Haimu )
井上正望
規 定 か ら、 諸 司 致 斎 の 際 に 行 わ れ る も の と 考 え ら れ る。 そ し て 令 制 当 初 祀 は 本 来 の 令 理 念 と し て は 天 皇・ 臣 下 が 一 体 と な る と い う も の で あ り、 体となるという理念を象徴するものと言えよう。しかしその具体化が思うように進ま ない中、特に宇多朝以降、廃務を行わない、即ち天皇・臣下全体の一体性形成を目的 としない御願祭祀の創始・盛行によって、天皇は神祇祭祀の主宰者としての面を濃厚 にしていく。本稿ではその背景として、従来から指摘されてきた天皇の「家」の整備 に加え、九世紀後半から十世紀前半での親族意識の変化による天皇の家筋の形成を想 定 し た。 た と え 天 皇 で あ っ て も 自 身 の 家 筋 の 繁 栄 祈 願 を 第 一 義 と す る 御 願 祭 祀 で は、 百官や諸国との一体性は求められない。天皇が天下を一元的に支配するという絶対的 な統括者としての要素は神祇祭祀から希薄化し、神々のような宗教的・超越的他者に その地位を保証された、中世天皇としての要素を濃厚にしていくのである。 【キーワード】 廃務、諸司致斎、班幣での百官供奉規定、天皇・百官の一体性形成、 中世的天皇明 ら か に さ れ た こ と は な か っ た。 古 代 の 廃 務 を 主 と し て 扱 っ た 研 究 に は、 国 忌 廃 務 に つ い て 検 討 し た 藤 堂 か ほ る 氏 の 研 究 が あ る (( ( 。 ま た 筆 者 も、古代から中世にかけての喪葬時の廃朝・廃務を検討し、親族意識の 変化を明らかにした (( ( 。このように、廃務の検討からは、古代から中世へ と移る中での変化を捉えることができる。一方で神事の廃務を主として 研究したものはなく、藤森馨氏や集英社本『延喜式』補註が簡単に扱う 程度である (( ( 。 そこで本稿では、神事における廃務の問題から、神祇祭祀の意義づけ や天皇の変化を検討する。史料に頻出するにも関わらず、従来殆ど顧み られることのなかった廃務の時代的な変化を検討することで、古代から 中世への変化とその背景を明らかにできると考える。
❶
神事における廃務
(一) 神事廃務と諸司斎 本 章 で は ま ず 神 事 の 廃 務 と は 何 か と い う 点 を 検 討 し た い。 藤 森 氏 は 『 九 条 年 中 行 事 』 か ら、 廃 務 が あ る 祭 祀 と し て、 祈 年 祭・ 広 瀬 龍 田 祭・ 賀茂祭・月次祭・伊勢例幣・新嘗祭を挙げる (( ( 。これに密接に関係するの が延喜四時祭式上 1大中小祀条である。 凡 践 祚 大 嘗 祭 為 二大 祀 、 一 祈 年・ 月 次・ 神 嘗・ 新 嘗・ 賀 茂 等 祭 為 二中 祀 、 一 大忌 ・ 風神 ・ 鎮花 ・ 三枝 ・ 相嘗 ・ 鎮魂 ・ 鎮火 ・ 道饗 ・ 薗 ・ 韓神 ・ 松尾 ・ 平野 ・ 春日 ・ 大原野等祭為 二小祀 。 一 〈風神祭已上、並諸司斎之。 鎮 花 祭 已 下、 祭 官 斎 之。 但 小 祀 祭 官 斎 者、 内 裏 不 レ斎。 其 遣 二勅 使 一 之祭者斎之 。〉 (傍線は筆者。以下同じ。 )はじめに
廃務とは、一般的に養老儀制令 (太陽虧条やそれに付された義解に規 定されたもののことと理解されている。 令文を挙げると次の通りである。 凡 大 陽 虧、 有 司 預 奏、 皇 帝 不 レ 視 レ事。 百 官 各 守 二本 司 一 不 レ理 レ務、 過 レ 時 乃 罷。 皇 帝 二 等 以 上 親 及 外 祖 父 母・ 右 大 臣 以 上 若 散 一 位 喪、 皇 帝 不 レ 視 レ 事 三 日。 国 忌 日 〈 謂、 「 先 皇 崩 日、 依 二 別 式 一 令 二 廃 務 一 」 者。 〉・三等親・百官三位以上喪、皇帝皆不 レ視 レ事一日 (1 ( 。 これによると、天皇近親や高位の臣下の喪の際に不視事=廃朝を、日 蝕や国忌の際に廃務を行うと規定されている。そして廃朝・廃務の違い は、 「国忌日」 ~ 「百官三位以上」に付された義解に次のようにある。 ( 前 略 ) 其 皇 帝 不 レ 視 レ事 日、 百 官 不 レ 停 レ理 レ務。 何 者、 太 陽 虧 及 国 忌日、別立 二廃務之法 、 一 以外即無 二此文 一故也。 ここから、廃朝の際には天皇のみが事を視ず、廃務の際には諸司も政 務 を 執 ら な い と さ れ て い た こ と が わ か る。 但 し、 日 蝕 時 に 「 百 官 各 守 二 本 司 一不 レ理 レ務 」 と 規 定 さ れ た り、 国 忌 に も 百 官 が 参 加 す る こ と と さ れ たりしていた (( ( ことなどから、諸司の廃務と言ってもそれは諸司官人が出 仕しないという意味ではなかったことがわかる。 一方で、平安期になると神事で廃務を行う例が頻出する。更に廃務は 次第に廃朝と逆転・混同されるようになり (( ( 、中世に至って完全に同一と 理解されるようになってしまう (( ( 。しかし廃朝・廃務の専論は少なく、こ のような神事の廃務やその変化が如何なる意味を持つのかということが傍線部によると、風神祭(=龍田祭)以上の祭祀に関しては、諸司の 「 斎 」 が 行 わ れ る と い う。 大 中 小 祀 と い う ラ ン ク 付 け や「 斎 」 に つ い て 連想されるのは、次の養老神祇令 11散斎条・ 1(月斎条であろう。 凡 散 斎 之 内、 諸 司 理 レ 事 如 レ旧、 不 レ得 二 弔 レ喪、 問 レ病、 食 一レ 完。 亦 不 レ判 二 刑殺 、 一 不 レ決 二 罰罪人、 一 不 レ作 二音楽 、 一 不 レ 預 二 穢悪之事 。 一 致斎、 唯為 二祀事 一得 レ行、自余悉断。其致斎前後兼為 二散斎 。 一 凡一月斎為 二大祀 、 一 三日斎爲 二中祀 、 一 一日斎為 二小祀 。 一 まず散斎条から、散斎は一部規制はあるものの、基本的に諸司は通常 通り政務を行うが、致斎の場合諸司は祭祀関係以外のことは一切行って はならないという (( ( 。また、致斎の前後を散斎とする。次に月斎条による と、一か月の斎を大祀、三日間の斎を中祀、一日間の斎を小祀としてい たことがわかる。同令 10即位条での「散斎一月、致斎三日」との規定も 併せ、大祀の場合は致斎三日と一か月間の散斎、中祀は致斎一日とその 前後各一日が散斎とされていた。以上の令・式の規定から、広瀬龍田祭 以上の祭祀で諸司斎が行われ、特に致斎と合わせて廃務とされていたと 考 え ら れ る ((1 ( 。 ま た、 延 喜 式 部 式 下 (神 寿 詞 条 に は「 ( 前 略 ) 奏 二神 寿 詞 、 一 (割注略)其日諸司廃務。 」とある。これは出雲国造の神寿詞奏上の日を 諸司廃務とした規定だが、これが法制史料上の神事廃務の初見と考えら れ る。 実 例 で あ る『 続 日 本 紀 』 霊 亀 二 年( 七 一 六 ) 二 月 丁 巳 条 に は、 「 出 雲 国 国 造 外 正 七 位 上 出 雲 臣 果 安、 斎 竟 奏 二神 賀 詞 。 一( 中 略 ) 是 日、 百 官 斎 焉。 」 と あ る こ と か ら、 神 寿 詞 奏 上 当 日 に「 百 官 斎 」 が 行 わ れ た こ とがわかる。従って延喜式部式は「百官斎」と共に行われる対応を指し て「諸司廃務」と表現していることになる。ここからも、諸司致斎に合 わせて廃務を行っていたことがわかるだろう。 以上の恒例祭祀以外でも、伊勢神宮への臨時奉幣で廃務とする例が頻 出する。一方でそれ以外の諸社への奉幣で廃務を行っている例はみられ な い。 そ の 理 由 に 関 わ る と 考 え ら れ る も の と し て 次 の 史 料 が あ る。 『 北 山抄』巻五、践祚抄、大嘗会事、八月上旬条である。 (前略) 発 下遣奉 二幣天神地祇 一使。 上 〈太神宮、諸王五位以上一人、中 臣・忌部各一人。山城・大和・摂津一人。河内・和泉一人。七道各 一 人 。 中 臣 ・ 忌 部 相 半 差 定 。 於 二神 祇 官 一発 遣 。 仍 不 二廃 務 。 一 又 無 二宣 命 。 一 上 卿 行 二内 印 事 一 不 レ 参 二 彼 官 。 一 只 召 二 官 人 一 令 レ請 二官 符 一 也。 件 幣 料、 式 宛 二 大 蔵 物 一者。 而 近 例、 官 符 依 レ載 下可 レ 用 二当 国 正 税 一之 由、 上 不 レ宛 二省物 。 一 〉(後略) これは岡田莊司氏が検討した、天皇即位から大嘗会までの間の五回の 奉幣の一つである ((( ( 。『北山抄』の一連の記事を検討した岡田氏によると、 皇 位 継 承 儀 礼 で の 奉 幣 に は 即 位 関 連 の も の と 大 嘗 関 連 の も の の 二 種 類 が あ り、 即 位 関 連 の 奉 幣 に は( 1)伊 勢 即 位 由 奉 幣、 ( ()諸 社( 天 神 地 祇 ) 大 奉 幣 が、 大 嘗 関 連 の も の に は ( ()諸 社 ( 天 神 地 祇 ) 大 奉 幣、 ( () 伊 勢 大 嘗 由 奉 幣、 ( ()大 神 宝 使 が あ る。 そ し て ( 1)( ()( ()は も ち ろ ん、 ( ()( () で も 伊 勢 奉 幣 が 行 わ れ る。 右 に 挙 げ た『 北 山 抄 』 の 記 事 は( ()に 該 当 す る。 こ の 傍 線 部 に 注 目 し た い。 こ れ は 発 遣 の 場 に 関 す る 記述だが、三宅和朗氏の指摘のように、通常伊勢奉幣の儀式は例幣も臨 時奉幣も、他社と異なり原則として朝堂院の小安殿で行われる ((1 ( 。それに 対 し( ()の 場 合 は、 発 遣 の 場 は 朝 堂 院 で は な く 神 祇 官 で あ り、 そ れ に よ り 廃 務 は 行 わ れ な い と い う。 一 方、 同 様 に 伊 勢 神 宮 含 め 全 国 に 奉 幣 を 行 う( ()の 大 奉 幣 で は、 『 北 山 抄 』 の 記 述 が 簡 潔 で あ る た め 詳 細 は わ か ら な い。 し か し そ の 実 例 に 関 す る『 小 右 記 』 長 和 五 年 (一〇一六 ) 二 月 二十六日条から、 やはり発遣場所は神祇官で、 廃務もないとされている。 以上から、伊勢奉幣で原則として廃務が行われるのは、発遣の場が問
これが『延喜式』大中小祀条の元になったことは明らかである。従って 風神祭以上の諸司斎の規定が『弘仁式』までは遡ることがわかる。また この規定の淵源については、筧敏生氏が更に『大宝令』段階の別式まで 遡る可能性を指摘している ((1 ( 。 そ れ で は 神 事 廃 務 は ど う だ ろ う か。 前 述 の 通 り 法 制 史 料 上 の 初 見 は 『 延 喜 式 』 だ が、 実 例 の 初 見 は『 続 日 本 後 紀 』 承 和 三 年( 八 三 六 ) 二 月 庚午朔条である。これは遣唐使のために天神地祇を北野で祭った際の廃 務 で あ る。 ま た 恒 例 神 事 の 廃 務 と し て は、 『 西 宮 記 』 巻 三、 四 月 裏 書、 承和六年四月四日条の広瀬龍田祭における廃務が初見である。一方出雲 国造神寿詞奏上の廃務については、弘仁・貞観式の関連逸文は確認でき ず、 『 儀 式 』 で も み え な い。 し か し 承 和 三 年 や 六 年 に 神 事 廃 務 の 実 例 が みえることから、神事廃務は少なくとも『貞観式』までは確実に遡ると 言えよう。また、 実例がみえる承和期は『弘仁式』制下であることから、 『弘仁式』段階まで遡る可能性もある。 しかし史料上からはそれ以上遡ることはできない。特に問題となるの は、八世紀段階で実例が確認できない点に加え、令文はもちろん集解諸 説 に も 神 事 廃 務 に 関 す る 記 述 が な い 点 が 挙 げ ら れ る。 筧 氏 が 推 定 す る 『 大 宝 令 』 段 階 の 別 式 に 規 定 が あ っ た 可 能 性 も 考 慮 す べ き だ が、 そ れ を 承 け た 弘 仁・ 延 喜 両 式 の 大 中 小 祀 条 に は 廃 務 に 関 す る 規 定 は な い。 『 大 宝令』段階の別式を『弘仁式』に引き継ぐにあたって、廃務規定をわざ わざ削除したとは考え難く、大中小祀条の元となった『大宝令』段階の 別式が存在したとしても、その中に廃務規定はなかったと思われる。以 上から神事廃務は、 『大宝令』段階まで遡ることはできないと考える。 こ の よ う に、 神 事 廃 務 の 開 始 時 期 を 直 接 的 に 示 す 史 料 は 確 認 で き な い。しかしそのヒントとなると考えられる史料として、まず『類聚三代 格』 (以下『三代格』 )巻一、祭并幣事、弘仁二年(八一一)二月六日官 符〔雑格 (〕をみてみよう。 題であると考えられる。原則として伊勢奉幣が行われる朝堂院は本来諸 司 の 日 常 政 務 の 場 で あ る こ と か ら、 朝 堂 院 で 伊 勢 奉 幣 使 発 遣 を 行 う 以 上、朝堂院に関わる諸司は全て致斎する必要があったのではないだろう か。 逆 に 言 え ば、 伊 勢 奉 幣 は 朝 堂 院 か ら 発 遣 し、 百 官 が 斎 す る こ と で、 他社との違いを明確化したと言える。もちろん『北山抄』当時の朝堂院 は諸司の日常政務の場としては実態を失っている。従って『北山抄』で の神祇官で発遣するため廃務をしないという記述は、朝堂院が諸司日常 政務の場だった頃の遺制と考えられる。 以 上 の よ う に、 神 事 廃 務 は 諸 司 の 致 斎 の 際 に 行 わ れ る も の で あ っ た。 一方で神事の斎で廃務ではなく廃朝を行ったという例は令制段階はもち ろん平安期以降も確認できず、神事で廃朝を行うということはなかった と考えられる ((1 ( 。 (二)諸司斎の開始と神事廃務 で は 大 中 小 祀 条 の 諸 司 斎 規 定 や 神 事 廃 務 は い つ ま で 遡 る の だ ろ う か。 まず諸司斎について、 『北山抄』巻四、 拾遺雑抄下、 神事のいわゆる「神 祇前後式」をみよう。 一、 践 祚 大 嘗 祭 為 二大 祀 、 一 祈 年・ 月 次・ 神 嘗・ 毎 年 新 嘗 祭 為 二 中 祀 、 一 大忌・風神・鎮花・三枝・相嘗・鎮魂・鎮火・道饗等為 二小祀 。 一 一、風神祭以上、並諸司斎之。鎮花祭以下、唯祭官斎之。 (中略) 〈以上神祇前後式。 〉(後略) この神祇前後式とは弘仁神祇式・貞観神祇式を指すが、その内容は基 本的に『弘仁式』段階のものであること、弘仁・貞観両式から直接引い た の で は な く、 『 年 中 行 事 御 障 子 』 の 写 し に 私 注 を 施 し た も の が 両 式 を 引 用 し て い た も の を、 更 に 孫 引 き し た こ と が 知 ら れ て い る ((1 ( 。 内 容 か ら、
太政官符 改 二仰 レ斎日 一事 右拠 二令条 、 一「凡祭祀、 所司預申 レ官。々散斎日平旦頒 二告諸司 。 一 」「其 散 斎 之 内、 不 レ 得 二弔 レ喪、 問 レ疾、 食 一レ 宍。 不 レ判 二 刑 殺 、 一 不 レ 決 二罰 罪 人 、 一 不 レ 作 二 音 楽 、 一 不 レ預 二穢 悪 之 事 。 一」 今 被 二右 (藤原内麻呂 ( 大 臣 宣 一 偁 、「 奉 レ 勅、 散 斎 之 日 頒 二告 諸 司 、 一 諸 司 未 レ 承 レ事 之 前、 或 有 下 犯 二禁 忌 一之 徒。 上 宜 下改 二令条 一散斎之前一日頒 中告諸司。 上 自今以後、 永為 二恒例 。 一 」 弘仁二年二月六日 これによれば、令では祭祀の諸司への通知は散斎当日朝に行われるこ とになっていた ((1 ( 。しかしそれでは諸司官人が通知を受ける前に禁忌を犯 し て し ま う こ と が あ っ た た め、 散 斎 前 日 に 通 知 す る よ う 変 更 し た と い う。このように弘仁期になって漸く諸司への通知日程が問題視されてい ることから、三橋正氏が指摘するように、弘仁期より前には諸司斎の厳 密 な 実 施 は な か っ た と 考 え ら れ る ((1 ( 。 こ の こ と は 祈 年・ 月 次 祭 へ の 百 官 供奉規定の在り方からも窺える。養老神祇令 (季冬条には次のようにあ る。 ( 前 略 ) 其 祈 年 ・ 月 次 祭 者 、 百 官 集 二神 祇 官 、 一 中 臣 宣 二祝 詞 、 一 忌 部 班 二幣 帛 。 一 このように、廃務が行われる神事のうち祈年・月次祭では、百官が班 幣 の 場 で あ る 神 祇 官 に 参 集 す る こ と が 規 定 さ れ て い た。 実 際 に 延 喜 太 政官式 ((祈年班幣条には、祈年祭班幣への百官の参加者として、五位以 上・六位以下各一人、計二人ずつとの規定があ る ((1 ( 。ここから西宮秀紀氏 は「 〈 都 城 〉 内 で 支 配 者 階 級 の 頂 点 に 立 つ 天 皇 の 正 統 性 を、 神 祇 祭 祀 儀 礼 行 為 の 中 で「 百 官 」 に 確 認 さ せ る 意 味 を も っ て い た と 思 わ れ る 」 と し ((1 ( 、矢野建一氏は神主 ・ 祝部を百官とともに陪席させることで「一体感」 「 近 親 感 」 を 創 出 し、 祝 詞 の 宣・ 聞、 幣 帛 の 授・ 受 に よ っ て 階 級 意 識 を 喚 起 し、 天 皇 と の 君 臣 関 係 の 確 認 を 図 っ た と し た (11 ( 。 ま た 吉 江 崇 氏 も、 「 律 令 祭 祀 の 本 質 は、 天 皇・ 百 官・ 諸 国 の 祭 祀 的 一 体 性 を 作 り 出 す こ と にあった」とする (1( ( 。このように先行研究では、令制における祈年・月次 祭への百官供奉規定を積極的に評価し、律令祭祀の意味の一つを見出そ うとするのが一般的である。しかしこのような評価は妥当だろうか。節 を改めて考えたい。 (三)百官供奉規定と神事廃務の開始 ま ず 神 祇 令 (季 冬 条 の「 百 官 集 二 神 祇 官 一」 に 付 さ れ た 集 解 諸 説 を み てみよう。 穴 云、 百 官 謂 二男 官 一也。 或 一 人、 或 挙 レ 司、 並 不 レ見 レ 文 也。 朱 云、 百 官 集 二神 祇 官、 一 謂 二男 官 人 一也。 女 不 レ云 者。 未 レ知。 史 生 同 二官 人 一 不。答、此主典以上、毎 レ司一人許可 レ参也。 〈司挙不 レ云也。 〉 次に、藤波本神祇令季冬条 (11 ( の同じ箇所に付された解釈をみたい。 穴 云、 百 官 謂 二男 官 一也。 〈 讃 同。 或 云 同。 〉 但 或 一 人、 [ 或 脱 ] 挙 レ司、 並 不 レ見 レ 文。今師説、毎 レ司一 文 [人] 耳。不 二必挙 一レ司也。 こ の よ う に、 両 者 に 引 か れ た 穴 記 に よ る と、 祈 年・ 月 次 祭 に 供 奉 す べき百官の人数については、各官司から一人ずつなのか、あるいは官司 を挙げて(各官司の官人全員)参加すべきなのか明文規定がなく不明と する (11 ( 。また他説は、百官の参加人数を各官司から一人ずつとする。従っ て『延喜式』段階の諸司から計二人ずつとの規定は、令制当初はもちろ
ん、諸説段階でも存在しなかったことがわかる。特に穴記の記述は、神 祇 令 の「 百 官 集 二 神 祇 官 一 」 と の 規 定 が 少 な く と も 延 暦 期 段 階 ま で 実 態 を伴うものではなかったことを示す (11 ( 。この点は同じく神祇令 (季冬条の 「中臣宣 二祝詞 一」に付された集解諸説からも窺える。 謂、 ( 中 略 ) 言 以 二 告 レ神 祝 詞 、 一 宣 二聞 百 官 。 一 故 曰 レ宣 二 祝 詞 一 也。 穴 云、 中 臣 宣 二祝 詞 一者 、 時 行 事 宣 二参 集 之 社 々 祝 部 等 一 也 。 但 依 レ文 、 宣 二百官 一可 レ云耳。釈云、以 二申 レ神祝詞 、 一 宣 二百官 一耳也。 (後略) これによると、祈年・月次祭での中臣による祝詞宣聞は百官に対して 行 わ れ る も の と さ れ て い た。 し か し 穴 記 に よ る と、 百 官 で は な く 参 集 し た 諸 社 祝 部 に 対 し て 宣 読 さ れ る の が 延 暦 期 当 時 の 実 情 だ っ た と い う。 従って当時、班幣の場への百官参集に実態がなかったことがここからも 明らかだろう。 以 上 の よ う に、 神 祇 令 に お け る 祈 年・ 月 次 祭 班 幣 で の 百 官 供 奉 規 定 は、実際には延暦期段階で事実上空文だったと考えられる。従って先行 研究が指摘するような意味が百官供奉規定にあったとしても、それは延 暦期に至っても理念に過ぎず、実態はなかったのである。これは八世紀 段 階 の 官 社 制 度 や 班 幣 制 に つ い て、 「 国 家 に よ る 天 神 地 祇 奉 斎 と い う 理 念・建前に基づいたものであって実効性には乏しく、実際に神祇官に参 集したのは主に畿内の官社に限られていた」とする小倉慈司氏の指摘 (11 ( と も 通 じ る も の だ ろ う。 宝 亀・ 延 暦 期 を 端 緒 と し て、 『 類 聚 国 史 』 巻 十、 神 祇 十、 祈 年 祭、 延 暦 十 七 年 ( 七 九 八 ) 九 月 癸 丑 条 で の 官 幣 国 幣 社 制 導 入に代表されるような地方神祇政策の見直しが知られている。ところが 中 央 で の 神 祇 祭 祀 の あ り 方 は、 百 官 に 対 し て 働 き か け る と い う 意 味 で は、延暦期においても未だ令理念の具体化には至っていなかったのであ る (11 ( 。 一方で、前掲延喜太政官式祈年班幣条に当たる弘仁・貞観式逸文は確 認できないが、 『儀式』巻一、二月四日祈年祭儀に、 「次大臣以下五位以 上、 次 諸 司 主 典 以 上 」 と い う 記 述 が み え る。 「 五 位 以 上 」 と 区 別 さ れ る 「 諸 司 主 典 以 上 」 が 百 官 六 位 以 下 を 指 す と み ら れ、 五 位 以 上・ 六 位 以 下 から各一人という規定は少なくとも『儀式』段階までは遡ると考えられ る。諸司斎整備が弘仁期から始まると考えられることや、穴記以外の諸 説における一人ずつとの現実的な解釈などを踏まえると、百官供奉規定 も弘仁期ごろに具体化を企図された可能性が高い。 以上の検討から、当初理念に過ぎなかった百官供奉の具体化は弘仁期 以降と考えられる。従って神事廃務も、百官供奉規定具体化のため同じ 弘仁期ごろに始められた可能性が高い。神事での廃務は、百官が参加す るということを象徴するものだったのである。このような整備が弘仁期 に行われた理由については後述する。 また、祈年・月次祭での祝詞宣聞が百官に対するものとされていたこ と を 指 摘 し た。 周 知 の 通 り、 例 え ば 月 次 祭 祝 詞 は、 『 本 朝 月 令 』 六 月、 十 一 日 神 今 食 祭 事 所 引 弘 仁 祝 詞 式 逸 文 に よ れ ば、 「 集 侍 神 主・ 祝 部 等 諸 聞 食 止 宣 」 で 始 ま る の で あ り、 延 喜 祝 詞 式 (月 次 祭 条 も 同 じ で あ る。 ま た 同 (祈 年 祭 条 に は「 神 主・ 祝 部 等 共 称 唯。 余 宣 准 レ此。 」 と あ り、 祝 詞宣読に対し祝部らが称唯することになっていた。つまり祝詞の内容は 諸 社 の 祝 部 ら、 ひ い て は 神 々 を 客 体 と し た も の で あ る。 し か し 一 方 で 『 令 義 解 』 で も 前 掲 神 祇 令 (季 冬 条 義 解 か ら や は り 祝 詞 は 百 官 に 宣 聞 す るものとされている。従ってこれは恐らく、令理念としては中臣が諸社 祝部・神々を客体とする内容の祝詞を読み上げ、それに対し祝部らが称 唯するという一連の様子を、百官に見せ、聞かせる、という点に重点が 置かれたものなのではなかろうか。つまり祈年・月次祭の祝詞宣聞の場 合、 祝 部 ら と そ の 称 唯 は い わ ば 一 種 の 舞 台 装 置 で あ り、 公 卿・ 神 祇 官・ 百官が場を共有し、一体となるための演出を主目的としたものと言えよ
う。また、祈年・月次祭班幣に天皇が出御することはないが、佐々田悠 氏 が 指 摘 す る よ う に (11 ( 、 例 え ば 祈 年 祭 祝 詞 は 各 段 の 最 後 を「 皇 御 孫 命 能 宇 豆 乃 幣 帛 乎 、 称 辞 竟 奉 久 登 宣 」 と い っ た 表 現 で 締 め く く る。 月 次 祭 祝 詞 も 同様である。つまり天皇自身の出御がなくとも、班幣の主体が天皇であ る こ と は 祝 詞 に 明 記 さ れ て い る。 こ れ に よ り 佐 々 田 氏 は、 「 参 加 者 た ち ―政府中枢の官人たちと「地方」を体現する祝部たちは互いを眼前にす ることで、自らが属する国家の秩序と皇御孫命の下でのある種の共同性 を体感することになっただろう」とする。このことは天皇が全国神祇祭 祀の責任者である (11 ( ことからも首肯されよう。祝詞宣聞での祝部らの存在 とその称唯が、百官が一体となるための舞台装置・演出であることと併 せ る と、 次 の よ う に 考 え ら れ よ う。 即 ち 百 官 官 人 ら は「 「 地 方 」 を 体 現 する祝部たち」を眼前にして、祝詞宣読とそれに対する祝部らの称唯を 聞 く こ と で、 「 国 家 の 秩 序 と 皇 御 孫 命 の 下 で の あ る 種 の 共 同 性 を 体 感 す る こ と に な っ た 」 の で あ る。 以 上 か ら 百 官 供 奉 規 定 の 具 体 化 は、 天 皇・ 百官の一体性形成を目的としたものなのである。百官供奉規定に限らず 百官が一致して行う諸司斎も、祝部が参加するものではないが、やはり 天 皇・ 百 官 の 一 体 性 を 作 り 出 す 役 割 が あ っ た と 考 え ら れ る (11 ( 。 百 官 供 奉・ 諸司斎の具体化のために始められた神事廃務も、同様に天皇・百官の一 体性形成を目的とすると言えよう。以上のことは換言すると次のように なる。祭祀主体の天皇を第一者とし、対象の神々を第二者とすると、百 官供奉規定や諸司致斎、神事廃務は、諸司を第三者ではなく第一者側に 位置づけるためのものなのである。 なお、吉江氏は天皇親祭である神今食などでの小忌の整備が弘仁期に 始 ま っ た こ と に 加 え、 同 時 期 の 荷 前 別 貢 幣 開 始 や、 神 今 食 に 際 し て 天 皇 個 人 が 行 う 御 贖 祭 の 創 始 な ど か ら、 「 弘 仁 年 間 は、 そ れ ま で 天 皇・ 百 官・諸国が一体性を持って行うことに意義のあった律令祭祀から、天皇 のみが行う祭祀儀礼が成立していく時期と理解」できるとする (11 ( 。しかし 本 節 の 検 討 か ら、 「 一 体 性 を 持 っ て 行 う こ と に 意 義 の あ っ た 律 令 祭 祀 」 に実態を持たせる努力が始まったのがまさに弘仁期であり、この時期を 律令祭祀から天皇個人祭祀への転換点とみるのは一面的ではないかと考 える。このことは、例えば天皇個人祭祀の要素が濃厚とされる賀茂祭で も諸司斎が規定され廃務が行われることや、弘仁二年には国忌に新たに 諸司史生の参加という整備が行われた例からも窺える (1( ( 。弘仁期には天皇 個人祭祀を新たに設定しつつ、併せて従来は理念に過ぎなかった諸司斎 や百官供奉の具体化を図るなど、両者を祭祀の両輪と位置づけた整備を 行った時期と捉えるべきではないだろうか。 (四) 延暦期の官幣国幣社制導入と弘仁期の整備 以上、弘仁期は神祇令の理念具体化を行った時期と考えたが、それに 先 立 つ 官 幣 国 幣 社 制 は 如 何 に 位 置 付 け れ ば よ い だ ろ う か。 有 富 純 也 氏 は、延暦十七年の制度導入によって、神祇官から全国の神社に直接幣帛 を授け、神祇官で全国の神社を直接把握するという理念は放棄されたと した (11 ( 。確かに全国の神社に対する神祇官での一元的な班幣は断念された が、その後も神祇官で班幣を行う官幣社には畿内諸社に限らず畿外の重 要な神社も含まれていた。従って、神祇官で全国の神社を直接把握する と い う 理 念 は、 延 暦 十 七 年 で 妥 協 は さ れ つ つ も、 未 だ 放 棄 さ れ て い な かったのではなかろうか。この点は西宮氏が検討した、諸国神祇職の統 制という面からも窺える (11 ( 。官幣国幣社制導入の直前に出された、従来終 身であった神宮司や神主などの任期を六年とする『三代格』巻一、神宮 司神主祢宜事、延暦十七年正月二十四日官符〔神逸 (〕を皮切りに、神 祇 職 の 人 事 に 対 す る 中 央 の 介 入 が 度 々 み え る よ う に な る。 『 三 代 格 』 巻 一、 神 宮 司 神 主 祢 宜 事 の 二 官 符 を み て み よ う。 ま ず 大 同 二 年( 八 〇 七 ) 官符〔神逸 (〕である。
太政官符 神主遭 レ喪解任服 闋 復任事 右検 二案内 、 一 太政官去延暦十九年十二月廿二日下 二神祇官 一符 偁 、「諸 国 神 宮 司 等、 並 限 以 二六 年 一補 替 之 事、 先 立 レ例 訖。 右 ( 神 王 ( 大 臣 宣、 『 件 神 宮 司 未 レ満 二 限 年 、 一 若 有 二服 解 一 不 レ得 二 補 替 、 一 仍 令 二神 主 并 祝 等 行 事 。 一 服 闋 之日復任満 レ限』 」者。 (中略) 大同二年八月十一日 次に貞観十年 (八六八) 官符を挙げる。 太政官符 一、応 レ任 二用神主 一事〈四箇条内〉 右 太 政 官 弘 仁 十 二 年 正 月 四 日 下 二大 和 国 一 符 偁 、「 彼 国 解 偁 、『 ( 中 略 ) 太 政 官 延 暦 十 七 年 正 月 廿 四 日 下 二五 畿 内 諸 国 一符 偁 、[ 奉 レ勅、 ( 中 略 ) 今 神 主 等 一 任 終 身。 ( 中 略 ) 宜 乙 自 今 以 後、 簡 下択 彼 氏 之 中 潔 清 廉 貞 堪 二神 主 一者 上補 任、 限 以 二六 年 一相 替、 秩 満 之 代 点 定 言 上 甲] 者。国依 二符旨 一選点言上。而或点上之外被 レ任 二他人 。 一 愚吏 商 量 事 背 二符 旨 。 一 望 請、 点 上 之 人 一 切 任 用、 以 尋 二 泊 酌 之 信 、 一 且 待 二神聴之声 一』者。右 (藤原冬嗣 ( 大臣宣、 『奉 レ勅、依 レ請。 』」 (中略) 以 前、 撰 格 所 起 請 偁 、「 上 件 事 条 遵 行 有 レ便。 伏 望、 下 二知 四 畿 内 及 七道諸国 一」者。中納言(中略)藤原朝臣基経宣、 「奉 レ勅、 依 レ請。 」 貞観十年六月廿八日 このうち前者が引く延暦十九年官符は、神宮司の服解時に別人を補す る こ と を 禁 じ、 服 闋 時 に 元 の 人 が 復 任 す る こ と を 規 定 し た も の で あ る。 前半にみえる 「先立 レ例訖」 は前述の延暦十七年官符 〔神逸 (〕 を指す。 一方後者は、延暦十七年官符を受けて神祇職の交替に際して大和国司が 選 定・ 言 上 し て も、 斥 け ら れ て「 他 人 」 が 任 じ ら れ る と い う 状 態 を 改 め、国司選定によるとした弘仁十二年官符を全国にも適用したものであ る。 前者の延暦十九年官符に注目すると、これが神祇官に下された太政官 符 で あ る こ と に 気 が 付 く。 こ こ か ら、 神 主 な ど 神 祇 職 の 人 事 を、 神 祇 官が把握することが求められていたことがわかる。後者の弘仁十二年官 符 で は、 延 暦 十 七 年 以 降 大 和 国 の 言 上 が 斥 け ら れ「 他 人 」 が 任 じ ら れ る と い う 状 態 が み え る が、 「 他 人 」 の 選 定 主 体 に つ い て、 西 宮 氏 は「 国 家」と広くみる。しかし延暦十九年官符を踏まえると厳密には神祇官を 指 す の で は な か ろ う か。 こ の 点 は、 『 令 集 解 』 職 員 令 1神 祇 官 条 の「 祝 部」の師説や古記説より、八世紀段階から祝部の選定を国司・神祇官の 二者が行うとされていたことからも窺える。従って延暦十七年官符によ って、全国の神祇職のうち祝部のみならず神宮司や神主など他の人事に も、国司だけでなく神祇官も深く関与するようになったのである。そし て弘仁十二年官符からは神祇官の判断が国司の判断に優越していたこと がわかる (11 ( 。このようなあり方は神祇職に神祇官が直接的な影響を及ぼす ものと言える。以上から延暦期の整備では、官幣国幣社制導入によって 地方諸社の班幣については大半を国司に委ねた。しかし一部の重要な神 社に対しては依然として神祇官での班幣を続けると共に、全国神祇職の 人事に対する神祇官の関与を拡大することで、神祇官で全国の神社を把 握するという理念の進展を図ったのである。班幣という面では確かに妥 協によって理念の実現は後退したかにみえるが、人事という面では寧ろ 理念実現に向けて前進させたものと言えよう。 以上のように、 延暦期の整備も、 実情に沿った形で理念の実現を図っ て い た こ と が 明 ら か と な っ た。 従 っ て 弘 仁 期 の 整 備 は、 実 情 に 沿 っ て 理念の実現を目指すという延暦期以来の政策を引き継いだものと言えよ
う。 そ の 一 環 と し て 始 め ら れ た 神 事 廃 務 の 当 初 の 意 味 と し て は、 天 皇・ 百官の一体性形成という理念具体化という役割があったと考える。それ ではこのようなあり方は、以後どのように展開したのだろうか。
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廃務の変化と神祇祭祀
(一) 弘仁期の実情と廃務の形骸化 前章では、神事廃務による天皇・百官の一体性形成という令理念の具 体化を指摘した。この点では天皇個人祭祀の要素が濃厚という公祭の中 で最も重視された賀茂祭でも諸司斎・廃務が行われることから、やはり 同じであった。また弘仁期の整備は実情に沿った形で令理念の実現を目 指した延暦期の整備を引き継いだものと考えた。それでは弘仁期では具 体的にどのような形で実現が目指されたのだろうか。本章ではまずこの 点を考えたい。 吉江氏は祈年・月次祭の百官供奉規定を天皇・諸司・諸国の一体性形 成のためとした。これは当初の理念としては妥当だろう。しかし理念具 体化を図った弘仁期ではどうだろうか。前掲弘仁二年官符〔雑格 (〕で は斎の日程通知を散斎当日朝から散斎前日に改めた。この格はその元と なった養老神祇令 1(祭祀条と同様「諸司」を対象とするものであること から、斎通知は中央官司に限定されるとみてよいだろう。もちろん官幣 国幣社制導入によって諸国でも班幣が行われることになったことで、延 喜 四 時 祭 式 上 (祈 年 祭 国 幣 条 に あ る よ う に、 祈 年 祭 班 幣 で 諸 国 で も 散 斎・致斎が規定されている。しかし中央の斎の日程通知は地方諸国を含 まず国司に一任された。弘仁二年官符では、吉江氏の想定した天皇・諸 司・諸国の一体性という枠組みから、諸国は事実上除外されていたので ある。実際、神事廃務が諸国でも中央と連動して行われたという例は確 認できない (11 ( 。廃務はあくまで中央での一体性形成を目的としたものと考 えられる。 こ の よ う な 諸 国 の 位 置 づ け は、 前 掲 貞 観 十 年 官 符 所 引 弘 仁 十 二 年 官 符からも窺える。前述の通り延暦十七年官符で神祇職人事への神祇官の 関与が深化し、国司の判断に優越するようになった。しかし弘仁十二年 官 符 は 一 転 し て 大 和 国 司 の 要 望 に 応 え、 神 祇 官 の 関 与 を 実 質 的 に 排 除 し、その主導権を国司に与えたのである。そして貞観十年官符でこれを 全国にも適用した。延暦期の朝廷は、神祇官による全国の神社の直接把 握という理念に関し、班幣から人事へと重みづけを変えることで実現を 目 指 し た が、 早 く も 弘 仁 期 に は 行 き 詰 ま り を み せ て い た と 言 え よ う。 『 令 義 解 』 職 員 令 1神 祇 官 条 の「 祝 部 」 の 解 釈 も み た い。 前 述 の 通 り、 八 世 紀 段 階 で は 祝 部 の 選 定 は 国 司・ 神 祇 官 両 者 が 行 う と さ れ て い た が、 義解には国司の選定のみが載せられ、神祇官の関与はみえない。従って 遅くとも義解施行の承和元年末には、祝部の選定から神祇官は外されて い た と 考 え ら れ る (11 ( 。 以 上 の よ う な 神 祇 職 の 人 事 の 変 遷 は 郡 司 と 類 似 す る。ここでは詳述しないが、よく知られるように『日本後紀』延暦十八 年五月己巳条から、郡司に対する式部省を通じた中央の介入深化が行わ れた。そのため『三代格』巻七、郡司事、弘仁三年八月五日官符〔式下 (〕 に あ る よ う に、 「 身 在 レ京 争 レ第 相 申、 抑 二退 国 選 。 一 」 と、 式 部 省 の 判 断が国司の判断に優越するようになった。結果在地の混乱が大きくなっ た た め、 結 局 こ の 官 符 で「 詮 二擬 郡 司 一一 依 二 国 定 一」 と さ れ、 式 部 省 の 関与は減退することとなった。このように、延暦期に中央は神祇官や式 部省による在地の直接的把握を目指したが、かえって混乱を招き、弘仁 期以降結局国司に主導権を渡す結果となった。延暦期に目指された中央 の人事による在地の直接的把握は、いずれもうまく機能しなかったので ある。森公章氏は延暦・弘仁期の神祇職統制を「中央側の理由、即ち国 司の地方把握強化」と評価する (11 ( 。しかしそれは結果論であり、延暦期は中 央 が 神 祇 官 に よ る 直 接 把 握 を 目 指 し た 時 期、 弘 仁 期 は そ れ に 挫 折 し、 妥協して国司に主導権を渡し始めた時期と評価すべきだろう。従って有 富氏が指摘した、神祇官による神社の直接把握という理念放棄、神祇官 の 特 質 の 消 滅 は、 延 暦 期 で は な く 弘 仁 期 の 整 備 を 端 緒 と す る と 考 え る。 前章で述べた、弘仁期に諸司斎や百官供奉の具体化、神事廃務の開始な どの整備が行われたのは、延暦期に目指された全国的理念実現の困難に 直面し、更なる妥協の結果、中央のみでの一体性形成という形で理念実 現を図ったためと言えよう。 しかしこのような整備はうまく機能したのだろうか。まず、 『三代格』 巻一、科祓事、貞観十年六月二十八日官符所引弘仁八年二月六日官符か ら、祈年祭以下四箇祭の班幣にて、畿内近国の官幣社すら不参が横行し て い た こ と が わ か る。 そ し て 同 書 巻 一、 祭 并 幣 事、 斉 衡 二 年( 八 五 五 ) 五月二十一日官符、貞観十七年三月二十八日官符から、状況はその後も 改善することはなく、結局神祇官での幣帛授受を事実上諦め、畿内・畿 外とも官幣社の祝部不参の場合は幣帛を四度使に付して諸国に送ること とした。官幣社への班幣も国司に委ねられるようになったのであり、妥 協の中で導入された官幣国幣社制は、それでもなお神祇官が神社を直接 把握するという理念の実現に貢献できなかったのである。 一 方 で 廃 務 に つ い て は、 既 に 触 れ た 恒 例 神 事 廃 務 の 初 見 記 事 で あ る 『 西 宮 記 』 巻 三、 四 月 裏 書 の 承 和 六 年 四 月 四 日 条 と、 続 け て 挙 げ ら れ た 同九年四月四日条をみてみよう。 承和六ヽ四ヽ四ヽ、広瀬龍田祭、廃務。此日有 二叙位 。 一 同九ヽ四ヽ四ヽ、 同祭、 廃務。此日於 二左近陣 、 一 渤海客徒位記捺印。 これらは前述の通り広瀬龍田祭での廃務の記事だが、いずれも叙位や 「 渤 海 客 徒 位 記 捺 印 」 と い っ た、 神 事 と は 何 ら 関 係 の な い 政 務 が 同 日 に 行われた例である。つまり恒例神事廃務の初見の段階で既に諸司致斎が 厳密に行われておらず、神事廃務がきちんと守られていなかったことが わ か る。 「 は じ め に 」 で 触 れ た 廃 朝 と の 混 同 は、 こ の よ う な 背 景 の も と 生じたのだろう。以上から、弘仁期の整備で、妥協に妥協を重ねた上で 令理念の具体化が企図されたものの、それがうまく実現したとは考えに くい。天皇個人祭祀と百官参加型の祭祀の両者を両輪と位置づけた整備 は、早い段階から傾いていたのである。 (二) 御願祭祀の創始 前節では官幣国幣社制や弘仁期の整備にも拘らず、貞観期には官幣社 でも班幣不参が改善せず、人事面でも神祇官の直接把握は断念され、ま た 神 事 廃 務 も う ま く 機 能 し て い な か っ た こ と を 指 摘 し た。 そ の 後 に お ける神祇祭祀の大きな動きとしては、宇多朝の賀茂臨時祭創始を初めと する御願祭祀の出現・盛行が挙げられる (11 ( 。この場合、廃務の状況はどう だったのだろうか。 『小右記』寛仁元年 (一〇一七) 十一月十九日条をみ てみよう。 ( 前 略 ) 問 下申 可 レ被 レ拝 二 太 政 大 臣 一 之 日 事 、 上 命 ( 道 長 ( 云 、「 ( 中 略 ) 廿 七 日 可 レ奉 二宣 旨 一」 者 。 申 ( 実 資 ( 云 、「 彼 日 臨 ( 賀 茂 臨 時 祭 ( 時 祭 日 歟 。 彼 日 以 前 若 有 二宜 日 一 乎 。」 命 云 、「 廿 二 日 吉 日 也 。 但 節 ( 豊 明 ( 会 日 也 。」 申 云 、「 臨 時 祭 日 雖 レ非 二 廃 務 、 一 可 レ専 二祭 事 一歟 。 節 会 日 可 レ無 二事 忌 一歟 。 彼 日 節 会 以 前 有 二宣 旨 一有 二何 事 一乎 。」 頗 有 二諾 気 。 一( 後 略 ) これは藤原道長が任太政大臣宣旨を受ける日取りについての道長と記 主藤原実資の会話である。傍線部に注目しよう。この「臨時祭」とは賀 茂 臨 時 祭 の こ と だ が、 そ れ は「 非 二廃 務 一 」 と い う の で あ る。 事 実、 こ の他の御願祭祀でも基本的に廃務は確認できない。唯一の例外は伊勢公
卿勅使だが、これはやはり発遣場所が朝堂院だからだろう (11 ( 。従って御願 祭祀では廃務を行わないのが原則だったと考えられ、弘仁期の整備のよ うな中央の一体性などのためという意識はもはやみられない。 では御願祭祀に原則として廃務がないのはなぜだろうか。三橋氏が指 摘したように、御願祭祀の初例である賀茂臨時祭は、新皇統の宇多天皇 が、 当 時 存 命 中 だ っ た 陽 成 院 を 意 識 し、 自 身 の 系 譜 で 皇 統 が 続 く こ と、 皇位が安定することを祈願したものだった (11 ( 。他の御願祭祀も同様の性質 を 持 つ と 考 え ら れ る。 ま た 別 稿 で は、 喪 葬 時 の 廃 朝・ 廃 務 の 検 討 か ら、 天皇の親族意識の変化が九世紀後半から十世紀半ばに生じたことを指摘 し た。 特 に こ の 時 期 の 変 化 を 象 徴 す る、 「 皇 」 身 位 者 崩 御 時 の 廃 朝・ 廃 務 原 則 の 成 立 は、 皇 統 が 文 徳 系 か ら 光 孝 系 に 替 わ っ た こ と を 背 景 と す る。このような天皇の親族意識の変化は、服藤早苗氏が天皇の家筋 (1( ( が形 成されたとする時期と一致する。つまり御願祭祀の第一の意味は天皇個 人による自身の家筋繁栄を祈ることと言うことができる。御願祭祀の創 始は天皇個人との関係に基づく蔵人所や昇殿制の整備を背景とすること は既に指摘があるが (11 ( 、加えて天皇の家筋が成立していたことも背景だっ たと言えよう。御願祭祀で原則として廃務が行われないのは、御願祭祀 は天皇が百官と一体となるようなものではなく、天皇が主宰し天皇との 個人的関係を持つ人々によって行われる天皇の家筋祭祀だからなのであ る (11 ( 。御願祭祀のような行事を佐藤全敏氏は「律令国家がめざした普遍的 な全国統治を標榜した行事ではなく、あくまで天皇個人の「家」で行う 行事と位置づけることができる」とした (11 ( 。従って御願祭祀は、天皇の家 筋祭祀をその天皇個人の「家」で行う行事と言える (11 ( 。御願祭祀では、天 皇の「家」の構成員である、天皇個人と、彼と個人的関係を持つ人々の みが第一者なのであり、そうでない諸司は第三者に過ぎなかったのであ る。このような御願祭祀の在り方は、自身の家筋による皇位継承を神々 に保証してもらおうという意識の現れであり、黒田俊雄氏が中世天皇の 特 質 の 一 つ と し て 挙 げ た、 「 宗 教 的・ 超 越 的 他 者 に よ っ て 保 証 さ れ た、 世俗的な至高の権威 (11 ( 」としての面の出現を示していると考える。 神事廃務は天皇・臣下の一体性形成という理念実現を目指すために導 入されたものだったが、廃務のない御願祭祀の創始・盛行は、その理念 の位置づけが宇多朝以降低下したことを示す。もちろん御願祭祀でも祈 願内容は国家・社会全体の安寧にも及び (11 ( 、祈年祭を初めとする祭祀は変 質しつつもこの後も続いており (11 ( 、その際の廃務も実態を失いながらも残 さ れ、 理 念 を 完 全 に 放 棄 し た わ け で は な か っ た。 こ の こ と に 関 連 し て、 佐 藤 氏 は 天 皇 の 食 事 と い う 観 点 か ら、 九 世 紀 末 か ら 十 世 紀 初 頭 に、 「 全 国を一律に支配するという日本律令国家の支配理念が、この段階で急速 に希薄化し」たと指摘した。一方で朝夕御膳のように律令制支配理念を 表す食事が、形骸化しながらも十世紀以降も続くことから、このような 天皇の在り方を「十世紀以降の天皇がもつ二つの貌」と表現した (11 ( 。神事 での廃務の状況からも同じことが言えるだろう。神事での廃務の有無や 実情からは、理念に対するその時々の朝廷の姿勢を明瞭に見出すことが できるのである。
おわりに
本稿では神事における廃務の検討から、天皇の在り方や朝廷の神祇祭 祀の理念に対する姿勢の変化を検討した。従来は、神祇令の百官供奉規 定が積極的に評価され、そこから班幣の意義を見出そうという研究がさ れてきたが、八世紀段階の百官供奉規定に実態はなく、弘仁期に至って その具体化が図られたのである。また、少なくとも祈年・月次祭での祝 詞宣聞は、百官の一体性形成のための演出という面が強いということを 指摘した。神祇祭祀は本来の令理念としては天皇・臣下が一体となって 神々に祈るというものであり、天皇はその統括者だった。弘仁期以降の( () 以下、引用関係は「 『[ ]』 」で、割注や令の本注は〈 〉で表す。 ( () 古瀬奈津子「 「国忌」の行事について」 〔『日本古代王権と儀式』吉川弘文館、 一九九九、初出一九九一〕 。 ( () 例えば、 『小右記』長和四年(一〇一五)五月十一日条、 『台記』久安三年 (一一四七)七月四日条、 『玉葉』安元二年(一一七六)十一月十二日条など。 ( () 『実隆公記』長享元年(一四八七)二月二十三日条、 『親長卿記』同年四月十九 日条など。 ( () 「 律 令 国 家 の 国 忌 と 廃 務 ― 八 世 紀 の 先 帝 意 識 と 天 智 の 位 置 づ け ―」 〔『 日 本 史 研 究』四三〇、一九九八〕 。 ( () 「 喪 葬 時 の 廃 朝 廃 務 か ら み た 親 族 意 識 の 変 化 」〔『 日 本 史 研 究 』 六 八 二 、 二 〇 一 九 〕。 以下注記しない限り「別稿」は全てこれを指す。 ( () 藤 森 氏「 『 新 儀 式 』「 伊 勢 大 神 遷 宮 事 」 条 成 立 に 関 す る 覚 書 」〔 『 改 訂 増 補 平 安 時 代 の 宮 廷 祭 祀 と 神 祇 官 人 』 原 書 房、 二 〇 〇 八、 初 出 一 九 九 九 〕、 集 英 社 本『 延 喜 式 』 神 祇 一、 四 時 祭 上 1大 中 小 祀 条 補 註。 以 下 特 に 注 記 し な い 限 り「 集 英 社 本」は全てこれを指す。 ( () 藤森氏前掲註 (論文。 ( () 同 条 集 解 所 引 朱 説 に は、 「 雖 レ 不 レ 預 二 祭 事、 一 百 官 皆 止 耳。 」 と あ る。 祭 祀 に 直 接 註 していく。 祀の創始・盛行によって、天皇は神祇祭祀の主宰者としての面を濃厚に うように進まない中、特に宇多朝以降、一体性形成を考慮しない御願祭 で、その理念を象徴するものだったと言えよう。しかしその具体化が思 理念具体化において、廃務は諸司を天皇と共に第一者に位置づけること 本稿ではその背景として、 従来から指摘されてきた天皇の 「家」 の整備に加え、九世紀後半から十世紀前半での親族意識の変化による天 皇の家筋の形成を想定した。たとえ天皇であっても自身の家筋の繁栄祈 願を第一義とする御願祭祀では、百官との一体性は求められない。天皇 との個人的関係を持たない百官は、第三者と化したのである。天皇が天 下を一元的に支配するという絶対的な統括者としての要素は神祇祭祀か ら希薄化し、神々のような宗教的 ・ 超越的他者にその地位を保証された、 中世天皇としての要素を濃厚にしていくのである。 関与しない諸司も、通常の政務は行わない。 ( 10) 集英社本は「祈年祭以下の中祀、および風神祭までの小祀だけが、本条分注に あ る よ う に 、 神 祇 官 は も ち ろ ん 太 政 官 等 の 諸 司 も 「 斎 」、 す な わ ち 廃 務 」 と し 、 大 祀の大嘗祭を諸司斎・廃務の例に含めない。根拠は不明だが、この条文をみる限 り、大嘗祭が「諸司斎」の対象外とは読み取れない。また祈年祭以下で諸司斎・ 廃務を行うにも関わらず、最重要の大嘗祭では行われないとは考え難い。従って 本稿では大嘗祭も含め諸司斎・廃務の対象とみる。 ( 11) 「 即 位 奉 幣 と 大 神 宝 使 」〔 『 平 安 時 代 の 国 家 と 祭 祀 』 続 群 書 類 従 完 成 会 、 一 九 九 四 、 初出一九九〇〕 。 ( 1() 「古代奉幣儀の検討」 〔『古代国家の神祇と祭祀』吉川弘文館、一九九五〕 。 ( 1() 時代が下ると、神社の異変時に廃朝を行う例がしばしばみられるようになる ( 例 え ば『 小 右 記 』 治 安 二 年 ( 一 〇 二 二 ) 二 月 二 十 七 日 条 な ど )。 但 し こ れ は、 特 定の神社を宗廟とみる神社宗廟観に関わるものであり、その由来は神事廃務では なく喪葬時の廃朝を起源とする。この点については別の機会に考えたい。また神 社宗廟観については、井上正望「日本における宗廟観の形成―宇佐宮・香椎廟と 伊勢神宮―」 〔『歴史学研究』九六八、二〇一八〕参照。 ( 1() 黒 須 利 夫 「 前 後 神 祇 式 に つ い て ―式 と 年 中 行 事 御 障 子 文― 」〔 『 延 喜 式 研 究 』 五 、 一 九 九 一 〕、 早 川 万 年「 「 神 祇 前 後 式 」 に つ い て 」〔 虎 尾 俊 哉 編『 弘 仁 式 貞 観 式 逸 文 集 成 』 国 書 刊 行 会、 一 九 九 二 〕、 斎 藤 融「 「 前 後 神 祇 式 」 小 考 」〔 『 法 政 史 学 』 六十一、二〇〇四〕 。 ( 1() 「 律 令 国 家 祭 祀 と 大 宝 神 祇 令 ― 弘 仁 式 祭 祀 大 中 小 条 を め ぐ っ て ― 」〔 『 ヒ ス ト リ ア 』 一二七、 一九九〇〕 。矢野建一「日本律令国家祭祀の等級について」 〔『日本古代の 宗教と社会』塙書房、二〇一八、初出一九八七〕も参照。 ( 1() 『 令 集 解 』 神 祇 令 1(祭 祀 条 。 こ の 格 と 同 内 容 の 記 事 が 『 日 本 後 紀 』 同 月 辛 未 条 に あ る 。 ( 1() 「律令祭祀の変質と律令外祭祀」 〔『日本古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、 二〇一〇、初出二〇〇六〕 。 ( 1() 月次祭についても、同式 ((月次祭条から同様だったことがわかる。 ( 1() 「律令国家の神祇祭祀の構造とその歴史的特質」 〔『律令国家と神祇祭祀制度の 研究』塙書房、二〇〇四、初出一九八六〕 。 ( (0)「律令国家の祭祀と天皇」 〔前掲註 1(書、初出一九八六〕 。 ( (1)「 荷 前 別 貢 幣 の 成 立 」〔 『 日 本 古 代 宮 廷 社 会 の 儀 礼 と 天 皇 』 塙 書 房、 二 〇 一 八、 初出二〇〇一〕 。「祭祀空間としての神祇官」 〔同前書、初出二〇〇五〕も参照。 ( (() 藤波本神祇令については、宮内庁書陵部所蔵本を参照した。 ( (() 両方の穴記は内容から同じものと考えられ、延暦期成立の原穴記とみる。穴記 に つ い て は 北 条 秀 樹「 令 集 解「 穴 記 」 の 成 立 」 〔『 日 本 古 代 国 家 の 地 方 支 配 』 吉
川 弘 文 館、 二 〇 〇 〇、 初 出 一 九 七 八 〕、 中 嶋 宏 子「 令 集 解「 穴 記 」 の 成 立 年 代 を め ぐ っ て 」〔 荊 木 美 行 編『 令 集 解 私 記 の 研 究 』 汲 古 書 院、 一 九 九 七、 初 出 一九九三〕参照。 ( (() 百官供奉規定が実態を伴っていなかったのはあくまで延暦期段階であり、令制 当 初 は 実 態 が あ っ た の で は な い か と の 指 摘 も あ る か も し れ な い。 そ の 場 合、 『 大 宝令』段階の別式などに百官の具体的な参加人数規定があったが、その別式自体 が穴記編纂段階までに失われたということになる。践祚大嘗祭のような間隔の空 く祭祀ならまだしも、祈年・月次祭班幣での百官供奉は毎年必ず三回行われるこ とになっている。それにも拘らず人数という百官が参加する上で最も基本となる 具体的規定が延暦期に残っていなかったということは、早い段階から形骸化が進 んでいたか、或いはそもそも初めから実態がなかったかのいずれかということに なろう。後述するように、令制当初において班幣はあくまで理念・建前に基づく ものであって実効性は薄かったとの指摘があることからも、本稿では班幣におけ る百官供奉規定には令制当初から延暦期まで実態がなかったと考える。 ( (() 「 八・ 九 世 紀 に お け る 地 方 神 社 行 政 の 展 開 」〔 『 史 学 雑 誌 』 一 〇 三 ―三、 一九九四〕 。 ( (() な お 延 暦 期 に は、 『 三 代 格 』 巻 一、 科 祓 事、 延 暦 二 十 年 五 月 十 四 日 官 符〔 神 祇 1〕 として祓規定が定められており、利光三津夫 「祓と律令制」 〔『律令制の研究』 慶應通信、一九八一、初出一九八〇〕はこれを、神祇職・全官人を対象としたも のとする。ここから延暦期に中央でも百官の斎整備が行われたのではないかとの 指摘があるかもしれない。しかし有富純也「祓と律の関係について―科刑対象の 検 討 ―」 〔 西 洋 子・ 石 上 英 一 編『 正 倉 院 文 書 論 集 』 青 史 出 版、 二 〇 〇 五 〕 は、 同 格 の 内 容 か ら、 「 祓 は、 斎 日 に 禁 忌 を 犯 し た か ら と い う 理 由 よ り も、 祭 祀 を 着 実 に行わなかったために、科される刑罰」とし、その対象を全官人ではなく「祭祀 を 懈 怠 し た 一 般 官 人 」「 特 別 な 禁 忌 を 犯 し た 神 祇 職 や 神 戸 百 姓 」 と し た。 筆 者 も 『弘仁格』の観点から有富氏説に賛同する。 『弘仁格抄』下、格巻十、雑格からわ か る よ う に、 前 述 し た 諸 司 斎 の 通 知 規 定 で あ る 弘 仁 二 年 格 は 雑 格 に 採 ら れ て い る。 諸 司 を 対 象 と す る た め 当 然 と 考 え る が 、 一 方 で 延 暦 二 十 年 格 は 、『 弘 仁 格 抄 』 上 、 格 巻 一 、 神 祇 の 残 欠 部 分 の 最 初 に み え る こ と か ら 神 祇 格 で あ る 。 従 っ て 延 暦 二 十 年 格 が 全 官 人 を 対 象 と す る わ け で な い こ と は こ こ か ら も 明 ら か で あ る 。 以 上 か ら 延 暦 二 十 年 格 を 、 延 暦 期 に 中 央 で 百 官 の 斎 整 備 が 行 わ れ た こ と を 示 す も の と は 考 え な い 。 ( (() 「 天 武 の 親 祭 計 画 を め ぐ っ て ― 神 祇 令 成 立 前 史 ― 」〔 『 ヒ ス ト リ ア 』 二 四 三 、 二〇一四〕 。以下佐々田氏の指摘は全てこれによる。また同氏は、 「天神地祇=「地 方」の神々は天皇が親祭すべき存在ではなかった」とした上で、日本の律令国家 が「地方」の神々を祭る際には、天皇の代行、つまり有司摂事を固定化した官司 で あ る 神 祇 官 と、 「 直 接・ 間 接 に 参 加 す る 百 官、 そ し て 内 裏 正 殿 で 斎 戒 す る 天 皇 という形態が基本であった」とする。有司摂事については、金子修一「唐代皇帝 祭祀の親祭と有司摂事」 〔『中国古代皇帝祭祀の研究』岩波書店、二〇〇六、初出 一九八八〕参照。 ( (() 小倉慈司「国家装置としての祭祀」 〔小倉慈司・山口輝臣、天皇の歴史 0(『天皇 と宗教』講談社、二〇一一〕 。 ( (() 佐々田氏は、 前掲『延喜式』大中小祀条やその元となった弘仁神祇式逸文から、 諸司斎が行われる場合は内裏の斎も共に行われることを指摘した。つまり諸司斎 の時には内裏を含む大内裏全体が斎戒することになる。 ( (0) 吉江氏前掲註 (1「荷前別貢幣の成立」参照。 ( (1)『日本後紀』十二月癸酉条。諸司史生の国忌への参加は、延喜式部式上 ((国忌 条段階でも寮以上の諸司史生各一人という形で採られていることから、一時的な ものではなかったことがわかる。 ( (() 「 神 祇 官 の 特 質 ― 地 方 神 社 と 国 司・ 朝 廷 」〔 『 日 本 古 代 国 家 と 支 配 理 念 』東 京大 学出版会、二〇〇九、 初出二〇〇三〕 。 ( (() 「律令国家に於ける神祇職」 〔前掲註 1(書、初出一九八五〕 。 ( (() 関連するものとして、 『日本後紀』延暦二十三年六月丙辰条が挙げられる。 制 、 常 陸 国 鹿 嶋 神 社 ・ 越 前 国 気 比 神 社 ・ 能 登 国 気 多 神 社 ・ 豊 前 国 八 幡 神 社 等 宮 司 、 人 懐 二 競 望 一 、 各 称 二 譜 第 一 。 自 今 以 後 、 神 祇 官 検 二 旧 記 一 、 常 簡 二 氏 中 堪 レ 事 者 一 、 擬 補 申 レ 官 (太政官 ( 。 このように、鹿島・気比・気多・宇佐の神宮司は神祇官による擬任が命じられ ている。これらの人事には国司による擬任が排除されたのだろう。 ( (() 地 方 で の 廃 務 の 例 は、 『 権 記 』 長 徳 元 年( 九 九 五 ) 十 月 六 日 条 の 一 例 の み 確 認 している。 ( 前 略 ) 彼 (出雲 ( 国 言 上 、「 云 々 。 熊 野 ・ 杵 築 両 神 致 斎 廃 務 之 間 、 不 レ 能 レ 糺 二 定 犯 人 等 之 事 一 。 仍 捕 二件 犯 人 九 人 一 、 付 二 掾 ム 丸 等 一 進 上 」 者 。( 後 略 ) これは出雲国司が、熊野・杵築両社の神事致斎・廃務のため「糺定」ができな いことから、犯人らを移送して中央の判断に委ねるというものである。但しこの 廃務は出雲の特殊性を示すものである可能性が高く、これを一般化することはで きない。加えてこの廃務が弘仁期ごろまで遡るかも不明である。また致斎廃務中 のため中央に委ねるとの内容から、これが一般的な中央の廃務のようなせいぜい 数日程度のものではなく長期間に亘ること、同時期に中央では同様の廃務を行っ ていないことがわかる。従ってこの廃務は中央の廃務と連動せず、中央と地方の
一体性形成を目的としないことが明らかである。 ( (() 前掲註 ((の規定が『三代格』にも『延喜式』にもみえないことも、人事による 神祇官の神社の直接把握が見直されたことを物語る。 ( (() 「律令制下の国造に関する初歩的考察―律令国家の国造対策を中心として―」 〔『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、二〇〇〇、初出一九八七〕 。 ( (() 本稿での御願祭祀は、岡田氏「王朝国家祭祀と公卿・殿上人・諸大夫制」 〔前 掲 註 11書、 初 出 一 九 九 〇 〕 が 定 義 づ け た、 賀 茂 臨 時 祭 な ど の「 公 家 臨 時 祭 」 と、 神社行幸に代表される「御願」祭祀という「天皇の意志が直接祭祀の中に反映し ていく形式」の祭祀の総称として用いる。 ( (() 藤森氏が指摘するように、伊勢公卿勅使は、蔵人によって奉仕される殿上の儀 と、大臣によって奉仕される前代以来の朝堂院での儀という二つの儀から構成さ れ て お り、 令 制 祭 祀 が 令 外 の 祭 祀 を 推 戴 す る 構 造 と な っ て い た〔 「 平 安 時 代 中 期 に お け る 神 宮 奉 幣 使 の 展 開 ― 公 卿 勅 使 制 度 成 立 に 関 す る 試 論 ―」 ( 前 掲 註 (書、 初出一九八八) 〕。つまり伊勢公卿勅使は従来の廃務を行う伊勢例幣や伊勢臨時奉 幣をベースとした構造になっていた。伊勢公卿勅使が御願祭祀でありながら廃務 を行うのも、伊勢例幣などの朝堂院儀を元とする形で成立したからだろう。 ( (0)「天皇の神祇信仰と「臨時祭」―賀茂・石清水・平野臨時祭の成立―」 〔『平安 時代の信仰と宗教儀礼』続群書類従完成会、二〇〇〇、初出一九八六〕 。 ( (1) 天皇の家筋については、服藤早苗『家成立史の研究―祖先祭祀 ・ 女 ・ 子ども―』 〔校倉書房、一九九一〕参照。 ( (() 岡田氏前掲註 ((論文。 ( (() 御願祭祀のうち唯一廃務が行われる伊勢公卿勅使については、機会を改めて検 討する予定である。なお、 井上正望「中世移行期における神社宗廟観と廃朝廃務」 〔 加 藤 陽 子 責 任 編 集、 歴 史 学 研 究 会 編『 天 皇 は い か に 受 け 継 が れ た か ― 天 皇 の 身 体と皇位継承』績文堂出版、二〇一九〕にて、その一端を述べた。 ( (()「蔵人所の成立と展開―家産官僚制の拡張と日本古代国家の変容―」 〔『歴史学 研 究 』 九 三 七、 二 〇 一 五 〕。 な お、 こ こ で の「 家 」 と は、 佐 藤 氏 の 定 義 に 基 づ き、 家筋や中世の「家」とは異なる、 「七世紀のミヤや令に規定された「家」 (いわゆ る「 公 的 家 」) に 端 を 発 し、 天 皇 以 下 五 位 以 上 官 人 の 一 人 一 人 に 付 随 し て い た 家 政機関・家主生活経営体を指す」とする。 ( (() 廃務のある国忌に対する、宇多朝に始まる廃務のない「天皇御前の儀」からも 同様のことが言えよう。古瀬氏前掲註 (論文も参照。 ( (() 「 中 世 天 皇 制 の 基 本 的 性 格 」〔 黒 田 俊 雄 著 作 集 一 『 権 門 体 制 論 』 法 蔵 館 、 一 九 九 四 、 初 出 一 九 七 七 〕。 黒 田 氏 は 古 代 的・ 律 令 制 的 天 皇 制 を、 村 上 天 皇 を 以 て 事 実 上 の 最後とする。宇多朝における御願祭祀という中世天皇の特質を表す面の一つの出 現は、天皇が古代的な在り方から中世的なものへ変化する転換点の一つと言えよ ( 早 稲 田 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 研 究 生、 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 共同研究研究協力者) (二〇一八年九月一八日受付、二〇一九年二月六日審査終了) う。 ( (() 佐藤氏前掲註 ((論文。 ( (() 例 え ば 祈 年 祭 は、 有 富 氏「 日 本 古 代 国 家 の 支 配 理 念 」〔 前 掲 註 ((書 〕 が 指 摘 し たように、応仁の乱前後まで確認できる。また祈年祭以下四箇祭の変質について は、藤森氏「院政期における朝廷の神祇信仰―令制四箇祭の変容と院公卿勅使を 中 心 に ― 」〔 『 古 代 の 天 皇 祭 祀 と 神 官 祭 祀 』 吉 川 弘 文 館 、 二 〇 一 七 、 初 出 一 九 九 三 〕 参照。 ( (()「 古 代 天 皇 の 食 事 と 贄 」〔 『 平 安 時 代 の 天 皇 と 官 僚 制 』 東 京 大 学 出 版 会、 二〇〇八、初出二〇〇四〕 、「古代日本における「権力」の変容」 〔同前書〕 。
century and the first half of the tenth century. If the primary goal of the ruler’s prayers, as typified by
gogan saishi, is the prosperity of his family lineage, they will not require unity between him, and the
government officials and all the provinces of the ancient polity. The notion of the monarch as the one who rules the realm in a centralized fashion as the absolute overseer fades away from kami rituals, and in its place we see the establishment of a medieval conception of the monarch, in which he is guaranteed his position by the kami, now understood as religious and transcendent “others.”
Key Words: “interruption of service” (haimu 廃務), the strict purification procedures (chisai 致斎) conducted by the various government bureaux, officials’ attendance in the “Regulations for Kami Rites”, the monarch and their subjects would become one, a medieval conception of the monarch
Kami Rituals Seen from the Perspective of “Interruption of Service” (Haimu)
I
NOUEMasami
In this paper I will examine changes in the conception of the monarch and the attitude of the court towards rituals for kami through an analysis of the practice of “interruption of service” (haimu 廃 務 ). While haimu was originally prescribed under the “Regulations for Ritual” as a rite to be carried out in case of solar eclipses or on the anniversary of the death of a monarch or consort (kokki 国忌 ), starting from the first half of the ninth century it started to be carried out also in occasion of rites for the kami. On the basis of regulations found in the Engishiki, this kind of haimu associated with rites for the kami is thought to have been carried out during the strict purification procedures (chisai 致斎 ) conducted by the various government bureaux before kami rites. These procedures were not in place from the establishment of the centralized administration system based on the ritsuryo- legal codes, but
are believed to have been enacted in the Ko-nin era (810-824).
In addition, scholars so far have interpreted the rules for officials’ attendance in the “Regulations for Kami Rites” as being actively enacted in the case of Kinensai 祈 年 祭 —a rite for the promotion of good harvest conducted every year on the fourth day of the second month—and Tsukinami no
matsuri 月次祭—kami rituals performed on the sixth and twelfth month of the traditional luni-solar
calendar, —and have thus attempted to see the significance of the distribution of offerings to shrines that these rituals involved through those regulations. However, during the eighth century, the regulations for officials’ attendance were not yet enacted, and it is only from the Ko-nin era that their practical application was finally pursued. In addition, we have pointed out that at least in the case of the proclamation of the ritual prayers conducted during the Kinensai and Tsukinami no matsuri there was a strong performative aspect conceived to promote the creation of a sense of unity among the officials from the many government bureaux. Under the ritsuryo- system, kami rituals were ideally conceived as a moment in which the monarch and their subjects would become one before the kami, with the monarch functioning at the overseer. It can be said that during the implementation of this ideal starting from the Ko-nin era, haimu came to symbolize the unity between the monarch and his subjects in the act of praying to the kami. However, this process did not go as planned, and in particular after the rule of Uda tenno- (r. 887-897), haimu was discontinued. In its stead, another aspect of the monarch, this time as the leader of the ritual, became more prominent with the inception and popularization