 して

︑渡 海し て 九州 に上 陸す るこ とに した

13

︒こ の中 で︑

﹁先 へ御 人数 被遣 候上 衆儀

︑其 方可 為無 案内 候間

﹂と 有り

︑秀 吉の 軍勢 につ いて 其の 方︵ 宗茂

・広 門︶ は︑ 勝手 が分 から ない ので

︑陣 取普 請な どに つい て浅 野長 政の 指南 を仰 ぐよ う にと いう 内容 であ る︒ つま りこ の部 分は

︑︵ 秀吉 文書 B︶ にあ る﹁ 其方 事︑ 上方 人数 軍法 以下

﹂が

﹁然 者先 へ御 人数 被遣 候上 衆儀

﹂と 異な るだ けで ほ ぼ同 じ事 を伝 えて いる

︒よ って

︑︵ 秀吉 文書 B︶ は︑ これ らの 朱印 状の 二日 後に 発給 され てい ると 理解 でき

︑天 正十 五年 と比 定す るこ とが でき る︒ こ の時 秀吉 は︑ 同日 の吉 川広 家宛 朱印 状

14

によ れば

﹁今 日廿 八日 至于 豊前 小 倉到 来﹂ とあ るよ うに 赤間 より 海路 にて 小倉 入り をし てい る

15

こと から

︑ 同日 付け の宗 像才 鶴宛 ての 朱印 状は この 場所 で出 され たこ とに なる

︒つ ま り︑

︵秀 吉文 書B

︶は

︑才 鶴に 対し 秀吉 が率 いて きた 軍勢 につ いて

︑浅 野長 政の 指南 を仰 ぎ懸 命に 奔走 する こと

︵﹁ 諸事 可馳 走﹂

︶を 求め てい るの であ る︒ なお

︑︵ 秀吉 文書 B︶ は︑ 前年 の十 月に 島津 軍の 北上 を阻 止し たこ とを 賞し た︵ 秀吉 文書 A︶ と異 なり

︑判 物で はな く薄 礼の 朱印 状で ある

︒秀 吉 の発 給文 書が 判物 から 朱印 状に 変化 した とい うこ とは

︑こ の天 正十 五年 三 月の 段階 では

︑才 鶴は 明ら かに 臣下 とし て秀 吉に 仕え てい る︒ また

︑︵ 史 料三

︶に みる よう に前 年に

﹁誠 九州 之一 物ニ 候﹂16

激賞 され た宗 茂も 同 様に 判物 から 朱印 状に 変化 して おり

︑才 鶴と 同様 の立 場で 秀吉 に接 して い るこ とに なる

︒ 現段 階で

︑宗 像才 鶴宛 ての 秀吉 発給 文書 は︑ 今回 発見 され た︵ 秀吉 文書 A・ B︶ のみ であ るが

︑こ の秀 吉文 書の 薄礼 化を

︑他 の文 書で 確認 して み

るこ とと する

17

宗茂 に宛 てた 判物 で最 後に 確認 でき るも のは

︑天 正十 四年 十二 月二 日付 けで ある

︒そ の後

︑朱 印状 とな るの は翌 十五 年正 月十 七 日付 けの もの であ る︒ また

︑天 正十 四年 十月 十日 に才 鶴と 共に 判物 が出 さ れた 麻生 家氏 には

︑同 年十 二月 十二 日に 朱印 状

18

を発 給し てい る︒ つま り︑ 秀吉 の九 州入 りが 間近 にな った 頃に 九州 武士 団の 家臣 化が 促進 され たと 考 えら れる

四︑

宗像 才鶴 につ いて の先 行研 この 文書 二点 の宛 所で ある

﹁才 鶴﹂ につ いて

︑前 述の 本多 氏は

﹃宗 像市 史﹄ の中 で︑ 天正 十五 年︵ 一五 八七

︶六 月二 十八 日付 けの 小早 川隆 景宛 ての 秀 吉朱 印状

︵﹃ 毛利 家文 書﹄

︶に 原田 弾正 少弼

・麻 生次 郎左 衛門 の名 と共 に﹁ 宗 像才 鶴﹂ の名 前が ある こと を指 摘し

︑﹁ とこ ろが

︑こ の名 は宗 像大 宮司 家 関係 の系 図に は一 切登 場し ない

﹂と して いる

︒続 いて

﹁し かし

︑全 く架 空 の人 物と も言 えな いよ うで

︑他 の史 料に おい ても この 名は 確認 でき る﹂ と して いる

︒こ の内 容は

︑同 年四 月二 十三 日の

﹁原 家文 書﹂ の中 に秀 吉の 意 向を 受け た石 田三 成・ 大谷 吉継

・安 国寺 恵瓊 らが 連署 にて

︑戦 乱で 荒廃 し た博 多町 衆の 還住 を進 める ため

︑そ の諸 役を 免除 する よう に指 示︵

﹁博 多 再興 之儀 ニ付 而︑ 彼町 人還 住之 輩︑ 何之 分儀 雖在 之︑ 諸役 可令 免除 旨︑ 被 仰出 候状

﹂︶ した 宛所 に龍 造寺 民部 大夫

・原 田弾 正少 弼・ 立花 左近 将監 と とも に﹁ 宗像 才鶴

﹂の 名が 見え ると いう

︒ 本多 氏は

︑﹁ 才鶴

﹂が

﹁龍 造寺 氏ら と同 様に

︑博 多町 衆に 諸役 を賦 課す る実 力を 備え た人 物﹂ と評 価し なが らも

︑こ の時

︑大 宮司 宗像 氏貞 は既 に

(10)

死去 し︑ 養子 は益 田︵ 七内

︶元 堯

19

であ るか ら︑

﹁不 明と せざ るを えな い﹂ とし てい る︒ 一方

︑桑 田和 明氏 は︑

﹁宗 像才 鶴﹂ につ いて

︑前 述の

﹁原 文書

﹂の 記述 や︑ 小早 川隆 景宛 ての 秀吉 朱印 状︵

﹃毛 利家 文書

﹄︶ にみ るよ うに 筑後 国に おい て原 田信 種に 四百 石︑ 麻生 家氏 に二 百石 と共 に才 鶴が 三百 石を 宛行 われ て いる こと から

︑こ の時 は才 鶴を 宗像 家の 当主 であ ると する

︒ま た︑ 才鶴 と は記 載さ れな いが

︑﹁ 宗像 記追 考﹂ には 氏貞 後家 が︑ 宛行 われ た筑 前国 夜 須郡 二百 町の 内か ら寺 領の 寄進 を行 って おり

︑領 主権 を行 使し てい るこ と に注 目し てい る︒ 桑田 氏は

︑こ れら の内 容を 比較 検討 する と当 該史 料に 他の 人物 を想 定で きな いこ とか ら︑ 宗像 氏貞 の家 督を 相続 した のは 才鶴 でそ れは 氏貞 の後 家 だっ たと して いる

︒ ただ

︑両 氏の 見解 にあ るよ うに

︑﹁ 宗像 才鶴

﹂と 明記 して ある 史料 は︑

﹁原 家文 書﹂ と﹃ 毛利 家文 書﹄ の二 点だ けで あり

︑本 人宛 ての 文書

︑し かも 秀 吉文 書が ある こと すら 知ら れて いな かっ たの であ る︒ よっ て︑ 今回 の発 見 され た秀 吉文 書は

︑今 まで 不明 であ った 大宮 司宗 像氏 貞亡 き後 の宗 像氏 を 実質 上牽 引し た宗 像才 鶴の 存在 が明 確に なる 史料 であ ると いえ る︒

第 二 章   宗 像 大 宮 司 家 の 跡 式 と 肥 後 宗 像 家

一︑

宗像 大宮 司系 譜に みる 宗像 氏貞 の跡 式と 名跡 大宮 司宗 像家 につ いて

︑﹁ 訂正 宗像 大宮 司系 譜附 記﹂

︵以 下﹁ 大宮 司系

譜﹂

20

の関 連箇 所を あげ てい くこ とに する

︒た だ︑

﹁大 宮司 系譜

﹂で は︑ 氏貞 の男 子は 早世 した 塩寿 丸の 名を 記す が︑ それ は誤 りで あり

︑実 は塩 寿丸 は益 田元 祥の 次男 景祥 で氏 貞の 養子 であ ると いう 河窪 奈津 子氏 の指 摘

21

もあ る︒ この よう に﹁ 大宮 司系 譜﹂ は検 討を 要す る史 料で はあ るが

︑ 重要 な記 述も 多く 本稿 では 積極 的に 利用 する

︒ これ によ れば

︑氏 貞の 没後 につ いて

﹁依 秀吉 公之 命︑ 重継 賜宗 像氏 貞之 跡式

︑相 続家 督﹂ とあ り草 苅重 継が その 跡式 を継 いだ とし てい る︒ また

﹁大 宮司 系譜

﹂の 草苅 太郎 左衛 門︵ 元胤

︶に よる 奥書 は次 の様 に記 して ある

︵史 料四

22

︵前 略︶ 私先 祖草 刈対 馬守 重継 御供 仕︑ 同国 宝満 ニ致 在城 候︑ 氏貞 無 嗣子 果︑ 重継 事聟 ニ而 候故

︑以 秀吉 公之 上意

︑宗 像家 相続 仕︑ 本領 之外

︑ 致兼 領候

︑雖 然神 職之 儀者

︑社 役者 ニ申 付︑ 重継 不改 氏姓

︑愚 息助 二 郎就 継︵ 割注 母宗 像氏 貞女

︶家 督以 前︑ 暫時 宗像 と称 申候

︑︵ 後略

︶ 内容

は︑ 氏貞 は嗣 子が 無く 果て たこ とか ら︑ 聟で ある 重継 が秀 吉の 命に より 宗像 家を 相続 した とあ る︒ また 神職 は社 役者 に申 しつ けた ため に姓 を 改め なか った が︑ 子の 就継 が一 時的 に宗 像姓 を名 乗っ たと して いる

︒ また

︑﹃ 萩藩 閥閲 録﹄ の﹁ 草苅 氏﹂ の項 には

︑﹁

︵重 継が

︶筑 前宗 像之 跡 式を 賜り 兼領 仕候

︵割 注 宗像 家之 証文 于今 悉所 持仕 候︶

23

ある

︒こ れら の史 料か ら︑ 草苅 重継 が大 宮司 家の 跡式 を継 いだ こと によ り宗 像家 の 文書 は﹁ 悉所 持﹂ した こと にな って いる

︒一 方︑

﹁大 宮司 系譜

﹂に も氏 貞 の跡 は長 女と 次女 が嫁 いだ 重継 とな って おり

︑宗 像家 の文 書は 実際 に草 苅

(11)

家に 伝え られ てい る︒ ただ

︑﹁ 跡式

﹂と いう 記載 が特 に気 に掛 かる

︒何 故 なら 重継 の嗣 子で ある 就継 は︑ しば らく 名前 を宗 像助 次郎 と名 乗る が︑ 後 に草 苅に 帰し 宗像 姓を 繋げ てい ない

︒こ れに つい て﹁ 大宮 司系 譜﹂ には

﹁就 継得 家督 也︑ 後本 姓帰 草刈

︑宗 像氏 貞血 脈之 末孫 連綿 而在 草苅 氏﹂24

あ る︒ つま り本 姓草 苅に 帰し たも のの

︑氏 貞の 血脈 は草 苅氏 にあ るこ とを 強 調し てい る︒ 確か に︑ 就継 は大 宮司 氏貞 の孫 にあ たり 血脈 は繋 がっ てい る が︑ 宗像 の姓 を名 乗ら ない こと に不 自然 さを 感じ る︒ しか し︑ この 様な 史 料的 制約 から

︑い まま で﹁ 宗像

﹂姓 を名 乗ら ない

﹁草 苅﹂ が跡 を継 いだ と 納得 せざ るを 得な かっ た︒ では

︑な ぜ宗 像大 宮司 家の 関係 者に 宛て た秀 吉文 書二 点が

︑細 川家 の家 臣で ある 肥後 宗像 家に 伝わ った のだ ろう か︒ さら に﹁ 大宮 司系 譜﹂ を見 て いく と氏 貞の 三女 が市 川与 七郎 に嫁 いで いる こと が理 解で きる

︒こ の箇 所 の記 載は 重要 なの で次 にあ げる

︵史 料五

25

  市川 与七 郎 女子

︵三 女︶   母同

︵臼 杵越 中守 鑑速 女︶ 氏貞 之後 室来 長州 之後

︑暫 住備 前国

︑于 時具 末女

︑備 前住 人嫁 市川 氏︑ 依之 市川 与七 郎改 宗像 清兵 衛︑ 子孫 在肥 後熊 本︑ 摂州 大坂

︑氏 貞後 室 又帰 長州 三隅 卒︑ 同所 了性 院建 石塔

︵括 弧内 の記 述と 傍線 部は 著者 に よる

内容 は︑ 氏貞 の後 室が 長州 に来 た後 にし ばら く備 前国 にお り︑ その 時は 末女

︑つ まり 氏貞 三女 を伴 って いた

︒こ の三 女が 備前 の住 人で ある 市川 氏 の与 七郎 に嫁 いだ とあ る︒ この 与七 郎が 宗像 清兵 衛と 名を 改め

︑そ の子 孫 は肥 後熊 本と 摂津 大坂 にい ると いう

︒こ こに

︑細 川忠 利の 重臣 であ る﹁ 宗 像清 兵衛

﹂の 名前 を見 るこ とが でき る︒ さら には 熊本 に住 んで いる と明 確 に記 載も ある

︒し かし

︑残 念な 事に ここ に書 かれ てい る﹁ 宗像 清兵 衛﹂ に つい ては

︑重 要人 物で ある にも 関わ らず

︑熊 本藩 の家 臣で ある とい う認 識 は今 まで 無か った ので ある

二︑

細川 家史 料﹁ 先祖 附﹂ にみ る肥 後宗 像家 と秀 吉文 今ま で研 究上 では 肥後 宗像 家と 宗像 大宮 司家 との 関係 は全 く触 れら れて こな かっ た︒ 前述 した よう に宗 像家 は細 川藩 士で あっ た事 から

︑多 くの 細 川家 史料 を所 持す る﹁ 永青 文庫

﹂の 中に ある

﹁先 祖附

﹂を みる こと にし よう

︵以 下︑

︵参 考資 料一

︶宗 像家

﹁先 祖附 A・ B﹂ 概要

・︵ 参考 資料 二︶ 肥後 宗像 家系 図︶ を参 照︶ 宗像 家の

﹁先 祖附

﹂は

﹁宗 像加 兵衛

︵二

〇〇 石︶

︵以 下﹁ 先祖 附A

﹂︶

﹂と

﹁宗 像三 右衛 門︵ 二〇

〇石

︶︵ 以下

﹁先 祖附 B﹂

︶﹂ と二 件あ り︑ 何れ も初 代が 前記 した 細川 忠利 の重 臣で 御国 之惣 奉行 であ った

﹁宗 像清 兵衛

﹂で ある

︒ それ ぞれ の﹁ 先祖 附﹂ の最 初の 部分 を上 げる

﹁先 祖附 A﹂ 初代 一宗 像清 兵衛 儀︑ 慶長 年中   三

斎様 御代 於豊 前被   召出

︑御 知行 三百

(12)

石被 為拝 領︑ 寛永 十三 年七 月四 日切 腹被   仰付 候︑ 如何 様之 訳ニ 而御 座候 哉相 知不 申候 二代 一宗 像嘉 兵衛 儀︑ 清兵 衛嫡 子ニ 而候

︑御 知行 弐百 石被 為拝 領相 勤居 申 候処

︑  妙

解院 様御 逝去 被遊 候砌 殉死 仕候 三代 一宗 像彦 四郎 儀︑ 寛永 十八 年八 月右 嘉兵 衛跡 目十 歳ニ 而被 為拝 領︑

︵中 略︶ 元禄 五年 御役 儀御 断申 上︑ 御番 方ニ 被  召加 置候 処︑ 同十 五年 八 月病 死仕 候︵ 以下 略︶ 宗像

清兵 衛は

︑慶 長年 中︑ 三斎

︵細 川忠 興︶ に豊 前国 にお いて 知行 三百 石で 仕え た︒ しか し寛 永十 三年

︵一 六三 六︶ 七月 四日 に切 腹を 仰せ 付け ら れて おり

︑そ の理 由は 不明 とす る︒ また

︑二 代目 の加 兵衛

︵﹁ 先祖 附A

﹂は

﹁嘉 兵衛

﹂と 記す が﹁ 加兵 衛﹂ とあ る史 料が 多く

︑煩 雑さ をな くす ため ここ で は﹁ 加兵 衛﹂ とす る︶ は︑ 清兵 衛の 嫡子 であ り︑ 知行 二百 石で 仕え てい た︒ この 加兵 衛は

︑妙 解院

︵細 川忠 利︶ の寛 永十 八年 の死 去に 伴い 殉死 して いる

︒ また

︑三 代目 の彦 四郎 が十 歳で 加兵 衛の 跡目 を継 いで いる こと がわ かる

︒ この

︑清 兵衛 は︑ 優秀 な人 物だ った よう で︑ 忠興 のも とで は田 川郡

・宇 佐郡 の奉 行な どを 務め

︑寛 永九 年︵ 一六 三二

︶︑ 細川 忠利 の肥 後転 封後 には

︑ 田中 兵庫 や牧 丞太 夫ら と共 に﹁ 御国 之惣 奉行

26

に命 じら れ︑ 郡奉 行・ 代 官以 下を 支配 した

︒職 務の 一つ とし て︑ 寛永 十年 一月 二十 三日 に田 中兵 庫 と共 に命 じら れた 戸籍 の一 種で ある

﹁人 畜改 帳﹂ 作成 を担 当し た

27

︒し

かし

︑清 兵衛 は同 十一 年十 二月 に罷 免さ れて いる

︒そ の後 に切 腹を 仰せ 付 けら れた

︒こ れに つい て﹃ 綿考 輯録

︵以 下﹃ 綿考

﹄︶

﹄で は︑

﹁宗 像清 兵衛 儀数 年不 届之 儀在 之ニ 付︑ 切腹 被  仰付 候﹂

﹁清 兵衛 先年 江戸 ニ而 無調 法 御座 候而 知行 半分 被  召上 候を 其後 御返 被下

︑其 上せ かれ とと もに も大 分 之御 知行 を被 下︑ 数年 之科 を被 成御 赦免 召仕

︑忝 段々 ニ而 御座 候処 を存 忘 申︑ 御奉 公之 仕様 不及 是非 候﹂28

記す

︒具 体的 な記 述で は無 いが

︑清 兵 衛は 江戸 にて 無調 法を おこ なっ たこ とに より

︑知 行を 半分 召し 上げ られ た が︑ その 後︑ 元の よう に知 行を 下さ れて いる

︒ま た︑ 悴と 共に 多く の知 行 を下 され て数 年の 科も 許さ れた

︒し かし

︑そ の御 恩に 報い るこ とを 忘れ 奉 公を 怠っ たと あり

︑こ のこ とを 切腹 の理 由と して いる

︒ 次に

﹁先 祖附 B﹂ をみ てみ よう

﹁先 祖附 B﹂ 一︑ 先祖 宗像 清兵 衛儀

︑慶 長年 中豊 前ニ 而 三斎 様御 代被   召出

︑御 知行 三百 石被 為拝 領候

︑於 当御 国  妙解 院様 御代

︑寛 永十 三年 七月 切腹 被  仰付 候︑ 如何 様之 訳ニ 而御 座 候哉 相知 不申 候︑ 其節 子共 四人 御座 候︑ 有難 御意 を以 何茂 早速 被召 出︑ 嫡子 宗像 加兵 衛・ 次男 吉大 夫御 知行 弐百 石充

︑三 男同 庄右 衛門 百五 拾 石被 為拝 領︑ 四男 同長 五郎 ハ御 中小 姓被   召出 候︑ 初代 一︑ 右清 兵衛 次男 宗像 吉大 夫儀

︑右 兄弟 四人 御奉 公相 勤居 申候 処︑ 寛 永十 八年 妙解 院様 御逝 去之 節︑ 加兵 衛・ 吉大 夫追 腹仕 候︑ 庄右 衛門

・長 五郎 儀

(13)

茂一 同ニ 奉願 候得 共︑ 真

院様 御留 被遊 候ニ 付︑ 両人 ハ相 残申 候︑ 庄右 衛門 儀其 後御 加増 三 百五 拾石 被為 拝領

︑御 次ニ 被召 仕︑ 御指 物御 預被 成候

︑ 真源 院様 御逝 去之 節追 腹仕 候︑ 忰無 御座 断絶 仕候

︑右 長五 郎儀 御中 小 姓ニ 而相 勤居 申候 処︑ 御知 行弐 百石 被為 拝領 候︑ 無程 病気 ニ罷 成申 候 付御 知行 差上

︑京 都ニ 罷登

︑御 扶持 被為 拝領 居申 候処 病死 仕候

︵以 下略

︶ 二代 一 目 高祖 父宗 像八 助儀

︑実 者右 加兵 衛次 男ニ 而御 座候

︑吉 大夫 追腹 仕候 砌実 子無 御座

︑寛 永十 八年 八月 養子 ニ被   仰付

︑三 歳ニ 而吉 大夫 跡式 被為 拝領

︑御 番方 被  召加 候︑

︵中 略︶ 同︵ 元禄

︶八 年病 気ニ 罷成 御 役儀 御断 申上 候処

︑如 願被 成御 免︑ 同年 五月 御番 方被 召加 候︑ 同年 六 月病 死仕 候︵ 以下 略︶ この

﹁先 祖附 B﹂ は︑ より 詳細 で︑ 前出 の﹁ 先祖 附A

﹂に 清兵 衛の 嫡子 は加

︵嘉

︶兵 衛だ け書 かれ てい ると ころ に︑ 子供 が四 人い たこ とが 明確 に され てい る︒ また

︑清 兵衛 切腹 後に

︑﹁ 有難 御意

﹂を 以て

︑嫡 子加 兵衛 と 次男 吉大 夫に 知行 を二 百石

︑三 男庄 右衛 門は 百五 十石 を拝 領さ れて おり

︑ また

︑四 男長 五郎 には 御中 小姓 で召 し出 され たこ とが 理解 でき る

29

﹁大 宮司 系譜

﹂に よれ ば︑ 清兵 衛は 宗像 氏貞 の三 女を 娶っ てい るこ とか ら︑ 清兵 衛の 子で ある 加兵 衛・ 吉大 夫・ 庄右 衛門

・長 五郎 の四 人が

︑実 は大 宮 司宗 像氏 貞の 孫な ので ある

︒つ まり

︑以 前は

︑大 宮司 関係 の文 書を 引き 継 いだ 草苅 家の みが

﹁宗 像﹂ の跡 を継 いだ とさ れて いた

︒そ れは

︑あ くま で

大宮 司関 係の 文書 を引 き継 いだ ので あっ て︑ それ を﹁ 跡式

﹂と

﹁大 宮司 系 譜﹂ に記 して いる

︒実 は﹁ 宗像

﹂の 姓と 血脈

︑つ まり

﹁名 跡﹂ を繋 げた の は肥 後宗 像家 であ った

︒よ って

︑本 稿で は︑ 大宮 司の

﹁跡 式﹂ は草 苅家

﹁名 跡﹂ は肥 後宗 像家 と分 けて 考え たい

︒ さら に﹁ 先祖 附B

﹂を みて みる と︑ 初代 は清 兵衛 次男 の吉 大夫 とあ り︑ よっ て﹁ 先祖 附A

﹂は 清兵 衛長 男の 加兵 衛︑

﹁先 祖付 B﹂ は次 男吉 大夫 の系 列 であ るこ とが 理解 でき る︒ なお

︑今 回の 秀吉 文書 二点 は︑

﹁先 祖附 A﹂

︑つ まり 清兵 衛嫡 子の 加兵 衛 の家 に伝 来し てい るが

︑こ の理 由は 後述 する

︒ ただ し︑

﹁先 祖附 B﹂ の記 述は 詳細 で︑ 寛永 十八 年の 細川 忠利

︵妙 解院

︶ の死 去に 伴う 殉死 につ いて は︑ 長男 の加 兵衛 だけ では なく

︑次 男の 吉大 夫 も殉 死し たこ とが 書か れて いる

︒ま た︑ 残る 庄右 衛門

︵﹁ 先祖 附B

﹂は

﹁庄 右衛 門﹂ とす るが

︑以 下本 稿で はそ の他 の史 料で 多く みら れる

﹁少 右衛 門﹂ とす る︶ と長 五郎 も殉 死を 願い 出た が︑ 忠利 の次 の藩 主で ある 光尚

︵真 源 院︶ より 慰留 され たこ とや

︑そ の後

︑少 右衛 門は 加増 され 三百 五十 石を 拝 領し た記 述も ある

︒さ らに は︑ 少右 衛門 が光 尚死 去に 伴い 殉死 をし てお り︑ 悴が いな かっ たこ とか ら︑ その 家は 断絶 した とも ある

︒な お︑ 四男 長五 郎 は︑ 一旦 は二 百石 を拝 領さ れる が︑ 病気 によ り知 行を 差し 上げ

︑京 都に 登 り扶 持を 拝領 して 隠棲 し︑ その 後病 死し たこ とが 理解 でき る︒ よっ て︑ 清 兵衛 の子 供四 人︑ 則ち 宗像 氏貞 孫は

︑三 人が 殉死

︑一 人が 京で 病死 した の であ る︒

﹁先 祖附 B﹂ によ れば

︑忠 利に 殉じ た次 男吉 大夫 の後 は︑ 長男 加兵 衛次

(14)
(15)
(16)
(17)

男の 八助 が三 歳に て継 いで おり

︑吉 大夫 の家 系も 長男 加兵 衛の 家系 とな る︒ ここ に︑ 宗像 の姓 と血 脈は 受け 継が れる こと にな った

三︑

宗像 家﹁ 先祖 附﹂ にあ る﹁ 付紙

﹂の 記述 この 様に

︑細 川家 に残 る宗 像家 の﹁ 先祖 附﹂ を見 てみ ても 豊臣 秀吉 関連 文書 だけ では なく

︑大 宮司 宗像 氏貞 関係 の記 述す ら見 るこ とは 出来 ない

︒ 先祖 が秀 吉か ら文 書を 発給 され たこ とは 自家 の在 り方 を示 すた めに

﹁先 祖 附﹂ 等の 由緒 書き には 良く 書か れる こと があ る︒ 例え ば同 じ細 川藩 士で あっ た大 矢野 氏︵ 二百 石︶ の﹁ 先祖 附﹂ には

︑﹁ 先祖 大矢 野民 部太 輔儀

︑天 草 居住 仕候

︑天 正十 五年

︑秀 吉公 ゟ本 領被 宛行

︑羽 柴陸 奥守 与力 ニ罷 也申 候﹂ とあ り秀 吉か ら本 領を 拝領 され たこ とを 明確 に記 す︒ しか し︑ この 二つ の 宗像 家﹁ 先祖 附﹂ は︑ 単に 宗像 清兵 衛か ら書 き始 めら れて おり

︑そ の内 容 から は到 底︑ 大宮 司氏 貞と の関 係は 今ま で想 像す ら出 来な かっ たの であ る︒ とこ ろが

︑﹁ 先祖 附B

﹂を 詳細 にみ てい くと

︑本 文の 他に 明ら かな 異筆 で﹁ 付紙

﹂が あり 次の 様に 書か れて いた

︒か なり 重要 な情 報が ある ので 全 文を 掲載 する

︵史 料六

︶ 宗像 清兵 衛儀

︑実 ハ毛 利家 之長 臣市 川少

輔七 郎子 にて

︑宗 像之 養子 ト シテ 大宮 司家 ヲ相 続ス

︑然 レト モ騒 乱ニ テ家 族モ 絶︑ 宗像 ニテ 身ヲ 立 ル事 ナラ ス︑ 筑前 小早 川殿 幕下 ニ勤 仕ス

︑隆 景ノ 一字 ヲ賜 ハリ 景延 ト 称ス

︑金

吾中 納言 殿関 原之 功ニ 依テ 備前 ニ国 替ア リ︑ 秀秋 死後 彼家 断 絶ス

︑景 延西 国ニ 帰リ

︑慶 長年 中豊 前ニ 於テ 松井 佐

殿之 取持 ヲ以

(18)

三百 石ニ テ忠

公ニ 勤仕 ス︑ 御馬 廻一 番三 渕内 匠組 ナリ

︑甲 川郡

・宇 佐郡 ノ奉 行ナ ト勤 ム︑ 当国 ニテ モ益 城郡 頭ヲ 勤ム ル内

︑何 トナ ク切 腹 被仰 付︑ 妙

解院 様御 代也

︑奉 行田 中兵 庫ヲ 以被 仰渡 候ハ

︑清 兵衛 儀ハ 今度 切腹 被仰 付︑ 子供 之事 ハ心 ニ懸 申間 敷候

︑御 前ニ 御存 知可 被遊 旨 御懇 之御 意な り︑ 如何 様之 訳ト 云事 不知

︑世 上之 浮説 ハ区 々也

︑其 節 子供 四人

︑一 同ニ 被召 出︑ 下略 右宗 像家 系譜 ヨリ 抜書 ここ

には

︑前 述の 二つ の﹁ 先祖 附﹂ には 全く 記さ れて いな い内 容が 書か れて いた

︒奥 に﹁ 右宗 像家 系譜 ヨリ 抜書

﹂と ある こと から

︑﹁ 宗像 家系 譜﹂ の存 在が 理解 でき るが

︑そ れに つい ては 不詳 であ る︒ ただ

︑こ の﹁ 付紙

﹂ は︑

﹁先 祖附 B﹂ にあ った が︑ 異筆 であ るこ とか ら細 川家 が各 家に

﹁先 祖附

﹂ を提 出さ せた とき に︑ たま たま 整理 の段 階で

︑メ モ代 わり に挿 入し た可 能 性や

︑﹁ 先祖 附A

﹂に 入っ てい たも のが

︑抜 け落 ち﹁ 先祖 附B

﹂に 加え ら れた こと も想 定で きる

︒し かし

︑ど の様 な経 緯が あろ うと

︑こ の﹁ 付紙

﹂は

︑ 肥後 宗像 家に 関し て重 要な 内容 であ るこ とは 疑い ない

︒た だ︑ 今回 の秀 吉 文書 の発 見が ある まで は︑ 研究 上︑ 見方 によ って は根 拠の ない 荒唐 無稽 な 史料 のよ うに 扱わ れて いた のか も知 れな い︒ この

﹁付 紙﹂ には

︑次 の五 点が 確認 でき る︒

①宗 像清 兵衛 は毛 利家 の長 臣で ある 市川 少輔 七郎 の子 で︑ 宗像 の養 子と して 大宮 司家 を相 続し たこ と が明 確に 書か れて いる

︒た だし

︑大 宮司 家の 相続 につ いて は現 段階 では 不 明と した い︒

②騒 乱に て家 族も 絶え

︑宗 像に おい て身 を立 てる こと もな ら

(19)

ず︑ 筑前 にて 小早 川隆 景に 仕え

︑そ の時 に隆 景の 一字 を賜 り諱 を﹁ 景延

﹂ とし た︒

③そ の後

︑秀 秋︵ 金吾 中納 言︶ に仕 え︑ 関ヶ 原の 功に よる 備前 国 の国 替え に伴 い︑ その 後︑ 秀秋 死去 によ り小 早川 家が 断絶 した ため

︑西 国

︵九 州︶ に帰 った こと

︒④ 慶長 年中

︑豊 前国 にて 松井 康之

︵佐 渡殿

︶の 取 り持 ちを もっ て三 百石 で細 川忠 興に 仕え

︑田 川郡 や宇 佐郡 の奉 行を 勤め た こと

︒な お︑ 細川 氏は

︑慶 長五 年︵ 一六

〇〇

︶に 関ヶ 原の 功に より 丹後 国 十二 万石 から 豊前 国に 約三 十四 万石 に国 替え され るこ とに より 加増 され て おり

︑③ の秀 秋死 去に よる 小早 川家 の断 絶が 慶長 七年

︵一 六〇 二︶ であ る こと を考 慮に 入れ るな ら︑ その 後に この 仕官 は行 われ たも ので ある

︒⑤ 肥 後国 にて 益城 郡頭 を務 めた が︑ 理由 不明 で切 腹を 仰せ 付け られ た︒ ここ で 益城 郡頭 とは 郡奉 行の こと であ ろう が︑ 清兵 衛は 入国 直後 の寛 永十 年︵ 一 六三 二︶ に﹁ 御国 之惣 奉行

﹂と なっ てい る︒ また 忠利 は︑ 切腹 に際 して

︑ 清兵 衛と 同じ く御 国之 惣奉 行で あっ た田 中兵 庫を 使い とし て︑ 子供 たち の 事は 心配 しな くて 良い

︑忠 利︵ 御前

︶が 理解 して 懇意 を示 して いる と伝 え てい る︒ その 時に

︑四 人の 子供 は一 同に 召し 出さ れた とあ る︒ この

﹁付 紙﹂ と﹁ 大宮 司系 譜﹂ によ り︑ 大宮 司宗 像氏 貞と 宗像 清兵 衛の つな がり が明 確と なっ たの であ る︒

﹁付 紙﹂ にあ るよ うに 清兵 衛の 親は 毛 利家 の長 臣で ある 市川 少輔 七郎 とし てい る点 は興 味深 いが

︑清 兵衛 の元 の 名で あり

﹁大 宮司 系譜

﹂に も記 載さ れた 市川 与七 郎に つい ては ここ には み るこ とが 出来 ない

︒ なお

︑清 兵衛 の親 であ る少 輔七 郎と は︑ 市川 元教 のこ とで あろ う︒ 元教 は︑ 毛利 家の 重臣 で毛 利元 就・ 隆元 など に仕 えた 経好

︵も と吉 川︶ の嫡 男

であ った が︑ 市川 家の 敵方 であ った 大友 氏に 与し たた め討 たれ てい る︒ な お︑ その ため 次男 の元 好が 経好 の跡 を継 いで いる

30

︒こ のた め︑

﹁先 祖附

﹂ の本 文中 には 市川 氏と の関 係を 記す こと を憚 られ たの であ ろう

︒ 二種 類の

﹁先 祖附

﹂と

﹁大 宮司 系譜

﹂に より

︑毛 利家 重臣 であ る市 川氏 の元 嫡男 の子 であ る与 七郎 が︑ 一旦 は小 早川 隆景

・秀 秋に 仕え てい るこ と や︑ 大宮 司宗 像氏 貞の 三女 を娶 り︑ 宗像 清兵 衛と 改名 し肥 後宗 像家 祖と な り氏 貞の

﹁名 跡﹂ と﹁ 血脈

﹂を 繋げ たこ とは 理解 でき た︒ しか し︑ 今回 発 見さ れた 肥後 宗像 家に 伝来 の豊 臣秀 吉文 書に つい て関 係性 は一 切窺 うこ と がで きな い︒ また

︑当 然に 宛所 の﹁ 宗像 才鶴

﹂に つい ての 記述 もみ るこ と が出 来な い︒ 四︑

細川 家記

﹃綿 考輯 録﹄ にみ る宗 像家 二種 類の 宗像 家﹁ 先祖 附﹂ によ り︑ 宗像 清兵 衛の 四人 の兄 弟は

︑長 男加 兵衛

・次 男吉 大夫 は藩 主細 川忠 利の 死去 によ り殉 死し てい るこ とが 判明 し た︒ また

︑三 男少 右衛 門は その 嗣子 光尚 に殉 じて いる など

︑そ の概 要は 理 解で きる

︒こ の時

︑殉 死の 家で あれ ば︑ 当然 に細 川家 の家 記︵

﹃綿 考﹄

︶に 記載 され てい ると 考え 該当 箇所 を調 べて みる こと にし た︒

﹃綿 考﹄ によ れば

︑寛 永十 八年

︵一 六四 一︶ 三月 十七 日の 忠利 の死 去に 伴い 十九 人の 殉死 があ った

︒こ こに 加兵 衛と 吉大 夫の 名前 をみ るこ とが 出 来る

︒な お︑ この 時は 後に 森鴎 外の 小説

﹃阿 部一 族﹄ のモ デル とな る阿 部 弥一 右衛 門も 殉死 をし てい る︒

﹃綿 考﹄ では

︑忠 利の 殉死 者に つい て個 別 にそ の経 歴を 掲載 して いる

︒こ の中 で︑ 加兵 衛と 吉大 夫は それ ぞれ 別項 目

(20)

によ り取 り上 げら れて いる

︒ その 加兵 衛の 箇所 に﹁ 加兵 衛ハ 宗像 大宮 司嫡 流正 三位 中納 言宗 像氏 貞之 子孫 也︵ 割注 宗像 之系 図・ 秀吉 公之 感状

・御 朱印 等同 称内 蔵助 家ニ 伝来

︑ 内蔵 助は 少右 衛門 か子 孫な り︶

31

あり

︑加 兵衛 は宗 像大 宮司 氏貞 の子 孫で あり

︑肥 後宗 像家 が秀 吉の 感状 と朱 印状 を所 持し てい るこ とが 明記 さ れて いる

︒つ まり

︑細 川藩 は加 兵衛 が氏 貞の 子孫 であ ると いう 認識 のも と に殉 死を 認め てい るの であ る︒ ここ に︑ 断絶 して いた と思 われ てい た宗 像大 社大 宮司 家の 子孫 が肥 後宗 像氏 であ るこ とが 決定 的と なり

︑秀 吉文 書を 二点 所持 して いる 理由 が明 確 とな った

︒ なお

︑こ こで 宗像 の系 図と 秀吉 文書 を受 け継 いだ 内蔵 助は

︑﹁ 先祖 附A

・ B﹂ には 記載 が無 いが

︑﹃ 綿考

﹄に は︑ 清兵 衛の 三男 の少 右衛 門の 子孫 で︑ 寛永 十年 九月 朔日 付宗 像助 四郎

︵少 右衛 門の 始め の名

︶宛 ての 御書 出を 所 持し てい ると ある

32

︒少 右衛 門が 知行 百五 拾石 を拝 領し たの は﹁ 先祖 附﹂ にも 見え るが

︑﹃ 綿考

﹄の 記載 に従 えば

︑清 兵衛 の存 命の 時に

︑少 右衛 門 は百 五十 石を 与え られ たこ とに なる

︒つ まり

︑﹃ 綿考

﹄が 記述 され た段 階 では

︑秀 吉文 書は 三男 少右 衛門 の跡 を︑ つま り﹁ 宗像

﹂の 名跡 を繋 げた 内 蔵助 が所 持し てい た︒ 少右 衛門 は︑ 寛永 二十 年︵ 一六 四三

︶三 月に 二百 石 の加 増を 受け 都合 三百 五十 石と なる ので ある が︑ この 御書 出も 内蔵 助が 所 持し てい ると いう

︒た だ︑

﹁先 祖附 B﹂ には

︑庄

︵少

︶右 衛門 は﹁ 悴無 御 座断 絶仕 候﹂ とあ り︑

﹃綿 考﹄ にあ る﹁ 少右 衛門 か子 孫内 蔵助

﹂と は矛 盾 する よう に思 える が︑

﹁先 祖附 B﹂ にあ る断 絶し た少 右衛 門関 係の 文書 は

内蔵 助に 受け 継が れて いる ので ある

︒し かし

︑後 に詳 述す るが

︑実 は内 蔵 助は 清兵 衛の 四男 つま り長 五郎 の子 孫で

︑少 右衛 門の 殉死 後は

︑悴 がい な かっ たこ とか ら少 右衛 門の 関係 文書 は長 五郎 が引 き継 ぎ︑ その 系譜 が宗 像 家に 関す る重 要文 書︑ 特に 秀吉 文書 を所 有し てい たの であ る︒ よっ て︑ 今回 発見 され た宗 像才 鶴宛 ての 秀吉 文書 は︑ 寛永 十八 年︵ 一六 四一

︶の 忠利 死去 によ る長 男加 兵衛

・次 男吉 大夫 の殉 死の 時点 で︑ 三男 少 右衛 門に 受け 継が れ︑ 次の 慶安 二年

︵一 六四 九︶ の光 尚死 去に よる 少右 衛 門殉 死の 際に 四男 の長 五郎 に託 され たの であ ろう

︒そ の理 由と して は︑ 寛 永十 八年 段階 で︑ 殉死 した 長男 加兵 衛の 跡目 であ る彦 四郎 は十 歳で

︑次 男 吉大 夫の 跡目 八助 は僅 か三 歳で ある

︒し かも

︑八 助は 加兵 衛の 次男 で吉 大 夫の 養子 であ る︒ つま り︑ 長男 と次 男が 忠利 に殉 死し た時 に︑ 秀吉 関係 文 書は 嫡男 と次 男の 家の 跡目 とな る者 が幼 少で ある こと から

︑残 る三 男の 少 右衛 門が 引き 継い だ︒ また

︑少 右衛 門が 殉死 の際 に子 供が いな いこ とか ら︑ 弟の 長五 郎に 託さ れた ので ある

︒ この よう な理 由か ら︑ 前述 の﹃ 綿考

﹄に ある

﹁宗 像之 系図

・秀 吉公 之感 状・ 御朱 印等 同称 内蔵 助家 ニ伝 来﹂ とい う部 分は

︑こ の﹃ 綿考

﹄の 内容 が 記述 され た時 点で は宗 像清 兵衛 の四 男で ある 長五 郎の 子孫 内蔵 助の 所有 で あっ たと いえ る︒ なお

︑こ の﹃ 綿考

﹄に

︑長 男加 兵衛

・次 男吉 大夫 の殉 死の 内容 が記 述さ れた 時期 は︑ 殉死 の面 々の 部分 に︑ 加兵 衛の 子孫 であ る加 一郎 景知 が寛 政 八年

︵一 七九 六︶ に家 督を 継ぐ とこ ろま での 記載 があ るこ とや

︑吉 大夫 の 子孫 で八 助景 当が 同六 年︵ 一七 九四

︶に 御中 小姓 を仰 せつ けら れた 記述 が

(21)

ある こと から

︑寛 政年 間で あろ う︒ つま り︑ 宗像 才鶴 宛て の秀 吉文 書は

︑ 少な くと も︑ この 頃ま では 四男 の長 五郎 の子 孫︑ つま り内 蔵助 が所 持し て いた ので ある

第 三 章   宗 像 清 兵 衛 と そ の 系 譜

一︑

長男 加兵 衛・ 次男 吉大 夫の 殉死 前述 した よう に清 兵衛 には 大宮 司宗 像氏 貞の 血脈 を受 け継 ぐ四 人の 男子 がお り︑ 長男 加兵 衛と 次男 吉大 夫は

︑藩 主細 川忠 利に 殉じ た︒ 二人 が殉 死 した こと によ り︑ 改め て宗 像家 が細 川藩 に認 識さ れて いる

︒こ の時 の状 況 を次 に述 べて みた い︒

﹃綿 考﹄33

よれ ば︑ 加兵 衛と 吉大 夫は

︑忠 利の 死去 に伴 い︑ 寛永 十八 年︵ 一六 四一

︶五 月二 日に 殉死 する

︒ 加兵 衛が 殉死 する 際に

︑三 人の 弟︑ 吉大 夫・ 少右 衛門

・長 五郎 も殉 死を 願い 出た とこ ろ︑ 江戸 在府 の光 尚よ り殉 死を 思い 留め るよ うに 御意 があ っ た︒ それ をお 請け した が︑ 死去 した 忠利 の大 恩は 誰か が存 生で ある なら 報 いが たい

︑し かし

︑光 尚の 御意 を背 くこ とも 出来 ない

︒そ こで 兄弟 四人 で 話し 合っ て︑ 上の 兄二 人は 殉死 し︑ 弟の 二人 は光 尚に 奉公 する と決 めた

︒ しか し︑ 弟た ちは なか なか 承引 しな かっ たの で︑ 色々 諭し て誓 詞を 書か せ た︒ また 殉死 する 加兵 衛・ 吉大 夫の 二人 は遺 書を 書き

︑弟 たち の誓 詞を 添 えて 家老 たち に差 し出 した

︒ 殉死 の翌 日の 五月 三日

︑細 川家 にお ける 歴戦 の勇 者で ある 沢村 大学 が︑

家老 の松 井・ 有吉

・米 田ら にこ の内 容を 伝え てい る︒ その 書状 に﹁ 不及 申 候得 共母 残ル 子共 二人 之儀 御心 を被 付︑   御前 之儀 可然 様ニ 御取 成候 而被 遣可 被下 候︑ 拙者 別而 親清 兵衛 より 如在 無御 座候 ニ付 如是 申入 候︑ 各様 へ 右之 通申 上候 由︑ 母子 共へ も只 今使 者を 遣申 事ニ 御さ 候﹂ と認 めて いる

︒ ここ で︑ 大学 は︑ 御前

︵光 尚︶ が残 る母 子に 対し 気遣 いを して おり

︑そ の取 り成 しが ある でし ょう

︒大 学自 身に おい ても 親の 清兵 衛以 来か ら親 し くし てお りこ のよ うに 申し 入れ まし た︒ 家老 衆︵ 各様

︶へ

︑こ の様 に申 し 上げ てお りま すの で︑ この 内容 を母 子ど もへ も今 使者 を遣 わし ます と述 べ てい る︒ つま り︑ この 書状 の中 で︑ 大学 は残 る清 兵衛 の三 男少 右衛 門・ 四男 長五 郎と 母ら に対 し新 藩主 であ る光 尚の 取り なし を伝 えて いる

︒こ こに ある

︑ 清兵 衛の 子供 とは 宗像 氏貞 の孫 で︑ 母は 氏貞 の三 女で ある

︒お そら く大 学 は︑ 自身 の清 兵衛 との 関係 を強 調す るこ とに より

︑後 に残 る宗 像一 族の 奉 公に つい て家 老衆 へ伝 えた かっ たの では ない だろ うか

︒ これ に対 して

︑同 日︑ 家老 衆は 大学 宛て の連 署書 状に て︑

﹁就 夫清 兵衛 以来 貴殿 御目 懸候 間︑ 残ル 兄弟 母之 議︑   肥後 様御 前可 然様 ニと 被仰 越︑ 得其 意申 候﹂ と清 兵衛 との 関係 を意 識し なが ら了 承し てい るこ とが わか る︒ この 様に 記述 を進 める 中で

﹃綿 考﹄ の筆 者は

﹁加 兵衛 ハ宗 像大 宮司 嫡流 正三 位中 納言 宗像 氏貞 之子 孫也

︵割 注 宗像 之系 図・ 秀吉 公之 感状

・御 朱 印等 同称 内蔵 助家 ニ伝 来︑ 内蔵 助は 少右 衛門 か子 孫な り︶

﹂と 殉死 の二 人が

︑ 氏貞 の子 孫で あり

︑こ の家 が秀 吉の 判物

︵感 状︶ と朱 印状 を所 持し てい る こと を明 記し たの であ る︒

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