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漢学者松崎鶴雄 その民国文人との文化交流 ―大連在住期を中心に

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漢学者松崎鶴雄その民国文人との文化交流

1大連在住期を中心に

﹁松崎鶴雄﹂と言っても、本誌を手に取られた方には恐らくほとんど馴染みのない名前だろうが、実はかの与謝野日"子をし て﹁松崎先生と相知る喜び﹂を得たと言わしめ、横光利一をしてその文章に対して﹁非常な名文﹂と畭らせ、さらにその随筆 集﹃雨の思ひ出﹄(座右宝刊行会、一九四六年)を志賀直哉が﹁好個の名随筆として薦め﹂たという人物なのである0 与謝野 晶子が松崎と会ったのは満鉄の図書館だった。横光利一も菊池寛と中国東北地方(旧需)を訪れた際、﹃満洲日報﹄主催の 座談会でそう語ったのである。この松崎鶴雄(一八六七S 一九四九)、その文章の見事さもさることながら、本業は満决大連 図書館の職員であり、その業務の傍らと言うべきか、あるいはこれこそ本業と一言うべきか、漢籍を牙究し、斤にmれて漢詩も 詠む漢学者であった。件の座談会で、当時満洲に住んでいた八木沼丈夫が﹁松崎さんは支那人も感服する程の支那古文書に詳 しい方で、 1﹂と発言し、そのとき﹁数氏より松崎氏の学襟讃の声交々起る﹂(数氏とは座談会に出席していた﹃満洲日報﹄ の記者たちだろう)と、巽されているように、松崎は当時、中国東北地方において相当に名の知られた漢学者であったようだ0 松崎が初めて中国ヘ渡ったのは一九一 0年、彼が四十二歳のときだった。彼は湖南の長沙ヘ行き、まず王闘運(号湘綺0 -八三二S 一九一六)の門人となった。当時の長沙には王闇運のほかにも、二人の著名な学者がいた0 葉徳軍(一\弌四S 一九

はじめに

田 主月 、1 -

15-継

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二七)と王先謙(一八四二S 一九一七)である。松崎は主に王闇運と葉徳輝に師事し、王の私塾で公羊学と文学を、葉の私塾 では目録版本の学と説文の学とをそれぞれ学んだ。松崎の字﹁柔甫(父)﹂は王閨運が付けてくれたものであった。 一九一七年、妻の病気のため、いったん日本に帰ったが、一九二0年には南満製道株式会社(満鉄)大連図書館の司書と して招聰され、再び中国ヘ赴いた。それ以後、彼は漢学の専門知識を生かし、漢籍の調査・購入・整理の業務に従事した。同 時に彼は漢学に関する多くの論文や随筆等の文章を著すようになった。やがて当時の大連さらには東北地方全域において、 彼は漢学者としての名声を博するようになり、日本人・中国人の別を問わず、およそ知識人であれば松崎鶴雄(柔甫)の名 を知らぬ者はないと言っても過言ではないほどになった。 私は数年前から、近代日本漢学史研究の一環として松崎の事跡を掘り起こす作業を続けているのだか、たまたま昨年(二0 0九年)九月、中国吉林市の北華大学で開催された。近代東亜的接触空間1以中国東北地域為中心(一八九五1一九四五年)0 国際学術曾会に参加する機会を得たので、﹁日本漢学家松崎鶴雄在中国東北地区的学術、文藝交流﹂と題してまとめた小文 を提出して出席し、研究発表を行った。松崎の中国における足跡は湖南、上海、大連北京等、広範囲にわたるのだが、上記 学会の主題に合わせるべく、彼が中国東北地域の大連に居住していた時期綻って原稿をまとめたのである本稿はこのd文 をもとにして加筆修正を行ったものである。 彼のこの時期における中国文人との交流のあり方は一応、図書館業務を通じての交流、学術研究活動上の交流文藝上の交 流の三つに大別できると思う。ただ、前にも触れたように、彼にとって図書館業務を通じての交流と、学休研究活重上の交流 (4) とは、ほとんど不可分一体のものとなっていたため、叙述の便宜上、一括して取り扱うこととしたい。 なお、本稿では漢文文献を多数引用することになるが、引用の際、その文章の性質と難易度に応じ、①日本票、②書き下 し文、③原文十書き下し文、④原文のみの四つのスタイルを使い分けることにする。

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彼が大連で行った帯活動のうち、最も影響力の大きかったのは、彼が一九三三年から羅振玉(一八六六S 一九四0)の求 めに応じ、羅振玉の子福成・福噸(一九0五S 一九八一)、羅振玉の姉の夫何益三(耐庵)とともに取り組んだ清朝内閣大庫 整理の事業である。しかし、詳しくこの一件を紹介しようとすると、論及せねばならない問題があまりにも夕夕く、又拾のつか なくなる恐れがあるため、また別の機会に改めて論ずることとしたい。今回はこれまであまり知られていなかった幾つかの事 例を紹介したいと思う。

﹁図書館業務上、及び学術研究活動上の交流

金毓敞との交流 金毓敞(一八八七S一九六二)は東北の文史研究で著名な学者である。彼は一九三六年に南京の中央大学の教授に任ぜられ る前は東北地方で役人として勤め、公務の余暇にあちこちヘ実地調査に出かけつっ研究を行っていた。一九二六年九月下旬、 大連を訪れた際、彼は﹃全遼志﹄と﹃国史文苑伝﹄を閲覧するため、満鉄図書館ヘ行った。松崎の説明にょり、満鉄図書官に は抄本の﹃全遼志﹄と内府写本の﹃国史文苑伝﹄が収蔵されていることが分かった。松崎は、同館がどのようにしてこの二重 の文献を収蔵するに至ったかについても説明してくれた。感激した金毓献は、こう思ったという。 真塾なことだなあ、彼の国の人士は!我々は彼らに対して恥ずかしい気持ちになる。 1 (中略) 1思いもかけなかっ た、この図書館でこれらの本を閲覧することができようとは。また、朝鮮の史籍数種もこの図書館にはあり、それらも私 がこれまで見たくても見られないものだった。今回の訪問は無駄でなかったと言うことができる。(﹃静晤室日記﹄民国十 ① -17ー

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五年九月二十五旦 金の日記にょれば、その日の夜、当時﹃泰東日報﹄の編集者を務めていた傅立魚(一ハハニS 一九四五)が金にこう告げた とし、つ 図書館の松崎氏はかつて湖南に遊学し、業を王湘綺先生の門に受け、広く群書を極め、特に史地の学に精しい r内の 地志の書は、皆彼の手にょって蒐求したものである。故に収蔵が極めて豊富である。彼は詩も能くし、年配の人もその詩 に多く撲手して推服する。(同上) この日が金と松崎との初対面の日だった。それからちょうど一年の後金は再び大連に遊び、満鉄図書館ヘ書籍の閲覧に行 く。その後彼は詩数首を得るが、その中に松崎のことを詠んだ次の一首がある。 大連雑詩其の四

万軸牙筌挿架高万軸の牙筌挿架高し

礼求於野此称豪礼をば野に求めて此に豪と称す

松崎一老真無敵松崎一老は真に無敵

九市神遊奨鼈九市に神遊して六鼈に駕す

︹大連満鉄図書館収蔵中籍、皆館員松崎鶴雄一人之力。︺(﹃静晤室日記﹄民国十六年九月二十四日)

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分類の見分けに用いる象牙で作った札を挿した多くの書籍。その中に埋もれて仕事をしている松崎の姿を考詣とさせる乍品 である。

②楊鍾義との一誘

次に私が取り上げたいのは楊鍾義(一八六四S 一九四0)と松崎との希交流である。楊鍾義は漢軍正黄旗人(満族)で、 字は子勤、原名は鍾広、号は梓励・雪橋等。戊戌政変後、改名し、楊を姓とするようになった。彼の祖先は遼陽にいた。当時 日本の漢詩人が大連で発行していた﹃遼東詩趣第六十一号(一九三0年十一月十五日)に、楊鍾義が松崎に書き送った﹁意 園手札践﹂の次のような一文が載っている。 柔甫先生、貴兄はこのほど入手された意園の手札を私に見せてくださいましたが、これはいずれも意園が福山王文敏公 にお送りになったもので、粛忠親王艾堂主人の旧蔵です。 文中の﹁王文敏公﹂は一九00年に清朝政府にょって京師団練大臣に任命され、ハカ国連合軍に抵抗して戦死した器栄(一 八四五S 一九00)のことであり、文敏公はその縊である。﹁忠親王艾堂主人﹂は善耆(一八六六S 一九二二)、字は艾堂、 満洲鑛白旗人、一八九八年に爵を襲い、忠親王となった。では、楊鍾義がこの文章を書いた背景はどのようなことだったのか0 この資料から我々は次のような事実を知ることができる。すなわち、松崎は偶然﹁意園手札﹂と題する書簡資料に遭遇し、楊 鍾義にこの書簡の由来及びその具体的な内容について教えを請うた。﹁意園﹂とは清朝の宗室盛旻(一八四七S一九00)の 号である。義和団事件勃発のころ、楊鍾義は﹁憂い悲しむ余り、病に陥り÷(中略)・・・京官から地方官ヘの改任を願い出た0 意園が代わってくれたが、一たび江海に指揮を取るようになるや、二度と会うことのできぬ﹂(﹁意園手札践﹂)状況になって -

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19-しまった0 すなわち義和団事件で戦死したのである。さて、楊鍾義は三十年ぶりにこの資料と出会い、﹁柔甫の逵いし所の此 の冊、山窓に玩耽し、老涙の廃に棲まるを覚えず﹂(同上)という心境であった。最後に楊鍾義は盛旻が残してくれたこの書 簡が広く伝播して、﹁海内外の人士をして咸宝貴なるを知ら﹂(同上)しめんことを望むのだった。 ところで、①で取り上げた金毓敞は一九三二年の夏、沸国奉天省図書館の副館長に任ぜられ、十一月六日、三たび大連を 訪れた0 そのころ松崎は既に満鉄を退職し、悠々自適の生活を送っていた。その日の日雫彼は次のように松崎に言及してい る。 (午)飯の後、往きて松崎君を其の寓宅に拝す。松崎は名は柔市曾て湖南省城に旅居して、業を湘綺老人の門に執り、 (中略) 1中籍の版本に熟し、篤学にして倦まず、東邦の士夫中空に槻る所なり。余嘗て謂えらく、其の品詣極め て楊子勤︹鍾義︺に似たり、而して誤寡言も亦相近し。(﹃静晤室日記﹄民国二十一年十一月六旦 その品行と﹁簡黙寡言﹂な点で松崎と楊鍾義が似通っているという感想は、二人が学術研究の姿勢において相通じるものの (N) 多かったことを物語る言葉であろう。松崎は中国の文人の書斎訪問記とでも言うべき﹁中国の士君子の書斎﹂という文章を書 き残しているが、その中で楊鍾義の書斎についても記している。

③陳垣との交流

松崎と楊鍾義の書簡のやり取りを通じて、我々は日中の二人の学者の一糸をも萄くもせざる研究態度の一端、及び彼らの間 の深い友情を見て取ることができた。松崎のこのような、学知に対する熱意は、彼と史学の大家陳垣({子援庵。一八八OS -九七一)との往復書簡の中にも表れている。陳垣にあてた松崎の書簡は今、計十九通が﹃陳垣来往書信集﹄に収録されている。

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ここでは松崎が一九二九年に陳垣に送った書簡を例として挙げよう。 援庵先生ヘ 前にお手紙を差し上げてご教示をお願いした人名につきましては、ほぼ明らかになりましたが、今回またご教示をお願い したい事が一件ございます。清初乾隆帝が﹁平定台湾図﹂に賛した銅版を、敞館に十二葉収蔵しているのですが、この種 なんぴと の銅版画は何人が描いたものなのでしょうか、もしその作者の姓名及び刻版の地を考拠することが可能でしたら、ご教示 を賜れば幸甚に存じます。この図は台湾図書館にも収蔵されていますが、敞館所蔵の平定金川図は、その下端に欧人の名 があります。この種の銅版はパリで刻られたという説もあるのですが、未だ確証を知りません。 1 (中略) 1弟松崎鶴雄 頓首。八月四日。 書簡の内容から見ると、松崎はこれより前に陳垣に或る人物の名前について問い合わせ、それが解決した後今度は満鉄図 書館所蔵の﹁乾隆帝が平定台湾図に賛せる銅版﹂の作者等について教示を請うたことになる。陳垣からの返信は、残念ながら、 見ることができないが、この一件をはじめ、松崎はさまざまな問題について陳垣に書簡で問い合わせている 満鉄図書館の事業との関係もあって、松崎は一九二七年前後から﹁四庫全皇国﹂に関する研究を進めていたようであるが、一 九二八年七月二十一日には大連市満鉄社員倶楽部で陳援庵先生を中心とする版会(四庫全書畿会)が開かれ、もちろん松 崎もこれに参加している。 また、松崎は白身も書道の造詣が深かったが、陳垣の書道藝術も深く敬慕していた。松崎は六十歳の誕生日を迎えた後の一 九三二年八月二十一日、書簡に高麗紙一枚を同封し、﹁順室を輝かして、老餘の箴と為す﹂ベく自分のために一亙玉を軍 毫してくれるよう陳垣に墾朗している。

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-21-④羅振玉との一荒

敦煌文献の収集や金石甲骨文の研究で有名な考聖者、羅振玉(字腎、号雪堂、貞松老人。一八六六S 一九四0)は一九 ニハ年、旅順に転居していたが、そのころから松崎との交張始まった。 一九二九年八月一日ごろ、松崎は﹁旅堰軍山のほとりに、幽津な書室を叩いて、羅雪堂翁と餘念なく書香をたどつた﹂と して、﹃室杲旦第六号(一九二九年九月一日)にその学術的談話の内容を巽し、紹介している。同誌第十二号(一九三0年 三月一日)には、大連図書館で五月下旬から羅振玉の需を開催する旨の広告が載り、その霜は、 大連図書館に於ては、中国に於ける金石学の泰斗である羅振玉氏を招聰し、五月下旬より毎月第一、第二日曜日、大連 図書館にて﹁中国学術之源流派別及其研究法﹂に関する連続講演会を開催するが、聴講希望者は速かに大連図書館内松崎 鶴雄氏まで申込まれたい。 と記されている。さらに、同誌第十八号(一九三0年九月一日)には﹁援玉翁の需概況﹂霜介され、その講述内容は最 終的に満蒙パンフレツト(第十五号)﹃本朝学術器概略﹄として全訳され、松崎の註を付けて、一九三一年一月十五日に大 連の中日文化協会から発行されている。 その他、羅振玉にかかわる松崎の著作としては、﹃遼東詩壇﹄第五十七号(一九三0年七月十五旦所載の松崎柔甫筆記 学海叢竺殷嬬文字の発見と研究の釜﹂(羅振玉氏黙大要)や鼎第五十八号(一九三0年八月十五旦所載の松崎柔甫 筆記学海議﹁近三十年間西陸発見の古文物﹂(八月三十日大連図書館に於ける羅振玉氏需の大要)などがある。

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⑤その他の交流

松崎はおよそ漢学に関する事柄であれば、さまざまな方面に関心を抱いていたようである。例えば、﹁箟曲に堪能である﹂ 籍出身で大連在住の王季烈(字晉餘、君九。一八七三S 一九五己を訪れて、その﹁曲勢謹聴した﹂り、一九三0年に 8 は中国営造学社に加入して、参校を務め、営造学社員、閖鐸・閏兌之及び中国文化界の人士としきりに交流したりしている。 その他、図書館業務を通じての交流に至っては呉蜜(一八九四S 一九七八)、黄炎培(一八七七S 一九六五等をはじめ、 枚挙に暇のないほどである。 詩歌は本来嘉藝術の一種の形式であるが、文人はしばしば詩歌を人間同士のコミユニケーションの手段として用いるもの であり、とりわけ漢詩にはそのような特色憲著である。松崎の中国における文藝交流も主として漢詩の贈答・唱和を通じて 行われた。当時大連には日本の漢詩人が主宰する﹃遼東詩壇﹄という漢詩文雑栗あった。その発行期問は一九二五年十月十 五日(第石互から一九三六年七月十五日(第三モ号)までであった。日本においても中国においても、同曹収蔵する図 書館等は極めて少ないのであるが、数年前、中華全国図書館文献縮微中心が同糖第盲万から第七十九号までのマイクロフィ ルム(欠けている所もある)を製作・販売してくれたことにょり、今では同誌全体の半分以上が閲覧できるようになった。現 在閲覧できる部分の中で確墾きる松崎の漢詩は十一作中国人が彼に贈った作品もしくは彼と唱和した作品は八作である。 ただ実際は、この時期、松崎が詠んだ漢詩はもつと多かったに違いない。なぜなら、晶第十一号(一九二六年五月十五日) には楊啼谷(一八五五S?)の﹁和松崎柔父京中書懐原韻﹂と﹁和柔父津門偶枯元韻﹂が載っており、第四十四号(一九二九 年五月十五日)には粛忠親王の﹁和松崎柔甫臘雪晶二首﹂が載っていて、これらの詩が詠まれる前に松崎が既に﹁京中書懐﹂

ニ、文藝交流

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-23-﹁津門偶枯﹂﹁巣己と題する詩をそれぞれ詠んでいたことになるからである。しかし残念ながら、松崎のこれらの作品は今の ところ見つかっていない 0 ﹃遼東希"を最も多く収蔵する大連図書館がインターネット上で﹁﹃遼東詩嬉"作者統計表﹂を提供してくれており、それ にょれぱ、同鑒体の松崎の詩の掲載数は二十七である。そのほか、彼の漢詩は﹃上海﹄﹃文字同盟﹄等、他の定期刊行物に も散見する。彼が当時詠んだ漢牙全貌については、引き続き聖が必要であろう。本稿では、大連在住時の松崎と中国文人 との漢詩を通じての交流の様子を編年的に紹介するとともに、彼の漢詩の水準に対する中国文人の評価についても触れること 0 こし 7t一し 一需を通じての交流の様相 ﹃上海﹄第四百五十五号(一九一一年十一月七日)には粛親王(粛忠親王とも)の第十一王子邦憲公の死を悼む松崎の作品 が載っている。 一王子邦憲公 誰か陌頭において黍離を歌える 風を呼ぶ喬木落暉移る 民を新たにせんには只だ待つ明徳を明らかにするを 乱を撥めんには偏えに依る漫貝を将うに 石を錬かす騎陽薙露を晞かし 盆を覆す甚雨珸枝を砕く 軌粛親王第十 誰向陌頭歌黍雛 呼風喬木落暉移 新民只待明明徳 撥乱偏依将将資 錬石騎陽晞証露 覆盆甚雨砕珸枝 ①

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無端鳴咽東瀛水 白馬空郊暮色悲 ﹃東北文化月報﹄第三巻第盲ぢ(一九二四年一月)の﹁詩嬉一﹂には、陳塵隠の﹁夏歴十月二十五日帰自新旅堺禽車中与松 崎柔父先生話及東京震災図書被焚事餐者久之竝雑賦此弁柬柔父愽学U夏歴十月二十五日(一九二三年十二月二日)新旅嬰 禽より帰り、車中松崎柔父先生と話して東京の震災に図書焚かれたる事に及びて、慢然たること之を久しくし、竝雑として 此れを賦し、弁びに柔父博学に柬る﹂と題する詩が載っている。﹃遼東希一﹄の記載にょれば、陳塵隠の塵隠は字もしくは号 と見られ、名は錫庚であり、江西もしくは江蕪出身の人物。一九二五年に瀋陽医科大学の教師として招聰されている。八首連 作のこの詩は、半分の四首は松崎の人柄を詠み込んだものであり、陳錫庚自身の原注にょってその内容を示せば、第三首は﹁先 生は満鉄図書館の事に任じ、漢学に精しく、頗る珍蔵に富む﹂こと、第四首は﹁連浜(大連)に旅居せる海外の知交は唯だ(柔 父)先生と淮海の二人のみなる﹂こと、第七首は﹁先生は(文物の)賞鹽に工なる﹂こと、第八首は﹁先生は余が泰山摩崖を 論ずると所見略同じなる﹂ことを、それぞれ詠み込んでいる。淮海とは﹃遼東詰一﹄を主宰していた大連在住の、日本の漢詩 (玲) 人田岡正樹(一八六五S 一九三六。淮海はその号)のことである。﹁泰山摩崖を論ずる﹂云々というのは、松崎の金石学の造 (2。) 詣に関係する事柄である。 ﹃遼東詩壇﹄第十一号(一九二六年五月十五日)には四川出身で北京在住の楊献(啼)谷の詩三首と、松崎の詩二首連作と 連のものとして掲載されている。それぞれの詩題の意味するところを照合してみると、これら一連の栗作られた状況は 力 次のようなものであったことが明らかになる。すなわち、一九二六年の三凡北京在住で﹃文字同盟﹄を主宰していた橋川時 雄(号酔軒。一八九四S 一九八Ξが北京で翻谷・程清({子白葭。江眛出身。一八七0ごろS 一九四0ごろ)を大陸春(餐 庁の名だろう)で招飲し、そのころたまたま天津まで来ていた松崎もその会に出席した。まず程清が即席で七絶一首を賦し、 端無くも鴫咽す東瀛の水に

白馬空郊暮色悲し

ママ

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-25-次いで松崎がこれに次韻して、次の二首を詠んだ。 丙寅三月遊燕哀与程白該 傾醒一夕吾心酔 詩趣書香頻侑杯

呉沓藍牽夢去︹白葭呉△

峨眉明月照人来(献谷罰△ 官柳胖胖春欲老 一腔詩思付磁杯 有人有酒千金夕 更好清香催月来 楊歉谷・橋川酔軒雲飲於大陸春、次白葭先生席上元韻

醒を傾けて一夕吾が心酔い

詩趣書香頻りに杯を侑む

呉水澄藍にして夢を牽きて去り

峨眉の明河人を照らし来る このうちの第一首に次韻して、楊献谷が次の一首を詠んだ。

官柳胖井として春老いんと欲し

一腔の詩思磁杯に付す

人有り酒有り千金の夕ベ

更に好し清香月を催して来らしむ

橋川酔軒君招笂市白葭居士即席賦七絶一首、松崎柔父君過津寄和、有﹁峨眉明月照人来﹂句、情致器、余難侘 係、不能無作、以紀文酒之勝、即依韻未酬

長安万樹丁香開長安万樹丁香開き

羣展聯刷共挙杯羣展聯刷たり共に杯を挙ぐ

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大鶴新伝箆註在大鶴新たに伝えて箆註在り

可能軽許和陶来軽く許すこと可能なりや陶に和し来ること (a) ︹酔軒君近従廠肆獲大鶴山人鄭叔向手批陶詩。頗有妙悟、故及之。︺ 楊献谷はまた﹁和松崎柔父京中書懐元韻﹂と﹁和柔父津門偶枯元韻﹂の二首も詠んでいるが、前述のとおり、松崎の晶は 未詳である。 ﹃遼東詰一﹄第四十五号(一九二九年六月十五日)には延四佶士)という人物の﹁贈松崎柔甫﹂詩が掲載されている。 同誌第五十二号(一九三0年一月十五日)には﹁墻東避世居雅集零詩巻﹂なるものが掲載されている。各詩題の内容及び 同社闇号所載の田岡淮海にょる﹁路一漫筆﹂の一文にょって、その雅集の日時・参加者等について記せば、以下のようになる。 すなわち、﹁墻(摘)東避世居﹂とは前節でも触れた王季烈の住まいである。一九二九年十二月十三日午後五時から、ここで﹁雅 集﹂が催されることになっブと。主人側の人物は王季烈のほか、周嗣培(憲真Y 羅振玉・周善培(号孝懐。一八七五S 一九五八) (22) の四人。客は宝熈(沈菴瑞老。一八七一 S?・)のほか、田岡淮海と松崎鶴雄と三浦某であった。ただ、残念ながら、このと きの松崎の作は伝わっていない 0 ﹃遼東詩壇﹄第六十四号(一九三一年二月十五旦及び﹃文字同盟﹄第五年第一号には嬰宣頴({子兌之。一八九二S?・)の﹁柔 甫先生追念昔游遠索贈霊其盛意不可閥然今帰葬母南来於海舟上写成三律一杢<旦述旧事=憂可健斎也・柔甫先生昔游を追 力 念し、遠くより詩を贈るを索む。其の盛意に感じ、閥然たる可からず。今帰り、母を葬りて南のかた海に来る。舟上写きて 倉) 三律を成す。一は奉答し、一は旧事を述ベ、三怠りて健斎に寄するなり﹂が載っている。喪宣頴({子兌之。一八九二S?) は湖南長沙の人、﹁中国の士君子の書斎﹂に取り上げられている閏鴻機(一八五OS一九一八)の孫。第一句に﹁海上分携二 十年﹂とあるから、二十年前の上海での付き合い奪題にある﹁丑日游﹂のようである。 -27ー

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②松崎の漢詩に対する評価 では、松崎の漢詩の水準に対する当時の中国人の評価はどのようなものだったのだろうか。ここで、すこぶる興味深いエピ ソードを紹介したいと思う。当時大連には満蒙文化協会発行の﹃東北文化月報﹄という中国語雑栗あった。その第四巻第六 号(一九二五年六月十五旦の﹁詩壇﹂ ﹁淮海先生以大連八景徴詩、勉成数首、卿博一晒﹂と題する詩が載っている。作 闌こ 者は﹁乙仙﹂で、この作品は本来、数名の詩人が田岡の求めに応じて詠んだ数点の﹁大連八景詩﹂のうちの一つだった。作品 の後に﹃東北文化月報﹄の主筆楊成能(豪吾。一八七七S 一九六0年代)の次のような欝がある。 淮海先生が詩を求められ、八景の題が披露されると、すばらしい作品が次々に発表された。 1 (中略) 1それらの作 品の中で、乙仙という署名のある作品がとりわけ私の気持ちを引き付けた。 1 (中略) 1その格調から推し量るに、きっ と才能のある人が何とはなしに詠んだ作であろう。惜しいかな、瓔鳴・浩然両社では、未だかつて乙仙という者を見かけ たことがない。ああ、古の人に天子の地位を韓んじて天子となるのを欲しない者がいたというが、意外にも、この大連に、 詩人を軽んじて詩人の名を欲しない者がいようとは。そのような人物として、松崎鶴雄のほかに、乙仙もいたわけだ。こ の人のことをいろいろと考えて、果てしない思いにとらわれたことだ。 瓔鳴・浩然の両社は、いずれも当時大連にあった詩社である。ここで楊成能が言わんとしているのは次のようなことである。 すなわち、詩人としての評判を得るのはなかなか難しいことであるが、人々はそれを目標として作詩に励み、詩社に参加して 切磋琢磨し、自身のレベル向上を図るものである。ところが、乙仙はまったくその逆で、これほど高いレベルに達していなが ら、いずれの詩社にも参加していない。松崎も同様な人物だ。 (24) 実は﹁乙仙﹂は関俊明(中国人)の号である。関俊明は後に瓔鳴社の社友となっている。ただ、それはともかくとして、楊

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成能は上述の詩を見たときに、初めて乙仙の存在とその作詩の技量を知ったわけであり、そのときの驚喜した気分が彼をして 端無くももう一人の傑出した詩人松崎の存在を連想させたというわけである。 次に黄節にょる評価についても触れておこう。黄節(一八七三S 一九Ξ五)は、字は晦聞、当時北京大学教授として文学史 や詩学を講じていた人物である。松崎は黄節とも交際関係があり、自身その後﹁大連から毎年一両度は北京ヘ出かけると、 し (25) つも黄氏を訪うた﹂と回想している。﹃文字同盟﹄第一号(一九二七年四月)に﹁黄晦聞致松崎柔甫函﹂が、その日本語訳と ともに転載されている。便宜上、ここでは日本語訳の方を引用することにする。 病中御見舞をうけ織の至に奉存候。 1 (中略) 1尊作﹁感興﹂及﹁釣耕園詩﹂風韻頗る佳。それ七律は最も対佼を講じ、 唐宋人のうちには時に或は餘り厳格ならざるものも有之候得共それは偶然為せしところにて正道には非ず此れ詩中に於 て至難の箇処と存候。尊作を拝訥するに、声韻格調皆一の舗山なく、此道に研究甚だ深く在らせらるるを知申候。 ところで、松崎はもともと﹃文字同盟﹄の主筆橋川時雄と非常に{出接な関係があったから、どうやら松崎はわざわざ、鳶即 が自分を称賛してくれた書状を橋川に提供して掲載してもらつたもののようである。その行いには手前味喰のような面もない とは言えないが、ともあれ、黄節の標語は偽りではないだろう。

結びにかえて

松崎は一九三一年の末、満鉄図書館の職務を辞した後も、なお大連に九年問住み、一九四0年ごろ、前からあこがれていた 北京ヘ移り、日中戦争が終わったあと日本に帰り、一九四九年に東京で逝去した。

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-29-明治維新以後日本の漢学研究は主として東京、京都等、帝国大学の教授たちにょって推進された。そのような時代の潮流 の中で、松崎の学界ヘの入り方は﹁独り践径を胖く﹂といった体のものだった。彼は四十歳を過ぎて後、中国の伝統的な私塾 に入門して、本格的な学問研究を始めた。こうした経歴が﹁中国の伝統的文人﹂というキャラクター、すなわち漢学者・詩人 書道家などのさまざまな文人的要素を一身に集めた学者というスタイルを彼にもたらした。 しかし、そのような﹁中国の伝統的文人﹂というキャラクターと同時に、彼にはまた暹かに時代を先取りするような一面も あった。例えば、彼の﹃詩経国風篇研究﹄(第一出版社、一九三七年)は伝統的な経学の性質を備えた研究成果であるとともに、 彼はまたこの書物の中で社会科学的な観点から﹃詩経﹄の各詩篇の内容及びその社会的背景に分析を加え、斬新な視点を打ち 出している。七十年前の日本の漢学者の著作の中で、このような﹃詩経﹄研究は類を見ない。 残念なのは日本の学界では従来、学術著作に対する評価にいささか権威主義的な傾向があったため、松崎のような在野の学 者が正当な扱いを受けることが少なかったとい、つことである。私は彼の漢学者としての真価を見極めるべく、今後も引き続き その事跡を掘り起こす作業を続けていきたい。次の機会には彼の北京在住期についてまとめてみょうと思っている。 注 (1)与謝野寛・晶子合著﹃満蒙遊記﹄(大阪屋号書店、一九三0年)中の﹁大連と旅順(再び)﹂と題する文章において、晶子は一九二八年 六月﹁満鉄の図書館を訪うて松崎鶴雄先生と相知る喜びをも得た﹂と記している。 (3 ﹃満洲日報﹄一九三0年九月十八S二十日所載の儷会﹁秋の夜話1菊池寛氏を繞って﹂における横光利一の発言の一部。掛野剛史﹁横 光利一年需訂1付﹃定本横光利一全集﹄未収録文章﹂(﹃横光利一研究﹄第四号、一石0六年三月)に拠る。 (3 ﹃座右宝﹄第七号(一九四六年十一旦編輯後記。 (4)なお、松崎鶴雄に関して私はこれまでに次の二篇の論文を発表した。参照されたい。一、﹁松崎鶴雄(1867S1949)と中国

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ーあるテレビ番組をめぐつて﹂、関西文化研究叢書8 ﹃日本と中国の基本的人間文化1その普遍と個別﹄、武庫川女子大学関西文化研 究センター、二00八年。ニ、﹁松崎鶴雄と中国の碩学たち﹂、同前9 ﹃東アジアにおける文化交流の諸相﹄、同前、二00八年。前者は 松崎が参与した満鉄図書館の嘉業堂蔵書買い付け事業についての老証と評論であり、後者は松崎の中国における初期の修学状況を紹介し、 且っその他のいくつかの問題について論じたものである。また、前者の論文の末尾には﹁松崎鶴雄著作、作品目録﹂を附したが、その後 の調査にょり、他にも夕夕くの著作や作品のあることが分かった。いつかより詳しい目録を作成し、発表したいと思う。 (5)遼陽金毓散萱﹃金毓敞文集﹄編輯整理組校点﹃静晤室日記﹄、遼瀋書社、一九九三年。 (6)引用文中の原注は︹︺で挟む形で掲げることにする。以下同じ。 (7)この文章は﹃文字同盟﹄(橋川時雄が北京で主宰していた日中両文の鴛)第四年第五号にも掲載されているが、そのうち少なくとも 一つの誤{子が含まれ、また、断句に妥当でないところがある。﹃遼東詩壇﹄から引用すべしと考える。 (8)福田実氏は﹃満洲奉天日本人史﹄(謙光社、一九七五年)の中で、満州事変後建てられた満洲﹁国立中央図書館奉天分館﹂では松崎鶴 ママ 夫がその初代館長だったとしているが、金毓敞のここでの記載にょると、松崎が当時同館の館長を務めていた可能性は考えにくい。 (9)満鉄大連図書館報として刊行されていた月刊雑誌靈杲昌第三十九号(一九三二年六月十日)に﹁関係人事昭和六年十二月三十日 依願免大連図書館松崎鶴雄﹂とある。 (四松崎鶴雄﹁中国の士君子の書斎﹂、﹃東光﹄(弘文堂)第六号、一九四八年。後に松崎鶴雄著・杉村英治編﹃呉月楚風﹄(出版科学曾研 究所、一九八0年)に収録。 (Ⅱ)陳智超編注﹃陳垣来往書信集﹄、上海古籍出版社一九九0年。一九二五年ごろから一九四六年にかけての松崎の陳垣あて書簡が収録 されている。 (姶)松崎の﹁四庫全書﹂関連の著作として次のようなものがある。﹁四庫全書苔要に就て﹂、﹃支那研究論叢﹄第一輯、一九二七年。﹁四庫全 圭旦瞥記﹂、﹃東北文化月報﹄第七巻第八期、一九二八年。﹁四庫全書に就て﹂、室白香﹄第二十五号、一九三一年。﹁四庫全書編纂の副産物

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-31-椴書U禁書附文字獄﹂、蚕杲旦第二十六号、一九三一年。 (B)﹁陳援庵先生を中心とする座談会西庫全書座談会)﹂、﹃満蒙﹄第九年第九"一九二八年九月一日。 (H)前掲﹃陳垣来往書信集﹄二二四頁、松崎からの﹁来函﹂(一二)。なお、松崎は陳垣の書斎も訪れている(前傾﹁中国の士君子の書斎﹂)。 (巧)棄亜﹄第三巻第九号(一九三0年九月一日)にも掲載。 (玲)松崎は前掲﹁中国の士君子の皇旻尿﹂で羅振玉も取り上げ、﹁世界的の学者で、ぺりオ、スタイン、ヘデンの如き欧洲の学者が来訪したり、 文通したりしてゐた。低文化の満洲に羅氏の如きは至宝であつた﹂と記している。 (Ⅱ)﹃遼東詩壇﹄第四十五号(一九二九年六月十五旦松崎﹁剪燭器﹂。 (撃陳艶軍﹁大連図書館蔵稿本述略﹂、﹃白雲雷﹄第四巻。﹁中国営造学社近況﹂、﹃文字同盟﹄第五年第一・三号合刊。 (円)田岡淮海については杜山居士﹁田岡淮海を突して﹂(﹃士佐史談﹄第五拾六号、一九三六年)などが詳しい 0 (幼)この方面に関する松崎の著作として、﹃満蒙﹄第四年第三十四冊から第三十六冊(一九二三年五S七月)に連載された﹁山東に於ける 秦漢六朝の石刻﹂﹁同(承前)﹂がある。 (幻)叔向は鄭文悼(一八五六S一九一八)の号。鄭文悼は大鶴仙(山)人とも号す。﹁大鶴山人鄭叔向手批陶詩﹂は陶淵明研究の専門家で ある橋川時雄の校補を経て、﹁陶集鄭批録﹂と題し﹃文字同盟﹄第四年第三号(一九三0年)の附刊として発表された。 (22)三浦と称される人物の名が資料のどこにも見当たらないが、当時満鉄経済調査会第一部主査であった三浦義臣合万豊城)である可能性 がある。 (器)詩題に多少の異同があり、ここでは﹃遼東詩壇﹄所載のものに従った。但し、﹃文字同盟﹄所載のものには其三があるが、﹃遼東詩壇﹄ 所載のものにはない。 (弓﹃遼東詩壇﹄第五十二号(一九三0年一月十五旦に黄棣華(字は偉伯)の﹁瓔鳴社友開詩会追悼胡子晉愉然賦此不勝今昔之感矣﹂と ママ 題する詩が載っており、その中に﹁瓔鳴詩社十八人、子晉群英推領袖。 1 (中略) 1関林前後已凋姐(関已仙林心栽︺﹂という数句があり、

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これにょり関俊明も後に同詩社に加わり、その中心人物になったことが知られる。 露)前掲﹁中国の士君子の書斎﹂。 (鉛)黄節郡価の対象としている松崎の﹁感興﹂と﹁親園詩﹂がどのような作品であったかは、残念ながら、未詳である0 公奇には﹃遼 東詩壇﹄第二号(一九二四年十一月五日)所載の﹁感興二首﹂、及び﹃文字同盟﹄第盲万において上引の黄節の書簡掲載の次の頁に載る﹁次 岡井慎吾釣耕園詩二首﹂があり、いずれも一見それらしく見えるが、ともに七絶である点をはじめとして、苗tの書簡の内{谷に合女しな 0 なお、岡井慎吾(一八七二S 一九四五)は当時、熊本医科大学教授を務めていた国漢文の学者で、釣耕園は松崎の故罷本の庭園0 し

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