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アマゾニア開発の問題

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アマゾニア開発の問題

西

 アマゾニアは、はたしてク線の天国ク ︵葛冨ぎく㊦鼠Φ︶であろう か。 ク線の地獄ク ︵ゴP扇O弓bTO くO弓qO︶であろうか。無限の大森林にお おわれたこの地域には、はかり知れぬ資源がかくされ、その開発を 待っている。いつの日にかそれが開発せられんか、おそらく数千万 の人口を養うに足る富有な国土が、そこに出現するであろう。ラテ ン・アメリカに於て、最大の経済的支柱となるべきものは、アマゾ ニアを措いては、恐らく他に求めることはできまい。未開発地域の 開発という点から見て、このアマゾニアは、きわめて注巨すべき問 題を蓬供するのである。  さてブラジルは、一九四六年九月、独立以来第五回目の憲法改正 を行ったが、その憲法第一九九条に於て、アマゾニアの経済開発の ために、連邦が、継続して少くとも二十年間、窟税牧入の百分の三 を下らない額を充当すべきことを定めた。他方、これに応じて、一 九五三年一月には、これに関する特別法が制定せられた。いわゆる        ① クアマゾソ地域経済開発法”である。 アマゾニア開発の問題  本法が適用せられるアマゾン地域︵>5震〇三乙とは、アマゾン河 の本支流に面する五州、四直轄領の全部または一部を含み︵第二 条︶、その大いさはブラジル全土の二分の一に近く、アラスカを除く 北米合衆国に匹敵する。その場合の開発計画は、農畜産物の増産、 鉱物資源の開発、運輸通信設備の改良、発電計画、住民の杜会厚生 施設の樹立、金融投資計画、技術及び調査機関の強化など、すこぶ る多くの部門に亙っている︵第一条、第七条︶。  開発計画の実施に当って、連邦の特別機関として、アマゾン地域       ② 開発計画庁︵S.P.V・E・A︶が設けられる。これは、大統領に 直属して、行政上自治権を有するものとせられる。その総裁は、大 統領によって直接任命せられ、十五名の委員から成る企画委員会を 統轄する。これら委員の内訳は、六名は大統領の任命する専門抜術 家であり、九名は関係各州及び直轄地域の代表者とし、それぞれの 政府が任命するものとせられる︵第二十二条、第二十三条、第二十 四条︶。  この開発計画庁は、本法の施行十ニケ月以内に、行政機関として の組織をととのえ、それと連邦及び関係各州ならびに各郡の諸機関 との業務上の連絡を走めねばならぬこととせられ、同時に、企画委 員会は、九ケ月以内に、五ケ年の第一年度に対する開発確定計画 を、当該年度の予算とともに、大統領に提出しなければならぬこと とせられる︵第二十六条、第二十七条︶。この計画の一部たる農業 部門の開発については、既に一九五四年七月までに成立しており、 大統領の署名を終ったことと思われるが、 その内容は、 残念なが 四九

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アマゾニア開発の問題 ら、いまここに詳かにしないのである。  さてアマゾン開発計画については、特別の基金︵○岡三q。聴く箪1 9鎚臓。国8良品$量b旨器。巳塑1ーアマゾン開発基金︶が設けられ る。これは、さきの憲法第一九九条によって定められた運担税牧入 の三%に当る交付金のほか、関係の各州、各直轄領、各郡の税牧入 の三%、ならびにこの開発計画に関して行われる法律行為及び法律 上の契約から生ずる牧入とせられ、これらの牧入は、ブラジル銀行 がこれを直納し、この基金に振込むものとせられる。別に、連邦な らびに関.係の各州、郡のクレジット及び特別資金の操作から生ずる 牧入も、これに当てられる︵第八条、第.一項、第二項︶。  開発基金の支出については、その予算書を国会に提出しなければ ならない。そして国会に於ては、この予算は、連邦一般予算に添付 せられ、開発基金を構成する財源を、歳入の部に包含する。ただ し、一会計年度の残高は、終了した会計年度に属さず、また連邦歳        ム 入に編入されることもなく、これを次期会計年度に繰越すこととせ られる︵第九条︶。なお開発計画に関連して、もともと連邦の任務 として開発計画庁と協力して行われるところの、当該各省の事業の 継続または拡張の場合には、連邦予算交付金の追給として、必要額 が計上せられることとなっている︵第十一条︶。  開発計画庁は、本計画の基礎たるべき事業の実施について、外債 または内債を公募するため、国庫の保証を得ることができる。この 場合に、その償還は、将来の会計年度に於て、開発基金の歳入から これを行うこととせられる︵第十五条︶。さらにまた、開発計画庁 五〇 は、その計画のため、財産の取得または土地の牧用を、申請する権 限を与えられている︵第十一条︶。これらの点から考えて、開発計 画庁は、会計的に独立し、かつ一応独立採算の体制を持った、特殊 の行政機関なのである。  しかしながら、開発計画庁は、必ずしもそれみずからが、この計 画の実施主体となるのではない。むしろ、この計画に関連するもろ もろの事業を調整するため、この計画地域内の各州、郡、自治体、 会社及び個人と、具体的諸事.項につき、契約を締結する権限を持ち ︵第六条︶、それらに対する連邦の諸援助を、それぞれ組織化し合理 化するという任務が与えられる︵第十八条︶。その意味で、この計画 庁は、純粋に事業主体たる国家の機関でもなければ、また独立企業 体としての公社もしくは、いわゆる公益企業体とも考えがたい。そ れは、きわめて広範囲の経濱計画の樹立という目的を持つた、特別 の行政機関︵忌衛亀①図㊦。重く。︶と見るべきものである。  ① 法律、 一、○八六号。全文三十五条より成る。  ③bω唇霞巨。鼠9。賦q。勺冨き早く鎗良鍔臓。国8口。巳鼻    魁騨b日騨NO昌一@         二  さて、ラテン・アメリカと一括呼称せられる中南.米諸国は、大小 二十を数え、国際外交に大きな勢力を占めているものの、社会的に も経洛的にも、共通して、後進的たるを免れない。 ここに後進的 ︵び寒貧毒乙器。。㎝︶という言葉は、それがしばしば用いられるにか かわらず、その概念は必ずしも明確でない。ときとして、低開発

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︵茸魯鼠。<9。続き暮︶と同意養にも解せられ、ときとして両者区別 せられる。いま私は、そのことを論じようとするのではない。いず れにしても、それが一方自然留筆が未開発であり、地方人口一人当 りの所得水準が低く、国民の経済的適応性がおくれていることなど を、その主たる内容とするを指摘するにとどめる。その場合に、そ の経済構造がぜい弱であり、またその社会構造に着て、多分に植民 地的、封建的性絡が認められることも、これを否定し得ないのであ る。  経濱構造のぜい弱ということについては、その経濱が、きわめて 少数種類の生産によって支えられる経済、進んでいえば単一生産経 潴︵8㌣自。b。8き白ざ旨8。占三ε器①8ぎ旨ヤ︶であるという点に、 その特質を具体的に捉えることができるのである。交通施設の欠乏 ということが、更にこれを明確にするであろう。  単一生産経済に於て、この生産に関連する国内産業が充分でな く、もつばら海外市場に依存する場合には、この国の経済そのもの の消長が、外国の諸事情によって与えられ、また外国資本の支配に 委ねられることが多いのも、自明の理であろう。経済構造のぜい弱 が論ぜられるゆえんである。古くはチリーに於ける硝石、新しくは ヴェネズェラに於ける石油事業に、顕著にこれを見ることができる。 羊毛、小麦などに頼るアルゼンチン、バナナや砂糖などに依存する 中米諸国もまた、この例にもれない。  このような事情は、ブラジルに於てはどうであろうか。ブラジル 経済の歴史は、特定の商品を中心とする六つの周波によって特徴づ アマゾニア開発の問題 けられるといわれる。そして、それぞれの波の絶頂時に於て、ブラ ジルは、世界生産高の第一位を占めたのであるが、その後国際競争 の結果、その地位を失うに至った。この六つとは木材︵ぼ寒川芝。。e 砂糖、金、棉花、ゴム及びコーヒーである。いま、そのうちゴムと コーヒーについて、その事情を少しくながめよう。︵。P切琶NF℃き 賢臣。ユ⇔窪σ巳op盗難プ︸おεpδσω”︸︶.撃閥︶  十九世紀の後半以来、 ゴムはブラジルにとって最大の産業とし て、アマゾニアの独占するところであった。すなわち、それの周期 は、ほぼ一八六〇年から一九一〇年の聞に認められるが、その一九 一〇年に穿ては、世界生産総量の実に八八%が、このアマゾニアの 提供するところであった。いわゆるパラτ・ゴムこれである。  しかるに、その後、この地域から種苗を盗み出して移植せられ た、マライの栽培ゴムとの競争によって、一九一三年以来急におと ろえを見せ、一九二二年には僅かに入%にまで下った。もっとも、 第二次世界大戦の口任は、米国との協力のもとに、一時的に増産を 見たけれども、この衰退の勢いは、ついにこれを防ぎ得なかったの である。  ところが、やがてこれに代って、コーヒーが登場した。その週期 は一八三〇年の頃から始まる。そして、およそ百年の聞、この産業 は、この国の経済構造の要石︵冨嵩ざ塁︶であって、第一次世界大 戦前には、世界のコーヒー輸出のうちブラジルが占める割合は、ほ ぼ七〇%に及んだのである。しかもその輸出の九〇%以上は、実に 米国に依存している。 五一

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アマゾニア開発の問題  第一次世界大戦時に於けるコーヒー価格の騰貴によって、その他 のラテン・アメリカ諸国のコーヒー生産が刺戟せられたため、ブラ ジルのこの地位は、その後弱められたのであるが、その対策とし て、ブラジル政府は、過去二十五年の間しばしば、輸出量と生産量 との制限によって、世界価格の維持に努めるところがあった。これ によって、栽培面積と生産量はいちじるしく減少したにかかわら ず、ブラジルの国内産業について見れば、今日なおコーヒーは、そ の価額に於て第一位を占めているのである。  いずれにしても、ゴム及びコーヒーに見られるこのような数字の 変遷は、産業構造に於けるこの国のぜい弱性を示している。こと に、その市場が、資本主義先進諸国の景気変動に直接につながって いるだけに、この性格は特にいちじるしい。そこでこの単一生産経 済の危険性ということが、この国に於ても、一九一一九年以来強く意 識せられ、生産の多角化︵象く。屡穿蝕89窪︶b。・︶や、交通雍設の 改良ならびに急速なる工業化の計画が、ようやく顧られるに至った のである。  このような傾向は、ひとりブラジルに限られてはいない。その他 のラテン・アメリカ諸国に而ても、戦後ことにさかんなその民族運 動と、外資とくに米国からの援助との複雑な噛み合せのもとに、多 かれ少かれこれを見ることができる。いまここにアマゾニア開発を とり上げる場合にも、われわれは、この広汎な諸問題の一環として 考察するのでなければ、その本来の意昧を見失うであろう。この地 域に於ける社会構造の植民地的、封建的性格も、また、このような 五二 経済的考察と不可分.の関係に於て、明かにせられるのである。  さて、アマゾ一一アの開発が、ブラジル連邦憲法ならびにアマゾン 地域経済開発法によって、その法的根拗を与えられていることにつ いては、既.に述べたところであるが、経済政策の構想としては、い わゆるサルテ計画︵四鳶。の9譜︶と一連の結.びつきあるものとし て、これを考察することができる。そこで、本計画に於ける会計制 度が、アマゾニア開発の予算についても、適用せられるのである︵ 第三十四条︶。  このサルテ計画は、一九四八年以来立案せられ、一九五〇年に立 法化せられたのであるが、五ケ年計画として、二=二億クルゼイロ ︵求心約一、二〇〇億円︶の予算を以て、保健施設の充実、農牧の 増産、交逓機関の改良ならびに水力電気の開発の四部門にわたり、 運邦及び地方の既存の諸計画とならんで、これらを調整するものと せられる。そのサルテの名称は、これら四つの部門すなわち加宕蟄 ︵保健︶、≧巨8富臓。 ︵食糧︶、弓雷正忌匿・。︵運輸︶及び翻コ零σqβ ︵動力︶の語から組立てられたものである。  これによって知られるように、サルテ計画は、国民保健を最大の 課題の一つとしてとり上げている。ブラジルに於ける保健享情は、 八種、文化、気候、地域などによっていちじるしく異っており、大 都市の保健状態は、米国のそれにも劣らないが、一歩内陸に足をふ み入れると、甚だしく劣悪である。そこで連邦政府は、これら諸地 方の保健行政について、各地方当局に協力するとともに、特に一九 四二年以来、米州協会︵H易罫耳①。隔着雪マ﹀︼琴艮。導b識㌶話H本部

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ワシントン︶に協力しているのである。  この協会は、既に今日までに、特殊の保健事業に対して、数百万 ドルの資金を提供しているが、その中でもアマゾン及びリオ・ドー セ︵罰δU。8︶流域に対する計画は、きわめて広範囲にわたったも のとして注目される。すなわち、それは、病院、保.健所、上水道設 備、マラリア地域の排水施設、洪水調節用の築堤をはじめ、住民の ための栄養教育や、出撃を移動する施薬所にまで及んでいるのであ る︵陣震一ご一三脅ワωN■︶。このような諸事情のもと、に於て、いまア マゾニアの開発が、後進地域の開発という立場から、どういう問題 を含んでいるであろうか。それが、ここに考察されるべき点なの である。 三  さてアマゾニアであるが、遊撃な資源を藏しているとはいえ、炎 熱多湿の密林のもと、人口きわめて稀薄で、資本に乏しく、交通も ただ自然の水路によ.るところのこの地域では、開発は決して容易な ことがらではない。いきおい、現存の原始的な生産状態に、その手 がかりを求めざるを得ないのである。  これをさきの開発法について見ると、その第一条に湿て、 ﹁抽出 生産︵︻肖。魯協。①図上幸く騨11採集再生産︶、農業、牧畜、鉱業などの 生産及び物資の交換関係を促進する﹂ことを明かにし、さらに第七 条第一号に於て、 ﹁農業生産の発展をはかり、かっこの地域の生産 費と矛盾しない最低価絡基準による森林の抽出生産の発展を促進す アマゾニア開発の問題 る﹂と規定しているのも、この点から首肯芽・一られるのである。  ここに抽出生産というのは、自然採集をひろく呼称したものと考 うべく、ゴム、カスターニャ︵O霧酔窪︸曇創。勺宥ひパラー栗︶などの採 集をはじめ、各種の漁掛や、皮革生産を目的とする鰐︵廿。舘①︶そ の他の狩猟などを指し、各種の木材伐採もζれに含まれると考えら れる。アマゾニアの経済は、全く自然採集の上に立っており、この 地域にポルトガル人が足跡を印してから三世紀半の間、これが住民 の生業であった。彼らは、大自然に威圧され、わずかにその﹁おこ ぼれ﹂の恩悪に浴して、紬々と、悲惨な生活を立てているのであ る。植民地的、封建的といわれる社会構造は、まさしくそういう住 民の生活の上に築かれる。  いわゆる抽出生産の中で、もっとも重要な問題を提供するもの は、ゴムの採集である。アマゾニアのゴムは、マライの栽培ゴムと 異って、いわゆる天然ゴムであり、自生するゴム樹から採集せられ る。このゴム樹の数は、全域にわたって数億に達するといわれ、マ ディラ河︵涛一〇 鼠9qO陣胃暫︶をはじめ、本流を遠く離れた支流域にひ ろく分布している。  このゴムの本格的採集が始まったのは、十九世紀の後半である。 ところで、一八七七年に東北地方に大旱魅があったため、この地方 の住民ーセアランセ︵O①騨同派コロO︶と呼ぶ!が、このゴム地帯に 大量に移住することとなり、その後今日までつづいている。この移 住によって、ゴム生産がさかんとなった。当時、ゴム集散地たるマ ナゥス︵蜜M=一量目ロロ︶市は、繁栄をきわめており、ブラジルの如何なる 五三

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アマゾニア開発の問題 都市よりも、ヨーロソバ的文化に満ちた都市であった。  このパラー・ゴムが、 マライ・ゴムとの競争に敗れたのは、 ︼ に、採集能率がいち.じるしく低く、品質もまた劣っていることによ る。市場までの巨離の遠いことも、これに作用した。  いったい、パラー・ゴムの場合に、その採集労働者iこれをセ リンゲイP︵ω。昏あ賃①マ。︶と呼ぶ.i−の受持は、せいぜいゴム樹一 五〇本を限度とするといわれる。このゴム樹は、森林の聞にとびと びに自生しているので、彼らほ、広い地域を巡回しつつ、採集する のである。しかるに、マライ・ゴムの場合には、それだけのゴム樹 を、、餓かの面積に栽培できる。その上、晶質の改良も、栽培ゴムは 容易であるが、天然ゴムはほとんど不可能である。かくして、一本 当りの牧量も、後者は、前者に比してきわめて少い。  いずれにしても、こういう衰亡のうちに、第二次世界大戦となっ たのであるが、この大戦の期間に、パラー・ゴムをめぐって、米 国と、ブラジル国政府の間に、特別のとりきめが結ばれた。すなわ ち、これによれば、ブラジルは、国内の必要量を超えるゴムの全部 を米国に利用せしめ、その価格を、協定された=疋額に据置くこと とし、これに対して米国は、ブラジルに於ける生産拡張計画を援助 するというのである。  なおこの協定の実施に当っては、両国政府は、アマゾニアに於け る輸送設備を拡充し、食料その他の必需品の供給を行うとともに、 本計画を遂行するため、共同出資によるゴム信用銀行︵Oo⇒影8qΦ ○器象8塗ヒ◎自轟魯9堕卜・︶が、ゴム生産資金を貸付けることとせ 五四 られた。その結果、産額は倍加を見たのである。  この場合の労働力として、再びセアレンセが送り込まれ、その数 は五万を超えたといわれる。いったい、セアレyセにとっては、ア マゾニアは熱暑の不健康地であって、疾病に驚れた者の数は、きわ めて大であった。ところが、右の協定で、マラリア防疫局が設けら れ、さらに、さきに述べたように、戦後政府の手によって、その他 の保健施設がととのえられてからは、保健状態は改善せられ、マラ リアの罹病率の如きは、実に九四%の滅少を見たといわれる。  このように、抽出生産の中核をなすゴムについて、第二次世界戦 争を契機として、局部的ではあるが、アマゾニアの開発がなされた .の ナあるが、それが、やがて、更に高い立場からの開発計画を促す に役立つたこと、これを否むことができない。かつては、その一角 に、ゴムによる不健全な繁栄を示したアマゾニアは、一たんは戦争 によるゴムの開発に刺戦せられたのであるが、いまは新しい綜合的 観点から、その建設が企てられているのである。 四  セリンゲイρとしてのセアランセの役割は、右に述べたように、 きわめて大きいのであるが、アマゾニアそのものに於ける労働の需 給状態は、いったいどのようであろうか。次にはこれを考察した い。  面積に於てブラジル全土の半ばを占めるこの地域は、その人口一 八○万、全国のわずか四%にも満たない。そして、その過半はパラ

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1︵勺p暴︶州が占め、さらに残りの過半はアマゾナス︵凶夢9N8塁︶ 州が占めている。しかも、これら両州の人口の三〇%は、それぞれ ベレン︵ゆ。融ヨ︶、マナウス両市に集申しているのである。  この人口のうち、約三分の一は、ポルトガル人と少数のシリア 人、イタリ人、トルコ人、スペン入などの白人であって、残りは、 インディアン及びこれと他の人種との混血である。このうちインデ ィアンは、数万を超えないと思われる。この混血種の中心をなすも のは、インディアンと白人との混血たるカボクロ︵。喜。9。︶である が、それが今臼まで、アマゾニアの抽出生産のみならず、また農業 に煮ても、主たる労働力であった。さきに述べたセアレンセも、人 種的にはカボクロに属するのであるが、それがとくにセアランセと 呼ばれて区別せられるのは、むしろ、歴史的文化的の意味からで ある。  とにかく、このように数の限られたカボクロについて見ると、現 実に労働力として現われるのは、決して多くはない。いま、ここに 詳細の数字を欠くが、保健条件にめぐまれず、出生率と死亡率とが 高く、その結果平均寿命がきわめて低く、労働意慾に乏しい彼らの 社会に於ては、容易にこれが想像されるのである。  ここに曾て、アマゾニアにとっては、労働力の確保という立場か ら、移住計画が重要な課題となって来る。開発法第七条直入号に於 て、 ﹁食料、保健、衛生、教育などのほかに、本地域及びブラジル の利益に最も役だつ人口の移住ならびに永住農業地の設定により、 経済生活の発展の可能な選定地に、本地域または他州住民を集結さ アマゾニア開発の問題 せるなどの方法によって、本地域の肉体的社会的刷新︵語讐β①壁協つ 勢3暫。。・○︹二m二︶を含む人口政策を定める﹂と規定されている。す なわち、移民の導入、配分ならびに農作地の管理︵ぎ婁二g鴇P衛一酸丁 昏目塞&。象旦曜鎚三。。。。㊤﹁ぎ岡田珍轟3。象3ざ巳塁p鳴嵩8冨砿︶とい う事業が独立した部門として、この計画に含まれる。そして、これ に関連して、日本移民の問題が登場する。  そもそも日本移民がこの地域に現われたのは、一九二九年南米拓 殖株、武会社の手によって、パラー州アマゾン河口のトメ・アスー ︵日。目Φb給︶附近に、 ついで一九三〇年アマゾニア産業株式会社 によって、アマゾナス州バリンテンス︵雲霞ぎ⇔ぎ。。︶附近のヴィラ・ アマゾニア ︵5冨b目震。三㊤︶に、それぞれ数十家族が居住したの が、その最初であった。これらは、いずれも、外国資本に対するコ ンセッサτウン︵8琴。ω鐡。封土地無償払下げ︶の形で行われたので ある。そこで、まずこのことから述べなければならない。  アマゾニアに於て、外国資本に対する大規模なコンセッサーウン の契約は、これよりさき一九二四年、タパジョス河︵裂。弓99。・・︶ 流域のフォードランディア︵弓O目二一ンβ亀一㊤︶及びペルテイラ︵∪りΦ犀9話︶ に於て、フォード財団がゴム園を経営したのを、その噛矢とする。し かしながら、その頃エスタード・ド・ノヴォ︵Oコ璽け騨自O 創O 昌O<O︶運 動すなわちナショナリズム運動が擾聾して、その後のコンセンサー ウンの開設は、いずれも成功を見なかった。ただジ.一二ト︵騒三鎚黄 麻︶の栽培については、パラー州当局は、前記アマゾニア産業に対 して諸種の便宜を与え、サンタレーン︵ω導蜜ま目︶附近に試作場を 五五

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アマゾニア開発の問題 設立せしめ、その大量生産計画を立てしめたのであるが、つづいて アマゾナス州もこれにならりて、同社に対して同様の契約を結ん だ。  このような援助のもとに、同社はさらに進んで、アマゾナス卦か .らジュートの格付権を与えられ、その独占的集荷者となった。かく して、アマゾン下流のジュート生産は、ようやく軌道に乗ることと なったのである。 一九四二年ブラジルの参戦によって、同社は解 散し、その財産と業務とはアマゾナス州に接牧を余儀なくせられた 避ジ・ートの栽培そのことは・かえって・馨による需要の増大 と輸入の杜絶によって、増加の一﹂路を辿ったのである。  さて一九.五一年、当時の大統領ヴァルガス︵09舘ごく胃σ。霧︶と 日系ブラジル人辻小太郎との間に話含がなされ、辻小太郎のあっ旋 によって、向う五年聞に五、○○○家族の日本入を、アマゾニア開 発のために入植せしむべきことが取りきめられ、ついで国会の承認 を得た。そこで辻小太郎は、アマゾン子馬開発株式会社︵∪塁①暑? 気目①90国8蓉巳8量bぎ騨N。b寓の.b.︶を創設して、前憂欝六条 及び第七条第八号の規定にもとつく移民業務を、一九五二年より開        ② 与した。戦後の日本移民は、かくして再開されたのである。  アマゾニアに対する日本移民は、もとより、ヴァルガス.辻両氏 の努力によるところ大であるが、実は、戦前すでに、ブラジル国民 すらもこれを顧みなかったアマゾニアを開拓し、多大の困難を撲し てジュート産業の基礎を作り上げた日本移民の成果を、ようやくブ ラジル官民が認識したからに他ならない。トメ・アスτに於けるそ 五六 の後の発展、とくにピメンタ︵前日霧鑓動。羅旦。黒胡椒︶のおどろ くべき増産が、さらにこれを助長したのである。ジュートは、周知 のように、インドとパキスタンが世界の独占者であり、ブラジル は、コ1ヒーその他の農産物の包装のための麻袋について、従前す べて輸入ジュートに頼.らなければなかったが、政府の輸入防遇策の 働きかけもあって、今一では、その大部分を国内で自給し得るに至 ったのである。  ①その後、経過不明のまま、某財閥に売却された。  ② 南部ブラジルについては、松原安太郎氏か、これと時を同じ   くして、四、○OO家族の移民を取扱.うこととなった。しか   し、同氏は手ちがいから失敗し、ついに日本に蘇角したQこの   事件は、移民事業についての諸種の障害を暗示している。 五  ここでひるがえって、アマゾニアに於ける抽出生産と農牧の大要 をながめ.よう。これについては、まず、ヴァルゼア︵くP目NΦ卑︶とテ τラ・フィルメ︵けO居国薗 馬一目目PO︶の二つの地形を述べねばならない。 その区別は、単に地勢上の区別にとどまらず、同時に、アマゾニア の産業を特長づける重大なる性格を表現するものである。  アマゾンの河流は、毎年定期的に洪水をもたらす。ヴァルゼアと いうのは、洪水期︵四i六月︶に浸水する地帯である。それは、減 水期には陸地となり、最も新しい豊沃な堆磧層を形づくる。いわ ば、甚だ浮動性に富んだ陸地である。この洪水はきわめて大規模で、

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本流の河幅を、かりに減水期に於て一五.粁とすれば.増水期には、一 〇〇粁またはそれ以上に拡がることがあるという。その水深も小さ くはない。これに対してテーラ・アィルメは、洪水を受けない地域 である。文字通りには、確固たる土地、つまり﹁陸地﹂の意味であ る。もともとアマゾニアの産業も、住民の生活も、たえず浸水によ って利益を受け、また浸水によって脅かされてい6ので、水を離れ ては成り立ちがたい。問題は、如何にしてこの洪水を利用するかにあ る。そこで、この浸水しない土地に対して、とくにテーラ・フィル メの呼称が与えられる。  ヴァルゼアでの作業は、減水期に限られるので、農耕は、翌年の 増水期までに牧獲できるものについてのみ見られる。この地帯は、 増水期に、肥沃な有機物質を沈澱せしめる。そこで、ジュートが、 この地帝に最適の作物として取りとげられたのである。テエヲ・フ ィルメは、これに反して、肥料を施さぬ限り、その地味は滅退せざ るを得ない。 いわゆるコイヴァラー農法︵8一養言焼畑農法︶が、 この地帯に於ける農法として行われるのである。いったいカボクロ は、型耕をほとんど知らず、除草も粗雑で、農具も、エンシャーダ ︵。身㌶9鍬︶やテルサ1ド︵雰お巴。山刀︶と呼ばれる原始的なも のの他、一切これを用いない。彼らは、森林を伐採し、これを焼払 って、そこに作物を植えると、二年置かりは無肥料のまま、この土 地を利用した後、また新しい森林を拓いて移動する。それは、もと もとインディアンの農法を受けついだものであるが、アマゾニアに 限らず・、ひろくブラジル全土に行われている。これがコイヴァラ⋮ アマゾニア開発.の問題 である。  しかしながら、河口付近や都市の近くでは、やや進歩した農法が 行われ、グァラナi︵σq四日霧、・清士飲料果実︶、 マンヂョカ︵巨き1 象。量薯︶、フェイジャーウン︵h。最。豆︶、米、甘庶などが栽培せ られる。ただ、正しい意味での農耕としては、さきに述べたトメ・ アスーを中心とするピメンタが、最もいちじるしいものである。こ れらの農耕の一部には、最近に一部機械力が用いられるに至った が、全体としては、きわめて粗放的の段階にとどまっている。  牧畜もまた、都市に近いヴァルゼアまたはこれに近越したテーラ ・フィルメで行われる。すなわち河口のマラジョー︵.客霞aO︶島、 下流のリオ・ブランコ︵國陣O bd目騨図厨OO︶地域や、オービドス︵○び三。乙。︶ 附近などである。ヴァルぜア地帯は、一般に禾本科の雑草に富み、 牧畜に適するのであるが、それは減水期にのみいい得ることであっ て、増水期には、特殊の方法を必要とする。すなわち、家畜を近接 したテープ・フィルメに移動せしめるか、それが不可能の場所で は、水上に床︵冨鷲2暮幽︶を組立てて、ここに牧即する。その場合 には、増水黒豆に必要な多量の牧草の陽型、運搬、保存などに、容 易ならざる作業を伴うのである。  ところで、抽出生産の中心たるゴムの採集は、いうまでもなくテ ープ・フィルメで行われる。すなわち、セリンゲイロは、自己の受 持区域のどこかの小川べりに居をかまえ、一日二回この区域を巡回 する。すなわち、その一回はゴム樹を傷けて乳液受けを嵌めるた め、他の一回はこれを集めるためである。その後に、彼らは、この 五七

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アマゾニア開発の問題 乳液を蒸す作業に従事する。彼らの日課は、この単調な、しかも過 重な労働のくり返しにほかならない。彼らの住居も生活内容も、南 部ブラジルに於けるコーヒー栽培の場合以上に、全く文明から遠ざ かった悲惨なものである。  このゴムは、さきに述べたパラー・ゴムであるが、その他に、カ ゥーショ︵鎚饗ぎ︶と呼ばれる別の種類がある。このゴム樹は、幹 を伐りたおして、その乳液を採る。これに従事するカボクロは、と くにカウシェイp︵。艶筈Φぎ︶と呼ばれるが、彼らは、次から次へ とゴム樹を求め.て密林をさまよい、その気質もすこぶる荒い。こう いう方法によるゴムの採集は、近年きわめて少くなったという。  抽出生産のうち、ゴムに次ぐものにカスターニャがある。その果 実は匹ブラジル・ナリ、ツとして外国に輸出される。この作業は、季 節的に制限されるので、その他の季節には、カボクローとくにカス タニェイロ︵建・。雷§㊦ぎ︶と呼ぶ一−は、漁労や農耕にたずさわ る。  セリンゲイロにせよ、カスタニェイpにせよ、いずれも=疋の受 持の区域を持つ採集従事者であるが、この区域そのものを、後に述 べるパトラーウソ︵づ鉾贔。親方︶に提供することを生業とする一群 の人たちがある。これをマテイロ︵曇讐Φぎ山男︶という。マテイ ロは、ものなれた方法で、全く未知の森林にわけ入って、ゴムやカ スターニャの林を見つけ、その中に小径をきり拓いて、採集のため の権利をパトラーウンに売りつけるのである。         六 五八  ところで、ここにきわめて注目すべきことがらがある。テーラ・ フィルメに於ける抽出生産にせよ、ヴァルゼアに於けるジュートの 栽培にせよ、それの生産と取引とについて、アヴィアード︵碧㌶q。︶ と名づけられる一つの仕組みが、これに働きかけているということ である。このアヴィアードは、アマゾニア特有の制度であって、現 在、ブラジルの他の地方では見ることのできぬ、 いわば植民地的 な、そして一面に於て封建的なカラクリを持っている。アマゾニア の産業の成立は、これを措いては考えがたいし、少くとも今日ま で、これなくして発展しなかったであろう。その最もいちじるしい ものは、まずゴムの採隻に見られるので、しばらくこれを考察した い。  ゴム採集現場の中心は、パラカーウン︵び曽量。職。︶と呼ばれる木 造の建物で、パトラーウンの住所と売店や倉庫を兼ねている。この パラカーウンは、小型船の発電でぎる大河べりに臨んで位置し、そ こで生ゴムの出荷や商品の仕入れが行われる。さきに述べたセリン ゲイロからのゴムは、小川を通じてカヌー︵寅贔。︶でここに運ば       モリヤ ド れる。そして、彼らが必要とする生活必需品︵ヨ。旨巴。︶は、この バラカーウン、で売買されるのである。そういう点で、セリンゲイロ は、パトラーウンにとっては﹁お得意﹂︵津①讐⑪。。︶であり、パトラ ーウンはモリャードの独占供給者である。しかし、他面に於て、彼 らは主人と使用人との関係に置かれている。何となれば、セリンゲ イロは、その生活と取引とに於て、,全面的にパトラーウンに依存せ ざるを得ないからである。すなわち、彼らは、採隻用具や食料品な

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どを前借して、請負のゴム採集に従事する。両者の聞には、貨幣の 観念はあっても、貨幣そのもので決済されることは稀である。  かくして、パトラ了ウンとセリンデイロとの闘には、主従的な身 分上の関係が発生する。後老にとっては、自由はない。彼らは、パ トラーウンと気が合ぬからとて、仙の地域に移ったり、逃亡したり することができない。大森林の.興地では、事実ほとんど不可能であ るからである。ことに、セアランセが東北部地方から入り込んで来 る場合には、パトラーウンと契約を結んだ周旋業者から、船賃の前 借りを受けるのであるから、この拘束の関係は、一層抜きがたいも のとなる。アヴィアードの仕組みは、このような関係の上に成り立 っている。  ここにアヴィアードというのは、明かにアヴィアール︵嘗くH暫囑︶の 語から来ている。この餌託霞は、ブラジル語では、鷲㊦冨諺5q窃11 騒9弩︵”鷺。審犀P8の℃暮。げ︶などの意味を持っているから、それ が転じて﹁前借する﹂という意昧になったのではないかと思われ る。セリイゲイロのため、モリャードを用意し提供するという意味 である。両者の関係は、セリンゲイpがアヴィアされる方、つまり アヴィアードであり、パトラーウンはアヴィアする方、つまりアヴ ィアドール︵騨く一山衛。同︶である。セリンゲイpは、このアヴィアード の仕組みにしばられて、ただ無気力に労働する。それが破らの姿な のである。  ところが、他方このパトラーウン自身が、また都市の商人に対し てアヴィアードの関係に置かれる。すなわち、彼らがセリンゲイp アマゾニア開発の問題 に供給する物資は、これら紙入からアヴィアされたもの’.㌔あり、彼 らはこれに対して、自己のバラカ至ウンに属するセリンゲイロの採 集ゴムを、全部商人に売渡す。進んでいえば、この商入も、決して 自己資本で経営しているのではなく、さらに大きな貿易商社からの 金融を受けるのである。この一連の段階は、さらに細分せられて、 最初のパトラーウンと商人との間に、レガターウン︵票、撃贔。︶と名 づけられるところの、商品を鉛に積んだ移動商品が介在することが あり、また、セリンデイロの中でも有力なものは、下翼的アヴィア ードを持つこともある。  さて、右に示されたような一連の関係では、中枢部︵貿易商祉︶ に近づくほど近代的、資本主義的となh・、末端に近づくほど、これ から遠ざかる、と一応は考えられる。ところが、最後の段階たる都 市の商人と貿易商社との間は、それ以前の諸段階と根本的に異るの である。すなわち、この関係は、純然たる商行為であって、身分的 な人間関係ではない。アジィアード制の一連のつながりは、この段 階に於て大きな断層を含んでいるのである。  パトラーウンは、セリンゲイロに対して、主従的に身分を拘束で きるが、たとい生産の成績が挙がらなくとも、アヴィアをつづけ る。そして、この貸借には期限がない。同様のことは、パトラーウ ンと商人との間にも存在すると考えられる。ところが、最後の農階 たる都市商人と貿易商社との聞には、そういう入間関係の入り込む 余地はない。決濱は、あくまで取引として、厳正に行われるのであ る。したがって、このようなアザィアードの制度は、価格が安定し 五九

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アマゾニァ開発の問題 ている場合には安全であっても、それが一たん不安定となると、破 綻を来さざるを得ない。  都市商人から、右の順序で供給せられる物資は、セリンゲイロの 手に渡るときには、ほぼ四倍の価格になるという。逆に、ゴムがセ リンゲイロの手を離れて前進すれば、何倍かになるであろう。いい かえれば、セリンゲイpは、きわめて高い生活物資を買わされて、 法外に安いゴムを売らなければならないのである。しかし、彼ら が、その前借.と労働の報酬との問に嘗て受けるこの極端な価格の開 きは、密林の奥地にあっては、一がいに不当とのみ断言できぬかも 知れない。パトラーウンが、取引上の危険を負担するためには、一 面やむを得ぬところでもあろう。  この危険の負担という点については、ヴァルゼアに於ける家畜の 飼育にも、これを見ることがある。すなわち、資本主が飼育者に対 して牛群を提供し、何年かの後に.その殖えた牛を両者に於て折半す る。この際、もし洪水や疾病などで樂死したならば、その損害は、 通常双方で負担するけれども、全滅した場合には、すべて資本主の 損害に帰する。しかし、この.危険.負担は、実は、原始的な請負もし くは保証の関係にとどまり、セリンデイ㌣とパトラーウンの聞のよ うな、人間学係が存在するとは考えられないのである。  右で明かなように、アヴィアードの仕組みの基礎は、人聞 関係に ある。この仕組みの成立は、一に熱闘関係の強さにかかっていると いえる。そういう状態のもとで、その間隙をぬって、近年、主とし てトルコ商人のバテラーウン︵ぴ象。贔。Vが横行する。これはパトラ 六〇 1.ウソにかくれて、セリンゲイ戸に行商する小舟であって、彼らと の間に、ゴムと日用晶との交換を行う。一種の買抜け、売抜けであ る。パトラーウンの威信がセリンゲイPをつなぎとめ得なくなる と、この縄張り荒しは、もはや避けがたいと考えられる。  さて、アザィアードの制度は、もとよりゴム採集に達て発達した のであるが、現在ではカスターニャの採集に於ても存在し、鰐皮の 場合にも見ることができるし、さらに進んで、ジュートの栽培に も、これが行われるようになった。  ジュートの栽培は、すでに述べ忙ように、アマゾニア産業の手に よって始められた。このジュート栽培に全て、その経営者はジュテ ロイ︵甘叶Φマ。︶と呼ばれ、そのもとに働く労働者はコpーノ︵8ぎき︶ と名づけられる。太平洋戦争までは、冒本人ジュテイロば、資金的 にアマゾニア産業の麦援を受けていた。つまり、会社は、彼らに生 活必需品を前渡して、これを牧穫ジュートによって決無し、残額は 現金の支払によった。  戦争によって同社が解散して後は、ジューテイロは会杜の麦援を 失い、各地に四散したが、その頃のジュテイpとコPーノとの間に は、右のゴムに於けるアヴィアードの仕組みがとり入れられ、ジュ テイロはコローノに対して、現金で労賃の支払をせず、みずからパ トラーウンとして、 モリでードの前貸を行うに至ったと考えられ る。いまその商品利潤を織込めば、実質賃銀は大幅に節減せられ、 一〇一三〇%に及んだという。  その後ジュート栽培が発展し、経営面積、が拡大されると、アヴィ

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アの危険も大きくならざるを得なくなった。そこで、ジュテイロの うちには、コローノをジュテイロとして独立せしめ、みずからは.彼 らにアヴィアして、集荷するに至った。つまり、ジュテイpは、ジ ュートの直接生産者たることから、間接に、商事たることに一歩を ふみ入れたのである。コpーノたるカボクロにとっても、アヴィア によって、自己の責任で経営することを、むしろ好んだと見られ る。かくして、日本人ジュテイロのみならず、ブラジル人やユダヤ 商人も、ジュート栽培に対して、アヴィアドールとなったのであ る。  このように商人化した日本入は、やがて各種商品を取扱い、ジ、一 ートとともに、ゴム、カカオ、ヵスターニャ、鰐皮などを集荷する アザィアドールとなったものが少くない。しかるに他方、コローノ の生活にもとどまり得ず、カボクロと同様の境涯に転落した者もあ る。戦後の日本人ジュテイロは、再転三転のうちに、大商社からカ ボクロ社会の一員に至るまで、ひろく散ばった。いいかえれば、彼 らのアヴィアドール化は、従前のジュテイp社会の階層化をもたら したものである。なお、商人化した者の中には、さらに農業、牧 畜、小規模の工業などの経営にも進出.したものもある。 七  アヴィアードの制度の大要は右に述べたところで明かであろう。 ところで、そういう仕組みが成立するには、その奥に、いったいど ういう事惰が働きかけているであろうか。つまり、アヴィアード制       アマゾニア開発の問題 の成立基礎を、いま少しく考察したいと思う。  まず、自然的環境について。既に述べたように、セリンデイロの 作業は、すべてパトラーウンの住居たるバラカーウンに中心を置く が、このバラカーウンが縄張りとする面取は、大変なものである。 各セリンデイロの受持区域も、またきわめて広い。パトラーウンの 命令によって受持区域が定められると、セリンゲイ戸は、お互に森 林のここかしこに、離れ離れになって住み、バラカーウンとの間に は、わずかにカヌーを以て連絡される。彼らが、仲陽やバトーヲーウ ンと顔を合わすのは、採集物を持ってバラカーウンに現われる時に 限られる。彼らにとっては、環落生活はあり得ない。全く孤独の原 始生活なのである。  第二に、このような自然思量に建ては、おのずから、これに応じ た社会関係が生れる。すなわち、セリンゲイpのパトラーウンへの 結びつきは、アヴィアードとして主従のつながりではあっても、彼 らが横の仲聞同志のつながりに於て、社会を意識することはあり得 ない。パトラーウンは、このセリンゲイロの生活の上に於てのみパ トラーウンであり、したがってアヴィアード制の成立は、実は、社 会意識の欠.如ということそのことによって、可能となるのである。 いま、これを封建的制度と見るとしても、それは、決して、本来の 意昧で、血縁や地縁の意識に支えられたものではない。  アザィアードの仕組では、経濱的に、強い控取と支配の関係があ る。しかし、それは、いわゆる階級意識として現われた関係ではな い。進んでいえば、彼らの間には、階級という近代意識そのものが 口窄

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      アマゾニア開発の問題 存在しない。その意味では、彼らとパトラーウンとの関係は、個々 の人間的な勢力関係であって、経浩的には被搾取者であり、被支配 者であるセリンゲイp相互の聞には、素朴な社会的紐帯にすら乏し い。少くともそう想像して誤りなかろう。  さて搾取者であり麦配者であるパトラーウンは、一方都市の商人 に対して、逆に被搾取.者の立場に置かれる。ところが、この方向をも う一つ遡って、貿易商社にまで達すると、質的に異った資本主義的 な商取引につき当るのである。商人と貿易商との間のこの断層は、 つねに、前者に弱く後者に強い障壁となっている。  都市.藺人は、内に向ってはセリンゲイロの方向に、一連の力を及 ぼして行くが、他方この断層の前で、外から貿易商社の圧力を受け る。都市商人は、取引上の危険をみずからの手にくいとめ、これを 負署する。そういう点で、アヴィアード制の植民地的性格は、たと えば中国に於ける買弁︵8白箕艶霞︶と、やや異るようである。す なわち、買弁は、外国資本に利用されつつ逆にこれを利用して、国 内の弱小農民に対するのであって、その場含の危険.負担は、内に向 って、これら農民に転嫁されると見られる。  プヴィアτドの制度は、とにもかくにもこのような状況のもと に、アマゾニアの抽出生産を支えて来た。 ついで農業部門に於て は、ジュートにもこれが見られるようになった。日本移民が、この 際むしろパトラーウン化したことについては、既に述べたところで ある。ところが、日本移民の開拓したものにあっても、テーラ・ク ィルメに於けるピメンタの場合は、その事情が根本的に異る。すな 六二 わち、トメ・アスτの産業組合である。  トメ・アスτは、アマゾン河口に近いアヵラ河︵切ごb$審︶の 左岸、ベレンを去る一二〇粁にあって、既に述べた南米拓殖が開拓 した地域である。ここへの入植者は、衛生状態の不良と、カカオ栽 培の失敗から、その大部分が退耕し、各地に分散した。その困難の 間にあって、一部の篤農家によって、ピメンタの栽培の努力が払わ れて来たが、たまたま戦時中の価格高騰によって、急激な発.展を示 すに至った。いまやピメンタは、ジュートとともに、アマゾニアの 有力な産業となろうとしている。  ところで、ジュートと異って、牧穫の大部分を、北米及びヨーロ ッパに輸出するこの産業は、いまのところ異常な好況に繁栄してい る。しかも、その発展が、自主的な産業組合の運営によって獲られ た点で、われわれは、これを注目しなければならないのである。  この産業組合は、一九四九年、法的に成立したのであるが、それ は一九二一年の野菜組合に始まり、当時はベレンへの出荷を目指し た。後に南米拓殖の物資配給所を引きついで、購買、販売両面を持 つ実質を具えた。もともとトメ・アスーの地理的環境を見ると、ア カラ河は、外部への唯一の通路であって、この開拓地域は、いわば 森林の孤島となっている。そこでの、生活は、すべて協同の意識に よらなければならない。このような環境が、やがて産業組合の組織 を生み出す基礎であったのである。  さてピメンタの塩害は、七月一九耳の問に行われて、大量の労働 を必要とする。事実、この期聞、数十家族の入植地に、約二千のカ

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ボクロを集めるのである。彼らは、多くは近接する郡のセリンゲイ ロであるが、労賃の現金支払に引さつけられて、ここに集って来 る。すなわち、彼らは、組合から買う物資で自炊生活を営み、日本 入農業者の指導のもとに働いた後、 多額の現金を襲にして帰郷す る。かかる労働条件は、アマゾン河流の抽出生産には、全く見らら れないのである。トメ・アスーは、その意昧では、いわば近代的経 営に一歩を進めた、と見ることができよう。  このような事情が、トメ・アスーに於て、アヴィアードの欄度の 成立を不可能ならしめた、と考えることができる。それは、第一に は、その自然的環境の結果であり、第二には、入植者の協同意識の 産物である。第三には、むしろさらに大きい理由と考えられるので あるが、労賃が現金で支払われることも、ここに集散するセリンゲ イロをして、アヴィアードから遠ざからしめたのである。  このようにして、カボクロの社会が、たとい短期の労働契約を通 してではあれ、近代的経営の方向にやや近づくと、それだけ封建的 なつながりを失うことを、雄弁にものがたっている。しからば、他 方、長期の労働契約では、事情はどうであろうか。この場合にも、彼 らの生活は、根本的には、近代的な組織からきわめて遠い。 さきに触れたフォードのゴム園の失敗が、明かにこれを示している のである。  フォードのゴム園では、労働の長期の確保のため、異常な高賃銀 と、完備した福利施設とが与えられた。ところが、カボクロにとっ ては、それは必ずしも大きな魅力ではなかったのである。生来無気 アマゾニア開発の問題 力で、勤勉とはいいがたいセリンゲイロは、その結果、一日を働き 数日を遊.んだ。リクリエイションの諸施設は、必ずしも彼らに歓迎 せられなかった。高い民度は、所詮彼らのものではないのである。 彼らのこのような性格は、アマゾニア開発のための.労働問題として も、深く考慮せねばならぬ点であろうし、人[[の極度の稀薄を思い あわせば、とくにそうである。一般に、後進地域に於ては、多かれ 少かれ、このことが問題とせられよう。  ところで、入植者の協同意識という点では、日本人ジニテイロに 於ても、これを見ることができた。アマゾニア産業では、当時日本 国内で、開拓者養成のために設立せられた高等拓殖学校の卒業生 を、その指導的ジュテイpとして受入れた。彼らは、現地では﹁高 拓生﹂と呼ばれていたが、その高拓生意識が、会社の諸施設と相ま って、彼らの聞にアザィアτドを出現せしめなかった、と考えるこ とができる。会社の解散後、四散した彼らは、たがいに相隔ること 遠くなったけれども、なおこの意識は失われず、それが紐帯となっ て、多少ともある社会関連を持ちつづけていたのである。  かかる意識こそ、まさしく、彼らをしてアザィアード化せしめる ことなく、むしろジュート商人化への道を辿らしめたのである。こ の場合のアヴィアード化は、かつての日本人ジ.一テイロにではな く、主としてコローノとしてのカボクロに於て、これを見ることが できる。なおこの日本人ジュテイロの商人化については、彼ら﹁高 拓生﹂が、多くは都市の中産階級の出身者であり、必ずしも農村、 とくに貧農の出身でなかったということも、大きな原因となってい 六三

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るであろう。 アマゾニア開発﹂の問題 八  周知のように、南アメリカは、十六世紀の初葉以来、主としてス ペイン、ポルトガル両国人によって開拓された植民地帝国であった が、そのうちブラジル一国のみが、ポルトガル入によって建設せら れた。もともとラテン種族は、アングロサクソンと異って、人種観 念については比較的に開放的であり、現地のインディアンや移入の 黒入に対しても、ほとんど偏見を抱くところがない。  ことに、征服者としてのポルトガル人は、他のスペン系各国に於 けるように、インディアンを絶滅するこ・.﹂なく、逆にこれを利用す る態度に出た。すなわち、彼らは、労働力の給源としてこれを捕獲 し、これを手馴づけたのである。混血種としてのヵボクロやセアラ ンセは、このような事情のもとに生れた。  人種的には開放的であったラテン入も、経濱的には、甚だしい圧 追者であり搾取者であった。彼らの開拓は、本国に対する植民地牧 奪として行われたのである。そういう状態は、それから二世紀をへ て、十九世紀の初葉に、ラテン・アメリカ各国がそれぞれ独立して から後も、本質的には変化していない。これら諸国の独立は、いず れも共和制を以てなされ、ただブラジル一国のみが、やうやく一八 九八年に至って、帝制を廃して共和制を布いたけれども、経済的牧 奪の機構は、政治態勢の如何にかかわらず、依然存在していたので あるQ 六四  ただこ.の牧奪の成果は、当初にはもつばら本国に向けられたので あるが、やがてこの頃には、それぞれ現地の大資本家、地主、農園 主などに向けられるに至った。われわれは、この機構を措いては、 ラテン・アメリカ経浩の成立を論ずることはできない。それがたま たま、アマゾニアに於て、アヴィアードの仕組みとなったまでのこ とである。  パトラーウンや、さらにこれにアヴィアする商人は、もとよりカ ポクロではない。彼らは、まずポルトガル系ブラジル入であり、ま た少数の外国系の人たちである。ジュート取引に於て日本人の進出 を見たことは、既に述べた。そしてこれらのアヴィアドールは、多 くは、資本的に地方財閥に依存している。ただ、このアヴィアード の仕組みの終点に接続する貿易商に於ては、どの程度まで外国贅本 につながり、またどの程度まで民族資本で賄われるかという点は、 いま私は、これを詳にし得ないでのである。  アヴィアードの制度に於て、カボクロからパトラーウン、パトラ ーウンから商社というように、一連の系統を辿って大資本につなが っているが、彼らの生活上の地位は、たがいに甚だしい懸隔を示 す。さきに取引に於て、商社と貿易商との聞に断層の存在すること を述べたが、いま人間生活の経済的内容という点から見れば、最初 の段階たるカボクpに於て、驚くべき断層を示している。彼らと、 彼らがつながれてところのアヴィアドールの順次の階層とは、ラテ ン・アメリカ社会についてしばしば潰えられるように、四等車と一 等車とが運結した一つの列車を形づくる。つまり、本質的に隔絶し

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た階級が、経済的に一つの連繋を形づくる。それが、アヴィアード の仕組みである。いま植民地的、封建的ということは、ともかくこ のような杜会の構造として理解せられる。  アマゾニア開発の諸計画は、まずこの構造を、現実の存在として とり上げなければならない。その場合、実際には、多くの点で、た がいに矛盾するであろう。それらをいかに調和綜合するかというこ とに、それが特に、憲法による国の施策として行われる意味があ る。  すなわち、憲法第一九九条にも明かなように、本開発計画法に於 て、とくに﹁経済価値増大計画﹂︵恥き。診ぐ9自冨港繊。︵一83巨8︶ の語を用いており、その目的とするところの一つが、住民の社会 生活基準の改善︵白亀再諺罵穿α㊦。。ω。。卿巴。。幽⑩乱号︶や経済的向上 ︵びO昌ρ ①ひQぴ節胃 ①らOじO巳P一〇〇︶などにあることを明かにしている。ついで、 その内容として、各種の産業のいわる開発︵画Oコ90潔くO同く一翼OμけO︶に触 れるのである︵第一条︶。さらに進んで、部門ごとに、森林抽出生 産については、その最低価格基準が、生産費と矛盾しないことを要 求したり︵第七条、第一号︶、牧畜については、住民の栄養指数の 向上をその目的とすることを明かにしたり︵同、第二号︶、さらに、 移民について既に触れたように、肉体的、社会的刷新を含む人口政 策懸計画したりしている︵同、第八号︶。これらの規是は、明かに 問題の所在点を示しているということができよう。  アマゾニア開発計画は、多くの部門にわたるけれども、とくに農 業が先行し、また労働力義塾としての移民が問題とせられる。これ アマゾニア開発の問題 らの移民が、如何にカボクロに協同し、またはこれを指導すべき か。能率や採算という経営本来の立場からも、多くの点がとり上げ られなければならない。進んでは、これと文化的施策との矛盾も、 重大な論点となるであろう。  さらにまた、開発が鉱工業、交通などの部門に拡大されると、こ れに要する労.働力は、きわめて大きいのであるが、低い民度の、し かも限られた彼らの人[[を、如何にしてこれに振り回けるべきであ ろうか。ここにも、解.決すべき問題がひそんでいる。  アヴィアードの制度については、もより功罪論ずべきものがあろ う。しかしながら、とにもかくにも、それを措いてアマゾニアの産 業が成り立ちがたいことが、歴史的に示されているのである。将来 にわたって、カボクロに対して、多少とも文化的施策がとられると しても、その速度はゆるく、その効果は微温的たらざるを得ぬであ ろう。その限.りに於ては、アヴィアードの制度は、よかれあしか れ、開発を震える機構として、何らかの意味で積極的作用を果す、 と考えられる。アマゾニアの開発とアヴィアード制とは、本質的に 切り離しがたい直穿に於て、これを考察しなければならないのであ る。 九  さてわれわれは、最後に、次のことに注意しなければならない。 ブラジルに於て早くから開発せられた、南部の耕作地帯は、地質的 に見て、その多.くがテーラ・pッシヤ︵睦①目目9 智O図四︶であった。つ 六五

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アマゾニア開発の問題 まり、火山岩の崩壊によってできた豊沃な土質である。コーヒー栽 培の異常な発展は、日本人移民の勤勉もさることながら、根本的に は、この地味によったことを忘れてはならない。  そういう肥沃の地帯が、アマゾニアに於て、テーラ・フィルメに 展開せられていることが、最近の調査で、ほぼ確認せられており、 その面積は、南部諸州のそれに数倍すると想像せられる。すなわ ち、たまたま︸九五四年七月、在ベレン日本領事館で発見せられた 古い地質図で、それが窺えるということであるし、また事実、密林 のところどころに見出される、インディアンの永住的連作耕地は、 断片的ではあるが、それの存在を示している。  もとより、正確には、今後の調査にまたねばならぬとしても、未 開の大森林にかくきれた土地が無尽の宝庫となるであろうことは、 必ずしも夢ではない。しかし、そのことがかりに実現するについて は、もつばらカボクpの労働に依存する当面の開発計画では、とう てい追いつくわけではない。労働力を大規模に確保するための移民 受入れの政策が、根本的に検討されなければならなくなる。  さて開発計画は、いま農業部門とともに、工業部門についても行 われようとしている。それらは、個入早馬としても、または州政府 その他の公共機関と個人資本との合弁によっても、開発計画に含ま れる範囲内に於て、企業の設立が奨励せられるし︵第七条、第十二 号︶、その際の資金は、開発基金からこれが支給せられることがあ り︵第十七条、第一項︶、またそのための機械設備の輸入について、 その関税を免除せられる︵第二十八条︶などの便宜が与えられる。 六六  そういう計画は、すでにいくつか進められており、ジュート生産 の中心たるサンタレーンには、資本金ミ万コントス︵邦貨︸億八千 万円︶を以て、パラー州政府からの一部補助によって、小規模では あるが、一貫作業の、製麻工場が建設せられつつある。その他ベレ ンに於ては、セメント工場︵十万コントス︶の計画が進められてお り、マナウスを中心とする地域には、大規模の道路建設事業が企て られているし、それには、おそらく日本からは最初と思われる、百 万ドルに及ぶこの地域への建設機械の輸入が、計画せられている という。  ただこれら個々の計画が、必ずしも予窺通りに進捗せず、アマゾ ニア開発計画が、全体としては、いまだ充分な発足を示していない のは、たしかに事実である。それは、第一には、この数年間進行し っっあるインフレーションによって、開発.予算が実質的に減少した こと、第二には、為替制限がかなり厳重に行われており、とくにこ れらの計画のための特例が設けられがたいこと、などの事惰にもと つくものと考えられる。  いまかりに、これらいくつかの障害がとり除かれたとしても、開 発の諸計画を具体化するところの個々の企業にとっては、それを成 立せしめるための経営上の諸条件に、きわめて多くの困難を含んで いる。われわれは、その最大のものを、まず右のカボクpの労働 に、ついで動力や運送の便宜の畝乏の諸点に、見出すのである。そ ういう場合に、先進諸国に比して飛躍的にすぐれた方式が、一挙に とり入れられるということが、この経営にとっては、むしろ望まし 「

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いかも知れない。そういう点で、その資本円規填も、いきおい大と ならざるを得ないであろう。ここに外資導入の必要と困難ととが、 たがいに矛盾するものとして、登場するのである。  いずれにしても国内盗本が貧弱であり、外資を求める必然性が増 大し、すぐれて近代的な経営が、とにもかくにも取り入れられる場 合にも、社会機構としては、アヴィアードは、それが後進的である ことをそのままに、この先進的な経営に結びつかざるを得ないであ ろう。かようにして、アマゾニアにあっては、一等車と四等車とは 依然前結しっっ、経洛開発という新しい軌道を、当分の間は走るこ とであろう。そういう点に、後進地域開発の一般性と特殊性とが、 考察できるのである。  付記、本稿については、泉・斉藤両氏著﹁アマゾン﹂に負うとこ     ろが多い︵本誌第二十四号参照︶。 童

岡部寛之著﹁保険学新講﹂

西

 ここ数年の間に公にされた保険学の論著は、決して少しとしな い。それらの中にあって、岡部寛之博士の近著﹁保険学新講﹂ ︵昭

書評﹁保険学新講﹂

和三十一年三月、保険研究社、二四四頁︶は、、特異の立場に立ち、 特異の体系を持つ点で、きわめて注目すべき労作である。本書が触 れているいくつかの首題は、従来の保鹸堂・から見れば、たしかに新 しい課題を謎供したものと見ることができよう。そこで私は、その うちの一、二を紹介して、その方面から、本書の特色を明かにした いと思う。  まず著者は、本書の序言に於て次のように述べている。 ﹁⋮⋮説 ききたり展開する理論は、これことごとく従来の保険学説と全く異 った新らたなる説である。而もその場合、著者の理論的立場はいう までもなく﹃資本論﹄の正当さに立脚して如何に保険を把握するか にあり、そして一応経済学的にとり’60ぐべき、保険をめぐる諸問題 についてはすべて取りあげて検討を試みたのであるが、その展開の 過程に於て従来の保険論との懸隔を明かにするために必要な限りこ れが批判を加え、然る後に自説を展開することとした⋮⋮。﹂ ﹁⋮ ⋮それはややもすれば顕微鏡的詮索にのみ終始している従来の学問 に対する研究態度を脱却して、たとえ、大雑把でもよい、荒削りで もよいから、ともかく体系的、有機的な学説を打建てる、その上で 室内装飾をほどこすべきであるという著者の考え方に依拠するもの である⋮⋮﹂。  これによって窺えるように、著者は、野心的な態度で、従来の保 険学に挑み、そういう理論の展開のうちに、おのずから一つの体系 が組立てられている。その意味では、溝新の風を吹き入れた、とい うことができる。しかし、そうであるからとて、この体系が、理論 六七

参照

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