『正法眼蔵』における「間主観性」─道元を比較哲 学者として読む─
著者 ゲレオン コプフ
著者別名 Gereon KOPF
雑誌名 国際禅研究
号 4
ページ 27‑46
発行年 2019‑12
URL http://doi.org/10.34428/00012056
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
1 )序文
2015年の“When all dharmas are the Buddha-dharma”および2018年の
「言語と言語の間で考えられる哲学者」という論文で、筆者は道元禅師を 比較哲学者として読むことについて論じた。本稿では、道元の『正法眼蔵』
に対して、彼の歴史的文脈において哲学的な作品として読み、脱文脈化、
再文脈化することによって哲学ディスクールのなかで展開されている幾つ かの概念を適用する方法について提案したい。つまり、道元の作品のなか に「間主観性」という概念を探求しようと考えている。
もちろん、「間主観性」という用語は、仏教の伝統の枠外で作られたも のであり、道元の世界とは異質なものである。良く知られているように、「間 主観性」という用語を最初に使用した人物はドイツの哲学者エトムント・
フッサール(Edmund Husserl、1859-1938)である。この「間主観性」と いう言葉を、道元が『正法眼蔵』の中で展開させた概念に適用すると、道 元の思想のある一面をより良く理解することに役立つ。同時に、道元が人 間と人間の関係をどのように記述したかを確認することによって、「間主 観性」という概念を再考し、それをより深く理解することが可能になるの である。別の論文で述べたように、「哲学の実行は作家の立場と読者の立
『正法眼蔵』における「間主観性」
─道元を比較哲学者として読む─
ゲレオン・コプフ
**Gereon KOPF Professor of Religion, Chair of the Deparment of Religion, Luther College; Adjunct Professor of Theology and Religious Studies, University of Iceland; Visiting Researcher at the International Research Center for Philosophy, Tōyō University.
場との地平融合によって、概念を本来の文化的な文脈から脱文脈化し、新 しい文脈に再文脈化することによって、新しい意味を創造することになる」
(Kopf 2018)のである。つまり、筆者はまず自身の解釈の方法論と用語を 紹介し、次に、禅宗に焦点をあてて仏教の伝統と道元の『正法眼蔵』の中 に「間主観性」という概念で表現しうる現象を探求する。そして最後に、
道元の思想が現代哲学に対してどういう意味を持ちうるかについて論じよ うと思う。
1 . 1 .比較哲学者としての道元
本稿では、道元の作品の哲学的な部分については議論しない。それにつ いてはトマス・カスリス(1985年)、レイン・ラウド(2013年)、ケビン・
スキルブラック(2000年)、筆者(2015年)が既に考察している。その代 わりに、道元の『正法眼蔵』を比較哲学のモデルとして使用し、『正法眼蔵』
を読んでみよう。筆者は次のように以前の論文で指摘した。
Who is a comparative philosopher if not the author who interprets Indian texts for a Japanese audience using a heuristic device borrowed from Chinese Buddhist scriptures. As Raud observes Dōgen’s “is a philosophy that transcends the boundaries of the tradition.” However, as important as Dōgen’s function as a role model for comparative philosophers is, is the fact that his philosophy provides the blueprint for comparative philosophy. The creativity of the interpretations that give rise to Dōgen’s unique thoughts and ideas is his use, or one might say, exploitation of the ambiguity of language. (Kopf 2015, 155)
具体的に言えば、「仏性」の巻では、道元禅師は、中国で書かれた『六 祖壇経』と『続伝灯録』を読むに際して、インドで書かれた『大般涅槃経』
を自分が生きていた時代の文脈の中で解釈した。そのテキストの利用を通
して、道元は「有」「無」「空」「無常」という四組の概念を適用し、鎌倉 時代の仏教を特徴づける概念の一つである「仏性」について再考し、ある 意味で脱構築する。そうして、道元は仏教の形而上学と救済論の中核をな すこの概念について、新たな理解を導き出した。筆者は、道元の優れた解 釈学的・哲学的創造性にどうしても達することができないでいるが、彼の 解釈学的方法を利用したいと考えている。大陸哲学から借用した概念を用 いることによって『正法眼蔵』で道元が展開した思想について、現代に適 合した解釈を提示したいと思う。特に筆者は、道元の立場に立つことで、「間 主観性」という概念の再構築が「意識」「倫理」、更には「哲学」の理解を いかに変更しうるかという点について考察したい。
1 . 2 .論文の方法
このような目的を果たすため、筆者は先に触れた「When all dharmas are the Buddha-dharma」という論文で提案した方法を利用したいと思う。
この論文では、道元研究の 4 つの原則を提示した。筆者は、道元の著作 を読む方法は様々でありうると認識してはいたものの、道元の著作と思想 を解釈するに際して、自分自身がいかなる方法を採るのかを明確にしたい と思ったからである。
To clarify my method of inquiry, I would like to propose four principles of Dōgen Studies: 1) Awareness of one’s own hermeneutical horizon and methodological prejudice; 2) identification of the referent we imagine when we employ the signifiers “Dōgen” and the “Shōbōgenzō”; 3)
encounter with Dōgen “on his own turf” and an appreciation of “his standpoint and horizon”; 4) forthrightness about the role a particular interpretation plays in today’s scholarship and landscape of ideologies.
(Kopf 2015, 141-2)
『正法眼蔵』を理解しようとする時、研究者が自分の立場や世界観を限 定する地平を意識することが重要だと考える。客観的かつ中立的な立場は 存在しない。私たちは主観を避けることができないので、自分の前提につ いて正直であることが重要である。
In short, “ I read the Shōbōgenzō at the beginning of the 21st century as a philosopher who is familiar with the Japanese Zen Buddhist tradition, has some background in religious studies, and who has experienced contemporary forms of Zen Buddhism in most East Asian cultures and in the U.S.A.” (Kopf 2015, 141-2).
要するに、「筆者は、日本にある禅宗の伝統を学習し、宗教学を勉強し、
ほぼ全ての東アジア文化圏と米国における禅宗の現代的な形を経験した、
アメリカ、日本、そして香港に居住経験のあるドイツ人の宗教哲学者とし て、『正法眼蔵』を21世紀初頭に解釈する」(Kopf 2015、141-2)というこ となのである。それに加えて、「道元」と「彼の作品」がどのような意味 を持つかを明確にすることも重要である。例えば、歴史的研究を究めるこ とは大切ではあるが、「歴史的道元」の生活と思考を完全的に再構築する ことはできない。現に、ウィリアム・ボディフォード(2012年)は、どの テキストを道元の著作とするのかをある程度の自信をもって確定すること は困難であると指摘している。このような視点から、本稿において『正法 眼蔵』という言葉で筆者が意味するのは、大久保道舟によって編集された
『道元禅師全集』であることを断っておこう。筆者は、以下において、鎌 倉時代の歴史的文脈と道元の人生とを検討した上で、歴史学者と文献学者 の研究成果に基づいて、大久保が収集した『道元禅師全集』を解釈してゆ きたい。このテキストを読解する理由は、これが現代の我々にとってどの ような意味を持ち続けうるかを考察したいからである。
1 . 3 .「間主観性」ということ
本稿において、道元の『正法眼蔵』の観点から解明しようとする概念は
「間主観性」である。フッサールはこの用語を彼の現象学の中で構築した。
良く知られるように、現象学は、人間が持つすべての仮定と予断を取り除 いて意識の構造を明らかにする哲学的方法である。とすると、それは多く の仏教徒、特にヨーガチャーラ、つまり瑜伽行派の伝統的な仏教思想家に よって用いられてきた瞑想的方法やディスクール的方法とそれほど異なる わけではない。しかし、世親と同じように、フッサールは意識に表れる現 象にしか注目しようとしないと見なされたため、理想主義や唯我論的な主 張だとされた。だが実際には、それとは逆に、フッサールは本質的な「間 主観性」、言い換えれば個人と個人の間にある関係を示唆することによっ て、こうした理想主義を突き崩そうと意図したのであり、彼はそういう個 人と個人との関係を「間主観性」と呼んだ。彼は次のように説明する。
[T]he intrinsically first other (the first “non-Ego”) is the other Ego. And the other Ego makes constitutionally possible a new infinite domain of what is “other”: an Objective Nature and a whole Objective world, to which all other Egos and I myself belong. This constitution, arising on the basis of the “pure” others (the other Egos who as yet have no worldly sense), is essentially such that the “others”-for-me do not remain isolated;
on the contrary, an Ego-community, which includes me, becomes constituted (in my sphere of ownness, naturally) as a community of Egos existing with each other and for each other–– ultimately a community of monads, which, moreover, (in its communalized intentionality) constitutes the one identical world. (Husserl 1999, 107)
ここで、フッサールは、理想主義と独我論を避けるために、個人と個人 との関係を仮定し、次いで個人的なエゴが含まれるコミュニティを想定し
ようとする。しかし、彼の方法論的な前提によって、この自我の共同体は、
フッサールにおいては、個人的な自己の経験で構成されてしまう。この引 用は、フッサール哲学の基本的な問題を明らかにする。彼は共同体によっ て共有される現実を措定したいと考えるが、彼の哲学的な観点から、自分 自身の経験と思考の領域外に現実を措定することはできないと考える。こ の問題を解決するために道元の洞察が助けになると筆者は確信している。
1 . 4 .どのように道元を比較哲学者として読むか
フッサールの「意識」に対する理解は、本質的な概念体系に基づいてい る。上に引用したフッサールの文章は、ライプニッツが唱え出した「モナ ド」を思い起こさせる。「モナド」とは本質的な個存在を指し、「本質主義」
とは、因果を超えた独立不変の存在であるということを意味する。道元は、
多くの大乗仏教の思想家のように、この信念を拒否する。しかし、彼は反 本質主義を主張するのではなく、むしろ非本質主義を取った。反本質主義 的立場から見れば、道元の言葉を用いると、「仏性」という概念に「無仏性」
という概念を置き換えればよい。しかし、道元は「仏性」と「無仏性」と いう複雑なあいまいさを残したまま、先に論じたように、「仏性」を同時 に「有仏性」「無仏性」「空仏性」、そして「無常仏性」として理解する。
ここから筆者は、そういう立場を「非本質主義的」と呼ぶ。
[E]ssentialism is based on the notion of causally independent substances.
It confronts the philosopher with the decision between a monism à la Spinoza and an atomism à la Leibniz. At the same time, essentialism implies a static world without interactions as it was envisioned, in albeit radically different ways, by Parmenides (6th / 5th centuries B. C. E.) and Leibniz. Non-essentialism, on the other hand, presupposes the rejection of essentialism as it was suggested by various Mahāyāna Buddhist versions of “the way of emptiness” (śūnyatāvāda) ... It implies a dynamic world,
which unfolds in the dialectic of the totality of the One and its individual expressions … It goes without saying that one’s understanding of the self, nations, and the world depends significantly on the ontology it presupposes. (Kopf 2017, 151-2)
このようなダイナミックな世界観に到達するために、道元は自分流の破 壊方法を編み出している。彼の方法はジャッグ・デリダの「脱構築」と大 きく異なるが、マーク・テーラーによって提供された脱構築の定義を説明 することで、道元の哲学方法が理解しやすくなる。
Deconstruction … both affects specific concepts within a dyadic economy and calls into question the entire network of notions that traditionally have grounded [philosophical] reflections. Once terms undergo deconstructive analysis, they cannot simply be reinscribed within an oppositional system that previously had defined and constituted them.
In place of as simple reversal, it is necessary to effect a dialectical inversion that does not leave contrasting opposites unmarked but dissolved their original identities. Inversion, in other words, must be simultaneously a perversion that is subversive.1 (Taylor 1984, 10)
道元も、テーラーが言うように、「二項対立的秩序」にある特定の概念 に影響を与え、哲学的内省が基づいてきた概念のネットワークと体系に疑 問をなげかける。「仏性」「衆生」「證」などを「無仏性」「諸仏」「修行」
と対照させて読むとき、二者択一の間にある二元性を不安定化するのみな らず、各々の概念自体を破壊するのである。道元は、これを超えた境地に 立って様々な論題を新たな形で理解している。本稿で示すように、「間主 観性」という概念を考え直すべきことを道元は示唆しているのである。
2 )仏教における「間主観性」
2 . 1 .『無門関』における「間主観性」
道元は、その当時正しく生きている伝統の中で著述を行った。彼が用い た言葉と創造した思想も、そうした伝統や歴史的文脈によって形成された。
もちろん、彼が考えた「間主観性」の理解も同様であった。フッサールが
「間主観性」と呼ぶ人間関係の模範は、道元の思想では、「師弟関係」を中 心に考えられていた。自己意識を持つ個体としての二人の間における相互 作用は、個人の意識に加えて、より深い自覚のレベルにおける自己変革を 成し遂げるものと認められている。禅の伝統における「師弟関係」の原型 は、『無門関』「第六則」の「拈華微笑」に求めうるであろう。読者は、次 のような逸話をご存知であろう。
世尊昔在靈山會上。拈花示衆。是時衆皆默然。惟迦葉尊者破顏微笑。世尊云。
吾有正法眼藏涅槃妙心實相無相微妙法門。不立文字教外別傳。付囑摩訶迦 葉.(T48.2005.293)
「密語」の巻を読んでわかるように、道元もこの逸話に精通していた。『無 門関』「第六則」は、おそらく架空の内容ではあるものの、禅仏教の起源 に関する物語になっている。最も重要なのは、この「拈華微笑」は「教外 別伝」という概念を示すということである。しかし、歴史的な意義の有無 に関わらず、この話は、現代の言葉で言うところの意識の変容や対人関係、
間主観的関係性が禅の思想にとって重要であることを示している。さらに 一歩進んで、師弟関係の重要性を強調するテキストでは、相互関係として の「間主観性」によって、意識の変容が起こると主張されている。以下に おいては、禅宗の文献のなかから、こうした師弟関係がどのように表現さ れているか、三つの例を挙げたいと思う。
2 . 2 .禅宗における師弟の関係
「禅語録」には、師と弟子との出会いを記す物語が多く収められているが、
『仏祖統紀』には、祖師と弟子との出会いの中で最も有名なものの一つが 語られている。この逸話では、中国禅宗の第一祖とされる菩提達磨が慧可 を自分の後継者として選んだ際の、四人の弟子との対話が記録されている。
この対話のなかで、菩提達磨は自分の弟子の発言に対して、自分と弟子と の関係が精神的に親密であることを示す有名な言葉で応じた。
菩提達磨の言葉は、弟子が自分の「皮」「肉」「骨」「骨髄」を獲得した ことを暗示するものであった。
盍各言所得乎。道副曰。不執文字不離文字而爲道用。師曰。汝得吾皮。尼 總持曰。我今所解如慶喜見阿閦佛國。一見更不再見。師曰。汝得吾肉。道 育曰。四大本空五陰非有。無一法可得。師曰。汝得吾骨。慧可禮三拜依位立。
師曰。汝得吾髓。(T49.2035.291)
この物語は、一般的に、禅者が教師または住持に認定されるには印可を 受けることが必要であることを示すと理解される。他のテキストにおいて は、師弟関係を、単に対人関係、教育的または治療的な関係として理解す るだけではなく、むしろ、それが自己と他者とを構成する「間主観性」の 実例と原型であることを強調する。こうしたテキストの一つが、絵と詩文 によって構成された「牧牛図」である。
2 . 3 .「十牛図」における「間主観性」
複数のバージョンがある「牧牛図」の多くは、牧歌的なイメージを利用 して、瞑想の過程で達成される意識の変容が象徴的な言語で描写されてい る。本稿では、日本で最も有名なバージョンである「牧牛図」、郭庵禪師 の『十牛図』を用いる。この『十牛図』は第一の絵で描かれた「妄想」か ら第八の絵の「空」、第九の絵の「智慧」、そして第十の絵で描写された「慈
悲」への過程を描く。認識主体が自己のイメージと取り組むことによって 自覚に達するプロセスとは、自己のイメージと自己の感覚を喪失すること だとする。第七と第八の題名では「忘れる」という言葉が使用されている。
坐禅によって、修行者が生み出すイメージとイメージする自己の双方を忘 れることができるようになる。廓庵禪師は、そういう出会いを次のように 説明する。
露胸跣足入廛來 抹土塗灰笑滿腮 不用神仙真祕訣
直教枯木放花開(『十牛圖』第十「入鄽垂手」)
第十とそれに付随する詩は、菩薩によって具現化された慈悲を描く。こ の段階で、修行者は師になり、弟子を教える。それに加えて この絵は自 覚に達するためには「間主観性」が必要であることも示している。さらに 興味深いのは、廓庵禪師の『十牛図』には円形の図様のバージョンもある ということである。この図様の『十牛図』では、第十で描かれた「慈悲」
は第一で描写された「妄想」の状態を包含しでおり、したがって、一般的 に言えば、「間主観性」もなく「意識」もないという状態に等しいと考え られる。廓庵禪師の『十牛図』は、「間主観性」を最高の認識だとするが、
この図様の場合、「意識」の状態に関する何らの主張も含意されないと考 えられる。
2 . 4 .仏教哲学における「事事無礙」
仏教心理学において、「間主観性」が理解の鍵として中心的役割を果た すものとして、清涼澄觀(738-839)が著した『華嚴法界玄鏡』の解釈が 挙げられる。このテキストは、「意識」の概念自体を説明するのではなく、
『華厳経』で紹介されている因陀羅網の分析を内容とする。それにもかか
わらず澄觀は、「四法界」という概念を展開させる。この概念は、非本質 主義を基本とする形而上学と世界観を示すものと言え、これを使用すれば、
道元の『正法眼蔵』で記述されるような、師弟関係を「間主観性」として 理解する世界観を提供できる。そのような非本質主義的な形而上学的原理 によって堅固な「間主観性」の理論を構築することが可能となる。
界之相要唯有三。然總具四種。一事法界。二理法界。三理事無礙法界。四 事事無礙法界……隨一一事皆爲三觀所依之正體。其製作人名徳行因縁。具 如傳記觀曰。眞空觀第一。理事無礙觀第二。周遍含容觀第三 釋曰。此列 三名。眞空則理法界。二如本名。三則事事無礙法界。言眞空者。非斷滅空。
非離色空。即有明空。亦無空相。故名眞空。(T45.1883.672)
ここで用いられている「事事無礙」という言葉に代えて、西田幾多郎
(1870-1945)は、澄觀の1300年後にヘーゲルの用語を用いて、この関係を「相 互限定」と呼んでいる。言うまでもなく、これら二つの用語は、特殊なディ スクール的文脈で構想されたものであるが、両者はいずれも因果から独立 した不変主体という概念に基づく二元論の崩壊を意図したものであり、し かも、個々の事物が本質的に絡み合うことが含意されていたのである。両 者は、合理主義者たちが開発した形而上学的体系に基づき、また、フッサー ルの現象学が暗示していた本質主義を拒否する。ある意味では、澄觀は、
本質的に連繋しつつ絶えず変化しているダイナミックな世界を想定する非 本質主義的な哲学の素描を提供してくれているのである。道元は澄觀の「四 法界」の議論で明確に示された「事事無礙」については言及していないが、
この概念は師弟関係に含意される「間主観性」という概念の理解を促して くれるだろう。
3 )『正法眼蔵』における「間主観性」
3 . 1 .「現成公案」の巻における「間主観性」
ここでは、道元が発展させた師弟関係の解釈を追求する。廓庵禪師の『十 牛図』と同様、道元は自己認識の過程と弟子との関係を結びつけて理解す る。実際、道元の解釈を見れば、仏教の修行の目的が「自覚」にあること が分かる。この点、道元と廓庵禪師の思想には類似点が指摘でき、自己を 探求することは自己を忘れること(廓庵禪師の第八)であると言い、万法 として想起される全体性との関係(廓庵禪師の第九)を説いて、自己と他 者との「間主観性」(廓庵禪師の第十)を基盤とするのである。道元は次 のように説いている。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己を わするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に 證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるな
り。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。(『道元禅師全集』
1 : 7 - 8 )
『十牛図』と比較して、道元における「自覚」へと向かう変化の輪郭は 抽象的である。しかし、彼は自己と他己との関係において「自覚」が達成 されるという確信を述べる。つまり、自己は自分自身を忘れて、すべての 存在の全体を証し、身体と心とがともに脱落し、同じ変容を経験する他者 と真の意味での関係を持つ。道元が述べる言葉は非常に有名であるととも に詩的でもある。しかし、これらの言葉は結局どういう意味なのだろうか?
道元はどのような「自己」概念を想定しているのだろうか? この引用の 主要点として指摘できるのは、瞑想の修行は終わりのないプロセスであっ て、自己の根絶ではなく、自己の変容を引き起こすものだという点である。
我々が自己と呼ぶものは、モナドのような独立した閉鎖的体系ではなく、
宇宙を現出させるものであり、また、自己と他己との関係が成立する場で あることも暗示されているのである。このような関係をどのように考えれ ばよいのであろうか? この問題を解決するためには、他の諸巻の読解も 必要となる。
3 . 2 .「山水経」の巻における「間主観性」
道元が「現成公案」で構築した、師弟関係と抽象的な「自覚」という概 念が具体的に記されるのは「山水経」の巻である。ここで、自己認識の抽 象的なビジョンが具体化される。この巻の結論で、彼は徳誠禅師と弟子と の遭遇について次のように記述している。
むかし徳誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭 江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつら ざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠 なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。(『道元禅師全集』 1 :266)
この箇所は特に注目すべきところである。徳誠が、自らの弟子を持った ときにはじめて精神的な変容を完了したことが暗示されている。弟子との 関係においてのみ、彼は自分自身の「自覚」を達成した。道元の用語を用 いれば、「万法を証し」、自分自身となったのである。徳誠の「自覚」は彼 の弟子、または彼の弟子との関係によって初めて成立する。もちろん、弟 子の場合も同様である。「弁道話」の巻でも、道元は禅者の修行は師との 出会いによって始まると記していた。それだけでなく、同様に、祖師とい う存在は弟子との出会いによって初めて成り立つと道元が主張することは 真に魅力的である。言い換えれば、祖師と弟子との関係は相互的である。
道元の「山水経」によると、自己と他己との関係を象徴する師弟関係は、
教育的、あるいは治療的であるだけではなく、より深い意味を持つ。つま り、人間関係はその人間自身を成り立たせると言えるのである。自己と他
己は、「万法」を実現する個人として密接に、相互に関連する。このよう な自己と仏法との垂直関係と、自己と他己との水平関係の絡み合いは、澄 觀の「四法界」の概念に示されている。謂わゆる理事無礙には事事無礙が 含まれるのである。祖師と弟子という存在は基本的に関係性を持つ。哲学 的に言えば、それぞれの自己認識は、自己と他己との「間主観性」に基づ いている。それに従えば、「万法」の実践は、自己を中心とするエゴ中心 主義から、対人関係と「間主観性」を中心とする世界観へと移行すること を意味することになる。フッサールが自己主義に基づいた「間主観性」を 想起したのとは逆に、道元は自己そのものが「間主観性」に基づいている と主張しているのである。
3 . 3 .「葛藤」の巻における「間主観性」
道元が祖師と弟子との「間主観性」的関係について深く考察していると 思われる箇所が「葛藤」の巻にある。この巻で道元は、『佛祖統紀』に記 載される菩薩達磨と彼の弟子との対話について自らの解釈を記している。
この重要なテキストを解釈するに当たって、道元は次のような二つの魅力 的な洞察を提示している。第一は、有名な四つの答えの間の階層性を排除 して菩提達磨が慧可を自分の後継者として選択することと、慧可が発した 回答の真理性との間に関係はないという示唆である。第二は、本稿の議論 にとってよりいっそう重要である。簡潔に言えば、道元が「汝得吾皮」「汝 得吾肉」「汝得吾骨」「汝得吾髓」という発言について示した新たな解釈で ある。道元は次のように記す。
しるべし、汝得吾あるべし、吾得汝あるべし、得吾汝あるべし、得汝吾あ るべし。祖師の身心を參見するに、内外一如なるべからず、渾身は通身な るべからずといはば、佛祖現成の國土にあらず。皮をえたらんは、骨肉髓 をえたるなり。骨肉髓をえたるは、皮肉面目をえたり。ただこれを盡十方 界の眞實體と曉了するのみならんや、さらに皮肉骨髓なり。このゆゑに得
吾衣なり、汝得法なり。(『道元禅師全集』 1 :333)
ここで道元は、菩提達磨の弟子たちは彼の身体の一部ずつを得たわけで はないと主張しているように思われる。彼は読者に向かって、「皮」「肉」「骨」
「骨髄」の言葉を超え、徳誠が自分の弟子となったのと同様のあり方で、
菩提達磨の弟子が菩提達磨になることを認識するように励ます。この関係 は相互的である。道元が述べるように、弟子の回答が持つ真の意味は、「汝 得吾」であり「吾得汝」でもある。言い換えれば「自覚」、または「証する」
こととは、「間主観性」の実現なのである。
我々が「個人的な自己」を生きている場合にも、「間主観性」の関係は 存在するので、「自己―コミュニティ」という意識が生じる。因果から独立 した自己は存在せず、個人的な存在もなく、個人的な解脱もないのである。
3 . 4 .「道得」の巻における「間主観性」
『正法眼蔵』において、自覚の体験と間主観性という概念を結び付けた 内容を持つのが「道得」の巻である。弟子が祖師に向かって自分の体験を 表現すると同時に、祖師が弟子の体験を認識する、という祖師と弟子との 対話を「道得」と呼ぶことによって、道元はこの巻を開始する。そして道 元は、自分の方法に従って「道得」の複雑さと問題点について記す。この 巻の結論部分で道元は、菩提達磨と彼の弟子との対話に触れたうえで自ら の「道得」理解を示している。
しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道得に 道得すると認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と證究せざるは、なほ 佛祖の面目にあらず、佛祖の骨髓にあらず。しかあれば、三拜依位而立の 道得底、いかにしてか皮肉骨髓のやからの道得底とひとしからん。皮肉骨 髓のやからの道得底、さらに三拜依位而立の道得に接するにあらず、そな はれるにあらず。いまわれと他と、異類中行と相見するは、いまかれと他と、
異類中行と相見するなり。われに道得底あり、不道得底あり。かれに道得 底あり、不道得底あり。道底に自他あり、不道底に自他あり。(『道元禅師 全集』 1 :302)
ここで道元は、次のように言っている。菩提達磨と彼の弟子との対話か ら明らかなように、万法を証する体験は常に個人の修行である。この修行 では、個人は「諸仏」によって象徴される全体を実現する。したがって、
個人においてもこの全体が完璧に実現することになる。しかし、すべての 個体が全体を実現するとしても、個々の個体は限定の中にあるので、常に
「不道得」ということになる。言い換えれば、修行はどうしても不完全に ならざるをえない。道元が「現成公案」で述べたように、「一方を証する と一方はくらし」なのである。「道得」と「不道得」とのダイナミックな 弁証法によって、祖師は弟子との、弟子は祖師との、自己は他己との、他 己は自己との、我は彼との、彼は我との、実存的な関係に立つ。言い換え れば、諸仏の証する実践は、全体性の「道得」として、本質的に「間主観 性」的である。この「間主観性」は、本質主義的な形而上学的枠組みによっ てではなく、非本質主義の形而上学によって理解されなければならない。
4 )道元に「ならふ」ものは何か
このように、非本質主義的に理解される「間主観性」という概念は、多 くの興味深い意義を持つ。ただ紙幅の関係で、この概念を適用しうる四つ の例について述べるに止めたい。
4 . 1 .「意識」という概念への適用
道元の著作から読み取れる「間主観性」の概念を適用できるものとして、
先ず「意識」という概念を挙げることができる。フッサールとは対照的に、
道元が示唆した「道得」の立場に立つ哲学者は、「意識」を非本質的なも
のとして、トマス・カスリス(Kasulis 1981、72-74)の言葉に従えば、「非 志向的」なものと捉えるであろう。つまり、私が「表現の哲学」と呼ぶも のは、自己よりも、すべての現象が含まれる全体を中心に考える。道元の 有名な言葉に述べられているように、「自己をはこびて萬法を修証するこ とを迷い、萬法すすみて自己を修証するはさとり」なのである。このよう な理解に基づく哲学では、「間主観性」、「自己-コミュニティ」、および生 きているもの全ての存在を基本に据えて「意識」を構想するはずである。
私は、こうした理解に立つ「自己」を「エコロジカル的自己」と呼ぶ。
4 . 2 .「倫理学」への適用
相互限定として考えられた「間主観性」という概念は、倫理の領域にも 適用することができる。道元の倫理的ディスクールにおいては、自己と他 己は、戒律を守る声聞と戒律を破る菩薩に分けられる。道元は「諸悪莫作」
の巻において、声聞と菩薩の間に本質的な違いがあることを否定する。彼 は次のように説く。
しかあればすなはち、信行の機の善と、法行の機の善と、はるかにことなり。
別法にあらざるがごとし。たとへば、聲聞の持戒は菩薩の破戒なるがごとし。
(『道元禅師全集』 1 :280)
声聞と菩薩は確かに異なるが、互いに対立することはなく、むしろ基本 的に内的な関係を持ち、「不相離」を体現している。両者は単に同じ仏法 や道徳の心得を異なる方法で示すだけなのである。従って、仏教倫理を構 成するために互いに補完し合うことができる。しかしながら、そのような 倫理がどのような形になるのかについては、さらなる考察が必要である。
4 . 3 .「社会関係」理解への適用
また、このような「間主観性」という概念は、社会関係の再考を迫るも
のでもある。私見に據れば、道元はそのような再考を「礼拝得髓」で行っ ている。よく知られた一節で、道元は性差が本質的には存在しないと宣言 する。
又、唐國にも愚癡僧ありて願志を立するに云く、生生世世ながく女人をみ ることなからん。この願、なにの法にかよる。世法によるか、佛法によるか、
外道の法によるか、天魔の法によるか。女人なにのとがかある、男子なに の徳かある。惡人は男子も惡人なるあり、善人は女人も善人なるあり。聞 法をねがひ出離をもとむること、かならず男子女人によらず。もし未斷惑 のときは、男子女人おなじく未斷惑なり。斷惑證理のときは、男子女人、
簡別さらにあらず。又ながく女人をみじと願せば、衆生無邊誓願度のときも、
女人をばすつべきか。捨てば菩薩にあらず、佛慈悲と云はんや。ただこれ 聲聞の酒にゑふことふかきによりて、醉狂の言語なり。人天これをまこと と信ずべからず。(『道元禅師全集』 1 :253)
この一節は、性別の本質的な違いを否定しており、『維摩経』で天女が 舍利弗に説く言葉、「是の故に、佛は、一切諸法は男に非ず、女に非ずと 説く」(T14.475.548)に表現される非本質主義を想起させる。自己と他己 との「間主観性」的な関係と同様に、『維摩経』における舍利弗の性の転 換と天女の逸話が示すように、性差は本質的な相違ではないにも拘わらず、
その相違は確かに存在するのである。このように「間主観性」という概念 は、我々が社会的差異を考えるうえで重要な示唆を与える。
4 . 4 .「哲学」への適用
最後に、「表現の哲学」の立場から見ると、「間主観性」という概念は、
比較哲学者に対して、多くの哲学的立場と伝統に対する包括的な態度を抱 かせる。もし、道元が「現成公案」で示唆したように「一方を證するとき は一方はくらし」、また、「道得」で述べたように「この道得を道得すると
き、不道得を不道にする」ということになれば、哲学の手法を変更しなく てならない。そういう立場から見れば哲学の目的は、誰の言葉が正しく、
誰の言葉が間違っているかではなく、それぞれの言葉がどのような立場か ら発せられたものかという問題となる。『続伝灯録』に従って道元は「有 時意到句不到、有時句到心不到、有時意句兩到、有時意句不不到」(『道元 禅師全集』 1 :193、T51.2077.470)と言う。このような「表現の哲学」は、
道元の『正法眼蔵』のテキストから導き出されたものである。『正法眼蔵』
において「間主観性」という概念を研究することによって、新たな『正法 眼蔵』解釈の地平を開きうるだけでなく、「間主観性」という概念そのも のの再考にも繋がるのである。
【略称】
DZZ…大久保道舟編『道元禅師全集』 2 巻、筑摩書房、1969-1970 T…『大正新脩大藏經』
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【注】
1 単なる逆転の代わりに、弁証的な反転を達成しなければならない。弁証的 な反転というのは、矛盾した項目をそのままにせず、むしろそれらの根本 的なアイデンティティを解消するのである。言い換えれば、反転は同時に 転覆的、倒錯的でなければならない。